責任
いま、わたしの手を引きながら前を行く宇梶梨伊菜が数分前に言った『無責任な人』が誰なのか。わからないまま、交互に足を動かした。通学路から外れ、商店街を過ぎ、青や紫のあじさいが並ぶ小径に入る。小さな花びら。残る雨粒。
――今日は晴れたから。
だから担任の佐伯先生は、わたしに梨伊菜の顔を見に行くように言ったのだ。
――宇梶となにを話したのか、あとで先生に教えてくれよ。
アスファルトが途切れても梨伊菜の足は止まらない。ねえ、どこに行くの。わたしの質問は、歩いてきた道に、点々と、落ちている。
平たい石の上を跳ねて川を渡り、苔で滑らないように気を付けて、濡れた落ち葉が重なった柔らかい地面の上を、お気に入りのスニーカーで歩く。どろどろ、ぐしょぐしょ。これだけ汚せば、お母さんはきっと怒るだろう。でも、わたしの心は弾んでいる。梨伊菜は転校初日から学校に来なかったし、一週間前の遠足にも来なかった。クラスメイトはおそらく誰も梨伊菜と遊んだことがない。つまり、わたしが一番乗りなのだ。一番乗り。これって人に対して言うのは失礼なのかな。
「なんで笑ってるの」
前から梨伊菜の声がした。梨伊菜は眉間にしわを寄せ、汚れた靴を見たときのお母さんみたいな顔でわたしを見ていた。
「おもしろくって」
「なにが?」
「そういえば、クラスのみんなで行った遠足も、こんな感じの山だったんだよ。一番上まで登って、みんなでお弁当食べたの。お菓子も食べた。楽しかったなあ」
梨伊菜も来たら良かったのに。わたしがそう言うと、梨伊菜の顔はもっと歪んだ。怒っているのが伝わってくるけど、なにに怒っているのかわからない。
「なんで怒ってるの?」
梨伊菜は「おもしろくないから」と言う。近付いてきて、わたしの身体を強く押す。
梅雨の隙間のわずかな快晴が木漏れ日となってわたしの顔に差し込んだ。顔面は温かいのに、後頭部が冷たい。土の匂いがする。嬉しくなって、わたしはたまらず声を出した。こんなふうに転がって遊ぶのは、小学生のとき以来だ。たった一年しか経っていないのに、中学生になったら、みんなもう大人みたいな顔をして勉強のことばかり考えている。
覆い被さってきた梨伊菜が「動かないでね」と言う。動くわけがない。こんなに楽しいんだから。梨伊菜の顔は影になって見えないけれど、きっとわたしと同じ顔をしてるんだと思う。
もしかして梨伊菜は、行けなかった遠足を、いま、わたしと二人きりでやろうとしてるのかな。そうだったら、すっごく、嬉しい。
足元に違和感があった。なにかなと思って、身体を起こそうとしたけれど、梨伊菜がわたしの肩を押す。そうしてしばらく二人で遊んでいた。違和感はどうやら、わたしの左脚、履いた靴下のゴムの上、露出した足首、小さな生き物が貼り付いている!
「ヒルだ!」
わたしは叫んだ。初めて見るけれど、先生やお母さんが話していた姿形そっくりだからわかる。茶色くて、ぐねぐねしていて、噛まれても痛くない。ヒルが出すなにかで、痛みを感じなくなってしまうのだ。血を吸われるから気をつけて――。
梨伊菜が馬乗りになって、わたしを見下ろしている。
「ねえ、まだ、おもしろい?」
耳元で問いかけてきた。そんなことより、はやく剥がさなきゃ。でも、どうやって? 先生やお母さんはなんて言ってたっけ?
梨伊菜はわたしの身体を羽交い締めにする。わたしの呼吸は荒くなった。怖かった。二匹目のヒルが右側に現れ、持ち上げた先端をわたしのほうに向けた。伸び、山になり、尺取り虫のように、近付いてくる。梨伊菜がまた問いかけた。ねえ、まだ、おもしろい?
「おもしろくない!」
目の前の身体が退いた。自由になったわたしは、慌てて左脚のヒルを剥がそうとする。しかし、梨伊菜がわたしの手を取り、指を絡め、立ち上がらせた。わたしの左脚には、まだヒルが吸い付いている。それなのに――、梨伊菜はわたしの両手を両手で掴み、そのまま、来た道を引き返し始める。振りほどこうとしても、振りほどけない。びくともしない。
梨伊菜は笑っていた。
*
引っ掻かないように気をつけていても、自然と手が左足首に伸びてしまう。三日経ったけれど、患部は腫れて、熱を持ち、かゆみはむしろ、増していく。なによりおそろしいのは、血が止まらないことだ。これもヒルが出すなにかのせいだろうか?
