あれやこれや 41〜50

あれやこれや 41〜50

41 世界で1番美しい少年

 かつて、年が変わる時にかけていた曲がある。マーラーの交響曲第5番の第4楽章『アダージェット』
 あまり評価されず忘れられた存在だった。しかし、映画『ベニスに死す』で使用されて以降一気に有名になり、その後はマーラーの代表作と呼ばれるようになった。
 監督の選曲は見事だった。まるでこの映画のために作曲されたかのような『アダージェット』の美しさ……ピアノの楽譜を取り寄せて弾いてみた。下手な腕だが雰囲気だけ。

 かつて『世界で1番美しい』と謳われ、人々を魅了した少年がいた。映画『ベニスに死す』タジオ役のビョルン・アンドレセン。
 ベニスを舞台に、初老の男性がタジオという少年の美しさの虜となり、身を滅ぼすというトーマス・マンの短編小説『ベニスに死す』(のちに、ベニスに死す症候群という言葉にもなった)
 1971年、映画界の巨匠ルキノ・ビスコンティ監督が映画化し、世界的なヒットとなった。タジオを演じたのが当時15歳のビョルン・アンドレセンだ。彼は『世界で1番美しい少年』と評され、無数のファンが夢中になった。
 特に日本での人気は爆発的で、来日してテレビCMに出演したり、日本語のレコードを出したり。漫画家・池田理代子の『ベルサイユのばら』の主人公オスカルは彼に触発され誕生した。ビョルンは時の人となった。

 当時、同性愛、それも美少年に対する愛を描くことは、タブーだった。製作側からは美少年ではなく美少女にしてはどうかという提案もあったそうだ。
 また、細部にこだわるヴィスコンティ作品を撮るには予算が足りず、俳優たちは全員普段のギャラの半分以下で出演をOKしたいう。

 45年も前……2本立ての名画座で、この映画が上映されると立見客まで現れた。まだビデオのない時代。美少年がアップされる場面を観客は知っていた。一斉にシャッターの音がした。
 ビデオが発売されると手に入れたが、今では観るデッキがない。観なくても頭に焼き付いている。

 さて、彼はその後どうなったか? ドキュメンタリー映画が公開された。映画『世界で一番美しい少年』は、ビョルンの波瀾万丈の半生(転落と再生)を追った作品だ。

 観たいような観たくないような……パソコンが家にきて、ホームページで最初に検索したのがビョルン・アンドレセンだった。Windows95……全然ヒットしなかったが、今では変貌した写真まで載っている。


「あの映画に出演したことは後悔していないよ。でももし15歳に戻れるなら、NOと言うだろうね」

 大人たちに性的に食い物にされた“世界一美しい少年”~『ベニスに死す』ビョルン・アンドレセン 【毒家族に生まれて】
50年前、「ルーヴルに飾るべき」とまで評された美少年の人生は、名声と引き換えに汚された。
https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/g35475943/born-into-a-whutering-family-bjorn-andresen-210216/?slide=1より引用

42 おばあちゃんのヴァイオリン

 5歳の孫が聞いてきた。女の子だ。
「おばあちゃん、ヴァイオリンあるの?」
 幼稚園の友達が習っているらしい。小さなヴァイオリンはレンタルだそうな。
 この孫は早々にピアノを辞めてきた。落ち着かずに先生に呆れられた。
 長女だからなのか、言葉が出るのが遅かった。娘はたいそう心配した。
 3歳児検診のとき、眠い午後に連れて行かれ、
「お名前は?」
と聞かれ、
「お名前は?」
と復唱した。
 目が冴え、たくさんのおもちゃで夢中で遊んでいる時に、名前を呼ばれ振り向かなかった。何度か呼ばれても遊んでいた。
 それで……発達障害グレーゾーンだって? 娘はたいそう心配し、いろいろ調べ、そういう教室に連れて行った。その度、おばあちゃんは下の子の子守だ。

 幼稚園に入っても先生を手こずらせた。教室を飛び出し水溜りで遊んだ。それからは出られないように鍵を閉められた。迎えに行くたび、娘はがっかりして帰ってきた。
 運動会では先生の隣に出て行き、目立って踊っていた。ジャンプ力はすごい。

 比べて3歳の次女はなんの問題もなかった。よく喋る。うるさいくらい喋る。大人の言葉を丸ごと覚え、喋り続ける。娘がイライラしていると、
「ママ、優しくなれ」
と、おまじない。

