この家には亡霊がいる 7

この家には亡霊がいる 7

美登利 1

 マリーと別れて半年、僕は夏生(なつお)の勉強を見ていた。夏生はH高3年になっていた。
 橘 夏生、17歳。身長163センチ、体重は48キロ。ブラのサイズはDだった。洗濯物をチラッと見た。レースひとつついてない色気のない下着。
 ショートカットで肌はきめ細かい。傷跡はまわりの皮膚より白く、見慣れた僕にはたいしたことのないように見えるが、初めての人から見たらやはり残酷なのか? 馴染みすぎててわからない。
 目は一重で鼻筋は整っている。小顔だ。唇は厚いが亜紀はセクシーだと言う。そして歯並びは完璧だ。
 横顔は左から見るとかわいい。頬に傷はないから。雰囲気は中性的、最近では下級生の女子にプレゼントをもらってきた。
 勉強はトップスリー。スポーツ万能。子供の頃から習ったものは、ピアノ、水泳、テニス、体操、英語、フランス語少々。
 趣味で作るケーキはどこの有名店のより僕の口に合っている。器用だからデコレーションもうまい。いっときパティシエになろうなんて言っていた。
 編み物も上手だ。僕のセーターは毎年増えていく。着ていないと怒る。高度な編み方らしくよく褒められる。縫い物も得意だ。彩の人形のドレスは亜紀には無理だ。レースやビーズをくっつけて、彩のリクエスト通りに作ってやる。この間の彩の発表会の3段フリフリのドレスも夏生の手作りだ。
 頬の傷さえなかったら、誰よりも女らしく生きてきただろうに。
「エーちゃん、水谷さんは元気?」
「別れた」
 さらっと言った。
「なんで?」
「彼女は治を好きだった」
「嘘だね」
「治は僕よりずっといいやつだからな」
「あの女、異常だよ。潔癖症すぎる」
 思わず頬を叩いた。
「サディスト」
 夏生も思わず言った。
 しばし罰の悪い間だった。
 君は覚えているのか? 頬を叩いたのは2度目だ。しかし、夏生は頬の傷に関しては感情をなくすことの訓練ができていた。叩いた頬にふれたがなにも言わない。左手で右頬にふれた。傷痕をなぞった。今を逃したら聞くことはできない。
 夏生はなにも言わない。
「サディストだよ。僕は。ずっとそう思ってただろ? 僕は謝ってもいない。君が自分で転んだって言ったから。大人たちもそういうことにした。僕も忘れそうになるよ。君にしたこと」
「……」
「いっそ、責めてくれよ。君の青春を壊したって」
 しばし考えたあと夏生は言った。
「彼氏ができた」
 僕は吹き出した。なにを考え、なにを言うんだ?
「そいつに会わせろよ」
「じゃあ試験勉強みて。病気で留年した友達がいるの」

 その日、ふたりは来た。紹介され僕は和樹を見て嫌なやつを思い出した。それから美登利を見てさらに見つめた。まさかと思った。和樹が僕を見つめ、美登利はまるで初対面のように振る舞った。
 冷静を保ちふたりの勉強を見た。長年夏生を教え、夏生のために自分の試験問題を取ってあった。美登利は遅れていたので必死だった。
 パパを悲しませたくないの。絶対卒業して店を手伝うの。美登利の家はコンビニを経営しているが人手が足りないらしい。
 夏生の母親がおやつも食事も出してくれたが数口食べただけだった。犬が嫌いだ。手と顔を舐められ本気で怒った。洗面所で舐められたところをゴシゴシ洗っていた。
 潔癖症か? この家で食べたものは個包装の菓子。ボトルの飲み物。気づかれないように隠している。
「菌、付いてない?」
 美登利が聞いた。心配そうな目で。
「それだけ洗えば付いてないよ」
「菌、付いてない?」
 美登利はもう1度聞いた。
「付いてないっ!」
 思わず大声を出すとホッとした顔をした。
 嫌われたな、と風呂場で犬を洗ってやる。なぜか美登利は僕のそばを離れなかった。彼女にドライヤーを使わせた。洗った毛を恐る恐る撫でる。
「菌、付いてない」
 自分で言い納得させる。

