ヒトとして生まれて・第10巻

045   ホットセクションの高温高圧環境に向けて

 純国産ジェットエンジンの推力増強に向けた試運転は防衛庁の三研と
呼ばれている航空関連の研究所の試運転場で国の威信をかけて、顧客で
ある防衛庁と我が社の連携で綿密な計画に基づいて遂行された。

 当時、中等ジェット練習機のエンジン推力増強による操縦性能の格段
の向上はジェット機の操縦指導教官による熱烈な要望でもあり、防衛庁
内の技官も、双肩に期待を背負って意気盛んであった。

 試運転場を訪れた我々設計要員は、三研を代表する神津技官によって
手厚く迎えられ、運転試験場の所定の操作パネルの前に集合、運転試験
の運転操作は防衛庁の技官によって操作レバーが握られて、私はホット
セクション部の高温高圧ガスの温度測定に専念した。

 その試運転が進められる過程で顧客である防衛庁にとってもジェット
エンジンの推力増強に向けては、並々ならぬ意気込みが感じられ、自分
たちが所有するエンジンをなんとしても推力増強して、操縦性能を格段
に向上させたいという思いが強く伝わってきた。

 ホットセクションにおける高温高圧ガスの流出部の温度は計算通りの
高温であり、高温高圧部の構造体に向けては高温高圧ガスに耐えるため
の構造体の設計変更が必須であることが確認された。

 設計変更については、既に、机上でのプランは明確に示されているが、
ホットセクションについては高温高圧であるため運転試験後の分解検査
による緻密な考察も必要であり、運転試験後の現物を観て対応を決める
ことも重要になってくる。

 予めの机上のプランでは、タービン翼については推力増強による表面
温度の上昇が確実なため、タービン翼の内部に空気穴を開けて冷却空気
をタービン翼の根元から先端に向けて冷却空気を流すための詳細設計が
用意されていた。

 ホットセクション部の強靭化に向けては、T氏をリーダーとする設計
チームが編成されて、タービン翼の設計変更についてはT氏が先行して
取り組んでいた。チーム要員は3名で私もその一員として任命された。

 タービン翼の設計変更については発注先における、工程確認の役割が
私に与えられて、繊細な空気穴の設計に感動を覚えたことが、古の記憶
だが、先輩のT氏と共に「やったね」と、いって顔を見合わせたことを
昨日のことの様に思い出す。

 そして、これは偶然のことだが、杉並区の我が永福寮に、福島県出身
で、一緒に上京して来た同窓生が訪ねて来てタービン翼の発注先の鍛造
を得意とするメーカーの社員であることを知って、その奇遇に驚いたが、
その先、その友人の実家が福島県で民宿を営んでいることを知り、後に
三年連続で、猪苗代湖や五色沼の魅力に嵌って民宿でお世話になった。

 話を元に戻すがエンジン推力を増強した試運転後の分解検査は忙しさ
を極め、構成部品の精密な見極めと共に強靭化に向けた設計変更に向け
て、ホットセクションチームの活動が始まったが、最初に眼に留まるこ
となったのは、最後部のベアリングルームのオイルの飛散を防ぐ蓋部分
に若干のオイルの焦げ付きが発見された。

 これによって、最後部のベアリングルームの外部の高温高圧ガスから
の熱気の遮断が必須となっていることが明確になった。これについては、
ベアリングルームの外蓋に遮熱構造を被せる設計が考案され、具体的な
設計に向けて、私が、図面作成を担当することになった。

 また燃焼器の円筒構造については、構造体の組み付け部分のスリット
設計部に高温高圧による応力集中により小さなクラック(亀裂)が発見
されスリットに集中応力がかからない様に設計変更した。この円筒構造
部分の量産図面は私が描いていたもので、設計変更も私が担当した。

 そして、その後もホットセクション部の構造体については150時間
耐久試験の繰り返しの度に、エンジンの組立て・分解エリアに出向いて、
エンジン強靭化に向けた小さな工夫を積み重ねて行った。



046  強靭化ジェットは信頼性向上型エンジンとしてデビュー

 純国産ジェットエンジンとして推力増強を果たし、エンジンの強靭化
にも成功したJ3ジェットエンジンは、中等ジェット練習機の訓練に当
たる教官にも、操縦性向上の面で極めて評判が良く、次の課題としては
エンジン整備のためのオーバーホールまでのエンジン稼働時間を延長す
るための準備段階に入った。

 エンジン耐久試験として、150時間耐久試験の連続運転による継続
的な繰り返しへの挑戦である。目標としては500時間連続運用に向け
たチャレンジである。

 ちなみに民間航空などで運用しているエンジンのオーバーホールまで
の時間は、平均的に5000時間程度であるが、これは民間機での運用
の場合、エンジン出力は定格の75%程度で運用するためエンジンへの
過負荷はなく、エンジンへの出力的なダメージが低いためである。

 その点、訓練機などの出力は操縦訓練のために最大(MAX)パワー
でエンジンに最大負荷をかけるため、一般的には、オーバーホールまで
の時間は、民間機に比べて十分の一程度となる。

 しかし面白いことに、中間ジェット練習機のエンジンも、民間輸送機
のエンジンも、エンジンのオーバーホールまでの期間は、いずれも四年
程度になる。これは中等ジェット練習機の場合、月間飛行時間が10時
間程度であるのに対して民間輸送機の場合は月間飛行時間が100時間
程度であるため、ほぼ同じ四年間程度でオーバーホールタイムに達する。

 しかし、オーバーホールの場合は、エンジンを総分解して、部品交換
や徹底した修理を行うヘビーメンテナンスであり、エンジンそのものの
メンテナンスは日々の点検に始まってマイナーレベルでのメンテナンス
もあり、日常的に常に手厚いメンテナンスを行っているので安全面では、
地上を走り廻る自動車などのエンジンよりもメンテナンスは行き届いて
いるといっても過言ではない。

 さて話を元に戻すが、中等ジェット練習機のエンジンとして推力増強
と共に強靭化を果たしたエンジンは、さらに耐久性を確実なものとして
顧客からは「信頼性向上型」エンジンとしての認証をいただき、練習機
としての稼働を続けながら、オーバーホールエンジンとして整備工場に
搬入されるタイミングを生かして、全エンジンを信頼性向上型エンジン
として、順次、強靭化のための改造を適用して行き、操縦性抜群の評価
を積み重ねていった。

 そして、凡そ・40年後に、この信頼性向上型のジェットエンジンと
再会することになるのであるが、それは感動的な再会であった。

 あの日は雪が降った翌日で長靴を履いて確定申告のための書類を所沢
の税務署に届けての帰り道、税務署の出口で、正面に所沢航空公園内に
在る「航空記念館」の案内看板を目にした。かねてから、一度は行って
みたいと云う思いがあったので、そのまま長靴を履いて航空記念館方面
を訪ねてみることにした。

 航空記念館の会場に入ると、航空人としては「なんとも古き懐かしい」
雰囲気に出迎えられて、そのまま、会場内に脚を踏み入れた。

 そして、向かったメイン会場で「懐かしいジェットエンジン」の姿を
発見したのである。それは、純国産ジェットエンジンであるJ3信頼性
向上型エンジンの2007号機であった。

 エンジンの周りには案内看板が掲げられており・・・

 このジェットエンジンはP2J対潜哨戒機に搭載されていた211台
の内の比較的初期に、実戦配備されたエンジンで、P2J対潜哨戒機の
ブースターエンジン(緊急時の加速用エンジン)として、役割を担って
いたエンジンで、哨戒機として主に海上を巡回中に急加速を要した時に
頼りになる存在であり、会場の案内看板によれば全てのエンジンが退役
まで「1台も欠けることなく任務を終了した」として、エンジンとして
の優秀性が称えられていた。

 まさに、40年ぶりの対面であったが、現役時代のジェットエンジン
としての強靭化と信頼性向上への取り組みが、顧客のエンジンに対する
思いにも支えられて、目の前で、その無事故の実績を確認できた喜びは、
この上ないものであった。

 その後、幼い遊びの中で定規を持って図面を描く孫の存在に気付いて、
設計センスの良さを感じていた私は、機械ものにせよ、住宅関連の設計
にせよ、定規を持つことに興味を覚えた孫を航空記念館に案合した。

 彼は、電車をはじめとして乗り物などにも興味があり、やがて何らか
の図面を描くような存在に成長すれば、それもまた楽しみの一つとして
期待感をもって成長に着目している。

 ただし、孫が私に定規を借りに来たのは、私が、晩年の棲家としての
ダウンサイジングした、家屋の間取り図を描いていたタイミングなので
孫の心根までは、分かっていないが、定規を使って建物の図面を描くと
いう行為は、称賛に値する・遊びを越えた仕草と受け止めている。

 さて、P2J対潜哨戒機に搭載されたJ3ジェットエンジンの紹介を
前述したが、中間ジェット練習機に搭載されて活躍していたエンジンが
何故、P2J対潜哨戒機に搭載されるようになったのか、その話をする
ことにしよう。

