シャレコウベダケの繁殖 上巻
人物紹介
由樹(29)・・・・・・主婦、自身の外見に自信はあるが、夫隆広の存在には不満がある。
成子(48)・・・・・・夫に命じられて東京へ行く謎の女性。
アンジェラ(25)・・・・・・フィリピンパブで働く。監視されながら働く環境に不満があるも、大輔という恋人がいる。
明美(23)・・・・・・主婦、夫から暴力を受け続けて外見がボロボロ。人生を変えたいと願う。
清江(57)・・・・・・主婦、息子から暴力を受け、夫からは無視される。人生を変えたいと願う。
死神(?)
隆広(40)・・・・・・喫茶店で正社員として働く、由樹の夫。昔は音楽で売れることを目指していたが、家族ができて挫折した。
彩花(5)・・・・・・由樹と隆広の娘。明るい子
第一章 死神の発生、人生における責任
家族というものに幻想を抱いている者が多過ぎる。全く愚か者ばかりだ。そういう者は大抵、家族を持つことを幸せな人生への登竜門のように考えている。だが結婚というものは人間が種族を後世に残して行くため、子孫を作り育てていくための効率の良いシステム以外の何ものでもない。そんな事実に気付いていないのか、わざと目を逸らしているのか、結婚相手に異常な拘りを持つ者が多く存在する。
拘泥は時に、本人の前に広がる現実を百八十度変えてしまう。目の前にいるサヤカとユウコという女たちもそうだ。この女たちは結婚したと思い込んでいる一人の男を取り合って、お互いに暴力を振るっている。
彼女たちの見た目は悲惨だ。元々、クラスのマドンナと言われていた二人の現在は、髪の毛はストレスで所々抜け落ち、顔は灰色に変色して岩石のようにボコボコである。昔の面影は微塵もない。唇は切れて血が止まらない。歯は、お互いに抜き合って僅かにしか残っておらず、どちらもまともに喋れない。体も原型を留めていないほど傷だらけだ。特に陰部は、お互いにスタンガンを当て合ったり刃物で潰し合ったりしたため、グチャグチャにかき混ぜたグラタンみたいになっている。体中の皮膚も痣や切り傷が消えなくなり、鮫肌のようになっていた。
成子は目の前で起きている惨劇を楽しむ程の余裕があった。彼女たちが取り合っている男は、紛れもなく自分の夫だからだ。体内に優越感が満たされて幸せな気分だ。同時に体の中には腐敗臭のするガスも充満して、膨満感と嘔吐感で一杯になっている気もする。気持ち悪さで頭が虚ろになり、逆に気分良くなっているのだ。
サヤカが自らの犬歯をユウコの頬に突き立て、そのまま彼女の肉を噛み千切った。ユウコの口から、ビィビィ、という不協和音のような叫び声が漏れ出た。頬のギザギザの傷からフローリングの床に赤黒い血液がこぼれ落ちた。
成子の夫は彼女たちの様子を見て、串に刺さった焼き鳥のレバーを食べながら缶ビールを飲んでいた。こういう時でも冷静な彼が好きだ。
夫の言うことに従っていれば間違いがない。彼はとても頭が良いからだ。昔彼が言っていたことを思い出す。
「成子さん。自分は今、幸せだと思いますか。ええ、そうでしょうね、幸せでしょうね。では、どうして自分が幸せなのだと思いますか。それはですね、あなたの周囲に自分よりも不幸な人間がたくさんいるからなんですよ。サヤカさんやユウコさんがいるからなのです。日本人という存在は周囲との調和を重んじるため、四六時中周囲にアンテナを張って生きている生物なのです。他人の観察をすることはとても労力のかかる行為です。そんなことをずっとやっていたら疲弊してしまいます。だが、周囲に自分よりも不幸な人間しかいなかった場合はどうでしょうか? 成子さんからして見れば調和が取れているように見えるでしょう。だからストレスが比較的かからないのです。サヤカさんとユウコさんがいがみ合っている間は、成子さんが気に病むことはないですからね」
梅雨の日の石神井公園を散歩している時に彼から言われた言葉だ。この時、自分が幸せ者なのだということを自覚した。自分はサヤカやユウコほど醜くない。そんな事実が彼女に多幸感を授けた。
なるこお、と夫から名前を呼ばれた。成子は、ハイ、とすぐに返事をした。さっきまでレバーを食べていたはずなのに椅子に座っていなかった。どこか別の部屋に行ったようだ。再び夫が彼女の名前を呼んだ。声がした方に向かって走ると、彼は浴室の中にいた。浴室のオレンジ色の照明が彼の色白で毛穴一つ目立たない綺麗な頬と、黒黴まみれのタイル張りの床を照らしていた。彼は成子が来たことが分かると、
「佳苗に逃げられた」
と吐き捨てるように言った。彼が怒っていることがすぐに分かった。一気に緊張が走った。
佳苗は成子と夫の間に生まれた娘だ。七歳で本来なら、小学一年生として学校に通っている年頃だ。だが、佳苗は二十四時間、浴室の中に閉じ込められていた。隙を見て逃げ出したようだ。隠していた錆びた鉄板のネジが外れており、窓が露わになって開いていた。どうやってネジを外したのか。
「ごめんなさい。私が監視しておかなかったばかりに。私のせいでございます」
黴臭いタイルの床に額を付け、土下座して謝った。しばらくすると、脳天に鈍い痛みが走った。痛い、と言って思わず顔を上げた。夫がシャワーを握っていた。シャワーヘッドで殴られたようだ。埴輪のような目をしている。彼が成子に対して失望していることが分かる。申し訳ない気持ちになる。あんなに優しい彼を傷付けてしまった自分が情けない。
彼は正座をしている成子を見下ろして指笛を吹いた。体中に力が籠る。今からしばらくの間、痛い目に遭うからだ。痛みに対して声を出さずに耐え忍ばなければいけない。
口笛を吹いた直後、廊下から急いでやって来る者の足音が聞こえた。浴室にサヤカとユウコが入って来た。夫が成子の顔を指差して声高らかに、
「この女は罪深き者です。僕が言い付けたことが何一つできない不具者です。こういう人間の脳は電気を流してあげる必要があるでしょう。では、ユウコさん、お願いします」
殺されると思い、震えが止まらない。以前、この部屋でお湯を張った浴槽に沈められコンセントに挿したドライヤーを放り込まれて感電死した女を思い出した。その後、彼女の肉を肉団子と液体にするため、山奥で煮込んだりミンチにしたりしたことを思い出した。妻である自分がそんな目に遭うとは考えられないが、どうなるか分からない。今まで何人もの死を見届けて来たからだ。
正座をしていると、うなじに熱さを伴った鋭い痛みを感じた。スタンガンの電極を当てられ通電されたのだろう。遠くの方でバリバリという音が聞こえた。電気を流されていると、脳が一瞬働かなくなって少し遅れて音を感知する。
成子が痛みに耐えるために背中を丸めて悶えていると、髪の毛を引っ張られて無理矢理顔を上げさせられた。ユウコが髪の毛を握っている手とは反対の手に、夫が作ったディルドが握られていた。棒状の器具を見た瞬間、嫌な記憶が蘇る。
「それだけは、やめて」
と必死で訴えるも、恍惚に満ちた表情をしたユウコの耳に届くことはないようだ。彼女は成子の口の中にディルドを突っ込んだ。口蓋垂をディルドの先端で弄られて、おえっ、と言ってしまう。
ニ―ヒッ、ニ―ヒッ、と笑う彼女はディルドに付いているボタンを押した。これは夫が細工したディルドだ。陰茎の根本にボタンが付いており、ボタンを押すと先端からアンモニア水が発射するようにできている。濃度は三十パーセントだ。喉に苦くて生っぽい激痛が走る。成子は思わず嘔吐物が顎を濡らした。喉が焼けるようだった。
「ユウコ、ありがとう。もういいぞ。今夜は君と一緒に寝てあげるからな」
夫の声が頭上から聞こえた。見上げると、ユウコは先程サヤカに噛み千切られた頬の傷口を夫に舐めてもらっていた。
「成子。佳苗のことはサヤカに任せることにする。でも、お前には別件で頼みたいことがある」
顔を使い終えたチリ紙みたいにくしゃくしゃにしながら、はい何でしょう、と返事をした。
「お前、東京に行きたいって昔言ってたよな」
夫と同棲し始めた時、一緒に東京で暮らそうと頼んだことがあった。結局、その望みは叶えられなかった。だが今ではどうでも良いことだった。
「ええ。でも、それは昔の話」
「今はどうだ?」
「行きたくはないですね。貴方様と一緒にいたいからです」
夫は明らかに苛立った表情をした。嘘を吐いて、行きたいです、と言うべきだったようだ。だが、彼と別れて暮らしたくない、というのが正直な気持ちだ。
彼と離れ離れになってしまったら今までの頑張りは何だったのか分からなくなる。成子は夫と一緒に暮らすために自分を犠牲にして来た。王子様のような外見をした彼と暮らすことが夢だったのだから。夢のためにはどんな犠牲も厭わなかった。成子は夫との生活のために、様々なものを捨て去って来た。
彼女の恋慕の気持ちなど考慮せず、夫は成子の太くてスライムみたいな首を右手で鷲掴みにした。彼女は驚いて口を大きく開けた。その時、ユウコが再び口の中に太めのディルドを突っ込んだ。彼女の喉の奥まで突く。
「おえ、げっ」
アンモニア水を飲んで、思わず口から涎と一緒に橙色の嘔吐物が飛び散った。
「東京に行くことが夢だったんだろ」
「はい」
夫の言うことを否定してはいけない。彼との生活の中で自我を捨て去った。
「行くか? 全ての費用は出す。そんで必要な役者も揃える」
「はい」
どうして東京に行くように言われたのか理由は分からなかった。何か意味があることは分かっているのだが、全く予想ができない。彼の思考回路が読めない。そんな自分の状況が悲しい。夫のことは妻である自分が一番分かっていないといけないのに。
「東京でも連絡だけは取ろう」
夫は笑顔で嬉しいことを言ってくれた。
「え、良いのですか」
口角から唾液を垂らしながら喋る。
「ああ、良い考えがあるんだ」
東京に行っても何でも言うことを聞こうと決めた。
「大量の馬鹿を捕らえて来てもらおうと思っているんだ。馬鹿なんて世の中に蟻みたいにいるからな。一緒に蟻地獄でも作って馬鹿ばかりのユートピアを作ろうじゃないか。もちろん、自分たちだけの理想郷だ。別に金が目当てとか世の中に恨みがあるとか、目的があるんじゃない。ただ僕が生きる世の中にいる人たちの人生を腐らせたいだけなんだ」
夫は浴室の中で両手を広げて、全身で照明のオレンジ色の光を浴びながら宣言した。大望を抱く彼は魅力的に見えて仕方がない。彼に好かれるためには、失敗は許されない。恋心を昔のように抱いてもらうため、東京で彼にとっての理想郷を作ってみせようと決心をした。
※ 由樹
〈信じられません。ウチにいるクソが娘の体にいやらしいことをしていたみたいなんです。 こんなクソと結婚しなければ良かった。後悔してもし切れません。ああ、早く死ね死ね死ね死ね。何であんなヤツが生きているのでしょうか。私にも嫌われ、娘にも嫌われ、誰に望まれて心臓を動かしているのでしょうか。義父母でしょうか。ならば義父母も死んでくれ。あの不味くてドロドロした料理もどきを容器に入れて家に上がり込んで来る糞ババアなんて死んでも問題なし。ダンナ一家、全員即死でお願いします、死神様〉
由樹は旦那デスノートに書いた投稿の内容を見返した。多くの人たちが共感してくれるだろう。自宅のソファに寝転がりながらスマホで旦那デスノートのサイトを見ていた。このサイトでは、夫婦生活に不満を持つ女性が旦那の悪口を書いてストレスを発散させる場だ。
だが、由樹の投稿の内容は殆どが嘘だ。夫の隆広が五歳の娘の彩花に悪戯などしたことはない。ただ彼に腹が立ったため、腹癒せのために書いただけだ。センセーショナルな内容の嘘を敢えて書いた。その方が、多くの人が共感してくれるはずだからだ。実際は教育の意見の違いで夫に苛ついていただけだ。
教育に対する考え方が違うことは十分理解しているつもりだった。だが、実際に自分が良くないと思っていることを、隆広が娘にしているところを見ると腹が立って我慢できなくなる。
つい昨日のことだ。由樹が高校の同級生と食事会から帰宅した時、隆広のスマホを使って彩花がユーチューブを観ていた。娘はしまじろうが好きで隆広にスマホを貸してくれと言っては、しょっちゅう同じような動画を観ていた。由樹は娘がスマホばかりに熱中することを憂慮して夫に貸さないように常に言って来た。
だが隆広は彩花がスマホを使っていることに何も心配する様子もなく、動画に熱中する娘を見ているだけだった。
「てめえ、またスマホ触らせているのかよ」
由樹は隆広の横顔に向かって怒鳴った。
「仕方ないだろ。貸してくれって騒ぐんだもの。あまり大声で騒がれるとまた上の階のオッサンが言って来るじゃん」
口答えする夫の頬を殴った。頬骨が当たって中指の第二関節が痛かった。
「何だよ、また暴力かよ」
隆広は苛立ちを必死に抑えているようだ。なるべく落ち着いた声を出そうと意識して、弱々しい態度になっていた。気弱な様子の彼に益々腹が立つ。軟弱なオッサンはデカいミミズよりも気色悪い。
「またって言うな。お前がちゃんとしないから、何度も殴られるんだろ。一人前に文句言うなよ」
もう一度彼の頬を殴った。全く同じところを殴って痛みを蓄積させた。
「ごめんって。もうやめてくれって」
憐れな男だ。妻に一切強気に出られない夫なんて男らしさが微塵もない。もっと真正面から主張してほしい。彼は妻の主張を全て受け入れることが最善だと勘違いしているようだ。
投稿を見ていたら、その時のイライラを思い出したので忘れるためにスマホを手放した。テーブルの上にある置き時計を見た。時刻は夕方の五時十二分だった。彩花を迎えに行く時間になっていた。寛いでいて時間が経過していると気付かなかった。
部屋着からブルージーンズと白Tシャツに着替えてから日焼け止めだけ塗って、自宅のアパートから保育園に徒歩で向かった。帰りに商店街で夕食の材料を買うために、財布の中に一万円を入れて出た。
アパートを出ると目の前に坂道があり、下って行くと商店街に出る。商店街を右に曲がれば保育園に向かう道に繋がる。左に曲がれば最寄り駅に七分ほどで着ける。
商店街の中を進んでいると、ココカラファインというドラッグストアが見える。その店の角を曲がる。住宅が並ぶ細い道を歩いていると左手に保育園の園庭が見える。
園庭の中を歩いて校舎に入ると、友達と楽しそうに話している彩花の姿を見付けた。先生が彩花を連れて来てくれた。彩花は先生や友達に向かって、じゃあね、と言い大きく手を振っていた。何て穏やかな日常なのだろう、と由樹も気持ち良くなる。娘を見ていると自分までも若返った気になる。今年で二十九歳になるが、何だか大学生の頃に戻ったような清々しさを感じる。
「今日はどんなことしたの」
保育園から出て家路に着いて尋ねた。いつも今日一日の出来事を聞くように習慣付けていた。
「今日はね、秋のお遊戯会で踊る曲を踊ったの」
発表曲の一節を歌いながら娘は由樹と手を繋いで歩いている。こんな日々が続けば良い、と心から思う。隆広には不満はあるものの、他人と比較してみて自分は幸福な方だと実感できる。
「今日は夜、何食べたい?」
「ハンバーグがいい」
彩花は溌剌とした声で答えてくれる。隆広と出会った当初は、結婚なんて毛頭考えていなかったので、こんなに幸せな生活が手に入るなんて考えてもいなかった。なぜなら彼とは十一歳も年齢が離れており、彼はミュージシャンになるという夢を追っている未成熟な年上男だったからだ。
由樹が大学生の時にバイトをしていた喫茶店で二人は知り合った。
当時の隆広は三十歳でバンドを組んでおり、ドラムを叩いて食べていく生活を夢見ていた。そんな隆広のことを、二十歳にもなっていない由樹は見下していた。確かに自分より喫茶店での仕事はできるが、年齢の割に大人としての経験値が少なすぎると見ていた。
「アイスラテ二つ、十四番卓にお願いします。ナポリタンを五番卓にお願いします。ツナサンドとアイスコーヒーを二十六番卓へお願いします」
隆広はキッチンに立って料理を作り、由樹たちホール担当に配膳の指示を出していた。テキパキとした無駄のない動き。だが、それができても音楽で売れることはない。彼は自分の理想を叶えることから目を逸らし、目の前のバイトに精を出しているようにしか見えなかった。料理や飲み物を受け取るたびに腹の中で毒づいた。お前ごときの男が何かを達成させることなんて無理だからな、と。
「由樹ちゃん、ちょっと良いかな」
ある日、由樹がバイトから帰ろうと喫茶店を出ると道端で後ろから隆広に声をかけられた。
「はい、どうかしましたか」
見下した態度を取らないように気を付けた。まだ自分も学生の身なので、失礼な態度を取ってはいけないとわきまえてはいた。彼のことを心の中では見下していたが喧嘩をする相手でもないと思っていたので、波風が立たないようにした。
「由樹ちゃんと今度、ご飯行きたいなって思ってさ。どうかな? 今度一緒にご飯行ってくれないかな」
嫌だった。自分は学生なのに三十歳になるフリーターと一緒に食事などしたら、自分の株が下がると思った。眉間に皺を作りながらも必死に愛想笑いだけ浮かべて黙っていると、
「奢るからさ」
と言って一歩近付いて来た。そういう問題ではない。由樹は後退りしてから、
「ごめんなさい」
と一言早口で言って駅まで猛ダッシュで逃げた。彼は追って来なかった。
その後、家に帰ってから由樹は胃の中に泥団子を入れたようなモソモソとした気持ち悪さを感じた。今まで隆広に対して負の感情を見せ示さなかった。だが今日、嘲弄する気持ちの端緒を見せたような気がした。彼に話しかけられた際の表情に自信がなかった。
今回の逃亡を機に隆広への負の感情を与える行動をし始めたらどうしよう、とも悩み始めた。
自分の行動を律することには自信があったが、隆広に対してだけは自信がなかった。幾ら抑え込もうとしても見下していることがバレる気がした。
だが、二度と食事に誘われなくなるならバレても良いと思ってしまう自分もいる。言葉の端から滲み出た嫌味を隠さずに突き付けてやろうではないか、と血迷うこともあった。
それはだめだ、と自分に言い聞かせた。隆広は喫茶店で働いて長い。バイト先で居辛くなるのは嫌だ。由樹は自室のベッドに横たわりながら、
「どうしよ」
と、天井を見ながら呟いて、今後の隆広に対する姿勢を決めかねていた。
気付けばずっと隆広のことを考えていた。忘れようとして布団を顔に被せた。だが食事に誘って来た彼の不安げな顔の忘却はできなかった。
次にバイト先に行った時、隆広も出勤していた。キッチンで食材の仕込みをしており、包丁を忙しなく動かしていた。おはようございます、とだけ声をかけてバックルームへ向かった。
由樹が鞄から制服を取り出してトイレで着替えようとすると、由樹ちゃん、と声をかけられた。
バックルームの扉を開けて、隆広は部屋の外から由樹に声をかけてきた。何だか憐れだったが可愛くも見えた。部屋で二人きりにならないように三十歳の男が気を使っていることが妙に気にかかった。
「どうしたんですか」
「この前はごめんなさい」
小さな声で謝罪をしてきた。キッチンにいる社員の人に聞かれたくなかったのだろうか。
「大丈夫ですよ」
本当にもう大丈夫だった。隆広が今日までずっと気にしていたのかと考えると、自分の悩みがちっぽけに感じられた。
「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいです」
離れて立っている二人は笑い合った。二週間後、隆広と由樹は食事に行った。秋の後半の寒い日で、しゃぶしゃぶを食べに行った。隆広の奢りだったが、牛肉だけでなく廉価の豚肉も注文させられた。だがそれも後々、なぜか良い思い出になった。何となく良かったと思うだけで何が印象に残っているとかはない。
二十三歳になった年、由樹は隆広と結婚することに決めた。付き合ってから三年間、隆広はイタリア人や韓国人並みに熱烈に好意を伝えてくれた。彼の甘い言葉に酔って、元々彼のことが好きだったのでは、と錯覚するようになった。隆広は由樹と結婚することになると、音楽をやめて喫茶店で正社員として働くようになった。昼は喫茶店で働いて帰宅後はプログラミングの勉強をし始めた。将来はプログラマーとして家族を支えて行くと約束してくれた。
由樹も大学を卒業しており、広告代理店に入社していた。だが一年後、妊娠したことを会社に知られると退職勧奨をされて無理に辞めさせられた。まだ新人だった由樹に対して、直属の女性の上司が無闇に厳しく接してきた。精神的に追い込んだため適応障害になってしまった。由樹はこんな会社辞めてやると強気に出た。
仕事を辞めてパートで週二、三で働くようになってから、隆広は一家を支えるために精一杯働いてくれて昇給するスピードもかなり早かった。だが、彼に対して不満がないと言えば嘘になる。彼が仕事に全神経を使ってくれていれば良いのだが、まだ心のどこかで音楽に対して未練がありそうだった。
彩花が生まれて二年経った日、彩花と隆広と一緒に自宅で食事を取っていた時に彼の中に沈殿していた後悔が発露した。食卓に向かい合って座り、隆広は由樹の背後にあるテレビを観ていた。
「あれっ」
と言って、隆広が何か気付いたらしい。どうやら嬉しいことではなさそうだ。彼の顔が蒼瓢箪のようになっていたからだ。
「これ、俺が所属していたバンド」
テレビには五人組の男がステージに立っていた。隆広が所属していたバンドがようやく売れてテレビに出られるようになったようだ。もちろん彼はバンドを脱退している。なので今ステージに立っているグループとは、何も関係のないはずだ。テレビに出ているメンバーは継続して売れるまで努力ができ、それが彼にはできなかった。彼らと隆広との間には鯛とメダカほどの差がある。隆広が生半可な気持ちで音楽に向き合っていたダサい男にしか見えなくなった。
食事中にもかかわらず、彼は椅子から立ち上がってテレビの真ん前に向かって行った。
「おい、何で売れているんだよ」
と嘆きながらテレビの画面を凝視する隆広の背中を見て由樹は呆れた。結婚して定職にも就いて音楽の夢はきっぱり諦めが付いているのだと思っていたが、実はそうではなかったことに気付いた。夫が音楽で売れたいという浅ましい野望を密かに持ち続けていたことが、この時分かった。努力はできないくせに、欲望だけはいつまでも抱え込んでいるようだ。
彼が所属していたバンドはテレビで二曲披露していた。一曲目はバンドが売れるきっかけになった曲。もう一曲は、バンドが結成した際に初めて作った曲だった。
「おい、この曲、俺が作曲したやつ」
作曲者の名前のところにはバンドの名前が書かれていた。
「俺が作ったのに」
彼はテレビの前で静かに涙を溢し始めた。
「うるさいなあ。早く食器片づけたいんだから、とっとと食べてよ」
夫に対する苛立ちを処理するために怒鳴った。にも拘わらず、隆広はテレビの前で立ち尽くして俯いたまま動かなかった。萎びた隆広の背中に対して益々ムカついてくる。
「おい、いつまでめそめそやってんだクソが。早く動け、馬鹿」
隆広は、その場で座り込んで動かなくなっていた。由樹は椅子から立ち上がって、彼の背中を思いっきり蹴飛ばした。前のめりになって倒れてテレビ台の角に頭をぶつけた。ざまあみろと吐き出した。
今でも隆広の顔を見るたびに、テレビの前でうずくまる情けない姿を想起する。彩花にすぐにスマホを渡す隆広は子育ても音楽と同じように生半可な気持ちでやっているように見える。
由樹は旦那デスノートに書き込みをすることで、溜まったストレスを吐き出していた。今の生活が幸せだと感じるのは、ストレスの捌け口があるからかもしれなかった。
※
「行ってきます」
と、言って朝の六時半に夫は家を出て行った。隆広は食材の仕込みの仕事のために朝早くから家を出る。由樹は彩花を保育園まで送って行く。保育園から戻って来て自宅に誰もいなくなると朝食を食べる。
狭い台所に立った。ワゴンの上に置いてある八枚切りの食パンを一枚取ってトースターに入れた。焼けるまでの間、カップを食器棚から取り出して牛乳を入れて電子レンジで一分半温めた。食パンとホットミルクがほぼ同時にできる。冷蔵庫からマーガリンとイチゴジャムを取り出してから、食パンとホットミルクを持ってテーブルの前に座った。食パンにマーガリンとジャムを塗って頬張る。美味い。幸せの一時だ。毎朝、隆広がいない部屋で朝食を取ることが習慣になっていた。パンの表面の焦げと中の羽毛のような柔らかさが癒してくれる。