 1年の時、軽音部だった美登利は男子生徒のアイドルだった。巨乳のハスキーボイス。病気で長期欠席していたという美登利に、かつての輝きはない。
 和樹のほうはときどき僕を観察している。夏生の話だと篠田葉月を好きだったという。葉月はテニス部の2つ上の先輩にあたる。
 僕は和樹と美登利を車で送っていった。和樹の家は母親が美容院を経営している。姉が3人。
「なるほどね。女慣れしてるよ。羨ましいね」
 少し憮然とした。

 そのあと美登利を送りながら聞いた。
「圭は元気かい?」
 無視して携帯をいじっている。
 マリーの話を思い出す。サッカーに明け暮れていた少年は年上の女と……
 僕は車を止め後部座席に移った。
「なにがあった? 何キロ痩せた?」
「近づかないで。苦手なのよ」
「なにが?」
「息がかかるの、苦手なの」
「……君は借金しにきたんだぞ。圭のために」
 圭の名は美登利の頭の中にはないらしい。自分の名さえ口にしない。なおも問いただすと美登利はポケットから薬を取り出し、吸入した。
「息苦しいから歩いていく」

 圭とは終わったのか? 去年金を借りにきた美登利。借金を頼むには態度がでかかった。
「圭の親友だったんでしょ? 大変なのよ。おかあさんが入院して手術しなきゃならないの。圭は昼も夜も働いて‥‥お願い、必ず返すから。1年で返す。返せなかったら、好きにしていいわ……」
 美登利はじっと僕を見た。自分の魅力を知っていた。
 好きな男のために尽くすたけくらべの美登利。
 かつて圭の父親が亡くなり夜学に移ると聞いたとき、金を出してやると言ってしまった。働いたら返してくれればいい。奨学金だと思えば……圭のプライドを傷つけ親友を失った。冷ややかな目……
 母と同じ目だった。母の声がした。
「じゃあ、ママも買いなさい。お金で。友だちも買いなさい」
 母は僕を嫌っていた。幼い僕は金持ちの坊ちゃんだった……
 僕は恥ずかしさのために死にそうです……

 美登利には絶対僕の名は出すな、と釘を刺した。
 しかし、美登利はすぐに返してきた。
「必要なくなった。親方が貸してくれたって。よかった。これでおかあさん、手術できる」
 圭のことが好きで好きで、圭のためなら献身的だったのに。そんなこと嘘のような、借金のことさえなかったように。
「私のことより、和樹に夏生を取られるわよ。軽い男、この間まで葉月さん一筋だったのに」
 夏生は和樹とメールしている。今までにも男を連れてきたことはあった。女の方が少なかった。だが異性としてみた男はいなかった……はずだ。 
 和樹はさりげなく夏生の体に触れる。夏生の言葉が乱れると額にデコピン。僕の前で夏生を「おまえ」と呼ぶ。

 夏生がおなかを押さえ痛がる。
「我慢しないで薬飲んでこい」
「クソッ」
 夏生は立ち上がりキッチンへ行った。
 夏生が戻ると額にデコピン。
「クソッ、て言ったろ」
 なんだ? 今の会話は? 夏生の生理まで把握している?

 試験の成績は皆よかった。ヤマカンが当たった。
 解放されて夏生の家で集う。犬は美登利の膝の上にいる。大丈夫なようだ。夏生がピアノを弾く。和樹は歌う。はやりの歌を。歌い慣れている。僕が弾くと美登利はハッとする。
「やめてよ」
「君の歌、感動した」
 3年前の文化祭で歌った歌を僕が歌う。夏生が合わせる。
「ダメだな、ドリーじゃないと声が合わない」
 夏生の母親に勧められ美登利は歌った。僕の伴奏で。ハスキーボイスで会場を魅了した美登利だった。驚いたのは圭の登場。男生徒が皆、自分のものにしたかった女は、夜学生の圭に駆け寄って行った。圭は羨ましいくらい皆の前でドリーに甘えられていた。

