この家には亡霊がいる 8
美登利 3
僕の家に戻り美登利はシャワーをもう1度浴びた。念入りに。
「襲わないでよ。唾液や体液、我慢できない。発狂するから」
リビングのロッキングチェアに座り告白が始まった。
「初恋は10歳の時よ。17歳年上の担任の先生。小学5年のときの担任。奥さんも男の子もいた。
ママに出ていかれた私を励まし、交換ノートをしていた。先生のおかげで勉強も運動も頑張れた。女子にはひいきだって言われたけど。
そのうちパパが携帯買ってくれて、先生とメールした。朝も夜も、奥さんがお風呂入ってるときも。寝る前には、おやすみを。
私は先生の特別な生徒。同級生の女子は気づいていた。お土産買ってきてくれたし、ペンダントももらった。
大好きだったの。先生がいなかったらあの時期を乗り切れなかったと思う。
先生の用事で放課後出かける時も一緒に連れてってくれた。車で。
ラーメン食べたりハンバーガー食べたりしたわ。
私が遊園地行きたいって言ったら計画してくれて、嬉しくて私は喋っちゃったの。その子がおかあさんに話して、そんなバカなことあるわけないでしょって、パパに電話してきた。
パパは私が眠っているときにメールを見てびっくりしたと思う。
美登利、かわいいな、好きだよ、なんてメールだもの。
運動会に先生の奥さんも男の子も見にきていて、楽しそうにしてた。私は嫉妬したの。先生のところへ行って、なにも言わず見つめたわ。先生のパーカーの紐をいじりながら。先生は驚いたけど見つめ返してくれた。私は愛されてるって確信した。
パパが私を引っ張っていった。
それから少しして先生は学校を辞めた。携帯もつながらなくなった。パパは私が傷つくから大袈裟にはしなかった。郷里に戻るとか、そんなんだったと思う。
学校には知られなかったけど、女子は私のせいだと。10歳の娘が誘惑したみたいに言ったわ。母親の血だって。
パパもそう思ってるんだ……私は見放された。
相談する先生もいなくなり、女子には汚らわしいものでも見るような目で見られた。パパにも、嫌われたかと思った。
母の実家にあずけられるのではないかと思って、私は腕を切ったの。パパの気を引くために。私を見捨てないでほしかった。
元々気が強いからね、私は。負けるのは嫌だった。悪口を言う女の、好きな男を誘惑してやった。私が見つめれば私の言いなり。いちゃいちゃしてやったわ」
「ロリコンか? 今でも同じことしてる」
「違う。愛し合ってたの。魂が触れるのを感じた」
「今の君には興味を示さないだろう。巨乳は……なくなったが毛が生えてる」
「殴るわよ。先生は10歳の私にはなにもしなかったわよ。あれは、愛じゃないの?」
問いかける美登利の目は純粋だった。無垢な子供の目。
「私は、先生の前途を壊した。家庭を壊したかもしれない。
中学は皆と違うところへいった。知ってる子のいないところ。神経質になって、しょっちゅう手を洗ってた。でも陸上部に入ったの。顧問の男の先生に誘われて。
走って汗かいて疲れて、シャワー浴びないで眠っちゃった。先生のおかげで軽い潔癖症はすぐ治った。高飛びをやったの。先生は30代の独身の男の先生。怖い先生だった。
朝練、放課後、土日も練習。怖い先生が新鮮だった。パパは優しくて気の弱い人だったし、男子にはチヤホヤされたしね。
パパはスポーツに打ち込んで喜んでくれた。大会にも出て記録も出したし。
受験前まで部活頑張って最後の日、先生は私を抱きしめた。信用していた先生が私を抱きしめたの。
いやじゃなかった……私って魅力あるんだ、さすがママの娘……
いやじゃないけど、パパには嫌われる。
私は師弟関係の抱擁だと思うようにした。先生の前途を壊せる。噂にはなっていたし……パパに軽蔑されたくなかった。ママの血が流れていると思われたくなかった。私は……魔性の女」
僕はわざと吹き出した。
「以前の私ならあなたのパパだって誘惑できたわ」
「じゃあ、誘惑してみろよ。巨乳に戻って」
母親の葬儀には出ずに、美登利は火葬の間ずっと外にいた。
「おじさまからメールがきた」
わざと大げさに喜ぶ。
「辛かったら、亜紀のところに来なさい……」
美登利をH高まで送る。プールの補習。その間、音楽室に行ってみた。卒業して3年たった。ピアノを弾く。
『ミラボー橋』を口ずさむ。
やり直せたら……高1の秋に。圭との友情を壊す前に。
いや、過去は振り返らない。
戸口にひとりの女が立っていた。ずっと聞いていたのか? 近くには来ない。
ああ、1学年下の篠田葉月。和樹の愛しの君。ハヅキはだめだ……父の声がよみがえる。
「恥ずかしいな。聞いてたなんて」
葉月は喋らない。美登利とは両極。清純と奔放。美登利の本質は違うが。
私服でも清楚で可憐だ。
葉月は頭を下げて歩いていった。音楽室の壁には未だに僕のコンクールの写真が貼ってある。
葉月の愛しの君は父ではないのか? ハヅキは君のことか? 葉月はだめだ……どういう意味だ?
