この家には亡霊がいる 1
大嫌いな顔 1
僕の辛い時代を亜紀先生は知っていた。
飼っていた犬が死を迎えていた。パパは毎夜酔って帰り、祖母はそんな息子に絶望していた。
その夜、僕は犬を亜紀先生のところへ連れて行った。死が近づいているのはわかっていた。夜中の1時に犬は僕の腕の中で死んだ。
そのとき酔ったパパが入ってきた。パパにはどん底の時期だった。亜紀先生は酒臭いパパを僕のそばには来させなかった。大先生も出てきてふたりでパパを外に出した。僕はもうどうでもよかった。
ふたりの先生になにを言われたのか、パパは黙って帰って行った。たぶん、パパの虐待に気付いていた先生は、通報するとか脅したのだろう。
朝まで亜紀先生はついていてくれ、家に送ってくれた。パパは反省したのか礼儀正しい男に戻っていた。別人みたいね、と言われ、目が覚めましたと神妙に答えていた。
犬を埋めたら、僕は旅に出る。ママに会って犬が死んだことを話し、海に飛び込んでやる。
しかし、その日は死ぬことも許されない日になってしまった。僕はパパに手紙を書いて机の上に置いた。
僕のせいでごめんなさい。
ママに似ててごめんなさい。さようなら。
名前は書かなかった。パパは見たくはないだろう。祖母には心の中でさよならを言った。言えば止められる。パパは病気の犬を放り投げ、僕をかばった祖母まで突き飛ばした。僕がいなくなれば元に戻るよ。そしたら、パパに優しいお嫁さんをもらってあげてね。この家にふさわしい、おばあちゃんのことを大事にしてくれる優しい人を……僕たち母子のことは忘れてください。
僕は夏生の家にもさよならを言いに行き、留守番を頼まれた。そして、夏生のひとことで人生は変わった……
その日、亜紀先生は僕を心配してやってきた。橘家の前に救急車が止まっているのを見て先生は入ってきた。そこへ珍しくしらふのパパも帰ってきて、僕たち3人は惨状現場に残された。亜紀先生は僕を抱き上げ家に運ぶと、パパに指図し手当てした。僕は錯乱状態で自分のしたことを何度も叫んだ。亜紀先生が僕を抱きしめ背中をさすった。
パパは亜紀先生の前で僕に謝った。
「パパのせいだ。おまえは悪くない。パパのせいなんだよ。全部パパのせいなんだ」
パパはその日を境に酒をやめた。僕の手紙を読んだのだ。亜紀先生は僕だけでなくパパの心配もした。祖母の心配もした。
ママは病気の犬を残し出て行った。大きな邸も社長夫人の座も、息子も捨てていった。この家族の最悪の時期に亜紀先生がいなかったら、僕たちはどうなっていただろう? やがて亜紀先生は僕の義母になった。
しばらくは亜紀先生と呼んでいた。亜紀先生は僕に勉強のやり方を教えた。パパは僕を頭の悪いやつだと決めつけていたが、やり方がわかると成績は伸びた。
「ピアノはやめてもいいのよ。ちっとも楽しそうじゃないわ」
なぜ僕がピアノを弾くのか誰も知らない。パパでさえ記憶にないだろう。
「なぜあんな男に? 俺が劣っているのはピアノだけじゃないか? おまえがあいつを負かすんだ。最年少入賞という自慢の記録を塗り替えてくれ」
パパは覚えていなくても約束だ。
小学生の頃は色が白くて活発ではなかった僕に、亜紀先生はテニスを教えた。夏生は一緒にやりたがり、なんでも夏生のほうがうまかった。背も、パパは高い。僕は母親似だ。僕はパパの何倍も勉強し努力した。
努力に勝る天才なし
亜紀先生は励ました。祖母は戻った平和と彩の誕生を喜び亡くなった。最期にはパパの手ではなく僕の手をつかんだ。唯一僕を愛してくれた人だ。母親似の僕をパパそっくりだとかわいがり、なんでも買ってくれた。パパは謝っていた。祖母の寿命を縮めたのは自分のせいだと……
