お気に入りの音楽 11〜15

お気に入りの音楽 11〜15

11 イツァーク・パールマン   シンドラーのリスト

 ディヴィド・ギャレットのCDに『シンドラーのリスト』が入っていた。
 映画では、ギャレットが師事していたイツァーク・パーマンが演奏している。

 パールマンは映画『ミュージック・オブ・ハート』にでてきます。

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 子供の中には足の悪い女の子がいて、姿勢を保てないため弓に力が入らない。義足を見たロベルタは
「松葉杖のイツアーク ・パールマンは椅子に座って素晴らしい演奏をしたのよ。人は足だけで立つのじゃない、気持ちでしっかり立つことが大事なのよ」
と励ます。
 ラストはアイザック・スターン、アーノルド・スタインハート、イツァーク・パールマン、マーク・オコーナー、ジョシュア・ベルなどの著名な演奏家が本人として登場している。

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 イツァーク・パールマン(1945年8月31日 - )は、イスラエルのテルアビブ生まれのヴァイオリニスト、指揮者、音楽指導者。
 20世紀後半における最も偉大なヴァイオリニストの一人と評価されており、また知名度においても最も秀でたヴァイオリニストの一人である。演奏においてのみならず、教育者としても高く評価されている。

 3歳の時、ラジオでヴァイオリンの演奏を聴いて感動し、ヴァイオリンに強い憧れを抱く。最初はおもちゃのヴァイオリンを遊び半分で弾いていたが、間もなく正式なレッスンを受けるようになる。
 しかし、4歳3ヶ月のとき、ポリオ(小児麻痺)にかかり、下半身が不自由になってしまう。それでもヴァイオリニストになる夢をあきらめず、幼少ながらシュミット高等学校でヴァイオリンのレッスンを続ける。
 その後、アメリカ=イスラエル文化財団の奨学金を受けて、テル・アヴィヴ音楽院でリヴカ・ゴルトガルトに師事し、10歳で最初のリサイタルを開いた。これを機にイェルサレム放送管弦楽団の演奏会に招かれ、ラジオにも出演する。

 テル・アヴィヴ音楽院卒業後の1958年、13歳の時、アメリカの人気番組「エド・サリヴァン・ショー」のタレント・コンクールに応募して栄冠を勝ち取り、翌1959年2月に出演、リムスキー=コルサコフの「熊蜂の飛行」やヴィエニャフスキの「華麗なるポロネーズ」を弾いて大絶賛を浴びる。
 このテレビ出演をきっかけに、アメリカに留まることを決意、アイザック・スターンの強い推薦を得てジュリアード音楽院に入学、名教師イヴァン・ガラミアンとそのアシスタントのドロシー・ディレイのもとで学ぶ。

 1964年8月にはレーヴェントリット国際コンクールで優勝する。18歳での優勝は史上最年少であった。
 その後はアメリカのメジャー・オーケストラから共演依頼が殺到し、アメリカ全土の主要都市でリサイタルを開いて絶賛を浴びる。
 1965年には7年ぶりに故国イスラエルに帰り歓迎を受ける。
 1967年から1968年にはヨーロッパの主要都市でデビューを果たし、その評価は国際的なものとなる。
 初来日は1974年で、その後、度々来日している。

 1966年から始めたレコーディングではグラミー賞15回をはじめとしてエミー賞を4回受賞するなど、ほとんどのレコード賞を獲得している。

『シンドラーのリスト』は、スティーヴン・スピルバーグ監督による1993年のアメリカ映画。
 第二次世界大戦時にドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で絶滅収容所送りを阻止し、その命を救った実話を描く。ホロコーストに関する映画の代表的作品として知られる。
 監督候補にはビリー・ワイルダー、マーティン・スコセッシ、ロマン・ポランスキーなどが挙がっていた。結局ユニバーサル側が提示した「『ジュラシック・パーク』の監督もやる」条件を受け入れスピルバーグが監督となった。1982年に原作の映画化権を手に入れたスピルバーグは、その後10年近く構想を練り企画を温めた後、この映画の制作に着手したという(スピルバーグ自身もユダヤ系アメリカ人である)。なお、スピルバーグは「血に染まった金は貰えない」として、監督料の受け取りを拒否している。

 ラストシーンを除けば、ほぼ全編に渡りモノクロ作品である。これはスティーヴン・スピルバーグ監督の「戦争を記録したフィルムはモノクロだからその方が説得力があるだろう」という考えによるものである。ただし、パートカラーが採用され、赤い服の女の子、蝋燭の赤い炎などが登場する。

『ジュラシック・パーク』の制作費6300万ドルに対し、本作は2500万ドルと潤沢とは言い難い額であった。小道具や古着が現地調達され出演料の高いスターは起用されず、出演者の多くも現地でキャスティングされた。撮影カメラもパナビジョンに比べレンタル料の安いアリフレックスが使われ、基本的に撮り直しをしない方針で進められたが、完成版は3時間15分とスピルバーグ監督作品では最長の尺となった。

