絶望のmobマリア
01 伝説の勇者
夕暮れの最後の光が聖堂に長く差し込んで、暗い壁面のステンドグラスを七色に輝かせました。私が一日で一番好きな時間です。
「夕べの祈りを捧げましょう」
神父さまがそうおっしゃるので、私は祭壇に供えられた長いろうそく一つひとつに火を灯しました。全てのろうそくに火をともすと、神父さまが厳かな声で聖句を唱えて下さいます。私は祭壇の前にひざまずき、両手を組んで目を閉じると、静かに祈りを捧げました。いつもと同じ、静かで穏やかな時間が流れます。
私はこの生活が好きでした。
夜明けとともに起床し、朝の祈りをささげ、聖堂のお掃除と鶏たちの世話。早めの昼食をとった後、畑仕事や縫い物。祭服と布類のお洗濯。墓地のお掃除。日が暮れると夕べの祈りをささげ、晩餐を頂き、身を清め、床につきます。
私はしがない修道女でした。この古い聖堂を、神父さまとともに、静かに守って一生を終える身です。
私はこの生活が好きでした。ずっとずっと、このままで良かったのに……。
私が平服に着替え、枕元の明かりを消して床に就こうとしていると。私の部屋を「トントン」と、乾いた音でノックする方がおられました。
◇◇◇
どうなさったのかしら、こんな夜更けに……。
神父さまでしょうか。こんな時刻に用件を申し付けられたことはないのにと、私は不思議に思いました。肩に粗末なストールを羽織ると、おそるおそる、部屋のドアをお開けします。古い木戸がきしみ、ギイ……と鈍い音が響きました。
「マリア、君に来客だ」
神父さまはいつもの穏やかな笑顔で、でもはっきりとおっしゃいます。小さな手燭を持っておられますが、揺れる炎に照らされた神父さまのお顔は影が色濃く見え、妙に怖く感じました。
「わたくしにお客様、ですか……?」
私は初めてのことにどうしてよいかわからず、ただ困惑してしまいました。
「身なりはそのままで良い。お待たせしないように」
神父さまがそうおっしゃるので、私はベールを被って髪を隠すと、神父さまのあとに従って、狭くて暗い階段を降りました。
◇◇◇
「ここがさびれた聖堂か。へんぴな場所だなあ」
お客様はすでにアーチ型の重いドアを押し開け、聖堂に入っておられるようでした。暗い聖堂に若い男性の声だけが響きます。
私は急いで、聖堂の壁にある大きな燭台に火を灯してゆきました。お客様は礼拝者のための長椅子にどかっと腰をおろし、足を組んで座っておられました。傍らには抜き身の大剣が置かれ、鋭い刃の芯がホタルのように、明滅しながら青く光っております。
「やあ、マリア! 会いたかった!」
私がおずおず近づきますと、その方はまるで旧知の仲であるかのように私の名を呼ばれ、ニコッとお笑いになりました。
赤みがかった金髪に淡褐色の瞳をした、眉目秀麗な男性です。まとう衣服は上等で、甘い香水もほのかに漂い、高貴な方のようでした。
その方はしばらく私を見つめておられましたが、私のすぐ後ろに立つ神父さまに目を移した途端、
「ずいぶん若い神父だな」
スッと表情をお変えになって、神父さまを鋭い視線で睨まれました。お客様と神父さまの間に張りつめた空気が流れ、はさまれた私は緊張し、息をひそめておりました。
◇◇◇
「ご用件はなんでしょう」
神父さまは、お客様に睨まれても意に介する事なく、いつもの微笑で問われました。
「あんたには無いよ。マリアと話がしたい」
お客様はそっけなくそう言われると、神父さまを無視して、私の顔をじっと覗き込まれます。私は立ったままでは失礼になるかと思い、持っていた手燭を床に置くと、お客様から少し離れてひざまずき、目線を下げました。
「君がマリアだね。さびれた聖堂の修道女マリア。主人公が立ち寄る小さな村に建つ唯一の教会。発生イベントも特に無し。ただの背景だ」
お客様はすらすら話されると、「喉がかわいた。何かくれないか」とおっしゃいました。
「ぶどう酒をお出ししなさい」
神父さまがそうおっしゃるので、私はご祈祷に用いるぶどう酒を瓶から錫の杯に半分ほどついで、お客様にお出ししました。
「ありがとう」
お客様は私から杯を受け取ると、ぶどう酒をごくごくと一息に飲み干されました。そして、
「俺は伝説の勇者だ。この世界を危機から救った。世間知らずの君たちは知らないだろうがね」
誇らしげな口調で語り始めました。
02 神などいない
世界の危機……?