 次に美登利は弾いた。楽譜を開きベートーベンの1番、1楽章。
「これ、好きだわ。発表会で弾いた」
 春樹の好きな曲だ。あいつにはまだ無理か? 楽譜をめくってやる。久々に弾くのか? ぎこちない。
 春樹が好きなのは4楽章。同じだ。美登利に代わり弾く。よく弾いた曲だ。悲しみと怒りを叩きつけた。美登利がページをめくる……
 春樹に決めさせた。僕と由佳のどちらかを選べと。あいつは由佳を選んだ。弟は由佳を選んだ……
 どちらかを選べと? 僕も言われたことがある……なんだったか? パパかママか? ママには僕は邪魔だったはず……
 
 高1の夏だった。母の命日に酒を飲み飲まれ、海に飛び込んだ。助けてくれた訛りの残る男の声、懐かしい響きに僕は甘えた。心の叫びを吐き出した。
 会ったばかりの傷心の僕を圭介さんは優しく介抱してくれた。シャワーを浴びせ洗ってくれた。男っぽくて憧れもした。
 去年会ったのは叔母のレストランだった。ウェイターのバイトをした。春樹の力になろうなんて思ったわけではない。様子を見たかっただけだ。父親の違う弟を。
 そのレストランに圭介さんが来た。女性を連れて。すごい偶然だ。数年前の礼を言おうとすると圭介さんは口に人差し指を当て黙っていろと合図した
「このお嬢さん、君のビデオ見てから夢中なんだ。ファンレター出したのに返事くらい書けよ、な」
 ファンレターの送り主。佐々木由佳。圭介さんは調べたのだろう。
 由佳の初恋を成就させるために偶然を作り上げた。彼は由佳と一緒にさせたがっている母親を憎んでいた。由佳の財産のために息子の恋を容赦なく壊した。圭介さんの愛した女は身を引き別の男と結婚した。

 由佳がピアノを弾いた。愕然とした。自分が弾いているのかと思った。僕の演奏の丸写し……天才か? 拍手のあと発した言葉……なつかしいイントネーション……
 偶然は続いた。次に会ったのは休憩時間に通っていたスポーツジムだった。圭介さんは僕に由佳を押しつけ自分はボクシングのレッスンを受けにいった。しかたなく由佳にマシンの扱いを教えたが……スポーツには無縁だという弱々しそうな女の身体能力に驚いた。
「もったいないな。君もボクシングやれば?」
 冗談で言った。
 そのあと急接近したのは春樹のせいだ。出生の秘密を知った春樹は家を飛び出し偶然由佳に保護された……

 夏生は和樹と喋っていた。いちゃついていた。ムカつく男だ。聴けよ。演奏を。腕が鈍ったか? 
 美登利は魅了されたようだ。
「ゾクゾクする。私も弾きたい。教えて……」
 家でレッスンしてやる。美登利を亜紀に会わせた。雑然としたリビング。ホコリなんかで死にはしないわ、という亜紀。怖気付いて帰るか? 
 亜紀はすぐ気づいたがなにも言わない。さりげなくウェットティッシュを置く。意外だったようだ。美登利を見てなにを感じたか? 圭の彼女だったと知ったらどんな顔をするだろう?
「おにいちゃんのあたらしいカノジョォ?」
 彩はませた口をきく。庭から駆けてきた手と服には土がついている。荒療治になるか? 

 1時間ほどレッスンした。指は長いが力がない。春樹は届かない指で必死に弾こうとしていた。由佳からメールがくる。春樹の近況報告。勉強もピアノも頑張っている。女の子に人気がある……
 由佳とはつながっている。春樹の家庭教師として週に1度は報告がくる。写真や動画も。由佳の好意を感じる。素朴で控えめな女……メールのやり取りだけでつながっている。1年も会っていないが……
 懐かしい訛りの残る女、会いたいと思うが……圭介さんの婚約者だ。