わたしは血を吸って重くなった絆創膏を剥がし、新しいものに取り替える。救急箱から絆創膏がなくなるスピードがいつもより速いこと、お母さんに気付かれませんように。そう願いながら、絆創膏ごしに患部を爪で掻いた。
梨伊菜はどうしてあんなことをしたんだろう。
*
梅雨が明け、夏休みへの期待が高まり始めた頃。梨伊菜はわたしの左足首を指差して「かわいくない」そう言った。クラスメイトも佐伯先生もびっくりしていたし、もちろんわたしもびっくりした。梨伊菜は初めて登校してきたのに、何度もそうしているようにわたしの足元に屈み、すでに貼っていた絆創膏を剥がして、ポケットから取り出した自分の絆創膏を貼る。
ポップな色使い。ウサギのキャラクター。
梨伊菜は頷いてから「じゃあね」と言って去っていった。佐伯先生が慌ててその後ろを追う。
わたしは学校が終わった途端、校舎を飛び出し、梨伊菜の家に向かった。
佐伯先生には梨伊菜がどうしてあんなことをしたのか問い詰められたけれど、わたしにわかるわけがない。だって、梨伊菜のことは、梨伊菜に聞かなきゃ。
二階建てのアパート。階段を登ってすぐの部屋。照りつける西日を背にして、チャイムを押す。ドアが開いた。すると、男の人が出てきて、その次に梨伊菜が現れる。男の人が階段を降りていく。
「今のひと、お父さん?」
「ちがう。そんなことよりさ、見てよ」
梨伊菜はウサギのキャラクターがプリントされた小さな箱を持ち出し、蓋を開けた。わたしは中を見て、おもわず仰け反った。茶色くて、ぐねぐねしたもの。忘れるわけがない。梨伊菜は「あのときの子」と言う。
「わかる? あんたの血を吸った子」
「うそ」
「うそじゃない」
「飼ってるの?」
梨伊菜は答えなかった。ぐーっと身体を伸ばし始めたヒルを箱に押し戻して蓋を閉めると、わたしの横を通り過ぎ、階段を降りていく。わたしは梨伊菜の後ろを追いかけた。
通学路を外れ、商店街に差し掛かり、ひと気のない路地に入る。お酒の缶と煙草のポイ捨て。この辺りは子供だけで来ちゃいけないと先生やお母さんに言われているけれど、今回ばかりは、しかたない。
梨伊菜がなにを考えているのか。ちゃんと聞いて、佐伯先生に教えてあげるの。
梨伊菜がわたしのほうを向いた。
「目、つむって」
「目? こう?」
「そう。そのまま十秒かぞえて。かぞえられる?」
「できるよ。いち、にい……」
さん、とわたしが言うよりもはやく「もういいよ」勝手に打ち切る。
「目、あけて」
梨伊菜は箱の中をわたしに見せた。空っぽだ。
「ヒルはどこに行ったの」
「さあ、どこでしょう」
うろたえるわたしの右手に指を、左手に指を滑り込ませ、両方の手の甲に爪を立てる梨伊菜。
「ヒントは、あんたの身体」
わたしを商店街のほうへ引きずっていく。人の気配。声の重なり。踏み止まろうとすると、さらに梨伊菜の爪が食い込んだ。どうして、どうしてこんなことするの?
「梨伊菜は知らないかもしれないけど、噛まれたら、すごくかゆいんだよ! 何日も血が止まらないの!」
「だから?」
「はやく剥がさなきゃいけないの!」
アーケードの屋根からこぼれる夕焼けの色に飲み込まれ、わたしの視界が赤くなった。
梨伊菜は、八百屋の前に並ぶキュウリやトマトを「かわいい」と言い、量り売りの肉を見て「おいしそう」と言った。ウサギのキャラクターを見つけたときは、ぐいと方向転換をして、雑貨屋に吸い込まれる。わたしが離れようとするたびに、梨伊菜は爪を食い込ませた。そうしていくつもの店を回った。最初のほうに行った店にもう一度行くこともあったし、毎年お母さんと一緒に誕生日ケーキを選ぶお菓子屋さんに行くこともあった。お母さん。お母さんならこういうときどうするのかな。何度も考えようとしたけれど、すぐに頭の中がぐちゃぐちゃになった。ヒル、梨伊菜、ヒル、梨伊菜――。
だから梨伊菜が手を離したとき、わたしはすぐに気付けなかった。
梨伊菜はわたしの足元に屈み、地面からなにかをひろっていた。見下ろすわたしの目の前に、梨伊菜はそれを近付ける。一回りも二回りも太くなったそれは、指に挟まれて窮屈そうに動いていた。梨伊菜はわたしのスカートをめくる。
「なんでめくるの?」
「答え合わせ」
わたしは梨伊菜の視線を追って、自分の下半身を見た。太ももの内側を、ゆっくりと血が伝っていく。梨伊菜は笑っている。
「どうして笑うの?」
「セイリみたいでおもしろいから」
「セイリってなに?」
「冗談?」
笑うのをやめ、梨伊菜は手に持ったヒルを地面に投げ捨てた。
後ろからきた自転車がそれを引き、子供が、大人が――、道行く人々が、その上を歩いていく。でも、わたしにはわからないことだらけだ。ねえ、梨伊菜。
了
責任