 中等ジェット練習機に搭載されていたJ3純国産ジェットエンジン
がエンジンとしての推力増強と強靭化を果たし、更には信頼性向上型
エンジンとして、オーバーホールのためにジェットエンジン整備工場
に搬入の機会を生かして、順次、改造が進められた話は前述した通り
であるが、中等ジェット練習機の指導教官に好評であったエンジンは
訓練生にとっても好評で、その性能の良さは広く知られることとなり、
せっかくのグッドデザインエンジンを、限られた中等ジェット練習機
への搭載だけで終わらせるのは、もったいないという話が顧客である
防衛庁内でも広がって行き、当時、レシプロエンジンからジェット化
への換装計画があった、P2J対潜哨戒機のブースターエンジン候補
として、人気が急上昇した。

 顧客である防衛庁内でも、この動きに最も興味を示したのは、我々
のジェットエンジンの推力増強と強靭化を「我がこと」として一緒に
なって取り組んでいただいた航空研究所の技官の存在であり、一気に
話が本格化したのも技官の存在感の賜物であったことは間違いない。

 P2J対潜哨戒機へのJ3信頼性向上型エンジン換装計画はP2J
対戦哨戒機におけるエンジン搭載ポッドの図面が我が社に持ち込まれ
てから、一気に換装に向けた動きが加速された。

 社内では、ただちに換装計画のチーム編成が、主任のM氏を中心に
して動き出し、私もチームの主力メンバーとして選出された。
 
 エンジンポッド内に納まることになるJ3エンジンについては前方
に伸びる空気吸入部の設計が必要であり、これについてはアルミ構造
での設計に着手、剛性を持たせるために外部をハブ構造にして剛性を
持たせることにした。当然、アルミの溶接構造になるため溶接技術に
向けて、生産技術者との具体的な検討を重ねることになった。

 また、エンジンポッド内への搭載については、エンジン装着のため
のマウントの設計に着手、いずれも私が設計図面を描いたが、課題は
エンジンポッド内で、10Gを越える負荷に耐える必要があり、主任
のM氏は強度実験のため材料実験室との間で、空気吸入ダクトおよび
マウント部分の歪計測について、具体的な計画を先行させていった。

 当時、私は、J3エンジンの150時間耐久試験へのバックアップ
要員であり、この歪計測は徹夜での対応となるため、他部の設計要員
に応援を頼んでいたが、急病となり、急遽、150時間耐久試験明け
の私が徹夜作業に当たることになったが、極めて、幸いであったのは
J3エンジンマウント周辺部の構造体は極めて頑丈な造りであること
および吸気ダクトの強度についても、頑健な構造であることを目前で
確認できた意味は大きかった。

 次の段階では、J3エンジンを搭載したP2J対潜哨戒機の実用化
のための飛行試験に入って行き、飛行試験後のエンジン分解にも立ち
会ったが、分解検査の結果、燃焼器内の燃焼筒の先端部が焼けだだれ
ると云う問題に直面した。

 この燃焼筒の先端が焼ただれるという問題については、P2J対潜
哨戒機については、使用燃料が異なるため、その影響が懸念され東京
豊洲地区の社内の研究所を借り切って、風洞試験装置を駆動、私が設
計した実験装置で、150時間相当の燃焼実験を行うことになった。

 勿論、一人では対応出来ないので、助手を付けてもらって、連日に
わたり燃焼実験を試みたが、いっこうに円筒部の先端が焼けただれる
現象は起きなかった。試験の途中で、実験装置そのものに問題がある
のではないかと、装置の改造なども試みたが、状態に変化は起こらず、
焼けただれの現象は発生しなかった。

 燃焼実験は失敗であったのか? と疑念が走ったが、その後の海外
の文献において、この焼けただれの現象と原因を見つけるに到り一挙
に、改善策が見付かったことを、昨日のことのように覚えている。



047  ジェットエンジンにとって空域と海域における違い

 航空用ジェットエンジンにとって、空域と海域における大きな違いに
最初に気付いたのは、東大で航空学を学んだ天才的な先輩H氏であった。
我々設計部門に配属された新入社員にとっては、理論面でも実践面でも
指導教官的な存在であり、先進的な研究事例を欧米における航空分野の
技術論文から学ぶ際には英文の論文で題材を決めて輪読を重ねた。

 それは、勉強会だけで終わることなく、実務にも生かせる点で皆して
予習にも熱心に取り組んだことが記憶に残っている。

 我々の純国産ジェットエンジンである、J3信頼性向上型エンジンは
中等ジェット練習機として空域での訓練飛行が主体であった。

 一方で、P2J対潜哨戒機に搭載されたJ3信頼性向上型エンジンは、
海域での稼働が主体になってくる。従来から空域での稼働に慣れていた
我々にとって、海域における稼働条件の違いには経験不足であった。

 先輩H氏は、次回の輪講の資料を選択する過程で、欧米における研究
論文において「海域で活躍する航空機用ジェットエンジンの塩害対策」
として、セラミックコーティングの有用性を論じた内容に眼が釘付けに
なったという。その論文には塩害によって起こる燃焼器の損傷について
も詳述されていた。

 海域において、海面すれすれに活躍する航空救助艇や米海軍の軍用機
などにおいては塩分を含んだ空気をエンジン内に多量に吸い込むために
エンジン内への塩気の影響が大きく、この影響からエンジンを守るため
には、セラミックコーティングの表面被膜による防護が、極めて有効的
であることがレポートされていた。

 それは、燃焼器内において塩分を含んだ空気に燃料を噴射させた高温
高圧での燃焼ガスの場合も、燃焼器の各部位に損傷を与えていることが
飛行後の分解検査で確認されており、燃焼器内の高温高圧ガスの流入部
にも、セラミックコーティングの有用性が実証されているという。

 天才的なH氏は数学の世界でもその優秀性が秀でており、燃料ガスの
混合比の計算などは得意分野であった。我々の純国産ジェットエンジン
がP2J対潜哨戒機に搭載されて飛行試験を行い分解検査で発見された
燃焼筒の先端の焼けただれについても、その原因探求のための燃焼実験
の際に、燃焼器の実験装置について空気量と噴射する燃料の混合比など
は検証をお願いしていたので、H氏が、この研究論文を目にしたときに、
すぐさま対応していただいた経緯がある。

 具体的には、P2J対潜哨戒機において換装の対象となるJ3信頼性
向上型エンジンについて、空気流入部については高温高圧ガスの流出部
も含めて塩害対策としてのセラミックコーティングの適用が必須であり、
我々は実用化に向けて図面改定を行った。

 私がP2J対潜哨戒機と初めて対面したのは、レシプロエンジンから
ジェットエンジンへの換装が始まり、実用化に向けた飛行確認が本格化
する初期の段階で、川崎重工業の換装現場に出向き、エンジンポッド内
へのエンジンの納まり具合を確認、セラミックコーティングを適用して
塩害対策万全なJ3信頼性向上型エンジンに向けて、心の中で「大丈夫、
行って来いよ」と、胴体を軽く叩く気分で、エンジンに向けて励ましの
言葉をかけたことを覚えている。

 次の段階で、P2J対潜哨戒機と対面したのは、下総基地に実戦配備
されたJ3信頼性向上型エンジンに対して当社からの全面的な支援体制
の意志表示として、整備支援部門からはT氏が、地上における運転試験
設備の技術支援としては、社内の試運転設備でエンジン操作のレバーを
握っているS氏、そして設計部門からは私の合わせて3名編成で出向き、
P2J対潜哨戒機の機体整備工場内で指揮をとっていた隊長に挨拶して
それぞれの任務に就いた。

 私は、P2J対潜哨戒機のエンジンポッド内への、J3信頼性向上型
エンジンの納まり具合を確認、エンジンポッドの大きな蓋が閉められる
と、隊長から「操縦室をご覧になりますか?」と声がかけられ・・・

「ありがとうございます」と云って、滑走路で飛行前の点検をしている
機体に乗り込むと広い操縦室で前方の見晴らしも良く、操縦室のパネル
に向かって「ブースターエンジン・オン」とばかりにJ3信頼性向上型
エンジンの緊急始動ボタンを押す操作をイメージ、お礼を述べて地上に
降り立ったことを昨日のことの様に覚えている。


048  実証実験的な人生のスタート

 私が入社した、1961年(昭和36年)は、土光敏夫新社長が新生
石川島播磨重工業(IHI)の再創業をスタートさせた翌年で、当時の
土光社長の画期的な経営指針の下、新入社員を600名規模で採用した
特異な年であった。

 当時の土光イズムとしての根幹は・・・

〇 学歴不問
〇 適材適所
〇 肩書に長とつく人は偉い人ではなく・まとめ役としての長であって
 何でも相談に乗ってくれる人である

 このことは、当時の新入社員教育において、人事部長からも繰り返し
語られて、真に受けた私は、その後の組織の変遷や、人事異動の経過を
経てもブレることなく定年までやり遂げたが、今にして思えば、随分と
冒険的であったかもしれない。

 しかしながら、エリートでもない私がこの土光イズムに沿った生き様
を終始一貫してやり遂げることが出来た秘訣は「アラビアのロレンス」
の映画からヒントを得た漫画世界のような「ヒーロー観」を自分自身の
哲学観で実証実験的に貫き通せたことによるものと考えている。

