お気に入りの音楽 26〜30
26 シベリウスとフィンランディア
フィンランドを代表する作曲家として知られるシベリウス(1865〜1957)は,ドイツやロシアなどの作曲家から大きな影響を受けながらも,フィンランドの伝統や自然に根ざした作品の創作に力を注いだ。
幼いころからピアノやヴァイオリンを学び,また作曲も独学で身につけたシベリウスは,やがてヘルシンキ音楽院に入学し,さらにその後ベルリンとウィーンに留学して,音楽家としての確かな技術を身につけた。
デビュー作「クレルヴォ交響曲」で注目を浴びたシベリウスは,ヘルシンキ音楽院で作曲とヴァイオリンを指導する一方で,交響詩「フィンランディア」などの 作品を発表し続け,やがては国の年金を受けて作曲活動に専念するようになる。
フィンランドの民族的な要素を素材としたシベリウスの作品は,当時ロシアの圧政に苦しんでいたフィンランド国民によって支持され,彼は国民の英雄として尊敬を集めた。また,海外にもたびたび足を運び,自作の演奏会を開いて大きな成功を収めた。
https://www.kyogei.co.jp/shirabe/sakkyokuka/sibelius.html
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よくディヴィッド・ギャレットのCDを聴いていたので、シベリウスのヴァイオリン協奏曲は親しみがある。
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47は、ジャン・シベリウスが作曲したヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲である。1903年に作曲されたが1905年に改訂され、これが現行版となっている。
1904年に初稿版で初演が行われたが結果は芳しくなく、
「美しい部分が多々あるものの、全体として冗長である」
という評価が多かった。
初演後の1905年にブラームスのヴァイオリン協奏曲を初めて聴いたシベリウスは、自らの協奏曲よりもさらに徹底してシンフォニックなこの作品に衝撃を受け、本作を現在我々が耳にする形に改訂したのだった。
それは独奏楽器の名技性を抑えて構成を緊密化、凝縮し、より交響的な響きを追求したオーケストレーションへと変更したものである。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9)
シベリウスはフィンランドの最も偉大な作曲家であると広く認められており、同国が帝政ロシアからの独立を勝ち得ようともがく最中、音楽を通じて国民意識の形成に寄与したと看做されることも多い。
フィンランドでは、2002年にユーロが導入されるまで100マルッカ紙幣にシベリウスの肖像が描かれていた。同国では2011年以降、旗の日でありシベリウスの誕生日でもある12月8日を「フィンランド音楽の日」として祝っている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
『フィンランディア』は娘が中学の時のコンクールの課題曲だったので何度も聴きに行った。
交響詩「フィンランディア」 作曲 シベリウス
https://youtu.be/D8DxmUutTgc
シベリウスの有名な作品である交響詩「フィンランディア」は、映画『ダイ・ハード2』の中で、ストーリーに合わせて効果的に流れていた。フィンランド出身のレニー・ハーリン監督にとって、主人公が果敢にテロリストと戦う姿と、「フィンランディア」が結びついていたんでしょうね。
https://koukou2022.seesaa.net/article/201007article_3.html
シベリウスは20世紀を代表する大作曲家で、名曲もたくさんあるが、もっとも有名なのが、交響詩フィンランディアだろう。
重苦しく始まり、激しい戦いのような部分を経て、最後は晴れやかな賛歌が歌われる。
この曲が書かれたのは1899年、当時のフィンランドはロシアの支配下で圧政に苦しんでいた。そんな状況でこの曲は、単なる音楽作品を超えた民族意識の象徴となる。
ロシア政府はこの曲を警戒し、なんとか演奏をやめさせようとした。しかし演奏家たちは、たとえば《フィンランドの春が目覚めるときの幸せな感覚》だとか《スカンジナビア合唱行進曲》とか、別の名前でプログラムに載せることで、ロシアを出し抜いた。
やがて、この曲の最後に出てくる賛歌のメロディは歌詞を付けられて歌われるようになり、フィンランドが独立国となった現在でも第2の国歌として親しまれている。
https://ontomo-mag.com/article/column/suomi-japan-100-year-sibelius/
讃美歌298番は『フィンランディア賛歌』と同じメロディにつけられている。
『フィンランディア賛歌 』は作曲家シベリウスによる交響詩『フィンランディア』の一部のメロディを合唱向けに編曲したフィンランド愛国歌で、
フィンランドの第2の国歌としても愛唱されている。
歌詞自体は古いもので、1752年にドイツの修道女カタリーナ・シュレーゲル(1697–1768)によって作詞された。
それが1855年に『Be Still, My Soul』のタイトルで英訳され、1932年にアメリカ長老派の歌集