祖母が亡くなると家の中はパニックだ。家政婦に来てもらえばいいのに……亜紀先生は家事は苦手だと公言して嫁いできた。彼女は料理のやり方を掃除のやり方を知らなかった。サラダにはボロボロの茹で卵が丸ごと入っていた。野菜も麺も茹ですぎる。僕のほうがマシだった。ダイニングテーブルは物で狭くなり、ソファーには座れなくなった。パパは仕事で留守が多い。亜紀先生は仕事はやめたが、苦手な家事と育児で大変だった。僕はパパに怒られないように、山になった洗濯物を畳み掃除した。そしてパパの変わりに、彩を毎日風呂に入れるのを手伝った。
ある夜、バスルームから歌が聞こえた。パパが歌っていた。歌いながら風呂掃除。パパが風呂掃除? 僕はバスルームの外で歌を聞いていた。聞き惚れていた。英語の歌。亜紀の好きな歌……いや、ママがよく口ずさんでいた歌だ。学歴のない女が英語で歌っていた。教養のあるふりをして……
Don't give up……
休みの日にパパは掃除機をかけ、キッチンでカレーを作っていた。
亜紀はすごい女だ。
試験前の夜中、僕はキッチンで自分で作ったおにぎりを食べていた。亜紀が授乳が終わったのか入ってきて、いきなり皿の上のおにぎりを食べた。冷やご飯に味噌をつけただけ。
「もう、おなかすいておなかすいてどうなってるんだろう? もうひとつ作ってくれない?」
「こんな貧乏たらしいもの」
僕は自分が食べていたものをゴミに捨てキッチンを出た。
少しすると亜紀は部屋にやってきた。階段を登って。夜食の味噌にぎりを差し入れに。
「亜紀ママのおふくろの味よ」
そう言って少しだけ数学を見てくれた。
「寝不足だろ?」
「また、お礼状書くの手伝ってね」
歳暮の礼状、亜紀は習字を習っていた僕に書かせる。家事もあんなにひどいわけがない。彩が生まれても寂しい思いをさせないように僕をおだてて手伝わせたんだ。
ママが危篤だと知らせが入ったとき、
「僕は行かない」
と突っぱねた。
「ママがおまえの名を呼んでいる」
パパは僕に頼んだ。
「頼むから一緒に来てくれ」
と土下座した。亜紀も勧めた。
案の定、僕は不安定になった。春樹の存在が決定的だった。
「弟がいた。やっぱり」
「彩と同じ年ね」
「余命宣告されてたのに。さっさと死ねばよかったんだ。階段から落ちて死ねばよかったんだ」
「……愛は奇跡を生むのよ」
「生んだのは父なし子だ」
「愛の結晶」
「僕こそ愛の結晶だった」
「芙美子さんが育てるわ。遠くはないわ。いつか、力になってあげなさい」
ママが亡くなった夏にテニスをした。彩はパパが見ていた。閉じこもっていた僕を亜紀は連れ出した。まだまだ亜紀にはかなわない。いつか亜紀を越える日が来るのだろうか? スポーツはいっときいやなことを忘れさせてくれる。
隣のコートに『彼女』がいた。夏生が気づき笑った。あんな運動音痴は初めて見た。ラケットが重そうだ。悲しい時にでも笑えるものだ。亜紀にたしなめられ、僕たちは『彼女』のために球拾いをさせられた。
どんな悲しい時にでも異性に惹かれるものだ。察しのいい亜紀は僕に相手をさせた。奇跡もあるものだ。『彼女』が打ち返してきた。何度か続いたラリー。
誓う。あなたのためなら身を粉にして努める。生きていくから叱らないでいください……
(太宰治『狂言の神』より引用)
どう思っただろうか? 僕を? 背も高くない、子供っぽい色の白い美……少年。なんの魅力も感じなかったようだ。
『彼女』は夏生の傷を見ても驚かないふりをしてくれた。
「きれいな子だったわね。もてるでしょうね。男は視覚で恋をする」
顔だけじゃない。素直で恥ずかしがり。一生懸命だった。思いやりもある……『彼女』は視覚で恋をしない。中身のない僕に恋などしない。
「同じ学年よ。名前くらい聞けばよかったのに。ひとことも話さないで。女は聴覚で恋をするのよ」
僕が惹かれたのは外見か? 『彼女』の頬に大きな傷があったら? それでも惹かれただろうか?