私がなんと返事してよいのかわからず口をつぐんでおりますと、
「この世界には、人類を破滅に追い込む魔物がウヨウヨしていた。俺はこの魔剣と特殊能力でそれらを退治したってわけだ。住民たちには当然感謝されたよ。今じゃどこにいっても俺を知らぬ者はない。毎晩歓迎歓待で、引っ張りだこさ」
勇者様の傍らに置かれた青い魔剣は、そう話す最中も息をするようにゆっくり明滅しておりました。まるで、この剣自体に命が宿っているかのようです。
私は魔物や魔剣という言葉も初めてききますので、半信半疑で、すこし薄気味悪く感じました。遠い遠い異国には、空飛ぶ竜や火を吐く獣がいると、噂話に聞いたことはございましたが……。
「君がそう疑うのも無理はない。ここは初期の初期に立ち寄る村で、被害も最小限だったからね」
勇者様はそんな私の心を読み取ったかのように、フフと笑って話されます。
「すべての戦いが終わり、王から報酬を尋ねられた俺は、美しい王女を娶ることにした。半月後には婚礼だ。だが俺には一つ気になることがあってね。夜更けに悪いが、こうして寄らせてもらったわけだ」
勇者様は座る足を組み替えると、髪をかきあげ、膝の上で両手を組んで、ひざまずく私を見おろされました。
◇◇◇
「マリア、君の身体を貰い受けたい。なに、2、3日でいい」
私は勇者様のおっしゃる意味がわからず、心臓が止まったかのように、しばらく息もできませんでした。右手の指先がかすかに震え、それを隠そうと左手で必死に押さえます。
「マリアは修道女ですが」
神父さまのお言葉が、暗い聖堂に低く、重く響きました。
「わかっているさ。でもバレやしまい。俺・た・ち・さ・え・、・黙・っ・て・い・れ・ば・ね」
勇者様は不敵な笑みを浮かべると、
「タダとは言わない。金品でもいいし、この聖堂を見違えるほど美しく改修することも、教会内で重い地位に格上げすることもできる。将来王になる俺にできないことは無いんだよ」
とおっしゃいます。
「俺の功績はこの世界では不動のものだ。誰も逆らえない。魔物だって、倒したもの以外に封印したものもいる。封印を解くことだって不可能じゃない」
そう言いながら傍らの魔剣を撫でると、剣も青く光って呼応致します。その剣の中に魔物が封印されているような気がして、私は言いようのない恐怖を感じました。
「マリア、君の処女性には何の魔・術・的・必・要・性・もなければ、価値もない。君は主人公との会話すらないただのモブで、さびれた聖堂を背景にただ微笑むだけの存在だ」
勇者様はそうおっしゃると、憐れむように私の目を覗き込みました。
「君の行動範囲はこの聖堂を出ることはない。広い海、果てなき大陸、極彩色の詠唱陣すら、君は一生見ることはない。毎日毎日同じ生活を続けて、男も知らず死んでいくだけ。本当にそれで満足か?」
勇者様の口調はあくまで優しく諭すようでいて、私の身体にまとわりつくような粘性の余韻がありました。
「この世界に神がいるなら、なぜ魔物の跋扈を許した? 俺がいなければ今頃どうなっていたことか。君が毎日必死に捧げる祈・り・とやらは、本当に効いてるのか?」
神がいるなんて大・嘘・さ・、と勇者様は吐き捨てるようにおっしゃいました。
「俺は宗教なんて大嫌いだ。宗教に逃げるやつも、広めるやつも、すがるやつも同罪だ。宗教なんざ何もしない奴の言い訳さ。マリア、お前もそうだ」
勇者様はスッと席を立つと、私の方に歩み寄り、私の二の腕をつかんで強引に立ち上がらせました。
「神などいないよ。誰も、罰しやしない」
