お気に入りの音楽 31〜35

お気に入りの音楽 31〜35

31 モーツァルトの短調

 モーツァルトは今まで登場していません。長調が多くて苦手なのです。でも短調は好き!

 モーツァルトが生涯に書いたピアノ協奏曲は27作あり、20番以降の晩年の作品は特に傑作が揃っている。
 全ピアノ協奏曲の中で短調は20番と24番だけ。 20番は作品トータルの出来は24番を凌駕し、それどころか全ピアノ協奏曲の中でもおそらく最高傑作。
 緊張感がありながらも美しい第一楽章、天国のやすらぎの第二楽章、激情とユーモアの交錯する華やかな第三楽章。
 映画「アマデウス」でも重要な場面とエンディングで使用されていた。

 ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K. 466 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1785年に作曲したピアノ協奏曲であり、モーツァルトが初めて手掛けた短調の協奏曲である。
 モーツァルトのピアノ協奏曲の中でも特に人気のある作品であり、とりわけルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが大変気に入っていた作品として知られている。
 モーツァルトは短調のピアノ協奏曲を2曲(もう1曲は第24番 ハ短調(K. 491))作曲しているが、華やかさが求められた当時の協奏曲とはうってかわって、それまでの彼の協奏曲には見られない、激しい情熱の表出が見られる。暗く不安げな旋律、劇的な展開などが特徴である。

20番
https://youtu.be/RBpUq-ZnrfI
24番
https://youtu.be/POWVTXuB68I
23番2楽章
https://youtu.be/j8e0fBlvEMQ

 モーツァルトは、35歳の若さで亡くなってしまったというのに、恐るべき数の名曲を世に送り出した奇跡の天才。
 汲めど尽きせぬメロディと楽想の泉、音楽創作の世界の永遠のお手本です。
 長調の楽しい作品が圧倒的に多く、『アイネクライネ・ナハトムジーク』とか、『クラリネット協奏曲第3楽章』とか、『オペラ・フィガロの結婚・序曲』とか、いずれも「親しみ易く、覚えやすく、明快」な作風は現代のポップスに通ずるものがある。
 彼が生涯残した作品の73パーセントが長調だという調査結果もあり、カウントの方式によれば16分の15が長調だという意見も。
 一方、数は少ないけれど短調の作品にも聴く者の琴線を掴んで離さない傑作が多い。

 ピアノ協奏曲第24番は、減七和音(ディミニッシュコード)が多用され不安感・悲壮感をあおる第一楽章も素敵だが、 第三楽章にたまらない魅力が。
 哀愁と品格がありながらマーチのような軽快なリズムを持つユニークな曲で、ただひとつの主題旋律を手を変え品を変え変奏しまくっていく、とても楽しい短調作品。

 ピアノ協奏曲第23番第二楽章
 前後の第一・第三楽章ともカラッと明るいのに、突然深い悲しみのどん底に突き落とされるすごい曲。

 ヴァイオリンソナタ第21番 ホ短調K.304(300c)
ヴォフルガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したヴァイオリンソナタ。
 母アンナがパリで客死した時期のもので、明るい曲想の多い作曲者の作品の中では、数少ない短調の劇的なもの。
 簡潔な2楽章構成。ホ短調。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヴァイオリンソナタ第21番_(モーツァルト)
https://youtu.be/BkRFTgQfdvY


弦楽五重奏曲第4番(第一楽章)
「疾走する悲しみ」と表現される名曲。 短調作品の中では、琴線の揺さぶられ度合いがトップクラス。

 何曲か動画を聴いてみて、どれも疾走感がすごくて速すぎて、気に入ったのがブダペストでした。演奏年度はわからないけど。

https://youtu.be/DnDrd5a9as0

 ブダペスト弦楽四重奏団は、20世紀を代表する弦楽四重奏団。
 1917年にブダペスト歌劇場管弦楽団のメンバーによって結成され、メンバーの変遷を遂げながら1967年2月まで活動した。
 1938年からアメリカに定着して活動し、最終的なメンバーは全員ロシア人となり、ハンガリーおよびブダペストとは関係が無くなったが、名声を得たのはロシア人のヨーゼフ・ロイスマンが第1ヴァイオリンとなって以後である。
 なお、1962年以降の後任がジュリアード弦楽四重奏団である。
 ロシア人メンバーたちはリハーサルのとき以外は別々に行動し、喫茶店でも別々のテーブルに座り、ミッシャ・シュナイダーとロイスマンがファーストネームで呼び合うまでには22年を要したという。アレクサンダーは最後までロイスマンやクロイトに対してそのような失礼を冒したことが無かった。これがグループとして長続きした秘訣だという。一方でメンバー同士でブリッジを楽しむことが多かった。

「ロシア人が一人いたら何者だろう? そいつは無政府主義者だ。二人いたら? チェスの試合だ。三人いたら? 共産主義グループだ。それではロシア人が四人いたら? それはブダペスト四重奏団だ。」
(ヤッシャ・ハイフェッツが言い出したとされるジョーク)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ブダペスト弦楽四重奏団

 ロシア人作曲家チャイコフスキーの大序曲『1812年』の演奏を取りやめる動きが国内で相次いでいる。ナポレオン率いるフランス軍による1912年のロシア遠征で、露軍が仏軍を撃退する様子を表現し、日本でも親しまれているが、露軍がウクライナへの侵攻を続ける現在の状況で、演奏するのはふさわしくないとの判断があるようだ。

