お気に入りの音楽 36〜40

お気に入りの音楽 36〜40

36 ロッド・スチュワート

 イギリスを代表するシンガーであるロッド・スチュワートが、FIFAワールドカップの開会式でのパフォーマンスをオファーされるも、断ったことを明かした。
 カタールでは、LGBTQ+の人々や女性の権利を迫害するような法律が問題になっているほか、移民労働者に対する非人道的な扱いも問題になっており、ワールドカップ開催決定から現在まで約6,500人の移民労働者が亡くなり、賃金の未払いが発生していることが発覚。
 ロッドがワールドカップの開会式でパフォーマンスして欲しいというオファーを受けたのは、約15ヵ月前のこと。どんな内容かなど詳細は明かさなかったが、出演交渉の際に提示された金額は、なんと約1億3,000万円(100万ドル)
 たった数分パフォーマンスするだけで、1億円以上を稼げるなんておいしい仕事だが、ロッドは人権問題などを考慮して判断した。
https://front-row.jp/_ct/17585350

サー・ロデリック・デイヴィッド・“ロッド”・スチュワート(Sir Roderick David "Rod" Stewart、1945年1月10日 - )は、スコットランド家系のイギリスのミュージシャン。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第59位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第33位。

 1960年代後半からジェフ・ベック・グループ、フェイセズでの在籍を経てソロで活躍。個性的なハスキーボイスの持ち主で、そのボーカル・スタイルは一部のロック・ミュージシャンに影響を与えた。
 10代の頃にはプロ・サッカーの3部リーグのチームのトライアルも受けたことで知られている。ライブでは客席にサッカーボールを蹴り込むパフォーマンスが定番となっている。

 2012年には観客席に向かって蹴り込んだサッカー・ボールが顔面に当たったとして、観客に訴訟を起こされている。

 B'zの稲葉浩志もロッドの歌声に影響を受けたといい、ロッドの声に憧れお酒でうがいをしたことがあると述べている。

 5人兄弟の末っ子。両親はロンドン北部で新聞販売業を営み、一家は店の2階に住んでいた。ロッドがロンドンのハイゲートで誕生する数分前に、ドイツのV2ロケット(軍事用液体燃料ミサイル)がちょうど通りの向かいの警察署へ命中した。

 墓掘り人夫などの日雇い仕事を転々とした後、サッカー選手として西ロンドンを本拠とするブレントフォードFCに参加したが、わずか3週間ほどでクラブから退団。
 1960年代前半に放浪の罪で追放されたスペインのフォーク歌手のウィズ・ジョーンズのツアーに加わり、音楽の経歴が始まった。

「優秀な学力もなく、コネもない俺にとってサッカーは唯一の“希望”だったんだ」
 15歳になったロッドは、音楽の楽しさに目覚めつつも、イングランドのプロリーグ所属のブレントフォード・フットボールクラブにその才能を見出されて“見習い”として契約を交わす。
 しかし、彼を待っていたのはスパイク磨きや更衣室の清掃の日々だった。
 彼はそんな雑用ばかりの“プロ見習い生活”に見切りをつけて…たった二週間でイングランドのサッカー界から姿を消すこととなる。
 当時のことを振り返り、彼はこんな言葉を残している。

「俺は更衣室の清掃を一度も馬鹿にしたことはない。当時、クラブで俺がサッカーの才能をまったく披露しなかったわけじゃない。ほんの一瞬であれ、ブレンドフォードが俺に興味を持つぐらいは見せたつもりだ。」
 墓掘りをしていたというのは都市伝説らしい。
https://search.yahoo.co.jp/amp/www.tapthepop.net/news/86556/amp%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

 いくつかのグループを経て、1966年にジェフ・ベック・グループにヴォーカリストとして加入。

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People Get Ready ジェフ・ベック、ロッド・スチュワート
https://youtu.be/yC_j_dzkaVE


 ジェフ・ベック(1944年6月24日-2023年1月10日 )は、イングランド出身のミュージシャン。日本では、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジと並ぶ3大ロック・ギタリストの一人とされている。
 1965年、エリック・クラプトン脱退直後のヤードバーズに参加。ミケランジェロ・アントニーオニ監督の『欲望』に出演、この映画でベックはギターを破壊している。

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 69年にはスモール・フェイセズ(その後フェイセズに改名)に加入。同時にソロ活動もスタートさせた。
 ソロでは、71年にシングル「マギー・メイ」がアメリカとイギリスで同時にNo.1を記録する偉業を達成。

 西城秀樹はフェイセズの来日公演を鑑賞するなど、早くから影響を受けていた。ロッドがライブで行うマイクスタンドを振り上げるパフォーマンスがアルミ製のマイクスタンドだと知り、自らのステージに取り入れた。
 ソロ初来日公演の際には、雑誌のインタビューで対談している。また、大阪球場コンサートのエンディングとして長年に渡って「セイリング」を使用。
「沢田研二さんがミック・ジャガーに入れ込んでいたので、僕はロッド・スチュワートを目指すことにした」

セイリング ロッド・スチュワート
https://youtu.be/HvZYcCTTTXI

 グループ時代から並行してソロ活動を続けヒットを飛ばしていた。やがてフェイセズ解散後、イギリスでの重税を逃れるため、渡米して『アトランティック・クロッシング』(1975年)を制作。「セイリング」がヒット(全英1位)。『ナイト・オン・ザ・タウン』(1976年)からは「今夜きめよう」が全米で8週連続1位を記録する大ヒットとなる
 1970年代後半、沢田研二は「ホット・レッグス」や「アイム・セクシー」の日本語版をテレビやライブでカバーした。奇抜なメイク、ファッションやバンド活動を経てソロでブレイクした点も共通していることから、テレビ番組等では『日本のロッド・スチュワート』と評された時期もあった。

「アイム・セクシー」は、ブラジルのアーティスト、ジョルジ・ベンの「タジ・マハール」に非常によく似ているため、裁判となった。裁判の結果はロッドの敗訴だった。後年、盗作である事をロッド本人が認めている。

「アイム・セクシー」を収録した『スーパースターはブロンドがお好き』は、日本のオリコンアルバムチャートでも2位まで上昇する大ヒットを飛ばし、1979年3月のソロ初の日本公演チケットは、ハガキによる抽選販売であった。会場の収容人数が合計8万人に対し、40万通を超える応募が殺到し、日本でも人気が高いことが実証された。

アイム・セクシー ロッド・スチュワート
https://youtu.be/N3TP61672eo

 1979年に大ヒットになったロッド・スチュワートの曲「アイム・セクシー」について、ジョルジ・ベン自作の「タジ・マハール」の盗作であるとして、訴訟沙汰になった。これは両者の曲の製作年から「タジ・マハール」の方が古く、ロッド側が彼の曲を聞いて既に知っていたとして敗訴、ジョルジ・ベン側の全面勝訴となった。そして「アイム・セクシー」の印税は、ユニセフに寄付されることとなる。ロッド・スチュアートは2012年の自伝の中で、無意識に盗作していたことを認めている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジョルジ・ベンジョール

 ビートたけしは1970年代から現在まで大きな影響を受けており、一時期はロッドの髪形を真似るなどした。コンサートでは「セイリング」や「ホット・レッグス」が歌われていたことが確認されており、サワコの朝に出演した際には、記憶の中で今もきらめく曲として「マギー・メイ」を挙げている。

 奥田民生は直接的な言及はあまりしないものの、自身の楽曲「ツアーメン」のギターリフは「ホット・レッグス」のオマージュである。また、2000年のGOLDBLENDツアーの一部公演で「ホット・レッグス」を歌唱した。