気持ちが沈むと『彼女』のことを考えた。僕の小さな太陽。マリー。
ママのことを忘れるために…… 中卒の田舎の貧困の父親のない女……
秋には亜紀は僕に、死に向かうシャーロックの面倒をみさせた。僕が名付けた犬は、今では口もきかなくなった同級生にずっと飼われていた。
「モルヒネ、あの不良たちに1度には渡せないから」
大嫌いな顔 2
その年、小さなコンクールで入賞した。パパとの約束まで2年しかない。
「パパが社報に載せるって。パーティで弾くのよ。貢献しなさい。レッスン料どれだけかかってるか」
「だから私立にはいかなかった。塾も」
「私の家庭教師代は?」
「そのうち返すよ。亜紀のためにそばかすと、しみとりクリーム作ってやる。色白になるクリームも」
「取り替えて欲しいわね。色白のボクと。あなたの顔としぐさ……失言」
「どういう意味?」
「私は不細工だってこと」
「僕はママにそっくりだよ。だから殴られた。顔もしぐさもそっくりだって」
「ごめん。いやなこと思い出させた」
「おかあさんはきれいだよ。みんな言ってる。かっこいいって。夏生も治も。早夕里も」
取り替えて欲しいわね。色白のボクと。あなたの顔としぐさ……パパはママが出て行ってから僕を憎んだ。ママから受け継いだものすべて。目も鼻も顎もママそっくりだと叩いた。ため息をつくと怒られた。あくびをすると……ママと同じ癖、しぐさをすると叩いた。パパを裏切った女を思い出すから。名前さえ呼ばなかった。それこそ愛の結晶だった。ふたりの名を1字ずつ取っただけ。
ずっと憎んでいるのかと思った。そのほうがマシだ。
ママが亡くなったとき僕はふすまの陰から見ていた。パパは少しだけふたりきりにさせてくれと頼み、布団に寝かされていたママにさわった。6年ぶりに会ったかつての妻の顔をさわり、久しぶりで最後のキスをした。そしてしばらくの間隣に寝ていた。僕は泣かなかった。幼い春樹をあやし、笑わせて笑わせて場をわきまえろ、とパパに怒られた。
それからパパは芙美子叔母さんに化粧道具を借り、死化粧をした。長い時間かけて丁寧に。僕は興味を持ち近くで見ていた。死体が生き返っていくみたいだった。パパにこんな才能が? ママが眠っていた。あの頃と変わらないまま……涙がポタポタ流れた。意思とは関係なく。涙をコントロールできないなんて……
ママを奪った海を見に行った。他人の子供を助けるために春樹を置いて逝った。僕を捨て、なにもかも捨て、貧困に戻り働いて、心臓が弱っていた。それなのに溺れている他人の子供を助けにいった。なんてバカなんだ。どこまでバカなんだ。
僕ははしゃいで駆け回った。
「泳ぎたいな、泳いでもいい?」
「異邦人だな、まるで」
パパは別れたあとも、亜紀と再婚したあともずっとママを忘れなかった。写真など処分しても意味がない。ママそっくりの僕が、ますますママに似てきたんだ。色白で、隔世遺伝なのか、体毛の薄い息子。思春期にニキビもできず、体は鍛えてもまだまだ華奢だ。
パパは目を合わさない。僕のことはすべて亜紀に任せてある。
亜紀は憎んではいないのか? 僕を? 前妻のことを忘れさせない僕を? 僕は似たような話を知っている。思い出した。本を開く。
『私がまだ非常に若かった頃だ、ホームズ君、私は生涯で1度しか経験したことのない恋愛をした……
彼を見ていると、いとおしい彼女のあらゆる仕草が私の記憶に蘇ってきた……』
僕は自分を不幸だと思っている。ママとパパのせいで僕は贖罪を背負った。
本当はね、パパ。ママの口に糠を入れてやろうと思って、僕は袋に入れてポケットに入れていたんだ。姦通した妻の口に糠を詰め込んでやろうとずっと握りしめていた。
パパは裏切ったんだ。
パパの罪科。
僕を不幸にした女の口にキスをした。
居間で彩と遊んでいるとパパの視線を感じた。見ているのは彩ではない。僕の顔にママの面影を見ているのだ。いとしいママのあらゆる仕草がパパの記憶に蘇るのだ。
それを亜紀が見ている。こんなに愉快なことはない。
「高い、して」
彩が言う。僕は肩車をしてやる。彩が妹でよかった。弟だったら毛嫌いし憎悪したかもしれない。心配ではないのか? 僕が彩を落としたりするとは思わないのか?
