この家には亡霊がいる 9
すでに投稿済みの『悪女』は本編を5000字以内に改筆したものです。
悪女
3月の終わりの数日、瑤子が滞在した。
その日、夜遅く門の外に立っていた。僕の初恋から10年近く経っていただろう。
「あの坊や? 口髭はやしてオシャレなメガネして」
瑤子は亜紀より8歳下の従姉妹。亜紀が父と結婚し、瑤子が東京で働くようになると毎週のように訪れていた。
父親が入院し瑤子は仕事をやめ田舎に帰る。
長い都会の生活。ブティックで働いていた瑤子は亜紀と8つ違いには見えない。
瑤子を連れて入ったときの、異様な雰囲気。亜紀も父も最初言葉が出なかった。亜紀はすぐに平静に戻ったが、父の態度は異常だった。立ち上がり出て行った。なにも言わずに。
ああ、確か、父の部下との婚約を破棄した。結婚式間際で破談になり亜紀も父も大変だった。それ以来、瑤子は出入り禁止……
やはり帰ると言う瑤子を亜紀は1晩だけ、と泊めた。亜紀は父のところへいき、僕は茶と菓子を出した。冷淡な扱いをされた瑤子に同情した。
「大きくなったわね。いくつになった? まだ小学生だったのに。最初は女の子かと思った」
「もう、21歳だよ。瑤子さんは?」
「23。女は7掛けよ」
「通るね」
「あなたの彼女でも通るわ」
話始めるとお喋りな女だ。
「彼女はいるの? あの、べったりくっついてた男みたいな子は?」
亜紀が戻り部屋に通す。客間でなにか話していた。瑤子は泣いているようだった。
夜中、瑤子のことが気になり目が覚めた。父の態度はひどすぎた。
当時、両親は父の部下と瑤子とよくゴルフに行っていた。気に入っていた部下と亜紀の従姉妹を一緒にさせようとしていた。部下は瑤子に夢中だった。破談になったときは酔って大変だった。父も亜紀も謝っていた。
部下は酔って呟いた。誰もいなかった。
瑤子はオレが女にしたんだ……
僕は中学1年だった。清純な女が汚された。この酔っぱらいに。部下はさらに続けた。
「英幸君、あのひとにそっくりだな、俺は慕ってた……」
水をぶっかけてやろうと思った。
「覚えてないか? よく風呂に入れてやった。歌を歌ったな」
部下は口ずさんだ。僕の大嫌いな『小さな木の実』
「信じない。あのひとが不倫なんてするわけないんだ。社長は太陽だった……瑤子が不倫なんてするわけない……」
瑤子には当時付き合っている相手がいた。不倫だ。それを精算しようとし結婚に逃げ、逃げられず壊した。
かすかに音楽が聞こえ僕は廊下に出た。書斎から明かりが漏れていた。ノックすると、どうぞ、と瑤子が答えた。
瑤子は椅子に座り本を広げ曲を聴いていた。23歳に見える女は僕にも座らせた。化粧を落とした瑤子は変わらずきれいだった。
「素顔もみられるね」
瑤子はむくれる。
「素顔のがいいって言われたわ」
不倫相手にか?