食事が終わると、スマホで旦那デスノートを開いた。今日は書き込まずに、他の家庭では旦那にどんな苛立ちを抱いているのか確認した。他人の不幸を見て自分はまだマシだと思える点も旦那デスノートの利点だ。由樹は最近の「デス書き込み」と呼ばれている書き込みを読んで、ひたすら「死んでイイね」を付けていった。ここのサイトでは、「イイね」じゃなくて「死んでイイね」なことが面白い。
〈家に金だけ落としてくれればそれで良い。でも一生家には戻って来るんじゃねえ。世の中の糞ダンナ、よおく聞け。全国の妻はそう思っているんだ。自分が稼いでる? 自分が休みの日には子供の面倒見てる? 自分は妻の負担になることは言ってない? はあ? 寝言言ってんじゃねえぞ。おめえの存在自体がコッチのストレスなんだよ。早く死ね。それだけが家族の願いだ。そんで保険金を落とせ〉
〈本当に死にました。心筋梗塞か脳溢血か何かは忘れましたが、とにかくダンナが消えていなくなりました。ほんっとうに死神様、ありがとうございます。まあ、当然の結果だとは思いますがね。天はクズを見逃さないものですから。これでヤツの臭い下着も、臭い枕カバーも、臭い箸も何もかも捨て去ることができます。あんなもんは生まれ変わっても犬の糞が妥当でしょう。お母さんのお腹じゃなくて、犬の肛門から出て来るんでしょう。あ、犬飼っている方はごめんなさい。ワンちゃんが出した糞はしっかり処分して下さいね〉
〈ウチは偽装結婚なのですが、男の全てが生理的に受け付けられません。男の髪の生え方にもムカつくし、男の顔に着いたホクロにまでムカつきます。男が家に帰って来て玄関の扉の施錠を解く音を聞くと、心臓が飛び跳ねそうになります。もう嫌だ。死ねよ、早く死ね。どうして私ばかりがストレスを溜めて、男は勝手気儘に生きているのでしょうか。誰か教えて下さい。私が何か悪いことでもしましたか〉
多くの書き込みを見てからホーム画面に戻った。サイトを開いた時には気付かなかったが、ホーム画面に違和感を覚えた。何かがいつもと違う気がした。由樹は注意深くスクロールして見た。
最新のデスノート、というメインメニューの中に一つ新しい項目が追加されていたことに気付いた。生活習慣病を誘発するレシピを投稿する「わたしの汚料理レシピ」というページのリンクの下に、「可哀想な妻たちの交流所」という項目が増えていた。可哀想とは心外だ、とムッとしたが弾ける好奇心が抑えられなかった。
旦那デスノートに新たに追加されたサービスのようだった。ここではユーザー同士が投稿ではなくチャット形式で交流できる仕組みになっているようだ。既に三つほどコミュニティができ上がっていた。グループA、グループB、グループC、と何のひねりもないコミュニティ名が縦に順番に並んでいた。どれも今日の朝が設立日時となっていた。今日追加されたサービスのようだ。
由樹はまだ四人しか参加していないグループBに入ってみた。
パスワードを作ってから打ち込み、自分の表示名を「名無し」と設定して中に入った。チャット画面に遷移した。画面には誰も発言している様子がなく、吹きだしがなかった。参加した時点から会話を見ることができるのだろう。
一番上のメンバーと書かれているタブをタップすると四人の名前が表示された。「ナル」「リカ」「五十代女性」「A子」という名の人たちが会話しているようだ。
入ったからには、と思い由樹は発言してみることにした。根拠のない好奇心と暇を持て余す時間から何かしら会話をしたい欲求にかられた。
〈初めまして、名無しと申します〉
恐る恐る打ち込んで送信してみた。チャット形式で会話することには緊張した。いつもは書き込みをするだけだったため、平気で嘘を書くことができた。だがチャットのようなリアルな会話に近い形式でのコミュニケーションでは嘘を吐くことに罪悪感を抱きそうだった。自分の発言に誰か反応してくれるだろうか、と画面を見ながら待っていた。
〈ナルです。宜しくお願い致します〉
〈五十代女性です。初めましてよろしくお願いします〉
〈A子です。こちらこそ、よろしくお願いします〉
〈リカです。お願いをします〉
全員から返事が来た。どうやらみんな専業主婦なのか、平日の十時過ぎに会話できる人たちだった。
由樹は一番疑問に感じていることを尋ねてみた。
〈ここって、どういうことを喋る場なんでしょうか〉
〈さあ、みんなまだよく分かっていないのですよ。何せ今日の朝できたばかりの機能らしいので〉
五十代女性が答えてくれた。
〈そうなんですよね。でも、みんな自分の旦那に不満を持っているってことなんですよね〉
A子が発言する。
〈そうですよね。皆さんの旦那さんは今仕事ですか〉
由樹の質問に対して、そうですね、という答えの中に一つだけ異色のコメントがあった。
〈私の旦那さん、何してるか知らない〉
と、リカというユーザーネームの者が言っていた。この発言を会話のとっかかりにすることに決めた。
〈え、どういうことですか〉
由樹が尋ねると、全員がリカの発言に食い付いた。みんな尋常ではない不幸の臭いを嗅ぎ取ったのだろう。やはりみんな他人の不幸は黄金ほどの価値を見出しているのではないか。
〈私、フィリピンから日本に来たのです。その時に結婚して配偶者ビザで入国できたのです。その結婚の相手が今一緒に住んでいる旦那さんです。でも、旦那さんは何をしているか分からないです〉
由樹は何となくリカの事情が察せられた。恐らく、彼女はフィリピンパブ嬢なのだろう。家族が貧乏のせいで、時給の高い日本にわざわざ危険を冒しながら出稼ぎに来ているのだろう。
〈え、それって違法入国なんじゃないんですか〉
由樹が真っ先に反応した。
〈まあまあ、そんなことどうでも良いじゃないですか〉
ナルに諫められた。由樹は何だかナルの偽善的姿勢に不快感を覚えた。善人ぶった発言は旦那デスノートでは求めていないからだ。ここでは全員空気を読んで世の中では許されないような発言をするべきだ。由樹も旦那デスノートだからこそ、根掘り葉掘り聞こうとした。現実だったらそんなこと絶対にしない。
〈すみませんリカさん〉
一応謝っておいた。この後のコミュニケーションを円滑にするために、良識のある人物と示しておいた方が得だろう。
〈あの、皆さん、旦那さんがいない時って何をしていますか。私は家事やってテレビ観てたら、あっという間に一日が終わってしまっていて〉
A子が恐らく会話の流れを変えようと別の質問していた。
〈分かります。もうお昼かって言ってたら、すぐに旦那が帰って来る時間になってしまいます〉
五十代女性が答えた。
〈やっぱり一人でいる幸せな時間が過ぎるのが早いですよね〉
ナルが同意した。
〈私はいつも監視されてるです〉
〈リカさんは、今どういう状況にいるのでしょうか。全く想像ができません〉
リカの普通ではない発言にA子が我慢ならなくなったのか疑問を口にした。ただA子はリカが特殊な状況にいることは分かったようだが、フィリピンパブ嬢であるとは見抜けていないようだった。リカははぐらかしていたので、ナルが別の話題を提供した。
しばらくの間、五人で当たり障りのない会話をした。みんな最初だったためか心の底に溜まった不満を爆発させる者はいなかった。いつも利用している旦那デスノートの醍醐味が一切なかった。一体、管理人は何が目的でチャットルームなど作ったのだろうか。今までの機能で十分役割を果たしていたはずだ。それはみんな疑問だったらしい。
〈何だか、旦那デスノートっぽくないですよね〉
五十代女性がようやく指摘した。みんな思っていたが、なかなか文字にすることはできなかったようだ。誰かが口汚く旦那の悪口を言えば、全員言わなければいけない空気になるからだ。誰か一人だけを悪者にすべきではない。みんなが同じ立場にいなくては駄目だ。
〈そうですね。やっぱり何だかいつもと違いますね〉
だが由樹はこのまま生温い会話を続ける気は毛頭なかった。反面で悪口を言って良いものか悩んでもいた。普段から嘘の愚痴を垂れ流しているため、ここでも嘘を言うべきか本当のことを言うべきかも迷っていた。
由樹の発言を最後にみんな黙りこくった。数分の沈黙がチャット上に流れた。どうしようと思いながら画面を見つめ続けていたら、誰かがグループの中に入って来た。チャット画面に、死神というユーザーが入って来た通知が表示された。死神という名前を見て驚いた。一人でいるにも拘わらず、おお、という声が出た。
死神とは確かここのサイトの管理人の名前のはずだ。管理人がどうしてこのコミュニティに入って来たのか。それぞれのコミュニティを覗いているのだろうか。今朝作ったばかりの機能が役割を果たしているか確認しに来たのかもしれない。
〈どうも、旦那デスノート管理人の死神です。皆さんの会話をお聞きしていました。すみません、勝手に覗き込んでおりまして〉
死神の発言に驚いた。管理人はコミュニティに参加した時点より前の会話も閲覧できるようだ。開発者なのだから当たり前だ。死神は連続で発言を送信した。
〈皆さん、本当はもっとたくさんの口汚い悪口を言いたいのだと思います。もっと旦那の愚かな部分を共有して、心底からのデトックスをしたいに違いあるません。私、死神には全てお見通しですよ。いつも皆さま当サイトに投稿して下さっているのですから〉
〈ええ、確かにそうですが〉
A子が初めて死神に反応した。
〈そうでしょう。ですからもっと旦那のクズなところを言い合うのです。だってそのためにここのグループに入って会話を始めたはずですからね〉
死神の言っていることは正当な言い分だった。由樹は何を書こうか迷っていると、ナルが発言した。
〈そうですよ。こんな普通の会話をしていては駄目ですね。死神さんありがとうございます。私たちはお互いの胸襟を開いて、人間のゴミクズ、つまりは旦那との生活の灰汁を絞り出してみんなで共有し合って傷を癒していくことが大事なのですね。いつも通りに旦那を晒し首にするべきなのですね〉
ナルは死神の発言に影響を受けたようだ。
〈そういうことです。これまでは投稿によって共感を得ていました。だが、本当に心の底から鬱憤が晴れましたでしょうか? そう、投稿だけでは限界があるのです。リアルタイムで会話が流れるチャット機能ですと、ハイクオリティのコミュニケーションを取ることができます。質の良いコミュニケーションの手段に使われた言葉もその分重みを得るでしょう〉
死神の長広舌は続く。二吹き出し連続で発言が投稿された。
〈チャットならば、皆さんの想いはここにいる全員に百パーセントに近い形で伝えることができます。会話に重みがありますから皆さんの苛立ちの重量も伝わるのですね。そういう会話が発生することは私、死神が一番に望むこと。皆さんは憤りを少しでも減らして旦那の死を願い続ける。これが大事なのです〉
〈そうですよね。思えばどうして旦那の悪口なんかを話すだけなのに構えなきゃいけないんだろうって思いますね〉
ナルは死神の意見を完全に飲み込んだようだ。発言が軽やかだった。死神の言う発言の重さというのが分かったような気もした。
〈そうですよね、A子さん〉
A子はナルから急に話を振られていた。A子は動揺しているのか、なかなか発言しなかった。由樹は何だかのっぴきならないところに来たような気がした。理由は分からないが焦げ茶色の嫌な予感がした。
〈A子さんの旦那はどういう男なんですか〉
ナルは待つことをやめて最初の話し手として、なぜかA子を指名した。
〈え、私ですか〉
A子は自分から喋るには抵抗があったようだ。だが、由樹含めて他の全員、彼女が喋り出すことを待っているようだった。誰も発言しなくなった。ナルの発言を最後に死神も黙った。
〈ウチのヤツは、とにかく暴力馬鹿なんです。仕事から疲れて帰って来て暴力は当たり前。ご飯を食べてお腹を満たしたらプライドも満たすために暴力。休みの日もお金がないのにゴルフと風俗に行って、帰って来ると退屈になって暴力。おかげで私、もう体も顔もボロボロです。外に出られる状態ではないです。本当に死んでほしいです。まだ子供もいないので、ヤツが死んだら第二の人生を歩めます。もう男には頼らない人生を歩みたいです。本当に死んでほしい。心から願っています〉
A子が発言を送信した。由樹は彼女の境遇を考えると無闇に発言できなくなった。これが事実であれば、あまりにも悲惨だからだ。チャット内に静まり返ったような雰囲気を感じた。A子もいきなり書き過ぎたかもしれない、と後悔しているかもしれない。彼女のためになるべく早く返信しなければ、と思ったが何も言葉が思い浮かばない。由樹が戸惑っていると返事が返って来ていた。リカからだった。
〈本当に酷い男だね。女に勝てるところが腕力しかない。だから毎日暴力を振うんだろうですね。私と一緒にいる人も同じ。私が朝仕事から帰って来ると、機嫌が悪い時はずっと暴力です。私がお店と部屋以外の場所に行くとすぐに暴力です。私が男と遊んでると疑うみたいだから。でも商品に傷を付けちゃいけないから顔は殴らないのです。背中とお腹は怪我だらけです〉
リカはとても優しい人のようだ。誰もが反応しづらい状況で、しっかり同意までして寄り添っていた。案外、リカを一番信用しても良いかな、という気になった。リカに続いて自分も発言することにした。
〈暴力を振るって来る男って、本当に生きる価値ないですよね。ウチのヤツはちょっと違うのですが、気に入らないことがあるとすぐに怒鳴り散らす人間です。イライラするとすぐに物に当たります。チンパンジーが一匹家の中をうろついている気分です。チンパンジーの方が利口かもしれません。だってチンパンジーが一匹で買い物に行くところをテレビで観たことがあります。ウチのは家のこと一つもやりませんから〉
由樹はやはり嘘を吐いてしまった。隆広はA子の旦那以上にクズではないので、全くありもしない話をするしかなかった。だが、それでも娘に悪戯しているという嘘は吐けなかった。まだそこまでの覚悟がなかった。
〈皆さん、イイカンジですね。もっと旦那さんの悪口を共有して下さい。そうすれば自ずと皆さんがすべきことが見えて来ます〉
死神は何やら意味深なことを言った。すべきこととは何か。死神は何が言いたいのか見当も付かなかった。五十代女性が次に発言した。
〈ウチはもう結婚して二十年以上経つのですが、現在一言も口を利いていません。もともと無口な人なんですが、一言も喋らなくなったきっかけがあるんです。一人息子が中学生の時に、私に暴力を振るうようになったことです。夫は息子が怖くて何も言わなかったのです。それはもうショックでした。夫が息子を叱って殴ってでも教育するべきだったのです。だけど私が殴られて廊下で倒れているところを、チラッと見ただけで自分の書斎に引き籠って戸を閉めたのです。あの時の顔は一生忘れることはないです。本当に死ねば良い〉
由樹はチャットで会話することの利点を発見した。少人数相手に喋るため、自分たちの生活の様子を語ることができたことだ。普段の投稿では、あまり個人的なことは書かない。五十代女性の息子からの暴力のような話は書かれない。これが死神の言う上質なコミュニケーションの内容だろう。
〈なるほど、皆さん苦労されていらっしゃる。やはり、ここでの出会いは大事です。本当に大事な人間関係の構築をしています。現実を変えるきっかけとなるのは人の中に籠る不快感を燃料にした炎なのです。旦那さんの存在が皆さんに不快感を与えているのであれば、それは生活の向上と自身を成長させるためのきっかけなのかもしれません〉
死神が再び発言を始めた。だが死神が何を言いたいのか相変わらず分からない。死神に目的があることは何となく察した。だが何をしてほしいのか。
〈どういうことでしょうか。何を言いたいのですか〉
ナルが全員の心中を察したようで死神に尋ねた。由樹はみんな同じ状況なのだと分かって安心した。
〈簡単なことですよ。皆さんの旦那さんを皆さんが協力して排除すれば良いんですよ〉
〈と言いますと?〉
ナルは死神に発言を促す。
〈皆さんが協力して五人の旦那さんを殺害して処分するのはどうでしょうか? そうすれば一人ではできなかったこともできるようになります。それに全員が幸福になれます〉
※ 成子
成子は埼玉県秩父市のアパートに移った。これも夫からの指示だ。部屋に入ると居室は二室あり、廊下に小さなキッチンがある。キッチンも居室も段ボールとプチプチと呼ばれる気泡緩衝材で覆われていた。薄暗い部屋の中、一人で灰色のソファに座った。
夫と知り合った際に一緒に上京してカフェを開こうとお願いしたことがある。夫に反対されてこの話はなかったことになったが、今でも気持ちは残っていた。実際に夫はいないが関東には来ることができた。成子の体内に手毬ほどの大きさの期待感が生まれていた。ここで夫の望み通りの働きができれば、彼も認めてくれるのではないか、と淡い期待だ。
仄暗い部屋の中で時計がカチャカチャ音を立てながら秒針を刻む。
夫にはやるべきことが伝えられている。成子は旦那デスノートの新しいチャットの機能を使って、まずは馬鹿を集めることにする。現在、A子、リカ、五十代女性、名無しという女たちと会話をしている。まずはコイツらを夫のために犠牲にしようじゃないか。
「待っていてね。雄作さん」
成子の声は段ボールや気泡緩衝材に吸い込まれて響かなかった。いつかは貴方とカフェを経営したいです、と声は届かなくても願いは込めた。無味無臭の部屋の中に甘ったるい匂いがしたような気がした。コーヒーと一緒に大きなショートケーキを売りたいな、と。
※ 由樹
「ただいま」
と言って、隆広が仕事から帰宅して来た。彩花は、おかえり、と言って玄関の方に駆けて行った。由樹は二人の声を聞きながらカレーを煮込んでいた。周囲から見たら何の不満もない一般的な家庭に見えるだろう。だが、この一家も最悪なことが起きれば崩壊してしまうことになる。今日の昼間の旦那デスノートでのやり取りを思い出した。
〈じゃあ、皆さんの旦那さんを順番に殺してしまいますか〉
ナルという名のユーザーが発した言葉だ。その発言に対して死神が、
〈イイですね。それで皆さんの人生は一気に晴れると思いますよ〉
と、ダメ押しした。他の四人は何も言わないうちに同意したと見做されて会話は終了した。奇跡的に全員東京とその近辺の県に住んでいた。今度の金曜日に渋谷のハチ公改札前で五人集まることに決まった。本当にそれぞれの旦那を殺すかどうか、その日に決めることになった。
「お、今日はカレーか。いいね」
いつの間にか隆広が隣に立っていた。由樹はビックリして大きな声を出た。
「ビックリした。どうしたの、急に大きな声を出して」
「いやあ、何でもない」
夫の顔を真正面から見た。本当に憐れな存在だ。彼は妻から嘘の悪口を言われた上で、見ず知らずの女と一緒に妻に殺されるかもしれないのだから。
「大丈夫? 何だか顔色悪いけど、何かあったの」
ウールのように柔らかい声をかけてくれながら手を握ってくれた。由樹も彼の大きく節くれ立った手を握り返して、
「大丈夫だから」
と言ってあげた。改めて夫の全てが嫌いではないと実感した。彩花に甘いところや音楽に対して未練がありそうなところなど、ちょっとちょっとの要素が苦手なだけかもしれない。
この日は夜の九時半に彩花を寝かせてから、二人でお酒を飲むことにした。鶏もも肉とほうれん草をごま油とオイスターソースで炒めたツマミを作って、二人で缶ビールを開けて飲んだ。
「なあ、今度彩花の誕生日だよね。今年の誕生日プレゼントどうしようか」
夫は毎年、娘の誕生日プレゼントで悩んでいる。ウチでは娘に何が欲しいか聞かずに、彼女が欲しがっているであろう物をプレゼントしている。夫がプレゼントを買う係で、由樹がご馳走を作る係だった。
「そうだね、何が欲しいって言ってたかなあ」
次の金曜日に渋谷に集まる予定を作ったことを忘れたいがためにも、プレゼントの内容を一生懸命考えた。目の前の幸せに一生懸命向き合うことで不穏な黒雲がいつの間にか過ぎ去ってくれるような気がしていた。
「あ、お化粧品とかどうかな」
隆広が耳を疑うようなことを言ったので、由樹は、え、と言った。
「いや、お化粧品って言っても玩具のやつだよ。ほら、最近、彩花が見ているプリキュアみたいなやつの。あのヒロインの女の子がさ、変身する時にお化粧するじゃないか。その玩具だよ」
ようやく合点が行った。最近のアニメのヒロインは変身の呪文や決めポーズがあるのではなく、お化粧をして変身をする。その玩具が販売されているようだ。
「確か、口紅とチークが売っていたと思うな」
と、隆広は言いながらスマホで調べ始めた。彼が真剣に娘の誕生日プレゼントを考えている姿を見て、本当に殺すことになった場合を想定してみた。
彼の心臓にナイフを突き刺して血をトロトロドロドロ流しながら、首にネクタイを巻いて強く締めるのだろうか。彼の顔は酸素を失ってどす黒く変色し、名前の知れない臭い液体を口から流し出すのだろうか。
「どうかした」
隆広は自分がジッと見られていることに気付き、スマホの画面から顔を上げて尋ねた。何でもない、としか答えられない。貴方に命の危機が迫っている、だなんて言える訳がない。
本当に命が危険に晒されているのだろうか。そこも謎だった。午前中のチャットでのやり取りに気を取られ過ぎているのではないか。本当に殺人をするなんて考えられないではないか。安心するように自分に言い聞かせて落ち着こうとした。
※
今日も仕込みの仕事のため隆広は早めに家を出た。彩花を保育園に送り届けてから、一人で朝食を取った。今日は金曜日。五人で集まる約束をしていた日だ。皮肉な晴天とは、まさに今日のことだ。彩花が保育園に向かう途中で、いい天気だね、と言っていたほど雲一つない群青の空だった。
会話する場所は渋谷のハチ公口近くにある星乃珈琲だった。静か過ぎるところで喋るよりも人が多くいるところが良いだろうというナルの発案だった。
由樹はまだ行くべきか迷っていた。他の人はどうするつもりなのか、リカにでも尋ねたかった。だが、あのコミュニティで聞けば、リカ以外の人も自分の発言を見ることができる。
行った場合、殺人をすることになる確率は五十パーセントだ。行かなければ殺人をする確率はゼロパーセントだ。そう考えれば絶対に行かない方が良い。
だが他の四人の会話を聞いてしまった以上、自分の身に危害が及ぶ可能性も考慮しなければならない。ならば、行って殺人をやめるように説得することが得策だとも考えられた。彼女たちは人を殺そうとしている。会話を聞いた上で来なかった人間も口封じのために殺そうと考える可能性も無きにしも非ずだ。
あんなチャット機能などどうして付けたのか。管理人の死神の神経を疑った。ストレス解消のための投稿サイトだったにも拘わらず、本当の殺人を促すとはとんでもない人間だ。
洗面所に行き、鏡を覗き込んだ。自分でも惚れ込んでしまうほど、色白で美人な女性が立っていた。隆広が褒めてくれた美貌が綺麗に映し出されている。このままの生活を失いたくない。熱烈にそう思う。自分が犯罪者になる可能性があると分かった瞬間に、平穏な日常がどれほどありがたいものかを理解することができた。
鏡に向かってニコッと笑いかけた。薄桃色の唇の口角が綺麗に上がる。口元に皺がよることもなく滑らかに白い肌がうねる。目を見開いて白目の白さを確認した。血管が一本も見えず、オパールのように美しい。髪の毛を手櫛で整える。鎖骨の辺りまで伸びた髪の毛先は横に広がることなくまとまっている。
はあ、と溜め息が出た。自己肯定感の裏に隠れる自信のなさが思考を止めると自然と沸き出る。自分の弱さに嫌気が差す。
テーブルに腰かけ、旦那デスノートのコミュニティに入ってみた。自分と同じように行くか迷っている人がいないかどうか確認してみた。五十代女性が二十分ほど前に発言していた。
〈皆さん、本当に今日来るのでしょうか〉
やはり迷っているのは自分だけではなく安心した。由樹は五十代女性に向けて発言をした。
〈ええ、皆さんどうするのか気になります。他の方はどうしますか〉
由樹が発言してからしばらくすると、A子が発言した。
〈今、ようやく旦那が外出しました。私は行きます。私は今日人生を変えるための決断のつもりで行きます〉