32 作品に罪はあるのか

『失恋レストラン』は、1976年11月21日に発売された清水健太郎のデビューシングル。
 当時アイドル的存在であった清水健太郎の代表曲である。楽曲提供はつのだひろ(後につのだ☆ひろに改名)
 自身のレギュラー番組であった『ぎんざNOW!』から生まれた楽曲である。
 1977年2月21日-3月21日のオリコンシングルチャートで最高1位を獲得した。また同年、第19回日本レコード大賞最優秀新人賞・第8回日本歌謡大賞放送音楽新人賞・第10回日本有線大賞最優秀新人賞などを受賞した。さらに同年大晦日の『第28回NHK紅白歌合戦』でも歌唱した。

失恋レストラン 1976 11/21 清水健太郎 デビューシングル
https://youtu.be/6zqHleD97go

 楽曲提供は『メリージェーン』の、つのだひろさんか……いい歌だと思った。

 清水健太郎……薬物関連容疑での逮捕は6度、業務上過失致死容疑の逮捕も含めると、8度。

 数々の不祥事が仇となり、所属できる事務所が見つからず自身で立ち上げた個人事務所であるオフィスKS清水健太郎事務所に所属して、現在は青少年健全育成のための講演やコンサートを開催するなど、主に歌手として活動されている。
https://textengineer.com/actor/shimizukentarou-genzai/#toc1

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『新撰組テーマ曲』ジョン・健・ヌッツォ

 これ、すぐにCD買いました。

 ジョン・健・ヌッツォさんは、イタリア系アメリカ人の父親と日本人の母の間に生まれ、幼少期から声楽のレッスンを受けていた。
 オペラ歌手として世界的なオペラにも出演し、2002年の紅白歌合戦にも出演した。アン・デア・ウィーン劇場 、メトロポリタン歌劇場など、著名な劇場にも出演しており、世界的な賞も複数受賞。
 まさに、日本が誇るオペラ歌手だったが、2008年に覚せい剤取締法違反で逮捕され、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決が下った。
https://rank1-media.com/I0000634/&page=4

 その後は東日本大震災の復興支援をしたり、 オペラに主演したりと 活躍されている。2018年には、東京音楽大の客員教授にも就任。

新選組! op【歌詞入り】
https://youtu.be/Ny5d7FCAG9c

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『Hungry Spider(ハングリー・スパイダー) 』槙原敬之

「Hungry Spider」(ハングリー・スパイダー)は、槇原敬之の楽曲である。1999年6月2日にSME Recordsより22枚目のシングルとして発売された。表題曲は日本テレビ系ドラマ『ラビリンス』主題歌として使用された。
 シングル発売後の同年8月26日に覚醒剤取締法違反で槇原が逮捕されたことにより、CDが市場から回収された(後に販売が再開されている)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/Hungry_Spider

 当時、ラジオを聴きながら仕事をしていた。槇原敬之は知らなかった。興味がなかった。が、この曲には惹かれた……と思ったら……
 ずっと聴いてみたいと思っていた。YouTubeは本当に便利。
 何度も聴いてしまいます。不思議な魅力。 

槇原敬之 Hungry Spider 歌詞付
https://youtu.be/Y-OMYaZzPBY

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『四つのお願い』ちあきなおみ

 なぜ放送禁止なのか。わからずに調べてみたら……
 もう、知らないままでいいのではないのか? やはり知っておくべきなのか?

 四つ(よつ)とは、被差別部落民に対する差別語とされている。
四つ足 → 動物 → 畜生、人間以下の意味。被差別身分であった穢多の専業として、弊牛馬(農耕作業に耐えられなくなった牛馬)、つまり「四足(よつあし)」動物の処理をおこなっていたところからつけられた蔑称として江戸時代から使用されていた。小指から士農工商と数えると、親指で穢多非人だから。平民が5だとすると、人格的に何か1つ足りないから。外部と通婚ができず狭い部落内での近親婚が重なり、指の欠損など奇形児が多発したから。武器を持って蜂起しないよう、親指を切り落とされたから。四足動物を食す習慣があったため。
などである。
 指のしぐさで4を表すケースは様々にあり(例えば4時、4個、4歳など)これが無条件絶対的な差別表現でないことは言うまでもないが、部落解放同盟の抗議を恐れたメディアや企業は4本指に見えるイラストや写真、映像を、厳しく自主規制した。

 ちあきなおみの歌『四つのお願い』は放送自粛されたこともあったが今日ではCDなどに収録、テレビやラジオでも放送されている。
 シングルレコードのB面は『恋のめくら』

四つのお願い ♪ちあきなおみ
https://youtu.be/g6rP4V2iFpU

 古い漫画やアニメのキャラクターは4本指であることが多い。
 1970年代半ばから1980年代にかけて漫画雑誌を刊行している出版社がガイドラインを設け、5本指へ統一させている。それ以前に刊行、発行されているものは4本であったり5本であったりと一定ではなかったためであり、部落解放同盟などなどの団体個人からクレームが相次ぎ、問題になっていた。
 数年前、某テレビ局のバラエティ番組で、フロアディレクターがカメラの横でキュー出しをする動作が放送された。5、4、3、と数えながら指を順番に折ってゆくそのディレクターの指先に、4の瞬間、突然モザイクがかけられたという。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/四つ_(日本語の表現)

