この家には亡霊がいる 6

この家には亡霊がいる 6

アリサ

 その日圭は急いでいた。授業が始まる。ギリギリまで仕事をしていた。親方は早く行け、と急かしてくれたが、もう夜学はやめてしまおうかと考えていた時期だった。

 正門を入ったところで女生徒とぶつかりそうになった。女生徒は身軽によけたが、よけようとした圭が倒れた。
 女生徒は自転車を起こし、大丈夫? と聞いた。声はイメージしていたより低音だった。起き上がった圭が見た女は遠目に見ていた女とは違った。
 遠目では茶髪に染めパーマをかけていた。H校は校則がゆるいが見かけないタイプだ。衣替えの時期を過ぎても上着を着ていた。上着を着ていても胸の大きさは隠せない。
 2年生か? いや、見かけたのはこの春からだ。部活のあと正門の前で集まっている。男の中に女がひとり。下僕を引き連れて帰っていく。圭の嫌いなタイプだった。
「ごめん。君の方こそ大丈夫か? ブレーキが効かなくなってたんだ」
「すぐそこに自転車屋、あるわ」
 ぶっきらぼうな言い方だ。
「ああ、時間がないんだよ。自転車屋の開いている時間には行けないんだ」
 君たちと違って……圭は苛立った自分を恥じ校舎に入った。

 女はドリーと呼ばれていた。遠目でも目立っていた。男子に取り巻かれチヤホヤされていた女が、圭の汚い自転車を軽々と起こした。
 ドリー? 茶髪にパーマは地毛だ。たぶん。

 授業が終わり自転車を漕いだ。軽くなりブレーキが直っていた。まさか? 鍵はとうになくしていた。自転車が自然に直るはずがない。すぐそばに自転車屋あるわ……
 まさか、あの子がオレのために? 

 翌日ドリーは圭のところへ歩いてきた。うしろで大勢の下僕が見つめている。
「君が直しに行ってくれたのか?」
「迷惑だった?」
「いや、助かったよ。行く暇なかったんだ」
 ドリーはレシートをよこした。
「安くしてくれたわ。磨いてくれたし。サビは落ちないけど」
(君が行けばサービスするだろう。若くても年配でも、男なら君を見て……)
「きれいになったよ。ありがとう」
 圭は札を出し渡した。
「お釣りはお駄賃でいい?」
 圭はうなずく。
「駅の近くのコンビニ、パパが経営してるの。買いに来て」
 しっかり営業して帰って行った。パパ、という言葉もあの子が言うと意味深だ。

 夜学をやめる気はふっとんだ。毎日圭はドリーの顔を見るのが楽しみになった。会えるのはほんの少しだ。話すわけでもない。本名さえ知らない。
 しかし、ドリーは圭を見てくれた。圭を見て微笑む。優越感が湧いた。うしろで見ている男子たちに。  
 しかし、そんな微笑みはダメだ。世界史の先生の口癖……官能的なくちびる……
 その日は間に合いそうになかった。圭は諦めていた。向こうからドリーが歩いてきた。取り巻きに囲まれて。圭は通り過ぎようとした。
「待って」
 自転車はスッと止まった。ドリーは駆けてきてカバンからビニール袋を出しよこした。
「家庭科で作ったの」
 ああ、ドリー、と男子が嘆く。圭はすでに漕いでいた。君の作ったクッキーならだれもが欲しがるだろうに。
 翌日礼を言うとメモをよこした。携帯の電話番号とアドレス。alissa@……
 その夜にメールした。自己紹介。

 僕は斉田圭。1年の2学期までは全日制にいたんだ。父が亡くなり今は親方について仕事を教わってる。趣味、スポーツ観戦。サッカー部だった。
 返信。
 私は今井美登利。自分の名前好きじゃないからドリーと呼んで。部活は軽音楽。ピアノと歌が好き。スポーツも得意。中学は陸上やってた。走り高跳。
 メールで話す。美登利のことを知っていく。美登利はたけくらべの美登利。かわいいじゃないか。
 好きな言葉は? 禁欲? 自己犠牲? なに? 君はクリスチャンか? 
 違うわ。外見が派手だから……贅沢で自己中だと思われてる。
 君の本質は僕が知ってるよ。

 夏休みに入ると顔を見られなくて寂しかった。休みの日、圭はコンビニに行った。ドリーはレジにいた。カゴに商品を入れレジに並ぶ。前の中年の男が
「君のフィギュアないの?」
と聞いている。ドリーは何事もないように接客している。圭はカゴを乱暴に置いた。男は圭を見て出て行った。ありがとうございました、とドリーが言う。
「礼なんか言うなよ」
「いいお客さんよ。たくさん買いに来てくれる。慣れてるし」
 ドリーは袋に詰め手渡した。買いに来てくれたのね、と聞かれ現場が近くなんだと嘘をついた。言いたくはなかった。かっこよくエクステリア。外構工事……