 音楽担当のジョン・ウィリアムズは、フィルムを観て自分には荷が重すぎると感じ、スピルバーグに「この作品には自分よりもっと適任の作曲者がいると思う」と進言したが「知ってますよ、でもその人たちはみんなすでに故人なんです」と返された。彼はこの作品でアカデミー作曲賞、英国アカデミー賞 作曲賞を受賞した。

 第66回アカデミー賞では12部門にノミネート、そのうち作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、編集賞、美術賞、作曲賞の7部門で受賞した。

 2022年、雑誌誌面にて、最近のポリオの感染流行の復活には強い憤りを感じており、自分がポリオにかかった時代にワクチンがあったら(ポリオワクチンが発表されたのは1955年)接種していただろう、ポリオは苦しい、ポリオワクチンに疑念を抱く人々の話を聞くと腹が立つ、と記している。

(Wikipediaを参照しました)

メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲第三楽章 エド・サリヴァンショー
https://youtu.be/9HYzHGzpamw
シンドラーのリスト
https://youtu.be/1uothczT8G4

12 何度聴いても

 何度聴いても素晴らしい!
……ではなく、何度も聴いてもタイトルから曲が浮かんでこない。有名な曲なのに。何十年も前から何度も聴いているはずなのに、耳を素通りしていく。
 今回も投稿のために聴いたのに、メロディーが浮かんでこない。

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『亡き王女のためのパヴァーヌ』は、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが1899年に作曲したピアノ曲、および1910年にラヴェル自身が編曲した管弦楽曲。

 ピアノ曲はパリ音楽院在学中に作曲した初期を代表する傑作であり、ラヴェルの代表曲の1つと言える。
 この曲は世間からは評価を受けたが、ラヴェルの周りの音楽家からはあまり評価されなかった。ラヴェル自身もこの曲に対して、「大胆さに欠ける」「かなり貧弱な形式」と批判的なコメントを行っている。一方で、ラヴェルが晩年重度の失語症に陥った状態でこの曲を聴いた際、「美しい曲だね。これは誰の曲だい?」と尋ねたという逸話が残っている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/亡き王女のためのパヴァーヌ

 フジコ・ヘミングの演奏への絶賛コメントがすごいです。この曲が一番好きだとか……
 大体、パヴァーヌって? 16世紀から宮廷で踊られていた踊り。

亡き王女のためのパヴァーヌ フジコ・ヘミング
https://youtu.be/yUwjvUMctto?si=KEi2wBV9lKzQ2dD4


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『牧神の午後への前奏曲』は、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーが1892年から1894年にかけて作曲した管弦楽作品であり、彼の出世作である。

 まさにフランス音楽って雰囲気の作品です。
この曲はフランスの詩人ステファン・マラルメの「牧神の午後」という長大な詩にインスピレーションを受けて、 フランス人作曲家のドビュッシーが作曲しました。
 当初は「前奏曲」「間奏曲」「終曲」の3部構成の予定が、「前奏曲」でマラメルの詩を全部語ってしまい、 曲の出来もあまりにもすばらしかったので、「前奏曲」だけで完成になったそうです。
なんだかぼやけた感じの、あまりパッとしない曲ですが、
 神牧が見た、”ニンフ(妖精)との戯れ”の夢の光景が、そのまま音となってうまく表現されています。
http://klassic4234.fc2web.com/debussy.html

 数十年前にクラシックの名曲集のレコードを買ったときに、レナード・バーンスタインのポスターが付いてきた。カラヤンもバーンスタインも区別がつかなかったが。


牧神の午後への前奏曲 ドビュッシー
https://youtu.be/k5oaRGAu0VE?si=6-pBGnSw5r9HrNCt


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『ダフニスとクロエ』は、ロシアのバレエダンサー・振付師ミハイル・フォーキン、フランスの作曲家モーリス・ラヴェル、ロシアの美術家レオン・バクストらによって制作されたバレエ、またはこのバレエのためにラヴェルが作曲したバレエ音楽、あるいはラヴェルの同楽曲に基づいて後世に再創造されたバレエである。 2~3世紀古代ギリシアのロンゴスによる物語『ダフニスとクロエ』を題材にしており、全3場が連続して上演される。上演時間は約55分。
 このバレエのためにラヴェルが作曲した管弦楽曲は、彼の傑作の一つとして高く評価され、バレエ音楽全曲、または作曲者自身による2つの組曲(「第1組曲」、「第2組曲」)の形で演奏される。

 晩年病に倒れて仕事の不振に打ちのめされていたとき、かれは好んで初期の作品をくり返し聞いた。かれが最後に《ダフニス》を聞いたとき、かれはひどく感動し、さっとホールを出て私を自動車のところへ引っぱっていき、そして静かに泣いた。
「あれはやっぱりいい曲だった!ぼくの頭のなかにはまだいっぱい音楽があったのに!」
  私はなんとかしてかれを慰めたかったので、かれの音楽はすばらしい、完璧だ、と言ったのだが、かれは憤然として答えた。
「とんでもない、とんでもないよ。ぼくは言いたいことをまだなにも云ってないんだ・・・・・・」
— エレーヌ・ジョルダン=モランジュ、エレーヌ・ジョルダン=モランジュ 安川加寿子、嘉乃海隆子共訳『ラヴェルと私たち』、音楽之友社、1968年8月、56-57頁より引用