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 有名なジャニス・イアンの曲に「Love is blind」(恋は盲目)というものがあるのだが、「blind」が盲人に対する差別になるという事で放送禁止になったという。
 すごく素敵な曲だけに残念で仕方がない。

Love is blind, love is only sorrow
Love is no tomorrow, since you went away
Love is blind, how well I remember
In the heat of summer pleasure winter fades

’Love Is Blind' - Janis Ian - lyrics 和訳「恋は盲目」ジャニスイアン 1976年
https://youtu.be/0iuWRMSf4aM

 この曲にはあるエピソードがあって、昔だがビートたけしのオールナイトニッポンで、高田文夫が
「恋は盲目を歌っていたのは誰だっけ?」
と発言したところ、たけしが間髪入れずに
「レイ・チャールズ」
とギャグを言い、直後に
「いけね、今のはまずかった」
とあわてていたそうである。
 その世界の北野武監督の「座頭市」では、「めくら」という言葉が頻繁に出てくるためにR-15指定になっているという。
https://ameblo.jp/triflingbeetle/entry-11810733996.html

 余談ですが、

『キャンディ♡キャンディ』は、原作:水木杏子、作画:いがらしゆみこによる日本の少女漫画作品。また、それを原作としたテレビアニメ。

 単行本、文庫版ですら絶版している現状、DVDもない、再放送も絶望的、グッズ販売も違法、の、ないないづくしが、『キャンディ・キャンディ』の現実である。
 係争自体は、原作者全面勝訴の最高裁判決が確定しているが、現在なお遺恨がすさまじく、『キャンディ・キャンディ』関係のすべての商品が凍結されたままなのだ。
http://tiebukurojinsei.com/archives/5915

「キャンディ・キャンディ』は、原作者(水木杏子)と作画者(いがらしゆみこ)によって創作された少女漫画。
 しかしながら、作画者が原作者の同意を得ないまま、主人公キャンディ・キャンディを描いたリトグラフや絵はがきを作成、販売してしまった。そこで、原作者が作画者に対し、著作権が侵害されているとしてその差し止め等を求めて提訴したことから裁判が始まった。
 最高裁は、次のように判示。(最高裁平成13年10月25日判決)。
①キャンディ・キャンディは、原作者が具体的なストーリーを創作して小説形式の原稿にし、作画者がおおむねその原稿に依拠して漫画を作成するという手順を繰り返すことにより制作された連載漫画である。そうであれば、本件連載漫画は、原作者の原稿を原著作物とする二次的著作物である。
②そして、二次的著作物である本件連載漫画の利用に関し、原作者は作画者が有するものと同一の種類の権利を有し、そのため、原作者と作画者との権利とが併存している。
③したがって、本件連載漫画の登場人物を原作者と作画者との合意によることなく作成し、複製し、頒布することはできない。よって、作画者による一方的な作成販売は差し止められる。
 つまり、キャンディ・キャンディの絵は、原作者と作画者の両方の合意がないと作成、複製、販売したりすることができない訳です(ただ、キャンディ・キャンディのストーリーは原作者だけのものだから、全く別の絵であればリメイク作品を展開することはできるが、そうなるともはや一般に知られているキャンディ・キャンディではなくなるでしょうね)
 しかしながら、この最高裁判決があっても、作画者は自らの立場を改めなかったようで、原作者と作画者とは断絶してしまった。
 その後、原作者と作画者との間で合意ができないことから、少女漫画本の復刊やアニメの再放送、レンタル用ビデオの販売などが実現できず、レンタルビデオ店からも次第に姿を消した。(昔の中古品や違法商品は流通してるようだが)
https://asahigodo.jp/legal-issue/キャンディ・キャンディ事件/

33 放送禁止とか自粛とか

『ヨイトマケの歌』 美輪明宏
 発表後間もなくして歌詞の中に差別用語として扱われる「土方」「ヨイトマケ」が含まれている点などから、日本民間放送連盟により要注意歌謡曲に指定された。それ以降原則として民放では放送されなくなる。この制度自体は1988年に効力を失ったが、影響を受け続けることになる。
 1998年に泉谷しげるが歌ったカバーバージョンが『ニュースJAPAN』(フジテレビ)で流れたことで久々に民放の電波に乗り、更に2000年には桑田佳祐が自身の番組『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』(フジテレビ)でこの曲を歌ったことにより大きな反響を得る。
 この際、テロップで
「この唄は、俗に放送禁止用語と呼称される実体のない呪縛により長い間、封印されてきた。今回のチョイスは桑田佳祐自身によるものであり、このテイクはテレビ業界初の試みである」
との説明が付されていた が、以降多くの歌手がテレビでも歌うきっかけとなった。
 一方、NHKでは発表当時から一貫して放送自粛の措置はとられておらず、美輪本人による歌唱はもとより、様々な歌手によるカバーも放送されていた。デビュー60年を迎えた2012年には美輪が『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場、本曲をほぼフルコーラスで披露した(楽曲はやや短くアレンジされた)。発売から半世紀も経っていたが、SNS上でも若年層を中心に大きな反響を呼んだ。(Wikipediaより)

