朱雀と弟
001 申し訳ありませんでした
春風がさっと御簾を吹き渡って、爽やかな午後だった。俺は「絶対似合うから」と女房に太鼓判を押された深紅の衣で身じろぎもせず座りながら、その人を待っていた。緊張、する。きっと怒っている。でも態度に表すような人じゃない。だからこそ、申し訳なくて仕方ない。
母の目を逃れて光る君をお招きするのは大変だった。母は俺と光る君が付き合うことをとても嫌う。俺は三歳下で、母違いの弟であるこの人とちゃんと話したことがなかった。光る君に会いたいという文も、また違う異母弟である蛍に頼んで取り次いでもらった。本当は俺のほうから光る君の所へ出向くべきだけれど、そう目立つことをすると母がカンカンに怒って光る君に害が及ぶかもしれないので、ずっとできなかった。
サラサラと軽い衣擦れの音がして誰かが歩いてくるのがわかった。ふたりいる。来たのかな。俺は目を閉じて深呼吸した。人払いはしてあるけれど。やっぱり緊張する。
「すー兄、おまたせー」
蛍は立ったままいつもの気さくな調子で御簾をちょっと持ち上げると、俺に目配せした。
「入っていい?」
「うん」
「光もどーぞー」
蛍が持ち上げる御簾をすこしかがんで避けると、光る君は入ってこられた。背が高い。はっとするほど美しくて、しばし息をのむ。遠目からお見かけしたことはあったけれど、間近で見るとすごい迫力だった。抗いがたい吸引力をもった輝きで、「光る君」というのは本当に言葉通りなんだと悟った。
「お忙しいのに、お呼びだてしてすみません」
「いえ」
光る君は俺の前に、臣下のように目を伏せて座られた。蛍もその横で、興味津々といった様子で俺たちを見ている。俺は高い座から下りると、二人と同じ床に座り直した。
「今日は、その……どうしてもお話したいことがあって」
光る君は春宮である俺が座を下りて近づいたのが意外だったのか、俺をじっと見つめられた。三歳下という感じはしなくて。綺麗だけれど落ち着いた、大人の顔をされていた。
「お母様のこと、本当に、申し訳ありませんでした」
俺は床に手をつくと、下げられる限り頭を下げた。結っていない髪が垂れて床につく。
「そんな。どうかお顔を上げて下さい」
光る君は驚いて腰を浮かすと、俺に手を差し伸べてくれた。
「母のしたことは許されないことで、お詫びのしようもありません」
頭を下げながら、悲しくて仕方なかった。母にも優しい所はあるのに。どうしてあんな酷いことをしてしまったのだろう。
「貴方のせいじゃないですよ」
光る君は優しくて、俺を慰めてくれた。
「母は身体が弱かった。仕方なかったんです」
悲しかった。俺は、もう誰にも死んでほしくなかった。
「俺、出家しようと思うんです」
「えっ」
「何?!」
おもむろにこう切り出すと、今までのやり取りをニヤニヤしながら見ていた蛍までもが驚いて立ち上がった。
「俺がいなくなればあなたが春宮になれます。その方が父上もお喜びになるし、この国のためにも良い気がして」
事あるごとに光る君と比べられても俺は苦じゃなかった。彼のほうが全てにおいて優れている。御所の人は皆そう噂したし、俺自身もそのことは良くわかっていた。
「いくら春宮様の仰せでも。それはいけません」
光る君はしばらく黙っておられたが、やがて落ち着いた口調で仰った。優しいのに有無を言わせぬ響きだった。
「俺を臣下にするのは父上がお決めになったことで、春宮様とはいえそれを覆すのはよくありません。それにそんなことをされては、今まで可愛い息子を帝にしようと頑張ってきた弘徽殿さんの努力が水の泡じゃないですか。それは可哀想です」
光る君が母のことを気遣って下さるので、俺は驚いてその目を見つめた。綺麗な深い瞳で。
「母の死も無駄になりますしね。今度こそ俺が殺されかねません」
光る君は悪戯っぽく目を細めて、俺を見つめて下さる。
「そうか……」
俺はなんて浅はかだったのだろうと気づいて嘆息した。
「すみません。俺、自分のことしか考えてなくて」
「いえ。お気持ちだけありがたく頂戴します」
すごいなあ。格が違うんだ。俺は自分が恥ずかしくなって目を伏せた。出家してこの場から去ればラクになれると思っていた。遺された人のことをちゃんと考えていなかった。
「もっともらしいこと言ってるけど、光はただ帝になりたくないだけだよ。帝なんてお人形みたいに良い子にしてなきゃいけないし、自由に出歩けないしさー」
蛍がホッとしたようにその場に座ると冗談めかして言うので、場の空気が和んだ。
「お前だってそうだろ」
「そりゃそうだよ。地位も高くて金に困らない親王が俺の天職だからねー」
蛍はフフンと得意げに鼻を高くする。
「すー兄が全部引き受けてくれてるから俺たち遊べるわけで。いつもありがとね」
「そんなこと」
蛍にお礼を言われて俺はちょっと照れた。
「すー兄は雅だし優しいし、帝に適任だと思うよ。魑魅魍魎の跋扈する洛中へは出てこないほうがいいって。厳しい競争社会だからさー」
「お前褒めるフリしてちょいちょいけなすよな」
「だって俺とすー兄は仲良いし」
光る君は蛍の脇腹を肘で小突いた。蛍も負けじと応戦している。二人は歳も近いせいか、特別仲が良いみたいだ。
「こっちこそありがとね。蛍がいなかったら、今日こうしてお会いできてなかったと思う」
「お安い御用だよー」
俺が蛍にお礼を言うと、蛍は白い歯を見せてニッと笑ってくれた。
「あの、俺も兄貴って呼んでもいいですか」
蛍とじゃれ合っていた光る君が突然そう仰るので、俺は一瞬キョトンとしてしまった。
「蛍だけの兄貴にしとくのももったいないんで」
「はい、どうぞ。朱雀でもなんでも」
俺はコクっとうなずいて、ちょっと嬉しかった。
「この局で俺の味方になってくれそうな子も見つけとくんで。文も直接下さい」
「はい」
直接文のやり取りをしてくれるんだ。俺は感激して。この優しい弟と仲良くなれたことが純粋に嬉しかった。
002 気のおけない兄弟
それから何度か文を交わして、俺は光と仲良くなった。光は父上のお気に入りだからよく御前に呼ばれるし、左大臣の婿にもなっていて常に忙しそうだけれど。たまに俺に会う時間も作ってくれる。
「こんにちは……」
「すー兄、いらっしゃーい」
俺が控えめに御簾の内をのぞくと、中で待っていた蛍が元気よく手招きしてくれた。奥で光も待ってくれていて。
「ここは俺のいきつけの局だから。女の子も口堅い子ばかりだから安心してね」
蛍は俺の手を取って奥に引き入れてくれながら軽く目配せする。俺は若い侍女たちの裾を踏まないように歩くのが難しくてすこし緊張した。小さめの局だから二人との距離も近くて。兄弟三人輪になって座る。
「兄貴に会った第一印象はね、深窓の姫君って感じ。色白だし小柄だし華奢だし、女かと思った。むしろ女ならよかったのに。なんで女じゃないの?」
「えっ……なんかごめん」
なんでって言われてもと思って俺は当惑した。
「もったいないよね。顔は父上に似てるけどもっと優美だし。もったいないよ」
光がため息をつきながら二度も言うと、本当にもったいない気がしてくるから不思議だ。
「だからさ、すー兄は帝で良かったんだって。こんな頼りなさげな宮様のねーちゃんがいたら行く末が心配で仕方ないもん。宮様なんて降嫁も難しいし相手次第で没落するし。厳しいよ」
蛍は俺の肩をポンポンと叩いて、今度は男で良かったと言ってくれた。俺は褒められているのかけなされているのかよくわからず、あいまいに苦笑した。
「前も着てたけど、似合うよねその色。色白の肌に深紅が良く映えてる」
光は俺の衣にふれると、生地の厚みや肌触りを入念に確かめた。
「世話焼きの女房が見立ててくれるんだ。俺は全然、何着ても構わないんだけど」
「その髪も女房が伸ばせって?」
「ああ、これは」
俺の髪は肩を過ぎてみぞおちの辺りまであった。結って冠をかぶるには肩くらいあれば十分だと思うんだけれど。
「いやいや、これは俺のお願いなんだよねー」
蛍が俺の髪を手にとって得意げに笑う。
「綺麗だし、切るのもったいないじゃん? だから伸ばしてカツラ作ろうと思って。それを高貴で髪が薄くなってきた人に売ればさ」
「お前、春宮様の御髪を何だと思ってんだよ……」
光はさすがに呆れたのか、冷たい目で蛍を見た。
「美髪は貴重な資源だよ? 大切にしなきゃ。俺たちだっていつハゲるか」
蛍の言にはいつになく力が入っていて、俺はすこし笑ってしまった。
「それに綺麗だから伸ばしたら良いと思って。長いサラサラの黒髪を持つ帝、カッコいいじゃん」
「なるほど」
ふたりが同意するのでそんなものなのかなと俺は思った。光や蛍はオシャレな貴族だから着ているものもこだわりに溢れているけど、俺は自分の外見に関する要望はないので、いつも人から言われたものを言われた通りに着ていた。毎月なんやかんや祭祀があって、こういう日にはこれを着るって決まりもあるから私服を着る機会も少ないし。こういう点で春宮ってラクだ。
「蛍の髪型カッコいいね」
「でしょー?」
蛍が嬉しそうに笑うので触れて良かったんだと思った。俺たちは人前では髪を結って冠や烏帽子をかぶらないといけないけれど。今日の蛍は耳より上の髪を後頭部で一つにとめて、後ろ髪と共に垂らしている。
「なんか三国時代の人みたい」
「俺の武勇に気づいちゃったかー」
「兄貴の三国時代イメージ絶対間違ってると思う」
得意げな蛍を尻目に光は苦笑した。光の右耳にかけただけの黒髪も艶で美しい。
「だいたいその武勇をいつ使うんだよ、この京でさ。だいぶ戦してねえのに」
「意外と便利なんだよ。蹴鞠のときとか、琵琶弾くときもさー」
蛍は運動神経抜群で楽器もできるから羨ましいなと思った。下を向いたとき髪が落ちてこないのは確かに便利そうだ。
「そうだすー兄、髪型の決まりもう少しゆるくしてくれない? すー兄の御世でいいからさ」
「帝にそんな権限あるかな」
俺は自信がなくてあいまいに笑った。
「もっと活動的な髪型流行らせようよ。俺髪結うの好きじゃないんだよ、時間かかるし。乱れると直すの大変だしさー」
「言うほど乱れるか?」
「乱れるよー。だって俺キスが好きだし。首・か・ら・上・が・動・か・し・に・く・い・んだよ!」
「なんの告白だよ」
光は必死な蛍に苦笑しながらすっと視線を遠くにやると
「でもまあ確かに不便だから、俺が天下取ったら自由化するわ」
さらりと言った。
「何お前、その歳でもう天下取るつもりなの?」
「だって帝の子で左大臣後見まであんのに天下取れねえとか、雑魚すぎん?」
光は皇子だけれど父上のご意志で臣下にされていて、その父上のご恩寵で順調に出世していた。父上はただの親王じゃ心配だと思って、光にしっかりした地位と権力をつけてあげたかったんだと思う。
「政治家こえー。じゃ出世した暁には俺にもなんか利権ちょーだい」
「親王なんて日和見だからなあ。いつまで味方かわかんねえし」
「えー」
ぷうと膨れる蛍を笑顔でからかいながら、二人はどこまでも仲が良さそうだった。俺は気のおけない兄弟っていいなと思いながら、微笑んで二人を見ていた。
003 雨の日
「雨が降ってきたのかな」
サーという細かい雨音が聞こえて、俺は耳をすませた。今日は朝から降りそうだったからなあ。雨の日も風情があって嫌いじゃないけれど。俺がどこか懐かしい気持ちになって雨音をきいていると
「光! どこだー?」
廊下の方で今まで聞いたこともないような大きい声がして、俺は思わずビクリとした。ドタドタ歩く音がして、こっちに近づいてくるようだ。
「やべ。また来たよ」
光はそのきれいな眉をすこしひそめながら、すっと立ち上がった。
「ごめん兄貴。またね」
俺に謝り蛍に軽く目配せすると、急いで局を出る。ここは知られちゃいけない隠れ家なのかな? 俺は大きな足音が遠くに去るまで静かにしていた。
「今の人は?」
「あー頭中将さんだよ。光も大変だね、あんな小舅もっちゃって」
蛍は同情するように肩をすくめる。
「ほら葵さんっているじゃん、光が結婚させられた。その人の兄さんさ。葵さんが光の四つ上で、その兄だから五つか六つは上じゃない?」
「だいぶ年上の人だね」
「その人が大人気なく光と張り合おうとするからさ。光も大変みたいだよー」
俺はそっと光の身を案じた。とても声が大きかったけれど、身体も大きくて強いのかな。
「こんな雨の日に何の用だろう?」
「おおかた女の話でしょ。あの人達は年じゅうそればっかだからさー」
周りの侍女たちがクスクス笑うので、蛍はすこしムキになった。
「なんだよー。そりゃ俺だって女の人は好きだよ。でもあの人達と違って優しくしてるもん。あの人達は筋骨隆々に鍛えてるけど、しょせん好きな女を抱き上げて押し倒そうって使い道だし」
「えっ」
サラッとすごいことを言うので、俺は目を丸くして蛍を見た。
「すー兄なに驚いてんの。光だってああ見えて結構筋肉あるんだよ、抱・っ・こ・筋・がさ。小柄な女とかヒョイと抱き上げて連れ去っちゃうんだから。あいつ結構あくどいよ」
「すごいね」
蛍が袖をまくって引き締まった力こぶを見せてくれるので、俺は感心してうなずいた。
「貴族の恋路って大変なんだよ。裏切り、横取りも多いしさ。気に入った女ができても守るのが大変。結婚して囲えばいいようなもんだけど、光にはすでに左大臣から託された大事な大事な葵さんがいるしね。葵さんと結婚したせいで弘徽殿さんにもまた睨まれるし、大変だよー」
「睨むって、母が?」
俺は嫌な予感がして。思わず蛍に問い返してしまった。
「有名な話だよ。左大臣が光を婿に決めた時弘徽殿さんたいそうご立腹でさ。四つも下の光に娘をやるとは何事か! すー兄というものがありながらって、たいそうな剣幕だったそうだよ」
「そうなんだ……」
俺の祖父は右大臣で母はその娘だから、左大臣は大切な娘さんを俺にくれるのは嫌だったのかもしれないと思った。俺が帝になったとしても、どうしても祖父である右大臣の意向を酌まなきゃいけなくなるから。左大臣は父上とも相談して光を婿にしたみたいだし。
「葵さんも人形みたいに綺麗な人だけど、光とは打ち解けないらしいねー。将来はお后にって大切に育てられた人だからプライド高いんだろうね。大人しくすー兄にあげたらよかったのにと思うけど、左大臣は光大好きで喜んで婿・か・し・づ・き・してるみたいだから」
俺はなんとも言えない気がして口をつぐんだ。女の人って大変なんだ。嫁ぎ先も自由に決められない。でも光も大変だよな。父上と左大臣のお気に入りだからこそ、この縁談も断れなかったんだろうし。
「みんな、大変な世界に生きてるんだね」
俺はため息混じりにつぶやいた。
「なーに他人事みたいなこと言ってんの。帝が一番大変でしょ。われもわれもと皆が入内させてくるよ。これは誰それの娘で〜って権力関係考えてたら恋なんて二の次三の次でしょ」
「そっか」
「のんきだねー。もう頼むよ、御所の乱れは国の乱れだからね。光のお母さんだって、父上からあれほど愛されなければ弘徽殿さんの嫉妬も買わずに長生きできたのかもしれないし」
本当にそうなんだよなあ。人の恋路をとやかくいうのは野暮だろうけど、帝の偏愛は嫉妬や争いをうむから、女性たちの父親の官位に応じて愛したり后にしたほうが安定するのは確かで。それが政治の安定、ひいては国の安定にもつながる気がする。帝に恋なんて必要ないんじゃないかと俺は思っていた。秩・序・を・も・っ・て・女性を愛せたら十分なんじゃないか、なんて。俺は冷たすぎるのかな。
「あーでも今のは父上への批判ってわけじゃないから! 告げ口しないでね」
「うん、大丈夫」
俺が微笑んでうなずくと侍女たちもフフフと笑って、雨の局が和やかになった。こうして何でもハッキリ喋る蛍は面白いなあ。蛍も恋してるのかな。みんなの恋がなるべく実るといいなと思いながら、俺は静かに続く雨音を聞いていた。
004 梅壺にて
俺は弘徽殿女御の息子なので、小さい頃は弘徽殿に住んでいた。母は幼い俺の世話に命を懸けていたと言ってもいいくらいで、俺はほとんど室内から出してもらえず、遊び相手も女の子ばかりだった。初対面の光に驚かれるほど色白でひ弱だったのはこの生育歴も関係していると思うんだけれど。今更言っても仕方ない。
俺は春宮になっても母が離したがらないのでずっと弘徽殿にいたが、元服を経れば一人前ということで、父上から梅壺を居所に賜った。梅壺は藤壺のお隣だ。
藤壺には藤壺女御がお住まいだった。亡き桐壺更衣によく似ているということで入内なさった方だけれど、先帝とお后様の間にお生まれになった宮様で、身分はとても高い。さすがの母も意地悪できないくらい高貴な方なので俺はほっとしていた。父上もこの方なら思う存分愛せるとお思いのようで、ご寵愛は揺るぎない。
光の宿直所にしている桐壺と俺の住む梅壺は、東西の端同士で間に七殿もあるので姿も見えないほど遠かった。光は常に忙しく御所にいても会えることは少ないのだけれど、それでもたまに見かけると俺は小さく手を振ったり、互いに視線を交わしたりした。光と付き合いがあることを知ると母がうるさいから。そんな微かな交流も俺は嫌いじゃなかった。
「梅壺に俺の隠れ家作ってくれない?」
ある朝、香りのいい紙に見事な筆跡で光から短い文がきた。こんな用件だけの文にも季節感のある紙で雅な感じを出してくるからすごい。俺はどうすればいいだろうと文を片手にしばし考えていたが、これを取り次いでくれた女房が中身をチラと覗いて
「お任せ下さい」
ニコと笑ってうなずいた。この人が光と懇意の女房なのかな? 梅壺に仕える人は弘徽殿から連れてきたわけではないので、俺と光が打ち解けられたあの日以降、母には内緒で俺たちの味方をしてくれている。
「兄貴んとこの女の子、優秀だね……」
「ホントだね……」
朝あの文が来たのに昼にはもう光の居場所ができていて。俺は光と顔を見合わせて感心した。御所の西端にある梅壺のさらに西の端で。狭いけれど夕陽が綺麗に見えそうな場所だ。
「どっから連れてきたの?」
「俺が選んだわけじゃないんだ。父上が俺に梅壺を下さることになったとき、どんな女房を揃えたらいいか藤壺さんに相談なさったらしくて」
「へえ」
光は初耳だったのか、部屋を見回し置かれた調度品を確かめながらうなずいた。
「じゃ先帝とお后様に仕えてた頃の人が?」
「そんな古い人はいないと思うけどね。その縁者の人かな」
「そりゃ確実だね」
「俺があまりにも頼りないのと、母に任せて藤壺さんに何かあったらいけないからって父上が配慮なさった気がするよ」
「なるほど」
光はこの隠れ家にある程度満足してくれたのか、確認を終えると無造作に腰を下ろした。俺も光の横にリラックスして座る。
「お隣さんとは交流あるの?」
「ご挨拶くらいだけれど。とても上品だし、優しくして下さるよ」
藤壺に仕える女性たちは、まとう衣も美しいし立ち居振る舞いも洗練されていた。藤壺の斜向いには弘徽殿があるんだけれど。派手好きだったり羽目を外したりしがちで、比べるとやっぱり粗が目立つかな。
「藤壺さんのことなら光のほうがよく知ってるんじゃない?」
「子供の頃は遊んでもらってたけどね。元服してからは全然」
俺が問いかけると、光は前を見たまま少し目を伏せて微笑した。光はどこか遠くを見るような目つきで、脇息によりかかり頬杖をついている。
「俺父上に連れられて弘徽殿にも来たことあるんだよ」
「そうなの?」
「俺って子供の頃から可愛かったから皆チヤホヤしてくれたんだけど、弘徽殿さんだけはずーっと不満そうでさ。ブレねえなって」
「ごめんね、ホントに」
俺が謝ると光はクスっと笑って首を振った。
「俺嫌いじゃないよ、あのしつこさ。兄貴への愛が隠せないんだろうね」
光の立場になれば母のことを「人殺し」と詰ってもおかしくないだろうに。光は俺にそういうことを言ったことがなかった。
「一番早くから帝に嫁いで男の子まで産んだのに冷たくされたんじゃさ。怒って当然だよ」
母は光がこんなに優しいってこと、知らないんだろうな。光はぼんやりと前を見るともなく見ながら懐かしそうに話した。どこか昔が恋しくて仕方ない様子に見えて。
「俺、外そうか」
「えっ?」
「ちょっと疲れてるみたいだから。一人で休む?」
光は一瞬驚いたように俺を見つめると、目を細めて優しく笑った。
「ありがとう」
俺はこれが正しいのかわからなかったけれど、光は一人になりたくてここにきたような気がした。心ここにあらずというか、今の光はとてもつらそうに見えて。見ているこっちがつらい。
「兄貴が梅壺にいてくれて良かったよ」
俺が去るとき、光は誰に言うともなくつぶやいて深いため息をついた。俺はここを設えてくれた女房に目配せして光のことを頼むと、光を隠すように、でもさり気なく侍る女性たちを避けながら、ぐるっと回って自分の座所に戻った。
005 夏の夜の反省会
ある夏の夜、蛍が一緒に酒を飲もうと誘ってくれた。俺は酒ってそれほど好きじゃないんだけれど。宴の雰囲気は好きなので、例のようにこっそり、蛍いきつけの局にお邪魔する。
「すー兄遅いよー」
「ごめんごめん」
蛍と光は先にきていて、外を見ながら甘い酒を酌み交わしていた。二人とも目が少しとろんとしていて。今夜はペースが速いのかな。
「ふたりとも元気そうだね」
「元気だよー。元気も元気。光なんか人妻に手出すくらい元気だからねー」
「なんだよ」
突如人妻という単語が出てきて俺は面食らってしまった。とりあえず蛍の横に並んで座る。
「この前方違えに行ったらさ、小柄でタイプの子がいたんだよね。だから一緒に寝ようかって誘ったんだけど、断られちゃって」
「軽く言うけどかなり迷惑だぜ?」
蛍は心底呆れたという表情で光を睨んだ。
「親ほど年の離れた爺さんに嫁がされた苦労人の子でさ。可哀想だから慰めてあげようと思ったんだよ。でも狭い邸で、女房やら何やらがそこらじゅうびっしり寝てんの」
「それはお前が急に押しかけて部屋が減ったせいもあるからな?」
「誰かに見つかったら悪いと思って、抱き上げて俺の寝所に連れて行ってあげたんだけど。よほど嫌だったのかな、その子汗びっしょりかいてさ。断固拒否って感じでついに朝まで何もさせてくれなかった」
「かわいそうすぎる……」
蛍は本気でその女性に同情している様子だった。汗びっしょりというのは、たしかに相当怖かったのかな。
「光のこと拒む人っているんだね」
俺はそれだけが意外で、つい口に出してしまった。
「それなんだよ。俺もあれほど拒否されたのは初めてで。なんか新鮮だった」
「新鮮ってなんだよ。お前と密通したのがバレたらその子がどれだけ困るかわかんねーのか?」
「何お前、妬いてんの?」
「常識的に考えてんだよ」
蛍は真剣に怒っていて。蛍は女性に優しいと聞いていたけどこういう所なんだなと俺は思った。
「俺と寝て迷惑な人なんているの?」
「そりゃいるだろ。自惚れも甚だしくてこえーわ」
今日の光はどこか寂しそうで。潤んだ瞳から涙が零れそうに見える。飲むと泣いちゃうタイプなのかな。
「あんな爺さんにも勝てないのかなって、俺ショックで……」
「独身ならまだしも、結婚しちまってる子を食おうってのが間違ってるよ」
「結婚なんてそんなに大事か?」
「大事なんだろ、その子にとっては」
俺は怒った蛍に注いでもらった酒にそっと口をつけた。蛍は飲むと怒るタイプなのかな。でも指摘はいつものように的確で。口調だけがキツくなるみたいだ。
「俺三回も行ったんだよ。最初はその完全拒否で、二度目は会ってもくれなくて、三度目は間一髪のところで逃げられた。あんな執念深い人もいるんだね」
「執念深いのはお前だよ」
蛍は盃をぐっと干すと自分でもう一杯注いだ。二人ともペース上がってるなあ。気の利いた女房がおかわりの酒を持ってきてくれて、俺はそんなに飲んで大丈夫かなと少し心配になった。
「その子が逃げる直前に脱いだ汗ばんだ小袿を形見にさ。独り寂しく寝たよ」
「形見にって、持ってきちゃったのかよ……盗みまで働いてるよ」
「途中何度も使用人に見つかりそうになってさ。ああいう狭い邸は危ねえなって反省した」
「反省点はそこじゃねーからな」
俺は女性のところへ忍び込むという経験をしたことがないので、光の話を興味深くきいた。たしか何度か歌を詠み交わして脈がありそうだったら……みたいな流れだったと思うけれど。光の行動は突発的でマナー違反だから、蛍はこれほど怒っているのかな。
「もう忘れたほうがいいのかな。あの爺さん、早く死なねえかな」
「なんつーことを願ってんだよ」
「だって惜しいじゃん。宮仕えしないかって話も一時はあったらしいのにさ」
光はふと飲む手を止めると、虚空を見つめた。
「この程度の女なら何をしても構わないとお思いなんでしょう、って言われたんだよ。俺そんなこと考えてないつもりなのにさ」
「歌も交わさずいきなりってのは失礼すぎるよ。しかも方違えのついでって。一夜限り感満載じゃん」
「まあそうだよね。たまには高貴じゃない人にも触れてみたかったんだけど。難しいわ」
光はそのうち盃をもちながらこくり、こくりと舟を漕ぎ始めて。蛍はそんな光の手から盃を奪うと、残った酒を飲み干してしまった。俺は黙って二人を見つめていて。今夜は晴れて月が綺麗だ。
「こいつ最近疲れてるよね」
「そう、みたいだね」
「だからあれほど危ない橋は渡るなっつってんのに……」
蛍は苛ついた様子で目を赤くするとそれきり黙ってしまった。蛍も光を心配しているようだ。俺はつい何も言わず見守ってしまうけれど。蛍は親身になって忠告してくれるからありがたい。
「春宮様、お強いんですね」
ついに蛍まで眠ってしまって手持ち無沙汰の俺に、優しい女房が声をかけてくれた。
「俺は飲むの遅いから」
俺は照れて笑ったけれど、たしかに飲んでもあまり酔えない性質らしかった。ちょっと損かな? 酒でヘマしないのは長所だけれど。そもそも酔ってなくてもヘマするからなあ。俺はいつ二人を起こそうかなと考えながら、月影さす夏の庭を眺めていた。
006 止めない
この年の秋、十七歳の光は重い病にかかって十日以上寝込んだ。命の危険もある状態ときいて父上はたいそう心配なさり、生きた心地もしないような青ざめたお顔で毎日ご祈祷を命じられた。「あのように飛び抜けて美しく優れた方は薄命なのだろう」と噂する人もいて俺も心配した。文や使いはあふれるほど来ているだろうから控えて。祈る以外方法がないのがもどかしい。
やっと病が癒えて御所に参内したとき、光は面痩せて疲れて見えた。それが美しいと囃し立てる人もいたけれど。物の怪に憑かれたのではと噂する口の悪い人もいた。
光はこの頃フラッと梅壺に来て俺も知らぬ間に帰ることが多くなった。女房たちも慣れたもので、光が来たから、帰るからと騒がず、とても自然に光の存在を隠してくれる。光は人気者でどこに居ても誰かが尋ねてくるからゆっくり休めないんだろうなと俺は思った。
「塗籠かりてます。」
ある日俺が用事から戻るとこんな書き置きがあって。俺は自分の荷物を片付けていたかなと、個室として使っている塗籠が気になってそっと戸を開けた。
「ごめん、狭くなかった?」
「おかえり」
光は仰向けに寝転ぶと天井を見ていた。いい匂いのする雅な扇をパチン、パチンとゆっくり鳴らして。何か考えているようだ。
「ごめん、勝手に使って」
「いいよ」
俺は読みかけの書物や手習いを片付けようと中に入って戸を閉めた。塗籠は三方を壁に囲まれているから暖かく、扉を閉めれば密室として使うこともできる。
