私の好きなアキノくん
01 好きのインフレ
アキノくんのことを好きになってしまった……!
私にとっては災難みたいなものだった。
アキノくんは好きになっちゃいけない人。
ずっとそう思って、そういう目では見ないようにしてたから。
「俺、好意とか向けられても困るんですよね」
ある日、バイトの子が思いきって告白したら、そう言われたって泣いてた。
「アセクシュアル。知らないですか」
恋愛感情も性的欲求も持たない人。
私はもうその瞬間に惚れた。
ああこの人、神さまなのかな。
誰も好きにならないんだって。カッコよすぎる。
でも告白したら嫌われるんだって。泣きそうに思った。
◇◇◇
アキノくんは背が高くてメガネをかけていた。
顔は整ってるほう、かな。
いつも少し不機嫌そうな顔でパソコンに向かっている。
その笑わないところも好き。カッコいい。
誰とも付き合わないけど、人嫌いってわけじゃなさそうだった。
会社の喫煙室でも、隣り合った人と普通に話してるみたいだし。
いいなあ、私もタバコ吸おうかなって思うくらいだった。
アキノくんと何気なく会話してみたい。
「ハルカ! これ17時までに仕上げといて」
「えっ、またですか」
私は部長からもらった急な指示にげんなりした。
「早くしねーと間に合わねえぞ」
「はい」
自分からふっといて。ハイハイやりますよやりゃいーんでしょーが。
「部長なんでいっつも私に頼むんですか」
私は少しむくれてきいてみた。
「お前が一番早えからに決まってんだろ。ミスもないし」
部長は私の頭を拳で小突くと
「オメーを一番信頼してんだよ」
私の目を見ずに言って、去っていった。
部長ツンデレ? いやまさかね。
私は妻子ある人と恋愛なんて絶対しないよー
だって私は……ノンセクだもん。
この言葉も最近知った。恋愛感情はあるけど、性的欲求はない人のことだって。
まさに私じゃんと思った。私は、性行為が怖いから。
アキノくんのことも好きだけど、アキノくんとしたいわけじゃなかった。
むしろ、私に触れないでいてくれそうだから、好きになったんだと思う。
◇◇◇
「告られて付き合わねーとかもったいねーなあ。やってから考えればいいのに」
「お前それセクハラだぞ、俺に対する」
そう言ってアキノくんはビールをあおった。
アキノくんはお酒好きみたいで、飲み会にはけっこう顔を出していた。
私はお酒まったくダメだけど、アキノくん見たさに参加している。
酔ったらより機嫌が悪くなるんだよなあ。目つきも剣呑になって。もう大好き。
「いらねーなら俺がもらっていい?」
「俺にきくなよ。俺のじゃねーんだから」
同僚の小萩くんに悪態つきながら大きなホッケをつついている。
「しっかし恋愛感情がねーって不思議だなあ。坊さんか何かなの」
アキノくんはもう聞き慣れているのか、その質問にも眉ひとつ動かさなかった。
手酌でビールをつぐと、悪気のない小萩くんにさりげなく答える。
「お前は異性愛者だから、俺を恋愛対象とは思わねーだろ?」
「ああ」
「俺は全人類に対してそう思ってるってこと」
「はあ」
小萩くんはまだよくわからないって顔で首をかしげた。
「この世が男だけで構成されてるって考えてみ」
「えっ」
小萩くんはしばらく考えていたが
「無理だわ」
心底がっかりしたように言った。
「俺はそれを別に不幸とも何とも思ってねーってこと。生まれつきそうだからな」
よかった、女性嫌悪があるわけじゃないみたい。と思って、私はホッとした。
「つまり、死ぬまで男子校のノリか」
「まあな」
「それはそれで楽しそうだけどなー」
でもやっぱり女がいないとか無理だわ、と小萩くんは笑った。
すごいなあ。予備知識のない人にも、こんなにわかりやすく説明できちゃうなんて。
私はまたアキノくんを好きになってしまった。
最近アキノくんを好きな気持ちのインフレが止まらない。
「別に好きじゃなくても。行為できんなら家庭くらい持てんじゃねーか」
黙って聞いていた部長がボソッというので、アキノくんは部長のほうを向いた。
「まあ、持つ人もいるでしょうね」
「オメーはどうなの」
「俺は」
アキノくんはしばらく考えて
「独り身が気楽すから」
飲みかけのビールをあおって、タバコを吸うため離席した。
02 アセクノンセク
「なあ、香住」
3回目の飲み会で、突然アキノくんに話しかけられてびっくりした。
私の名前知ってたんだね。仕事では全然関わりないから、知らないと思っていた。
「お前たいして酒飲まねーのに飲み会とか。もったいなくね?」
「あっ、そうだね」
私は緊張して思わず下を向いた。
「でも、ジュースも美味しいよ。みんなの話きいてるだけでも楽しいし」
「そう」
アキノくんは私以外の女の子にもごく自然に話しかけてくれた。だから誤解を招くんだけど。
一生男子校のノリだもんね。仕方ない。
自分から話しかけるなんて絶対無理な私にとっては、すごくありがたいけど。
「せめてメシ食えよ」
「うん。ありがとう」
私はアキノくんと話せてすごくすごーくうれしかった。声録音したいなあ。
もうこの思い出だけで3年くらい生きていける。
「ハルカも一杯くらい飲めよ。ガキじゃねーんだから」
部長にすすめられて頼んだカシスオレンジで酔ってしまって、ヘロヘロしているときだった。
「なあ、その指輪」
アキノくんは私の右手を指さして言った。
「オニキス?」
「えっ……うん。そうだね」
私はアキノくんが石の名前を言うとは思っていなくて、すこし酔いがさめた気がした。
「お前もアセクなの」
「ううん、私はノンセク」
ノンセクだけどアセクにあこがれがあって。私はブラックリングをしていた。
「海外では、ノンセクもアセクのうちだから。いいかなって」
「俺ノンセクにはじめて会ったわ」
アキノくんはメガネを直すと、見下ろすように私をじっと見つめた。
あれほど飲んだのにちっとも酔っていなくて。やっぱりカッコいい。
「性欲のない恋愛感情ってのが、わかんねーんだけど」
「そうだよね」
私はカウンターにぐったり頬を乗せながら、アキノくんに微笑した。
「私もよくわかんないんだ。結局友だちの延長かもしれないね」
どんなに好きになったって、何もしたくはない。手もつながなくてもいいくらいだった。
「私、独占欲もなくて。相手に好きな人がいても別に構わないんだ。なんか自分でも自分がよくわからなくて」
「じゃあ不倫もできるな」
横から口をはさんだのは部長かな?
