シャレコウベダケの繁殖 下巻

第三章 死神へ近づく道、邪悪の様相

 東中野駅から歩いて五分ほどのところに一つの探偵事務所が存在する。神田川を渡る手前の住宅街に紛れて三階建ての雑居ビルがある。そこの一階が水川探偵事務所だ。

 扉を開けて中に入った時の印象は悪くないはずだ、と所長の水川大輔は自負していた。閾の低いアットホームな事務所にするため、内装には拘っていた。先代の所長の父から引き継いだ際、大輔自身が事務所の内装を大きく変えた。事務所の外にも拘りがあり金木犀の木が植えられていた。今の時期、真っ盛りで秋色の甘い香りが漂っている。

 事務所の中は殆どお洒落な喫茶店と言っても過言ではない。木製の丸テーブルが幾つも置かれている。壁沿いの棚には真空状態でコーヒー豆を保存できる透明のキャニスターが並んでいる。キャニスターには大量のコーヒー豆が詰まっている。お洒落に見せるため常に補充している。コーヒーミルも何種類も揃って棚に並べている。ミルの木の色が右から濃い茶色のもので、左に行くほど薄い茶色になるように飾られている。相談に来る客には大輔が淹れたコーヒーを飲んでもらう。もちろん豆にも拘っている。

 壁には水彩画が何枚か飾ってある。BGMは相談の邪魔にならない静かなクラシックを選んでいる。他の誰よりも大輔は自分の事務所が好きだった。もしかしたら自己満足だけのために気遣っているのかもしれない。自分を格好よく見せるためだけかもしれない。いや、きっとそうだ。

 そんなことを考えて、ムフッと笑った。

「何で笑っているの」

 アンジェラは丸テーブルに身を乗り出して大輔の顔を見る。二人はテーブルを間にして対面になって座っていた。

「いや、アンジェラと一緒で幸せだなって思ってさ」

 これは事実だ。来週の日曜日から木曜日にかけてアンジェラが連休を取得したため、北海道旅行に行くことに決まっていた。丁度、大輔の仕事もひと段落付いたので、一緒に出かけることに決めた。

 こんなチャンスは今までは滅多になかった。アンジェラが今年からフリーのフィリピンパブ嬢になったため、休みが自由に取れるようになった。今までは契約の嬢だったため勝手に休みを取れなかった。

「そうだ、今度の旅行は北海道のどこに行くの」

 彼女は楽しみ過ぎて、何度も北海道のことをスマホで調べているらしい。本人が言っていた。

「うーん、とりあえず札幌は行っておこうよ。俺も始めて行くからよく分かんないんだよね」

 椅子の背もたれに寄りかかって、伸びをしながら言った。

 こうした平和な一時は久しぶりだ。昨日まで妻の浮気を調査してくれ、と依頼があり、ひたすら一人の女性の行動を観察していた。結果は完全なクロだった。そのことを依頼主の男に伝えると、なぜか大輔に向かってキレ始めた。

 喫茶店のようなオシャレな事務所内で、大人の男が椅子から飛び上がって正面に座る大輔の胸倉を掴んで怒鳴り散らして来た。仕事で正直に伝えただけだが、依頼主の男は自分にとって都合の良い結果しか知りたくなかったようだ。

 他にも最近、アンジェラからも仕事を依頼されたことがあった。珍しく多忙なアンジェラが事務所を訪ねて来て、

「ねえ、柴崎由樹さんって人を調べてほしいな」

 と、椅子に座ってエメラルドマウンテンのコーヒーを飲みながら言った。

 アンジェラと柴崎由樹という女性はどういう関係なのか気になった。十七時くらいに起きて十九時には自宅を出て、朝の四時までパブで仕事をして朝帰宅して来るという生活を送っているアンジェラと交流のある女性とはどんな人物だろうか。

「その人とはどういう関係なの」

「お友達だよ」

「友達なのに俺が調べるのかい?」

 アンジェラのことを疑いたくはなかったが、きな臭さを感知した。まだ経験の浅い探偵ではあるが大輔の未熟な鼻が反応した。仕事を依頼するアンジェラから普段の底抜けの明るさが見えなかった。表情は笑っているが、どこか無理しているような笑い方だった。明るさの中に不純物が含まれているような気がした。

「うん、とりあえず調べてほしいの。どこに住んでいるのか。あと由樹さんと娘さんと旦那さんの生活も」

 何だか必死そうだった。何かにせっつかれているようにも見える。きっと喋りたくないことがあるのだろう。フィリピンから日本へ家族のために出稼ぎに来ていながら、日本の生活においても心配事が絶えないのだろう。何だか可哀想だ。

 その心配を取り除くには自分が必要とされているのだろう、と大輔は自分を納得させた。

「分かった。任せてよ」

 と、言ってあげた。

「ホント? ありがとう。ありがとうね」

 彼女はテーブルに突っ伏して泣きながら感謝の言葉を述べた。

「どうしたの、そんな大袈裟な。この前、ツヨシとはもう一緒に生活しなくて良くなったって言ってたじゃん。まだ他にも悩んでいることがあるの」

「うん、ちょっとね」

「できれば相談に乗ってあげたいけどね。探偵としてじゃなくて恋人として」

「うん、気持ちは嬉しい。でも、由樹さんのことを調べてくれれば充分だよ」

 アンジェラは強がりだ。そんな彼女の性質をよく知っている。彼女はフリーになってから、毎月入って来るお金の三分の二をフィリピンにいる家族に送っている。契約ホステス時代も半分は送っていた。

 残った三分の一は生活費や美容メイク代、衣装代で消えてしまう。一緒に食事に行った際など、アンジェラの生活の辛さを知っているため、

「今日は奢るから」

 と、毎回提案してみる。だがアンジェラは一度も首を縦に振ったことはない。

「大丈夫。私も出す。私、お金はあるんだから」

 お金なんてないはずだ。彼女の客から貰ったグッチの長財布の角は擦り切れている。自分で購入することができないのだろう。良心の呵責もあって客に強請ることもできないようだ。

 今回の旅行の飛行機代とホテル代も全て出そうとしたが許されなかった。

「何で大輔だけ払う? 私と一緒に行くんだから、私も払わないとダメ」

 そんなアンジェラが大好きだが、心配になることが多い。常に自分がいないとダメだと責任を感じる。そんなところも魅力なのかもしれない。



 飛行機は新千歳空港に到着した。アンジェラは飛行機の小窓から外の景色を楽しそうに目を輝かせながら見ていた。

「今日、すっごい晴れてるね。お出かけ日和って言うんだっけ?」

 朝早くから家を出て羽田空港に向かったため、北海道に到着した時点で、まだ昼の十二時にもなっていなかった。太陽も高く昇り、柔らかな光を地上に放射している。

 飛行機から降りて新千歳空港の中を歩いて、JR千歳線のホームに向かった。

「すごく涼しいね。まだ秋なのに」

「そりゃそうだ。北海道なんだから」

 当たり前のことに感動するアンジェラが可愛い。Gジャンの前を閉じながらニッコリ笑っていた。電車がやって来た。

 札幌に着いたらまずは昼食を取ることに決めていた。二条市場が海鮮丼で有名らしい。大輔もアンジェラも北海道は初めてなので、ベタなところに行ければ良いと考えていた。

 二条市場はビル群の狭間に広がっていた。通りには食事処や商店が並んでいる。建物全てが低く開放感があった。旅行客を気持ち良くさせる心遣いが感じられた。商店の暖簾を潜ると、蟹やアジの干物などが並んでいた。海産物の潮の香りが心地良い。

 グーグルで食べログを開いて、評価数の多い店に入ることにした。その店に向かうと看板に、うにいくら丼、かに汁、と書かれていた。文字だけで美味しそうだった。

「うにいくら丼、かに汁。美味しそうだね」

 アンジェラも大輔と同じ感想を抱いた。何だか一体になれたような気がして嬉しかった。

 店内はそこそこ広かった。座敷の卓が幾つもある。客は足を伸ばしてリラックスしながら食事を楽しむことができそうだ。

 二人は店内の真ん中辺りの卓に案内された。緑茶を二つ持って来てくれたオバチャンに、うにいくら丼とかに汁を二人前注文した。

 アンジェラと向かい合ってお互いに見つめ合った。二人はしばらく見つめ合った後、ヒヒっと笑い合った。こうして見知らぬ土地にて二人で向かい合っていること自体が奇跡だった。以前の大輔はこんな夢のようなことが実現すると期待もしていなかった。当時のことをついこの間のことのように思い出せる。初めてアンジェラと会った時、確かに自分は挙動不審を極めていた自覚がある。

 最初に出会ったのがフィリピンパブの店内だった。お店の女の子と客という立場だった。

 彼女が勤めていた店はもちろん北海道の食事処の店内とは全然違う。ここほど広くなく、合成皮革の黒いソファが並んでいた。テーブルも黒で統一されていた。オレンジ色の照明がテーブルの表面を照らしていた。テーブルの傷がよく見えた。

 大輔は旦那が浮気をしているのではないか、と奥さんから相談を受けて調査をしている最中だった。その男がフィリピンパブに入店したため、証拠写真を撮るために大輔も追って入った。

 だが実際は、彼も少し入りたかったため赤と黒の格子模様のドアを開いたのだ。つい出来心だった。そんな探偵いるのか、と今の大輔も当時の行動を振り返ると恥ずかしくなる。

「いらっしゃいませー」

 片言の可愛らしい日本語でお出迎えをされる。目的の男がいる席を確認した。狭い店だったため、どこからでも写真を撮れそうだ。だが結果的に、大輔は一枚も写真を残すことができなかった。この店でアンジェラと出会って彼女に一目惚れしたからだ。始終彼女の顔しか見ていなかった。仕事どころではなかった。


「お客さん若いね。隣良いかしら」

 大輔がソファに腰かけると、一人のフィリピン人女性が隣に座った。彼は声のした方向に顔を向けた。

「リカです。よろしくです」
 思わず目を丸くした。彼女の容姿が大輔好みの女性と寸分の狂いもなかったからだ。クリーム色と小麦色の中間の肌色をしている。目元は東南アジア系のパッチリ二重だ。顔も鼻も口も小さくて幼く見える。赤目メイクと着ているオレンジのドレスが幼い顔立ちのせいで、似合っていない。似合っていない点も気に入った。

「そんなに顔見ないでよ。照れるです」

 見とれて彼女の顔を凝視していたようだった。

「あ、ごっ、ごめんなさい」

 慌てて目を逸らした。童貞だとバレたかもしれないと危惧したがリカは表情を全く変えない。大輔は当時二十一歳で、まだ童貞を守っていた。

「とりあえず、何か飲みますか?」

 本来の目的は追っている男の遊蕩の場面を写真に収めることだった。だが、この時の大輔はリカと名乗っていたアンジェラに夢中で仕事を忘れていた。

 情けない探偵だ。時折思い出して恥を覚える。だが、アンジェラと初めて会えた大切でオパールのように綺麗な記憶でもある。

「お兄さん、学生さんです?」

 ビールを飲みながらアンジェラは聞いた。普段なら学生で通すつもりだ。

「いや、ちっ違うんですよっ」

「え、じゃあ何の仕事してるのですか」

「実は、そのお、探偵事務所ってところに、勤めているんですよ」

「タンテーって」

「ああっ、ディ、ディテクティブですよ」

「ええ、凄い凄いです」

 アンジェラは両手を叩いて褒めてくれた。大輔は不意に男の方を見た。男の後頭部が見える。何も気にせずに嬢と酒を飲み交わしているようだ。ひと安心だ。

「あの人追ってるのですね」

 ドキリとした。アンジェラは大輔の目線を追って対象の男を確認したようだ。彼女は人懐っこい子犬みたいな丸い顔でキョトンとして見せているが、油断ならないことに気付いた。

「ちょっ、だっ、誰にも言っちゃあダメですよ」

 馬鹿だ。この行動を思い出すと、決まって頭を抱えてしまう。結果的にアンジェラは何も言わないでくれたが、最悪、クライアントの依頼主から見放されて仕事がパァになってしまう。信頼もダダ下がりになっていてもおかしくなかった。

「うん。絶対に言わないです」

 アンジェラは口を手で塞いで首を横に振った。何も言わないと体でも表現しているようだ。益々可愛い。

「お兄さん、名前何ていうのです?」

 これも本来なら教えない。ところがビールに酔ったのか、アンジェラに酔ったのか、

「大輔と言います」

 と、本名を平気で喋った。

「ダイスケ?」

「う、うん」

「かっこいいです」

 と、言いながら彼女はは両腕で大輔の肩に抱きついた。童貞に耐えられる訳がない。ムホッという声が鼻と口から出た。

「若いのにタンテー頑張っててかっこいいです。ダイスケ」

 照れを必死に隠しながら彼女から離れ、ビールをグイッと飲み干した。これ以上いたら常連になりそうだった。探偵なんてそんなに実入りが良い訳ではない。何度も来ることはできない。彼女に惚れてはダメなのだ。

「あっ、じゃあ、そのお、そろそろ行きますね」

大輔は外で待ち構えて店から出てくる男を撮影することに決めた。ここにいたら、もうアンジェラしか目に入らなくなる。彼女は立ち上がって、

「もう行っちゃうの」

 と、今度は捨てられる子犬みたいな顔をした。大輔は、ごめんね、と言うしかなかった。またここに来るかどうかは分からない。本来なら絶対に来ないが、アンジェラが可愛すぎて迷いが生じた。

「外まで送るね」

 会計を済ませた。合計五千円だった。赤と黒の格子模様の扉を開けて外に出た。アンジェラも付いて来てくれた。

「ダイスケ、今度は千円だけで良いからさ。絶対に来てほしいです」

「え、千円?」

 耳を疑った。どうして千円だけで飲むことが許されるのか。

「そ、そんなこと、ど、ど、どうして、できるの」

「特別です。私はいつも頑張ってノルマこなしてるから、ママは優しいんです。だからダイスケに特別してあげれる」

 外の空気に触れたからか冷静になれた。騙されているのではないか。

「本当に?」

「本当だよ。私を信じてほしい」

 アンジェラはまっすぐ見つめる。五秒くらい二人の目は見合っていた。彼女が嘘を吐いているようには見えなかった。

「分かったっ、また来ますっ」

「ありがとう」

 アンジェラは大輔に抱きついて彼の右頬に口付けした。

「これも特別です」

 結局その日、男の写真を撮り忘れて帰宅した。何て馬鹿な男だろう。一人のフィリピンパブ嬢に悩殺されて、何も思考できなくなっていた。

 今、目の前で座敷に座っているアンジェラも大輔の好みの見た目にしている。メイクはブラウン系に統一している。服装はネイビーのGジャンと薄紫色の小花柄のワンピースを着ている。アンジェラと交際して童貞を卒業できた。彼女には感謝しかない こんな男を拾ってくれる異国出身の褐色の天使がいたなんて、と思う。

「ねえ、大輔」

 大輔のことをまっすぐ見ながら、アンジェラは両手の親指と人さし指の腹を忙しなく擦っている。何か言うべきかどうかを悩んでいる動作だ。これまでも幾度も見たことがある。

「何?」

「やっぱ、何でもない」

 やはり何か喋りたくても喋れないことがあるようだ。こういう時は無理に聞き出してもダメだ。アンジェラは意外と頑固なところがある。あまりしつこくすると余計に内に籠る。

「お待たせしました。うにいくら丼、かに汁お持ちしました」

「わあ、美味しそ」

 彼女の顔がようやく満開に咲き誇った気がした。最近は五分咲きほどの笑顔しか見られていない。何があったのかは知らないが、気がかりだった。

 アンジェラは丼の写真など撮ったりせず、すぐに箸を付けた。そういうところも好きだ。

 大輔も丼を食べて汁を飲んだ。溶けるようなうにと、弾けるようないくらが絶妙だった。うにの少々癖のある旨味が大好きだった。かに汁の味噌は普段の味噌汁とは比べものにならないほど濃厚だった。かに味噌は臭みが美味い。味噌汁にして若干の臭みを残したまま小葱を散らした汁の香りは口から鼻に抜けて行く。

「美味しいね」

 アンジェラも満足そうだ。彼女の口角の上に一つ米粒が付いていた。

「付いてるよ」

 教えてあげると、恥ずかしそうに手で口元を隠して舌で取った。

「取れた?」

「うん」

 何て幸せな日なんだろう。こんな日がいつまでも続くとは思っていない。だがなるべく長く続いてほしいと願う。

「アンジェラ」

「ん、何?」

「いつまでも一緒にいたい」

 真剣だ。言葉に出して将来の幸福を確固たるものにしたかった。

「私も」

 アンジェラも笑っているが本気だろう。彼女と付き合って本当に良かった。

 ベタな旅行を目指す大輔とアンジェラは札幌駅の方に戻った。がっかりポイントでお馴染みの時計台に向かった。

「凄いね、期待に応えるように大したことないな」

 大輔は思わず笑った。釣られてアンジェラも笑った。交通量の多い国道の傍に小さな洋館みたいな建物がポンッと建っているだけだ。これ以上何もない。

 呆れて二人は札幌テレビ塔へと向かって歩いた。ここも予定していた場所だ。

「楽しい。大輔と一緒に歩いているだけで幸せ」

 歩いている途中、アンジェラが小さく飛び跳ねながら言った。

「本当だね」

 これまで偽装結婚相手やマネージャーから一日中見張られていたアンジェラとは、彼女の仕事終わりの早朝でしか会えなかった。しかも誰にも見られないように、細心の注意を払わなければいけなかった。見つかれば大輔は大柄なマネージャーからタコ殴りにされただろう。

 付き合う前に大輔はアンジェラから、千円で良いよ、と言われてから一週間後に再び店に向かった。彼女に忘れられたくなかったからだ。この時の決断のかげで今の幸せがある。

「わあ、ホントに来てくれた」

 事前にラインで行くことを伝えていたが、半信半疑だったのだろう。それはそうだろう。まだ店で一度しか会っていない人間を百パーセント信じることなどできない。特に彼女たちは外国で働いている身だ。彼女たちにとっては外国人になる日本人に対して警戒して当然だろう。アンジェラのことを最大限に気遣って接した。

「本当に千円で良いのですか」

「大丈夫です。コッチに来てほしいです」

 前回と同じソファに案内された。だが彼女と同じくらい、外国人の彼女に対して大輔は警戒心を抱いていただろう。ボッタクリの可能性がある。行く前に幾度も考えたことだ。いくらアンジェラの見た目が好みでも、お金を騙し取られて良い気はしない。

 だが、この日本当に千円だけしか請求されなかった。拍子抜けした。こんなものなのだろうか。アンジェラに疑心暗鬼になっていたことが急に恥ずかしくなった。向こうは日本にやって来て日本人の大輔が来ることを信じていた。一方で大輔は日本人でありながら、日本で健気に働くフィリピン人を疑っていた。器の大きさが違い過ぎる。

「ねえ」

 格子柄の扉を開けた帰り際、アンジェラは大輔を呼び止めた。

「今度、お店終わった後に来てよ」

 同伴だろうか。相変わらず警戒はしていたが、今日の失礼な疑いの気持ちを捨て去るために会うことに決めた。アンジェラが本当に千円で遊ばせてくれた分、こちらからも誠意を見せなければ。童貞の大輔は女性に対して潔白で実直だった。将来への期待と非現実的な出来事に対する恐怖から震えが止まらなかった。

 翌日、大輔は父親の車を運転して店の近くのコンビニの駐車場でアンジェラが来る時間を待った。前以てアンジェラに車の特徴を教えておいた。不用心だが車のナンバーも伝えていた。アンジェラに対して精一杯誠実に振る舞ったつもりだった。

 しばらく待っていると、窓をノックされた。アンジェラが立って右手を振っている。車の施錠を解いて助手席の扉を開けてあげた。彼女はそそくさと車内に入った。

「大輔、ありがとう。私嬉しいです」

「いやっ、お店の中で会わなくて良いんですか?」

 これでは売り上げにならないではないか。

「うん。だって大輔とは、もっと仲良くなりたいから」

 シンプルな言葉が一番心に響く。アンジェラの日本語はかなり上手だが、回りくどい言い回しなどは知らない。直接大輔の琴線に触れる。好みの顔貌の女性からの直接的な愛の言葉は大輔を悩殺させる。

「大好きだよ」

 車のアクセルを踏む前に恋心のアクセルを踏んでしまったな、と下らないことを考えた。

「おっ、俺も。だよ。」

 と、照れながら言って、ようやく車を出した。この日は短い距離をドライブしながらお喋りして終わった。

 朝の六時に彼女のアパートの前に到着した。部屋の中にはツヨシという偽装結婚相手がいるため、少し遠くに降ろしてくれるように頼まれた。

「ありがとね、また仕事終わりになっちゃうけど、来てくれたら嬉しい」

 森閑とした早朝の空気の中で、ピンヒールの音を響かせながらアンジェラは去った。

 また会いたい。大輔は目を瞑ってハンドルに額を付けてアンジェラへの恋慕の気持ちと向き合った。確実に自分は恋をしていることを噛み締めた。

 当時のことを思い出して大輔は懐かしさを覚えて一人で感動していた。あの時の自分たちがここまで関係を築けているだなんて、あの時は思いもしなかったなと。

 札幌テレビ塔のある広場に到着した。ところどころに小さな花が咲いており、気持ちの良い場所だ。

「最初は車から出られなかったのに、こうやって二人で外を歩けるなんて、感動しちゃったな」

 と、つい言葉が出た。出会った頃のことを考えていたため、現在の恵まれた環境に感謝できた。

「ホント。大輔と会ってから人生変わったんだ」

「いやあ、俺の方が変わったよ」

「えー、そうなの。私の方が変わったんだよ」

 テレビ塔のある広場から移動してチョコレートケーキが有名な洋菓子店に向かった。時刻は三時半。丁度おやつの時間だ。二条市場の方に戻るように歩いた。車の交通量が相変わらず多い。ビルとビルの間に小さな公園が見えた。土曜日なので地元の子供たちがジャングルジムで遊んでいた。子供たちを見ていたアンジェラは、

「大輔はどんな子供だったの」

 と、尋ねて来た。

「え、子供の頃? うーん」

 地味で何も取り柄のない陰気な生き物だった。あだ名はナメクジ。給食の時にスイカに付いていた塩をかけられて虐められていた。教室でずっと泣いていた。

「あんまよく覚えていないんだよね」

 せめてもの強がりだ。昔の自分の話をしたくない。初めての彼女になるような子を目の前にした、ついこの前まで童貞だった者の性質だ。

「アンジェラはどんな子供だったのさ」

 卑怯な逆質問をした。

「えー、恥ずかしいよ」

「自分から聞いたくせに」

 二人で笑い合った。

「ウチがね、貧乏だったんだ」

 アンジェラは話し始めた。

「ボロボロの小屋みたいなところにね、家族五人で暮らしてたんだ。私と弟と、お母さん、お父さん、おばあちゃん。強い風が吹くと屋根が飛んじゃうくらいボロなの。もちろんお風呂もトイレもない、汚いところだったんだ。お風呂は教会で借りることができたけど、トイレは川でするしかなかった」

 自分の子供時代について話してくれた。彼女の家は相当貧乏だったらしい。何だか暗い話を振ってしまい申し訳なくなる。彼女は気にせず話し続ける。

「私は七歳から街に出て働いてたんだ。日本みたいに高い給料じゃないよ。すっごく安いの。しかもお母さんが作ったよく分からない物を売らないといけないから、全く買ってもらえない。たまに優しい人が買ってくれただけ。お金は生活のために使うから学校にも行けなかった。ホントに辛かった」

 国道沿いにある堂々としたリゾートホテルの横を歩いて通った。土地が広いからか、道路はどこも幅が広い。

「私ね、その時決めたんだ。お金を一杯稼いで家族の暮らしを楽にしたいって。だから私は頑張るんだ。だから、もっと稼がないと」

 アンジェラは可愛い顔を引き締めて、一本筋の通ったしっかりとした声を出した。何だか自分が卑小な存在に思えた。楽しい旅行なので暗い顔はしたくなかった。

「そうだったんだ。今すごい頑張っているよ」

 と、心を込めて彼女のことを褒めた。大輔にはそれしか言うことができなかった。あまりにも自分の境遇と違うので彼女の身になって考えることが難しかった。だが精一杯努力をすることはできた。

 目的の店に到着した。店内に入ると目の前のショーケースには箱詰めされたチョコレートと、カラフルなマカロン、何種類もあるケーキが並んでいた。

「わあ、美味しそう」

 アンジェラは顔を綻ばせて、感動したような声を出した。

「ミルフィーユにショートケーキ、チョコレートケーキ、抹茶ケーキ、モンブラン、全部美味しそう」

 彼女は可愛いものが大好きだ。日本のファッションやメイク、アイドルも大好きで雑誌を持って、これ可愛いよね、と大輔に度々同意を求めた。今はショーケース内のケーキの見た目の可愛さに夢中になっている。

 二人は店内にある席に案内された。明治時代の欧化政策を彷彿とさせる紅色のカーペットと、白いクロスが敷かれた丸テーブルが並んでいた。天井からはシャンデリアが吊るされている。

 注文を求められて、大輔はチョコレートケーキ、アンジェラはミルフィーユを注文した。飲み物はコーヒーを二つ頼んだ。

「初めて箱根デートした日を思い出すね」

 アンジェラに言われて大輔も箱根へデートしに行ったことを思い出した。初めての遠出だった。確かに、あの日も二人で向き合ってコーヒーとケーキを食べた。帰って来たら、あんな目に遭うとも知らずに無邪気に楽しんでいた。

「あの時大変だったね」

 当時のことを思い出す。本気でアンジェラのことを一生守ろう、と決意した時だ。

 閉店後の時間にアンジェラとデートするようになってしばらく経った時のことだった。彼女は高いヒールを履きながらスキップして来る日があった。大輔は助手席の扉を開けてあげた。

