月夜の庭
失楽の庭があると教えてくれたのはユナだった。ひとはまことしやかにささやくときがある。いつもなにかにみちびかれ、また、そうならないように誠実に生きる理性を持っている。
月夜はその均衡を危うくする。
「それで、その庭に行くとどうなるというの?」
「死んでいい。自殺していいのよ」
「たったそれだけ?」
「重大なことよ」
今夜は澄んでいた。ユナの頬の傷がよく見えるほどに、月光が眩しかった。それは昼間には見えなかったものまで、くっきりと浮かびあがらせてしまうほどだった。
風さえたまにしか肌にふれず、この肉体以外にはなにもないような時間だった。ある意味では、健康的な夜ではなかった。
ユナは泣きだした。月の光のせいで、涙が青くなって溢れていた。
「こんなはずではないのよ、すべて。別に不幸ということではないし、愛されていないわけでもないわ。でもなにもかもが歪なの。だからほんとうはちがうのよ、すべて、ちがうの」
幼い頃からユナという人間は整っていた。産まれるまえから愛され、さらにその容姿によって愛され、その温情のために愛され、その叡智のために愛されていた。ユナはそのことを理解し、立ちふるまいをも心得ていた。他人から嫌われることのないような人間だった。
そんなユナの頬に、わたしは爪で傷を付けた。決して嫉妬心などが理由ではない。不慮の事故だった。
ユナは整っていた。そして賢明だった。だからその傷がひとつの、なにかしらの終焉であることをすぐに悟った。夕陽が沈んですぐの、公園でのできごとだった。ユナは泣いた。やはり青い涙が溢れていた。
しかしユナはわたしを責めることはなかった。
ただときどき、無秩序な感情に支配されるようになった。互いにことばにして誓約を交わしたのではないが、その歪なユナの相手をすることが、わたしの償いになった。
ユナが喚くことはない。しくしくといじらしく涙を溢すだけだ。わたしはそんなユナの話を聞きいて、会話をして、肩を抱いてやればいい。
けれどそれだけではない。
わたしは丁寧に陶器を扱うときのように、ユナの肩に手を置き、小さく息を吸った。
「ユナ」
吐息のようなささやきが、月夜のほんとうのはじまりの合図なのだ。
ユナは合図に気づくと顔を上げた。わたしは青白く発光する頬に、指をあてる。月夜にだけ、ユナは傷に沿って爪を這わすことを許してくれる。わたしは時間をかけてゆっくりと傷を堪能する。するとユナの泣き顔はみるみると変化する。瞼を閉じ、快楽のなかで眠っているかのような表情になる。泣くことさえ忘れ、わたしに身を委ねる姿は、わたしの感情を激しく揺さぶる。
「ユナ」
あのとき、ユナはひとつの終焉を迎えた。しかしまた、ひとつの均衡を得た。それは、頬の傷とわたしの爪はぴったりと合わさり完全である、という均衡だ。
完全なものは不和によって成りたち、二つ以上のもので均衡を保つ。
ユナにとって、わたしという存在は必要不可欠だったのだ。
わたしはユナの瞼に唇で触れた。
ほんとうにこの肉体以外には、なにもないような夜だった。
月夜の庭