「鍵かけてくれる?」
光が何気なく言うので、俺は扉の内側から閂をさした。光の手元には小さな灯りが置いてあって。天井からの光も入るが、部屋の中は薄暗かった。
「兄貴さ、物の怪って信じる?」
光は俺に問いかけながら、天井を見ていた目を苦しげに閉じた。
「俺、取り返しのつかないことをしたんだ……人をひとり、死なせた」
俺は光の足元にそっと腰を下ろして。何も言うことができなかった。物の怪が人を殺したということだろうか。
「恨むなら俺を恨めばいいのに、どうして……」
光は声をつまらせると横を向いて、背を丸めた。声を殺して泣いている。俺は下手な慰めの言葉をかけられる気がしなくて。小さな机の前に座ると、墨をすって写経をはじめた。
「兄貴……きいてる?」
「うん」
俺は丁寧に、でも急いで写した。光の灯りを借りると机上におかせてもらって。
「四十九日は過ぎた?」
「いや、まだ」
「間に合うように写すね」
まだ魂はこの世におられるのかな。俺は名も知らぬその人の冥福を祈った。光はここにいます。貴女を思って泣いています。救えなくて、すみません。
「俺も祈るよ。微力でも」
俺は区切りのいい所まで書いてから光の方を向いた。光はもう寝転がる姿勢から体を起こしていて。
「物の怪にも鎮まってもらえるように、俺も祈る。光のぶんまで祈るよ。毎日書く」
光はしばらく黙って俺を見つめていたが
「強いね」
淡く笑って俺を見た。俺は物の怪が見えたことはなかった。だから怖くない、ないがしろにしていいとは思わないが。元が人なら説得する術もあるかもしれない。魂でぶつかり合えば止められるかもしれないと思っていた。
◇◇◇
「もし兄貴に年の近い継母がいて、美人で慎み深くてすごくタイプだったら、どうする?」
光は俺の方を向いて座り直すと変わったことをきいた。
「どうも、しない」
「だろうね」
兄貴は冷たいからなと言って、光はこった首を左右に伸ばした。
「その継母が兄貴に気があって、内心結ばれることを期待しているとしたら?」
俺は写経の手をとめてしばらく考えていたが
「そんなこと、ありえないって思うかな。現実的じゃない」
声を落として答えた。
「どうして? 父親はだいぶ年上なんだから待ってればそのうち死ぬんだよ。そしたら二人の天下だ。それまで隠れて付き合えばいい」
「でもきつくない? 父にも子にも迫られるというのは。バレたらどうしようと常に悩むだろうし」
「そこは男がフォローするんだよ」
光は少し不機嫌そうに答えた。
「女一人に全て背負わせないように男が守って支えるんだよ。バレそうになってももみ消して、誰にも文句を言わせない権力を保って、世間に認・め・さ・せ・る・んだよ」
「……そこまでするなら、いいかもね」
俺はそんな強権的な人物を想像した。
「そこまで貫けるならカッコいいと思う。ついてきてくれる女性もすごい。女傑だね」
「褒めんの?!」
光は自分から言い出したくせに俺が賛同すると驚くので、すこし笑ってしまった。
「そこまでの絆があるなら引き裂くのも罪かもしれない。神仏はお認めにならなくても。俺は良いと思う」
俺は写経に目を戻しながら答えた。
「俺自身はできなくても、その人のために祈る。その人のぶんまで。応援する」
俺は分を知るということが好きで。英雄には英雄の役割があると思っていた。俺自身が籠中の鳥であるせいか。他の人には大空を飛翔してほしいと願っていた。
「兄貴って結構進歩的なんだね。絶対止めると思ってた」
「自分ではやらないけど。人は止めない」
「冷てえ」
光は苦笑して、でも少し元気になったようだった。
「皆が兄貴みたいに強い人なら、世の中平和なんだけどね」
光は可笑しそうに髪をかきあげて。前を見ながらしばらく黙っていた。
007 ご懐妊の報せ
年が明けて、桜の季節も過ぎた頃だった。十八歳の光はあの生死をさまよう病が癒えた後もたびたび体調をくずし、公務を休むことが多かった。やっぱり忙しすぎるのかな。父上に召され左大臣邸に連れて行かれ、自分の邸でゆっくり休むこともままならない。
「この前北山で拝んでもらったから平気だよ。ただ、あそこまで迎えが来たのには参った」
光は高名な聖がいるという山へ行き、祈祷や誦経をしてもらったと言っていた。そこにも父上の使いがきたり左大臣家の公達が来たりで大変だったらしい。いつも誰かに追いかけられているなあ。自分の時間取れるのかな。俺は光のような交際の多い生活はとても送れないと思うので、自分に人気がなくて良かったと思ってしまった。
「そういえば、お隣で仕える女性の数減ったかな?」
「はい。女御のご気分が優れないそうで先日お里へ帰られましたので、供にお連れなのでしょう」
「そう」
藤壺さんも具合が悪いのか。光もだし、皆大変だな……。俺は何気なく思ったが、次の瞬間不安になって尋ねてしまった。
「まさか、母が何かしたのかな?」
「そのようなことは」
頼りにしている女房は微笑んで否定してくれる。本当に大丈夫かな。母なら憎しみから生霊も飛ばしかねない気がするけれど。藤壺さんは結局夏の間帰ってこられず、秋口になってからやっと御所に戻られた。
「ご懐妊だそうですよ」
御所はその話題でもちきりで。父上はたいそうお喜びで、毎日のように藤壺さんを見舞われているらしい。
「よかったね」
俺は素直に喜びながら、母が内心穏やかでないだろうなと察した。御所は浮足立ったおめでたい空気に満ちていて、父上は藤壺さんとお気に入りの光も呼んで、楽や舞の会を頻繁に開いて楽しまれている。冬には行幸があるからその練習もかねているのかな。
「お寂しくはないですか」
「えっ?」
女房にさり気なくきかれて。俺は首をかしげた。
「あのような遊びの会に呼ばれずに」
この人が俺のことを思って多少怒ってくれているということに気づくのにしばらくかかった。
「俺は風流じゃないからね。歌や楽器も得意じゃないし」
ただ見ているだけならいいけれどやってみろと言われると困るので、俺は会に呼ばれないことに怒りや悲しみはなかった。光と比較されるのもしんどいものがあるし。父上は、光と比べられる俺の名誉を守るためにあえて呼ばないのかもしれない。
「俺は気にしてないから平気だけど、皆は見たいよね」
ごめんねと俺は謝った。主人の俺が呼ばれないのだからお付きの女房も当然見られないわけで。俺はその点については申し訳なく思った。
「大丈夫ですよ。私たちは隣の女房とも懇意ですから。お・手・伝・い・としてご相伴にあずかれます」
彼女はニコッと笑って答えた。さすがだなあ。宮中で働く女性は横の連携も取れているらしい。
「むしろ、春宮様が何か会を主催なさったらどうですか」
「俺が?!」
「即位なさった暁には、風雅な遊びもなさるでしょうから」
「そっか。うーん……」
俺は自分が主催するとは全く考えたことがなくて、思わずうなってしまった。でもそうだよな。帝になれば周りを退屈させすぎてもいけないし、何か考えないと。でも何がいいだろう。俺の企画力じゃ参加者を募っても集まらなさそうだし……。俺が首をひねってうーんと考えていると
「失礼いたします」
部屋の外から誰か来たようで女房が取次に立った。しばらくして戻ってくると
「御文でございます」
うやうやしく俺に差し出してくれる。秋にふさわしい落ち着いた色味の紙で。
「左大臣邸からだそうです」
「そう」
俺は不思議な気持ちで文を開いた。左大臣から文をもらったことなんてないけど……。開いてすこし動きを止めてしまって。文の差出人は左大臣ではなく、光の妻である葵さんだった。
008 密かな文通
葵さんからの文には俺と文通したい旨が書いてあった。恋の話などではなく、友人の一人として文を交わしたいらしい。俺はなんだか不思議な気がしてしばらく考えていた。でも文というのはすぐ返事を書かないと失礼にあたるので
「俺でよければ。よろしくお願いします。」
とりあえずサッと書いて使いに持たせた。あっさりしすぎたかな。でも俺とどんな話がしたいんだろう。俺は一晩中考え考えして、翌朝もう少し丁寧な文面で書いた。
「吹く風にも秋の深まりを感じます折々、いかがお過ごしでしょうか。昨日はあたたかいお手紙を頂きましてありがとうございました。広い世間に鍛えられずのんきにのみ日を送ってきたものですから、歌のない交流をとのご所望にこちらこそ救われる思いが致します。どうか末永くお付き合い頂ければと存じます。」
使いに持たせると、返事はほどなく返ってきた。
「賢しらにあのような文を出しまして、はしたない女と思われたのではと心苦しく思っておりました。お返事どれほど嬉しく、ありがたかったことでしょう。私も文や歌をとり交わすことなく現在の生活に入ったものですから、歌には自信がございません。周りの者は褒めますが所詮身内の評価で、本当はどの程度なのかわからず戸惑うこともしばしばです。春宮さまはいかがですか。」
葵さんは達筆でとても読みやすい文を書いてくれた。蛍はプライドが高いらしいと言っていたけれど、文面からは素直で真面目な印象を受ける。
「俺も歌は自信がありません。万葉集や古今集は好きなのですが今に取り入れることが苦手で。一生何も抜きん出ることのない、当たり障りのない歌を詠むことになりそうです。」
俺は自虐しながらも、それでいいと思っているところもあった。帝というのは国の代表者ではあるが主役ではないと感じていて。ただ芸術を愛す帝の御世に音楽や詩歌が栄える例もあるのだから、俺も縁の下の力持ちとして何かこだわりを持ったほうがいいのかもしれない。
「葵さんは何かお好きなものがおありですか。」
俺は話題を広げるため、文末を質問にして送った。
「私は書物を読むのが好きです。それも遠い異国の冒険譚や不運な姫君が幸せになるような物語が好きで。いつまでも娘のような好みでお恥ずかしい限りです。」
恥ずかしいと言う割に自分で明かしてしまっているあたり、面白い方だなと思った。この方こそ本物の深窓の姫君なんだろうな。光が元服する夜に娶せられたときいたけれど。恋も冒険もせず大人になってしまったのかもしれない。
「それは素敵ですね。御所にも珍しい物語がないか探してみましょう。」
蔵を探せば何かあるだろうか。俺は手持ちの書物も見返して面白そうな物があれば葵さんにお貸ししようと思った。思いながらふと、この文通を光は把握しているのだろうかと不安にもなった。
内容まで明かすのは葵さんに失礼だろうけれど、奥様と文を取り交わしている事実は伝えておくべきことのように思う。既婚女性と文通するというのは一般的なことなのだろうか。俺は特殊貴族とでもいうような身分のため、一般貴族社会の風習に疎いことに今更気づいた。
「本日はありがとうございました。有意義な時間でした。」
夕暮れになったので最後の文を出した。たった一日で何往復もしたが使いの人も大変だったろうな。左大臣邸まで駆けてくれた従者に実用的な品々を贈る。俺はこの文への返事はこなくてもいいと思っていた。
「どうかまた御文を下さいますか。お時間のあるときで結構ですから……。」
日もすっかり暮れてから返事をもらって。なんてことはない文面なのにどこか切羽詰まったような、必死な印象を受ける。俺は夜になっても火を灯してしばらくこの文を見ていた。光にきいてみようか。左大臣邸から来たなら秘密ということもないだろうし……。
俺は葵さんとの文で光の名を出すのはどこか憚られるような気がして、「光によろしく」とは書けなかった。俺と文で話すことで刹那でも光の存在を忘れようとしているのだろうか。ただの戯れで文をくれたなら良かったのに。俺からこんな文が来たと夫婦で話題にしてくれてもいいのにと俺は思った。
009 身代わりの愛
ある三日月の夜、蛍が琵琶を弾いていた。一音一音、響きを確認するように弾く。秋の夜長で風はなく、それほど寒くなかった。蛍はわざと決まった曲は弾かず、心の赴くままに弾き遊んでいた。
俺は蛍の琵琶を聴きながら黙って座っていた。女房たちはそれぞれの持ち場で休んだり談笑したりしてくつろいでいる。俺の肩をポンとたたく人がいて、俺は少し横にずれた。光は俺の横に腰を下ろして、やはり琵琶を弾く蛍の背を見ていた。
「すー兄、やる?」
「いいの?」
蛍に琵琶を勧められて俺は嬉しくなって受け取った。琵琶の音好きなんだよなあ。ベェン、ベェンと弾くと寂しい秋野に身まで溶けてしまいそうに思える。俺は同じ節ばかりを繰り返し奏でた。色恋に向く音色じゃないけれど。身に沁みていつまでも聴いていたい音だった。
「帰んなくていーの?」
「どこに?」
「二條にさ。可愛い人がいるんだろ」
蛍に言われると光は大きなため息をついた。蛍は俺と入れ替わりに光の横に座っている。
「耳が早えな」
「お前みたいな超有名人の動向はひかりの速さで伝わんだよ」
俺は琵琶を弾く手をとめて光を見た。二條というのは光の自邸の二條院のことかな。可愛い人というのは女性だろうか。光が女性を自邸に迎えた……。
「葵さんとは気い合ってなかったもんな」
蛍は光を責める様子は無かった。
「女じゃねえよ。親のない子を育ててるだけさ」
「育ててどーすんの」
「きいてどうすんだよ」
「その子の人生は、幸せになんの」
蛍はあぐらの脚に肘をつき、口を押さえて前を見ていた。光も前方を見ながら話す。
「幸せになるよ。俺が育てんだから」
「そう」
蛍はそれだけ言うと黙ってしまった。俺は気の利いた曲ひとつ弾けずに。ベェン、ベェンと低い音だけが秋の庭に響く。
「誰かの代わりに愛されるってのが幸せか」
「どういう意味?」
「誰かの代わりに愛されて、自分を見る目の中にその人の面影を探されて。それがお前の考える幸せか」
今度は光が黙ってしまって。長い時が流れた。
「どんなに似てたって同じ人間はいねえよ。代わりにはならない」
俺は去年亡くした人のことを言っているのかと思った。似た人を愛すというのは父上譲りなのかな。
「常に目の前にいる人だけを愛してるよ。代わりで満たされるならこんなに苦労してない」
光は席を立つと蛍に背を向けた。
「お前、知らねーぞ」
蛍は前を向いたまま言い放った。
「次の御子が男なら父上は必ず春宮にしようとする。譲位してすー兄の御世が来る。今までのようには行かねーぞ。ほんの僅かな失敗でも足をすくわれる」
お前、野垂れ死ぬかもしれねえぞと蛍は言った。
「大げさだな」
光は無理に笑みを作ると
「その時は兄貴に頼るさ」
軽く手をふって去ってしまった。俺が光を殺すんだろうか。俺は即位するのが怖い気がして仕方なかった。祖父右大臣や母の横暴を俺は止められるのだろうか。帝の座にいるだけの人間にどれほどの力があるのか。俺の命が意に沿わなければ「頭のおかしい帝」として後見でも付けられるのがオチだろう。皆がついてこなければ王など飾りにすぎない。
「楽しかった?」
「うん。ありがとう」
蛍に琵琶を返すと俺は現実に引き戻されてしまった。藤壺さんの身ごもった子は男子なのだろうか。父上の御世はいつまで続くのか……。平らかな出産を望みながら、俺の心は複雑に揺れていた。
010 青い巻物
ある日、俺の元に変わった贈り物が届いた。
「巻物?」
「左大臣邸からです」
濃い藍色の表紙だった。俺は見たこともないのに海ってこんな色だろうかと想像した。左大臣邸なら葵さんからかな? 随分綺麗な贈り物を頂いてしまったと何気なく中を開けると、ほとんど白紙の巻物だった。ほとんど白紙だが一番最初に墨で絵が描いてあった。見事な調度に御簾と几帳と侍る女房が二、三人、外の景色は見えなくて。
「これが私のすべてです。」
絵の隣には一言そう添えられていた。葵さんの目から見える世界という意味だろうか。俺も似たようなものなので微笑しながら、妙に寂しい気持ちになった。俺は帝になる運命だからこんなものだと思い定めているが、この人はどんな未来を思い描いて大きくなったのだろう。
「絵の得意な人いるかな?」
俺は女房たちにきいて絵を書いてくれる人を探した。そして俺の席に座ってもらって、そこから見える景色を描いてもらうことにした。
「春宮様の御座に座るのですか?!」
彼女はとても恐縮していたが、俺がどうしてもと説き伏せてなんとか描いてもらった。葵さんは俺視点で見える景色が知りたいだろうから。
「春宮様もお書きしましょうか」
その人がきいてくれるけれど俺は遠慮しておいた。俺の姿を見てがっかりするかもしれないし、俺を描いてしまったら、葵さんもお返しに自分の姿を描かなければいけないかと気を使わせるのは失礼だと思った。
「これが今の座所です。」
俺も絵の隣に一言添えて。乾くのを待ってからくるくる巻いて使いに渡した。毎回紙をどうしようと悩まなくていいのは便利だな。こっそり文を交わすより堂々としていて真面目な用件のようにも見え、俺の好みにも合った。
「葵さんから文が届いたんだけど……」
「知ってるよ」
ある日俺が尋ねると、光は眉一つ動かさず言った。
「俺に構わず続けて」
とてもアッサリした返答で。五秒もなかった。俺は胸が痛く思った。光は葵さん以外のことで頭がいっぱいなのかな。
「春宮様、行幸の際のお召し物ですが」
「はい」
衣装の色や小物合わせでその日は一日過ぎた。もうすぐ父上の朱雀院への行幸がある。かなり重要な行事なので春宮である俺も呼ばれていた。帝って御所から出るだけで行事になるんだよなあ。いかなる時も御所に鎮座していることが重要なお役目らしい。
「春宮様、こんな御本がありますが大殿にお届けしましょうか」
奥から出てきた書物好きの女房が、オススメの本を紹介してくれた。大殿というのは葵さんの住む左大臣邸のことだ。
「この蒔絵螺鈿の手箱もお贈りしては?」
「ご迷惑にならないかな」
「まさか」
俺は女性へ物を贈ったこともないので勝手がわからず当惑してしまった。でもこの局で働くしっかり者の女房たちが勧めてくれるのだから、従ったほうがいいのかな。
「心のこもった贈り物というのは、中身より誰・か・ら・頂・い・た・か・のほうが重要なんですよ」
「そうなんだ」
いつも文を取り次いでくれる女房が言うので、俺は感心してうなずいた。
「じゃあ皆のオススメを集めて、梅壺からということで贈ろうか」
俺が言うと皆は嬉しそうに微笑んで仕事に取り掛かった。葵さんとの文について女房たちはなぜかとても協力してくれるので、俺はありがたいし頼もしいなと思っていた。
011 青海波
光十八歳の十月に、父上の朱雀院への行幸があった。俺も春宮だからお供して、設えられた席に座る。紅葉も色づき終わり葉が落ちはじめる頃だった。上達部や殿上人、お付きの者たち、大勢が見守る中、光は頭中将さんと青海波を舞った。頭中将さんは葵さんと母も同じくする兄だった。体格もよく、光の隣に立っても負けじという気迫が伝わってきて勇壮な人だと思った。
四十人もの垣代が鼓や鐘、笙、笛を吹き立てる半円陣の中、二人は立派な舞装束に身を包み、並び揃って舞った。頭中将さんからは「我が晴れ舞台とくと見よ」という強い気合いが感じられたが、光はどこか物憂げで落ち着いているように見えた。落ち着きながらも心の奥底では鋭い刃を研いでいるような言いしれぬ凄さが目元に漂い、舞をより劇的に見せる。
色づいた木の葉が深山おろしに散り交い光の周りを取り巻くと、火焔が命を持って光を守護するようにも感じられ、恐ろしいほどの美しさだった。誰もが言葉を忘れ見入る中、当の光だけはどこか遠くを見るような目つきで淡々と舞を終え、ほっと息をついた。光はこの夜正三位に加階した。
「光と頭中将さんの青海波は素晴らしいものでした。絵でしかお伝えできないのが残念です。加階もおめでとうございます。」
俺は舞の様子を例の巻物に描いてもらって葵さんへ送った。墨絵に紅だけは色を付けてもらう。正三位というのは相当高い位だった。これより上は大臣クラスしかない。十代でここまで上りつめる人は稀だろうと俺は思った。父上はこれをしたくて光を臣下になさったんだろうけれど。
「御絵も頂きましてありがとうございます。旦那様はこのようにお勤めをなさっておられるのですね。邸におられるお姿しか知らないものですから。凛々しく美しいですね。春宮さまもさぞかし美しいお姿でご覧になられたのでしょうね。」
葵さんが喜んでくれたようなので俺はほっとした。俺のことまで付け足して褒めてくれるのが優しい。
「春宮さまは、お妃さまとなる方をどのように選ばれるのですか。やはり大臣たちからの推薦でしょうか。」
急に話題が転換したので、俺はしばし手を止めて考えた。
「俺から選ぶということはしません。祖父や母が見繕うのでしょう。彼らのめがねに適わなければ入内してもつらいことが多いでしょうから。」
とても気に入った人がいたとしたらむしろ入内させたくないように俺は思った。女御、更衣というのは自分の局をもらって普段はそこに住んでいる。帝がどれだけ愛しても同じ空間で常に守ることはできない。それができないから光の母上である桐壺さんは様々な苛めに遭い、命を落としたのだ。藤壺さんのようによほど位が高く誰も手出しできないような人でなければ入内を望むのは怖いと俺は思った。
「結婚なさるまでに文などお交わしになるのですか。それとも初対面のような形でお迎えになるのでしょうか。顔も性格もわからない方と結婚生活を送ることは大変ではないですか。」
「文などを交わすことは無いですね。たいてい親同士が決めてしまいますから。顔も性格もわからないのはお互い様ですがあちらは高貴な姫君ばかりですから、俺のほうが残念がられないか心配です。誠心誠意、力は尽くすつもりですが。」
俺は外見と同じように結婚についても自分の要望は持っていなかった。子孫を残すことは重要だが俺以外の血筋が残っても構わないと感じている。入内した女性たちはそうは思わないだろうが。
「奥様となる方を愛そうと思われますか。それとも、子さえできれば良いとお思いですか。」
鋭い質問を投げてくるなと思いながら俺は嫌な気はしなかった。俺に遠慮せず話してくれる人というのは光や蛍くらいで女性に至っては皆無なので、どこか爽快に感じる。
「せっかく頂いたご縁ですから親しくなりたいとは思います。好きで入内なさったわけではない場合もあるので人によりけりですが。一刻も早く子がほしいという方にはそうしますし、ゆっくり関係を築きたいという方ならそれに合わせます。皆おうちの期待を一身に背負い、一生を懸けてやってこられますから、俺もそれに相応しいような、嫁ぎ甲斐のある男になりたいです。」
書きながら、本当にできるのだろうかと不安になった。ただ女性たちが何らかの希望を胸に入内する以上、俺もそれに応える義務があるとは思っていた。どんなに下手でも、やらなきゃ。どんなに風雅に見えても。俺にとって寵愛というのは遊びではなかった。
しばらく返信が途絶えたので俺は葵さんに嫌われたかなと思った。つまらない、興ざめな男と思われたのかもしれない。俺は嫌われてもよかった。俺はこの人には嘘をついて好かれるよりも本音を伝えて嫌われていたいと思っていた。
012 新年の挨拶
しばらく葵さんからの文はこなくて。俺はそろそろ終りかなと思っていた。もう俺と話して気を紛らしたりしなくてよくなったならいい。現実で幸せなほうがいいに決まっている。十二月に入り新年準備に忙しくなってきたこともあって、しばし文通から離れる。
「春宮さまは恋をしたことがおありですか。」
いよいよ年の瀬も押し迫ったころ、唐突にそう問われて。たった一行しか書かれていない文だった。
「俺は恋はしたことがないようです。誰を見てもそれなりに美しさは感じるのですが、何にかえてもというような必死な気持ちにはなれません。冷たいのかもしれないし、愚鈍なのかもしれません。」
俺は少し寂しい気持ちで書いた。本心だった。燃え上がるような恋など俺には訪れないだろうと思う。恋の焔に身を焦がす覚悟も勇気も、俺にはなかった。
「私は一度だけ恋をしたことがございます。その御方のことは少女のころ偶然行幸でお見かけして、それ以来ずっと憧れてそのお姿を胸に描いておりました。結婚させられ、夢は潰えてしまいましたが……。最近思いがけずその御方と交流を持つ機会を得まして。懐かしく、嬉しい気持ちで一杯でございます。」
もしかして俺のことかな。葵さんは将来お后にと育てられたと蛍からきいたので、ついそんな考えを起こしてしまった。でも俺とは限らないよな。行幸にお供していた貴族たちの誰かを見初めたのかもしれない。
「その方との交流が続くといいですね。」
俺はさりげなく書いた後、今年一年お世話になった旨を丁寧に挨拶して筆をおいた。「俺ですか」ときくのも野暮だし、万が一俺だったとしても葵さんと俺は一歳しか違わないから少年の俺を見たわけで。その恋人は葵さんの空想の中で美化された俺だろうから、二十歳を超えた現実の俺が入り込む余地はないように思えた。
「春宮様、ご祈祷の件ですが」
「うん」
葵さんへの返事を渡すと、女房が少し顔を曇らせてきいた。
「藤壺さんのご出産はまだなのかな」
「はい、予定日は年内のようですが。物の怪のせいで遅れているのではともっぱらの噂です」
物の怪って出産を遅らせたりもするのか。俺はやっかいな強敵だと思いながら、父上はじめ様々な方が安産祈願のご祈祷をされている中で俺もすべきか悩んでいた。母がうるさいので勝手にするのもよくないし、かといって何もしないのもお隣さんでお世話になっている手前気が咎める。
「光に相談してみるね」
女房にそう伝えてそのまま年を越した。新年を迎えると光は左大臣邸、父上の御前と忙しいだろうに俺の所にも挨拶に来てくれた。
「あけましておめでとうございます」
お互い年に一度のいつになく礼儀正しいお辞儀をして。顔を上げると、目を見合わせて少し微笑んだ。
「元気だった?」
「うん、元気だよ」
光は新年らしく、いつもよりさらに綺麗な衣をまとって笑っていた。やっぱり少し元気ないかな。微笑んでいても常に頭の片隅に暗雲垂れ込めるような憂いの影があって、それを誰にも悟られぬよう気丈に振る舞うようなところがあった。
「藤壺さんの安産祈願に俺もご祈祷を頼もうかと思うんだけど」
「俺がしてるから。一緒にしておくよ」
「ありがとう」
光ならそう言ってくれそうと思っていたので俺は安堵した。光も心配なのかな。そのせいで元気がないのかもしれない。
俺たちがそんな話をしていると、廊下から女房を呼ぶ声がして。いつも文を取り次いでくれる女房が葵さんからの巻物を受け取ったが、俺が光と話しているためそのまま奥へ下がった。光はその様子を視界の隅に捉えて見逃さなかったらしく、
「文通、続いてるみたいだね」
俺の目を見て悪戯っぽく笑った。
「楽しい?」
「うん、まあ」
俺はどこまで光に話していいか迷ったが
「葵さんは書物や物語が好きなんだって。光の青海波もとても美しいですねって褒めてたよ」
と当たり障りのない部分を思い出して話した。
「別に俺の悪口を言ってくれてもいいよ。検閲してるわけじゃないから」
光は俺が何か隠そうとしているのがよくわかるらしく、苦笑しながら答えた。
「兄貴のこと何でも話してあげなよ。喜ぶから」
そう言うと、優しそうな瞳で笑う。俺は葵さんと光に仲良くしてほしいのにと思いながら、そんなことを強要するわけにもいかないしと複雑な気持ちになった。