ダフニスとクロエ ラヴェル
https://youtu.be/IlENd0p6aR4?si=Y69o5uhWgL-eXTwb

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『トリスタンとイゾルデ』は、リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇。
全3幕からなり、1857年から1859年にかけて作曲された。演奏時間は約3時間55分(第1幕80分、第2幕80分、第3幕75分)
 物語は、古代トリスタン伝説によっており、ゴットフリート・フォン・シュトラスブルク(? - 1210年)の叙事詩を土台として用いている。
 ワーグナー自身が「あらゆる夢の中で最も麗しい夢への記念碑」と述べているように、この作品は愛の究極的な賛美であるとともに、その一方で、感情的な体験を超えて形而上的な救済を見いだそうとするものともなっている。作品全体に浸透した不協和音の解放によって『トリスタンとイゾルデ』は、ヨーロッパ音楽史上の里程標と見なされている。また、この作品の極限的な感情表現は、あらゆる分野にわたって何世代もの芸術家に圧倒的な影響を及ぼすものとなった。
 第1幕への前奏曲と第3幕終結部(イゾルデの「愛の死」)は、ワーグナーが全曲の初演に先立って演奏会形式で発表したことにちなみ、現在でも独立して演奏会で演奏される。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/トリスタンとイゾルデ_(楽劇)

トリスタンとイゾルテ ワーグナー
https://youtu.be/mDJbEV41uPI?si=hQw7WBDltC4TgMkx


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 フランツ・リストに宛てた手紙に、ワーグナーは次のように書いた。
「自分はこれまでに一度も愛の幸福を味わったことがないので、あらゆる夢の中でも最も美しいこの主題のために一つの記念碑を打ち立て、そこで愛の耽溺のきわみを表現したいと思ったのです。こうして『トリスタンとイゾルデ』の構想を得ました。」

 ワーグナーは亡命中、自分を保護してくれたリストを音楽的にも深く尊敬しており、唯我独尊とされる彼が唯一無条件で従う人物とされる。当時、ブラームス派とワーグナー派と二派に別れた際、リストが自分についてきてくれたことに感激し、自信を更に深めた。

 ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、19世紀のドイツの作曲家、指揮者、思想家。
別名 楽劇王 職業 作曲家、指揮者
活動期間 1832年 - 1883年
 ロマン派オペラの頂点であり、また楽劇の創始者であることから「楽劇王」の別名で知られる。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。

『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇。
 物語は、人間と芸術の価値を輝かしく肯定するとともに、天才が得た霊感を形式の枠の中で鍛え上げる必要性を説いた寓話にもなっている。その豊かで鋭い洞察と暖かな人間性によって、本作品は幅広い人気を保っている一方、当時のワーグナーの思想である「ドイツ精神」の復興とともに反ユダヤ主義が織り込まれており、底に潜む暗い部分として疑問が投げかけられてもいる。

ニュルンベルクのマイスタージンガー ワーグナー
https://youtu.be/dT0fQG9aox4?si=miTYXvhtim_xOk4Q


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『マイスタージンガー』は冒頭部分が浮かびます。でもワーグナーはあまり聴かなかった。
 英国ドラマ『主任警部モース』で、よくかかっていたような。
 検索してみると、ユダヤ批判にヒトラー……

 ワーグナーには熱狂的なファンが多数存在する。彼らのワーグナーへの傾倒ぶりは、信仰に近いものがあるという。ワーグナーを聴くためにバイロイト祝祭劇場に行くことを、しばしば「バイロイト詣で」と呼ぶのがひとつの証左である。ワグネリアンという言葉がネガティブな意味合いを持つに至った理由のひとつに、ワーグナーの反ユダヤ主義がある。
 ワーグナー自身の反ユダヤ主義的傾向は生前から知られており、さらにはアドルフ・ヒトラーがワグネリアンを自称したため、ワーグナー作品はナチスのプロパガンダに大いに利用されることとなった。
 例えばナチスのニュルンベルク党大会では『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲や『リエンツィ』序曲などのワーグナー作品が演奏され、ナチスの宣伝トーキー映画にはワーグナーの曲が多く使用されていた。
 このような経緯のため、イスラエルでは建国以来長らくワーグナー作品の演奏や鑑賞がタブー視されてきた。ワグネリアンの中にはワーグナーとヒトラーの関係を認める者もいるが、あくまでワーグナーとヒトラーは無関係であり、ワーグナーの音楽自体は政治的意図を孕まない純粋な芸術だと主張する者も多く存在する。
 このように、ワーグナー自身に対する評価としては、ワーグナーの人間的欠陥と作品の良否は別と考える者、人間的欠陥故に数々の作品を生み出したと考える者など、ワグネリアンにおいても数々の解釈があり、その一筋縄で理解しがたい点がワーグナーの魅力でもあり、イスラエルでのワーグナーの再考と議論は芸術の限界や可能性を表している。