「どうしたの。随分と嬉しそうじゃん」

 アンジェラが入って来た。

「どうしてだと思う?」

 笑顔を大輔の肩の近くまで寄せて聞いた。

「えー、誕生日はまだだし。何だろ」

「実はね、明日と明後日、二日間も休みを貰えたの」

 まだ契約ホステスだったアンジェラは月に平均して二日ほどしか休みはなかった。二日連続と休めるのは、相当珍しいことだ。アンジェラが真面目に働いて売り上げを伸ばしている証拠だろう。

「それにね、明日も明後日もツヨシがいないの」

「本当に?」

「ホントだよ。だからこんなに嬉しいの。ずっと大輔といれるから」

 肩を抱かれた。彼女は胸を彼の腕に当てて、

「どこかに行きたいな」

 と頼んでくれた。

「じゃあ、今から行こう」

 大輔はアンジェラが求めているだろう言葉を察して提案した。

「えー、いいの? ありがとありがと」

 アンジェラは車のシートの上で上下に弾んではしゃぎ出した。

「どこか行きたいとことかある?」

「リラックスできるところがいいな」

「じゃあ、温泉なんかどうかな」

「温泉イイね。でも、大輔と別々に入らないといけない。それは嫌だよ」

 既に大興奮だった。この時の彼はまだ童貞だった。まだアンジェラの裸を見ていなかった。

「え、じゃあ、部屋に温泉が付いているところに泊まれば良いんじゃないかな」

 平静を装ったが、声が上擦った。

「それがイイね。そうしよ」

 アンジェラは嬉しそうだったので、引かれなくて良かったと安心した。

 そのまま箱根に向かって発車した。初めての遠出のデートになった。これまで店とアンジェラの自宅の間でしか一緒にいれなかった。路駐して二人で会話を楽しむことしかできなかった。普通の恋愛のように自由に二人きりになれなかったので、二人で出かけられただけでとんでもなく嬉しかった。

 運転している途中、寝てて良いよ、とアンジェラに言ってあげたが、大丈夫、と彼女は強がって眠そうな目で前を見ていた。だがしばらくすると彼女は寝落ちした。当然だ。昨日の夜の七時から朝の四時まで働きっぱなしだったのだから。

「箱根に着いたよ」

 目的のホテルに到着してから起した。

「あ、ごめん。寝ちゃった」

「大丈夫。疲れているだろうし」

 フロントガラスからホテルの外装を眺めた。白い壁が西洋風だが、エントランスは木の柱などが立っており和風だった。ホテルのすぐ横で一軒の喫茶店が営業していた。

「あそこで朝ご飯でも食べようか」

 時刻は朝の九時前。丁度お腹が空いている時間だ。サンドウィッチでもあるだろうと見て大輔はアンジェラと共に車から降りて喫茶店に入店した。

「わあ。可愛い」

 入ると直ぐ目の前にショーケースがあり、沢山のケーキが並んでいた。

「私、ケーキ食べちゃおうかな」

 アンジェラは舌の先をピロッと出して、わざとらしくお茶目な顔を作った。

「いいじゃないの」

 大輔がアンジェラの発言に反対することはなかった。彼は何でも賛成するだけでなく、彼女と同じ行動を取りたがった。彼もケーキを食べることにした。

 案内された木製の四角いテーブルに二人は向かい合って座った。窓際の席で横の窓からは朝日に照らされた一本の樹木が見えた。

 大輔はロールケーキとコーヒー、アンジェラはショートケーキとコーヒーを朝食にした。

「美味しい」

 ケーキを頬張っていたアンジェラの顔を大輔は忘れることはなかった。今、北海道でケーキを食べているアンジェラも同じ顔をしている。

「美味しい」

 当時と同じ言葉を発した。無邪気なアンジェラは変わっていない。

 だが、何か違う気もする。今でも大輔はアンジェラが好きだ。フリーになってアンジェラも大分生活が楽になったはずだ。それなのに、何か彼女が憂慮しているように見える。やはり明るさの中に不純物がある。

 アンジェラが由樹という女を調べてほしいと頼んだ時に感じた違和感を、今ケーキを食べている瞬間にも覚えた。箱根デートの時と今を比較できたので一目瞭然だった。彼女は何か懊悩を抱え込んでいるに違いない。

「どうしたの、大輔」

 アンジェラは首を傾げて不思議そうにしていた。長い時間不自然にアンジェラの顔を見ていたことに気付いた。

「あ、ごめん。何でもないよ」

 どう聞けば良いのかが分からなかった。アンジェラは頑固で強がりなので普通に聞いても教えてくれないだろう。家族のために意地でも弱音を吐かない女の子だ。聞いても教えてくれないことは明らかだった。

 結局、大輔は何も聞けないまま夜を迎えた。夕食はホテル近くの店で、えぞ但馬牛のステーキを食べた。二人ともミディアムレアで焼いてもらった。席に座って待っていると、鉄板を持って来たシェフが近くで焼いてくれる店だった。

 夕食を食べ終えるとホテルに入って、最上階のバーに行くことにした。二人は夜の札幌の街が見下ろせる窓の近くのテーブル席に着いた。

「実はさ、言いたいことがあって」

 やはりアンジェラは何か気にかけていたようだ。ようやく話してくれるようだ。一日かけて言う準備をしていたのだろう。この時を待っていた。

「これ、返そうかなって思って」

 と言って彼女はポケットから何か取り出した。無地のラベンダー色のハンカチだ。アンジェラにもしものことがあった際に、SOSを発信できるために渡した物だ。連絡が取れる端末を隠すためにハンカチに装着した代物だ。初めての遠出のデート後に起きた事件を契機に大輔が作って渡した。なぜそれを返すのか。渡した時のことを思い出しながら考えた。

 箱根から帰って来た時、車でアンジェラの自宅のアパート前まで送り届けた。ツヨシはいないから、とアンジェラが言うので部屋に遊びに行くことにした。フィリピン料理を振る舞ってくれるという話だった。彼女の部屋はアパートの二階の左端にあって、外階段が正面にある。

「ちょっと車で待ってて。一応ツヨシがいないか見て来る」

 アンジェラは一人で階段を上って行った。鍵を開けてゆっくりと扉を開けた。扉の隙間から体を滑り込ませた。

 なかなか帰って来なかった。戻って来るまで絶対に来たり電話したりしないで、と言われていたので車内で静かに待っていた。
 部屋の扉が開いた。大輔は腰を上げようとした時、アンジェラが血相を変えた顔をして部屋から出て来た。緊急事態だ。アンジェラの忠告を破って慌てて車から出ようとした。遅かった。アンジェラの背後から、グレーのスウェットを着た長身で髪の薄い中年男性が現れて彼女の後頭部を殴った。彼女は外階段の一番上の段から一階の地面まで転がり落ちた。

 大輔が車から出ようとすると、

「来ちゃダメ」

 と、アンジェラは叫んだ。頭から出血していた。行かない訳にはいかない。大輔は車から降りて負傷したアンジェラに駆け寄った。

「大丈夫?」

 アンジェラは傷口を手で押えていた。指の隙間から流血していた。男は部屋に戻ったようだ。大輔はすぐに救急車を呼んだ。その事件をきっかけに大輔はツヨシと言われているアンジェラの偽装結婚相手に注意するようになった。

「やっぱ、心配なんだよ」

 アンジェラが退院する日に大輔は迎えに行った。車の中で並んで座って喋った。車は中野のスーパーにある駐車場に停めていた。

「ごめんね。心配させて。でも、大輔に迷惑かけたくなくてさ」

「もう、そんな気遣いやめてくれ。そんなこと言われると寂しいんだ」

 と、言いながら無地のラベンダー色のハンカチを取り出して彼女に渡した。

「え、何これ」

 アンジェラは受け取ったハンカチを眺め回した。見た目には普通のハンカチだ。だがハンカチにしては重たく、彼女は首を傾げていた。

「ちょっと広げてみて」

 言った通りにアンジェラはハンカチを開いた。広げたハンカチの中央に正方形のスマホのような端末が付いていた。

「電源ボタンを押してみて。下の方に緊急通報ってあるじゃん」

「うん、あるね」

「そこで777って打って電話してみて」

 電話をかけるとすぐに車内にサイレンが鳴り響いた。うるさくて耳障りな音だ。

「何これ」

 彼女は驚いている。大輔は自分のスマホを操作してサイレンを止めた。

「これはアンジェラのピンチになったらすぐに知らせてくれる機能を持った端末なんだ。それを隠すためにハンカチで隠せるようにしたんだ。もしアンジェラがツヨシからまた酷い目に遭ったらすぐに駆けつけられるように作ったんた。ツヨシにスマホを没収されてもこれで連絡できるようにね。ハンカチで包んで隠しておけば見付からないだろうし」

 車を運転している時もブルートゥースでスピーカーと接続しておけば良い。今もそうしている。

「もしもの時のために。持っておいて」

「うん。ありがと」

 アンジェラは笑ってくれた。そんなハンカチを今、大輔に返そうとしている。どうしてなのかやはり分からない。

「何で、もういらないの」

「うん。だって、もうツヨシいなくなるから」

「そりゃそうだけどさ。もしものことがあるかもしれない。アンジェラは接客の仕事をしている。変な人に何かされるかもしれない。その人はまずスマホみたいな他人と接触が取れる道具を奪って行くんだ。だからこのハンカチが役に立つんだ」

 ハンカチを返されることで、アンジェラが自分から離れようとしているようで焦っていた。何か離れて行かないといけない事情があるのだろうか。それとも自分は飽きられたのか。

「もちろん、大輔は優しいしすごいしカッコいいし、自慢の彼氏だよ。でも私だけが迷惑かけてるから」

 アンジェラは泣き出した。テーブルに突っ伏して小さな声で泣いた。バーは静かだったので、囁くような泣き声も他の客に聞かれているような気がした。

「どうしちゃったんだ」

 今の彼女は何かおかしい。大輔はアンジェラの内面で蠢く苦悩を読み取れず歯痒い思いを抱いた。一体何に悩んでいるのだろうか。何があったというのだろうか。

 悪い予感だけは当たりやすい。北海道から東京に帰った翌日から、アンジェラとは連絡が取れなくなった。店にも連絡をした。ママからアンジェラは最近出勤しなくなったと教えてくれた。一体何があったのか、釈然としない気持ちのまま過ごすことになった。



 アンジェラがいなくなってから一か月経とうとしていた。空気は冬の匂いを含め始めた。彼女は一体どこに行ったのか知ることができないままだった。大輔は事務所の椅子に座って、テーブルに置いてあるスマホを凝視したまま動けなくなっていた。

 彼女からの連絡を待ち侘びていた。こんな呆気なく離れてしまうことに納得ができなかった。もし自分に何か至らない点があったのなら言ってほしかった。彼女のためならば、必死で改善するつもりだ。悪い点を何も伝えてくれずに去って行くなど、親切な彼女には似合わない行動だった。

 やはり柴崎由樹に関係することで何か事件に巻き込まれたのではないかと疑っている。由樹を調べても特に異常を感じるようなポイントはなかった。普通の家族を支える奥さんにしか見えなかった。どうしてアンジェラが由樹について調べてくれと頼んだのかが理解できなかった。

 アンジェラは北海道旅行中にも何かを気にしている様子だった。ラベンダー色のハンカチの端末を返却したかっただけではないようだ。何か災厄に巻き込まれていたのではないか。そうとしか考えられない。

 客もいないので、事務所内にあるテレビの電源を点けた。今は十七時を少し過ぎた頃で、報道番組が放送されていた。内容は最近頻繁に取り上げられている事件のことだ。頭だけ地面から出した死体が全国様々な場所で発見され続けている。

 報道番組だけでなくネットでもこの事件は興味深いテーマとして扱われている。5ちゃんねるでも頭蓋骨が茸のように生えていることから、シャレコウベダケと称されて多くのスレッドが立てられている。

 現在では既にシャレコウベダケは、北は北海道、南は鹿児島まで様々な場所で発見されている。死体の死亡推定時刻から考えて全て同一人物が行った犯行とは考えられない、という結論も出ていた。全国にシャレコウベダケのような不気味な死体ができるような殺害方法を実施する者が同時期に複数人発生したことになる。

 異常性と凶悪性のある事件のせいで、多くの国民が戦々恐々としてしまっている。もしかしたら自分の周りにも異常殺人犯が潜んでいるのかもしれないからだ。沖縄や離島に住む者以外はみんな恐怖している。最近では家に引き籠って最低限の行動だけをするという人が増え、ステイホームという風潮までも作った。日本国自体が、いつ誰が殺すか殺されるのか分からない状況になっている。経済も大きな悪影響を受け、旅行会社や旅館、ホテルなどが厳しい状況に追いやられた。

 大輔はテレビの電源を消した。椅子から立ち上がって事務所内をウロウロし始めた。気のせいだろうか。一つ気にかかることがある。アンジェラがいなくなってから、シャレコウベダケの繁殖が始まったような気がする。見つかり始めただけでそれ以前にも行われていたかもしれないが。

 最初は和歌山県と福岡県の山奥で発見されたというニュースだった。だが一日経つごとにシャレコウベダケが次々と発見されるのだ。

「アンジェラ」

 と、独り言ちた。大輔の第六感が危機を感じ取った。いつまで経っても音沙汰ないため自分から動くしかないようだ。昨日で一件来ていた案件は解決した。婚約相手の身元調査だった。今は一件も依頼が来ておらず自由に動ける。

 大好きなアンジェラが酷い目に遭っているかもしれないのに、じっとしていることが辛すぎる。何もせずにアンジェラのことを考えると思考の百パーセントを辛い想像に使ってしまい頭が痛くなる。動きながら考えれば五十パーセントの思考を行動のために使えるので、辛さを半減させることができる。アンジェラのことを見付けられる可能性もあるため一石二鳥だ。

 善は急げと事務所を出た。急ぎ過ぎて椅子の脚を蹴って倒してしまった。

 とりあえずアンジェラの住んでいるアパートのある鶴見まで行くことにした。ツヨシと離婚してからは一人暮らしをすることを許可されていた。駅の近くにある便利なところだった。合鍵も受け取っていたので、自由に入ることができる。

 東中野駅から中央線で新宿駅まで向かい、山手線で品川まで行く。品川から京浜東北線で鶴見へ向かった。事務所を出てから約一時間経った。アンジェラのアパートに辿り着いた。

 外階段を上って真ん中の扉の前に立った。アンジェラはトラウマからか、階段の前にある部屋は避けたと言っていた。

 なぜか目的の部屋から掃除機をかける音が漏れ聞こえた。誰かいるようだ。一気に緊張感が高まって警戒することにした。もしかしたらアンジェラを攫った人物が暢気に部屋に居座っているかもしれない、と嫌な想像をした。

 合鍵を使わずにインターフォンを鳴らした。もし居留守を使うのであれば、相手に何か疚しいことがあると分かるからだ。だが、大輔の心配は杞憂に終わった。

「はいー」

 掃除機の音が聞こえてから、見知らぬ女性が出て来た。顔の造りや口調からフィリピン人だと察せられた。

「誰です?」

 扉を開けた女性は怪訝そうな顔をしていた。

「アンジェラさんいる?」

 気がせいて彼女の質問を無視して聞いてしまった。彼女は眉をひそめた。

「アンジェラさん、全然帰って来ないです。私心配です。貴方こそ知らない?」

 大輔は首を横に振る。どうやらアンジェラは同じフィリピンパブに勤める女の子と同居していたようだ。フリーになって生活に余裕が生まれたからか、生活に困っている子と生活しているのかもしれない。

「そっか、何かアンジェラさんについて知ったらここに連絡してほしいです」

 自分の名刺を渡した。名刺を見た女の子は、

「あっ」

何か気付いたような声を出して、大輔の顔をこれでもかと見た。

「どうかしましたか」

「ダイスケって書いてある」

彼女は細くて小さい人差し指で名刺に印刷されたローマ字のdaisukeの表記を指した。

「ええ、私の名前ですが」

「アンジェラさんから聞いたことあるです」

 彼女曰く、アンジェラはベッドに寝転がって眠りにつくまでの間、度々大輔の話をしていたようだ。

「アンジェラさん、すっごい幸せそうだった」

 目の前の女の子の態度が急に柔らかくなった。それほどにアンジェラは大輔のことを良く言っていたのだろう。何だか恥ずかしくなった。同時に何としてでもアンジェラを見付け出さなければと決意を固めるきっかけにもなった。

「アンジェラがどこに行ってたとか、そういう話は聞かなかったですか」

 女の子は、えーっと言って頭を抱えていた。

「ダイスケさんと北海道に行くって話は沢山聞いたけど、他に出かける話なんてなかったです」

「誰か知らない人がこの部屋に来たとかもないですか」

「うーん、ないですね。あっ」

 女の子は何か思い出したようだ。

「どうかしましたか」

「ここに来た訳じゃないんですけど。お店に知らない女の人がアンジェラのことを探しに来ました。私もその時お店にいて誰だろって思ったけど、その女の人が来た日にアンジェラさんいなくなっちゃったんです」

「本当ですかっ」

 一縷の兆しを見出した。

「ホントです。ウチみたいなお店に女の人が来るなんて全くないですから、珍しいなあって思ってたんです。まあ、席にも着かずに帰っちゃったんですけど」

「入り口でアンジェラがいることだけ確認して帰ったってことですか」

「そうなんです。ウチの店のママが出迎えてたんですけど、すぐ帰っちゃったから、何あの人って文句言ってたの覚えてるんです」

 女の人はアンジェラが店にいることを確認した。その後にアンジェラは姿を消した。その女性がアンジェラを連れ去ったのかもしれない、と大輔は推理した。

「その女性の顔は覚えてますか」

「いえ、暗かったので顔はあんま見えなかったです。ママなら分かるかも」

 大輔はお礼を言って去ろうとすると、

「ちょっと待って下さいです」

 と女の子に呼び止められた。

「はい、何でしょうか」

「今からお店に行くんでしょ」

「はい、そうですよ」

「じゃあさ、ウチで休んで行って下さい。アンジェラさんの行ったところのヒントが何かあるかもしれないのです。私には分からないけど、ダイスケさんはアンジェラさんと仲良しだから何か分かるかも」

 女の子の言葉に甘えて部屋にお邪魔した。アンジェラがここの部屋に引っ越してからは、彼女が大輔の家に来ることばかりだったので、初めて入ることになる。

 ツヨシと同居していた時の部屋とは違って、二人暮らしに丁度良い2LDKの部屋だった。以前ツヨシと同居していた際の部屋に、ツヨシの留守を狙って入ったことがあった。一つしかない居室に全てが詰まっているようだった。部屋の対角線上の角に二つのベッドが置かれていた。黒いシーツの敷いてあるベッドとピンクのシーツが敷いてあるベッド。眠るタイミングは全く違うので変な緊張感はないだろうが、同じ部屋にベッドが二つあったことは衝撃的だった。

 現在の部屋はそんな粗末なものではなかった。居間とは別にアンジェラの部屋と女の子の部屋が一つずつあった。お互いのプライバシーを守っている。

 リビングに入った。シンプルな部屋だった。物が殆どない。食卓と椅子が二つ。テレビ台がなくテレビが床に直で置かれていた。

「お茶入れます」

 女の子は甲斐甲斐しく動いて、キッチンにあるワゴンから粉末の緑茶を取り出した。

「ここに住みだしたのは、アンジェラから誘われてですか。それとも貴方から誘ったのですか」

 食卓の椅子に腰かけて、湯呑みに湯気の立つ緑茶を入れてくれた女の子に尋ねた。彼女は対面の椅子に腰かけた。

「アンジェラさんからです。アンジェラさんは良い人です。しっかり者です。スゴイ人です」

 頷いて同意した。アンジェラは最初バカっぽく見えるが、付き合っているうちに彼女の責任感や意志の強さに圧倒される。

「うん。分かるよ」

「だから、何か事件に巻き込まれたんじゃないかって心配です。アンジェラさんはそんな時、誰にも頼ったりしないのです。自分で何とかしようとする」

 女の子のアンジェラ分析は的を射ている。不意にラベンダー色のハンカチのことを思い出した。

「ハンカチ。アンジェラって薄紫色のハンカチを持っていませんでした?」

 今彼女がハンカチを持っているか気になった。旅行の日、結局受け取らなかった。ただ彼女がハンカチ付き端末を持っていなければ、向こうからの連絡は期待できない。

「ダイスケさんがアンジェラさんにプレゼントしたやつですね。見たことあります。アンジェラさんが自慢してたから。今は、どこにあるのか分からない。アンジェラさんが持っているはずです」

 持っているなら良かった。アンジェラが連絡してくれる可能性がある。あまり期待はできないが、自宅に置きっぱなしよりかはマシだ。

「アンジェラの部屋を見せてもらうことってできますか」

「はい。ダイスケさんなら良いと思います」

 リビングからアンジェラの部屋に入った。窓際に見たことのあるベッドがあった。ピンクのシーツには皺一つできていない。

 学生が使うような机も置いてあった。本棚になっているところには日本語の教科書が置いてあった。

 本棚になっているところの横にはコルクボードが立てかけられていた。アンジェラと大輔のツーショットの写真が数枚飾られていた。その中に一片だけ紙切れがピン止めされていた。

「旦那デスノート。可哀想な妻たちの交流所。パスワード、Rika0914A」

 と、紙に書かれていた。旦那デスノートというサイトは知っていた。妻たちが旦那の不満を書き溜めるサイトだ。探偵として浮気調査などを担当する機会が多いため、よく名前は聞いていた。アンジェラも書き込みをしていたようだ。ツヨシと住んでいた時に書いたのだろうか。なら、どうして引っ越しした後の部屋でもパスワードの書かれた紙を大事に保管しているのか。普通だったら捨てる気がするのだが。

「アンジェラさんはパスワードとかすぐ忘れちゃうって。だから書いてあるんです」

 後ろで大輔の様子を見ていた女の子が教えてくれた。思い当たる節があった。大輔が例のラベンダーのハンカチの端末に小さい付箋に、大輔れんらく777、と書いて貼っていた。

 何か引っかかるものを感じるので、一応スマホのメモ機能でパスワードを控えておいた。

 女の子にお礼を言って、鶴見からお店のある蒲田に向かった。女の子は今日も出勤らしく、マネージャーの男がアパートまで迎えに来るようだった。鉢合わせないように大輔は早めに部屋を出て蒲田へ向かった。

 京浜東北線に乗りながら、店にアンジェラを訪ねた女について考えていた。一人心当たりがあった。何の因果かは知らないが、アンジェラが身辺調査を依頼した女、柴崎由樹だ。店とアパートの往復しかしていないアンジェラは決して人間関係は広くない。店の人たちや大輔、客くらいしか接点を持たない。

 同居していた女の子も言っていたが、店に女性が来ることは殆どない。だが柴崎由樹とはどこで知り合ったのか。ママに由樹が来たことを確認できたら、由樹のアパートに行くつもりだった。場所は調べ上げたので今でも覚えている。アンジェラにも住所だけは必ず伝えてくれるように、と頼まれていたのだ。

 電車は蒲田駅に到着した。西口から出てお馴染みの店を目指した。

「いやあ、この人じゃなかったね」

 店に到着するとすぐに歓迎された。アンジェラと一緒に住んでいた女の子もいた。彼女はナコという名前でやっていた。ナコが隣に来たので、ママを呼んで来てくれるように頼んだ。事情を知っている彼女はすぐにママを呼んで来た。大輔はママにスマホに保存してあった由樹の顔写真を見せて確認したが、店に来たのは彼女ではなかったようだ。

「この人じゃないのよ。来たのは変な人だったのよ。店に入ったのにアンジェラがいることだけ確認して出て行ったの。それもそうなんだけど、様子が凄く変だった。何だか目が虚ろで、挙動不審。顔もボロボロで覇気もなくて、お化けみたいだった」

「お化けみたい?」

「うん、顔真っ白にしてさ、足がフラフラフラフラしてたんだよ。酔っ払っているのとは全然違うの。何て言えば良いのかな。魂吸い取られた後みたいな。しかも顔中に青痣とか切り傷とかあるから。DVでもされている若いお嫁さんなのかなって」

 由樹ではなければ身に覚えのある人物はいない。由樹がアンジェラを攫って行った、と考えていたが間違いであったのだろうか。

 結局、この日は何も収穫はなかった。店のママとナコに励まされながら、お酒を飲んだだけで終わった。帰り道、早くも手詰まりになったことを自覚した。京浜東北線の中で、手摺りに掴まりながら夜の景色を見ていた。アンジェラはどこに行ったのか。心配で仕方がない。



 幾日か経った頃、大輔はストーカー対策調査を一つこなして一息吐いたところだった。もうすぐ年末になろうとしている。駅ビルに入ると、クリスマスの緑と赤の装飾が目立つ。マネキンが白いニットにキャメルのダウンを合わせたコーデに身を包んでいる。三百円均一のアクセサリーショップやエチュードハウスの売り場に女性が多く集まっている。今年のクリスマスもアンジェラと一緒に過ごしたかった。何だか悲しい気分になった。

 昨年のクリスマスはアンジェラがまだ契約ホステスでツヨシと同居していた状態だったため、どこにも遊びに行けなかった。今年こそはと思っていたが、今度は肝心のアンジェラが行方不明になってしまった。

 悲しい気持ちを紛らわすために駅ビル内にある喫茶店に入った。コーヒーでも飲むことにした。紳士服売り場のあるフロアに少しお高めの喫茶店がある。そこのブレンドコーヒーとモンブランが絶品なのだ。

 黒で統一された壁がシックでグレーのソファはシフォンみたいにふかふかだった。事務所の模様替えをする際、ここの喫茶店を少し参考にしたのだ。喫茶店のショーケースの奥に棚がある。そこの棚にコーヒー豆の入ったキャニスターが並んでいる。キャニスターのある段の一個下の段にはコーヒーミルが並んでいる。ミルの色が濃い茶色から薄い茶色までグラデーションになるように並んでいる。ここに関しては丸々真似をしている。

 読書をして待っているとコーヒーとモンブランが運ばれて来た。金色の盆に乗っている。

 ここのモンブランが大好物だ。甘さ一辺倒ではない栗のコクが濃く、渋皮の癖のある風味を活かして一風変わった味わいを作り出している。コーヒーも苦味と酸味とコクのバランスが丁度良い。