日曜日の朝、僕は庭で水を撒いた。バラがもうすぐ終わる。今は業者任せだが、ママは全部手入れしていた。僕は思い出す。祖父が車椅子に座り、そばで指図していた。不明瞭な言葉をママは祖母よりも理解していた。長い中腰の姿勢、ママは弱音も吐かずたくさんのバラの手入れをした。
強い女だった。体が不自由になっても、わがままで激昂する祖父の介護をやり遂げた。パパより10も若い田舎者。親戚の冷たい目にも負けず、媚びず甘えず群れなかった。パパの保護も庇護も必要なかった。置いていかれた僕は強くはない。
幸せだった頃の光景が思い出された。そこの椅子にパパとママは腰掛け、花を眺めていた。そして洋画のようにキスをした。優しいキスだった。僕はパパの膝に乗り同じようにママにキスをした。パパは僕の顔に、顔中にキスして嫌がると余計にペロペロ舐めた……
幸せは突然こわれた。ママは、さよならも言わずにいなくなり、パパのキスは暴力に変わった。祖母は僕を守れず、祖父のところへ逝きたい、と泣いた……
トゲが指を傷つけた。僕は血も出ていない指に口をつけた。視線を感じた。縁側に父と亜紀が立っていた。父はトマトジュースを飲んでいた。
ママは空を見上げる。そしてため息をつく。
田舎に帰りたい……帰ろうか……
パパは亡霊を見た。グラスが割れた。パパの手が血だらけだ。僕は震えその場にしゃがんだ。血圧が下がり心拍が上がる。彩が泣く。父と亜紀は視野から消えた。
夏生がガラスをかぶって血だらけだ。僕のせいだ。僕が殴った。夏生があいつの名を言ったから。夏生のせいでママが出ていったから。
「和ちゃん、どうしているかな? ピアノうまかったね。死んじゃうなんてかわいそう……」
『和ちゃん』に僕はなついていた。祖母は僕にピアノを習わせた。祖母も『和ちゃん』が好きだった。夏生のママも芙美子叔母さんも好きだった。『和ちゃん』は芙美子叔母さんと結婚するのだと思っていた。
僕がママに教えなければママは出ていかなかった。なにもかも捨てて、余命宣告されていた男を選びはしなかった。
社報に載せる写真の撮影、亜紀は会社見学を兼ねて僕を連れていった。パパが大きくした会社は祖父の代とは比べものにならない。スタッフが何人もついてきた。僕は心の中に嵐が吹こうが礼儀正しくできる。
「きれいな女ばかりだね。心配じゃない?」
亜紀は無視する。まだ僕を許していない。上階の研究室。
「ここでシミ取りクリームを作ってくれるのね」
言わなきゃよかった。根に持っている。怖い。シミ取りクリームよりも、傷をカバーするものがほしい。
亜紀は僕をスタッフにあずけ先に帰った。写真の撮影。多勢の女が僕の顔をさわった。マッサージにパック。
「女の子みたい」
ママそっくりの目を褒め、同じ位置の泣きぼくろを勝手に占い、肌質を褒め化粧までした。僕は鏡の中の変化を楽しんだ。鏡の中にママがいた。
大嫌いな顔 3
クリスマスのピアノの発表会。今まで1度も来たことのないパパが、彩のために休みを取って来る。
パパの罪科。
僕がピアノを弾く理由をわかっていない。
背も肩幅も……今しかない。
僕は先生と打ち合わせをし、お願いした。クリスマスの余興だと。
僕の出番は最後だ。ほとんど女子だ。僕がいるから入った生徒もいる。ここぞとばかりにおしゃれして着飾っている。夏生は興味ないのか? 彩は初めての舞台に立ち愛想を振りまき拍手と花束をパパから貰った。こんなくだらない場に来るなんて……
パパの罪科がふえていく。
彩と先生の連弾。先生の格好をした僕は彩の手をつなぎ舞台に出た。最初は誰も異様に思わなかった。
僕は先生の黒いドレスを着て、カツラを被った。ママの髪の長さ。自分で化粧をした。
母の面影を求めて自分に化粧する……そんなドラマを見た。その母は死んだあと糠を口に詰め込まれた。いや、詰め込まれて死んだのか? 早夕里に聞いてみよう。
彩とお辞儀をした。ステージマナーは完璧だ。
パパは固唾を飲んだ……はずだ。亡霊が彩の手を取り現れたのだ。ゆっくり見ていたかったが、客席がざわついた。
短い曲だからすぐ終わった。またふたりでお辞儀をする。ざわつきがピークになる。パパも夏生も唖然としていた。亜紀は
「やってくれたわね」