パパは葉月の母親と?
「待ってくれ。君は8月生まれ?」
なんて間抜けな質問だ。葉月は逃げるように降りていった。捕まえようとしたそのとき、和樹が現れた。3人が同時に驚いた。
僕はいやがる女を追いかけているように見えたらしい。和樹は葉月の前に立ち塞がり、彼女は逃げていった。
「みっともないですよ」
「誤解だ」
「ドリーのプールでしょ? 僕たちはテニス部のOB会なんです」
なるほどね。
「夏生とはうまくいってるのか?」
「おかげさまで」
憎らしいやつだ。
女生徒が僕たちを見ていた。いや、和樹を見ていた。テニス部の後輩か?
「夏生のやりたいこと、夢、三沢さんは知らないでしょう?」
「おまえは知っているのか?」
「あまりにも意外なことでびっくりした。でも夏生らしい」
「まさか、美容師か?」
違うか……
なんだ? とは聞かなかった。夏生が僕以外の男に話すなんて。
「夏生の夢は幼い頃から僕のお嫁さんになることだよ」
ざまあみろ。
「彩の……妹の悩みも知らないだろ?」
「彩に、悩みがあるのか?」
「ひどい兄貴だな」
彩になんの悩みが? 容姿も頭もスポーツも人より勝る彩に悩みがあるのか? 父の愛情も注がれている。和樹には話したのか?
夏生の志望は? やりたいこと? 夢?
夏生は世界中飛び回るのが夢だ。キャビンアテンダントの夢は僕が壊した。
和樹のあとを女生徒は追った。恋をしているのは明らかだ。あんな軽薄な男に。いや、軽薄なのは僕のほうだ。思わず声をかけた。
「前に会ったことない?」
自分に嫌気がさす。彼女は戸惑い、目で和樹を追う。平凡な真面目そうな目立たない女。和樹を好きな女を……どうしようというのか?
「由佳……さん?」
「違います」
「君の名前は?」
戸惑い言った。
「みづきです」
「どういう字?」
「美しくない月」
なんという説明だ。顔にコンプレックスが? 顔立ちは悪くないのに。肌がきれいだ。しかし大多数の男はよく見ないだろう。
美登利が、
「お待たせ」
と走ってきた。こちらは太陽だ。眩しいくらい。月は引き立て役。
『美しくない月』は侮蔑した目で僕を見てから和樹を追った。なぜ、あんな軽薄な男を? いや、軽薄と思われたのは僕のほうだ。
しかし、ゾクっとした。『英語の英に不幸の幸』名を聞いてくれたら僕も言ったのに……
美しくない月か……静かな月。自信を持たせて、美しい月、と言わせてやりたい……
いや、和樹がやればいいんだ。夏生にではなく……
葉月のことを探るために夏生と付き合い、僕に近づいた。
秋、夏生が変わった。無口になった。泣いたのがわかった。
「和樹と喧嘩でもしたのか?」
うん、と夏生はうなずく。
ふたりの帰りが遅い。僕は窓から見ていた。夏生を送ってきた和樹は、名残惜しそうに夏生の髪にふれ肩に手を置き、帰っていった。
追いかけ怒った。帰りが遅いと。
「もう18ですよ。ボクたち。夏生の両親にも認めてもらってる」
「じゃあ、泣かせるな。夏生を」
橘家でなにかが起きていた。おばさんは、
「英幸、今は聞かないで」
と言った。英幸、と呼ぶときは深刻なときだ。
僕だけ蚊帳の外。
そして車の窓から見た。産婦人科へふたりは入っていった。
(知り合いの赤ちゃんでも見にきたに違いない)
そう思い、そう和樹に尋ねた。
「僕たちの赤ん坊は幻だった。妊娠してたら結婚したのに。そうだったらどんなにいいか」
腹に1発。夏のお返しだ。和樹は黙って殴られた。治と同じように。2発目は亜紀が止めた。