 コーヒーカップを持ち上げてゆっくり鼻で息を吸った。鼻孔から顔全体に癒しが広がるような気がした。悲しみが何となく誤魔化された。

 だが、コーヒーの香りを楽しみケーキを口に運んでいると急に爆音が耳を突いた。緊急地震速報かと思ったが、そうではなさそうだ。緊急地震速報であれば、他の人のスマホからも耳障りな音が発せられるはずだ。だが、今はどうやら大輔のスマホだけから爆音が発せられている。

 周りにいる他の客や店員が驚いた顔でこちらを見ているので、急いでスマホをポケットから取り出した。取り出している途中で気付いた。この音はアンジェラからのSOSの連絡だと。

 急に希望に満たされた。ずっと抱えていた悲しさなど一瞬で綺麗さっぱりなくなった。だが、アンジェラの身に危険が迫っていることは間違いないのだ。浮かれている場合ではない。アンジェラからの連絡が来て喜んでいる自分を責めた。

 ハンカチ付き端末には通話機能もある。緊急連絡から電話に切り替える。

「もしもし、アンジェラ。どうしたんだ」

「大輔さん、ハァハァ、助けて」

 アンジェラはどこか走っているようだ。息を荒くしており、枯草の上を走るような音が聞こえる。山の中でも走っているのだろうか。山という言葉からシャレコウベダケを連想してしまう。まさかシャレコウベダケに関係する者から逃げているのではないか。

 アンジェラの位置情報を確認した。緊急SOSが発せられ、通話している間であれば彼女の居場所が分かるシステムになっている。彼女の身の安全を守るため、心苦しいが仕方なく内緒でGPSを付けた。埼玉県の秩父市内にいるようだ。位置情報の画面のスクリーンショットを保存した。

「分かった。埼玉県の秩父の山の中にいるみたいだな。すぐそっちに向かうから。そこを動かないでくれ。木の陰に隠れていてくれ」

「ありがとう。早く来て。成子さんたちが来ちゃう」

 通話を切って会計を済ませてすぐにレンタカー屋に向かった。軽自動車を借りて秩父市へと向かう。関越自動車道で埼玉県まで行き、花園インターチェンジから国道一四〇号に乗って秩父へと向かった。秩父に到着した時には外は真っ暗だった。

 先程アンジェラがいた山の方に向かって進む。左手には瓦屋根の立派な住居が並ぶ。右手には無毛の畑のような広大な土地が見える。

 もうすぐ目的地へ到着する。怖い思いをしているだろうアンジェラをいち早く助けてあげたい。

 彼女のことを守るのが彼氏である自分の責任だろう。彼女のことを想う力を上げて、アクセルを強く踏んでスピードを上げた。

 運転する車は山の中に入って行った。鬱蒼とした森が整備された道に沿って生え揃っている。森からは何だか黒くて粘っこい空気が洩れている。車内からでも何となく分かる。ここの山にシャレコウベダケがあるのではないか、と思えてしまう。アンジェラはこんな暗鬱とした空間でずっと待っているのか、と思うとここから動かないように指示したことが悪かったように感じる。

 きっとアンジェラは寒がっているだろう。森の中の冷気は骨の髄まで染み入るほどだろう。どうして気を使えなかったのか。もっと待ち合わせるのに都合の良い場所があったではないか。結局、大輔は自分のことしか考えていなかったことを反省した。

 もっとアンジェラに気を使える男であれば、そもそもこんな怖い目に遭わなくて済んだかもしれない。

 ヘッドライトが前方の木々の表面を照らす。灰色の幹の質感と模様が干からびた蛇の死骸の鱗に似ている。車は砂利道に入ったようだ。タイヤが砂利を踏む小気味良い音が聞こえる。周囲の様子と音の心地良さが調和せず、何だか不愉快だ。

 砂利道を抜けて細い道に入った。横幅が軽自動車一台分しかない。軽にして正解だった。

 細い道をしばらく行くと、木の根のところにうずくまっている人がいた。車の存在に気が付いたようで、その人物が顔を上げた。

「アンジェラ」

 大輔は車内で本人に聞こえるはずないにも拘わらず、大きな声を出した。大輔が車から降りると、彼女の方も目を丸くして南国の鳥の鳴き声のような、奇声に似た歓声を上げた。

 彼女は明らかに疲れているように見えた。立たせないようにして大輔が彼女に覆い被さるように抱き締めた。北海道旅行ぶりの再会だった。

「大輔、大輔」

 と、彼女は何度も大輔の名前を呼んで嬉しさを噛み締めてくれていた。彼女の体は冷たい。相当冷えているのだろう。

「ごめんね。こんな辛い思いをさせて」

「ううん、もう大丈夫。大輔が来たから、もう大丈夫」

 アンジェラは泣き出した。絶叫と言っても良いほどの泣きっぷりだった。彼女の声が山の中で木霊する。

「行こうか、東京に帰ろう」

 彼女の腰を支えてあげ、軽自動車の方に向かった。車に乗せてから気付いたが、彼女の足は裸足だった。泥土で汚れていた。本当に可哀想だ。

「本当に戻って来てくれて良かった」

 彼女の頭を撫でながら言い、久々に会えた嬉しさを噛み締めた。アンジェラも静かに涙を流している。

「寝てて良いからね」

「ううん、大丈夫。大輔と一緒にお話したいから」

 初めての箱根旅行と同じようなことを言っている。だが秩父から離れて高速道路に乗った瞬間、安心したのか小さな可愛らしい鼾をかいていた。

 余程酷い環境にいたのだろう。彼女の目の下にはチョコレート色のクマができていた。顔中に殴られたのか痣ができていた。今日は中野にある自宅兼事務所に真っ直ぐ行って、彼女を休ませてあげよう。今はただ彼女に休息の時間を与えることが自分のすべきことだと思った。その次は、アンジェラに酷いことをした人間に対する報復だと一人で息巻いた。



 事務所の上の階に大輔が父親と一緒に暮らしている部屋がある。大輔の父である治はアンジェラとの交際を認めてくれていないが、昨夜戻ってきたアンジェラの姿を見て、ウチに泊めてくれることを許した。

 治は厳格な性格だが、常識を破りたがる性質を持っている。彼が探偵事務所を構えたきっかけは、本気でシャーロックホームズになりたい、と考えていたからだ。その考えは若気の至りではなく、六十歳を超えた今でも冗談ではないと言っている。

 だが、治も口だけ達者な人物ではなく、捜査が難航している事件を見付ければ自ら首を突っ込んで解決に導いたことも多々ある。水川探偵事務所が軌道に乗ったのは父の実績のおかげだ。大輔はそんな父のことを尊敬しないといけないようになっていた。

 帰るとまずは、泥水のように眠るアンジェラを布団に寝かせた。大輔と治は向かい合って座り、アンジェラの巻き込まれた事件について話し合うことになった。

 大輔は今までにあったことを、自分の予想も交えて治に伝えた。治は余計なことは言わずに、自分の銀髪のオールバックを撫でながら最後まで話を聞いた。鋭い一重瞼の目を尖らせて大輔の話をまとめた。

「じゃあ、お前が思うにはアンジェラさんはシャレコウベダケの繁殖事件に巻き込まれていて、その柴崎由樹さんが犯行に関わっているのではないかということか」

「うん、あとアンジェラの店に来た傷だらけの顔をした女性も被害者っぽいね。今のアンジェラと全く同じ状態のようだ。あと気になるのが、アンジェラが山の中から電話で伝えた、成子さんという人物も怪しいね。由樹さんと成子さんっていう人がグルの可能性が高い」

「まあ、本当にシャレコウベダケの事件に関係するかどうかは分からんが、その可能性は考慮しておいた方が良いかもな。今、日本の中で暮らしていれば、誰もが殺人犯として疑われてもおかしくない時だからな。あれは自分に関係のない話だとは思わない方が良い」

 治の言葉に頷いて見せた。治と話していると身が引き締まる。

「大輔。お前にチャンスを与えよう」

 急に治は口角を片方だけ上げて意地の悪い笑みを浮かべた。息子の大輔に挑むような言葉をかけてワクワクしているようにも見えた。

「お前にチャンスを与える。もしアンジェラさんが巻き込まれた事件を解決して、彼女の身の安全を保障できるようになれば、お前たちの結婚を認めようじゃないか。これは大きな事件の気配がする。一筋縄ではいかないだろう。だが、俺はなるべく助力しないつもりだ。お前が独力でやってみろ」

 ありがとう、と言って頭を下げるも、油断するな、と一喝された。

「もしかしたら自分の命にも関わることだということを忘れるなよ。もし本当にシャレコウベダケの事件に関わることになれば、お前自身も地面から頭だけ出して死に絶える身になるかもしれんからな」

 父が単なる脅しで言っているわけがないことは知っている。それだけ覚悟を決めて取り組まなければ、一介の探偵が殺人事件を解決することができないということを伝えているのだろう。

「分かった。やって見せるから」

 と、言って大輔は椅子から腰を上げた。明日、アンジェラが目覚めたら色々聞いてみることにした。今は取り敢えず眠ることにした。明日から忙しくなる予定だからだ。



 大輔は朝の七時に目を覚ました。アンジェラが眠る部屋を覗くと、彼女はまだ眠っていた。

 十三時過ぎた頃、アンジェラが寝室から出て来た。大輔は下の階の事務所に行かずに上の階の自室で書類をまとめていたため、彼女が起床したことにすぐに気付いた。

 彼女が起きると、すぐに抱き締めた。抱き締めている間、彼女はずっと泣いていた。昨日のように激しい泣き方ではないが、胸に来るような寂しそうなほど細い泣き声だった。体調も悪そうだ。

 ハグしていると、随分痩せ細っていることに気が付いた。肩甲骨が以前よりも浮き出ており、肋骨が大輔の腹に当たる。とりあえず何か食べさせなければいけない。

「何か食べよう。何が食べたい?」

「大輔が作るお粥」

 消化に良いものが食べたいのだろう。鍋でサツマイモのお粥を作った。アンジェラは、美味しい美味しい、と何度も言いながら完食してくれた。この調子なら回復するのも早そうだったので、一安心した。

 今日の午後になったらアンジェラの店のママに電話をすることに決めた。アンジェラは無事だが、事件に巻き込まれた可能性があることを話して彼女が悪くないことを伝えるつもりだ。

 アンジェラはとても普通の状態ではないので一週間ほど自宅で休ませることにした。一週間、まともに会話ができる状態ではなかった。急に叫んだり大声で泣き出したりする日が続いた。

 ある程度落ち着くまで待ってから、今までの出来事について聞いてみることにした。

 アンジェラが落ち着き始めた時、大輔の自室で二人は向かい合って座っていた。何があったのか彼女からしっかり聞くつもりだった。

 何があったのか隠さずに教えてほしい、と話し始めた途端、向かいにいた彼女はいきなり椅子から立ち上がって顔を蒼くした。

「由樹さんを助けないと」

 と、叫ぶように言った。由樹さんとは柴崎由樹のことだろう。彼女がアンジェラを攫って暴行を加えた人物ではないのか。まずは由樹との関係性をアンジェラに尋ねようとしたが、

「すぐに由樹さんの自宅に行こう」

 と、アンジェラに肘を揺すられて何度も促された。ほとんど半狂乱と言って良かった。だが何か分かるかもしれないので、彼女を連れて由樹の自宅のあるアパートへ向かうことにした。父の車を使って二人で向かった。

 商店街に入ってから緩やかな坂道を上る。その先に由樹の住むアパートがある。オレンジの壁の二階建てのアパートだ。由樹の部屋は一階にある。アンジェラは焦っているようで、とても話しかけられる状態ではなかった。二人で車を降りて由樹の部屋に向かった。

「あれ」

 と、二人は同時に言葉が出た。人の気配が全くしない。柴崎と書かれた表札があったところには白い板が嵌められている。インターフォンを押しても何も反応がない。一応ノックして、

「すみません」

 と、声をかけてみた。やはり誰もいないようで応答がなかった。いつの間にか引っ越したのか。

「由樹さん。やっぱ。由樹さん。ああ、どうしよ。全部私のせいだ」

 隣に立っていたアンジェラが頭を抱えて泣き喚き出した。何がどうしたのか大輔にはさっぱり分からない。どうして彼女が自責の念に駆られているのか分からない。やはり話を聞いてみなければならない。

 おろおろしていると、由樹の部屋の左隣の扉が開く音が聞こえた。

「どうかされましたか」

 と、言う声が聞こえた。

 振り向くと、部屋から女性が出て来ていた。着古しているためか、首元から裾にかけてテロンデレンとしているアディダスのTシャツと、下はグレーのスウェットのパンツを穿いた二十代半ばくらいの、ショッキングピンク色の髪を伸ばした黒縁眼鏡の女性だった。

「どちら様ですか。大丈夫ですか」

 女性は素っ頓狂な表情をしている。警戒する様子はなく高い声を出している。彼女に話を聞いてみようと試みた。

「あの、突然すみません。お隣の柴崎さんは引っ越されたのですか」

「あー」

 と、女性は顎に手を当てて右上を見ながら何かを思い出しながら、

「何か、突然いなくなっちゃったっていうか。私が知らない間に誰もいなくなっていたんですよね」

 と、教えてくれた。引っ越しをしたわけではないのか。

「引っ越しの準備などをしている様子も見れなかったのですか。あと業者の方が荷物を取りに来たりとかも」

「はい。私、フリーでライターの仕事をしていて殆ど部屋に引き籠った生活をしているんですけど、そういう物音は何も聞こえなかったんですよね。柴崎さん家族三人が全員お化けだったんじゃないかって思っちゃうほど忽然と消えちゃったって感じで」

「なるほど」

 柴崎家は三人ともどこかに去って行ったようだ。何となく嫌な予感がした。アンジェラが由樹の身を心配するように彼女が殺人犯ではない場合、アンジェラと同様に連れ去られた可能性が高い。

「柴崎さんのお隣に住んでいて。何か気付いたこととかありますかね。例えば、家庭内暴力がありそうだったとか。子供の教育にネグレクトの兆候が見えたとか」

 何でこんなことを聞いたのか分からない。何か事件解決の手がかりになりそうなものが一つでも欲しかっただけだ。

「さあ、毎日子供の送り迎えを奥さんか旦那さんがしっかりやってたみたいですし、隣の家から美味しい匂いがしたりしたので、ネグレクトとかはないと思いますけどね。でも、たまに奥さんの怒鳴り声が聞こえました」

 由樹は家庭に不満があったということか。

「でも、それは彩花さんに向けてじゃないみたいなんですよね」

「ということは旦那さんにってことですか」

「そうなんですよ。ここのアパートも木造でそんなしっかりした防音がされているところじゃないですからね。何か娘さんの教育方針で合わないような内容が、よく聞こえましたね。何かスマホを見せるなとか何回も聞こえたような気がします」

 由樹は一緒に住む彼女の旦那に不満を抱えていたということか。事件解決には役に立ちそうな情報ではなかった。

 女性はショッキングピンクの頭を掻きながら必死で何か思い出そうとしているように見えた。さっきからずっとだ。何かあるけど、しっかり思い出せないのかもしれない。

「旦那さんに奥さんが暴力を振るっていたとかは分かりますかね」

「さあ」

 と言いながら、女性は頭を掻く手を止めてまっすぐ大輔の目を見た。

「そうだっ。あれ、いつだったかな。確か最近のことだと思うけど。お隣の柴崎さんの奥さんがアパートの前で確か女性二人に囲まれているところを見ましたね。外で女性の嫌だって叫ぶ声が聞こえたんでね。そこの窓から覗いて見たんですよ。そしたら夜だったんではっきり見えなかったのですが、見知らぬ女性二人が柴崎さんを囲んでいるみたいだったのですよね。私は何だか不穏なカンジがして外に出なかったのですが。でも、声からして叫んだのは柴崎さんだったんじゃないかなって思ってます」

 扉の横に窓があった。

「で、ちょっと、これは何かヤバいかもって思った理由なんですけど。お隣の娘さんもそこに一緒にいたんですけど、何か首輪みたいなの付けられてリードで逃げられないようにされていたんですよね」

「え、その女性二人が娘さんに逃げられないようにしていたってことですか」

「そうそう。何か人質にされているみたいなヤバいカンジになってました」

「その後、柴崎さんの奥さんはどうでした」

「あー、そう考えればその日を境に見てないかもしれません。私もそんなに関心があった訳じゃないので、気付いていないだけかもしれませんが」

「成子さんと明美さんだ」

 と、アンジェラが顔を上げて叫んだ。彼女には心当たりがあるようだ。明美さんという初めて聞く名前も出て来た。

 どうやら由樹はその女性二人に連れ去られたと考えて良さそうだった。その二人が今回の事件の黒幕ということだろうか。由樹はその女性二人のうちどちらかの家にいるのだろうか。

「旦那さんも見なかったですか」

「はい。見てないですね。その日以降見てないかもしれないです」

「分かりました。ありがとうございます。あと、もう一つお願いなのですが、ここのアパートの大家さんの連絡先を教えてもらえませんか。あと大家さんはここに住んでいませんかね」

 女性から大家さんの電話番号を教えてもらってお礼を言った。女性は自分の部屋に戻って行った。車の中に戻ってから大家さんに電話をかけてみた。三コール目で出て来た。

「もしもし」

 若干苛立っているような年嵩の女性の声が聞こえた。何か嫌なことがあったのだろうか。話し辛そうでうんざりした。

「あの、××メゾンのオーナーさんでございますか」

「はい、そうですけど。警察ですか、週刊誌ですか」

 苛立ちの原因を何となく察した。大家さんは今、何らかの事件の参考人として扱われているのだろう。日々警官や週刊誌の記者などが押しかけて来て、疲労困憊となっているのだろう。その事件とは、メディアも注目する今流行っている事件ではないか。

「お忙しいところ申し訳ございません。私、柴崎さんの親戚の三浦と申す者なのですが」

「何ですか、やっぱ柴崎さんの殺人事件の件ですか」

 大輔は耳を疑った。間違いなく大家さんは殺人事件と言った。由樹は死んだのか。

「え、柴崎さんは殺されたのですか」

「え、知らないんですか。信じられない。ニュースで毎日やってるじゃないですか。シャレコウベダケの事件ですよ。まあ、正確には殺人未遂事件なんでしょうけどね。旦那さんが埼玉の方の山で首だけ出しているところを死ぬ前に見付かったらしいですよ。秩父の山にマタタビと銀杏採取に行っていた老夫婦が偶然見つけたんだって。今は向こうの病院に入院しているんだって。シャレコウベダケになる前に見付かった人は初めてなんですって。相当運が良いわよ」

 やはりシャレコウベダケの事件に関係することだった。アンジェラは間一髪で自分の命を守ったということだろう。もし助けられなければ、彼女も惨たらしい死体として発見されたのではないか。だが、由樹の旦那も生き延びたことは相当な運の持ち主だろう。

 また秩父の名前が出て来た。やはり成子と明美の犯行だろう。確信ができた。

「私も初めて知ったんだけど、奥さんと娘さんも行方不明なんだって。奥さんたちが犯人か、それとも二人も殺されたのかもって話なんだって」

 大家さんは人に教えることが好きなのか、意外と饒舌になって喋ってくれた。その後は大家さんの勝手な推理などを聞かされて有益な情報を入手することはできなかった。丁寧にお礼を述べて大輔は電話を切った。

「大輔。早く由樹さんを助けに行こ。午後の五時になったら新宿駅の東口に来ると思うの」

 どうしてそんなことを知っているのか、と聞いてみたところ、

「逃げる前に聞いたの。由樹さんの娘さん連れて来たら、新宿駅の東口に行こうって話をしているところを」

 色々聞かないと分からないことが多すぎる。

 まだ十五時だが、取り敢えず新宿方面に向かうことにして、今まで何があったのかアンジェラから聞き出すことにした。

「まずね、私がツヨシと一緒に住んでいた時のこと。私、ホントにツヨシが嫌いで旦那デスノートにツヨシの悪いとこを書いていたの」

 旦那デスノートと聞いて、大輔は彼女の部屋のコルクボードにパスワードの書かれた紙が貼られていたことを思い出した。パスワードはスマホのメモアプリに控えてある。

「でね、ずっと投稿したり、人の書いたやつを見たりしてただけなんだけどね、何か新しい機能が追加されたの。チャット機能だったの。可哀想な妻たちの交流所って名前だった」

 聞いたことのある名前だ。可哀想な妻たちの交流所、とはパスワードの紙に一緒に書かれていた言葉だ。ここに知りたいことがあると確信した。とにかくアンジェラにログインしてもらうことにした。

「俺のスマホのメモ帳にパスワード書いて来たから、これ見てログインしてくれ」

「え、何でパスワード知っているの」

「アンジェラの部屋のコルクボードに貼っておいたでしょ。心配で部屋まで探しに行ったんだ。同居人の女の子に許可貰って入ったから安心して」

「そうか、ごめんね」

 と、言って彼女は大輔のスマホを使って、可哀想な妻たちの交流所にログインした。彼女がリカとして参加したコミュニティのやり取りを見ることができた。

 車を路側帯に停めてから、チャットの内容を見た。リカというユーザー名で会話しているのがアンジェラだ。店の源氏名だ。

「名無しって名前の人が由樹さん。A子って名前の人が明美さん。ナルって名前の人が成子さん。五十代女性が清江さん」

 また新しい名前が出て来た。

「清江さんって」

「この人は死んじゃった」

「え?」

 アンジェラは両手で顔を覆って泣き出した。帰って来た彼女はよく泣く。情緒がまだ不安定のままなのだろう。だが、次の言葉でただ精神が不安定なだけではないことが分かった。

「私たちが殺しちゃったの」

「はあ?」

 意味が分からなかった。どうしてアンジェラが見ず知らずの女性を殺さなければいけないのか。

「どうして、そんなこと」

「分からない。分からない。だけど、成子さんに逆らったら駄目になっちゃうの。私、大輔と一緒に生きたかった。死んじゃ駄目だった。だから成子さんの言う通りにしないと駄目なの。でも、人を殺すなんて駄目なのに。殺しちゃった。どうしよう、どうしよう」

 錯乱し始めた。彼女の体が小刻みに震えている。今は抱き締めてあげることしかできない。優しく震える体を抱き締めた。

 だが、彼女の口から有益な情報が洩れた。どうやら成子という人物が主犯だということが分かった。アンジェラや由樹は成子の言いなりになって、殺人を犯したのだろう。清江という女性も同じだろう。

 そして清江と同じ目に由樹が遭おうとしているのではないか。由樹が殺されそうになっているのではないか。だから、アンジェラは、助けないと、とずっと言っていたのではないか。なるべく早く新宿に行った方が良さそうだった。殺されてからでは遅いのだ。

「分かった。今すぐに由樹さんを助けに行こう」

 と、言って車を発進させた。チャットを全て見るのは後にすることにした。治が言っていた通り、覚悟を決めなければいけないようだ。

 ハンドルを握る手からニュルニュル脂汗が出て来る。こんな局面は初めてだ。アンジェラを守るため、これから地獄に足を踏み入れることになるかもしれない。

 十六時半、新宿駅東口の広場前に到着した。車はコインパーキングに置いて来て、徒歩で確認することにした。DHCの青い看板の上にモニターがあるスタジオアルタの入り口前で様子を見ていた。

「あっ、いた」

 隣にいたアンジェラが声を上げた。彼女は人混みの方に向けて人差し指を向けていた。どこ、と言おうとすると、彼女は新宿東口の猫が見える建物の脇の道に入って身を隠した。大輔も付いて行った。

「ほら、こっちに来るよ」

 アンジェラの指の先を見ると、負のオーラを発する二人の大人の女と一人の女児が歩いて来ている。

 驚いて唾が気管の方に入ってしまった。咳が止まらない。由樹らしき人物が全くの別人のようになっていたからだ。見た目が以前調べた時の由樹と全然違っていた。以前の由樹は若々しくて麗しい色白でスラッとした人だった。今はスラッとしているを通り越して骨が目立ち、狂骨にしか見えない。近付いて来ると輪郭が不自然にどす黒くなっている。ファンデ等何も塗っていないようだが、首の色と顔の色が違う。顔の方が明らかに黒い。

 隣にいる女性の顔を見た。アッ、と思った。アンジェラの店のママの言葉を思い出した。顔中痣だらけの女が来た、と言っていた。その女性も顔全体に切り傷や痣ができている。

「由樹さんの隣にいるのは誰?」

 と、聞いてみたところ、アンジェラは、

「あれが明美さん」

 と、教えてくれた。明美という人物がアンジェラを連れて行ったのだろう。彼女が成子とグルなのではないか。関係性が見えてこない。だが、最も怪しい成子がここに来ていないのであれば、成子が親玉の可能性がかなり高いだろう。

「そういえば、どうしてここに由樹さんたちが来ることを知っていたの」

 新宿東口に言われるまま来たが、どうしてここに由樹が来ることを知っていたのか。アンジェラは真剣な顔で由樹たちの方に目を向けながら、

「聞いたの。私がお風呂場に閉じ込められていた時に。由樹さんが逃げたから、由樹さんと女の子の子供連れて来てお金を稼がせようって話してた。そしたら成子さんが明美さんに新宿東口の広場に二人を連れて行けって言ってた」

「お金を稼がせる?」

 嫌な予感がする。由樹の娘の彩花にお金を稼がせる、と考えた時に鳥肌が立った。まさかとは思うが、最悪の場合を考えていた方が良さそうだ。大輔は財布の中に常備してある。小型の盗聴器を手に持った。絶妙なタイミングで盗聴器を三人のうち誰かに付けたい。

 二人は建物の陰に隠れて由樹たちの様子を観察することにした。

 明美が何かを見付けたらしく、都道沿いのみずほ銀行のある方を見て固まった。黄色のダウンコートを赤いダウンベストの上に羽織り、ベージュのチノパンツを穿いた小太りのダサいオッサンが現れた。毛髪が薄くて、幾本かしかない細い前髪が額に貼り付いていた。黒黴みたいなヒゲを生やした二重顎の先から黄ばんだ汗が垂れているように見えた。