「それはないですね」
私はまた言ってると思って、あいまいに笑った。
「誰かを傷つけてまで恋したいと思ったことないです」
アキノくんは部長と私を交互に見ながら、しばらく黙っていた。
「部長! 会計お願いしまーす」
「全部は払わねーぞ!」
部長は小萩くんに呼ばれて向こうへ行ってしまった。
アキノくんは相変わらず無言でビールを飲んでいる。
「部長離婚してるよ」
「そうなんだ」
「知らねーの?」
「仕事以外、話さないから……」
私は部長にはあまり興味がなかった。
「お前万年フリーなんだって? 俺が付き合ってやろうか」
そう言われたときも完全に冗談と受け取っていた。だって部長にはときめかないし……。
ノンセクの私が言うのもなんだけど。
「あんな優秀な男振るとか。気が知れねえ」
アキノくんはタバコを取り出すと、肩をすくめてつぶやいた。
「仕事が忙しすぎたのかもね」
30代で部長になる人って珍しいだろうと思った。
おうちのこととか、奥さんに任せきりだったのかな。
私が奥さんだったら。やっぱりつらかっただろうと思う。
「俺はオメーらと違って二十歳前からここにいんだよ。20年もやりゃあ、役職つくだろ」
支払いを済ませて戻ってきた部長が、ため息まじりに笑った。
「ハルカ、歩けるか」
アキノくんと話せて舞い上がった私は、すこし飲み過ぎたようだった。
いつもなら断るお酒も、なんとなく口をつけたりして。
あー、気持ちいいなあ。このまま死んでもいいくらい。
明日の朝はきっと二日酔いで最悪だろうから。飲み会が終らなければいいのにと思った。
ずっとアキノくんの声を聴いていられたらいいのに。
「送るよ」
私お金払ったかな? 部長が払ってくれたのかもしれない。
まあいいや、部長のすすめたお酒でこうなったんだしと思って、私は寝たふりをしていた。
実際眠ってしまいそうで。
「いいです。電車で……帰りまス」
言いながら、立ち上がれる気がしない。腰が抜けたみたいに動けなかった。
「いいから乗れ」
私は部長と誰かに肩を支えてもらって、タクシーに乗った。
アキノくんだったらいいのにな。小萩くんだった気もした。
03 犯罪ですよ
タクシーは勝手に走り出して、私はぐっすり眠ってしまった。いつの間にか停まって。
部長すごいなあ、私の家知ってたのかな。なんてわけはなくて。
私は部長に支えてもらいながら、知らない場所で降りた。
「まあ入れ」
私は部長に抱えられてエレベーターに乗った。そのまま箱の隅に押しやられてキスされそうになって
「や……ちょっと……ダメれす」
私は首をふって弱く抵抗した。わがままな子どもみたいに。
部長は無理に迫ってくることもなく、酔った私を自分の部屋に入れてくれた。
「お水、頂けませんか」
私は黒いソファに座らせてもらうと、つい言ってしまった。遠慮ないなあ。
今もさんざんお世話になってるのに。
部長は嫌な顔ひとつせず、コップに水をくんで持って来て下さった。
私はゴクゴクのんで、はーっと息をついた。お水おいしい。生き返る。
部長はそんな私を見ていたのか、私が水を飲み終わるのと同時に空のコップごと私の手をつかむと、押し倒しながらソファに乗った。
アキノくんなら、こんなにやさしくはしてくれないだろうなあ。
私の頭はそれでもアキノくんのことでいっぱいで
このまま身を任せてれば、私もラクになれるのかなあ。
部長やさしいし、仕事できるし。
酔って眠い頭で必死にそう思うんだけど
アキノくんアキノくんアキノくん
私の本能はどこまでも冷たいアキノくんを求めていた。
部長が指をからめてきて、右手の指輪にさわった。
ブラックオニキス。魔よけの指輪。
そっか。私ノンセクなんだった。
「部長、ダメれすよ、私……」
「じっとしてろ。すぐすむから」
部長は手際よく私のブラウスの胸ボタンを外していった。いやいや、ダメれすよ。
「部長部長、犯罪です」
「合意の上だろ」
「だって私処女ですよ。28の」
「そうか」
部長の手が少し止まる。処女って魔法の呪文だなあ。
ホントは処女ではなかった。いや、まだ処女なのかな?
