この家には亡霊がいる 4
小さな太陽マリー
叔父の経営しているホテルで3日目の朝を迎えた。学校を休んで1週間になる。先生はゆっくり養生しろと言ってくれた。
水谷ならすぐに遅れを取り戻せるから。
皆には千葉で急性肺炎になり入院していることにしてある。
あの日、私はすべてを口うるさい母のせいにして手首を切った。死ぬつもりなどなかった。
もう優等生でいるのが疲れたんです。
先生は納得し、母にしばらく幸子と離れた方がいいと助言した。母は気の毒だった。父にも怒られ叔父にはたしなめられた。
叔父は最初心配し姪から目を離さなかったが、私が母の心配をするようになると安心して自由にさせた。
死ぬ気などなかった。忘れればいい。なにもなかったことに。思い込めば記憶は薄れていくはずだ。
窓から冬の海が見える。去年も1昨年もクラスの女子数人と来た。もうあの眩しい日差しの中には戻れない。
海を散歩している男がいた。背の高い若い……
まさか、三沢君?
私は察した。
彼は治に聞いたのだ。治は喋った?
目が合うと彼は手を振った。
彼は叔父のホテルに滞在した。
好青年の彼はすでに叔父の信用を得ていた。
食事を彼に運ばせる。鍵をかけたがマスターキーで開けて入ってきてテーブルの上にお盆を置いた。
「雇ってもらったよ。叔父さんに。いいところだね。僕の母も海辺で育ったんだ」
「知ってるわ。治に聞いたもの。あなたのこと聞きたくて治と遊んだのよ。聞いたわ。ママのことも、香のことも、文のことも。シャーロックのことも」
彼は少し顔を赤らめた。
「恥ずかしいな。僕は恥ずかしさのために死にそうです」
太宰ね。死という言葉をわざと言ったのね? 私の反応を見るために。
「聞いたわ。あなたが血が苦手だってことも。女だったら毎月失神してるって。ヴァージンは無理だろうって」
私はため息をついた。彼も同時だった。そして同時に笑ったあと私はコップを割りカケラを握った。
「切るわよ。血、見たい?」
「わかった。降参だ。出ていくよ」
そしてドアを閉める前に言った。
「どうして血が苦手になったか聞きたくない?」
彼は戻ると割れたコップを片付けながら話した。
「母に出て行かれ父は病気になった。心の病気だと祖母は僕に謝った。
父は酒を飲んで帰ってくる。夜中に僕を起こした。テストの点が悪いと叩いた。頭の悪い子はパパの子じゃない。母親そっくりのしぐさだとまた叩いた。
幸せな家庭は簡単にこわれた。僕は夏生の家に引き取られた。おばさんが、酒をやめるまで帰さないと言ってくれ、僕はしばらく夏生と暮らした。夏生は女だよ」
「えっ? 嘘」
「女だよ。どうして男のふりをしてると思う? 夏生が5歳のときだ。おばさんは買い物に行ってた。夏生が僕に言った。
和ちゃん、どうしてるかな? 会いたいね。ピアノうまかったね。
僕は夏生を叩いてた。小さな夏生は食器棚に突っ込んだ。顔中血だらけで僕は震えながらガラスの破片をどけた。おばさんが帰ってきてすぐに救急車を呼んだ。
そこへ珍しく父がしらふで帰ってきた。運ばれる夏生と僕の様子を見て察したんだろう。暴力の連鎖。
夏生は頬に大きな傷をつけ、自分で転んだって言い張った。おばさんはわかっていたと思う。おばさんはおじさんに責められても僕のことを庇ってくれた。
夏生の顔を見ると大人たちは、女の子の顔に傷をつけてお嫁にいけない、とおばさんを責めた。
夏生は傷を隠しもせず陰口を言われないように明るく振る舞った。
僕がやったことを覚えているのか、自分でやったと何度も言ううちにそう思い込んでいるのか、怖くて僕は聞けない。
だから僕は夏生には負けていられないんだ。一生かけて償おうと思った」
「じゃあ、お嫁にもらうのね」
「ああ。貰い手がなかったらそうするつもりだった」
「幸せね。夏生は幸せだわ」
「夏生は君に憧れてる。女の子らしくしたいんだと思う。よくふたりで君のこと話題にした。僕は好きだった。テニスコートで会ったときから」
「嘘だわ」
「母が亡くなった夏だよ。僕は部屋に閉じこもってた。義母に無理やり連れ出された。スポーツは一瞬でも悲しみを忘れさせる。どん底でも恋をする。
何度も君を思い出した。君のフォームを思い出して笑った。君は奇跡を見せてくれた。あんな下手な君が僕と打ち合った。君は僕の小さな太陽、マリー」
「嘘よ」
「圭が君を好きだったから諦めたんだ。圭は高校入る前の春休み、うちの庭の工事を、親父さんを手伝ってた。父子で仕事して昼には母親の作った弁当を食べていた。僕は義母のいないとき飲み物を差し入れしていた。クラスが同じになると少しばかりの変装はバレた。
三沢の坊ちゃんと呼ばれ僕はキレた。大喧嘩した。それからは気が合って、同じ女を好きになった。僕たちは恋よりも友情を選ぼうとふたりで諦めた」
嘘だわ。そんなこと信じない。いまさらそんなこと……
器を下げにきたとき、なぜここがわかったのか聞いた。先生は教えないはずだ。
「千葉のおじさんのところで入院してるって聞いたから。君、暑中見舞いくれただろ?」
彼は午後叔父と釣りに行き、夕方は調理場で魚の卸し方を教わっていた。夕飯も彼が持ってきた。彼が卸した刺身を残すと私の箸で平らげた。
「間接キスだね」
「ダメよ。そういうことしないで」
夜には教科書を持ってきた。
「もうすぐ試験だ」
「そうね。帰りなさいよ」
「君が帰らなければ帰らない。僕はね、水谷さんの2日あとに戻る。今は親戚の葬儀。田舎の葬儀は長いんだ。義母には、大事な彼女のためだって言ってきた」
また1日過ぎた。彼はのんきに釣りに行く。焦っているのは私のほうだ。
なんて人なの……
帰ろう。
私は急いで支度をした。彼を残して駅から長距離バスに乗った。
翌日私は登校した。駅まで行くとクラスメートに声をかけられ、あっさりとクラスに戻れた。誰も疑わない。
彼は自分で言った通りもう2日休み、土産まで配っていた。それから彼は見守るだけになった。
3年になるとクラスは変わり階も違った。入学式、この年は金縷の詩はなかった。彼の父親は出張らしい。
私は思い出した。入学式に彼の父親が挨拶をしているときに目が合った。彼の隣の私を見て笑った。父親は下を向いている息子を見ていたのだ。辛い思いをさせた、変わり者の息子を見ていたのだ。
今年の1年生のアイドルは美登利だ。皆にドリーと呼ばれた。家が駅の近くでコンビニを経営している。男子は夕方買いに行く。古文の若い講師も美術の教師も寄るらしい。学校ではチヤホヤされている彼女が、店では愛想がいいらしい。
葉月と違いドリーは三沢英幸には関心を示さなかった。私は後輩から情報を得た。中学でも男の教師と噂があった。小学生のときから男の教師にはひいきされていた……
母親は……淫乱……男を作り娘を捨てて出ていった。
リストカットしていたみたい。腕にあとが痛々しい……
私は自分の手首を見た。傷痕はほとんど消えていた。
リストカット、彼が知れば関心を示すだろう。母親に捨てられた同志。きっかけがあればふたりは急接近する。彼は弱い者には優しい。
しかし、名前を出すと彼は露骨に嫌な顔をした。
「女子には好かれないだろ?」
女子は嫌う。陰口はひどい。淫乱……魔性の女……ドリーは気にしない。強い。女友達は必要ない。成績はいいし、運動神経は抜群だ。
写真部がモデルを頼むとドリーは引き受けた。私は断った。自分の顔をさらしたくはない。
できあがったドリーの写真は魔性の女ではなく、恋をしている少女だった。
3学年は矢のように過ぎた。もう余計なことを考えている暇はない。母をこれ以上心配させたくない。私は勉強に打ち込んだ。彼はときどきメールをくれた。学校で会うと立ち話をした。
文化祭。彼は強制的に音楽部所属だからまたピアノを演奏する。
体育館へ行くとドリーが入口で誰かを待っていた。彼は男子に人気のあるハスキーボイスの女生徒には目もくれないで通り過ぎた。
「圭」
ドリーが呼んだ。魔法の言葉だ。
彼は振り返った。かつて同じクラスで過ごした圭にドリーは駆け寄った。男子は憮然として見ていた。圭は私に気づき、隣にいた彼を見ると、やっぱりな、という顔をした。
過去を忘れたように圭は近づいてきた。彼とハイタッチ。彼の背は圭と同じくらいに伸びていた。
ドリーが圭にまとわりつく。
「前のほうで見ててね。圭のためだけに歌うから」
見ていて恥ずかしくなる。圭は彼の隣に座って話しながら舞台を見ていた。軽音部のドリーは部員が準備している間にピアノを拭く。鍵盤を丁寧に。椅子も。
きれい好きだ。いや、それ以上だ。誰も気がつかない。この少女は?
ドリーの歌が始まった。ピアノを弾きながらドリーが歌う。圭だけのための『月光』
魅力的なハスキーボイス。男子の歓声と拍手。
そのあとは彼の演奏だ。ドリーが戻り、彼が座っていた椅子を圭はさりげなく拭いた。ドリーが座る。
今度は女子の歓声。彼は予定していた曲とは違う曲を演奏した。私にもわかった。ベートーベンの『月光』
「いやなやつ」
ドリーが怒る。
「あんな嫌味なやつが親友だったの?」
「おまえも弾けるのか? この曲」
「1楽章はね。3楽章は無理」
「なるほど」
彼が戻ると圭の隣にはドリーが座っていた。彼は壁際に立ち圭が立ち上がるのを待っていた。
グランドで4人で立ち話。私が美登利さん、と呼ぶとドリー、と言い直させた。
ドリーは圭の腕をつかみ急かす。
「じゃあな、三沢」
「ヒースクリフ」
私が代わりに呼んだ。圭は私を見て笑って去った。
友情も再びは得べず?
「どうして月光にしたの?」
「さあ、いやがらせかな。どう見たって圭のタイプじゃない」
「あなたでも見かけで判断するのね」
(ドリーはあなたにそっくりよ。圭にじゃれついて、圭のことが好きで好きでたまらない)
「ドリーか、自分の名前が嫌いなんだな。たけくらべの美登利か」
(美登利は遊女になるのよ。いやでも決まっているの。ドリーは見かけとは全然違う。圭は理解している。リストカットも)
「君の名前は両親の思いが込められてるね」
(あなたは名前で呼ばせないのね。圭にも、治にも。英語の英に不幸の幸)
ドリーは私に会うと手を振り近づいてきた。
「三沢さんと付き合ってるんでしょ?」
「友達よ」
「圭とは? 同じクラスだったでしょ?」
「一緒にクラス委員をやっただけ。斉田君は三沢君と特別だったのよ。三沢君は斉田君に夢中、ふたりは……」
冗談を言って笑った。
卒業式まではあっという間だった。帰り、彼と駅まで歩きホームのベンチで話した。
「今までありがとう。私はもう大丈夫だから。もう会わない。あなたといると忘れたいことを忘れられないの。もう電話もメールもしないで」
彼はなにか言いたそうだったがうなずいた。
治からメールがきた。
(卒業おめでとう。以前の明るい幸子さんに戻ってください)
歩いて治の家を訪ねた。治は帰っていなかった。
公園でも散歩してまた来よう。
歩いているうち方向感覚がなくなった。いくら方向音痴でもこの道路はおかしい。携帯で調べていると声をかけられ驚いた。目の前に夏生がいた。
「エーちゃんちに行くの? 卒業式だからな」
夏生に手を取られ引っ張っていかれた彼の家。想像していたより大きな邸に広い庭。
夏生が大声を出すと窓から彼が顔を出した。私を見るとパッと明るくなった。それからは夢のようだった。テニスコートでコーチしていた若い母親と幼稚園児の妹が私を歓迎した。
広い居間で紅茶を飲む。夏生が作ったというケーキ。レモンの香り。レモンの味。
「おいしい」
「ウィークエンドシトロンていうんだ。思いを寄せている人と食べるんだよ。ヒッヒッヒッ」
夏生は私の髪をさわった。
「きれいな髪だね。ボクのこと、ずっと男だと思ってたろ?」
高校の後輩になる夏生はいろいろ聞いてきた。
「何部にしようかな? テニス……吹奏楽。でもドラムは倍率高いからな」
「小学校からブラスバンド部。中学ではクラリネット。ピアノは僕より上手いよ」
「テニスもだろ」
お喋りだが楽しい。3つも年下なのに話題が豊富だった。
「夏生さんは、フランス語話せるの?」
「亜紀先生に少し習った」
「亜紀先生?」
「私のことよ。夏生、ピアノの時間よ」
「ちぇっ」
と舌打ちし夏生は出かけた。
「水谷さん、今度テニスしよう。ヒッヒッヒ」
私のテニスはふたりを笑い上戸にさせるようだ。
「笑えば、あなたも」
義母の亜紀先生は彩を連れて買い物に行った。
「夏生、魅力的な子ね」
「変わってるだろ?」
彼は2階の書斎に連れていった。階段を登るときは私を先に昇らせた。ミステリーのドラマに出てきそうな階段……
「靖君を階段から落としたのも演技だったの?」
「靖は柔道やってるから受け身が取れた」
大量の本があった。古い文庫本。彼がよく読んでいた。
アポリネールの詩集があった。私は手に取った。
マリー、君はいつ帰ってくるの?
そう、ぼくは君を愛したかったんだ、
でも、うまくは愛せなかった
今でも、君を思うと甘く切ない
諦めようとしたり、
きみなしではだめだと思ったり
この心がどうなっていくのか、
ぼくにはわからない
きみがどこへいこうとしているのか、
わからない
きみの心はまるで秋の葉っぱ。
約束だってちりぢりばらばら、
風に飛んでいった
ぼくは今、古い本をわきに挟んで、
セーヌの河岸を歩いている
川の流れはぼくの悲しみと似ていると思う
川の流れには
終わりというものがないのだから
やっと1週間を持ちこたえたけれど、
こんな日々はいつまで続くのだろうか
M橋の上で彼の父親は教えてくれた。アポリネールには女友達は大勢いたが、愛されたことがなかった、と。
あの人の息子は、心の中で私をマリーと呼んでいる。
ミラボー橋の作者、アポリネールの恋人、マリー ローランサン。アポリネールはマリーを小さな太陽と呼んだ。
「おとうさん、来賓で挨拶するかと楽しみにしてたのに、忙しいのね?」
「出張だよ。多いんだ。彩がかわいそうだ」
アルバムがあった。彼の中学のものだと思い手に取ると、それは父親の高校のものだった。開いてふたりで見た。30年前の父親はどことなく彼に似ていた。
「おとうさんも、もてたでしょうね。今でも……」
複雑な思いがあるのだろう。
めくりながら彼の手が止まった。そこには篠田葉月の写真がはさまれていた。いや、葉月ではない。古びた写真。葉月の母親か?
彼も驚いたようだった。父親の同級生に葉月そっくりの女生徒がいた。
「同級生だったのね? 葉月さんのおかあさんと」
M橋でたたずんでいたあの人、彼の父親。30年以上も前の恋? ずっと取ってある写真。
「どうでもいいよ。ほかの女のことなんか。鈍感だな」
本に囲まれた書斎で初めてのキス……私は椅子から立ち上がって拒否した。
「ね、友達でいましょう。夏生と3人でデートしない?」
小さな太陽マリー 続き
夏生がいるほうが気楽だった。
3人で遊園地に行ったり彼の取り立ての免許でドライブした。レストランに入ると夏生は彼の皿から味見をする。コーヒーのボトルも共用する。私は口をつけられなかった。
化粧直し、夏生はじっと見ていた。
「リップ貸して」
私はためらった。
「潔癖症なんだね。水谷さん、エーちゃんとキスできるの?」
3人でテニスをした。思い出のコート。私は転んで膝をすりむいた。彼が手当てをしようとした。
「やめて」
「血が出てるよ」
「平気よ。さわらないで。無駄毛処理してないから見ないで」
夏に別荘に誘われて断った。3人のデートはもう無理だ。
夏生は部活が忙しくなり一緒に出かけることもなくなった。
文化祭、なつかしい母校、夏生は吹奏楽部でクラリネットを演奏していた。軽音部にドリーはいなかった。彼は期待していたのだ。圭に会えるのでは? と。
篠田葉月が彼を見ていた。私と目が合うと下を向いた。彼は気がついているのかいないのか? なぜ葉月を無視するのか? 父親に葉月の母親のことを聞いたりはしないのだろう。
1年が過ぎても彼とはそのままだ。強風が吹き私は肩を支えられた。肩を抱かれ胸にすがって泣いた。キスの予感。私は離れる。
2年になると彼は知り合いのレストランでバイトを始めた。ウェイター。夜はピアノを弾く。私は行きたかった。彼のピアノを聴きたかった。しかし私は彼との距離を置く。想像する。女性客が増えるだろう……
そんなときあの母親が現れたのだ。寝耳に水。私は写真を見せられた。それこそ寝耳に水。
彼と若い女性の写真。マンションの前、女性は彼の車に乗る。女性の肩を抱きマンションに入っていく。
遊園地の写真。ふたりきりではない。バイトしている店の息子、春樹と3人のデート。
「由佳には親の決めた相手がいるのよ。別れさせて欲しい。あなた、恋人でしょ?」
「違います。ただの友人です。私には関係ない」
「では父親のところへ行くわ。子供ができた、なんてことになったら困るのよ」
なんていう母親なの? しかしすぐにでも実行しそうだった。
三沢英幸、父親、三沢英輔。母親は除籍、幸子……
ようやくわかった。なぜ私の名を呼ばないのか? なぜ心の中でマリーと呼んでいるのか。ようやくわかった。
彼は1度も私を名前では呼ばなかった。
水谷さん、水谷、君……
1度だけおまえと呼ばれた。彼は私の名を口にしたくなかったのだ。彼を捨てた母親と同じ名前だったから。夏生やあの母親にも禁句だったのだ。
その日私は連絡をもらい彼のバイトしている店に行った。深呼吸をして入る。奥の席に彼と由佳と男の子がいた。
「エイコウさん。弾いて、17 番」
と由佳が言った。少年も言った。
「エイコウ、弾いて、1番」
私には呼ばせなかった。その名前。圭にも治にも。母親も夏生も、彼の名を呼ぶのを聞いたことがない。
私にはわからない。17 番も1番も。
彼は突然現れた私に驚いたが、バイト先を訪ねたと思ったのだろう。嬉しそうな顔をして紹介した。
僕の彼女だと。
まだ垢抜けない素朴な女性は彼の言葉に驚き、彼の隣に座った私を見て勝ち目はないと思っただろうか? あの母親の言うように。
彼は春樹を遠い親戚だと紹介した。彼によく似ていた。
「幸子よ。よろしくね」
「幸子? ママと同じ名前だ」
ああ、この子は彼の弟だ。
かつて彼が読んでいた本、線が引いてあった。
障害のある愛以外に永遠の愛はないと。
そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。
ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ。
母親を奪っていった男のことだ。春樹は憎んでいた男の子供だ……
彼は春樹を私には会わせなかった。由佳には会わせたのに。
嫉妬したけどホッとした。
「お邪魔してごめんなさい」
優雅に席を立ち歩いていく。彼はなりふり構わず追いかけてきた。
「待てよ」
マリーとは呼ばなかった。私はため息をつき興信所の封筒を渡した。
「調べたのよ。いやな女になったわ」
耳元でささやく。
「頑張ってね。エイコウさん。彼女、ヴァージンよ」
タクシーを停め乗り込んだ。優雅に。
彼からは何度も電話がきたが出なかった。メールがきた。
(春樹は父親の違う弟だ。母の妹が引き取って育てている。春樹はもらい子だと言われ不登校になり家出した。由佳さんが保護してくれた。春樹は彼女に懐いたから家庭教師をしてもらってたんだ。彼女は母と同郷だから春樹も懐いた)
返事は出さない。電話がきて私の代わりに友人が出た。
「サチコサンハアイマセン。モウデンワシナイデクダサイ。ワタシ? ワタシハ、スティーブン。サチコサンヲアイシテマース」
忘れるために酒に酔い踊る。どうでもいい男の肩にもたれて。強く抱きしめられ唇にふれてこようとする。私は耳元でささやく。
「ダメよ。私、エイズなの。キスする勇気ある?」
おかしくてたまらない。
離れた席に私を見ているなつかしい顔をみつけた。酔った私は圭の隣の席に座った。
「ヒースクリフ」
「みっともないぜ」
「みっともないのはあなたのほうよ。どうしちゃったの?」
かなり年上の女が私を睨んだ。きれいだが化粧の濃い女。
「三沢はどうした?」
「振ったわ。浮気したから。あなたと三沢君、ゲイかと思った」
女が不機嫌そうにタバコを吸う。圭が止める。
「いいでしょ。どうせ死ぬんだから」
「そうよ。どうせ死ぬのよ。私にもちょうだい」
「見てらんないな」
圭は水をよこした。頭を冷やせと。
女は順番になり歌いにいく。
「うまいわね。プロ級ね。ねえ、ドリーに似てない? ドリーはどうなったの? あの巨乳のハスキーボイス。男子のセックスシンボル。寝たの? 圭君? あのサッカーに明け暮れていた少年は今は年上の女と、不潔」
私は水をかけた。
女が歌い終わると圭は出て行った。もう1度違う男にもたれて踊る……
背中を叩かれ振り返ると彼がいた。彼は取り巻きの男たちからひとことで私を連れ出した。
「おかあさんが事故にあった」
送られる車の中で彼は話した。
「嘘だよ。連れ出す口実」
「死んだっていいんだけどね。あんな母親」
「圭が電話くれたよ」
「圭? かつて私を好きだった男は年上の女と。あの女死ぬわね。
由佳さんは元気?」
「会ってないよ。あれ以来」
「別れたの? そう、私が邪魔したわね。あれはね、彼女の婚約者の母親に頼まれたのよ。いきなり現れて、あなたと彼女を別れさせてくれって。子供ができたなんてことにならないうちに。でなけりゃあなたのおとうさんのところへ行くって。
そんなことできなかった。息子が婚約者のいる人を愛してるなんて、そんな残酷なこと聞かせられない。母親を奪っていった男と同じことしてるなんて」
「幸子、全部見当違いの誤解だ。君は話を聞こうともしない」
私の家はもうすぐだ。
「いやよ。帰りたくない。ね、話しましょう、休んでいきましょう」
ふたりでホテルに入った。
「あなた、入ったことあるの? そうよね、由佳さんの部屋でやればいいんだから」
「しつこいぞ。幸子」
大声で叱られ私は泣いた。怖かった。怖くてゾクっとした。すぐに彼は謝った。
「ごめん。幸子」と。
「謝らないで。幸子の連呼はやめて」
甘い言葉はいらない。もっと怒って欲しい。
ああ、今私は欲情してる。ぞくぞくしてあなたが欲しい。
私の目の色に彼は気づいたはずだ。私は誘惑した。抱きついて唇にふれた。
「エイコウ。私も呼びたかった。私も聴きたい。17番も1番も」