「The Hymnal」に掲載され広まったそうで、この歌詞を『フィンランディア』のメロディに当てはめる際は、作曲者であるシベリウス本人に編曲を直接依頼した。
https://blog.goo.ne.jp/yuyumitake/e/20a3a774b7560d789ea65c35033a2446
讃美歌298番
1) 安かれ我が心よ 主イエスはともにいます
いたみも苦しみをも おおしく忍びたえよ
主イエスのともにませば 耐えぬ悩みはなし
2) 安かれ我が心よ 波風猛るときも
父なるあまつ神の み胸に委ねまつる
み手もて導きたもう 望みの岸はちかし
3) 安かれ我が心よ 月日のうつろい無き
み国はやがて来たらん 憂いは永久(とわ)に消えて
輝くみ顔仰ぐ 命の幸(さち)をぞ受けん
フィンランドは19世紀初頭からロシアに支配されていたが、ある程度の自治は認められていた。ところが1898年にニコライ・ボブリコフがフィンランド総督に任命されると、自治権の廃止、ロシア語の強制、フィンランド軍の廃止など、ロシアはフィンランドに対する圧政を強める。
フィンランドでは、これに抵抗する機運が高まる。総督ボブリコフは1904年にフィンランドの青年オイゲン・シャウマンによって暗殺されるが、この時期はフィンランドにとって非常に暗い時代だった。
ボブリコフ時代のあるとき『報道の記念日』というイベントが行なわれた。これは、ボブリコフが反ロシア的な新聞のいくつかを発行禁止にしたことに反発して行なわれたもので、その目玉のひとつが『歴史的情景』という、フィンランドの神話時代から現代までの情景を描く舞台劇だった。
シベリウスはこの音楽を担当したが、特に人気を集めたのが、最終場面〈フィンランドは目覚める〉だった。この伴奏音楽に手を加えて独立した曲としたのが《フィンランディア》だ。この劇音楽からは、別の3曲も組曲としてまとめられている。これが組曲歴史的情景第1番で、こちらもときどき演奏される。
フィンランディア讃歌(ちょっと感激した動画)
https://youtu.be/zpDHv-dugL8
27 ミュージック・オブ・ハート
バッハの『2つのヴァイオリンのための協奏曲 BWV1043』を聴いて思い出した映画がある。
『ミュージック・オブ・ハート』(1999年アメリカ)は、『Small Wonders ハーレムのヴァイオリン教室 ロベルタ先生と50人の子どもたちの奇跡』(1996年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞ノミネート)を原作としたメリル・ストリープ主演の映画。
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『ハーレムのヴァイオリン教室~ロベルタ先生と50人の子供たちの奇跡』は『ミュージック・オブ・ハート』の基となったドキュメンタリー。
バイオリン教室を存続させるため、チャリティ・コンサートの開催に奔走する教師と生徒の姿を追う。
製作総指揮: ウォルター・ショアー
製作: スーザン・カプラン
監督: アラン・ミラー/ラナ・ミラー
撮影: クレイマー・モーゲンソー
出演: ロベルタ・ガスパーリ/イツァーク・パールマン/アイザック・スターン
1996年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞ノミネート
世界的ヴァイオリニストたちがカーネギーホールで夢の共演!
【ストーリー】
夢はかなうもの。私たちはついに、憧れのカーネギーホールに立った……
1990年ニューヨーク市イースト・ハーレム。小学校のヴァイオリン教師ロベルタ・ガスパーリは、市の予算削減のために 10年間続いたヴァイオリン教室存続の危機に立たされます。
何とかクラスを守ろうと音楽教育の大切さを訴えるロベルタ先生の姿は、やがてマスコミをも動かし、その呼びかけに大勢の人たちが支援に乗り出します。
『夢はかなうもの』そう信じるすべての人へ贈る、ロベルタ先生と50人の子どもたちの奇跡を綴った感動のドキュメンタリー。
https://www.amazon.co.jp/ハーレムのヴァイオリン教室~ロベルタ先生と50人の子供たちの奇跡~-DVD-アラン・ミラー/dp/B00005HUCB#productDescription_secondary_view_div_1670115795572
クライマックスのアイザック・スターンやイツァーク・パールマンなど著名なヴァイオリン奏者を巻き込んでのカーネギーホールでのベネフィットコンサート。
ここでプロの奏者と卒業生も含む子供たちによって演奏されたのが「2つのヴァイオリンのための協奏曲」でした。
集まったプロの奏者は ダイアン・モンロー アイザック・スターン イツァーク・パールマン マイケル・トゥリー アーノルド・スタインハート アニ・カヴァフィアン/アイダ・カヴァフィアン姉妹 カレン・ブリッグス ジョン・ブレーク・ジュニア そして五嶋みどり。
アカデミー賞候補になった「Small Wonders」を観て感激したミラマックスの社長と監督が権利獲得に奔走。
アカデミー賞授与式の会場でロベルタ先生との契約を成立させたというだけあって、本筋は変える事なく作られている映画の方もなかなか面白いです。
映画の中のコンサートのシーンに、残念ながら五嶋みどりさんはいませんが ジョシュア・ベルなどドキュメンタリーの時とは違うプロの奏者が参加しています。