「外でなにやってるの? 通報されるわよ」
気がついたら夏生はもう僕の夏生ではなくなっていた。いや、修正されただけだ。夏生は僕のために違う道を選んでいただけた。
長い年月、湧き上がる感情を押し殺していた。誰よりも女らしいのに。夏生は和樹を選んだ。
「夏生、大学行かないそうよ」
「え?」
「夏生の志望は服飾学校。夢はドレスや舞台衣装を作ること。なんで気がつかなかったんだろう? あんなに器用なのに」
服飾学校? 考えもしなかった。ずっとそばで見守っていたのに。夏生はひとことも洩らさなかった。
夢はドレスを作ること? 人形や彩の服を作っていた。桂のドレスを目を輝かせて選んでいたのに。気がつかなかったなんて……
夏生は気がつかせなかった。夏生はドレスを着たかったのだ。毎年のピアノの発表会、色とりどりのドレスで着飾った少女たちの中で、誰よりも上手な夏生は男の格好で登場した。
僕のせいで夏生は女でいることを諦めた。それを……
負けた。和樹に負けた。
美登利の部屋で勉強を教える。ベランダにプランターの寄せ植えがいくつもあった。
「君が植えたのか?」
「そうよ。素敵にできたでしょ? 今度、バラのフェスティバルがあるの。つれていってくれない?」
「ああ。試験、頑張ったらな」
「数学苦手、知ってる? ノーベル賞取った、なんだっけ? 統合失調症で……映画になった……」
「知ってるよ。ジョン ナッシュ。圭に……」
圭に勧められて僕も観た。
『圭』は禁句だ。
圭は当時、愛を信じられないでいた僕に実話だから、と勧めた。
「面倒くさいの省いてセックスしようぜ……あっただろう? このセリフ」
圭に何度も茶化して言って呆れられた。圭といると楽しかった。
「謎に満ちた愛の方程式の中に理は存在するのです。今夜、私があるのは君のお陰だ。君がいて私がある。ありがとう」
「なんでも暗記してるの?」
「ノートに書き留めておく」
圭はセックスしたのか? 美登利と? 美登利の母親と?
美登利と見に行ったバラの祭典。美登利は夢中だった。興奮して写真を撮る。それを再現する。店先の左側のスペースに寄せ植えのコーナーができた。パンジー、ハボタン、ストック……見事なリース、ハンギングバスケットが増えていく。客が感心して眺めている。
「売ってくれって言われるの。注文がくるのよ」
美登利とのデートは庭園と大きな園芸店。熱中するものを見つけた女は輝く。
終業式間近、美登利はまた体育で単位を落としそうになった。
「あの先生、私のこと毛嫌いしてる。体育館で、体育座りなんて無理、寝るなんて無理」
「補習は学校の周り百周? 80キロ? 無理だな」
「大丈夫よ。陸上部だったの。体重も戻ったし。お願い、練習付き合って。足も、心臓も大丈夫。弱いのは精神だけ」
スポーツセンターで美登利と走る。マラソン大会の前にはよく亜紀に走らされた。亜紀は独身時代が長かったからいろいろなことをやっていた。フルマラソンにも出場していたことがあった。
美登利はすぐに走れるようになった。
マラソンの補習。年内に終わるのか? 毎日学校まで迎えにいく。美登利は座席に乗り横になる。
「汗臭くない?」
「君の汗なら歓迎だ」
「足がパンパン」
風呂に浸かっている間、美登利の部屋を眺める。几帳面な女だ。病的かもしれない。読書家だ。
圭が読んでいた本。映画のビデオ。捨てなかったのか? 圭の好きな映画だ。この部屋でふたりで観たのか?