 美輪明宏は三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌。
 作詞作曲を開始した切っ掛けは、興行主の手違いで行うことになった筑豊の嘉穂劇場のコンサートである。
 当時きらびやかな衣装でシャンソンを歌っていた美輪は、炭鉱町でのコンサートに乗り気ではなかったのだが、炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求め、客席を埋め尽くしている光景を見て衝撃を受けた。
「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、私にはこの人たちに歌える歌がない」
と感じて、労働者を歌う楽曲を作ると決意したという。
 初めて発表したのは1964年、リサイタルにて歌唱。1965年、NETテレビ『木島則夫モーニングショー』の「今週の歌」で発表したところ、非常に大きな反響を呼び、異例のアンコール放送となった。同性愛者であることを公にしてから低迷していた美輪が、この歌がきっかけで再び脚光を浴びることになった。白のワイシャツに黒の細身のスラックス姿で登場し、戦後の復興期の貧しい少年から、高度成長期にエンジニアへと成長した凜々しい青年を演じた美輪の姿は、多くの視聴者の胸を打った。(Wikipediaより)

 美輪さんの『ヨイトマケの歌』の前に、桑田さんのCDを流していて、歌詞をしっかり知りました。

ヨイトマケの歌 美輪明宏(1964年)
https://youtu.be/NQMUspZWTiU
ヨイトマケの歌 桑田佳祐
https://youtu.be/zii9zP4QOTw

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『竹田の子守唄』

 複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく、部落出身で子守として奉公に出され、学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われている。(Wikipediaより)

 1964年12月東京芸術座が公演した『橋のない川』で、音楽を手がけた尾上和彦が、被差別部落の京都市伏見区竹田地区にある部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母親から、教えてもらった民謡を編曲して使ったものである。
 尾上が採集したのがたまたま竹田地区であったため『竹田の子守唄』とされたが、それ以前は題名が付いていなかった。きちんとした楽譜もなく、1番と2番でテンポも違った唄は、子守り奉公で苦労する中にも強く暖かい人間性を内在させ、『赤いサラファン』に共通する部分も感じられ、聞かせてもらった女性の唄を尾上が解体してつくったのが今日に知られる旋律である。
 唄の後半に『ロンドンデリーの歌』のような、非常に豊かな音の広がりも加えた4分の2拍子で書き上げた。
 それが合唱団のレパートリーとなったことで、当時のフォークソングの歌手たちにも広まり、その一人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった。後藤は、関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で、大塚孝彦と高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴き、本作を初めて知って感銘を受ける。
 後藤はフーツエミールというグループのリーダーだったが、レパートリーが英語の歌ばかりなことに不満を抱いており、後藤はこの曲に触れたことでフーツエミールを解散し、赤い鳥を新結成するに至る。赤い鳥の結成時は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが、後藤は本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、デビュー作としてシングルレコードを発売、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱してグランプリを飾った。
 フォークシンガーたちに広まる前に歌唱していた合唱団「麦」では、唄が被差別部落のものであると紹介していたが、フォーク界に広まるにつれて「竹田」の正しい読み方や唄の出所はわからなくなっていった。赤い鳥も当初は唄の由来や意味も理解しておらず、題名の地名も大分県竹田市のことだと思っていた。(Wikipediaより)

竹田の子守唄 赤い鳥
https://youtu.be/XGwJDYXfB1Q

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『イムジン河』 フォーク・クルセダーズ
 フォーク・クルセダーズの作詞を担当することになる松山猛が、京都での中学時代に、松山の中学との喧嘩に明け暮れていた京都朝鮮中高級学校の学生たちにサッカーの試合を申し込もうと朝鮮学校を訪れたとき、この曲を耳にしたことがきっかけだった。
 松山はトランペットの練習を九条大橋でよく行っており、同じ場所にサックスの練習に来ていた朝鮮学校の文光珠と親しくなり、メロディと歌詞を教わり、松山は彼から、歌の1番の歌詞と日本語訳が書かれたものと、朝日辞典を渡された。
 後年、松山はフォーク・クルセダーズのメンバーと知り合いになり、加藤和彦に口頭でメロディを伝えた。それを加藤が採譜したものがこの曲であり、原曲の「臨津江」とは全く成り立ちが異なる。教わった1番だけでは歌うのに短すぎるため、松山は2番と3番の歌詞を付け加えた。
 それまでコミカルな曲を持ち味としてきたフォーク・クルセダーズだが、初演では聴衆から大きな拍手が沸いたという。1966年のことだった。
 デビュー曲で大ヒットとなった「帰って来たヨッパライ」に続く第二弾として1968年2月21日に東芝音楽工業から発売される予定だったのが、このアマチュア時代から歌い継いできた「イムジン河」だった。
 東芝の高嶋弘之ディレクターによれば、「帰って来たヨッパライ」でデビューするようフォークルを説得していた頃には既に「第二弾は『イムジン河』で行ける。『ヨッパライ』がこけても『イムジン河』がある」と考えていたという。つまり、「ヨッパライ」は「イムジン河」の前座だったということになる。少なくとも、当初の東芝関係者の間には、そういう計算があった。
 ところが発売前に数回ラジオにかけた後、「帰って来たヨッパライ」200万枚発売記念パーティーの翌日であり発売予定日の前日の1968年2月20日突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定(すでに13万枚が出荷され、うち3万枚が未回収に終わる)結果的に放送自粛的な雰囲気が広がる。こうした風潮の中、京都放送のディレクター川村輝夫は自粛後もラジオでかけ続けた。(Wikipediaより)

