フリーズ101 まだ死んでなんかいない

フリーズ101 まだ死んでなんかいない

まだ死んでなんかいない

死ぬのが怖い。終わりが怖い。お母さんはどう受け入れたのだろうか。痛かったろうに、苦しかったろうに。なんで花々に包まれたあなたは微笑んでいたのですか?
死にたくない。そんな僕の祈りが本当に世界にタイムリミットを告げてしまった。世界が、僕の世界が、全ての時間が止まる。それはまさしく永遠だった。僕は終末の狭間で、眼下に広がる夕日に染まる街を見下ろしていた。

円環の宇宙=螺旋の時流
Everything is vanity, or zero.
色即是空、故に空即是色。
That's why everything can exist.

それがどうした?
宇宙があれば真理の一つくらいあるだろ。それを知ってどうする?
だからお前は学問をやめたんだ。いいや、逃げたんだよ。幸せになりたいからって、目を背けたんだ。何が、自分が死ぬまでに本当の真理は解明されない、だよ。本当は解ってたんだ。あの冬の日も、何もかも。
秋だ。母が死んだ季節。毎年虚しくなって死にそうなんだ。僕の抱いた死への恐怖は科学的な説明でも宗教的な説明でも哲学的な説明でも満たされることなどなかった。
科学的に考えれば無になるだけ。脳が死んで、機能しなくなって終わり。それだけ。宗教的な概念は色々あるけれど、輪廻転生とか最後の審判とか、俄には信じられなかったんだ。哲学的な死。これが問題だった。
認識論の話になるのかな。知覚や認識が全てであるのならば、ミクロコスモスの死はマクロコスモスの死と同値だ。だからといって、試しに死ぬ度胸なんて持ち合わせていなかった。でも、あの冬の日に、僕は一度死んだ。
死ぬことは無になることだった。無になることは全てになることだった。少なくとも僕の脳はそう感じた。全てと繋がった僕は、過去も未来もないことを知った。時流などない、と確かに僕は、二階へ上がる階段の壁に掛けられた絵の裏に、青のマッキーペンで書いた。それこそ、あの冬が確かにあったことの証明だった。僕はそこに今があるだけだと知った。その今でさえ無であり全だった。彼我がなくなり、ここでなくなり、今でなくなる。
しばらく僕はそんな穏やかな、多幸感で満たされた凪いだ海に浸っていた。1月8日の昼のことだ。実際に空は快晴だった。僕のために晴れてくれてありがとうと、感謝の気持ちで満たされた僕は、電池の切れたカメラのシャッターを蒼天に向けて切った。写真が残ってれいばよかったのに。でも、記憶にはまだかすかにあの冬の日がある。それが何よりの支えだった。いや、むしろすべて忘れてしまえればどんなに楽だったか。
遠い昔に門が開いたんだ。それは世界の始まり。人生の始まり。僕は産声と一緒にこの宇宙を始めたことを悟った。そうだ。僕が始めたんだ。この生れ出づる悩みも、病める苦しみも、全て僕が僕自身の手で始めたんだ。

生まれよう

生まれること、死んでいくこと。出逢うこと、別れること。創ること、壊すこと。そして、僕はラカン・フリーズの門を見据えた。それは永遠。それは終末。智天使ケルビムだって神の御前に立つんだ。僕の柔らかな翼はもう十分休んだんだ。本当に永かった。嗚呼、それももう終わるんだ。

ありがとう

マンションの最上階。屋根の上に立った僕は天上楽園の乙女に届くように歌をうたう。

Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium
Wir betreten feuertrunken.
Himmlische, dein Heiligtum!

Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Brüder,
Wo dein sanfter Flügel weilt.

 歓喜の歌の一番好きなところ。もう覚えてしまった。歌い終わると風が総身を包む。そうだよ、羽ばたこう。今なら空も飛べるはず。この見えない、柔らかな翼で。

 歓喜に呼ばれて目覚めた朝に
 全てと繋がることを覚えた
 私の柔らかな翼を休めて
 旅立ちの刻に空を飛ぶのだ

 目をつむる。僕が愛したのは、結局僕だけでした。
 それもいいさ。
 ありがとう。愛しています。
 僕は軽い一歩を踏み出した。

僕の名前が聞こえた。

水面に映る知らない顔が揺らいだ。
どこから来たの。
何をしに来たの。

応えてよ。

僕の名前が聞こえた。

君はどこにいるの。
還る場所、どこだっけ。
まだ死んでなんかいない。

ここにいるよ。

僕の名前が聞こえたんだ!