A子は冷静さを欠いているのか、本当に実行しようとしている。何とか止めなければいけない。もし今日、由樹が渋谷に行こうが行かなかろうが、誰かが殺人をすれば自分も巻き込まれることになるだろう。
〈A子さん。もっと冷静になるべきです。本当に殺人を実行することはないと思います。人生を変えるためには離婚するだの他にも方法はあると思うので〉
由樹が発言すると、ナルとA子がほぼ同時に発言した。若干A子が速かった。
〈簡単に離婚とか言わないで下さい。私にも私の事情があるのです〉
〈名無しさん。それを今日直接話し合うんですよ。ネット上ではなく、リアルで会話した方がお互いの思いが伝わりやすいので〉
由樹は逃げ道がないことに気付いた。五十代女性も、そうですね、と言って行くことに合意していた。最悪な事態だけは回避するためにも自分が行かないといけないようだ。
最寄り駅から東横線で渋谷まで乗り換えなしの直で行けた。平日のお昼なので乗客の数は少なく、シートに座って向かうことができた。これから待ち受けていることに反して呑気な光景だった。
渋谷駅のハチ公前に到着した。相変わらず人の数が多い。スマホを取り出して旦那デスノートから、コミュニティのチャットスペースを開いた。
〈到着しました〉
と、打つと、
〈私もいます〉
と、A子から帰って来た。
自然と体がビクンとなった。この人混みの中に殺人を考えているA子がいると思うと、自分も同族のはずなのに一気に現実感が薄くなる。何やら今までの人生とは繋がりがない、別次元の渋谷に立っている気がした。
〈どんな格好をしていますか〉
と、由樹が聞くと、A子が自分の服装の特徴を書いて送って来た。黒のブラウスに黒のストレートパンツという上下黒の格好で分かりやすい服装をしているようだ。目深にキャスケットも被っていると教えてくれた。
辺りを見渡すと、A子らしき人物を見付けた。上下黒でキャスケットを被っている女性がJR線の改札の前に立っていた。
〈見つけたので、そちらに向かいます〉
A子に向かって近づいた。A子も由樹に気付いたらしく固まってこちらを見ていた。彼女の目線は由樹の方から逸らすことができなくなっていた。彼女の眼前に近付くと、A子は急に目線を逸らしてスクランブル交差点にある大型ビジョンを見始めた。キャスケットを深く被って大きめのマスクをしていたため、顔が見えなかった。
「あの、A子さんですか」
はい、と彼女は消え入りそうな声で返事をした。全く顔は見えないが、恐らくお世辞にも美人とは言えないような人なのだろうと見た。身長は平均くらいで由樹よりも頭一つ分ほど小さかった。体は異常に痩せ細っているように見えた。幸薄そうな白灰色のオーラが全身から醸し出されている。この女が殺人を考えているということに、ヌメリとした気持ち悪さのようなものを感じる。
「名無しさんですか」
「そうです。今日はよろしくお願いします」
丁重に腰を曲げて挨拶した。A子も彼女に倣った。
「はあ、何だか久々にまともに人と会話したような気がします。ありがとうございます」
と、言うA子はいかにも憔悴しているようだ。マスクと帽子の間から見える眼球はゴミが詰まった水晶のように濁っていた。
「あ、今から二人来るみたいですね。ナルさんと五十代女性さんが渋谷に着いたみたいです」
由樹はスマホの画面でチャットをA子に見ながら言った。
しばらくすると、年を召して痩せ細った短髪のごま塩頭の女性と、大福のように丸々とした恰幅の良い女性がこちらに向かって来た。
「どうも、私がナルと名乗っていた者です。えーっと、こちらがA子さんで、こちらが名無しさんですかね」
「いえ、逆です」
ナルと名乗る恰幅の良い女性は帽子とマスクの女のことを名無しだと思い、由樹をA子だと思ったようだ。
「あら、ごめんなさい。外れちゃったかあ」
ナルの年齢は四十代後半に見えるが、お茶らけた印象を与える人物だった。赤い細縁の眼鏡をかけ、片耳にワイヤレスイヤホンを付けたまま喋っていた。補聴器だろうか。
「どうも、私が五十代女性です」
こちらは声にも姿勢にも覇気のない女性だった。視線が定まらず、ふわふわと辺りを見回していた。由樹の目には五十代女性が着ている服が全てデパートのセールで買ったものだと分かった。素材が全てテカテカテロテロしている。それに化粧もしておらず、顔の皮膚がダルダルに垂れ下がっていた。ガリガリに痩せた輪郭の顔にシミや皺が目立っていた。太っており、ファンデーションを厚塗りして真っ白なナルと真逆だった。
「あとはリカさんね」
ナルがスマホを覗いてリカの反応を待った。
「あ、リカさんも到着したようですね」
集合時間を十分ほど過ぎた頃に、リカからの反応があった。渋谷に到着したようだ。
「すみません、遅れました。なかなか外に出られなくて、ごめんなさい」
リカは走って由樹たちのところにやって来た。こちらは普通の女の子に見えた。東南アジア系の少女顔だ。
「外に出られなかったって、やっぱり監視されているんですか」
由樹は生理的に一番受け入れられそうなリカに話しかけることを意識した。
「はい、結婚相手の男性は見張りの役なのです。常にマネージャーが見ていることは無理なので。代わりに見てくるんです」
やはり彼女の予想は当たっていたようだ。偽装結婚相手の男性は雇われているマネージャーの指示でリカの監視を行っているのだろう。
「とりあえず、喫茶店に入りましょうか」
ナルの一言で、全員動き出した。
星乃珈琲に到着すると窓際の六人がけの席に案内された。ナルとリカと由樹が窓を背にした奥の椅子に座り、A子と五十代女性が手前の椅子に座った。
由樹はA子のことを注視した。彼女は店に入ってからもキャスケットとマスクを外さなかった。旦那からの暴力によって顔が相当酷い状態になっているのだろう。
全員が飲み物を注文して、店員が持って来てくれるまで誰も口を開かなかった。店員に聞かれる恐れがあるため、無闇に殺人計画のことを喋れなかった。
「何だか緊張しますね」
コーヒーを一口飲んでからナルは喋り出した。全員が作り笑いをした。笑っていられる状況の人間は一人もいないはずだ。
「まずは自己紹介しますか」
由樹は空気を換えるために率先して提案した。
「そうですね、そうしましょ」
リカが反応してくれる。
「じゃあ、最初リカさんお願いしてもよいですか。リカさんから時計回りでしましょう」
と、ナルの言う通りに自己紹介が始まった。
「リカという名前でデスノートやってました。アンジェラです。出身はフィリピンのパンパンガです。よろしくお願いします。四年前にお金のためにフィリピンから日本に移住しまして、パブで働いています。その時、配偶者ビザを貰うために偽装結婚した相手と暮らしてます。その暮らしが嫌なんです。あ、よろしくお願いします」
リカことアンジェラは達者な日本語でしっかりと身の上話もした。由樹の予想は百パーセント的中していた。だが、次の人からも現在の境遇について話さなければいけないことになった。自分だけ秘密主義は良くないだろうからだ。由樹の中で線香の煙みたいにヒュルヒュルと不安感が立ち上って来た。嘘を言うべきか、本当のことを言うべきか、どこまでの嘘を言うべきか、また悩み始めた。
「ナルという名前でやってました成子といいます。名前のナルコからナルと名乗っていました。私も旦那の存在に手を焼いております。家にいる時は寝っ転がっているだけ。金の稼ぎも大したことない。家事が一つでもできる訳でもない。どうしてこんな人と一緒にいるんだろうって、毎日不満で一杯です。でも、多分、皆さんの方が苦労されているように見えますので、私は皆さんの幸福な生活を得るために少しでも助力できたらなって思っています。よろしくお願いいたします」
由樹の番になった。やはり嘘を吐くことにした。ここで本当はそこまで不満がないと言って反感を買いたくなかった。反感を抱かれたら殺人を止める際に不利になるから、と嘘を言うための正当化をした。
「名無しという名でやっていました由樹と言います。実は私には五歳の娘もいて、今は保育園に預けています。最近、その娘に関して悩んでおりまして、旦那の娘を見る目が父親としての愛情の領域を超えているような気がしてならないんです。もちろん、直接旦那本人から聞いたのではないのですが。何だか心配で。娘の身に危険が及ぶんじゃないかって。私が言うと馬鹿みたいですけど娘は可愛らしい見た目をしています。だから世の中に不満を持っている旦那が、刺激を求めて娘に手を出すのではとビクビクしながら生活しています。よろしくお願いいたします」
つい隆広が娘に情欲を持っているという嘘を吐いてしまった。最初はそこまでの嘘にするつもりはなかったが、話し出すと止められなくなった。勢いだけで嘘を大きくしてしまった。
異様な自己紹介だった。順番が回って来た者のエネルギーを吸い取られていく儀式のようだった。A子の番が回って来た。彼女は一度、聞こえるほど大きな深呼吸をしてから喋り出した。
「A子という名前でやっていました、明美と申します。二十四歳です。すみません、まだ帽子とマスクを取っていなかったですね。あの、取るので驚かないで下さい」
明美は帽子とマスクを取った。由樹はつい目線を逸らしてしまった。逸らした先にいたアンジェラは目を見開いて固まっていた。由樹はゆっくり明美の方に視線を戻した。衝撃を受けた。彼女の見た目は敗走兵のようにボロボロだった。髪の毛もチリヂリのバサバサで伸び放題になっていた。顔は蒼痣や切り傷、吹き出物で埋め尽くされていた。目の下のクマは霊柩車の車体くらい黒い。唇は乾涸びた茄子みたいになっていた。メイクもしていなかったので、醜さが剥き出しになっていた。年は由樹より若いようだったが外見は老婆のようにも見えた。体内の底に溜まったヘドロのような不幸が彼女を醜く、老けて見えるようにしているのか。
「見ての通り、私はほぼ毎日旦那から暴力を振るわれています。そんな中で旦那デスノートに書き込んで気晴らしをしておりました。大した目的で使っていなかったので、今、その、信じられないような計画のために集まっていることが、あの、いまだに信じられません。私自身も本気なのかも、まだ判断できかねています。えーっと、よろしくお願いいたします」
明美は今にも窒息しそうな様子だった。最後は五十代女性の自己紹介になった。
「五十代女性と名乗っていた清江と言います。多分、この中では一番結婚して長いと思います。結婚二十三年目なのです。でも二十三年間、旦那の存在を家の中で感じたことは、殆どありません。無口かつ人に無関心のため、何もしないし、何も喋らないのです。今年で二十一歳になる一人息子だって、私が一人で育てたようなものでした。それなのに、息子は中学に上がった途端、私を殴るようになりました。そんな私と、息子の有様を見た旦那は、一度も止めることもせず、自分の部屋に引き籠っていたのです。許せません。憎いです。憎くて仕方がないです。あ、ごめんなさい。ついつい感情的になってしまい。すみませんが、よろしくお願いいたします」
清江は先日のコミュニティでの会話と同じことを繰り返していた。あまり要領の良さそうな人ではなさそうだ。椅子に浅く座って体が緊張からか小刻みに震えている。
全員の自己紹介が終わった。それぞれがそれぞれの事情を抱えていた。自己紹介が済んで全員一安心しているようだ。由樹以外の四人は自分の生活における負の感情を明確に示すことができたように聞こえた。口に出して言うことで、全員で問題を共有できた気になって、肩の荷が軽くなったような錯覚を感じているのだろう。
「では、早速本題に入りましょうか」
成子がテーブルに両肘を突いて前のめりになって小声で話し始めた。
「五人で協力して、全員の旦那を殺害するって話。正直、覚悟はできていますか」
成子に聞かれ、他の三人が俯いてカップを覗いたのを見た。由樹も下を見てコーヒーの表面を眺めるふりをしながら、上目遣いで三人を観察した。みんながどう考えているのか知りたかった。
ここが今日の正念場と言っても良いだろう。これ以上殺人の話を進展させてはいけないのだから。そうすれば、元の比較的平穏な生活に戻ることができる。
「成子さん。その、まだこの話題を口にするのは、ちょっと。ねえ」
と、清江が明らかに困惑しながら言った。計画を実行するかよりも、成子の早まっている様子に驚いているような言い方だ。だが清江も殺人に乗り気ではないことが察せられた。
「清江さん、よく考えて下さい。殺害をするのに適したタイミングなんてないのですよ。言えばいつでも行動して結果を得ることだってできるということです。早くするだけ、皆さんが望む生活が一刻も早く手に入るということになるのです。早めに計画を立てるに越したことはないでしょう」
成子は清江の心配そうな顔を気にもせず、自身の考えを開陳した。明美が成子の言っていることは正しいと思ったのか、顔を上げてコクコク頷いていた。今の生活から一番脱却したいと考えているだろう明美は殺人をすることになっても反対しないに違いない。
「どう思いますか、明美さん」
明美の顔を覗き込んで成子は満面の笑みで笑いかけていた。明美が殺人に傾きそうな気配を察して聞いているのだろう。だが成子がどうしてそんなに殺人をしたいのか理解できなかった。
「ええ、私もなるべく早くした方が良いと思います」
伏し目がちになって成子に同調した。
「え、ちょっと、本気で言っているんですか」
清江が明美に突っかかった。
「ええ、うーん。ちょっ、やっぱダメですかね」
明美は初対面の他人に責められたためか、ビクついた。由樹はそんな明美の姿勢に腹が立った。簡単に自分の意見を曲げる人間が大嫌いだ。夢を捨てきれていない隆広を見ているかのようだった。
「どっちなんですか、明美さんは殺人なんかできるのですか、できないのですか?」
由樹は身を乗り出して思わず明美に強く当たってしまった。彼女は由樹の顔を見ないようにコーヒーカップを見たまま動かない。
「そんな強く責めないであげて下さい」
成子は由樹を牽制した。この女は一体何なのだ。成子に助けられた明美は安心したらしく、上目遣いで周りの様子を見た。由樹の表情は苛立ちを隠せていなかっただろう。自覚している。成子は明美の方からアンジェラの方を向いて、
「アンジェラさんはどうなんですか。殺害の計画を立てることに賛成なのでしょうか」
と、柔らかい口調で訊いた。
アンジェラはアイスコーヒーを吸っていたストローから口を離して、
「私はどっちでも良いです。ツヨシと別れて大輔と一緒になれれば、何でも良い」
「ツヨシ? ダイスケ?」
清江が眉をひそめた。
「うん、大輔は私の恋人。すごい優しいの。私よりも年下なのにね。ツヨシは今一緒に住んでいる人。私のことを監視している人のこと」
アンジェラは懲りずに男と接点を持つのか。ここにいる人たちは、できれば一生男とは無縁で生きていきたい気持ちを抱いている人が多いと思っていたが違ったようだ。
「大輔ってスゴイ優しいんです。私のことをいつも考えてくれる。私の身に危険があったら、すぐに助けてくれるって言うんです。この端末も大輔が心配して作ってくれた物なの」
惚気始めたアンジェラの手には不思議な物体が握られていた。薄紫色のハンカチがついたスマホのような物だった。ハンカチを畳むと端末が隠れるようにできているようだ。大輔という男は何のためにこんな物を作ったのだろうか。
「アンジェラさん、貴方がどっちにするか決めて頂戴。私と明美さんは早めの殺害に賛成。清江さんと由樹さんは渋っている。アンジェラさんが決めてくれたら、多数決で決められるの」
成子はアンジェラに優しく語って惚気を止めながら、全責任を押し付けた。
「ちょっと。そんな大事なことを多数決なんかで決めるって言うのですか」
由樹は尻を椅子から浮かせて成子に噛み付きそうな勢いで言った。
「だって、それでしか決められないじゃないの。じゃあ、由樹さんは何か良い案があると言うのですか」
「いえ。ですが、まずは穏便な解決方法を探ることが道理なんじゃないですか。いきなり何の議論もなしに殺害だなんて」
明美の方を睨んで見た。
「ねえ、明美さん。貴方も黙っていないで意見を言ってよ。本心はどっちなのよ」
「えっ、えっ、本心ですか」
「そうですよ。貴方もこのままの生活で良いなんて思っていないでしょ。でも殺害までする勇気があるって言うの」
「いやあ、そのお」
「ちょっと、困っているじゃないの。やめてあげて下さい」
また成子に咎められた。
「だって、おかしいんですもの」
このままではダメだ。落ち着けない。成子は諭すように語りかけて来た。
「良いですか、由樹さん。貴方がおかしいと思うだけで、ここにいる全員がおかしいと思うとは限らないんですよ」
はあ、と言葉が出た。彼女は何が言いたいのか。
「よく考えてみてください。貴方、学生の時に歴史って習いましたよね。ええ、日本史ですよ。その日本史で取り上げられた事件について考えたことはありますか。ああいった授業で取り上げられる歴史上の事件は、当時の人々誰の予想もしていなかったことなのですよ。だから人々の記憶に残り、それが教科書にまで載るようになったのです。そう、つまり国単位で考えても、あれほど沢山の予想できなかった事件があるのです。ただの民間人一人一人の規模になって考えたら、その数がどれだけ膨大になると思いますか。国を動かすほどではないにしろ、コミュニティの中の関係性が変化する程度の予想外の出来事は沢山起きています。つまりですね、由樹さん。貴方が信じられないような出来事は、日常で平気で起きている。よって、今私たちが殺害を計画することも特に珍しいことではないのですよ。あまり深く考えるべきではないです」
成子が喋り終えると場は静まり返った。どう説得すれば彼女の考えを変えることができるのだろうか。成子に殺人を嗾けている存在や原因が分からないままでは、どうすることもできない。
清江は黙ってコーヒーカップを口に運んでいる。アンジェラはストローでグラスの中の氷を回して考え事に耽っているようだ。明美は相変わらず下を向いたまま動かない。
「分かりましたか、皆さん。ここで立ち上がるべきなのですよ」
成子は周りに座る四人を順繰りに見回して続けて喋った。
「決断は早めにすることが大事です。後回しにしたって何も得することはありません。気持ちが弛緩して小さなミスを繰り返すリスクなら増します。今ここで決めてしまいましょう。今日、ここで最初の殺害の計画を立てることに賛成しますか。明美さん」
明美は顔を上げた。成子と目が合ったようだ。成子の脂肪の付いた丸々とした顔が綻んだ。
「ええ、はい。ええ、そうですね」
と、遂に明美は同意した。
「アンジェラさん、どうしましょうか」
次に成子はアンジェラの方を向いた。
「成子さんに任せます」
「よし、これで決まりですね。お二方もよろしいですね」
清江と見つめ合った。本当に殺人をするのか信じられなかった。清江はどう思っているのか探ってみた。彼女も成子に同意しかねているだろう。仮に殺害がバレたらどうするのだろうか、他の三人は計画の危険性のことに全く着目していないに違いない。
「由樹さん、清江さん、黙っていないで。旦那殺しに加担しますね」
成子に聞かれても由樹は何も言えなかった。清江も同じらしく、彼女の口からも言葉が出て来ないようだった。
「黙っているってことは同意ってことですよね。じゃあ、計画を立てていきますか。どなたかペンと紙って持ってないですか」
「私持ってますよ」
アンジェラは鞄からメモ帳と黒のボールペンを取り出して成子に渡した。
「これから、あみだくじを作って、どの旦那さんから先に殺すか決めていきましょう。また、計画についても練っていきましょう」
※
由樹は明美の猫背気味の後姿を見ながら店を出た。彼女は来た時と同じように、キャスケットを目深に被ってマスクをしていた。成子以外の三人とも全員疲労困憊の様子だった。神経をすり減らすような会話の内容。今までの人生で経験したことのないほどの厖大の背徳感が四人の体と魂から生きた心地を吸い取っていた。由樹は頭が茹で上がったように熱くて朦朧としていた。
明美の旦那の浩司が来週の木曜日の夜には死ぬ未来が確定した。明美は今まで自分を従順な犬っころとして扱って来た男を地獄に堕とせると言い、傷だらけの顔を明るくしていた。幽霊が笑ったようで不気味だった。
「では、皆さん。今日はお疲れ様です。来週の木曜日ですから。あまり頻繁に会い過ぎるのは問題だと思います。当日に会いましょう」
ハチ公改札前に戻って来ると、成子が最後に確認をした。
「じゃあ、また今度」
アンジェラは去って行った。最後まで掴めない子だった。ハンカチ付き端末のことも結局あの後話に出てこなかった。
「そうですか。それでは、また」
由樹は体が乾涸びた葉のようになった気がした。渋谷駅の中にひらひらと向かって行った。隣にいた清江も無言で頭を下げて駅の改札へ去って行った。
ハチ公改札を潜った。斜め後ろに清江がいることには気付いていた。
「清江さん」
と立ち止まって、彼女の方を振り向いて見た。清江は、はい、と言ったまま固まってしまった。そんなに怖い顔をしていただろうか。
「ちょっと、話し合いたいことがあるんで、一緒に食事でもしてゆっくり話しませんか」
このまま今日を終えてしまっては駄目だ。何も行動しなければ、本当に明美の旦那の浩司を始めに五人の旦那を殺害することになるだろう。
「ええ、私も話したいなって思っていたので」
清江は由樹の要望に応じてくれた。
渋谷から大崎方面の山手線に乗って、途中の恵比寿にて夕食を取ることにした。座敷に座って食事のできる沖縄料理店に入った。電話で保育園にいる子供の迎えを隆広に任せた。ブツブツ文句を言っていたが無視して電話を切った。文句を言える立場ではないのに不満なんて抱くな、と若干苛立った。
清江と向かい合って座敷の卓に座っていると、二人が注文したソーキそばが運ばれた。静かにそばを啜っていると先程まで話していた殺害計画を現実として捉えることができなくなりそうだった。
「清江さん、どうしましょう。成子さんと明美さん、本気ですよね」
清江と一緒に成子たちのコミュニティから抜け出そうと画策していた。このままではあの計画に加担させられる。罪を犯してまで新たな生活を入手しようとは考えていない。隆広と彩花のいる生活で満足しようと思えばできる。
「そうでしょうね。でも、どうして成子さんは、あんなに自信満々なのでしょうか。自分が罪を犯しても、捕まらないっていう保証は、どこにあるのでしょうね」
「本当にその通りです」
成子が何となく気に入らない存在だと見ていたが、帰る時点で確信に変わっていた。あの女は何かがおかしい。自分たちとは異なる人間だ。
「明美さんも、何を考えているの、でしょうね」
清江がそばを啜りながら言った。啜る際に飛沫が飛んだことが由樹は気になったが、何も言わないことを意識した。ここでつまらないことを指摘して不快感を与えても仕方がない。
「明美さんは、正直、何も考えていないように、見えましたね。現状の苦しみに気を取られて、将来を考えられていない、みたいです。しかもそのせいで、自分の旦那を一番初めに殺さなければいけなくなったのですから、今日の最大の被害者、と言っても良いのかもしれませんね」
と、清江は麺を嚙みながら喋るので口の中が見えた。
明美の俯いている姿が印象深かった。傷だらけの顔をなるべく見られないようにでもしていたのだろうか。下を向きながら小さい声でボソボソ喋る彼女からは成子とは異なる嫌悪感を抱いた。成子には鋭い嫌悪で、明美には重たい嫌悪だ。
「きっと、明美さんも、今頃は後悔しているんでしょうかね」
と、清江は困ったような顔をして言っているが、どうせ本心ではきっと自分が最初じゃなくて良かったと思っているのだろう。清江の薄っぺらさを見抜いていた。きっと息子は中味がない癖に親らしく振る舞おうとする清江に腹が立っていたのだろう。
しばらく無言の時間が続いた。清江が何を考えているのか知らないが、ずっと心ここにあらずのような表情をしていた。
「冗談じゃないですよ。何で、他人の旦那を殺さないといけないのですか」
由樹がずっと黙っていると、清江はいきなり若干大きな声を出したので驚いて、ㇱッ、と言って人差し指を唇の前で伸ばした。
「成子さんの話では、五人の旦那全員を殺すために、みんなで協力しましょうってことですからね。五人全員で五回の殺害に加担して、運命共同体になろうっていう魂胆なのでしょう」