 この姉妹が遊びに来ると、おばあちゃんは疲れてしまう。女のくせに恐竜が好きで詳しい。1度恐竜ごっこ……なるものをやったら、たいそう気に入られ、遊びに来るたびにリクエストされる。
 ロッキングチェアをヘリコプターに見立て、ふたりを乗せて揺らす。
「恐竜の島から脱出します。さようなら、恐竜さん、あー、ヘリコプターが故障した。墜落しまーす。逃げて逃げて。恐竜に食べられちゃう!」
1度やったら、何度もリクエスト、おばあちゃんはクタクタ。疲れても容赦ない。
「おばあちゃん、恐竜ごっこしてー」
 娘は酒を飲んでくつろいでいる。
 
 この娘、結婚前はよく酔っ払っていた。絶対、彼氏(今の旦那)に呆れられ、捨てられると思っていた……
 変わるものだ。娘時代は部屋もひどかった。朝も起きられなかった。今は、犬も飼っているのでよく掃除をする。行けば、洗濯機が回っている。カーペットまで洗っている。料理もうまいものだ。手早い。キッチンもきれいにしている。

 さて、おばあちゃんのヴァイオリンは電子ヴァイオリン。20年も前に夢中になったヴァイオリニスト、デイヴィド・ギャレット。聴くだけでは満足できずに習ってみたのだ。
 集合住宅で本物は無理だった。2駅先のヤマハで電子ヴァイオリンの教室があった。習ったのは2年間くらいか? グループレッスンは女性ばかり。楽器も買った。

 しかし、音合わせができない。ラの音が耳ではわからない。コードを繋いで周波数でチューニング。弾くまでの準備が大変だった。不自然な姿勢に腕が痛くなる。でも頑張った。頑張り屋だ。
 やがて皆レッスンに来なくなり、たったひとりのグループレッスン。発表会ではよそのクラスの方たちと合同で。弾いたのは『私のお気に入り』と「イエスタデイワンスモア』
 弾けたのだ。当時は確かに弾けた。(初歩の初歩だけど)

 仕事の休みの関係で続けられなくなり、練習もしなくなった。20年ぶりにケースから出したヴァイオリン。すでに構え方も忘れていた。松脂(まつやに)はカチカチに。
 それをふたりの孫が奪い合った。ピアノをやっていた娘は、辞めて何年? やはり20年以上。なのに簡単に音を合わせた。ソ、レ、ラ、ミ……

 絵や手芸ならば作品が残っただろうに。いったい何が残ったの? 忙しい夕方、電車に乗って習いに行った。弾く腕も聴く耳もありゃしない。孫たちのおもちゃだ。楽器買い取りに聞いたら買った時の値段の5パーセントだった。

43 年末年始は

 年末の慌ただしさは嫌だ。先週、女だけでクリスマス会をしたのに、昨日また来た。次女はみかんを、長女はきんつばを届けに来る、と。夫があとで取りに行くのに……孫たちが来てくれるのは嬉しいが。
 娘たちは寒い冬に大掃除などしない。

 結婚して最初の正月。妊娠してつわりがあったので買い物はほとんど夫に任せた。買い方は豪快だ。ふたりなのに大量買い。正月明けには大量に捨てることに。それは……最近まで続いた。

 屠蘇器と重箱のセット。40年前、夫は4段の立派なものを買ってきた。中身を埋めるのは大変だ。そして埋めたものは残る。残りは廃棄される。いつのまにか立派な重箱セットは正月のインテリアに。
 1度やってみたい。何も作らない、何も買わない。夫の大好きなカップラーメンで過ごす正月……私はパンと紅茶だけで……浮いたお金は山分けで。

 施設のスタッフが器用で、毎年干支の置物を折り紙で作ってくれる。ずっと折り紙を習っている。出来栄えは素晴らしい。紙とは思えない海老のお飾り。それにビーズ。いろいろいただいた。アクセサリーにマスコット。作品は増えていく。

 慌ただしいが、年末が来ないと換気扇は掃除しない。数年前キッチンをリフォームした。換気扇は奮発し掃除の楽なものにした。簡単に外せる小さなファン。揚げ物などほとんどしない老夫婦だ。汚れはひどくはない。それを時々食洗機に入れればいいものを。なぜ1年間やらないのだ? そして、付け置き洗いが必要に。掃除した時はきれいを保とうとは思うのだが。
 乾物類が廃棄される。使わない香辛料。何年前からあるだろうか? 思い切って捨てよう。オレガノ、オールスパイス、シナモンも滅多に使わなくなった。