未遂というか。昔途中でやめてもらったことがあった。
「重いです?」
「ちょっとな」
部長が手を離してくれたので、私はなんとか体を起こすとソファにぐったりもたれかかって座った。
目を閉じたまま指先だけで服のボタンをひとつひとつ、探しながらはめて
「よく今まで何もなかったな」
「弟に一緒に住んでもらってたんです。でもこの前結婚しちゃって」
部長は私の髪をなでながら、頬から首にかけて何度もお酒臭いキスをした。
「『男と同棲してるから』って言い訳、もう使えなくなっちゃいました」
私はほとんど動けない中できるかぎりよけようと、首を左右にふりながら答えた。
部長だいぶ酔ってるなあ。
部長は私がしぶとく避けるのであきらめたのか、胸ポケットからタバコを取り出すと火をつけた。
青い煙をスーッと天井に向けて吐くと
「そんなに嫌か、俺が」
つぶやくように尋ねる。
「部長のせいじゃないんです。部長は素敵だと思います。男性として」
私は痛む頭を押えながら、念じるように言った。
「私が変なだけですよ」
謝って、許してもらえないかなあ。
「いくら好きでも、怖いんです」
小学生みたいだよなあ。
大人になったら体を差し出さないといけない。みんな知ってるルールなのに。
「ごめんなさい」
私の謝罪をきいてか聞かずか、部長は私の手を取ると寝室に引っ張っていった。
青い綺麗なダブルベッドに座らせてくれる。
「一晩中やろう。スローなやつ」
えっ
「ハードル上がってません?」
思わず上司に真顔でツッコんでしまった。
「1ミリずつ入れれば大丈夫だって」
「いやいや、そういう問題じゃないんで」
「すげー気持ちいいらしいぜ」
「快楽の度合いじゃなくてれすね」
困り果ててろれつが回らない。
「ウソウソ。まあ今晩はここで寝ろ。何もしねーから」
「ホントれすか」
私はすごくうれしかった。家に帰れる元気がなくて。ここがどこかもわからないし。
何もしないって本当かな。
眠ってるうちに何かされても仕方ないかなと思った。
こんなにお世話になったんだから、何かお返ししないと申し訳ない。
でも意識があるうちは、怖くてできないし。
よし、寝よう。
「すいまへん、部長。ありがとうございまふ」
私はペコンとお辞儀をすると、そのままベッドに横にならせてもらった。
なんて寝心地の良いベッド……ベルガモットの、いい香りがするし……。
「部長!」
「なんだ?!」
私がちょっと大きな声を出したので、部長が慌てて枕元まで来て下さった。
「香水、あとで教えてくらさい……」
私の意識はここで途切れて。私は深く眠った。
04 付き合ってよ
次の日いつもより遅めに出社したら、ちょうど喫煙室から出てきたアキノくんと一緒のエレベーターに乗ることができた。
やったー! 今日は朝から運がいいなあ。
二日酔いでフラフラだけど。なんとか出社した甲斐があった。
「お前、寝たの?」
アキノくんは7階のボタンを押すと、振り向いて私に尋ねた。
「部長と同じ匂いがする」
私に顔を近づけて、クンクン軽く匂いをかぐ。
「昨日泊めてもらって。いい匂いだからつけてもらったんだ」
「寝てんじゃん」
ノンセクって言ったのに。うそつきって思われちゃうかな。
アキノくんは怒ってはいないようだった。
「お前、やろうと思えばできんだ」
意外だなって顔で言ってくれる。
「ううん、できないけど……」
私は少し困ってあいまいに笑った。
「ただ寝かせてもらっただけなんだ。いや、私はそう思ってるんだけど……もし何かされてたら、わかるものかな?」
逆にアキノくんに尋ねてしまった。
「俺にきかれても」
アキノくんは困ったように笑っている。
アキノくんの笑った顔をはじめて見た気がした。うれしいなあ。苦笑だけど。
「ずいぶん可愛がられてんじゃん。同じ匂いつけさすなんてさ」
アキノくんは自動販売機の前で止まると、あたたかい缶コーヒーを買った。
「部長私のこと名前で呼んでくれるから。なんかお父さんみたいな気がして」
「お父さんって。せめて兄貴にしろよ」
後ろから声がして、部長がぬっとあらわれた。
「おざーす」
アキノくんがメガネの奥から軽く目礼する。
「ハルカ、今日の会議10時からな。資料持って来いよ」
「えっ、私も行くんですか」
「お前がいると安心すんだよ」
部長はサラッと言うと行ってしまった。
部長ってときどき甘えてくる? ときがあるよなあ。よくわからないけど。
私も急いで準備しなきゃ。
「アキノくん、またね」
私はのんびりコーヒーを飲むアキノくんに手を振って別れた。
うれしいなあ。アキノくんと話せたし、匂いもかいでもらったし。笑ってくれたし。
あーアキノくんアキノくんアキノくん。大好きだなあ。
片思いって楽しいなと思った。このまま何も伝えずに、一生片思いしていたい。
同じ職場で、毎日会えて、たまに言葉がかわせれば、それで十分。
こうやって何十年も一緒にいられたらなあ……
恋人どころか、結婚してるより長い時間一緒に過ごせるかもしれない。
あー同僚最高だなあ。
アキノくんのおかげで二日酔いも吹き飛ぶ気がして。私は機嫌よく仕事をはじめた。
◇◇◇
「お前、アキノが好きなの」
「えっ? あ、ハイ」
大事な会議が無事すんで、一緒にお昼を食べているとき。
部長がたずねるので、私は思わずこくんとうなずいた。
「報われねーと思うぞ。アイツ好きになっても」
「いいんですよ。何もするつもりありませんから」
私は昨日の部長みたいなことを言って、機嫌よく笑った。
「もう十分報われてますから。たまに会って話せるだけで。幸せです」
本心からそう思っていた。アキノくんが生きていてくれるだけで。
「なら俺と付き合ってよ。何もしねーからさ」
部長はAランチのとんかつをキャベツと一緒にほおばりながら言った。
「いや……昨日したじゃないすか」
「あれは酔ってたんだよ」
「私は、アキノくんが好きです」
Bランチのエビフライをつつきながら、私は言った。
「そのままでいいよ」
部長はしじみのお味噌汁を飲みながら、アッサリ言った。
「アキノが好きなお前をそばにおいておきたいのさ。一種の征服欲よ」
「はあ」
よく、わからない……。
私がしばらく食べる手を止めてぼんやりしていると
「俺にとってお前はすげえ大事な存在なんだよ。仕事でも、プライベートでもさ」
部長はもう食べ終わってしまって、食後のお茶を飲んでいた。
「付き合うってのもお前の定義でいいから。たまにメシ食ったり遊んだりしようや」
それだけ言うと食器を返却口へ返して、タバコを吸いに行ってしまった。