 翌日親方とコンビニに入った。思った通りの反応。男好きする顔だ。親方は圭の気持ちに気づき毎朝寄ってくれる。休みには海に誘えと言った。初めての誘いが海?
 親方夫婦と6年生の娘、ドリーは初め忙しいからと断ったが来た。奥さんも瞬間的に眉をひそめ、娘の弘美は敵対心を燃やした。
 圭のために地味にしてきたのがわかる。地味にすると余計に際立つ。肌の白さ。睫毛の長さ。水着のうえに揃いのスカートに胸を隠すパーカー。 
 海には入らず海岸で弘美と砂遊び。奥さんに言われ圭はドリーと海に入った。パーカーを脱いだ下にはまだタンクトップを着ていた。ドリーはどんどん泳いでいく。圭は追いかけた。そして捕まえた。ドリーの左手首。

 帰りの車でドリーははしゃいでいた。歌を歌い親方に褒められていた。疲れた弘美は圭にもたれ眠っていた。
 ドリーは奥さんが寝ても疲れもみせず外を見ていた。涙が流れていた。車の後部座席で圭は慰めることもできなかった。真夏に長袖を羽織っている。手首を隠すために。

 少女の涙が私の一生を決定した。
『狭き門』にそんな文章があったはずだ。車の中で静かに涙を流していたドリー。
 ドリーの涙がオレの一生を決定した。

 コンビニの前で圭も降りた。約束だ。帰ったら話すと。ドリーは5階の自分の部屋に通した。父は店だから、と。
「嫌われたわね。奥さんにも弘美ちゃんにも」
「そんなことないよ」
「いつもそうだった」
 ドリーは本を取った。
(アンドレ ジッド『狭き門』)
 1年の時の倫理の教材だった。
「私はアリサなの」

『狭き門』
 倫理の時間グループで話し合い、幸子は怒っていた。三沢がなにも意見を出さないって。圭が聞くとあいつは、
「オレもアリサだ」
と拗ねた。

 美登利の母はアリサの母親と同じことをした。若い男と不倫して出て行った。
「以前は酒屋だったの。真面目な父は客商売だから顔には出さず置いていかれた私を哀れんだ。親戚は、おまえのママはしょうがないな、と聞こえるように言った。結婚前からそうだったのよ。近所中で知らないものはない。学校でもインランと呼ばれた。意味もわからない頃よ。大人たちは聞こえるように話した。あの子も今にきっと……
 私はパパが大好きだった。具合が悪い時も看病してくれたのはパパだった。ママは実家の親に甘やかされお金もあったからホスト遊び。母性なんてなかった。私は大嫌いだった。パパに似たかった。性格は父親似なの。外見は大嫌いなママに似てくる。
 男は、生徒も先生も私にチヤホヤした。そのぶん女には嫌われたわ。真面目にして、勉強も習い事も運動も頑張っても。
 そのうち開き直った。私が頼めば店の売り上げが伸びる。あなたも買いに来てくれたでしょ。
 真面目なのよ。私は真面目で几帳面。神経質なくらい。アリサのように愛より神を選ぶの」
 圭はなにも返せない。
「あなただっていやらしい事考えたでしょ? だったら諦めて。なんで私が自分の名を嫌いだかわかる? 美登利は遊女になるのよ。私は処女のまま死ぬの」
 甘い思いは吹き飛んだ。
「メル友のままでいればよかった。予感はあったの。いつか知られるなら終わりにしようと」

 圭は三沢英幸を思った。美登利は似ている。あいつに。
 
 
 大きな邸の坊ちゃんは窓から圭を見ていた。目が合った。慌てて圭はシャツを着た。女かと思った。この美少年がピアノの奏者?
「圭君、あの子の友達になってくれない?」
 邸の気さくな女主人が言った。
「友達って、お願いされてなるもんじゃないですよ」
「……そうよね」
 痛快だった。大きな邸の女主人に小倅が生意気なことを言った。

 坊ちゃんは圭に興味を持ったようだ。女主人の代わりに飲み物を差し入れに来た。裸の圭を見る。まさか……ドキドキしてシャツを着てすぐに仕事に戻った。
 坊ちゃんは土の袋を持ち上げた。圭と同じように。父が止めた。腰でも痛めたら大変だ。背はまだ20センチは低かった。しかし手は大きかった。ピアノのせいか……坊ちゃんは軽々と持ち上げた。
 トラックと花壇を何度も往復し重い土を運んだ。ペースを乱されたのは圭のほうだ。汗がダラダラ出て呼吸も乱れた。後ろを向くと坊ちゃんは息も切らさず涼しい顔をして圭を見た。暑くて圭はシャツを脱ぎ放り投げた。ペースを上げ、離したと思い後ろを向いた。坊ちゃんはすぐそばにいて笑った。ヒヒッ……と。
 すごいな……呼吸を整え言おうとして聞かれた。何才ですか? 父が答えた。15ですよ。今度H高に入学……坊ちゃんは、僕も、とは言わなかった。困ったような、嬉しいような微妙な表情だった。

