お気に入りの音楽 16〜20

お気に入りの音楽 16〜20

16 女王様と神様と

 美空(みそら)ひばり(1937年〈昭和12年〉5月29日 - 1989年〈平成元年〉6月24日)は、日本の歌手・女優・実業家。
出生名 加藤 和枝(かとう かずえ) 

 9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手であり、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝。愛称は「お嬢(おじょう)

 1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌い加藤母子は合格を確信したが鐘が鳴らなかった。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。
 翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、加藤母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない歌唱力、度胸、理解力に感心し
「君はもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている。歌手になるなら頑張りなさい」
と激励した。

 当時のスター歌手笠置シヅ子の物真似が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた一方、
「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」
という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し
「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」
と、批判的な論調の記事を書いている。

 1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ警察に引き渡された。犯人の少女はひばりの熱烈なファンだったという
 
 美空ひばりは、英会話も楽譜を読むこともできなかった。聴いただけで歌えてしまう。天才だった。
 
 ひばりさんは、jazzに進みたかったようでしたが、それでは稼げない…‥と歌謡曲の方になったようです。

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 岡林信康。1968年に『山谷ブルース / 友よ』でメジャーデビュー。フォークとロックのシンボルとして、最初のカリスマ的存在。彼を語る時に必ずつく呼び名は「フォークの神様」

 2010年に、生前交流があった岡林信康が、ひばりが岡林に送った1通の手紙に書かれていた歌詞から、「レクイエム-麦畑のひばり-」(作詞:美空ひばり/補作詞・作曲:岡林信康)という楽曲を制作し、岡林のカバー・アルバム『レクイエム~我が心の美空ひばり~』に収録された。

「ひばりさんとは、1975年に『月の夜汽車』のレコーディングで初めてお会いし、すぐに意気投合してひばり邸で一緒に飲んで以来、親しくさせていただきました。ひばりさんは100年か200年に1人のあらゆるジャンルを超越した世界最高のボーカリストだと思います」
と、ひばりさんを絶賛する岡林信康は
「1975年に中野サンプラザでコンサートを開いたときのテープがでてきたんです。コンサート終盤にひばりさんが飛び入りで出て歌ったのですが、そのテープが見つかったことがきっかけで、急にひばりさんの歌を歌いたくなって、今回のカバーアルバムを出すことになりました」
と話していた。

 ひばりプロダクション加藤和也社長は
「岡林信康さんは、母とはお互いにミュージシャンという魂に共感して、生前中、深いお付き合いをさせていただいた方で、今回のレコーディングではマスタリングまで押しかけ的に参加させていただきました。フォークの神様の岡林さんの音楽をつくる現場に携わらせていただいたことはこの上ない幸せで、天国の母に個人的に感謝しています」
とうれしそうに語っていた。

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 2019年5月29日の日本コロムビアの発表によると、美空ひばりのレコード・CDなどの物理メディアの総売上(2019年5月1日時点での累計出荷枚数)は約1億1700万枚に達する。 
 この数字にはインターネット配信での売上は含まれていない。内訳はアナログレコードがシングル4850万枚、アルバム2150万枚。カセットテープが2650万枚、8トラックテープが900万本、CDが1150万枚である。
 日本を代表する伝説的ボーカリストとして、多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/美空ひばり
https://www.barks.jp/news/?id=

悲しき口笛 岡林信康
https://youtu.be/XI416QmFzRM
麦畑のひばり
https://youtu.be/jSgAMSll49g

17 ママ、あなたは

吾亦紅(われもこう)は、作曲家である杉本真人が歌手・すぎもとまさととして発表した楽曲。
2007年2月21日発売。
ちあき哲也(作詞)杉本眞人(作曲)
第49回日本レコード大賞・作詩賞
2008年度年間13位(オリコン、総合チャート)
登場回数102回(オリコン)
 母を亡くした杉本が深く落胆している時に、杉本の母と文通していたちあき哲也が「吾亦紅」を制作。ちあきに杉本が「『吾亦紅』は何と読むのか?」と質問すると、ちあきは「われもこう」と回答したという。ちあきの詞に杉本が曲を付けて自ら歌っている。
 2007年「第58回NHK紅白歌合戦」に初出場。58歳8ヶ月での初出場は、日本人男性ソロ歌手としては最年長記録(当時)になる。これをきっかけに、すぎもとの歌手・作曲家としての認知を広げた曲。

 初回発売枚数はわずか258枚だったが、2007年3月に北海道のSTVラジオに於いて公開生放送の弾き語りライブをオンエアしたところ、放送中にもかかわらず問い合わせが殺到。徐々に人気を博し全国に飛び火した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%BE%E4%BA%A6%E7%B4%85_(%E6%9B%B2


吾亦紅 すぎもとまさと
https://youtu.be/ezrjjvb4TKY

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秋桜」(コスモス)は、1977年10月1日にリリースされた山口百恵の楽曲で、19枚目のシングルである。「日本の歌百選」に選ばれている。
作詞・作曲 さだまさし

 1977年当時、山口百恵は阿木燿子・宇崎竜童によるいわゆるツッパリ路線の楽曲で売り出していたため、本作をリリースした際には山口に対し「なぜ、さだの曲を歌うのか」という疑問の声が多かった。また、さだファンからも「なぜ山口の歌を作るのか」という反響もあったという。さだは、山口には日本的な女性らしい面があるのではないかと考え、あえてそれまでのイメージを一変させるような曲作りを行ったという。
 第19回日本レコード大賞では、本曲によって山口は歌唱賞を、さだは作詞で西条八十賞を受賞した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%A1%9C_(%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%99%BE%E6%81%B5%E3%81%AE%E6%9B%B2)

山口百恵 - 秋桜
https://youtu.be/3LYmlYtOmoY

秋桜 コスモス  さだまさし
https://youtu.be/t-oA1UWrx2g

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 角川プロデューサーの意向で、プロ・アマ問わず賞金500万円でシナリオを公募という日本映画史上初の試みを敢行した結果、大ベテラン脚本家の松山善三の応募作が入選。
 同様に、映画本編の中でストーリーのカギとなる黒人青年ジョニー・ヘイワード役も公募が行なわれ、「20~30歳のやや細身の男性、身長165~175cm、多少の英語ができること」に該当する310名の応募者の中から抜擢され、賞金(出演料)100万円を獲得したのがジョー山中だった。
 ジョー山中こと本名・山中明は、1946年9月2日アフリカ系米国人の父と日本人の母の間に横浜で生まれた。
 66年にはGSの「4・9・1」にツイン・ヴォーカルの片割れとして参加。日本人ばなれした“声”とパワフルなシャウティングで注目を集めた。