同じホールで同じ曲。映画化するとこういう違いが出てくるのですね。
https://ameblo.jp/ryun4314/entry-12650930308.html
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ずいぶん前にレンタルして観た映画。観た時はなぜ貧しいハーレムの学校にヴァイオリン? 子供たちが弾けるようになるの? と思ったが。
『ミュージック・オブ・ハート』は、1999年のアメリカ合衆国のドラマ映画。監督はウェス・クレイヴン、出演はメリル・ストリープ、アンジェラ・バセット、グロリア・エステファン、エイダン・クインなど。
実話を元に、荒れた小学校の臨時教師となったロベルタ・ガスパーリが、音楽による子供たちとの交流を通じて互いに成長していく姿を描いている。
ロベルタはかつてヴァイオリンに情熱を燃やしていた主婦。軍人の夫と結婚して子供を2人もうけるが、夫は不倫をして出て行ってしまった。就職口を探していたところ、奇遇にも昔の知り合いのブライアンに出会い、彼の紹介によりニューヨークのハーレムの荒れた学校にヴァイオリンの臨時教師として就職する。
当初は荒れた子供達に悪戦苦闘するものの、徐々に子供達もヴァイオリンを楽しむようになる。
黒人の母親は「白人の音楽は習わせない」と子供を連れて帰ろうとする。「音楽を楽しむのに肌の色が関係あるの」とロベルタ。
子供の中には足の悪い女の子がいて、姿勢を保てないため弓に力が入らない。義足を見たロベルタは「松葉杖のイツアーク ・パールマンは椅子に座って素晴らしい演奏をしたのよ。人は足だけで立つのじゃない、気持ちでしっかり立つことが大事なのよ」と励ます。
https://womanlife.co.jp/topics/k-7048
演奏会を開き、結果は大成功、校長や親達から絶賛される。教育を通じロベルタも自立した強い女性へと成長する。
それから10年間、ロベルタの授業は続いていたが、市の予算の都合でロベルタは解雇勧告され、ロベルタのクラスが閉鎖されることになった。ロベルタはクラスを存続させるためチャリティーコンサートを開くことを決意。一流のヴァイオリニストなど様々な賛同者の協力を得てカーネギー・ホールでのコンサートを成功させる。
最後の演奏シーンはカーネギー・ホールで収録された。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88
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それにしても、この感動大作を監督したのが、『スクリーム』『エルム街の悪夢』のウェス・クレイブンなのだから、驚かされる。オープニングのクレジットに、監督としてウェス・クレイブンの名前が出るが、同姓同名の別なウェス・クレイブンが存在するのかと思ってしまったほどだ。ただし、『スクリーム』や『エルム街の悪夢』は、いずれも映画的には丁寧な手抜きのない緻密な作りの作品である。丁寧な演出という彼の作風は、『ミュージック・オブ・ハート』に受け継がれている。ウェス・クレイブンは、『ミュージック・オブ・ハート』で初めてホラー映画以外の作品に挑戦した。
https://www.ne.jp/asahi/hoth/press/other_films/pics/musicofheart/musicofheart.htm
『11 イツァーク・パールマン』はこの映画から興味を持ち調べました。
2つのヴァイオリンのための協奏曲
ロベルタ先生と50人の子供たちの奇跡
https://youtu.be/dZUn9OKUwms
28 グリーグとシューマンのピアノ協奏曲
エドヴァルド・グリーグのピアノ協奏曲は、よくロベルト・シューマンのピアノ協奏曲と比較される(LPレコード時代からCD時代まで、同じ盤に収められることがよくある)
これは、両者とも同じイ短調で書かれ、始まりの部分や作風がよく似ていることなどによる。
実際にグリーグはシューマンのピアノ協奏曲を、ライプツィヒ音楽院に留学していた1858年に、クララ・シューマンの演奏で聴いていて、それに大きく影響を受けている。
1870年にグリーグと会見したリストが、彼の持ってきた手稿譜を初見で弾いて、第3楽章のある部分について「これが本当の北欧だ!」と絶賛したというエピソードがある。
「グリーグの主題が、シューマンの主題と音程関係が反行形になっている」ということを、作曲家の中澤久長は自作「降り注ぐ粒子 第一番」内で再解釈している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0)
グリーグとシューマンのピアノコンチェルトって作風が似てますけど、どちらのほうが人気があるんでしょうね?
グリーグは、明らかにシューマンの作風を意識して作ったと言われています。
グリーグのピアノの先生がシューマンの友人ヴェンツェルだったこともあり、シューマンのピアノ音楽には精通していました。
確かに同じ調だし、出だしも似ているし、構成にも共通点があります。
✳︎一般的にポピュラーなのは、グリーグです。
出だしのツカミからして、勝負になりません。
なぜか、ピアノ協奏曲なのに第2楽章のフルートの旋律に魅了されます。
✳︎シューマンでしょう! 特に日本では「○○○○○○○」の最終回に使用されたことで、広く知れわたりましたよね!
