今、想うこと

65歳で定年退職し66歳で作家デビューした老人が、今想うことを気の向くままに書き連ねています。好かったら気楽に見てください。
歳も歳ですので定期連載とはいきませんが、想い付くまま自由に書きたいと思っています。
テーマは特に決めていませんし、歳も歳ですので定期連載とはいきませんが、世界情勢から趣味の事まで想い付くまま気儘に書いて行きたいと思っています。多少押しつけがましいし、面倒臭いと思われる方もお出でになるかも知れませんが、どうぞご勘弁下さい。今年で74歳になる爺(じじい)の、戯言(たわごと)或いは遺言(ゆいごん)として受け取って頂ければ幸いです。ご拝読の上、何かありましたら、どうぞ忌憚のないご意見を!

作 者 紹 介)     
ペンネーム つまかわ うじきよ[本名 若松 恭司(わかまつ きょうじ)]
      略  歴       
1950年(昭和25年)5月28日 愛知県愛知郡鳴海町に誕生
1957年(昭和32年)4月 鳴海町立鳴海小学校入学
1963年(昭和38年)3月 鳴海町立鳴海小学校卒業
1963年(昭和38年)4月 名古屋市立鳴海中学校入学
1966年(昭和41年)4月 名古屋市立鳴海中学校卒業
1966年(昭和41年)4月 中京商業高校入学(翌年中京高校に校名変更)    
1968年(昭和43年)3月 第40回選抜高校野球大会出場
1969年(昭和44年)3月 中京高校(現中京大中京)卒業
1969年 (昭和44年)4月 東京芝浦電気(株)府中工場に就職
               (同工場硬式野球部入部)
1976年(昭和51年)7月 第47回都市対抗野球大会出場
2007年(平成19年)5月 東芝エレベータ(株)を定年退職
2015年(平成27年)5月 嘱託期間満了で同社上野原事業所退社
2016年(平成28年)12月 文芸社より『野武士軍団の詩(うた)』出版

今、想うこと 
                          つまかわ うじきよ
その一  戦争・宗教・真理に付いて
 
 有史以来、人類は争いを繰り返してきた。現代でも未だに続く宗教戦争。
歴史上の戦争の殆どがそれで、所謂(いわゆる)〝一神教”では、他教の教えは一切認めず『主イエスの為』『アラーの為』と唱えてその教えに反する人間を〝悪魔“と称して殺戮を繰り返す。
何という愚かさ‼。そもそも彼等の教祖様は本当に悟りを開いて人生やこの宇宙の真理にたどり着いたのだろうか・・・?  
答えは『否(いな)!』である。
彼等はその人生の中で悩み苦しみ、真剣に修行して宗教家としての一定の悟りの境地に達し、その時点での自分なりの信教書を認(したた)め書物化し、恐らくその後も死ぬまで勉強し続けて、その考え方は進化していったのではないだろうか?
今もそうであるが、本気の研究者は生涯突き詰めていくものである。
現代では、アインシュタインを始めとする錚々(そうそう)たる物理学者達が宇宙創成や宇宙の果てに付いて、ビッグバンやらブラックホール、相対性理論等(など)説いているが、全ては仮説である。
時間にも空間にも、尺度を変えて見れば全く違った世界、所謂(いわゆる)〝パラレル・ワールド〟が存在する可能性は否定出来ない。例えば空中を漂(ただよ)う塵(ちり)や埃(ほこり)の中、或いは我々の細胞の中にも無限の宇宙は存在するかも知れないし、よく聞く例え話だが、私達の宇宙はとてつもない巨人の肩に付いた埃(ほこり)で、ある日そいつがポンと肩を払えば、忽(たちま)ちにして消滅してしまうのかも知れない。
時間に付いても、我々にとって一瞬と思える露(つゆ)の滴(したた)りの間に悠久(ゆうきゅう)の時が存在すると言うことも考えられる。所謂(いわゆる)『次元が違う』ってやつで、次元を時限と書き換えてもいいかも?
豊臣秀吉の辞世の句と伝えられる『露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことも夢のまた夢』と言うのがある。秀吉も、死ぬ間際(まぎわ)にチラッとそんなことを想ったのかも知れない。
要は、時間も空間も絶対的なものではなく、尺度を変えれば無限の可能性が有るってこと。
あれ?もしかして、相対性理論ってこういうこと言ってるのかな・・・?
この件の結論としては、この世の真理を知る者など、この宇宙ましてや地球の中に存在することなど有り得ないということである。
私自身、特に博識(はくしき)でもないし、普通以上に読書家と言ったこともない、ごく一般的な高卒定年後の年金生活者だが、そう言う観点から、神や仏にかこつけて善良な一般市民を宗教に引き込んで洗脳し、信者を私物化する宗教家が許せないのだ。
このやり方は、戦前の大日本帝国に於ける天皇制での教育や、北朝鮮の絶対君主制、或いはプーチン政権下のロシアも、同じであることを解ってほしい。