「俺、葵のことだけは幸せにできない気がするんだよね、俺の力じゃ。それが気の毒で、どうしようもなくて。困ってるんだ」
光はそう言うと、軽く礼をしておもむろに席を立ってしまった。
013 秘密の御子
光十九歳の二月に藤壺さんが御子をお産みになられた。男御子だった。
「男の子か……」
俺はいよいよ来たなと思って心の準備をはじめた。御所は父上はじめ大変なお祝いムードで正月が再来したかのような喜びようだった。母一人を除いては。
赤ちゃんが無事育つといいな。俺はなぜか亡き桐壺さんへ手を合わせて祈りたく思った。死なせてしまってごめんなさい。今度こそ父上の願いがかなって本・当・に・愛・す・る・子・を春宮にできたらいいと思う。
藤壺さんはお里で出産、静養なさった後四月に御所へ戻られた。若宮もご一緒だった。
「小さい頃からそなたばかり見て思い出されるからだろうか、とてもよく似ているね。ごく小さい頃は皆このようなものだろうか」
父上は若宮を抱いてあやしながらとても嬉しそうにお笑いになった。俺の方にも歩いてこられて。
「どうだ、朱雀。可愛いだろう?」
年を取ってからできた御子に無限の愛情を注がれる。
「とっても可愛いですね。光にそっくりです」
俺もニコニコしながら答えた。御前には光と藤壺さんもおられて。藤壺さんは几帳が立ててあるから気配しかわからないけれど、奥に控える光は一瞬ハッとした表情で俺を見た後、目を伏せてうつむいた。顔がひどく青ざめているように見えたけれど。気のせいかな。
「お母さま似なんでしょうね。光に似て賢そうです」
「おいおい、それじゃわしに似たら賢くないと言ってるようなものじゃないか」
「いえ、そういう意味じゃないんですよ」
「はっはっは、まあそう慌てるな。仕方ないかもしれんな。じっさいお前が一番わしに似ているようだから」
父上は俺の失言も咎めず上機嫌で笑われた。若宮の可愛さによろずの罪もお許しになるらしい。俺も微笑みながら若宮を見守った。この子が無事大きくなりますように。そしてこの子に平和な世を継がせてあげられますようにと心の中で祈った。
父上の御前を退出するとき、光がさりげなく俺の後ろをついてきて俺たちは二人で梅壺に戻った。俺が自分の席に座ろうとした途端光は俺の腕を強く捕らえて
「兄貴、ちょっと」
俺を塗籠に引きずり込むと扉を閉めてサッと閂を差す。あまりの早業に俺は目をパチクリさせて薄暗い室内に尻もちをついていた。光は青ざめた顔のまま幾分怒った様子で俺の斜め前に座った。
「どういうこと?」
「えっ、何が?」
「知ってたの?」
「何を??」
俺はなぜ光がこれほど怒っているのかわからなくて当惑した。光は密室である塗籠内でも左右の気配を慎重にうかがいながら、俺の耳に手をあてて囁く。
「あの子のことだよ。知ってたの?」
「あの子って若宮様のこと?」
「あの子の父親が俺だってこと」
「えっ……えええええ!?」
あまりの衝撃に俺が大きな声を出すと、光が瞬時に俺の口を塞いだ。
「声がデカいよ」
「ごめん、でもなんで??」
「なんでって応援するって言ったじゃん」
「言ったけど、あれ実話なの?!」
「俺があの設定持ち出して虚構なわけないでしょ」
「いや現実なんて思わないよ……相手は帝だよ……」
俺は卒倒しそうにびっくりして二の句が継げなかった。嘘、なんでそんなことしちゃったの……やることの規模が大きすぎるよ……。
「でも確かなの? 何かの間違いじゃ」
「出産予定日が合ってるから。多分間違いない」
「そう……」
物の怪のせいじゃなかったんだと思って俺はそこだけは良かったような気もした。それにしても、これは……。
「兄貴こそ知ってたんじゃないの? 俺さっき兄貴が『俺にそっくり』って言うから完全にバレてたんだと思った。バレてたけど知らんフリしてあのタイミングで父上にバラすつもりなのかと」
「しないよ、そんなこと」
俺は必死になって首を振った。そんなことしたら光もだけど藤壺さんがただじゃすまないよ。
「じゃなんであんな紛らわしいこと言ったの?」
「だって藤壺さんは桐壺さんとそっくりなんだから、その子も似るのかと思って」
「似るにも限度があるだろ。あの子は本当に俺にそっくりなんだよ」
光は嬉しさと困惑がないまぜになったような表情で俺に語った。
「そんなに似てるんじゃ、藤壺さんはさぞお辛いでしょう」
「うん……もう全然会ってくれない」
「気の毒に……」
光と藤壺さんのどちらに向けたらいいかわからないような気持ちで俺もため息をついた。これは、苦しい。死ぬまで隠し通せるのか。
「とにかく若宮様を守らなきゃいけないね。もちろん藤壺さんも」
「そう思ってくれる?」
「そりゃ思うよ。俺陣営が一番危害加えそうなんだから」
俺は今までにない規模の最重要機密がこの人生に加わってしまったと思って腹の底がズシンと重くなる気がした。こんなことが微かにでも母や祖父に知られたら。大変なことになる。
「他に知ってる人はいないんだよね?」
「俺たちと手引の命婦以外知らないよ」
「そう……」
先程までの父上のあの嬉しそうなお顔が目に浮かんで、俺はなんとも言えない気持ちになった。あの愛らしい若宮が子ではなく孫だと知ったら、父上は嘆かれるだろうか。喜んでくれるのではないかと思いたいけれど。とてもじゃないが父上に明かせる秘密ではない。
「光もつらかったね」
俺は今までの光のどこか思いつめたような表情はこのせいだったのかと察して、長年の謎が解けたような気がした。
「兄貴が味方してくれるなら、心強いよ」
光はいくぶん生気を取り戻した様子でため息をついて。俺たちは薄暗い密室内に呆然と、しばらくの間座っていた。誰より美しい御子が生まれて。衝撃的な秘密生活が始まってしまったと思った。
014 帝になったら
この年の七月、藤壺さんは后になられた。今後は中宮さまとお呼びすべきかな。光は宰相になった。父上は可愛い若宮を春宮にすべくいよいよ譲位の心構えをなさって、若宮のご後見のため二人の地位を重くなさったらしい。蛍の言った通りになってきたなと俺は思った。
「一番早く入内なさった春宮女御を差し置いて立后とは……」
とヒソヒソ不満を口にしてくれる人もいた。春宮女御とは俺の母のことだ。たしかに一般的に考えれば、春宮を産んだわりに母の扱いは軽すぎるのではと俺も思っていた。父上にしてみれば俺がいなければ誰にも遠慮せず光を春宮にできたわけで、なぜ産んだという感じかもしれないが……。
「もうすぐ春宮の世がくることは確実なのだから安心なさい」
と父上は母をなだめるのだけれど。母と祖父の右大臣は長年我慢させられていたぶん、俺が即位した途端今までの不満を爆発させるように派手なことを行いそうで怖い気がした。贔屓も冷遇もほどほどにしてほしいんだけれど。思い切りやってしまおうとするあたり、父上と母は似た者夫婦なのかもしれない。
「光は宰相になりましたね。おめでとうございます。若宮もすくすく成長され、御所は幸せな雰囲気に満ちております。」
俺は光について不自然に触れないようにするのはやめて、葵さんには正直に今の胸の内を明かそうと思っていた。長く続くことが大切だから。光がこの文通を容認してくれていることもわかり、葵さんさえ嫌でなければ、俺はこの交流が細く長く、ずっと続くのもいいと思い始めていた。
「ありがとうございます。急な加階に思えますが若宮とお后様のご後見のためでしょう。春宮さまの御世も近いのでしょうか。」
葵さんの言葉にはどこか不安げな気持ちが表れていた。葵さんは左大臣の娘さんだから不安に思うのも当然だろう。頭中将さんと葵さんのお母上は父上の妹宮で、左大臣家と帝の繋がりは深かった。でも俺が即位してしまえば、たちまち右大臣の世になってしまう。
「俺が全てを決めることができるといいのですが。不安な気持ちにさせてすみません。」
父上のように強権をふるって今まで通り左大臣家を優遇するか。俺は書く手を止めて考えた。できるか? していいのか? 今までずっと待っていた右大臣家の人々の気持ちは? 長い間真面目に仕えているのに大して報われない人もたくさんいる。権力が交代すると信じているから待っているのに、裏切ったりしたら。それこそ秩序を破る行為で俺にはできそうもない。難しかった。
「俺も光と同じように、若宮と中宮さまをお支えしたいと思っております。」
今の俺にはそう書くのが精一杯だった。春宮になり帝になるということ自体、誰かの権力と打算が働いている。生まれながらの帝など存在しない。帝・に・し・て・も・ら・っ・た・という認識がおそらく正しい。
「帝になられたら、こんな文を交わすことも難しいのでしょうか。」
「そんなことはないですよ。むしろ今より楽になるかもしれません。俺は即位しても今の女房たちについて来てもらう予定なので、文通の自由くらいは確保するつもりです。ご安心下さい。」
葵さんがなおも不安そうに尋ねるので、俺ははっきりと約束した。初恋の人に会いにどうしても御所に来たければ尚侍になって宮仕えしてもらう方法もあるし。葵さんがどうしても来たがり、光が同意すればの話だけれど。
「帝になられたら、何をなさりたいですか。」
葵さんが話題を変えてくれたので、俺の心は少し晴れた気がした。
「何をということもないのですが。先代から渡されたものを守り、つつがなく次の御世へお譲りできればと思います。疫病や災害の少ない世になってくれるといいのですが。民や国や帝の地位や、即位している間だけお預かりしているものをなるべく損なわぬよう保持して、次に繋いでいきたいです。」
本当は何も持っていないようだと俺も気づいていた。地位、名誉、まとう衣装や宝物だってすべて「帝」に与えられたものだ。俺名義のものではない。ただの朱雀に戻った時、俺には何も残らないのかもしれないなと思った。生きるために借りていた物を一つひとつ返して、人は死ぬのかもしれない。
「本当は帝位よりその後の出家のほうが楽しみなのです。光や葵さん、若い方々の幸せを祈りながら日々を送れたら。一番幸せですね。」
つい本音を書いてしまって。墨だから消せないけれど、せっかくだからそのまま巻いてお送りした。年寄りくさい好みだと笑われてしまうかな。葵さんが笑ってくれたらいいなと思っていた。
015 若宮のご成長
葵さんはゆっくりとしたペースで俺と文通を続けてくれた。青い巻物は二巻目に入って。俺は最初の頃のように絵も取り交ぜながら葵さんに日々の暮らしを報告する。
「若宮は元気にお育ちで、近頃ハイハイなさるようになりました。御所の長い廊下を一心にハイハイなさる様子はとても可愛いです。いつもは藤壺におられますが、若宮はこちらにも来て下さることがあり、俺は赤ちゃんってこれほど可愛いのかと初めて知りました。若宮のご成長のおかげで御所は華やかで幸せな空気に満ちています。」
俺は若宮のハイハイなさるご様子を絵に描いてもらい葵さんに送った。最近の梅壺は俺だけでなく女房たちまで若宮見たさに何度も廊下を覗いてみたり、御簾を上げ几帳をどかして見晴らしをよくしておいたりしがちだった。若宮は輝くばかりに可愛くて。この子が幼い頃の光にそっくりだと言うなら、誰でも光に夢中になってしまうだろう。
中宮さまは秘密のために内心おつらいのだろうが、若宮のご成長が慰めになっているようにも見受けられた。お姿を拝見することはないけれど、若宮にかけるお声や女房たちと話すご様子に喜びが垣間見える。この子の誕生が間違いだったなんてことはないと俺は思った。むしろこの子の存在が中宮さまを支えているのだろう。
「最近の若宮はつかまり立ちや伝い歩きをなさるようになりました。目線が高くなり、様々なものに興味をお持ちのようです。女房たちは若宮の手を取ったり、おもちゃで気を引いたりと毎日大変な騒ぎです。父上もたいそうお喜びで、若宮の生い先見たさに寿命が延びる気持ちだと仰っておられました。」
葵さんに対する文なのに若宮の成長日誌のようになってしまい、書いてから俺はまずかったかなと反省した。ただ今の御所は若宮のご成長以外重要なイベントがなく、俺もそのことに一喜一憂しているため、どうしても書かざるを得ない。
「若宮のことばかりお伝えしてすみません。鬱陶しかったら仰って下さい。」
「いいえ、若宮の可愛らしいお姿、いつも楽しみにしております。赤ちゃんの成長というのは希望ですね。」
葵さんがそう返してくれたので俺は嬉しく思った。本当にこの子が未来の希望だ。光も御所に来るたび必ず若宮のご様子を確認しては嬉しそうに微笑んでいた。本当は手元で育ててその成長をつぶさに見たいんだろうな。だってこんなに可愛いのだから。
若宮は順調に育たれ、年が明け生後一年を迎える頃には歩かれるようになった。よちよち歩きながら前をしっかり見つめ、手を伸ばして歩まれる。皆がおいでおいでと手を打ってはやした。赤ちゃんの成長って本当に早いなあ。
「若宮は今年に入ってもう歩かれるようになりました。まだ危なっかしいですが転んでも起き上がり、しっかりしたご様子です。お体もお強いようで、今のところ大きな病にもかからないので俺はほっとしています。」
そう書きながら俺は、若宮のご様子を一方的に伝えることはそろそろ控えようと思っていた。若宮は成長なさるにつれますます光に似てくるようで、やはりドキドキする。将来どんな子に育つんだろう。俺はこの子をどこまで守れるんだろうか。
「梅が咲き、桜のつぼみも膨らんで、もうすっかり春になりましたね。」
葵さんは邸に植わっている花々を描いて送って下さって、俺は救われるような気がした。若宮がお生まれになってからの一年、とにかく無事に終われてよかったと思った。
016 朧月夜
若宮が歩かれるようになって光は本当に嬉しそうだった。小さな手を取って立たせてあげたりして。若宮も光を見るとニコニコと嬉しそうにお笑いになる。親子水入らずの時間を作ってあげたいけれど難しいよなあ。父上が光を頻繁に御前に呼んで下さるのがせめてもの救いで。光はあくまでも年の離れた兄のような顔で若宮をあやしていた。
光二十歳の二月、御所の南殿で花宴が開かれた。光ももう二十歳になったんだなあ。俺の三倍くらい忙しい人生を送ってそうだけれど。
宴では父上を中心に左手に中宮さま、右手に春宮である俺が座した。蛍や他の親王たち、上達部らがお題をもらって詩を作る。
「春という字を賜りました」
と名乗る声さえ他の人とは違って聞こえて。光はやっぱり詩も上手で本当に何でもできるんだなと思った。
光はあれから中宮さまと会えているかな。御所にいる間は若宮もおられるし、無理だろうな……。里帰りのような機会があればいいけれど。恋人同士だから会えてほしいという気持ちと、下手に動いてバレないでほしいという気持ちが俺の中で交錯した。
御所の桜は綺麗に咲いて、うららかな春の午後だった。楽の音ものんびりと優雅で皆の衣の香も芳しく、俺は幸せな気持ちだった。このまま父上の御世が続き若宮を立派に育てあげ、そのまま譲位できたらいいのに。俺は嵐の中心にされるのが嫌でたまらなかった。でも母も祖父もそのために今まで必死で俺を育ててきたのだから。俺の存在って面倒くさい。
柔らかな夕陽が御所を照らして、宴も終りに差し掛かった。俺は近づいてきてくれた光の冠に桜の挿頭をして声をかけた。
「おつかれさま」
「ありがとう」
光は以前より晴れやかな顔で微笑むと、春鶯囀の最後の一節をさり気なく舞って見せてくれる。こんな姿も中宮さまに届くといいなと思った。父上や母が亡くなるまで秘密の関係を続けていられれば。いつか二人が誰に遠慮することもなく堂々と愛を育める世が訪れるのかもしれない。
夜も更けて宴はお開きになり、中宮さまと俺はそれぞれの局に帰った。俺たちがいるとどうしても羽目を外せないだろうから。皆はこれからまだ飲むのかもしれない。俺は多少飲んだけれどまだまだ記憶は確かだった。空には月がのぼり、暑くも寒くもなく過ごしやすい春の夜だ。
寝ようとしたがのどが渇いて、俺は水でも飲もうと起き上がった。女房が気づいて立とうとしてくれたが押しとどめて、自分で灯りを持って歩く。まだあったと思うけれど、どうせなら汲みたての水を貰いに行こうかなどと思った。心地いい夜で、すこし夜風を浴びたいような気持ちもあった。
「夜中にごめんね。水を頼めるかな」
下働きの人に水を頼み、しばらく戸口でぼんやりしているときだった。
「朧月夜に似る物ぞなき……」
かすかだが綺麗な歌声が聞こえて、俺は何気なくそちらを見た。ちょうど弘徽殿の戸口が一つ開いていて、誰か背の高い人が待ち構えているようだ。その人は中の女性に何事かささやくと、サッと彼女を抱き寄せて室内に入り、戸を閉めてしまった。あまりにも鮮やかな手腕で俺は息をのんだあと、そっと視線を外した。
盗み見るなんて失礼なことをしてしまったけれど、あれは光かな? 弘徽殿の誰かと恋仲なんだろうか。まるで物語の一節のようだったと思った。月光に照らされた二人の影は美しく、互いを見つめ合う瞳は運命の恋人同士のようで、俺は見てはいけないものを見た気がした。
017 海の姫君
「なにか、お話をして下さいませんか。」
少し夜ふかしして月を眺めていた夜、葵さんからこんな文が届いた。葵さんも寝られないのかな。葵さんも同じ月を見ているのだろうか。
「どんな話がいいでしょう。異国の話でも構いませんか。」
俺はのんびりした気持ちで書いて使いに渡した。すでにある話をそのまま書くのもつまらないかな。俺の手元にある面白そうな書物はだいぶ葵さんにお貸ししてしまい、彼女の女房たちが写して返してくれた後だった。
「春宮さまにおまかせします。」
葵さんもゆったりとした筆致で書いてくれて。
「では海の国に住む姫君のお話をいたしましょう。」
俺は話にきくだけで見たことのない海に憧れていたので、そんな書き出しで物語を始めた。
「昔むかし、海の国に一人の姫君が住んでおられました。海の国に住む人はみな泳ぎが上手くて、海の底でも息ができます。姫君は親きょうだいに可愛がられ幸せに暮らしておりました。しかしあるとき、地上の男に恋をしました。」
書いてから大丈夫だろうかと不安になってきた。俺に恋の話なんて書けるのだろうか? でも葵さんは好むかもしれないな。昔読んだ物語をいくつか織り交ぜながら筆を進める。
「男は乗っていた船が難破して浜にうち上げられておりました。このままでは死んでしまいます。姫君は海の王様にお願いしました。どうかあの方をお助けくださいと。ですが王様は悲しそうにおっしゃいました。
『あの者ひとりを助けることはできない。命に特別はないのだよ。だがどうしても助けたいと言うならお前を陸へあげてやろう。そこで介抱してやりなさい。そのかわり、一度陸へあがるともう海へは戻れない。彼らのように海で溺れる体になってしまうが、それでもよいか』
『はい、よろしゅうございます。ありがとうございます、王さま』
姫君はよろこんで陸にあがりました。そしてうち上げられたいとしい人を一生懸命介抱しました。」
俺は考え考えそこまで書くと、くるくる巻いて葵さんへ送った。どうかなあ、これは。葵さんのお気に召すだろうか。俺は返事を待つつもりがついウトウトしてしまったらしく、気づくと夜明け前になっていた。俺のそばには青い巻物がひとつ、そっと置かれてあって。中を開くと美しい姫君、果てなき海、打ち上げられた難破船など、俺の話にあわせた絵が描かれていた。
「面白いな」
俺は嬉しくなって葵さんの配慮をありがたく思った。葵さんもこの話を楽しんでくれているのかな。俺は次の夜も同じような時刻に話を書いて、葵さんへ送ることにした。
「男はやがて目を覚まし、姫君に礼をしたいと言いました。彼は地上の国の王子だったのです。姫君はうれしいけれど、じっと見られるのが恥ずかしくて思わず逃げようとしました。ところが王子は姫君の手を取り片時も離してくれません。王子は姫君を迎えの船に乗せて自分の国へ連れ帰りました。」
なんだか好色な展開になってきたなと俺はヒヤヒヤした。
「王子の国では彼の帰りを皆が喜びました。彼は長い間行方不明で亡くなったのではないかと思われていたのです。王子は姫君にきれいな邸を与え召使いをつけました。たまに会いにきますが一緒には住みません。実は王子には先に結婚していた妃がいたのです。この方は若く美しくとてもやさしい方でした。だから王子も大好きで、生還した喜びをまず彼女に話して聞かせました。
『この子が僕を助けてくれたんだ。とてもやさしい子でね。くにがないというから可哀想で連れてきた。世話をしてもいいかな』
『あなたの命の恩人ならそれは歓待しなくてはなりませんわ。明日にも宴を開きましょう』
海の姫君は困って顔を赤くしました。お妃さまはとても美しく、若いのに品があります。自分のことを大切にしてくださるのもひとしおでした。ですが海の姫君にはそれがだんだんつらく、苦しくなってきました。王子と妃の幸せそうな姿に、姫君は人知れず涙がこぼれました。」
一息に書いてしまってから、さすがにこれはまずかったのではないかと俺は思った。この姫君は幸せになれるのだろうか。海の国にはもう戻れないのに……。
これを送るか書き直すかかなり迷ったが、結局このまま送ることにした。いくら作り話でも綺麗事だけではつまらないだろうから。
葵さんはしばらく返事をくれなくて、俺はついに怒らせてしまったかなと思った。ところが数日後、たくさんの挿絵が入った返事が返ってきて俺はほっと胸をなでおろした。妃が主人公の姫君以上に美しく描かれているなあ。葵さんのお邸ではお妃さまは葵さんのことだと思っているのかもしれない。
「女房たちまで読みたいと申しますので、皆に回していたら時間がかかってしまいました。遅くなりましてすみません。」
美しい挿絵の横に小さく、申し訳なさそうに説明してくれるところに葵さんの優しい人柄を感じた。女主人として皆に慕われているんだろうな。俺はつい嬉しくなってきて、次の夜もまた書き進めた。
018 悪い王
「姫君はこのつらさを誰かに訴えたいと思いました。でも見知らぬ国で知り合いがいません。王子様が唯一の頼れる人ですが、まさか王子様にこのつらさも言えず黙って笑っているしかありませんでした。不満があるような顔は見せられないと思いました。」
書きながら俺はつらいなと思った。善意と好意のかたまりのような人を裏切ることは容易ではない。妃と王子を奪い合うような真似はこの姫君にはできないだろう。自分の気持ちを押し殺し、黙って見ているしかないのか。
「姫君は寂しくなると海岸に行きました。澄んだ海の底がはっきり見えます。ときおり知った顔が現れて彼女を心配そうに見つめました。海の国の人は皆、陸に上がった彼女のことを気にかけていたのです。姫君はそれを見るとたまらなくなりました。今すぐ飛びこんで皆に会いたい。でもそれでは死んでしまいます。彼女はもう海に暮らせないのです。姫君はお別れをしようと思いました。王子様に最後、ひと目だけ。ひと目だけでも会いたい。会って好きでしたと言いたい。そう思い、ある夜お城へ忍び込みました。」
俺はここまで書いて葵さんへ送った。葵さんはどんな展開を期待しておられるのだろう。葵さんは妃目線で読んでいるのかな。それとも姫君目線なんだろうか。俺は尋ねられないのがもどかしいような気持ちで寝床に入った。恋に破れた全ての人が救われる世があればいいのに。
お返しに下さった挿絵も、海の国の同胞の心配そうな表情、姫君の思いつめた様子などが細かく描かれいつも以上に熱が入っている感じがした。絵を描いてくれた女房も続きを気にしてくれているのだろうか。十五夜を過ぎだんだん遅くなる月の出を待ちながら、俺は続きを書いた。
「王子様はもうおやすみになっておられました。薄暗い寝所にそっと近づきます。姫君はそこではっと足をとめました。王子様は一人ではありませんでした。お妃様とともに幸せそうに眠っておられます。姫君はそれをじっと見つめました。これが答えなのだ。ゆるぎない答え。これ以上何を言って王子様をわずらわせることがあるだろう。お妃様を悲しませることがあるだろう。姫君はお城を立ち去りました。二度と振り返ることなく、海岸への道をひとり駆けました。」
俺は息を吐いて筆を置くと、墨をすって心を落ち着けた。筆に墨を含ませて。一気に姫君の最後を書く。
「東の空が白んで夜が明けるところでした。姫君は美しい朝焼けに瞳を染めると、崖から一直線に身を投げました。もう思い残すことはない。最後はふるさとの海で死のう。姫君の体は波にのまれ泡になろうとしました。そのときです。大きな腕がぐっとのびて姫君の体を支えました。やさしく包んで抱きよせます。彼女が王子にしたようでした。同じように姫君は介抱されました。
『お前にはダメだといったのに。私は悪い王だね』
腕の主は王様でした。海の王様が姫君を抱きあげておられます。
『海の掟を破ってしまった。お前は今度こそ幸せになるんだよ』
王様はそう言って微笑むと、姫君を家族のもとへ送ってくださいました。彼女はまだ生きています。再び海で暮らせるようになったのです。姫君はうれしいと思いました。でもお礼を言うべき王様がいつの間にかおられませんでした。
『王様は退位なさるのだよ。お前を助けるため、すべてを捨てたのだ』
姫君はそれを聞くとたまらなくなって家を飛び出しました。長い衣を脱ぎ捨て、ぐんぐん泳いで、王様を追って西へ西へと向かいました。」
俺は書いてしまってから見返すこともなくそのまま葵さんへ送った。見返すのが苦しいような恥ずかしいような、妙な気持ちだった。姫君が死なないのは良かったかな。このように王権を使えたら格好いいだろうなとは思う。
これに対する返事は本当になかなかこなかった。俺はもうあの巻物を葵さんの手元で永遠に持ってもらってもいいと思った。もちろん処分してもらっても構わないのだけれど。ひと月、ふた月すぎて季節も変わろうかという頃、丁寧な返事が届いた。
「素晴らしいお話をありがとうございました。とても面白かったです。最後姫君が家を飛び出すところが素敵ですね。姫君はその後王様にお会いできたのでしょうか。」
海の王様が姫君を抱き上げる様子や姫君のぐんぐん泳ぐ姿がいきいきと描かれていて、俺はありがたく思った。この先はどうなるんだろうな。
「そうですね。王様と会えて思いを伝えたのかもしれません。結婚して仲良く暮らせるといいのですが。」
俺は何気なく書いたが、葵さんの返事はもっと現実的なものだった。
「こんなに素敵な王様ですから隠棲先にも奥様をお持ちかもしれませんね。女性たちが放っておかないでしょうから。」
そう書かれると後が継げなくて俺は苦笑した。物語の終わりは現実の始まりか。
一人の男が一人の女しか愛さないということが可能なのだろうか。もしそれをしてしまったら、泣く人より笑う人のほうが多くなるのかな。それとも負けて涙をのむ人が増えるのか。俺には判断できない気がした。光のような貴公子がそれをしたら多くの女性はがっかりするだろう。
「春宮さまが海の王様のような気がして胸踊らせながら読みました。またお聞かせ下さいね。」
葵さんが家に縛られ苦しんでいる姫君だとして、俺に救う方法はあるのだろうか。光と引き離し宮中へ連れ出すか? この狭い京で。
葵さんの字を見ながら俺はじっと考えた。無理だ。宮仕えこそ実家の後ろ盾が物を言うのに。光を婿にして喜んでいる左大臣が許すわけはない。いくら考えてみても妙案は浮かびそうになかった。