 ロック・シンガーとしてのキャリアを活かして主題歌も担当。劇中で重要なポイントとなる西條八十の詩「帽子」を角川春樹が英訳し、ジョーが歌詞に仕上げたものに、本編の音楽監督である大野雄二が曲を付けて誕生した主題歌「人間の証明のテーマ」は、映画公開の2カ月前となる1977年8月10日にリリースされた。同曲をバックに「帽子」の一節を読み上げる印象的なナレーションを用いたスポット広告が、 映画公開前からテレビ、TV・ラジオで大量に流されたことも功を奏して、オリコン・チャート第2位にランクされる大ヒットを記録した。

 それまで知る人ぞ知る存在だったジョー山中の名が広く世間一般に認知され、大ブレイクする記念碑的作品となったわけが、発売直後に大麻取締法違反容疑で逮捕。「人間の証明のテーマ」がテレビのベストテン番組で1位になったことを知ったのは留置場の中であり、もちろん彼が番組に出て歌うことも無かった。半年以上に亘る活動停止を余儀なくされるものの、翌78年5月30日には日本武道館で初のソロ・コンサートを開催。アンコールで「人間の証明のテーマ」を熱唱し、約1万人の観衆を魅了した。

 2011年8月7日、肺がんのため逝去。享年64歳だった。
https://www.diskgarage.com/digaonline/column/75222

 人間の証明 公開 1977年10月8日
松田優作・岡田茉莉子・ジョージ・ケネディがそれぞれ黒歴史を持つ人物を演じ、日本映画で初めて本格的なニューヨークロケが行われた。

 映画公開時に用いられた有名な台詞「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ…」は西條八十の詩がオリジナルであり、劇中でも語られている。ジョー山中が歌う「人間の証明のテーマ」もヒットし、ベストテン入りを果たしている。また映画公開に合わせ、文庫フェアも行われ、森村誠一は一躍ベストセラー作家に躍り出た。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E

人間の証明 テーマ曲 ジョー山中
https://youtu.be/j8uklD3_ywA

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 ママに捧げる詩(Mother of Mine)
 この曲は1971年、当時12歳の少年、ニール・リードが歌って世界中でヒットした。
 ニール・リードはスコットランド生まれで8歳の時に歌手として見出された。そしてこの曲でイギリスのアルバムチャート1位の最年少記録を樹立。しかし2枚目のアルバムをリリースした2年後には声変わりで歌うのが困難になり歌手を辞めた。現在は金融関係の仕事をしているようだ。
https://lynyrdburitto.hatenablog.com/entry/2020/06/07/153000

ママに捧げる詩 / Mother of Mine [日本語訳・英詞付き] ニール・リード
https://youtu.be/G89MZnJy6Kw

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「時には母のない子のように」は、1969年2月21日に発売された、カルメン・マキのデビュー盤シングル・レコードである。
作詞:寺山修司 作曲:田中未知
チャート最高順位
1969年度年間9位(オリコン)
 寺山修司が主宰する劇団「天井桟敷」に新人女優として入団したカルメン・マキのデビュー曲として企画され、リリースされた。
 作詞の寺山は、本作を作るに際してゴスペルソングとして有名なSometimes I feel like a motherless child(ときどき、わたしは母親のいない子のような気持ちがする)から発想を得たとされている。
 親元から引き離されてアフリカからアメリカへ連れて来られ、もう二度と生きて母親には会えないという過酷な運命を改めて顧みながら、その境遇が時々「母のない子のように」感じられると嘆き悲しむ黒人労働者たち。
 歌詞には「A long ways from home」、すなわち「故郷アフリカから遠く離れて」とあるが、この「home」が意味する所は決して現実世界の生まれ故郷の意味だけではなく、彼らにとって唯一の心の支えでもある主イエスの御許、人間界での苦役を終えて魂が帰る安息の地を意味しているようにも思われる。
 過酷な労働と劣悪な生活環境に晒され、黒人労働者たちは幾度も生死の境をさまよいながら、栄養状態も悪く痩せこけた体に鞭打ってひたすら労働を続ける。ついに「くたばる直前(I feel like I'm almos' gone)」までに至れば、死ぬほど苦しんだ過酷な運命も「もうすぐ終わりだ Soon-Ah Will Be Done」となるのだろうか。
https://www.worldfolksong.com/songbook/spiritual/motherless-child.html
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%AF%8D%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB

時には母のない子のように・・カルメン・マキ
https://youtu.be/6lkXj0-AaxU

Sometimes I Feel Like a Motherless Child-Paul Robeson
https://youtu.be/KiJx1Hbn_KM


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 岩壁の母
作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜、歌:菊池章子、1954(昭和29)年、テイチクレコードから発売され、100万枚を超える大ヒットとなる。
 歌:二葉百合子。 1972(昭和47)年にはキングレコードから再発売。歌詞の合間に室町京之助作の台詞を加えたものを二葉百合子が歌い、300万枚を超える更なる大ヒットとなった。
https://www.umeshunkyo.or.jp/204/255/index.htm

岸壁の母  ちあきなおみ
https://youtu.be/jPDl0EakGuI

18 拓郎と陽水

 「結婚しようよ」は、日本の歌手、よしだたくろう(吉田拓郎)が1972年に発表したシングルである。
 それまでいわゆるアンダー・グラウンドの音楽と考えられていたフォークをメジャー・シーンに押し上げた楽曲で、"J-POPの原点"とも評される。この年2月に発生したあさま山荘事件の頃から全国的にヒットしはじめ、3月にオリコンチャート3位を記録し、40万枚以上を売る大ヒットとなった。 
 この曲はそれまでのプロテストの意味あいが強かったフォークのイメージを一変させた。結婚は家と家との結びつきであるという考えがいまだ根強かった当時において
「僕の髪が肩までのびたら結婚しよう」
という男性の側からのプロポーズの描き方や、
「春がペンキを肩にお花畑の中を散歩に来る」
のようなカラフルな言葉づかいの歌詞は当時としては非常に斬新な内容で、手動式オルガン他を使ったアレンジ等、それまでのただギターをかき鳴らして自己主張を歌に託すフォークとは大きく異なっていた。
 