 今更ながら、八十路に到った今において、厚顔を顧みずに、我が意を
得たりとして要約すれば、次の様なまとめに到る。

【実証実験的な生き方における我が作法】

〇 社内における管理工学的な改善・革新の実践に当たっては、鳥の眼
(俯瞰)的にバランス良く布陣を敷く。そして成功のポイントは組織内
 をまんべんなくカバーする

〇 計画の実行に当たっては、かのアラビアのロレンスに習って、組織
 のライン(実務)側に、主役を建てて、当方は支援側に徹する
(その成果や手柄は、ライン側に譲り、我が手柄にしない)

〇 成果をライン側のものとすることを必須として、これが定着すれば、
 必ず、次の社内顧客が表れる。当方は支援者としてのブランドに磨き
 をかけ、けっして成果を横取りしない

~ 結果、自身、出世することはないが、定年まで現役の支援者として
 駆け抜けることが出来たのだと考えている ~

 しかしながら、これは、自分自身は納得して実証実験的な人生として
謳歌してきたが後に続く孫たちには、自分の成果は自分自身で受け取る
エリートとして、巣立てるように学業に励んで欲しい。

 それでは、ここに到るまでに、最初に体験した衝撃的な上司との対面
から物語ることにしよう。

 私が、設計部門において、純国産ジェットエンジンの量産設計の末席
に加わり、量産設計が完了した後で、中間ジェット練習機の操縦性向上
を狙いとした推力増強とエンジン強靭化のチームに加わり、引き続き、
P2J対潜哨戒機への換装計画のチームに抜擢されて、純国産ジェット
エンジン211台の量産体制の生産支援にも加わる機会をも得たことは
前述した通りであるが、さらに加えて、オーバーホールエンジンが順次
我が整備工場に搬入されてくることになった。

 当時、航空エンジン事業部は、大発展期の兆しの俎上にありエンジン
の製造だけでなく、国内のエアラインの大手として日本航空に並び立つ
存在としての全日空から、航空エンジン整備の受注にも成功して、その
準備が本格化、当時「造修計画課」と銘打った部署に優秀な人材が着々
と集められていた。

 当然のこととしてP2J対潜哨戒機に搭載される純国産J3エンジン
の量産体制の技術支援や整備支援なども、造修計画課で一貫して面倒見
をすることになる。

 当時、P2J対潜哨戒機への換装計画を完了して、エンジンの量産化
も始まり、併せて、オーバーホールへの対応としての整備工場への支援
など、当然の成り行きとして、私も造修計画課への異動を命じられた。

 その異動先での造修計画課の課長への挨拶の時の言葉は、今でも明確
に覚えているが・・・

「この部署には、優秀な人材が集結中であり、君は、無理して頭を使う
必要はないので手足として、一生懸命に働いて下さい」と。

 私自身、予想外の言葉に、反応のしようもなかったので・・・

「はい、よろしく、お願いします」と挨拶して、指定された席に就いた。
その時に思ったことは、兎に角「精一杯、手足として働くことにしよう」
しかしながら「その時には、頭もフル稼働させて、考えながら働くこと」
にしよう。

 そして、その日の昼食前に、ジェットエンジンの生産部門のスタッフ
が一堂に集められて、当時の土光陽一郎工場長が、私を紹介して下さり、
「今度、設計部門から、優秀な人材を迎えたので、お互い切磋琢磨して
エンジン作りに励んで行きましょう」と紹介された。

 当時は、各種、ジェットエンジンの量産化が目白押しで、工場内には
多くの技能者が採用されて、プレハブ造りの研修所での社内教育も盛ん
で、私も、間もなくして「図面の見方」の講師として任用され約百名の
受講生に向けて、テキストを作成、造修計画課での仕事と並行させて、
マイクを握っての講師活動にも注力、製造部門などの支援に当たり多く
の技能者とも顔見知りとなり、その後の業務遂行にも大いに役立った。

 新しい配属部門への対応において、所属部署の課長と工場長の対応の
違いには戸惑ったが、その時に、前述の人事部長の言葉を想い出した。
「この時に、実証実験的な人生経験がスタートしたのかも知れない」


049   P&Mマネジャとしての存在感

 異動先の造修計画課は、まったく新しい概念による組織体であり従来
にない発想で陣容が構成されていた。

 概念的には、顧客との契約に基づいたジェットエンジン造りにおいて、
一台一台のエンジンを手作り感覚で完成させて行くという方法をとって
おり、画期的な方法論をマネージメントの基軸に据えていた。

 当時は、純国産ジェットエンジンの存在は稀有であり、先進的な欧米
のジェットエンジンをライセンス生産する中で、唯一の自社設計による
生産ラインを形成していた。

 そして、それぞれの製造と整備にいおて、機種毎にP&Mマネジャが
着任、ジェットエンジンの製造においては1万点を越える部品の集結に
始まって、組立工場の人員の手配からエンジンの総合運転試験における
技術支援および顧客に向けたエンジン領収運転、さらには顧客に向けて
のエンジン出荷の手配などエンジンの製造に関する総支配人的な業務を
一人でこなす。ただし生産規模が大きな機種についてはアシスタントを
付けることがある。

 さらに、総支配人としての役割は、エンジンのオーバーホールを主体
とした整備作業においても顧客からのオーバーホールエンジンの受入れ
から分解検査、そして、部品の修理に関する手配から、交換部品の手配、
これらの部品の再集結から組み立て、総合運転試験の手配、顧客による
領収運転への対応、および、エンジンの出荷手配など、総支配人はこれ
を製造および整備エンジンに向けて複眼的に対応して行く。

 それだけに、それぞれのジェットエンジンを担当するP&Mマネジャ
には選り抜きの人々が選抜されていた。ちなみにかつてJ3エンジンの
強靭化の際にホットセクションのチーフデザイナーを担っていたT氏は
フランス語が堪能であったことからフランス製のエンジンのマネジャと
して着任していた。

 私の場合は、造修計画課の課長への着任の挨拶の際に、特に担当機種
などのついての説明はなく、設計部門からの説明では、純国産ジェット
エンジンJ3が量産化を迎えて整備作業としての受け入れも本格化する
のでという理由で着任した割には、着任先の課長の対応には違うものを
感じ取ったので、その晩になって熟慮を重ねた。

 結果、結論としては、初めての人事異動を自分なりに「栄転」として
受け止めて、行動を起こすことにしようと考えた。

 翌日、出社して、すぐに課長のディスクを訪れて設計部門の部長から
の申し送り事項として「純国産のJ3ジェットエンジンを担当したい」
旨を申し出た。

 そして、思いがけない回答が返ってきた・・・

「現在、J3エンジンの担当者は、既に着任していて、実務に当たって
いるので、佐久間君から事情を伝えて、彼が『快諾』してくれるならば
その方向で担当替えを考えましょう」

 新入社員時代に、人事部長から「長と付く人は偉い人ではなく」社員
の気持ちを汲んで動いてくれる人だと云う擦りこみがあるので、粘った
のだが、結果的には好転した。

 イタリアの格言に「口に出さなければ神様にも聞き届けようがない」
というフレーズがあるが、その時のことを、今になって思い出しても、
格言の説得力には「あらためて、その通り」と思うところがある。

 私が、後に、アメリカでコニュニケーション論を学んだ放送大学の
大橋理枝教授からコミュニケーション論の序説を学び、最終段階では
自己診断を受けたが、その時の「コメント」として・・・

「あなたは、自分の意見を遠慮して云わない傾向があるが自分の考え
は口に出して云わなければ、相手に伝わらないので、先ずは、その面
から改善することが望ましい」とあったが、

 当時は、明確に自分の意見が云えていたようだ(時に24歳)

 そして、さらに後に学ぶことになるTA(交流分析)という心理学
的考察においても 「自分の人生の主人公は自分自身である」という
言葉を知ることになるが、24歳の分岐点において自分の主張を通せ
たことが「今日に繋がっている」と考えると感慨深いものがある。



050   コミュニケーション論という今日的な命題

 私が24歳にして造修計画課に初めての人事異動を経験した時代には、
「コミュニケーション論を・学習科目として」は、学んでいなかったが、
自分の主張として「純国産ジェットエンジンの量産設計への参画や推力
増強に伴うエンジンの強靭化、そして、P2J対潜哨戒機への換装計画」
など一貫して学び設計に反映した経験を生かして、エンジンの量産化や
オーバーホール作業に貢献したいと主張出来た意義は大きいと、今でも、
ここが人生の分岐点であったと考えている。

「牛の尻尾よりも鶏の頭」という例えがあるが、当時、予め用意された
東南アジアのエアラインからの航空用エンジン整備への準備作業チーム
への参画には受注先のエアラインに向けた整備工場の提案などもあって、
私の設計センスへの経験も生かせるとしてスタッフの一員としての着任
が期待されていたようだが、私にとっては、純国産ジェットエンジンの
玉成に向けた意気込みの方がより強かった。

「自分の人生の主人公は自分自身である」とは、その後に学んだことで
あるが、前述したコミュニケーション論を学んだ後の自己診断において
「あなたは、自分の意見を遠慮して云わない傾向がある」と指摘を受け
て我に返った思いをしたことがあるが加齢に伴って「ことなかれ主義」
に陥って行く傾向は否定できない。

 その様なことを想い出している時に、最近、映画「怪物」を観賞する
機会を得た。先日、家内から「カンヌ国際映画祭で坂本裕二氏が脚本賞
を受賞した怪物を観に行かないか」と誘われて映画館に脚を運んだ。

 そこにはコミュニケーション論が進化してカオスの世界を作り出して
居る様子を見る思いがした。

 かつて20年くらい前の時代の怪物(モンスター)の存在には学校側
も手を焼いていた。当時は、PTAの存在感が圧倒的に大きく、父兄や
母親の存在は、モンスターの如く驚異的な存在として目に映った。

 そして、それよりも20年くらい前の時代には、学校の教室で教師が
児童の問題を一人で抱え込み、それが一部の学校では、やがて暴力教室
に発展した時代があった。

 それが、今や、コミュニケーション論の研究も進んで学校側も校長を
主軸にして教師を指導する管理職の側での「ことを大きくしない」ため
の対応策も研究されて「事態を明らかにしないまま、ひたすら謝る」と
いう方法論に集約しつつある姿が、映画「怪物」では描かれている。

 したがって、この経緯からは・・・

「教室において、問題を起こしたとされる『教師』に真相を述べる機会
は与えられず」
「母親の側も、学校の管理職集団から『ただ・ただ・謝られる』ばかり
で、ことの真相を知ることが出来ずイライラが増幅される」
「当事者の子供たちは、蚊帳の外に置かれた状態である」

 振り返って、新任教師が着任したときに・・・

「着任にあたって気を付けることはありますか?」という問いに対して、
「モンスターの存在に気を付けることだね」と、いう答えが管理職集団
から返ってくるものの、実感としては、「まだピンと来てない印象」で
あった。ここでの問題は父兄や母親の立場を、最初から、モンスターと
決めつけている点にある。

 結果、物語の終わりでは新しい教師の着任を迎えることになるのだが、

◯ 新任教師の失敗の主因は「自分の人生を学校の管理職側に預けた」
ことにあるのだが、願わくば母親に向けて「真実を語る機会」を強い
意志を持って工夫する必要があったが、管理職側のセーフティネット
に絡めとられて、ネットから飛び出る努力が足りなかった。

◯ 勿論、学校における管理職層の側にも、PTAとしての母親の側
にも、そして、子供の側にも、解決策はあったかもしれないが、問題
の根源は担任教師にあると決めつけて事を大袈裟にしたくないという
学校側の事情を打破するには、当事者の担任の先生が「自分の人生の
主役は自分である」という確固たる信念をもち、担任として、問題の
根幹を自ら曝け出して自分の人生を自分から主体的に考えて行くなら
挽回の機会は幾らでも作って行けるのではないか?


 かつて、大昔の時代は、先生が「教室の問題を自分の胸中に秘めて
やがて暴力教室へと問題が肥大化していったが」今や、学校を挙げて
「ことなかれ主義に走り」担任教師の居場所を無くして行く?

 映画「怪物」の提示は、この映画を研究テーマに据えて「担任教師」
として、学校の管理職層の在り方を考える、PTAという親の立場から
そして思春期の真実と嘘と無知な言動の混じりあった生徒間の在り方に
ついて、大いなる意見交換をする機会にする必要があると感じた。

 そして、受賞した脚本については、芥川龍之介の「羅生門」の作品を
思い出した。羅生門の最期に「死んだように倒れていた老婆が、死骸の
中から、その裸の躰を起こしたのは間もなくのことである・・・外には、
唯、黒洞々たる夜があるばかりである」と。
 
 映画「怪物」で挫折した新任教師が、やがて、自分の人生の主人公と
して立ち直り、生徒たちにとっての道しるべとなって行く続編を脳裏に
描いてみたいものである。でなければ、この物語は終わらない・・・

 要は、映画「怪物」のおおいなる課題の提起を、脚本賞が受賞出来て
良かったねで、終わらせたくないものである、異次元の少子化対策には、
こんなとことからも手を加えて行く必要があるのではないかと感じた。


051  若輩ながらP&Mマネジャとしての経験知

 当時、ライセンス生産の花形としてJ79大型ジェットの生産ライン
は製造工場の体勢を占める存在であり、完成したエンジンは、最新鋭の
F104戦闘機に、順次、搭載されていった。

 従って、純国産ジェットJ3エンジンの完成集荷前の総合運転試験の
日程の割当てにあっては、J79ジェットエンジンの運転試験日程の間
に割り込ませてもらって領収運転まで持ち込んで行く状況にあった。

 それだけに、J3エンジンのP&Mマネジャとしての役割には調整の
苦労はあったものの、業務量の負荷としては比較的余裕があり、様々な
試みを持ち込んで、技術面と生産管理面の両面からの切磋琢磨を重ねる
ことは容易であった。

 当時の田無工場を挙げての技能職のトレーニングにおいても設計出身
という立場で「図面の見方」の講師なども担当したが、J3エンジンの
生産が中規模であったことから、掛け持ちで、担当することが出来たと
云う事情も手伝って、多くの田無工場の技能者と顔見知りになったこと
は、その後の活動において、おおいに有益であった。

 また、工場内の生産設備について端から学ぶ機会も得られ、生産技術
部門のスタッフの方々には、土光陽一郎工場長から、造修計画課に着任
した日の昼食前に、工場内の事務所で紹介していただいたこともあって、
皆さん、好意的に接していただいて、知見として得るものが多かった。

 それぞれジェットエンジン部品の溶接技術や機械加工には工場独自に
蓄積された加工技術があって製品図面からだけでは知りえない生産技術
の奥深さを学んだ。

 田無事業所のスタッフとは、業務面のみでなくテニスコートでの交流
もあって、フレンドリーな付き合いは業務面でも潤滑剤となった。

 私が、新入社員として設計部門に配属になった頃の業務外での交流は、
冬季のスキー競技を通じた付き合いから始まった。設計部門にはスキー
の回転競技における有名な選手も居て、私も学校の体育授業でスキーを
学んだこともあり、設計部総出でのスキーの旅で、彼ら彼女らがお馴染
みのスキー場に出掛けて、皆について行ったところ想像を越える急斜面
で、みんなはスイスイと下って行ったが、とんでもなく怖い思いがして
スキーを担いで下山した思いがあるが、昨日のことのように思い出して
も身震いがする。

 その後も、冬季になると寮生の仲間や彼らの友人と連れだってスキー
に出掛けたが、要は膝の鍛錬がポイントということに気付いて始めたの
がテニス練習であった。冬季にスキーを楽しむには冬季に向けて春から
テニス競技などで膝の動きを良くしておくことに気付いたのである。

 そのような思いから、社内のテニス部に、入会させてもらったのだが、
初期においては、軟式テニスから始めた。1969年(当時27歳)に
瑞穂事業所に工場丸ごと大移動して、硬式テニスに転換することになる
のだが、これは、東京西多摩の瑞穂地区の米軍航空基地に隣接した立地
であったため、日常的に、強風下で、やむを得ず硬式テニスの道に転換
したものだが田無事業所における軟式テニス3年間の経験は硬式テニス
への転換において、足腰の鍛錬面で、無駄にはならなかった。

 造修計画課に異動する前あたりから、軟式テニスに本気で取り組んだ
記憶があるが、当時、金曜日の昼食時間はコート整備の日で硬式と軟式
でそれぞれコートにローラーをかけていたが週末になると参加者が激減、
コート整備の日になると少人数で行うことが日常化していたが、あの日
に限り、硬式のコートには土光陽一郎工場長ただ独り、軟式コートには
私がただ独りという状態であった。

 遠くに土光陽一郎氏の姿を観ながら、私は、軟式のテニスコート上で
定例となっているローラを一人で引くことにした。ローラーはかなりの
重さであったが、一人でも引けないことはなかった。

 そのときに思ったことは、工場長でありながら、一人でも箒をもって
テニスコートのラインを掃いている姿に大いなる尊敬の念を覚えた記憶
が今でも蘇ってくることがあるが純国産ジェットエンジンが多くの難題
を解決して玉成できた要因には、この類まれな熱意が、難題を克服して
成功への道を切り拓いたのかも知れない、と、純国産ジェットエンジン
開発に取り組む姿をイメージした。

 純国産ジェットエンジンの開発には、当時、複数の国内の航空関連会
社が集まって精鋭を送り込み、エンジンの開発に取り組んでいたが玉成
に到らず、国策として、責任体制を一社に絞り込むことになり、当時の
石川島播磨重工業(IHI)の土光社長が手を挙げて、社内から精鋭を
選り抜き、純国産ジェットエンジンの玉成に向けて一気呵成に取り組ん
だという経緯があるが、土光陽一郎氏もエンジン玉成に向けて取り組ん
だ中心人物で、多くの武勇伝も耳にしている。

 私が、造修計画課に異動と成り、土光陽一郎工場長から、着任の当日
の昼食前に、事務所内で、全員に紹介いただいたのが、このコート上で
の出会いから凡そ1か月後であったことを思い出すとなにかしら運命的
なものを感じることがあるが、懐かしい想い出でもある。


052   四本の足を持つ馬でさえつまづく

 イギリスの諺に「四本の足を持つ馬でさえつまずく」という言い回し
があるが当時の造修計画課に着任したP&Mマネジャの存在は、この諺
を踏まえた様な役割で、人事面からの組織体とはまったくもって違った
意味合いとして良く機能していた。
(それだけに新進気鋭の人材が集結していた)

 生産事業部門における工場内の製造およびオーバーホールを主体とし
た整備面での工程管理は、良く統制された組織体として清々とした流れ
で、各々の工程がキメ細かく管理されていたが、当時、5種類を越える
異形機種が工場内の生産ラインを流れていた。

 代表的な機種としては・・・

◯ 我が担当機種である純国産ジェットJ3エンジンは累計で247台
 が生産されて、中間ジェット練習機やP2J対潜哨戒機に搭載されて
 行った。そして全エンジンのオーバーホールも工場内に搬入された

◯ 主力のライセンス生産のJ79ジェットエンジンは累計で610台
 が生産されて、最新鋭の主力戦闘機に搭載されて、オーバーホールに
 おいても工場内を席捲した

◯ ヘリコプターに搭載のT58エンジンは累計761台が生産されて
 オーバーホールにおいても工場内を賑わせた 

◯ T64エンジンは累計391台が生産されて、P2J対潜哨戒機の
 主力エンジンとして活躍、オーバーホールにおいても工場内で活況を
 呈した

 その後も、TF40エンジンが累計で418台、F100エンジンが
累計で215台と続いて、更には、国内の主力エアラインであるANA
からの整備面におけるオーバーホールを主体とした受注など、土光社長
が中長期的な展望として、視野においた航空エンジンの専業メーカーと
しての責務を担い続けて今日に到っているが当時の造修計画課における
P&Mマネジャの存在はまさに試験的な試みであったにせよ、その後の
体勢を決定付けた存在であったと云っても過言ではない。

 どのような生産体制や整備体制を整えても人間を介して行うことなの
で必ず綻びは出る。ましてや複数の機種が工場内の生産ラインを流れる
時に、外部要因としての材料の遅れやなんらかの不具合は、他機種にも
影響を及ぼすことになる。

 そのときに、機種毎に、P&Mマネジャが存在するので、該当機種の
遅れを他機種で緩和する手立てなども取れる。それが出来る総支配人が
同じ造修計画課に居るので、即断即決で対応できる。

 P&Mマネジャは人事面からの管理職ではないが、機能面からの総支
配人であるため人事部などが間接的に介入する全方位型のものではなく
機能面を優先した総支配人なので、瞬時に、改編も出来る。

 そう云った面では、まだ若輩者の私が純国産ジェットJ3エンジンの
P&Mマネジャを担当出来たことは、まさに、生涯の進路を決定づける
24歳から27歳の間の貴重な経験であった。

 当時の私にしてみれば管理職でもないのに組織体において人を動かす
必要性から、著名なカーネギー著 「人を動かす」などにも学んだが、
後に「上司を動かす術」もその頃に学んだことがベースになっている。

 造修計画課に着任した時に、当時の課長から云われた言葉・・・
「この部署には優秀な人材が大勢いるので、君は頭は使う必要はなく
手足として働いて下さい」という状況から一歩前進して、

「この部署には優秀な人材が大勢いるので多くのことを学び取りながら
働いて下さい」と置き換えてみることにしたことは云うまでもないが、
いつの間にか、該当の課長は姿を消していた。

 それにしても造修計画課のメンバーが一堂揃ってのドライブと称して
の伊豆方面への小旅行では、周辺の部署のスタッフも加わってのもので
あったが宿は戸田の漁師の運営宿で底抜けに楽しんだことが懐かしい。


053   目の当たりに観た土光イズムの適材適所

「造修計画課の約3年間」席を並べることになったP&Mマネジャの中
から、やがて代を替えて二人の本部長が誕生したことから、土光イズム
の適材適所の実践は「的を得たものであったこと」が伺えると、同時に
当時の造修計画課には、いかに、優秀な人材が集められていたかも伺い
知ることが出来る。

 また、同じ時期の設計部門からは、約30年後に社長を輩出しており、
当時の土光社長による、中長期を見据えた航空宇宙部門への人材投入は
的を得たものであったことが実証されているといえる。

 その様な環境のなかで、若輩ながら、純国産ジェットJ3エンジンの
P&Mマネジャを担当できた私は幸運であったと云える。私にとっての
有意性は、過去の約5年間、東大の航空学科を専攻して卒業した仲間に
囲まれ、IHI航空大学の様な環境において、純国産ジェットエンジン
の量産設計の末席に加わり、エンジンの推力増強およびエンジン強靭化
による中等ジェット練習機の操縦性向上、さらには、P2J対潜哨戒機
への換装計画に主力メンバーとして加わり純国産ジェットJ3エンジン
を、知り尽くしてのP&Mマネジャ就任につき、他のP&Mマネジャが
ライセンス先の技術資料からエンジンを知るのとは、格段にエンジンに
深化しての取り組みであったといっても過言ではない。

 一方で、土光陽一郎工場長は、手狭になってきた田無事業所の工場に
加えて西多摩郡瑞穂地区に新たな瑞穂事業所としての工場建設の計画を
進めていた。当時は、田無工場で純国産ジェットJ3エンジンを総組立
すると、他の主力ジェットJ79エンジンなどと共に、瑞穂地区の野原
に設営されたジェットエンジンの総試運転場までエンジンを運んで総合
運転試験を行っていた。

 したがって、当時、総合運転試験の際は、運転状況の確認やトラブル
シューティングなどは、無線連絡で技術情報を確認しあっていた。

 総合運転試験は、IHIにとっても、顧客に向けて最終的な品質保証
を約束して行く工程であり、その頃のエンジン運転操作レバーは東大の
航空学科を優秀な成績で卒業したエース級の管理職が握っていた。

 総合運転試験場は、環境的には原野といった風景で、場所的には米軍
の横田基地の隣接地にあり、野原に、総合運転試験場だけが建っていて、
原野に近い一帯には蝮も生息していた。

 その地に工場建設の計画が進行していたのである。当時、航空機用の
ジェットエンジンの生産やエンジンオーバーホールなどの受注が重なり、
従来の田無工場では、部品生産だけで工場が満杯となり、次々と顧客に
納入を重ねていた、ジェットエンジンのオーバーホール等の受け入れや、
国内における大手エアラインANAからの民間輸送機のオーバーホール
受入などを考えると、瑞穂工場の建設は必須であった。

 そして造修計画課に異動して、二年目に、田無工場から瑞穂工場への
工場丸ごとの引っ越し計画については「若手スタッフを選抜して」その
引っ越しプロジェクトを丸ごと任せたいとして、土光陽一郎工場長から
各部署に通達が出された。

 引っ越しプロジェクトに与えられた用件は「工場の生産を止めずに」
引っ越しを完遂すること。

 そして、私も、若手メンバーの一員として「プロジェクトメンバー」
に加わることになった。私は、その後も各種のプロジェクトにメンバー
として加わったが、引っ越プロジェクトにおける経験は、その後の活動
の基礎になったと考えている。


054   かつて双肩に背負った工場丸ごとの引っ越し

「工場丸ごとの引っ越しプロジェクト」に集結した若手は多彩であった。
はじめに、プロジェクトリーダーから主旨説明があり、お互いに情報の
共有を行った後に、それぞれの目的別のチーム編成が行なわれた。

 それぞれのチーム分けは・・・

◯ 統括グループは、瑞穂工場のスムーズな稼働を視野に置いた役割を
 担い、工場全体のレイアウトの設定から、引っ越しの大日程の調整を
 担うチームで、リーダーにはO氏が就任して、私もチームメンバーの
 一員として任命された

◯ 設備グループは、瑞穂工場への、新しい設備の設置および田無工場
 からの設備の移転をスムーズに行う役割が与えられた

◯ 生産管理グループは、ジェットエンジンの製造ラインおよび整備を
 担当しているエンジン・オーバーホールのメンテナンスラインを止め
 ることなく移転させる役割で、私も兼務で担当することになった

 引っ越しプロジェクトは、順次、動けるところからスタートすること
になり、純国産ジェットJ3エンジンのP&Mマネジャである私および
主力のJ79ジェットエンジンのP&MマネジャのU氏とコンビで担当
することになった。

 コンビの活動として、最初の取り組みは、田無工場から瑞穂工場まで
の移動距離:約24Kmの道のりの大雑把な把握から始まった。

 田無工場から資材課に所属する輸送班のトラックに乗っての瑞穂工場
までの道のりの調査においては、田無工場から新青梅街道の大通りまで
は順調で、一気に、西多摩の瑞穂地区まで走り抜け、特に問題はないも
のの瑞穂工場に隣接する米軍横田基地のフェンスの脇を通り抜ける道路
に限り道幅が狭く、トラック同士だと、往路と復路で道路を交わすこと
は不能なため、第一の課題として交通の交換待ちの退避所の用意が必須
であることが判明して、プロジェクトの統括チームに報告した。

 かくして、横田基地のフェンス脇さえ通り抜ければ、瑞穂工場の敷地
までの道路の通行については、特に問題はないので、概ね、引っ越しの
上での問題はないことを確認した。

 生産ラインや整備ラインを止めずに田無工場から瑞穂工場までの移動
をこなす上で、最も課題となってくるテーマはオーバーホールにおいて
エンジン組立て前の部品編成時に、部品台車をマテリアルハンドリング
という面からどのような荷姿で運ぶか? これが最大の課題であった。

◯ 個々のジェットエンジン部品を、それぞれに梱包して運ぶとなると
 梱包・開梱の手間が膨大なものになってくる

◯ 台車ごと梱包して運ぶ手立てもあるが、台車内での荷崩れが生じな
 いか検証が必要である

 そこで、実際に、輸送コンテナー車を仕立てて、部品を乗せた台車の
輸送実験を実施してみることになった。その際に台車を丸ごと梱包する
スタイルだと、部品の転がり状態などが目視できないので、田無工場に
実際に保管されているままの状態で輸送して見ることにした。

 実験は、輸送コンテナーに部品を乗せたままの台車をフォークリフト
で積み込み、私とU君が、荷物室に乗り込み、身体を台車と同じエリア
内に縛り付けて、コンテナー車を走行させて急ブレーキをかけてもらう
など、通常の走行を想定して、実情を観察した。

 結果、部品台車上のエンジン部品の移動や荷崩れはなく、走行する上
での問題は無いことが確認され「部品台車に部品を乗せたまま」なんら
梱包することなく引っ越し出来ることが確認された。

 その結果、もっとも梱包費や手間がかかる懸念が払しょくされて大幅
な引っ越し費用の削減が実現した。要するに、オーバーホールエンジン
が田無工場に搬入されたら、エンジンをコンテナーから取り出して分解
検査を行い、検査工程を経て「そのまま使用可能な部品は台車で保管」
「修理の必要な部品は修理工程を経て部品台車へ」「交換部品の必要な
部品については資材部門から出庫」これらが揃った状態で、瑞穂工場の
組立て部門に引っ越しすれば、整備ラインを止めることなく作業を続行
出来ることになる。

 今夏、旅先でそのような思い出をうつらうつらと脳裏に描いていると、
観光バスが青森の旅先の弘前のフレンチレストランに到着、青森新幹線
は快適で特に疲れることもなかったが、それでもやはり、冷房の効いた
レストラン内は快適であった。

 そして驚いた。レストラン内で隣席した、ツアー仲間が、土光陽一郎
工場長にそっくり似であったのだ。フレンチの場合、食事の合間に時間
があるので「会話は適度なスパイス」とばかりに話が弾む。

 聞けば、隣席のご夫婦は、佐倉からのツアー参加だという。話が弾む
過程で分かったことは、お互いの夫婦同士で、私が佐倉の旦那と同学年
奧さん同士が5歳下の同級生、佐倉の奧さんが旧姓「佐久間」で、私と
同姓、奧さんのご先祖が私の祖父と同郷の福井県であり、彼女のご先祖
も、私の祖父と同様、廃藩置県で一族郎党が大挙して福井から関東地方
に引っ越して来たと云う因縁で、ひょっとしたら遠い親戚かとまで話が
弾んで、一気に旅の楽しみも膨らんでの同行となった。

 翌日の白神山地でのブナ林の散策においても「健脚コース」「普通の
コース」に分かれたのだが、偶然、彼らと同行の普通のコースへの参加
となり、コースがゆっくりなので話も弾んだ。

 新幹線においての帰路でも、同じ、上野駅での下車となり、また近い
旅路でお会いしたら「佐久間のご先祖につながる松平家の話題」で盛り
上がりましょということで、お互いの帰路に着いたが、特に住所交換も
なく、近々、旅先での再会もあるような気がして会釈をして別れた。

 世の中には「自分に似た人間が三人は居る」というが、私も10年前
の住居では、近郊の中学校にそっくりさんの教師が居て下校時の中学生
からよく会釈されることがあったが、佐倉の旦那も土光陽一郎工場長に
良く似ていた。

 そのような思い出の中で、私は気付いたのだが、私が田無工場から
瑞穂工場の若手の引っ越しメンバーとして選ばれたのも、かつて土光
陽一郎工場長とテニスコート場で、週末のコート整備の日に参加人数
が少なく、私は軟式コートで「一人:ローラがけ」土光工場長もまた
一人で硬式のコート整備、あの時に、引っ越しの若手メンバーとして
選ばれるご縁があったのではないか? と、いう思いがしている。

 土光陽一郎工場長のそっくりさんにお会いしたのも、かつてお世話
になったご縁をけっして忘れなさんなということなのかも知れない。


055   引っ越しの大日程と第一陣の出発

 1969年(昭和44年)7月16日、NASAのアポロ11号は、
アームストロング他の宇宙飛行士を載せて月面着陸に向けた旅に出発、
4日後の7月20日には月面着陸に成功して、月面を歩き、その足跡
を月面に残した。

 この年、我々は、田無工場から瑞穂工場に、工場丸ごとの大移動を
果たし、大型&中型のジェットエンジンは、瑞穂工場でエンジンの総
組立てを行い、総合運転試験まで一貫して行う体制が確立された。

 ただし、この時点では、小型エンジンは引き続き田無工場で組立て
を行い、総合運転試験も一貫して田無工場で行っていた。

 田無工場の大型ジェットエンジンの組立てエリアは、部品製作用の
エリアとして活用されて、結果、ジェットエンジン部品の製作エリア
も拡充された。

 時に、私は27歳、瑞穂工場への移転に際してそれまでは約3年間
P&Mマネジャとして生産管理面とエンジニアリングの両面から今風
な表現をすれば二刀流で業務に邁進してきたが、瑞穂工場への移転後
は、生産管理課と生産&整備技術課が、二つの部門に分かれることに
なり、いずれかを選択することになった。

 私は躊躇することなく、興味深い「生産管理課」を選んだ。しかし
私の場合は、引っ越しプロジェクトにも席を置いた関係で、移転後の
生産性向上運動にも関与することになり、管理工学(IE)の分野も
兼任「生産性向上運動」の旗振り役も担うことになった。

 今にして思うと、その後、1976年(昭和51年)のデミング賞
を航空宇宙事業本部として受賞獲得するまでが私にとっての黄金時代
であったと考えることがある(27歳から34歳まで)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここで、少し先の1981年(昭和56年)にT氏が本部長が就任
した以降の苦境についても触れておこう。私が39歳の時のことだ。

 これは、後になって知ったことだが・・・

 T本部長 曰く「俺の眼が黒いうちは、あいつはぜったいに管理職
に任用しない」と明言したのだという(あいつとは私のことである)

 当時、私の上司は、そんな経緯は知らないから、管理職の適齢期に
入った私を「業績:良好」として課長職に推薦、本部長決裁の出口が
塞がれているので当然「もっともらしい理由を付けて」却下された。

 愉快だったのは、私が欧米における航空エンジン分野での管理工学
面の海外視察の経験を生かして、国内の大手エアライン:ANA社が
運用する「JT8Dターボジェットエンジンのオーバーホール期間」
を約30%短縮、顧客からは大いに感謝され新橋の料亭に招待されて
「出世払い」ということで大いに歓待された。

 私も、この時には「課長昇進かな?」と思ったものだが・・・

 上司から 「JT8Dターボジェットエンジンのオーバーホールは
まだ売上額が少なく、全社的な見方からは、貢献度が少ない」という
理由で課長昇進は却下されたのだと聞かされた。

 その時の私の立場は純国産ジェットJ3エンジンのプロダクション
マネジャを担当する傍ら、瑞穂工場の生産性向上運動をビデオIEと
いう独自の管理工学の技法を開発して推進していた時期であり、民間
向けJT8Dターボジェットエンジンのオーバーホールの工期短縮は、
プラスアルファの業務担当であった。

 したがって「JT8Dターボジェットエンジンのオーバーホールは
まだ、売上額が少なく、全社的な見方からは貢献度が少ない」という
理由は取って付けた「お断り事情」で正当な回答とは云い難い。

 そもそも、私がJT8Dターボジェットエンジンのオーバーホール
のメンテナンスマネジャを担当することになったのには事情があって、
当時、私は、瑞穂工場の組立て部門で、作業工程の標準時間をビデオ
IEの技法を駆使して、組立て作業・撮影中であった。

 そこに、急遽、会議室からの呼び出しがあって、生産管理部長から
「支給、ノートをもって会議室に入って欲しい」と連絡があり会議室
に飛び込んだ。

 会議室では、当社にとって重要な顧客である民間航空ANAの整備
部長から「重要な申入れ事項の説明」があるということで、会議室に
飛び込むと・・・

◯ 当社の「オーバーホール期間の短縮」について実績が出ていない

◯ このまま推移するのであれば、国内に競合他社もあり、海外への
 発注も可能なので、一考を要すると考えている

◯ 以上のことから、期限までに成果が出ない場合は、顧客としても
 別の選択肢を考慮する必要があるとして

 当社に向けた改善要望の項目が 「微に入り細に入り」述べられて
改善までの期間が指定された。

 私としては、今までの経緯は、把握していないので、兎に角ノート
にメモすることに徹したが、記述はノート2冊に及んだ。

 そして、会議の後で、生産管理部長に呼ばれて・・・

「明日から、JT8Dターボジェットエンジンのオーバーホールの
メンテナンス・マネジャを兼務する」様に指示された。

 勿論、現状の業務は継続したままである。それ以降の詳細な説明は
省略するが、約10か月を要したものの、実際のオーバーホール期間
を約30%短縮して、顧客の期待に応えることが出来た。

 結果、前述した通り、顧客からは新橋の料亭に招かれて「出世払い」
として接待を受けたのだが、これも前述した通りの事情で・・・

「課長昇進は見送られ」出世払いの道は、約10年間は、閉ざされた。

 T本部長の遺恨により「俺の眼の黒いうちはあいつは昇進させない」
ということで出口に蓋がされている状態なので、どんなに饒舌な上司が
弁舌さわやかに申告しても通らない事情があったのだ。しかし、当時は
上司といえどもまったくその様な裏事情は知らされてなくまさに本部長
の胸三寸の事情なので、当時としては誰も真相を知る者はなかった。

 詳しい事情は後に述べることにするが、一言で述べれば、後に本部長
に昇進することになるが「人事異動」への逆恨みと云うことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その辺の事情に、何故、私が関係して恨まれるることになったのか?

◯ それは昭和51年に航空宇宙事業部門がデミング賞を受賞したこと
 に関係がある。デミング賞といえば日本においては品質管理に関して
 最高の賞であり、容易には受賞できない

◯ デミング賞への挑戦は、当時の本部長であった、今井兼一郎本部長
 が全社的な品質向上へのキッカケとして取り組みを始めた

◯ 実際にチャレンジすることになる主体的な部門はジェットエンジン
 の部品を製造している田無工場、そしてエンジンとして総組立てして
 総合運転試験をおこなう瑞穂工場、瑞穂工場ではエンジン製造に加え
 て、メンテナンス分野ではエンジンオーバーホールも担当している

◯ この時の田無工場の工場長が、土光陽一郎工場長の後を継いだT氏
 その時、私は瑞穂工場の生産管理部でP&Mマネジャの仕事をこなし
 ながら「管理工学(IE)」担当として瑞穂工場の生産性向上運動の
 旗振り役を担当していた

◯ もちろん、デミング賞の受賞活動に当たっては、両工場に品質管理
 を担当する部門があって、実際の事務局的な活動に当たる。その時に
 事務局の代表的な役割はT氏が担っていた

◯ そして、それぞれの全社的な活動展開を経て、実際に審査を受ける
 場面に遭遇、田無工場が先発で審査を受け、審査過程での内部情報と
 して、当落ギリギリの状況にあり、審査員に向けて瑞穂工場が格段の
 好印象を与えられないと「受賞は難しい」という一報が入った

◯ 瑞穂工場の受審に際しては、特に身構えることもなく通常の取組み
 姿勢で取り組み、気負った対応はしなかった

◯ 結果、航空宇宙事業部門としての「受賞」が決まったが、品質保証
 を全社を挙げて一貫して、部品製作から総組立て・総合運転試験まで
「信頼性向上運動」としての看板を掲げ看板通りの活動をしていること
が評価されての受賞であったと受け止めている

 しかし、ここまでは絵に描いたサクセスストーリーであったが・・・

◯ この後で、オールIHIとしての取り組みに発展させて行くために
 田無工場において生産技術にも精通したT工場長が、全社を統括する
 立場である生産技術部門の統括者として異動が決まった

◯ ここで、T工場長にしてみれば、本人の胸三寸としてはデミング賞
 の受賞をきっかけに、次の本部長を目指していた

◯ そして、この時に、瑞穂工場に設計部門から着任して成果を挙げて
 いたI工場長が、次の本部長としての歩を進めたと考えた

◯ この時点で、恨み節が嵩じたT工場長は、次期の航空宇宙本部長を
 目指して、人脈造りに着手、声を挙げて「味方を募り」「敵を識別」
 本社の人事部門にも人脈を構築して思い通り今井兼一郎本部長の後任
 として、航空宇宙部門の本部長に就任した

◯ この時に、デミング賞の受賞活動において、瑞穂工場の生産性向上
 運動に管理工学(IE)の専門スタッフとして活動してきた私である
 ので、デミング賞の受賞活動を「田無工場と瑞穂工場の闘い」として、
 日本史における「関ケ原の戦い」に例えれば、当然、私は西軍の宿敵
 としてマーキングされることになる

◯ したがって「俺の眼が黒いうちはあいつは管理職に登用しない」と
 いうくだりになるということである 


 その時に、適材適所の土光イズムを身上とする私としては・・・

「こんなことで、やる気をなくしても、なんの益もなく、これからは、
自分の業績評価などいっさい気にすることなく、自分にとっても企業
にとっても、好かれ(善かれ)と思うことに邁進しようと、一大決心
したことが後々の人生航路にとって『よき道標』となった」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 しかし、そのT氏による怨念は、企業における現役の時代に限らず
私の定年退職後の66歳の時に、私にとっては恩人と考えていたO氏
に「たまには、元の職場のOB会にも、顔を出せや」と云われて参加
したものの、帰りがけに「毒盃」を勧められて、死の淵に送り込まれ
と云う異常事態に遭遇、O氏の先輩がT本部長という人間関係で世の
中は危険に満ちていると云える。

 ただ、世の中は良くしたもので、この経緯を聞きつけた、かつての
設計時代からの大恩人であるI本部長からの「バカなことは止めろ」
の一喝で納まった感はあるものの、I本部長も102歳の長寿で天寿
をまっとうされており、今後も油断出来ないという事情にある。


056   顧客との間での交替制をめぐる苦悶

 我が社にとって、将来を見据えた時の、ANA向け民間輸送機用の
JT8Dターボジェットエンジンのオーバーホール期間短縮は、次期
最新鋭ジェットの整備事業の受注にも直接的に繋がって行く話であり、
顧客からの提言には真摯な対応が必須であったが交代制(シフト)の
導入の要望に対しては苦慮するものがあった。

 当時、急成長の勢いにあった民間エアラインANAに向けては次期
最新鋭ジェットの整備事業に向けて、国内の他社が猛烈な受注活動を
仕掛けていて、JT8Dターボジェットエンジンのメンテナンス受注
についてもその一環としての働きかけは猛攻撃と云う状況にあった。

 国内の民間エアラインからのオーバーホールを主体とした整備事業
の受注は、航空宇宙事業本部の二代目の森本部長が、渾身の受注活動
を行って手中にした事業だけに、我々の世代で、それを無にすること
は到底、許されるものではない。

 しかしながら、顧客であるANAからの要望とはいいながら交代制
の導入に「即、応じること」について、エンジンショップからの強い
抵抗が推測された。

 たしかに欧米のエアラインやエンジンショップの管理工学(IE)
の実情把握のための視察を通じても、シフト導入は当たり前の状況
は観てとれた。

 しかし、当社のエンジンショップにおいては、オーバーホールなど
知的な作業に特化して取り組んでいる部分も多く、ルーティンワーク
の範囲では対応できない業務もあり、整備技術部門とタイアップして
業務をこなしている部分も多く存在するため、そのことを考慮すると
敢えて夜間の作業に持ち込むことには疑問があった。

 そこで欧米のエアラインの管理工学(IE)の実態を垣間見た生産
管理部長と、私は、当時は、まだ、セブンイレブンという発想も店舗
も存在していなかったが、

◯ 午前7時の稼働開始から、午後11時まの稼働と、いう時間帯で
 勤務シフトを組めば、ショップの理解が得られるのではないか?

◯ そして、深夜のシフトを避けた相当分については土曜日と日曜日
 の休日の昼間稼働を加えた効果的なシフトが組めないか?
 
 ということで、瑞穂工場としての、基本的なシフト体制を創案した。

 そして、同じ社内の相生の造船部門で「修理船の工事期間短縮」の
ための「6・6・3シフト体制」の存在を知り、相生地区まで出掛け
て、その有効性を確認した。

 ここで、6・6・3シフト体制とは、6日の稼働をして2日間休み
さらに6日間稼働して2日間休み、次は3日間稼働して2日間休みを
繰り返す稼働体制である。

 我々としては、6・6・3シフト体制に、さらに7時~23時体制
を加えるので、シフト体制的には深夜作業を避けることの出来る妙案
として、顧客であるANAの諒承および社内の労働組合の同意を得て
運用の運びとなった。

 しかしながら、当時の瑞穂工場は「ファミリー感覚を特色」とする
工場運営に特色があったため、このシフト体制の導入の影響を受けた
民間エンジン担当のショップのメンバーからは 「地域の野球チーム
からの離脱を余儀なくされて」このシフト体制の創案に深く係わった
私は、労働組合の事務所を訪れたときに次の様な本音を聞かされた。

 民間エンジンのショップにおける「彼らの言い分」は・・・

「佐久間さんだけ休日のテニスで日焼けして健康的な顔をしている」
「俺たちは、休日が来ても子供とも遊べない好きな野球も出来ない」

 そして、話を更に複雑にした要因として・・・

「私は、当時、企画職の立場から、管理職に就く前に、組合活動にも
積極的に参加して、労働組合の立場からの経営協議会への建議事項の
提案活動にも積極的に参加して欲しいと云う要望を受けて、労働組合
にも定期的に顔を出していた」