 亜紀に頼まれ犬の散歩に行った。美登利は恐る恐る便をつかむ。肛門を拭く。ウェットティッシュを何枚も使う。
「自分のうんちは平気なのか?」
 美登利が呆れた顔で僕を見る。
「あんたって、圭の言ったとおり……」
「圭がなんて言った?」
「……みかけと全然違うって……私と似てるって」
 美登利は風呂場でズボンをまくり犬を洗う。まくった手首にサポーターを巻いていた。
「重いもの持つから痛めたの」
 恵まれたお坊ちゃんとは違うんだ……圭の声と重なる。
 美登利は丁寧に洗う。ペニスも肛門も口の中も。丁寧に丁寧に丁寧に……亜紀が耳元でささやく。
「あの子と寝るときはこんなに洗われるわね」
「ありえない」
 犬がマウンティングをする。美登利は赤くなる。彩は赤くもならないが……夏生も……

 美登利はレッスンに来る。弾く前にピアノを磨く。数日で上達していた。熱心にハノンから練習してくる。貸してやったハンドグリッパーで指の力もついていた。
 美登利が使うトイレと洗面所はピカピカになる。雑然としたリビングは整頓されていく。こんな病気なら歓迎だ。体重は増えているようだ。
 額が曲がっていると椅子に乗り直す。ホコリを拭き取る。
「なんて書いてあるの?」
「青春のときを無駄にするな、と。掃除と手洗いで無駄にするな、と」
「わかってるわよ。亜紀さんみたいだったらどんなに楽か……亜紀さんがママだったらよかった」
「ああ、僕は幸せだ」
 スープの匂いがしてきた。いい匂い……と美登利が言うが……
「犬に、鷄の手羽先を茹でてる。そのあとが人間様のスープ」
 美登利は蓋をあけて驚く。丸ごとの皮付きのジャガイモ、キャベツ、カブ、玉ねぎ、にんじん……ハサミで切って盛り付ける。
「君には無理だ」
「亜紀さんのなら平気」
 美登利は口に含む。味は確かだ。これだけは絶品だ。美登利とふたりで鍋いっぱい平らげた。亜紀は呆れたが美登利の食欲を喜んで、今度は美登利に作らせた。話している。
 パパにお持ち帰り? パパ以外にいないの? 食べさせてあげたい人……

 美登利はドクター亜紀のカウンセリングに来る。亜紀は圭の元彼女の力になろうとしている。庭仕事をさせる。彩と3人で花を植える。手袋をして。
 話している。楽しそうに。体重は増えているようだ。
 夜中にメールがきた。 
(起きてる?)
(眠れないのか?)
(興奮して目が冴えて……写真送るね)
(よせ、いらない)
 画像が送られてくる。イングリッシュガーデン?
(なに考えてるの? こういう素敵な花壇にしたい)

 美登利は園芸に魅せられた。本を買い研究する。亜紀に任せられ美登利ははりきった。連日付き合わされ足りない植物を買いに行き、植えるのを手伝わされた。
「花の名前、よく知ってるのね」
「手伝わされたからな。死んだ母に。自慢の庭だった。5年前にガレージ増やしてバラは半分に減った」
 かつて圭と父親が工事した庭。圭と僕が土を入れた花壇。センスのない花壇が変わっていく。美登利のレイアウトで。
 土の汚れも気にならなくなる。手袋をしていない。悲鳴をあげていた虫にも驚かなくなる。中腰で長い時間……
「少し休めよ。腰痛めるぞ。手首も」
 根性のある女だ。体力も戻ってきたようだ。日に当たり健康的になり、かつてのドリーに戻っていく……
 完成したイングリッシュガーデンは見事だった。訪れるものが目を奪われた。

 夏生の18歳の誕生日、夏生の父親も僕の両親も妹の彩も美登利も集まった。
 父は息子が傷つけた幼馴染みの誕生日には毎年都合をつけて出る。僕の罪を幼いなりに庇ってくれた夏生の優先順位は娘の彩より高い。
 父は美登利に花壇の礼を言い褒めた。進路について聞いている。美登利は進学はしない。父の知り合いの造園会社を紹介しようか、と言われ考えている。