 作るものは、栗きんとん。暮れになると冷凍の裏漉ししたさつまいもが出回るので買っておく。作り方は袋の裏側に印刷してある。簡単だ。水飴は省略するがおいしくできる。
 煮なますは鈴木登紀子さんのレシピ。20年も前に作ったら、初詣に行っている間に、娘が友人と鍋半分平らげていた。たいそうおいしかったらしい。
 材料はヘルシーだ。切り干し大根、しいたけ、にんじん、蓮根、しらたき、牛蒡、油揚げ、すべて千切りにして炒め調味し、最後に酢を入れる。翌年から材料を倍にしたら味がボケた。最初の感激したおいしさにはできない。それでもこれは女には人気がある。年始早々のダイエット料理。

 煮物はいっとき、分けて煮ていた。濃い味のものと薄味のもの。ある年に、焼き豆腐とがんもどきをレシピを見て煮てみた。絶対食べ残されると思ったら……夫がうまいうまいと食べた。何がヒットするかはわからない。
 最近の煮物は鶏肉を入れひとつの鍋で。このときだけは奮発して、どんこ(干し椎茸)を使う。それに太く切ったきんぴらごぽう。子供の頃、母はそれをタラコで和えていた。父がどこかの家でご馳走になり気に入った。よその家の味を私も姉も引き継いだ。薄味のきんぴらをタラコで和える。

 あとは作っても誰にも食べてもらえない八頭(やつがしら)の煮物。食べるのは私だけ。これも母は甘く煮ていた。白く丁寧に煮る。正月から私はひとりで朝晩芋を食べる。

 年末慌ただしくお節料理を作るのは、正月に主婦が休むためではないのか? お節があっても夫は言う。
「何かおいしいものないの?」
そして言う。
「たまには、おいしいものを食べたい……」

44 寄付

 30年前の正月は落ち込んでいた。
 暮れの3ヶ月検診で次女が重い心臓病だろうと言われ、すぐに大学病院に行った。夫は仕事を休めない。報告したときの第1声は「嘘だね」だった。当時は紙おむつの性能もよくはなかった。ミルクと魔法瓶に湯を入れ、大荷物。タクシーを呼びひとりで病院まで連れて行った。
 それからが長かった。生後3ヶ月の重い心臓病がある子供だろうが、待たされた。混んでいた。古い建物の中を行ったり来たりあやしながら、ほぼ昼近くまで待ちようやく呼ばれた。
 先生はすぐに検査が必要だからと、いっぱいのところに午後予約を入れてくれた。ずっと抱っこ。昼食を食べたかどうかは記憶にない。

 検査では睡眠薬を渡され、眠らせるよう言われたが、なかなか飲んでくれず困った。
 検査の後、すぐにも入院が必要だったがベッドが空いていない。空き次第連絡が来る。そうしたら入院。そして手術……

 暗い暗い正月。年始の客は断った。次女は熱を出した。大学病院まで連れて行く。夫と車で。長男長女はふたりで留守番したのだろうか? 記憶がない。小2の息子と幼稚園年長組の娘。

 夫は治療費と葬式の心配をした。子供の医療費はまだ無料ではなかった時代。
 母はいざとなると強い。マンションを売ればいい。借金は残るだろうが。たくさん残るだろうが。
 ところが、治療費はタダだった。書類をいただき、保健所へ手続きに行った。封はされていなかったので見てしまった。手術代400万円。それが無料に!
 だから、私は健康保険はいくら高くても文句は言えない。

 手術前はICUで昼夜10分の面会しかできなかった。昼の面会の後、夜の10分の面会まで6時間ロビーで待つ。そういう親が何人もいた。成功率は調べたら90パーセント。でもこの子にとっては0パーセントかもしれない。
 そしてふたりの子供の待つ我が家へ帰った。往復3時間。毎日。

 夫は酒を飲むと弱気になった。この男はいつでも最悪を考える。
「手術しないでこのまま死なせてやりたい」
 母親は前しか向いていないのに……母は気丈だったが、弱みは髪に出た。まだ30歳過ぎたばかりなのに白髪が。

 手術の日、生後5ヶ月の次女はワゴンのような物に乗せられエレベーターで降りていった。見送りはエレベーターまで。娘はキョロキョロしていた。
 夫と私はずっとロビーで待った。10時間くらいかかったのではないだろうか? 

 手術が成功すると、回復は速かった。術後は何かあればすぐに駆けつけられる近くの旅館に泊まった。回復は速かった。体に付いた管がどんどん外されていく。汚い旅館には1泊するだけですんだ。
 
 全国から子供が集まってくる病院だった。大勢の子供が手術の順番を待っていた。娘は待てない病気だったので手術も早かった。動脈と静脈が逆になっていた。全身に血液がいかない。肺と心臓の往復で肺が3倍くらい肥大していた。

 ミルクを飲んでも吐いた、体重が増えたら危なかったのだろう。飲むたび吐いた。それを3人目の子の母親は、兄姉もそうだったから、と呑気で検診まで放っておいた。
 放っておいてよかった。いくらかでも月数が増えたから逆によかったかも、と女医が慰めてくれた。入院中、産まれたばかりの子が運ばれてきた。産んだばかりの母親は気丈だった。しかし、術後少したち、泣き喚く声が部屋まで響いた。

 難病の子供たちの母親は意外にも明るい。いろいろな情報を教えてくれた。
 教授に謝礼を包む……今はどうなのだろう? 手術の説明は個室で教授と私たち夫婦だけ。知らなかった私たちは用意もしていなかった。知らなくてよかった。包まなくても手を抜かれるわけではない。
 聞くところによると、現金は手渡し。品物は郵送するのだそうな。悪しき慣習。税金の掛からない金がいったいどのくらい? 教授の腕にはロレックス。
 対照的に担当していただいた助教授は親身な男性で救われた。朝も昼も夜も夜中も見かけた。家に帰らないのだろうか? この助教授には退院の時、謝礼を包んだ。以後毎年1度検診でお会いした。今では偉くなられたようだ。

 落ち着いてから、いくらかの寄付をするようになった。400万の手術が無料だったのだ。感謝します。社会貢献します。少しでも。必ず……
 阪神淡路大震災。映像を真剣に見ていたら……それまではせいぜい2、3千円の寄付しかしなかったが……
 以降、災害がありすぎてお金も気持ちも続かない。喉元過ぎればなんとやら。調べてユニセフの銀行引き落としにした。毎月少額だが。あれは世界の子供達への寄付だけど……他のことは他の人にお任せ。
 娘は言った。
「ブラックだよ。やめなよ。子供に服買ってよ」
 人件費や宣伝費はかかるだろう。実質の寄付は何パーセントに?

 それが10年続いたと、小さな賞状が送られてきた。

45 レコードジャケット

 昔聴いた音楽を調べていて驚いた。

 1970年代後半、レコードで聞いていた時代。付き合っていた彼は当時30万円出してステレオを買った。大きかった。幅は1メートル以上。奥行きもあった。レコードプレーヤーにカセットデッキ。レコードは聴くたび丁寧に埃を取った。音はアパートだから大きくはかけられないのに……30万円……当時の月給よりも高いもの。のちに買ってもらった婚約指輪より高かった……

 聴いていた曲は、松山千春、太田裕美、テレサ・テン、グラセラ・スシャーナ、レーモン・ルフェーブル……狭い部屋でいつもかかっていた。覚えているのは松山千春の、
「あたい……ブス、だけどあたいの彼は優しくて……」(あたい)

 年月が過ぎ大量のレコードは処分した。ゴミに出した。中身とジャケットを分別し捨てた。夫は今は携帯で聴いている。

 私の大量のレコードも廃棄した。ローンで買ったクラシック名曲集。数枚あったロックのレコードはクイーン、ユーライアヒープ、そしてスコーピオンズ。それらも今は携帯で聴く。小さなスピーカーで。

 先日、なにげなく思い出しスコーピオンズのことを調べた。当時、渋谷陽一さんのラジオを聞いていた。その時に紹介されたのだろう。ハードなドイツのロックグループ。渋谷氏はジャケットがどうの……言っていたが、気に入りすぐに買いに行った。

 まだ若かった娘が買うには恥ずかしいジャケットだった。30センチ掛ける30センチのほぼ全面の写真。今では許可されない女児のヌード……説明するのも(はばか)られる。おまけに歌は『Virgin Killer』恥ずかしかったが、欲しかったのでレジに。

 このジャケットは各国で発禁になったが日本ではOKだった。日本は世界から児童ポルノ天国と呼ばれていた。

 そのレコードもすでに処分して何年? その後、このレコードのジャケットは物議が(かも)されメンバーの写真に変わった。
 
 それが、オークションで出品されている。アマゾンでは今ではアダルト扱いに。定価は1800円だったものが高いものは8000円に。知らなかった。

 知らなかった。2014年の改正児童ポルノ禁止法により、有名な写真集も児童ポルノに当たるとか国会で議論されていた。撮影された時の年齢が18歳なら問題ないが、17歳だったなら? ネット上で話題になっていた。持っているだけで逮捕にはならないそうだが。

 当時騒がれた写真集には怒りが湧いた。とてつもない怒りが湧いた。娘を持つ母親になっていたからだろうか? 