 もし予想したことが当たっていたら、と考えると強烈な吐き気に襲われた。

「ここで待っていて」

 と、アンジェラに言い残してから、由樹たちの方に近付いた。何とか盗聴器を付けたい。人混みの中に紛れ込んで三人の方に近づいた。

「やあ、君が彩花ちゃんか可愛いなあ。やっぱ幼稚園の子は良いなあ。小学生になったら女の子は急にババアになるからな。これくらいの子が丁度良い」

 細いキツネみたいな男の目がゴキブリの翅みたいに光っていた。見るに堪えないほどのブ男が何を言っているのだ。世の中には恐ろしいほどのロリコンがいる。きっとモテない人生を歩んで性癖が歪んだのだろう。大輔は待ち合わせをしている人を装って、彼らの声がギリギリ聞こえる辺りに立った。

 彩花は由樹の背後に隠れていた。下心のある目線に初めて接して怖くなったのだろうか。

「ちょっと、明美さん」

 由樹が明美を責めていた。明美がこの男を呼んだのだろう。同じ女性として彼女の正気を疑っているのだろう。

「ありえない。ありえないんだけど」

 叫びながら彩花を必死で庇った。明美は下を向いたまま動かない。

「おい、オバサン。とっとと彩花ちゃんを寄越せよ」

 太った男はモッソモソ由樹の方に歩み寄った。彼女の肩を掴んでから、地面に押し倒した。由樹は衰弱しているためか、なかなか起き上がれなくなっていた。突っ伏したまま硬直していた。

「さ、彩花ちゃん行きましょねー」

 オッサンの顔は笑うと崩れた。目が消えて鼻が膨張する。口が勾玉のようにひん曲がる。口の端から粘液が飛び出た。男は彩花を引っ張るように、都道を歩き出した。明美が動けない由樹を連れて行くためか、

「由樹さん、来て下さい」

 と、冷ややかの声を発していた。

 やはり母親としては娘が心配で仕方がないのだろう。精神的にも肉体的にも限界に来ているように見えるが、何とか両手で体を持ち上げた。しっかりと立って娘の後を追った。

 今がチャンスだ。大輔は人混みに紛れながら、今にも倒れそうな由樹の背中に接近する。右手に小型盗聴器を持っている。

 スーツの男性一人挟んで由樹の背中を目で捕らえた。彼女の白いシャツの裾が揺れているのが見える。

 歩行速度が速いスーツの男性は目の前の由樹を追い越して行った。そのタイミングを逃さなかった。由樹の背後に近付き裾の裏に盗聴器を付けた。彼女は前を歩く娘の彩花に意識を全て持って行かれているためか、全く気付くことがかった。

 大輔はそのまま由樹を追い越して先へ行くことにした。

 ロリコン男が伊勢丹のビルがある新宿三丁目の交差点を曲がってラブホが乱立する場所へ向かった。やはり男は良からぬことを彩花とするつもりらしい。

 絶好のタイミングで由樹と彩花を助け出さなければならない。部屋に入った後、盗聴器から聞こえる声や音から、部屋内の状況を把握して適切な行動を取らねば。ラブホが見えて来ると緊張感が増す。

 道すがら、男は彩花に必死に話しかけている。

「彩花ちゃんは好きなお菓子ある」

「あんまない」

「そっかあ、好きなご飯はあるかな。ハンバーグとかオムライスとかカレーライスとか」

「ステーキ」

「へえ、ステーキかあ。大人だねえ。発育良さそうだもんなあ。孕ませちゃいそ」

 とんでもなく気色が悪い発言が聞こえた。

 ロマネスク建築でも気取っているようなアーチが特徴的なラブホに入って行った。男はやはりラブホテルに入るようだ。ヤバいヤツだ。もし警官に見付かったらどうするつもりなのか。恐らく彼はそんなこと考えていないのだろう。性欲を満たしたい男に頭には危機管理という言葉は残っていないだろう。

 右耳だけにワイヤレスのイヤホンを付けて由樹の服に装着した盗聴器の音を聞いた。彼らが何をしているのか、音のみで確認しなければいけない。

「二階の部屋で良いかな」

 という言葉が聞こえた。部屋を選んでいるところのようだ。しばらくして大輔もホテルに入って四人がエレベーターに乗ったことを確認した。一人で敵地に乗り込むことになった。

「さあ、彩花ちゃん。今日はここでお泊りですよお」

 男の無邪気な声が右耳のイヤホンから聞こえた。どうやら部屋に入ったようだ。先程見た男の図体と彼の言動の幼稚さがアンバランスで気持ちの悪さが倍増していた。

「ほら、お姫様が眠るようなベッドがあるよお。あれ、どうしたの彩花ちゃん。そんなところで座り込まないの。早くベッドの中に入ってね」

 彩花は何かを直感で察しているのだろう。男から生臭い執着を感じ取って、床にしゃがみ込んでいるのだろう。

 大輔はホテルの二階フロアに到着した。そこで自分の行動にミスがあったことが発覚した。下らないことだ。二階のどの部屋に入ったのか分からないのだ。

 廊下でまごついていると、右耳のイヤホンから鈍い音が聞こえた。何だ、と思って耳に意識を集中した。女の悲鳴が一瞬聞こえたが、すぐに口を押えられたのか、モゴモゴ言う声に変わった。声の聞こえ方から由樹の叫び声だと予想した。盗聴器のすぐ傍から声が発せられたように明瞭な音だったからだ。

「馬鹿なババアだ。部屋にノコノコ付いて来やがって。ま、精々俺と娘のラブラブシーンでも見てるんだな。明美、こいつを椅子に縛り付けておけ」

 由樹が娘を心配して入ったのだろう。だがその行為が間違いだったようだ。男は親の子を想う習性を利用して、親である由樹に嫌がらせをするつもりのようだ。何て無慈悲な男なのだろうか。自分の娘がロリコンのデブ男に抱かれるシーンなど見るに堪えないだろう。これも明美や成子の策略かもしれない。こんな奴らにアンジェラが捕らわれていたと考えると、怒りの熱気と恐怖の寒気が同時に沸き起こる。

「さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。世にも珍しい、夢か真か分からぬ、四十歳差の男女の恋愛怪奇劇場の始まり始まりい」

 男の声高に喋る様子が聞き取れる。ベッドの軋む音も聞こえる。彩花はどうなったのか。音だけじゃ全てを把握できない。

 右耳で室内の様子を察しながら、空いている左耳を部屋の扉一つひとつに押し当てて、どこに由樹たちが入ったか探すことにした。

「とうっ」

 と言う男の声がイヤホンから聞こえた。彩花のものであろう子供の絶叫も聞こえて来た。かなりのボリュームで叫んでいるので、部屋の外まで漏れ聞こえるはずだ。だが何も聞こえて来ない。防音がしっかりしていることに腹が立つ。

「迎えに来ましたよ、お姫さまっ」

 男がゲボのような台詞を吐いた。同時に彩花の叫び声も手で抑えられたようだ。男と彩花はベッドの上に一緒にいるのだろうか。

「カワイイなあ。カワイイなあ。こんなカワイイ顔していることが悪いんだぞ。カワイイから食べちゃうんだぞ。彩花ちゃんのお鼻とお口をいただきまあす。はぐっ」

 金属音のような悲鳴が聞こえる。もはや彩花なのか由樹なのか、叫んでいる者がどちらか想像できない。早く助け出さねば。だが、どこの部屋に入ったのか分からない。一つずつ扉をノックして行くしかないのか。だが、それで彼らが反応して出て来るとは考えられない。

「レロレロレロレロ」

 男は口の中で彩花の顔を舐め回しているのか。恐らく彩花は体を反らせて必死に逃げようとしていることだろう。

「プハッ。うめえ」

 男は口を彩花の顔から離したようだ。彩花の顔の下半分がテカテカ濡れているのだろうか。可哀想だ。どうするべきか考える。こんな状況初めてなので、打開策が思い浮かばない。

「彩花ちゃん。俺はもう自制できねえ」

 カチャカチャベルトの金具が外れる音が聞こえる。ベージュのパンツを脱いでいるのだろう。ファッションセンスも壊滅的な男だったため、どうせ下半身のケアもしていないだろう。そんなものを五歳の子供に見せるとは。

 ここからは男と彩花の声のみが聞こえた。由樹は既に何もできなくなっているのだろう。

「彩花ちゃんの顔が柔らかくて気持ちいい。どうオジサンのものは。気持ちいいかい?」

「嫌だあ、嫌だあ」

「よし彩花ちゃん、上に着ているお洋服脱いでみよか。嫌じゃないの。じゃあ、オジサンが脱がせてあげよう。へっへっへ。バンザイしてみて。おお。ペロッ。うーん、脇汗が美味しい」

「やめで、もう、やめでえ」

「嫌ですよお。もう一度ペロ。こっち側もペロペロペロ」

「ママ助けでえ」

「ママなんていないよ。ここにはオジサンしかいないんだ。お顔を見せてね。可愛いなあ。沢山チューしちゃお。今日はオジサンのチュー三昧だお」

「うええ、うええ。気持ち悪い」

「そんなこと言っちゃダメよ。今度はオジサンのヨダレを召し上がれ」

「んごお、んごお。おええ。おっ、おっ、おええ」

「今度は彩花ちゃんの頂戴」

「ヤダッ。ヤダヤダヤダ」

「嫌じゃない。ホラ、オジサンのベロの上に。ベーって出せば良いんだお」

「べー」

「うんっ。うーっん。もぎゅ。もぎゅ。美味い。美味すぎる。ご褒美に抱き締めてあげる。ムギュウ。ギューギュー」

「おえっ、臭い」

「臭いなんて言わないの。オジサンもっと臭い時あるんだから。昨日今日とお風呂入ってないだけ。前は四日も入らなかった時が普通なんだからね」

「何で」

「面倒臭いじゃん、だって」

「嫌だあ」

「そんなこと言うなら、彩花ちゃんに洗ってもらおうかな。名案だ。こりゃあ名案だぞっ。アインシュタインも嫉妬するくらいの名案だあ」

 聞いていられなかった。あまりの気色悪さにイヤホンを外そうと思った途端、雪崩が起きたのかと思えるほどの轟音が聞こえた。物が倒れたり壊れたりする音が重なって激しい音になったようだ。

 断末魔の叫び声が響く。叫び声を上げている人物とは別の者たちから泣き声や悲鳴が上がっている。

 しばらくの間、けたたましい様子になってから、ゴン、という音の後に、イッテエ、という男の声が聞こえた。男が殴られたのだろうか。男を殴る者など一人しか考えられない。由樹だ。娘の彩花が陵辱されている瞬間を見続けて我慢できるはずがない。叫び声を上げていた人物も由樹だろう。

 廊下に由樹たちが出て来るのでは、と考えて身構えた。どの扉から出て来るのか。出て来た瞬間、彼女のことを保護しなければならない。精神的限界は既に超えているだろう。成子や明美から遠ざけて平静になるまで療養する必要があるだろう。

 なぜか冷静に今後を分析していたが今はそれどころではない。由樹と彩花を安全に連れて帰らなければならない。

 廊下で待っていると、一つの扉が勢い良く開いた。蒼黒く変色した以前は美人だった顔の由樹が彩花をバスタオルで包んで抱っこしながら出て来た。やはり由樹が部屋の中で暴れて脱走に成功したようだ。タオルの中から激しい泣き声が聞こえる。

「由樹さん、助けに来ました」

 と言いながら、階段を駆け下りる彼女に話しかけながら、自分も階段を下りた。

「誰?」

 と、言われながら険しい目付きで睨まれた。当然だろう。彼女は調べられていたことを知らないのだから。

「私、アンジェラの知り合いの水川大輔と言います」

 階段を下りて一階のフロアに到着した。出口へ向かって走りながら、

「貴方が、大輔さんですか」

 と、一瞬で由樹は少し安心したような口調になって表情も若干緩んだように見えた。だが、すぐに顔が強張った。みるみる顔色が悪くなり、黒目も穴ぼこのような闇色に変化し、口が濁った青紫色に変色した。喉奥から、ヒッ、という音が出た。どうやら彼女は大輔の顔を見ていない。肩越しに後ろにいる人物を見ているようだ。

 何があったのか振り向こうとした瞬間、首に激痛を覚えた。皮膚が溶けるように熱く、アイスピックで首の肉を高速で何度も刺されたような痛みだ。痛みを感知した時間はほんの一、二秒だった。

 頭が重たくなり、視界に映る何もかもがねじ曲がって見える。その中に、白い何かが見えた。人の顔だ。見たことのない人物の顔。

 顔はやたらと白く大きかった。赤い縁の眼鏡も見えた。四十代の女性に見えるが、この人物は誰なのか分からなかった。どうして彼女が自分に危害を加えたのかも分からなかった。

 視界は渦のように回り、暗闇へと変化していった。谷底に落ちたような感覚を抱いた。



 人工的な白い光が自分の顔を照らしていることに気付いた。大輔は自分がどうなっているのかを確認しようとした。体が自由に動かせない。視界もぼやけて周りの様子を見ることもできない。

 落ち着こうと一旦、目を瞑った。自分がどういう体勢になっているのかを感覚で察した。背中に固い床が当たっている。どこかの部屋の床で寝かされているようだ。

 手のひらを動かして、床の感触を確かめた。浅い溝がある。タイル張りの床のようだ。

 もう一度目を開ける。白い光が目に入る。白いのは光だけでなく、壁や天井も白系で統一されていた。風呂場だということに、ようやく気が付いた。

 どこかの家の風呂場に寝かされていた。

 体を起こそうとしたが動けなかった。布が胴と腕に巻かれていた。足首にも布が巻かれていた。二つの布は風呂場内にある手すりに繋がれており、この部屋から出られないようになっていた。布が外れないか暴れていると、

「お兄さん、起きたの?」

 と、どこかで聞いたことのある幼気な声が傍から聞こえた。周囲を見たが、誰もいなかった。確かに浴室内から聞こえていたはずだが、人の姿が見えない。

「ここだよ」

 再び声が聞こえた。今度は声の出どころが分かった。蓋がしてある浴槽の中から聞こえている。声の主は姿を見なくても分かる。由樹の娘の彩花だ。

「彩花ちゃんだよね?」

 と、声をかけた。だが、彼女は、

「ㇱッ」

 と言って大輔を黙らせた。どうしたのか、と思っていると、浴室の扉が開いた。見知らぬ黒縁眼鏡をかけたデブの男が浴室の中に入って大輔の顔に踵落としを決めた。鼻筋に当たった。口の中に鉄味の温い液体が入って来た。

「目を覚ましましたか、大輔さん」

 男の背後から一人の女が浴室に入って来た。二頭身しかないのではないか、と思えるほど顔が大きくて中年太りをした女だ。顔には雪が積もったのかと思えるほどファンデーションを厚く塗っている。唇には似合わないワインレッドのルージュを塗っていた。

 目の前に現れた女が自分をここに連れて来たのだとすぐに分かった。赤い細縁の眼鏡をかけていたからだ。女は片耳のみにワイヤレスイヤホンを付けていた。耳が悪いようだ。

「誰だ」

 と、吠えたが、状況のせいで全く威圧感を与えられていないだろう。布で縛られて床に寝そべっている男はどんなに惨めに見えるだろうか。

「どうも、高松成子と言います。大輔さん、貴方とんでもないことをしちゃいましたね」

 この女が成子か、と分かったと同時に嫌な予感が胸の中で広がった。雰囲気から成子がこの事件の黒幕だと確信できたからだ。全身から黒くて硬い煙が出ているようで不快な感じがした。隣にいるだけで、黒い煙の粒子のようなものが喉に詰りそうだ。嘔吐きそうだ。

「とんでもないことをしたのは自分だろ? 知っているぞ、お前がシャレコウベダケの事件の犯人であることを」

「とんだ誤解だわ。でも、そんな寝言言っちゃうくらい精神を病んでいるように見えるから仕方ないと言えば良いのかね。あ、そんなことより、貴方自分では気付いていないかもしれないけど、とんでもないことをしちゃったのよ。ほら、これを見て」

 一枚の写真を見せて来た。その写真には白いタイル張りの床の上で眠っているように目を閉じている大輔が写っていた。だが何かがおかしい。

 頭を意識的にリラックスさせて、じっくり眺めた。パンツを脱がされている。だが下腹部は見えない。何者かが下腹部を口に咥えているようで後頭部が下半身の上に見える。小さな頭だ。

 うっ、という声が出た。全裸になった彩花が大輔の下腹部を咥えているのだ。彼女の頭を押さえつけるように、大輔は両足を彩花の肩の上に置いて足で抱き締めていた。

 大輔が彩花を犯しているかのような写真だった。こんなことした記憶など、もちろんない。そもそも自分に幼女趣味などない。成子に嵌められたのだろう。

「どうしますか、大輔さん、これ以外にもたくさんの写真があるのですよ。あんなことやこんなことをしちゃっているのですよ。これが世間にバレたら非常にマズイと思うんですよね。貴方は探偵だ。探偵が少女を汚す趣味があるなんてバレたら商売になんかならないでしょう」

 脅されている。彼女に主導権を渡してはいけない、と瞬時に察知した。この悪魔の手のひらの上にいたら、自分の命はないだろう。

「そんなことした覚えはないね。貴方が無理矢理撮らせたのでしょう」

「ヒドイ。私はそんな趣味ないわよ。私は大輔さんのことを考えて知らせてあげたのに、そんなことを言うのね」

 あげた、と言っている時点で見下していることは確実だ。この女を信じてはいけない。常に警戒をしておかなければ。

「私、もう怒った。知らないからね。ここで飢え死にするしかないのね。明美さん、この人に電気を差し上げて」

 傷だらけの顔をした女が浴室に入って来た。よく見たらまだ若いようだ。幼さの残る顔立ちをしている。頬はやつれているが、口元がぷっくりしている。

 明美の手にはスタンガンが握られている。あれで通電されるのだろう。様子を伺っていると、大輔のパンツのベルトに手を伸ばした。まさか、と思い身が竦んだ。下腹部に電気を流すつもりなのか。

「やめろっ。やめてくれっ」

 と言っても、明美は聞く耳を持たない。無表情のままパンツを下ろす。恐怖で下腹部は縮み上がっていることだろう。

 だがパンツを下ろした途端、明美は動かなくなった。大輔の足元で腰を曲げて下を向いたまま硬直していた。

「おい、何やってんだ。早く電気を流せ」

 成子が煽るが失神したかのように固まっていた。

「明美さん。あんま私を怒らせないで下さい。貴方にお仕置きをしなければいけなくなるのですよ」

 と、言うと、明美は勢い良く顔を上げた。顔を覆う皮膚が突っ張り、顎や頬骨が痙攣していた。

「電気だけは、電気だけは勘弁して下さいぃ」

 彼女は口角から唾を垂らしながら成子に懇願した。電気の痛みと恐怖を植え付けられている様子だ。恐怖によって完全に成子の言いなりに成り下がっている。

「だったら、今すぐそいつに電気を流してやるのです。貴方の身を守るにはそれしか方法がないのですよ」

 長期間このような関係性にいると、成子の下僕のように行動する彼女自身が本来の自分だったと錯覚してしまうのだろう。元の生活を忘れるほどここの部屋にいるのか、元の生活が忘れたいほど悲惨だったのか。いずれにしても現在の彼女こそ悲惨そのものだ。明美は成子の従順な奴隷でしかない。

「明美さん、やっちゃいなさい」

 下腹部が取れるほどの激痛が走った。竿の部分を百八十度ねじられて強く引っ張られたまま、尿道に鋭い針を刺し込まれたような痛みだ。

「自分が犯した間違いを認めなさい。貴方は五歳の彩花ちゃんの体を弄んだ男だということを」

 必死で首を横に振った。そんなことをしていない。恐らくボイスレコーダーで録音でもされているに違いない。下手なことを言えば、成子に弱みを握られることになる。

 再び電気が流れる。破裂音のような叫び声が喉から出て来た。喉仏が爆発するかと思った。うるせえ、と男に怒鳴られて口に雑巾のような臭い布が突っ込まれた。吐きそうだ。

「大輔さん、アンジェラさんを呼び戻して下さい。彼女は人を殺したのです。ねえ、明美さん。ほらっ。だからここで匿ってあげないと駄目なんです。アンジェラさんをここに呼び戻せるのは、大輔さんしかいません」

「人を殺した犯罪者は貴方でしょう」

 大輔が反論すると、成子は喪黒福造のような大きな口を目一杯開けて、

「ひゃははは、私は一切手を出していませんのよ。浩司さんを殺したのは明美さんと清江さん、清江さんをバラバラにしたのは由樹さんとアンジェラさんと明美さん。私は人の命を奪うようなことをしていないの。だからアンジェラさんをここで保護してあげようと言っているのよ」

 明美は浴室の隅で体育座りをして小さくなって震えている。

「いいですか、大輔さん。貴方はアンジェラさんをここに連れ戻すことで再び殺人に手を染めさせることになるのでは、と危惧しているのではないでしょうか。それは大きな間違いなのです。例えば、大輔さんは豚肉や鶏肉などの動物の肉を食べますよね。動物の肉を食べるためには動物を殺さなければいけないことは分かりますよね。だけど、食事の際に一々罪悪感を抱いておりますか。抱いていませんよね。そうなんです。人間は集団で背徳感を覚えることに手を出しても、心で感じる痛みは分散されます。痛みや負の感情に対して鈍感になるのです。ここにアンジェラさんたちを匿うのは、警察から逃げるためが目的ではないのです。彼女たちの人を殺したという罪悪感を分散させるためなのです。そうすることで精神を病ますことは防げます。自分が人を殺したと、眠れぬ夜を過ごすことがなくなるのです。なぜなら、隣にいる人物も自分と同じ犯罪者だと分かるのですから。ここはアンジェラさんにとってシェルターとしてだけではなく、病棟としても機能している部屋なのです。探偵をやれるほど賢い大輔さんなら分かってくれるでしょう」

 奇妙な論理を組み立てて、説得をしようとしていた。だが、そんな無理矢理搾り出したような内容に感化されるほど軟ではない。

「嫌です。アンジェラと二人で一緒に暮らすことが夢なのです。これは二人で話し合って決めたことなので、変わることはないです」

「そう思っているのは、大輔さんだけですよ。アンジェラさんは貴方が可哀想だから合わせて言ってあげたのでしょう。女性の言っていることを真に受けてはいけませんよ。きっと女性経験も少ないのでしょう」

 女性経験が少ないことを言い当てられて何も言えなくなった。事実、少しだけ不安が差したからだ。アンジェラとは元々、店の女の子と客という関係だ。彼女が自分を利用しているだけで、本当は一緒に生活していく気がないことも可能性としてないわけではない。

「ほらね。今、図星って顔しているわよ。思い当たる節があるのでしょうね。まあ、考えてみなさい、ここにアンジェラさんを連れ戻すかどうか。冷静になって考えれば、貴方も分かってくれるでしょうしね」

 と言って、成子は眼鏡デブの男と共に浴室から去って行った。明美はまだ浴室の隅でうずくまっている。部屋が静かになると、彼女が泣いていることに気付いた。よく聞くと、何で私だけこんな目に、とブツブツ呟いていた。何かを拝んでいるようにも見えた。

「あの、明美さん」

 大輔は彼女に声をかけてみた。成子に操られているだけで本来は普通の女性だろうと見たからだ。

「ひっ、はい」

 と、一度驚いて顔を上げてから返事をした。

「大丈夫ですか。何か、とても辛そうに見えるのですが」

 自分の下腹部がまだ痛み、人の心配をしている余裕はないが、何か行動しないといけない、という強迫観念が大輔の口を動かす。

「すみませんすみません、本当にすみません」

 一切責めていないのに、物凄い勢いで謝罪の言葉を口にした。すっかりメンタルがえぐられてまともな思考から言葉を生み出すことができなくなっているようだ。

「私だけがこんな目に、と仰っていたので、何か理不尽で不幸なことが起きたのかと思いましてね」

 優しく声をかけると、

「お前の彼女のせいだ、クソがっ」

 と、急に怒鳴られた。先程の弱腰になって謝罪の言葉を吐いた時とは全然違った。急変ぶりから彼女はまともな精神状態にいないことが分かる。条件反射のようなコミュニケーションを取っているのだろう。赤の他人で恐れを抱いている大輔に声をかけられると弱気になる。アンジェラのことを思い出すようなことを言うと、逆鱗に触れたように怒る。

「アンジェラが何かをしたのですか」

 彼女の怒りを鎮めるために、静かに声を発した。

「アンジェラさんのせいで私は気持ち悪いオッサンに酷いことされないといけなかったの。全部、あの女のせいだ」

「酷い目って一体どうされたんですか」

 明美の言っていることに中身がなくて実際に何があったのか知ることができない。

「パチンコ屋に行くように言われたのよ。私とアンジェラさんと清江さんが。でも、アンジェラさんは貴方に由樹さんを探らせるから、パチンコ屋に行かなくて済んだのよ。だから私と清江さんだけ、あんな目に遭って。もう思い出したくもない」

 パチンコ屋に行って酷い目に遭った、ということはただ遊んで来たわけではないだろう。パチンコ屋では、パチンコ売春を行っている女性がいることを知っている。実際に浮気調査をしていると奥さんがそういった商売に手を出していることがあるからだ。明美は売春を強要されたということだろうか。気持ち悪いオッサンとは彼女を買った男のことだろう。

 もう一つ気になることがあった。アンジェラは売春することなく、代わりに大輔という探偵の知り合いがいることを明かして由樹を探らせたということのようだ。アンジェラが柴崎由樹という人物を調査するように依頼して来た時のことを思い出した。あの時、既に成子の毒牙にかかっていたということになる。だから明るさに翳りがあったのだろう。