「どれだけ努力してると思う? お金も。亜紀は手入れしなさすぎ。亜紀は子供の頃から本ばかり読んでた。私はおしゃれにしか興味なかった。皮肉ね。亜紀はステキな旦那と息子を手に入れた」
勝手に喋り目を閉じ曲を聴く。
「この曲好きだわ。死ぬときに聞いていたい」
「父の好きな曲だよ。エルガーのチェロ協奏曲」
「……」
「エルガーは愛妻家だ。妻になるアリスに『愛の挨拶』を作曲した」
第1楽章が終わるともう止めて、と言った。
「亜紀はどう?」
「いいおかあさんだよ」
「英輔さんは、愛してるのかしら?」
「決まってるだろ」
「あなたは愛してる人はいないの?」
「ふられてばかりだ」
「じゃあ、私と一緒ね」
「明日帰るの?」
「そうよ。送ってくれる?」
「あ、ああ。いいよ」
翌朝父は早くに出かけた。急な出張が入ったらしい。瑤子は早くに起きてきて朝食を作ったが、父は食べずに出かけたらしい。それを僕に出した。亜紀よりうまい。盛り付けもセンスがいい。彩は喜んで食べていた。
「今日帰るんでしょ?」
「英輔さん、いつまで?」
「あさってよ」
「伸びるわよ。いつもそう。私のことなんか愛してないの」
9歳の彩が拗ねる。亜紀と同じ口調で。
「おみやげ買いに行くから、英幸クン、付き合って」
買い物に付き合わされた。両親に服を買っていた。下着売り場で、僕は離れて待っていた。それから彩にも服を。妹の好きな色を聞かれ戸惑った。
「無関心すぎない?」
和樹にも言われた。
「英輔さん、浮気してる?」
「バカなこと言うなよ」
たくさんの荷物を車にのせ家に戻った。瑤子は買った下着の包みを亜紀に渡した。プレゼントよ、と。
亜紀が開ける。瑤子を見て、僕を見た。
「たまに、そういうの付けなさいよ。亜紀もおしゃれしなさいよ。今に英輔さんに愛想尽かされるわよ」
亜紀の自信たっぷりの笑い。瑤子は気にさわったようだ。出ていった。
「幸せそうだね? パパに愛されてる自信あるんだ?」
「男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる。オスカー ワイルド」
僕は思わず亜紀をみつめた。亜紀はパパの最後の女だ。そうでなきゃ困る。
「ドリーにあげて」
黒のセクシーな下着。ドリーと別れたことは気づかれていない。少しは感情をなくすことができるようになったようだ。
「いらないよ。サイズが違うだろ?」
これを亜紀がつけるところを想像する。子供の頃抱きしめてくれた重量感のある胸の感触、スポーツで鍛えていた身体。まだ余分な脂肪は付いていない、はずだ。
……僕は頬を叩き下着を袋に戻した。
最初の男? まさか……亜紀は母と同じ歳……
瑤子は書斎で本を開き音楽を聴いていた。ベートーベンのテンペスト。
「楽譜ない?」
階下に降りピアノを弾いた。
「これだけは弾けたんだけどな。弾いてよ、ボク。うまいんでしょ?」
僕は弾いた。瑤子は目を閉じている。
「終わったよ。拍手はないの? 寝てるの?」
「聴いてるわよ」
次はスクリャービン。
「明日ゴルフしない?」
「今日帰るんだろ?」
「明日ゴルフして夜帰る」
亜紀はダメだとは言わなかった。
ゴルフも久しぶりらしい。亜紀のウェアを着た瑤子は人目を引く。うまくはない。下手だ。空振りもする。
僕が笑うと彼女はむくれ、目を閉じ集中した。僕たちは恋人同士に見られた。きれいでいることが瑤子の仕事。性格の違う亜紀のことは好きではないらしい。
帰りの車の中、
「音楽はいらない。なにか喋って」
瑤子は目を閉じている。
「もう、戻ってこないの?」
「そうよ。田舎で埋もれる。朽ち果てる……」
恋人は? 不倫の? とは聞けない、が……
「喋ってよ」
「不倫……」
「知ってたの? 坊や」
「大騒ぎだったからね」
「……亜紀をどう思う? 魅力ある?」
「亜紀はちょっと面白い女だよ、って父は言うけど、ちょっとどころじゃないよ」
「面白いわね。確かに。亜紀は一生独身だと思った」
「亜紀はいなかったの? 結婚しようと思った男?」
「一生……いいわよね。社長夫人」
「亜紀は……物欲はない」
「豚に真珠」
「ひどいな」
母に物欲は? 財産目当てのために結婚したのではなかったのか? 違う。母に物欲はなかった。物欲があったのは……
瑤子の胸元に赤いサンゴのネックレスが見える。亜紀はほとんどアクセサリーを付けない。亜紀が欲しいのは……
瑤子は目を閉じている。眠ったのか?
「話してよ。なんでも。音楽の話、映画の話、本の話。初体験でも……」
「瑤子さんの初体験は?」
瑤子はため息をついた。父の部下が初めてだった、はずだ。
「亜紀と……想像しなかった?」
「え?」
「よくあるじゃない? 義母とやっちゃうの」
「よせよ。恐ろしい」
「去勢されるわね」
瑤子は声を出して笑った。
瑤子が帰る日は伸びていく。その夜は疲れたからと眠ってしまった。
翌日の昼前、僕は瑤子を送った。駅までのつもりが実家まで。途中バラ園に寄りまだ咲いていない庭を散策した。紅茶を飲みアップルパイを食べた。瑤子は目を閉じ思い出に浸る。不倫相手と来たことがあるのか? もう精算してきたのだろうか?