と、由樹は言うと清江は箸を器の上に置いて頭を抱えてから、
「そんなあ、どうすれば、良いんでしょう。こんなコミュニティ、入らなければ良かった」
と、涙声で嘆いていた。
「今更何を言っても変わりませんよ。何とか一回目の殺害を阻止するか、勝手に抜けて知らぬ存ぜぬを貫き通すかのどっちかでしょう」
「そんなこと、できるんですか」
「やらなきゃいけないんですよ。そうじゃなきゃ私たちが加害者になるんですから」
由樹は清江のことを睨み付けながら言った。清江は弱気な顔になって俯いたままなので腹が立つ。どうしてこうなるのか。
「明美さんの意志を曲げるしかないでしょうね」
一度目の殺害が起こらなければ誰も犯罪者にならない。明美が旦那を殺すことをやめれば、この計画が頓挫する可能性が高まる。由樹は明美を説得することを清江に提案してみた。
「上手く、できますでしょうか」
清江は人殺しはしたくないくせに思い留まらせる行動に消極的だった。いざという時にも使い物にならないだろうな、と分析した。
「上手くやれるかじゃなくて、上手くやるしかないのですよ」
と言って、焼豚を箸で摘まんで食べた。濃い口のソーキそばなのに味などしなかった。
※ 成子
成子は部屋に帰って来ると、一人きりでベッドに腰かけて夫からプロポーズされた時のことを思い出した。心斎橋にある高級イタリアンに招待されて何の心の準備もせずに行った。小雨が降る中、店の前で夫は傘を差して立って待っていてくれていた。傘の中に入れてくれて二人で店の中に入ったことを覚えている。その日、何を食べたかなんか覚えていない。夫と初めての二人きりの食事だったことでかなり緊張していたからだ。
対面に座る彼の顔は暖色の照明の光に照らされて輝いていた記憶はある。そんな彼が急にポケットから何かを取り出しながら、
「僕のお姫様になって下さい」
と、クサいセリフを口にしてくれたのだった。初めての二人でのデートで急に告白されるなんて考えてもいなかったので戸惑ってしまった。だが、こんなカッコいい人から告白されることなど、もう二度とないことは分かっていたので受け入れることにした。
「僕の家に来ないか」
と、レストランから出て相合い傘で駅まで歩いている最中に不意に聞かれた。細かい雨がリズミカルに傘を叩く音が祝福しているように聞こえた。もちろん二つ返事で快諾した。雄作になら自分の表面から奥底まで全てに手を付けてもらいたかった。傘の中で彼に身を寄せ、彼に付いて家に向かった。
彼の自宅に到着して鍵を開けて扉を開くと、そこには信じられない光景が広がっていた。成子はサヤカやユウコと初めて会うことになった。血痕が部屋の白い壁に飛び散り、悪臭が籠っていた。
「成子、僕はこの女たちに手を焼いているんだ。彼女たちには僕が成子と結婚することを伝えたんだけど、全く理解をしてくれないんだ。成子、君がこの二人を教育してあげてくれないか」
その日、初めてスタンガンを握った。正義の心で握ったので罪悪感など微塵もなかった。
※ 由樹
結局、何もできないまま殺人当日の木曜日になってしまった。明美の旦那の浩司が殺される日だ。目を覚ましてベッドから降りた由樹は頭を抱えて考え込んだ。寝室では彩花も隆広も隣でまだ眠っていた。
「どうするのか」
旦那デスノートのグループチャットに入った。誰も何も言って来ない。もしかしたら冗談だったのではないか。左手で自身の頭皮を掻き毟り、甘い考えを抱いた自分を戒めた。そんなことはないだろう。明美以外の四人は今日、待ち合わせ場所の京急蒲田駅前のロータリーに集まるに決まっている。
明美は自分の部屋にて旦那を動けなくさせなければいけないらしいので蒲田には来ない。清江が旦那の自動車で蒲田に迎えに来て成子とアンジェラと由樹の三人を拾い、明美のアパートに行くことになっていた。全員、成子の指示で動くことになりそうだ。この計画の立案者も成子なので自然とそうなるだろう。
成子がどうしてあそこまで張り切っているのか、まだ分からなかった。自分の旦那一人殺すために他の四人の旦那殺しの計画まで立てる根気はどこから沸いて来るのか。
行くべきかどうか迷った。待ち合わせ時間は夜の八時なので、考える時間はたくさんある。だが、考えても結論を導き出せる自信がなかった。
とりあえず寝室から出て、いつも通りに朝の支度をする。どうするべきかはそれから考えることにした。スマホからラインのメッセージを受信した音が聞こえた。画面を見ると、清江から連絡が来ていた。渋谷に行った日、夕食の際に連絡先を交換しておいた。今日の十五時に品川で会えないか、という内容のメッセージだった。
計画のことについて話したいことがあったので、もちろん、と快諾した。
十五時、由樹は品川駅構内にある喫茶店で清江と向かい合って座った。清江は自分から由樹のことを誘ったにも拘わらず、何も喋り出そうとしなかった。彼女は一体何を考えて呼び出したのだろうか。
今朝から由樹は何も食べていなかった。朝食でトースト一枚を食べようとしたが、食べる気にならなかった。殺人という言葉が食道に詰まって物を飲み込めそうになかった。今もコーヒーを飲むだけだ。清江も同じような状態らしく、明らかに生気がない。化粧を一切していないせいで土壁みたいな肌を露わにして眉も凶作の田みたいに不毛だ。目はタニシくらい小さい。加齢のせいで顔の下半分の皮膚がダボダボのサルエルパンツみたいだ。視線が相変わらず定まっていない。
「清江さん、今日本当に行くのですか」
清江が何も喋らないので由樹から本題に入った。清江は困った顔を作って見せる。彼女が何も決断できていないことに気付いた。殺しに加担するにも、しないにも決断は必須だ。
「由樹さんはどうするつもりですか」
質問返しをして来た。このみすぼらしい年上女は脳を持っていないのではないか。あまりに考えなさ過ぎる。呆れた気持ちを抑えて無表情で、
「私は嫌です。参加したくありません」
と、清江とは逆に明確に自分の意見を述べた。だが清江は何も言わないで頷くだけだった。自分だけ何も意見を述べないことが狡かった。
「私に意見を尋ねてきたっていうことは、私の意見を参考にしたかったのですよね。そしたら、貴方も今やめることに決めますよね、当然」
何となく挑発してみた。前回渋谷で集まった日から今日までの間、ずっと胸糞悪い気分を味わい悩んだため、少し人に八つ当たりをしたくなった。
「いいえ、私は行く、つもりです」
意外な返答に由樹は清江の醜い顔を凝視した。
「え、正気なの」
信じられなかった。この前まで自分と同じ気持ちだったのに何があったと言うのか。こんなどこにでもいる平凡で地味で無気力な女に、殺害という常識から大それたことができるというのか。そんな自信はどこから沸いて来るのか。そもそもただの馬鹿なのか。
「正気です。あの後家に帰ってから、やっぱ、私は旦那のことを許せないって、気付いたんです。殺してやりたいって、思いました。だから、この計画に参加するのです。もし明美さんの旦那さんを上手に始末できたら、私の旦那もお陀仏になりますから。あんな男、とっとと死ぬべきなのよ」
清江の乾燥し切った唇はパタパタ震えていた。彼女の内面に溢れるヘドロのような負の感情の重さを測り兼ねた。これほどまでに憎むとは、どんな生活を送って来たのだろうか。ただ彼女の息子の件と夫の無関心だけが原因だとは思えない。
「そうですか。頑張って下さい。私は一人で抜けます」
由樹はこの件に関して、もう自分には関係のないことにした。コーヒーを飲み干してから席を立った。気になっていたことがあったことを思い出した。最後に清江に聞いてみた。
「そういえば、何で私のことを誘って来たのですか」
今日は向こうから誘ったはずだ。それなのに自分ばかりが質問したような気がした。
「うん、何でもない。由樹さんの考えを聞けたから」
ボーっとした様子で答えていた。不快感が尋常ではなく、なるべく早くこの場から去りたかったので早歩きで背を向けて店から出た。
品川駅から自宅の最寄り駅に到着すると肩の荷が一気に下りた感覚になった。
これで自分は下らない計画とは無関係になれた。今日からいつも通りの生活に戻る。隆広という、いてもいなくても同じような男と一緒にならざるを得ないが仕方がない。夫に関しては諦めることができるようになった。人殺しをすることに比べたら、彼との生活など屁でもない。そういう意味では清江たちのコミュニティに入って良かったと思えた。
最寄り駅を出て商店街を抜けて緩い坂道を上った。もう日が落ちそうな時間帯になっていた。秋になると日照時間がどんどん短くなる。日の入り前の太陽の光が坂に沿って立ち並ぶ住宅の影を伸ばして道を暗くしている。
遠くの方にある電柱の陰に誰か立っていることに気が付いた。暗くて誰か分からなかったため気にせず近付いた。
だが電柱に近付くと脇にいる者が誰か分かった。その時には遅かった。成子が電柱の陰から出て来てこちらに向かって歩いて来た。
彼女の顔を見た瞬間、自分の体全体が浮かび上がったような気がした。足元から頭までに硬くて太い緊張感が貫いた。視界はぼやけて成子の白くて大きい顔の輪郭が溶けたようだった。
「由樹さん?」
成子は由樹の真ん前に立って名前を呼んで来た。
「何ですか」
成子を睨むと、彼女はニヤニヤ笑いながら無言で由樹の背後を指差した。え、思って背後を振り返った瞬間、脳天に鈍い痛みが加わった。頭から顔、体全体へと痺れが伝わった。鼻の奥から何だか懐かしい匂いがした。子供の頃によく食べた甘いクッキーの匂いがした。視界は段々黒ずんでいく。右の頬に冷たくて硬いものが当たる感触を覚えた。何となくアスファルトだと分かる。由樹は自分がその場で倒れたことに気付いた瞬間、眠りに落ちた。
※
気付いた時には密閉された空間の中にいた。淀んだ空気の中に含まれるムンとした臭いが不快で目を覚ました。一体ここはどこなのか。視界がぼやけて分からない。長い間眠っていたようだ。その間にどこかへ連れて来られたようだ。
頭がはっきりして来ると一人で車の後部座席で横になっていることに気付いた。重たい体を動かすため、上半身を持ち上げようと右手を動かした。後頭部に地獄のような痛みが走った。起き上がることを諦めた。体を動かすと痛い。痛みを感じることが怖くて何もできなくなった。
視線を動かし窓の外を確認した。横になっていたため、真っ黒い空しか見えなかった。
ここはどこか。成子が目の前に現れた瞬間に不思議な感覚に襲われたことを思い出した。成子が待ち伏せしていたことを思い出した。だが、どうして自宅の場所を知っていたのか。どうして自分が外出していると知っていて帰る時間も知っていたのか。意識が明瞭になると同時に疑問が次々と沸き出た。
電柱の陰に何時間もいると近隣住民から怪しまれる。自分が帰って来るタイミングを知っていたはずだ。そもそも出かけていることを、何故知っていたのか。
「まさか」
寝ながら絶望した。清江が今日呼び出したのは成子に頼まれたからではないのか。彼女の様子から、何か用があった訳ではなさそうだった。きっと由樹を呼び出すこと自体が目的だったのだろう。自信なさそうな清江の顔を思い出して腹が立った。あんな女に騙されるなんて。
痛む後頭部を手で抑えながらゆるゆる慎重に体を起こした。後部座席に座って窓の外を確認した。衝撃だった。場所はどこかの山か森の中。外には成子と明美、アンジェラ、清江が立っていた。クヌギの木があり、そこに一人の男が磔のようにされていた。両腕を布か何かで縛られ木の枝から吊り下げられていた。高さは丁度男が爪先立ちをして地面に届くくらいだ。両足首も布で縛り付けられて動かせなくなっていた。あの男が明美の旦那の浩司だろう、とすぐに理解できた。遠くからでも、胸板の厚い体の持ち主だと分かった。
窓の外から視線を逸らした。どうすべきか。金輪際関わらないと決めた殺人計画に巻き込まれた。逃げ出したいが、外には四人が立っている。しかもここがどこなのか分からない。スマホも取られたらしく、ジーンズのポケットの中に入っている感触がない。両足を足首のところで縛られていたことが分かった。
どうやって逃げるべきか考えを巡らせていると、
「由樹さん」
と、いきなり外から名前を呼ばれた。
驚いて再び窓を見ると、すぐ傍に成子のデカい顔が窓一杯に広がっていた。巨大な餅が車内を覗き込んでいるようだ。
「何しやがるんだ、早くここから逃がせ」
手は自由だったので思い切り窓を殴って怒鳴った。成子はニヤつくだけで何もして来ない。窓を隔てているため、彼女の篭った声が私の耳に届いた。
「由樹さん、貴方逃げようとしたんだってね」
やはり清江のせいか、と確信した。
「車から出たいですか」
「当然よ」
何時間も意識を失って寝ていたようで体が固まって痛かった。早く体を伸ばしたかった。
「じゃあ、貴方も今から私たちの仲間ってことになるのね。まあ嬉しい。由樹さんがいてくれるとやりやすいわあ」
成子はわざとらしく喜んで見せた。ムカムカする。由樹が納得するなんて思っていないにも拘わらず喜んで見せることが、裏切りに対する報復のつもりなのだろう。
「まだ何も言っていないし、私は殺しなんて嫌」
由樹も一矢報いた。
「ダメダメ、貴方は私たちが何をするか全て知っている。そんな人を逃すと思うわけ?」
「何も言わないから」
「何も言わないことも罪になるのよ」
言い返すことができなかった。成子の主張は正しい。由樹が渋谷でみんなと喋った時点で、もう捕らわれていた。
「何も言わなければ逃がしてくれるの?」
やはり人を殺す現場に立ち会いたくなかった。とりあえず逃げられるなら、何でも良いという結論に到った。
「じゃあ何も言わないで罪を被る。だからここから帰らせて」
成子は車の扉を開けた。
「帰るの」
「当り前でしょ」
「忘れているみたいだから言っておくけど、貴方の住所は分かっているんだからね」
何てしつこい女なのだ。どうしても五人全員に殺人の罪を被ってほしいのか。
「住所を知っているから何だって言うの」
「さあね。貴方が苦しむことになるとだけ言いたいわ。私には所謂半グレと言われる男たちがいるってことは覚えておいて」
「嘘よね。そんな脅し通用しない」
成子が相変わらずニヤニヤしながら体をどかして、由樹が車内から明美の旦那の浩司を見えるようにした。
「ほら、よく見て」
確かに拘束されている浩司の周囲に堅気の職に就いていなさそうな雰囲気の男が三人うろついていた。暗くてよく見えないが、全員黒いダウンを着てガニ股で歩き回っている。
「分かった? もう逃げられない。中途半端な気持ちで計画のことを知るからいけないのよ。全て自己責任よ」
成子の大福みたいな顔が破顔し、大笑いし始めた。
「そんな怒った顔しないで由樹さん。無様だから。貴方は本当にブスね。殺人鬼にぴったりな風貌をしているわ。ねえ、貴方たち、由樹さんって本当にブスで気持ち悪い顔をしているわよね」
三人の女たちと三人の半グレの男たちがこちらを見て笑った。
「由樹さん、降りて来て」
成子に腕を鷲掴みされて、外に無理矢理引っ張り出された。足を縛られた由樹は土が剥き出しになった地面に転がされた。
「今から、明美さんの旦那、浩司さんの殺人ショーを行うわ。是非、参加して行ってね」
結局、逃げられなさそうだ。足を縛る布を取ってくれないし、両脇に男が一人ずつ立ったからだ。一人は赤ん坊に似た幼い顔立ちの男で、もう一人は東南アジア系の濃い顔だった。
「では明美さん」
と、成子に言われると、明美は浩司の方に近付いて行った。彼女の手にはスタンガンが握られていた。彼女の目は版画みたいに空洞だった。
浩司は口にも布を巻かれているらしく声が出せない。呻き声が聞こえる。学生時代に野球部に入っていたような浅黒くてガタイの良い男だ。彼はまさか自分が今まで暴力を振るっていた妻に暴力を振るわれるとは思っていなかったのだろう。恐怖がこちらにまで伝播して来た。
バチッという破裂音に近い音が響いた。浩司の呻き声は大きくなった。岩のようなゴツゴツした質感の恐怖が伝わって来て由樹も痛かった。
「明美さんはいつもこれで殴られていたんでしょ」
と、成子が何か細長いものを明美に渡した。目を凝らして見るとゴルフクラブだった。ドライバーのようでヘッドの部分に厚みがあった。
「さ、思う存分やっちゃって」
明美はゴルフクラブを野球のバッドみたいに構えてから、勢い良く振って浩司の肉厚な鼻を打った。
「ンッゴー、ンッゴー」
浩司はあまりの痛みに、両腕を縛られながらジタバタした。爪先が地面から離れたり着いたりした。
「もっと」
成子が明美に命令する。明美は再び浩司の顔面をゴルフクラブで打った。クルミの殻が割れる音に似た音が響く。
「明美さん。その調子ですよ。貴方が受けて来た苦痛はこれくらいのものですか。違いますよね。今旦那さんが感じている痛みの数百倍の痛みを感じて来たのですよね。ならば数百回殴らないといけないのです。これは明美さんのためだけではないのです。全人類のためなのです。他人に及ぼした害は、必ず自分に返って来ることを証明しなければいけないのです。そうなれば、人々は平和に暮らすことができるでしょう。自分は危害を加えられたくないのですから。だから、明美さん。もっとやって下さい」
明美は成子の言葉に従って、クラブで旦那の顔面を滅多打ちにした。直視できなかったが浩司の顔は原型を留めないほどに歪んでいる気がした。
「ちょっと、一旦やめて下さい」
成子は明美に静かに言った。明美はクラブで打つことをやめた。手からクラブは落ちて、明美自身も地面にしゃがみ込んで頭を抱えた。
成子は縛られている浩司の前に立った。浩司の口元に手を伸ばして布を取ったようだ。浩司のものらしき声が聞こえて来た。
「ヒッ―、ヒッ―、誰か来て。誰か助けてくれえ」
浩司が叫び出しても、周囲の木々の葉に声が吸い込まれて行くようだ。
「うるさいなあ」
と、成子は言いながら何か細長い物を浩司の口の中に突っ込んだ。
「ほおら。ポコチンだぞお。美味しいだろお。美味しいって言えよ」
どうやらディルドを口に入れているようだ。どうして成子がそんなことをやり始めたのかは分からない。
「実はこのポコチンには細工がしてあるんだ。私の夫が作ってくれたの」
と、言うと一旦静寂が訪れた。全員が一心に成子と浩司を観察しているようだ。
ウッガー、という声で浩司が叫び出した。彼は半透明の液体を口から吐き出した。何があったのだろうか。
「そう、このポコチンに付いているボタンを押すと濃度三十パーセント以上のアンモニア水が出て来るんだあ」
彼は成子を睨み付けながら足元に嘔吐した。成子は何のためにこんなことをしたのか、由樹には理解できなかった。
「さ、もうそろそろ。トドメを刺しましょうか」
成子の発言を機に三人の男が動き始めた。男たちは浩司を囲んだ。何をしているのか由樹からは見えない。
「アンジェラさん、清江さん。その辺に穴を掘って下さい」
成子の言葉に従ったアンジェラと清江はスコップを持って浩司が吊るされている木の近くに早歩きで向かった。土にスコップの先端を突き刺して大きな穴を作り始めた。何をする気なのか段々分かって来た。恐らく浩司を穴の中に生き埋めにでもするのだろう。
「さあ、由樹さん。浩司さんを木から下ろしてあげて下さい。男たちと協力して、浩司さんを穴に埋めてあげて下さい。その時は、頭が地面から生えているように見えるように、首から上だけ土を被せないようにして下さい」
由樹は動かなかった。意地でも動かないと決めていた。成子の異様な要求を聞いて余計に恐怖を覚えた。どうして頭だけ出すのだろうか。
「早く」
成子の口から唾と一緒に茶色く濁ったような怒声が浴びせられた。成子は片手にスタンガンを持って由樹の首筋に電極を当て、
「良いですか。由樹さん。貴方、自分だけが洗練潔白な優等生だとでも思っているのですか。だとしたら、貴方は本物のクズでしょうね。だって他の皆さんがこんなに頑張っているのに、優等生気取りで何もせずに静観しようとしているのですから。でもね由樹さん、これだけは覚えておいて。自分で手を下せない人間が最悪なのよ。他人の手柄を奪う人。人を都合の良いように動かす人。貴方、今そういう人間に成り下がっていますよ。良いのですか」
と、脅して来る。それでも由樹が動かないでいると首筋に強烈な痛みを覚えた。熱せられた何千本もの針が皮膚に突き刺さったような痛みだ。成子を見ると、スタンガンの電極部分を由樹に向けたまま冷たい声を発した。
「お前も浩司と同じ穴に入りたいのか」
死だけは避けなければならない。五歳の彩花を育てるため、今死ぬことは決して許されない。こうなったら仕方がない。死ぬことだけは御免だ。浩司に近付いた。明美もノロノロと近付いて来た。手には何か握っていた。金色に光る液体のようなものが入った瓶だった。
明美から視線を移し、男たちに囲まれている浩司を見た。彼は細い一重の目で睨んでくる。だが由樹は成子の逆鱗に触れることを避けるため、浩司の意思を無視した。木の枝に縛り付けられている布に手をかけた。
布を解き両腕が自由になった浩司は地面にそのまま倒れた。全身汗まみれだったため、季節外れの半袖シャツから剥き出しになった腕に大量の土が付着した。
成子の指示で浩司を清江とアンジェラが作った穴の中に座らせた。明美が腕を、由樹が足を持って穴の中に入れた。再び両手首に布を巻いて自由を奪った。
それから由樹は茫然として全員の仕事を眺めていた。小さい虫が鳴く声が森の中に響いている。本来ならば人もいなく森閑として感興をそそるような場所なのだろうが、既に死臭が充満している不快な場所と化していた。
「さあ、明美さん。人生の転機がやって参りました」
穴の中に座った浩司の頭を見下ろしていた明美に向かって、成子は両手を広げながら大仰な言葉を吐いた。
「今、勇者明美さんは最後のモンスターを倒す場面に来たのです。正義の剣でモンスターの息の根を止めるのです。そうすれば貴方の戦いは終わることでしょう。ハッピーエンドが待っているのです。きっと貴方の余生は輝くダイヤのようになるでしょう。嬉しいですか、明美さん?」
「はい」
暗くて明美の表情はよく見えなかった。だが何か喉に詰まったような声だった。何か彼女の胸の中で負の感情が沸き出ていることは確かだろう。目の前で旦那が穴に放り込まれている。どんな気持ちなのか想像ができない。いや、したくない。
「よし、明美さん、さっき渡したものを全身に塗ってあげて下さい」
怖いもの見たさで、明美に近付いて何を持っているのか確かめに行った。金色に光る液体の入った瓶の正体は、市販の一リットルのハチミツだった。明美は穴に近付いて浩司の頭頂部からハチミツをかけた。ハチミツは黒髪短髪の浩司の頭から全身に流れて行く。彼は抵抗することなく剥製みたいに動かなかった。
ハチミツを全てかけ終えると、全員で穴を土で埋めた。土を浩司の胸まで埋めて肩から上は晒されていた。地面から大きな茸が生えているような光景だった。
「よし、猿轡を外してやれ」
成子が命じると、東南アジア系の顔の男が口を押えていた布を外した。
「誰か助けてえ」
浩司は大声を出したつもりだろうが、かすれており、枯れた葉が擦れた音にしか聞こえなかった。
「明美さん、またドライバーでやっちゃいな」
成子に言われた通りに、明美は浩司の頭をゴルフボールのように、ドライバーで打った。浩司は恥を捨ててワアワア泣き出した。成子は地面から出た浩司の頭に向かった。
「女に暴力を振うことでしか自分を保てないクズなのに、まだプライドがあるんですねえ。明美さん、これを飲ませてあげて下さい」
「何ですかこれは」
明美は麦茶が入っているような一リットルペットボトルを受け取った。ペットボトルは結露して水滴をまとっていた。中身は白い液体だった。
「それはキンキンに冷えたハチミツ牛乳です。旦那さんも喜ぶと思いますよ」
明美は埋まっている自分の旦那の口にペットボトルの口を持って行った。彼は喉を鳴らしながら飲み続けた。離れて立っていた由樹の耳にも嚥下する音が聞こえた。相当な時間拘束されて、何も口にできなかったのかもしれない。
三分の一ほど減ったところで明美はペットボトルを口から離した。
「おい、全部だよ」
成子は明美に対して声を張り上げた。
怒鳴られた明美は慌てて再びハチミツ牛乳を飲ませ始めた。浩司はこれ以上飲めないらしく、口から吐き出した。