彼は答えられない。
「シャワー浴びてくるわ」
シャワーで流す。タバコの匂い、踊った男たちの匂い。
ダメ。暴走してはダメ。
私は水を浴び頭を冷やした。冷たい水を浴び考える。酔いを覚ます。打ち明けよう。これ以上苦しませたくない。
長いシャワーに心配し彼がドアを叩き、温かい湯に変える。さらした裸身、私は胸を隠した。彼はバスタオルで私を包んだ。私はもうキスさえ許さない。
「もう私を捨てなさい。こんなに嫉妬深い汚れた女」
「君の嫌がることはしない。僕は待つよ」
「いつまで待つの? あなたの欲望はどうしてるの?」
「頭の中で君を抱く。もう想像しなくていい。目に焼き付けたから」
携帯が鳴る。母がいまだに心配をして連絡がないとかけてくる。
「出ろよ。おかあさんを心配させてはいけない」
やがて冬。彼が言った。
「治は介護士になった。あいつにぴったりだな。学歴もなく父親もいない」
彼は私の反応を確かめる。
「会ったの?」
「会うわけないだろ」
耳元で彼は言った。決して口にしなかったことを。
「会うわけないだろ、君を犯した男だ。もっと殴ってやればよかった。去勢してやればよかったな」
そしてその日は来た。
「治が事故にあった」
慌てて飛び出していくと彼は車に乗せた。
「状態は?」
「詳しいことはわからない」
「病院は?」
「ちょっと遠いよ」
「なぜ知ったの?」
「おばあちゃんから電話がきた」
筋は通っている。
「スピード出すよ。休憩しなくて大丈夫? トイレは?」
早く行かなきゃ。治に言わなきゃならない。
彼は私の様子を観察し無言で車を飛ばした。
「別荘地? 病院は?」
「ああ、あれ嘘だよ。引っ掛かったの2度目だね。大事な人のことだと簡単に引っかかるんだな。降りろよ。話があるんだ」
「本当に治は無事なのね」
「ああ、君の大事な治は元気に働いてるよ。お年寄りに慕われてる。天職だな」
私は大きな別荘の2階に連れて行かれた。彼は窓を開け空気を入れ替えた。すぐに空気が冷える。
「この部屋には亡霊が出る。だから立ち入り禁止なんだ」
寒くなり彼は窓を閉めた。いつもと雰囲気が違っていた。
「父と僕には見えない。亜紀には見えるらしい。
父は母と別れる前にここで話をした。なかなか帰ってこなかった。心中するかと思った」
ベッドのシーツを敷きながら彼は話す。
「おかしいと思ってたんだ。治が君の嫌がることをするはずがないんだ。幼稚園から知ってるんだよ。あいつは人がよすぎるくらいにいいやつなんだ。
誘ったのは君のほうだろ? 酒が入ればみだらにもなる。あんな目で見つめられたら我慢できないね。
君は酔いが覚めて後悔した。治は君には不釣り合いだからね。自殺未遂はおかあさんへの当て付けだ。治は無理やり君を自分のものにしたと、自分が悪者になった。
君は治を除外しようとした。親も学歴も収入も。とても治をおかあさんには紹介できない。僕は都合よかったからね。母そっくりの顔は自分では大嫌いだけど。背は高いし頭もいい。父は会社経営してるし義母は獣医。土地も家も高級車もある。おかあさんの受けもいいだろう。
君は僕と付き合いながら治と比べ、治の方が人間的にはずっと上だって気づいたんだ。治を愛しているんだよ。ほら、否定しないんだな。
ひどすぎるじゃないか、マリー。
この3年はなんだったんだい? 否定してくれよ。マリー。この3年、僕を愛してたって言ってくれよ。治ではなく僕を愛してたよな?」
私はうなづいた。
「誤解よ。三沢君。見当はずれの誤解なの」
抱きしめられ唇がふれる。
「だめ。口内炎ができてて痛いの」
「君はいつもそうだ。今日は無駄毛処理は? してなくても今日は抱く」
私はうなずいた。
「避妊して。絶対。それから、私のいやがることはしないで。させないで。私のいうことを聞いて」
彼は少し笑いうなずいた。
「シャワー浴びさせて。トイレも。ずっといってないのよ」
「早く言えよ。下で風呂入れといてやる……」