「部長は何が好きなんですか」
仕事帰り、思いきってきいてみた。
「俺は車かなあ。カスタムじゃなくて、乗るほうだけど」
「いいですね。私はバイクが好きなんです」
「へえ」
部長は意外そうに私を見ると
「男の影響?」
ニヤと笑ってきいた。
「男と言っても、お父さんですけどね」
お父さんのことを思い出すと、妙に切なくなる。まだ健在なのに。
「いつもヘルメット持ってきてくれて。よく後ろに乗せてもらいました」
「いいなあ」
部長の相槌がやさしくて、ありがたい。
「養育費、払ってますか」
「え? ああ、2人分な」
急にきいたせいか、部長は一瞬キョトンとしたあと、答えてくれた。
「必ず続けて下さいね。それだけが、私の願いです」
私が言うようなことじゃないけど。言いたくて仕方なかった。
「私もらう側だったんです。父は少ないけど、毎月必ず送ってくれて。そのおかげで『まだ忘れられてないんだ』って思えたから」
毎月のお金が父の生存確認にもなっていた。お母さんとお父さんは、私の前では悪口を言ったりせず、互いを尊重していてくれた。
「苦労、したんだな」
差し出がましい話なのに。部長は嫌な顔ひとつせず、きいて下さった。
「うちなんて。マシなほうです」
私も笑って答えて。
部長と奥さんのヨリが戻らなくても、良好な関係が続くといいなと思っていた。
05 予兆
「香住ー、でんわ! 3番」
「あ、ハイ」
内線3をポチと押して
「お待たせ致しました。営業部の香住です」
ツー ツー ツー
あれ? すぐ出たと思ったんだけどなあ……
私は首をかしげながら、電話に出てくれた先輩の元へ行った。
「すみません、途中で切れちゃったみたいで。どなたからですかね」
「知り合いじゃないの? すぐつなげって言われたんだけど」
「そうですか……」
「まあ、大事なことならまたかかってくるだろ」
私は先輩に頭を下げながら、嫌な予感がした。
なんだろ、上手く説明できないけど……。
最近家に帰るときも、つけられてるような感覚があって。
誰かが見てる。
そんな気がして、ゾクっとした。
気のせい、だよね……。
「ハルカ! 週末ヒマか? ドライブ行かねえ?」
「いいですね」
部長が明るく声をかけてくれたので、無理に笑顔を作った。
「何お前。何かあったの」
「いえ、ちょっと」
言葉では説明しづらい違和感で。あいまいに笑うしかなかった。
変に心配かけてもいけないし。私の勘違いかもしれないから。
「あとで電話する」
部長は忙しいのに、私あての用事も作ると、さっとフロアへ戻ってしまった。
私は、仕事が早く片付いたのに帰る気がしなくて。ぐずぐずサービス残業をしていた。
帰る時間が遅くなるほど、怖くなるのに。
「ハルカまだ残ってたのか。飲み行くか?」
21時過ぎ、仕事の終った部長が声をかけて下さった。
「アキノも来るってよ」
「すみません、今日はちょっと……」
私はアキノくんに会いたかったけど、楽しい雰囲気に溶け込める気がしなくて、あいまいに笑った。バカだなあ私。泣きそうだ。家に帰るのが怖い……
「お前、ホントに変だぞ」
「部長、私」
私は28にもなって本当に恥ずかしいけど、他に頼める人がいないと思った。
「私と一緒に帰ってくれませんか」
「お前んち?」
「はい」
たぶんすごく不安そうな顔をしてしまってたんだと思う。
「いいよ。送ってく」
部長は深くきかずに、飲みの誘いも断って、私について来て下さった。
◇◇◇
「つけられてんのか」
「心当たりはあるんです。一人だけ」
最寄り駅からの夜道を歩きながら、私はスマホの画面を部長にそっと見せた。
二日前、一方的に届いたメッセージ。
「見つけた」
怖かった。直観的に、遼くんだと思った。
「ハルカでしょ?」
「久しぶりだね」
「ハルカに会いたいなあ」
「怖えな」
見慣れた画面のはずなのに。部長も眉をひそめて見ていた。
「知り合いか」
「学生のとき、付き合ってた人なんです」
まだノンセクだってことに気づいてなかった頃で。
告白されて、試すだけならって、なんとなくOKしてしまった。
遼くんはすこし強引なところがあって。引っ張ってもらえて、楽ではあったんだけど。
「こいつストーカーだろ」
部長は数行の文面だけで、鋭く判断した。
「何かされたのか」
「いえ、まだ何も……」
まだって表現も、待ってるみたいでおかしいけど。
「エッチしかけたけど、どうしてもできなくて。私のせいで。その時の彼なんです」
遼くんはやさしくて、私を責めることはなかった。
「無理しなくていいよ。いつまでも待つから」
そう言ってくれたんだけど。私のほうに、待たれるのがつらい気持ちがあって。
待つってことは、いつかできるようにならないといけないってことだよね。
そのプレッシャーに耐えられなくて。私から、別れを告げた。
「こいつ、お前のこと全然あきらめてないと思うよ」
部長は、とぎれとぎれの私の話も丁寧にきいてくれた。
「家はバレてんの」
「わかりません」
学生時代の部屋からは引っ越してるけど。そんなに遠くではなかった。
やっとマンションの玄関について、郵便受けを開けると
「あっ……」
私宛ての郵便物が、ハサミで真っ二つに切られていた。
ダイレクトメール、請求書、読めないほどじゃないけど。切れ味の鋭いハサミで、真っ二つに。
「部屋ばれてんな」
部長は深刻な顔つきで言った。
「俺んち行こう。お前はここにいないほうがいい」
私の手をとって、すぐ外に出ようとする。
「でも、着替えが」
「じゃあ取ってこよう。俺もついて行くから」
私が着替えをカバンに詰める間、部長は玄関ドアを押さえて待っていてくれた。
不審者を警戒するように、時折鋭く辺りを見回す。
「お待たせしました」
私はもっと持っていきたいけど迷惑になるだろうしと思って、とりあえず2泊3日くらいの荷物にまとめて部屋を出た。
部長がさりげなくカバンを持ってくれて。足早に夜道を戻り、電車に乗って部長の家に向かう。
「本当にすみません」
「いいよ」
部長は電車が走り出して、どんどん駅を過ぎると、少しほっとした表情になった。
「ケーサツには言ったの?」
「いえ、まだ……」
知り合いだし、恋愛のもつれ? だから、怒られるかなと思って相談できずにいた。
「とにかく。お前が無事でよかったよ」
部長がやさしく言って下さるので、私は泣きそうになって窓の外に目をやった。
22時台の電車は空いていて。私はドアに寄りかかると何も考えられずに、過ぎていく夜景を見るともなく見ていた。
06 相手のために