「ひ弱な坊ちゃんだったのに、すごい力と根性だ」
「あの奥さんは後妻なの?」
「前の奥さんは……そっくりだな。坊ちゃんは。辛いだろうな、旦那様は」
「死んだの?」
「出て行ったんだ。坊ちゃんを残して」
「どうして?」
「さあ、大旦那様を介護して、長いこと介護して、亡くなって少しすると……いい夫婦だったのに。坊ちゃんは、大奥様にかわいがられて、わがままに育てられてた。亜紀さんはすごいな。むずかしい年頃なのに……礼儀正しく育てた」

 入学してすぐに気づいた。三沢は気づかれないとでも思ったのか? 
 圭は気づいた。三沢が幸子に気があることまで。同じ女を好きになった。ライバルのはずなのに……ふたりは親しくなった。亜紀に頼まれたからではない。話していて楽しかった。物知りだった。背と体格以外では勝てないだろう。それもいつまで? 

 夏休みに急接近した。クラス合宿の出し物のダンス、練習をさぼった三沢の家に教えに行った。亜紀さんも娘の彩も、隣の幼なじみの夏生まで来て皆で踊った。
 亜紀さんは歌を知っていた。キャシーの亡霊の動画を見て、いやがる三沢に女装させた。楽しい夏休みだった。父親は入学式で来賓の挨拶をしたかっこいい男だった。幸子が惹かれていた。すごい素敵な人、と。M橋で2人が話しているのを見かけた。
 ダンスを披露した。女装した三沢はゾッとするほどきれいだ。夏生も化粧した。三沢が変身させた。頬の傷がうすくなりかわいい女の子になった。

 この家は……この家族はうまくいっているのか? 父に聞いた前妻がいた。亡霊になって息子の中に。
 元夫は息子を見ていた。愛した妻の面影を。余程愛した女だったのだろう。親に反対されすべてを捨ててこの家を出たという。戻ってきたのは会社が倒産寸前、大旦那様は脳梗塞で倒れ、大奥様は介護で体を壊した……
 なにがあったのだろう? この家に。なにがあったのだろう? 夏生との間に。夏生は三沢を慕っていた。
 圭には想像できた。10年後にはこの邸であのふたりは……

 夏が終わると差は縮んだ。距離も縮んだ。あいつは打ち明けた。母親のことまで。
「8歳になる前に出て行った。よく覚えてないんだ。おばあちゃん子だったし。母は祖父の介護をしていた、祖父が死んでも財産ももらえず男を作って出て行った……」
 淡々と話した。
「大きな邸も社長夫人の座も息子まで捨てて、余程セックスが素晴らしかったんだ……」
「誰が言ったんだ? そんなこと?」
「周りの大人たちさ。かわいそうな女たち……欲求不満かな?」
「かわいそうな空家なんだ」
 あいつは笑った。ヒヒッ……と。
「オレの母親は亜紀だ」

 三沢は圭の弁当を食べた。
「亜紀は料理が下手なんだ。少しはマシになったけど。うまいな、天ぷらに煮物かぁ……懐かしい。おばあちゃんが……」
「亜紀さんの手作りのふりかけもうまいぜ」
「あいつは健康志向で飯は玄米。ぬか漬けはうまいよ」
「これ、なんだ?」
「それは犬の餌だ」
「えっ?」
「砂肝をオーブンでじっくり焼く。歯が丈夫になるように」

 圭が夜学に移ると言ったとき、三沢は金を貸してやると言った。考えたすえに言ったのだ。
「学費だけじゃない。家賃に生活費、母は病弱だから医者代もかかる。そんなに持っているのか?」
「母の形見のダイヤがある。加工してない、でかいやつ」
「形見なら大事にしろよ」
「ただの石さ。嫌な思い出しかない」
「そんなもので友情が買えると思っているのか?」
 本当は嬉しかったのだ。気持ちだけでも嬉しかった。三沢は取り返しのつかないことを言ってしまったと思ったのだろう。
「ああ。買えるさ。金があれば友達でもなんだって……」
「じゃあ、そうしろよ。彼女も買え」
 喧嘩別れした。最後のセリフが本心ではないことはわかっていた。
「ダイヤは夏生のものだ。夏生の頬の傷はオレがやったんだ。殴ってガラスをかぶった。ダイヤくらいじゃ償いきれない。
 取り換えるか? 圭、オレの罪と……」
 抱き合っていたらよかった。あいつがいじらしかったのに意地を張ってしまった。大事な親友をなくした。
 

この家には亡霊がいる 6

この家には亡霊がいる 6

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-05-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted