絵空事
まだ読んだこともないのに、俺はBLが嫌いだった。日陰者だと思ってたのに、いつの間にか市民権を得て書店の棚にまで並ぶようになったBL。女みたいな顔した男同士がくっつきあう独特の表紙。なんで流行ったんだ? 何が楽しいんだ? 俺には、わからない。
「まあそう怒るなよ」
イライラしてグッとビールを飲み干す俺を、奴はいつもニヤニヤ笑って眺めていた。
「擬人化みたいなもんだよ。一種のファンタジーさ」
親指でスマホゲームをいじりながら、気の抜けたビールをちびちび傾ける。
「恥じらって耳まで赤くする男なんているわけねーだろ? しかも男に告られてさ」
男が男に告白されて嬉しいわけがねえ。俺にはわかっていた。
「同性愛者でも、まして男ですらねー奴らの描いたもんなんて」
部外者の妄想じゃん。弄ばれてる気がして。悔しかった。
「まあそう言うなよ」
単なる遊びさ、と奴はあたりめをかじりながら笑った。
「エロ本と同じだよ。あんなエロい体でサービス満点な女、いるわけねーだろ? 現実逃避だよ」
「でも俺ら、昔カップル認定されて迷惑しただろ」
「あれな」
奴はデカい体を折り曲げてくっくと笑った。
「あれはマジ迷惑だったわ」
「現実に当てはめてくるからムカつくんだよ」
男はエロ本見たってせいぜい頭ん中でイメージする程度なのに、女はBL妄想を実際に当てはめてくるから困る。本当、迷惑したよ。そんな現実、あるわけねーのに。
「うちの嫁もよくやってるわ。ネタ探しだと」
「お前の嫁BL作家だって噂、マジなの?」
「ああ。駆け出しだけどな」
「お前も手伝ってんの?」
「まさか」
俺は字も絵も描けねーよと奴は笑った。
「ただ、こうしてたまに飲み行って、締め切り前の嫁を一人にしてやるくらいのことはするけどな」
めちゃくちゃ愛されてんじゃん、お前の嫁。
「締め切り前って、嫁妊娠中じゃなかったのかよ」
「ああ、8か月だからまだ描けるとか言ってたぜ」
家事はまた俺かなー、と言いつつ、奴はメニューを追加するため腕を伸ばしてタッチパネルに触れた。
「お前何食う? つくね好きだったよな。俺いももちと軟骨入れるわ。たこわさもいいなあ。ビールまだいるよな?」
「ああ」
奴は手際よく追加注文を入れ、飲みかけのジョッキを空けた。
「お前昔から全然変わんねーな」
「何が?」
「体型だよ。俺なんか腹出てきてやべーわ」
奴は軽くぼやきながらスマホを持つと席を立った。
「わりい、嫁が電話しろっつーから」
上着片手に店を出て、外で話すらしい。愛されてんだな。嫁の妊娠中浮気する男は多いと聞くが、奴にそんな気配は微塵もなかった。嫁を一人にしてやるため、たまにこうして男の俺と飲むくらい。羨ましいと思った。そんなに愛されていることが。ガキを産んで一緒に育てて、奴を父親にしてやれる。嫁が妊娠した! って連絡してきたあいつの顔、忘れられないよ。お前の嫁はよくやってる。
「原稿上がりそうだから帰ってこいとさ。人使いの荒えこと」
言いながら元通り俺の前に座ると、今来たビールに口をつけた。
「帰んなくていいの?」
「お前と飲んでんのに途中で帰れるかよ。いももちも食いてーし」
みなまで言い終わらぬうちに、ハフハフしながら、奴は焼きたてのいももちにかじりついた。
「BLっつってもピンキリなんだよな。案外いい話もあったりすんだわ」
「そりゃまあ、な」
「まあ無理には勧めねーけどな。やっぱ不自然だから」
「不自然?」
言ってから、つい強い語気になりはしなかったかと、俺はヒヤリとした。
「ああ。やたらセリフがなげーしキザだし、一晩添い寝して何もねーとか。こいつEDかよって思うわ」
「男相手に?」
「だって同性愛者なんだろ? 好きな女が隣で寝てると思えばさ」
女ってホントわかってねーよな、と言って奴は笑った。女と思えば、か。
「18禁じゃねーからだろ」
「そうそう。エロなしってのがもう、無理あるよな」
エロなしの恋愛なんてありえねーよなあ? と言って奴はまた笑った。
「だからファンタジーなんだよなあ。どこまで行っても綺麗なままの、絵空事さ」
「そうだな」
絵空事という言葉が居酒屋の喧騒の中、宙に舞って踊るように見えた。どこまでいっても絵空事。現実じゃ起こりえない。
「嫁さんの本できたら、今度読ませてよ」
「マジで?」
「出てくる男がお前をモデルにしてるかと思うとウケるし」
「そんな目で見んなよ」
奴は笑って、でも嫌じゃなさそうだった。大事な嫁の作品だもんな。
「俺のほうが飲んだのに。わりーな」
「出産の前祝いだよ」
俺の奢りで店を出る。
「じゃあな!」
奴は片手を上げるとどこまでも爽やかに、後腐れなく去っていった。子供好きだからな。奴なら良い父親になると思う。
◇◇◇
俺はBLが嫌いだった。ただの嫉妬なのかもしれないな。架空でも、恋愛している人間への。こんな気持ちになるなら、友人すら辞めるべきかもしれなかった。俺の本音なんて奴にはホラーだ。思いを知られたら終わる。
BL恨んでも無意味だよな。作り話なんだから何描いたっていいに決まってる、頭ではわかってんのに。感情がついてこない。俺も異性愛者に生まれてたら。もっと心からあいつの幸せを喜べたかな。あいつの隣で笑う、あいつの嫁が羨ましいよ。俺も同じ舞台に立って競い合って、あいつに選ばれたかった。表向きは笑顔作って裏では嘆息、でも仕方ねえ。BLなんて一行だよ。あいつの幸せを俺が泣けるわけねえ。それだけ。
夜の人波に流されるように、あてもなく歩いた。世の中嘘ばっかだよなあ。綺麗な虚構が世界を救って、金になって、みんな癒されて幸せに笑ってる。BLって嘘は必要とされて、非現実的で、他人事で。俺の気持ちも全部架空にしてくれる。
俺の方こそ、見ているだけの部外者だった。奴は仕事の傍ら家事育児を分担して、嫁さんは嘘だらけの美しいBLを描いて、家族みんな笑ってて。それが、現実。
足を止めると、その場から動けなくなって。アプリを起動して、すぐ会える人を探した。会話なんて要らなくて。嘘でもいいから、抱きしめてくれる人を探していた。
絵空事