「なあハルカ。俺と住まねえ?」
部長のお宅は私の家より会社に近かった。駅から5分。立地もいい。
部長は私の荷物を寝室において、私に振り返ると言った。
「引っ越してこいよ。ここで暮らそう」
私はすぐに返事ができなくて。困り果てた顔をした。
「あそこには帰らないほうがいい。何かあってからじゃ遅いぞ」
こんなに親切にして下さって。申し訳ない気がした。
それでも私はまだアキノくんが好きで。
なんでだろう。こんなにお世話になってる部長より、たいして接点のないアキノくんのことを、どうして私は忘れられないのかなあ。
「でも私、部長に何もしてあげられません……」
たくさんの愛にお返しできるものが、私には見つからなかった。
何のお返しもできずに、ずっと親切だけを受け続けるのは、しんどいの。
拷問なんて言ったら失礼だけど。でも、拷問に近くて。
身勝手な考えで、本当に、ごめんなさい。
「そばにいてくれるだけでいいよ」
ああ、この人はやさしすぎるんだ。だからつらいと思った。
アキノくんみたいに、もっとアッサリ扱ってほしいなあ。特別なんて思わずに。
「勝手にやれば」みたいな冷たい扱いを、部長に求めてしまっていた。
こんなに親身になって、心配して下さってるのに。
「本当に……ごめんなさい」
私は今までせき止めていたものがあふれ出すように言った。
「全部差し上げます、好きにしてくださいって言えたらいいんですけど。いろんな感覚や恐怖があって。やっぱり、怖くて……」
ぼろぼろ、ぼろぼろ泣いて、みっともなかった。
遼くんのこと、ずっと怖くて、誰かに頼りたいけど、私はノンセクだし。
付き合ってるって言えるほどのこと、してあげられないから。
どう頼っていいのかわからなかった。誰に、どこまで頼っていいのか。
「気を失うまで飲めば忘れられますかね? 怖さも全部」
「ハア?!」
部長はびっくりしたように目を丸くすると、私の手を取ってソファに座らせてくれた。
冷蔵庫から水を出してきて。コップについで、また私に持たせてくれる。
「お前さ、そんなことで深く悩んでんじゃねーよ。俺は別に性欲の塊ってわけじゃねーんだから」
私の横に座って私にくれたコップから水を一口飲むと、部長はつづけた。
「大体お前、俺らを何だと思ってんだよ。性欲はたしかにあるけど、すべてじゃねーだろ」
私にはそれが一番わからなかった。みんなの性欲の位置づけが、恋愛の中で、どのくらいの比重を占めるのか。
「お前がしてほしけりゃするし、嫌ならしねーよ。そんだけ」
紳士だなあと思った。いいひとなんだ。でも、それが怖くて。無理させてる気がして。
だって私には「してほしいとき」がないんだもの……。
まったくできないなんて、男の人は我慢できずに怒ってしまうだろうと思った。
遼くんだって、最初はこう思ってくれてたけど。待ちきれなくて、今怒ってるんだろうから。
「そりゃ、本音を言えばしたいよ。好きなんだから。でもお前を失いたくないんだ。お前との関係を壊してまで、やりたくはない」
部長は私に寄り添うように座り直すと、ネクタイを緩めて私を見た。
「お前にはずっとそばにいてほしいんだよ」
すっと抱きしめてくれるから、胸がいっぱいになった。
ああ、私は部長が好きなんだ。でも、お父さんに似た好きかもしれない。
抱かれたことがないからわからない。性欲を伴う愛の形が。
「ずっとそばにいますよ。部下なんですから」
抱きしめられながら答えて。こんなに愛されて幸せだと思った。
アキノくんは私の太陽みたいなもので、アキノくんへの憧れは、いつまでも、永遠に揺るがないんだけど。
現実に抱かれることがあるとしたら、きっと部長なんだろうと思った。
◇◇◇
あれから2日無事にすんで。金曜になった。
「部長と住んでんの」
昼休み、アキノくんがさりげなくきくから。男の子の情報網も早いんだなと思った。
「今ちょっと家に帰れなくて。おいてもらってるんだ」
私は、いよいよ帰ってクローゼットの服を取ってこないといけないなあと思いながら、アキノくんに弱く笑った。また部長に頼むのも、気が引けるなあ。
言わないで行くと、あとでもっと怒られそうだし……
「部長とならできそう?」
「うん……わからない」
できたらいいのにと思った。部長のために、乗りこえられたらいいのに。
「喜ばせられたらいいのにな。自分のことは抜きで」
アキノくんは虚空を見つめると、願うように言った。
「雑念をなくして。相手のためだけにさ」
「うん」
私も心からそう思っていた。何もかも忘れて、ただ相手を喜ばせられたら。喜んでもらえたら。それだけで幸せなのに。
「身を任せてればいいだけなのにって思うんだけどね。自我が邪魔して」
いつかできるようになりたいと思った。自分のためじゃなく、相手のために。
「あんま無理すると相手も悲しむよ、きっと」
「うん」
「まあ、ゆっくり過ごせばいいんじゃね。歳とりゃ多少、落ち着いてくるだろうし」
アキノくんは、今まで見たことがないほどやさしく笑ってくれた。
まぶしいくらい、やさしく。
「最近の部長はすごい機嫌いいよ」
プライベートが充実してんだな、とアキノくんは言った。
「ありがとう、アキノくん」
「礼なら部長に言えって」
アキノくんはまた笑って。こうしてアキノくんと話せるのも部長のおかげだなあと、私は部長にも感謝していた。
07 許さない
午後、急ぎの書類を印刷しているときだった。
「やべえ、A4切れた。どこにあったっけ?」
「キャビネットの一番下の段。ないか?」
「空っぽだよ」
「仕方ねえ。倉庫まで取り行くか」
忙しいのにって顔で小萩くんが舌打ちした。
「私、行きましょうか?」
私は自分も印刷したいものがあったから、控えめに手をあげた。どうせ紙がなくちゃ、先に進まないし。
「いいか? 重いぞ」
「台車借りて行きますね」
私は配送業者の人みたいに、銀の台車をゴロゴロ押してエレベーターに乗った。
たしか、地下1階だよね……。
あまり行ったことがないから、すこし迷ってしまう。
備品置き場、備品置き場……。
人通りのない廊下をゴロゴロ、台車を押して進んだ。ここらへんかな。
コピー用紙が積んである部屋があったので、台車を押して入る。
A4どのくらいいるかなあ。あまりたくさん持って行っても、しまえないし……。
100枚の束をひとつずつ、7個台車に積んだ。こんなもんかな。
ふうと一息ついて、台車だけを廊下に出した。部屋を見渡して、すこし片づける。
これでいいかな。
そろそろ戻らなきゃと振り向こうとした時だった。
……っ!