あれ、最初、グリーグ、と言う指示だったと言ううわさを聞きました。
ダンがアンヌに告白する場面、劇的なピアノソロで始まる、と言う事でどちらでも良かったのかもしれません。
この2作品非常に似ていますからね。
しかし……戦う場面など、やはり体がぼろぼろになりつつも、身をていして戦う、…………シューマンのピアノ協奏曲で、 何か崇高な、……見ても楽しめるような作品になったと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1330551458?__ysp=44Kw44Oq44O844Kw44Go44K344Ol44O844Oe44Oz5Ly844Gm44KL
ピアノ協奏曲イ短調 作品16は、エドヴァルド・グリーグが完成させた唯一の協奏曲。1868年、作曲者が25歳のときにデンマークのセレレズに訪問している間に作曲された、グリーグの初期の傑作である。
グリーグはその後出版社からの依頼を受け、1883年ごろに2番目のピアノ協奏曲を書こうとしたが書き上げられず、代わりにこの曲に何度も改訂を行っている。現在演奏されるのはグリーグの最晩年である1906年から1907年頃改訂され、1917年に出版されたもの。初期版と曲想の大きな違いはないが、楽器編成が異なり、独奏と管弦楽譜で400か所以上の変更点が見られる。
数あるピアノ協奏曲の中でも、非常に人気の高い曲であり、またグリーグの代表的な曲である。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0)
ロベルト・シューマンのピアノ協奏曲イ短調作品54は、1845年に完成された、シューマンの遺した唯一の完成されたピアノ協奏曲である。
シューマンはこの曲の前にいくつかピアノ協奏曲の作曲に取り掛かっていた。1828年に変ホ長調の協奏曲の作曲を始め、1829年から1831年にかけてはヘ長調の協奏曲に取り組み、1839年にはニ短調の協奏曲を1楽章のみ完成させた。しかし、これらの曲はいずれも完成しなかった。
1841年、シューマンは後にピアノ協奏曲の第1楽章となる『ピアノと管弦楽のための幻想曲』を作曲した(初稿)。1845年にそれを改作し、間奏曲とフィナーレの2楽章を加えて曲として完成させた。この曲はシューマンの作曲した唯一のピアノ協奏曲となった。 曲は3楽章からなり、第2楽章と第3楽章の間は休みなしに演奏される。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3)
○○○○○○○はウルトラセブンです。
ダンとアンヌの最後の決別
https://youtu.be/Vs0EYUu7DHw
第9章『4分間のピアニスト』の曲もシューマンのピアノ協奏曲でした。
グリーグ ピアノ協奏曲
https://youtu.be/-L8RZUA8JPY
29 カンパネラ4曲
『ラ・カンパネラ』(La Campanella)は、フランツ・リストのピアノ曲。
ニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章のロンド『ラ・カンパネラ』の主題を編曲して書かれた。名前の Campanella は、イタリア語で「鐘」という意味である。
リストが『ラ・カンパネラ』を扱った作品は4曲存在する。年代順に、
1831年〜1832年『パガニーニの“ラ・カンパネラ“の主題による華麗なる大幻想曲』
1838年『パガニーニによる超絶技巧練習曲』第3番変イ短調
1845年『パガニーニのラ・カンパネラ」と「ヴェニスの謝肉祭」の主題による大幻想曲』
1851年『パガニーニによる大練習曲』第3番嬰ト短調
最終稿の『パガニーニによる大練習曲』第3番嬰ト短調
(Grandes Etudes de Paganini, S. 1)は、数多くあるリストの作品の中でも最も有名なものの一つ。
『パガニーニによる超絶技巧練習曲』を改訂した『パガニーニによる大練習曲』の第3曲にあたり、異名同音の嬰ト短調で書かれている。今日『ラ・カンパネラ』として演奏されるほぼ全てがこの作品となる。
辻井伸行 ラ・カンパネラ
https://youtu.be/8EaXf6fOFnA
『ラ・カンパネラ』の左手の跳躍の例。一気に約3オクターブも下がり、二音の鍵盤の距離は46cmに達する。
リストは曲全体の構成を洗練し、ピアノの高音による鐘の音色を全面に押し出した。 全体として、器用さ、大きい跳躍における正確さ、弱い指の機敏さを鍛える練習曲として使うことができる。最大で15度の跳躍があり、この跳躍を16分音符で演奏した後に演奏者に手を移動する時間を与える休止がないまま2オクターブ上で同じ音符が演奏される。ほかにも薬指と小指のトリルなどの難しい技巧を含む。
A(嬰ト短調)-B(ロ長調)-A-B-A-B-A-コーダの簡単なロンド形式で書かれている。用いられる楽想はこれまでの『ラ・カンパネラ』やパガニーニの原曲と比較しても限定されているが、主題が登場する度に様々な装飾を加えることによって単調さを避けている。
YouTubeを検索してもほとんどが馴染みのあるこのカンパネラ。他の3曲は難しすぎて演奏するものが少ない。リストも、将来弾けるものが現れるとは思わなかったのではないか?