 労働組合としても、会社側からの提案事項の検討に留まることなく、
経営協議会への建議事項の提案には積極的で、我々企画職の立場から
の参加には丁重な対応があり、研修合宿の開催や活動資金の提供など
万全のバックアップ体制が用意されていた。

 そのような背景があっての定期的な組合事務所への出入りであった
ため、シフト体制の実践課程での、ショップの本音なども包み隠さず、
伝わってきた。

 たしかに、これまでの我々の生産性向上運動においては、芝浦工大
の津村教授の社会人ゼミに参画して、ムリ・ムダ・ムラの発見のなか
から「ムリ作業」に着目して、ムリを排除することで、ショップと共
に生産性の向上に寄与してきたが、今回のシフト体制では、どの様に
工夫しても、前述の様に、日常生活の面から、ショップのメンバーに
ムリを課してしまうことになる。

 しかし当時の状況としては顧客であるANAに向けて民間エンジン
としての実質的なオーバーホール期間の短縮について、実績を示せて
いない状況にあり先代の森本部長の渾身の努力で取り込めた民間事業
が、他社に持って行かれようとしている危機的な状況であり、これを
食い止めるには、当社にとって積極的な取り組み姿勢を示すためにも、
先ずは、シフト体制を組まざるを得なかった。

 なんとかして、民間エンジンの工期短縮の実績が示せれば、シフト
体制についても見直す環境が整うので、再考の余地は出て来ると考え、
その場では「後日・ムリを取り除くための懸案事項」として、脳裏に
納めることにした。

 これは、後日談であるが、約10か月後に、民間エンジンの工期を
約30%短縮後、シフトを組まずに、通常勤務でも、工期短縮を維持
出来る方法論を策定してシフト体制を解除することが出来たが、民意
としての不信感の排除にまでは届かなかった様である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 一方で、企業内において自分が置かれた場に、次の様な自己矛盾が
生じてきて「リトル・モンスター化する」兆しが見えてきた。

 この間の民間工事のオーバーホールへの助っ人稼業において・・・

◯ 労使交渉の「シフト導入」の協議において、私は、企業側の中枢
 の立場から、シフトの根幹や仕組みについて説明
 (本来的には、管理職がこの場に立つ必要がある)

 一方で、経営協議会の建議事項の説明においては・・・

◯ 顧客(防衛庁)に向けての俊敏なエンジニアリングサービスの
 提供のための「テクニカルサービス事業」の提案を企画職として
 (組合員の立場から説明)

 関連部門の民間整備技術のエリート従業員たちからは・・・

◯ 当時、民間整備技術部門で、技術力を磨いてきた東大や九大の
 卒業生たちからは、生産管理部長に向けて、民間エンジンの工期
 短縮といった課題であれば「本来、俺たちの出番ではないか?」
 という声も挙がってきた

「はて・さて?」これらには話の続きがあるのだが、その前段の話
として、私が引っ越しプロジェクトのメンバーとして田無工場から
瑞穂工場に移って、以来、どの様な経緯で「リトルモンスター化」
したのか、に、ついて語ることにしよう。

 新入社員の入社式で、土光敏夫社長の眼光が私の脳内にレーザー
光線の様に飛び込んで来て、化学変化を起こして、後々まで影響を
来しているのかもしれない?


057  民間輸送機用エンジンの整備事業の本格化

 国内民間エアラインANAからの整備事業はJT8Dターボジェット
エンジンのオーバーホール期間30%短縮の実現によって、ANA社に
おける予備エンジン削減という効果をもたらし「ANA社の業績改善」
にも寄与することで、次期・最新鋭の大型ジェット機のターボジェット
ファンエンジンのオーバーホール事業の受注にもつながるという成果を
もたらした。

 これによって当社における国内民間エアラインANAからの整備事業
の規模は確実に拡大され、営業収支も大幅な改善が図られて、民間整備
事業としての単独での採算性にも見通しが付いてきたことから、組織的
にも単独での整備事業としての運用が可能となった。

 そこで従来は防衛庁からの整備事業と民間エアラインからのエンジン
整備は同じ組織体で運用していたが、それぞれ独自の事業としての運営
が可能となり、当時、私も緊急課題として民間輸送機用エンジンの整備
期間短縮にかりだされて約10か月で30%短縮の実現に寄与、同時に
最新鋭ジェット機のエンジン整備事業の受注活動にも、参戦してきたが
受注が確実になった時点で緊急支援の任務は解かれて、純国産ジェット
J3エンジンのP&Mマネジャ役と生産性向上運動の旗振り役に戻った。

 その後、瑞穂工場内における組織改編が図られて従来の整備技術部門
内の民間グループが、民間エンジン整備部門として独立して整備技術と
生産管理の役割を一括して担うことになり従来からの彼らの希望である
民間整備事業については、自分たちで、一貫して担いたいと云う願望は
果たされることになった。

 一方で、防衛庁からの官需としての整備事業については、従来通りの
運用で、生産管理機能と整備技術機能は、それぞれ独立した機能として
の運用を継続させた。

 その時、私は生産性向上運動および瑞穂工場の負荷の算定と人員計画
などに特化、特命事項として「自動倉庫の建設計画」が付与された。

 生産管理部長と私は、欧米における管理工学(IE)の実情調査以来、
共に、田無工場から瑞穂工場への引っ越しプロジェクトの統括グループ
としての連携活動を発端として、瑞穂工場の生産性向上運動に寄与して
きたが生産管理部長のO氏が田無工場長として任用される見通しとなり、
後任には、早稲田大学で管理工学(IE)を学んだT氏が後任の課長と
して着任された。

 このT氏とは、後年、TQC推進部でお世話になり、私の定年後T氏
も外出が億劫になって来て、私が75歳の頃に、T氏がまだ歩けるうち
に皆さんと食事でもご一緒したいということで懇親会の案内を先輩女史
からいただいたのだがあいにく出席できなかった。

 そして、先輩女史からの後日談として、T氏の言葉が伝えられ・・・

「佐久間君には、当時、もっと大きな仕事を任せれば良かった」として
瑞穂工場時代のことを語られていたと云うが、私にしてみれば、当時は
27歳から39歳までの間に、欧米で学んだ管理工学(IE)の経験を
寝食を忘れるほどの思いで実践に実践を重ねた後で当時の計画グループ
に移って、T氏を課長として迎えた状態で、それこそ大きな仕事を成し
遂げた後の時期であり、その直後に就任したT氏が、当時の私の直属の
上司であるO氏からの人事カードで、過去の業績についての申し送りが
あってしかるべきであるが、それが無いということは生産管理部長から
の申し送りがなんらなかったことを意味する。
(そのようなことが起こり得るのだろうか?)

 そして、社会人ゼミとして、お世話になった芝浦工業大学の津村教授
からも「佐久間さん考案のビデオを駆使した管理工学(IE)の画期的
な実践により晴れて重役の誕生につながったらしいね」と云われた時に
も、教授からの言葉の真意が掴みきれていなかったが、いずれにしても、
私の27歳から39歳の黄金期における活躍の記録は業務実績としては
どこにも存在していないことが最近になって明確になってきた。

 生産管理部長のO氏が田無工場長に内定したことについては、O氏が
優秀な上司であり、私の黄金期に共に、瑞穂工場の業績向上に積極的に
取り組んできたことであり、田無工場長への抜擢は当然と考えていた。

 しかし、当時のT本部長が、私に向けて・・・

「俺の眼の黒いうちはアイツは管理職に任用しない」と云っていたこと
など、まったく知らないことなので、ここで私が課長昇進のコースから
強制的外されていたことなどは知らなかった。

 当時の津村教授も、そこまでの内部事情については、ご存じないので
「あれだけ・大活躍の佐久間さんが昇進しないのは、不思議な会社だな」
という印象をもたれたのだと推測する。

 津村教授の主宰される社会人ゼミでは、異業種交流として、お互いの
活動状況については情報交流しているので、お互いに熟知しており社外
では、私の実践活動は知られており、これがT本部長の怨念により社内
の人事録などの痕跡が残されていないのであれば私にとっては勿体ない
ことなので、今からでも遅くはないと考えて・・・

「ヒトとして生れて・第6巻」として書き記そうと一念勃起して、早速
執筆を始めようと考えている。

 そう云えば、当時の瑞穂工場の造修計画課のOB懇親会で、帰り際に
O氏から毒盃を喰らって、死の淵まで追いやられそうになったときにも
「私の管理工学(IE)実践の活躍ぶりが、いっさい、語られることが
なかったことは、その根底には脈々とT本部長の怨念が渦巻いていた」
のかも知れない。

 そして、これは余談だが、私が実現したところの「JT8Dターボ
ジェットエンジンのオーバーホール期間30%短縮の成果」は、独立
組織として動き始めた民間整備グループによる運用に移管したばかり
の状態で整備工期が元の状態に悪化して、当時の新工場長から、私に
かつての成果報告書を基にした支援が要請されたが、管理工学(IE)
による業績改善は、いっけん容易な取り組みに見えるが、案外やって
みて難しい局面が生じるものなのかもしれない?

(続 く)

ヒトとして生まれて・第10巻

ヒトとして生まれて・第10巻

ラケットとジェット(続編)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-14

Copyrighted
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