 由樹は元々この犯罪に前向きではないことも分かった。いや、この殺人に積極的な人物など成子以外にいるのだろうか。

「パチンコ屋で売春をさせられたのですね。もしかして、それは成子から言われたのですか」

「成子さんのことを呼び捨てにするな」

 硬くて強烈な一喝が飛んで来た。成子のことを心から心酔しているように見える。どうしてなのか。

「成子さんから言われてパチンコ屋に行ったのでしょう。どうしてあの人のことを慕うのですか」

「私には仕事がなかった。夫も失って一人になった。ヒッ。ふえぇ。だから。だから、私に仕事をくれた。うわぁ、だから、だから成子さんのことを悪く言うなあ。成子さんは優しい方なのだからあ」

 自分に言い聞かせているかのような喋り方だった。途中から泣き出してしまい、情緒が滅茶苦茶だった。

「今でも、成子さんと初めて会った時のことを思い出すと、ホントに幸せな気分になれるの」

 と、言って明美は渋谷で初めて成子に会った時のことを喋り出した。星乃珈琲から出て由樹と清江とアンジェラが先に帰ると、焼肉に行こうと誘われたようだ。店に着くと、成子は七輪に肉を置きながら、

「明美さんのこと見ていたら、何だか私が辛くなっちゃって。同情とは違うの。何て言えば良いのかな。明美さんがマスクと帽子を取った時、昔の私を思い出しちゃってね」

 と、語り掛けてくれながら涙を流してくれたようだ。彼女の涙は嘘には見えなかったようだ。

「これ見て」

 成子は着ていたTシャツを捲り上げてお腹の肉を見せてくれた。肥えた腹はボコボコに歪んで、青痣の跡が大量に残っていたようだ。

「私には明美さんの気持ちが分かる」

 涙を止めてまっすぐ、七輪越しに明美の顔を見てくれた。

「ありがとうございます」

 明美は小さい声で一言しか発せなかったそうだ。腹から熱いものが込み上げて来たから、と言っていた。

「夫との毎日が本当に嫌だったから」

 と、前置きで言ってから、目の前で俯く明美は自分の不幸な境遇について喋り始めた。

「毎日一人きりで押入れの中で寝てたんです。殆ど毎日ゴルフクラブで殴って来る夫といると、安心して眠れないんです。耳栓をして押入れの襖の扉には、つっかえ棒をして、ようやく熟睡することができるんです」

 ボソボソと喋る明美の姿に同情を覚えずにはいられなかった。

「でも襖に隠れるのは、その時にできた習慣じゃないんです」

 急に声がヒステリック気味になった。何か特別嫌なことでも思い出したかのようだ。

「何があったんですか」

 聞かずにはいられなかった。

「私が中学一年生の時に父は自殺したのですが、その原因は母の父に対する暴力だったのです。その現場が怖すぎて私は毎日母と父から隠れて眠るようになったのです。その時の経験が今も残っているようなんです」

 何だか聞いていて不憫な気分になる話だった。明美の母は酔っ払うと仕事から帰って来た父に向かって持っているグラスを投げつける癖があったようだ。そんな日常に耐えかねた父は、明美と散歩をしている途中で踏み切りの中に飛び込んで自殺したようだ。血肉が飛び散る光景や肉が焦げるような臭いを今も容易に思い出せる、と言っていた。

「だから夫が仕事に行ってから押し入れから出て来るんです。部屋で一人きりで家事をします。殆ど抑鬱気分だったので友達もいませんでした。人との交流と言えば、旦那デスノートに投稿をすることだけです。でも、子供の頃も独りだったので、自分は慣れていると思っていました。父が死んでから施設に保護されて定時制の高校に通っても無気力で誰とも友達になれなかったから。でも、こんなことに慣れることなんかあり得なかった。辛い。辛過ぎるよお。どうして私だけがこんな目に遭わないといけないの」

 そんな中でようやく明美の心に寄り添ってくれる成子が現れたということか。そんな心から安心できる成子が、自分の夫を殺せと言うならば、明美は臆することなく殺せたのだろう。

 だが、殺し方が尋常ではなかった。首から下を地面に埋めて腐らせ、小動物に食わせるという殺し方だ。

 明美はついに大泣きし、話しかけても返事をしなくなった。大輔は他にも気になることがあった。先程から浴槽の中にいる彩花の声が聞こえないことだ。



 もうこの浴室に閉じ込められて何日経ったのかも分からない。一日一度くらいのペースで冷たい食パンが一枚食べさせられる。腕を縛られているので、明美が手で千切って口の中に入れてくれる。

 排泄はトイレでさせてくれない。小便も大便もその場で垂れ流しだ。たまに明美がシャワーで流してくれるが、パンツに排泄物が染み込み臭いが取れることはない。気が狂いそうだ。糞尿の臭いが充満する中でパンを食べることが苦痛だった。大便を塗ったパンを食べさせられているような感覚に近い。

 たまに浴槽の蓋が開けられて彩花が出て来ることもあった。その時は仕事が入ったからだ、と成子は言う。仕事とはどうせ身売りだろう。

 由樹とも顔を合わせることもある。浴室の丁度すぐ外の洗面所で成子に正座をさせられている時だ。

「娘が大金を稼げるのに、お前と来たら二千円ぽっきりか」

 と、成子に罵倒されていた。

「彩花ちゃんはエライから、お母さんを教育してあげなさい」

 成子から彩花は何か細長い肌色の物体を手渡されていた。目を凝らして見ると、ディルドだった。女児にそんな物を持たせることは異常だが、成子には関係のないことだろう。

 何度か使ったことがあるようで、彩花はディルドを母親である由樹の口の中に突っ込んだ。何度も喉を衝くと、由樹はうえっっと言いながら黄色い胃液を口から溢した。

「あーあ、それ飲みなよ」

 成子に言われて由樹は自分が吐いた液体を吸って飲み始めた。そんな日常が続いた。

 だが五歳児の彩花の精神状態はすぐに壊れることになった。仕事の時や由樹を拷問する時以外は、基本的に浴槽の中に閉じ込められているのだが、独り言を発するようになった。

「ぼく、しまじろう。とりっぴー、あそぼ」

「いいよ、しまじろう。何しよっか」

 などと、延々と一人で会話を行っている。現実から逃避して大好きなしまじろうの世界に行こうとしているのかもしれない。

 彩花が壊れ始めてから数日後、遂に浴槽から大絶叫が聞こえた。

「うるせえ」

 と怒鳴る成子が浴室の中に入って来た。彼女は浴槽の蓋を外して彩花の体を取り出した。思わず目を背けた。彩花がもう原型を留めないくらいに肉体が崩れていたように見えた。

 成子が浴室の外にある洗面所に出ると、由樹を呼んだ。彩花は洗面所の床に寝転がされた。彼女がどういう状態なのか、詳察することにした。

 彩花は寝転がりながら満面の笑みだった。髪の毛は殆ど抜け落ちていた。僅かに残った伸びきった毛が床を這うハリガネムシみたいに見えた。皮膚はブニョブニョになって真っ赤だった。腕や足、デコルテの辺りには発疹が大量にでき、黒くなっているところもあった。彩花が掻いたのか、全身の至るところに引っ搔き傷がある。出血と充血が酷い。

 由樹が洗面所に入って来て正座をすると、彼女の前の床にまな板とノコギリが置かれた明美も一緒に来ており、彼女が用意したものだ。

「今から肉団子を作りたいと思います。肉団子の作り方は覚えていますよね。清江さんの時もやりましたから。由樹さん、貴方の夫の隆広さんが食べることになるので丁寧に作って下さいね」

 成子によって、まな板の上に彩花は寝かされた。隆広が保護されたことを成子は知らないのだった。黙っていた方が良さそうなので大輔は言わないことにした。折角助かった隆広の命をわざわざ危険に晒すことはないからだ。

「無理です。できません」

 由樹は顔をチリ紙みたいにクシャクシャにして泣いていた。当然だろう。娘の彩花を殺せるわけがないだろう。由樹の全身の細胞が拒絶しているに違いない。隣の部屋に住むライターの女性によると、彼女は良い母親だったようだ。子供の教育で夫と喧嘩するほどの女性なのだ。

「無理って、誰が私に逆らっているんですか」

 頬を拳で思い切り殴られていた。倒れながら娘の彩花を愛おしそうな目で見ている。どんなに崩壊していても娘はやはり可愛い存在なのだろう。

「由樹さん、貴方には行動を決定する権利はもうとっくの昔に剥奪されているのですよ。毎日五千円も稼げないくせに、私に逆らうのですか。そもそも私を舐めているのか」

「舐めてなんかないです」

「じゃあ、やることは一つだ。この肉を解体して肉団子を作るんだよ。プラモデルみたいにバラバラにしてさ。それから鍋でじっくり煮込んでミキサーで粉々にするんだ。もしかしたら旦那の隆広さんだけでなく、由樹さんにも食べてもらうかもしれにからさ。さあ、由樹。ノコギリを手に取れ」

 これから死のうとしている彩花はまな板の上でニヤニヤ笑っている。もう逃げられない、と悟ったのか娘を楽にしてあげようとでも考えたのか。由樹はノコギリを引き寄せた。

 まずは彩花の痩せ細った首を片手で締めることにしたようだ。自分のこれまでの二十九年間の人生の全てを賭けて育てようと覚悟して生んだ娘であるはずなのに、今は使い終えた段ボールを潰すかのように押さえつけている。彩花は口から涎を垂らしながらヘラヘラし、苦しそうにジタバタしていた。ひっくり返ったカナブンみたいだ。

 大輔は由樹の身辺調査をしている時に見た、家族思いの顔を思い出した。自宅への緩い坂道を彩花と一緒に手を繋いで歌いながら歩いている姿。家族三人で食べるために、重たい食材を商店街で買う姿。仕事から帰って来た隆広を玄関の外まで迎えに出る姿。

 彼女の顔には希望が溢れていた。だが今はそれが微塵もない。希望を与えれば由樹は正気に戻るのではないか。

「由樹さん」

 と、声をかけた。一か八かだ。

「隆広さんは生きている。散策中の老夫婦に埋められているところを発見されたんだ。今は病院に搬送されている。まだ生きている。だから、ここは耐えて元の生活を取り戻すのです」

 成子の顔の色がますます白くなった。白が過ぎて水色っぽくなっていた。由樹はこちらを見ている。本当か、と問うている目をしている。彼女の目を見て無言で頷く。

 由樹は彩花の首から手を外した。代わりにまな板の上に置いてあったノコギリを手に取った。

「うわああ、うぐぐぐ、がああ、いやあああ」

 と、支離滅裂な叫び声を上げてノコギリを振り回した。壁はプチプチと段ボールで覆われていたが、それらがノコギリの刃に触れて破れたり、穴が開いたりしてボロボロになっていく。

「テメエ、適当なことを言っているんじゃねえぞ」

 男が大輔の顔を何度も殴った。殴られると脳が揺れて視界に映るもの全てが液化したように見えた。

「明美さん、由樹さんを止めなさい」

 成子の命令直後に明美の絶叫が聞こえた。どこかノコギリで切られたのだろうか。殴られてよく見えない。大輔はずっと殴られっぱなしだった。顔がべコベコになりそうだ。

「待って。由樹さん落ち着きなさい」

 成子の言葉にも由樹は応じない。男は疲れたのか殴る手を止めた。

 洗面所の状況を確認した。由樹はノコギリを手に持ったまま、もう片方の腕で彩花を抱えて洗面所から出て行った。ラブホテルから逃亡する時と同じだ。成子は彼女の後を追う。明美は頸椎の辺りから流血して頭を床に強打したらしく意識も失っているようだ。動かなくなったゼンマイ人形だ。

「待て。由樹さん」

 成子は必死だろう。このまま逃がして警察に飛び込まれたら最後だ。今の由樹なら警察に行ってもおかしくない。彩花の異常な姿を見せて監禁されていたと言えば、警察は動くだろう。

「待ちなさい」

 成子の後を追って男も洗面所を出て行った。動けるのであれば動きたい。拘束は解かれていないので、動くことはできない。由樹の逃走が上手くいくことを祈ることしかできない。

 唐突にインターフォンが鳴った。誰が来たのか。室内が一気に静まり返った。由樹も成子も動けなくなったようだ。この部屋に訪問者が来るとすれば誰なのか。

「私が出ます。由樹さんたちは動かないでいて下さい」

 ドアが開く音がする。一気に騒がしくなった。訪問者の声が浴室まで聞こえて来た。

「てめえ、高松成子だな。柴崎隆広さん殺人未遂の容疑で逮捕するぞ。おい、連行しろ」

 複数の男のものらしき足音が部屋の中にどかすか入って来た。警察が来たようだ。隆広殺人未遂で逮捕されるようだが、他の犠牲者の存在も分かったのかもしれない。

 成子も終わりだ。これで由樹も彩花もアンジェラも平穏無事な生活を送れる。一か八かの勝負に勝利したようだ。本当に良かった。

 一気に眠くなった。洗面所に警官が何人かやって来たような気配がした。人の放射熱が温かかった。

(第四章に続く)

第四章 死神が仮面を取り、素顔を現す。絶望


 白い天井に白い光。ここは成子のアパートの浴室か、と思ったが違った。どこかの病院の一室のようだ。

「水川大輔、目を覚ましたようだな」

 しばらくすると、二人の警官が病室に入って来た。一人は小柄だが禿げた頭で老練な刑事と見た。もう一人は大柄でラグビー選手のような体格をした三十代くらいの刑事だった。声をかけて来たのは年上の方の刑事だった。

「何日くらい寝ていたんですか」

 二人の刑事に尋ねてみた。

「まあ、数日程度だ。父親も心配しているぞ。まあ通報したのも父親だからな。今、連絡を入れてこれから来てくれるそうだ」

 治が病院に来るそうだ。父の前でどんな顔をすれば良いのだろうか。それに治が通報して警察が動いたようだ。どうして成子のことを知ったのか。

「ちなみに今回の事件に関してだが、高松成子は留置所で首を吊って自殺した」

「はあ」

 何もかもが終了したため、どうでも良くなっていた。

「現場にいた。川田明美は出血多量で意識不明。柴崎由樹と娘の彩花は意識はあるがまだ話を聞ける状況ではない。今のところお前しか話を聞ける人物はいないのだ。あの部屋で何が起きていたのか、全て話してもらうじゃないか。そして、どうしてあの場にいたのか」

 アンジェラが殺人に関わっていることを隠すために真実を語るべきではない、と考えた。アンジェラと一緒に平和な生活を送ることが最終的な目標だったのだ。こんなところで頓挫するわけにはいかない。殺人に関わったことがバレれば、国へ強制的に帰されることになるかもしれない。彼女の今までの努力も水泡に化してしまうことになる。

「何だコイツ、失語症か。何で喋らねえんだよ。おい」

 どうするべきか。アンジェラのこと以外は本当のことを言うしかない、と判断した。大輔はシャレコウベダケの捜査を進めていたところ由樹という女性を知ったことにして、自分が経験したことのみを語った。

「どうして、探偵であるお前なんかが殺人事件について調査することがあるのだ」

 と聞かれたが、依頼者の情報は公開できないと言い張って言い逃れすることにした。警察側もこれ以上のことを聞けそうにないと判断したのか、今日のところは引き上げてくれた。アンジェラのことを話さずに済んだ。

 警察が帰った一時間後、治が病室に入って来た。何を考えているのか外からでは分からない表情をしている。口角は上がっているが、目線は鋭利だ。わざわざ来たということは、何か言いたいことがあるのだろう。

「おう、意外と早く目を覚ましたな」

 ベッド脇にあるパイプ椅子に腰を下ろしながら、治が話し始めた。

「アンジェラはどうしてる?」

 一番気になることだった。新宿に置いて来てしまったことになるため、さぞ困惑しただろう。

「ああ、自分のアパートに戻った。今は普通に働いているんじゃないか」

 とりあえず安心して良さそうだった。早く退院してアンジェラに会いに行きたかった。これでアンジェラが関わった事件については解決した。偽装結婚相手と別れたため、何のしがらみもなく共に生活することができる。

 だが、大輔の甘い空想を潰すかのような言葉が治の口から洩れた。

「高松成子が逮捕された後も、シャレコウベダケの繁殖は止まらないそうだ。後で調べれば分かるが、全国的に首だけ外に出した死体が今も発見されている。まだこの事件は解決したとは考えられないな」

「え、でも、アンジェラは成子によって監禁されていたんじゃないのか。じゃあ、もうアンジェラの身に危険は降りかかって来ないんじゃないのか」

「川田明美という女性もあの部屋にいたんだろ」

 うん、と言って頷く。会話の先が読めない。明美は由樹が振り回したノコギリの刃によって首を負傷して意識不明だったはず。

「搬送中の救急車内で目を覚まして同乗していた警官と救急隊員を通電した後、逃げ去ったらしい」

 え、という声が出た。明美がまだ生きている。

「目を覚ました警官の話によると、成子さんを助けなきゃ、と言いながら暴れたようだ。半端ではない馬鹿力を発揮して男の警官や救急隊員を襲ったらしい」

 そこまで服従していたとは。流血した体でも逃げられる力が沸いて来るとは相当成子に対して恩を感じているようだ。彼女の人生について浴室で聞いた話を思い出した。あの話は大袈裟に言っていた訳ではなさそうだ。本心から成子を慕っていたようだ。

「明美の捜索はすぐに始まったが、彼女はすぐに死んだことが分かった。明美という女は山の中で首だけ地面から出して死んでいたようだ」

「どういうこと」

 今の大輔にはそれしか言うことができなかった。どうして明美がシャレコウベダケになっているのか。誰がそんなことをしたのか。

「つまり、成子が逮捕されたことによって、彼女に関わった人物の命が安全地帯に入ったわけではないということだ」

 父の言葉によって、心臓が一気に萎んだように気持ち悪かった。

「何なんだ。何が起きているって言うんだよ、全く」

 これからの平和な日常を夢見ていたため、出鼻をくじかれたような気がした。

「まあ、彼女と結婚をするのはもう少し先になりそうだな。とりあえずは療養に専念するんだな。帰って来たら話を聞かせてくれな」

 と言って、治は帰って行こうと背を向けた。

「あっそうだ」

 と、父の背中に声をかけて呼び止めた。何だ、と治は反応した。

「どうやって成子の自宅を突き止めたんだ。通報したの父さんなんでしょ」

「ああ、隆広さんがまだ生きていることをアンジェラさんから聞いた。そんで彼の様子を見に行って事実と確かめてから、アンジェラさんから聞いた住所に成子がいることを伝えただけだ」

 それだけ言って治は去って行った。アンジェラも父も自分が捕まっていることを察してくれたようで、助けてくれたのだろう。結局、父の手を借りてしまったことになる。ただ、父の様子から今回の助力はノーカンにしてくれそうだった。

 頑張らねば、と気持ちを入れ直した。このシャレコウベダケ事件を解決するまでは平和はないようだ。今回のしくじりのせいで、この事件に関わる恐怖が植え付けられてしまったが関係ない。自分がやらねばと燃えたぎっていた。

 だが、どうやって解決に導けば良いのか。成子が自殺した今、他に打てる手がなくなっていた。



 病院の一階フロアを歩いていると、廊下のベンチに見たことのある人物が座っていた。水色無地のパジャマ姿の由樹だ。彼女も同じ病院に搬送されていたようだ。

「どうも」

 と、声をかけると、こちらをちらりと見てからすぐに目を逸らして、どうも、と小さい声で返してくれた。

 由樹にとってあの部屋にいた人物とは、もう目も合わせたくないのかもしれない。彼女が巻き込まれたのは、大輔が身元調査をして家の位置を明らかにした原因もあるようなので尚更嫌がられて当然だろう。

 それでも彼女は無視することはしなかった。元々きちんとした人なのだろう。

「もう歩けるようになったのですか」

「ええ、まあ。一応」

 栄養を取れるようになったためか、元の綺麗だった由樹に戻りかけているようだ。だが、まだ顔が蒼白く痩せていることが気になる。目を見て会話をしてくれないことも元気になっていない証拠だろう。

 だが、どうしても聞いておきたいことがあった。どうして明美は成子に病的に従順だったのか。由樹視点から見て、成子はどんな人物だったのか

「少しお聞きしたいことがあるんですけど、よろしいですか」

 断られても仕方がないと思いながら聞いてみたが、どうぞ、と受け入れてくれた。優しいのか無気力でどうでも良くなっているのか。

「明美さんが逃げたことはご存じですか」

「いえ、逃げたのですか」

「はい。救急車から逃げ出した後に山奥で首だけ地面から出して死んでいたようです」

 ああ、と言って由樹はうなだれてしまった。嫌なことを思い出したのだろう。申し訳なくなる。だが、きちんと聞いておかないと絶対に後悔するので、心を鬼にして聞くべきことは聞くことにした。

「明美さんが逃げた時、成子さんを心配して外に脱走したようなのですが、明美さんは成子さんから一番大事にされていたのでしょうか」

 しばらく沈黙が続く。部屋の中で過した日のことを思い出しているのだろうか。

 少しだけ目線を上げた由樹は静かに語り始めた。

「明美さんが特別に成子さんから可愛がられていたわけではないのです。私が初めてあの部屋の中に入った時、明美さんは暴力を受けていました。今でも思い出しますよ。明美さんが正座しながら自分の下痢を食べている姿を。あ、ごめんなさいね。急に汚いこと言って。でも、そのうち、私やアンジェラさんが明美さんを拷問するように指示されるようになるのです。とにかく自分がターゲットにされたくないから、私たちは必死で明美さんを攻撃していたんですよね」

「でも、ずっと明美さんだけが攻撃されていたわけではないのですよね」

 現に由樹が暴力を受けているところをこの目で見た。

「はい。次のターゲットは清江さんでした。五十代くらいの女性で、すでに死んでしまった人です。その方は旦那さんをあのやり方で徐々に殺している最中に、発狂したふりをして成子から怒りを買って殺されるように自ら仕向けたのです。その時は、その女性が最下位の地位にいました。明美さんは一度逃亡したのですが、その後は売春などを頑張ってお金を稼いで順位を上げていたように思います」

「順位ですか?」

 意外な言葉が出て来たので、尋ねてみた。

「はい。部屋の中に閉じ込められている時には気付けなかったのですが、成子を頂点にして、それより下の私たちを明確な順位付けをするのです。最高順位の者は成子と一緒に寝たりできるくらいです。まあ、気色の悪い話ですが。でも最下位より断然マシ。最下位の人は何日間も正座をさせられて眠ることすら許されなくなるのですから」

 成子によって部屋の中でカースト制のようなものを作っていたようだ。恐らく、彼女に逆らうとカーストのランクが下がるのだろう。下位になって酷い目に遭いたくないために、みんな精一杯成子の言いなりになるのだろう。それが当たり前の状態になった時、犯罪が成立するようになっている。

「じゃあ、明美さんは心からそのカーストを信じ切って、成子さんを信仰するようになったってことでしょうか」

「まあ、簡単に説明すればそういうことだと思います。でも、そんな単純で温いものではないです。もっと陰惨で卑劣な空気感が徐々に身を破壊していくのです。その証拠に私も成子に気に入られた時、確かに安心していたと自覚がありますから」

 喋り終えた由樹は、ああ、と言って泣き出した。両手で顔を覆って静かに泣いていた。彼女もアンジェラや明美と同じく情緒が安定していない。当然だろう。

 由樹の話を聞くと、恐らく彼女たちは成子にマインドコントロールされているのだろうと判断できた。

 マインドコントロールは時に悲惨な事件を発生させる。二千年に入ったばかりの時に北九州で一人の男がある名家の家族の中に入り込んで、一家全員を殺し合いさせるような事件があった。その十年後には尼崎の方で、多くの家族が一人の女によって破壊された事件も存在する。グーグルで調べると、二つの事件は平成の凶悪犯罪の代表例のような扱いを受けている。

 北九州の男も尼崎の女も自分を頂点にしたヒエラルキーを作って、標的の人物を心身衰弱させて思考力を奪って殺人に手を染めさせている点が共通している。

 今回の成子宅で行われていることと一致しているではないか。

 事務所に戻ったら過去のマインドコントロールが関係する事件について調べてみることにした。何かが見えて来るかもしれない。

「成子さんに脅されていたという自覚はあったのでしょうか」

「最初の方はあったかもしれません。ですが、あの人の部屋に居続けていると脅されているという感覚がなくなってしまったような気がします。自分が旦那デスノートのチャットに参加して夫の悪口を言っていたことが原因でこうなっているんだって。そもそも自分が夫の嘘の愚痴をサイトに投稿していたことが一番根本の原因ではないかって自分を責めるようになって。成子が悪いという思考にならなくなるのです」

 アンジェラが言っていたように、旦那デスノートでチャットを利用したことで巻き込まれたようだ。だが、一つ気になることがあった。

「成子さんが最初にみんなで集まろうと言ったのでしょうか」

「ええ、確かそんな感じだったような気がします」

 何だかはっきりしない口調だった。何か自信を持って言えない理由があるのだろうか。

「成子さんは何と言って由樹さんたちを集合させたのでしょうか」

「そうですね。ええっと、何て言っていたんでしたっけ。あれ、ごめんなさい。何か勘違いしているかもしれないです」

 由樹が黙り込んだ。ベンチに座ったまま白い床を見詰めていた。グレーのスリッパを前後に擦って動かしていた。懸命に記憶を手繰り寄せて違和感の正体を探っているのだろう。

 何か出かかっているに違いない。違和感の正体のシルエットは浮かんでいるが様相が見えないのだろう。大輔は由樹の抱いた感覚に金脈を感じ取った。何がそう感じさせたのかは分からないが、探偵の端くれとしての第六感が働いたようだ。

「あっ」

 という声が聞こえた。顔を上げて目の前に立っている大輔の顔を見上げていた。

「私たちが集まるように言ったのは成子さんではありません」

「えっ」

 衝撃を受けた。では誰が言い出しっぺなのか。明美か、清江という女か。誰が黒幕か。

「管理人です。旦那デスノートの管理人の死神が私たちのチャットに入って来て、会って話すように嗾けたんです。それに成子さんが賛成してみんなが渋谷で集まることになったのです」