人類の歴史は戦争の歴史で、太古より人は、三人集まれば派閥(はばつ)が出来、それぞれの正義を振り翳(かざ)して争いが始まり、『人民の為』『人々を貧困から救う』等々の美辞(びじ)麗句(れいく)の中で争いと殺戮(さつりく)が繰り広げられ、勝った方が英雄に、負けた方が悪者となって歴史は綴(つづ)られて行く。
日本には『勝てば官軍負ければ賊軍』と言う言葉があるが、人類史の英雄たちの殆(ほとん)どがその該当者(がいとうしゃ)で、それぞれが希代(きだい)の殺人犯だと言うことを忘れないで欲しい。
要は全てが権力争い。その構図は、何千年何万年経っても変わらないのだろうか?
百年以上昔、資本主義の不平等を訴(うった)え、人民の平等を唱(とな)えた〝マルクス・レーニン主義〟。
その思想に基づいた〝社会主義国家〟であるロシア・中国・北朝鮮の三国が、宗教で言う処(ところ)の〝一神教〟と同じ様に、他の思想を受け入れず、現代の独裁者を産み出している事実も忘れてはいけない。
歴代(れきだい)の権力者(けんりょくしゃ)達(たち)は、自分のメンツや権力(けんりょく)維持(いじ)の為に、一般人民に殺し合いをさせる愚(ぐ)に、何故(なぜ)気が付かないのだろう。まあ、解(わか)っていれば、やらないか・・・?