 和樹が夏生をエスコートしてやってきた。夏生は恥ずかしがりなかなか入ってこない。
 そこにいたのは夏生ではなかった。ふわっとしたショートカットにナチュラルメイクだが、頬の傷は薄くなっていた。ピンクの口紅に淡いピンクのワンピース。夏生にピンク? ミニスカートから伸びた足は長い。皆絶句。彩が、
「ナツオ、ウソォ」
と叫んだ。皆口々に褒める。夏生は照れて顔を隠す。美登利が、耳打ちした。息がかかった。
「この服和樹のプレゼントよ。このブランド、高いわよ」
 夏生は和樹の母親や3人の姉にいじられて変身した。
 両親は涙ぐんでいた。僕は声も出ない。亜紀がうしろから肩を抱いた。
 もう重荷はおろしていいのよ、と言うように。父はなにも言わない。自分の罪だと言ったくせに。
 夏生に化粧? パパの領分じゃないか? いや、僕がやるべきだった。なぜ思いつかなかったのだろう? 亜紀も。
 男の格好をしているのが当たり前になっていた。
 先を越された。
 負けた。君はこんなにきれいになって、もう僕など必要ない。
 重荷がおりるより寂しかった。大事な妹のような幼馴染みは初めて恋を知りどんどん変わっていく。
 妹の彩でさえ和樹に甘え和樹の隣に座り、兄貴などいらなくなったようだ。
「和ちゃん」
と彩が呼んだ。
 それだけのことだ。
「彩っ。おまえはこっちだよ」
 僕は彩を抱き和樹のそばから離した。
「いやだァ、和ちゃんのそばがいい」

『和ちゃん』
 夏生が言ったそのひとことが僕を悪魔にした。

 和樹の隣に戻る彩。彩は和樹を選んだ。父はなにも感じていないようだった。
 彩が口ずさむ。5年も前に皆で踊った『嵐が丘』を。
 みんなで踊ったのよ、と。
 おにいちゃんは女装したの……勘弁してくれ。 
 夏生がピアノを弾いた。高音で歌う。彩が僕を引っ張った。
「おにいちゃんは見てるから彩、ひとりで踊ってきな」
 彩は舌打ちをして踊る。
 彩は、父親似だ。顔もそうだが背も高い。頭はいいし運動神経もいい。リーダーシップもある。彩が男の子だったら? いや、女でも父は彩にあとを継がせたいだろう。親戚も納得する。そのほうがいい。そのほうが気楽だ。
「三沢さんの女装、絶賛の嵐だったって?」
「圭に頼まれてやったんだ。君と同じ。圭のためならなんだってできた」

美登利 2

 夏休みに三沢家の別荘に行った。早夕里(さゆり)は来なかった。早夕里は夏生と同じ年で、長い休みには遊びに来ていた。丈夫な子が体調を壊したらしい。
 早夕里は親が医者だから医学部を目指していた。本をたくさん読んでいて、中国の歴史に詳しかった。よく三国志の話をした。語り合う早夕里は生き生きしていて、彼女の訪れは楽しみだったのだ。
 それが今年は最悪だ。和樹は親たちに評判がよかった。話題に加わる。スポーツの話、相撲やゴルフまで。広く浅い。
「ゴルフやってみたいんです」
「じゃ、今度練習場で教えるわよ」
 と、亜紀が言う。親たちに相槌を打ち酌をする。夏生と彩の頭や肩に触る。

 夜、外でバーベキューをした。僕と夏生と和樹で肉を焼く。彩は和樹にまとわりつく。大人たちと美登利は座っていた。
 美登利の隣に父が座った。除菌ティッシュの箱を置いた。父は美登利と話していた。美登利が笑う。体重も少しずつ増え、人目を引く女に戻っていた。病気と闘っている美登利に以前の軽薄さはない。僕は焼けた肉を運んだ。
「なにを話していたの?」
「本の話だ」
 本? 僕とは話したこともない。
 父は彩と花火をしにいった。まともには僕の顔を見ない。
 寝るのは和樹と同じ部屋だった。彩は和ちゃんと風呂に入ると言い、僕に叱られ、それでも和ちゃんと一緒に寝るときかず、眠った彩を亜紀のところへ連れていった。父は酒を飲んでいた。
 戻ると和樹は篠田葉月のことを聞いてきた。和樹は親たちがいなくなると態度を変える。
「葉月さんと付き合ってたんですか?」 
 亜紀から情報を聞き出したらしい。
「葉月先輩に真希さんに幸子さん、皆、目立つ人ばかりですね。ドリーも、ドリーがあんなになったのは三沢さんのせい?」
「……」
「ドリーのこと意味深にみつめてる」
「誤解だよ。ドリーのことは僕が知りたいくらいだ。それにね、篠田さんがうちに来たのは僕に会うためじゃない。彼女は僕の父に会いに来たんだ。入学式に倒れて、父に抱き上げられ彼女は父に恋をした。父はモテるからね。君の恋敵は三沢英輔だよ」
 思いもしなかったろ? 
 マリーも父をステキだと言った。
 入学式に目が合ったの。私を見て笑った、と思ったけど、あれはあなたを見ていたのね。変わり者のあなたを心配して。あなたは下を向いていたけど……