 現在でもイスラエルではワーグナーの楽曲がタブー視されており、公に演奏されることは許されない。しかし、1981年、ズービン・メータが
「民主主義国家イスラエルではすべての音楽が演奏されるべきではないでしょうか」
と演説し、聞きたくない観客には辞退してもらい、『トリスタンとイゾルデ』の一曲をアンコールで演奏した。
 ユダヤ系指揮者ダニエル・バレンボイムは2001年イスラエル音楽祭でベルリン国立歌劇場を指揮して『トリスタンとイゾルデ』序曲を演奏し、騒ぎとなった。イスラエル国営ラジオの音楽部長Avi Chananiはワーグナーのイスラエルにおける演奏を擁護したが、演奏すべきではないという意見も多々あった。その後バレンボイムは、ワーグナーがヒトラーのお気に入りの作曲家だったからといって、ワーグナーにホロコーストの責任を押し付けるのは間違っている、とイスラエルを批判した。
 ドイツではワーグナーの「音楽」を賞賛することは許されても、ワーグナーの反ユダヤ思想を賞賛することはユダヤ人差別として非難の対象となる。

 ワーグナーは指揮者としても高名で、『指揮について』などの著作もあり、指揮に対する独自の理論を打ち立て、多くの指揮者を育成した。同じく独自の音楽理論を打ち立て、多くの弟子を養成したブラームスとは激しく対立し、近代以降の指揮理論の二大源流になった。

 世紀末ウィーンの音楽界では、保守的であったブラームス派はバッハ、ベートーヴェンなどのドイツ伝統音楽を模範として、ワーグナー派はブルックナーやリストなど「未来の音楽」を標榜する進歩派であった……

・夜中に作曲しているときには周囲の迷惑も考えずメロディーを歌ったりする反面、自らが寝るときは昼寝でも周りがうるさくすることを許さなかったという。
・常軌を逸した浪費癖の持ち主で、若い頃から贅沢をして支援者から多額の借金をしながら踏み倒したり、専用列車を仕立てたり、当時の高所得者の年収5年分に当たる額を1ヶ月で使い果たしたこともあった。リガからパリへの移住も、借金を踏み倒した夜逃げ同然の逃亡だった。
・過剰なほどの自信家で、「自分は音楽史上まれに見る天才で、自分より優れた作曲家はベートーヴェンだけだ」と公言して憚らなかった(とはいえリストやウェーバーなど、彼が敬意を払っていた作曲家は少なくなかったようだが)。このような態度は多くの信奉者を生むと同時に敵や反対者も生む結果となった。
・哲学者フリードリヒ・ニーチェとの親交があり、ニーチェによるワーグナー評論は何篇かあるが、中でも第1作『悲劇の誕生』はワーグナーが重要なテーマとなっていることで有名である。しかしのちに両者は決別する。
・ブラームスとそりが合わず、犬猿の仲だった。1870年にウィーンで催されたベートーヴェンの生誕100年セレモニーに講演者として招待を受けて快諾したが、土壇場で出席者リストにブラームスの名を見つけて出席を拒否した。
・動物好きで犬とオウムを飼っており、動物実験に反対する投書を寄稿したこともある。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC

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 ワーグナーを検索したら文字数が増えてしまいました。Wikipediaからの引用は引用先を明記すれば許されています。(これも気になっていたので調べました)

13 さだまさし

 さだまさしさんの楽曲国民投票というのがあった。
 5位 まほろば、14位 檸檬、21位 飛梅。
 私は初期のアルバムしか知らないが、3位 飛梅、2位 まほろば、1位 断然、檸檬です。

『飛梅』
 まずは菅原道真さんについておさらい。藤原時平の讒言により大宰府へ左遷されることになった道真さん。出発前に日頃から愛でてきた庭木と別れを惜しんだんじゃが、その時に詠んだのが有名なこの歌じゃ。

東風吹かば
にほひをこせよ 梅花
主なしとて 春を忘るな
東風が吹いたら芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。主人が都にいなくても、春を忘れてはならないよ。

 その後、道真さんを慕う庭木たちのうち、桜は悲しみのあまり朽ちてしまう。じゃが、松と梅は道真さんの後を追って空を飛んだ! ところが松は途中の摂津国(「飛松岡」)で力尽きて、そこに根を下ろす。いっぽう梅は、道真さんが暮らす大宰府まで辿り着いた。これが飛梅伝説じゃ。
https://takatokihojo.hatenablog.com/entry/20190603/1559487600

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『まほろば』は、さだまさし作詞作曲の楽曲、1979年4月発表のアルバム「夢供養」に収録されている。
 歌の舞台は奈良の春日野である。
『万葉集』の磐姫皇后の作歌
在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日(巻2-87)
ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに
(大意)このままずっと君を待ちましょう 垂らしたままの私の黒髪に霜が置くまでも
を、モチーフに奈良・春日野の風景と男女の心のすれ違いを描いている。
 現在でもさだは頻繁にコンサートで採り上げており、アルバム発表直後
「日本ならではの美、それも古式ゆかしい美をなんとか曲に凝縮できないものかと、この作品以前にも何度もトライをしてきているのだが、初めて『不完全感』の無い曲が出来たと思えた」
と語っていた。
 さだが師と仰いでいた詩人でもある宮崎康平が、この曲を賞賛し「自分を超えた」と言ったが、同時に
「聴き手がついてこなくなるからこれ以上難しい曲は書くな」
と忠告している。
https://blog.goo.ne.jp/y54akio/e/83b3b6e73c03e9f6917b24918796ab7c

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『檸檬』(れもん)は、さだまさしが1978年3月25日にリリースしたアルバム『私花集』の収録曲であり、8月10日にリリースしたシングル盤でもある。

 シンガーソングライターのさだまさしさんは、自身が主演・音楽・監督を務めたドキュメンタリー映画「長江」(1981年公開)の制作で推定35億円の借金を背負うことになりました。
 映画はヒットしたけど…
 しかし現地中国での撮影が難航し、当初の予定より大規模な撮影になったこと、スケジュールの超過、人件費を始めとする制作費の増大などで、受けた融資額と金利を含め、約35億円もの借金を背負うことになります。
 借金返済がモチベーションに。後にさださんは「借金を返すためにも歌手をやめるわけにはいかない」
との思いから、歌手活動を40年もやってこれた理由の1つに負債があったと語っています。借金の完済には30年かかったとのことです。
https://black-pro.jp/geinoujin-shakkin/#geinoujinshakkinEgawa


飛梅
https://youtu.be/3sCnCjyvBEQ
まほろば
https://youtu.be/IS1LWfKNJGk
檸檬
https://youtu.be/JfXMSToJt9Y

14 ミニマルミュージック

 フィリップ・グラス(Philip Glass)ってご存知ですか?
 世界的に有名な作曲家であり演奏家でありながらも、ここ日本においては、ロック系はもちろん、クラシック系の人に話をしても、本当に知らない人が多くて悲しいです……
 本当に知る人ぞ知るアーティスト=ミュージシャンです。
 少数とは言え、ご存知の方もいるかとは思いますが、あえてフィリップ・グラスについて語ります。
 フィリップ・グラスは1937年生まれのアメリカの作曲家です。
 彼の音楽は現代音楽の中でもミニマル・ミュージックに分類されますが、どうやら本人は気に入らないようです。
 皆さんにとって「ミニマル・ミュージック」って出てきた時点で、何じゃそれ?ですよね。
 フィリップ・グラスは映画音楽(キャンディーマンなど)も作曲していますので、もしかしたら、どこかで聴いているかもしれませんね。
https://musicians-plaza.com/art1/philip-glass/

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 サブスクでいろいろ聴いていると、あなたの興味がありそうな……というのがどんどん入ってくる。
 フィリップグラスのメタモルフォーシス(1〜5)
 聴いたことのない作曲家だったが、流していると同じようなものばかりですぐに馴染んだ。気に入って、特に調べずによく聴いていました。
 メタモルフォーシス……詳しい説明を見つけられず。1から5まであります。似たような曲。現代音楽です。
 メタモルフォーシスとは変容、変身の意味。

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 フィリップ・グラスは1937年1月31日、米メリーランド州ボルチモア生まれの作曲家。
 一定の音型を反復する「ミニマル・ミュージック」の旗手として知られる現代音楽の巨匠。
 オペラやダンス、映画と活動の幅は広く、自身が「劇場音楽」と呼ぶ曲は、クラシックのみならずロックやポップスにも多大な影響を与えている。
 幼少時からヴァイオリンとフルートを習い、名門ジュリアード音楽院へ。
 1965年にインドでシタール奏者(北インド発祥の弦楽器)のラヴィ・シャンカールと出会い、リズム構造を重視する旋律に決定的な影響を受けた。
 1967年にはニューヨークに戻り、楽団を結成。
1976年のオペラ『浜辺のアインシュタイン』はフランスで絶賛され、映画音楽でも『トゥルーマン・ショー』がゴールデン・グローブ賞最優秀音楽賞に。
 2005年には愛知万博で代表作『カッツィ3部作』(1982-2002)の映画コンサートを行った。
https://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/laureates/philip-glass

 ミニマル・ミュージック(Minimal Music)は、音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させる音楽。現代音楽のムーブメントのひとつ。1960年代から盛んになった。単にミニマルと呼ばれることもある。

 クラシック音楽を愛好していると、興味はあるけどなかなか飛び込めない「現代音楽」
 その一種であるミニマルミュージックとはどういった音楽を指すのでしょうか。
 簡潔に述べると「短い音素材を、繰り返して作り上げる音楽」と言えます。
 重要なキーワードは「短い(小さい=Minimal)」と「繰り返して」です。
 一般的にクラシック音楽は第1主題やモティーフといったメロディの単位があり、それらがソナタ形式や変奏曲形式など大きな作りを構成しています。
 作曲者によってアプローチが違い、一括りに「繰り返しの音楽」と言い切れない多様性があるのが大きな魅力です。
 また「小さな」メロディを用いるという特性から非常にメロディックで調性的な音楽が多く、現代音楽が苦手だという人でも聴きやすい音楽が多いというのも魅力の一つかもしれません。
 日本では久石譲や坂本龍一などもミニマルミュージックの作曲を行なっています。
 さらにクラシック/現代音楽の世界から離れてロックやポップスの世界にもこの手法は浸透していきます。
 映画「エクソシスト」の音楽としても有名なマイク・オールドフィールド「チューブラ・ベルズ」はプログレッシブ・ロックの名盤ですが音は正にミニマルミュージックそのものなのです。
https://edyclassic.com/12942/