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『パガニーニの“ラ・カンパネラ”の主题による華麗なる大幻想曲』
(Grande Fantaise de Bravoure sur "La Clochette" de Paganini, S. 420)
『パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲』とも呼ばれる。
1831年から1832年にかけて作曲され、1834年に出版された。『ラ・カンパネラ』を扱った最初の作品である。
ニコロ・パガニーニのヴァイオリンの演奏を聴き、大きな衝撃を受けたリストが「僕はピアノのパガニーニになる!」と決意し、自らの技術を磨き上げて作り上げたと伝えられる。
John Ogdon plays Liszt "Grande Fantaisie de bravoure sur La clochette" (after Paganini)
https://youtu.be/tL17Qnx8bVI
この曲を弾いている動画はなかなか見つからなかった。ようやく見つけたピアニスト。
ジョン・アンドリュー・ハワード・オグドン(John Andrew Howard Ogdon, 1937年1月27日-1989年8月1日)は、イングランのピアニスト、作曲家。
1961年にブダペスト国際ピアノ・コンクールに優勝して国際的に名声を博し、1962年にはウラディーミル・アシュケナージと並んで、第2回チァイコフスキー国際コンクールを制した。
1973年に重度の神経衰弱に見舞われる。1983年に前後して演奏活動に復帰した。その直後に、糖尿病と肥満の結果、肺炎を引き起こして急逝した。
数々の記念碑的な偉業を残しており、リスト、ブゾーニ、ラフマニノフ、スクリァービンなどの名人芸を要求する作品の名解釈で知られる存在である。
体系的な録音を古典作品に残さなかった(ベートーヴェンの録音は驚くほど少ない)ことが災いし、CD時代を迎えたばかりの頃の没後の一時期に、急速に忘れられた。しかし、廉価CD時代を迎えてBOX化が容易になった現在、改めて演奏にスポットが当てられつつある。また作曲に関してもソナタを含むピアノ作品を集めたCDがイギリスの若手ピアニストによって録音されるなど、再評価が進んでいる。2010年代のイギリスは、大型の国際コンクールで優勝できる人材を完全に失っており、最後の超ヴィルトゥオーソとしてのオグドンの偉業は、今後も揺らぐことはない。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジョン・オグドン
日本のピアニストではショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクールの2大国際コンクールにおいて唯一、両大会に入賞経験のある小山実稚恵さんが同曲について下記のように語ってます。
「即興から生まれているとしか言いようがなく、右手で弾いたらなんでも無いのに左手を交差するように指示していたり、音でも視覚でも魅せるように意識して、わざと難しくなるように楽譜に書き添えていて、(リストは)真のヴィルトゥオーソだったと思う」
(ウキペディアより引用)
現役で世界でもトップクラスのピアニストがこのように語る訳ですから、リストの演奏技術が如何に凄いかが伝わります。
《パガニーニの「ラ・カンパネラ」の主題による華麗なる大幻想曲》を演奏したピアニスト
レスリー・ハワード
ブルーノ・メッツェナ
セルジオ・フィオレンティーノ
ジョン・オグドン
マルコ・パシーニ
碇山典子
ケマル・ゲキチ
小山実稚恵(テレビ番組内において一部のみ演奏)
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『パガニーニによる超絶技巧練習曲』第3番変イ短調
初版を『パガニーニによる超絶技巧練習曲』、
改訂版を『パガニーニによる大練習曲』と呼んで区別するが、実際はピアノリサイタル等のテレビ番組で大練習曲を演奏する際に誤って超絶技巧練習曲とクレジットされることもあり、初版と改訂版の区別がされていないことがある。
LISZT-PAGANINI "LA CAMPANELLA" first version 1838 Elisa Tomellini Piano
https://youtu.be/25St6t4go9k
《パガニーニによる超絶技巧練習曲》第3番を演奏したピアニスト
ジョン・オグドン
ニコライ・ペトロフ
レスリー・ハワード
大井和郎
ジャンヌ=マリー・ダルレ
ゴラン・フィリペツ
ヴォイチェフ・ヴァレチェク
阪田和樹
Elisa Tomellini
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『パガニーニの「ラ・カンパネラ」と「ヴェニスの謝肉祭」の主題による大幻想曲』
(Grande Fantaise (Variations) sur des themes de Paganini - La Clochette et La Carnaval de Venise - First Version S. 700i)
作曲は1845年で、改作版の『パガニーニの主題群による大幻想曲』S. 700ⅱが同年に作曲されている。どちらも演奏の機会は無いに等しく、レスリー・ハワードのリスト全集にのみ収録されている。
1845年の『大幻想曲』と同じくイ短調で始まり、『ラ・カンパネラ』の主題と『ヴェニスの謝肉祭』の主題が交代で現れる。『ラ・カンパネラ』の主題を扱った部分は、『大幻想曲』と共通したものと新たに作曲された部分がともに含まれる。
1845年の改作のようですが、今は演奏されることがほとんどないようです……
レスリー・ハワード(Leslie Howard、1948年4月29日 - )は、オーストラリアのピアニスト。メルボルン出身。
ハイペリオンにフランツ・リストのピアノ作品全曲録音集を残したことで有名。録音技術が確立してから今日(2016年)まで、ハワードしか録音を残していない曲が数多くある。他にも、現在安定して入手できる音源として存在している録音は彼のものだけ、という曲も多くある為に彼のリスト全曲録音集は資料として非常に価値のある貴重なものである。
ハワードは作曲家、音楽学者としても活動しており、上記のリスト全集においては未完成作品の補筆も手がけている。また、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番の初稿を自筆譜にさかのぼって校訂・出版したのが有名。現在はユトレヒト・リスト国際ピアノコンクールの審査委員を務めている。
『ヴェニスの謝肉祭』は、ナポリ民謡をもとにニコロ・パガニーニが1829年に作曲したヴァイオリン用の変奏曲。
『パガニーニのラ・カンパネラ」と「ヴェニスの謝肉祭」の主題による大幻想曲』は、コンピューター演奏さえないと思ったら、見つけました。
スタヴロス・ラパリディス?