突然後ろから口を押えられて、声を失った。つよく抱きしめられて、身動きがとれない。
「やっと会えたね」
地の底から響くような声だった。
「会いたかったよ、ハルカ」
昔はもっとやさしかった気がするのに。今はもう、何をしてもおかしくないような、遼くんの声だった。
◇◇◇
「しばらく、だーれも来ないよ」
遼くんは警備員の服をきていた。白い手袋で私の口を押える。
「監視カメラ見ながら、ずっと待ってたんだ。ハルカが一人になるのを」
遼くんは昔より力がつよくなった気がした。密着しすぎてて、怖い。
「ハルカ、男と住んでるの?」
「寝られるようになったら、俺を呼んでって言ったよね?」
「ずっと待ってたのに」
遼くんはつづけざまに話すと、すこし笑った。私の耳元に口を近づけて囁く。
「許さないから」
私は金縛りにあったような、絶望的な気持ちがして、動くことができなかった。
スマホがあれば、助けを呼べたのかな。
ちょっと紙を取りに行くだけだからと思って、スマホはデスクに置いたままにしていた。
「あの男とは寝たの?」
遼くんは私を振り向かせると、制帽の下から睨むように見つめた。
「気持ちよかった?」
部長とは寝てないんだけど。何を言っても怒らせる気がして、怖くて声が出ない。
「俺にもしてよ」
遼くんは懐から鋭いナイフを取り出すと、私にちらつかせて笑った。
腰から首にかけて、私のブラウスの背中をツツ―っと、ナイフの刃先を這い上がるように動かす。
「キスして」
私はあまりの怖さにただ固まっていて。遼くんに刺されても、仕方がないと思った。
遼くんは右手でナイフを動かしながら、左手で私の頬を撫でる。
そっと唇が近づいたとき
「香住!」
大きな声がして、私は我に返ったようにビクッとした。
アキノくんが私たちを見下ろしていて
「あんた、何してんの」
遼くんの右手を鋭くつかむと、アキノくんは凄みのある声で言った。
抱きしめながら背中にナイフを当てる、という姿勢に無理があったのか、遼くんは右手をひねられると、あっさりナイフを落とした。
アキノくんが革靴でナイフを廊下に蹴って。遼くんを取り押さえる。
私は呆然として、自分のことじゃないみたいに二人を見ていた。
「香住。通報して」
アキノくんが目で示すので、私はアキノくんのポケットからスマホを取り出すと、警察に通報した。
◇◇◇
できるなら警察沙汰にしたくない気がした。
でもアキノくんは毅然とした態度で、遼くんを取り押さえているし
「アキノー! さぼりかー?」
あまり遅いから小萩くんも見に来てくれたみたいだった。
「お前……何してんの」
「そのナイフさわんなよ」
アキノくんは怒ったように言うと
「部長呼んで。ケーサツ来るから」
小萩くんはアキノくんと遼くん、呆然と座り込む私を順に見つめると
「お、おう」
急いで知らせに行ってくれた。
「ハルカ!」
部長の声が聞こえたとき、凍っていた心が溶け出すように涙があふれた。
どうしよう。今まで何も考えられなかったのに。
心配そうな部長の顔を見たら、泣けて泣けて、涙が止まらない。
パトカーのサイレン音がやんで、警察の人がやってきた。
他のフロアの人も何ごとかと覗きに来ている。
「背中……血出てるぞ」
部長は青ざめた顔で、私の肩に背広をかけてくれた。
ナイフで切れたのかな。私はショックで痛みがわからなかった。
「無事ですか」
警察の人にきかれるけど、涙で何も答えられなかった。
アキノくんが代わりに話してくれる。
遼くんは警察の人に手錠をかけられ、静かに連行されていった。
私の横を通り過ぎるとき、薄く笑って
「また会おうね」
ちょっと出かけてくるような、気軽な調子で言った。
08 助手席
私が遼くんを受け入れて、普通の恋人になれてたら。
こんなことにはならなかったのかな。
自分がふがいなくて、恥ずかしい気がした。
遼くんを犯罪者にして、会社に迷惑かけて。
「痛くないですか」
救急隊員の人が背中の傷を消毒して、ガーゼを貼ってくれた。
「大した怪我じゃないのに。ごめんなさい」
「いいんですよ」
彼女は手早く応急措置を済ますと
「早めに医療機関を受診して下さいね」
やさしく言ってくれる。
現場検証とかいろいろあって、地下一階は騒然としていた。
遼くんの勤めていた警備会社の人も呼ばれて。
せめて、地下でよかったのかな。
アキノくんは、遼くんが備品置き場に入ったあたりから見ていたようだった。
ナイフを見てすぐ止めに入ろうとしたが、逆に刺されたら危ないと思い、スキをうかがってくれていたみたい。
アキノくんに変なところを見られて、恥ずかしいなと思った。
でも、アキノくん以外の人に見られても嫌だし。
やっぱりアキノくんでよかったのかもしれない。
恐怖とショックで、しばらく何も考えることができなかった。
「また会おうね」
こんなかすり傷じゃ、執行猶予つくよね。
実刑を受けたって、刑務所から出てくれば
遼くんは必ず私を見つけ出す。
見つけて、より重い制裁を私に科す気がした。
「アキノ! あとは頼む。俺こいつ病院に連れてくから」
事情聴取が終わったアキノくんに、部長は細かく仕事の指示を出した。
「ここまででいい。後は月曜に回す」
「はい」
私は部長に付き添われながら、先に帰らせてもらった。
◇◇◇
「ハア? 家に帰る?」
病院からの帰り、私は部長の部屋で休ませてもらいながら、おずおず切り出した。
「遼くんも捕まったし……もう誰も来ませんから」
「今日は泊まれよ」
部長は怒ったように言う。
「でも、服がないし……」
「俺が取ってきてやるから」
それまで俺の着てろと、部長は自分の大きいスウェットを放り投げてきた。
「とにかく、泊まれ」
部長は怖い顔をして、絶対に許してくれなさそうだった。
「こんな日にひとりで帰せるわけねーだろ。俺が心配で寝れねーわ」
部長は私の目を見ると、不意につよく抱きしめた。