酒臭く甘い息が耳元にかかり、私は青くなって首をすくめました。
「手荒な真似はよして頂きたい」
この様子を見かねたのか、今までずっと黙っていた神父さまが私と勇者様の間に割って入って、つかまれていた私の腕を振りほどいて下さいました。
「貴殿のような乱暴な輩が勇者とは到底思えない。お引取り願いたい」
「信じないならそれでもいいさ」
勇者様は軽い所作で青く光る魔剣をつかむと、暗い聖堂をコツコツと歩かれます。
「しばらくこの村に滞在してやるから、村人たちの様子をよく見るがいい。俺の言葉の意味が分かるはずだよ」
アーチ型の重いドアを開け外に出ようとする瞬間、勇者様はくるりと私の方に振り向きました。
「また来るよ。小さなモブさん」
秀麗なお顔に余裕の笑みを浮かべて。勇者様は聖堂を去ってゆかれました。
03 単なるモブ
寝床に入っても眠れずに、私は寝返りばかり打っておりました。夜陰に鶏の鳴き声が高く、長く響きます。私は夜明けを待てずに服を着替えて、朝のお勤めに移りました。眠気と疲れが重なって、どうしても気分が沈みます。
「村の人々に会って、昨日のことを確かめてきます」
神父さまは朝のお祈りを終えるとそうおっしゃって、村へでかけてゆきました。私は井戸端で洗濯しながらその手もつい止まりがちで、昨日勇者様から言われた言葉を繰り返し、頭の中で考え続けていました。
神など、いない。本当に、そうなのでしょうか……。
私たちの生活も祈りもすべて無意味で、勇者様の魔剣と特殊能力だけがこの世界を救った。そうなのかもしれません。私は魔物に困らされたことはないし、魔術というのも訓練を受けたごく一部の方の持ち物だと思っていました。自分には関係のない話だと……。
私は今までこの世界のことを何一つ知らなかったし、知らないことに何の疑問ももってはおりませんでした。私はただ、自分の身の回りが静かで幸せなら、それでいいのだと思っていました。私は、無責任すぎたのでしょうか……。
◇◇◇
「マリア」
聞こえるはずのない声が背後から聞こえて。私は驚きのあまり、振り向くことができませんでした。
「君の行動はいつもワンパターンだねえ」
いつの間にここにおられたのでしょう。勇者様は明るい陽射しの下で白い歯を見せてお笑いになると、私の前までやってきて、腕組みしながら洗濯する私を見下ろしておられます。
「このあと畑の水やりをして、破れた掛布の繕いものでしょう。俺も手伝ってあげようか」
私はすすぎ終わった衣類をぎゅっと絞ると、急いでこの場から離れようとしました。勇者様は足早に歩く私の後ろをおかしそうについて歩くと、私が濡れた洗濯物を木々に張られたロープに干そうとするところを、のんびり眺めました。
背の低い私にはいつもギリギリなのですが、今日は緊張のためかなお、背伸びしてロープに手を伸ばすのになかなか届かず、私は苦戦しました。勇者様は見かねた様子で私の手から濡れた洗濯物を奪い取ると、パンパンと伸ばして、次々干して下さいます。
私はお礼を言うことができなくて、ペコリと頭だけを下げて駆け出しました。どこかへ逃げなければならない。でもどこへ行ったらよいかわからなくて、私は困惑していました。
「逃げても無駄だよ」
優しいのによく通る声が、私の背後から常に響きました。私は走るのが遅いし、教会の敷地も広くはありません。
聖堂の中や居室へ逃げ込めばいいように思いますが、そのような閉鎖した空間でふたりきりになっては、それこそ逃げ場がないように思いました。私は走っているのに勇者様はせいぜい早歩きといった様子で、笑いながら、私のあとを追いかけてこられます。
「君はこの敷地内から出ることはできない。そのようにはプ・ロ・グ・ラ・ム・さ・れ・て・い・な・い・からね。君は神に祈り、すがるだけの存在だ。無力な……」
その時私は石につまずいて転んでしまい、しばらく動けずにいました。追いついた勇者様はそんな私に近づくと、しゃがんで優しく手を差し伸べて下さいます。
「そんなに俺が嫌いですか」
私は非常に困って、でも自力で立ち上がらなければと思い、差し出された手を避けて、両手で倒れた体を起こしました。
この方は、なぜこれほど私に執着なさるのでしょう。私など何の取り柄もない、どこにでもいる、ただのしがない修道女ですのに……。
私は悲しく思って、涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえました。私はただ、そっとしておいてほしいだけなのに。どうして……。
「君がしがない修道女であることはわかっている」
勇者様はやはり私の心が読めるのか、静かな口調でおっしゃいました。
「この世界で君をものにできる男は一人もいない。君はあまりにも出番が少なすぎるからね。でも俺は初めて君を見た時から、君のことが気になって仕方なかった。君の攻略ルートが存在しないことを恨みさえした。君は単なるモブだが、俺にはとても魅力的に思えるんだ。昨日初めて会って感じた君の慎み深さ、怯え、憂い、惑い、すべてが俺にとっては魅惑的で、美しい」
話しながら、勇者様にじわじわと物置小屋の壁際に追いやられて。私は背に冷たく硬い石が当たるのを感じました。
04 絶望的な運命
「君はこの世界でいつまでも、ひとりぼっちで生きていくつもりなの? いないかもしれない神に祈りながら、ひとりで」
いないかもしれない、神……。
私の心は、神さまのことを言われるとひどく痛みました。
「もう今までの役割に縛られなくていいんだよ。この世界は俺が変えたんだから。俺に触れた人々は、ただの村人たちだってみんな変わっている。今まで行けなかった場所へ行き、会ったことのない人々と出会い、人生を変えていってるよ」
勇者様の指先は、私の黒いベールを今にも脱がしそうでした。冷たい石壁に手をついてもたれながら、勇者様は上半身をかがめて、背の低い私に語りかけます。
「別に俺と連れ添わなくてもいいんだよ。君の初めての男になれれば。思い出になれれば、それでいい。こんな機会、もう二度と来ないかもしれないよ。修道女に手を出すなんて、この世界の気弱な住人たちじゃまず無理だろうからね」
別に変わらなくたっていい。私は一生、このままでいいのに……。
私は下を向いたまま、ぽろぽろ涙をこぼしました。石壁にもたれ、私を閉じ込める勇者様の腕をなんとかくぐり抜けて、聖堂の方へとぼとぼ歩きながら、両手で交互に、涙をぬぐいます。
「君がどれだけ神を愛しても、神は応えてはくれない」
勇者様の声は、私の絶望的な運命を予言するかのようでした。
「かりそめにも君を愛せるのは、この世界で俺しかいない。今にわかる」
私は重いアーチ型のドアをなんとか押し開けると、薄暗い聖堂に身を滑りこませ、力なくその場にしゃがみこみました。
「マリア、そこにいたのですか」
神父さまはそんな私に気づいて駆け寄って下さると、
「顔色が悪いですね。奥で休みましょうか」
私の手をとって、ゆっくり歩いて下さいました。
◇◇◇
私は聖堂の二階にある神父さまのお部屋の寝台に腰掛け、休ませてもらいました。神父さまが私のために、温かいお茶を淹れて下さいます。
「先ほど村から戻ったのですが」
神父さまは、私がすこし落ち着きを取り戻したのを確認しながら、ゆっくり話されました。
「結論から言うと、あの者の言うことは正しかったようです。あの者はたしかに勇者で、この世界を救ったともっぱらの噂です」
私はやっぱりと思いながら、暗い気持ちでうなずきました。あの方は私の心を読んでいると思います。やっぱりなにか、特殊な力をお持ちのようです。
「あの者は、村の皆からの評判はとても良いようです。そして、すこし言いづらいのですが……」
神父さまはしばし言いよどんだ後、
「マリアは孤児で、村の誰もが養えず仕方なく修道女にさせたのだから、勇者さまがもらって下さるなら願ってもない話ではないか、と言っていました」
私はお茶を飲む手を止めて、カップの中に浮かぶ自分をしばらく見つめていました。自分が孤児であるということも、私には知らなかったことでした。物心ついたときには神父さまと共に、祈りの生活を送っていたからです。私はこの生活が自分にあっていて、幸せだと思っていました。でも村の人々は、私の祈りを必要とはしていないようだと私は悟りました。
「あの者が君とのことを民に触れ回っているようで、皆もすっかりその気になっていてね。私に祝いの品を持たそうとする気の早い村人もいたほどだ。マリア、君は……。あの若者のことは、嫌いかい?」
神父さまがゆっくり、噛んで含めるようにおっしゃるので、私は困って、しょんぼりしてしまいました。村の皆も歓迎するようなことを、どうして私一人の意志で拒否できるでしょう。
「これが、運命なのでしょうか」
王女様と結婚なさるとおっしゃる方が私などに手を出して、本当にいいのでしょうか。私は神さまを裏切るばかりか、王様の怒りもかって、処刑されてしまうのでしょうか。
「君の不安ももっともだ。ただあの者は世界中に愛人を持っており、それを咎め立てられることも無いらしい。まさに英雄色を好む、ということのようだ」
「私が言うことを聞かなければ、教会やこの村も危ないのでしょうか」
私は一番気になっていたことを神父さまにお尋ねしました。恐ろしい魔物の封印が解かれたら。世界はまた、混乱に陥ってしまうのでしょうか。
「わからない。そこまで非道でなはないと信じたいが……」
私は神父さまのお返事をききながら、急に気が遠くなるように思いました。昨夜からほとんど眠れず、まぶたが鉛のように重く感じます。
「とりあえず、すこし休みなさい」
神父さまがそうおっしゃって下さるので、私はお茶のカップを小さなテーブルに置いて、靴を脱ぎ、寝台に横になりました。自分の居室で休むべきでしたのに。私はあまりにも眠くて、何も考えられないのでした。
05 ただの、ゲーム
ふと目覚めると真っ暗で、私は夕べの祈りも忘れて眠ってしまったことに気づきました。すみません、神さま……。
私は寝台から起き上がると、灯りをつけようと手燭を探しました。そこに誰かの話し声が聞こえて。私は裸足のまま手探りでドアの前まで歩み寄ると、そっと耳をすませました。
「寝ている間なんて嫌に決まってんだろ。処女だぞ? 反応を楽しまなきゃ」
勇者様の声でした。誰かとお話しているようです。
「王女との婚礼は想定外だったが、まあいい。あとはお前の好きにしろ」
私は鼓動が早くなるのを抑えるのに必死でした。誰と、話しているのでしょう……。
私はもっと話を聞きたいあまり、かなりドアに寄りかかってしまっていました。ですからドアが向こう側から突然開いた途端、自身の重みでグラリと床に倒れこんでしまいました。
「盗み聞きとはいい趣味してるね、お嬢さん」
◇◇◇
部屋の外には勇者様がおられました。そして、もうひとりは……。
「言い忘れてたな。この聖堂の神父はもともと白ひげの爺さんなんだ。ところが今ここにいるこいつはこんな外見だ。意味、わかるかい?」
私はぼんやりした瞳で神父さまを見上げました。神父さまはゆるくウェーブした黒髪に灰色の瞳をお持ちの、若い方です。
「こいつも転・生・者・なんだよ」
転生者……。転生者とはいったい、何者なのでしょう。どうして次々と私の前に現れるのでしょう。
「もっと後から正体を明かそうと思っていたのに」
神父さまは残念そうに微笑まれると、床に座り込んだ私の頭を優しく撫でました。
「僕は処女にはあまり興味ないんだよね。寝取って、仕込むほうが好きだから」
にっこり笑って言うその言葉があまりにも怖く、私は逃げなければならないのに腰を抜かしてしまっていました。今夜の絶望は終りではなく、始まりにすぎないのかもしれません。
どうしよう、逃げなきゃ。でも逃げるって、どこへ行けばいいの……? 村の人も、神父さまですら、私は勇者様と結ばれればいいと思っている。
私は床に座りこんだままなんとか後ずさりして、部屋の方へ戻りました。勇者様は神父さまと目を見合わせてちょっとお嘲笑いになると、
「そうそう、ベッド、いこうね」
震える私を子供のように立ち上がらせて、もといた寝台へ座らせます。私は人形のように固まって、声も出せませんでした。
「そんなに怯えなくても。殺しやしないよ」
勇者様は上機嫌に笑って私の隣に座ると、腰に手を回しました。その指先が怖くて。触れられた箇所から冷たい石になっていくような気がします。
「その表情、いいねえ。めちゃくちゃそそる」
勇者様が私の顎をくいと持ち上げ、顔を近づけようとするので、私は必死に背きました。すると体重をかけて押し倒され、両手首をつかまれて、私は完全に動けなくなってしまいました。ずれてしまった修道帽から長い髪がこぼれ、勇者様の眼は獣のように光って、夜でも視えるようでした。
「この世界は何なのですか……? この、世界は……」
私は涙声で、やっとそれだけを尋ねました。今まで平穏で幸せだった私の世界は、どうなってしまうのですか……?
勇者様は私の髪に顔をうずめてゆっくり匂いを嗅ぐと、耳元で低く囁きました。
「遊びだよ。ただの、ゲーム」
◇◇◇
勇者様の唇が私の喉に触れそうになって、私はもう終わりだと思いました。
神さま、ごめんなさい……。私の罪をお赦し下さい。
非力でも、できる限りの力で抵抗すればよかったのに。私の手足は空を切って、まったく勇者様には当たりません。まったく、暖簾に腕押しで……。
上に乗っていた勇者様の重さも感じられない気がして、私はおそるおそる目をあけました。星明りしか頼りにならない部屋でしたが、私に乗っていたはずの勇者様は跡形もなく消え、私の他には誰も、ねずみ一匹いませんでした。
私は驚いて寝台から身を起こすと、辺りを見回しました。勇者様は何か用事を思い出し、部屋の外に出られたのでしょうか。
私は帽子を直してよろよろ立ち上げると、火の消えた手燭を持って部屋のドアをあけました。廊下には神父さまが見張っているかもしれないのに。廊下の灯が欲しくて仕方なかったのです。
不思議なことに、廊下にも誰もいませんでした。私は狐につままれたような気がして。壁の燭台から手燭に火を移すと、しばらくぼんやりしておりました。
06 御心のままに
”マリア! マリアよ!”