実家に送り瑤子の母親に挨拶をした。会うのは初めてだ。彼女は姪の義理の息子である僕を歓迎し、もてなしてくれ酒を勧めた。口を付け、酔いが覚めてから帰ることにした。
夜もふける。僕は2階の瑤子の様子を見て帰ろうと思った。ノックすると瑤子は起きていた。
「来て」
期待していた。瑤子は酒を飲んではいなかった。僕も完全に抜けていた。酔っていたと言い訳はできない。誘惑したのは彼女のほうだ。
「おかあさんに気づかれる」
「母は膝が悪いから上がってはこれない」
なんて娘だ。絡みついてくる腕を僕は振りほどけなかった。
指の逍遥。瑤子は目を閉じている。
「ペチャパイだと思ってた。結構あるんだな」
「もっと褒めなさい。きれいだって言って。名前を呼んで。愛してるって言って」
ベッドの上ではいくらでも言える。いや、本気になりかけている。23歳に見えるひと回り年上の女に。
「瑤子、きれいだよ。愛してる」
「大丈夫よ。今日は安全日だから」
「……」
「ドクター亜紀に教育された? 年上の女に騙されるなって。舌にもコンドームつけろとか?」
図星だ。そんなに露骨にではないが。僕が笑うと真面目な顔で説教した。そこらじゅうに子供作らないでよ。喜びのあとには妊娠……それに感染症は蔓延してるのよ……
(避妊して。絶対。それから、私のいやがることはしないで。させないで。私のいうことを聞いて)
マリーも……
思考停止。瑤子は誘惑した。彼女は全身全霊で僕を誘惑した。瑤子は目を開けない。僕の指を誘導し勝手に逝った。
……のけぞる全裸の女。珊瑚のペンダントだけを身につけた瑤子。血赤の珊瑚……血赤……
瑤子は上になる。血赤の珊瑚が揺れる。
思い出す。亜紀の胸にも下がっていたことがある。なぜ?
目を閉じ喘ぐ瑤子が亜紀に見えた。亜紀、この世で1番尊敬する女……亜紀の下にいるのは?
社長は太陽だった……
ダメだ。
瑤子はなにも言わなかった。気づかれたことに気づいても。言葉より先に手が出ていた。2度と、女に暴力はふるわないと誓ったのに……
途中ホテルで1泊した。体を洗い流す。なにもなかったことにする。亜紀の目が怖い。見破られる。
「実家まで送って観光してきた」
亜紀は怪しむ。
血赤の珊瑚。気持ち悪いから覚えていた。でも確かではない。思い違いか? 思い違いかも……? 思い違いであってほしい……
亜紀の留守のときに僕は探した。瑤子のネックレスと同じもの。亜紀の胸にかかっているのを見たのは確かなのか?
夫婦の寝室。2階のママの部屋は物置になっている。1階の祖父母の部屋がふたりの寝室になっていた。
そっと開ける。片付けの下手な女の部屋。父はよく平気だ。僕は亜紀の宝石箱を開けた。探しているものは見当たらない。感のいい女はとっくに隠していた。なぜか手に取るようにわかる。この乱雑な部屋はひとつでも動かせばわかるだろう。亜紀は僕がやることをわかっている。
思わぬところからそれは露見した。彩が亜紀のペンダントを付けていた。亜紀は彩を追いかけ、彩は僕の部屋に逃げ込んできた。僕に見せまいとして亜紀は彩の首からはずし、手の中に隠した。
「彩のおもちゃに隠したの? 彩も女だ」
僕は亜紀の指を力ずくで開かせようとした。互いの目には憎しみがこもる。
「私はおまえの母親よ」
なおも続けると、足を蹴られた。
「見なくたってわかるよ。珊瑚だろ? 瑤子のおとうさんにもらった?」
「そうよ。叔父は私と瑤子に同じものを買ってきた」
僕は亜紀の顔をじっとみつめた。眉ひとつ動かさない。とても太刀打ちできない。
「瑤子はおかあさんにもらったそうだよ……『午後の曳航』、亜紀の本だろ? 感想を聞かれ、僕はブティックの瑤子さんは元気? って聞いた。真面目に答えてないと思ったのか、いきなり叩かれた。初めて頬を殴られた。僕に体罰なんてありえないのに。あなたはすぐ謝った。あんな取り乱したのは初めて見た」
「私は傑作か駄作か聞きたかっただけよ……まったく……そうよ。パパのプレゼントよ。妻と妻の従姉妹に同じもの。面倒くさいから同じもの。瑤子は喜んだでしょ。妻と同等の扱いをされたと思ったかも」