 驚愕で口が利けなくなった。黒幕は成子ではないということか。だが、分からないことが多々ある。

「成子さんも死神という管理人とは初めて会話するような感じでしたか」

 さあ、と言って首を傾げた。当然分からないだろう。先程まで死神の存在すらも忘れていたのだ。退院したらアンジェラに見せてもらおう。

「旦那を殺し合うように、と言ったのは死神ですか」

「ええ、死神だったと思います」

 うう、と大輔は呻った。死神が提案した殺し合いを実行するための集団にて、どうして成子が全員をマインドコントロールできるまで圧倒的な立場になれたのだろうか。成子が自発的に行っていないとしたら、死神が成子とグルだったことになるのではないか。

 考え込んでいると、あの、と由樹が声をかけた。

「はい」

 と、答えて由樹の顔を見た。白目を真っ赤にして両目から涙が溢れている。肌が綺麗なのでまっすぐ涙が落ちて行く。

「あの、まだお礼を言えなかったですね。本当にありがとうございます」

「え、何がですか」

 怒られることはしたが、感謝されるようなことをしたつもりはなかった。何に対してありがとうと言っているのだろうか。

「隆広さんが生きているって伝えてくれたことです。先日、夫が見舞いに来てくれたんです。あの時の大輔さんの発言は本当だったんだって嬉しくて。本当に彩花を殺さなくて良かったって」

 最後の方は喉を詰まらせながら喋っていた。大輔が浴室で拘束されていた時、由樹が彩花を殺そうとしていた。その時に娘を殺すことを防ぐために隆広が生きていることを伝えて希望を与えた。あの時の判断は結果的に良い方に転んだ。

「ああ、そのことですか。いえいえ、当然のことですよ。親が子供を泣く泣く殺す瞬間なんて見たくなかったからですよ」

「本当に、私は親失格だなって冷静になった今、心から思うのですよ。どうして彩花を殺すだなんて常軌を逸した行動に出たのか」

「成子にマインドコントロールされていたのですよ、恐らく」

 確証はないがマインドコントロールについて話した。由樹も納得したようで、自分の身の上話を始めて自身の弱さについて語った。

「私、自分が子供の時に親から本当に大事にされていたんだなって実感しちゃって。私の親は本当に凄いんだなって。もう、私なんか親向いていないのかなって」

 由樹は泣き続けながら、学生時代の話を語り始めた。

「私、昔は本当に酷い子供だったのです。小学三年生の時に、暗くて一番ブサイクだと思うという理由だけで一人の女の子を虐めていたんです」

 昔話が始まった。住所を調べた罪滅ぼしのためにも最後まで真摯に聞くことに決めた。

「その子は私と友達が暴力を振うとひっくり返ってジタバタするのね。その様がゴキブリそっくりだって言って当時の私は大口を開けて笑っていたの。ごめんなさい、こんな最低な話をしちゃって」

 由樹の他に女の子一人と男の子一人が虐めを行っていたそうだ。虐めていた女の子を殴ると二人共腹を抱えて笑う。そのリアクションが嬉しくて毎日彼女を殴ったそうだ。

 だが、そんな悪行はいつか注意される。担任の先生から放課後の教室に呼び出されたようだ。

「〇〇さんの親御さんから電話があった」

 と、担任は深刻そうな顔で言ったそうだ。当時の由樹は彼女の親から連絡が来るなんて考えてもいなかったようで、自分の行為が校外にまで影響を及ぼしたことを知って震えたと言っていた。

「当然のことだけど、担任は私の親に私の悪行を知らせたの。それを聞いた両親は激怒して私を折檻してから、被害者の女の子の家に一緒に謝りに行ってくれたの。当時の私は今よりもプライドが高くて、傷付けられることが嫌だったから、行きたくないって言ったけど、両親はそれを許さなかった。首を掴んで無理にでも謝罪に行かされた。まあ、今から思えば本当にありがたい話なんだけどね」

 それから両親は由樹の将来を心配して中学受験をさせることにしたそうだ。プライドの高い由樹は絶対に失敗したくなかったため、必死で勉強したようだ。目標の有名女子中学校に入るために、それまでの生活を改めて勉強に精を出したそうだ。そのおかげで由樹は第一志望の中学校に入って、頭の良い女になれたらしい。

「両親に感謝してもしきれない。人のことを扱き下ろして愉悦を覚えていた女に、勉強で一番になる世界を教えてくれたのだから。だけどね、私の極大なプライドは次の欲を覚えちゃうの。本当に反省をしない女ですよね。それは男への欲なの」

 中学二年生の時に同じクラスの友達に誘われて大学生男子と四対四の合コンに参加したそうだ。そこで一人の男と仲良くなったようだ。今から考えると大してカッコ良い男ではないのだが、中学生の由樹からして見れば大学生というだけでカッコ良く見えたそうだ。クラスのみんなは女子しかいない教室で男を知らずに生活している。対して自分は大学生の大人の男を知っていると優越感を覚えていたとのことだ。だが、結果的に最悪な男と仲良くなったことになったと言った。

「そもそも中学生の女子と仲良くなりたがる大学生の男なんてロクな人間いないのよね。考えれば分かるはずだけど、当時の私には見抜けなかった。簡単に言うとね、かなりの束縛男だったんです。男は私と常に繋がっていたがった。私が女子校の生徒だから男子との関わりは一切ないと信じているみたいで、常に目を光らせての周りに他の男がいないか見張っていたの」

 ある日、公園のベンチに並んで座っていた時に男は由樹に詰問したようだ。由樹は特に責められるようなことはしていないつもりだったようだ。

「ねえ、この前の縁日に男と一緒にいたんでしょ」

 男は由樹のことを内緒で付けていたそうだ。

「あれは親戚の子だよ」

 それは事実だった。お盆に遊びに来た叔父さんの一人息子で由樹よりも二つ年下の男の子だったそうだ。

「何で。俺がいるのに他の男と一緒になるんだよ」

「いや、別にそんなつもりじゃないんだよ」

「許せない」

 男はキャンキャカ叫んでベンチから立ち上がった。砂利の音を立てて寄って来て、由樹の目の前に腕を組んで立ったそうだ。

「お前は俺の女だ」

 由樹は所有物扱いされたことにプライドが傷付けられたと言っていた。

「はあ。お前の物じゃねえし」

「うるせえ。お前は俺の言うことだけ聞いていろ」

 男の拳が由樹の頬を弾き、ベンチから落ちて雑草の生える地面に全身を打ち付けた。

「サイテー」

 こんな男と一緒にいたら自分の価値まで下がりそうだ。もう一緒にいられないと思ったそうだ。

「お前だろサイテーなのは。俺を裏切りやがって」

 男が再び殴りそうだったので、急いで起き上がって家まで全力疾走で逃げた。

「この時の恐怖は二度と忘れないの。背後でずっと男の足音が聞こえるの。本当に怖い。その足音から一生懸命、息が切れて苦しいけど、走って逃げ続けた。バス通りから住宅街の道まで、ずっと全力で地面を蹴ったの。ジワジワと男の跫音が大きくなるから距離が縮められていることが分かるの。本気で殺されると思った」

 その時の恐怖は男である大輔には経験できないことだったが、心中は察することができる。

「捕まらないで家に着くとね、門をすぐのところにあるインターフォンを鳴らしたの。でも、すぐに男も門を勝手に開けて来て、私の襟首を掴んだの。父の声が聞こえたから、私は助けてって叫んだ。父はすぐに家から出て来てくれた。男は由樹を連れ去ることに夢中になって逃げることを忘れていたみたい。父はサンダルを履いた足で男の体を蹴って怒鳴ってくれた。父が恫喝すると男はすぐに逃げ去ったの。そのおかげで、二度と男は私の前に現れなくなった」

 大輔は思わず父の治のことを思い出した。今回も病院に運ばれて目を覚ました当日に見舞いに来てくれた。アンジェラを保護してアパートに帰したのも治の判断だろう。捕らえられた際も助け出してくれた。何だかんだで父は大輔に助力してくれる。

「入れって父は外で茫然としていた私に厳しい口調で優しい言葉を吐いてくれた。その夜、母と二人で喋る機会を作ってくれた。父が気を使ってお風呂に入ってくれた間、二人で食卓に着いてキウイフルーツを食べながら喋ったの。母は父から全て聞いていたようだった。私は涙を流して母に、ごめんなさいって言い続けた。自分の男を見る目のなさから、すっかり自信喪失していたし、両親に心配かけ続けている自分の不甲斐なさがどうしても許せなかったの」

 大輔には母がいなかった。彼が物心ついた時には他界していた。なぜ亡くなったのか、父から聞いてもいなかった。教えてくれそうになかったからだ。

「『由樹。別に失敗はしても仕方がないの。最後の最後に上手く行けば、そんなことどうでも良くなるんだから』って言って母は肩を抱いてくれた。『大丈夫。由樹はできる。頭が良いんだから』って私の自尊心にも柔らかい包帯を巻いてくれた。本当に良い親に育ったなって。ううっ、ごめんなさい。泣いても仕方がないことくらい分かっているんですが、ふぇ。そんな両親に育ててもらいながら、いざ自分が親になった時、娘の彩花を殺そうとしていたなんて。もう。もう。もう信じられない。ねえ、うう、両親があの光景を見たら何て言うと思う?」

 こんな時にどうすれば良いのか、鈍感な大輔には判断できなかった。ひたすら泣く由樹に何と言えば良いのか。とりあえず彼女の横に座って、泣き止むことを待つことにした。大輔は由樹の両親のことを考えた。

 彼女の両親はできた両親だ。父の手のみで育てられた自分には、そんな経験をしたことがない。父の優しさは分かっているつもりだが、こうやって人に対して語れる話がない。由樹の両親は父として、母としての役割を理解した上で彼女に適切な対応をしたのだろう。

 父と母で役割分担がしっかりしている。

 ん、と何か引っかかった。役割分担という言葉に再び、探偵の端くれとしての第六感のセンサーが反応した。

「由樹さん」

 由樹はまだ泣いているが、幾分落ち着いたようなので声をかけた。彼女は洟を啜ってから、

「はい」

 と、答えてくれた。

「成子さんの旦那さんはどこにいるのですか。五人の旦那さんを殺す目的で集まったようですが、成子さんの旦那さんが見当たらないのですが」

「あ、そうでした。重要なことを思い出しました。成子さんの旦那さんは偽物だったのです。あの部屋に最初は成子さんの旦那さんだと思っていた人がいたのです。男の人が三人いましてね、そのうちの一人を成子の旦那だと、本人も言っていたのです。でもアンジェラさんが逃亡する時に、その男性は殺されたのです。でも、眼鏡のデブ男が口を滑らせて成子さんの旦那役の男が殺されたと言ってしまったのです。それを間違いなく聞いております」

「え、じゃあ、成子さんは独身だったってことですか」

「ええ、恐らく」

 違う。引っかかっていたことは成子の旦那のことだが、彼女が独身かどうかが問題なのではない。今度は大輔が頭脳をフル回転させて引っかかったことを見付け出す番になった。

 役割分担。

 この四文字に何かを感じる。

「あの、関係ないかもしれないんですけど」

 と、由樹が静かに言ったので、はい、と答えた。

「あの、部屋の中でディルドを見ましたか」

 急に何を言うのか、と思ったが、確かに洗面所で明美がディルドを由樹の口の中に突っ込んでいるシーンを見たことを思い出した。

「ええ、見ました」

「あれは成子さんの旦那さんが作った物だと成子さんが言っていました。だけど、私、何か変な感じがしたんです。浩司さんを殺害する場でそのことを言っていたのですが、その場に成子さんの旦那役の人もいたのです。彼は成子の発言に対して何の反応もしなかったのです。もし、旦那役の男が作っていたら彼自身が何か言うか、成子さんが彼が作ったのと言うと思います。それに、旦那役の男は半グレみたいな男でとてもそんな物を作れるようには見えなかったのです」

「つまり、旦那役の男以外に、本物の旦那がいるってことですね」

 はい、と由樹はしっかりした声で応えた。他にもう一人成子の旦那が隠れている。もしかしたら、と大輔は一つの可能性にぶつかった。

「もしかしたら、成子の本当の旦那が犯人かもしれません」

 声にした瞬間、大輔の視界から霧が払われた。陽光が差して進むべき道が見えた気がした。

「どういうことですか」

 大輔の言葉を聞いた由樹が驚いた顔をした。大輔は違和感の正体が分かったような気がした。

「冷静に考えてみれば、どうして管理人の男が個別のチャットに入って来るのでしょうか」

「それは私も思いましたが、作ったばかりだったので、正常に機能しているか確認しに来たとか言っていましたよ」

「それでも会話に参加するのは不自然だと思いませんか。それに旦那デスノートの存在価値は何でしょうか。日頃の鬱憤を晴らすことが目的でしょう。それなのに、どうして鬱憤を溜めこんだまま旦那を殺すことを勧めるのでしょうか。明らかに目的に反しています」

 由樹は固まって動かなくなっていた。結論を述べることにした。

「つまり、その死神というのは管理人のふりをした者です。もしかしたら、成子とグルである彼女の旦那かもしれません」

 隣から喉が鳴る音が聞こえた。全て成子と彼女の旦那が仕込んだ犯罪だった。だから、成子が死神の主張に賛成をしたのだろう。

 話しながら、もっと恐ろしいことにも気が付いた。

「役割分担をしていたのですよ。成子と旦那が。旦那は成子に命じて由樹さんたちを動かして殺人を犯させたのです。旦那は隠れて」

 そこから喋れなくなった。自分の考えていることが突飛過ぎて納得してもらえるとは思えなかった。

「隠れてどうしているのですか」

 と、尋ねられたので、思い切って言うことにした。

「あくまでも予想の範疇を出ていないですが、成子の旦那は色んな女を全国に派遣しているのではないでしょうか。成子のように自分の言うことを聞く女を。全国でシャレコウベダケの死体が発見されていることを考えれば、全く考えられないことではない気がします」

「あ、私が一度脱走して家に戻った時に、和歌山の山で首だけ地面から出した死体が見付かったニュースを観ました。もしかして、あれから全国に広がっているのでしょうか」

「はい、そうなんです。今では日本全国が恐怖しているのです。由樹さんたちが拘束されている間に、日本中で家から出ないように生活するステイホームの習慣が広まっているくらいなのです」

「そんなことが」

 この場の空気が重苦しくなる。空気が寒天状になったかのようで重く、息苦しかった。

「でも、大輔さん」

 由樹が何か気付いたようだ。

「そんな派遣された女全員がマインドコントロールをできるものなのでしょうか。派遣される前に、その成子の旦那に鍛えられたのかもしれませんが、そんな全員が上手くできるとは思えません。全員成子と同じ性格で器用であれば話は別ですが、そんなことあり得ないと思うのですが」

 確かにそうだ。一理ある。

 二人は黙った。由樹の疑問を解決できない。一体どのようにして、全国に派遣した女全員にマインドコントロールの手法を伝えたのだろうか。

「とりあえず、色々調査してみます。話していただきありがとうございました」

 立ち上がって、由樹に挨拶をした。

「いえ、こちらこそ力になれずに」

「とんでもないです。大きな進展がありました。ここからはお任せ下さい。必ずこの事件の全貌を解いて見せます」

「ありがとうございます」

 大輔はその場から去った。退院したらすぐに動こうと決めた。とりあえずアンジェラに会いに行くことが第一優先だろう。



 三日後、無事に退院することになった。父の治が病院まで迎えに来てくれた。

「とりあえず、今は大輔が担当する依頼はないから、じっくり話し合おうじゃないか」

 治は車を運転しながら言った。時刻は午前十一時で、アンジェラは眠っている時間なので、一旦事務所に戻ることにした。

 久しぶりに事務所の中に入った。コーヒーグッズで装飾されたお洒落な喫茶店のような空間に入ると虚脱感に襲われた。

 帰って来られて良かった。

 成子の部屋にはもう死んでも戻りたくない。一秒でもあの部屋に足を踏み入れたくない。

 大輔は治と向かい合って座った。父に今までに知ったことを全て話した。どうやって女性全員がマインドコントロールすることができたのかについては解決できていないことも伝えた。

「なるほど。マインドコントロールか」

 キリマンジャロのコーヒーを一口飲んで治は思考の世界に没頭し始めたようだ。

「どうかな、やっぱあの部屋でも全員成子にマインドコントロールされているようにしか思えないんだよね」

「マインドコントロールされやすい環境として、閉鎖的空間に閉じ込められていることがある。その成子の部屋はまさしく閉鎖的空間だ。そこに何日間もいた者は最良か最悪の二分法的な思考になる。他からの情報が一切遮断されるため、その成子という女の発言のみが情報と化し、教祖の言葉のようになる。それに反する者は裏切り者と見做され、攻撃の対象となる。標的にされることこそが最悪と考えられ、みんな成子に背反することを嫌がる。北九州一家殺人事件でも同じだ。家族全員がある一室で生活を共にして、外の情報が入って来ることがなかった。主犯の男に反することこそが最悪と見做されていた。尼崎事件でも、主犯の女は度々家族会議を開くなどして狭い空間に人を閉じ込めたそうだ。寝ることも許されずに連日会議に参加させられている被害者たちは、思考力を失い、いつの間にか狭い空間で女と共棲することになった。北九州の事件と同じ状況になったそうだな」

 治の言葉を聞きながら、今回の事件もやはりマインドコントロールに関する事件だと確信できるようになった。

「そしてもう一つ考えられることは、旦那デスノートに投稿している女性をターゲットにした点だ。マインドコントロールを受けやすい人の特徴として、弱点があるということだ。そのサイトを利用している女性は当て嵌まる確率が高い。旦那を心の底から憎んでいる者や、暴力を受けていることを恥じる者、ネットの世界によくある嘘の愚痴を書いている者、犠牲者になるにはうってつけの人たちだろう。アンジェラもそうだ。自分の偽装結婚相手との生活に嫌気が差しており、その憂さを晴らすためにやっていたのだろうからな。その男を心底憎悪し、嫌悪感を抱くことで自身の弱さを自覚したのだろう」

 治の言っていることはよく分かる。父もマインドコントロール説に賛成ということだろう。

「だが、一つ判明していないことがある」

 父は人差し指を一本ピンと伸ばした。

「成子や成子の旦那という人物にとっての目的が見付からないんだ」

 目的が見付からないとはどういうことか。父に聞いてみた。

「北九州の事件も尼崎の事件も両方マインドコントロールの恐ろしさを広めた有名な事件だが、二つの事件の主犯には明確な目的があった。それは金だ」

 ハッとした。確かに二つの事件は全て金を巻き上げることに躍起になっていた。操られた者たちは最後まで金を搾り取られて、これ以上搾り取れないとなった時点で殺害されている。

 一方で成子はどうだったか。売春で金を稼がせてはいたが、搾り取っていた印象はない。

「何が目的なのかが分からない」

 治は一言発してからコーヒーを飲み干した。

 大輔は何の気なしにテレビの電源を入れた。時刻は十四時を少し過ぎたくらい。昼の報道番組が放送されていた。最近のシャレコウベダケの影響でステイホームの習慣が根付き、リモートで仕事をする人が増えたことを特集していた。様々な企業がリモートワークをするように推し進めており、対策の一例が紹介されていた。ある有名なソフトウェアの会社はズームというアプリを使って会議などを行っているようだ。パソコンのカメラで顔を映して、画面上で参加者の顔を見ながら会話ができるようだ。イヤホンを付ければ、家や喫茶店でも会議に参加することができるとアナウンサーが言っていた。

「ん」

 正面に座っていた治が変な声を出した。何か気になることでもあったのだろうか。

「おい、大輔。成子がイヤホンを付けているところを見なかったか」

「え、うん、イヤホンというか、補聴器をずっと片耳に付けていたな」

 と言うと、すぐに、

「それだ」

 と、治は怒鳴った。大輔も一瞬何が引っかかったのか分からなかった。だが少し考えただけで治の言いたいことを察した。

「まさか、その補聴器って」

「ああ、そうだ。誰かからの指示が聞こえていたのかもしれない。だが、成子の見ている状況をどうやって把握していたのかは謎だが。イヤホンにマイクの機能でもあったのかもしれないが、それだけでは不完全な気がする。音だけでは目の前の様子を完璧に把握することはできないだろう」

 この点に関してはすぐに解決できた。大輔は成子が常に赤い細縁の眼鏡をかけていたことを伝えた。

「なるほど、そこにカメラとマイクが装着してあったんだろうな。それで撮影した映像や音声を使って、成子の旦那が成子に指示をしていたのだろう。成子のようにイヤホンと眼鏡をかけた女性が全国に派遣されて、全員に指示を与えているのだろう。そうすれば全員がマインドコントロールの手法を身に着ける必要はない。その成子の旦那だけができれば問題ないのだ」

 興奮が止まらない。日本国民を絶望に陥れた事件の全貌が解明されつつある。だが、一つ恐ろしいことも気付いた。

「明美さんが殺されたのって、成子さんのカメラ越しに顔を見られていたからでしょう。今のところ、彼女も無目的で殺されたことになる。じゃあ、アンジェラも」

「ああ、見られていたし、また無目的で殺されることも考えられる」

「アンジェラはアパートに戻して店に出勤しているんだよね」

「そのはずだ。様子を見に行っているわけではないから知らないが」

 悠長にしている場合ではない。彼女は夜働きに行って早朝帰宅する生活を送っている。暗がりから手を伸ばすことは悪魔にとっては容易な作業だろう。

 彼女は夜の七時には家を出る。六時にはアパートに行って止めなければいけない。

 三時間後に事務所からアンジェラの住むアパートに向かうことに決めた。

 十八時になった。大輔は鶴見にあるアンジェラのアパートに到着していた。部屋のインターフォンを押した。

「はい」

 と、懐かしい声が聞こえた。アンジェラは生きていた。

「俺だ。大輔だ」

 すぐにドアが開いた。ドアの隙間からアンジェラの顔が見えた。

「大輔、お帰り!」

 溌剌な声を発して、彼の首に両腕を回した。部屋の中に引っ張り込まれた。玄関の三和土に立って二人で見つめ合う形になった。アンジェラの後ろにはナコという源氏名で働いていたフィリピン人の子が立ってニヤニヤしていた。

「大輔、ホントにホントに戻って来た。良かった、ホントに良かった」

 彼女の顔は嬉し涙でグシャグシャになっていた。再び抱き付いて、唇にキスをしてくれた。ココナッツのトロピカルな甘い香りが口と鼻に広がった。アンジェラが使っているリップバームの香りだ。安心感で心がホロホロと崩れてしまいそうだ。

「良かったよ、アンジェラも無事で。僕が入院している間に夜襲われていたらって考えて今日慌てて来ちゃったんだ」

 と、キスをし終えた大輔はアンジェラの頭を撫でながら言った。

「うん、大丈夫だよ。最近はお店も営業してなくて外にも出てないからね」

 靴を脱いでいると、アンジェラが思わぬことを言った。最近はお店に行っていないようだ。

「え、お店やってないんだ」

「そう、みんなステイホームでしょ。だからお客さん来ないし、お店をやっていると自粛しろって苦情が来る。もっと悪質なのは、通報されること。お店がやっていると、警察にあの店のオーナーがシャレコウベダケ事件の犯人だって言われるの」

 言葉が出なかった。世間は大輔が考えている以上に暗澹としているようだ。

「最近、お金稼げなくてどうなっちゃうんだろって、みんな言ってて、友達もフィリピンに帰っちゃう人もいるの」

 当然だろう。こんな物騒な国に居座る外国人が多くいるとは考えられない。

「そうか、怖かったな」

 と言って、アンジェラを抱き締めた。

「ううん、大丈夫。大輔の方が怖かったでしょ」

 本当に怖かった。自分が消え入りそうだった。あの部屋に吸い込まれて、腐敗臭のする空間と同化しそうだった。

「そうだ、もう一度旦那デスノートのチャットの画面を見せてほしいんだ」

 アンジェラの体を離してから言った。由樹と会話したことを思い出したからだ。

 リビングの中に入ってから、アンジェラにチャットのサイトにログインしてもらった。最初見せてもらった時には気付かなかったが、確かに死神というユーザー名の管理人と名乗る人物が途中で参加していた。

 大分会話が進んだ後に参加していたため気が付かなかった。

「この死神っていう人に心当たりはないの」

 と、試しに聞いて見たが、アンジェラは首を横に振るだけだった。当然だろう。死神が成子の旦那だとしたら、現場に来ずにリモートで指示を与え続けていたのだから。

「やっぱ、この人が犯人なの」

「多分そうだと思う。成子さんが死んだ後も首だけ出した死体が見付かっているんだから、成子さんが真犯人ではない。ならば、この死神という人しかあり得ない」

 うう、とアンジェラが呻き声を上げる。後悔しているのだろう。自分が偽装結婚相手ごときの愚痴を語るために、このチャットに参加したことを。

 だが、彼女を安心させることが本当の恋人である大輔の役目だ。このまま不安にかられたまま生活をさせるわけにはいかない。

「アンジェラ、一旦フィリピンに戻ったらどうだろうか」

 アンジェラの身に迫る危険を考慮した時、彼女に一旦帰国してもらうことを考えていた。だが仕事があるため簡単に行かないだろうと諦めていたが、お店が営業できないのであれば都合が良い。

「でも、大輔に会えなくなる」

 嬉しいことを言ってくれる。だが、彼女の身が一番大事なのだ。大輔は説得を繰り返してアンジェラと同居人の女の子は五日後にフィリピンに帰国することになった。



 事務所にてパソコンを起動して旦那デスノートの管理人へ問い合わせのメールを出すことにした。

 貴方はチャットのコミュニティに入って利用者と会話をしたことがありますか、という内容だ。コミュニティ内で貴方と会話したという人物が事件に巻き込まれていることも躊躇したが書くことにした。その際死神の発言もスクショして添付した。

 メールを送信後、入院していた病院へ向かった。由樹に会いに行く目的だ。由樹にもリモートで成子を操っていた人物がいることを伝えて、明美のように命を狙われる可能性があることを警告しに行くつもりだった。事件が解決するまで一人での行動を避けるように、と呼びかけるつもりだった。