『チューブラー・ベルズ』(Tubular Bells)は、マイク・オールドフィールドが1973年に発表したソロ・アルバム。ジャンル プログレッシブ・ロック 時間 48分57秒(オリジナル盤)56分04秒(2009年ヴァージョン)
チャート最高順位 1位(イギリス)
「パート1」の冒頭が、1973年12月公開のアメリカ映画『エクソシスト』のテーマ曲として使用され、ワーナーから“「エクソシスト」のテーマ チューブラー・ベルズ”としてシングル発売された。
ただし、版権の問題で、オールドフィールドが演奏しているオリジナルバージョンではなく、別途、録音された別アレンジのものであり、オールドフィールドはその録音には一切の関わりを持っていない。
 オールドフィールド自身は、『エクソシスト』のおかげで『チューブラー・ベルズ』がアメリカで大ヒットしたことには感謝しているが、自分の曲を編集されたことに対しては不快に思っていたという。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%BA

『デスノート』の『Lのテーマ』がエクソシストに似ているというコメントがあった。
 松山ケンイチの『L』好きだったなあ。ひとりで映画見に行った。

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 弦楽四重奏曲第2番『カンパニー』(1984年)
フィリップ・グラス:ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 。
 ギドンクレーメルが演奏しているのがあります。

 ギドン・マルクソヴィチ・クレーメル( 1947年2月27日 - )は、ラトビア出身の、ドイツ国籍を持つヴァイオリニスト、指揮者。
 1967年、22歳の時にブリュッセルで開かれたエリザベート王妃国際音楽コンクールにて3位に入賞し、1969年のパガニーニ国際コンクールでは優勝、翌1970年のモスクワで開かれたチャイコフスキー国際コンクールでも優勝する。
 ソヴィエト連邦内のツアーを行った後、1975年にドイツで初めてのコンサートを開き、西側ヨーロッパでの鮮烈なデビューを飾った翌年、ザルツブルク音楽祭でさらに評判を得る。1977年にはニューヨークへも進出し、アメリカでも名声を博した。
 1980年ドイツに亡命。
 2001年のユネスコ国際音楽賞を受賞、2002年のグラミー賞の最優秀Small Ensemble Performance賞受賞など、旺盛な活動に高い評価が下されている。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ギドン・クレーメル

 私生活では3度の結婚歴があり、2度目の妻はピアニストのエレーナ・バシュキロワ。彼女はクレーメルと離婚後にダニエル・バレンボイムと再婚した。
(バレンボイムの最初の妻はイギリスのチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレ。
 デュ・プレは才能に恵まれながらも、多発性硬化症の発病により、悲劇的にも突然に音楽家生命を断たれている)

 2人はデュ・プレの最晩年にはパリで同棲生活に入っており、2人の子をもうけていた。バレンボイムとエレーナ夫人の正式な結婚は1988年に行われた

メタモルフォーシス
https://youtu.be/C2inNYauU1o
エクソシストテーマ曲
https://youtu.be/mpwDu9xX93M

15 ブルックナーとブラームス

 ベートーヴェン亡き後、19世紀半ば以降のドイツでは、ベートーヴェンが築きあげたものをどう受け継いでいくかという方針の違いにより、【保守派】と【革新派】のグループに分かれていった。
【保守】ヨアヒム(1831-1907)、ブラームス(1833-1897)
【革新】リスト(1811-1886)、ワーグナー(1813-1883)
 あくまでも、音楽そのものだけで音楽を成り立たせようと考えていたブラームスと、ヴァイオリニストで作曲家のヨアヒム。
 それに対し、リストとワーグナーは、音楽に文学や物語の要素を持ち込むことで、新しい音楽の可能性を切り開こうとしていた。

 こんな対立構図になっていた19世紀後半のドイツの音楽シーンに、遅れてきたルーキーとして登場したのが、アントン・ブルックナー(1824-1896)だった。年齢的にはワーグナーとブラームスの間ぐらいだが、作曲家として本格的に活動をはじめたのが40歳からと、非常に遅かった。

 ブルックナーは作曲を習っている30代の頃に、師事していた先生からの薦めでワーグナーにハマり、後にはワーグナーに面会した上で自作を献呈している。ところが、ブルックナーには重大な欠陥があった。ワーグナーのオペラ(正確には楽劇)を観ても、物語をキチンと理解できなかった。
 そもそも、ブルックナーの本棚には、楽譜などを除けば、聖書ぐらいしかちゃんとしたものはなく、文学的素養が欠如していたのだ……