「飲め。全部飲ませろ」
明美も浩司も二人でひいひい言っている。
「では、明美さん、これを毎日やってください」
「え」
「毎晩、ここに来て旦那さんに冷えたハチミツ牛乳を飲ませるのです」
「何でですか」
一体何を考えているのか由樹にも見当が付かない。
「分からないのですか。このまま空腹のままハチミツ牛乳を飲ませれば、彼は腹を下すでしょう。そうすれば土の中で下痢便を漏らすことになります。ずっと下痢便にまみれている旦那さんの肉は腐っていきます。腐肉は蛆などの虫たちの餌となるでしょう。それに加えてハチミツも塗り直しておくように。虫が寄って来て旦那さんの肉を食べてくれますから。そうやって徐々に殺していくのです。存在が霞になっていくように、殺してあげるのですよ」
どうやら明美に浩司の腐敗していく過程を見せたいようだ。由樹は成子に恐怖を抱くと同時に、発案する力に恐れ入った。自分ではそんな殺害方法など一生思い付かない。
「とりあえず、今日はこれで帰りましょう」
成子の言葉を聞いて、三人の男のうちの一人、黒縁の眼鏡をかけた太った男が旦那の口に布を再び当ててから、全員で車に戻った。
「ここから私の自宅は近いです。今日はもう遅いので、ウチで泊まって下さい。ここは田舎なので暗くて危険ですから」
と、成子は車に乗り込むと全員に向かって言った。
※
「ウチに着きました」
成子に言われて窓から外を見た。車は交通量の少ない田舎道に路駐しているようだ。暗闇の中で、うっすらと乾いた畑が右手に見えた。左手には瓦屋根の二階建ての立派な家々が細い木々を背にして建っていた。それぞれの家の窓からは家庭的な明かりが洩れている。
「さ、降りましょうか」
成子が扉を開けて外に出た。他の四人の女と三人の半グレの男は、彼女に続いて降車した。外灯すらもないところだ。彼女はこんな地味な場所に住んでいるのだろうか。
清江が由樹の傍に立った。何も言って来ず、由樹の顔すら見ようとしない。騙して悪かったと思わないのだろうか。
乾いた風が清江の白髪交じりのケアできていなくて汚い短髪を乱す。細かい枯草が乱れた髪に引っ付いた。
全員で畑を右手に歩いていると、小さな二階建てのアパートが現れた。白い壁に緑色の屋根で、壁の汚れ具合から築五十年くらい経っていそうだ。人間よりも幽霊の方が沢山住んでいそうなところだ。
成子は一階の右から二番目の部屋の扉を開けた。
「さあ、皆さん入って下さい。明美さん、清江さん、アンジェラさん以外は初めて来ますよね。狭いところで悪いですけど、ゆっくりして行って下さい」
三人は成子の自宅にて過ごしていたようだ。驚きだった。清江はやはり成子に取り込まれている。その期間に何が行われていたのか、由樹には想像できなかったが何だか嫌な感じがした。
小さい玄関の三和土でスニーカーを脱いで奥へと続く廊下に足を踏み入れた。ベタっとして靴下が廊下のフローリングに引っ付く。家の中は物が少なく殺風景だ。生活感がなくて煩雑とした印象は受けないが、掃除は全くできていないようだ。廊下の壁は全て段ボールで覆われて、プチプチが段ボールの上に被さっていた。何のためにこんなことをしているのか。不気味だ。
廊下を渡り、奥の扉を開けると居間になっていた。居間の壁も全て、段ボールとプチプチで覆われている。
「今日はご馳走にしましょう。貴方、お寿司の出前を取ってくれない?」
部屋の中に全員が入ると、成子が赤ん坊のような童顔の男に出前をするように頼んだ。どうやら彼が成子の旦那のようだ。明るいところで見ると、彼は少年顔のイケメンに見えなくもなかった。彼女は家の中でも細い縁の赤い眼鏡をかけて、ワイヤレスイヤホンを片耳に付けたままだ。
旦那は彼女に言われた通り電話をかけ始めた。どこも仲が悪そうに見えなかった。彼女が旦那デスノートに投稿していたことが不思議で仕方なかった。
成子の旦那が電話をしていると、ドスンという何かが倒れた音が聞こえた。何が起きたのかと思って見ると、明美が居間の床に倒れていた。息も荒くなって過呼吸のような発作を起こしていた。自分の旦那を殺したことによって精神が摩耗して立つ気力すらもなくなってしまったのだろうか。よく観察して見ると彼女は涙を流していた。
「何寝てんの」
倒れた明美を見下ろした成子が聞いたことのないような重たく冷えきった声を出した。ゾッとした。今まで成子は猫を被っていたが本性を現したような気がした。
「ああああ、すみませんすみませんすみません」
明美は自分の重たい体を無理矢理起こして、成子の足に縋って半狂乱のように謝り始めた。
「まったく、情けない」
成子はポケットから何か取り出した。山に持って行ったスタンガンが握られていた。嫌な予感がした。彼女は少しも臆することなく、明美の鎖骨辺りにスタンガンを当てて通電した。
何が起きているのか理解できなかった。五人はこの計画において、仲間同士じゃないのか。どうして明美はスタンガンを当てられたのか。明美の甲高いギシギシした叫び声が部屋中に響いた。体を起こして正座した明美は前後に揺れながら、あわあわわわわ、と意味不明な言葉を発した。
どうしたのか。由樹は他の人たちの様子を確認した。アンジェラは自分の爪先を見て、明美に視線を向けないようにしていた。清江は口元を抑えて目を瞑って明美の姿を見ないようにしていた。清江はどういうことか知っているのだろう。詳しく聞きたかったが、周囲の様子から何となく聞き出せなかった。
ただ、まずいところに来てしまったことだけはよく分かった。空気が腐っている。ロクなことが行われていないと察することができる。
明美の通電が終わってしばらくの間、部屋の中は沈黙で満たされた。すると強烈な異臭が漂い始めた。見ると、明美が正座したところから下痢便が流れ出ていた。
「何してんだよ」
成子が怒鳴り、明美の首筋に再び通電する。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
明美は土下座して謝る。床に頭を付けたため下痢便が前髪に付いた。下痢便で汚れた前髪が彼女の傷だらけの額に貼り付いた。
「どうすんのそれ」
成子に言われ、明美は紫色の唇を震わせるだけで何も言えない。ずっと黙ったままだった。視線もどこに向いているのか分からない。右目と左目が別の方向を向いている。成子はわざとらしい大きな溜め息を吐いてから、
「いつも通りにしろ」
と、吠えた。
「それだけは勘弁してください。お願いします。お願いします」
明美は懇願していた。何をするのだろうか。
「早くしろ」
恫喝され、明美は両手を器のようにして床に零れる黄土色の液体を掬った。下痢便を口に入れた。由樹は見ているだけで吐きそうになった。どうして明美は成子に逆らわないのか。
一口に入れただけで、吐き出してしまう。
「おお、おうぇ」
明美の口から下痢便が出て来た。少々液体の量を多くなっていた。胃液が交ざったのだろう。
大便の鼻孔を蔽うような刺激臭と、見苦しい明美の姿によって不快感が最高値に達した。早く帰りたい。
だが、明美は顔を皺まみれにしながら下痢便を飲み続けていた。しばらく見ていると、自分が明美ではなくて良かったという安心感も生まれた。ひたすら一人の女の惨劇を見ていると、この女のようには絶対になりたくない、と思える。
「くっせえな」
電話をした後、ソファに寝転んでいた成子の旦那が明美に向かって怒鳴った。
「ごめんなさい」
明美は仔羊みたいに震えていた。彼女はここに何日ほどいたのだろうか。様子を見ていると、暴力を受け慣れているように見える。だから怒鳴られたりすることに違和感を覚えない。恐らく、これまでの間にも成子から暴行と暴言を受け続けたに違いない。
明美は旦那を殺しても自らの悲惨な生活を変えることはできなさそうに見える。この部屋にいる限り、成子からの無意味な虐待に耐えなければいけないのだから。
ピンポン、とインターフォンが鳴る音が聞こえた。
「清江さん、お寿司が来たようなので玄関まで取りに行ってくれないかしら」
成子が一変して甘い口調で清江にお願いした。清江は、ハイ、と上擦った声で返事をして、そそくさと玄関へ向かって行った。
寿司桶は明美の分を除いて人数分あった。マグロの中トロ、うに、生サーモン、カニ、いくら、アナゴなど、選り取り見取りだった。だが、下痢便臭のせいで食べる気に全くならなかった。
「さ、皆さん椅子に座ってご飯にいたしましょう」
と、成子が言うと、清江もアンジェラもそそくさと席に着いた。緊迫したものを感じたので、由樹も何となく彼女たちと同じように席に座った。男三人も椅子に座った。明美は相変わらず正座をしたまま動かない。成子は食卓の前に立ったまま声高らかに喋り始めた。
「皆さん、我が家にようこそ。目の前にあるご馳走は私から皆さんへの感謝の気持ちです。これから多くの殺人を犯していくことになるでしょう。そのためには結束する力が大事になってきます。なので、今日のこの時間に皆さんで決起会を行うことにしました。皆さんのコップに私から緑茶を入れさせていただきます。それで乾杯した後、飲み干して下さい。それが皆さんの合意を意味するものとします。もし飲み干さなければ」
成子は床に正座をする明美をチラっと見た。もはや選択の自由はないではないか、と由樹は恐怖を覚えた。合意すれば殺人犯になり、拒否すれば暴行されることになる。こんな理不尽なことはない。元の生活を変える気など、もうとっくのとうになくしていた。どうしてこんなコミュニティに入ったのか。悔やんでも悔やみきれない。旦那デスノートなどやらなければ良かった。
成子が台所から冷えた緑茶のペットボトルを持って来た。全員の目の前に、透明のグラスが置かれている。彼女は一人ずつグラスに緑茶をノソノソ入れ始めた。由樹の前にも成子がやって来た。
「由樹さん。ありがとうね。しっかり者の貴方が来てくれると本当に助かるの。頼りにしているわよ」
緑茶がグラスに並々注がれた。これを飲み干したら由樹は殺人仲間になる。彩花や隆広の顔が思い浮かんだ。助けてほしい。今までこんな感情にならなかった。自分がしっかりしなければ、とずっと思って来たので家族に希望を抱くことをして来なかった。だが、今は切実に隆広に助けてくれと願った。
「では、皆さん。グラスを持って下さい」
周囲を見ると、全員グラスを持っていた。童顔の旦那は自分の妻をまっすぐ見つめていた。東南アジア系の顔の濃い男も黒縁眼鏡のデブも迷いがなさそうだった。アンジェらは動揺しているのか、緑茶が零れるほど震えていた。清江は震えこそしていなかったが、顔が土気色になっていた。由樹は仕方なくグラスを掲げた。
「では、乾杯」
と、成子が言うとグラスをぶつけ合った。ギチリという音が響いた。由樹は成子に従うしかなかった。悲惨極まりない明美のようにはなりたくなかった。
※ 成子
みんなで寿司を食べている光景を見て思う。夫は今、自分の働きを賞讃しているのだろうか。実際に彼が自分をどう評価してくれているのか分からない。分からないから不安で仕方がない。もし少しでも認めてくれるのであれば優しい言葉を聞かせてほしい。あの時のように。
「成子はこの女のように馬鹿じゃないから好きだな」
初めて夫の部屋に遊びに行った際にサヤカとユウコを指差しながら言ってくれた言葉だ。ボロボログチャグチャになった体を晒しながらお互いに傷付けあっている二人を見ながら言われ、より自分が優れているように思えた。サヤカがユウコの顔の中心を火で炙っていた。自分はこんな愚かな行動をしない。
「お前たちは成子のようになりたければ、僕への気持ちを行動で示してほしい」
と、夫が言った途端、二人の女は野太い声で叫び出してお互いの顔面を拳で殴り合った。気持ちの示し方がお互いを傷つけることしか知らないようだ。
だが一方で初めて見た強烈な暴力によって成子は完全に固まった。夫がどんな人物なのか分からなくなってもいた。本当にこの男性と結婚して良いのか疑心が沸いて出た。成子の心配する気持ちを察してくれたようで、夫は打って変わって優しい言葉をかけてくれた。
「成子さん、貴方は幸せですね。この女たちを見て下さい。彼女たちは僕を得るために悲惨な目に遭っているのです。ですが、貴方はこんな野蛮な行動を取らなくても僕と結婚できるのです」
成子は隣に立っていた夫の顔を見上げて尋ねた。
「本当に? 本当に、私と結婚してくれるの。この女たちじゃなくて私なのね。本当なのよね」
あの時、確かに言ってくれた。本当だと。
この時、幼少期の自分を振り返った。あんなに無様な子供だった女の子がこんなイケメンと結婚できるだなんて、と感慨深くなった。
あの時のように褒めてほしい。一人の女として認めてほしい。彼の声を待つ。だが、聞こえて来る音は明美の啜り泣きの声だけだ。
(第二章に続く)
第二章 嘔吐物の広がる穴倉に、戦慄の波紋に囚われる
成子の自宅に来てから一週間が経った。彼女は由樹たちを帰してくれなかった。貴方は殺人犯なのよ、と脅されて帰ることを許されなかった。玄関にも男三人がローテーションで見張りに立っていた。旦那以外の男は一体何者なのかも明らかになっていない。
スマホを盗られたまま返してもらえないため、カレンダーを確認できない。何回目の夜に日にちを数えることしかできなかった。
一週間の中で事件が起きた。明美が旦那にハチミツ牛乳を飲ませに行った際に逃亡した。
逃げて当然だと思った。明美は食事もまともに取らせてもらえず、睡眠も取ることができなかった。由樹が起きている時は常に廊下で正座していた。顔は白紙のように色を失い、骸骨が蹲っているように見えた。生気を全く感じられなかった。このままでは栄養失調で死にそうに見えた。そんな状態で、ハチミツ牛乳を飲ませて徐々に殺すために死にかけの旦那の元に行っていた。逃げて当然だろう。
だが、結果的に三日で連れ戻されることになった。三日前、由樹とアンジェラと成子の旦那の三人で、明美を探して来るように成子から命じられた。
「あの山の付近には駅やバス停などはありませんので、遠くには逃げられていないのです。私は明美さんを信用していないので、GPSチップを服の背中に付けておきました。それを頼りに連れ戻して来て下さい」
成子の旦那の運転で明美を捜索することになった。由樹はアンジェラと並んで後部座席に座った。数日ぶりに成子の監視下から逃れることになった。成子の旦那はスマホを操作してブルートゥースで車のスピーカーに接続して、爆音で昭和歌謡曲を流し始めた。由樹は世代ではないので、誰の何の曲か分からなかった。
車は発進して田舎道を進み始めた。音楽のボリュームが大きいため、アンジェラとこっそり自由に会話ができそうだった。旦那は成子と違い、そこまで監視が厳しくなかった。何を喋っているのか聞かれさえしなければ、会話をしていても問題ないだろうと見た。
「ねえ、アンジェラさん。このままこの計画に参加し続けるんですか」
由樹はアンジェラの方に顔を近付けて尋ねてみることにした。アンジェラは急にハッとした顔になって、
「もう嫌です。嫌だ。もう人殺しなんて嫌です」
と、突然静かに泣き出した。帰りたくないのか、と質問されて正気に戻ったのかもしれない。ずっと口に出すことを我慢していた本当の気持ちなのだろう。運転席にいる旦那に気付かれないように、彼女は顔を抑えて隠した。
アンジェラは殺人を実行するまで、深く考えていなかったのかもしれない。まさかこんなことになるとは思っていなかったのだろう。
「私だってそうよ」
由樹はアンジェラを仲間に加えて何とか成子のアパートから脱走できないかどうか考え始めた。だが、アンジェラは店を三日連続で無断欠勤したことを相当気にしているようなことを言い始めた。そこじゃないだろ、と由樹は若干呆れた。だが、彼女しか仲間に引き入れられそうにない。頼りないが一人よりはマシだ。
「とりあえずさ、私もう次の殺しには参加したくない」
と、隣からか細い声が洩れて来る。彼女は両手を顔から離して前を向いていた。
車の窓から月の光が差して来て、アンジェラの横顔を明るく照らす。くすみがなく比較的綺麗な頬の肌を眺めながら考え事をした。どうすれば殺害を止めることができるか。
今回、明美が逃亡した理由には、もう自分の旦那を十分痛めつけ終えたという要因もあるだろう。では、今も計画を継続したいと考えている者は成子と清江だけになる。二人になった今、行動に移すことは難しいのではないかと考えた。
「それに、偽装結婚相手のツヨシと離婚することになったのです」
アンジェラは顔を由樹の耳元に近付けて囁くように言った。
「これで大輔君と一緒になれるんです」
「おめでとう、どうして急に」
言葉とは裏腹に、何だか気に障った。アンジェラが殺害という経路を辿ることなく旦那と別れられたのが気に入らない。自分は脱走できたとしても、これからも隆広と一緒に暮らさないといけない。アンジェラだけ狡いように感じた。
「うん。何かね、ツヨシはですね、またフィリピンに行って違う女の子を連れて来るのです。それで次はその子と結婚するから」
また新しいフィリピン人の女の子と結婚するのか。そのためにアンジェラとは離婚をしないといけない。
「でも一人の男が、そんな何人も結婚するのはどうしてなの」
由樹にはそこが疑問だった。久々のまともな会話だったため、自然と長引かそうとして質問が口から出た。
「戸籍に傷が付くようなものって言ってたのです。それが理由で、全然やりたい人なんていないんだって。しかも偽装結婚相手になっても年間百万も貰えないみたいです。悲しいね」
「そっか、そのツヨシっていう男を元締めみたいな親玉の人たちが、結婚相手として使い回しにしているってことか」
「多分そういうことです」
「そしたらさ、でもアンジェラも日本にいる理由がなくなったことになって、ビザが無効になるんじゃないの」
「ううん、大丈夫です。半年間は日本にいれるって大輔君が教えてくれたの。それまでに大輔君と結婚できれば大丈夫です」
「また男と一緒に住むの」
由樹は心配と嘲りの気持ちを持っていた。
「うん、大輔君は優しいから。それにタンテーの仕事しているのです。カッコいいですよね」
「でも、今まで一緒に住んでたよね、そのツヨシっていう人と。また同じような生活に戻るかもしれないんだよ」
「そんなことないです。だって今までは部屋の物全部ツヨシのものだったの。冷蔵庫だって使えない。そんな生活もう嫌です」
アンジェラの生活が察せられた。一人の男の部屋に居候のような形で寝起きをしているようだ。しかも居室は一つしかない部屋なのだろう。出稼ぎの身は想像以上に辛いようだ。
アンジェラはポケットから何か取り出した。左手にはラベンダー色のハンカチが握られていた。正方形に綺麗に畳まれて不自然に厚みがある。彼女曰く恋人の大輔がくれた物だ。
「このハンカチですね。これは大輔君がツヨシとの生活を心配して作ってくれたの。これまでツヨシと一緒に住んでいて、他に男と連絡取れないように私のスマホは家では没収されちゃう。だからこういう風に作ってくれた。でも、今回も役にたったのです。成子さんにスマホは取られたけど、これは取られなかった。成子さん、渋谷で喋ったこと忘れているみたい。聞いてなかっただけかも。あの人耳悪そうだし」
不覚にもアンジェラの愛され方が羨ましくなった。他人に羨望を抱く自分自身に怒りを覚えた。意識的に苛立ちを消し去り冷静になって、元の話題に戻した。
「まあ、いいや。でもそしたら、もうこの計画から去るって決めたのね」
「うん。私は今までと同じように働いて、フィリピンにお金送る」
健気で芯が強いのか本気の馬鹿なのか。由樹と育った環境と大きく異なるようだ。アンジェラはラベンダー色のハンカチを大事そうに眺めていたが、
「でも、怖い」
と、急に弱気になった。
「ん、何が」
アンジェラは再び泣きだしそうになっていた。
「成子さんが怖い。謝らないといけないことがあるんです。由樹さんの頭殴ったの私。ごめん。成子さんに逆らえなかったです。怖い男の人たち連れて私を脅すからです」
成子は由樹を連れ去るために清江だけではなく、アンジェラも使っていたようだ。清江に外に呼び出すように指示し、戻って来るタイミングを逆算し、アンジェラに殴らせたようだ。
「とんだヤバいヤツだな」
「ごめんなさい」
成子のことを言ったのだが、アンジェラは自分が言われたと勘違いしたようだ。
「ああ、成子のことだよ。あの人はどうなっているんだ」
浩司を殺した時の光景を思い出した。彼は今も土の中から頭だけを出して腐敗しているのだろう。どこからこんなやり方を知ったのか。普通に生きていたら絶対にあんな残酷な殺人方法なんて知ることはない。
「でね、清江さんも由樹さんに謝りたいらしくてさ、今度成子さんがいない時に三人で喋りたいです。由樹さんも清江さんに謝られたら許してあげてほしいです」
うん、と一応頷いて見せた。
「明美を見付けたぞ」
と怒鳴る声が運転席から聞こえた。フロントガラスから前方を見ると、錆びたトタン屋根の小屋があった。その中に慌てた様子で逃げ隠れる女性の後ろ姿が確認できた。見たことのある車の姿を見て、焦って小屋の中に逃げたのだろう。だがこれは悪手だ。小屋には扉が一つしかないように見えるので、逃げ場を完全に失ったことになる。
行くぞ、と成子の旦那に手で合図されて由樹とアンジェラは小屋の中に突入した。
扉を開けると中はがらんどうだった。誰も使っていないらしく、道具も何も置かれていなかった。そんな空間の中に、明美が一人隅っこでうずくまっていた。
「おい、よくも逃げやがったな。来い。帰るぞ」
成子の旦那が明美の着ている黒のTシャツの襟首を掴んで小屋から引っ張り出そうとしていた。
「嫌だあ。無理い。もう死ぬから許してえ。行きたくない行きたくない。死にたい死にたい」
と、明美は恐怖から超音波のような甲高い声で叫び散らしていた。体を無理矢理引き摺られながら、両足をジタバタさせて必死に抵抗していた。
外に連れ出されてから、明美は車の後部座席に押し込まれた。由樹も乗り込むと、車内は大便の甘みが含まれた彼女の体臭によって鼻がもげそうになった。明美の体からガス漏れのような音がする。体が壊れているようだ。
成子の自宅に戻ると、明美は成子と対面した。明美が玄関の三和土に立ったまま、成子の顔を見て動けなくなっていた。薄暗い廊下に成子の白い顔が浮いて見えた。
「明美さん。お帰りなさい」
成子は明美のことを抱き締めた。予想していなかったことだったので由樹は心底驚いた。絶対に通電地獄が待っていると思っていた。
「ごめんなさい。貴方が逃げるほど辛い思いをしているとは思っていなかったの。もうあの男のところに行かなくていいわ。本当にごめんなさいね」
赤子を扱うかのように明美の足から靴を脱がしてあげて、彼女の手を握りながら廊下を歩いていた。
「でも、私も気を付けるから、明美さんも私を失望させないでね。もう辛い思いをさせないようにするから、私の前から逃げていかないでね。私たちは浩司さんを殺した犯罪者同士なの。だから運命共同体なの。どちらも裏切ることは許されないの」
二人は一緒に居間の中に入って行った。由樹とアンジェラも彼女たちに続いて居間に入ると、明美が入り口近くで棒立ちしていた。
「どうしましたか」
と、明美の顔を覗き込もうとすると、床に人が倒れているのが目に入った。清江だった。清江は体を横にして、羽化寸前の蛹みたいな動きで身悶えしていた。由樹たちが驚いていることに気付いたのだろう成子は清江の傍に立って、
「この方は酷い裏切り者なのよ。次は貴方の旦那を殺すわよって伝えたら、いきなり泣き出しちゃって、やめてくださいって叫び出すの。だから男たちに頼んで、股間に電気流してもらったの。ねえ清江さん、今どんな感じなの」
清江の乾燥した皺まみれの頬に涙の痕が付いている。彼女の惨めな姿を目にした由樹は何が起きたのか全く理解できなかった。清江は成子の計画に最終的には賛同して、彼女に付いて行くと言っていたはずだ。なのにどうして、女性器に電気を流すほどの拷問を受けているのか。自分の夫を殺すことが決まる実感が沸いて来て臆したのだろうか。
由樹が突っ立っていると、成子がスタンガンを手渡して来た。