 だが、由樹の見舞いは許されなかった。大輔は入院中に顔見知りになった看護師を訪ねて、彼女に身に何か起きたのかを聞いてみることにした。

「すみません、大内さん、お久しぶりです水川です」

 受付で男性看護師の大内さんを呼んでもらった。由樹さんに伝えてほしいことがある、と言伝をしたところすぐに来てくれた。

「どうも水川さん。お変わりはないでしょうか」

「ええ、おかげさまで。ところで柴崎由樹さんにお会いできないことになっていたのですが、どうかされたのでしょうか」

 大内の顔に迷いの色が浮かんだ。言って良いのかどうか、迷っているのだろう。

「実は、ここの病院に成子さんが来たと言ってずっと騒いでいるんです」

「え、成子さんは死んだはずでは」

「ええ、ですから幻覚の一種だと思われます。相当錯乱しているらしく、病室内にある物を投げ飛ばしたりするほどらしいのです。旦那さんに来てもらって、少し落ち着いてもらっているような状態なのです」

 そうですか、としか言えなかった。この病院で会話した時の由樹は狂乱するような精神状態に見えなかった。元の生活に戻るための心の準備をしっかりしているように見えた。

 意地で弱みを見せないようにしていたのか。それとも、大輔が退院してから何かあったのか。もしかしたら死神の手が伸びて来ているのかもしれない。

「あの、隆広さんの方にお伝えしてもらいたいことがあります。今回の事件が解決するまで、由樹さんを一人で行動させないように気を付けて下さいと言って下さい。この事件の親玉の存在に由樹さんの顔が見られていた可能性が高いためです。実際、同じ部屋にいた人が殺されて山に例の殺され方をしていたらしいので」

「分かりました。柴崎さんの耳に入れておきます」

 これくらいしかできることがなかったので、今日は帰ることにした。

 帰宅する電車に座っていると、管理人から問い合わせメールの返信が来ていた。返信の内容は、自分ではない、というものだった。やはり、としか思わなかった。



 アンジェラがフィリピンに帰る日、大輔は心配なので成田空港まで車で送って行くことにした。十九時に鶴見へ行き、アパートの前に車を停車させた。車から降りて、しっかり鍵をかけてからアンジェラたちの住む部屋のインターフォンを鳴らした。

 チェーンをかけたままアンジェラがドアを開けて、大輔であることを確認するとチェーンを外した。

「荷物の準備はできた?」

 うん、と言って大きなキャリーケースを転がして来た。ナコも同じくらい大きな鞄を持っていた。

「すぐに行こう」

 既に年も明けて一番寒い時期になっていた。三人はダウンコートを羽織って車へ向かった。電源を入れて後部座席に二人を乗せる。大輔は運転席に乗り込んでヒーターを入れてから、

「行こうか」

 と言った。バックミラー越しに二人が頷くのが見える。一旦、アンジェラとはお別れだ。だが、事件が解決するまでの期間だ。寂しいことはない。二人にとって前向きな別れなのだ。エンジンを入れた。

「ん」

 発進させようとしたところ、前方に何かが見えることに気付いた。よく見ると、人が立っているようだ。二本の足が見える。だが人の肌の色をしていない。青紫色と茶色の中間色のようだった。

 クラクションを鳴らした。不気味な足の持ち主が邪魔で車を出せない。だが、クラクションを合図にこちらの意図とは逆に、蒼黒い足が近付いて来た。足が前に進む。

 うっ、と言う声が出た。後ろにいた二人も大きな悲鳴を上げた。前方にいたのは人ではなかった。山姥だ。

 デップリ太った体でギシギシの髪の毛を腰まで伸ばしている。冬なのに半袖の泥で汚れた白いTシャツを着ていた。シャツの袖から露わになった腕には大量の真っ赤な切り傷、ミミズ腫れ、内出血痕、蒼痣、リスカ痕でメチャクチャになっていた。

 口元は大きなマスクをしていて隠れていた。目元は金壺眼で眼球の白目は白でもなく赤く充血しているのでもなく、茶色く腐っていた。黒目は底なしの穴のような絶望感を感じさせる。

 何なんだこの女は。呆気に取られていると、

「大輔、眼鏡とイヤホン」

 と叫ぶアンジェラの声が聞こえた。女の邪気に圧倒されていて気が付かなかった。女は銀色の細縁の眼鏡をかけており、片耳にワイヤレスイヤホンをしていた。成子と同じだ。大輔は自説に自信を得ることはできたが、トロトロの冷水を浴びせられたような気味の悪い恐怖を抱いた。

 この女はアンジェラを狙って張り込んでいたのかもしれない。とにかくアンジェラを無事に空港へと届けなければ。

 山姥は猿のような動きで素早く車のボンネットの上に乗ってフロントガラスに覆い被さって来た。腐ったサツマイモみたいな色をした足や腕が視界一杯に広がる。カメラを仕込んだ眼鏡越しの両目は大輔を捉えた。

 多少乱暴なことをしても良いだろう、と見做した。痛い目に遭わせないと妖怪じみた女に取り憑かれて呪われるような気がした。呪われなくても、カメラの奥に潜む存在に甘く見られて付け入る隙を与えそうだった。

「シートベルトはしているね。前の椅子にしっかり掴まっていてな」

 と、後ろの二人に言ってから、他の車が傍を通らないことを確認してアクセルを踏んだ。一気に強く踏み込んでからブレーキを急に踏んだ。また走行してはハンドルを大きく右に回した。フロントガラスには掴まる突起などないにも拘わらず、女は貼り付いたままだ。吸盤でもついているかのようだ。山姥のマスクの紐が切れたようだ。フロントガラスの向こう側、すぐ近くに口が存在する。いや、口のようなものだ。唇は全て剝がし落とされカサブタのようなひび割れた塊が粘膜の代わりを果たしている。口の中には歯が一本もなく、ベロが剥き出しだ。口をしっかり閉じることができないようで、山姥は口角から涎を流している。

「気持ちワリイんだよ」

 と、言いながら車の先を住宅の垣根に突っ込ませた。枝が女の背中に刺さったらしく痛みで口を開けて黄土色の僅かに残った奥歯が覗く。そのままハンドルを横に切り、女を垣根に埋め込んで引きはがすことに成功した。

 そのままアクセルを踏んで空港への道を急ぐことにした。一安心した。後ろの二人からも、はあはあ、という声が聞こえて来る。

 やはりアンジェラも狙われていたようだ。一旦帰国するという判断は正解だったようだ。



 アンジェラを空港に送ってから二日後、事務所に意外な人物が現れた。柴崎隆広だ。隆広は大輔と向かい合って座っていた。

「大輔さん、とんでもないことが起きてしまいました」

 第一声でそれだけ言うとビャアビャア泣き始めた。四十を過ぎた男が泣く姿を見たくなかった。職業柄、浮気調査などで夫婦間での修羅場に遭遇することが多々ある。その時の男の涙と今の隆広の涙は明らかに異なるものだった。何が違うのか具体的なポイントがあるわけではない。だが、隆広の涙には寂寞さと追い詰められた焦燥が同じくらい含まれているようだ。

「どうかしたのですか。まさか由樹さんの身に何かあったのですか」

 二日前、アンジェラのアパート前に現れた山姥を思い出して不安が増す。

「いえ、由樹には毎日会いに行っているので、大丈夫なのですが、まだ彩花には会えない状態が続いていたのですよ。ですが」

 と、言ってから言葉が止まった。大輔は急かさず待つことにした。

「あの、彩花なんですがね。急に病院から逃げ出したか、何者かによって連れ去られたか、とにかくいなくなってしまったらしいんです」

 何てことだ。頭を抱えてしまう。彩花は隔離されて治療を受けていた。病院側に任せている状況だった。そこで安心してしまい、彩花への保護を怠ってしまっていたようだ。

「窓は換気のために開ける時間もあったので、そこから不審者が侵入したのか、と考えているのですが防犯カメラの映像には怪しい人物は見当たらなかったようで。彩花が一人で行動している様子も映されていなかったようです。隔離病棟の外周辺には防犯カメラが多くあるので、こんなことありえないと病院側は言ってたんですが。実際にいなくなっているし」

 隆広の泣き言が止まりそうになかった。落ち着くように声をかけたが効き目はなかった。

「はい、でもお、由樹が、成子さんが来たと騒いでいたので、本当に成子さんが来ていて、彩花のことを連れて行ったのではないかと気が気でなくて」

「そんなことはないです。彼女は留置所で自殺したので、この世にはいません」

 何とか落ち着いてもらいたかった。だが本音は落ち着いている場合ではないな、と自覚していた。死神が人を使って治療中の彩花を攫ったかもしれないのだ。そうなると、あまり悠長なことをしている場合ではなさそうだった。一刻も早く親玉の存在と居場所を明らかにして、彩花を攫った人間への指示を止めなければいけない。聞き込みで彩花がどこへ行ったか調査するよりも、そちらの方が早く解決するだろう。

「死神の存在さえ分かれば良いのですが」

 と、隆広に事情を話した。すると、隆広が口を開いた。

「プロバインダに情報開示してもらうことはできないのでしょうか。最近家族の生活のためにⅠTの勉強をしているので、何となく分かるのですが」

 なぜ今まで気が付かなかったのか。本物の管理人に問い合わせメールで偽物の死神のIPアドレスの開示を要求すれば良いのだろう。

 管理人も自分の名前を利用して悪事を働いていたことに関して怒りの感情を抱いているだろう。快諾してくれるに違いない。

「そうですね。IPアドレスが分かり次第、警察に契約しているプロバインダに情報開示を請求してもらいましょう。父に聞けば警察の中に知り合いがいると思いますので」

 ありがとうございます、と隆広は椅子から立ち上がって土下座すらもしていた。

 隆広のような腰の低い男が由樹の旦那だということに面白味を感じた。綺麗で気丈な女性と物腰の柔らかい年上男は相性が良いのだろうか。



 大輔は和歌山県の高野線の電車に乗って紀伊神谷駅に到着した。秘境駅らしく他に降りる人はいなかった。乗客も他に見えなかった。ホームに駅員が一人だけ立っていたので驚いた。

 駅の周囲には蒼い葉を付けた巨木が大量に生えて、もわもわと暗鬱な雰囲気をまとっていた。この辺りに死神を名乗って多くの女性をマインドコントロールして、遠隔で人殺しを行っている男が住んでいる。

 ここにシャレコウベダケの死体が遺棄されていても何もおかしくない。和歌山県の山奥で見付かったシャレコウベダケは、この辺に埋まっていたのだろうか。死神を名乗っていた凶悪犯罪者、播磨雄作という男の隠れ家はどこにあるのか。駅から離れて山道を歩き進んだ。

 播磨という男はどんな人物なのか。一介の探偵が相手をできる男なのだろうか。事務所を出る時、父の治から、自分の力だけで播磨を抑えろ、と言われた。ここが治らしいところだ。自分の息子にとんでもない試練を与えて楽しんでいる。

 だが、大輔も自分の手でこの事件を解決させたいという気持ちだった。人生でこんなにも燃え上がったことはない。憤怒と緊張と快感が交じり合って大きな発火剤になり、父の言葉によって着火させられたようだった。ここで成果を出して今までの自分という殻を破り捨てるつもりだ。ポンコツ探偵の汚名を返上しようではないか。

 大輔は管理人にメールをして偽物の死神のIPアドレスを手に入れた。予想通り、こちらの要求に快く応えてくれた。水川探偵所を調べてくれたらしく、大輔と治の名前宛てにメールをくれた。

 治の知り合いの五十代の警官に頼んで契約しているプロバインダに情報開示を請求してもらい、住所まで特定してもらった。治が難事件に首を突っ込みまくっていた時に知り合った男のようだ。多くの警官は治のことを煙たがっていたが、彼だけは治の捜査力を買っていたそうだ。

 住所を頼りに歩いても、樹木ばかりでどこにも民家らしきものは見えなかった。播磨はどこに潜伏しているのか。

 しばらく南に向かってクヌギの木が幾本も空高く聳え立つ山の中を歩いた。すると木陰の中に朱い点が見えた。木で覆われていており、何の朱色なのか分からなかった。

 朱色の物体に引き寄せられた。近付いてみると廃墟と化した神社の鳥居だった。昔の山岳信仰の名残だろう。既に山岳信仰の習性は現代人の中にはなくなり、経営維持ができなくなって廃神社となるところが多いようだ。そういった神社には霊力が宿らなさそうだが、眼前にある朱い鳥居からは何か形容できない粘性のあるオーラを感知できた。

 泥土のような黒くて禍々しい空気が身を包んだ。これは何なのか。鳥居が大輔のことを拒んでいるかのようだ。神社に宿る神が世の中全てを憎悪しているかのようだ。

 住所から考えてここの神社以外に建物がなさそうだ。住居のような建物が鳥居の奥にあるかは木が邪魔で分からない。もしくはここの神社の社殿に播磨が住み着いているのではないか。

 大輔は山道から森に入った。草を踏み締めて鳥居を潜る。高木のクヌギだけではなくて低木も生い茂り、手で掻き分けながら進まなければいけなかった。

 しばらく行くと、社殿が一つポツネンと建っていた。木造の茶色い壁に緑色の瓦屋根。木の葉が邪魔で一日中太陽の光に当たることがなさそうだ。憎悪の濃度は上がったような気がする。社殿から距離を取って眺めていても大勢の悪霊に呪殺されそうだ。

 立ち止まっていると、背後から人の近付いて来る音がした。明らかに靴で草を踏み、木の葉を手で除けている音だ。

「誰だ」

 と、振り向いてから声をかけると音は止んだ。何者がいるのか。だが無視して社殿の中に入ることにした。彩花があの中で囚われているかもしれないからだ。

 社殿の扉を開けた。大輔は狐に摘ままれた。中は改装されたようで住居のようになっていた。土間があって、奥に向かって廊下が伸びていた。埃も積もっていない。間違いない。ここが播磨の隠れ家だ。彼は廃神社の社殿を勝手に住居のようにリフォームしたに違いない。

 土間には男もののスニーカーが三足。黒い革靴が一足。女児用のスニーカーが一足。女児用のスニーカーの足のサイズは小学生に入る前か低学年の子供のようだった。

 律儀に土間で靴を脱いで上がり框を跨いだ。奥に続く木の廊下を歩いて行った。廊下の途中に扉が三つあった。どの扉を開けて見ても誰もいなかった。用途不明の三畳ほどの畳の和室だった。照明もなく物もなかった。人がいそうな場所ではない。播磨はどこにいるのか。

 廊下の奥まで進んだ。突き当りには襖があって向こう側から何やら音が聞こえる。ここに播磨がいるのかもしれない。護身用で持って来た催涙スプレーを片手に襖を開けた。奥の部屋は畳が敷き詰められた十畳ほどの広めの部屋だ。ここも埃が積もっているわけではないのに、なぜか不潔な印象を抱いた。空気が不味い。

 部屋には一脚の椅子と大きなデスクが置かれていた。デスクの上にはノートパソコン、小型マイク、ヘッドホン、スピーカー、モニターが六枚置かれていた。モニターは全て電源が点いて、それぞれどこかの部屋の中を映し出していた。これは、と思い大輔は近寄った。

 モニターには幼稚園児くらいの子供の頭にスタンガンで通電しているシーンや、お爺さんが猿轡を咥えさせられて縛られているシーン。若い男性がペンチで一本ずつ抜歯されているシーン。若い女性が湯の張った浴槽に沈められそうなっているシーン。様々な惨劇が映し出されていた。

 ノートパソコンにはモニターにどの映像を映すかをクリックできる画面になっていた。もちろん六つ以上の映像があった。

 恐らく、このモニターに映し出されている映像は眼鏡に付いているカメラ越しに見える景色なのだろう。やはり成子のような眼鏡をかけた女性が何人もいるのだろう。

 スピーカーからは抑揚のない男の声で、

「播磨雄作こそが正義。播磨雄作に逆らう者は神の天罰が下る。播磨雄作は貴方の幸福を約束する。播磨雄作は神の子供。播磨雄作の智慧を得、その智慧を他者に授けるべき。播磨雄作が満たされれば貴方も満たされる。播磨雄作なしでは貴方の生活も日本という国も成り立たない。播磨雄作の言うことだけを信じなさい。播磨雄作が嘘を吐くことはない。播磨雄作を好きになれば貴方の人生はバラ色に」

 と、延々と流れていた。

 何だこれ。スピーカーから流れる男の声は昭和のラジオのようなイントネーションだった。不快なので消した。

 スピーカーの音を消した瞬間、あのお、と言う声が聞こえた。

 ビクンとした。同じ部屋に誰かいたようだ。中が暗かったため、部屋全体を確認することができなかった。

 大輔は人の声がした方を見た。暗がりの押入れの前に小さな人間が体育座りをして座っていた。

 大輔は警戒して催涙スプレーの噴射口を向けながら小さな人のいる方へ向かった。子供を使った罠かもしれない。

「助けに来てくれたの」

 声は彩花とは違った。誰だろうか。スプレーを構えたまま、女児の前まで来た。土間にあったスニーカーの持ち主か。だが女の子は体を家の柱に布で括り付けられており、外出などできそうには見えなかった。スプレーの噴射口を下げた。

「助けて」

 彼女が涙目で訴えている。無視するわけにもいかず、布を解き女の子を解放してあげた。聞きたいことが山ほどあった。

「君に聞きたいことがある。俺はこの事件を捜査している探偵なんだが、播磨雄作はここにいるんだね」

 女の子は震えながら下を向いて答え難そうにしていたが、うん、と小さい声で苦しそうに返事をした。

「今は、播磨はいないの」

 この少女以外に人の姿はない。だが人の気配だけはする。幽霊が空気中に浮遊していそうな気がする。

「うん、今はね、どこかに行っているみたい」

「播磨はよく外出をするの?」

 質問をしていると、彼女の両目が潤み始めた。小鳥のさえずりのような声で、助けて、と嗚咽を漏らしながら言った。

「うん、助けてあげる。助けるためには播磨を何とかしないといけないんだ。だから、奴を捕まえるために協力をしてくれないか」

 少女は聞き分け良く、泣きながらも頷いてくれた。小学生の低学年くらいの子だろう。小さな子がこんなに恐怖を抱くだなんて可哀想だ。

「そうだ、君の名前を教えてほしい」

「高松佳苗です」

 高松という苗字に聞き覚えがあった。浴室で名乗った成子の口から聞いたのだ。

「君、高松成子とは何か関係があるの」

 背中に大きなムカデが這ったようなゾワゾワを覚えた。何かとてつもなく大きなものにぶつかったようだ。

「うん、お母さん」

 予想通りだった。だが、どうして成子の娘である佳苗がここにいるのか。

「お母さん死んじゃった。私のせいで死んじゃったの」

 佳苗が両手を結んで懺悔をするかのように喋った。話の流れが掴めない。

「待って。どうして君のせいでお母さんが死んじゃったの」

「私が前に住んでた場所から逃げたから。播磨のおじちゃんが私が逃げたのを、お母さんのせいにしたの。お母さん、そのせいで東京に行っちゃった。お母さん、私に言ったの、播磨のおじちゃんの言うことをちゃんと聞くんだよって」

 話を聞いていると、佳苗が一度播磨の元から脱走したせいで、責任を負わされた母親の成子は東京に派遣されて今回の殺人事件を犯したようだ。

 そんな背景があったのか。娘が播磨の傍にいたため、成子は逆らわずに指示を受けて忠実に実行したのかもしれない。

「あと、ここを開けて見て」

 佳苗に言われた通り、押し入れの襖を開けた。開けると目が合った。人がいた。人の気配の正体が分かった。うわっと言って後退りながら、よく押し入れの中を見た。上の段と下の段があり、そこには多くの子供がすし詰め状態になっていた。全員手足を布で縛られて猿轡も付けられていた。イヤホンが両耳に付けられており、聴覚からの情報は一切遮断されていた。

 真っ暗な押し入れの中に閉じ込められていたところ、急に襖が開いて光が入って来たため、全員が驚いた顔で大輔のことを見詰めていた。

「この子たちも助けてあげてほしい」

「この子たちは一体?」

 佳苗は目線を逸らして子供たちの顔を見ないようにしていたが、説明はしてくれた。

「みんな、お母さんが遠くに行っちゃったの。播磨のおじちゃんの言うことを聞かないとビリビリされちゃう」

 ビリビリとはスタンガンのことか。成子の部屋で散々見たのでよく分かる。佳苗が言うには、押し入れの中の子供たちの親も成子のようにどこか遠くに行っているそうだ。

 大輔は重要なことを思い出した。この子供たちの母親は播磨にマインドコントロールされているのではないか。治はマインドコントロールされる者の特徴として、弱点があるということを言っていた。彼女たちの弱点は子供を人質に取られていることなのではないか。

 ただ、遠隔操作で播磨の手で操縦されていただけではなさそうだ。彼の指示を聞くように子供を使って下拵えをしていたようだ。

 大輔は改めて押し入れの中を確認した。全員土気色の顔をしている。子供らしい無邪気さが感じられない。常に抑圧された環境に身を置いて、自分の考えの発露を許されていないようだ。そのため、自我の発育が上手にできていないのだろう。播磨専用のロボット人間と化してしまうかもしれない。

 上の段にいる子供たちの顔を見ていると、見たことのある顔が見えた。

「彩花ちゃん」

 彩花が目を剥いて覗き込む大輔の顔を凝視している。彼は真っ先に彩花を抱き上げて押し入れの中から出した。

「その子は播磨のおじちゃんに命令されて私が連れて来させられた。病院の外でお母さんの声を出したら、この子が窓からびっくりしながら出て来たの」

 病院から播磨の命を受けて佳苗が連れ出したようだ。だが、病院には怪しい人物の姿は見当たらなかったという話だ。どういうことなのか。

 彩花の耳に入っているイヤホンを抜き取った。彼女は大号泣だった。猿轡を噛みながら口から唾液が垂れている。イヤホンには何が流れているのか、と自分の耳に当てて確かめてみた。

「播磨雄作こそが正義。播磨雄作に逆らう者は神の天罰が下る」

 スピーカーと同じ言葉が流れていた。ただ声の主が違う。これは明らかに成子の声だ。

「そのお母さんの声を病院のお庭で流したの。そしておじちゃんに言われたように、この子を病院から連れて来た。カメラに映らないためって言ってた」

 今、彩花が攫われた手口が明らかになった。播磨は女たちの眼鏡のカメラを通して他人の生活を観察してきた。カメラの死角になる場所などを熟知しているのだろう。前以て病院の防犯カメラの位置を確かめておいて、体の小さな佳苗に死角となる場所を通って隔離病棟の窓のすぐ傍にまで遣わせたのだろう。そして成子の声を使って脅かし、彩花を外に誘き寄せた。由樹が、成子が来た、と発狂した原因も彼女がスピーカーから流した成子の声かもしれない。それしか考えられなかった。

「怖かった。怖かった」

 相当辛かっただろう。彩花は大輔の胸の顔を押し当てて泣きじゃくった。抜け毛の症状は治まっているらしく、細い髪がしっかり生え始めていた。病院の治療の賜物だろう。だが、再び播磨によって捕えられたためか、五歳児とは思えないほど顔の皮膚は岩のようにガタガタだった。

「とりあえず、警察に連絡しよう」

 異常な部屋に閉じ込められた子供がたくさんいるため、自分の力だけではどうにもならない。まさかこんな複雑な仕掛けになっているだなんて思ってもいなかった。子供を人質に取られてマインドコントロールされている者が、多くの人物をマインドコントロールして殺人をさせていただなんて。

 警察に連絡をし終えた。これまでの概要を伝えて場所を言うと、

「まさか」

 と、警察も驚いたようだ。死体があった場所の近くの山の廃神社の社殿の中に犯人が住んでいるとは思わなかったのだろう。とりあえず大輔は落ち着いて、佳苗からもっと話を聞くことにした。成子が派遣される前はどんな生活をしていたのか。また、播磨の目的は何なのか。

 ガタっという音がどこからか聞こえて来た。大輔は驚いて立ち上がった。シャレコウベダケ事件の根源、播磨雄作が帰って来たのだろう。

「あれ、どちら様? 見たことのない靴があったのですが。まさかドロボーですかね。ふふっ、ウチのような貧乏な家に来ても何もないですよ」

 廊下を歩く足音が聞こえる。ペタペタでもヒタヒタでもない、スウスウという音だ。スウスウ、スウスウ、スウスウ。大きくなる音に従って佳苗の体の震えが大きくなる。

「や、や、やだあ」

 佳苗は遂に叫び出した。その途端に襖はダンっという音と共に開かれた。

「佳苗ちゃん。泥棒の前で取り乱してはいけません。泥棒は刺激すればするほど興奮して実害を与えて来ます。これは色々なことに当て嵌まる現象です。こちらが無害だと言うように何もしなければ、他人は優しく攻撃はしてこないのです。だが、目立つことは悪と見做す人が多い世の中で目立ってしまうと、それは害だと見做されるのですよ。害と見做された存在はいち早く排除される。この理を覚えておきなさい。で、貴方は誰ですか」

 男が部屋に入って来た。彼が播磨雄作のようだ。身長が百八十近くあるだろう細身のモデル体型で、顔は少年のような顔をしている。クルンとした睫毛が生えた綺麗な平行二重の目。鼻筋はスッと通っており、唇は赤くてすこし厚い。色白できめ細かな肌。中性的な雰囲気が浮世離れして見えるほどだ。もし大輔が他のシチュエーションで出会っていたら、絶対に嫉妬するだろう美貌の持ち主だ。

「誰ですか。今すぐ出て行って下さい。ここは僕の家です。もし出て行かないと言うのであれば、こちらもできることをするだけです」

 と、言って播磨はデスクの前にある椅子に腰かけた。

「播磨雄作だな」

 大輔の言葉に反応して播磨はこちらを向いた。

「ああ、よく見たら成子さんのところにいた探偵じゃないですか。調べさせていただきましたよ。水川大輔さん。探偵のくせに簡単に成子さんに捕まってしまうような、無能ですからね。気になって調べたんですよ。そしたら案の定と言いますか、親の七光りで探偵になったそうで。ハハハッ、七じゃ収まらないですね、百二十八くらいの光がなければ、貴方には足りないでしょうね」