1冊の本を手に取り開いた。
『この顔と生きていく』
先天性の顔の奇形。これも圭の本か? 自分の顔を嫌う美登利に……
夢中で読んだ。ハッとした。
「美登利?」
浴槽で寝ている美登利を起こした。
「見たわね?」
「バカ、死ぬぞ。早く上がれ』
美登利が出てくる前に部屋を出た。情けない俗物だ。圭の愛した女の裸を見て逃げ出した。
最終日に美登利は走り切り抱きついた。
「苦手じゃないのか? 息と体臭」
「先生がシュークリームくれた。根性あるって」
車の中で食べる。僕の口にも入れる。僕の口の周りのクリームを指で取り舐める。
「進歩したな」
「お礼するわ。キスしていいわ。あなたとならできそう」
「無理するなよ」
「キスするとアドレナリンが放出されコレステロール値が下がる。細菌を交換することで免疫力を高める効果がある」
「亜紀に聞いたのか?」
「自分で調べた。でも歯を磨いてからね。唾液の交換は無理」
美登利の部屋でキスをした。コンビニで歯ブラシを買わされ念入りに磨かされた。美登利の唇にふれる。上唇を挟み、下唇を挟む。長い時間。体がうずく。
「さすが、キスもうまいのね」
「初めてだよ」
美登利は吹き出した。
「口開けろよ」
「無理。気絶する」
「唾液の交換しようぜ。唾液には殺菌消毒作用がある」
ぎこちなく舌を絡める。マリーが許さなかったヘビーなキス。
「気絶しないのか?」
聞きたい。圭は? 圭とはしたんだろ? ヘビーなキス。 圭とは寝たんだろ?
「面倒くさいの省いてセックスしようぜ」
「ここじゃ無理」
「どこならできる? できるのか? 僕と?」
「あなたはきれいだから」
「きれい? どこが? 心か?」
美登利は僕の顎をさする。
「きれいよ。女だったらよかったのに」
「子供の頃は女みたいだって言われた。コンプレックスだ。だから鍛えた」
美登利は化粧道具を出し笑いながら僕に化粧した。写真を撮り父に送ろうとした。
「駄目だよ」
携帯を取り上げた。中を見るのはご法度だが……
内容は僕のことばかりだった。
勉強の教え方が上手。優しい人、思いやりのある人……
美登利を通して息子のことを知ろうとしているのか? 自分で聞けばいいのに。
女だったら、僕が女だったら、父はどうしただろう? 溺愛しただろうか?
「キスの報告はするなよ」
美登利に化粧をしてやる。変身させてやる。清楚な葉月のように、いや、美しくない月……美しくないドリーに。平凡で真面目で地味な女に。
「すごい。メイクアップアーティストになれば? コンプレックスだった。派手な顔。亜紀さんには贅沢だって怒られたけど」
美登利 4
美登利の父親が礼だと言い、フグをご馳走してくれた。
美登利は笑った。
僕は伸ばしかけの口髭にメガネ。
メガネをずっとかけていればよかった。
「気にしてるの? あなたは男らしいわよ」
父親は酒が入ると涙もろかった。美登利は父親には優しい。
僕は過去を振り返る。
どうにかできなかったのか? パパと僕の過去は? パパは僕が寝たふりをしていると、泣きながら謝った。叩いた頬を撫で謝り続けた……
階段の上にパパは立っていた。
「危ないよ。パパ。落ちる」
僕はパパにしがみついて泣いた。
「あなたと結婚したらパパが喜ぶ。結婚しない?」
「セックスできるのか?」
「バスルームでなら」
毎年夏生と行っていたクリスマスコンサート。今年は断られ美登利と出かけた。肩を抱き頬寄せる。髭が痛いと美登利が笑う。
仕事の疲れでコンサートの間、美登利は眠っていた。第9のラスト、美登利を起こした。クラッカーが鳴り拍手した。夏生ではない女とのクリスマスコンサート……
大晦日の夜ひとりぼっちだ。梅酒で酔った情けない僕は美登利を呼び出した。
「さっきまで働いてたのよ。もう寝るだけ。大晦日も元旦も関係ないの」
「誰もいないんだ。ああ、旅行だよ。水入らずで。僕だけひとりだよ。来いよ。タクシー捕まえてきてくれ」
来てくれるとは思わなかったが美登利は来た。
「酔ってるの? あなたらしくないわね」
「ああ、君が来てくれなかったら、なにかやらかしてた」
美登利は散らかったテーブルを片付けた。
「君も飲めよ。亜紀の作った梅酒だ」
美登利はひとくち飲んだ。
「芳醇。缶のとは全然違う」
「だから飲みすぎる」
隣に座らせ話す。仕事で疲れ切った19歳の美登利。疲れ切った美登利に母の話をする。
「ママは19歳でパパと結婚した。中卒で都会に出てきて、田舎に仕送り。働いて疲れて寝るだけ。水泳だけが楽しみだった。パパはプールで会ってそんなママがいとしくて、親の反対押し切って結婚した」