とつぶやいた。たぶん。
彩を退場させ僕は戻った。この空気を一瞬で変えてみせる。僕は微笑んだ。ママを思い出して。決して慌てることのない女だった。僕は最高のお辞儀をし深呼吸してから弾いた。パパの好きなテンペストの第3楽章。
パパ、あなたのせいで僕は捻じ曲がった。
特別サービスだ。
嵐だ。
嵐の夜、亜紀はパパと大喧嘩して出ていった。なにがあったか今なら想像できる。僕だって何度も願った。ママが帰ってくることを。嵐の夜、物音でパパは血迷い、かつての妻の名を呼んだか、探したか? けっして戻ってくるはずのない女を。
すぐにパパは、怒って出て行った亜紀を抱きかかえ連れ戻した。ふたりともびしょ濡れでそのままバスルームにこもった。どれほど謝ったのだろう……
また再び、亜紀の隣でかつての妻の名を呼ぶがいい。
快感だ。今まで弾いたなかで1番の出来だ。ひとつのミスタッチもなかった。手応えがあった。聴衆の心をわしづかみにした。これなら2年後のコンクールでも入賞できるだろう。最年少の16歳で。
聴衆は拍手も忘れた。僕が立ち上がりお辞儀をして引っ込むときに、ようやく割れるような歓声が聞こえた。
すぐに後悔した。ドレスを脱ぎ化粧を落とした。バカなことをした。先生はどう言い繕っているだろうか?
おわりだ。三沢家のひとり息子は女装癖のある変態。三沢家の恥さらし。ママのせいだ。死んでも僕にとりついている。
もう取り返しがつかない。いや、かまわない。夏生の苦しみに比べたら……むしろ歓迎だ。さげすむがいい、ツバを吐いて石を投げつけろ。僕は罰を受けていない。夏生に助けられ大人たちに守られ、なんの罰も受けていない。僕は座ってガタガタ震えていた。亜紀が入ってきた。
「アンコールよ。お嬢さん」
拍手が鳴り止まない。アンコールを求める声が止まらない。
「余興でしょ? 先生も悪ノリしたわね」
亜紀は男の服を着せ、唇にさわった。
「会社のパーティでもやってみる? 化粧、私より上手だわ。コマーシャルに出てみる? 」
亜紀は僕を抱きしめ落ち着かせた。
「アンコールよ。後始末してきなさい」
アンコールなんて思ってもみなかった。なにを弾こう?
男に戻った僕は盛大な拍手に迎えられた。パパも拍手していた。僕は弾き始めた。
祖父母が存命のとき、よくレコードがかかっていた。
ミラボー橋
なぜこんな長い曲を……詩を……
祖父母がよく聴いていた。幸せだった時代。
パパもママも僕も幸せだった。僕は詩を暗唱した。レコードと同じように。
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
私は思い出す 悩みのあとには
楽しみが 来るという
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る
女装した男の声とは思われない低い声。詩を続けると変声期の声がかすれた。喉が痛い。
手に手を取り 顔と顔を向け合おう
こうしているとわれらの腕の橋の下を
疲れた無窮の時が流れる
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る
そのとき客席から僕と同じ声が聞こえた。同じ抑揚、同じ間合い。先生が気を利かせてパパにマイクを渡した。
流れる水のように恋もまた死んでゆく
恋もまた死んでゆく
生命ばかりが長く 希望ばかりが大きい
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る
日が去り 月が行き
過ぎた昔の恋は 再び帰らない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
日が暮れて 鐘が鳴り
月日は流れ 私は残る
(ギョーム アポリネール)
長い詩をパパと僕は少しも乱れず暗唱した。
続けてパパは歌った。フランス語で。僕には歌えない。会場の皆がパパの歌に聞き惚れ、僕は脇役にされた。
堂々として誇らしい父親。
幸せな家族。幸せな時代。それは確かに存在していた……
僕は亜紀に土下座した。
「すぐ謝るのはパパそっくり」
「パパは? 動揺してなかった?」
失敗か?