 眠れなくて2階へ行った。この頃思い出す。忘れたいから消えていた記憶。
 僕は祖母と寝ていた。祖父が亡くなると祖母はさらに僕をかわいがった。夜中目が覚めると長い怖い階段を登りママのところへ行った。ママは掛け布団を持ち上げ僕を入れる……懐かしい香り……
 奥の部屋は立ち入り禁止だ。ママが使っていた部屋。かつての夫婦の寝室だった。去年のことを思い出していると明かりが見えた。そっと開ける。座っている父の後ろ姿が見えた。酒を飲んでいる。
 ノックをした。締め出されると思ったが父は、一緒に飲もう、と言い自分のグラスをよこした。
「眠れないのか?」
 話題は美登利のことになる。
「美少女だな。なにを悩む? 贅沢だな」
 冷たい口調だった。意外だった。
「強迫神経症か? おまけに……」
「なに?」
「おまえに感謝してたぞ。犬にもさわれるようになった。亜紀のスープも飲めるようになったと。しっかりした娘だ。近くを通ったら店に買いにこいって。アドレスも教えてくれた」
 若い娘にはもてるんだな。
「店を手伝いながら園芸の資格を取りたいそうだ」
 話が続かない。普通の父子でもこうなのか? いつも亜紀がいた。亜紀を通して僕たちは話をした。ふたりだと話題を探し諦める。
 グラスが空になり、父が注いだ。ひとつのグラスで順番に飲む。

 違和感を感じた。去年来たときとはなにかが違う。なんだ? 
 絵だ。はずしたあとがある。ママの好きな絵だった。女流画家の、母子の絆を描いた絵……
 父がはずしたのだろうか? 忙しい父が来たのだろうか? もしかしたら、芙美子おばさんと春樹……
 ママの好きだった絵を春樹にあげたのか? かまわない。あんな絵、何度も引き裂いてやりたかった。ママが抱いているのは春樹なのだから。
「美登利と本の話をしていたの?」
 父は答えない。2度聞くことはできなかった。父は歌をくちずさむ。
 Don't give up……

「ママの好きな歌だ」
「ああ、強い女だった。たくましい女だ」
「酔ったの?」
 亜紀と混同している。
「パパは忙しすぎるよ。だから彩が和樹なんかに懐くんだ」
「和樹か」
 話が思わぬ方向に。
 僕も『和樹』に懐いていた。
「……パパの望みはおまえと彩の幸せだけだ。あとは……亜紀はちょっと面白い女だ。家事はだめだけど。」
「おかあさんは頑張ってるよ。最初はすごかったけど……おかあさんのおかげで僕は丈夫になった」
「初めて会ったときにホースで水をかけられた」
「……」
「ひどい父親だったからな」
 父は珍しく僕を見つめた。じっと見つめた。
英幸(えいこう)、パパを許すな」
 そのひとことが涙腺をこわした。涙がポタポタこぼれた。意思とは関係なく。情けない。
 父は僕の肩を叩き出て行った。
「ハヅキはダメだ」
 ああ、8月はダメだ。もうすくママの命日だから。