美登利は1杯飲むと眠気に負けて寝息を立てた。疲れて眠る女。第一印象はあてにならないものだ。ひたむきで必死に生きている美登利はママと重なった。
酔うと思い出す。抑えてきたことが蘇る。死んだママの顔。眠っているようなママの顔……
「おい、眠るなよ。生きて……いるよな」
眠っている美登利の顔をさわりキスした。額、頬に鼻に唇に。舌を入れると美登利は腕を回してきた。
「20歳過ぎた男に礼はキスだけか?」
酔いが、出してはいけない名前を出した。
「圭とは寝たんだろ?」
美登利は平気だった。その名には耐性ができていた。
「寝たのは君の母親とか?」
美登利の肩が震える。
「おまえに似てたんだろ、ママは。顔も体も声も」
言い過ぎた。
謝り土下座する。父そっくりだ。手を取ったが振り払われる。
「許さないか? ダメなのか? おまえのたったひとりの、おまえの……」
「圭は死んだの」
美登利はコートを羽織る。もう僕を見ない。
「待てよ。帰らないでくれ」
「飲み過ぎよ。みっともない。もう寝たら?」
「帰らないでくれ。ひとりにしないでくれ」
美登利を引き止め話した。パパのこと、亜紀のこと。亜紀の従姉妹のこと……
「瑤子、ひと回り年上の……僕の初恋かな」
「いくつのときよ?」
「11歳くらいかな」
美登利は大声を出して笑った。そのあとは夏生のこと、和樹のこと。
「和樹は大嫌いだ。ママを奪っていったやつに似てる。名前も……彩の悩み、知ってるか?」
「たぶん……背が高いことでしょう?」
「それが、悩みか? あいつは嫌いだ。夏生はどうしてあんなやつと……」
そのあとはところどころしか記憶がない。呑まないと誓ったのに。情けない。
美登利は僕の話を聞きそばにいてくれた。かつて、圭介さんがそうしてくれたように。酔いが、なにを喋らせたのか?
僕は美登利に甘えた。美登利は抵抗しなかった。痩せた女が元の体型を取り戻していた。数日のマラソンで健康美を取り戻していた。
「あなたのおかげ……」
頭の隅で止める声がした。圭の愛した女、この女を抱いたら完全に圭を失う。
美登利は脱がせた服を畳む。ちょっと待って、と言い几帳面に。僕の服も畳む。下着も。
「君の番だ」
「シャワー浴びなきゃ」
「好きだよ。君の汗の匂い。もっと嗅ぎたかった」
美登利は叩いた。
「僕はドン ジュアン」
バスルームでシャワーを浴びながら抱きしめた。唾液の痕をシャワーが流す。
嵐の夜、パパは怒って出て行った亜紀を抱きかかえ連れ戻した。ふたりともびしょ濡れでそのままこのバスルームにこもった。どれほど謝ったのだろう……
いやだ。想像したくない。想像するのを抑える。
「病気、ないでしょうね? 感染症なんか移したら死ぬわよ」
酔った頭の中でなにかがおかしいと思った。
感染症なんか移したら死ぬわよ。
マリーは許さなかった。唾液の交換、粘膜への接触。体液の交換……
治だけを愛していたからだ。頭の中がごちゃごちゃだ。酔いが回ってきた。美登利は泡だらけにして僕を洗った。犬を洗ったように。反応すると顔にシャワーをあてた。
「今日、大丈夫?」
「知らないわ」
「女だろ?」
「あんなに痩せたのよ。生理も止まった。今はめちゃくちゃ」
勢いのままベッドに運ぶ。
「シーツ、無理」
「変えたよ。新しい年だからな」
美登利は電気の明るさにだけ文句をつけた。ふたりで妥協した薄明かりの中、コンドームをつけると
「切れない? 怖いから2重に、3重にして」
花開き折るに堪へなば 、直ちに須く折るべし
美登利は声にする。
「無理、無理、女ってすごいわね。尊敬しちゃう、ママ、あなたを尊敬するわ」
僕は体を離し隣に寝た。圭の大事な女。圭が大事にした女の体を指でなぞる。
「愛しいよ。君が」
「処女だから? 最初は軽蔑してたでしょ? 1年の時は」
「ああ。なぜ圭が君と付き合っているのかわからなかった。どう考えても圭のタイプじゃなかった。君は、清潔で純粋、真面目で努力家、几帳面、根性もある。父親思い……」
「どうしたの? 美登利の水揚げしないの?」
美登利の体を唾液で汚す。美登利は抵抗もせず気絶もせず死にもしなかった。念入りな愛撫を……
「眠るなよ」
美登利には限界だった。連日の立ち仕事。荒療治に疲れ眠りに落ちていく。
圭の愛した女。僕は決めた。
僕たちは親を乗り越えたんだ。僕たちは同志だよ。君を愛している。愛おしい。本気だ。
結婚しよう。この家からも解放だ。会社は彩が継げばいい。オレはおまえと結婚する。大事にするよ。大事にする。おまえのパパも……
ああ、服も下着も1階か。酔ってあの階段を降りるのは怖い。
怖い。
夏生、おまえは今頃和樹の腕の中か?