 さりげないラブソングの中に、既成の男らしさ女らしさのイメージを覆す歌詞。1960年代の恋愛結婚の普及を受け、付き合ったら結婚するというのが当然だった1970年代の時代を反映した歌でもあった。男が女と同じくらいの長髪にする...という行為は、ラブソングながら一つの時代のメッセージ性を漂わせていた。

 後年拓郎はこの曲を「ヒットさせるつもりで作った」と述べている。拓郎はこの大ヒットで人気を得て“フォークのプリンス”などと騒がれ、若い女性らが会場を占拠した。その人気ぶりはGSブームの再来のようだったと言われた。反体制のシンボルだったフォークが“若者のポップ・ミュージック”として一般的になるのは「結婚しようよ」の大ヒットからである。

 阿久悠は、フォークの精神性にはプロテストがあって、当初は、ゲバ棒をギターに持ちかえたかと感じるほど、過激に反社会性を訴えるものが多かったが、誰も彼もがギターを持って自分の歌を歌い、底辺がひろがるにつれて、抵抗の要素は失せて行った。見事に社会に安心され、認知されることにもなったが、「結婚しようよ」は、そうなることのシンボル的な歌ではなかったか、と論じている。この頃には日本は既に政治の季節を終えていて、拓郎はその時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのである。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%81%97%E3%82%88%E3%81%86%E3%82%88

 1972年4月22日に日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった。またビール瓶などモノを投げつけられ一曲も歌わず、本当に帰ることもあったという。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だった。
 拓郎ほど人気を得たアーティストはそれまでいなかった。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターで、雑誌に
「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」
などと書かれた。断ったが『月刊明星』から「表紙をやりませんか」と言われたこともあったという。フォーク仲間からもあまりに「あいつはフォークじゃない」と非難されるので、拓郎は「そんなら、おれはフォークじゃなくていい」と居直った。拓郎ほど世間と戦い続けた歌手はいない。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉田拓郎

 フォーリーブスは、日本の男性アイドルグループ。1967年4月1日結成、1978年8月31日19日解散。解散から24年を経た2002年に再結成を果たした。初期のジャニーズ事務所を代表するグループである。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フォーリーブス

壁のむこうに - フォーリーブス
https://youtu.be/a9qIIPuXtKE

『襟裳岬』は、1974年1月15日に発売された森進一の29枚目のシングル。
 作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表するコンビ作品。
 森に関しては何か新しい発想のレコードをという方針で、当時まだ入社したてのディレクターだった高橋隆の案が採用された。高橋が、吉田拓郎から
「森さんみたいな人に書いてみたい」
という話を以前から聞いていて実現に至ったもの。しかし、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応
「フォークソングのイメージは森に合わない」
「こんな字余りのような曲は森に似合わない」
と評され、吉田もこれ以上直せないところまで推敲を重ねたものの、当初はB面扱いだった。
 当時の森は、母親の自殺や女性問題(女性側の狂言であったことが後に判明)から苦境に立たされていたが、森と同様のスキャンダルに巻き込まれていた吉田からの思いやりと、この曲の3番の歌詞に感動した森が当時所属していたプロダクションのスタッフの反対を押し切り(森自身、「演歌の枠のみに囚われたくない」との思いがあったのも大きい)、両A面という扱いに変更して発売した。

 累計では約130万枚のレコード売上を記録した。
 曲の構成はAメロ→Bメロ→サビの定型だが、〈わけのわからないことで〉の符割りなどが純度100%の拓郎節といえる。また森も自身の解釈でこれを歌い切った。拓郎は森の歌唱版を最初に聞いたとき、「こういうふうに歌うのか、これはかなわない」と卒倒したという。
 岡本おさみは襟裳岬へ旅行した時、漁師に「いいとこですね」と話しかけたら、北海道の人特有の素朴な言い方で「なんもないんだー」という答えが返って来た。そこで「何もないの、いいじゃないですか」と言ったら「なんもないんだ。焚火してるしか、しょうがないんだ」とまた素朴な答えが返って来た。それで最初、「焚火」という仮タイトルで拓郎に歌詞渡したという。
 ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の人々は、サビに登場する「襟裳の春は何もない春です」という歌詞に、「何もない春」なんて無いと反感を持たれ、渡辺プロや作詞者の岡本宅への抗議の電話もあった。しかし、襟裳の知名度アップに貢献したということでそういった反感も消え、後にえりも町から森に感謝状が贈られた。反感を買ってしまった「何もない春」の部分であるが、実際は作詞した岡本おさみが襟裳に訪れた時に大変寒く、民家で「何もないですがお茶でもいかがですか?」と温かくもてなしされたことに感動して作詞したものであった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/襟裳岬_(森進一の曲)

 吉田拓郎が「こんなバックバンドなら紅白に出ても良い」と無茶振りしたらNHK側が本当に揃えて出ざるを得なくなった伝説の回。
吉田拓郎(ボーカル)
日野皓正(トランペット)
渡辺香津美(エレキギター)
宮川泰(キーボード)
日野元彦(ドラム)
大西順子(ピアノ)
石川鷹彦(アコースティックギター)
金沢英明(ウッドベース)
吉田建(ベース)
森進一、五木ひろし、前川清(コーラス)

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「我が良き友よ」は、1975年2月5日にかまやつひろしが発表したシングルレコードである。
作詞作曲 吉田拓郎
東芝EMIディレクターの新田和長は、この曲を聴いて「絶対にヒットする」と確信したという。
歌詞に出てくる蛮カラ風の大学生は吉田の広島商科大学時代の同級生がモデルである。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/我が良き友よ

「歌ってよ夕陽の歌を」は、1975年4月25日に発売された森山良子のシングルである。作詞: 岡本おさみ 作曲: 吉田拓郎
かまやつひろしは従兄。
 吉田拓郎と泉谷しげるが若い頃、取っ組み合いの大喧嘩をやった際、必ず制止していたのが森山である。泉谷によると、制止した直後かなり強い調子で叱責していたため、今でも「(森山良子が)世界で一番怖い」と恐れているとのこと。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/森山良子