019 朱雀帝即位
「すー兄久しぶり!」
「久しぶりだね」
御所の廊下を歩いていると蛍が下から手をふるので、俺も近寄って手を振り返した。
「今日は蹴鞠しに来たんだ」
蛍はそう言うとぽんぽんとテンポよく上手に鞠を蹴る。足の甲、内側、高く蹴り上げて額の上、膝上、もう一度蹴り上げて首の後ろと、体中どこでも鞠を受けられるらしく一人で自在に鞠を操った。
「上手いね」
俺はただ感心して見ていたが
「すー兄もやってみなよ」
蛍に鞠を渡されて困惑した。
「俺やったことないんだ」
「うそ!? 貴族の嗜みだよ」
「手鞠遊びならできるかも」
「女子じゃん……」
蛍は呆れて苦笑していたが、俺から鞠を取り返すと突如大きな要求をした。
「そうだ、すー兄の御世に全国大会開いてよ!」
「全国大会って、蹴鞠の?」
「うん。蹴鞠の日ノ本一を決めんの」
「たぶん京でしか流行ってないと思うけど……」
「じゃー京一でいいや」
蛍はそう話す間も、かかとや足の外側でぽんぽんと何度も器用に鞠を操った。鞠は全く地面に落ちない。すごい技術だなあ。たしかにこんな卓越した技を持っている人には定期的な見せ場や活躍の場があったほうがいい気がする。
「蛍様、揃いましたよ!」
「今行くー!」
蛍は庭のほうから名を呼ばれて素早く返事すると、
「今日皆で蹴鞠するんだ。すー兄も見にきなよ!」
俺を誘うともう庭へ走っていってしまった。蛍って格好いいなあ。爽やかで頼りになりそうだ。
俺は御所の庭がよく見える廊まで歩くと、そこへ座って皆の蹴鞠を見た。五、六人で輪になって鞠を落とさないよう上手に蹴りあう。相手が返しやすい強さで蹴るのが難しそうだ。勝ち負けはなく長く続けることが大事らしかった。和を重視した良い競技だなと俺は感心して見ていた。
「一、二、三、四……」
鞠の跳ねる回数を数えながら一心に見ていると、俺の袖をつと引く人がいた。俺が何気なくそちらを見ると、若宮が俺の袖を掴みながら目の前の蹴鞠に目を奪われている。若宮は三歳になられ、歩いたり速く走ることもできるようになられていた。
「け・ま・り・ですよ」
俺が教えると、若宮は沓も履かず庭に降りて行こうとなさり女房たちに止められた。
「したいの?」
蛍は若宮のそばまで近づくと優しく尋ねた。若宮は蛍の顔をじっと見てコクッとうなずかれる。蛍が予備の鞠をその小さな手に渡してやると、若宮は大喜びで廊下を駆けて行かれた。俺は可愛いなと思ってその背を見送った。若宮も将来帝になられるお方だが、昔の俺と違って弓や剣を模して戦いごっこをなさったり外で遊んだりしておられるので、たくましく育ちそうで俺は嬉しかった。
「春宮様、こちらでしたか」
若宮と入れ替わるように父上付きの女房に呼び止められて、俺は振り向いた。父上がお召しだと言うので急いで御前に参上する。
「朱雀、いよいよだな。心づもりは良いか」
「と、おっしゃいますと」
「譲位だ。院の改修が済み次第執り行う」
院とは譲位なさった帝がお住まいになられる邸宅だった。譲位の話なのに父上はどこか待ち遠しいような、嬉しそうなご様子に見える。
「すぐ移られますか」
「そうしたいのはやまやまだが荷が先だ。設えを整えた後に移る。譲位の儀、滞りなきよう頼むぞ」
「はい」
俺は返事をしてうなずきながら、目を伏せた。
「父上」
「なんだ」
「お譲りになられてもご指導を賜ることは可能ですか」
「無論だ。わしの目の黒いうちは弘徽殿の好きにはさせんぞ」
「良かった」
俺がほっと胸をなでおろすので、父上は苦笑して問われた。
「喜んでいるのか」
「俺、即位するのが怖くて……」
父上はしばらく俺を見つめておられたが、厳かな口調で仰った。
「春宮を守り、国を守れ。帝はそのためにいる。光にも必ず頼りなさい」
俺は父上のお顔を見上げて深く一礼すると御前を辞した。そうだ、怖くても踏ん張らないと。長い髪を梳り高い位置で結うと、装束を整えて俺はその日に臨んだ。父上からお話があってから半月後、光や蛍、大勢の臣下が見守る中譲位の儀式が執り行われ、俺は次の帝となった。
020 初めての命令
父上が院に移られたので、俺は帝の居所である清涼殿に引っ越すことになった。梅壺にいた女房たちも大半は付いてきてくれることになり、ひとまず安心する。塗籠を整理して蔵にしまうものと身近に置きたいものを選り分けたり掃除したり、やることはたくさんあった。中身を確認しようと書物や文などに目を通すとすぐに時間がたってしまう。
「私たちが致しますから」
俺はあまりウロウロしても邪魔になるので荷物は女房たちに任せることにして、昼御座に座っていた。畳の上に茵を敷いてその上に座る。思ったよりふかふかして座りやすい席だった。緊張するな……。御帳台にも年季が入っていて、今までの帝はここに座ってどんなことを考えてきたのだろうと思った。
父上は中宮さまと共に院で普通の夫婦のようにお暮らしだった。引退なさった後も季節に応じて様々な宴を催して下さる。母は大后として弘徽殿に残った。父上についていくの嫌だったんだろうな……。若宮は春宮に立たれ、梨壺を春宮御所として使われることになった。まだ三歳だから母上が恋しくて仕方ないだろうに。乳母やお付きの女房たちがいてくれるから少しは気が紛れるかな。
春宮に対して様づけは変だし呼び捨ても嫌だしで、俺はどう呼ぼうか悩んだ末に「冷泉さん」とお呼びすることに決めた。これなら帝になられてからも多分変えなくてすむし、親愛の情は一応示せる気がする。
冷泉さんは父上や中宮さまが院に移られお寂しそうではあられたが、癇癪をおこして泣きわめくような方ではなかった。常に落ち着いて賢そうで、言いつけを良く守られる。無理されてないかな。
春宮が御所で養育されるのは仕方ないことだが、俺の場合父上は帝だし母も御所にいたしで寂しさを感じたことはなかった。冷泉さんは二人とも離れてしまって心細くないかな。光に頻繁に来てもらって冷泉さんを見守ってもらえたら一番いいんだけれど。俺が一点を見ながらそんな考えにふけっていると、
「みかど」
不意に呼ばれた気がして俺は前を向いた。御簾一枚を隔てて光が畏まった様子で座っていて。
「光。いつもみたいでいいのに」
俺はどこか可笑しくて苦笑してしまった。
「そういうわけにはいかないよ」
光もクスッと笑うと、急に真面目な顔に戻って仕事の話をすすめた。
「祭の件ですが」
「そうだね、斎院の体調も良いし予定通り行えると思う。御禊の日は供奉をお願いできるかな」
「かしこまりました」
光は宰相中将から大将に昇進してだいぶ上りつめた感はあった。父上は譲位なさるまでに光を上限ギリギリまで加階させたかったんだろうな。ただ官位に関わらず、どんな仕事を任せても光なら心配なさそうだった。公務の際の光は冷徹で一分の隙もなかった。
「忙しい?」
「御用とあらば承りますが」
「大将には、一日一回春宮と触れあう任を仰せ付けます」
俺は精一杯威厳を作って言ったつもりなのだけれど、光はくすくす笑いを必死に噛み殺して
「仰せのままに」
優美にお辞儀すると退出した。帝って難しいな。人に命令するって難しい。
斎院というのは賀茂社に奉仕する皇女で、俺の妹の三宮という人がその任に就いていた。宮中での潔斎も終わりいよいよ紫野へ発つので今年は行列が行われる。俺が光に頼んだのは祭の勅使だった。光以外にも位の高い貴族が美麗な装束で列に付き従うことになっていた。
021 破壊と懺悔
「妊娠したようです。」
俺が帝になってから初めて来た葵さんからの文には、不安の色が濃く表れていた。
「昨年末から気分が優れなかったのですが最近は特に酷く、胸をせき上げるように苦しいこともございます。祈祷、修法もさせていますがなかなか良くなりません。」
俺は心配になり、なんと返したらよいかわからなかった。
「どうかお大事になさって下さい。俺も祈祷をさせます。」
書いて送ってしまってから、おめでとうございますと言うのを忘れたと思った。おめでたいんだよな。新しい命の誕生はおめでたいが出産は命がけだから怖い。月の夜ごとに絵物語を交換した去年のことが遠い昔のように思い出される。光も御所から左大臣邸に帰り、そのまま御所に来るという日が増えていた。
「葵さんの具合はどう?」
「だいぶしんどそうだね。中宮様が妊娠してた時よりつらそう」
光がそう言うので俺はますます不安になってしまった。光は冷泉さんに笛を吹いて遊んであげていて。俺はふと通りがかった体でそっと話をきいていた。
「そんな顔しないでよ。一応めでたいんだからさ」
「ごめん」
光の子がもうひとり生まれるというのは嬉しいに違いなかった。でも……。お腹の子も葵さんにも元気でいてほしい。その夜青い巻物が届いて、俺は緊張して開けた。
「この子が生まれたら、たまにでいいので気にかけて頂けませんか。」
葵さんは筆を持つのもつらそうで。でも代筆を頼まず自ら書いてくれた字だった。
「もちろんです。伯父として精一杯のことをさせて頂きます。」
俺は宣誓文のように書いて直接使いの人に渡した。
「無理に返信しなくていいと伝えて下さい」
左大臣邸も文通どころではないのだろう、俺がそう言うと使者は頷いて去った。俺は毎日手を合わせて祈っていて。どうか無事に生まれて下さい。どうか……。俺は夜も眠れず昼御座に居てもぼんやりしながら、夜昼なくそのことばかりを祈っていた。
◇◇◇
四月になると、いよいよ賀茂祭が行われた。斎院の御禊の日、一條大路は公卿や女房たちの物見車で混雑し身動きも取れないほどだったそうだ。俺の頼みどおり、光は特別な宣旨の大役を滞りなく果たしてくれた。盛装した光を一目見ようと貴族だけでなく町の人々まで街頭に繰り出して大変な騒ぎだったらしい。
「奥様は体調もお悪いし最後まで嫌がっておられたんです。でも私たちがどうしても見たいと無理を言いまして……。急に行きましたので場所がなく、私たちは困っておりました。諦めて帰ればよかったのですが。若い従者たちが酔い過ぎ、挑み心を出しまして、私たちの車が強引に六条様に押し勝ちそこへ陣取ってしまったのです。大変ひどい有様でした。奥様には二度とお見せできません。」
いつも上手い絵を描いてくれた葵さんの女房が俺に悲しい報せをくれた。巻物には入れられないからと別の紙でくれた文には、榻を壊され、奥に押しやられた哀れな網代車が描かれていた。
「奥様は大変な落ち込みようでお体もますます悪くおなりのようです。今では筆を握るお力も無く、絶えず苦しげに臥しておられます。本当にお詫びのしようもございません。」
俺は目の前が真っ暗になるような気がした。葵さんの女房たちが今日の御禊見物に繰り出したのも、光の晴れ姿を一目見たかったからに違いない。こんなことになるなんて……。俺は車を壊された人も哀れだし葵さんも気の毒だしで、胸が塞がる思いがした。
022 謝罪の文
六条御息所という方がいた。父上の弟で、俺の前の春宮の奥様だった方だ。美しく教養があり、社交上手で若い公達が憧れるような気品に溢れていると評判の方だった。俺は交流したことはないが、この件について謝りたい一心ですぐ筆を執った。
「突然文を出します非礼をお赦し下さい。このたびの事、言葉にできぬほどの衝撃で大変心を痛めております。父上の叔父上へのお気持ちは特別で、いつも国の固めと頼み信頼しておられました。必ず国のためになくてはならない御方でした。叔父上がついに即位なさらぬままお亡くなりになられたこと、今も無念で仕方ありません。
本来なら后となられるはずだった貴方の御車を乱暴に破壊するなど絶対にあってはならぬ事です。混雑するのが祭の常とはいえ、何の配慮もせずお助けもできなかった罪、帝として深くお詫び申し上げます。
この件は左大臣家の女房から直接聞きました。若い従者の狼藉とはいえ、女房たちも止められなかった責めを強く感じているようです。大殿の姫君は何故このようなことになったかと泣いておられます。私も申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうです。本当にすみませんでした。どのようなお詫びも致します。どうか私に仰って下さい。」
俺は風流でもなんでもない、ただ謝罪を重ねただけの文を書き上げ折りたたんでしばし困った。書いたはいいがどうやって渡そう。六条さんの邸の場所はわかるが、普段何の交流もないのに帝からいきなり文って失礼だよな。謝罪文なのに渡し方が失礼なのはどうなのか……。
俺は室内をうろうろしながら考えあぐねると、光に助けを求めた。
「夜分にごめんなさい。この文を六条御息所さんに渡してもらえませんか。」
二條院か左大臣邸か、どこにいるかわからないけれどとにかく光を探して渡してほしいと使いの人に無理を言って頼んだ。今日大役を果たしてくれたので光は明日は休みのはずだった。お願い、どこかにいて……。光は意外に早く見つかったらしく、
「俺も気になってたから御息所さんの所に行ってみるね。」
という返事をくれた。光優しい。人使い荒くてごめんなさい。俺は自分の謝罪が少しでも届くよう祈った。どうしたら六条さんの傷ついた心を癒やして差し上げられるだろう。
叔父上がいて下さったらと願ったことは幾度となくあった。俺は権力争いも人が死ぬのも見たくなかった。出家したいのも本心だった。許されるなら春宮にも帝にもなりたくはなかった。
◇◇◇
祭の二日目もぼんやり過ぎて。俺は葵さんの具合が良くなることだけを祈っていた。あまりにも食が進まず夕餉も途中で下げてもらった時。
「お人払いをお願いできますか」
急に光が来てくれたので、俺はすがるような気持ちで光の隣に座った。
「休みだったのにごめんね。光を文の使いにしてしまったし。ごめんなさい」
光は軽く首をふると、苦笑しながら驚くべきことを語った。
「それが衝撃的なことがあってさ。御息所さんはどうも、葵の腹の子は兄貴の子だと思ってるフシがあるんだよね」
「えっ、あの文を読んで?!」
「うん」
なんでそうなった?! と俺は頭が混乱した。光はくすくす笑いながら話してくれる。
「いや気持ちはわかるんだよ。まずあの文を俺が持ってくること自体が意味深じゃん。兄貴は左大臣家の女房とも親しいようだし必死で葵のことをかばうし。御息所さんの中では俺、葵、帝の三角関係が完全に成立してて、どうも俺公認で葵と帝が交際してると思ってるらしい」
「もちろん否定してくれたんだよね?」
「面白そうだからそのままにしといた」
光がすまし顔で言うので俺はびっくりしてしまった。
「大丈夫だよ。あれほど酸いも甘いも噛み分けた女性ならたとえ事実でもバラしたりしないさ。彼女そういうの好きなんだと思うよ。夫ある姫君と帝の禁断の恋、みたいなさ」
「書かないほうがよかったかな」
「いやいや」
光はもう一度首をふるとしみじみした調子で続けた。
「帝手ずからの真剣な謝罪文をもらって彼女の溜飲もだいぶ下がったと思うよ。子のことも誤解ではあるんだけど彼女の怒りはかなり収まったというか。本当にありがとうございました」
光に丁寧に頭を下げられて俺は恐縮した。
「こちらこそ、すぐ届けてくれてありがとう。助かりました」
「でもすごいね、文一つで……。あの文は兄貴が帝でなければ書けなかったと思う。お見事でした」
光はふうと息をつくと勢いをつけて立ち上がった。
「これから葵の様子も見てくるね。たぶん少しずつ回復してくると思うから」
「そうだといいね。忙しいのにありがとう。光も元気でね」
手をふる光の背を見送って。俺は葵さんのために何かできたならいいがと思った。
023 幸せな夢
「私どものために御文まで書いて下さったと伺いまして恐縮至極です。誠にありがとうございました。おかげさまで体調も落ち着いて参りました。」
「出過ぎた真似をしてすみませんでした。お体少し良くなられたようで嬉しいです。安心してご静養下さい。」
光の予言した通り葵さんはあれから少しずつ回復されて、俺への文も下さるようになった。良かった……。俺はとりあえずほっと胸をなでおろして果物くらいなら食べられるようになった。
「最近はお腹で子が動くのを感じ、名など考えております。とても元気に動きますので男の子ではないかと思います。」
「楽しみですね。元気なお子さんに会えることを祈っております。」
俺は葵さんがお腹を撫でながらお子さんの名を考えているところを想像した。赤ちゃんとどんな会話をするのかな。光もお腹をさわって話しかけているだろうか。光は中宮さまの時は全然会えなかったと言っていたから、今度は夫婦で幸せな時間を過ごしてくれるといいなと思う。
光が続けている安産祈祷に俺も加えてもらって、皆で葵さんの出産を待った。神仏よ、葵さんをお守り下さい……。やがて八月上旬、元気な男の子が産まれた。光は二十二歳になっていた。
母子ともに無事という報せをうけて俺は安堵しながら産養を贈った。男の子かあ。冷泉さんに弟ができたと思うと嬉しい。もちろん公には言えないけれど……。
「夕霧と名付けることにしました。親ばかですが、とても可愛いです。」
葵さんからの文には、短いけれど愛情と喜びがあふれていた。産後で疲れただろうに。たった一言でも書いて下さったのが嬉しい。
「ご出産おめでとうございます。本当にお疲れさまでした。ゆっくり休んで下さいね。葵さんとお子さんの幸せを祈っております。」
俺が彼女に贈った文はこれが最後になった。葵さんはどこも悪くないように見えたが、邸じゅうが出産に安堵して気が緩んでいたある日、スヤスヤと深い眠りについたまま二度と起きることはなかった。
◇◇◇
司召の時期で御所に来る人が多かった。光も父である左大臣も御所にいて葵さんの死に目に会う事はできなかったそうだ。
「葵が死んだ」
俺はその言葉を不思議な呪文のようにきいた。全く現実感がなくて。長い髪に被衣をかぶり顔を隠して光の車に乗せてもらった。左大臣邸では皆のすすり泣く声が聞こえて。光がくるのでと空けてもらった席に俺も座って、被衣を取った。
「葵さん……」
彼女は安らかでただ眠っているように見えた。口元には微笑みをたたえていて。いつまでも幸せな夢を見ているのだろうか。俺は彼女の手を両手で包むと拝むように体をかがめて自分の額に押し当てた。手はまだ温かくて。涙があふれる。声を出さぬよう、出さぬようにと忍び泣いて肩が震えた。なんで……なんで……。
葵さんの袖を涙で濡らしてしまって申し訳なかった。帰らなきゃ、帝に戻らなきゃと思うのに。俺の時間は止まってしまって。その場から一歩も動くことができなかった。
024 空っぽ
その後のことは覚えていない。ずっといては人目もあるからと支えられて車に乗った。光が車と従者を貸してくれて御所に戻る。何もなかった。彼女との思い出を取ったら俺には何も残っていなかった。
日々の公務をこなすことはできた。人形になって座っていればいいんだ。髪も衣も人がやってくれた。光は左大臣邸で葵さんの喪に服し、しばらく御所に来ることはなかった。俺も鈍色の衣を着ていたかったが家族でもないのに不自然で、許されるわけはなかった。
葵さんは息を吹き返すことなく八月二十幾日かに鳥辺野へ葬られた。こんなに悲しいんだ。空っぽだった。夕霧くんは元気かな。お母さんの死も知らず無邪気に笑っているだろうか。
左大臣家の女房たちは葵さん亡き後里に帰る人もいたが、夕霧くんのために残ってくれる人もいた。絵のうまい人が俺のために夕霧くんを描いてくれて。光にも似ているし冷泉さんにも似ていた。俺は嬉しくて。少しでも嬉しいことが悲しかった。
「みかど、みかど」
ぼんやり座って外を見ていた俺の袖を可愛い手が捕らえて。冷泉さんはもう話せるようになられていた。
「みかど、きて」
小さな手に引かれて歩く。冷泉さんの部屋に入れてもらうと、床には所狭しと絵が広げてあった。花や風景を書いた絵、車、動物、雄々しい侍の絵もあった。
「絵がお好きなんですね」
俺が微笑んでうなずくと、冷泉さんは乳母からもらった紙を両手に広げて見せて下さった。
「みかど、たいしょー、ほたる」
女房が描いてくれたのかな。俺と光、蛍が上手に描かれてあった。冷泉さんはその似顔絵を床に広げて一人ひとり指さして俺に教えて下さる。
「ははうえ!」
そう言って自慢げに見せてくれたのは冷泉さんの作か、丸にニコニコ顔で描かれた中宮さまだった。
「お上手ですね」
俺は嬉しいのに泣きそうな気持ちになって、笑顔で涙を紛らした。この方の成長だけが希望で生きていけるような気がした。守らなきゃ。どんなに空っぽでも。盾になるんだ。
「冷泉さんあそぼー」
蛍が部屋の外から中へコロコロ鞠を転がすと、冷泉さんはパッと立っていってすぐに掴まれた。
「ほたる、けまりしよ!」
「裸足じゃ危ないなー」
蛍は廊下で鞠を手に持って冷泉さんに投げたり、受けたりして遊んであげている。平和だった。葵さんの喪が明けて平服に戻った光も久しぶりに御所にきてくれて。
「大きくなられましたね」
冷泉さんをよいしょと抱っこしてあやす姿は若い父子そのものだった。
「俺の所で育ててる子の裳着を、しようと思うんだけどね」
「結婚するの?」
「どうかな」
光は冷泉さんの頬に自分の頬をすり寄せて少し笑うと
「俺のこと親のように信じて慕ってるからね。でも人にはやりたくないし」
そのうちね……と言って、冷泉さんの指差す方へゆっくり廊下を歩いていった。
025 院の遺言
御所にはまた姫君が入内され麗景殿女御と承香殿女御と呼ばれた。麗景殿さんは母の兄の娘で俺のいとこにあたる人で、承香殿さんは祖父の次に勢力の強い上流貴族の娘さんだった。葵さんを亡くしてもう一年が過ぎていた。
葵さんに語ったことを実行しなきゃ。背後に親きょうだい、従者たち、たくさんの利害を背負って緊張している彼女たちには何の罪もなかった。俺は選り好む気も起きず儀式的に肌を重ねた。綺麗な人たちだった。抱きしめあえば温かい。愛さなきゃ。遊びじゃないんだ。早く子ができると良いと思った。思いながら、出産を機に誰かが死んでしまうのはもう耐えられないと思った。
「元気だして」
俺があまりふさぎこんでいるので光のほうが励ましてくれるぐらいだった。光の新たな奥様は中宮さまの姪にあたる方らしい。次々女性を愛せるというのは強い能力だと俺は思った。それで救われるひとが大勢いるんだ。心理的にも経済的にも。
「斎宮下向の件ですが」
「はい」
六条御息所さんに一生懸命謝罪文を書いたこともあったなと俺はぼんやり思い出していた。
「伊勢までの勅使は直々に選ばれますか」
「任せます。院の仰せもあるので考慮して決めて下さい」
九月に入り斎宮が伊勢へ下る日が近づいていた。母である御息所さんもついていく予定のようだ。最近父上の体調が良くないことも俺の気持ちを沈ませた。
「怒ってるの?」
光がふと話し言葉に戻るので、俺は我に返って光を見た。
「なんで?」
「斎宮さんが惜しくて怒ってるのかと思った」
「惜しくてというのは?」
「女御にほしかったかと思って」
光が何心なく言うので俺は苦笑して首をふった。
「要らないよ、だれも」
今でも手一杯という感じがした。「来なくていいです」というのも失礼だし局はまだ余っているし、今後どうなるのか怖い。
九月十六日、斎宮は桂川で御祓をしたあと御所へ来られた。母の六条御息所さんも一緒だった。叔父上に特別に愛された方だが入内して数年で死別なさったのを悲しく思った。叔父上が今も生きておられたら、いったい何人の人生が変わっただろう。
忘れ形見の斎宮さんは十四歳で、もともと美しい人が母御息所さんの支度で引き立てられ、これから神に仕えるのがもったいなく思えるほどだった。
「遠い旅路ですが、ご無事を祈っております」
俺は別れの御櫛を贈って斎宮さんを見送った。伊勢という語が俺に海を思わせて。むかし儚い物語を書いたこと、それを読んでくれた人のことがただ懐かしく思い出された。
◇◇◇
十月になると父上の病状は悪化して俺は院へ行幸した。父上はまず冷泉さんのこと、次に光を重用すべきことを繰り返し俺に仰った。
「遺言を違えるなよ」
「はい、必ず」
俺は答えながら悲しくて仕方なかった。その遺言を違えぬための力を俺に下さい。抑止力と実行力を、俺を帝に仕立て上げた人々を裏切り、ねじ伏せる力を。逆らう者を容赦なく斬り捨てる剣と自由に天翔ける翼を。俺に下さい。
あまりにもがんじがらめで身動きが取れなくなっていた。帝の周りは女性ばかりで政治的な協力者など皆無に思えた。
俺が帰ったあと冷泉さんと光も父上に会いに行った。父上は冷泉さんを可愛がり、最後まで別れを惜しんでおられたそうだ。母も会いに行こうとしていたが、中宮さまがそば近くにおられるのが嫌でためらっているうちに父上は亡くなられた。十一月の初めだった。
026 体を下さい
父上の死はショックだった。でも俺以外の人のほうがショックは大きかったようだ。俺の頼りなさから右大臣の世になることを嘆く声が多かった。祖父大臣に背いて政を行える帝がいるならそのやり方を教えてほしいくらいだった。
鈍色の衣を着て俺は祈りを捧げた。父上と叔父上と桐壺さんと、むかし光が亡くした恋人と葵さんにも祈った。祈る間は安心できた。女性を寝所に呼ばなくていいのも気が楽だった。
年が明け光は二十四歳になった。冷泉さんは六歳、夕霧くんは三歳になる。父上の喪が続いているので御所は静かな正月だった。除目で任官される従者も減り光は二條院で休んでいた。権勢は右大臣側に移り左大臣側には不遇が目立った。こんな世にしたかったわけじゃないのに。俺は無念さしかなくて、公務の間も途中で席を立ちたいくらいだった。
二月になり朧月夜さんが尚侍として参内した。大后である母は祖父の邸で暮らすようになり、今は彼女が弘徽殿を局として使っている。若く華やかな女房たちを優雅に付き従え、今をときめく方と言われていた。俺は礼儀上彼女を寝所に呼ばなければならないことはわかっていたが、どうしても気が進まなかった。
「朱雀様……」
その夜も一人で眠ったはずだった。夜更けだろうか、ゆらゆら体を揺らされている気がする。寝返りを打ちたいのに下半身が動かず、俺は妙だなと思った。腰から下が誰か乗っているかのように重い。俺は霊でもいるのだろうかと思った。
「ん……?」
ぼんやりした頭で足元を見ると、乗っているのは女性のようだった。足に長い髪の感触があり、むせ返るような甘い香りがする。彼女は俺の太ももに両手を這わすとぎゅっと抱きつき頬を乗せた。俺は肘をつきなんとか上体を起こすと、寝ぼけ眼をこすりながらその人を見た。
「朱雀様、私ですわ」
若く可憐な声がして、朧月夜さんのようだった。花宴の夜、歌声を聞いたような。
「こんばんは。今夜は、どうして……」
俺はすぐ閉じようとするまぶたをなんとか開きながら尋ねた。帝の寝所というのは俺・が・呼・ば・な・け・れ・ば・誰も来ないことになっている。
「一緒に寝たくて来たんですの」
彼女は俺にまたがると、俺の髪から耳、頬を両手で包み込むようにゆっくり撫で、綺麗な瞳で俺を見た。
「でもあなたは、光の」
「ごめんなさい。あれは事故なんです」
「謝る必要は無いですよ」
ゆるく首をふって、俺は怒ってはいなかった。好きな人と好きなように付き合えばいいんだ。あの夜の二人は本当にお似合いに見えたし。
「どうしてもダメですか?」
「貴女のせいではないのですが。そういう気持ちになれなくて」