 だからこそ、ワーグナーを敬愛していてもオペラや、リストが創始した交響詩を書くわけもなく、文学・物語・歴史といった要素のない交響曲をひたすら書き続けた。【革新派】としても異端の存在だった。

 そのため、20世紀前半まではドイツ語圏でしか評価されなかった。
 同時代の作曲家の中では、ドイツ語圏以外の諸国でも早くから受け入れられたヨハネス・ブラームスと対立する存在としばしば捉えられる。
 交響曲の歴史の中では、長大な演奏時間を要する作品を作り続けた点でマーラーとしばしば比較される。

 ブラームスはブルックナーについて、
「彼は知らず知らずのうちに人を瞞すという病気にかかっている。それは、交響曲という病だ。あのピュートーン(ギリシャ神話に登場する巨大な蛇の怪物)のような交響曲は、すっかりぶちまけるのに何年もかかるような法螺から生まれたのだ」と非難していた。

 第3交響曲は1872年に着手し、1873年に初稿が完成した。
 初稿執筆の最中のブルックナーはリヒャルト・ワーグナーに面会し、この第3交響曲の初稿と、前作交響曲第2番の両方の総譜を見せ、どちらかを献呈したいと申し出た。ワーグナーは第3交響曲の方に興味を示し、献呈を受け入れた。
 この初稿により1875年、初演が計画されたが、リハーサルでオーケストラが「演奏不可能」と判断し、初演は見送られた。
 1876年、ブルックナーはこの曲の大幅改訂を試み、1877年に完成した(第2稿)
 同じ1877年、ブルックナー自身がウィーン・フィルを指揮して、この曲は初演された。もっともこの初演は、オーケストラ奏者も聴衆もこの曲に理解を示さず、ブルックナーが指揮に不慣れであったことも手伝い、演奏会終了時にほとんど客が残っていなかったという逸話を残している。
 とはいえ、残っていた数少ない客の中には、若き日のグスタフ・マーラーもいた。この初演の失敗により、ブルックナーはその後約1年間、作曲活動から遠ざかった。
 1878年、この曲が出版されることとなり、それにあわせて一部修正を行った。
 1888年、再度この曲は大幅改訂され、1889年に完成した(第3稿)
 この稿は1890年に、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによって初演された。この第3稿での初演は成功を収めた。

 ブルックナーの交響曲第3番は、朝比奈隆が晩年に愛し、そのスコアが棺に入れられたとも言われる。

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 ブルックナーはブラームスのことを
「彼は、自分の仕事を非常によく心得ているが、思想の思想たるを持っていない。彼は冷血なプロテスタント気質の人間である」と評していたという。

 ブルックナーはまた次のようにも言っている。
「ブラームスのすべての交響曲よりも、ヨハン・シュトラウスの1曲のワルツの方が好きだ」
「彼はブラームスである。全く尊敬する。私はブルックナーであり、自分のものが好きだ」
 
 一方でウィーンの音楽会が何でもかんでもブラームス派とワーグナー/ブルックナー派の真っ二つに分かれていたわけではなくブラームスの親友として知られるヨハン・シュトラウスはブルックナーを称賛しており、「私は昨日ブルックナーの交響曲を聴いた。偉大でベートーヴェンのようだ!」と評している。

 1889年10月25日、共通の友人たちの仲介でウィーン楽友協会の脇の食堂でブルックナーとブラームスが会食することとなった。
 ブラームスの行きつけの食堂として知られるが、音楽家や批評家の集まる店として知られ、ブルックナーやマーラーも頻繁に訪れていた。
 ブルックナーの手帳には「10月25日、ブラームスと赤いハリネズミで外食」と書き込んである。
 当日、ブルックナーが先に来ていて、後から来たブラームスは黙って長いテーブルの反対側に座るなりメニューを見たまま黙り込み、気まずい雰囲気となった。
 メニューを決めたブラームスが
「団子添え燻製豚、これが私の好物だ」
と言うと、すかさずブルックナーが
「ほらね先生、団子添え燻製豚、これがわしらの合意点ですて」 
と応じ、一同は爆笑して一気に座が和んだ。
 しかしその後も二人の仲が好転することはなかった。

 ブラームスはブルックナーの生前最後に初演された大作である交響曲第8番に対しては称賛している。ブラームスが知人に
「ブルックナーの交響曲8番の楽譜を早く送ってほしい」
と依頼したこともある。この頃になるとブラームスは自分の引き受けられない仕事をブルックナーに振るように根回しした。
 1892年、ウィーン国際音楽演劇博覧会が催されることになり、ブラームスのもとに祝祭のためのカンタータ作曲の依頼が届いた。しかしブラームスは、依頼を持ち込んだリヒャルト・ホイベルガーに対してこう返答した。
「身にあまる光栄で感謝しておりますと、失礼のないようにお伝えください。イベント関係には関わりたくないんだ。ブルックナーに頼むよう取りはからってよ」