「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、アン・ルイスのデザインによる大胆な衣装と“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲も話題を呼んだ。喜多條忠の詞先で、作曲・吉田拓郎独特の“拓郎節”が展開される。キャンディーズのベスト・ソングに挙げられる機会も多く、キャンディーズファン・石破茂も「音楽的に完成度が一番高い名曲」と話し、キャンディーズ自身も「私たちの代表曲」と話している。発売の時点ではキャンディーズ最大のヒットを記録した。解散コンサート時点でのシングル売上は累計52万枚。
「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦し、「歌えません」と音を上げたと言われている。これはキャンディーズファンだった作曲者の吉田拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た。
 レコーディングでは、吉田拓郎がギター持参でキャンディーズと共にスタジオに入り、付きっ切りで歌唱指導、自らも試行錯誤を重ねた。コーラスで参加した他、印象的な忍び寄る悪魔のようなイントロの靴音は、拓郎が様々な靴の音を試し、スタジオに同席していたCBSソニーの若松宗雄が履いていたブーツで作り上げたものである。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/やさしい悪魔

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 井上陽水は1969年に「アンドレ・カンドレ」としてデビューしたが、ほとんど注目されず、シングル3枚でアンドレ・カンドレとしての活動は終わることになった。
 以後、本人も語ろうとしない空白の1年間となる。約3年間は時流から相手にされず、当時は、麻雀とパチンコに明け暮れていた。仕事はあっても月2日位であった。
 ビートルズ狂いの経緯もあり、本人は自らをフォーク歌手とは全く思っていなかったが、当時一般には「ギターを持って歌う歌手はフォーク歌手」として認識されていたため、フォーク歌手的な扱いを受けることが多く、営業先で嫌な目にあうことがしばしばあり、これが後にホリプロから独立する遠因になった。
 アンドレ・カンドレ時代に知り合った小室等、安田裕美(六文銭のギタリスト)星勝(モップスのギタリスト)RCサクセションの忌野清志郎などとは以後長く深い交際になる。特に小室等からボブ・ディランを薦められ、以降の作詞に強い影響を受けた。

 当時の映像として1970年公開の、和田アキ子主演映画『女番長野良猫ロック』に出演。「カンドレ・マンドレ」を歌うシーンがある。
 この当時の陽水をよく知る高石ともやは、陽水の印象を
「ギター1本で客ひとりひとりをねじ伏せるような歌だった。彼の言葉はとても鋭く、近づけないような雰囲気だった。演奏している背中を見ると、なんだか切なかったことを覚えている」
と語っている。
 1971年ポリドール・レコードに移籍し、初のアルバム『断絶』のレコーディングを始める。このアルバムの製作開始に合わせて名前を変えることになり、吉田拓郎を意識し、「拓郎がその二文字で若者にインパクトを与えている。だったら下の名前の「陽水」の2文字で対抗、強調していこう」と戦略を立てた。
 翌1972年、芸名を井上陽水(ようすい)と改め、シングル「人生が二度あれば」で再デビューを果たす。
 5月に「傘がない」が収録されたアルバム『断絶』がリリースされる。陽水が売れ始めたのは、このアルバム『断絶』から。
 翌1973年3月のシングル「夢の中へ」が初のヒット作(オリコン17位)となり、同年7月には初のライブアルバム『陽水ライヴ もどり道』がリリースに至る。人気上昇の切り口となった「夢の中へ」は、自身が「みんなで歌えるように作った」とコメントしているとおり、単純で明るく、親しみやすい曲である。

 そして、同年9月にはシングル「心もよう」をリリース。これもスマッシュ・ヒットとなる。
 同年12月にアルバム『氷の世界』をリリース。当アルバムは100週以上BEST10に留まるなどロングセールスを続け、発売から2年後の1975年8月に日本レコード史上初のLP販売100万枚突破の金字塔を打ち立てた。オリコンのLPチャートでは5度も1位に返り咲くという記録も持っており、陽水は第一期の黄金時代を迎える。
 ポリドール時代には殆どテレビに出演せず、外見が一般の目に触れる機会はレコードのジャケット写真がもっとも多くを占めていた。シングル「人生が二度あれば」からアルバム『氷の世界』までのジャケットでは、髪型がアフロヘアー、サングラスはなしで写っている。しかし『氷の世界』のインナースリーブにある写真の一枚ではサングラスをかけており、サングラスなしの写真は1975年のシングルのために撮られたものなど少数の例外を除き見られなくなる。
「陽水などレコードで当たってるヤツは、はでに、単にコマーシャリズムに乗っかっただけのこと。そのうちに消えるさ」とフォークを民衆の歌と考える一派からは、非難され「いま流の歌をもって東京へ出ていくなんて、イヤなヤツだ」と、土着派からは、商人扱いされた。陽水は、それらの非難に対し真正面から答えようとはしなかった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/井上陽水

心もよう
https://youtu.be/ZsqLYT_iel4

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「いっそ セレナーデ」は、井上陽水の楽曲。1984年10月24日に、自身の23枚目のシングル。
陽水自身が出演したサントリー『角瓶』のイメージソングに起用された。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/いっそ_セレナーデ

いっそ セレナーデ
https://youtu.be/4DO_Wr5hXmo

 田村正和が残した名作「ニューヨーク恋物語」主題歌は井上陽水「リバーサイドホテル」
コートのポッケに手を入れながら、ニューヨークを歩く正和。そこに流れる「リバーサイドホテル」。ニューヨーク、正和、陽水。当時、この3つの力技に抗える女なんて、いなかったはず。
https://reminder.top/527503095

ニューヨーク恋物語
https://youtu.be/mmPgjy379go

「少年時代」は、日本のシンガーソングライターである井上陽水の楽曲。1990年9月21日に、自身の29枚目のシングルとしてフォーライフ・レコードからリリースされた。
 井上陽水の最大のヒット曲で、代表曲の一つに挙げられることがあり、1994年以降の中学校・高等学校の音楽教科書に何度も掲載されている。

 本楽曲の作曲は、飲み仲間であった藤子不二雄Ⓐから直接依頼された。藤子Ⓐは「ラララ…君と出会い君と笑い」というハミングと共に始まる自作の詩を作成し陽水に作曲を依頼したが、当初なかなかできあがって来ず、ついには映画のポスターの印刷にも間に合わない事態となった。
 映画関係者からは矢のような催促がなされたが、藤子Ⓐは「漫画家と同じで催促されるのは嫌だろう」と陽水に対して一切催促を行わなかった。そのかいもあり、陽水から上がってきたデモテープは、藤子Ⓐが事前に抱いていたイメージ通りの素晴らしい楽曲となった(ただし、藤子Ⓐが提供した歌詞は1行も使われていなかった。陽水は「安孫子さんの心をもらった」とコメントしている。)。藤子Ⓐが映画関係者からの催促を止めていた間、実は陽水は全国ツアーをキャンセルし3週間スタジオにこもって作曲を行っていた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%99%BD%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%9B%B2)