今まで呼ばずにすみませんと俺は彼女に謝った。
「好きな方がおられるんですか」
「はい。この前亡くしました」
彼女は俺が落ち込んでいるのを見て、俺の頭を抱えるようにして優しく抱きしめてくれた。俺はしばらく彼女の胸の音をきいていて。
「朱雀様のお心がその方にあることはよくわかりました。ではお・体・は・私に下さいませんか」
「体をですか」
俺はどう答えていいかわからなかったが
「お望みならば差し上げます」
どこか不要品を扱うような気持ちで言った。この体は重く、物憂い。彼女は嬉しそうに微笑むと俺の額に口づけして、襟元に細い手を差し入れた。
「あの……無理しなくていいですよ」
俺は戸惑ってしまって。
「お嫌ですか?」
「……」
俺はしばらく言うのを躊躇していたが
「光と比べたら、何もかも劣っていると思います」
と正直に白状した。事実なので仕方なかった。体格差もあるし経験の差もあるだろう。光の恋人である人に逐一比べられ、ガッカリされるのは怖い気がした。
「それを気にされてるんですの?」
彼女は一瞬驚いたように目を見開いていたが、やがて
「可愛い……」
ため息をつくように言って俺を優しく押し倒した。頬や首に降るほど口づけをくれて。
「とっても好みです♡」
俺の帯をするりと解くと薄い胸板に頬を寄せる。
「何もなさらなくていいですよ。のんびりした気持ちで寝ていて下さい」
「はあ」
俺はたしかに眠かったのでこの申し出はありがたく思った。実際話していなければすぐ眠ってしまいそうで。彼女の意図はよくわからないが、一度来た女性を局に追い返すのも失礼なので好きにさせておこうと思った。彼女は俺の体を確認するようにすみずみまで優しく触れては、その柔らかい唇を押し当てていった。
027 未知の不遇
「はあ……」
俺は両手で顔を押さえてため息ばかりついていた。ショックだった。
「どうかしたの?」
光は今日は珍しく御所に来てくれて、冷泉さんと遊んだあと俺にも会ってくれている。
「先に手出しちゃってごめんね」
「そういうことじゃないです」
俺は恥ずかしくて光の顔がまともに見られなかった。御簾が下ろしてあるだけまだマシだけれど。なんだろう、この感覚は……。
「彼女、何かした?」
「……しました。でも俺も悪かったです」
「???」
俺はしょんぼりして。しばらく何も話せなかった。
「俺は……女性というのはもっとじっとしてるものだと思ってました」
この発言は俺史上最も光を笑わせた。光はここが御所だということも忘れ、涙がでるほど笑っていた。
「まあ彼女グイグイくるもんね。それでやられちゃったんだ」
「笑い事じゃないです」
俺はふくれっ面になりながら恥ずかしくてまた顔を覆った。知らなかったよ、そんなこと。先に言ってよ……。
「彼女兄貴のことめちゃくちゃ好きみたいだからね。俺にも熱く語ってくるし」
「どういうことなの……」
「欲張りなんでしょ。国一番の兄弟食っちゃってさ」
光は苦笑しつつ何とも思っていないようなので強いと思った。光は三位中将さんと同じ恋人がいたこともあるらしく、女性の交際歴についてとやかく思わないのかもしれない。俺も処女じゃなきゃとは思わないけれど、同時進行されるのは抵抗があった。
「彼女なりの励ましじゃない。兄貴お通夜みたいな顔してたからね」
「……もっと帝をいたわって下さい」
俺はしゅんとしてため息をついた。終わってしまったことは仕方ないけれど。朧月夜さんは俺が寝所に「いつ誰を呼ぶか」という予定を知っていて、そのすきを突いてくるから困る。何なの、もう……。
「今度五壇の御修法します。宗教行事ガンガン入れます」
俺は父上のために五大尊のご祈祷を計画した。これで七日間は落ち着いて暮らせる。
「承りました」
光はクスクス笑ってうなずくと、何気ないことのように言った。
「夕霧にいろいろくれてるみたいだね」
「あっ、ごめん。言えばよかったんだけど」
「構わないよ。どんどんやって下さい」
光に秘密にするつもりはないけれど、最近全然会えないので俺は文のついでに小さい子が喜びそうな玩具や絵を左大臣邸に贈っていた。冷泉さんが描いてくれた絵やお下がりの玩具もあった。
「夕霧くんは元気?」
「元気元気。冷泉さんと多少似てるけどやんちゃぶりは比じゃないわ」
光は笑ってとても嬉しそうだった。いいな。俺もいつか会いたいけれど童殿上する年頃にならないと会えないだろうな。女房たちからたまに絵はもらっているんだけれど。親子でも兄弟でも離されて、光の家族は大変だと思う。
「御所に来にくいよね。嫌な雰囲気を作ってしまってごめんなさい」
「今までの反動があるから。仕方ないね」
光は伏し目がちにつぶやくと淡く笑った。神経すり減ってるだろうな。貴族のケンカってすごく陰湿なんだ。京も狭いし。光は生まれた時から皆に愛され優遇されてきたから余計辛いだろうと思った。光と中宮さま、冷泉さんをどこか安全な場所に逃してあげられたらいいのに。
「帝に権力が集中してたら、それはそれで良くないからね」
光はそう言ってくれるけれど。父上が亡くなられて俺が思い知ったことは、敵は祖父右大臣や母だけじゃないらしいということだった。左大臣家の優遇時代が長かったせいか、右大臣家は若い人たちまで光と冷泉さんをよく思っていないようだ。なぜこれほどまで敵対してしまったんだろうと俺は悲しく思った。
左大臣と右大臣が揃って俺を支えてくれるのが理想なのに。今は右大臣の世で、左大臣は邸にこもってしまっている。相手をこもらせるまで冷遇するなんてやりすぎだ。嫌がらせで人を排除したりして、昔と何一つ変わっていない。
今すぐ俺が譲位して済む問題ならいいのに。右大臣勢力を残したままでは中宮さまやまだ六歳の冷泉さんが心配で、俺は自分にできることは何か必死に考えていた。
028 大丈夫だ
その年の秋、珍しく中宮さまが冷泉さんに会いに御所に来られることになった。父上が亡くなられてから女御、更衣だった方々はそれぞれ里に帰られ、中宮さまも三條の邸にお住まいだった。本当はもっと頻繁に来たいだろうし俺も来てほしかったけれど、中宮さまはやっぱり抵抗があるみたいで。お・忍・び・で・御・所・に・来・る・というのは不可能なので、来るとなるとどうしても目立ってしまう。
帝直属の親衛隊みたいなものが持てたら俺が二人をお守りするんだけれど。一番の庇護者だった父上がお亡くなりになられ、右大臣や母は健在だし世界中敵だらけに見えているのかもしれない。
久しぶりにお母上に会えるというので、冷泉さんはずいぶん前から楽しみにしておられた。六歳になって字も読み始めていたから、今学んでいる書物やご自身で描かれた絵、新しい曲を習得した楽器など見せたいものがたくさんあるようだ。
「みかど、そこに座って下さい」
「はい」
俺が中宮さま役になって予行演習をしたこともあった。冷泉さんは成長されるほど光に似てきて、スラリと背が高くお美しくて賢そうだった。
「今日大将はきますか」
「ええ、来ると思いますが」
「母上と大将に見てもらいます」
冷泉さんがニコニコ仰るので、光のことを本能的に慕っておられるのかなと思って俺はじんとした。冷泉さんは俺が即位してから梨壺を春宮坊にされて、隣の桐壺を宿直所に使う光と親しく交流されている。たとえ親子だと言えなくても同じ時間を過ごしてくれると良いと俺は思った。楽しい思い出が少しでも多く残るといい。
今回はお母上も来られるので久しぶりの親子水入らずかなと思ったが、光は中宮さまと一緒には来なかった。中宮さまは数日御所に滞在されたあと、里である三條邸にお帰りになる予定だった。
◇◇◇
光は中宮さまの帰る日に合わせて御所に来てくれた。俺は二人きりで話したかったので、人払いをして光には御簾の内に入ってもらった。
「雲林院てとこに行ってたんだ」
光は御所のものより一段色づいた紅葉をお土産に見せてくれる。
「楽しかった?」
「楽しくはないけどね。誦経したりして、出家を考えてた」
「出家するの?」
「今すぐは無理だけど。そのうちね」
光にも出家したい気持ちがあったのかと俺は内心驚いた。若いころ恋人を失い、葵さんを失い、父上もお亡くなりになられて光も苦しかったのかな。今年から世の中も変わってしまったし。光はあまり不満を口にしないから余計心配になる。
「冷泉さんは楽しんでるかな」
「光も一緒に行けばいいのに」
「久しぶりの母子水入らずを邪魔できないよ」
光はどこか遠慮がちに笑った。
「光も入れば親子水入らずになるよ」
「……これ以上嫌われたくないからさ」
光は目を伏せて少し悲しそうに話す。何かあったのかな。俺はさり気なく話題をそらそうとした。
「冷泉さんはとても賢くてね、字を読むようになられてからどんどん成長なさってるよ。さすが光に似てるなと思った」
「中宮さまの御子だからね。俺より血筋もずっと高貴な方だから」
中宮さまの話をする時の光はつらそうで、俺は話題をそらすつもりが失敗したと思った。
「兄貴、俺に『大丈夫だ』って言ってくれない? 『光、大丈夫だ』って」
俺は突然どうしたんだろうと思ったが、素直に従った。
「光、大丈夫だ」
「……ありがとう」
光は俺の言葉をゆっくり味わうように聞くと、
「兄貴ってどこか父上に似てるからさ。頼みたかったんだ。ありがとう」
俺に礼を言って、母子の待つ梨壺に向かった。
029 出家
十一月のはじめ、ちょうど父上の命日に雪が降った。もう一年経つんだな。雪は深くて御所も一面の銀世界になった。足跡をつけるのが惜しいような美しさで、童たちは雪玉や雪うさぎを作って遊んでいた。
十二月には中宮さまが三條邸で御八講を行われた。法華経八巻を朝夕二回に分け、四日間講説する尊い法会だ。上達部や親王も大勢訪問したようだった。もちろん光もいた。そこで中宮さまが出家を発表なさり、来客は皆驚いた。御所にも急ぎの使いが来て俺や冷泉さんも知った。
「すー兄、最大級の人払いできる?」
御八講から戻った蛍が緊迫した様子できくので
「寝所なら大丈夫じゃないかな」
俺も焦った気持ちで答えた。蛍は俺の寝所である夜御殿のある部屋全体を厳重に戸締まりすると、普段なら周囲に侍る女房たちにも出てもらい、どかっとあぐらをかいて座った。
「光、大丈夫?」
「わかんない」
蛍は今度は立ち上がって左右にウロウロすると、侍女から酒をもらってきていくつも部屋に置いた。
「俺やっぱ帰るわ。いないほうがいいと思うから」
そしてここまで準備してくれながら蛍は結局自邸に帰ってしまった。俺は光は来るのかなと思いながら寝所に座ったり横になったりした。そのうち浅く眠ってしまって。ふと目覚めると、光が柱の一つに背を預けて飲んでいた。
「光……」
光の目は赤く腫れて据わっていた。俺がそばに座っても光は一点を見つめたまま視線を動かさなかった。
「女傑じゃなかったね」
「そうだね」
俺が盃を持つと光は黙って酒を注いでくれた。俺も少し口をつけて。昔のことを思い出す。
「いつまでも一緒に生きていきたいと思ってたんだ。俺が守るって約束して。彼女となら生きていけると信じてたんだけど。勘違いだったね」
俺は胸をえぐられるような気がした。
「あれほど俺に会うのを嫌がってたのに出家したら話してくれるようになってさ。もう安心って感じで。俺が殺したんだね、彼女を。そこまで追いつめた」
俺が差した盃をグッと飲み干し、光は酒を飲む手を止めると虚空を見つめた。
「子がいなければもっと続いたのかなと思ったりしたけど……無理だよね。あの子がいないなんて考えられない。あの子が生まれるための縁だったのかもしれないね。彼女の中では、俺はもう用済み」
「そんなこと、ないよ……」
俺はつらくて、言葉が喉につかえた。
「あとは真面目に後見すればいいのかな。二人の幸せのために、一生、他人として」
生きていても手を握れない。愛をささやくことも抱きしめることもできない。出家とはそういうことだった。恋人としては永遠に死んでしまうことだった。
「なんにも言ってくれなかったんだ、ホントに……そんなに俺が嫌だったのかって……」
秘密の関係がバレるのが怖かったのかな。右大臣の世だから何を言われるかわからないと思ったのだろうか。俺はいろんなことを考えたが、中宮さまの思いを推し量ることはできなかった。
「俺の想いが止むよう神・仏・に・祈・っ・た・って言うんだよ。そこまで迷惑なのかって。俺あってのあの子だろって腹も立ったんだけど。違うよね、春宮なんだから。あの子のほうが大事に決まってる」
冷泉さんが春宮じゃなかったら。二人はもっと一緒にいられたのかな。俺は冷泉さんの可愛さを思った。冷泉さんの存在は俺のひかりで、この国の希望で。でも二人にとっては眩しすぎたのかな。
「俺だって何もかも捨てて出家したいけど冷泉さんが心配だし、女たちも捨てられない。彼女には先に逃げられて……」
笑ってよ、と言うと光の瞳から涙がこぼれた。
「愚かな俺を、笑って……」
光は空の盃を落とすと顔を押さえて泣いた。ボロボロ、ボロボロ泣いて床に涙がこぼれる。笑えるわけがなかった。入内されてからずっと続いた十年以上の恋を。苦しいばかりじゃない、喜びもあったであろう時間を。なんで守れなかったんだろうと思った。なんで俺は弟の恋ひとつ守ってやれないんだろう。
光は顔を押さえたまま背を丸め、酔い泣きに泣いた。俺は酔えないし泣けなくて。これが俺の世なんだと思った。父上はおられないんだから周・囲・さ・え・黙らせればよかったのに。俺にはそれができないんだと思った。
030 帝の怒り
父上が亡くなられて二度目の新年も酷いものだった。中宮さまは位を去られ入道宮と呼ばれた。御所ではまるで彼女の出家を喜ぶかのように華やかな内宴、踏歌が行われた。司召があったが入道宮さまへの加階が止められ、出家を理由に俸禄も減らされた。無茶苦茶だった。前例も何もあったもんじゃなかった。
父上のご遺志もあって俺は何度も留めたが左大臣は辞表を出した。光も左大臣も邸にこもっていた。この年の夏頃、朧月夜さんは里に帰り光と会っていた。それを右大臣が見つけて激怒し、母に言いつけた。
母は実家で二人に密会されたのがよほど気に食わなかったのか、「帝を廃し春宮の世を望んでいる」と光にありもしない罪を着せて京から追放しようと画策した。俺が事の次第を知ったのは年が明けてからだった。この新年もどうしようもない、右大臣側に偏った任官がなされた。俺の意志も父院のご遺志も当然のように無視された。俺は御所に来ていた母を御前に呼んだ。非礼は承知の上だった。
「祖父上の面前で悪びれもせず寝転がっていたのが罪なのですか」
「それだけではない」
母は苦々しげな顔で答えた。
「母上のお側でそのような振る舞いをし、侮辱した罪ですか」
「そなたへの侮辱もある」
「俺は侮辱とは思っておりませんが」
俺は呆れた。年頃の娘の居室にそこまで躊躇なく踏み込むものだろうか。男が女に会いに行き、雷雨で帰れなくなった。それだけのことだと思うが。
「むしろ尚侍の面目が丸つぶれだと思いますが」
あんなに陽気な人が涙も枯れるほど泣いていて。俺は腹を立てていた。妹をかばわないのか。俺と同じで所詮権力を握るための駒扱いか。
「男女の恋が謀・反・の・罪・とは。聞いて呆れます」
「帝になった途端口答えか」
「いけませんか」
俺も母に似ているのかもしれなかった。むしょうに腹が立って仕方ない。
「目的のためには手段を選ばず、妹の不始末をだ・し・に私の臣を脅すんですね。院のご遺言を違えるんですね」
母は何も言わなかった。昼御座は静まりかえって俺の声しかしなかった。
「わかりました。お下がり下さい」
母は忌々しそうに立ち上がると去っていった。俺はため息をついて。この国の行く末を案じた。
◇◇◇
「帝がお怒りになった」という噂は燎原の火のように一夜にして京じゅうへ広がった、と蛍は言うのだけれど大げさだろうと思う。三月のある日、俺は被衣をして顔を隠すと、蛍の車に同乗させてもらって二條院へ行った。光と話すためだった。
「減らされた入道宮さまの禄は俺から補っておくね。冷泉さんを通せば文句も言えないだろうから」
収入を減らして困窮させようなんて浅ましい了見だと思った。恥ずかしくて俺が宮さまに顔向けできない。
「左大臣家にも酷い処遇をして申し訳ありません」
三位中将さんがいたのでこの場を借りて謝る。
「あれほど露骨な任官は亡き院も帝の俺をも愚弄するものです。報いは必ず受けさせます」
「いえ」
三位中将さんは京を離れるという光を見送りに来ていた。二條院を訪問すると母から重・い・咎・め・を受けるらしく、蛍と中将さん以外誰も来てはいなかった。
「俺、そろそろ帰るな。失礼します」
三位中将さんはこの場に帝がいるということ自体に危機感を持ったのか、俺に礼をして帰っていった。
「すー兄、怖い……」
「中将さんまで引いてるじゃん」
蛍と光は少し遠巻きに俺を見ている。
「普段怒らない人怒らせたから……。お前のせいだぞ、ヘマして見つかりやがって」
「だから悪かったって」
「光のせいじゃないよ」
俺は静かに言い切った。
「彼女と付き合ってもいいって俺・が・言ってるんだから。泣いてる妹を庇わないどころか処罰に利用するなんて。度し難いよ」
許せないと思った。身内を私物化するにも程がある。
「本当に行くの?」
「うん。このまま京にいても良いことなさそうだし。朧月夜にも悪いしね」
光は面痩せて疲れているように見えた。
「海への遠出ってしたことないから気分転換にいいかなって。まあ旅人気分で行ってくるよ」
俺に気を使ってか、わざと明るい調子で話す。
「必ず呼び戻すから。元気でいてね」
俺は光に約束した。こんな放縦な時代が長く続いていいわけはない。国が滅びると思った。
「冷泉さんのこと、頼むね」
「うん。必ず帝になって頂くよ。それまでお守りする」
身辺警護の実行部隊を持てないところが残念ではあった。冷泉さん付きの女房たちなら聡明だし、だいぶ守れるとは思うが。
「俺がいない間に京で戦が始まってたとか、やめてね?」
「大丈夫だよ」
光が不安そうに俺を見るので俺は苦笑した。
「戦は起きようがないよ。俺には兵も人望もないし」
こうやって鉛を呑むように今までの帝も我慢してきたのか。帝になるってことは耐え忍ぶってことなのか。俺は苦しかった。苦しかったが、この苦しみを忘れないと思った。
「父上もお怒りだと思うよ。こんな時代、一刻も早く終わらせるから。冷泉さんを帝に戴く日が必ずくるから。それまでどうか、生きて下さい」
俺は深く頭を下げると光を見つめた。冷泉さんの御世を邪魔するいかなる者も排除しなければならない。譲位の時は俺という船が沈む時だ。乗員もろとも引きずりおろす。
「ありがとう。かたじけないです」
光も俺を見て。
「さっさと帰ってこいよ」
蛍も光を見て。俺たち三人は右手を伸ばして重ねると、拳にしてガッと突き合わせた。
031 既成事実
光がいよいよ出発するという文を冷泉さんにくれた。冷泉さんは八歳になられていて、もう事の次第がわかるのがかえってつらかった。
「すみません。俺のせいで悲しい思いをおさせして」
俺は冷泉さんに申し訳なくて謝った。冷泉さんは俺を責めたり俺の前で泣かれることはなかった。それがどこか光に似ていて。
「大将は帰ってきますか?」
それでも不安そうな瞳で俺に尋ねられる。
「帰ってきますよ」
俺は即答した。
「俺の命にかえても。帰ってこさせます」
冷泉さんの手を取って固く約束する。俺は暇さえあれば冷泉さんを訪ね、話をしたり一緒に遊んだりした。光の背負わされた罪状が帝・下・ろ・し・ならば、これみよがしに冷泉さんと仲良くなろうと思った。誰に何を言われても構わない。どうせ何もしなくても何か言われるのだ。好きにしようと思った。
◇◇◇
光が須磨の浦についたという文が各方面へ届きはじめたようだった。
「すー兄、はい文ー」
光は蛍宛の文の中に俺宛のものを混ぜてくれたのか、蛍が御所まで持ってきてくれた。
「ありがとう」
「なんか波の音がきこえる小さな住まいを見つけたみたいだよ」
「そう」
今まで御所や邸宅に住んでいた人がお供数人と侘住まいとは、寂しいだろうなと思った。別荘としてたまに住むなら良いだろうけれど。
「あいつが女断ちできるとは思えないけどねー」
蛍は肩をすくめて苦笑している。
「この文を持ってきてくれた使いの人、まだいる?」
「うんいるよ。これから返事して帰そうかなと思って」
「じゃあ俺の使いと一緒に行ってもらおうかな」
「御所から使いだすの?!」
「うん」
「大后さんがやいやい言うよ」
「帝の使いには言えないさ」
母が光と連絡を取る人を監・視・しているらしいことは知っていた。俺は最近この母子ゲンカが楽しくなってきていて。もっと母を怒らせてやれという悪戯心が抑えきれない。
「隠すこともないかなって。光は無・実・の・罪・だからね」
「すー兄楽しそうだねー」
蛍は鋭いから俺のこの悪戯に早くも気づいてニヤニヤしている。
「あと、すごく信頼できる従者と馬を借りることってできる?」
「何に使うの?」
「冷泉さんをたまに外へお連れして、お母上に会わせてあげたいなって」
「なるほど」
冷泉さんのおられる梨壺は御所の東側の門に近い。出入りだけなら門番を説き伏せればできるような気がした。帝って門番くらいには言うこときかせてもいいものかな。
「馬かー。冷泉さん好きだもんね」
「きょうだいか親子くらいに見える従者の人、借りれないかな。それで二人乗りしてパカパカ通りを歩くの」
「乗り方教えてる風ね」
「そうそう」
「いるかなー。ちょっと考えてみるわ」
「ごめんね、巻き込んで」
「全然。いなかったら俺が行くわ」
蛍はそう言うとむしろ楽しそうに帰っていった。蛍ならこういう企みに乗っかってくれると思っていたので俺は嬉しかった。持つべきものは弟だなあ。
この件に関わった誰かが罰せられそうになったら身を挺して守る覚悟だった。本当は俺自身が冷泉さんをお連れしたいくらいだけれど、御所から帝と春宮が同時に消えるとさすがにまずいかなと思う。少なくとも俺は残っていないと。
冷泉さんに何かあってもいけないから守る必要もあるけれど、その危険は御所にいても同じ気がした。車なんかより馬のほうが機動性が高いので馬を選択して。上手くいくかな。
俺が冷泉さんにこの秘密計画を相談すると
「行きたいです!」
冷泉さんは二つ返事で賛成してくれた。
「冷泉さんと同じくらいの年頃の男の子、周りにいますか」
「遊び相手が二人いますよ」
「じゃあその子たちと遊んでいる体で数時間、昼間のほうがいいかな」
俺はいろいろ考えを巡らせてみたが、それほど悩まなくても良いのではないかという気がしてきた。
「思いきって堂々と行っちゃいましょうか」
「はい!」
俺たちは帝と春宮だった。もしかして、もっとわ・が・ま・ま・でもいいのではないか。
「すー兄、馬なら連れてきたよー」
行動の早い蛍が来てくれたので、さっそく御所内で冷泉さんと二人乗りしてもらった。蛍の前に冷泉さんが座られ、蛍が手綱を握る。二人とも乗るのが上手いので安定している。
「じゃあちょっと外を散歩してみようか」
俺は乗馬姿の二人と一緒に、さりげない感じで門まで行った。
「ちょっと出てきてもいいですか?」
「はっ、はい!」
門番の人は話しかけたのが俺ということにびっくりしたのか「はい」と言ってくれた。そうだよね。いきなり訊かれたらとりあえず「はい」って言っちゃうよね。俺は二人を外へ出すとしばらく見守った。門の外には貴族たちの勤める役所が御所を取り囲むようにしてたくさん建っており、塀にも囲まれているためおそらく安全だろう。二人はそこをゆっくり一周して戻ってきてくれて。
「おかえり」
俺はまた何気ない様子で彼らを敷地内へ招き入れる。これを何度か繰り返すことにした。「春宮さまは乗馬がご趣味で時々御所外を歩かれる」という既・成・事・実・をまずは作ろうと思った。
032 妊娠の兆し
七月になり、朧月夜さんが元どおり尚侍として御所に戻った。
「本当にすみませんでした……」
しょんぼりして俺に謝ってくれる。
「いいんですよ。悪いことをしたわけじゃないですから」
俺はなるべく励ましたいと思った。
「私をあの方と同じ場所へ追放して頂けませんか」
「お気持ちはわかりますが、光の罪が重くなってもいけませんので」
須磨の浦は景勝地ではあるが少し寂しい場所で、風が強まり波が高くなる日もあるようだった。光は従者数人を連れているだけだというし、ただでさえ女性が押しかけて行っては困るだろう。それが渦中の朧月夜さんでは明らかに「反省の色無し」と映るし、駆け落ちと思われても不都合だった。光には戻ってきてもらわないと俺が困る。
「なんとか止めたかったのですが、俺の力が及びませんでした。すみません」
俺は逆に彼女に謝った。女性は物じゃないのだから盗った盗られたもないはずだ。こんな理由で追放とは、俺のほうが辱められている気持ちになる。
「必ず帰ってきますよ。待ちましょう」
俺がそう言うと、朧月夜さんは少し嬉しそうな顔をした。
「悪口を言われて居心地が悪かったら清涼殿にいて下さい。ここの女房は皆良い人ですから」
「はい」
彼女は嬉しそうにうなずくと、本当にかなり頻繁に俺の側にいるようになった。居るのはいいのだが少し距離が近い。彼女はとにかく背後が好きで、気づくと俺の肩越しに物を見ていたりする。
「もう少し、離れてもらえますか」
「嫌です♡」
「……」
俺は彼女が元気になってきたならまあ良いかと思って諦めることにした。
◇◇◇
もう一つ俺の気がかりは、承香殿さんが妊娠したのではないかということだった。
「まだ確かにはわからないのですが」
彼女は控えめに、照れたように笑っている。
「お体は大丈夫ですか。どこもつらくないですか」
俺は心配になっていろいろ尋ねた。これまで娘を産んで下さった方はおられたが、彼女は初めてだし、妊娠って一人ひとり違うので毎回緊張する。
「何か好きなものがあったら取り寄せましょうか」
「そうですね、果物がさっぱりして食べやすいです」
「わかりました」
俺はちょうど秋なのでナシやブドウを頼もうと思った。
「他にも欲しいものがあったら何でも言って下さいね」
「はい。そんなに気にして頂けて、嬉しいです」
彼女は幸せそうに微笑む。
「元気な子を産むよう努めますね」
「あなたが元気でいて下さるのが一番大事です」
俺は思わず彼女の手を取って言った。
「ふたりで育てましょうね、きっと」
「はい……」
俺は彼女の手のぬくもりを感じていて。一人で置いていかれるのだけは嫌だった。でもそんな縁起の悪いことを言えるわけはなくて。彼女もお腹の子も頼むから無事でいてほしいと思った。
033 殺して下さい
蛍と冷泉さんの乗馬練習は好評で、御所で見かけた人は皆褒めてくれた。春宮だということを差し引いても、冷泉さんは馬に乗るお姿も見事でまだ少年なのにとても様になった。
「みかど!」
馬上から呼び止められると思わず平伏したくなるような凛々しさだと思った。冷泉さんは眩しいくらいの笑顔で俺に手を振って下さる。
「冷泉さんと乗るとどうしても目立つんだよねー」
蛍はそれだけが気になるようで苦笑した。
「蛍も格好良いからね。二人で乗ってたら何事かと思うだろうね」
「暇な人がぞろぞろついてきちゃうんだよ」