 アルバム「パンドラの匣」の「パッション」……
 私がレコードを買ったのはここまで。その後は子育てで聴かなくなった。連れ合いとは音楽の好みが違ってて……

「ダウンタウン・トレイン」は1990年1月にリリース、「Da Ya Think I'm Sexy?」以来11年ぶりにロッド・スチュワートが英・米両方のチャートでトップ10入りを達成した作品。
 オリジナルはアメリカのシンガー・ソングライターのトム・ウェイツが1985年に発表したアルバム『Rain Dogs』に収録された作品。
 ロッドver.のヒットの要因として彼自身の哀愁たっぷりのヴォーカルがあるのはもちろんだが、レコーディングに貢献といって忘れてはならないのは1960年代からの盟友ジェフ・ベックで、ここではスライド・ギターで参加している。

 ブライアン・アダムスがロッド・スチュワート、スティングとのコラボレーションで発表した「オール・フォー・ラブ」は映画『三銃士』の主題歌として大ヒットした。
https://www.billboard-japan.com/goods/detail/199482

『ユア・ザ・スター』は、ロッド・スチュワートが1995年に発表したアルバム。
 日本ではフジテレビ系列のドラマ『沙粧妙子-最後の事件-』の主題歌に「レディ・ラック」が起用されシングル、アルバム共にヒット。再注目を集める事となり翌1996年に再来日。プロモーションとして『ニュースステーション』に出演し、同い年の久米宏とトークを繰り広げた。

 2000年には甲状腺癌が判明、喉の手術を機にこれまでの高音は出せなくなった為、以後、喉に負担を掛けない歌唱法に変更した。

 2002年から2005年にかけては、スタンダード・ナンバーをカヴァーした『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズ5作が大ヒット。全世界で2000万枚以上のセールスを記録。『Vol.3』は25年振りとなる全米1位を達成し、第47回グラミー賞の"最優秀トラディショナル・ポップ・アルバム"部門を受賞して通算13度目のノミネートで待望の初受賞となり、劇的な復活を果たした。

 徳永英明の「VOCALIST」シリーズは、ロッドのカバー・シリーズの成功がきっかけだったことが「ソウルブック」のブックレットに記載されている。

2006年にはロック回帰を宣言したカヴァー・アルバム『グレイト・ロック・クラシックス』が再び全米1位を記録。

2007年7月12日、ロンドン・バッキンガム宮殿で大英帝国第3級勲位(CBE)が授与された。

 2009年3月、13年振りとなる来日公演が実現。日本武道館の初日公演が完売となり、各地で盛り上がりを見せた。
 また、3月14日のさいたまスーパーアリーナ公演の前には、Jリーグ浦和レッドダイヤモンズからのオファーを受け埼玉スタジアム2002を訪れた。Jリーグが開幕した1993年からレッズのオフィシャルサポーターズソングとして使用されている「We are Diamonds」の原曲が「セイリング」である縁で招待された。ライブ本番前であった事からスタジアムでの歌唱などは見送られたが、サポーターに向けて映像でメッセージを送った。

 2013年春には、自身15年振りとなる作詞・作曲のオリジナルナンバーを多数含むアルバム『タイム〜時の旅人〜』を発表。1979年の『グレイテスト・ヒッツ』以来、自身34年振りとなる全英チャート1位を獲得した。これは英国の音楽史上においてボブ・ディランに次ぐ記録で、イギリス人ミュージシャンではトム・ジョーンズの32年を上回る最長記録である。

 2016年6月10日、英国政府によりナイト爵位が授与されることが発表された。

 2018年、『ブラッド・レッド・ローゼズ』を発表。全英では自身5年振りとなる初登場1位を記録。

 2019年9月27日、ロサンゼルスのハリウッド・ボウルで行われた公演のアンコールで、ジェフ・ベックと10年振りに共演、5曲を披露した。

 11月にはロイヤル・フィル・ハーモニー管弦楽団によるリアレンジ、新録のナンバーも収録した『ロッド・スチュワート・ウィズ・ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団』を発表。3週続けて1位を獲得し、自身の持つ最年長記録を更新。また、ソロ50年のキャリアで初の全米クラシック・アルバム・チャート1位を記録した。

「すらりとしたブロンドが好き」と公言しているとおり、女性遍歴が華やかで、17歳の頃に未婚の父となるなど、これまで4人の女性との間に8人の子供を授かっている。(当時66歳)

 2010年、約30年間を過ごしたロサンゼルスに別れを告げ、本国イギリスに帰国した。

 元フェイセズのメンバーだったロニー・レーンが重病を患った際には、ロン・ウッドと膨大な医療費を人知れず払い続けていたこと、ロッドの才能をいち早く見抜いたブルース・シンガーのロング・ジョン・ボールドリーの医療費も負担していたことが、オフィシャル・バイオグラフィーに記載されている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%88

37 サンシティ

 国連の最高の成功例の一つが、南アフリカのアパルトヘイトを廃止させたことである。このことによって、国連は世界の大きな不正行為を終わらせることができることが立証された。国連はほぼその創設期からアパルトヘイトとの闘いに係ってきた。アパルトヘイトとは、南アフリカが1948年から1990年代初めまで実施した、法によって定められた人種隔離と差別の制度である。
https://www.unic.or.jp/activities/humanrights/discrimination/apartheid/

 かつての南アフリカには「アパルトヘイト」という悪しき制度「人種隔離政策」があった。白人と黒人、そして有色人種は厳格に区別され、白人以外をすべて差別の対象とする「制度」だった。
 いや、例外があった。日本人である。貿易相手として南アフリカの経済におおいに「貢献」していた日本。日本人だけは「名誉白人」の”称号”を与えられ、「ある程度」、白人と同等の扱いを受けることを「許されていた」。
 日本中がバブルに浮かれ、パリのブランド専門店に集団で訪れてはブランド品を買いあさり、日本人そして日本人ビジネスマンが「エコノミック・アニマル」と世界中で揶揄されていた頃のことである。
 そんなに昔の話ではない。世界中からの猛烈な批判と反対運動を受け、初めて実施された全人種による総選挙でネルソン・マンデラが大統領となり、この制度が撤廃されたのは1994年のことである。

 アパルトヘイト政策とは、人口の20%のヨーロッパ系の白人が国民の80%である有色人種に対し、基本的な人権を与えず支配しつくした徹底的な差別による政策。
 黒人居住区にある、白人だけが入れる楽園、サン・シティ。

 国連は1968年に人種隔離政策を続ける南アフリカとの文化・教育・スポーツ関連の交流を禁止したが、例えば音楽関係では巨額のギャラに目が眩んでサン・シティに馳せ参じる面々も後を絶たず。同地のスーパーボウルがオープンした1981年以降、公演で訪れたのはフランク・シナトラ(こけら落とし)、ビーチ・ボーイズ、グレン・キャンベル、リンダ・ロンシュタット、ロッド・スチュワートにオリヴィア・ニュートン・ジョン、クイーン……

「そんなところに招かれたって歌うもんか!」

 このリトル・スティーヴンの呼びかけにはものすごい顔ぶれが大集合した。
 リトル・スティーヴンの仲間であるブルース・スプリングスティーンやクラレンス・クレモンズ、ホール&オーツ、ピーター・ガブリエル、ボブ・ゲルドフ、ボノ(U2)、ジャクソン・ブラウン、ボブ・ディラン、ハービー・ハンコック、ボニー・レイット、ルー・リード、ジョーイ・ラモーン、ギル・スコット・ヘロン、リンゴ・スター親子、ピート・タウンゼント、ボビー・ウーマック、ピーター・ウルフにアフリカ・バンバータ……
http://kotatuneco.blog59.fc2.com/blog-entry-1315.html?sp

✳︎

サン・シティ
https://youtu.be/9fR2r8Qlyyk

Songwriter(s) Steven Van Zandt

Released in 1985
US Billboard Hot100#38 
From the Album “Sun City”

[Intro]
Ahh, sun city
Sun city
South Africa
South Africa

[Scatting]