「パパは寝たの? 瑤子と。おかあさんは妊娠してた」
亜紀は僕のメガネを外し、みつめ返した。
「侮辱しないで」
殴られると思ったが亜紀は我慢した。
「瑤子の耳を薬でつぶしてやるわ。自慢の手足を切り落とし、両目をえぐり、薬で喉もつぶしてやる。それから……」
さすがにあとは言わなかった。
「この家にやっと穏やかな暮らしが戻ったのよ。それを壊さないでくれって、パパは瑤子に土下座して頼んだのよ。瑤子は諦めるしかなかった。父親が危篤になったとき、なんて言ったと思う? パパに会えるのはもう不幸があるときだけだって。家に来たとき追い返していればよかった」
「なにもないよ。僕たちはなにもない。瑤子はそんなにバカじゃない」
亜紀がまくしたてたおかげで僕は冷静になれた。亜紀はもう僕の様子から真実を見抜くことはできなくなっていた。
「おかあさんはどうしてパパと結婚したの? あんな弱くて情けない男。僕のため?」
「弱くて情けない男が好きな女もいるのよ」
「パパとは……うまくいってるの? 忙しすぎて………………」
「疲れたなんて言わせないわ」
「……負けた」
「勝ったわ。ハハハ」
顔色ひとつ変えない。何百ものオスを去勢してきた女だ。
見透かされなかったか? 瑤子とあなたを重ねたこと? 知られたら生きていけない。あの人は、光栄だわ、エイコウクン、なんて言うだろうな……
電話して怒りをぶちまけようと思ったがやめた。2度とこの声を聞かせてやるものか。亜紀でさえ間違えるというこの声を。
パパに会えるのは不幸があったときだけ……哀れな女だ。
暴力を振るった。平手だ。たいしたことはない。ベッドの上でよかった。
家を出てアパートを借りると言ったとき、亜紀はもう瑤子のことは聞かなかった。
「いつまでも家にいるほうがおかしいわね。勝手にしなさい。そのかわり、全部自分でやるのよ」
「そっちこそ。ちゃんと掃除しろよ」
「形見のダイヤ、置いていきなさい。売られたらたまらないわ」
祖父が母に与えたルースのダイヤ。三沢家の嫁であることを認めた証だ。祖母は母が出ていくときそれを持たせた。売れば生活の足しになっただろうに、それは僕に残された。
「ダイヤなんか興味ないくせに」
「あれは夏生のものでしょ?」
「あなたがもらえばいい。パパと僕の恩人なんだから」
涙が出そうになって急いで家を出た。
殴ってくれ。鼻血が出て恐れ震えるまで。2度と妄想するなと叩きのめしてくれ。
もうこの家には戻れない。
ダイヤなんか興味ないくせに……母も興味なかった。祖母も叔母たちも欲しがった大きなダイヤ、祖父は母に買い与えた。大きなダイヤは華奢な指には似合わない。苦労した大きな手に合うんだ……
母は介護士に間違えられていた。きれいな介護士さんですね……祖母は笑って母に着物やバック、宝石をあつらえた。三沢家の嫁に恥ずかしくないように。優しい祖母だった。
しかし母は、金持ちを嫌っていた。金に媚びるのを嫌っていた。出入りしていたのは金に媚びるものばかりだった。母は嫌気がさしていた。贅沢な祖母に。叔母たちに。会社を大きくすることしか考えなくなった父に。
僕は祖母に懐いていた。母は祖父の介護で忙しかった。祖母は僕をかわいがった。英輔にそっくりだと……僕は……僕は……
母は財産目当てに結婚したのだと思っていた。思惑が外れ祖父に反対され父はすべてを捨てた。僕が生まれ許されこの家に入った。しかし贅沢な生活はできなかった。母は祖父の介護に明け暮れた。財産目当てではない。母は誠心誠意祖父に尽くした。
違うのか?
「英輔をたぶらかし、主人にまで色目を使って……」
祖母が母を非難した。母は笑っていた。
社長は太陽だった……
「英幸君、あのひとにそっくりだな、俺は慕ってた……信じない。あのひとが不倫なんてするわけないんだ。社長は太陽だった……」
この家には亡霊がいる 9
スピンオフ作品に瑤子が主役の『店長になりたかった』があります。