http://shimah.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-5282a7.html
Liszt: Clochette et Carnaval de Venise.Grande fantaisie di bravura sur des thèmes de Paganini (Mezö)
https://youtu.be/yhpI2l3NylY
30 タイトルは
『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』は、1975年4月20日に東芝EMIから発売されたダウン・タウン・ブギウギ・バンド4作目のシングル曲。発売当初は『カッコマン・ブギ』のB面曲だった。
阿木燿子(作詞) 宇崎竜童(作曲)
第17回日本レコード大賞・企画賞 第3回FNS歌謡祭・特別賞
オリコンチャートの週間順位で5週(1975年6月23日 - 7月21日付)に渡り1位を獲得。1975年のオリコン年間ヒットチャートでは第5位にランクインし、さらに大晦日の『第26回NHK紅白歌合戦』に初出場をした。
発売当初「カッコマン・ブギ」をA面にして発売された。これは前作「スモーキン・ブギ」がヒットしたことで、次のシングルもブギ物としたものだが、発売前に表題曲が有線チャートで急上昇したため、発売1か月後に『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』をA面に格上げして再発売。累計売上はミリオンセラーに達した。
楽曲の大半がギターによるリフをバックに語られるセリフで構成された作品である。作詞は、当時既に本バンドのボーカルで作曲者でもある宇崎竜童の妻であった阿木燿子によるもので、阿木の作詞家としてのデビュー曲である。
ある女性を捜している主人公の男性が、接点を持っていた人物達の証言を頼りに少しずつその女性へ迫っていく内容の歌詞で、登場するセリフは主に、その証言者たちの言葉である。横浜と横須賀がそのままタイトルに織り込まれた、神奈川県の『ご当地ソング』の1つであり、シングル・バージョンのアウトロには港での汽笛音など、効果音が挿入されている。
宇崎は阿木が書いた詞に感激し「コレこそ俺の唄うべき歌だ」と感じて作曲に取りかかったものの、冒頭の「一寸前なら憶えちゃいるが……」の部分を曲に乗せようとすると『スーダラ節』と酷似したリズムしか発想できないことを心苦しく思っていた。その時聞き返していたアメリカのトーキング・ブルースがヒントになり、「すべての詞を語りにする」というアイデアが生まれた。
TBS系にて放送された2005年年末の特別番組『超豪華!! 歌謡史決定版ザ・ヒットメーカー 作詞家・阿久悠40周年記念特別企画』(2005年12月29日放送)において、阿久がゲストで出演した阿木を前に、本楽曲中に登場する「アンタ、あの娘(コ)のなんなのさ!」というセリフについて「衝撃的だった」という旨を語った模様が放送された。(Wikipediaより)
映画「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」Opening Scene ダウン・タウン・ブギウギ・バンド 1975
https://youtu.be/oapP2N-Ok-U
阿木 燿子(1945年5月1日 - )は、日本の作詞家・女優・小説家・エッセイスト。夫はミュージシャン・俳優の宇崎竜童。2006年11月3日紫綬褒章受章。
宇崎が作曲し阿木が作詞するというコンビで、多数のヒット曲を世に出す。特に山口百恵の全盛期から引退までのヒット曲の多くは、このコンビによるものである。
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『フレディもしくは三教街〜ロシア租開にて』 さだまさし
アヘン戦争後の半植民地支配下にあった中国には行政自治権や治外法権をもつ外国人居留地の地域、租界と呼ばれる地域があった。
租界には様々な事情で祖国を離れた人々が移住し、それぞれの文化や風習を争うことなく守り合って暮らしていたという。
曲の舞台となる漢口は現在でいう武漢の辺り。漢口には『イギリス租界』『フランス租界』、ロシア、ドイツ、そして『日本租界』と、石造りの洋館が立ち並ぶ素敵なヨーロッパ風の街並みだった様子です。
そしてロシア租界は『3教街』と呼ばれ、ロシア正教•ユダヤ教•キリスト教の教会が仲睦まじく佇んでいたそうです。互いの宗派も認め合い、いがみ合う事なく暮らす街。
誰もが理想とする平和な都市がここにはあった……
さだまさしの母は17歳の頃、貿易の仕事をしていた兄に漢口に呼ばれ、終戦までの3年あまりをタイピストの仕事をして暮らしていた。
彼女はそこでドイツ青年とのトキメクような恋が……
海岸通りで、水のキラメキを背景に彼がさっそうと人力車を停める場面から歌が始まる。
この先の幸せを予感させるような彼との出逢い。キラキラした気持ちがとても眩しく伝わる。
歌詞に登場するお店などは実在した名前。
17歳の彼女にとって、胸躍る異国の情景の中での彼との日々はきらびやかなものだった。
しかし…やがて戦況は悪化。
1944年、アメリカ軍の500トン以上もの焼夷弾によって街は破壊され、3日間に渡る大火災の末、街は文字通り跡形もなく焼き尽くされる事に。https://mamenokiogm.blog/entry/2022/07/22/080000
フレディもしくは三教街~ロシア租界にて~/コミュニケーション収録曲 # グレープ
https://youtu.be/s-SgW5lFsfM