[Verse 1: Run-D.M.C, Grandmaster Melle Mel & Duke Bootee, Afrika Bambaataa & Kurtis Blow, Big Youth & All rappers]
We're rockers and rappers united and strong
We're here to talk about South Africa
we don't like what's going on (Tell it)
It's time for some justice it's time for the truth (Speak it)
We've realized there's only one thing we can do

俺たちロッカーでありラッパーは 団結して強くなる
俺たちは 南アフリカのことを話しに来たんだ
いま起こっていることは なにかおかしいぜ (言えよ)
今こそ正義のために 真実を語る時 (言っちゃえよ)
わかったんだ 俺たちにできることは一つしかない

We gotta say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
Oh, no, no, no
I, I, I, I, I, I
I ain't gonna play sun city
Everybody say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
No, no, baby
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city

俺たちは言う
俺は 俺は 俺は 俺は
サンシティなんかで演奏しない
いやだ とんでもない
俺は 俺は 俺は 俺は
サンシティなんかで演るもんか

[Verse 2: David Ruffin, Pat Benatar, Eddie Kendrick, Bruce Springsteen]
Relocation to phony homelands
Separation of families I can't understand
23 million can't vote because they're black
We're stabbing our brothers and sisters in the back

インチキの祖国「ホームランド」への強制移住
家族が離れ離れ アタシには理解できない
肌が黒いというだけで
選挙権が2,300万人に与えられない
俺たちは黒人の兄弟・姉妹を傷つけてるんだ

We're gonna say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
We're gonna say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city

俺たちは言う
俺は 俺は 俺は 俺は
サンシティなんかで演奏しない
言わせてもらうぜ
アタシも アタシ だって
サンシティなんかで演らないわ

[Verse 3: George Clinton, Joey Ramone, Jimmy Cliff & Daryl Hall, Darlene Love]
Our government tells us we're doing all we can
Constructive engagement is Ronald Reagan's plan
Meanwhile people are dying and giving up hope
Well this quiet diplomacy ain't nothing but a joke

俺たちの政府は 最善を尽くしてると言うが
「建設的関与」はロナルド・レーガンの目論見
そうこうする間に 人々が命を落とし希望を失くしてる
ああ この「静かな外交」なんて冗談じゃない!

We're gonna say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
I ain't gonna play, no, no
We're gonna say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
Don't wanna play, don't wanna play

アタシたちは言う
俺は アタシは おいらは
サンシティなんかで演奏しない
演らないぜ いやだ とんでもない
言わせてもらおう
俺 僕 アタシ おいら
サンシティなんかで演るもんか
絶対 演奏したりしない

[Scatting]

[Verse 4: Bonnie Raitt, Ruben Blades & John Oates, Lou Reed, Bobby Womack]
It's time to accept our responsibility
Freedom is a privilege nobody rides for free
Look around the world baby it cannot be denied
Some-somebody tell me why are we always on the wrong side

私たちも責任を取る時が来たわ
自由という特権はタダじゃ手に入らないんだ
見回してみると ベイビー 否定できないよ
俺たちはいつも悪い奴らの側に立ってしまうんだろう?

I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
Will someone tell me what's going on?
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city

俺は 俺は 俺は 俺は
サンシティじゃ演奏しない
何が起きてるか教えてくれよ
俺は 俺は 俺は 俺は
サンシティなんかで演るものか

[Verse 5: Run D.M.C., Kurtis Blow, Run D.M.C. & Afrika Bambaataa, Duke Bootee, Grandmaster Melle Mel & Afrika Bambaataa, Linton Kwesi Johnson & All Rappers]
Bophuthatswana is far away
But we know it's in South Africa no matter what they say
(No matter what they say)
You can't buy me I don't care what you pay
Don't ask me sun city cause I ain't gonna play

ボプタツワナは遠いけど
ヤツらがどう言おうと南アフリカにあるんだ
(ヤツらが何と言おうと)
カネを積まれようと売ったりしないぜ
サンシティのことを聞いてくんなよ
俺は絶対に演らないから

We've gotta say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city

[Verse 6: Jackson Browne & Bob Dylan, Peter Garrett, Nona Hendryx & Kashif, Bono]
Relocation to phony homelands
Separation of families I can't understand
23 million can't vote because they're black
We're stabbing our brothers and our sisters in the back

インチキの祖国「ホームランド」への強制移住
家族が離れ離れなんて 理解できない
肌が黒いというだけで
選挙権が2,300万人に与えられない
俺たちは黒人の兄弟・姉妹を傷つけてるんだ

We've gotta say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
No, no no, no, no
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
We've gotta say
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city
No, no, no no no
I, I, I, I, I, I
Ain't gonna play sun city

俺たちは言う
俺は アタシは おいらは
サンシティなんかで演奏しない
演らないぜ いやだ とんでもない
言わせてもらおう
俺 僕 アタシ おいら
サンシティなんかで演るもんか
絶対 演奏したりしない

It ain't that far away
It ain't that far away, sun city
Don't go, no, no, no no no no no
Sun, sun, sun, sun city
Ain't gonna play sun city
Brothers and sisters being stabbed in the back
Don't, not gonna play sun city

遠くなんかない
サンシティは遠くないが
行かないぜ 絶対にな
サン サン サン サンシティ
サンシティじゃ演奏しない
その裏側じゃ 兄弟・姉妹を傷つけるんだ
だから サンシティじゃ演らないぜ

✳︎

 サン・シティでは白人の観光客のためにいろいろなイベントを催していた。
 世界的に著名なアーティストを招いてのロック・コンサートもその一つだった。
”招く”と言っても世界的な批判を受けていた頃のことだから巨額のギャラで”釣る”しかない。
 それでそれなりに多くのアーティストを招くことができた。ロッド・スチュアート、そして、いまや”崇敬”の対象ともなっているクィーンなども招かれて、多額の報酬を得ていた。

 前回ロッド・スチュワートを調べていたら、見つけてしまいました。
 ギャラのためにリゾート地サン・シティで歌ったクイーンとロッド・スチュアート。

 ロッドは今回のワールドカップの開会式のオファーを断っています。出演交渉の際に提示された金額は、なんと約1億3,000万円(100万ドル)。たった数分パフォーマンスするだけで、1億円以上を稼げるなんておいしい仕事だが、ロッドは人権問題などを考慮して判断した。

 クイーンは、アパルトヘイトが行われていた南アフリカのホームランド、ボプタツワナのエンターテイメント施設、サン・シティでライブを行い、1987年の国連によるカルチャー・ボイコットを破ったとして、多く批判された。
 これらのライブの結果、クイーンはボイコットを破ったアーティストとして国連のリスト(他に、ロッド・スチュワートも含まれる)に載ることとなり批判された。これに対し、ブライアン・メイは
「バンドは政治ではない。俺たちの音楽を聴きたい人のためなら、どこでも演奏する」
と反発した。クイーンは、その得た収益の一部を、聴覚・視覚障害者のための学校へ寄付した。

 映画『ボヘミアン・ラプソディ』で“LIVE AID”の奇跡(1985年7月13日)が注目を浴びているが、サン・シティ公演はその前段であり、真逆とも言えるショウだった。問題だったのはライヴの中身ではなく、サン・シティという場所にあった。ここは南アフリカ共和国の高級リゾート地。当時、かの国は悪名高きアパルトヘイト政策で全世界から孤立していた。経済制裁だけでなくオリンピックからも追放され、国連から文化的ボイコットが呼びかけられていた。そんな中で禁を破ってまでツアーを強行したのがQUEENだった。

●1984年10月5日-20日:南アフリカ(9公演)