それは考えていなかったと思って俺は反省した。貴族たちでさえその有様では、町へ出たらもっと多くの人に囲まれてしまうだろうか。恋人にお忍びで会いに行くわけでもなし、バレて困ることもないんだけれど。
「まあそれが従者代わりで良いっちゃいいんだけどね」
一応太刀でも佩いとくね、と蛍はさり気なく怖いことを言った。
「危険ならやめようか」
「へーきへーき。京で俺と斬り合う奴もおらんでしょ」
蛍はあっけらかんと笑うと
「そろそろ行く?」
少し緊張した面持ちできいた。
「そうだね」
「まずは三條邸の周りをウロウロして、手でも振ってこようかな」
俺は蛍と冷泉さんに狩衣を着てもらい、ある晴れた日の午後、いつもの門から二人を外へ出した。今日は完全に御所外へ出るから複数の門を通らなければならない。俺は用意していた直筆の書状の一つを蛍に渡した。
「もし門番の人に止められたらこれを見せて」
「馬でサッと通っちゃうからいいよ」
蛍は笑ってそう答えながらも、俺の書状を受け取り懐へ入れてくれる。彼は親王だし位も高いので心配ないとは思うが、春宮を連れ去ったと言いがかりを付けられても困るので念の為の措置だった。馬に乗った二人は悠々と外へ通じる門に向かって進んで行く。俺は彼らの背を見えなくなるまで見送ると、今度は御所に近い方の門に毎日立ってくれている門番の人にもう一つの書状を渡した。
「しばらくはいつもこれを身につけておいて下さい。あと何かあったら必ず俺に知らせて下さい」
「はい」
門番の人は少し不安げな表情でうなずいた。この人に迷惑をかけたくないけれど、救う術はあると思っていた。
◇◇◇
その日の首尾は上々で、冷泉さんはお母上の入道宮さまを驚かせ、喜ばせることができたようだった。あくまでも「散歩のついで」に「気軽に立ち寄った」体がよくて、俺は事前に文も送らなかった。歩いて行ける距離なのだからいつでも好きな時に会ったらいい。冷泉さんに「母に会うのは難しくない」と思ってほしかった。
このままでは済まないだろうなと思っていたら案の定、俺が書状を渡した門番の人が次の日には交代させられていて。
「体調不良とか申しまして」
代わりの人が言うけれど絶対嘘だと思った。
「その方の家に行って連れてきて頂けませんか。それまで俺がここに立って待っていますので」
「しかし……」
俺は門の脇に立って動かない姿勢を見せた。気の毒だがここは強く出ないといけない。持ち場を奪われたこの人は困って上司に相談に行った。そのうち上司の上司のような人が出てきて
「すぐ参らせます」
と恐縮して言った。俺は元の門番さんが帰ってくるまでずっと立っていた。何時間でも立っているつもりだった。
「すみません、嫌な思いをさせて」
俺は戻ってきた門番の人に謝った。
「いえ」
彼は首をふると
「私にも春宮様と同じくらいの子がおります。お気持ちはわかります」
俺に優しく言ってくれた。俺はその足で母のいる梅壺へ向かった。母は最近俺を監視するため御所に居ることが多くなっていた。
「そなた、少し横暴がすぎるのではないか」
母は俺に会っても全く悪びれる様子がなかった。脇息によりかかり、批判的な流し目で俺を見る。とぐろを巻く大蛇に似ていた。俺は皆が恐れるこの人のことが怖くはなかった。
「母上に言われるとは恐縮です」
俺がそう答えるとむっとするので笑ってしまう。親子なんだから似たって当然じゃないか。
「冷泉さんがお母上と会われるのを邪魔しないで下さい」
「邪魔などしてはおらぬよ」
「なら俺の勘違いでしたね」
正面切って問い詰めてもしらを切られることはわかっていた。この人に説得は通用しない。力・で・わ・か・ら・せ・る・しかないんだ。
「門番には勅諚を持たせております。あの門を守護することは俺からの命ですので」
母はそれを聞くと不快そうに顔をそむけた。美人だった面影はあるが目元口元が険しく変わってしまっている。
「どうしてそんなに意地悪をするのですか」
俺は悲しい気持ちになって訊いた。
「子が母に会うのに理由がいるのですか」
母は何も答えない。
「俺は、母上がこれ以上誰かを傷つけるのを見たくないのです。つらいのです」
深い哀しみとやるせなさがこみ上げてきて、俺は言葉を止めた。
「俺が嫌なら殺して下さい」
それだけ言うと席を立った。俺は世間から嫌われているこの人がどうしても憎みきれなくて。好きだった。あんなに意地悪な人なのに、心のどこかでこんな人じゃないはずだと願っていた。どんなに歪んでいても必死に俺を愛したことを知っていた。この人が次に誰かを傷つけるなら、身を捨ててでも止めたいと思っていた。
034 父の夢
光を失ったまま年が明けた。光二十七歳、冷泉さんは九歳になられる。京はひっそりと寂しく、何をしても華がないように感じられた。光は本当にひかりだったんだと誰もが思った。
二月末には南殿の桜も咲き誇り、数年前父上在りし日に催された花宴が懐かしく思い出された。院となられた父上が嬉しそうに笑っておられたこと、光の作った句を帝の俺が誦んだことが遠い昔のように感じられる。
「宰相中将さんがわざわざ会いに来てくれたよ。俺が黒駒を贈って、中将さんが笛をくれたんだ。」
光からの文には厳しい生活の中にも少し希望の見える様子が垣間見られた。いつ呼び戻そうかな。母はあれから冷泉さんが散・歩・に行っても何もしなくなっていた。このまま大人しくしておいてくれるのかな。まだ祖父の右大臣がいるし、気は抜けないけれど。
この年の三月、京の空が荒れた。風が吹き嵐を呼んで、激しい雨あられが幾日も降り続く。こんな空は見たことがないと皆が口をそろえ、このまま世が尽きるのではないかと恐れる者もいた。俺は仁王会を開き聖たちに仁王護国般若経を読誦してもらった。京じゅうが手を合わせて天の怒りが鎮まることを祈った。誰も参内できないので政も止まっていた。
俺は嵐の吹きすさぶ中御所で静かに祈りながら譲位の時が来たかと考えていた。冷泉さんが元服なさるまでは難しいか。だいぶしっかりした方ではあられるが……。冷泉さんも連日の荒天に不安そうな顔をなさっておられた。
「大将は大丈夫でしょうか」
「ええ……文も出せないので、無事を祈りましょう」
これが天地の怒りなら光を殺すことはないと思うが、ただの災害ならと考えると恐ろしかった。須磨の空は晴れているだろうか。光を亡くすということは俺には国難を意味した。
◇◇◇
三月十三日の夜だった。稲妻が閃き風雨が吹き荒れる夜、俺は父上の夢を見た。父上は南殿の階に立たれ、俺をじっと見つめておられた。俺は父上のそばに畏まりながら妙なことに気づいた。いつの間にか左目が閉じて見えなくなっていた。
「朱雀、そなた、わしに隠し事があるな」
「はい」
俺は下を向いたまましばらく黙っていた。
「それについて、何か申すことはないか」
「ございません」
「後悔もな」
「はい」
左目は痛くはなかったが開くことはできなかった。もう永遠に見えないのかもしれない。俺はそれでもよかった。この程度の罰で済むなら僥倖だろう。
「先程光に会ってきた。須磨で酷い目に遭っておったぞ。そなた、わしの遺言を違えたな」
「申し訳ございません」
俺は不思議と静かな、落ち着いた気持ちになっていた。
「父より母を取るか」
「俺の力が及びませんでした」
父上は俺から目を離すと、しばらく彼方を望まれた。
「時期を見て光を京へ呼び戻すがよい。父・と・子・を離すのは酷であろう」
「……はい」
俺は深く息をついた。父上は怒ってはおられないようだ。
「ずいぶん春宮のために戦っておるようだな。見直したぞ」
「恐縮でございます」
「朱雀、そなた……相貌が変わったな」
父上が不意にそう仰るので俺は今まで伏せていた面を上げた。父上は微笑んで俺を見ておられる。
「眇のほうが良いでしょうか」
俺が尋ねると、父上はフフと笑って消えてしまわれた。目が覚めた後も俺の左目は開かないままだった。
035 祖父大臣逝去
翌朝顔を洗っても左目は開かないので、俺は白い布を巻き付けて左目を覆った。女房たちが心配して祈祷を頼もうかと言ってくれたが丁寧に断る。
「みかど、大后さまがひどくお悩みのご様子です」
母付きの女房からの報せをうけ局を覗くと、母は珍しく苦しそうに伏せていた。俺は母が病に罹ったのを初めて見た気がした。
「祈祷をさせましょうか」
「頼む」
俺は女房たちに頼んで僧を呼んでもらった。母の隣に座ってしばらく様子を見守る。
「背を、さすってくれぬか」
「はい」
俺は苦しそうに上下する母の背をさすった。
「そなた、目が……」
母は俺の目に初めて気づくと心配そうな顔をしたが
「平気です」
俺は微笑んで、母の気が済むまでその背をさすっていた。
「太政大臣がお隠れになりました」
その夜届いた知らせは母をより不安にさせたが、俺にはどこか当然の成り行きに思えた。亡くなられたか。ついに身内の死を願うまでに成り果てた己が虚しかったが、是非もなかった。俺は祖父の喪に服し、これで光を呼び戻す障害が一つ減ったと思った。
「それがすごい嵐だったんだよ。三月朔日の晴れた日に浜辺で陰陽師呼んで御祓してたら、急に空が真っ暗になって嵐になったんだ。ひどい雨風に雷、波も高くて。毎日毎日荒れ模様でよほど京に帰ろうかと悩んだけど『波風におびえて戻ってきた』と言われるのも癪だしと思ってたら邸に雷が落ちて焼けちゃって。俺もう死ぬんだと思った。そしたらウトウトした夢に父上が出てきて『住吉の神の導くままに舟出して浦を去れ』って言うんだよ。舟って言ってもと思ってたら翌朝ちょうど向こうから舟がきて明石に招かれたんだよね。不思議な夢だった。」
光は明石入道という人の邸に招かれたようだった。明石は須磨の浦より住みやすく賑やかな場所らしい。俺は自分も父上の夢を見たことを書こうかと思ったがやめておいた。
「無事に落ち着けてよかったね。こっちも三月はひどい雷雨でみんなこの世の終わりかと心配してたよ。母は珍しく病にかかるし祖父はこの前亡くなったんだ。重しになる人が減ったから帰ってきやすくなったよ。ただ風光明媚なところならゆっくり楽しんできてね。」
勝手に京を追い出しまた勝手に連れ戻すというのも失礼なので、俺は光の予定をきいておこうと思った。いつでも帰れるなら無理に急ぐ必要もないし。
俺はわざわざ明石から来てくれた光の従者に京の家に寄ってから帰るよう伝えて、衣装や酒などを褒美に持たせた。光が少しでも京落ちから長期滞在の旅人気分に変わってくれるといいんだけれど。
「光る君をそろそろ呼び戻しましょうか」
「まさか……罪に落ち京を去った人を三年もたたずに許すなど」
母は忌々しそうに唸っていたが、肩を上下させ息も切れぎれでつらそうだった。
「罪と言っても冤罪ですから。光る君が戻られれば母上の体調も良くなるかもしれませんよ」
俺がそう言うと母はむっとして黙ってしまった。そんなに無理して恨まなくても。俺は母に呼ばれて看病したり回復を祈ったりしながら日々を過ごした。
036 男児誕生
順調に妊娠期間を過ごしていた承香殿さんが、夏の終りついに出産された。男児だった。俺は夜通し起きていたのもあって思わず全身の力が抜ける気がした。良かった。女児が悪いわけではないが、皇位を継がせるのは男子となるのでやはりありがたかった。
「おめでとうございます!」
皆が口々にお祝いを言ってくれて。俺は何もしていないのにと思いながら、承香殿さんが落ち着いてから会いに行った。
「ありがとう。本当に……お疲れさまでした」
「いえ、喜んで下さって嬉しいです」
俺は彼女に会うと思わず抱きしめていた。無事で良かった。彼女は出産後も順調に回復しているようで俺はほっとした。
「みかど、御目が」
彼女はふと俺の左目に気づくと心配そうに見つめてくれた。
「すみません、うつる病ではないのですが。怖いですか」
「格好良いです」
「……?」
俺はよくわからないが彼女は嬉しそうなのでよかったと思った。乳母が若宮を抱っこして連れてきてくれる。可愛かった。生まれた子は皆可愛いが、男児が生まれてくれたことが俺をだいぶ安心させた。
「乳もよく飲まれるし、元気な御子ですよ」
「良かった」
この子が無事大きくなってくれると良いがと思った。冷泉さんが即位なさるときにはこの子が春宮になるだろうか。この子の世がよく治まるよう、俺も今できることをしないと。近頃天災や母の病で暗い雰囲気だった御所も、この子のおかげですっかり明るくなったように思った。本当に赤ちゃんは未来への希望だな。
◇◇◇
出産後はお祝い行事が続くので、俺は何やかやと楽しい気分で日々を過ごしていた。
「朱雀様♡」
そんな俺に時折背後から抱きついてくる人がいる。
「心臓に悪いのでやめてもらえますか」
俺は朧月夜さんのからみついた腕をゆっくり外しながら言った。
「男御子のご誕生おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
彼女は最近だいぶ元気を取り戻してきたのかニコニコしていた。光も最悪期は脱したようだし、いい文でも来たのかな。
「朱雀様、私も可愛い赤ちゃんがほしいです」
などと思っていたら急にすごいことを言い出すので俺は口をつぐんだ。
「そうですか」
とりあえずこの話題が深くならないようさり気なくかわす。
「朱雀様は『子がほしい』と言うと頑張って下さるんですよね」
「誰がそんなことを」
「みんな言ってます♡」
「……」
俺は顔を押さえてしばらく黙りこむと
「からかわないで下さい。俺は真剣なんです」
すこし怒ったように答えてしまった。だって妊娠は一人じゃできないから。男が頑張るしかないわけで……。
「可愛い♡」
朧月夜さんはそんな俺の腕に抱きついてくるから俺はまた距離を取った。良い人なんだけれどやっぱり苦手なんだよなあ。子がほしいって本当なんだろうか。
「光がもうすぐ帰って来られるかもしれませんよ」
「あの方とは遊びです」
「俺には本気だったんですか?!」
「だって産むなら帝の御子がいいですから」
「……」
俺は何も言えなくなってしまって。女性って怖いなと思った。
037 光の帰還
若宮の成長を見守りながら迎える新年は幸せなものだった。光二十八歳、冷泉さんは十歳になられる。俺の左目は相変わらず良くならず、世間では「隻眼の朱雀帝で大丈夫か」という話になっていた。俺はそう噂されたほうが都合がいいのでそのままにしていた。
「すー兄大丈夫?」
蛍もいっこうに治りそうもない俺の左目を心配してくれた。
「大丈夫だよ。見えないだけだから」
「全然大丈夫じゃないって」
蛍は苦笑している。
「何度も連れて行ってくれて本当にありがとね。冷泉さんとっても喜んでたよ」
俺は心からお礼を言った。蛍は月に一度は冷泉さんをお母上の三條邸まで連れて行ってくれていた。
「構わないよ。冷泉さんだいぶ大きくなったから、もう馬は一人で乗れそうだね」
蛍も嬉しそうに笑って冷泉さんの成長を喜んでくれる。
「若宮は元気に育ってる?」
「うん。体も丈夫そうで助かるよ」
俺はたった一人の男の子が無事に育つことだけを願っていた。今のところ次の春宮候補はこの子だけだから。
「光が帰ってきたら譲位するの?」
「うん」
「もったいない。まだ七年じゃん。もっといれば」
「いいよ」
俺はもう何十年も即位していたかのような疲れを感じていた。冷泉さんにこの重責を負わすのは申し訳ないけれど、これからは若い人の時代だと思うし、俺はやっぱり道を譲りたく思う。
「治世もだけど、天災も酷かったしね。みんな代替わりして欲しがってるよ」
冷泉さんの人気が高いことが俺には嬉しく誇らしかった。冷泉さんは美しくご聡明で、あんな帝に統治される国は幸せだろう。それを光が支えてくれれば。きっと素晴らしい世の中になる。
「俺はすー兄の御世好きだったよ。大后さんとのバトルも楽しかったし。お疲れさまでした」
「こちらこそありがとう。蛍の協力がなかったら、とてもじゃないけど戦えなかったよ」
蛍は姿勢を正して一礼すると、笑顔で颯爽と行ってしまった。格好いいな。光が花なら蛍は風って感じがした。
「冷泉さんもだいぶ大きくなられたので、そろそろ譲位かなと思っています。光にも帰ってきてもらえると嬉しいんだけれど。いつ頃がいいですか。」
「若宮のご誕生おめでとうございます。元気に成長なさってますか。将来の春宮だね。俺は秋頃なら帰れそうです。」
光がそう言ってくれたので、七月に帰ってきてくれるよう宣旨をだした。二條院の人々は喜んで光や従者たちを迎えに行った。今までよく耐えてくれたな。光の愛する女性たちも寂しかっただろうに。
光にはいったん元の官位に戻ったあと権大納言に昇進してもらった。また光に公務を任せられるという安心感は例えようもなかった。
「おかえりなさい。大変苦労をおかけしました」
俺は帰還した光に頭を下げた。二年四ヶ月のうちに光は少し日に焼けて、精悍な顔つきになった気がした。
「目大丈夫?」
光は俺の布で巻かれた左目に驚きつつも、生還を報告してくれた。
「ただいま。冷泉さんを守ってくれてありがとう。入道宮さんにも会わせてくれたんだって?」
「蛍がしてくれたんだ。本当に助かったよ」
「大后さんうるさかっただろうに。文も自由に出せたし、よく抑えたね」
「むしろ今までのさばらせてたのがいけなかったね。ごめんなさい」
光はしばらく俺の顔をじっと見つめると首を振った。
「大后さんを止められるのは、この世で兄貴だけだよ」
俺は苦笑して十五夜の月を見上げた。
「自分の親くらい止められなきゃね」
それから片方だけの瞳で光を見つめて。譲位の時期を考えていた。
038 終りに
政界復帰した光は入念に準備をして、十月に父院の御八講を催してくれた。御八講といえば昔年末に入道宮さまがして下さったことを思い出す。そこで出家を発表されて。光はボロボロ泣いていたっけ……。
父上、光と冷泉さんをお守り下さりありがとうございました。俺は父上にお礼申し上げて祈った。それが効いたのか父上のご遺志が遂げられた故か、俺の左目は不思議と回復して開くようになってきた。俺の役目も終りなのですね。父上がお赦し下さったのだと思うと有り難いし嬉しかった。
俺は些細なこともすぐ光に相談できる幸せな最期を過ごした。今まで荒れていた国政を少しずつ立て直す。俺を利用し刹那の利権を享受した人々は今後、政治的な荒海に投げ出されるだろう。気の毒だが、致し方ない。
俺はしばらく使われていなかった朱雀院を内々に整備しておいてもらった。そして年が明け、冷泉さんが元服なさるのと同時に譲位することを決めた。
「俺の世は楽しかったですか」
ある日の午後、看病しながら俺は母に尋ねた。自分の思うままにできて、少しは楽しんでもらえただろうか。
「呆気なかった。ただこれだけのために、今まで生きてきたかと思うとな」
母は静かに答えた。病は多少癒えたが覇気はない。
「俺は楽しかったです。母上とケンカできたことも。いい思い出になりました」
初めて肉親らしいふれあいができた気がした。あんなに腹が立つこと、他の人にはないから。昔から母の性格を諦めていたつもりではあったが、心の底から怒ってぶつかれたのは嬉しくもあった。怒りは期待の裏返しなのかもしれない。
「俺が生まれて嬉しかったですか」
俺は視線を下げると何気なくきいた。
「嬉しかった。院も喜んで下さった。これからもっと幸せになれるんだと思った。桐壺更衣が来るまでは」
母は三十年以上前のことを、まるで今起きた出来事であるかのように語った。
「気立てのやさしい、美しい女性だった。院が愛すのも無理なかった。そのうちまばゆいばかりの子まで生まれ、私は焦った。私にはそなたしかいなかった」
光に対抗する武器が俺一人とは心許なかっただろうに。俺は母に同情しながらきいた。
「自分がないがしろにされるのはまだしも、そなたまで愛されないのは耐え難く、許せなかった。全ては更衣とその子のせいだと思った。私は更衣を妬み苛んだ。誰もが協力してくれたよ。更衣に院を盗られたという気持ちは皆同じだった」
敵ばかりの御所に住む桐壺更衣の気持ちはいかばかりであったろう。俺は申し訳なく思った。俺がいなければ母もここまでしなかっただろうか。俺が殺したようなものなのかもしれない。
「私は院が好きだった。心の底から院だけを愛していた。最も早くに入内し全てをお捧げした。それでも院の愛は私を離れ数々の女を流転し、二度と戻ることはなかった。男のそなたにはわかるまい」
俺は若い母が父上に嫁いだところを想像した。俺に嫁いだ麗景殿さんや承香殿さんのような感じかな。彼女たちは男もこの世も、何も知らぬまま御所にくる。御所が彼女たちの全てになる。気の毒だった。帝に恋などしないほうがいい。子さえ産めればいいのだと割り切ってくれたほうが幸せだろうとすら思えた。
「もう、終りか」
母は静かに訊いた。
「ええ、終りにしましょう。俺も共におりますから」
俺も静かに応える。
「不肖な俺を帝にまでして下さり、ありがとうございました。ご恩に報えず、すみません」
「不肖などではない。更衣の子が特殊なだけよ。そなたは宝だった。昔からどんな子よりも優しく純粋で、自慢の息子だった。帝でいるには辛かったろう」
そこまで言ってもらえるとは思っていなくて、俺は少し驚いて母を見た。いつももっと頑張れ、まだやれると励ましてくれていたけれど。母は懐かしそうな目で俺を見つめていた。その瞳の中には、いつまでも幼いままの俺が生きているのかもしれなかった。
039 冷泉帝即位
年が明けた二月、冷泉さんが元服なさった。光二十九歳、冷泉さんは十一歳だった。光に似て背が高く、大人びて聡明な方だった。雪に輝く日の出のような、有り難く、思わず拝みたくなるようなキラキラと美しい方だった。
二月二十日には譲位の儀式が執り行われた。式典に先立って、俺は冷泉さんに位をお譲りすることをお話しした。
「私に、務まりますでしょうか」
冷泉さんは緊張して問われた。
「できますよ、必ず。みんな協力してくれます」
俺は太鼓判を押して。新帝の誕生を心から祝福した。
◇◇◇
冷泉さんの御世になると光は内大臣になった。職を辞していた左大臣は太政大臣になった。宰相中将さんは権中納言になった。沈んでいた左大臣家の人々も次々と世に浮かび、皆幸せそうな顔をした。そして八歳になった夕霧くんが童殿上することになった。
「夕霧くんの童殿上、見たかった……!」
俺はそれだけが唯一の心残りで両手で顔を押さえた。見たかった……一足遅かったか。
「いや見れば?」
「見ればいーじゃん」
光と蛍がほぼ同時に言う。
「いいの?」
「いいに決まってるよ。引退して暇になるんだからそこら辺ウロウロしてなよ」
光は自分が忙しいせいかちょっと辛口だけれど優しかった。
「冷泉さん、いいですか」
「もちろんですよ」
冷泉さんは昼御座で御笏を持たれニコニコ笑われた。冷泉さんは俺たちの顔がよく見たいからと仰って、こうして身内で話す時だけは目の前の御簾を高く巻き上げて下さる。
「春宮さんもまだ小さいし、見に来てあげて下さい」
俺の子である春宮は今年三歳になって梨壺を居所に頂いていた。母である承香殿さんもついておられて。母子が一緒にいてくれるのは安心だ。
「夕霧くんもいるので呼びましょうか」
「今日ですか?!」
俺は夕霧くんに会う心の準備ができず、しばし迷った。夕霧くん、好き……。会えるなら何か贈り物でも持ってこられたら良かったのだけれど。俺がオロオロしている間に父である光が夕霧くんを呼んできてしまって。俺は初めてこの子と対面することになった。
「はじめまして……」
「はじめまして」
童殿上姿の夕霧くんはとても可愛かった。可愛くて賢そうで、少しキツめの目元がたまらなく格好良かった。
「俺は、その……昔、あなたのお母さんと文を、交わして頂いてました」
俺はなんと言っていいのかわからず、言葉を探し探し続けた。
「朱雀さんは夕霧くんのお父さんのお兄さんです」
「伯父ですね」
冷泉さんが優しく説明なさると、夕霧くんは秒で理解した。
「こんなにご立派に成長されて……俺は…………嬉しいです…………」
俺はそれ以上続ける事ができずに、涙をボロボロ流した。嬉しかった。葵さんが生きておられたらどれほど喜んだだろうと思うと、両手で顔を隠しても涙が抑えきれなかった。初対面でボロボロ泣くなんて大人として恥ずかしいけれど。今日この子に会えて本当に良かったと思った。
夕霧くんは大泣きする俺をしばらく黙って見ていたが、やがて自分の袖で俺の涙をそっと拭ってくれた。その優しさが嬉しくて。俺は夕霧くんの手を取ると、両手で包んで額に押し当てた。
「ありがとう……」
涙声でお礼を言って。この子の成長を一生見守ろうと思った。
040 住吉詣
引退して朱雀院となった俺は暇なので、自邸で仏勤めをしたり春宮に会いに御所に伺ったりした。
「大きくなったね」
春宮はもう歩けるので、乳母や女房たちについてそこらじゅうをてくてく歩き回っている。母である承香殿さんもお元気そうで、俺にはそれが一番嬉しかった。
「可愛いですね」
「はい」
承香殿さんは俺が春宮を見に来ることも嫌がらず、昔と変わらぬ笑顔をくれる。
「いつも春宮のそばにいて下さってありがとうございます」
俺は承香殿さんにお礼を言った。たとえ春宮でも、やっぱり母子が一緒にいてくれると安心だ。冷泉さんが帝になられてからお母上である入道宮さまも御所によく来られるようになって、俺にはそれも嬉しいことだった。本当は俺の代からそうして差し上げたかったのだけれど。俺の力ではたまに会って頂くのが精一杯だった。
「春宮様」
内大臣となった光の宿直所はやっぱりいつもの桐壺なのだけれど、梨壺と隣同士のせいか光はよく春宮を見に来てくれて、いろいろと世話を焼いたり助けたりしてくれた。
「光、いつもありがとね」
「いえいえ。将来のためだからね」
光はそう言うと、俺を柱の陰に引っ張っていってこっそり耳打ちした。
「実は三月に娘が生まれたんだ。まだ極秘だけど」
「そうなんだ。おめでとう。なんで秘密なの?」
「そのうち話すよ。その子は将来春宮様に嫁がせるから」
「もう決めてるの」
生まれたばかりの娘の将来についてもう決めているというのが凄いと思って俺は目を丸くした。
「むかし宿曜に言われたんだ。俺には帝、后、太政大臣が生まれるって。あの子は娘だから后になるのさ」
光は楽しみで仕方ないといった様子で笑った。帝は冷泉さんだから、夕霧くんは太政大臣になるのか! 俺もつい嬉しくなって微笑む。
「すごいね。楽しみだね」
「なに他人事みたいな顔してんの。兄貴の息子の嫁になるんだからね。兄貴も春宮様を大事にしてね」
「あ、はい」
俺がうなずくと光はすごく上機嫌で去っていった。自分の娘を入内させるなんて政治家って感じだなあ。俺たちもいい歳だし、当然ではあるんだけれど。葵さんのお兄さんである権中納言さんの娘さんがこの年の八月に入内なさったことも俺を驚かせた。
「もう入内なさるんだね」
女性の年齢ではなく帝である冷泉さんの若さに驚いていた。十一歳でお嫁さんくるのか……。元服したら大人扱いとはいえ大変そうだな。ただそう考えるのは俺だけで、冷泉さんなら光の子だし女性の扱いは上手いのかもしれない。
光のお嬢さんはすくすくと成長なさっているようで、光は秋には住吉詣に行った。住吉の神さまのお告げで明石に渡ることができたので、そのお礼ということのようだ。あくまでも私的なお参りのようだが光は今をときめく内大臣になっているので、ついていく人の数が多い。殿上できる官位の貴族は皆お供して御所で政が何もできないくらいだった。