 中学1年の合唱コンクールで歌った。歌の好きな生徒がリクエストして決まった。先生も困っだろう。歌詞は故郷を想うものに変えられたが。ほとんどの生徒は深い意味は知らずに歌っていたと思う。

イムジン河 フォーク・クルセダーズ
https://youtu.be/kVIsBh3EFX0

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『くそくらえ節』 岡林信康
 1968年にビクターレコードと契約して、4月始め毎日放送のスタジオを借りて『くそくらえ節』をA面に『山谷ブルース』をB面で吹き込み『山谷出身の歌手』ということで、5月15日から大々的に売り出す予定だった。
 ところが、レコード発売直前になって、レコード倫理規定委員会から「思想的偏向性(国家権力や政治家を徹底的に風刺した歌詞となっている)」があるということ、『くそくらえ節』と言うタイトルではまずいと言うことで『ほんじゃまあおじゃまします』と改名されたものの、歌詞に問題あり(歌詞の中の政治家を批判する内容が、近く行われる参議院選挙に影響が出る)と言うことで、その歌詞も見直し、見本盤までは制作はされたが、発売中止になった。
 結局、B面に収録されていた「山谷ブルース」をA面にして(B面は「友よ」)、デビュー曲として発売。(Wikipediaより)

 中学3年のとき、同級生の男子が文化祭でひとりでギターを弾きながらこの曲を歌った。先生はよく歌わせたな、50年以上も前の話。

くそくらえ節 岡林信康
https://youtu.be/l0KhetHAbiE

『山谷ブルース』
歌詞の内容は、山谷の住人である日雇労働者が、独白する内容となっており、これは岡林本人が山谷で日雇い労働者として働いていた時に経験した内容が元になっている。(Wikipediaより)

歌詞の中で『立ちん坊』という言葉があるが、ここでは山谷の日雇い労働者はいい職にありつこうと、毎朝暗いうちから仕事が貰えるまで立って待ち続けていたという。そういう情景を描いている。それが『立ちん坊』だ。

山谷ブルース 岡林信康
https://youtu.be/tCEaGa0qWdU

34 グレン・グールド

 モーツァルトを調べていたら、グレン・グールドに興味を持った。
 グールドはモーツァルトの音学に懐疑的で、挑発的な言動を繰り返した。
「夭折したのではなくて、むしろ死ぬのが遅すぎたのだ」
とまで述べたグールドは、苦痛な作業と言いながらもソナタ全曲録音を行っている。
 
 その極端に速い、または、遅いテンポ設定や分散和音の多用、逆アルペジオなどの独創的解釈は、毀誉褒貶に晒されることとなり、リリー・クラウスは、
「あれだけの才能を持っているのだから普通に弾けばよいのに」
ともらしたと伝えられている。

 モーツァルトの演奏においては、装飾記号の無視がはなはだしく、モーツァルトの装飾性を軽蔑していたという。

BBCのインタビュー番組で普通のテンポで弾いて
「これじゃ僕はつまらないんだよ。異常なくらいスローにして、ブーイングというか反応を仰いで、そうやって信じられないほど聴衆を焦らして……モーツァルトには悪いがアダージョの指定をアレグレットにして……」と語っている。
(クラシック徒然草グレングールドのモーツァルトより引用)

Glenn Gould- Turkish March
モーツァルト トルコ行進曲
https://youtu.be/eTZ33EVK3Ug

 遅い。遅いテンポ。
 でも、悲しくて、好き!


 グレン・ハーバート・グールド(1932年9月25日 - 1982年10月4日)は、カナダのピアニスト、作曲家。
 旧姓名は、グレン・ゴールド(Glenn Gold)。プロテスタントの家系だが、ゴールドという苗字がユダヤ人に多く、当時高まっていた反ユダヤ主義に巻き込まれることを恐れて、グレンの生後まもなく一家はグールドと改姓した。母はノルウェーの作曲家グリーグの親類である。
 母親は声楽の教師でピアノも弾き、父親は声楽同様ヴァイオリンの演奏ができた。母親からピアノの手ほどきを3歳から受けたのち、1940年に7歳にしてトロントの王立音楽院に合格。
 1944年、地元トロントでのピアノ演奏のコンペティションで優勝。
 1945年にオルガン奏者としてデビュー。同年には、カナダ放送協会によりグールドのピアノ演奏が初のオンエア。
 1946年5月トロント交響楽団と共演しピアニストとしてベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」で正式デビューし、同年10月、トロントの王立音楽院を最年少で最優秀の成績で卒業。その後、
 1947年に初リサイタルを行って国内での高い評価を得た。

 1955年1月2日、アメリカでの初演奏を行い、ワシントン・ポスト誌に
「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」
と高い評価が掲載された。
 続く1月11日のニューヨークでの公演で、米国CBSのディレクターがグールドの演奏に惚れ込み、翌日終身録音契約が結ばれた。グールドは、プロデューサーなどの反対を押し切り、デビュー盤としてヨハン・ゼバスティアン・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を録音。
 1956年に初のアルバムとして発表されるや、ルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得した。