 南アフリカではサン・シティでのみ全9公演が行われた。ブライアン・メイ曰く「一年近く熟慮して行くことに決めた」「反アパルトヘイト運動をしている人たちの助けになりたかった」との想いを込めてツアーを実施した。しかし、全世界はこれを許さなかった。1985年10月と言えば、50人もの著名なミュージシャンが参加した反アパルトヘイトのシングル『Sun City』も話題となっている真っ最中。それだけにQUEENの行動は世界の耳目を引き、評判は一気に失墜して猛バッシングの的。しかも、当時のQUEENはメンバー同士の人間関係もギクシャクしており、このバッシングで解散寸前にまで追い込まれてしまった。世界の反応、その後の趨勢の両面で“LIVE AID”とは正反対だった。
https://ecd.easy-myshop.jp/c-item-detail?ic=A000000110

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『マンデラ 自由への長い道』は、ジャスティン・チャドウィック監督、ウィリアム・ニコルソン脚本、イドリス・エルバとナオミ・ハリス出演による2013年のイギリス・南アフリカの伝記映画である。反アパルトヘイト運動家で元南アフリカ大統領のネルソン・マンデラの著書『自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝』(1995年)を原作としている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9_%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%95%B7%E3%81%84%E9%81%93

マンデラ 自由なの長い道 予告編
https://youtu.be/HICxSBAdzcE


 ネルソン・マンデラは1918年生まれ。1944年、黒人を含め有色人種を自分らより劣等な人種と考える少数派白人による政治の独占と人種の分離に反対し、南アフリカの政党であるアフリカ国民議会Congrès national africainに入党して、弁護士になった。
 1948年、与党国民党によって施行された「アパルトヘイト」法に非暴力的に反対する立場をとるが、アフリカ国民議会は、平和的抵抗では何の効果ももたらさないことから、非武装抵抗を諦め、1961年、アフリカ国民議会の分身であるUmkhonto we Sizweを率い闘争を開始する。人間は殺さないが、例えばパスポートオフィスを爆破するなどの行為を行う。
 1962年、アメリカのCIAが関与して南アフリカ警察がマンデラをほかの国民議会の党員数名とともに逮捕。政府に対するサボタージュや物品破壊を起訴事実として1963年、リヴォニア裁判で共産主義者およびテロリストという罪状で重労働を課した終身刑に処した。
 このとき以来、マンデラは、人種平等の象徴的存在となり、圧倒的な世界的支持を享受していくことになる。
 1964年、投獄。囚人番号46664号。政治犯として送り込まれたローベン島で、石を砕く強制労働などの苦役を続けた獄中生活27年ののち、1990年2月11日、マンデラ釈放。
「私は預言者としてここに立っているわけではありません。一介のみすぼらしい人間として皆さんの前に立っています」と演説したマンデラは、人種解放のシンボルとしてのし上がり、当時の南アフリカの大統領、フレデリック・デ=クラークと調停協議を開始。
 1993年には、旧体制を覆し、平和的にアパルトヘイトを解消したうえ、南アフリカに民主主義の基礎を築いた業績で、ノーベル平和賞を収受した。
 長い間の黒人と白人の相克は深い傷跡を残していた。不信や暴力がはびこる心をつなぎとめなければならない。アパルトヘイトが解消した後も仕事は続けられ、デ=クラークからマンデラへ困難な移行の中で、アパルトヘイトのパルチザンらが起こすと懸念されていた市民戦争は回避されるに至った。
 1994年、はじめて全人種の大統領選挙が行われ、ネルソン・マンデラが南アフリカ共和国の初めての黒人大統領に選出されたのだった。
 南アフリカ共和国の黒人初の大統領ネルソン・マンデラは、一度だけアメリカのバラク・オバマと出会っている。まだバラク・オバマが上院議員だったころだ。オバマ大統領はマンデラが17年間投獄されたローベン島へ家族だけで出向いた。ローベン島はマンデラのために今や記念碑的な場所となっている。クリントンもここへ来て、マンデラがいた部屋から鉄格子越しに中庭を見たというが、アメリカの黒人初の大統領オバマも少しのあいだ一人になり、この窓の前に立って外を眺めた。 アパルトヘイトによる、ひとつの人種によるほかの人種へのたとえがたい圧力、激しい不平等と人権蹂躙。抑圧された人種の人権回復への固い意志と信念。政治犯とされて終身刑を受ける過酷さ、27年の重労働と忍耐の重さ。そして、鉄格子のむこうへ希望をつなぎとめる力と。
 イギリスでは「マンデラ解放」のためのコンサートがいくつも開かれた。Simple Mindsの「Mandela Day」はマンデラが70歳の誕生日の1988年と、解放された1990年に行われ、コンサートは11時間も続いたという。
 ネルソン・マンデラは、チベットのダライラマ、ローマ法王のような精神世界のトップにも会った。カダフィー、アラファト、ホメイニ、イギリスのダイアナ、マイケル・ジャクソン……
 暗黒大陸アフリカ、ということばは、南アフリカがこうしてアパルトヘイトを解消し、マンデラのカリスマ的な人柄とともに、忍耐と情熱と時間と、獲得されなければならなかった人間の根本の平等と平和という名の下に、大きく影が薄らいだようにすら見える。その半生が「政治犯」という汚名のために監獄で費やされたことで、アメリカの大統領が二人、クリントンとオバマがその監獄の中に入り、頭を垂れてマンデラの苦しい獄中生活に思いをはせたというその事実は、いったい何を物語るものなのか。
https://shigeko-hirakawa.org/blog/?p=8233

Mandela day
https://youtu.be/5kEa9HG3ppY

It was 25 years they take that man away
Now the freedom moves in closer every day
Wipe the tears down from your saddened eyes
They say Mandela's free so step outside
Oh oh oh oh Mandela day
Oh oh oh oh Mandela's free

It was 25 years ago this very day
Held behind four walls all through night and day
Still the children know the story of that man
And I know what's going on right through your land

25 years ago
Na na na na Mandela day
Oh oh oh Mandela's free

If the tears are flowing wipe them from your face
I can feel his heartbeat moving deep inside
It was 25 years they took that man away
And now the world come down say Nelson Mandela's free

Oh oh oh oh Mandela's free

The rising suns sets Mandela on his way
Its been 25 years around this very day
From the one outside to the ones inside we say
Oh oh oh oh Mandela's free
Oh oh oh set Mandela free

Na na na na Mandela day
Na na na na Mandela's free

25 years ago
What's going on
And we know what's going on
Cos we know what's going on
https://www.mymusic.net.tw/ux/w/song/show/p000007-a0005036-s002140-t016-c8

『遠い夜明け』は、1987年に製作・公開されたイギリス映画。監督はリチャード・アッテンボロー。出演はデンゼル・ワシントン、ケヴィン・クライン。
 1970年代のアパルトヘイト下の南アフリカ共和国における実話に基づいた作品で、撮影は隣国のジンバブエで行われた。南アフリカ共和国でも公開されたが、攻撃的な白人右翼勢力によって上映劇場が爆破される事件が多発した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/遠い夜明け

✳︎

September '77
 9月'77
Port Elizabeth weather fine
 ポート・エリザベスの天候は晴れ
It was business as usual
 業務は平常通りだった
In police room 619
 警察の取調べ室619号
Oh Biko, Biko, because Biko
 おお、ビコ
 ビコ、何故ならビコは
Oh Biko, Biko, because Biko
 おお、ビコ
 ビコ、何故ならビコは
Yihla Moja, Yihla Moja
 イラマジャ
   神魂よ、降臨せよ
 イラマジャ
   神魂よ、降臨せよ
The man is dead
 その男は死んだのだ
The man is dead
 その男は死んだのだ