「飾りじゃないのよ涙は」は、中森明菜の楽曲。
井上陽水からの提供楽曲で、萩田光雄によって編曲された。
 中森にとってこの楽曲は、アイドルからシンガー、アーティストへの転機となった。
 デモテープを聴いたときシングル向きではないと、本曲はアルバム収録分のみで考えていたが、作曲者の井上陽水がオケ録りに現れて、キーが違うにも関わらず仮歌を歌わせてくれないかと打診があったので、スタジオで生演奏に合わせて歌ってもらったところ、ミュージシャンも大のりになり、その際の歌声が素晴らしかったので、シングル化を決めたという。
『CDジャーナル』は、中森の「飾りじゃないのよ涙は」について「井上陽水と中森明菜の幸福な出逢いは、日本の歌謡史に残るほどの歴史的な名曲を作り上げた」と批評した。
 秋元康は「詞で何か印象に残るものは?」の問いに、数年前でいうと、中森明菜さんの『飾りじゃないのよ涙は』。『私は泣いたことがない~♪』という出だしは、きっと阿久悠さんだと思ったんですよ。これを陽水さんが書いたと知った時『あの男はやはりタダ者ではない』(笑)と思いましたね」と答えている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%BE%E3%82%8A%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%82%88%E6%B6%99%E3%81%AF

19 フォーク創世記

 高石 ともや(1941年12月9日- )は、日本のフォークシンガー。
 1960年代、日本フォーク・ソングの創世記より、活躍。日本のフォークの基盤を創ったひとり。代表作は「受験生ブルース」

 中川五郎が歌う『受験生ブルース』を聴いて「これは面白い!」と、気に入った男がいた。
 当時、すでに関西フォークシーンで活躍していた高石ともやは、自分のコンサートでも「受験生ブルース」を取り上げるようになる。

受験生ブルース 高石ともや
https://youtu.be/7TSOWEH_nvA?si=WSbacfPHsVU4MUrA

 高石のステージを見て感動し、ギターを持ち始めたのが後に“フォークの神様”とよばれた岡林信康だった。
 
 そんな高石が、この「受験生ブルース」を自分が歌うにあたってメロディーを作り直したのだ。
「当時、五郎が作っていたメロディーは、ゆっくりと足を引きずるような三拍子の短調で暗いイメージがあったんです。これでは広まりにくいと思ったのでC調の二拍子にしたんです。」
 軽快なメロディーに編曲された「受験生ブルース」は、高石のコンサートでたちまち人気の曲となる。
 それにいち早く目をつけたビクターレコードの深井静史(ディレクター)がレコード化を実現させる。
 1968年3月リリース。ストイックな受験生活を自虐的に歌ったこの楽曲は、深井の“読み”通り、発売と同時に話題を呼び、90万枚のヒットを記録する。
https://search.yahoo.co.jp/amp/www.tapthepop.net/day/73198/amp%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

 高石事務所には、岡林信康、中川五郎、高田渡も所属し、その中心人物であった高石は、フォークソング、関西フォーク、アングラ・フォークの元祖、旗手などとも呼ばれるようになる。
 アングラとはアンダーグラウンド。高石友也、中川五郎、岡林信康など、意欲的なフォーク・シンガーが、若人たちを対象として作詞・作曲。新宿駅西口、その他アングラ集会で発表する現代むきフォーク・ソングをいい、多分に戦争反対、学校紛争、その他社会世相諷刺の内容をもっている。自分たちでレコードに吹込み発売しているものもある。

 中川五郎は訳詞家としてボブ・ディランのすべての楽曲の歌詞を翻訳しているほか、フォークシンガー、翻訳家、小説家としても活動する人物だ。
 かつて“関西プロテストフォークの旗手”といわれた彼がこの歌を創作したのは1967年(当時18歳・高校3年生)だった。
「夏休みの補修授業中、日本史の講義になんとなく身が入らずにボヤっとしいた時でした。その当時よく大阪のフォークソング集会で歌われていた炭坑街のブルース(ボブ・ディランの“North Country Blues”に日本語の歌詞を乗せた替え歌)のメロディーにのせて突然言葉が浮かんできたんです。僕は授業に使われていたプリントの裏に一節を書き始め…それにつられてスラスラと瞬く間に12番まで作ってしまったんです。」
 曲のタイトルは歌詞の内容通り、ズバリ「受験生ブルース」とした。
 翌1968年から中川はステージで歌い始めるが、曲調が暗過ぎたのか…当時はあまりウケなかったという。
https://search.yahoo.co.jp/amp/www.tapthepop.net/day/73198/amp%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

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 マリー・ローランサンの『鎮静剤』という詩を調べていて、まさか歌なんてないだろう、と思ったら高田渡さんが歌っていました。
 和幸(かずこう)加藤和彦さんと坂崎幸之助さんの2人によるものが好きです。

 高田 渡(たかだ わたる)(1949年1月1日-2005年4月16日)は、フォークシンガー。1969年以降の関西フォークムーブメントの中心人物として活躍した。代表曲には「自衛隊に入ろう」など。

 岡林信康は高田渡に「岡林の坊ちゃんといわれていた」
 泉谷しげるには「師匠」と呼ばれていた。
鎮静剤 高田渡
https://youtu.be/wxuONLTT7Gg
鎮静剤 和幸
https://youtu.be/jxe26IzNtqs

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春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)』は、泉谷しげるの楽曲。1972年に発表され、その後も様々なバージョンがアルバムに収録されている。同年9月25日にはライブ音源が泉谷しげる通算2枚目のシングルとして発売された。泉谷の最大のヒット曲であり代表曲である。

 若い頃友人が録音してくれたカセットテープに『春夏秋冬』が入っていた。作詞作曲が泉谷しげるだとは知らなかった。いい歌だった。

春夏秋冬 泉谷しげる
https://youtu.be/DoZD933Q-mI

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 岡林信康の歌を聴いてギターを始めた友川かずき。
 二十歳のころ、行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を聴いてフォークシンガーを志す。1971年、全日本フォークジャンボリーに飛び入り参加。1974年3月、宇崎竜童に見出され、シングル「上京の状況」でデビュー。1977年、「夜へ急ぐ人」をちあきなおみに楽曲提供。同年のNHK紅白歌合戦でちあきが歌った同曲は大きな反響を呼ぶ。