 グールドの『ゴルトベルク変奏曲』を効果的に使った映画が『羊たちの沈黙』です。
 レクター博士を怪演しているのはアンソニー・ホプキンス。トマス・ハリスの原作では、『ゴルトベルク変奏曲』がお気に入りのレクター博士が、収容された監獄で、グールドの55年盤のテープの差し入れを要求しています。

Variations BWV988 ゴルトベルク変奏曲-グレン・グールド Glenn Gould 1955/レコード/高音質
https://youtu.be/wwc7p-ynMPA


 デビュー以来、グールドは活動の基盤をバッハにおいていた。その傾倒ぶりは、彼のバッハ作品の録音の多さはもとより、彼の著述からもうかがい知ることができる。グールドの興味の対象はバッハのフーガなどのポリフォニー音楽であった。
バッハは当時でも、もはや時代の主流ではなくなりつつあったポリフォニーを死ぬ直前まで追究しつづけたが、そうした時代から隔絶されたバッハの芸術至上主義的な姿勢に共感し、自らを投影した。

✳︎

 バイエルのような曲は左手が伴奏右手がメロディーのように、伴奏とメロディに分かれているものがありますが、これを『ホモフォニー』といいます。
 それに対し、伴奏という形ではなく、メロディー+メロディー+メロディー……
というように、2つ以上のメロディー(各声部)が絡み合いながら協和し一つの音楽になっているものを『ポリフォニー』と言います。
 簡単なもので言えば『かえるの歌』ですね。かえるの歌のように同じメロディーを2小節遅れて追いかけるようなものを「カノン」とも言いますが、このかえるの歌もメロディー+メロディーですので『ポリフォニー』ですね。
 とにかく、同じメロディーであれ、違うメロディーであれ、伴奏という形ではなく、メロディー同士が同時に流れひとつの音楽を作っているものを『ポリフォニー』と呼んでいます。
https://ameblo.jp/tmk-piano39/entry-10923733904.html

 ブラームスの第1協奏曲では、バーンスタインと衝突し、バーンスタインは聴衆に向かって
「これは僕のテンポではありません」
と断わってから演奏を開始した。

Brahms: Piano Concerto No. 1, Gould & Bernstein (1962) ブラームス ピアノ協奏曲第1番 グールド&バーンスタイン
https://youtu.be/iHz2i6bhUXw


『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という村上春樹、小澤征爾の対談本があり、その冒頭がこの演奏の話題で始まる。レナード・バーンスタインが指揮の前にステージで
「これは私のやりたいスタイルの演奏ではない。ミスター・グールドの意思でこうなったのだ」と、異様にテンポが遅い言い訳のようなことを言っている。

 グールドは、異様に低い椅子(父親に依頼して作ってもらった特製の折りたたみ椅子で、いつもこれを持ち込んでいた。高さはおよそ30 cm。)に座り極端に猫背で前のめりの姿勢になり、時に大きな手振りでリズムを取るといった特異な奏法と斬新な演奏で世間の注目を集めた。

 ベートーヴェンについて、その楽曲ごとに賛否両論を唱えたグールドは、若年より、多くの録音を残している。ベートーヴェンについても、グールドの極端なテンポ設定などの異端な解釈が賛否を呼んでいる。

Glenn Gould - Beethoven, Concerto No. 5 in E-flat major op.73 "Emperor" - Part 1
https://youtu.be/kpz_U8wHpa8


 ショパンの録音は、ピアノソナタ第3番。グールドのショパンはこれだけ。

Glenn Gould plays Chopin Piano Sonata No. 3 in B minor Op.58
https://youtu.be/NAHE8PTR8tE


 グレン・グールドは稀有なピアニストだった。
演奏の巧みさ、曲の掘り下げ方、情熱の込め方も稀有だが、選曲も稀有だった。ピアニストなら必ず弾くショパンとリストの作品を全く録音していない。
 全く、と書いてしまったが、正確に記しておくとする。
 ショパンについては一曲、ソナタ第三番が、グールドの死後、CD化されている。放送用に作ったテープが使われているのだろうか。
 リストについては、ベートーヴェンの交響曲第五番をリストがピアノ用に編曲したものがあり、これをグールドは弾き、正規のレコーディングをして発売している。
 こういう次第だから、グールドが全くショパンとリストを弾かなかった、と言ったら語弊がある。でも、他のピアニストならば必ず弾くショパンとリストのスタンダード・ナンバーが、彼のディスコグラフィーには一曲もない、と言いたくなる様子はわかってもらえるだろう。
https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/5100

 その後、メディアは、そのアイドル的容貌と奇抜な性癖を喧伝し、グールドは一躍時の人となった。1957年には、ソビエト連邦およびヨーロッパへの演奏旅行に赴く。

 第二次世界大戦以降、ソ連へ初めて演奏旅行に赴いた北米の音楽家となったグールドは、口コミで瞬く間に演奏会場が満員になり、「バッハの再来」と賞賛を浴びた。その演奏により、当時鉄のカーテンの向こう側と言われていたソ連と東欧諸国でもセンセーションを起こした。グールドは、演奏方法・解釈、新たな作曲家の認知など、その後のロシア音楽界に多大な影響を及ぼした。

 その後、ヨーロッパでは、ヘルベルト・フォン・カラヤン、レオポルド・ストコフスキーらとも共演。1959年には、ザルツブルク音楽祭にも出演した。北米と異なり伝統的で保守的な風潮のあるこれらの国々でも大絶賛を受けたグールドは、世界的なピアニストとしての地位を確立した。