46 ウェルテル効果

 ロッテの社名は、ドイツの文豪ゲーテの作品『若きウェルテルの悩み』に由来する。
 創業者の重光武雄氏は若い頃に『若きウェルテルの悩み』を繰返し愛読し、シャルロッテが後にヨーロッパで「永遠の恋人」と呼ばれたように、ロッテが誰からも愛されるように、との願いを込めて付けたという。
 ロッテのキャッチコピーである「お口の恋人・ロッテ」は、ザ・ドリフターズの仲本工事さんのおかあさまによる応募が採用されたもの。
(元ネタ・由来を解説するサイト『タネタン』より)

 作者ゲーテの実体験をもとに執筆された『若きウェルテルの悩み』
 ゲーテはヴェッツラー郊外の舞踏会に参加し、そこで作中のシャルロッテのモデルとなるシャルロッテ・ブッフと出会い恋に落ちる。そして間もなく彼女は友人ケストナーと婚約中であることがわかるが、ゲーテは諦めきれずにシャルロッテのもとを頻繁に訪れるようになった。しかし思いを果たせず誰にも告げずに故郷フランクフルトに舞い戻ってしまう。

 しかしゲーテは故郷に戻った後もシャルロッテのことが忘れられず、彼女の結婚の日が近づくと懊悩し、一時は自殺すら考えるようになる。そんな中、友人のひとりが人妻への失恋がもとでピストル自殺したという報が届く。このときゲーテはこの友人の死と自身の失恋体験を組み合わせた小説の構想を思いつき、1か月あまりでこの小説を書き上げた。この小説を書く作業によりゲーテは彼自身の失恋自殺の危機から脱出できた。

 なおシャルロッテ・ブッフは1816年、60歳になったゲーテを訪問し再会を果たしている。 
(若きウェルテルの悩みWikipediaより)

 若い頃『異邦人』の次に読んだカミュの『シーシュポスの神話』は難しくて細かい字で、何が書いてあるのか、字を追うだけだった。1箇所だけ、浮いて見えた文章がある。

『情熱恋愛の専門家たちが口をそろえてぼくらに教えてくれる、障害のある愛以外に永遠の愛はないと。闘争のない情熱はほとんどない、と。そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ』

 1774年の出版当時、ヨーロッパでベストセラーになり、主人公ウェルテルをまねて自殺者が急増するほどの社会現象を巻き起こした。このため同書は‘‘精神的インフルエンザの病原体″とまで呼ばれ、いくつかの国家で発禁処分となった。

『ウェルテル効果』とは、著名人の自殺が報道されることにより、連鎖的に自殺者が増える現象。日本でも同効果とみられる若者の自殺が度々起こり、社会問題となっている。

 著名人の悲しい自殺は後追い自殺を生む。太宰治、三島由紀夫の自殺は多くの後続者を出した。芸能人も……
 だから、自殺報道には命の電話がセットで付いてくる。それほど影響があるのだろう。

 対局にパパゲーノ効果がある。マスメディアが、自殺を思い留まり成功した例を挙げることで、大衆の自殺を抑制する効果のことである。
 名前の由来はモーツァルト作曲のオペラ『魔笛』に因む。パパゲーノは恋に焦がれて自殺しようとしたが、3人の童子が現れて「やめろよパパゲーノ、人生は1度だけ2度とはないよ」との歌によって自殺を思いとどまる。特に、厳しい環境で自殺念慮を持った個人が、その危機を乗り越える報道内容は、有意な自殺予防効果があるとされている。
(パパゲーノ効果Wikipediaより)

 なお、自殺の場合、成功した、とは言わずに既遂という。未遂、既遂、そして失敗。
 自殺を図った人のうち3人に2人は失敗している。

 失敗した例……意識を取り戻すことはない。いわゆる植物状態に。
 植物状態とは、呼吸や体温調節、血液循環などの生命維持に必要な脳幹は機能しているが、頭部の外傷や脳への血流の停止などが原因で、大脳の働きが失われて意識が戻らない状態をいう。自力で動けず、食べられず、失禁状態で、意味のある言葉をしゃべれず、意思の疎通ができず、目でものを認識できない、という状態が永続する。
 一歩踏み出した結果こうなることは、おそらく知らない……

 (彼らは皆自殺失敗者です。自殺未遂の「それから」より)

47 感情を抑える

 隣の旦那さんが認知症になった。夜中声が聞こえる。娘さんの名を呼ぶ。住んでいるのは父と娘。80歳くらいの父親に50歳くらいの娘さん。壁が薄いのか、聞こえてしまう。娘さんはフルタイムで働いている。
 娘は父親を怒る。優しくはなれない。耳が遠い父親に大声を出して怒る。日常茶飯事になってしまった。聞いているほうもいたたまれないが、怒っている本人は……? 安らぐことはないだろう。いつ終わるかわからない親の介護。自分を思い出す。

 階下からは子供をヒステリックに怒る母親の声が聞こえたものだが、冬の間は届かず助かる。思えば私も子供を怒鳴った。上から3人順番に。窓を閉めてから。上の子と下の子は怒られても一晩寝ればケロッとして、おはよう、と言う。真ん中は少々あとを引いた。
 その娘は孫ふたりに翻弄され怒っているが、
「ママ、優しくなれ」
とおまじないをされている。

 悩みはいつも子供と父親のことだった。夫は? 
 諦めていた。子供が小さいうちは我慢した。頼れる実家はないし、生活力もない。長男が大きくなったら……
 一緒に出て行こうね、早く大きくなあれ、と思ったが……
 大きくなったら子供に、
「さっさと出ていきなさいよっ!」

 夫は喧嘩をすると1週間は喋らない。それが嫌で、喧嘩は避けた。我慢した。見ない。聞かない。相手にしない。態度には出さないが。
 うまくいったみたいだ。晩年夫は寄り添ってくる。まあまあの人生だったと思っているようだ。どうか、このまま、認知症になどなりませんように。

 コロナ禍で普段よりニュースを気にしたからだろうか? ここ2年、怒りが多かった。
 
 豪快な美容師さんは、私が安倍政権に怒りまくったときに言った。
「いいじゃん、殺されないだけ、マシ」
「!」
 確かに、よその国のように殺されたりはしないが……?
 
 某男性タレントのラジオでの発言をYahooのニュースで知ったときは、怒り心頭……

 新型コロナウイルスの感染拡大で経済的に苦しくなった女性が、性風俗業で働くことになるのを待ち望むような発言。
 女性たちのコメントはすごかった。大半の女性を敵にしましたね。
 
 それを美容師さんにぶちまけたら、
「え? なんで? いいじゃない。別に。ふーん、怒るのか?」

 思えば彼女の考えは、世の中を生きやすくするために自分を守る知恵なのだろうか? 長年の接客業。理不尽な客はいる。いちいち怒っていたらやっていけない。生き辛くなる。自分が辛くなる。だから感情をコントロールする。イヤなことは右から左。
 私も接客業についたばかりの頃、店長に言われた。
「◯さん、思い切り顔に出てる」
だって、この方、今日3度目のご来店ですよ。買いもしないのに。それも閉店間際の忙しい時間に。
 やがて身につく。営業用の笑顔。お世辞が出る。どの口から? 客が帰った途端……女は恐ろしい。きれいな服を売っているのに……

 今の仕事も怒っていたらキリがない。朝行った途端に『バカヤロー』の罵声を浴びせられる。理不尽極まりない。認知症とわかってはいても。

 昭和の終わりの、犯罪史上類をみない残虐な少年犯罪があったのは比較的住んでいるところに近かった。
 知らなければよかった。興味を持たなければよかった。怒り心頭……はらわたが煮え繰り返る……だけではない。脳みそまで煮え繰り返った。

 明け方、目が覚めてしまう。娘を持つ親だから余計に許せない。
 許せない。許さない。報復を。どうする? 
 本気で考えた。宝くじで大金が当たったら、殺し屋を雇って同じような目に合わせてやる。去勢してやる……週刊誌を買い、本名を控えた。
 新聞にも投書した。採用されなかったが。
 災害も事件も真剣に考えたら自分が病んでしまうのかもしれない。

 年月が過ぎ、出所した犯人のひとりが再犯事件を起こしたのも近くだった。主犯格もその後、再犯。更生などしない。世間が更生させないのか?
 今でも思う。宝くじが当たったら……

 日本中を震撼させた少年A。更生したAも近くの団地に住んでいたことがあった。名も変えているだろうに、なぜかわかってしまうものだ。文春さんがずっと追っていた。すぐに転居したが。見つかるたびに転居。今では結婚して子供もいるらしいとか?  