 この男は何を言っているのか。だが怒ってしまうと相手の思う壺なので、自分の感情をコントロールした。

「播磨、お前はどうしてこんなことをしているんだ。お前に一切の利もないだろう。何で全国の人間を恐怖に落として殺人を犯すんだ」

「私は殺人をしていません。直接手を下したことはないんでね」

 播磨はモニターを見てパソコンのキーボードを叩きながら答えた。片手間で相手をされているようで不愉快だった。

「だが、お前がそうやって指示をしている女性たちが次々と殺しを行っているじゃないか。お前が殺しているようなものだぞ」

 播磨は大輔を無視してマイクを顔の手間に持って来て、

「カナコさん聞こえますか。お前が解放してくれと言うならば、私が安心してここから出れるように誠意見せて見ろ。人間信頼関係で成り立っているんだ。それを無視して自分の主張だけ通るなんてお門違いにもほどがある」

 どこかで成子のようにコントロールされているカナコという女性に指示を送っているようだ。全貌が見えた。こうやって成子も播磨の言葉を使って女性たちを支配していた。

「何が目的なんだ。何を得るためにこんなことをしているんだ」

「ん、目的なんかないですよ。僕は全てを持った人間です。生まれながらにして何もかも持っていました。それでも上手く行かないことがあるのです。僕は全部持っているのにどうして上手く事が運ばないことが起きるのか考えました。ええ、原因は他人だったのですよ。他人が僕と同じ思考回路をしていないため、余計なことをするんです。それが嫌なんですよ。だから僕と同じ考えを持った者を生かし、反発する者は捨て去るのです」

 呆れて何も言えなくなった。こんな幼稚な考えが原因だとは思っていなかった。

「何ですか、大輔さん。貴方は僕が親から愛情を受け取れなかった環境で育ったとか、施設で生まれた子供時代とか、そんなことを考えていたのですか。とんでもない、母は専業主婦で普通に子育てをしてくれ、父は京都の伝統工芸品を扱う会社の社長なんだ。そんな愛情を受けられなかったなんてことはない。逆に愛情もお金も人よりも多く貰って来た。親は僕と弟を大事に育ててくれたさ。だからこんなに立派になったのさ」

 モニターから顔を外してこちらを見た。綺麗な黒目はラメが塗ってあるかのように輝いていた。一見、純粋そうな男に見える。だが彼は間違いなく凶悪殺人鬼だ。

「成子さんとはどういう関係だったんだ」

「え? ああ、別に僕の方からは特に何もないんだけど、向こうが僕のことを夫だと思っていたみたいですよ。多分、そこにいる佳苗が成子と僕の間にできた子供だからでしょうね」

 佳苗の父は播磨だったようだ。

「じゃあ、何もないって思っていたことはおかしいじゃないか。成子さんのことを奥さんだと思っていないと」

 やれやれ、と言いながら播磨は首を振っていた。

「ねえ、大輔さん、そこの押し入れにいる子供の殆どが僕の子供になるんですよ。母親は全員違うんですが。そんな数の女を全員妻にすることなんかできるんですか。できないですよね? 何を馬鹿なことを言っているんですか。馬鹿もほどほどにして下さい」

 話しているだけで脳が腐って溶けそうだ。

 彼は自分が言っていることが常識的かどうかを考えたことがないのだろう。

 恐らく、ここにいる子供たちは学校に行かせてもらっていない。そんなことも播磨にとっては問題ではない。彼の手の届く範囲に常にいることだけが問題なのだから。

「大輔さん、今帰れば特別に見逃してあげますよ。ここを見られた以上、貴方を消し去りたいことは山々なんですがね。まあ黙っているのだとしたら、許してあげましょう」

 殺さないわけがない。帰宅して東京に戻った際に、あの山姥のような女が襲いに来るに違いない。明美のように山奥で殺されるのだろう。

 再び播磨はモニターの方を向いた。パソコンのキーボードを叩きながら、大輔が出て行かないことを確認したようだ。彼は大輔を一瞥してからマイクに向かって、

「サヤカさん」

 と、誰か人の名前を呼んだ。

 ヒッ、と隣にいる佳苗が再び悲鳴を上げて固まった。彩花に関してはへたれこんでしまった。

「大輔さん、貴方が逃げなかったことが悪いんですからね」

 播磨はわざとらしい朗らかな声を発した。

「うろおおおお、うがああ、あわわわわ、ひっひー、ひっきゃー。ぶをおお」

 部屋の外から不気味な叫び声が聞こえた。するとすぐに襖が開かれた。大輔は言葉が咄嗟に出なかった。

 山姥がいた。デップリ太った体でギシギシの髪の毛を腰まで伸ばし、Tシャツの袖から露わになった腕には真っ赤な切り傷、ミミズ腫れ、内出血痕、蒼痣、リスカ痕。あの時見たままだ。

「ここの部屋以外にも小さめの部屋があったでしょ。そこの畳を一枚外したら下に空間があるのです。サヤカさんはそこで生活しているのです。でも優しい方なので、名前を呼ぶとすぐに駆け付けてくれます。サヤカさん、そいつを刺しちゃって下さい」

 サヤカと呼ばれた山姥は両手にナイフを握っていた。

「そいつを上手く殺せば、今日はご褒美を三つ差し上げます」

「うんがああ。ぴーひょろひょろひょろ」

 意味不明な言葉を発した後、山姥はいきなり大輔に襲いかかって来た。躊躇のない勢いだった。人を殺すことに慣れているのかもしれない。

 身をかわそうとしたが、背後に佳苗と彩花がいるため逃げることができない。受け止めるしかなかった。大輔は両手を前に出して、サヤカの両方の手首を掴んだ。目の前にはがら空きになった山姥の腹部が突き出ていた。大輔は自分の踵で邪気を退散させるイメージで腹を蹴りつけた。にぃー、という呻き声を上げた彼女の口から白い玉が出て来た。

 だがサヤカは倒れることなく、手首を取られながらも大輔に対峙し続けている。以前アンジェラを空港に送る時と同じで、かなりの執念だった。彼女が倒れるまで蹴り続けなければいけない。とにかくこの山姥の動きを止めなければ、後ろの子供たちを安全なところに避難させることもできない。

 サヤカは何度蹴られても顔をしかめて呻き、ゆらゆら揺れるだけで倒れることがなかった。光のない目が歪んで失敗した土偶のような顔になる。

 どうするべきか。このままでは大輔の体力が持たない。いずれ力がなくなり蹴ることも手を押えることもできなくなるだろう。サヤカはその時を待っているのかもしれない。

 徐々に力がなくなり呼吸が荒くなる。何も策がない。このまま力尽きるだろう。そうすれば鈍色に光る山姥の刃によって殺されるだろう。いや、殺すなんて温いことはしないはずだ。和歌山のクヌギの木々が生える山奥に頭蓋骨を晒して死ぬことになるだろう。

 サヤカの顔を見た。心から播磨を愛しているのに、醜さしか感じられない。播磨にマインドコントロールされているからだろう。本人は能動的に播磨を愛していると思っているかもしれないが、本当は播磨から強制的に愛を強奪されていることだろう。成子と同じだ。彼女も歴とした被害者ということだ。

 サヤカは昔は美人だったのだろうと何となく分かるが、面影は一切消え失せている。

 顔を見ていると、彼女の背後で何かが動いた。襖が開いたのだ。播磨は椅子に座っているので彼ではない。誰だ。

 襖が開いた隙間から女の顔が覗いた。

「誰だ」

 播磨も誰か入って来たことに気付いたらしく、背後を見て大声を出した。襖から入って来た人物を見て彼の顔は紅潮した。

「貴方は」

 播磨はニチャアと笑っていた。

 由樹が立っていた。錯乱していたと聞いていたが毅然とした態度を保っていた。なぜ彼女がここに来ているのか。

「彩花」

 由樹は入って来ると一目散に自分の娘のところに駆け寄った。彩花は由樹の胸に飛び込んでうわうわ泣き始めた。

「由樹さん、頼む、彩花ちゃんと一緒に隣にいる子も避難させてあげてほしい」

 チャンスが巡って来た。後ろの二人さえいなくなれば、サヤカの手首を放して持って来た催涙スプレーで攻撃できる。

 由樹も大輔の状況を見て、何も言わずに佳苗も一緒に外に出ようとしてくれた。

「そうはさせません、ユウコ。早くコイツを刺し殺して下さい。そしてドロドロに煮込んで山に捨てましょう」

 と、播磨は別の女性の名前をマイクに向かって叫んだ。

 もう一人入って来た。今度は痩せっぽちの身長が百五十あるか分からないくらいの女性だった。髪の毛は全て抜け落ちて傷だらけの頭部がはっきり見えた。片腕がなかった。Tシャツの袖から一本の腕しか見えない。なぜか口の周りにヒゲが疎らに生えている。

「ユウコさん、あそこにいる由樹さんを刺し殺して下さい」

 ユウコはサヤカと違って押し黙ったまま由樹の元に向かった。ジトジト足を前に動かして由樹と子供たちの方へ歩いて行く。

 播磨の操り人形の女二人によって、大輔や由樹たちは追い詰められた形になった。大輔がサヤカの手を放すと、彼女の手に握られた刃によって自分か後ろにいる由樹や子供たちが刺殺される可能性が高い。かと言って、由樹が刃物を持って狂ったユウコに敵うとは考えられなかった。

 どうするべきか。

 考え込んでいると、背後にいた由樹がユウコの腹に肩から突進して突き飛ばしていた。ユウコは仰向けに倒れて畳の上で三肢を風に吹かれる枯草のように動かしていた。由樹はそのまま襖に向かって逃げようとしたが、ユウコに足首を掴まれて前のめりになって倒れた。彩花と佳苗はユウコの圧にやられて固まってしまった。

「逃げて」

 由樹は子供二人に怒鳴って襖の方を指差した。彩花はイヤイヤ言って動かなかったが、佳苗が彼女のことを引っ張って逃げて行った。

 これで後顧の憂いもなくなった。大輔はサヤカの手を放して、ポケットから催涙スプレーを取り出した。噴射口を彼女の顔に向けて発射した。オレンジ色の粉末が勢い良くサヤカのドブのような色の顔にかかった。

 サヤカは両手で自分の顔を必死に拭っていたが取れるわけがない。あとはユウコだ、と思って彼女の方を見ると、刃物が由樹のふくらはぎに突き刺さっていた。由樹は声一つ上げずに顔を歪めて倒れていた。

 大輔はユウコの顔にも催涙スプレーを噴射してから、由樹の腕を肩に回して、この建物から逃げ出そうと決めた。ユウコもサヤカも畳の上でのたうち回っていた。

 襖に手をかけると、

「ちょっと待って下さいね。もう逃がすことはできませんよ」

 という声が聞こえた。播磨が大輔の肩に手を置いていた。余裕そうな微笑みまで浮かべていた。美形な白い化け物が笑いかけている。自分の手を汚すことなく、何の価値もない欲だけのために殺人を犯す男のことを許せなかった。自分は何も穢れを知らない、と述べているかのような無垢な子供のような表情が顔に貼り付いているようだ。

 大輔は憎悪から殆ど条件反射で催涙スプレーの噴射口を播磨の顔に向けていた。播磨は一人では非力だ。常に人を使って暴力や殺しを行っていたため、彼自体には何も恐怖を感じない。

 オレンジ色の粉末が播磨の顔にかかる。彼は顔を背けようとしたが、間に合わなかった。整った目鼻に粉末が張り付いて瞼の隙間や鼻腔から吸い込まれて行った。

「あっ、貴様あ」

 弱弱しい叫び声を上げながら尻餅を着いた。彼は何も見えないにも拘わらず、手をブンスカ振り回していた。ブリキ玩具のような不格好で憐れな姿だった。これが日本全国を震撼させたシャレコウベダケ事件の黒幕なのか。こんな惨めな男によって日本が変わってしまっていたのか。

 弱々しい声を出しながら播磨はその場でうずくまった。

「おい貴様あ。何のつもりだ。俺が何をしたと言うんだ。俺に何の恨みがあるんだ。俺はすごい人間なんだ。すごい人間じゃないとダメなんだ」

 播磨の様子を見ていると、大輔の肩を掴んで立っていた由樹の手の力が強くなっていった。

「私の。私の彩花を元に戻しなさいよ」

 彼女は播磨の整った顔面を思い切り蹴った。仰向けに倒れた播磨は、ハッハッハッ、と笑い出した。

「ハハッ、そうさ僕を殺したところで彩花ちゃんがキモデブ男に抱かれた事実はなくならない。愉快だ。本当に愉快だ。きっとあの子の頭には一生あの時の記憶がこびり付いたまんまでしょうね。そして、大人になった時には自分の体を売ることに何の抵抗もなくなるのです。それは当然でしょう。子供の時に水泳を習っていた子が大人になってカナヅチにならないのと同じですよ。アバズレ女の誕生だあ」

 由樹は倒れたままのサヤカの元に行き、ナイフを奪った。播磨を見下ろしてナイフを振り上げた。大輔はマズイと思い、彼女の手を取った。
放して放して、と由樹は暴れていたが、ここは絶対に放してはいけない。

「貴方が今、播磨を殺したら彩花ちゃんが殺人者の娘になってしまう」

「もう私は殺人者よ」

 由樹は顔を真っ赤にして般若のような顔で言った。まだ成子によって擦り込まれた意識が抜け切っていないようだ。

「でも、貴方が彩花ちゃんの母親だということには変わりがない。だから自らの意思で間違いを犯してはいけない。貴方が娘のことを全力で守ると決めた頭で、殺すことなんか考えてはいけない」

 由樹は涙を流しながら、左右の目を上下左右に忙しなく動かした。大輔の目に照準を合わせると落ち着いたようだ。大輔に体を預けるように倒れ込んで来た。

 遠くからサイレンの音が聞こえた。警察を呼んだことを今思い出した。



 大輔は警察署で事情聴取を受けていた。机以外何も置かれていない小さな会議室のような部屋に、一人の中年の警官と対面して座っていた。

「播磨雄作は死にました」

「え」

 驚いた。まさか播磨まで死ぬとは思ってもいなかった。あの日、警官に連れて行かれる播磨は濡れタオルのようにぐったりしていた。自力では何もできなさそうだった。そんな姿がお似合いだった。

 播磨にはしっかり罪を償い、刑務所の中で屈辱を味わいながら死んでほしかった。

「留置所でね、首を吊って死んでいたんだ。高松成子と同じ死に方だった。もしかしたら、成子の死も奴の指示なのかもな。お前の言う通り、高松は播磨にマインドコントロールされていたのだろう。そうなると全ての辻褄が合う。播磨の死体は、同室の人間が最初に気付いたみたいだ。その時には自分の服で首吊りをして上半身裸で息絶えていたんだ」

 力が抜けて座っていたパイプ椅子の背もたれに全身の体重を預けた。だが、播磨について知りたいことがあった。背中を浮かせて前のめりになって聞いてみた。

「播磨は子供の時から満たされていた存在だと言っていました。親は金持ちで全てを持っていた存在だったと。ただ他人のみが自分の思い通りにならずに、コントロールしようとしたのだと。これは事実なのでしょうか」

「そこが複雑なところなんだ。播磨の家は別にお金持ちとかじゃないという彼の学生時代の友人からの話がある。友人曰く、父親は醬油製造の会社に勤めていて、母親も殆ど毎日スーパーでレジ打ちしているような家庭だったそうだ。だが実際に播磨の実家に行くと、京都の北山にある大きな一戸建て住宅だった。やはり父親は伝統工芸品を扱う会社の社長のようだ。弟さんもいたが、奥さんとお子さんが二人いる裕福な家庭だった」

「それじゃあ、あの神社の中で言っていた播磨の発言は本当だったということなんですね。でもどうして友人には嘘を言って、自分のような何の関係性もない探偵に本当のことを言ったのでしょうか」

 うぅ、と警官は唸りながら無精髭の密生した顎を撫でていた。

「恐らくだが、裕福な家庭で育った自分に対してコンプレックスを抱いていたんじゃないのか」

 警官の言葉が核心を突いたような気がした。大輔の中でも朧げな納得感が生成された。

「播磨の友人曰く、学生時代はあの見た目の割には異性からの人気がなかったようだ。大学時代の友人なんかは、播磨がキャバクラとかに入り浸っていたと話していた。大学は東京だったから新宿とか蒲田とか都内の色々な飲み屋に通っていたらしいぜ。でも、その中でなぜ自分は人気がないのかかなり悩んでいたようだ。人を惹き付ける見た目も裕福な家庭でも育っているのに何故なのかと。でも時間が経つにつれて、そこが自分の最大の弱点なのだということに気づいたみたいなんだ」

 神社の中で播磨が親の七光りを馬鹿にする発言をしていたことを思い出した。あれは大輔に言っているようでも自虐の意味もあったのではないかと思い始めた。実際、フィリピンパブでアンジェラに惚れ込んだ自分と播磨は似ているところがあったのでは、と大輔は話を聞きながら思った。

「だから播磨は自分がお金持ちの家庭に生まれたことを隠すようになった。そして思い通りにならなかった女性からの恋慕の気持ちを強奪するような会話テクニックを習得することになったんじゃないか。そしたらそれがエスカレートしてしまい、気付かないうちにマインドコントロールする術を身に着けてしまったというのが、ざっくりの流れだろう」

 播磨は嘘ばかり吐いて今まで生きて来たようだ。生まれつき金がある自分に嫌気が差して隠す嘘を吐き、大輔のような外敵には自分を大きく見せるために咄嗟に本当のことを言うのだろう。だが、それは播磨が自分自身の心に嘘を吐いていることになる。本来の自分から脱したいにもかかわらず、本来の自分を使って相手を威嚇しようとしている。

 播磨の人生は嘘ばかりですね、と大輔が言うと、警官は軽く笑ってから、

「でも本人は嘘を言っている自覚がないんじゃないか。とにかく自分を大きく見せることだけに躍起になっていただけなんじゃないか。もはや奴の本能になっているのかもしれない。奴が神社の境内の社殿で暮らしていたのも、自分を神と同化させるためらしい。本人から聞いたと派遣された女の一人が言っていた。もはや病気だな」

 警官の言葉を聞いていると頭が重たくなってきた。何だかやるせなくなかった。本当に弱い人間が自分の弱さを隠すために、弱い人間の弱点を見付けて突いてマインドコントロールし、日本中の弱い者を巻き込んだということだろう。

 人間はみんな弱いのだろうか。他者の弱さを見付けてつけ込むことを弱い者がして、それを繰り返す。事務所に来る素行調査や身辺調査なども相手を信じ切れない者に限って、相手の弱みを握りたいとか言う。

 椅子の背もたれに寄りかかって、天を仰いだ。自分が何ともちっぽけな存在に思えた。



 東中野駅の改札を出て事務所へ戻りながら成子と播磨の関係について考えた。取調室では弱い者がマインドコントロールされていると思っていたが、本当だろうか。幾ら操られていたとはいえ、成子自身にも僅かでも殺人の意志がなければ、あそこまでできないのではないか。

 彼女は人を殺す方法や拷問のやり方も播磨の真似をしていたのではないか。播磨自身も殺害をして人の首から下だけを埋める方法を実行したのではないか。彼女は指示のみで動いていたのであれば、自死するために留置所にもワイヤレスイヤホンや眼鏡を付けていなければならない。イヤホンも眼鏡もどこへ行ったのかは謎だが、留置所まで付けているとは思えなかった。

 播磨に恋するあまり本人と同化したいという欲求から、全てを真似たい意識があったのではないか。自分の恋した相手が好きなバンドの音楽を聴いたりして本人に近付こうとする現象と本質は何も変わらないのではないか。

 だが、そんな単純な心理のせいで多くの人間が人生を棒に振ることになった。播磨を慕う女は成子、サヤカ、ユウコ以外にも何人もいたのだから。

 事務所に戻った。電気が点いていなかった。治は外出中らしかった。電気を点けて無音の中、椅子に座った。何時間か経った頃、スマホから着信を知らせる通知音が鳴った。画面を見ると知らない番号からだった。仕事の依頼だろうか。仕事どころではないが、出ることにした。

「あの、大輔さんの電話ですか。柴崎隆広です」

 電話をかけて来たのは隆広だった。

「隆広さん、お世話になっております。どうかされましたか」

 由樹はあの日、刺されていたため病院に搬送された。彩花も一緒の病院に向かった。

「いえ、由樹がご迷惑おかけしまして。申し訳ございません」

「とんでもないです。力になっていただいて感謝しているくらいです」

 彼女が来てくれなかったら彩花や佳苗を外に逃がすことができず、自分も子供たちもどうなっていたか分からない。

「いやあ、その、僕が悪いんですよね。大輔さんが真犯人を突き止めて和歌山県に行く日を教えてしまったんですよ。その日まで頑張れって勇気付けるために。そしたら病院抜け出して大輔さんの後を追っちゃったらしいんです」

 神社の境内に入った時、木の葉が擦れる音が背後から聞こえて来た記憶がある。由樹が出した音だと後に気付いた。

「全然、迷惑なんかじゃないです。由樹さん逞しかったです。私が助けられたくらいですから」

 その後、隆広と少し会話してから電話を切った。彩花は療養を続けているようだ。何とか少しでも快方に向かってほしい。由樹は日を経るごとに元に戻って来ているそうだ。良かった。

 大輔は隆広や由樹の姿を見たり話を聞いたりして家族とは良いものだと実感した。自分の母は記憶のないうちに他界しているので、初めて家族の良さを体感できた。

 人の弱さを実感したばかりだったため、家族は人と人が弱さを補い合っていくために必要不可欠なのではないかと思えた。

 早くアンジェラに戻って来てもらいたい。播磨が死んだため日本に戻ることができるに違いない。

 大輔は何の気なしにテレビの電源を入れた。昼のワイドショーが放送されていた。芸人のMCが専門家に話を振っていた。専門家のネームプレートの上には犯罪心理学と書かれていた。

 何の話をしているのだろうか。テレビ画面の右上に表示されている文字を読んで、今扱っているトピックを見た。

 シャレコウベダケ世界に広がる、と書かれていた。

 は、という声が出た。頭に真綿が詰まったような感覚。思考能力を失って無の境地に立ったようだ。しばらくテレビ画面の右上の角を見つめて動けなくなっていた。
数分間立ったまま動かないでいると、何のことだと簡単な疑問を浮かべることができた。真犯人の播磨は既に死んでいる。もうシャレコウベダケが増えることはない。どうして世界にまで広がって行ったのか。

 しばらく観ていると、どうやら日本ではなくなったが中国、北アメリカ大陸、東南アジア諸国にて現在発見されているらしい。どういうことだ。頭蓋骨の中の内容物がグルグル掻き混ぜられているような感覚に襲われた。落ち着きがなくなり、事務所内をうろつき始めた。

 東南アジア諸国でも見付かったことが気になった。フィリピンでも見付かったのだろうか。額にネバネバした汗がまとわり付いた。どういうことだ。どういうことなのか理解できない。まだこの事件は解決していないということか。どうしてだ。

 大輔はスマホでアンジェラに電話をすることにした。フィリピン国内でも話題になっているのか知りたかった。

 電話をするためにテレビの電源を消した。静寂が気持ち悪い。耳の穴に水が入ったみたいな感覚だ。

 呼び出し音が三回ほど鳴った後に繋がった。

「もしもし、大輔聞いて。もう日本に帰るよ」

 アンジェラの溌剌とした声が聞こえた。

「え、もう来れるの」

 行動が早くて驚いた。まだ彼女に播磨が自殺したことを教えていない。

「こっちでもね、シャレコウベダケ見付かったの。だから日本の方が安全だから行くの。駄目かな?」

 色んなことが起こりすぎて大輔は対応が間に合っていない。

「いやいや、駄目じゃないけど。あと、日本では犯人捕まったから逆に良いと思うよ。すぐに来てよ」

 自分が何を喋っているのかが分からない。ただ自分自身が意識して明るい声を出していると自覚していた。

「ありがとう、大輔。あとさ、あとさ、来たら家族紹介するね」

「え、家族?」

「うん、一緒に来るんだ。お母さんとお父さん、弟、叔母さん、叔父さん。弟はこの前まで日本にいたから日本語できるから喋れるよ」

 アンジェラの家族に挨拶できることはありがたいことだが、何だか悪寒が走った。どうして家族が来るのだろうか意味が分からない。まだ結婚したいと彼女に言っていないにもかかわらず。これも探偵としての第六感だろうか。だが勘違いであってほしい。切に願った。

 いや、ただの勘違いではないようだ。ずっと引っかかっていたことがふと浮かび上がって来た。

「アンジェラ」

 スマホを耳に当てて舌の上で転がすように彼女の名前を呼んだ。何ナニ、と楽しそうで無機質な声が耳の中の蝸牛を刺激する。

「君はどうやって成子の旦那役の男を殺すことができたの? 普通男の力がないと難しい気がするんだが。実はもう一人あの部屋の中に、君の仲間の男がいたんじゃないかな。そんでさ、今の話によると弟さんは、ついこの間まで日本にいたんだよね」

 由樹と病院の廊下で喋っていた時、確かに彼女は成子の旦那役含めて男が三人いたと言っていた。だが、大輔は旦那役の男と眼鏡のデブ男しか知らない。もう一人はどこへ行ったのだろうか。アンジェラの弟はついこの間まで日本にいたようではないか。いなくなるタイミングが絶妙な気がした。この弟という存在が実に臭う。

 電話口から、キャハッ、という声が聞こえた後にガチャ切りされた。ツーツー、という電子音が心肺停止の音にも聞こえた。

シャレコウベダケの繁殖 下巻

シャレコウベダケの繁殖 下巻

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-27

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  1. 第三章 死神へ近づく道、邪悪の様相
  2. 第四章 死神が仮面を取り、素顔を現す。絶望