「あなたのママがこの家に初めて来たときのことを言ってたわ。まだ19 歳の中卒の田舎の父親のいない貧困の娘。おとうさんや妹たちの哀れみ、あざけり。あなたのママはパパの顔さえ見ずに立ち上がるとお辞儀をして出て行った。パパはその日にすべてを捨てた。家も家族も会社も。おじいさんが倒れあなたのママはパパに土下座されてお願いされて戻ったのよ」
僕は知らない。僕にはこの家以外の記憶はない。裕福だった。大人たちが僕にチヤホヤした。祖母にかわいがられていた僕に。
「財産目当てがうまくいかなかったんだ。介護したのに財産もらえないで当てが外れた」
「誰が言ったの? そんなこと」
「みんな言ってたよ。大きな邸に社長夫人の座、息子まで捨てて、よほど……」
よほどセックスが素晴らしかったんでしょうね!
「私はなんて言われてるのかしらね? 大きな邸に社長夫人の座、息子まで奪って……」
「僕はあなたの息子だよ」
「息子が母親に似るのはあたりまえ」
「こんな顔、いやだ。パパに似たかった。おばあちゃんはパパそっくりだって言ってた。そう思ってたのに……名前も変えたい」
「贅沢言うとバチが当たるわ」
「もう当たってるよ」
「あなたはパパにも似てるのよ。親子だもの。声と話し方はそっくり。パパかと錯覚するほどよ。それにね、その下品な舌打ち、それもパパと同じ。その癖は直しなさい。行動する前に考えなさい。内面を磨きなさい」
「……」
「ミラボー橋。詩は素敵だわね」
意味深な言い方だった。
「なにが素敵じゃないの?」
「素敵よ。小説も」
亜紀はおかしそうに笑ってから僕の名を呼んだ。説教するときにしか呼ばない名前。
「喜びのあとには……わかる?」
「……なに?」
「妊娠させるのよ。妊娠。妊娠」
僕は鼻で笑った。
「女は大嫌いだ」
「男でも、感染症は蔓延してるのよ……」
亜紀こそ、もう弟なんて……弟なんていらないからな。
「おかあさんこそ、弟がほしいな」
男の子を産んでパパの後継にすればいい。
書斎で本を探した。アポリネールの小説はなかった。
三島由紀夫の『午後の曳航』を読んだとき亜紀に聞かれた。
「感想は? いやらしいなんて言わないで」
僕は困って関係ないことを聞いた。
「ブティックに勤めてる瑤子さんは元気?」
亜紀は顔色を変えいきなり僕の頬を叩いた。訳がわからず怒りがこみ上げてきた。
「ごめん。ごめんなさい」
亜紀はすぐに謝ったが僕は手をあげていた。それをグッと我慢した。2度と女に暴力は振るわないと誓っていた。
「いいよ。許す」
亜紀になら、なにをされても許すよ。
僕はなんと答えればよかったのか? 主人公とは大違いだ。凡才で感情を抑えられず、いまだに血が怖くて震える。言ってみたい。
『僕らは感情のないことの訓練をしているのだから、怒ったりしちゃ変だ』
『血を見るとなんて気分がせいせいするんだろう』
高校に入る前の春休み、『あいつ』が父親と庭の工事をしていた。僕は窓から見ていた。祖父の自慢の庭だった。ママが一生懸命手入れしていたバラ。主人が亡くなりバラの寿命も尽きていく。
「寂しい?」
「……寂しくなんかないよ」
「羨ましい? 父親に仕事を教わり母親の作った弁当を食べる」
羨ましいのはそれだけじゃない。
「恵まれたお坊ちゃんだと思っているんだろうな」
「この家で亡霊と暮らしているとは思わないでしょ」
「パパだろ、それは」
亜紀の代わりに飲み物を差し入れた。父親は僕を見て驚いていた。ママを知っているのだろう。ママを知っているものは僕を見て同じ表情をする。父親は恐縮し僕を坊ちゃん、と呼んだ。『あいつ』は上半身裸で土の袋をかついでいた。僕より20センチは高い。年は? 土の袋を僕もかついだ。腕も指も鍛えてある。『あいつ』は驚いたようだ。花壇に土を入れる。父親は止めた。『あいつ』は僕がすぐにへたばると思っただろう。
春の日差しの下で『あいつ』と何度も往復して土を運んだ。流れる汗が心地よかった。
「何歳ですか?」
僕は聞いた。『あいつ』の父親が答えた。
「15ですよ。今度H高に入学……」
この家には亡霊がいる 1