 ホースで水をかけられた……か。亜紀はすごい女だ。記憶をたぐり寄せる。
 あれは亜紀が家に来て1年くらいは経っていたのだろうか?
 嵐の夜、祖母は安眠剤を飲んで眠っていた。僕は怖かったが亜紀のところへはいけなかった。階下の夫婦の寝室へは入れなかった。
 怖くて眠れないでいるとさらに怖いことが起こった。亜紀が出て行った。亜紀はパパと大喧嘩して出て行った。荒れ狂う外へ。なにも持たずに。パパはすぐ追いかけた。
 なにがあったのか? 嵐の夜……
 僕も思ったことがある。物音がするとママが帰ってきたのでは? と。
 パパは言ってはならない名を口にしたのだ。戻ることのない女の名を。
 
 亜紀も出て行く。亜紀がいないとパパとは暮らせない。
 心細くて僕は玄関を開けようとしたが開かなかった。
 少ししてパパは戻った。亜紀を抱きかかえ、泣き叫ぶ亜紀を抱きかかえバスルームに入った。ふたりともびしょ濡れだった。
「心配するな。英幸」
 パパが僕の名を呼んだ。呼びたくない名を。
「心配するな。亜紀は出て行かないから」
 名を呼んでくれたのが嬉しかった。嫌いな名前なのに。安心して僕は眠った。

 夢だったのか? 朝起きると素晴らしい天気でパパも亜紀もいつもより優しかった。
 学校から帰ると亜紀は書斎で本を読みながら泣いていた。さっきパパが歌っていた歌が大音量でかかっていた。僕が覗くと、
「この家には亡霊がいるわ」
と言って出て行った。僕は本を手に取った。線が引いてあった。
『いつでもそばにいてくれ。どんな姿でもいい。俺をいっそ狂わせてくれ! おまえの姿の見えない、こんなどん底にだけは残していかないでくれ!』
 まさしくパパの心の叫びと同じセリフだった。 
 パパ、酔えばまだママを思うのか? 
 認知症にでもなったときには誰の名を呼ぶ? 死ぬ間際には?
 パパは酒を残して出て行った。僕は思い出す。去年のこと。ここでマリーを抱いた。パパもそうだろう? ママに出ていかれる前、泣いてすがって脅して抱いたんだろ? それでもママは出ていった。絶望的な愛を選んで。
 残された僕たちを絶望から救ったのは亜紀だ。あの人はもう、ママより長くいるんだよ。

 なにかおかしい。ママは……ママは……
 思い出せない。

 美登利がドアを開けた。
「立ち入り禁止だ。掃除してない。君には無理だ」
 階下のリビングで美登利は話す。
「今は最高の時なの。もうすぐ私を産んだ女が死ぬのよ」
 あの女、死ぬわね……マリーの言葉が蘇った。
 去年圭が電話をくれたとき、一緒にいたという年上の女が美登利の母親か?
「……圭は君のおかあさんと……?」
 美登利が僕を殴った。肯定したようなものだ。
「こんなことだろうと思った」
 いつのまにか和樹がきて、誤解して僕に殴りかかる。夏生と彩以外全員が起きてきた。

 鼻血だ。ポタポタ血が流れる。亜紀が耳元でトマトジュース、とささやく。美登利が父の胸に飛び込み泣いた。衝撃だ。なぜ父の胸なんだ? 大丈夫なのか? 父の息と体臭? 
 別荘中が大騒ぎになっているのに夏生は起きてこない。
 僕は美登利の荷物を取りにいった。夏生は幸せそうに眠っていた。美登利の荷物は一目瞭然、几帳面に引き出しに並んでいた。亜紀に見習わせたい。
「さわらないで」
と言う美登利の手を引っ張った。夏生は目を覚まさない。

 病院へ向かう。車の中で美登利ははしゃいでいた。
「おじさまとだったらよかった。ステキな人。好きになりそう。メルアド教えちゃった」
 病院についたが美登利は降りない。手を引っ張ると、
「圭がいるわ。私はまた元に戻る。そうさせたいの? 圭のおかあさんはママと同じ病院に入院してた。ママと顔見知りになって買い物とか頼まれるようになった。死を宣告された女に同情したのよ。特別室に見舞客も来ない哀れな女に。圭は見捨てられないはず」
 僕は見舞客を装い病室を聞いた。すでに亡くなっていた母親は葬儀場の霊安室に移されていた。
 戻ると美登利は歌を歌っていた。
「異邦人だな。まるで」
「なに? なに? 異邦人?」
 夜が明ける。
「海で泳ぐか?」
「無理」
「プールは?」
「もっと無理」
「体育は? 授業は出てないのか?」
「しょうがないでしょ。失神するわ」
「バカ。体育で単位落とすぞ」
「夏休みの補習も無理」
「ドリー。誰でも恐怖症はあるよ。僕だって克服するよう努力してる」
「なにが怖いの?」
「血と暴力」
(それから階段……家の階段)