そのニ   スポーツに付いて
 『スポーツは楽しむもの』とよく言いますし耳にしますよね。それって何でしょう?
『そんなの当り前だろ?』って思いますよね。
そもそもスポーツの根源(こんげん)は〝遊び〟ですよ。
プレイと言う動詞は『遊ぶ』と言う意味です。
従ってプレイヤーとは『遊び人!』
それで好いと思います。
そんな境地(きょうち)に達するには、競技そのものを心から楽しむのが一番です。
子供の頃、草野球でホームランでも打とうものなら、嬉しくて嬉しくて、笑いが止まらないまま本塁まで駆け抜けたものでした。
最近の風潮(ふうちょう)では、パソコンやスマホのゲームで自分のレベルをUPすることが楽しくて、どんどんはまって行くゲーマーと称(しょう)する人達。勝ち負けはその結果で、決してそれが目的ではないから大勢の人が好きになる。
これこそスポーツの根源では!
では、スポーツを楽しむにはどうするの?
先ずは、技術面から行きましょう。
私もこれまで様々なスポーツを観てきましたが、各競技で名人・上手と言われる選手のプレイは、例外なく力が入っていません。
どちらかと言うと、やる気がない?くらいに見える程に力が抜けている選手の方が、肝心な処(ところ)で力を発揮する場合が多い気がします。
どんな動作も、肝心なインパクトの瞬間には、放っておいても自然に力が入る様に身体(からだ)は、出来ていると思います。
もっと自然の力を信じて、地球の引力に身を任せる感覚で力を抜くことを覚えましょう。
力を入れた途端(とたん)にスピードが落ちて、肝心なインパクト時にパワーが伝わらない事を感じて下さい。上体の力を抜いて、大地を足の裏でしっかり感じて、下から上へ順繰りに力を伝えていくイメージで始動しましょう。
その上で、兎に角スイング(振る)です。
投げるも打つも走るも蹴るも、力を抜いて、振り抜くイメージでやってみましょう。
それを繰り返し繰り返し練習して、自分なりのタイミングとポイントを修得するしかありません。
天才と呼ばれる人達には、〝類(たぐい)稀(まれ)なる努力の才能〟があるみたいで、その内の誰かの『これ程(ほど)の努力を他人(ひと)は才(さい)と呼ぶ』と言う言葉を聞いたことがありますが、恐らく彼らは、その修練(しゅうれん)を苦行(くぎょう)とは感じず、唯々(ただただ)、己(おのれ)の技量を高める喜びを見出(みいだ)し没頭(ぼっとう)して、更(さら)なるレベルアップに繋(つな)げていったのではないか?と、凡人の私は想像します。
楽しくチームメイトと笑い合ってやっていれば、必然的に力は抜けると思います。
その手助けとしての呼吸法もあって、ふーっと一息(ひといき)吐(は)いてから動作に入ると、リラックスしやすい様です。その字の成り立ちの通り、〝呼(吐く)”が先で、息を吐くことを意識すれば〝吸う〟は自然に付いてきます。
その意味からも〝声を出す〟と言う行為は、効果大で、理に適(かな)っていると思います。
〝声”の話しが出たついでに、スポーツに於ける〝声”に付いて少しお話しします。
皆さんは、スポーツに於ける〝声”の意味に付いて考えたことがありますか?
先ず解って欲しいのは、元気な声と活気のある声は違うと言う事。
よくあるのは、〝元気”はあるが〝活気”に欠けるというパターン。
監督・コーチや怖い先輩から『声を出せ‼』と怒鳴られ、意味もなくワーワー声を出してた方が多いと思いますが、それがそうです。
では〝元気”と〝活気”の違いって何?
昔の剣豪・剣聖と呼ばれる方々の書によく出で来る言葉に〝殺人剣”〝活人剣”と言うのがありますが、それに近いと思います。
誰かに『元気出せ』って言われて、只々意味もなく『ワーワー』言うのは、各個人の意思は全く存在しない所謂(いわゆる)〝個性殺し〟ですね。
〝活気”を産み出すには〝個人の意思や個性を活(い)かす〟と言うことが肝(きも)です。
以下にその要旨を記述します。
これはスポーツ全てに当てはまりますが、
先ず一番目は〝自分の意志を伝える〟。
二人の間にボールが飛んだ時〝自分が捕る〟という意味の『オーライ』相手に取って欲しい時の『任せた』とかがそれで、ノック前のボール回しで自分の投げたい所、例えば『サード!』と言って自分の意志を示し、受ける方も『さあ来い!』と受け取る意思を明らかにする。こういった問い掛けと受け答えがスポーツの〝声〟の原点で、その為の練習がボール回しだと言う事.
二番目〝味方に危険を知らせる〟所謂(いわゆる)警告。
普通によく出る『危ない!』の声。二人が同じように捕れそうな球を必死で追いかけている時に、周りの誰かがどちらが捕るか指示する声やランナーコーチの指示がそれ。
三番目に『現状況の確認』
アウトカウントの確認とか、回数・塁上のランナーや点差の確認で次のプレイに備える。
この三つを常に頭に入れて、声を出す練習をすればきっと練習にも活気が出て、チームの一体感も高まると言う事。
その上で最も大事なことは、声を掛けられたら、確認の意味で必ず応えること! 
それがないと意味をなさない、それが〝チームワーク〟に繋がっていくと言う理屈です。
以上、競技を楽しむ為の術(すべ)を述べて来ました。

では、その楽しむってことを一番阻害しているのは一体何なんでしょうか?
その第一が勝ち負けへの異常な拘(こだわ)りで、『チームの為』と言う美辞(びじ)麗句(れいく)の下(もと)、個人技を排(はい)して過度に犠牲を強(し)いる風潮(ふうちょう)ではないでしょうか?
特に子供たちの指導者は、勝ち負けに拘(こだわ)らず、各人の技能レベルをしっかり把握して、その技量向上に主眼を置いたコーチングに努めるべきです。その上で、スポーツに於いての一番の喜びは各々の能力向上であり、それこそがチーム力向上に対する最大の貢献だということを、ちゃんと知らせてやってください。
『他人(ひと)に勝つより自分に勝て』と言う言葉をよく聞きます。誰かと比較しても、自分の力が無ければその誰かに勝つことは出来ない。
昨日より今日、今日より明日、自分との勝負に勝ったり負けたりしながら兎(と)に角(かく)、地道(じみち)に自分の技量を向上させていくしかない。他人と比べても意味がないという意味です。
勝つ為に相手を研究しその弱点を攻めたりすることは、作戦面或いは『人の振り見て我が振り直せ』と諺(ことわざ)にもあるように、技術向上の一助にはなりますが、その作戦実行には、それを行うだけの〝技量〟がないと不可能だと言うことを忘れないでください。

色々延々と記述しましたが、長年携わって来た野球やソフトボールに関して、私の知る限りのことを皆さんにお伝えしたい一心で筆を執りました。今年で74歳になる爺(じじい)の、戯言(たわごと)或いは遺言(ゆいごん)として受け取って頂ければ幸いです。

今、想うこと

今、想うこと

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-15

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