「由樹さん。貴方も清江さんに罰を与えるのですよ。それが貴方のためになるのです。なぜだか分かりますよね。清江さんに覚悟を決めてもらうためと、由樹さんの結束意識を高めるためなんです。一人の犠牲を出すことで、他の人たちの集団としての結束が高められますからね。学校であったイジメと同じ原理ですよね。だけど今回はイジメと違います。今回は清江さんの旦那さんを殺すのですから、清江さんにはしっかりしてもらいたいのですよ。ただの犠牲ではございません」
ただの犠牲ではないか、と成子に反感を覚えた。清江が百パーセント損するのだから犠牲と言って良い。だが、ここで清江に手を下さないと自分が清江と同じ目に遭うのではないか、という恐怖を抱いた。
自宅には娘の彩花が自分の帰りを待っていてくれている、という現実を思い出した。ここで自分が死ぬ訳にはいかない。どんな手段を使ってでも生き延びて家に帰らないといけない。
由樹は清江の安物のペラペラなジーンズに手をかけた。引き摺り下ろすと、ジーンズの内側に血糊がネトっと付着していた。大陰唇がズタズタに引き裂かれて出血していた。小陰唇は浅黒く乾涸びて乾燥ワカメのようだった。体液が発酵したようなズシリと鋭利な悪臭が漂う。痛みが和らいでいないのか、まだヒクヒクして生きているようだ。思わず視線を逸らした。
「さあ、由樹さん。やっちゃってください」
早く終わらせたかった。スタンガンの電極部分を清江の陰部に押し付けてスイッチを入れた。
バチバチという音と共に、雷鳴と金属音の混ざったような叫び声が部屋中に響いた。叫ぶと同時になぜか歯が一つ口から飛び出した。成子は歯を拾って由樹に見せつけた。
「グッジョブです、由樹さん。やっぱり貴方は優秀ですね。今日は由樹さんだけステーキを食べさせてあげちゃうわ」
と、成子は由樹を絶賛した。成子がご機嫌になってくれたので安心感を抱いた。通電して良かったね、と由樹の本能が自身に告げている。これで自分の身の安全を確保できた。彩花のためだ。清江にはしっかり犠牲になってもらおう。
清江への拷問は毎日繰り返された。清江は睡眠を取ることを許されず、食事も一日にパンが一枚食べられるかどうかといった生活になった。これまで明美が受けて来た仕打ちを清江が受けることになった。明美は一日二時間のみ睡眠を許されるようになった。だが、少しでも成子の機嫌を損ねるようなことをすると、すぐに由樹やアンジェラに通電させられるような生活だった。
以前、明美が成子から、清江に自分の小便を飲ませることを命じられていた。だが、その時は小便を出すことができなかった。
「明美さん、私の言ったことを実行できないんですか。逃げた時のように、また私を失望させるのですか。いい加減にして下さい。由樹さん、やってあげて下さい」
スタンガンで明美の陰部に通電を繰り返した。彼女はスタンガンを見ただけで怯えを通り越して薄黄色い泡を吹くようになった。
由樹やアンジェラは明美と清江を虐げるたびに褒められ、ご馳走まで食べさせてくれることもあった。そして夜、成子と一緒に寝ることを命ぜられるようになる。
寝室にて、ベッドの上で成子と一緒に横になっていた。彼女は寝る時もワイヤレスイヤホンと老眼鏡を外さなかった。
成子は由樹の細い腰から臀部を撫でまわし、乳房を弄ぶ。成子の肉が湿って温かかった。彼女に抱かれていると安心感がある。こんな気持ち初めてだった。隆広に抱かれている時すらも感じられなかった綿毛のような快楽を、成子の蔦のように体に絡む温もりによって感じさせられた。
時刻は夜の二時くらい、成子の隣で寝ている。彼女に抱かれて過ごす夜がどんどん増えている。由樹かアンジェラのどちらかが成子のベッドで一緒に寝るか、成子が一人で寝るかだった。
清江はもう何日も睡眠を取っていないためか、意味不明な譫言を発するようになった。夜中、成子と一緒のベッドで横になっていると、廊下から清江の独り言が漏れ聞こえて来る。ぴーちくぱーちく、と一人で騒いでいた。
「由樹さん、あの時はごめんなさいね」
「え、何のことですか」
成子の手が由樹の頬を撫でる。
「由樹さんの自宅の前で待ち伏せした時があったでしょ。あの時の話」
浩司殺しの日に拉致したことに関して、初めて成子の口から謝罪された。
「私ね、あの時はまだ由樹さんのことを信用していなかったの。だって殺人計画自体良くないって言ってたでしょ。今から考えたら正義感から言ってくれていたんだと分かるけどさ、あの時は私に反発しているだけにしか思えなかったんだ。余裕がなかったの。許して。ごめんなさい。由樹さんなら許してくれるって信じている」
黙っていると成子は由樹の唇に自身の唇を押し付けた。
「はあ。由樹さんの唇って、ホントに柔らかい。どうしてそんなに美人なの。私も由樹さんみたいな見た目で生まれて来たかったわ」
成子は優しく由樹の顔を撫でた。満更でもなくなっていた。夜、眠気が良い感じに由樹の思考を鈍化させてくれる。逃げ出したい気を抱かせなくさせる。
成子が自分だけに向き合ってくれて可愛がってくれる。夜一緒に眠るために生きているような気にもなった。思わず成子の胸に顔を埋めた。マシュマロのように柔らかかった。
「もお、甘えん坊さんね」
成子は自らの乳房を由樹の前に晒す。とても大きな乳房にコーヒー味の飴みたいな乳輪がポロンと付いていた。舌を這わしてみた。不思議と甘い味がした。本当に甘いわけではないはずだが、脳が勝手にリラックスして目の前の状況を良いものと捉えさせている。
成子に甘えることで、今まで気を張って生きて来たことを自覚できた。彩花の教育に熱心になり、美貌に似合うような幸せな生活を送ることに腐心していた気がした。
「舐めるの上手ね、由樹さん」
彼女の大きい体に覆い被された。彼女の膨れた腹が由樹の顔を覆い尽くす。窒息しそうになって何も言うことができない。だが柔らか過ぎて苦しくない。
「清江さんの旦那さんを明美さんに捕まえさせに行きましょう。そして清江さんと一緒に屠ってしまいましょう」
急に凄みのある声で提案して来た。驚いた。だが由樹は口を腹で塞がれて何も反応できなかった。
「とても良い考えだと思うの。清江さんの旦那さんを浩司さんの時のように殺して、ハチミツ牛乳を飲ませるのと一緒に清江さんの肉で作った団子を食べさせようと思うの。だって清江さんは旦那からの愛が感じられなくて旦那デスノートに書き込みしてたんでしょ。じゃあ、最期くらいは夫婦お互いに愛情を示し合ってもらわないと。大丈夫よ、由樹さん。貴方ならできるわ。肉団子の作り方なら分かるから。北九州である事件があってね、殺した人の肉を解体してからミキサーとかで細かくして魚の餌にするために肉団子にした例があるの。だから大丈夫。心配なんてしなくて良いのよ」
腹の肉に顔を圧迫されながら成子の言葉を聞いていると、段々眠りに落ちて行った。このままここにいては駄目だと分かっている。今、意識が沈んで行くように、逃げなければいけないという自我が溶け出している。どうすれば良いのだろうか。どこかのタイミングで逃げ出さなければ、いつかは明美や清江のように虐げられる立場になるだろう。何となく分かっているが、動けない。
清江が眠りに就かないように監視する日が訪れた。玄関前に男が一人いて逃げられそうにはなかった。アンジェラも起きており、夜の暗い部屋の中で一緒に居間の床に座っていた。三人で会話をしたかったからだ。光源はカーテンの隙間から差し込む月光のみ。月の光に照らされた清江は、至って普通の様子で座っており、譫言を発する様子がなかった。
「清江さん、大丈夫ですか」
アンジェラは床に正座させられている蒼白い光を浴びた清江の顔を覗き込んだ。うん、と清江はしっかりした目でアンジェラを見返して頷いた。
最近の清江の発狂は演技だったのではないか、とふと思った。狂った者が独り言を言うという話は有名だ。それを参考にして清江は一人で意味のない言葉を吐いていたのではないか。何のためなのかは理解できなかったが、何となく自分を弱者に見立てたかったのだろうと察せられた。弱者になれば、苦しめられているものから解放されるとでも思っているのだろう。
「あの。私、由樹さんに、謝りたくて」
清江は下を向いたまま冷静な声で喋り始めた。
「まさか私を外に誘き出すための目的だったなんて、あの時は信じられなかったですよ」
由樹は思わず喧嘩腰になってしまう。誘き出したことだけではなく清江が弱者ぶっていることも許せなかった。彼女が外に出るように言わなければ、由樹は襲われることはなかった。今日謝ったのも清江の意思ではなくてアンジェラに勧められたからのように思える。自分だけ助かろうとする狡猾な彼女が、積極的に謝罪しようと思うだろうか。確率的には相当低いはずだ。それなのにどうしてションボリしているのか。加害者が被害者の前で萎んで見せるとはどういう神経をしているのか。
「そんな風に、言わないで、下さい。私は、由樹さんと平等な関係に戻りたい、と思って謝罪することに、決めたのですから」
平等な関係とはどういうことなのか。以前から対等に話し合ったことなどあっただろうか。言ってしまえば、毎回計画から抜けるように説いていたのは由樹であるため、自分の方が正しくて上の立場だったではないか。そんな状況で平等に戻りたいと言われたことに腹が立った。
「で、謝ってくれるなら、私の望みも聞いてほしいんだけど」
「え、望み? 何のこと」
由樹の言葉に驚いて見せながら、清江がアンジェラの顔を睨んだ気がした。アンジェラに対しては強気になれるのか積極的に助けを求めているように見えた。やはり、今日三人で喋って謝罪したこともアンジェラの後押しがあってのことだったのだろう。
由樹の中で着々と怒りが蓄積していく。
「そう。もう成子さんの計画から降りて、この部屋から脱出すること」
声のボリュームを一際落とした。今、玄関前にいる東南アジア系の男に絶対に聞かれてはいけない。
次は清江の旦那と清江本人が殺されると知っている。いくら清江が気に入らなくても見殺しにはしない。気分が悪くなるからだ。
「え、それは、ちょっと」
暢気なことを言っている。彼女は自分の命が狙われていることを知らないからだ。清江はアンジェラに助け船を求めているようで、彼女の顔を見詰めていた。
「アンジェラさんに聞いてるんじゃなくて、清江さんに聞いているの」
はっきり言ってやって逃げ道を封じた。
「うーん」
なぜ自分がここまで酷い目に遭っていながら逃げることに躊躇するのか分からない。自分なら何が何でも逃げるだろう。彩花の顔を思い出して体の奥底から力と勇気を振り絞って、仲間と共にこの部屋から飛び出すだろう。
「うーん、じゃないのよ。今日この場で誓ってもらうから」
「ええ、もう由樹さんを襲わせません」
何を頓珍漢なことを言っているのか。苛立ちが爆発寸前までになった。懸命に声の大きさを抑えて言った。
「そのことじゃないでしょ。この部屋から三人で脱することでしょ」
あと少しで声を荒らげそうだ。清江は黙りこくって、首を左右にゆったり振っていた。
「何か言ってよ」
まだ旦那への殺意を捨てていないのか、と気が付いた。浩司が殺される現場を見て、まだ憎しみを消すことができないとなれば相当な怒りを抱いているのだろうか。
「今日はね、謝ることが、もちろん一番の目的だったんだけどさ。由樹さんに、私たちの計画に、しっかり向き合ってほしいって、お願いしようとも、考えていたの」
急に何を言っているのか。深夜の静けさの密度と重量が気持ち悪い。自分の激しくなる鼓動の音がはっきり聞こえる。清江は自分のことしか考えていないのだろう。だから平気で由樹を悲惨な現場に引き摺り込むような発言できるのだろう。
「嫌に決まっているでしょ。清江さん、この前の明美さんの旦那さんの死に様見たでしょ。貴方も酷い目に遭っているじゃないの。普通、もう手を引こうってなるでしょ。それなのに、どうして心変わりしないの。貴方、人じゃないわよ」
小さい声を出すことを意識しながらも、語気を強めた。これくらい言わないと清江は変わらないだろう。彼女のためでもある。殺してからじゃ遅い。
「うん、そうなんだけどさ。由樹さんの、言っていることも、分かるんだけどさ」
下唇を前歯で噛んでいる。何かを隠しており、言おうか言うまいか迷っているのか。
「何か隠しているでしょ」
「いや、別に、隠していることなんか、ないけどさ」
「人に頼み事だけしといてさ、自分にとって都合の悪いことは隠し通そうなんて虫が良すぎるわ」
清江は頭を掻きむしってから、荒い深呼吸を繰り返した。喋るための心の準備をしているように見えた。由樹は黙って彼女の準備を待った。アンジェラの方を見ると、彼女はただ下を向いているだけだ。アンジェラが何を考えているのかは相変わらず読めない。
「由樹さん。私のことを、喋ったら、力を貸してくれるわよね」
清江はタダで痛手を負いたくないようだ。
「そんなのは聞いてから決めます。聞く前からそんな決断する訳ないでしょ。私だって慎重なんだから」
清江は再び口を閉じた。良い加減にしてほしかった。どこまで我儘な婆さんなんだ、と不意に殺したくなっていた。
随分と長い間沈黙が続いた。夜明けが近付いて来たのか、外から新聞配達のバイクの音が聞こえる。口火を切ったのはアンジェラだった。
「清江さん、何があったか喋った方が良いです」
アンジェラに促された清江は、
「貴方に言われなくても喋るって」
と無意味に吠えた。由樹は今だ、と見て尋ねた。
「では、隠していることを話して下さい」
清江から唾を飲んだ音が聞こえた。
「実はうちの旦那、借金していたの」
拍子抜けした。何か突飛な告白があるのかと思っていた。ただ借金があるということだ。借金など驚くに値しない。
「しかも利息が膨らんで、今は四百万にまで、なっているみたいなの。しかも、その原因が投資で失敗したとか、私にはよく分からないこと言っててさ」
話を聞く限り清江の旦那は株の値打ちが下がり始めた際に、素早く損切りできなかったようだ。そのために莫大な損失が出て、その損を挽回するために再び別の株に逃げるように投資して同じ過ちを繰り返したようだ。泥沼に嵌って行って消費者金融だけでなく、町金からも借りていたようだ。ありがちな話だが、清江のような間抜けな女の旦那なのだから相当鈍臭いのだろうと見た。
家族の気持ちと物事の流れを読めない鈍磨は株なんかに手を出すべきではない。冷え切った家庭の父親が人の考えていることなんか読める訳がないので全く向いていない。
「じゃあ、旦那に働いてもらわないと。金融屋の取り立てがキツイなら、体を売ってどこか遠くの過酷な現場にでも行かせれば良いじゃないの。なおさら殺すべきじゃないね」
この世には誰もやりたがらない高額の給与が支払われる仕事がある。死体の清掃の仕事や原発清掃員がその類だ。
「そうなんだけどさ、保険金、があるじゃないの」
人は楽な方に流れて行く、と由樹は実感した。
「まあね、四百万くらいなら返せるでしょうけど」
「それにさ、息子の借金もあったの」
「え、息子さんは家から出て行ったんじゃないの」
清江の息子は高校を卒業してすぐに家から出て行ったという話だった。
「うん、息子は、いないんだけどさ。代わりに、闇金の取り立てが、ウチに来たの」
呆れた。清江の家族は三人揃って頭が悪い。行動力のある馬鹿ほど厄介な者はいない。
「それで、旦那さんの死亡保険で、息子さんの借金も返しちゃおうって言いたいの」
清江は馬鹿みたいに頭を横に振った。
「そんなんじゃ、とても足らないの」
「幾らだったの、息子さんの方は」
「一千万。元々幾ら借りていたのか知らないけどさ。闇金は十日三割利息、で貸し付けていたみたいで。それで息子は契約の際に、実家の住所を記入しちゃった、みたいで」
もう聞いていられなかった。聞いていて気分が悪くなる。
「それでね、続きが、あるんだけどさ。その話を、成子さんに話す機会が、たまたまあって、息子の方の借金は、返済してくれたの」
「は?」
つい大きな声を出してしまった。玄関にいた顔の濃い男が居間に入って来た。何の話をしている、と聞かれたが、何も答えなかった。男は諦めて出て行った。男も面倒なことに巻き込まれたくないのかもしれない。
「え、一千万を払ってくれたってこと」
声のボリュームを落として話を再開させた。
「うん、そう」
「あの人、何の仕事している人なの」
「さあ」
成子が何の仕事をしてお金を持っているのか、三人誰も知らないようだ。
「でも、成子さんは、全額返済してくれたの。私、その時言われたの。計画を最後まで、行ってくれる約束、ですよって」
「恐喝じゃないの、それ」
「そうかもしれないけど、実際、助かったから。それで、残りの旦那の四百万は、保険金で返そうってことになって」
成子の思い通りに清江は動いている。成子の傀儡となっている。
「貴方は納得しているの? 旦那さんを殺害することに対して」
「うん、しょうがないことかな」
「正気じゃないね」
由樹は床から立ち上がった。清江に対してこれ以上会話する気がないことを伝えるつもりだ。
アンジェラと二人で逃げることにしようと決めた。裏切り者の清江を信じていた自分が馬鹿だった。
「もう寝て良いんじゃない」
黙りこくって下を向いているアンジェラの肩を叩いて言った。
「アンジェラさんは、私の味方よ」
と、清江が座ったまま目を見開いて、立っている由樹の目を凝視して言った。アンジェラのことになると清江は強気になるようだ。
「そうなの?」
と、アンジェラに尋ねてみたが、清江が答えた。
「アンジェラさんって、不法入国者なんでしょ。罪人でしょ。そんな人、警察に通報しちゃえば国に、帰らなければいけなくなるんでしょ。そしたら恋人とも会えなくなるんでしょ」
「脅したんだね」
清江はアンジェラを脅しているのだろう。アンジェラは清江を裏切ることが怖くなっており、成子の計画から逃げることに負い目があるのではないか。負の連鎖ができ上がっている。
「そんなこと、言わないで、ちょうだい。でもね、由樹さん。もう貴方以外の人は、計画を続行することに、決めているのよ」
「明美さんは? この前逃げていたじゃないの」
「もちろん、明美さんもそうよ。私たちの味方」
現在の明美がどういう精神状態なのか分からない。ただ、清江が暴力の標的にされるようになった途端、明美は多少愛されるようになっている印象だった。
「だから、何だって言うの。それが殺人をしても良いという原因になるの? 自宅に帰らなくても良いという理由になるの」
「何威張っているの。由樹さんは一人ぼっちなのよ。忘れたの? 一度アンジェラさんに襲われたこと」
微動だにしないアンジェラを見てから、再び清江を見た。
「何、また襲うつもりなの」
「それもできるけど、貴方の自宅、知っていたから襲えたって、こともあるんですからね。そうなると、今度は貴方が、山の中で、首を晒すことになるんじゃないのかしらね」
「どうして私の自宅を知れたのよ。そこが全然分からない」
この点に関して一番不気味だった。彼女たちに自分の住んでいる住所も最寄り駅すらも教えたことはない。どうしてあの電柱の陰に成子が待っていたのか、今でも分からない。
「さあね。アンジェラさんにでも聞いてごらんなさい」
アンジェラは清江の言葉を聞いて、急いで顔を上げてクビを左右に勢い良く振って、
「私、知らないです。絶対に知らないです。本当です。」
と、大声で叫んだ。再び男が居間に入って来た。彼は叫ぶアンジェラの後頭部を殴りつけた。
車がアパートの前で停車した。明美と成子の旦那と黒縁のデブが清江の旦那を捕まえに行って帰って来たところだ。夜も更けて鈴虫とコオロギがチョロチョロ言う時間帯だ。いつの間にか秋も終わる時期になっており外はかなり寒い。
虫の声だけではなく浴室から初老の女のむせび泣く声が聞こえる。清江が泣きじゃくっている。今日は夫婦揃って死ぬことになる。狂ったふりをした清江も何となく自分も殺されることに気付き始めたようだ。馬鹿な女だ。
車の助手席から明美が降りて来た。彼女のことを待ち侘びていたのか、成子が両腕を広げて彼女の体を包み込んだ。
「お帰りなさい、明美さん。どうでした。清江の旦那さんは捕まえて来れましたか」
「はい。トランクの中にいます」
明美の姿は逃げ出した時と雲泥の差だった。何故か姿勢が良くて生命力に溢れているように見えた。成子からの期待が彼女の生活する上での糧になっているのか。すっかり成子との生活に馴染んでいるように見えた。
成子は明美に示されたトランクを開けて、中を確認した。トランクの蓋が開いた瞬間、中から人が暴れる音が聞こえた。
「由樹さん、アンジェラさん、見て下さいよ」
手招きされたので二人で見に行くことにした。見なくても大体想像ができた。
予想通り、トランクの中には小太りで初老の全裸にされたオジサンが手足を縛られて布を口に当てられ、体を丸めていた。毛深い足や胸元が生命力を感じさせ、彼の今の状況との対比が酷くて見ていられないほど気持ち悪かった。
「アンジェラさん、この前お頼みしたこと、覚えていますよね」
ヒッと言う声が横にいるアンジェラの喉元から聞こえた。彼女の顔を見ると、白目がなくなって目が真っ黒になっているように見えた。
「清江さんをよろしくお願いしますね」
アンジェラの肩をパン、と叩いてから成子は車の後部座席に乗り込んだ。
「さあ、由樹さんも行きましょう。この男を浩司さんのように埋めに行きましょう」
なかなか逃げるタイミングが見付からない。由樹は仕方なしに車に乗り込んだ。窓から外を見た。アンジェラの背中が見えた。夢遊病者のように部屋の中に入って行っていた。
翌朝、由樹は浴室の中で清江を浴槽に沈めて殺害することになった。清江の旦那を埋めに行った日、アンジェラは清江を殺害することができなかったようだ。成子が戻って来た時に清江が眠っている横でアンジェラは浴室のタイル張りの床にうずくまって、ただ泣いているだけだった。
「明美さん、アンジェラさんの体たらく、どう思いますか」
と、もうすっかり人らしさを失って何事にも無感動になっているような明美に成子は尋ねた。最近の明美はパチンコ売春で金を稼がされている、とアンジェラから聞いたことがある。体を売る仕事を他人から強制されてやる以上に精神的にしんどいことはないだろう。
「ええ、もう死んでしまった方が良いと思います」
「そうですか。アンジェラさんも殺しますか」
はい、と明美が答えた瞬間、ひしゃげるような音が聞こえた。明美を見ると彼女は血を流している頭を抱えてうつ伏せになって倒れていた。彼女の傍には成子の旦那がゴルフクラブを持っていた。見たことのあるドライバーだ。浩司殺しの際に、明美が旦那の顔を殴打したゴルフクラブだろう。
「そんな酷いこと言わないであげて下さい。明美さん、もう忘れたのですか。貴方も殺人者であるということを。自分の旦那を殺したんですよ。死の重みというのをそこで学ばなかったのですか」
床に這いつくばる明美に対して成子は言葉をかけ続ける。
「浩司さんの死に様を見たんでしょ。最期はどんな姿になっていたんですか。よく思い出して下さい。頭だけ地面から出して皮膚がドロドロに溶けて何もかもが崩れ落ちていたんですよね。それが死というものを体現しているのですよ。あれほど悲惨な目に仲間であるアンジェラさんを陥れようとしているのですか。よく考えてから発言して下さいね。こういう計画には仲間内での団結力が何よりも大事であるということを覚えといて下さい。組織の結び付きに欠陥があれば、上手くいくはずのものも上手くいかなくなりますから」
明美は成子の言葉に対して反発することなく、その通りだと思います、と何度も言って同意を示していた。何も考えていないで言葉を発していることは明らかだった。普通なら、どうして団結力が必要な時に自分を攻撃して来るのか疑問に感じるはずだ。
だが明美の対応に疑問を抱いていた由樹も、結局は成子に反抗できずに清江の殺害を行った。
何重にも毛布を巻き付けて浴槽の湯の中に沈んだ清江は、天井を凝視している。鼻や口から正体不明の液体がゆらゆらと立ち昇っていた。
震えが止まらない。頭も内側から鎖分銅で幾度も殴られているような鈍くて重たい痛みが走る。目の奥が灼熱で焼かれたような鋭い痛みを感じて視界もぼやける。鈍い痛みと鋭い痛みが交わり、体が痛みへの耐久が難しくなり、気分が悪くなる。
清江を殺した。