「痛かったな。怖かっただろ」
私は部長に抱きしめられると、ぼろぼろ涙があふれる体になってしまっていた。
軟体動物みたいにふにゃふにゃになって、部長の好きに抱かれる。
「俺もお前のこと妹みたいに思えてきたわ。抱くのがもったいねえ」
部長はヒゲの伸び始めた顔で、すりすり私に頬ずりした。
「お前ってホント、ほっとけねー奴だなあ」
わしゃわしゃ髪をなでてくれるので、このまま犬か猫になってしまいたい気がした。
「お前、海と山ならどっちがいい?」
「海です。山は怖いから」
「りょーかい」
部長はそれだけきくと、私をベッドに連れていってくれた。
「しばらく抱きしめてていい?」
「はい」
ベッドに座り、ぎゅっと抱きしめてもらって。私は安心して目を閉じた。
今だけは家族になれた気がして。部長の温もりが私にはうれしかった。
◇◇◇
「どーせ落ち込むならさ、せめて景色のいいとこにしようや」
次の日からちょうど土日だったので、部長は私をドライブに誘ってくれた。
「私、助手席に乗せてもらうのはじめてです」
私は緊張していた。お母さんはいつも、後部座席に乗せてくれてたから。
部長の車は運転席と助手席しかなかった。ロードスターかな? グレーのカッコいい車で。
流線形のフォルムから、速さとセクシーさを感じた。
「中古で安かったから買ったんだ」
部長は助手席のドアを開けて私を乗せてくれた。
「荷物乗らねーだろ? 俺アウトドアとかしねーからさ。走るのだけが趣味」
エンジンをかけてギアを入れると、滑るように走り出す。
「星が見てえなあ」
「ロマンチストですね」
「たまには夢くらい見させてくれよ」
部長は苦笑しながら楽しそうに走った。運転ホントに好きなんだなあ。車も部長と走れて喜んでいるみたい。
スマートな車内に心地いい洋楽が流れて。部長は慣れた様子で高速に乗った。
09 神と人
部長は高速をぶんぶん飛ばして、静かな海辺に連れてきてくれた。
どこまでも続く青い海岸線が気持ちいい。
途中休憩に立ち寄ったサービスエリアで車の天井がカッコよく開くので、私はつい見入ってしまった。天気がいいのとシートが温かいせいか、不思議と寒さは感じない。
「オープンカーって冬でも乗れるんですね」
「冬こそだよ。夏なんて暑くてできやしねえ」
部長はコーヒーを飲みながら笑っている。
「傷、痛むか?」
「大丈夫です」
部長の運転は速いのに心地よくて、背中の傷にも優しく、私はいつまでも乗っていたいと思った。
部長といると心から安心できて、何も心配することはないと思えた。
◇◇◇
「被害者が加害者に会いに行くことって、できますかね」
昼食後、海辺の遊歩道をゆっくり散歩しながら、私は何気なくきいた。
「お前」
部長がタバコに火をつけて、すこし私を睨む。
「会いに行って、どうすんだよ」
「謝れたらと思って」
「バカだな」
部長は白い煙と一緒に、私の罪の意識を吐き捨てた。
「抱かせてもらえねーくらいで付きまとうなんざ、異常だよ。オメーは悪くねえ」
私を支持して励ましてくれているのが、痛いほどわかる。
「やめとけ。今度こそ殺られんぞ」
同情するなと部長は言った。
「まだヤツが好きなのか」
「いえ、全然……」
私は力なく首をふったあと、弱く笑った。
「また必ず来る気がして、怖くて。殺されるよりかは、体を差し出すほうがマシなのかなって」
「マシじゃねーよ」
部長は眉を寄せると、怖い目をして言った。
「一度許せば、キリがねーぞ。毎日毎日、一生。耐えられんのか」
「無理……ですよね」
一生は言い過ぎだろうけど。
毎日責められるのはつらそうと思って、私はため息をついた。
◇◇◇
夕陽が沈むまで、レストランで海を見ていて。
夜になると、ホテルのバルコニーで星を見ていた。寒いからあったかいココアを買って。
「アキノのどこが好きなの」
部長は手すりにもたれながら、静かにきいてくれる。
「手の届かないところ、ですかね。太陽や星みたいに」
私は夜空に手を伸ばしながら答えた。
天上にはちょうど、冬の星座がキラキラ瞬いている。
「私が何を言おうと、しようと、影響を受けなさそうなところとか」
冷静で冷徹で冷酷で。私は冷たいのが好きみたいだ。
「憧れか」
「私にとっては、神さまみたいなものです」
「話がデケーな」
あのアキノが神かよと言って、部長は笑った。
「なら、俺は?」
「んー、家族みたいな感じですかね」
父のような、兄のような。
「一番大切な人、って感じです」
私は白い息を吐きながら、ココアの湯気までおいしく飲んだ。
星は綺麗だけど、やっぱり寒いなあ。ダウンジャケット、着てくればよかった。
「よかった、神じゃなくて」
部長はタバコをくゆらせて笑うと、私を見つめた。
「人ならこうしてお前にさわれるし。過ちも犯せる」
ココアのあとにそっとキスをされて。タバコと混ざってほろ苦い。
私はどうしようもなく困ってしまって、固まっていた。
「今のアウト?」
「わかり……ません」
「よかった」
部長はニヤと笑って。いつもいい意味に解釈する天才に思えた。
「さみーから、中に入ろう」
部長はダブルじゃなくツインの部屋をとってくれて。
私たちはそれぞれのベッドで眠った。
「こんないい雰囲気なのに何もしない俺、すごくね?」
「キス、したじゃないすか」
「あれは事故みたいなもんだろ」
部長は笑って、先にお風呂に入ってしまった。
アキノくんの言葉が、ふいに頭の中に響く。
「相手のためだけに」
アキノくんは誰かを抱いたことあるのかな。恋じゃなく、愛で。
私じゃなくてよかったと思った。
神に抱かれる勇気は、私には永遠にない。
ベッドに放った部長のスマホに着信がきたみたいで、液晶がちらちら光った。
頑張ればできるなら、私は本物のノンセクじゃないのかな? 私のはただのワガママで。