「夕霧くんを童随身に派遣しました。私も一緒に行きたかったです」
冷泉さんはやっぱりニコニコと笑って話された。
「可愛いんでしょうね」
俺も見たかったなと思って、住吉の社を歩く凛々しい夕霧くんの姿を想像した。まだ少年だけれどクールで格好良いんだよな。葵さん似なんだろうか。夕霧くんの成長が今の俺の生きがいで、御所でも夕霧くんを見つけるとつい目で追ってしまう。
「帝はなかなか遠出できない所が寂しいですよね」
「ですね」
二人してうなずきながら、つい帝あるある話に花を咲かせてしまった。
「馬がお好きなら鷹狩に行かれても良いかもしれませんよ。もう少し大人になられたら」
「鷹狩ですか」
冷泉さんの瞳がキラキラと輝かれるので、俺は提案して良かったと思った。冷泉さんの鷹狩、絶対格好良いだろうな。想像しただけで絵になるなと思いながら、俺たちはのんびり光と皆の帰りを待っていた。
041 しらずがほに
俺の譲位に合わせ伊勢へ下っていた斎宮も交代になり、お母上の六条御息所さんと共に京へ戻られた。六年ぶりの帰京だった。あの頃は葵さんを亡くして本当につらかったな……。斎宮さんに別れの御櫛を贈ったことが懐かしく思い出される。
御息所さんは元の六条のお邸を修理してとても華やかにお住まいとのことだった。綺麗な女房たちも多く、若い公達が集う邸宅になっているようだ。
ただ御息所さんは体調が優れなかったのか、出家後程なくしてお亡くなりになられた。光は御息所さんの葬儀一切を取り仕切り、立派に見送って差し上げたそうだ。葵さんのことで大変お世話になったなと思いながら俺は西の空へ手をあわせた。今ごろ叔父上と会ってお話されているだろうか。
「斎宮さんのことなんだけど」
光はある夜、めずらしく朱雀院まで来てくれると俺と一緒に酒を飲んだ。
「兄貴、お嫁さんにいる?」
「えっ? いいよいいよ」
俺は驚いて首を振った。朱雀院には俺が帝だった頃入内なさった女性で帰る家のない方が来られているけれど、正直朧月夜さん一人でも持て余しているのでこれ以上は無理だと思った。
「そっか。良かった」
光はほっとしたような表情で酒を飲む。
「どなたかに嫁がれるの」
「うん。冷泉さんに差し上げようかと思ってるんだけど」
「そう」
帝だから仕方ないけれどお嫁さんがどんどん送られて来るなと俺は思った。
「斎宮さんすごく綺麗だったもんね」
「やっぱりそんなに綺麗なんだ」
光はそれが気になるようで少し考えている。
「光がほしいの?」
「いや、御息所さんに遺言で『絶・対・手・出・す・な・』って言われてるから」
なんという遺言をもらってるんだと思って俺は苦笑してしまった。まあ恋人だった人の娘とも付き合うというのは、さすがに抵抗あるかな……。
「俺さ、入道宮さんに相談したんだよ。冷泉さんに差し上げていいかって。その時『兄貴がほしがってる』って話してさ」
「ほしがってないよ?」
「いやわざとさ。そう言ったらどう反応するかなって。そしたら彼女『院からのお申し出は知・ら・な・か・っ・た・こ・と・に・し・て・帝に差し上げましょう』って言うんだよ。『院もそれほどお咎めにならないでしょう』って」
「うん。全然怒らないよ」
だって元々お嫁に望んでないしと思って俺はうなずいた。光は干した盃を持ちながらしばし考えにふけっている。
「俺こんなこと言う人なんだって、意外だった」
光はショックを受けたようだった。
「考えてみたら、俺彼女と恋以外の用件で話したことなかったんだよ。こういう事務的な話ね。彼女はすごく賢くて話が早くてそれは良いんだけど、なんか権力者の思考なんだよね。さすが先帝と后の間に生まれた方だなって感じるというか。一言で言うと兄・貴・を・侮・っ・て・る・んだよ。大后さんに意地悪された仕返しかもしれないけど、この前まで帝だった人に対してそれ? って思ってさ。なんかモヤモヤして」
俺が光の盃に酒を注ぐと、光はそれをじっと見つめてゆっくり口を付けた。
「俺は兄貴が斎宮さんに執着してないこと知ってるから別にいいやと思ってるけど、院から先に申し出があるのに『知らんふりであげちゃえば』って酷くない? 横取りと同じだよ。もし俺が兄貴の立場でそれされたら絶対腹立つもん。そういうこと平気で言う人なんだと思って、なんかショックだった」
「院と現役の帝の御母上だったら、御母上のほうが立場は上なんじゃない?」
「でも父上は院だった時も絶大な権力持ってたじゃん。兄貴の母である大后さんを抑え込んでた。息子が帝になった途端その態度かよって、なんか複雑だよ」
俺は何も言えなくなってしまって、ただ光を見つめた。光は酒に映った月を見ていて。
「可憐で儚げで俺が守ってあげなきゃとか思ってたけど、勝手な思い込みだったのかもしれないね。俺は恋に必死で見えてなかっただけで。あれが彼女の本質で、邪魔者が誰も居なくなったから現れてきただけなのかもしれない」
光が盃を差してくれるので俺も飲んで。なんかしんみりと考え込んでしまった。
「女って、変わるよね」
光はそれだけ言うと、また黙ってしまった。
042 二人の秘密
御所に行く用事もないので院でゆっくり祈っていた午後。取次の女房が少し困った顔をして俺の所まで来た。
「内大臣のご子息がお一人で来られていますが」
「夕霧くんが?」
とりあえず通してもらうと、たしかに夕霧くんが一人で来ていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
いい天気だったので、俺は庭の見える縁に夕霧くんを誘った。夕霧くんは軽く礼をして座る。しばらく二人並んで互いに何も話さなかった。何も話すことがなくても、俺は全く苦痛ではなかった。
「あなたは俺の本当の父さんなんですか」
夕霧くんが唐突にきくので、俺はちょっと驚いて言葉を選んだ。
「あの、えっとね、それは誤解で……。君は正真正銘、光の息子だよ」
「なあんだ」
夕霧くんは前を向いたままつぶやくと
「あなたが父さんだったらよかったのに」
残念そうな声で言う。
「どうしてそう思うの?」
「だって、あの人は俺のこと好きじゃないから」
あの人というのは光のことだろうか。
「うちに来るのだって俺目当てじゃなくて、気に入った女房たちと話すためだし。あの人が好きなのは女だけだから」
夕霧くんは前を向いたまま、寂しそうに話した。
「あなたは母さんの恋人だったんですか」
「恋人ではないかも……友だちくらいかな」
「文をかわしてたのに?」
「恋文じゃなかったんだ」
夕霧くんはよくわからないという顔でしばらく考えていたが
「母さんのこと好きじゃなかったの?」
静かな声できいた。
「ううん、好きだったよ。すごく好きだった」
「じゃあなんで恋人にならなかったの」
「光と引き離したいわけじゃなかったんだ。光と葵さんと夕霧くん、三人で幸せに暮らしてくれたらと思ってた。葵さんが幸せになってくれたら」
心の底からそれが見たかったと俺は思った。
「そうなんだ」
夕霧くんは目を伏せながら、自分の膝を見つめる。
「母さんが生きてたら、あの人はちゃんと来るの」
「来ると思うよ」
「一緒に住んでる人がいるのに?」
鋭いなあと思って俺は困ってしまった。まだ九歳だと思うけれど。夕霧くんは鋭い。
「もし母さんが生きてたら」
夕霧くんは前に視線を戻すとハッキリした口調で言った。
「俺はあなたを母さんに会わせる」
「どうして?」
「新しい父さんになってもらう」
「……そっか」
俺は胸がいっぱいになって何と答えたらいいかわからなかった。ずいぶん長い間俺たちは黙っていて。俺だって良い夫でも親でもないのだから、何も言う権利は無いのだと思った。
「今日来たことはあの人には言わないで」
「うん。秘密だね」
「また来てもいい?」
「いいよ」
夕霧くんは鋭い瞳でじっと俺を見ると、すっと立って帰っていった。俺はまだ春宮だった頃、光が梅壺の隠れ家に来た時に似ているなと思ってその背を見ていた。
043 梅壺女御の入内
光三十一歳の三月、前斎宮さんが入内なさった。入道宮さまは以前の位を惜しまれ最近また「中宮さま」と呼ばれている。
俺は京へ戻られた御息所さんに挨拶もできなかったことを思い出し、前斎宮さんへ贈り物をした。御櫛の箱、香壺の箱、薫物などの日用品で、いらなければ女房たちに配ってもらえたら良いと思った。
「叔父上やお母様が生きておられたら、今日の日をどれほどお喜びになられたことでしょう。末永く幸せにお暮らし下さい。」
父にも母にも別れた彼女には幸せになってほしかった。冷泉さんならお優しいからきっと大丈夫だと思う。前斎宮さんは梅壺を賜われ梅壺女御と呼ばれた。先に入内していた権中納言さんの娘さんは弘徽殿女御となっていた。
冷泉さんは十三歳になっておられたが、スラリと背が高く美しさは光譲りで、成長するほど魅力が増されるように思えた。女性にもとてもお優しいようで、いつ御所に伺っても女房たちは皆自然体で心地良さそうに仕えている。
◇◇◇
「結構な物を頂いちゃって」
梨壺の縁側で春宮が童たちと遊ぶのを眺めていると、光が隣にきて座った。
「一言お祝いが言いたくて。余計だったかな」
俺も前を向いたまま答える。
「無事入内されてよかったね。御息所さんは后になれなかったけれど、お嬢さんが入内なさって心から喜んでおられると思うよ」
光が親代わりになって梅壺女御の入内を進めたことは知っていた。幸せになられるといいな。冷泉さんに愛されればきっと幸せではないかと思うけれど。
「兄貴は正直でいいね」
光は遊ぶ童たちを見ながら静かに笑った。
「大后さんも自分に正直だったもんね。俺大后さんのことも嫌いじゃなかったな」
「そうなの?」
「京に帰ってからいろんな人が俺の周りに来るけど、権力におもねる人ばかりでね。俺に時勢があれば靡き、没落すれば離れ、またこうして返り咲けば裏切ったことも忘れて戻ってくる。そういう人たちばっかり。でも大后さんだけは俺が父上から愛されてどんなに時めいてたときでも一貫して俺のこと嫌ってたからね。信・用・で・き・る・んだよね。敵には回したくない相手だけど」
敵ながらあっぱれという事なんだろうか。光は話しながら懐かしそうに微笑んでいる。
「彼女のそういう真っ直ぐなところが兄貴にも伝わってるんだろうね」
「良いところかどうかはわからないけどね」
俺は照れて苦笑した。単純ってことなのかな。
「忙しかったのもあってずっと忘れてたんだけど、今にも崩れそうな邸で俺を待ってた人がいてね。凄いなと思った。荒れ果てた邸で何年もずっと、自分も調度も売らずにさ。変わらないって難しいことなのにね。まあ俺以外頼れる人が居なかったんだろうけど」
光は変わらぬ人を求めているのかもしれないと俺は思った。中宮さまが出家なさった時もすごく悲しんでいたし。
「皆身分が低くは無いんだよ。女御の妹とか親王の娘とか。俺だって帝のお気に入りだったのに須磨にまで行ったしさ。人生何が起こるかわからないよね。定めなき世って感じで……。ただ金で救えることならさ、してあげたいから。俺を信じて待ってくれてた人たちを世話する邸でも作ろうかと思ってるんだよね」
「……光って本当に、女性に人生懸けてるよね」
「そう?」
「うん。すごいと思う」
俺は感心して言った。少しでも関係があった人の面倒を死ぬまで見てあげるのだろうか。今の奥様も少女の頃から育てたと言っていたし。よくそこまでできるなと思う。ただの女性好きってレベルじゃない。守護者に近いと思った。
044 絵合
冷泉さんは小さい頃から絵がお好きで、ご自身でも上手に描かれた。俺や光もよく描いてもらっていたっけ。
新しく入内なさった梅壺女御も絵が上手らしく、冷泉さんは昼間も梅壺でお過ごしになられたりして交流を深めていた。それが弘徽殿女御の父である権中納言さんの挑み心に火を付けてしまったらしく。弘徽殿では今風の絵を集めながらなかなかお見せしないなど、冷泉さんを巡る二人の女御の争いが起き始めていた。
「負けず嫌いは本当変わらないな」
権中納言さんは若い頃から光に負けるものかと必死だったけれど。今でも変わらぬその姿勢に苦笑しながら光はどこか嬉しそうだった。
「でも出し惜しみするのはよくないね。どうせなら堂々と競わせようよ」
こうして御所ではいい絵を集めたり描かせたりすることがだんだん流行になっていった。俺は春宮のいる梨壺にしか行かないので通りすがりの気配程度しか感じないが、弘徽殿ではだいぶ熱が入っているらしく、朧月夜さんまで絵を収集し始めたのには驚いた。
「どうせ争うなら勝ちませんと!」
弘徽殿女御は朧月夜さんの姪なので、彼女は当然弘徽殿側についてあげるようだ。俺も何かあげたほうがいいのかな。斎宮下向の日の儀式は綺麗だったなと思い出して、俺はそれを描いてもらって梅壺女御に差し上げることにした。母からは弘徽殿女御に贈れという絵が届くし、五歳の春宮まで乳母にならって絵を描いている。皆すっかり絵に夢中のようだ。
光も梅壺女御を応援すべく絵を集めている様子だったが、どこか浮かない顔に見えた。
「左右に分けて競わせて、それを見て楽しむなんてさ。なんか怖い遊びだよね。負けたくないから準備はするけど」
梅壺、弘徽殿ともなかなかの絵が集まって、見に行かれる冷泉さんが大変そうに思われた。それならばということで、日を改めて帝の御前で絵合が行われることになった。
◇◇◇
絵合は帝と中宮さまが見守られる中、殿上人も見物するような大規模行事になった。俺は柱の陰からでも見たいなと思っていたら
「ここ座りなよ」
蛍が奥まった端っこの席を分けてくれる。
「いいの?」
「うん。俺判定頼まれてるんだよね」
蛍が冷泉さんの御前に出ると冷泉さんは嬉しそうに手を振られた。俺にも気づいて下さって
「朱雀さん。一緒に見ましょう」
ご自分の隣を示して下さるけれど、
「いえいえ、ここで結構です」
俺は恐縮して蛍のくれた席に座った。今日は中宮さま主催だと思うから俺は目立たないようにしていないと。
絵を入れる箱や広げる敷物、童たちの衣装まで趣向が凝らされていて、これは凄い催しだなと俺は舌を巻いた。この日のためにどれだけの注文が出され、職人たちが立ち働いたことだろう。
絵は左が梅壺、右が弘徽殿と分けて提示された。左には光、右には権中納言さんが畏まって控えている。蛍はその運動神経の良さを活かし素早く判定しようとしていたが
「わかんねー……」
どちらも選りすぐりの絵ばかりで、なかなか甲乙つけがたいようだった。
「それはこちらでしょう」
「あ、はい」
困る蛍に中宮さまが時折助言して下さる。左右両者とも接戦で、絵合は夜になっても続いた。最後の品として光が自ら描いた須磨の巻を出すと、絵の技巧もさることながら当時の情感まで伝わってくるようで皆圧倒されてしまい、左の梅壺側が勝利した。
「お前絵もかけんのな。なんか怖えわ」
絵合が無事に終わり酒宴になって。蛍はため息まじりにつぶやいた。
「器用貧乏なだけさ。何も残りゃしねえよ」
光は勝ったわりには嬉しそうでもなく、静かに飲んでいる。
「女・帝・って感じだったな」
光はよほど悲しかったのか、その単語を何度も口にした。
「上に立つのが似合う人なんだろうな。知識も教養もプライドもあってさ」
寂しくて悔しそうだが、諦めの色も見える。
「帝の母って権力握れるんだね。俺大后さんだからそうなんだと思ってた。皆ああなっちゃうんだね」
「そうだね」
俺は相槌をうって。今日の中宮さまの堂々としたお姿を思い出した。
「強くならなきゃ、やってこられなかったのかもしれないね。母からの圧力が中宮さまを強くしてしまったのかもしれない」
「それだけじゃないさ」
光は少し笑うと
「あれで正しいんだろうね。若い帝を支える母としては」
昔の恋人が完全な母になってしまったことを惜しむような、尊ぶような目をして言った。
だいぶ遅くなってから月が上り、今日の主役たちに楽器が配られた。権中納言さんは負けて悔しそうだったが色に出すのも癪だとばかり、すました様子で和琴を奏でた。とても上手い人なので、皆が聴いているのも意識して華やかに掻き立てる。
「久々に弾くわー」
蛍は箏をもらうとサラサラと音調を整えた。花々を巡る蝶のように軽やかな音色が響く。光は琴をもらって少し物憂げに弾いた。女房が琵琶を持ち上手な人に拍子を取ってもらって合奏すると、伸びやかな調べが春の御所に広がり夜明けの空を彩った。絵合の労に対する褒美として中宮さまは皆に禄を下さった。蛍には御衣も下さる。
「須磨の巻は中宮様に差し上げて下さい」
光はそう言い置いてこの宴を去った。
「『冷泉帝の御世から始まった』と伝えられるような文化、芸術を興したいんだ。あの子の名が後世に残るようにね」
さり気なく語る光は優しい父の顔をしていた。
045 崩御
この年の冬、以前秘密だと言っていた光のお嬢さんの袴着が行われた。二條院の奥様ではなく、明石で出会った女性が産んだ娘さんを引き取って育てているようだ。
「京を離れたのはつらかったけど、あの子が生まれてくるためだったのかと思うと、これも縁だよね」
光はしみじみと語って娘さんの成長を喜んだ。
「三歳で迎えに行ったけど、母親と引き離すことになっちゃって……。早く一緒に住もうと誘ってはいるんだけどね」
罪作りなことをしたとため息をつく。
「とても可愛い子で紫にもよく慣れてるんだ。紫もとても喜んで、抱っこしたり遊んだりしてあげててさ。見てると和むよ。本当は紫の子が欲しかったんだけどね」
ほしい人にはできなくて、と光は寂しそうに笑った。
「実の母親にも早く会わせてやりたいんだけど、なかなか来てくれなくて。桂の院に行くついでに会いに行ってるんだ」
「忙しいね」
「もうのんびりしたい歳なんだけどね」
光は苦笑しつつ肩をすくめた。光の二條院は東側に増築したらしく、ますます女性のための邸宅と化しているようだ。
年が明けて光三十二歳、冷泉さんは十四歳になられた。光は内大臣で政敵もおらず、二條院は新年の挨拶にきた貴族や従者たちで賑わったそうだ。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとうございます」
俺の邸には夕霧くんがこっそり挨拶に来てくれて、俺はとても嬉しかった。夕霧くんは今年十一歳になる。もうすぐ元服かな。背も高くなりますます凛々しくなって、俺は頼もしく思った。春宮も六歳になるのでそろそろ学問が始まるのかな。のどかな年始で、この平和な日々が長く続けばいいと誰もが思っていたのだが……。
◇◇◇
まず葵さんのお父上で夕霧くんの祖父でもある太政大臣が逝去された。内大臣の光と太政大臣で政を行っていたので、太政大臣がいなくなると光がとても忙しくなってしまう。他にも疫病が流行ったり空に見慣れぬ星月のひかりが見えるなど、不吉なことが続いた。冷泉さんのお母上である入道宮さまも具合がよくないようで御所に来られなくなり、冷泉さんは少しお寂しそうに見えた。
「今年は何かあるのでしょうか」
「どうでしょうね。俺も祈祷させてはいるのですが」
原因のわからないことで世が乱れてくると不安だろうな。
「冷泉さんのせいではないですよ。大丈夫です」
俺は冷泉さんの目を見て微笑んだ。春宮もまだ六歳で譲位できる年齢ではない。つらくても耐えて頂かなければならないのは心苦しく、申し訳なかった。俺がもう少し持ちこたえるべきだったか……。
入道宮さまの病はなかなか良くならず、三月には重くなられた。帝はお母上に会うため里の三條邸に行幸された。俺は不安だったが、祈ることしかできなかった。
「母は厄年だったのです。もっと祈祷や誦経をさせておけば良かったのですが……」
冷泉さんも光も様々に手を尽くしたが、入道宮さまは灯の消えるように亡くなってしまわれた。まだ三十七歳だった。
入道宮さまは世のため人のために様々な供養をして下さっていて、その死を惜しまぬ者はなかった。御所では皆が墨染の衣を着て入道宮さまの崩御を嘆いた。光は念誦堂にこもって祈っていたが、号泣するほどではなかった。
「正直出家された時のほうがつらかったかな。突然だったからね……。今も悲しいけど、俺のことより冷泉さんが心配で」
両親とも死んだと思っているだろうから、と光はつぶやいた。冷泉さんは皆の前で取り乱されることもなく葬儀でも気丈に振る舞っておられたが、やはり気落ちしたご様子は隠しようもなかった。入道宮さまのお母上の代から懇意にしておられる僧都を召して、祈ったりお話されたりしているご様子だった。
「みかどは病なの?」
春宮は心配そうに尋ねた。
「そんなことはないよ。ただお母様がお亡くなりになられて、深く悲しんでおられるんだ」
俺は春宮に優しく答えた。母である承香殿さんが元気のない春宮をそっと抱きしめる。これからどうなるのだろう。俺は御所に泊まることはないので日暮れまでには帰るが、不安は拭えなかった。俺に何ができるんだろう。なんとかして冷泉さんをお支えしたいが、方法が思いつかなかった。
046 帝の涙
入道宮さまがお亡くなりになられて、しばらくした頃だった。
「冷泉さんの様子が何かおかしいんだ」
光は宿直所の桐壺を人払いすると、俺を呼んで深刻な顔で切り出した。
「まさかとは思うけど、兄貴、何も言ってないよね?」
「あのことだよね? うん、何も」
「王命婦にも確認したけど違うと言うし。一体誰が……」
「冷泉さん、お気づきになられてるの?」
「どうも、そうらしい」
光は片手で口を押さえながら考え込み、しばらく黙っていた。
「昼になっても寝所から出てこられない日があって心配して伺ったら、冷泉さん俺の顔を見てポロポロ涙を流すんだよ。俺どうしたのかと思ったけどきけなくて。母親が亡くなって悲しいのかと思ってたんだけど」
冷泉さんが泣かれるというのはよほどのことではないかと思った。少なくとも俺は見たことがない。
「その後も俺に対する態度が変なんだ。俺を敬・お・う・としているというか。突然譲位したいと言い出すし。もちろんお止めしたけど、俺、どうしたらいいか……」
光は頭を抱えてため息をついた。これほど悩む光を見るのも初めてだった。
「軽蔑、してるかな」
「そんなことないよ」
冷泉さんに限ってそんなことはないと俺は思った。
「俺、どうすればいいだろう。せっかく彼女が必死に隠し通してきたのに……」
「光はどうしたいの?」
俺の質問に、かなり長い間光は黙っていた。
「俺が父親だって、言いたい。でも今更、俺から言っていいのかわからない。あの子のショックも相当だろうし……。あの子には、自分は帝の子だと思っていてほしかった」
どうしたらいいかわからないのは俺も同じで。俺たちはいつまでも黙っていた。どうしたらいいだろう。冷泉さんは、どうしたいと思っておられるんだろう。
◇◇◇
俺は冷泉さんとお話してみようと清涼殿をウロウロしてみたが、冷泉さんは調べ物でお忙しいとのことで昼御座におられないことが多かった。夏も過ぎそろそろ秋に入ろうかという頃、冷泉さんの方からお召しがあって。俺は御所に伺った。
「朱雀さん」
冷泉さんはどこか思いつめた様子で俺を見つめられた。
「光る君に親王に戻って頂き、位をお譲りしようと思うのですが」
そうこられたかと思って俺は静かにうなずいた。
「なぜそうお考えになられたのですか」
俺の問いかけに冷泉さんは黙ってしまわれて。
「書物を調べて。それしか無いと思いました」
俺の目を見て泣きそうな顔で仰る。俺は苦しくなって。自分もこの秘密を守ってきた共犯者なのだと悟った。
「そうですね。それもいいかもしれません」
俺は目を伏せて穏やかに答えた。父である光が帝になれば。順番は前後するが、皇位継承の正・統・性・は保たれるかもしれない。それがないまま帝位におられることが不安で仕方ないのだろうと俺は察した。臣籍に下った皇子が親王に復帰し、帝位を継がれた例もあるし。
冷泉さんは少しホッとした表情をなさると
「秋の司召で提案してみます」
そう仰っておられたのだが、予想外のことが起きた。
「光る君に、断られてしまいました……」
光は父上の御遺志を違えたくないとのことで、親王復帰も帝位も辞退した。冷泉さんの御世をまだ終わらせたくないのだろうと俺は思ったが、冷泉さんはがっくりと肩を落とされた。これ以上打つ手がないと絶望されたのか、あまりにもつらそうで見ていられないほどだった。
「申し訳ございません。苦しい思いをおさせして」
俺は帝にお詫び申し上げた。重い責任を感じていた。
光に即位してもらうよう俺からも頼んでみようか。でも、まだ十四歳で若くお元気な冷泉さんが突如譲位なさることが妙な憶測を呼ばないか不安が募った。
冷泉さんを廃し、幼い息子を春宮に立て俺が続けていればよかったか。試みに考えてみたがどうしてもあり得ない気がした。冷泉さんに期待し、その御世の実現を誰より望んでいたのは俺自身だ。廃太子なんて冷泉さんの御身も危ういし、到底選択し得なかっただろう。
冷泉さんの御世は俺の代よりはるかに素晴らしい。皆そう言っているし、俺もそう思っている。まだ続けられてほしかった。この国のためにも。でもあれほど苦悩されている冷泉さんにこのままお任せするのも心苦しく、申し訳なかった。
どうすればよかったんだろう。母や祖父たちの勢力から必死に冷泉さんを守ってきたつもりだったのに。俺のしたことは結局冷泉さんを悩ませ、傷つけただけなのかもしれなかった。
047 父と子
「冷泉さんから大事な話がしたいって言われたんだ。兄貴悪いけど、明日一緒に来てくれない? 誰も来ないか見張っててほしくて」
光が真剣な顔で言うので、俺もうなずいた。
「いいけど、俺は聴いちゃって大丈夫かな」
「構わないよ。黙っててくれれば」
光は今から不安そうにしている。
「大丈夫だよ、きっと」
冷泉さんは、過去の変えられないことを責めたりはなさらないだろうと俺は思った。ただ今のつらいお気持ちを思うと、短期間でも光が帝位に就いてはどうかとも思うけれど……。
次の日の午後、冷泉さんからお召しがあって俺たちは伺った。俺は厳重に人払いされた御簾の外の見晴らしのいい場所に立ち、誰も来ないか念のため見張っていた。
◇◇◇
「母上が私を、時折とても悲しそうな目でご覧になることがありました。私に見せぬよう、そっとため息をつかれるのですが。その悩みのために私が即位した後も昼夜のいとまなく祈っておられるようでした。そのご無理がたたってお体を壊されたようにも思われます」
冷泉さんは昼御座におられない。光と同じ目線になるよう、床に座られたのではないか。小さい声だが会話が漏れ聞こえてくるので俺はそう思った。俺は冷泉さんのお声が一番近くに聞こえる御簾の前に座り直し、誰も来ないか見張りを続けた。
「私にはそれが歯がゆくてなりませんでした。思うことは全て仰って頂きたかった。私たちは親子です。どのような罪も共に負えると私は思っていた。私のような者でも、母を守る力になれればと」
罪……。そのつらい言葉に俺の胸は痛んだ。冷泉さんの誕生は罪なのだろうか。これほど美しくご聡明でお優しい方が、罪の子だろうか。俺は神仏を問い詰めたく思った。光はずっと黙っていて。落ち着いた冷泉さんのお声だけがかすかに聞こえる。
