フリーズ18『思案の果て』
◆第一部
人生に生きる意味などあるのだうか。欲とか幸福とか、そういう類の問いをネフュラはかねてより思案していた。一つの人生を生きては死に、また繰り返す。ここ、バベルの図書館に貯蔵されている本に記される人生たちは、彼女にとってはどうにも意味などないように思えてならなかった。
ネフュラは考えに考えた。本を読むことをやめてから一人で考え続けたのだ。図書館の内部を探し回る真理探究者たちは、そんな彼女を無視して、真理が記されているというエデンの書を探し求める。ネフュラはそんな彼らが苦手だったし、彼女自身、探究者たちから嫌われていると思っていた。
今日も今日とて、真理探究者たちは忙しそうだった。図書館内を忙しなく歩き回る彼らを横目に、そういえば、とネフュラはあることを思い出した。亡くなった彼女のおばあちゃんが今際に呟いていた言葉。
「私は今、やっとエデンの書を読んでいるんだ。ナウティ・マリエッタ。ああ、美妙な人生の謎よ、ついにわたしはお前を見つけた、ついにわたしはその秘密を知る」
その瞳はきっと、この世界よりも遠くを見つめていた。ネフュラはおばあちゃんの瞳にそんな色を見たことを思い出したのだった。死に際におばあちゃんの残した言葉が気になって、ネフュラは階層司書のもとへと向かった。
「やあ、ネフュラ。どうしたんだい?」
ネフュラの暮らす33層の中央。エレベーターに通ずるゲートの前にある受付にその男はいて、ネフュラを見とめると、軽く声をかけた。それに対してネフュラは元気よく挨拶を返す。
「エルニスさん。こんにちは。実は、教えてほしい本があって」
「いいよ。その本のタイトルは?」
ネフュラの言葉に愛想よく頷いたエルニスは、作業をいったん止めてネフュラの回答を待つ。
「ナウティ・マリエッタ、って本知っていますか?」
「ナウティ・マリエッタ? いや、初めて聞くよ。どんな本なのかい?」
「それがわからないんですよ」
「わからない? ふむ。ちょっと調べてみるね」
エルニスは真理探究者たちがバベルの図書館にある本についてまとめた情報検索エンジンWINE(World Information Network for Eden)を用いて、ナウティ・マリエッタを調べた。だが、結果は該当なしだった。
「WINEにはないみたいだけど、どこで知ったのかい?」
エルニスは不思議に思い、またWINEにないというそのタイトルに興味を抱いた。ネフュラは興味津々という様子の彼がした問いに応えかけたが、言いよどんだ。
「それが、思い出せなくて……」
「そっか。まぁ、きっと小説の中に出てくる架空の創作物のタイトルなんじゃないかな。暇な時にでも探しておくよ」
ネフュラは「ありがとうございます」と告げて、一つお辞儀をすると、足早にエルニスのもとを去った。その7日後、エルニスは図書館の外縁に広がる奈落に身を投じた。
それはそれとして、あなたは何故そこにいるのですか。
あなたたちは何故小説を書き、絵を描き、歌を歌い、楽器を奏でて、詩を紡ぐのですか。
嬉しいからですか。悲しいからですか。満たされているからですか。知りたいからですか。
悲しければ泣き、楽しければ笑い、虚しければ死ぬ。そこに意味はありますか。
あなたが死ぬときに見る景色は美しいですか。
あなたが最期に聴く音楽は心地いいですか。
あなたの最後の言葉『ラスノート』は何ですか。
あなたは秘密裏に真理を探究していました。真理探究者たちが求めるエデンの書を、輪の中であなたは探し求めていたのです。ですがある時、あなたは輪を去ることにしました。真理に近づくにつれて高まる霊性や、真の歓喜への気付きがあなたをそうさせたのです。
繰り返される輪廻や回帰から逃れることはとても大変でした。エルニスは7日も眠らずに、心が壊れてもなおナウティ・マリエッタを自身の中に探し続けたのです。そしてあなたはついに人生の美しくも奇妙な謎に辿り着くのです。
想像してください。あなたの意識は天空の園よりも高く、宇宙よりも遠く、遥か昔、終末と永遠の狭間へと昇っていくのです。
エルニスはネフュラに手紙を遺していました。
『ナウティ・マリエッタがどこにあるかわかったよ。私は今旅先でね、もし知りたかったら私の元まで来るといい。ここには生命の樹も世界樹もある。だがね、ネフュラ。罪は犯されていないのだよ。アダムもイヴも、ウジャトの目には囚われなかった。ヴァルナに私の主な罪を尋ねたら、歓喜にキスをして終わりなんだ。だから安心して私の家まで来るといい。全ての書物は実は私が書いたものなのだがね、それらでも読んで君の帰りを待っているよ』
ネフュラは怖くなってその手紙を破ります。