彼女と最後にした会話を思い出す。浴槽に寝かせてシャワーで湯を入れている時、彼女はこちらを凝視していた。しっかりした目だった。独り言を発して狂ったふりをしている時とは大違いだった。
「清江さん」
何度もシャワーを止めようか迷った。正気を保ったまま殺すことに対して尋常ではない抵抗を抱いた。だが清江は首を横に振って湯を止めないように伝えて来た。
「清江さん、どうしてですか。今、こんな形で死んでしまって良いのですか。夫の保険金を手にしたら悩みは晴れるんですよね。だったら、こんなところで諦めないで下さい」
由樹は静かに涙を流しながら呟くように言った。
「由樹さん。もう良いの。死ぬことは自業自得だって自分で分かったから」
切実な想いを吐き出していた。いつもより喋り方もしっかりしていた。人は最期を目前にすると、人生の価値が上がり必然的に発言の重みも増すようだ。
「私の五十七年の生涯、辛いことばかりだった。楽しかったのは息子が生まれてから小学生くらいまでの間だけ。他は地獄だった」
重大なことを喋るように言った。
「実はね、明美さんの旦那が死ぬまでハチミツ牛乳を飲ませたり、ハチミツを塗ったりしていたの、私なんだ。明美さんが逃げてから二週間くらいやっていたの」
「え」
信じられなかった。明美の逃亡から二週間も浩司は生きていたというのか。
「初めて行った時点で、もう腐り始めていて原型はとどめていないけどね。でも、喋ることくらいはできたの。明美さんのこと沢山聞いちゃった」
清江は自嘲気味に笑い、話を続けた。
「でさ、明美さんと旦那さんとの昔のことを話しているとね、昔の自分たちの生活のことも思い出しちゃったの。目の前にいる肉が腐りかけている旦那さんを見ていたのに、昔の夫と知り合った時のことを思い出したの。お見合いの時のスーツ姿が浮かんで来ちゃったのよ」
何となく分かる気がした。ふとした時に惚れた当時の隆広の姿が脳裏に浮かぶからだ。この部屋で過している時、ふと隆広からお台場で告白された記憶が蘇る。あの格好いい隆広がいきなり助けにやって来ないだろうか、と想像してしまう。
「でね、私、実は初めてできた恋人が今の夫なの。私はそれまで誰にも好意を持ってもらえなかった気がする。そんな私を選んでくれた夫が、今更になってかけがえのない存在だって分かったのよ。はあ。私って最低な女って思っちゃって。きっかけはただの旦那デスノートに書き込みをしていただけなんだけど。今ではこんな大事になっちゃって」
お湯が清江の口元の高さまで溜まっていた。彼女の口に湯が入り始めていたので、一旦シャワーを止めた。清江には十分思いの丈を喋ってもらおうと決めた。
「そんな大事な夫だから、当時の私は彼との間にできた子供を立派な人間にしたくて仕方がなかった。夫みたいな男になってほしい。いや、彼を超える良い男になってほしい。そして悲しんでいる女性を助けてあげれる王子のような男になってほしいって」
清江はようやく少しだけ笑った。
「気持ち悪いと思いませんか。でもそれが私なんです。それで息子の教育には全く手を抜かなかった。息子にはスラッとした体になってほしいからお菓子やジャンクフードは食べさせなかった。暴力的になってほしくないからって仮面ライダーも禁止にした。他所の変な男の子の影響を受けてほしくなかったから幼稚園以外で友達と遊ぶことを禁止した。息子が女たらしになってほしくないから女子とは話すことすら禁じた」
異常愛だ。清江の一方通行の息子への愛が全ての根源になったようだ。
「もう分かるでしょ、由樹さん。私が失敗した理由。この気持ち悪い教育方法よ。そんな私のことをね、夫はね、怖くて関わり合いになりたくなかったのかなって、今更ながら思うのよ。当時の夫の表情を思い出して一人で納得しちゃった」
ついに泣き始めた。涙が清江の両目から容赦なく流れ出て来る。続きを喋ろうとしたそうだが、上手く喋れなさそうだった。由樹は黙って彼女の様子を見守り続けた。
「ごめんなさいね、由樹さん。そうなの。夫が私のことを無視し始めたのは私の方向性の間違った息子へのスパルタ教育のせいだったみたいなの。息子が私に暴力を振うようになった時なんかは、そりゃそうだろうなって思ったのかもしれない」
清江は笑顔を作って見せた。
「でも、そのことが想像できるようになって良かった。これは成子さんに出会わなかったら、一生気付けなかったと思う。来世では同じ轍を踏まないように生きて見せるわ。ふふっ、はあ、息子が小さかった時に行った三人での沖縄旅行とか楽しかったな。それを経験できただけで私の生の価値を満たせたような気がする。さ、由樹さん。お願いします。私をこの世から逃がして下さい」
由樹は目を瞑ってシャワーの湯を再び出すことにした。
清江の解体作業は由樹とアンジェラと明美の三人で行うことになった。由樹たちは清江の死体を見下ろした。全裸で寝ており、古木のような皮膚が痛々しい。解体を始める際、最初は頭と胴体を切り離すことになった。全て成子の指示通り行われた。
三人交代でノコギリを引いて清江の首を切り離すことにした。ノコギリを少しでも動かすと、すぐに肉の繊維に引っかかって、首を切るだけでも三時間もかかった。
朱色と白が混じった肉が首の断面からニョロニョロ伸びて床のフローリングの上に広がっていた。次に明美が小さめの包丁で顔を切りつけ、そこの切り込みから残りの二人で皮膚を剝がし始めた。皮膚と肉の間から赤い液体と茶色い液体を垂れ流し、顔が溶けていくみたいだった。剝がした皮膚はみじん切りをするように包丁で細かく切った。皮膚は三人で協力して夜通し何時間もかけて剝ぎ取った。
皮膚を剥いだ肉は関節のところで切り離して小さくして鍋で柔らかくなるまで煮込んだ。長ネギの青いところと生姜を入れて臭いがなるべく出ないように工夫した。取り出した内臓は強火で液体になるまで煮込んだ。鍋の中の液体は近くの乾涸びた畑の中に流し込んで処分した。
柔らかくなった肉と骨はミキサーで細かく刻み、卵や片栗粉で一口大の肉団子を作ることになった。居間に敷いたブルーシートの上には、元々清江だった肉団子が大量にでき上がって陳列されていた。
どんな気持ちになれば良いのか。余りにも非現実的な解体生活を送っていたため、通常の人間の感覚を失ってしまったように思えた。世間ではすっかり冬になり、畑に捨てに行く際に雪が降っていることもあった。由樹は乾燥し切った自分の顔を触ってみた。成子の自宅に来てから、鏡を見ることが全くなくなった。自分が今、どんな顔をしているのか分からない。分かりたくもない。
浩司と清江、二人の死に関係してしまった。自分の精神が穢れたことで自分自身の外見も穢れたことは何となく察せられた。
危機に瀕していることは十分に理解しているつもりだ。だが、どんどん汚水が溜まっていくように、体が重くなり行動ができにくくなっている。逃げようと思っても逃げる自信もなくてタイミングも掴めない。これが慣れの一種なのかと疑えるほど、現状からの脱出が難しく思える。
「あら、綺麗にできたじゃないの」
成子は居間に入って来るなり感心した。明美は深々と成子に頭を下げた。アンジェラは成子を見た途端に、オエ、とえずいた。
「では、旦那さんの元にこの肉団子を届けましょうか」
肉団子が潰れないようにクーラーボックスに丁寧に詰め込んだ。車に乗って清江の旦那が埋められている場所に向かった。運転席には成子の旦那が乗っており、相変わらず爆音で昭和歌謡曲が流れていた。
外は真っ暗で外灯もない。星月しか光源となるものがない。その星月も曇った天気によって隠れてしまっている。何もない黒い空間をヘッドライトが切り裂きながら車は前方へと進んで行く。山の中に入った。ライトに照らされて現れる木肌のざらついた質感や、斑模様がこれから起きる惨劇の前兆に見えた。路も整備されていないため、車は上下に振動しながら進んで行く。
「着いた」
車は停車した。外に出ると右手側に斜面があり、そちらの方から人の呻き声が聞こえる。どこかに清江の旦那の首が見えるはずだが、黒く影になった樹木が乱立しており見分けられなかった。
トランクからクーラーボックスを取り出す音が聞こえた。肉団子がぎちぎちに詰まったボックスが地面に置かれた。
「アンジェラさんと明美さんはこのボックスを持って上に上がって下さい。アンジェラさんは、清江の旦那さんの居場所は分かっていますよね。毎晩行ってもらっているのですから」
アンジェラが清江の旦那を腐らせていく仕事をしていたようだ。成子の言った通り、本当に誰もが殺人に加担するようにできていた。初めてこの計画を実行しているとは思えない手捌きと計画性だ。
アンジェラと明美が二人でクーラーボックスを運びながら横歩きで山の斜面を登って行く。由樹は二人の後について進んだ。
二人が止まったので、由樹も立ち止まった。前方を見ると呻き声を発している物の影が視界に入った。黒い大きめのマッシュルームのような物体が地面から生えている。近くに寄って見ようと歩を進めると、酸を含む強い腐敗臭と便臭と生ものの臭いが交じったような刺激臭が鼻を突いた。思わず顔を顰めて立ち止まった。
「進んで下さい」
と、背後から成子に促されて鼻を手で抑えながら無理矢理進む。暗闇に慣れて視界に映るものをはっきり認知できるようになった。黒いマッシュルームのようだった物体を間近で見た。
一瞬目にしてすぐに視線を逸らしてその場からダッシュで逃げ出した。我慢できなかった。視覚と嗅覚が異常を感知して由樹に逃げるように指示した。どこまで走ったのだろうか、立ち止まったところにある一本の木の根に向かって嘔吐した。鳥肌が立つ。震えが止まらない。網膜が剥がれ落ちそうだ。先程見たものを一生忘れられそうになかった。
首から上を晒し、溶けかかったような人間の頭が、アッアッ、という声のような音を崩れた口のような穴ぼこから発していた。清江の言っていることは間違いではなかった。人が腐りかけている首が土から生えていた。
清江の旦那の皮膚は頭のてっぺんでボロボロになって地面にずり落ちていた。顔の肉はところどころなくなって骨が剥き出しだった。眼窩は潰れてなくなり、目元は垂れた皮膚で埋まっていた。口は口角が下がり、虫に食われたのか唇が全部なくなっていた。毛はすべて抜け落ちて地面に落ちていた。
一瞬見ただけで無残な有様が眼裏に焼き付いた。これからあの首だったものに対して清江の肉で作った団子を食べさせていくのだろう。そんなこと耐えられない。
自分が団子を食べさせているシーンを想像した。
肉団子を一個摘まんで、清江の旦那の方に向かう。埋まっている彼の頭だったものに向かって、
「ほら、愛しの愛しの清江団子だぞお。これを食べて清江さんの愛を受け止めるんだぞ」
と、想像だけでも寒気が走るような台詞を述べる。
アッアッ、と音を出しながら、旦那は首を逸らして拒否しようとする。そうはさせまいと、無理矢理腐った口の中に人肉団子を突っ込む。相当臭かったのだろうか、旦那はその場で吐き出した。
「おい、お前の女の肉だぞ。全部食えよ」
と、由樹は新しい肉団子を持って旦那の口に入れた。今度は吐き出さないように、清江の旦那の口元を手で抑えた。すると手で触れた彼の顔の下半分の肉が崩れた。赤茶色の液体がドヨドヨ流れ出て桃色と茶色の肉が落ちた。液体と腐って柔らかくなった肉が由樹の白い手を蔽う。
「食えたじゃねえか」
満足した表情を作る。成子に連れて来られた明美は埋まっている清江の旦那の前に来た。
「さ、明美さん」
由樹も明美に肉団子を手渡す。清江の旦那の口に突っ込んむことを指示した。だが、明美はその場で嘔吐した。黄土色の嘔吐物が清江の旦那の顔に大量にかかった。
想像しただけで気持ちが悪い。
由樹はしばらくに木に寄りかかって休んでいた。周囲から何も音が聞こえて来ないことに気付いた。静謐な空間で一人きりでいるが、夜鷹の大きな黒い翼に覆われている中にいるかのようだった。
ゆっくり息を吸い込んでから、そっと吐いた。誰の話し声も衣服が擦れる音も聞こえない。由樹は自分のいる状況を冷静に見てみた。
周囲に誰もいなくなっていた。そんな環境にいれるのは何日ぶりだろうか。もう日にちを数えることをやめていたので、成子に捕らえられてから何日経ったか分からない。
これはチャンスではないか。成子は彩花や隆広の顔を久々に思い出す。家に帰るという本来の目標を思い出した。
辺りを見渡して警戒し、斜面を下り始めた。初めの一歩を踏み出す時、枯れ枝を踏んでパキリという音が響いた。心臓が一瞬止まったかと思えるほど緊張を覚えた。
もう一度、誰かがこちらに近付いていないことを確認してから再び歩き始めた。一歩ずつ慎重になって歩く。誰も来ないだろうことを確信すると早歩きで下り始めた。
整備された道に出たので、山道に沿って下って行くことにした。左右には先程ヘッドライトで照らし出した種類の木々が生え並び、おどろおどろしい夜を演出している。
魔境から逃げ出している。彩花と隆広の顔を思い浮かべ、今帰るよ、と心の中で呟く。逃げ出すまで彩花と隆広に会うことを糧に、残虐な日々に耐えていた。二人に会うから耐えろ、と自分に言い聞かせていた。二人には感謝しかなかった。明美にとってはそういう存在がいなかったのだろう。だからあそこまで成子にベッタリになったのだろう。由樹は明美への嫌悪感を高めていた。一方で、あんなに嫌いだった隆広が恋しくて仕方がない。早く会いたい。
何分歩いたか分からないが、左手に乾いた畑が並び、右手に瓦屋根の住居が立ち並ぶ通りに出た。この道沿いに成子のアパートがある。初めて成子のアパートへ向かった時にこの道を通った記憶を思い出す。その時、右手側が畑になり左手側が住宅になるように歩いた記憶がある。ならば今向いている方向に進んでいれば、成子のアパートとは逆方向に進んでいるのではないか。ひたすら歩いていれば、いつか大きな通りに出くわすはずだ。
成子も渋谷にやって来られるほどの場所に住んでいる。ここは一都三県内に違いない。
由樹の予想は当たった。ひたすら歩いていると、秩父駅に到着した。駅前のバスロータリーにタクシーが三台停まっていた。緊急なのでタクシーに乗り込むことにした。所持金など持っていない。自宅に戻って金を支払えば良い。今は一刻も早く、成子の住居から離れることが大事だった。
先頭に停まっていた一台の窓をノックした。ドアが開かれた。
「すみません、窓を開けて走ってもらえますか」
と、乗車する前に運転手のオジサンに外から言っておいた。自分の体が汚いことを自覚しているため、運転手に迷惑をかけたくなかった。
「はい、分かりました」
運転手は振り返って由樹の状態を見た。一瞬驚いた表情をしたが、何か察したらしい。DV夫から逃げ出した人妻とでも思ったのか、面倒なことに巻き込まれたくないためか何も聞いて来なかった。
自宅の最寄り駅を行く先にした。
「結構かかりますが」
「はい、大丈夫です」
戻ってから隆広に支払ってもらうように言おうと決めた。
走行中、運転手は無口だった。由樹は窓の外から吹いて来る風に当たりながら、後部座席で眠りに就いた。昨日までまともに眠れなかった。成子の部屋に来てから、最長でも四時間しか眠らせてくれなかった。成子と男三人が交代で見回りをして、四人の女のうち三人は必ず眠らせてくれなかった。死ぬ前の清江は毎日起きていたようだった。明美もほぼ寝ていなかったようだった。由樹とアンジェラは、一日おきに寝ていた。由樹は成子のベッドで眠ることも多かった。
「着きましたよ」
運転手のオジサンの声で目を覚ました。外は相変わらず真っ暗だが、外灯や自動販売機の明かりがアスファルトを照らしていた。運賃は二万円かからないくらいだった。
「すみません、自宅からお金を持って来るので少々待ってもらって良いですか」
馴染みのアパートに近付いた時、脳内でサライが流れた。今までよく耐えた、と自分を褒めた。だが、今住んでいるアパートもすぐに引っ越さなければならない。なぜか成子にバレていたからだ。
柴崎という表札のある扉の前に立ってインターフォンを押した。外廊下の明かりには小さい虫が幾匹も集っていた。
「はい」
隆広の声が聞こえた。彼はまだ起きていたようだ。隆広の声を聞いた瞬間に涙が噴き出した。途中で涙声になった。
「由樹です。開けて下さい。お願いします」
泣きじゃくりながらインターフォンのマイクに向かって喋った。え、という夫の声が聞こえて来た。すぐにアルミのドアが開かれた。隙間から隆広が覗いていた。
「由樹」
隆広は由樹が戻って来たことと泣いていることに驚いているようだ。どんな時でも強気で泣かなかった自分の妻が泣いているのだから。由樹はその場で崩れ落ちた。
「ごめん。隆広さん。本当にごめんなさい」
「とりあえず入って。そんなところで泣き崩れないでよ。色々話も聞かないとダメだろうし」
久々に自宅の上がり框を跨いだ。何日ぶりだろうか。日にちを数えていなかったので、当然分からない。
「どうしたんだよ、その格好」
自分の格好を初めてしっかり確認できた。服はボロボロだった。自宅の明るい照明に照らされて自分の体を眺めることができた。白のTシャツはすっかり黄色くなっていた。ジーンズは茶色い血が乾いたシミで迷彩柄になっていた。由樹の自慢だった白い肌が黄色くくすんでいた。今まで暗い成子の部屋にいたため、ここまで汚れていると気付かなかった。
「とりあえず、お風呂入って来て良いよ」
「タクシーのお金払わないと」
「俺が払ってくるよ」
察してくれる隆広に甘えて久しぶりに風呂に入った。浴槽に湯を張って清江を窒息死させた記憶が蘇る。清江と旦那の話は、由樹と隆広の関係にも無関係とは言えないような話だった。彼女の死直前の言葉は戒めとして記憶に刻んでおくことに決めた。
湯船に浸かっていると、外から彩花の声が聞こえた。湯船の中に座っていたが腰が浮いた。
久々の再会になる。幼気な彩花の声を聞いて自分が母親であることを再認識した。成子なんかに負けない。母親として家族を守らなければいけない。湯船の中で成子に決して屈服しないことを再度決意した。
頭と体をよく洗った。久々に頭を洗ったのでシャンプーが泡立たなかった。四回も頭を洗ってようやく泡立った。彩花に会う前に体を綺麗にしておかなければいけな
い。思いっきり抱き着きたかった。
浴室の鏡で自身の体を詳察した。それほど傷は残っていなかった。清江の体は殴打と通電のせいで青黒く変色していたので、やはり自分はマシな扱いを受けていたようだ。清江の全身の皮膚は。痣が大量にできてニシキヘビの鱗みたいな肌になっていた。由樹の体は黄色くくすんでいたが滑らかで、清江のように醜くなってはいなかった。安心した。彩花に見せる訳ではないが、成子の部屋にいた証拠になるものを残しておきたくなかった。
風呂から出て居間に向かった。彩花はソファに座っていた。
「ママ」
彩花は顔をくしゃくしゃにして久々に会えた由樹に向かって駆け寄った。甘い匂いのする娘の体を受け止めた。この日のために辛い日々を耐えた。隆広に見守られながら彩花を抱きしめた。何て幸せな一時なのだろうか。空間が薄っすらピンク色を帯びている気がした。空気もホッとする美味さを含んでいる。今まで普通のことだったが成子の部屋から逃げたことで、味わえなかった旨みを感じ取った。
この日、久々に母親に会ったためか、夜にも拘わらず彩花はやけにテンションが高かった。普段なら夜の九時に寝ていたが、今は夜の十一時をとっくに過ぎている。由樹も隆広もそのことを注意しなかった。
ソファに彩花と並んで座って保育園での出来事の話をした。秋の発表会はとっくに終わっていたが、楽しかったと話してくれた。見に行けなくてごめん、と謝ると、彩花は笑って許してくれた。最後は彩花がソファで寝落ちして幸福の一時は終わった。隆広が娘を抱いて寝室に向かって布団に寝かせてあげた。
「由樹、おかえりなさい」
隆広は皺だらけの褐色の顔をクシャッとさせて微笑んだ。
「ただいま。何だかごめんなさい」
「ううん、大丈夫。でも、何があったのか全部教えてほしい。きっと酷い目に遭わされたのだと思う。帰って来た時の姿を見たら。ああ、本当にごめん。もっと僕も行動してあげれたら、もっと早く帰って来れたかもしれないのにね」
と、隆広は泣きべそをかいた。ソファに座る由樹の傍に立って右手を差し出した。由樹はその手を握った。
「こちらこそ。辛い日々を過ごして来て、貴方に対して酷いことを言ってたことを後悔しているの。もう怒ったりしないし、酷いことも言わない。だから、これから三人で平和に暮らしていこ」
本気で自分を変えようと決めた。もう旦那デスノートなんか見ないようにしよう。全ての元凶はあのサイトのチャットだからだ。これからの生活において、再び同じ過ちをしでかさないためには由樹自身が変わることが一番有効だろう。人に甘えることは良くない。隆広に期待し過ぎてテレビの前で泣き崩れた姿を見て失望することなどないように。
何の気なしにテレビの電源を点けた。テレビを観ることも久しぶりだった。成子の自宅にはテレビはあったが、電源が点いている時を見たことなかった。外部からの情報は完全に遮断されていた。
報道番組が放送されていた。ある殺人事件について女性アナウンサーが説明していた。自分が関わった浩司殺しの事件じゃないだろうかとビクついたが、事件現場が和歌山県の山奥だったため、ひと安心した。
現地へ向かった若い男のレポーターが喋り始めた。
「私は今、和歌山県の高野町は大字神谷の山中にいます。現在、多くの警察官の方が現場検証をしており、報道陣も多く駆け付けております」
真っ暗闇の中に樹木が立ち並び、その間に黄色いテープが張られて先に進めないようになっていた。先程いた清江の旦那の死体が埋まっていた山そっくりだった。胃から何かが込み上げて来る。必死で何かを飲み込んで、隆広に不安がバレないように努めた。どうしたの、と聞かれたくなかった。自分が人殺しであることがバレたくなかった。
「その先に、白骨化した死体が放置されていたのでしょうか」
女性アナウンサーが尋ねた。
「はい。この先に手首と足首を布で括られて、地中から頭蓋骨だけを晒した死体が発見されました」
キャア、と叫び声が出た。浩司の埋められる場面を思い出した。清江の旦那の腐った頭の映像が浮かび上がった。同時に辺りに漂う腐敗臭や便臭などが思い出された。漆黒の泥土の中で不気味なキノコのような、蠢く蛆に食われ続ける死骸の幻影が由樹に付きまとっている。どこかに行ってほしい。皮膚がずれ落ちて、口のあった場所に大きな空洞を作っていた物体が自身の周囲に浮遊しているような恐怖が植え付けられていた。
「死因は何なのでしょうか」
「ただいま検証中とのことです。ただ腐敗が酷く、すぐの原因解明が難しいとのことです」
耐え切れなくなり、テレビを消した。
「どうしたの、由樹」
隆広の声が頭上から聞こえる。由樹は自分の顔を手で覆ってしゃがみ込んでいるため、彼がどんな顔をしているのかは分からない。きっと困惑顔をしていることだろう。自分のバンドがテレビ出演していた時のように途方に暮れた顔をしているのだろうか。
自宅に戻って来ても成子の呪縛からは完全に解き放たれなかった。テレビを観て意味が分からなくなっていた。どうして浩司や清江の旦那と同じような死骸が和歌山
の山奥に存在するのだろうか。確かにテレビのレポーターは言っていた。手首と足首を布で括られて、地中から頭を出した死体があったと。
浩司も清江の旦那も殺した場所は、もちろん和歌山県などではない。秩父駅の近くの山であるため、埼玉県内の山だろう。同時頃に同じように殺された人間がもう一人いたということか。成子のような悪魔が同時にもう一人関西にいるというのか。そんな偶然があるのだろうか。とても信じられない。何か裏がある気がした。成子の裏に何か別の人間がいるのだろうか。何者なのかは全く想像することができないし、そんなことあり得ない気もした。
「ごめん、もう寝るね。疲れっちゃった」
フラフラと寝室に向かった。ちょっと、と隆広が呼んでいる声が聞こえたが、もう事情を喋る気力は残っていなかった。寝室では彩花が布団に潜って寝息を立てている。
今頃、アンジェラや明美は清江の肉を無理矢理旦那に食べさせているのだろう。腐った人間に腐肉を食わせている。人のやることではない。