夏生のことを考えると眠れなくなった。下に降り片付け洗濯機を回した。几帳面な自分を笑い、感謝した。
目が覚めると、いや、頬を突かれ叩かれ目が覚めた。目の前に亜紀がいた。起き上がり、ソファーの上でひとりでいることに、服を着ていることにホッとした。
「上で寝てるの美登利さんね」
「え? ああ。仕事で疲れて寝てる」
亜紀は僕の目を覗き込む。お見通しか? どこまでお見通しだ?
「よかった。男じゃなくて」
親戚が元旦早々危篤だから帰ってきた。またすぐ出かけるから……僕の知らない亜紀の叔父さん?
パパがコーヒーを入れてきた。気まずい雰囲気。
「美登利さんか、高校生だろう?」
「19歳だよ。1年落第した、病気で。でも卒業させる。家の仕事で疲れてるんだ。正月だって休みなし。疲れ切って寝てるんだ」
言い訳した。父は責めはしなかった。父が入れてくれたコーヒーを初めて飲んだ。
「うまい」
「うまいだろ? インスタントだ。粉末ミルクと砂糖の絶妙なバランス……」
パパがインスタントコーヒーなんて……
「アリサ、か?」
「え?」
「狭き門のアリサ。彼女のアドレス」
「狭き門?」
「彼女も同志連盟か? 治にハムスター邸の香。おまえのことは亜紀から聞いてた」
「僕はパパに聞いて欲しかった」
父はテーブルの上のメガネをよこした。
「夏生は付き合ってるのか? 和樹と」
「ああ」
「夏生のせいか?」
どういう意味だ?
夏生のことは僕のせい。パパのせいにしていたけれど自分のせいだ。夏生のことがなければ、僕はとっくにパパを許していた。
「亜紀の叔父さんて、瑤子さんのおとうさん?」
「……瑤子を覚えてるか?」
「ああ。僕を女だと勘違いした」
父たちは出かけた。亜紀はもうなにも言わなかった。辛そうだった。
美登利は仕事の時間が迫っても起きなかった。
僕は美登利のために浴槽に湯を張りバラの精油を落とした。夢うつつの美登利の頬をつつき目を覚まさせる。時間を聞くと美登利はすばやかった。下着を付け、階段を駆け降り数段飛んだ。見事な着地。
「高跳びやってたのよ」
「危ないだろ。バカっ!」
心臓がドキドキした。美登利は僕を締め出し風呂に入った。
「ああ、いい香り。贅沢ね。ダマスクローズ、高いんでしょ?」
「父の会社の商品だよ。元々は小さな石鹸工場だ」
「あなた、跡継ぎなのね。」
「さあ、僕は血統が悪いからな。君と結婚してコンビニ継ごうか」
聞こえなかったようだ。
「美登利、僕は酔って何を喋った?」
酔うと失われた記憶が蘇るようだ。しかし酔いが覚めれば覚えていない。
「ネコ、ごめんなさいって言わなかったか?」
圭介さんが教えた。ママ、ごめんなさい……と酔った僕が言ったと。治みたいになるから……
ママは治を褒めていた。人の気持ちがわかる子だと。
「ネコ、ごめんなさい? 歌ってたわ。夜中にピアノ弾いて。ネコ踏んじゃった、ネコごめんなさい……
幸せだったって。パパとママとおにいちゃんと……」
「おにいちゃん?」
記憶が見え隠れする。6年前の父の会社の創立記念のパーティー。子供たちにアンコールされ弾いた。ネコ踏んじゃった……
皆で歌い笑った。笑い転げた。記憶が見え隠れした。この家のピアノをママが弾いた。おにいちゃんがいた……父の部下だ。
会社が危ないときにずっと父の力になっていてくれたという社長の片腕……瑤子の婚約者だった。あの、酔っぱらい……
ママがピアノを弾いた。習ったこともない女が、ネコ踏んじゃったを。
僕が歌った。パパも歌った。ママも……皆で歌い笑い転げた。
ママ、ごめんなさい……なにがあったのだ? 謝るのはママのほうだ。いくら謝っても足りないことをママは僕にした。
美登利を送り車を駐車場に止めたまま離れられずにいた。
美登利は店の外に出てくると年賀を売り始めた。寒い中、道行く人に声かける。いじらしい、またママと重なる。
しかし美登利のハスキーボイスが男に財布を出させる。店のためと開き直っているようだ。積み重ねた箱がみるみるなくなっていく。
女性客には通用しない。表面だけしか見ない女に美登利は嫌われる。夏生が初めてできた女友達だと言っていた。夏生は逆に男みたいな性格だからうまくいくのだろうか?