When I try and sleep at night
 夜、眠ろうと何とかしてると
I can only dream in red
 赤に染まった夢だけを見てしまう
The outside world is black and white
 外の世界は黒と白
With only one colour dead
 一方の色だけが死にゆく世界
Oh Biko, Biko, because Biko
 おお、ビコ
 ビコ、何故ならビコは
Oh Biko, Biko, because Biko
 おお、ビコ
 ビコ、何故ならビコは
Yihla Moja, Yihla Moja
 イラマジャ
   神魂よ、降臨せよ
 イラマジャ
   神魂よ、降臨せよ
The man is dead
 その男は死んだのだ
The man is dead
 その男は死んだのだ

You can blow out a candle
 貴方はロウソクを吹き消すことが出来る
But you can't blow out a fire
 だが貴方は炎を吹き消すことは出来ない
Once the flames begin to catch
 一度その炎がつかもうとし始めたら
The wind will blow it higher
 風はそれをより高く拭き上げるであろう

Oh Biko, Biko, because Biko
 おお、ビコ
 ビコ、何故ならビコは
Oh Biko, Biko, because Biko
 おお、ビコ
 ビコ、何故ならビコは
Yihla Moja, Yihla Moja
 イラマジャ
   神魂よ、降臨せよ
 イラマジャ
   神魂よ、降臨せよ
The man is dead
 その男は死んだのだ
The man is dead
 その男は死んだのだ

And the eyes of the world are
 そして世界の目は
watching now
 見ているのだ、今
watching now
 見ているのだ、今

Senzeni Na?
 私達は何をしたの?
Senzeni Na?
 私達は何をしたの?

(http://rocks.studio-web.net/sibu/gab/melt.html)

ビコ ピーター・ガブリエル
https://youtu.be/luVpsM3YAgw

 この曲は友人が録音してくれたカセットに入っていたので何度も聴いているが、歌詞の内容は知らずに流していた。

 スティーヴン・バントゥー・ビコ は南アフリカの反アパルトヘイト活動家。「黒人意識運動の代表として活動していたが、1977年9月12日、拷問をうけ死去した。30歳の若さだった。

 イギリス人シンガーソングライターのピーター・ガブリエルは『ビコ』をリリースし、彼に捧げた。この歌は1980年のヒットソングである。そしてこれらの歌は、南アフリカ政府によってすぐに発禁となった。加えて、他の反アパルトヘイト音楽にも影響を与えた。これは西側の大衆文化と反アパルトヘイトという主題を統合することに貢献した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B3

 バントゥー・スティーヴン・ビコ(1946年12月18日 - 1977年9月12日)は南アフリカのアパルトヘイト抵抗運動活動家。思想的にはアフリカ・ナショナリストかつ、アフリカ社会主義者であり、黒人意識運動として知られる1960年代後半と1970年代の草の根的な反アパルトヘイト・キャンペーンの最前線にいた。
 ビコは貧しいコーサ人の家庭に生まれ、ケープ州ギンズバーグで成長した。1966年、ナタール大学で医学を学び始め、そこで南アフリカ全国学生連盟に参加した。
 白人の支配を避けるために、黒人は独立した組織を持たなければならないという見解を強め、これを実現するために1968年の南アフリカ学生機構(SASO)創設の主導者となった。
 ビコは、黒人自身が持つ人種的劣等感を払拭する必要があると考え、このアイデアを「ブラック・イズ・ビューティフル」と言う一般化したスローガンで表現した。1972年、彼は黒人意識という思想を多くの人々の中に広めるため、黒人人民会議(BPC)に関与した。
 政府はビコを危険分子と見做すようになり、1973年に彼を活動禁止命令下に置き、その活動を厳しく制限した。ビコは政治的に活発であり続け、ギンズバーグ地区の診療所や託児所のようなBCPsを組織するのを支援していた。活動禁止中にビコは匿名の脅迫を繰り返し受け、またいくつかの機会を掴んで警察に拘束された。ビコは1977年8月に逮捕された後、警官から激しい殴打を受け、その結果死亡した。葬儀には20,000人以上が参列した。

 ブルース・スプリングスティーンのバックをつとめたE・ストリート・バンドのギタリストで、スティーブ・ヴァン・ザントはアルバム・タイトル曲ともなる「SUN CITY」を書き上げると、賛同する多くのアーティストたちに声をかけ、このアルバムを作り上げた。
 ロック、ソウル、ファンク、ジャズ、ヒップ・ホップそしてアフリカのミュージシャンなど、さまざまな分野のアーティストたちが参加した。
その名も「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」 (Artists United Against APARTHEID )
そこには人種の壁も、ジャンルの壁も無かった。
スティーブ・ヴァン・ザント 、盟友のスプリングスティーンとクラレンス、ピーター・ガブリエル 、ホール・オーツ 、U2のボノ 、ルー・リード、Run-D.M.C. 、JAZZからは御大マイルス・デイビス、ハービー・ハンコック、 ロン・カーター、‥‥‥etc.。
 参加メンバーのダリル・ホールは、ギャラのためにリゾート地サン・シティで歌ったクイーンとロッド・スチュアートを名指しして、「クソ野郎」と罵った。

 これ以外の曲もヒップ・ホップなのか、ロックなのか、ジャズなのか、アフリカン・ミュージックなのか、判然としない曲が多い。すべての音楽的要素が、混然一体となり、融け合っているのだ。

 Run-D.M.C. をはじめとするラッパーたちも音楽の壁を越えて集結した。
 彼らは「Let Me See Your I.D.」で皮肉たっぷりに、しかし怒りを込めて、熱くCOOLなラップを披露した。

 ボノがキース・リチャーズ、ロン・ウッドと共演したアパルトヘイト抗議アルバム『サン・シティ』提供曲のU2版。熱っぽいバンド・サウンドによる生真面目さが魅力。
https://musicstore.auone.jp/s/song/S20785361?ds=1006764095&affiliate=2504210001

 マイルス・デイビスも、いつも以上の鋭い眼光をギラつかせ、いつも以上に眉間にシワを寄せながら、やはり熱くCOOLに演奏してみせた。
「The Struggle Continues」 ”闘い”はまだ終わっていない。常に何かと”闘って”きたマイルス。ジャズ史にも残るべき名演となった。
https://kagenogori.hatenablog.com/entry/2020/03/22/122824

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 2021年の推計によると、南アフリカ共和国の人口は6,014万人。エイズによる死者や白人層の国外流出が多いため、他のアフリカ諸国に比べると人口増加率は低く、2008年には人口が減少している。
 現在では平均寿命は64.38歳となっている。黒人層に限ればさらに低くなる。
 白人は1940年ごろには全人口の約20%を占めていたが、2009年には9.1%にまで低下した。
アパルトヘイトの廃止以降、逆差別や失業、犯罪などから逃れるために国外への流出が続いており、1995年以来、国外に移民した白人はおよそ80万人に及ぶ。
 2009年、白人人口447万人の約10%にあたる約40万人が貧困層となっており、プアホワイトと呼ばれる層が出現している。
 最近はジンバブエから300万人が流入するなど、周辺国から約500万人の不法移民が流入し、治安悪化の原因となっている。
 現在、南アフリカの都市では、殺人、強盗、強姦、麻薬売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。凶悪犯罪においても、軒並み世界平均件数と比べて異常に高い犯罪率となっている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

38 イントロがない

 米津玄師さんの『Lemon』
 調べてみるとすごい歌なんですね。部分的にテレビから流れるのは耳にしていたけど、通して聴いたことはなかった。
再生回数7億8千万回、コメント、23万……

米津玄師 - Lemon Kenshi Yonezu
https://youtu.be/SX_ViT4Ra7k

 King Gnu(キングヌー)の『白日』も知りませんでした。これもドラマの主題歌だったんですね。
 子供たちには、「知らないの?」と呆れられます。今は音楽番組もドラマも観ない。テレビもあまり観ないから。
再生回数4億2千万回、コメント11万……

King Gnu - 白日
https://youtu.be/ony539T074w

イントロがない!