生命力に溢れている彩花を見て、人間の精神を保つ存在の有り難味について考えた。そういった支柱のない明美は気狂いになっていた。成子にくっついて自我というものを捨てた妖怪のように見えた。大輔という恋人のいるアンジェラはまだマシなのだろうか。
明美に腹が立つ。静かで無表情な顔で成子にくっつき虫をしている姿がムカつく。彼女はパチンコ売春で自分の体を売って金を作り、成子に金を渡している。まるで鵜飼の鵜だ。
明美に対する反感を抱いてむかっ腹を立てるも今はそれどころではない。成子というバケモノから逃げることを考えないといけない。成子はこのアパートの住所をなぜか知っている。既に由樹が逃げたことも気付かれているだろう。ゆっくりしている余裕など一時もなかった。
恐らく彼女は一人で行動している訳ではなさそうだ。成子には仲間がいる。その者が和歌山でも殺人を犯したのだろう。
逃げなければ。そんな人間が知る部屋にいつまでもいる訳にはいかない。ここにいれば必ず成子が迎えに来て連れ戻される。殺人に関与していると知っている人間を放置する訳がない。絶対にこの部屋に来る。今日はよく眠り、明日考えをまとめて隆広に伝えようと決めた。
※ 成子
由樹が逃げた。ベッドの上で寝転び、そのことだけを考えていた。完全に自分のミスだ。彼女たちのことを監視しきれていなかった。まさかあのタイミングで逃げられると考えてもいなかった。夫も由樹の逃亡に気付き、激しく怒っていた。次に会ったら通電だろう。あの痛みは二度と経験したくない。大好きな彼から痛めつけられると、自分が愛されているのか自信がなくなってくるからだ。
初めて通電された時の記憶を思い出す。ユウコと二人でフローリングの上で、夫と名前を忘れたもう一人の女の前で正座していた。
「成子、どうして貴方はここから逃げ出したのですか。僕から離れたかったのですか。どうしてですか。成子は僕のことを愛していないのか」
「いえ、実家に顔を出していただけです」
立っていた一人の女によって、首筋に電気を流された。夫が指示したためだ。
「なぜ実家に顔を出す必要があるのですか。過去に執着しているのですか。僕と出会う前に暮らしていた場所を忘れることができないのですか」
必死で首を振って否定する。自分の顔に着いた贅肉が揺れていることが分かる。
「実家という場所は害悪でしかないのです。分かりますか。過去という時間に直結した空間だからです。過去というものは人を堕落させます。久々に学友と会う同窓会とかを想像すれば分かりますね。あの時間に生産性というものはありますでしょうか。ないですよね。なぜなら何もすることがないからです。最悪の場合、過去を懐かしみ、現在を否定する思考に陥ってしまうのです。そうなると、現在周囲にいる一番大事な人や事を蔑ろにしてしまうことになりかねないのです。貴方は僕を軽視しているのですか。そんなこと許せません。なぜなら僕は成子のことを愛しているのですから」
愛している、と言ってくれるも、電気を流されれば夫に嫌われてしまったとマイナスに考えてしまう。夫との心的な距離ができてしまった気がする。自分が勝手に実家に帰るというミスを犯したばかりに彼に見損なわれることは嫌だった。隣にいるユウコと同じ扱いを受けることは嫌だ。
今回由樹を逃したことで、実際に夫から責められた。挽回するために由樹を捉えなければ。そして夫の楽しみを充実させなければいけない。これが今の自分の使命だ、と成子は改めて思い知った。
※ 由樹
帰って来た翌日、隆広に全てを伝えた。旦那デスノートに書き込んだことを聞いて愉快な顔はしていなかったが、最後まで聞いてくれた。だが、そんな書き込みのことなど、浩司と清江と清江の旦那殺しのことを聞いた瞬間に忘れ去っているように見えた。
「マジか」
と言って考え込んでいた。昨日の和歌山県のニュースの話もして、単なる殺人事件ではない可能性も示唆した。
「取り敢えず、ここにいることは危険だ。由樹はどこか別のところに寝泊まりするようにしよう。彩花には何も伝えないように。でも、また長期間顔を見せないと悲しむからな。朝の六時頃に一旦戻って来て、彩花を保育園に送ることだけはしても大丈夫だと思う。それ以外は僕が何とかするよ」
隆広の提案に乗ることにした。ありがとう、と何度も感謝の言葉を述べた。隆広のおかげで警察に自首することは一旦なしということになった。明日から由樹はカプセルホテルで寝泊まりすることになった。その間に引っ越しをすることに決めた。部屋探しも隆広が行ってくれるようだ。何て頼もしい夫なのか。今まで隆広を軽蔑していた自分を恥じていた。
壁の薄い狭苦しい個室にあるベッドに横たわった。カプセルホテルの利用は初めての経験だった。恐怖から、なるべく個室から出たくなかった。だが彩花に心配をかけたくなかった。自宅に朝早く向かって彼女が起きる時には朝食を作る生活を送った。娘を保育園に預けてから、カプセルホテルに帰って身を隠す。隆広の提案通りの行動をしている。
隆広からは仕事が終わるタイミングで一日一回の電話での連絡が来る。スマホも新しく購入してくれた。
「大丈夫か、成子さん来たりしてないか」
「うん、大丈夫」
「俺もなるべく早く引っ越しの準備を進めるからさ。もう少しの辛抱だ」
「彩花には引っ越すこと教えたの」
「うん、かなり駄々をこねられたよ。友達と離れ離れになっちゃうから仕方ないことだけどさ」
彩花には本当に申し訳なかった。成子のことで娘を振り回してしまうことには納得いかないが仕方がない。成子は危険人物なのだ。
「そっか、そうだよね。ごめんね」
ベッドに寝転がった状態で隆広と電話した。自分はここで寝ているだけで隆広が引っ越しの全てをやってくれていることに引け目を感じていた。早くこんな生活を終わらせたい。何の憂慮もなく三人で暮らしたい。
「由樹が気にすることじゃないよ」
「三人で暮らせるようになったら、家族でバーベキューとか行こうね。冬にはスキーとか行ってさ、春はお花見してお弁当食べたりとかね」
「そうだね。そろそろ駅に着くから切るね」
「うん、ありがと。じゃあね」
電話を切った。新しく買ったスマホをポケットにしまってホテル内の食堂に向かった。食事を終えてから大浴場に入って体を流した。夜の十時には眠った。味気のない生活だが耐える価値がある。この生活を抜けた先に確実に優しい日常が待っている。耳栓をして布団に包まった。早く三人で暮らしたい。
スマホでカレンダーアプリを開いた。彩花の誕生日はとっくに過ぎていた。今年はどんな誕生日だったのだろう、と心配になった。隆広は誕生日プレゼントを買ってあげたのだろうが、ご馳走はどうしたのか気になった。
翌日の夜の六時、そろそろ隆広から電話が来る時間なのだが一切連絡が来なかった。毎日来ていた連絡が来なくなると心配になる。今朝部屋に戻った時、確かに彼は寝室で眠っていた。彩花を起こす時に見た。隆広もいつもと変わらない日常が始まったはずだ。
由樹の脳裡には常に成子の真っ白なニンマリ顔が浮かんでいる。隆広の身に何かあったのではないか。嫌な予感が血液に混じって体中をめぐる。
緊急事態かもしれないと思って外に出ることに決めた。スマホと財布をトートバッグに入れて自宅に向かうことにした。
カプセルホテルがある雑居ビルから外の繁華街に出た。冬にもかかわらず熱気と湿度を多く含んだ夜の空気が由樹の顔にまとわり付いた。カラオケ店や居酒屋、パチンコ店、ファミレスが立ち並び煌々とした照明を発している。人が多くて人いきれの臭いで空気が臭い。繁華街の通りの先に駅がある。早く行かなければ。常にスマホに着信が来ないか気にしながら駅へと駆け足で向かった。
自宅の最寄り駅に到着した。時刻は夜の七時半前。相変わらず隆広からの連絡はない。どうか自宅にいてくれ。ただの連絡忘れであってほしい。
見馴れた商店街を進む。小さな定食屋や焼き鳥屋、居酒屋からは沢山の地元客の声が聞こえて来る。八百屋や魚屋には仕事帰りのコート姿の客が多く入っていた。緩やかな坂道を上る。外灯の数が少ない。以前成子が隠れていた電柱の傍を通る時は警戒して足音を立てずに駆け抜けた。誰もいなかった。
自宅のアパートに到着した。思わず足が止まった。見馴れた人間たちの姿を目撃したからだ。愕然として、アパートの前のアスファルトの上に尻餅を着いた。やはり隆広の連絡忘れではなさそうだ。
「あら、由樹さんじゃないの」
こちらに近付いて来る丸々と太った人の黒い影。由樹の近くに立っている外灯が人影の顔を照らした。成子のニタニタ顔。背後にも誰かいる。明美が彩花に首輪を付けてリードを握っていた。彩花、と叫びたかったがショックが餅のように喉に詰まって声が上手く出て来ない。
「由樹さん。会いたかったんですよ。私、由樹さんが逃げた時から何日も涙が止まらなかったんですから。本当ですよ。私にとって由樹さんは恋人同然だったのですから」
「旦那は」
隆広の安否を案じた。彼が無事であればまだ希望がある。
「ああ。今、私の旦那が神奈川の山の方で可愛がっているところですよ。そこにはアンジェラさんもいらっしゃいます。あ、さっき動画が送られて来たんでした。見ますか」
思考が止まった。成子の言葉の後半は殆ど意味を理解することを、脳が拒否しているようだった。だが、脳は明確に意味を理解してしまった。隆広が土から頭だけ出している映像が思い浮かんだ。あの優しく帰りを待ってくれた隆広が蛆に食われながら死んでいく。
嫌だあ、と叫んだ。成子は由樹に対して嫌がらせをして、錯乱させることを企んでいるのだろう。虚無人間にして自宅に連れ戻すつもりだろう。そして清江のように肉団子にされて夫に食わせるつもりなのだろう。
彩花の顔を見た。首輪を付けたまま涙を流していた。柔らかくて丸い頬の上を水玉がサラサラを落ちて行った。娘を守らなければ。本能で自分の役目を認識する。理性などなく、本能でしか行動をすることができない。
「彩花を放して」
明美に向かって吠えた。明美は下を向いた。茶色い皮膚に覆われた痩せぎすな足で立っていた。腐ったゴボウに見えた。初めて会った時は浩司からの暴力跡が残っていたが、それ以外は普通に見えた。今は中身から腐り果てたようだ。彼女の中にある自分自身を動かす動力源が破壊されているようだ。外身だけではなく、中身が崩壊している。
「明美さん、部屋で言っていたこと。由樹さんにも言ってあげたらどうでしょう」
成子の言葉を聞いて、明美は顔を上げて由樹を見た。ゴム人形みたいな顔をしていた。
「おい、このアマ」
病的に無表情な明美は今まで聞いたこともないほどの大きくて濁った声を出した。今までの自信なさげで囁くように喋っていた女と同一人物には見えなかった。
「お前、よくも逃げやがったな。成子さんを置いて行くなんて恩知らずのドブ女」
恩とは何のことを言っているのか。明美は成子の部屋で暴力を受け、ベッドで一緒に寝たりすることをありがたい賜りモノだとでも思っているのか。すっかり心を成子に奪われていた。
「私は最初からお前のことが気に入らなかったんだ。お前は汚いことからすぐに逃げ出すような軟弱者で、男に寄りかかったまま生きるような恥知らずだということにも気付いていた」
と、明美は由樹に怒鳴り続ける。成子は満足そうに腕を組みながら明美と由樹の顔を交互に眺めていた。
「私はお前だけは許さない。男たらしの阿婆擦れが。成子さんに頼んだのです。お前を夜の街に売ったらどうかって。成子さんは喜んでくれた。私の意見を聞いて成子さんが喜んでくれた。お前は成子さんに認められたことはあるのか。ないだろう」
明美が何を言いたいのか分からなかった。隆広が死んだことしか考えられなかった。由樹の両膝がワナワナ震えた。ようやく三人で楽しく生活すると決めたのに。もう少しのところで間に合わなかった。これは全て自分が旦那デスノートで嘘を吐いて隆広を悪く言ったことがそもそもの原因だ。あんなことさえしなければ成子たちと出会わなかった。
自責の念にかられた。自分をいくら責めても足りない。自分を徹底的に痛めつけても現実は何も変わらない。
「まあ、明美さん、落ち着いて下さい。帰ったらきちんとお話をすれば良いじゃないですか。彩花さんにも来てもらいましょう。両親どっちもいない部屋に置いて行く訳にはいかないですからね」
成子は彩花の親である由樹に何も確認を取らずにリードを明美から受け取って彩花を車の中に押し込んだ。
「さあ、由樹さん来て下さい。彩花さんの隣に座って良いですよ。いきなりのことで心配でしょうから」
後部座席に由樹は彩花と明美に挟まれる形で座ることになった。
「由樹さん。良いですか」
成子は前方を見て運転しながら由樹に語りかけた。
「世の中全ての物事には表があれば裏もあるんですよ。よく考えて下さいね。今回貴方は逃げ出すほど辛い思いを私の部屋でしていたのでしょう。それに関しては、こちらも謝ります。だが、本当に悪い面だけしかなかったでしょうか」
悪い面しかないに決まっているだろう。実際、今嬉しいことなど一つもない。またあの糞尿の臭いで充満し、段ボールで覆われた陰鬱な部屋で暮らさないといけないのか。
きっと一度逃げたので、食事も一日に一度与えられるかどうかあやしい。黴の生えた食パン一枚ということも考えられる。清江や明美の受けて来た仕打ちを見て来たので分かっている。もし口答えでもすれば、スタンガンで局部や乳首に電気を流される。
「だって由樹さん。貴方、旦那さんと良好な関係を結んでいたようじゃないですか。もしこのコミュニティに入っていなかかったら、どうだったのでしょうか。隆広さんに不満を抱いたまま、納得のいかない日々を過ごしていたんじゃないですか。なので悪い面ばかりではなかったじゃないですか。良かった面もあったのではないですか」
「でも隆広は」
成子はその良かった面も潰したではないか。隆広を返してほしい。
「ええ、そうです隆広さんは貴方の前から去って行きました。きっと小動物や蛆虫に食われて死んでいくことでしょう。だが、よく考えて下さい。貴方は隆広さんと一緒になる日常に戻って本当の幸せになれると信じられますか」
「ええ、信じていました」
由樹は変わった。もう隆広に対して攻撃的にならない。隆広も安心できて由樹も余裕を持った日々を送るつもりだった。
「それは勘違いですよ、由樹さん」
成子は由樹の考えを根本からぶった切った。
「何が勘違いだ」
席を立って成子を殴ろうとした。明美に両肩を掴まれて殴れなかった。拳が座席のヘッドレストに当たった。
「由樹さん。人の話を最後まで聞いて下さいね。コミュニケーションを取る上で最も重要なことですよ」
「お前に説教される筋合いなんかねえよ。人殺しが」
座席に座りながら言ってのけた。
「誰が人殺しなんだ?」
成子が少しだけ声を大きくした。
「誰が人殺しだって。え? お前らだろ殺したのは。私は一ミリも手を下していねえんだよ。調子に乗んなクソゴミが」
呪詛の言葉を述べながら、大きく蛇行運転を始めた。体の小さな彩花は勢いよくドアに体をぶつけて泣き出した。対向車線まではみ出し、対向車が鳴らすクラクションが響いた。
「言っておくけどな。こっちはお前らをいつ警察に売ったって良いんだぞ。馬鹿な犯罪者どもめ。私は誰も殺していないからな。でも私はお前らを一度も売っていないんだぞ。何でか分かるか? 慈愛の心だよ。お前らに同情してやってるんだ。通報したらお前らの人生は転落の一途だからな。それは可哀そうだと思ってるんだ。それなのに、恩知らずに逃げ出したり、人殺しだと罵ったり、どういう神経してやがるんだ。明美さん、やってしまい」
明美が何かを取り出した。いつものスタンガンだ。彼女は何も言わずに由樹の首根っこを掴んで唇にスタンガンを当てた。唇に熱せられた鉄の釘で打ち付けられたような痛みが走った。口を中心に顔全体に痛みと熱が伝播した。由樹が悶絶しているところ、成子が再び喋り出した。
「由樹さん、話を戻しますね。貴方が隆広さんと一緒になっても幸せになれないという話の続きです。もし貴方が再び隆広さんと暮らしたとしても、彼の愚かな面だけが目に付くと思います。物事と同じように人間にも良い面と悪い面があります。その悪い面しか見れなくなるのです。何故だか分かりますか。もっと最悪な事実と接していないからですよ。貴方が私たちとの生活から逃げ出したいほどのストレスを感じたようですね。そんな毎日を生きていたら、ストレスがあっても比較的ストレスの少ない隆広さんとの結婚生活の方が良かったと思えるでしょう。もし私たちがいなくなったらどうなると思いますか。彼との生活が一番のストレスになるのです。恐らく隆広さんを一生傷付けて生きていくことになるでしょう。そして隆広さんが亡くなった時に、もっと優しくすれば良かったと貴方が絶望に支配されるのですよ」
反論を許さずに成子は最後まで喋り倒した。
泣き続ける彩花。由樹の肩を鷲掴みにしたままになっている明美。自分の意見の開陳に躍起になる成子。由樹は三人の人間に力を吸い取られたような気分になった。
何をしても解決しないことを悟った。とりあえず、また逃亡するタイミングを待つことに決めた。今度は自宅に戻らないで、彩花を連れて実家に帰ろうと決意した。
母と父の顔を思い出した。由樹を一人でも生きていけるようにと、中学受験までさせてくれて有名大学まで行かせてくれた健全な両親だ。そんな両親を裏切ってしまったような気がして落ち込んだ。
成子は落ち着いて何も喋らなくなった。まっすぐ彼女の自宅まで車を走らせていた。
例のアパートに到着した。上がり框を跨ると相変わらず足の裏がべたついた。嫌な記憶が脳の奥底から吹き出して来る。成子が居間に入って電気を点けた。ソファと椅子とテーブルと電源の点かないテレビ、それ以外は物のない部屋。
「さあ、明美さん。よく由樹さんを連れ戻せましたね。ご褒美を差し上げましょう」
成子の右手には焼肉弁当があった。椅子に座った明美は、弁当を目にしただけで床に涎を垂らした。涎は長く糸を引いた。
「明美さん。どうぞ」
明美は焼肉弁当を受け取って、テーブルの上に置いて透明な蓋を外した。割り箸を割って掻き込むように食べ始めた。食べ方は野球部の男子高校生が牛丼を掻き込む時のようだ。
「はははっ。よっぽどお腹が空いていたのでしょうね。可愛い明美さん。そんなに急いで食べなくても焼肉弁当は逃げないでしょう」
彩花も椅子に座ろうとした。それを見た明美は立ち上がって、彩花を思い切り蹴飛ばした。床に叩きつけられた彩花は再び泣きじゃくった。由樹はしゃがんで彩花を抱き寄せた。
「何すんだよ」
明美に怒鳴った。
「コッチの台詞だ馬鹿。成子さんの許可なしに椅子を使うんじゃねえ」
仁王立ちになって叫び散らす明美の口から、米粒が幾つも飛んで来た。一粒が由樹の頬に飛んだ。
「そりゃあそうですよね、明美さん」
成子が明美の側に立って、由樹と彩花を見下ろした。
「全く、親子揃ってどうしようもないですね。明美さん、教育してあげなさい」
スタンガンではなくディルドを取り出した。このディルドは何度も見て来た。初めてこの部屋に来た時は、明美の口に突っ込まれていた。清江が発狂してからは毎日のように咥えさせられていた。由樹も清江の口に押し込んだ経験がある。根元にあるボタンを押す感触を思い出して眩暈がした。先端から高濃度のアンモニア水が飛び出して来る。
「さあ、そのションベン臭い女児を離しなさい」
明美に言われたが、従わないで由樹は彩花を強く抱き寄せた。彩花の身に危険が迫っている。娘がディルドを咥えて濃いアンモニア水を放出される瞬間を想像して、必死で守ろうとした。
娘がこんな目に遭っているのはそもそも自分のせいだ。自分が旦那デスノートを使っていなければ、今頃彩花は隆広のスマホでしまじろうの動画を観ていたはずだ。
「嫌」
明美を睨み付けて拒否し続けた。彼女は由樹の表情を見てスタンガンを手に持った。由樹は覚悟を決めた。どんな痛みにも耐える。
首筋に当てられ、雷に撃たれたような痛みを感じた。彩花を抱く力を強めた。どんなことがあっても彩花を守る。
首の同じ個所に集中してスタンガンを当てられ通電された。首の皮膚が焼けただれそうだ。皮膚が捲れて肉が露出しそうだ。露わになった肉にもスタンガンを当てられるだろう。肉は焦げてホロホロと崩れ落ちるだろう。首の肉がなくなりそうだ。首がなくなれば胴から頭は外れてしまうだろう。頭が吹き飛びそうな痛みだ。何も言わないで娘を守る。ジッと激痛に耐えるのみ。最期まで彩花のために親としての役目を全うしよう。
「まあ、明美さん。もうそのくらいにしてあげれば良いんじゃないですか」
成子が明美を制した。明美は黙ってスタンガンを引っ込めたようだ。彩花を強く抱いたまま動けなかった。痛みで狂いそうだ。
「由樹さん。私は由樹さんに失望したのです。私のことを裏切って、しかも黙って去って行くなんて、無礼千万。貴方は今まで何して来たと思っているのですか。人を殺したのですよ」
彩花の身がピンと硬直したことに気付いた。母である由樹への猜疑心が彼女に緊張感を与えているのだろう。
「さっきから娘だけ庇っていますけど、どうして親切にした私は捨てて行くのですか。頭がおかしいのですか。それとも家族で暮らしていた過去に囚われているのですかね。良いですか、聞いて下さい。過去に捕われる時は成長をしていない時です。学友が集まる同窓会とかを想像すると分かりやすいです。過去の友達と会っている時なんて何の生産性もないですよね。それは何もしていない証拠なのです。今を大事にせず、過去に執着している今の由樹さんは何もすることなく成長を拒んでいるのです」
何が言いたいのか分からないので黙ることに徹する。もう成子に何を言ってもムダだと気付いた。今はただ彩花を抱き締めて守り切ることだけに集中すべきだ。成子を睨み付けて、これ以上自分たち母子に近付かないようにプレッシャーを与えた。
「良いですか、由樹さん。チャンスを与えます。一つしてもらいたいことを言いますので、それをやって下さい。私の課す試練を乗り越えて、誠実なところを見せて下さい」
「おい、大変だ」
成子が由樹への試練の内容を喋り出そうとしたところで、黒縁眼鏡のデブ男が叫びながら居間に入って来た。
「あら、どうかしましたか」
「アンジェラが逃げ出した。お前の旦那っていう設定だった宮川がシャワーのホースで締められて殺された。今、高城っていう、あの顔の濃い男が追っていると思う」
成子が拳で食卓のテーブルを殴った。由樹は成子の旦那だと思っていた幼い顔の男が本当の旦那ではないことを知って驚いた。成子の本当の旦那はどこにいるのか。アンジェラが逃げ出したということを聞いて、少しだけ安心感も抱いた。何とか男から逃げ切って早く成子の悪行を暴いてくれ。
※ 成子
今度はアンジェラが逃げ出した。夫は完全に失望しているようだ。明美と眼鏡の男にも連れ戻すように指示した。由樹と彩花の監視をしないといけないので自分の足で探すことはできそうになかった。
「とりあえず、由樹さんと彩花ちゃんは立って下さい。そこで立ったまま動かないでいて下さい」
由樹と彩花を立たせて居間の段ボールで覆われた壁の際に立たせた。彩花はずっと泣いている。娘の佳苗のことを不意に思い出す。夫に迷惑をかけていないだろうか。東京に来る前のように逃げ出すことはしていないだろうか。二度と夫に迷惑をかけないでほしい。母親である自分の評価に繋がるからだ。佳苗の顔を見ていると、よく自分の幼少期を思い出した。
滋賀県の田舎で育った記憶が蘇る。畑に囲まれた土地で一人娘として育てられた。だが小学校に入った時を境に、高島市一のブス、と男子生徒や男の先生に罵られるようになった。同じクラスメイトの男子が楽しそうに成子のことを殴ったり蹴ったりした。男の先生はそれを見て愉快そうに笑っていた。真っ白なサッカーボールだ、と言う時に口から覗く金歯が忘れられない。
悔しかったが何も反撃できなかった。ただ下を向いたまま暴力に耐え忍ぶしかできなかった。あの時の苦しみを今取り返したい。そのためには夫の雄作から離れる訳にはいかない。彼のような王子様のような男と一緒に暮らすことが人生の目標だったのだと気付いた。
この試練を乗り越えれば、雄作が自分を可愛がってくれるはずだ。眼前に立っている由樹と彩花を睨み付ける。のうのうと暮らしている苦しみを知らない者たちに苦しみを与えることも自分の使命であろう。もし失敗なんてしたら死ぬしかない。それくらいの覚悟を持っている。
(下巻に続く)
シャレコウベダケの繁殖 上巻