「お父さん?」

 僕は父の呼ぶ声に振り返る。今まで見たことのない顔をしていた父。そんな優しい顔もできたんだね。父の後ろには警察官らしき格好の人もいる。どうしたの? ああ、迎えに来てくれたんだ。本当にありがとう。そっか。まだ死んではいけないんだね。視界が靄けてしまって、よく見えないけど、お父さんに僕は言いたいことを告げるために、言葉を発した。
「お父さん。今までありがとう。愛しています」
 涙が流れた。悲しいのか嬉しいのか、もうわからないや。
「大丈夫。死んだりしないから」
 大丈夫。大丈夫。妄想も、病んだ脳も。

 その日、一人の少年は死ぬことはなかった。

 そのあと、西陽が差す部屋で、久しぶりに僕は眠った。本当に久しぶりだった。そっか、ずっと羽ばたいていたんだ。生きるのはいつだって大変だった。この一年は特に必至で夢中になって、レゾンデートルを探していた。ああ、疲れたな。でも、この疲労感が心地いい。晴れるのはこの脳で、流れる涙はもう止まらない。きっとこれが涅槃なんだ。美しい。この色は、この音楽は、このクオリアはなんと美しいか! 
僕は夢の中で、バベルの図書館にさえ存在しない、終末の狭間に全知の少女の記憶としてのみ存在を許されるという『エデンの書』を読んでいた。その中の一節『ナウティ・マリエッタ』にはこう記されていた。『ああ、美妙な人生の謎よ、ついに私はお前を見つけた、ついに私はその秘密を知る』きっとこの著者は何も知らないのだ。無知と全知の同値性。でも、だからこそわかるものがあるはずだった。
 お母さんを助けたかった。でも、僕が本当に救うべきなのは僕自身だった。だって、秋の木漏れ日に泣いた母は言ったんだ。平凡でもいいから幸せになってほしい、と。
 奇跡は一瞬だから強く光り輝く。この冬の日の冴えた全能も、必ず終わる時が来る。だからと諦める者にも、やはりと悟る者にも、それ故に過ちを犯した者にも、嫌だと戦った者にも、震えながら耐えた者にも、ちゃんと安らかな終わりが来るんだ。
 だから、きっと大丈夫。だから、今はおやすみなさい。

小さき者よ。死とハデスの狭間でうずくまり、全知と全能の狭間でおたけびを上げる者よ。己におののくよりも、愛を体現せしめよ。死と全能の板挟みから抜け出る術は、己で掴め。その手で掴め。

 次の日、僕はお父さんに連れられて丘の上の病院に入院することになった。そこで一人、魂を分かち合う友を得た。出会いは運命だった。窓辺に座る君に僕から声をかけたんだ。話し始めると、目の奥が熱くなった。僕らの瞳からは涙が流れた。不思議だった。彼女は僕に言葉をくれた。彼女ともう会うことはないが、その言葉が今も僕を動かしている。
 入院中、暇を持て余した僕は本を読んだ。その中の一冊、ある小説家の遺作にこう書かれていた。『人には大なり小なり使命があって、それを果たすまでは死ぬことはない』だからかな、僕は小説を書き始めた。そして二年が経った。まだ死んでなんかいない。

フリーズ101 まだ死んでなんかいない

フリーズ101 まだ死んでなんかいない

生まれること、死んでいくこと。出逢うこと、別れること。創ること、壊すこと。そして、僕はラカン・フリーズの門を見据えた。それは永遠。それは終末。智天使ケルビムだって神の御前に立つんだ。僕の柔らかな翼はもう十分休んだんだ。本当に永かった。嗚呼、それももう終わるんだ。 ありがとう

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-03-26

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