「媚び売るなよ」
僕は隣で販売を手伝った。女性客に丁寧に礼儀正しく勧める。品物は減っていく。
あの夜のことはなにもなかったように美登利は接した。勉強を終え美登利の肩に腕を回す。
「旅行しよう。キャンプしよう。風呂も入れない」
「行かない。もう卒業できるから」
「卒業したらもう僕は必要ない?」
「お礼はしてあるでしょ? お釣りがくるくらい」
「……」
「あなたは、いい人よ。お酒なんか飲まないで、いい人のままでいてくれればよかったのに」
「僕は本気だ。結婚も考えた」
フン……美登利は鼻で笑った?
「さすが、ドリーはすごいわね。三沢英幸をその気にさせるなんて」
「ああ。君のためなら家も捨てる。大事にするよ。君のパパも。理想的だろ? 僕は?」
「圭のことばかり言うくせに。忘れたいのに」
「……言わないよ。もう言わない」
「あなたといると圭のこと忘れられない。セットでついてくるの」
「……」
「あなたのせいで、いやらしいことばかり考えてる。バスルームであなたがしたこと……快感だった。シャワー浴びるたび……」
美登利は手首を見せた。新しい傷跡が生々しい。
「だから罰を与えたのよ」
美登利は剃刀を出し脅した。
「私はママみたいになる。だから罰を」
いきなりの展開に僕は言葉をなくした。
「私はアリサなの」
「アリサ?」
「狭き門、倫理で読まされたでしょ? アリサはジェロームとの愛を諦め神を選んだ」
「ジェロームはアリサを奪うべきだった」
「ママみたいになりたくない」
振りかざされた剃刀。
「よせっ」
血が飛んだ。
奪った瞬間手のひらを傷つけた。美登利は僕が流した血には臆病だった。
僕はもっとうろたえた。血圧が下がり心拍は上がる。
「本当にダメなの? 血が怖いの?」
「夏生がガラスに突っ込んで血だらけだ。僕のせいだ。僕は必死でガラスをどけた。僕の手からも血が流れた」
「怖い思いをしたのね。かわいそうに」
ああ、だけどそれだけじゃない。もっと……なにかがあった。思い出せないが……
「もう無理だ」
美登利はおじけずいた僕の手の傷を自分の唾液で消毒した。
「もうここまでだ。僕はもう君を助けられない」
「いい人ね。一生忘れないわ」
美登利は僕の手を治療した。
「僕は消えるから、頼むからやめてくれ。もう傷つけないで。そばにいたいよ。君のそばに」
美登利は小さくごめんと言った。
「一生結婚しない。パパのそばにいる。犬を飼おうと思うの。もう克服できたから」
「オスならヒースクリフ、雌ならキャシーだ」
僕が未練がましく動かないでいると美登利はまた脅した。僕は恐ろしい場所から逃げるようにして出てきた。
負けた。もう少しだったのに。原因もわからない。なぜなんだ?
圭。結局ダメだった。あんなに、あんなに愛してやったのに。美登利の気持ちがわからない。
いや、おかしい。こんな別れなんて。こんな結末はおかしい……
戻って……いや、戻れない。情けない。
心配だ。美登利が心配なのにそばにいられない。どうすればいい?
この家には亡霊がいる 8