 サブスクでズラッと並んだ棚からチョイ聴きで選ばれることが多くなり、曲の構成をチョイ聴き向きにする傾向が強くなり、曲の展開を考えて作っても、のんびり展開してる間に離れられてしまうんだそうです。
 令和のヒット曲はイントロが無くなっていて、懐かしのイントロ・クイズはできない曲が多い……

 サブスクの音楽配信サービスでは、曲が始まって最初の5秒で24%が離脱して他の曲に移っていき、30秒で35%が離脱。最後まで辿り着く人は50%というのデータが出ているそうです。
 こんなデータが有るから、イントロ無しやサビ始まりの曲が増えるのもナルホドなと思いますが、LP時代を知ってるものからするとA面、B面がなくなってアルバムの構成が面白くなくなり、CD時代になって早送りや飛ばし聴き、iPodの出現からはランダム聴きとか、アルバム単位の構成なんて無視して敢えて意外な曲の並びを楽しむようになった。
 こんな変な情報も入ってくるから余計に聴かなくなって、昔の曲ばっかり聴いちゃうんですね。https://tappanzee.hatenablog.com/entry/2020/10/24/イントロのない曲が増えてる理由

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ヴァイオリン協奏曲第2番/フィリップグラス(2009年)
 ヴァイオリン協奏曲第2番は40分に及ぶ大曲で『アメリカの四季』というタイトルがついています。
「四季」だけあって、4つの楽章からなりますが、各楽章の前に無伴奏ヴァイオリンによる技巧的なカデンツアがついていて、実質8楽章。40分かかるわけです。
 ライナーノートによると、作曲者が意識したのはヴィヴァルディの四季で、アメリカにもヴィヴァルディに負けない四季の名曲を作ろう! みたいな感じで、依頼者のロバート・マカダフィと盛り上がり、張り切って作曲したそうです。
 ただし、4つの楽章のどれがどの季節に対応するかは「秘密」なんだそうで、
「聴き手の自由な想像に任せられているのです」
内容は、ヴァイオリン協奏曲第1番の完全なる延長線上。
「第1番」とそっくりなフレーズがあっちにもこっちにも。
 第2番より『Ver.2』と名付けたほうがふさわしいくらい。
 豪華できらびやかな万華鏡ミニマル・ミュージック。
 ヴァイオリン独奏はアルペジオと重音を多用した超絶技巧の連続。
 親しみやすく美しく、しかも個性的で刺激的。
とくに最終楽章の盛り上がりは興奮モノ、「第1番」とは比べ物になりません。
 まあ、この盛り上げ方はクラシックというよりロック、という気もしないではないですが……
 とにかく、一度聴いただけで完全に持っていかれました。
 21世紀のヴァイオリン協奏曲の傑作が誕生したと言えそうです。
(木曽のあばら屋 音楽と本の感想小屋)より

Philip Glass: American Four Seasons with violinist Robert McDuffie
https://youtu.be/1LcasnqryU4

 ミニマル・ミュージックのフィリップ・グラスの曲です。もう聴いただけで誰の曲かわかりますね。

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ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 Op.58
 コンチェルトの通例を破り、オーケストラの前奏がなく、最初からピアノから始まります。前例として、モーツァルトのピアノ・コンチェルト 第9番 『ジュノーム』がよく挙げられますが、それでもオーケストラの短い前奏はあります。まったく最初からピアノ独奏、というのはこの曲が初めてです。

Wilhelm Backhaus plays Beethoven, Piano Concerto No.4 - Karl Böhm, Wiener Symphoniker (1967)

https://youtu.be/WP3OfvqpgCw

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ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.50は、ニコライ・メトネルが1920年から1927年にかけて作曲したピアノ協奏曲。1928年に出版された。初演はモスクワにおいて、作曲者の兄弟の指揮により行われた。
 メトネルは既にロシアを後にしてコンサートピアニストとして数年のキャリアを積んでいた。メトネルがパリにおいてこの曲を作曲していた当時、ラフマニノフは「ピアノ協奏曲第4番」の作曲に取り組んでおり、これら2曲は互いに贈答しあう形でそれぞれ献呈されることになる。
 日本初演は2004年、サントリーホールにおいてマルカンドレ・アムランのピアニスト、オッコ・カムの指揮、冬季フィルハーモニー交響楽団の演奏で行われた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ピアノ協奏曲第2番_(メトネル

メトネル/ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品50
https://youtu.be/CyfckqSWO5k

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ピアノ協奏曲第2番ト短調作品22 カミーユ・サン=サーンス
 1868年に作曲され、サン=サーンス自身のピアノ、友人のアントン・ルビンシテインの指揮によってパリで初演された。ルビンシテインはこの演奏会が指揮者としてのデビュー公演だった。しかし、この初演は不首尾に終っている。後年サン=サーンスは、初演の不首尾は練習時間の不足が原因であると告白しており、事実、作曲に着手してわずか3週間で初演に漕ぎつけている。
 初演当時、このピアノ協奏曲の各楽章は音楽的コントラストが非常に顕著であるとの指摘があり、作曲家でピアニストであるジグムント・ストヨフスキは「j・バッハに始まり、オッフェンバックに終わる」という有名な言葉を残している。
 一方、フランツ・リストはこの作品を高く評価し、そのためか、やがてこの作品はサン=サーンスの代表作の一つとして数えられ、今日では第2番は第4番と並んで、サン=サーンスが作曲したピアノ協奏曲の中では最も人気が高い作品となっている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ピアノ協奏曲第2番_(サン=サーンス)

Arthur Rubinstein - Saint-Saëns - Piano Concerto No 2 in G minor, Op 22

https://youtu.be/tVCvJZtzkqQ

39 アダージョ

 アダージョ(イタリア語: adagio)は、音楽用語の一つ。原義は「くつろぐ」であるが、音楽用語としては遅い速度を示す。遅い速度で書かれた楽章や楽曲そのものをアダージョと呼ぶ場合もある。

 レイモン・ルフェーブル・グランド・オーケストラの、『幻想のアダージョ』が流れていて、しばらく原曲がなにか、思い出せなかった。
(ベートーベンのソナタ悲愴の第二楽章)

https://youtu.be/M4g6u62VM2E

 レーモン・ルフェーヴルの曲として知られる『哀愁のアダージョ」は、原曲はスペインのミカエル・バケス作のクラシック音楽。1964年のフランス映画「寄宿舎/悲しみの天使」にも使われた。 この曲をマルティーヌ・クレマンソーが、持ち前の美しい声でフランス語で歌っている。
http://chantefable2.blog.fc2.com/blog-entry-216.html

https://youtu.be/colJQYzdyfA


 マルティーヌ・クレマンソーは1949年生まれで、1967年にラジオの新人コンテストに入賞したのち、ミュージカル「その子は私だった」の主演女優に抜擢されて華々しくデヴュー。
 1971年には、「恋はみずいろ」の作曲者として知られるアンドレ・ポップが、その透きとおるように美しい声と並外れた歌唱力に惚れこんでヤマハ世界歌謡祭に出場させ、みごとグランプリを得た。
https://ryoumablog.work/blog/adagio-cardinalraymond-lefevre/

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『弦楽のためのアダージョ』は、サミュエル・バーバーが作曲した弦楽合奏のための作品である。
元は、自身が作曲した『弦楽四重奏曲 ロ短調 作品11』の第2楽章を弦楽合奏用に編曲したものである。
 すすり泣くような旋律、中間部終わりの激しく突き上げる慟哭のようなクライマックスで知られる。なお、タイトルの『アダージョ』とは、楽曲に付けられた速度記号である。演奏時間は10分程度。
 
 アメリカでは、この曲が有名になったのは、ジョン・F・ケネディの葬儀で使用されてからである。そのため個人の訃報や葬送、惨事の慰霊祭などで定番曲として使われるようになったが、バーバー自身は生前「葬式のために作った曲ではない」と不満を述べていた。
 日本においては、昭和天皇の崩御の際に、NHK交響楽団の演奏を放映した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7

 映画『プラトーン』のエンディングで『弦楽のためのアダージョ』が流れた。
『プラトーン』は、1986年公開のアメリカ映画。製作会社はオライオン・ピクチャーズで、監督・脚本はオリバー・ストーン。出演はチャーリー・シーン、トム・ベレンジャー、ウィレム・デフォー。
 タイトルの「プラトーン」は、軍隊の編成単位の一つで、30名から60名程度で構成される小隊の意味である。
 1970年代の『ディア・ハンター』や『地獄の黙示録』に次いで、1980年代にベトナム戦争を描いたオリバー・ストーンの代表作である。

https://youtu.be/ceRoBdQkMyc

 ベトナム帰還兵であるオリバー・ストーンが、アメリカ陸軍の偵察隊員であった頃の実体験に基づき、アメリカ軍による無抵抗のベトナム民間人に対する虐待・放火、虐殺や強姦、米兵たちの間で広がる麻薬汚染、仲間内での殺人、誤爆、同士討ち、敵兵に対する死体損壊など、現実のベトナム戦争を描く。

 アメリカ国内だけで予算の20倍を超える1億3800万ドルの興行収入を記録した。
 監督はジョニー・デップにもテイラー役をオファーしている。デップは自分が若すぎることと自らに知名度がないことを理由に断ったが、ストーンは「彼は将来一大映画スターになるであろう」と予測し、(端役ではあったが)ガーター・ラーナー役での出演を直訴した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%

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『アダージョ ト短調』は、レモ・ジャゾットが作曲した弦楽合奏とオルガンのための楽曲。弦楽合奏のみでも演奏される。1958年に初めて出版された。
 この作品は、トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、その断片は第二次世界大戦中の連合軍によるドレスデン空襲の後で、旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきた。
 作品は常に「アルビノーニのアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調のアダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきた。しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった。
 オルガンと弦楽器が奏でる切なく感傷的な旋律の「アルビノーニのアダージョ」は、数々の映画やテレビ番組のテーマ曲にもなった名曲。
 アルビノーニは、バロック時代に活躍したイタリアの作曲家だが、この曲の作者は、全く別の人物とも言われている。

https://youtu.be/TA2GT_ty8rQ

 1960年代に公開された映画『審判』で観るものに鮮烈な印象を与えた曲「アルビノーニのアダージョ」。映画の公開とともに大ヒットとなる。楽譜の出版は1958年。タイトルは、「アルビノーニによる2つの主題のアイデア、通奏低音に基づく弦楽とオルガンのためのアダージョ ト短調」、その傍らに、「レーモ・ジャゾット」と記されている。
 ジャゾットは、20世紀に活躍したイタリアの音楽学者。彼によれば、第2次大戦で破壊されたドイツ・ドレスデンの図書館でバロック時代の作曲家アルビノーニの自筆譜の断片を発見し、それを元にこの「アダージョ」を作り上げた、とのこと。

 この曲が発表された当時は、空前のバロック音楽ブーム。イタリアでは、イ・ムジチ合奏団がヴィヴァルディの「四季」を録音して爆発的な人気を博していた。そんなブームのさなかに登場したのが、この「アダージョ」。忘れ去られた作曲家アルビノーニの再発見だとして、センセーショナルな話題となった。多くの演奏家たちが競い合うようにこの曲を取り上げ、巨匠カラヤンも1969年に「アダージョ」を録音。以後、この曲は、映画やテレビなどで繰り返し使われ、クラシック音楽の中でも指折りの人気曲となった。

 人気の一方で、研究者たちが発表当初から投げかけてきたのは、「アダージョの元の作者は、本当にアルビノーニなのか?」という疑問。この曲を世に出したジャゾットは、自筆譜の断片を発見したというものの、その証拠を示そうとはしなかった。
 専門家たちからは、様々な批判の声が上がった。研究者たちは、ドレスデンの図書館を調べたが、ジャゾットの説明を裏付ける記録は見つからない。謎は深まるばかり……。そうした中、2007年、ジャゾットの秘書だった女性が、新たな資料を提示。アルビノーニの自筆譜を書きとめたというメモだ。

 また、ジャゾットは亡くなる数年前に、次のようなコメントを残している。
「私は、アルビノーニを忘却の淵から救いたかった。アルビノーニが書いた音楽を実際に聴けば、彼への関心が高まるだろうと思い、この曲を作りました。それは、私自身の純粋な楽しみでもあったのです…」
https://www.nhk.or.jp/lalala/archive161001.


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 アダージョといえば、マーラーの交響曲第5番の第4楽章。映画『ベニスに死す』のテーマ曲。何度聴いたかわかりません。
 今回は10番です。初めて聴きます。

https://youtu.be/QVoviGYThxw

 交響曲第10番嬰ヘ長調はグスタフ・マーラーによる未完成の交響曲である。
 マーラーは1910年に本作の作曲を開始したが、翌1911年、死去により完成させることができなかった。楽譜は第1楽章がほぼ浄書に近い段階で、他の楽章は大まかなスケッチがなされた状態で残された。国際マーラー協会は第1楽章のみを「全集版」として収録・出版しており、これに基づいて第1楽章のみ単独で演奏されることが多かったが、第二次世界大戦後、補筆によって数種の全曲完成版が作られている。

『マーラー伝』の著者リヒャルト・シュペヒトによれば、マーラーは、完成することのできなかった第10番のスコアを焼却するように、妻アルマに言い残した。しかし、アルマは楽譜を形見として所持していた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC10%E7%95%AA_(%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC)

 1900年、マーラーは知り合いの家に食事会に招かれました。そしてそこで、アルマ・シントラーという女性と出会います。彼女は当時、「ウィーン一の美女」と評判の女性で、20世紀はじめのウィーン芸術界のミューズでもありました。知性、そして芸術的才能に恵まれたアルマは、ピアノ、作曲活動を行っていましたが、マーラーは彼女に会って数ヵ月後、早くもプロポーズ。アルマもすぐにこれを受け入れました。
 さて、このアルマという女性。アルマは少女時代から、絵、文学、哲学、作曲に才能を発揮。そのうえ、大変美しく多くの男性芸術家をとりこにしたという、いわゆるファム・ファタール<魔性の女>。作曲家のツェムリンスキーや画家のクリムトなど…多くの男性との浮名を流していました。
 二人は結婚後、子供にも恵まれ一見すると幸せな結婚生活を過ごしているように見えましたが、アルマは「グスタフ、私のように飛ぶのが好きで、華やかな色が好きな鳥を、どうして鎖につなぐの……」と日記に書き残しています。
  マーラーは指揮者として大変多忙な生活を送っており、アルマにもその生活のペースにつき合わせていたそうです。仕事で忙しいご主人が、奥さんの話になかなか耳を傾けない……自由人のアルマはマーラーとの結婚生活に不満をもっていたのは確かなようです。
 そんな不協和音が流れていく中、アルマはオーストリアの療養地でヴァルター・グロピウスという建築家と出会い、不倫関係に陥ってしまいます。マーラーはグロピウスがアルマに送ったラブレターをある日発見し、アルマに詰め寄りました。しかし、アルマはそれまでの結婚生活の不満を爆発させてしまいます。
 マーラーは自分がどれだけアルマを傷つけてきたかに気づいたものの、自身の心にも深く傷を刻んでしまいます。精神的にすっかり参ってしまったマーラーは、あのフロイトからカウンセリング治療を受けることになりました。しかし、アルマの不倫はその後も続き婚姻関係は続いていたもののマーラーの孤独はますます深くなり、1911年、享年50歳という若さで亡くなってしまいます。
 マーラーは交響曲を9番まで書き残しましたが、最も有名な第5番はアルマと出逢った頃に書かれました。そして、特にその第4楽章はクラシック音楽では稀に見る官能的で頽廃的な傑作として大変有名です。この第4楽章こそ、アルマへの愛の調べだったとも言われています。
 マーラーが亡くなった後、アルマは画家ココシュカとの恋愛を経て、例の不倫相手グロピウスと再婚。その後、詩人フランツ・ヴェルフェルと再再婚。84歳でその生涯を終えたアルマ・マーラー・ヴェルフェルのお墓はウィーンのグリンツィン墓地にあり、マーラーと背中合わせに眠っているのです。
https://columbia.jp/joshicla/classics05.html

40 ジミヘン

 ずっと興味があったジミー・ヘンドリックス。ドラマ『フルハウス』でジョーイがふざけて「ジミヘンのギター」の真似をしてゾーイ(女性)の顰蹙を買う。『ジミヘンは天才よ。悲劇の……』みたいな……(覚えてない)

 ギタリストにとっての憧れであり、神様的存在の3人の名はエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ。
 3人とも60年代中期にヤードバーズというバンドに在籍していた。
 ところが、ヤードバーズというバンドはそれほど凄い3人のギタリストを輩出したにもかかわらず、たいした商業的成功はおさめなかった。
 彼らがその後独自の活動をしていなければ、3人は3大ギタリストなどというカリスマ的存在にはなりえなかったのである。
 ヤードバーズ時代から3人に共通していたのは、ブルースだった。
 ブルースは黒人のものであったが、白人もブルースにとりつかれて白人なりのブルースをはじめる。
 そして、3人はそれぞれの道を歩き出す。
 エリック・クラプトンはクリームというバンドを結成、ジェフ・ベックはジェフ・ベック・グループを、そしてジミー・ペイジはレッド・ツェッペリンを結成する。
 彼らがこの新しいバンドでやってみせたのはブルースを主体とした、とてつもなくパワフルで劇的なロックだった。「ハードロック」と呼ばれるジャンルの土台を作ったのである。
 そして、70年代はハードロックの黄金時代を迎えることになる。

 なぜ、この3人のギタリストがハードな方向へ向かったのかは、若くして逝ってしまった天才ギタリスト、ジミ・ヘンドリクスの影響が大きい。
 ジミ・ヘンは黒人であった。パワフルでソウルフルな音を放っていた。ジミ・ヘンはギターを「弾いた」のではなく、ギターで叫び、歌い、あえぎ、泣いた。
 ザ・フーのギタリストのピ-ト・タウンゼントがジミ・ヘンのライブを見た後クラプトンを呼び出し
「すごい奴が出てきた、俺たちは失業に追い込まれちまう!」と相談したほどだ。
 どれだけテクニックがあろうと、黒人のブルース・フィーリングを会得していても、ギター奏者本人の感情が吐露されていなければ、本物のギタリストとは言えない。
 この3人はテクニックの上にその感情の吐露にいち早く気づき、ギターに歌わせ、喋らせ、あえがせ、泣かせることができた人たちなのではなかろうか。
 ジミヘンの登場以降、彼ら3人が模索し、加工した、新しいギター主体のロック(ハード・ロック)の、重いリズムと「泣きのギター」は、当時のベトナム戦争や学生運動の敗北などといった、ヘヴィーな社会情勢と、抑圧された若者たちの内にこもったエネルギーを見事に晴らしたのだった。
https://history.sakuramaru.com/guitarist.html

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ジミ・ヘンドリックス(1942年11月27日 - 1970年9月18日)は、アメリカのギタリスト、シンガーソングライター。日本では「ジミヘン」の愛称で呼ばれることがある。
 メジャーデビューしてからわずか4年ほどの活動期間で、ギタリストとして多くのミュージシャンに多大な影響を与えたロック・ミュージックのパイオニアの一人。左利きでありながら右利き用のギターを逆さまにして構え、ギターを歯で弾いたり背中に回して弾いたり、ライブ中にギターに火を放ち破壊するなどの派手なパフォーマンスでも有名である。
 没後50年経った現在でも、ロック史上最高のギタリストとして評価されており、「ローリング・スターン誌が選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第1位、2011年の改訂版でも第1位に選ばれ、史上最高のロックギタリストと呼ばれている。
 ヘンドリックスはブルースとロックンロールを融合させ、クリーム、レッドツェッペリンらと並び、ハードロックの起源の一人と評されている。特にヘンドリックスは、大音量でディストーションの掛かった音の先駆けとなった。
 奇抜なファッション、派手なステージアクション、機械によるサウンドエフェクトなどにばかり頼っているのでは…という批判もあったが、エリック・クラプトンは
「僕とジェフ・ベックが2人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大級の賛辞を送っている。
 ジェフ・ベックは「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」と語っている。
 ヘンドリックス自身「機械ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」と反論している。

『パープル・ヘイズ(紫のけむり)』 ヘンドリックスの代表曲 
 パープルヘイズという言葉は、サンド社がDelysidという商標で販売していたLSDが紫色のカプセルに入っていたため、LSDを指す言葉として使われている。さらに、パープル・ヘイズはその'紫'の形状からマリファナの一つの呼び名であるため、'kissing the sky'は'ハイになる'という風に解釈されるのが最も有力である。また、この歌詞を書いた際にヘンドリクスは、Owsley Stanley作の "Purple Haze LSD"を摂取していたのではないかという説がある。

 リゼルグ酸ジエチルアミドまたはリゼルギン酸ジエチルアミド( lysergic acid diethylamide)は、非常に強烈な作用を有する反合成の幻覚剤である。ドイツ語「Lysergsäurediethylamid」の略称でLSDとして広く知られている。

 パープルヘイズというフレーズ自体は、1861年ごろに印刷されたチャールズ・ディケンズの大いなる遺産の54章の"There was the red sun, on the low level of the shore, in a purple haze, fast deepening into black..."という部分に登場する。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%BA

 ディケンズの『大いなる遺産』は読んでないが、英国ドラマで観た。それから続けてディケンズものを観た。面白かった。

 
B'zが1990年にリリースしたアルバム「BREAK THROUGH」収録の「SAVE ME!?」には同曲が引用されており、歌詞にも曲名が登場する。リリースに際し松本孝弘はセルフライナーノーツに「Purple Hazeは素晴らしい」とコメントした。

 1970年9月18日、ヘンドリックスはロンドンのホテルに滞在中に急逝。
『Voodoo Chile』は彼の死から約ひと月後の10月23日、イギリスでトラック・レコードからシングルカットされ、11月21日付の全英シングルチャートの1位を記録した。

 ヘンドリックスの死因は公式には、酒と睡眠薬を併用したため睡眠中に嘔吐し吐瀉物を吸い込んだことによる窒息死、とされている。だが死亡時に一緒にいたモニカ・ダンネマンの言動に不審な点があり、死因にも不可解な点があることから、死の真相は謎のままであると指摘する声もある。
 ダンネマンの証言は二転三転し、信憑性が乏しいという見方がある。ダンネマンは1996年に車の中に排気ガスを引き込み自殺した。
 生前のヘンドリックスはマフィアの金づるになっていたという説があり、誘拐されたこともあると言われる。ヘンドリックスはマフィアの手で睡眠中に大量のワインを飲まされ、溺死のような形で窒息死させられたのではないかという説も存在する。
 元ローディーのジェームズ・タッピー・ライトは、自著「Rock Roadie」の中で「ジミのマネージャーだったマイケル・ジェフリーが『自分がヘンドリックスを殺した』と言った」と証言している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジミ・ヘンドリックス

お気に入りの音楽 36〜40

お気に入りの音楽 36〜40

  • 随筆・エッセイ
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更新日
登録日
2023-05-30

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  1. 36 ロッド・スチュワート
  2. 37 サンシティ
  3. 38 イントロがない
  4. 39 アダージョ
  5. 40 ジミヘン