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 1892年12月18日。交響曲第8番の3楽章が静かに終わると、待っていたかの様に大喝采が鳴り響いた。(当時の演奏会では楽章間に拍手が入るのは通常のことだった)
 その大喝采の中、やや小柄な2人の紳士はそそくさと客席を離れ、舞台袖の人目につかない秘密の特等席に腰を下ろした。
「ここで最終楽章を聴くのである。やはり思った通りの音である。これは大作である。しかし、認める訳にはいかない音楽である」

 この日のウィーンフィルの定期演奏会は、フィルハーモニー始まって以来の大喝采。圧倒的な終楽章が終わり、興奮冷めやらぬ会場を先程の2人の紳士がそそくさと出ようとした時、出口に大きな銀皿に揚げパンを山盛りにし、ウロウロしていた大柄で、だぶだぶの黒服を着た男が呼び止めた。
「ハンスリック先生に博士(ブラームス)殿! 今日はほんま聴きに来て頂いておおきに。エライ大成功ですわ〜」
「やあ、これはこれはトーネル君。ハ短調交響曲の成功おめでとう。しかし、その大量の揚げパンは何であるか?」
「へぇ。舞台がハケましたらリヒター先生(初演指揮者)と食べよ思いましてな。お二人も食べまへんか?」
「いや、結構である。それではおやすみ。である」
「へぇ。それでは車までお送りします」

 ブルックナーは本日の主役であるにも関わらず、冬の寒い中、急いで先回りして車のドアを開けた。
「ささ、どうぞ」
ハンスリックに続きブラームスが馬車に乗ろうとした時、彼は口を開いた。
「アントン君。私。あなたの交響曲。理解不能」
ブルックナーは答えた。
「そうでっか。ワシも博士殿の交響曲に関しては同感ですな」

 帰りの車中、ハンスリックは静かにつぶやいた。
「あのリンツの田舎合唱指揮者がここまで成長するとはな。である」
ブラームスもわずかに同調するように頷いた。
「ブルックナー、確かに天才」

 交響曲第8番初演当日、ブルックナーは指揮者リヒターへのねぎらいとして、本当に48個の揚げパンを皿に盛って、出口で待っていた。
 
 1959年にカラヤン=ウィーン・フィルの来日公演でブルックナーの交響曲第8番が演奏された際、『ブルックナーだけでは客の入りが心配』という日本側の要望でモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークも演奏することになった、という逸話もあったという。

 ブルックナーは最後の交響曲である第9番を第3楽章まで書き上げたが、完成をさせることが出来ずにこの世を去った。終楽章には巨大なフーガ楽章を置こうと考えていたようだ。
 けれども、この曲は未完成であるにもかかわらず、音楽のとてつもない深遠さによって圧倒的な存在感を与えている。幸いなのは第3楽章アダージョが、あたかも完成された曲の終結部のように感じられる。この楽章までを聴き終わった後に少しも不自然さを感じない。むしろ、この楽章に続くのにふさわしい音楽が果たして存在し得るかどうか……
 もしや未完成に終わったのは、ブルックナーの命の時間切れの為ではなく、人智では到底作曲が不可能だったからなのでは?

 それにしても、この第9交響曲はとんでもない曲だ。これはもう音楽であって音楽でない、とてもこの世界のものとは思えない、宇宙そのもののような印象。初めてこの曲を聴いた時には、遠い宇宙の果てに一瞬にしてワープさせられたような感覚に陥る。
 第1楽章の導入部は真に圧倒的で、これほどまでに印象的なファンファーレはリヒャルト・シュトラウスの「ツアラトゥストラはかく語りき」ぐらいしか思いつかない。正にカオスの中に生れた宇宙のビッグバン。そして宇宙の鳴動のような第2楽章を経て、第3楽章アダージョの終結部のカタルシスが過ぎ去ったあとに訪れる静寂は、天国的というよりも、全てが「無」に帰ってしまったかのごとき印象……

 この曲を鑑賞して「愉しむ」ことはなかなか難しい。余りに音楽が厳し過ぎる。けれども、この曲に真摯に向きあった時には、とてつもない感動が得られる。これほどの音楽に匹敵するのは、交響曲に限定すれば、マーラーの9番、ブルックナーの8番、ベートーヴェンの第九ぐらいではないだろうか?

✳︎

 ブルックナーの葬儀の際、ブラームスは自宅の目の前にあったカールス教会の入り口に佇み、葬儀の様子を遠巻きに見ていた。
 会衆の一人が中に入るように促すと、
「次は私の棺を担ぐがいい」
と言い捨てて雑踏に消えた。
 しかしまた戻ってきて、当時8歳だったベルンハルト・パウムガルトナーによると「好奇心の強い会衆から隠れるようにして」
柱の影で泣いていたのが目撃されている。
 ブラームスもそれから半年後の翌1897年4月3日に死去した。

https://note.com/kota1986/n/nc220cde72dcd
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC3%E7%95%AA_(%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC8%E7%95%AA_(%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC)
https://shirokuroneko.com/archives/3903.html
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-2a1c.html
https://www.weblio.jp/content/ブラームスとの関係

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2023-05-10

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