下に降りると彼はキッチンで簡単な調理をしていた。電子レンジで温めたパックのごはんを握り味噌をつけた。
「父が怒ったよ。貧乏たらしいって。レトルトのカレーにする?」
断るとそれを立ったまま食べた。すごい勢いで。
「ゆっくり食べなさいよ。喉につかえるわ」
「ママの炊いたごはんはうまかった。どうしてなんだろう?」
「お味噌がついてるわ」
私は唇についた味噌を指でぬぐって舐めた。涙が出てきた。彼の母親になったような気がした。
「口内炎が、しみるの?」
彼は水を汲んでよこした。
「喉乾いただろ? うまいよ。ここの水は。
ああ、生水は飲まないんだな」
コップを手でよけると胸にこぼれた。私はセーターを脱いでカウンターの上に置いた。彼のセーターも脱がせた。笑いながら。
「手編みね。夏生の……器用なのね」
順番に脱いでいく。ブラウスを、シャツを、スカートを、ズボンを……
大きな浴室でシャワーをかけ合った。窓の外は絶景だ。
「君の気持ちがわからない。潔癖症なのか……治を憎んでいるのか、愛しているのか? 君の心はまるで秋の葉っぱ」
「マリーはあなたを愛してるわ」
繰り返される愛撫。浄化される……大きな浴槽に彼は潜る。
亡霊が出る部屋に戻り、カーテンの開いた日差しの中でさらされた胸、乳首。彼はきれいだと言い、甘えた。
「カーテンを閉めて」
「白状するよ。音楽室で立ちくらみして、君を押し倒した。胸の感触楽しんでた」
「わかってたわ。戻りたい。あのときに」
戻りたい。戻れたらあの道は選ばない。
彼はきちんと避妊をした。おそらく初めての彼には違和感はないのだろう。
「やっと征服したよ。君を。今夜は一睡もしないだろう」
聞いたことのあるセリフ。唇にふれてくるのを私は手のひらで受けた。その手を彼は舐めた。指の1本1本丁寧に。
「くすぐったいわ」
「指が感じるのか? どう? 気持ちいい?」
恥ずかしがると彼はふたりで読んだ本の話をした。
「僕の生殖器は君と性交するために備わっている。この毛も、恥じらいに満ちた君をくすぐるために生えてきたのだ」
「やはりあなたが線を引いたのね」
「君は真っ赤になってた。君には無防備でいられた。辛いときは助けられた。テニスコートと音楽室で」
「テニスコートの少年。あの子と……それにキャシーとこうなるとは思わなかった。別人みたいだわ。成長したわね、三沢君」
小さな舌打ち。かわいい人。
「背中はどう?」
「くすぐったい」
舌がかすかにふれる。
「舌の逍遥だ」
「逍遥?」
「卒業したら結婚しようか」
「夏生はどうするの?」
「夏生は喜ぶよ。君が姉貴になったら。亜紀は君と同じクラスになった時、運命を感じる? って聞いたよ。あいつは勘がいいんだ。怖いくらい」
「幸せよ。このまま死にたい。このまま死ねたら幸せよ」
また母からのメール。彼は返信するのを待ち携帯を奪った。ロックを解除された電話を取られ私はうろたえた。それを見て彼は中を見る。治とのやり取り。最初は他愛ないものだ。
(幸子さん、三沢のこと好きなんでしょ? お似合いだよ。きっと三沢も幸子さんのこと好きだよ。保証する)
(卒業おめでとう。もうメールしないよ。以前の明るい幸子さんに戻ってください)
あの日からの大半のメールは削除していた。それを彼は不審に思った。
このメールだけは消せなかったのか?
「決定的だな、これは。卒業式か。卒業式だったな。君が僕の家に来たのは。公園のそばで夏生に会った。
そうか、君は治の家に行ったんだ。僕に会いに来たんじゃない。夏生が勘違いして連れてきたんだな。治に会ったあとか?」
私は首を振った。全否定はできなかった。
「夏生に連れられて僕の家に来た。大きな邸を見てまた気が変わったか?」
彼はため息をついた。なにかを決断するときの癖だ。そして出ていった。裸のまま。決断する。彼は今度こそ決断する。
私はメールを打った。長い告白をした。しかし送信できなかった。
壁に絵が飾ってあった。母親が子供を抱いている。
この家には亡霊がいる 4