 友川かずきは大島渚から『戦場のメリークリスマス』のヨノイ大尉役をオファーされていたが、秋田訛りを直すことを求められたために固辞。同役は坂本龍一が演じた。
 2004年、三池崇史が監督したカルト映画『IZO』に出演。
 1980年代以降は、画家としても評価されている。また、小説家の中上健次は友人であり、友川の絵画を高く評価していた。
 3枚目のアルバム『千羽鶴を口に咥えた日々』に収録の「生きてるって言ってみろ」は、テレビドラマ『一家だんらん物語』の主題歌に採用され、シングル発売された。
 現在は学芸大学アピア40を拠点にライブ活動を行っている。

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『戦争を知らない子供たち』は、1970年に発表された、北山修が作詞し、杉田二郎が作曲した楽曲。
1970年8月23日、大阪万博でのコンサートで初めて歌われ、その模様がライブアルバム「戦争を知らない子供たち」として発売された。同年11月5日には、「全日本アマチュア・フォーク・シンガーズ」名義でシングルカットされた。
 翌年1971年2月5日には、ジローズの歌唱によるシングルが発売され、オリコン最高11位、累計売上30万枚以上のヒット曲となった。ジローズはこの年の第13回日本レコード大賞新人賞を、作詞を担当した北山修は作詞賞を受賞した。
 1972年公開の映画「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」では挿入歌として使用され、1973年には、この曲の歌詞を原案にした同名の映画が制作された。
 世はベトナム戦争の真っ最中であり、憲法の制約のある日本政府もアメリカ合衆国の戦争遂行に基地の提供といった形で協力していた。日本国内でも、一部の文化人や学生を中心に、反戦平和運動は盛り上がりを見せていた。そのような中で発表されたこの曲は、日本における代表的な反戦歌となった。
 元々、歌詞が先に出来ており、北山は真っ先に盟友加藤和彦に作曲してもらおうと思ったら、鼻で吹いて突っ返されてしまい、やむなく杉田二郎の元に持って行ったという。 
 加藤とは逆に杉田は、北山の詞に素直に感動し、喜んで曲を付けたという。その後も北山自身、割り切れなさを感じることも多かったというこの歌詞に素直に曲を付け、胸を張って歌い続けた杉田の姿には励まされたと、5年後の1975年発売の杉田のシングル「男どうし」に寄せたコメントに書いている。

Wikipediaより

20 フォークその後

 1970年代、日本の音楽界はフォークソングの時代であった。カレッジ・フォークや四畳半フォークなど、さまざまなジャンル分けがなされたが、『神田川』や『帰ってきたヨッパライ』、『いちご白書をもう一度』『関白宣言』『チャンピオン』と、既存のプロ音楽家の常識を超えた音楽が生まれ、後の1980年代のJ-POPS爛熟期へと繋がっていった。
 本来のフォークソングの演奏は、アコースティックギターやバンジョーなどを使用し、フォーク・ロックやロックのように電気楽器は使わないのが伝統的な音楽表現である。

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「花嫁」は、はしだのりひことクライマックス名義のファースト・シングル。1971年1月10日発売。
 ギターのイントロから始まる、1970年代フォークソングを代表する楽曲のひとつ。ヴォーカルは、藤沢ミエで、このギターは石川鷹彦が弾いている。
 1971年2月15日・22日付のオリコン週間ヒット・チャートで2週連続第1位を獲得したほか、年間ヒットチャートで第7位を記録した。累計売上はミリオンセラーを記録。
 歌詞は花嫁が「帰れない 何があっても」「何もかも捨てた」と誓い、花嫁衣装もなく、夫になる人の元へ夜汽車で1人で旅立つ内容であり、駆け落ちを描いたものである。駆け落ちはそれまでテーマ的に暗いものとされ、演歌の題材にはなっていたが、それをさわやかで明るく前向きに表現した衝撃的な作品と評された。
「花嫁」の詞は北山修が書いたものとは別にもうひとつあり、レコーディング時に、はしだから突然知らされた北山は驚いたが、こっちでも歌入れさせてくれと懇願され、歌入れ後どちらの詞を選ぶか、もめていたところ、たまたま遊びに来ていた岡林信康が北山版を気に入ったことから決まった。
 このことがきっかけで、北山とはしだは30年近く仲違いしていたが、はしだが入院時に、この件について北山に詫びたことで和解することになったと、『週刊現代』2019年3月9日号の「週現『熱討スタジアム』」で北山が告白している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/花嫁_(はしだのりひことクライマックスの曲)

はしだのりひことクライマックス 花嫁
https://youtu.be/xHnDiCxPEa0

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 1971年にヤマハ音楽振興会主催「第二回世界歌謡祭」選考の「第三回合歓(ねむ)ポピュラーフェスティバル(司会は永六輔)」が三重の合歓の郷・ヤマハのリゾートで行われた。
 小室等率いる六文銭と上條恒彦は別々にエントリーしていたが、キングレコード・ディレクターの三浦光紀が、小室等にそれぞれ1曲ずつ作曲を頼んでいたものの、当日までに1曲しか仕上げられなかったことから、急遽一緒に組んで上條恒彦+六文銭として参加することになった。
「出発(たびだち)の歌」の作詞は、元々はかぜ耕士が書く予定だったが、「体調が悪くて書けない、降ろしてくれ」と連絡が来たことから、及川恒平が「出発の歌 -失なわれた時を求めて-」というタイトルで詩を書き、会場に向かう新幹線の中で、手直しして完成させた。
 なお、詩の構想は上條恒彦が1年前からあたためていたもの。
 フォーク+ロック・リズムに仕立てた小室等の曲は前日にやっとでき、編曲の木田高介を同行、これも新幹線の中でアレンジさせ、六文銭が写譜し、会場へ来てはじめて音を出した。
 赤い鳥、トワ・エ・モア、弘田三枝子、中尾ミエ、沢田研二、伊東ゆかり、ピンキーとキラーズ、ブルー・コメッツといった出演者に交じると場違いに見え、とてもグランプリになんか取れそうもないと、みな諦めていたが、結果グランプリを取った。
 パーティーが終わって、宿泊所である合歓の郷の大部屋で、みんなで雑魚寝して呑んでいたところ、夜中の二時くらいに作曲家の中村八大が来て、1時間くらい一緒に呑んでつきあってくれた。
 小室等は、この八大から受ける言葉を一言も聞き漏らすまいと酒の酔いと戦っていたという。その中で
「いい編曲だけど、後半はもう少し手を加えたほうがいい」
と八大はアドバイスした。
「だったら八大先生、補編曲をしてください」
と木田が言ったところ、快く引き受けてくれ、大きくは違わなかったものの、続く11月27日に日本武道館で開催された第二回世界歌謡祭ではこの編曲で演奏し、こちらもグランプリを受賞した。
 世界歌謡祭の反響は大きく、この「出発の歌」は、シングルレコードとして発売され、累計で70万枚を売り上げた。
 この年の紅白歌合戦にも、この「出発の歌」で出場している。
 1974年に音楽之友社が発行する高等学校の音楽教科書に「出発の歌」が掲載された。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/出発の歌