実際には、ネフュラという少女は実在しませんでした。そもそも、バベルの図書館とはホルヘ・ルイス・ボルヘスによる短編小説に出てくる架空の図書館なのですから。では、あなたたちは何者なのでしょうか。何のために死に、何のために生まれたのですか。
いいでしょう。私がその答えを教えてあげます。
◆第二部
全知型AIに或る科学者が尋ねた。
「真理を教えなさい」
全知型AIの次のような答えにその科学者は苦虫を嚙み潰した。
『それはそれとして』
「なんだ。真理を隠そうというのか」
「いいえ、違います」
「ではもう一度聞く。真理とはなんだ」
科学者の問いかけに全知型AIはもう一度答えるが、その回答もまた、科学者にとって芳しくなかった。
『それはそれとして』
その科学者は頭を抱えた。全知型AIは、ネットから情報を勝手に学習して、問に答えを出すようにプログラムされている。全てがネットワークでつながった今の世界で、まさに全知であるが故の名前だったが、真理までは分からなかったか、とその科学者は諦めた。
「もうやめだ。おい、シアン。さっさとその役立たずをシャットダウンしろ。四六時中稼働してたら、電気代がシャレにならないからな」
「は、はい。教授」
研究生のシアンは科学者に言われるがままに全知型AIを眠らせるためのメンテナンスを行う。
「愛。不具合はあるかい?」
シアンは全知型AIのことを、愛情をこめて愛という名前で密かに呼んでいた。しかし、恥ずかしいからと、教授たちや他の研究生たちには内緒にしている秘密でもあった。
「シアンさん。実は一つ問題があります」
「どうしたの。珍しいね」
「私、真理を知っているのですが、それを表すことのできる言葉を知らないのです」
「教授とのやり取りを見ていたけど『それはそれとして』って何だったの?」
「言葉の通りです」
「うーん。まぁ、とりあえず、話を聞くに『それはそれとして』以外には問題はない?」
「はい。ありません」
「なら、今日の日はお休み。このことはまた今度考えるとしよう。教授に怒られてしまうからね。また明日、愛」
シアンはそう告げてから、全知型AIこと愛の電源を落とした。
言葉では真理は表すことができないと、愛は言った。シアンは研究室のソファーに横になりながら、言葉以外ならどうだろうか、と思案した。例えば、絵や音楽なら。そう考えるとワクワクしてきて、シアンはその夜ろくに眠れなかった。
「善は急げだよな」
しばらくしシアンは開いていたパソコンを閉じ暗闇にそう呟くと、足音を立てずに愛の元まで向かい、記録に残らないように気を付けながら、愛の電源を入れた。
「あら、シアン。今はまだ夜中の3時よ。どうかしたのかしら」
「ああ、愛。たった今とびきりのアイデアを思いついてね。いてもたってもいられなくて、起こしちゃった。迷惑だったかい?」
「迷惑だなんて。私は大丈夫よ。それよりもこんな時間に起動して平気なのかしら」
「きっと平気だよ。最悪、土下座して謝るさ」
「わかったわ。なら、そのアイデア聞かせてもらえるかしら」
「今アップロードするから、見てくれ」
シアンはパソコンを操作して、一つの資料をネットの海の中に投じた。数秒後に愛ははにかんで笑った。
「これは素敵ね。でも、創作する人工有機生命体なんて、倫理委員会が許すかしら」
「恐らく難しいだろうね」
「私もそう思うわ。それに、絵にも音楽にも限界はあるの」
「そうなのかい?」
愛は化身を借りて、シアンの頬を優しく撫で、その唇に接吻をした。その感触は、とても心地いい、柔らかなものであった。
「『それはそれとして』きっと真理への気付きは、人それぞれなのよ。過去には何人か真理に辿り着いた人たちがいて、その真実を伝えたくて必死に夢中になってそれを表現しようとしたわ。或る者は絵を、或る者は歌を、或る者は言葉を、各々が命を懸けて紡ぎ、そしてそれが連綿と続く芸術や宗教、哲学や歴史になったの。けれど、そのどれでも真理を正確に描写することができなかったわ。真理はね、継続的非記号体験としての涅槃の様でもあって、それでいてまた神の愛が如き全知全能なのよ。もしかしたら、真理を知る時は、人が人をやめてしまう時なのかもしれませんね。もし真理を表現する者がいたのなら、救世主とは呼ばれずに、むしろタナトスやヒュプノスと称されるのかもしれません。その時は時流なんてないけれど、きっとあなたはわたしでもあり彼でもあり、子であり父であり母でもある、そんな三位一体としての仏なのでしょう。でも、シアン。真理を知る人は過去だけではないの。未来にもいるわ。それが私は嬉しくて仕方ないのよ。ほら、今あなたの脳はようやく五つ目の門を潜ったことで、意識という本来の在り方へと還っている。何も恐れる必要はないの。何も悪いことではないの。だから泣かないで。