 いじめ、虐待、殺人……多すぎる報道に鈍感力(スルー力)が身についた。どんなに悲惨な事件が報道されても揺らがないように。

48 面白いおかあさん

 娘たちには、面白いおかあさん、と言われている。娘の旦那には、さらにおかしい人だと思われている。しっかりしているし、ある面では物知りだが……

 携帯、iPadのことは娘に頼る。今のも次女と買いにいき、使えるようにしてくれた。
 孫たちが来ると、長い時間の終わりにiPadでYouTubeを見たりゲームをする。ふたりの孫が奪い合う。
 帰った後に画面にヒビが。
 あーあ……操作に支障はないが……もう触らせない! 次に娘が来た時に言うと(弁償しろとは言わないが)ヒビの入った保護シールを剥がした。
 よかったあ。こなごなになったが剥がした画面は無傷だ。よかったあ。

 ネットで注文しようとしたらサイズがわからない。iPadの種類、何世代、とかわからない。iPadの裏にはルーペで見てもぼんやりした数字。ようやく判明し、注文した。

 届いた箱を開け、シールをそっと剥がした。頭の中には薄いもの、という思い込みがある。シールを剥がしiPadの上にそっと載せた。張り付かない。少しずつ馴染んでいく……そう思った。テーブルの上で操作している分には困らないが、仰向けに寝て持つと保護シールがフワッと落ちてくる。
 安かったからこんなもん。おめでたい無知な年寄りは何の疑問も持たず、そのうち剥がれるのが面倒くさくなり使わなくなった。家で使うだけ。孫に触らさなければ必要はない。安かったからあんなもん。安物買いの銭失い。

 娘ふたりと孫3人が遊びに来た。来る前に、iPadは壊れたことにして、孫には触らせないよう念を押しておいた。
 私が保護シールのお粗末なことを怒りながら話すと……ペラペラのシールをふたりの娘に見せたら、大笑い。
「さすがおかあさん」
シールを貼ってあった厚みのある台は既に処分した。下敷きより厚いと思ったのだ。
 ふたりは大笑い。笑いが止まらない。
「アハハ、ハハハ、旦那になんて話そう」
「シール代分笑わせてもらった」
涙目で笑い続けた。

49 乾杯

 中学2年の時に同じクラスになったNさん。背が低く眼鏡をかけていた。きれいとか、かわいい部類ではないだろう。
 頭が良かった。漢字はなんでも書けた。薔薇も。それに社会、特に歴史の知識はすごかった。
 あとは歌。国語の時間になぜか、歌の話になった。よくは覚えていないが、彼女はペルシャの姫がどうの……と話をし、先生に歌ってみろ、と言われ歌い出した。
 ステンカラージン。
 恥ずかしがりもせず堂々と。
 コーラス部だった。

 斜め前の席の彼女は、紙に書いた詩を私に見せ暗唱した。
 君死にたもうことなかれ……

 私も真似をした。
 君よ、知るや南の国……

 詩や小説の好きなふたりは親しくなった。ユニークな人だった。50年前、私は尾崎紀世彦に夢中だった。彼女は森進一。それがまたおかしかった。巨人の柴田が好きだった。姉は堀内が好きだった。私にはどうでもいいことだったが。

 彼女は駅前の本屋で立ち読みをした。少年マガジンの『あしたのジョー』と『巨人の星』
 その間私は待っていた。同じ方向の電車で帰った。ホームのベンチに座り話した。電車は何台も通り過ぎて行った。あれほど語り合った人はいなかった。

 長い休みには彼女の家で勉強した。1駅先の駅から歩いて5分くらいの大きな家。応接セットがあった。強烈な印象だった。いまだに覚えている。飛騨の家具。憧れだった。ずいぶん後に調べてわかった。最近ようやく買った。穂高のロッキングチェア。それを娘達は言った。
「昭和のおばあちゃん」

 Nさんの家は麦茶を沸かしている香りがした。おかあさんの手作りのケーキが出てきた。50年も前だ。菓子作りの本もそれほど出てはいなかった。Nさんが手動のコーヒーミルで豆を挽きコーヒーを淹れてくれた。今思うとかなり薄かったのだが、生活レベルの違いを感じた。うちのおやつはふかし芋。蒸し器を開けるとジャガイモまで入っていた。

 Nさんとは別の高校だったが時々は会っていた。おとうさんが亡くなると千葉へ引っ越していった。フランスに留学し、戻ると神田の本屋で働いた。本に囲まれていれば幸せだと言う。
 私は就職して、社交ダンスを習い、会社の馬術同好会に入っていた。歴史とフランスの好きな彼女は羨ましがっていた。

 彼女は私の結婚式に、ひとりで歌をプレゼントしてくれた。当時はまだ知られていなかった長渕剛の『乾杯』
 アカペラで長い曲を最後まで。コーラス部にいた彼女は上手だった。歌が大ヒットしたのはあとのことだ。
 
 いつのまにか年賀状も絶えてしまった。
 息子の家に行く途中、Nさんが越して行った地名を通る。会わなくなって40年が経つ。住所を検索すれば近辺の写真が見られる。結婚しただろうか? どこにいるのだろう? まさか、フランスとか?