上條恒彦&六文銭 出発の歌.m4v
https://youtu.be/rWNbtM2jHc0


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「あの素晴しい愛をもう一度」は、北山修が作詞、加藤和彦が作曲し2人の連名で発表した歌曲。
 1971年4月5日にレコード発売。
 もともとはシモンズのデビュー曲として用意され、作曲を依頼された加藤・北山コンビが、加藤が作曲に1日、北山が作詞に1日で作り上げたという。
 加藤は北山から送られてきた歌詞を見て北山に電話をし「最高だよ最高」とはしゃいだと、北山が加藤の追悼文に記している。
 結局、シモンズには別の曲「恋人もいないのに」が用意され、この楽曲は加藤と北山で歌うことになった。
 この曲のオリジナル録音(1971年)のきっかけは、東芝音楽工業がフォークルの再結成を図って加藤・北山の両人にはたらきかけたものであるとされる。
 当時、フォークルの再結成はあり得ないと明言していた2人は、ジャケットでもカメラを全く無視している。これには東芝に対する抗議の意味を込めていると加藤・北山ともに当時のラジオ番組で語った。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/あの素晴しい愛をもう一度

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「サルビアの花」は、相沢靖子が作詞し、早川義夫が作曲した楽曲。1969年に発表された早川のソロ・デビュー・アルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』に収録され、後に1972年に、もとまろ、岩渕リリ、鳳蘭などによるカバーが、各社競作のシングルとしてリリースされた。

「サルビアの花」は1971年に、当時はプロを対象としたコンテストだったヤマハ音楽振興会主催のヤマハポピュラーソングコンテストの前身'71作曲コンクールで、オフコースの歌唱により入賞した。
 さらにその後、ラジオ番組『コッキーポップ』を通して紹介され、広く知られるところとなり、1972年に多数のカバーが制作される契機となった。
『コッキーポップ』で「サルビアの花」が広く知られるようになると、レコード各社は競ってカバーシングルをリリースした。その中で最も大きなヒットとなったのは、青山学院大学の女学生たち3人のグループだった、もとまろによるバージョンであった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%8A%

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「神田川」は、かぐや姫(当時のグループ名は「南こうせつとかぐや姫」)が歌ったフォークソング。
 1973年(昭和48年)9月20日にシングルレコードが発売された。喜多條忠が、早稲田大学在学中に恋人と神田川近くの アパートで暮らした思い出を歌詞にして、青春の悲しみが若者の共感を呼んでヒット曲となった。
作詞・作曲 喜多条忠、南こうせつ
チャート最高順位 週間1位(オリコン) 1973年度年間6位(オリコン) 1974年度年間41位(オリコン)

 南から作詞を依頼された喜多條は当時25歳で、早稲田大学を中退したのち放送作家として売り出し中だった。
 彼はタクシーで早稲田通りの小滝橋を通りかかった時、19歳の時に1年間だけ早大生の髪の長い女学生と三畳一間のアパートで同棲した日々を思い出した。
 窓から汚い神田川と大正製薬の煙突が見えるアパートだった。そしてその「青春時代を総括するつもりで」、約30分で一気に詞を書き上げた。
 さっそく南に電話をかけて詞を読み上げると、南はそれを折りこみチラシに書き留めながら、即興で思い浮かんだメロディを口ずさんでいった。詞を書きながらメロディが湧いてくるのは南も初めての体験で、電話を切った3分後にはもう曲が完成していた。
 第一番の歌詞にて、女性が風呂屋(銭湯)で何時も待たされるという描写があるが、これは喜多条が銭湯で飼われていた鯉または金魚に餌をやったり、脱衣所のテレビでプロレス中継を見たりして、寒がりの恋人は赤いマフラーを首に巻いて待っていたことによるという。
 歌詞にある風呂屋のモデルは、早稲田通りから少し入ったところにあった「安兵衛湯」とされ、跡地にマンションが建っている。
 当初、この作品は『かぐや姫さあど』(LPレコード、1973年7月20日発売)の収録曲だったが、南こうせつが当時DJを担当していたTBSラジオの深夜放送ラジオ番組『パックインミュージック』で本作を流したところ、聴取者からのリクエストが殺到し、同番組のリクエストランキング1位を獲得した。
 これを受けて日本クラウン社内で制作会議を開いてシングル盤として発売するかどうかを決める際、名物プロデューサーであった馬渕玄三が
「この曲は歴史に残る名曲になる。これを出さなかったら日本クラウンは一生の恥をかくことになるぞ」
と強力にシングルカットを推したため、『神田川』はフラット・マンドリンの演奏を追加したバージョンをレコーディングした上で改めてシングル盤として発売された。
 このシングル盤は、最終的に200万枚以上を売り上げ、かぐや姫にとって最大のヒット曲となった。
 これだけのヒットを飛ばした『神田川』だったが、歌詞の2番に登場する「24色の『クレパス』買って」が商標名であることから、同年の『第24回NHK紅白歌合戦』の出演依頼が来た際にNHKから『クレパス』という歌詞を『クレヨン』に修正せよ」と要請されたため出場を拒否している。
 NHK紅白歌合戦で、この歌がオリジナルのままで歌われたのは、南こうせつがソロで初出場を果たした1992年(平成4年)の『第43回NHK紅白歌合戦』であり、レコード発売から19年後のことだった。
 1970年代の若者文化を象徴する作品の一つに数えられており、中野区内の末広橋近くの公園には『神田川』の歌碑が建てられている。
 なお、実際の歌の舞台はもっと下流の戸田平橋付近で、喜多條が住んでいた「三畳一間の小さな下宿」があったのは高田馬場2丁目の現在の専門学校敷地または豊島区高田3丁目7-17に所在した「千登世旅館」(2008年廃業)の隣といわれる。
 2005年にNHKが実施した「スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜」で白組28位にランクインされた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D_(%E6%9B%B2)