 グールドは、自身の奏法について、ほとんどの点において有利であるが、「本当のフォルテが出せない」と分析していた。演奏時にはスタジオ内録音の際でも常にメロディーや主題の一部を歌いながら演奏するため、一聴しただけでグールドの「鼻歌」が聞こえ、彼の演奏と分かることが多い。
 レコーディング・エンジニア等が再三注意し止めさせようとしたにも関わらず、グールドは黙ってピアノを弾くことはできないとして生涯そのスタイルを貫いた。しかしこの歌声によって現在弾いている曲の隠れた旋律や主題を分かりやすく聞くことができる。また、歌っていることにより、旋律がなめらかに聞こえるという者もある。

 なお、猫背でかがみこむような奏法や指の独立には、その師であるゲレーロの「フィンガー・タッピング技法」の影響も指摘されている。

 演奏会において正しく燕尾服を纏い観客を圧倒するパフォーマンスをみせることが優れた演奏家の当然の条件のようにいわれた時代にあって、自身の気に入ったセーターを着て特注の椅子に座って演奏するなど奇抜なスタイルで演奏会に臨んでいたグールドは、そもそも演奏会そのものに対して批判的であり、デビュー以来ライヴ演奏に対する疑問や批判を繰り返していた。
 演奏の一回性へ疑問を呈し、演奏者と聴衆の平等な関係に志向して、演奏会からの引退を宣言していたグールドは、1964年3月28日のシカゴ・リサイタルを最後にコンサート活動からは一切手を引いた。これ以降、没年までレコード録音及びラジオ、テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場とする。

 1977年、グールド演奏によるバッハの「平均律」第2巻 前奏曲とフーガ第1番ハ長調の録音が、未知の地球外知的生命体への、人類の文化的傑作として宇宙船ボイジャー1号・2号にゴールデン・レコードとして搭載された。

 1982年9月27日、脳卒中によりトロント総合病院に緊急入院。この後、容態は急速に悪化。10月4日、父親の判断により延命措置の停止が決断され、同日死亡。遺体はトロントにあるマウント・プレザント墓地に埋葬された。墓石にはゴルトベルク変奏曲の一節の楽譜が刻まれている。50歳没。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89

 幼い頃から不眠や情緒不安定に悩まされていたグールドは、大量の処方薬が手放せなかったと言われています。周囲とも打ち解けることができず、同年代の友人とは全く遊ばなかったそうですが、動物はこよなく愛していたそうです。グールドにとっては、他人といるよりも音楽や動物と触れ合う方が、心の平穏を保てたのかもしれません。

 グールドの死後、彼の偉大なる功績を讃えてグレン・グールド賞が制定されました。日本人では、世界的作曲家の武満徹が受賞しています。

 グールドは生涯独身でした。異常な神経質と潔癖から、生涯孤独であったと思われがちですが、実はそんなことはありません。ラジオ音楽を共同制作することになった、指揮者ルーカス・フォスの妻コルネリアに猛烈に恋をし、結婚を申し込んだそうです。紆余曲折あり2人は一緒になることはありませんでしたが、グールドが心から愛していたのは間違いないでしょう。

 グールドの死後、仲間たちが遺品を整理していると、遺品のなかから「恋文」が発見されました。誰に宛てた物かは不明ですが、もしかしたらコルネリア宛てだったのかもしれません。
https://classical-music.fun/glenn-herbert-gould-life/

35 冬

『ブエノスアイレスの冬』は
 ピアソラの『ブエノスアイレスの四季』の中の1曲で、哀愁ただようメロディーに、タンゴのリズムがからむ、魅力的な作品です。

ブエノスアイレスの冬 三浦一馬
https://youtu.be/tbkI8jpunbs


ヴィヴァルディ『四季』冬 

『春』は有名。でもこの頃は『夏』の方がよく耳にする。
 冬は?

ディヴィド・ギャレットのヴァイオリン
https://youtu.be/2ltQGDOCP9I

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 交響曲第1番ト短調『冬の日の幻想』 は、チャイコフスキーが発表した最初の交響曲で、1866年3月から6月にかけて作曲された。
 チャイコフスキーの交響曲は、番号付きのものが6曲、『マンフレッド』を含めると7曲あるが、演奏機会が多いのは第4番以降のものである。第1番は、初期の3曲のなかでは、親しみやすい曲想と魅力的な旋律で比較的よく知られる。標題の「冬の日の幻想」は第1楽章に付けられたものに由来している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/交響曲第1番_(チャイコフスキー)


シューベルト 冬の旅 第一曲『おやすみ』
 YouTubeを次々観ていたら……衝撃。

Thomas Quasthoff & Daniel Barenboim performs Gute Nacht of Schubert's Winterreise
https://youtu.be/iJETtWr47PY