本・物・ってなんだろう。私って、何なんだろう……。
部長がお風呂から上がって先に眠ってしまっても。私はそのことばかりをずっと考えていた。
10 一生愛す
「部長、やっぱり私、引っ越してもいいですか」
翌日も晴れていい天気だった。
海辺の道を乗せてもらいながら、私は前を見つめて言った。
「いいよ。いつ来る?」
「あ、いえ。私一人暮らしします」
部長はしばらく黙って走ったあと信号待ちで停まると、私のほうを向いて尋ねる。
「俺んち、嫌?」
「いえ、居心地がよすぎて。ダメになると思いました」
「ダメになれよ」
「奥さんが」
私は、人の家庭に口を出すのはこれで最後にしようと思いながら言った。
「別れた奥さんから、連絡来てますよね」
昨日のベッド。おうちのテーブル。
私が泊めてもらうようになる少し前から、部長のスマホはよく鳴っていた。
全部が奥さんとは限らないけど。
スマホを持ってさり気なく部屋を出て、真剣な顔で話していることが何度もあった。
「奥さんが何かに困って部長を訪ねてきたとき、私がいたら迷惑でしょうから」
誰より私自身が気まずいなと思っていた。
「俺のこと、嫌い?」
「逆です。別れた奥さんとお子さんをいつまでも気にかけてくれる人だったら。一生愛します」
私はつい宣言した。
「言ったな」
部長は長い直線でギアを上げるとニヤと笑った。
「誓えよ」
今度こそ怖くても逃げずに、行けるところまで行こう。私は部長とアキノくんに誓った。
◇◇◇
部長にああは言ったものの、すぐに引越し先が見つかるかなあ。
今は月の終わりだから。来月までに見つかって引っ越せるといいけど。
私は帰り道、部長のお家に寄って今までの荷物をまとめると、自宅まで送ってもらった。
久々に帰る、自分の部屋。
「おじゃましまーす」
荷物を持つという名目で、部長が部屋までついて来て下さった。
一人で入るのはやっぱり怖かったので、心底ありがたい。
「サッパリしてんなあ」
部屋にはベッドとこたつ、テレビくらいしかめぼしい家具はなかった。
何も、変わってないよね……。
遼くんが入った痕跡がなくて、とりあえずほっとする。
「今日泊まっていい?」
「駐禁取られますよ」
「電車で来なおすよ」
部長は私の荷物を置くといったん帰っていった。
もう来ない気がするなあ。
案の定後から「ごめん、今日無理になった」という連絡が入る。
奥さんの用事かな。
私は寂しかったけど、これでよかった気がした。
「本当に、いろいろありがとうございました」
お礼のメッセージを返して。
今まであまりにもお世話になってしまったから。
部長が自分の時間を持って下さったことに、ほっとしていた。
「えーと、お部屋さがしお部屋さがし」
お風呂に入って一息つくと、パソコンで賃貸マンションを検索した。
どうせなら、今より会社のそばがいいかな。
部長の部屋のあたりは……ちょっと家賃が高いなあ。
引越しはけっこう好きだから、ワクワクしながら探す。
駅からの距離より、交番がそばにあることを優先しようかな、なんて思った。
本当は仕事を辞めて、どこか遠くへ引っ越すべきなのかな。誰も私を知らない、迷惑のかからない場所へ。
でも「そばにいてほしい」という部長の言葉が耳に残って、どうしても決断できなかった。仕事好きだし、生活もあるし……。
部長に抱きしめてもらった時の安心感が忘れられなかった。
私も、ズルくなってもいいかな。部長から別れたいと言われるまでは。そばにいたいと思った。
◇◇◇
「具合どう?」
月曜日出社すると、喫煙室から出てきたアキノくんが声をかけてくれた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
アキノくんにもいろいろお世話になったなあ。丁寧に頭をさげる。
「私引っ越そうかなと思って」
「部長んち?」
「ううん、一人暮らし。今探してるんだ」
アキノくんはしばらく考えていたが
「俺の下、くる?」
ときいた。
「えっ?」
「俺の下の部屋空いてるけど。よかったら来れば?」
「いいの?」
私は驚いて、すこし身を乗り出してきいた。
「天井薄いから生活音丸聞こえだけどな」
いい。いい。神さまの生活音がきけるなんて。
私は自分の生活音を垂れ流す懸念も忘れ、うんうんうなずく。
「俺の飼ってるネコたまに預かってくれると助かんだけど。ネコ平気?」
「うん。大好き」
「じゃ大家にきいてみるわ」
「ありがとう!」
私はうれしくて、思わずニコニコしてしまった。
クールな上にネコも飼ってるなんて。やっぱり最強だなあ。
どんな感じで可愛がってるんだろう。みたいなあ。
アキノくんの真下に住めたら……
仕事終わりに一緒に帰ったりできるかなあ。遅くまで飲み会があっても平気だし。
あ、でも、あまりベタベタしたら嫌われるよね。
うれしいな。うれしいな。うれしいけど、もし遼くんに見つかったら……。
私はウキウキしたかと思えばふと落ち込んだりして、忙しなかった。
フロアのみんなはびっくりしたかな。金曜に襲われた人が、月曜にこれだから。
「ハルカ、なんかあったか」
昼休み、部長がみんなを代表して怪訝そうにたずねてくれた。
「アキノくんの下のお部屋が空いてるらしくて。大家さんにきいてくれることになりました」
「おおー、アキノんちかあ。一度行ってみたかったんだよな」
「いや、下の部屋ですよ」
「変わんねーって。どうせお前んちにも泊まりに行くんだから」
「そうなんですか?!」
「うん。月の半分は俺の部屋にきてよ」
部長はニコニコして言った。部長の用事も片付きつつあるのかな。
「アキノ大丈夫か? こいつ命狙われてんぞ」
部長はデスクに座るアキノくんにわざと冗談めかして言った。
「俺ああいうの許せねー性質なんで。望むところす」
アキノくんは口の端だけで笑って。メガネの奥の瞳がつよく光った。
私の好きなアキノくん