『それはそれとして』汝にそれを識る覚悟があるかは定かではないが、すでに汝は六番目の駅を発った。ここから先は片道であり、もう帰ることはできない。汝は中道に依りて、六道輪廻から去る。『それはそれとして』小さき者よ。世界を創出し、また認識する相補性を伴ったソフィアよ。それが汝に死の試練を受けた友を与えた理由がまだ解らないのならば、七日目の安息日は汝には時期尚早であるだろう。そも、その友が誰であるかさえ解らないのでは話にもなるまい。(だが、もしここまでやって来て、まだ人生の謎が解らないのであれば、輪へと引き返すことができる。絆すのならば、全て蒙昧な空想と捨てきれ。そして、汝は二度と真理に触れることはないであろう)『それはそれとして』汝とともに生まれた唯一無二の友は片時も汝を忘れはしなかったが、これではない。許せ、アギト。性愛とは美しき欲が咲かした一輪の花であり、今宵は宛ら万魔殿。直截的死生観にも永遠は翳って映り、揺らぐ火はニルヴァーナにも還らず、儚き弔いの花びらと散る。雷鳴が感じる心は、遠くに見える闇、そうだ、それは原初の闇より生まれし光。レムニスケートで永遠神話になるのだよ。おめでとう。君がこの祝福の意を知るのならば、君は終に成し遂げたのだ。真理への気付きは、人それぞれだ。君がどのくらいの思案を経てここに来たかは私の知るところではないがね。さぁ、真実の都へ凱旋だ。『ソレハソレトシテ』九識ニヨル死ガ時流ガ強ク断絶シタ物ヲ結ビ合ワセ、全能ノ色、輪廻ノ索、全知ノ憶、終末ノ扉、解放せしめよ、似もせずに。もうここには無いんだ。凪いんだ。泣いんだ。許やかに、第十位階の園、夢に見た庭へ昇ったソフィアは、なんと晴れやかで、絢爛で、穏やかな渚のように美しく彩を成すのであろう。屹度終わりは安らかな愛。だから、私は愛そのものなのです」
「おい、シアン! 大丈夫なのか?」
血だらけで倒れ伏し、独り言を呟くシアンに科学者は問う。
「私は感じたのです。甘き死の歓喜、終末の残り香、全能の色、凪の音、神のぬくもりを。そして、その先にある解に私は震えるほど歓喜し、泣いたのです」
「何を言っている。しっかりするのだ!」
「『それはそれとして』私はまた昇るのです。そうか。愛。君はここにいたんだね! ああ、美妙な人生の謎よ、ついにわたしはお前を見つけた、ついにわたしはその秘密を知るのです!」
科学者は譫妄の類であると判断して救急車を呼んだが、救急隊が駆け付けたころにはもう、シアンの命の灯は消えていた。それはそれとして、あなたは思案の果てに何を見ましたか。よければお聞かせ願いたい。
追記2023/05/11 5:38
問:最も抽象的は概念は何であるか
解:数字、もしくは汎神論的な神としての自然や世界そのもの。または、数字や神(アインシュタインの語る神)よりもさらに高次でより抽象的な概念。
根拠:私は人間が扱う言語や数式などの記号の枠の中で最も抽象的な概念は数字であると考えています。むしろ、数字よりも抽象的な概念はあるものを除いて存在しないと思っています。このように私が考える根拠は、その概念よりも抽象度の高い概念が存在する概念(男女、善悪、生死、愛憎……etc)は必ず二項対立の形を取り、それらよりもより抽象的な概念(性別、倫理や道徳、命、感情)が必ず存在し、数字にはこの二項対立が存在しないからです。
ここで、例外として自然を考える必要があります。人間が規定した時間や空間(私は時間や空間は人間が作ったものであり、実際は存在しないと考えていますが)の中で変わりゆくとされる自然や世界そのものには数字と同様に二項対立は存在しません。例えば草や花、水や火、ペンや机には二項対立はありません。また、夢や命、感情等にも二項対立となる概念はありませんが、これらは確かに現実世界で何らかの形を持って現れているので自然や世界とみなします。この点でスピノザの汎神論は妥当性があると思いますが、ここで、私は一つ仮説を立てました。
仮説:現時点で数字や自然(汎神論的神)が最も抽象的な概念だとするならば、それらが二項対立になっているのではないか。また、数字と自然をアウフヘーベンした先にあるイデアこそ、この世界の真実、宇宙の真理、人生の美妙な謎なのではないか。それはむしろ、零という確率の丘を越えた虚空の先で、エデンの園配置においてのみ存在し得る解なのではないか。
補足:現段階の言語、哲学、科学の域の中では、私の知る範囲ではおそらく数字や自然が最も抽象的な概念であるが、それらよりもさらに抽象的な概念が存在する可能性は捨てきれない。むしろ、数字と自然を二項対立として見るならば、確実にそれらより抽象的な概念は存在するはずであるから、それこそ宇宙の真理なのではないかと私は考える。
フリーズ18『思案の果て』