 トーマス・クヴァストホフは1959年11月9日に西ドイツのヒルデスハイムで生まれる。
 母は妊娠中につわりを抑えるため制吐剤としてサリドマイドを服用しており、この薬害によってトーマスは重篤な障害を持って生まれた。身長は134cmと低く足は長管骨に影響が出て短く形成され、アザラシ肢症により手も短い。
 肉体的なハンデを背負ったトーマスではあったが、17歳のころから声楽の勉強を開始し、ハノーファーの音楽院への進学を希望するが、「ピアノが弾けない」という理由により入学できなかった。
 トーマスはハノーファー大学に進学して3年間法学を専攻。卒業後は北ドイツ放送に入り、ラジオアナウンサーを務めたほか、テレビ番組の音声担当も行った。
 トーマスが音楽活動を始めたのは1984年のことである。
 ヴュルツブルク、ブラチスラヴァでのコンクールに入賞ののち、1988年にミュンヘン国際音楽コンクール声楽(バリトン)部門に出場して優勝。歌手に専念し、1989年にはグスタフ・マーラー・フェスティヴァルにおいて『さすらう若者の歌』を歌い、1995年にはアメリカデビューを果たす。
 1998年の同音楽祭では世界初演となるペンデレツキの『クレード』でソリストの一人となり、そのライヴ録音は2003年度グラミー賞の最優秀合唱作品部門を受賞した。
 2003年、トーマスはザルツブルク復活音楽祭に出演し、オペラデビューを果たす。
 カーネギー・ホール進出が企図された2006年、トーマスはこれまでとは違うジャズの分野にも進出し、ドイツ・グラモフォンからアルバム をリリースした。
 2011年10月、喉頭炎と診断され、ジャズのステージからの引退を発表。次いで2012年1月11日、トーマスは自身の公式サイトで健康上の理由により歌手生活からも引退することを発表した。
 引退声明の中でトーマスは「自分の健康状態が、自己の持つ高い芸術水準を維持するには無理が生じた」とした上で「新しい人生への挑戦が楽しみである」ことを述べた。 
 引退後は教職活動、2009年に自ら立ち上げた2年に一度の声楽コンクールである「ダス・リート "Das Lied"」での芸術監督としての活動を継続し、それらに加えて朗読の部門などで活躍している。 
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/トーマス・クヴァストホフ


Hélène Grimaud, Thomas Quasthoff - Schumann Dichterliebe 詩人の恋-Verbier Festival 2007
https://youtu.be/xfL5D_MN5bE

「歌に関しては障害と一緒に評価されたくない、一人の歌手として評価されたい、自分はそれを求められるだけのレベルに達している」

 クヴァストホフはサリドマイド児として生まれたというハンディキャップがあるが、ミュンヘン国際コンクールで優勝、審査員のフィッシャー=ディースカウからも絶賛され、キャリアを築いていった。
 引退の理由は体調不良と言われていたが、お兄様の病気(肺がん)と死だった。
「兄の余命は9ヶ月と宣告を受け、3日間文字通り声が出なくなった。ただ、もともと早く引退したいと思っていたし、クラシック音楽業界の不毛さ、堅苦しさも感じていた」

 クヴァストホフは身長は1m35cmしかなく、腕も脚も短く、指は7本しかない。
「私がステージに登場したら誰がそれを無視できるだろうか?
 しかし、リサイタルで口を開けば、観客がそれを忘れることを願っていた」

「音楽の勉強がしたかったのだが、大学では楽器が弾けないからダメだと言われた。そこで個人的に歌を勉強することにした。重要なのはネガティブなことが起きているかどうかではなく、それにどう対処し、その状況から何を得るかである」

 10年半以上にわたって学び、キャリアを積んできたが、彼を突き動かしてきたのはある大きな動機だった。
「私が生まれたときから母は(サリドマイドを服用したことに)罪の意識を感じていた。
『その必要はない』と私がいくら言っても母はきかなかった。なので私は母に、私の人生と才能を最大限に活かした姿を見せたいと思った」

 声がもどってきてからクヴァストホフはクラシック音楽の世界を離れ、ジャズに転向した。引退前からジャズをいつも楽しんでいて、ジャズのアルバムも2007年にリリースしていた。
「歌い方が違うのでほとんどやっていなかったが、いまではマイクという新しい楽器を習得した。とても気に入っている。
 カルテットの一員であることは、親密でプレッシャーもなく、素晴らしくリラックスした音楽の姿だと感じている。

My Funny Valentine マイ・ファニー・ヴァレンタイン
https://youtu.be/yPH_4JDpdyM

 エジンバラ音楽祭ではカルテットでジャズを歌い、講師として、そしてオペラ《ナクソス島のアリアドネ》に出演する。ただし、語り手役だ。

 オペラの場合、自分の見た目が聴衆の関心を惹きつけてしまうかもしれないことが心配だったが、リート(歌曲)のリサイタルの場合はそのような心配はなかった。リート歌手は最高の役者でなければならないと彼は言う。
「今のひとたちにはそれが欠けていると思う。キャラクターよりも音色の美しさが優先されてしまっている。小さな情景を表現や色彩で埋めていかなければならない。オペラの場合は衣装や舞台セットなどでそれらを隠すことが出来る」

 クラシックの世界に戻ってくる気はない。エコー賞を6回、グラミー賞を3回受賞した。
「私が証明すべきものはもうなにもない」

「私は障碍があったアーティストとして認められたかった。アーティストでもあった障碍者としてではなく」
ガーディアン(イギリスの新聞)のインタビューから。
https://mcsya.org/quasthoff-guardian/

お気に入りの音楽 31〜35

お気に入りの音楽 31〜35

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-28

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  1. 31 モーツァルトの短調
  2. 32 作品に罪はあるのか
  3. 33 放送禁止とか自粛とか
  4. 34 グレン・グールド
  5. 35 冬