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『碧い瞳のエリス』は、日本のロックバンドである安全地帯の10枚目のシングル。
松井五郎(作詞) 玉置浩二(作曲)
チャート最高順位 2位(オリコン) 1985年度年間29位(オリコン)
1985年10月1日にKitty Recordsからリリースされた。作詞は松井五郎、作曲は玉置浩二、編曲は安全地帯および星勝が担当している。エリスとは森鴎外作の『舞姫』に登場するヒロインで、歌詞も舞姫の世界観を表している。
Anzen Chitai - Aoi Hitomi no Elis
https://youtu.be/M3apvSceLLk
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『与作』は七澤公典が作詞・作曲し、NHKの音楽番組『あなたのメロディー』に応募した作品である。七澤は1976年(昭和51年)、ジャズギタリストを目指して渡米したが、日本人が本当のジャズ奏者になるのは無理だと悟り、帰国したところであった。渡米の反動から、日本的なものを志向して作ったのが『与作』である。『与作』は1度は却下されたが、改良を重ねて再提出され、番組では弦哲也が歌唱し、年間最優秀作品に選ばれた。弦の他に北島三郎、千昌夫らがシングルを発表。原曲に少しアレンジを加えた北島のバージョンが最もヒットした。競作で発売されたレコードの累計売上は60万枚に達した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/与作
「与作」 弦哲也
https://youtu.be/W3Zx19FuBcA
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『さなえちゃん』は、加奈崎芳太郎、仲井戸麗市(愛称:チャボ)の二人で結成したフォーク・グループ古井戸の楽曲である。古井戸の1枚目のシングルとして1972年5月25日にエレックレコードより発売された。
週間17位(オリコン)登場回数17回(オリコン)売上12.4万枚(オリコン)
エレックレコードのプロデューサー浅沼勇に認められて「古井戸の世界」でレコードデビューしてから、「唄の市」で全国を回る中、古井戸の世界-生ギターの限界に挑戦するチャボのギター・テクニックと、加奈崎のヘビー級のパワフルなボーカルを基調にしたハードな古井戸サウンド-は確立された。
そんな中、浅沼は女の子のファンが多かったチャボのかわいらしさを出して、チャボをリードボーカルにした曲を作ろうと考えた。当時チャボは大学ノートをいつも持ち歩いており、そのノートの裏表紙にさなえちゃんとネーミングされた似顔絵を書いていたため、浅沼はこれだとチャボに曲を作らせた。結果10万枚を超えるヒットとなり、古井戸の名前は一躍有名になった。
その後、古井戸には「さなえちゃん」のイメージがつきまとい、出演したテレビでもこの曲を求められ、チャボが怒って退席したことがある。
さなえちゃんは、チャボが通っていた戸山教会の幼稚園の初恋の相手の名前。
https://search.yahoo.co.jp/search?ai=&aq=0&ei=UTF-8&fr=yjapptab_ios_hp-sbp&iau=1&p=%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%88%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%20%E5%8F%A4%E4%BA%95%E6%88%B8
古井戸 さなえちゃん 1972
https://youtu.be/NyT4ixnhQyw
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『そんなヒロシに騙されて』は、サザンオールスターズの楽曲。1983年7月5日に発売したオリジナル・アルバム『綺麗』の6曲目に収録されている。作詞・作曲は桑田佳祐、編曲はサザンオールスターズが担当。キーボードの原由子がボーカルを担当している。
『そんなヒロシに騙されて』は、高田みづえの21枚目のシングル。1983年8月21日に発売された。
週間6位(オリコン)1983年度年間45位(オリコン)
1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』に本楽曲で出場し、4年連続通算6回目の出場となった。
TBSテレビ系列の生放送音楽番組『ザ・ベストテン』には、1980年の『私はピアノ』以来、3年振り3曲目の10位以内へランクインされるも、当曲が高田自身同番組において最後の出演となった。
1985年2月、大相撲の人気力士で当時大関だった若嶋津六夫との婚約を発表すると同時に、歌手活動を含めた芸能界引退を表明する。
そんなヒロシに騙されて サザンオールスターズ
https://youtu.be/9B5ir8d1RPI
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『順子』1980年6月5日にリリースされた。作詞・作曲は長渕、編曲は瀬尾一三が担当している。
元々はアルバム『逆流』(dm1979年)に収録されていた曲であるが、長渕は叙情派フォークと混同されたくないためにシングルでのリリースは検討していなかった。しかし、全国各地の有線ランキングにおいて1位を獲得し、シングル化を要望するリクエストが殺到したためライブツアー終了後にリリースする事となった。歌詞の内容は女性に裏切られた男性の失恋を題材としており、ファンク・アレンジによるシティ・ポップ風のバラードとなっている。