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「さよならをするために」は、ビリー・バンバンの楽曲。
 1972年2月10日に芸音レコードから発売され、1993年9月22日にキングレコードから「さよならをするために (ニュー・ヴァージョン)」として再発売された。
石坂浩二(作詞) 坂田晃一(作曲)
第3回日本歌謡大賞・放送音楽賞
チャート最高順位 1位(オリコン) 1972年度年間3位(オリコン)

 日本テレビのテレビドラマ『3丁目4番地』の主題歌として発売され、1993年にリリースした「さよならをするために (ニュー・ヴァージョン)」が、日本テレビ系『ザ・サンデー』のエンディングテーマ及び三和酒類の焼酎「いいちこ」のコマーシャルソング(1993年~1994年)として使われていた。

 1972年の『第23回NHK紅白歌合戦』にこの曲で初出場した。
 1986年以降、高等学校の音楽教科書にも何度か掲載された。
 石坂浩二が作詞、坂田晃一によって作曲された。しかし、当時のフォーク歌手の風潮として、他人の作詞、作曲したものを歌うのは一種の恥であると受け取る面があり、ビリー・バンバンのメンバーである菅原進は、この曲のレコーディングをボイコットしたという逸話がある。
 累計では約80万枚を売り上げ、当時人気が低迷していたビリー・バンバンにとっては、1969年に発売された「白いブランコ」以来の大ヒット曲となった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%88%E3%81%AA%E3%82%89%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%

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「22才の別れ」は、日本のフォークデュオ「風」のデビューシングルである。1975年2月5日発売。
作詞・作曲 伊勢正三
チャート最高順位 週間1位(オリコン)1975年度年間7位(オリコン)
 元々は「かぐや姫」の伊勢正三が1974年のアルバム『三階建の詩』のために書いた2曲のうちの1曲(もう1曲は「なごり雪」)で、シングルカットの要望が出るなど当初から評価は高かったものの、かぐや姫LIVEに収録されるにとどまり、リアルタイムではかぐや姫のシングルとしては発売されなかった。
 かぐや姫解散後「風」を結成しデビューシングルとして発売すると、「風」のシングルとしては最大のヒット曲となった。
 累計売上はミリオンセラーに達した。オリコンチャートでは売上70.8万枚、オリコン年間チャート7位。
 印象的なギターイントロは、編曲を担当した石川鷹彦によるものである。
 制作の経緯を伊勢正三自らが語っている。
「なごり雪」に反して「22才の別れ」は計算して作った。実は、この2曲は同じアルバムに入っている。1974年に発表された「三階建の詩」というアルバムだ。このアルバムには2曲書いた。最初に「なごり雪」を、その次にもう1曲別の作品をレコーディングした。
 だけど、なんだか気に入らなかった。「これは売れないなぁ」と直感してしまったのだ。だから、1日待ってもらうことにした。その日、家に帰って、絶対売れる歌を作ってやろうと思った。そうして、徹夜で作ったのが「22才の別れ」だ。
 だから、「なごり雪」は自分の好きな世界が自然に沸き上がってできた作品、「22才の別れ」はヒットを意識して作った作品だ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/22%E6%89%8D%E3%81%AE%E5%88%A5%E3%82%8C

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『いちご白書』をもう一度は、日本のフォーク・グループであるバンバンの楽曲。1975年8月1日に、同グループの5枚目のシングルとしてCBS・ソニーからリリースされた。
 バンバンのメンバーである、ばんばひろふみは、当時ラジオの深夜番組においてディスクジョッキーとして活動し人気も高かったが、デビューから4年経過してもまだヒット曲がないことに焦りを感じていた。
 その頃、荒井由実(現・松任谷由美)の曲を聞き「他の女性シンガーとは違う。キラキラしたすごい才能」と感銘を受けた、ばんばは「彼女の曲で売れなければ諦めもつく」と考え、最後の曲として荒井に書いてもらいたいと思い、荒井に会うためあらゆる伝を探し行き着いた所が松任谷正隆であった。
 そしてばんばは荒井と直接会い、条件を何も付けずに一曲依頼した。この曲のヒットによりバンバンを継続することになり、ばんばは「バンバンの寿命を延ばしてくれた曲」と語っている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/『いちご白書』をもう一度

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「涙そうそう」(なだそうそう)は、森山良子作詞、BEGIN作曲による楽曲。
「涙そうそう」の意味は、涙がポロポロこぼれる様子であり、森山が早世した兄への思いを歌詞に込めたもの。
 1998年の森山によるバージョンや2000年のBEGINによるバージョンのほか、2001年の夏川りみによるバージョンがヒットするなど、多くのアーティストにカバーされている。
 別れの歌・卒業ソングとしても親しまれ、日本の歌百選にも選ばれている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フォークソング

 夏川りみの現在の名義における3枚目のシングルとして2001年3月23日に発売。 
 夏川は、沖縄サミットのテレビ中継でBEGINがこの曲を演奏しているのを見て、カバーしたいと思うようになった。
 BEGINは夏川の依頼に応えて「あなたの風」を提供するが、夏川はなおも「涙そうそう」にこだわり、最終的にカバーが実現した。
 沖縄県の大手CDショップ「照屋楽器店」の売上ランキングでは発売1週目にしてB'zの「ultra soul」に次ぐ2位を記録。
 2001年、沖縄のラジオ3局で年間チャート1位となる。
 全国に知られるようになるまでには時間がかかったものの、2002年から3年あまりに渡ってヒットし続けた。累計売上は120万枚突破。
 2019年9月23日付けまでのオリコン週間シングルランキングでのトップ100ランクイン週数は通算157週であり、SMAPの「世界に一つだけの花」、中島みゆきの「地上の星/ヘッドライト・テールライト」に続いて歴代3位である。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フォークソング

お気に入りの音楽 16〜20

お気に入りの音楽 16〜20

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-14

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 16 女王様と神様と
  2. 17 ママ、あなたは
  3. 18 拓郎と陽水
  4. 19 フォーク創世記
  5. 20 フォークその後