その時、突然私をお呼びになる声がきこえて。私は暗い天井を見上げました。その声はすぐ耳元できこえるような気がしますのに。とても遠い所からの声のような気もします。
”祭壇に火を灯せ”
私は謎の声の仰せのままに、暗い階段を降りて聖堂へ向かうと、長い祭壇のろうそく一つひとつに火をつけました。そしていつものようにひざまずいて祈ると、とても心が落ち着く気がしました。あの方たちに乱される前の平和が、戻ってきたかのような……。
”転生者は消去した”
天からの声は厳かに、私に事実を告げました。
”これにより、転生者と関わった全ての痕跡も消える”
消える……。人を、消してしまったのでしょうか。私は神のみ手の恐ろしさに身震いがしました。あの方たちはどうなったのでしょうか。どこか別の世界へ、行ってしまったのでしょうか。
「でも、良かったのですか……? あの方はこの世界を救った勇者だと」
私はそれだけが気になって、思わず尋ねてしまいました。恐ろしい魔物を封印したとおっしゃっておられましたが。
”無害な魔物を殺め、救世を偽装した。罪は重い”
天の御声は厳しい口調で、理由を教えて下さいます。
私は、神さまが本当に居てくださったのだという喜びと、なぜ今の今まで助けてくださらなかったのかという悲しみで、胸が締め付けられるような気がしました。
「なぜ今まで……来てくださらなかったのですか? 転生者とは何ですか? この世界は作り物なのですか? 私の人生は……ゲームなのですか……」
私はほとんど一息に、絞り出すように尋ねました。最後のほうは涙声になって、うまく言葉が継げません。
”たしかにこの世界は、私が創った”
”更新が重なり、プログラムに齟齬が生じて、転生者が発生した”
”救助が遅れて、すまない”
あまりにもあっさり謝って下さるので、私は申し訳ないやら悔しいやらで、ひざまずいたまま、スカートの裾をぎゅっと握りしめました。
「私のことも、神さまが創って下さったのですか」
”そうだ”
「台詞もないのに……」
”気に入った人物なので、物語に入れたくなかった”
「???」
私が首をかしげると、神さまも黙っておしまいになりました。
「でも、ありがとうございました。もう、ダメかと思いました……」
私は大切なことをお伝えしていなかったと思い出し、今さらですが、長い祭壇に向かって深く頭を下げました。
”そなたの望みを言え”
急に厳かな口調に戻って御声がそうおっしゃるので、私はしばらく黙ってしまいました。
”平凡な女の幸せか”
私は先程までのことがあまりにも怖くて、この先男性と結ばれるのはちょっと難しい気がしました。私の望みは、以前のような穏やかな生活に戻ることだけです。でも、本当にそれでいいのでしょうか。私は神さまをお慕いしておりますが、今までのように自分の世界に閉じこもり、ただ祈っているだけでいいのか、わからなくなっていました。
「御心に、おまかせいたします」
私はさんざん考えた挙げ句、目を伏せて、やっとそれだけを申し上げました。この神さまにお任せしていいのかどうか、若干不安ではありますが……。何の力もない私がこの世界で何をすべきなのか、どうしても思いつかなくて。ただただ、創造主のお力にすがります。
神さまはなんの返事もなさらず、黙っておいででした。どこか遠くから私を見守って下さっているような、そんな気配を感じます。私は両手を組んで、そっと祈りました。やがて祭壇の火は風もないのに、いっせいに消えてしまって。私はもう二度と、神さまの御声を聞くことはできなくなってしまいました。
◇◇◇
私は自分の居室に戻ると、寝台にドサッと身を沈め、泥のように眠りました。何も考えることができなくて。
「マリア! マリアや!」
次の朝、だいぶ日が高くなってから目を覚ますと、階下から私を呼ぶ声がしました。年老いた、お爺さんの声です。私は居ても立ってもいられなくなって、昨日の服のまま階段を駆け下りました。
「どうしたんじゃ、そんな格好で」
神父さまは呆れながらも笑って、私を見つめて下さいます。髪も眉毛も真っ白で、白いお髭が口を隠して胸元まで伸びていました。
そうです。そうでした。この方が私を育てて下さった神父さまでした。私は興奮して神父さまに抱きつくと、両手を握ってぶんぶん振ってしまいました。あまりにも久しぶりに会う気がして。涙がこぼれそうになります。
「今日は村の人たちが礼拝に来るから、準備なさい」
神父さまが笑ってそうおっしゃるので、私は慌てて新しい修道衣に着替え、聖堂を掃き清めました。
「村で子ヤギが生まれてな、教会にも一匹下さると言うんじゃ。草も食べるし飼うには良いと思うんじゃがな」
「はい、素敵ですね!」
私は嬉しくなって、聖堂の長椅子を布で磨き上げながら答えました。村の方とお話できるし、かわいい子ヤギにも会えるし……。今までよりすこし楽しい日常が始まりそうな気がして。私の心は明るく、ウキウキしておりました。
絶望のmobマリア