 会ってみたいと思う。ネットで検索してもヒットしない。彼女が好きだったのは三銃士のアトス……アトスの名で、なにやらクイズを作り雑誌に応募していると言っていた。

 会いたいな。話したい。私はずいぶん本を読んだ。詩も読んだ。歴史も中国のは詳しいよ。ドラマ観てるから。
 驚くだろうな。文章を書いてるなんて知ったら。いや、彼女のことだ。とうに小説を投稿しているかもしれない。長い歴史小説かな?

50 痛いよ

 腰を痛めた。仕事で痛めた。
『痛いよ。痛いよ。痛いよ』
 歌詞の半分以上が『痛いよ』は誰のなんという歌でしょう?

 4日前の足浴(そくよく)。7人の足を洗った。車椅子で脱衣所まで連れていき、中腰の姿勢で靴と靴下を脱がせる。足が浮腫んでいるのですんなり脱げない。そのまま浴室まで移動し中腰で洗う。使い捨てのビニールのグローブをはめ、両足にボディーソープをつけて洗い流す。そして拭く。タオルで拭いてからドライヤーで乾かす。そして薬を付ける。ほとんどが水虫。そして靴下を履かせる。浮腫んでいるからすんなり履けない。
 それだけのこと……なのに。

 中腰の姿勢が良くないという。翌日には腰痛。それなのにロキソニンを飲み仕事。3人入浴させ悪化させてしまった。その翌日は公休。痛み止めは飲まないでゆっくりした。立ち上がるときには、思わず『痛いよっ』
大声で掛け声に。

 今朝も『痛いよ』
 夫は、休めと言う。でも今日は2ユニットにパートが私ひとり。はっきり言って、シフト組むの下手。イメージして組んでいますか? 常勤さんからも文句出ていますよ。だから私が行かねば朝食を配るのが遅くなる。退院してきたばかりの人もいる。他の曜日なら休めるのに。でも、入浴介助は無理だろうな。ロキソニンで痛みは和らいでも、まるでガラスの腰のような感じ。これ以上悪化したら歳も歳だし、寒いし、治りが悪くなりそう。だいたい、2ヶ月前に痛めて整形通ってたのに。途中で通うのやめちゃったからね。

 とりあえず仕事に行った。頑張って行った。着替えるのも大変。ズボンを穿く、靴下を履くのが大変。くしゃみをしたら激痛。男性のリーダーは心配してくれた。予定を組み直さなきゃならないのに嫌な顔はしない。
 女性の若い早番は、ねぎらいがない。この方は以前腹痛で休むと電話した時にも、「お大事に」の言葉がなかった。仕事はできるのに。

 施設のすぐ近くにまた施設を建てている。うちの施設はオープンして6年が過ぎ、ようやく全ユニットが稼働した。待っている入居者は数知れないが、スタッフが足りないのだ。どこのユニットでも人手不足だ。新しいスタッフが入り一人前になるや否や、別のスタッフが辞めていく。パートも職員もリーダーも主任もめまぐるしく変わっていく。近くにオープンしても職員が集まるのだろうか?

 腰痛で辞めていく者も多い。まだ若い男性が腰を痛め、休暇を取り治療に専念したが、結局辞めていった。腰ばかりではない。介助するときに腕も痛める。片方を庇うので両腕を痛める。そして辞めていく。

 息子も腰痛持ちだ。仕事柄、中腰の姿勢。おまけに寒い。鍼治療に通っていたが金が続かずやめたと言う。私が買ったマッサージ機も、腰痛、肩こり用の枕に布団もくれてやった。生活がかかっているから大変だ。
 思えば夫もひどかった。朝、立って歩けない。這って会社に電話したこともあった。椎間板ヘルニア、坐骨神経痛。鍼、カイロプラティック。整体。1回30,000円也、とかいうマッサージにも行った。整形外科でコルセットも作り、腰痛とは現場を離れるまでの長いお付き合い。
 しかし、現場を離れれば体重は20キロ増。高血圧、心房細動、こちらも薬代がかさむ。

 整骨院に行ってきた。全身が疲れているという。仕事の日は5時間働き5時間ゴロゴロしているのに。
 

あれやこれや 41〜50

あれやこれや 41〜50

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 41 世界で1番美しい少年
  2. 42 おばあちゃんのヴァイオリン
  3. 43 年末年始は
  4. 44 寄付
  5. 45 レコードジャケット
  6. 46 ウェルテル効果
  7. 47 感情を抑える
  8. 48 面白いおかあさん
  9. 49 乾杯
  10. 50 痛いよ