 ネコを階段から落として殺したのか? 屈折していたからな……圭介さんが言った。酔った僕が、ママ、ごめんなさい、と謝っていたと。なぜ僕が謝らなければならないんだ? 
 言うわけがない。ネコごめんなさいの間違いだ。ネコ踏んじゃった……ネコごめんなさい……
 ママ、ごめんなさい。治みたいになるから。
 治みたいな人の気持ちのわかる子になるよ……

 美登利は家には帰れないと言う、あの女が死んだ日にパパとふたりきりになりたくない。
 誰もいない三沢家。ソファーで眠った美登利をベッドに移す。僕は机に伏して考えた。圭のこと。考えても仕方ない。無理だ。
 『卒業』のラストは有名だが、続きは無理だろう? 
 美登利は目を覚ますと悲鳴を上げた。
「なにもしてないよ」
「信じられない。あなたのシーツなんて。無理。卒倒する」
「そんなに汚いか? 父に抱かれてたくせに」
 美登利はポロポロ泣き出した。昨夜の僕みたいに。
「来いよ。全部吐き出せよ。僕たちは母親に捨てられた同志だ」
 素直に美登利は僕の胸で泣いた。

 美登利は母親の見舞いに行った。祖父に頼まれて行ったのだ。乳癌なのに手術を拒否してる……
 贅沢な特別室に若い男がいた。手術をすすめていた。哀願していた。
 美登利は来たことを後悔した。母親は喜んだ。
「来てくれたのね、大きくなったわね、私に似てきたわね、ね、圭?」
 驚愕。圭の顔が目に浮かぶ。
「ママの恋人?」
 美登利は気丈だった。
「責めないで。もうすぐ死ぬのよ。今までこんなに親身になってくれた男はいなかった。手術しろって言うの。どうせ死ぬのよ。きれいまま死にたい」
「よろしくね、圭……さん。ママをよろしく」
 圭は追いかけることもできなかった。追いかけてこられない関係なのだ。金を出したのは美登利の母親だった。あとは考えたくはない……
 息ができなくて廊下で倒れた。目が覚めたらすべてが汚れていた。

「オレが治してやる。荒療治だ。午後はプールに放り込んでやる。犬だって大丈夫になっただろ? 亜紀のひどい料理も食べられるようになったろ?」
 美登利は自分の作った花壇に水を撒き手入れをした。バラにも詳しくなっていた。咲いている花を切り落としグラスに刺した。
 午後、プールサイドで、美登利は爪先立ちで歩いた。面積の多い水着。体重は半分は戻ったか?
「プールは塩素で殺菌してあるんだ。菌もウイルスも移らないように」
 放り込まれそうになりつかんできた左手首を見た。
 美登利は振り払いプールに飛び込んだ。泳ぐ。きれいなフォームだ。僕はあとを追いかけた。美登利は速かった。身軽に上がる。捕まえて問い詰める。
「小学5年の時よ。それきりやってない。あとで話す」

 僕は何年か前のことを思い出した。圭と同じ電車に乗り通学していた。駅前の商店街、まだ開いていない店の前に女が寝ていた。酒臭い、まだ15 歳くらいの少女だった。
 その少女は僕を見ると立ち上がり抱きついてきた。振りほどこうと腕をつかむと美登利よりも痛々しい傷の跡がたくさんあった。
 リストカット、初めて見た。
 少女はうつろな目をして離れていった。

 あの少女は僕だ。亜紀がいなければ、夏生がいなければ……ピアノに逃避していなければ……僕もさまよっていたかもしれない。

この家には亡霊がいる 7

この家には亡霊がいる 7

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-05-30

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  1. 美登利 1
  2. 美登利 2