オリコンチャートでは8週連続で1位を獲得しミリオンセラーとなった。
順子
https://youtu.be/BuxgYzunZsc
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『SACHIKO』は、ばんばりろふみが1978年にバンバンを解散後、ソロ歌手として、1979年9月21日にリリースした4枚目のシングル。
オリコンチャートで週間最高2位を獲得、75.1万枚を売上、自身最大のヒット曲。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/SACHIKO
SACHIKO ばんばひろふみ
https://youtu.be/x76NSCqXeEo
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『リリー・マルレーン』は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲。ドイツの歌手・女優、ララ・アンデルセンが1939年2月に録音したバージョンがヨーロッパ全体でヒットした。
1915年にロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプが、ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に創作した詩集に収録されていた詩を原典として、第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェが曲をつけた。
1939年に発売した当初、アンデルセンのレコードは60枚しか売れなかったと言われている。しかし、販売店に山積みになっていた売れ残りのレコードから、店員がドイツ軍の前線慰問用レコード200枚の中に2枚紛れ込ませた。それが1941年の秋に初めて流され、それ以後も放送で繰り返しかけられて人気を得た。
第二次世界大戦下の一時期、21時57分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れたこの歌に、多くのドイツ兵が戦場で耳を傾けて故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、北アフリカ戦線のイギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。
アンデルセンは慰問で人気者になったが、長くは続かなかった。1942年夏、アンデルセンと親しい関係にあったロルフ・リーバーマンがユダヤ人であったことが当局に知られてアンデルセンは歌手活動が禁止され、アンデルセン盤の原盤が廃棄される事態となる。ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相の指示により『リリー・マルレーン』のタイトルとメロディ自体は残され、別バージョンが作られた。
歌詞の内容は、戦場の兵士が故郷の恋人への思いを歌ったものである。
アンデルセンの生涯を題材にしたドイツ映画『リリー・マルレーン』が1981年に製作・公開された。
ベルリン出身の女優、マレーネ・ディートリヒの持ち歌としても知られている。第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、アメリカの市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問し、この歌を歌った。そのため、ディートリヒはドイツで敵側の人間(反逆者)と見なされ、ドイツでは戦後も不人気となった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3
【ドイツ軍歌 日独歌詞付き】リリー・マルレーン Lili•Marleen
https://youtu.be/LpGyXlI57dg
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『夜桜お七』は、1994年9月7日に発売された坂本冬美のシングル。
坂本が師事していた作曲家・猪俣公章亡き後、初のシングルであり、代表曲の一つに数えられる。これまで演歌の作詞をしたことがなかった歌人・林あまりに作詞が依頼された。曲名の「お七」とは八百屋お七のことである。自己主張する現代的な女性像を、八百屋お七になぞらえた作品。林の第一歌集『MARS☆ANGEL』に収録されている短歌連作「夜桜お七」を再構成するかたちで歌詞としている。
NHKの『コメディーお江戸でござる』の歌謡コーナーのオリジナルソングとして発表され、同番組内で毎年4月に必ず歌われていた。ブラス入りの16ビートのメロディーが含まれ、演歌としては異色の仕上がりになっている。発売から1か月あまりで15万枚を売り上げ、演歌としては異例の早さの売れ行きとなった。その後もオリコン・シングル・チャートでは100以内に25週ランクインするなど、ロングヒットを記録した。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/夜桜お七
坂本冬美 - 夜桜お七
https://youtu.be/f3cmggPaQMw
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