「母上亡き今、今度は私がその祈りを受け継ぐべきではないかと思っています。ただ、一人ではあまりにも重くて……。もし許されるのであれば、私も仲間に加えては頂けませんか。私も共に祈りたい。できることは償いたい。罪だというのなら、私も共に負います」
冷泉さんはここまで話されたあと、だいぶ長い間黙っておられた。
「私の存在は、無いほうが良かったですか」
「そんなことあるわけない。貴方は俺たちの、希望でした」
かすかな衣擦れの音がして。光が冷泉さんを抱きしめている気配がした。涙を抑える声が震えて。
「父上と……お呼びしても?」
「うん。今まで言えずに、すまない」
ふたりはしばらく動かずに、すすり泣きの声だけがかすかに聞こえた。冷泉さん……今まで秘密にしてしまって、すみません。
俺は親子水入らずにして差し上げたい気持ちしか無かったが、誰か来てもいけないしと思ってこの場を無言で死守した。影になって守ろう。近くて遠かった二人が、やっと再会できたのだから。
「私は、どうすれば……」
「気に病むことないんだよ、俺も支えるから。春宮様が大きくなられるまで、この国を任せられないかな」
光は優しく、諭すように言っていた。譲位を迷う冷泉さんを励ましているのだろう。俺は息を殺して座しながら胸がいっぱいになっていた。
冷泉さん、おつらいだろうな。ただこういう大切なことを何一つ隠すことなく話せるようになられたのは良かったと思う。光も今まで黙っているのはつらかっただろう。一生言わない覚悟だっただろうから。十四年経って、二人はやっと親子に戻れたんだ。
「じゃあ夕霧くんは私の弟なんですね」
「うん」
「話しても?」
「いいけど、あいつ秘密守れるかなあ」
光が言うと、冷泉さんはフフフと微笑まれた。冷泉さんに弟が、夕霧くんに兄ができたんだ。俺は感動しながらとても嬉しくて。これから二人が支え合い、もっと仲良くなれるといいと思った。
048 予言の書
光を密かに父と呼べるようになられ、冷泉さんはとても落ち着かれたように見えた。あの太陽のようなニコニコした笑顔も戻られて、御所の皆もほっと胸をなでおろしたようだ。譲位したいというお気持ちも撤回され、引き続き世を保って下さるようだった。
「夕霧くんを加階させてあげたいですから」
冷泉さんはそれが楽しみのようで優しく微笑まれる。
「朱雀さん、実はちょっとお話が」
冷泉さんはやさしい笑顔のまま、俺の袖を引いて柱の陰に呼ばれた。
「蔵で古い書物を調べていた際、気になるものを見つけまして」
冷泉さんは夜御殿に俺を入れて下さると、奥に置かれた雅な唐櫃の蓋をそっと開かれた。中には古代紫の表紙をした、かなり古そうな書物が何冊も置かれていた。
「これは物語本のようなのですが、登場人物が私たちにそっくりなのです」
「はあ」
俺は返事しながらあいまいにうなずいた。俺の鈍さというのは、光似の聡い冷泉さんには申し訳ないくらいだった。
「この物語は、父上の出生前から死後まで続いています」
「すごいですね」
「ですが……」
冷泉さんは少し言いよどまれた後、慎重に続けられた。
「私はこの本には無いことをしてしまいました。この本の中の私は最後まで光る君のことを父・上・とお呼びしたことはなかったのですが、私は……」
冷泉さんは取り返しのつかない過ちを犯してしまったかのように、少し顔をこわばらせておられる。
「そんなに現実そっくりな本なのですか?」
「わかりません。私については大方合っていたようですが……」
俺はしばらく沈黙すると、冷泉さんに正直な気持ちをお話した。
「俺が読んで確認したほうがいいのでしょうが、未来まで書かれている書物を読むというのはちょっと抵抗があって。主に誰のことが書かれていますか」
「主人公は父上のようです」
「では光に確認してもらうよう頼んでみましょうか」
俺が提案すると、冷泉さんは緊張した面持ちでうなずかれた。
「お願いできますか」
「光が嫌がるようなら、俺でよければ読んでみます」
俺はその本を何冊か冷泉さんからお借りすると、布に包んで持ち帰った。登場人物が俺たちそっくりなのに古い本とはどういうことだろう。未来を予言した書物なのだろうか。
俺は興味深いというより気味が悪い気がしてどうしても開く気になれなかった。光も同じ気持ちだろうか。光に確認してもらうのもなんだか悪い気がするな……。大した荷物でもないが持ち続けるのも気になって、つい桐壺を覗いてしまった。光がいたら相談してすぐ渡してしまいたかった。
「旦那様は今日は来られていません」
取次の女房に言われて「そうだよな」と思った。光は最近忙しいから。
「二條のお邸に使いを出しましょうか」
「いえ、大丈夫です。俺のほうが伺いますから」
俺は帰りがけに二條院に寄ろうと思ったが、御所から退出しようとしたちょうどその時、車から降りる光とばったり会えた。
「帝に会いたくなっちゃって」
光は自分を父と認識してくれた冷泉さんがますます好きになったらしく、少し照れて笑う。俺は自分の車に光を呼ぶと二人で乗って、冷泉さんから頼まれた用件をヒソヒソと手短に話した。
「読むの嫌?」
「いや、全然大丈夫。読ませてよ」
光は俺の持っていた包みを難なく受け取ると手を振って去っていった。怖くないのか……。俺は凄いなと思いつつ光の背を見送っていた。
049 緊急対策会議
「で、どーなん? この本」
蛍は例の書物を片手で持ちながら光にきいた。内密だったはずの予言書は光と蛍には読まれたようだ。俺たちは人払いした桐壺で緊急対策会議を開いていた。
「誕生と死亡は合ってるね」
光はすました顔でそれだけ言う。
「嘘つけ。大体合ってんだろ?」
「それは言えないなあ。私的なことだし」
「なんかムカつくわこいつ」
蛍は光を小突きながらも、本をパラパラめくってふーんとつぶやいた。
「俺について全然書かれてねーんだけど。須磨行くとき送ったのと絵合くらいか」
本当に予言書なのか? と首をかしげる。
「むしろ今後の俺がダサすぎて萎えんだけど」
この通りにしなきゃいけねーの? と蛍は不満そうに言った。
「いや別に、好きにすりゃいいんじゃね。当たるも八卦さ」
光も自分の死後まで読んだはずだが全く動揺していなかった。当たる部分は活かせば良いくらいに思っているようだ。
「皆さんこんばんは」
「いらっしゃい」
「こんばんは、冷泉さん」
「みかどー!」
桐壺にお忍びで冷泉さんが来られたので俺たちは揃って道を開けた。冷泉さんは俺たちの前を通りすぎると一番奥にいた夕霧くんの隣に座られた。
「夕霧くん、こんばんは」
「お疲れす」
夕霧くんは冷泉さんに一礼すると件の予言書に視線を戻した。夕霧くんは読むのが早いらしく、さっきから黙って何冊も読破しもう終盤に入っている。
「皆さんすみません、お集まり頂いて」
「いえいえ」
「どうでしたか?」
「どーもこうも」
蛍は首筋をかくと少し困った顔をした。
「光が言うには生・死・は・あってるらしいす」
「じゃあそれ以外は縛られる必要はないのでしょうか」
「と、思いますけどね」
冷泉さんが光をご覧になられると、光は菩薩のように微笑んで答えた。
「気にすることないよ。死期は変えられないようだけど。それまで楽しんで生きればね」
それを聞くと、冷泉さんも少し安心したように微笑まれる。
「柏木死ぬじゃん」
今まで黙っていた夕霧くんが不意に目を上げた。
「あ・ん・た・の・せ・い・で」
鋭い視線で光を睨む。柏木くんというのは夕霧くんの従兄で、兄弟みたいに育った親友だった。
「そんな箇所あったっけ」
光は挑発的に冷笑して夕霧くんを見た。夕霧くんと光の間でバチバチした火花が散っている。
「そうなの?」
俺は不安になって蛍に尋ねた。
「すー兄読んでないの?」
「うん。未来が書いてあるって何か怖いし」
「あー」
蛍は何事か把握したようにうなずくと
「すー兄は読まなくていいよ」
あっさり言うから余計不安になった。俺は奥におられる冷泉さんについ目で助けを求めてしまって。
「ええ、十六年ほど先ですが」
冷泉さんも悲しそうにうなずかれた。
「そんな先のこと……」
俺は驚いてしまった。そんな未来のことまではっきり書いてあるのか。
「困るね。どうにかして阻止できないかな」
俺が考え込むと、蛍と光がほぼ同時に俺を見た。
「すー兄が上手くやれば防げそうな気がするよ」
「そうそう、兄貴が自分の娘を上手く扱えばね」
「俺?!」
蛍と光がうなずくので俺は驚いてまた冷泉さんを見てしまった。
「たしかに柏木くんの件は朱雀さん次第で何とかなるかもしれません」
冷泉さんも俺を見てそう仰る。そうなの……。
「俺からもお願いします」
夕霧くんまでが強い瞳で俺を見るので、俺は全員に見つめられて肩身が狭い思いがした。
「わかりました。大事なことは教えてね。お願いします」
俺は皆に頭を下げて小さく畏まった。
「でも妙な本だよなー。他に読んだ人いるんすか?」
「蔵の奥で見つけた時は厚い埃を被っていて、私も手に取るのをためらったんです。他の人が読んだ可能性は低いと思います」
確かめる蛍に冷泉さんはお墨付きを与えて下さった。
「じゃーとりあえず秘密は守られてるわけだ」
蛍はゆっくりうなずくと、悪戯っぽい目をして笑った。
「先が見えるとかおもしれーじゃん。人の人生変えちゃおうか」
「悪用は良くないなあ」
光がニコニコ笑うので
「オメーが一番悪用しそうだからな」
蛍は呆れ顔で光をたしなめた。
「どこに置いとく? これ。うちは隠せる自信ねーわ」
保管場所について、蛍は真っ先に白旗をあげた。
「うちも人多いからなあ。兄貴んちは?」
「うち? うーん、朧月夜さんがいろいろ荒らすからなあ……」
「帝に夜這いするような女だから何も隠せないわな」
「どーいう女と住んでんのよ」
「俺が選んだ人じゃないんだよ……」
俺たち兄弟がけんけんごうごう言い争っていると
「私、保管しておきましょうか」
冷泉さんが手を上げて下さるので俺はほっと胸をなでおろした。
「すみません。お願いできますか?」
「はい。宝物なんかと一緒にしておきます」
「国宝級すか」
蛍は苦笑している。
「一応写してから返したいんで、少し借りていいすか」
「はい、どうぞ」
冷泉さんはニコニコ笑ってうなずかれた。蛍は何冊もある予言書のうち必要な巻を丁寧に包み直す。ちょうどその時夕霧くんが読んでいた最終巻をパタンと閉じて床に置いた。
「あんたのせいで母さんは死んだの」
夕霧くんは光にきいていた。
「だったら何?」
「絶対許さない」
鋭く言い放つと、畳を蹴るようにして立ち上がり行ってしまう。
「私もそろそろ失礼しますね」
冷泉さんも夕霧くんの後を追うように桐壺を去って行かれた。
「オメーら相変わらず仲良いのな」
蛍は憤慨する夕霧くんの背を見送ると苦笑して言った。
「十一であの殺気かよ」
「光、どうしてあんなこと」
俺は心配になって光を見つめた。
「俺を憎んでる方があいつは伸びそうな気がしてさ」
光は誰に言うともなくつぶやくと、少し笑った。
「いいよね、あの目。あのキツい目で一生俺を睨んでてほしいわ」
「葵さんへの罪滅ぼしか」
「……かもね」
光は蛍の言葉も否定せず、しばし遠くを眺めた。
050 アメとムチ
入道宮さまがお隠れになられ、冷泉さんと光の父子再会あり、予言の書ありと大変な一年も暮れ、年が明けた。光三十三歳、冷泉さんは十五歳になられる。夕霧くんは十二歳で今年いよいよ元服だった。
「冷泉さん、お疲れではないですか」
俺がしみじみ尋ねると、冷泉さんは微笑んでお答えになられた。
「母上がお亡くなりになられ大変なこともありましたが、良い一年でした。皆さんとこうして仲よくさせて頂けるのが何より嬉しいです」
冷泉さんにそう仰って頂けると俺も嬉しいなと思った。帝というのは孤独だから。心の重荷は少ないほうがいい。
「今年は夕霧くんの元服ですね。楽しみです」
冷泉さんはニコニコ笑われて、親である光より楽しみにしておられるようだった。
「そうですね」
俺も楽しみで、ついつられて微笑む。光はわざと夕霧くんに冷たく当たっており、冷泉さんはそれを理解された上で弟に優しくなさっている気がした。やり方は反対でも二人とも夕霧くんを思っている。
◇◇◇
入道宮さまの崩御から一年がすぎると、皆の衣も鈍色から普段の色へ改められた。ちょうど春から初夏へ入る頃で、御所にも爽やかな風が吹いている。
夕霧くんの元服は生まれ育った三條邸で行われることになった。亡き葵さんのお母様で、夕霧くんを育てて下さった祖母である大宮さまのお気持ちを慮ってのことだった。俺は目立たないように、昔葵さんと文を交わした時からいる女房へあてて夕霧くんへ贈り物をした。
「御元服おめでとうございます。夕霧くんの成長を見守ることができて嬉しいです。」
葵さんのお兄さんは右大将になっており、親類たちも上流貴族ばかりで夕霧くんのお家は間違いなく名家だった。父親も光だし、夕霧くんの政治家としての生まれの強さは比類ない。官位は四位から始まると誰もが思っていた。ところが光は夕霧くんを殿上人としては最下位の六・位・にして、大学寮に通わせると決めた。
「時勢が移って苦しい立場になったとき本人が馬鹿だと侮られるからね」
光がニコニコ顔で言うから、昔光を須磨送りにした俺は心苦しく思った。冷泉さんもこの決定はわかっておられたようで
「私が確実に加階させますから」
やっぱりニコニコ笑って仰る。夕霧くんに対しては兄と父でアメとムチのような状態になっていた。手厚いなあ。春宮も学問を始め暇になった俺は、元服後ぴたりと御所に来なくなってしまった夕霧くんの心配ばかりしていた。
「夕霧くん、元気?」
「ああ。今東の院に軟禁してるからね」
「軟禁?!」
光がサラリと言うので俺は驚いて目を丸くした。
「大学寮の寮試があるからさ。祖母ちゃんちじゃ学問に集中できないから曹司を作ってやったんだ。毎日一生懸命書物を読んでるよ」
光は珍しく嬉しそうに話す。
「この前寮試の予行演習をさせたけど、上手く読めてたよ。真っ直ぐで賢くて、やっぱり葵の子だなと思った」
夕霧くんを褒める光は心から嬉しそうで誇らしげだった。
「それを本人の前で言ってあげたらいいのに……」
「嫌だよ」
光はフフと笑って行ってしまう。素直じゃない親だなあ。
寮試本番の日は、俺もこっそり見に行った。大学寮の寮門には上達部の車がたくさん集っている。従者にかしずかれ、まっすぐ前を向いて中に入っていく夕霧くんの姿は凛々しくて格好良かった。まだ十二歳とは思えない、もっと大人の横顔に見えた。
051 未来への抵抗
冷泉さんに入内している女御は三人おられたが、六条御息所さんの娘である梅壺女御が中宮になられた。お母様が后になれなかった無念を晴らした形だろうか。
俺は嬉しく思ったが他の女御は悲しんだだろうなとも思った。特に一番先に入内していた弘徽殿女御はガッカリしただろう。母も弘徽殿女御だったが、后になるには縁起の悪い局なのかもしれない。
この年光は太政大臣になり、右大将さんは内大臣になった。そして光は内大臣さんに政務を譲ってしまった。内大臣さんは昔から光と競う気持ちの強い人だが、娘である弘徽殿女御が后になれなかったことは相当悔しかったようだ。もうひとり娘さんがいるようで、その子に望みをかけているらしい。
俺はこの頃、冷泉さんに言われて箏を練習していた。
「夕霧くんの加階のために見せ場を作りたいので。朱雀さんも協力して下さい」
冷泉さんはいつも微笑んで有無を言わせぬ指示を下さる。どうも来年にも朱雀院へ行幸があるらしい。うちに皆が来てくれるのは嬉しいけれど緊張する気がした。大勢の来客を楽しませることができるだろうか。俺は大規模行事は苦手なので、かなり前から心構えが必要だった。
「私が教えてさしあげましょうか」
いつも俺にくっついている朧月夜さんが、必ず同じ調べでつまずく俺を見かねて言ってくれた。
「箏・を・教えて下さいね」
「もちろんです♡」
琴柱の位置や指の運びなど、まさに手取り足取りだった。朧月夜さんが師匠になってお手本を弾いて聴かせてくれる。
「お上手ですね……」
箏は女性に似合うなと思いながら、俺は朧月夜さんのお手本を見て聴いていた。
「さ、もう一度」
俺が真剣に箏に向かっていると
「朱雀様」
取次の女房がいつになく困った顔で俺のところへ来た。
「冠者の君が来られていますが、お顔が」
冠者の君というのは最近元服した夕霧くんのことだった。俺が急いで廊下に出ると、ちょうど向こうから歩いてきた夕霧くんと出会った。
「夕霧くん、どうしたの……?」
夕霧くんは口元に濃いあざを作っていた。
「内大臣に殴られました」
夕霧くんは何事も無かったかのように答える。俺は近くの部屋へ夕霧くんを招いて座った。
「殴られたって、どうして」
「雁に手出したと思われて」
雁というのは内大臣さんの娘さんの雲居雁さんのことだろうか。雲居雁さんと夕霧くんは従姉弟同士で、幼い頃から同じ邸で祖父母に育てられた仲だった。
「思われてというのは、実際には違うの?」
「はい。雁がそうしてほしいと言うので」
俺はよくわからなくて、首をかしげた。
「春宮様に入内させられる前に、俺が手出したことにしてほしいって」
俺はそこでやっと事情がわかってうなずいた。
「内大臣さんが雁さんを春宮にあげようと思ってたけど、雁さんは嫌がったってことだね」
「そうです」
「そのために……」
俺は夕霧くんの痛そうな口元を気の毒に思った。女房に水を入れた桶を頼み、浸して絞った布を夕霧くんへ手渡す。
「ごめんね。春宮のせいで」
「いえ」
夕霧くんは濡らした布で傷口を冷やしながら淡々と話した。
「俺は雁が春宮様へ入内しても良いと思ってます」
「そうなの?」
「后になれるかもしれないし」
夕霧くんは俺へ布を返しながら少し遠くを見る。
「夕霧くんは優しいね。彼女のためにそこまでして……痛かったでしょう」
俺はしみじみ感心して言った。無実の罪を被って女の子のために殴られるなんて凄い。内大臣さんのような体格の良い人に殴られたら怖かっただろうに。
「光も夕霧くんのこと褒めてたよ。真っ直ぐで賢い、さすが葵さんの子だって」
俺の言葉を聞いても夕霧くんの表情は変わらなかった。やっぱり俺の口からじゃ伝わらないかな。
「あの本が全てじゃないことはわかってます。あれには母さんと朱雀さんのことも書いてなかったし」
夕霧くんは鋭い視線で前を見つめると、真っ直ぐに俺を見た。
「どうしても未来を変えたくて。足掻くつもりです」
それだけ言うと一礼して、夕霧くんは帰っていった。
052 五節の舞姫
この年の冬には新嘗会があるため、貴族たちは五節の舞姫を選出した。入道宮さまが亡くなられて去年は行われなかったぶん、今年は力が入っているようだ。舞姫たちはそのまま宮仕えに入るようなので、自分の娘を舞姫に出す貴族も多かった。さらに女性が増えるのか……。俺は冷泉さんのご負担を思ったが
「大丈夫ですよ」
冷泉さんは余裕の笑みで座しておられた。
「誰でも愛せます」
相手の方さえ望めば、と冷泉さんは仰った。
「そうですか……」
俺は改めてすごいなと思って。帝としての格の違いを感じた。冷泉さん、少し雰囲気変わられたかな……?
ご自身でも気づかぬうちに無理をされておられないといいけれど。冷泉さんは俺よりはるかに上手く人・形・になれそうな気がして。心配にもなった。
「五節って何?」
「五節の舞姫のことですよ。五穀豊穣を神様に感謝するお祭りで舞うのです」
春宮が尋ねるので母である承香殿さんが答えていた。春宮は七歳になっている。
「私も舞姫が見たいです!」
春宮がそう言うので承香殿さんは困った顔をして俺を見た。
「帝に頼んでみますね」
俺は恐る恐る冷泉さんに頼んでみたが
「いいですよ」
冷泉さんは二つ返事でお許し下さった。引退後も御所内をウロウロしたりして、俺はわがまますぎるだろうか。春宮のわがまままで押し通してしまったようで恐縮した。
「すみません、勝手ばかり申しまして」
「構いません。私が許しますから」
冷泉さんは笑顔で仰って。俺が言うより百倍説得力があるなと思った。権力濫用になっちゃうかなあ。当日御所に来ていた光にも相談したが
「春宮様がお望みならいいに決まってるよ。さ、どうぞこちらへ」
光は冷泉さんよりさらに春宮には甘く、自分の隣へ春宮を座らせた。
「任せて大丈夫?」
「もちろん」
自分が率先して世話をしたいように見えたので、俺は光に春宮を任せてこの場を去った。俺はこの五節という行事が何故か苦手で。普段なら姿を見せない貴族女性が皆の前で舞うというのは重大事というか、見世物にされるようでジロジロ見てはいけない気がした。もちろん神事なんだけれども。
春宮を光に任せたことを女房たちに伝えて、俺は準備で賑わう御所を去ろうとした。だが人波に逆行しているためなかなか車で出られそうにない。俺は諦めて五節が終わるまで待っていようかなと思った。そこへ偶然、
「夕霧くん」
濃い藍色の衣を着た夕霧くんに出会った。夕霧くんは口元の傷も癒え、端正な顔立ちに戻っている。夕霧くんは俺の呼びかけに立ち止まったが、いつもと違うぼんやりした表情をしているように見えた。それが困惑を示しているのだと気づくのに少し時間がかかった。
「どうかした?」
「いえ」
夕霧くんは文を持っているようだった。
「誰かに渡すの?」
「いえ、もらいました」
どこか戸惑いがちに話す。
「よかったね」
俺は恋文なのかなと思った。夕霧くんは格好いいから、元服したら早速モテそうだ。
「近寄らないようにしてたのに、なんで向こうから……」
夕霧くんは勝手が違うという顔をしながら、ともかく文をしまった。
「知ってる人?」
「惟光さんの娘です」
惟光というのは光の乳母の子で、須磨にまで同行した光の腹心の部下だった。
「ああ、今日の舞姫の」
夕霧くんは恋文をもらったにしては深刻そうな顔をしてしばし考えている。やがて軽くため息をつくと俺に一礼して去っていった。どうしたのかな。俺は不思議な気持ちで夕霧くんの背を見送った。
053 母なき子
俺には春宮の他に娘が四人いた。例の予言書によると、俺が娘について何かしてしまって柏木くんの命が危うくなるらしい。どの子なんだろう……。
俺がまだ春宮だった時代から入内なさった方で、俺が帝でいた間に女の子を出産なさったけれど院になる頃には亡くなられてしまった方がいた。入道宮さまの異母妹で藤壺に住まわれ、源氏宮と呼ばれた。
若く未熟な俺を助け、癒してくれた方だった。譲位した後他の娘たちは母親と里へ帰ったが、この方との間にできた娘だけは帰る家がないので院に連れて来ていた。
「三宮なのかな……」
琴の好きな子で、乳母から教わったのかとても上手く奏でた。小さな手で弦を押さえながら弾く姿がとても可愛い。俺に似たのか小柄なのが少し気になるけれど。
「三宮、今いくつになったかな?」
「七つです、お父様」
娘の歳をお忘れになるなんて、と彼女は少し怒った。
「ごめんごめん」
俺は謝りながら正直女の子は苦手なんだよなと思った。春宮を見るのは楽なんだけれど。女の子を育てるなんて俺にはとても無理で、乳母や女房たちにだいぶ任せていた。俺はどうしても甘やかしてしまいがちなので、手や口を出さず見守るほうが賢く育つ気がするし……。奥様を育てた光って凄い。何をどうやって育てたんだろう。
「お母さんを長生きさせてあげられなくて、ごめんね」
俺のせいではないかもしれないがそのことだけが申し訳なくて、俺はこの子にいつも謝った。帝時代には娘を産んでくれた女性たちに加え麗景殿さん、承香殿さん、母が入れてきた朧月夜さんがいて、俺には負担が大きかった。
「お母様はお父様のこと、とってもお好きだったって皆が話していましたよ。素敵なご夫婦だったって」
三宮の母である源氏宮さんはそれほど出産を急ぐ人ではなかったので、俺たちはふれあいながらゆっくり話したりして過ごすことが多かった。たおやかな人で。入内するくらいだからもちろん美人だ。
「幸せになろうね。お母さんのぶんまで」
俺一人ではそれをしてあげられるのか自信がなかった。未来を読んだ皆に助けてくれるよう頼んでおいたし、何とかなるだろうか。
今更だけれど葵さんが入内されなくて俺にとってはよかったのかもしれないと思う。俺、葵さんと出会ってしまっていたら。父上と同じように一人の女性だけを愛して、他の人たちをもっと泣かせていたかもしれない。皆同じだけ好きになるなんて、誰も好きにならないのと同じで。俺には難しかった。
「お父様、箏は上手くなられましたか」
「どうかなあ。一緒に弾いてくれる?」
三宮にも合わせてもらって俺は箏の練習を続けた。朧月夜さんの指導のおかげで主要な調べはおおかた弾けるようになっていた。
「行幸は来年の二月二十日に決まりました。」
「承りました。」
「日時をお知らせせず飛び込みで伺うことも考えたんですけどね。」
「やめて下さいお願いします。」
冷泉さんは使いに文を持たせて下さったが、当日の流れまで教えて下さるので安心できた。優秀だなあ。夕霧くんは官位が六位から始まったことにも腐らず、頑張って大学寮で勉強しているらしい。偉いなあ。息子さんが二人ともすくすく育っていて、光って親としても優秀なんだなと思った。
054 朱雀院への行幸
年が変わって光三十四歳、冷泉さんは十六歳になられた。夕霧くんは十三歳かな。光は政務を譲ってしまったので新年の拝賀に追われることもなく、自邸でのんびり過ごしているようだ。夕霧くんは元気かな。まだ東の院にこもって勉強しているのだろうか。未来を変えたいと言っていたけれど……。
彼は未来を知りながら、わざと予言と異なる行動を取るつもりだろうか。自分の行動が変わることで周囲の人の運命がどう変わってしまうか考えると恐ろしくて、俺には中々できない気がした。かといって本に書かれている通りに生きる人生もつまらないだろうし。未来が見えるなんて、まったく悩ましい本が現れたものだ。
◇◇◇
二月二十日、俺の住む朱雀院へ行幸があった。春のうららかな陽気の中、帝をはじめ上達部、親王たちが次々と集まってくれる。
花の盛りにはまだ早いけれど、三月は入道宮さまの忌月なので冷泉さんが避けられたようだった。入道宮さまが若くして亡くなられてしまったのは本当に惜しい。光は女帝になってしまったと嘆いていたけれど。帝を支える母后としてあれほど優れた方はおられなかったように思う。
「こんにちは、朱雀さん」
冷泉さんはにこやかに微笑まれながらも隙がなかった。背も俺より高くなられ、何をお召しになられても似合うし、ますます帝王の威厳が増された気がする。藤色の御衣を着てくださったのも俺には嬉しいことだった。藤壺におられた入道宮さまを思い出すなあ。冷泉さんには紫と白の、まさに藤の花の高貴なイメージが似合う気がした。
「兄貴来たよ」
光も冷泉さんに召されて来てくれたが、黄赤の衣を黒い小物で引き締めていてとてもオシャレだった。光は黒の使い方がとても上手い。二人はわざと色を合わせなかったのかな。行幸で帝が着る衣といえば黄櫨染だけれど冷泉さんはわざと外して登場されて、それがより格好良さを感じさせる。
「後で着替えますね」
「いいよ、そのままで」
冷泉さんと光が二人並んで座ると帝が二乗されたようで有り難いなと思った。この時代に生まれてよかった。二人で何か話しながら時折視線を交わして微笑んだりされるのがとても良かった。この二人なら世界を分割する悪の話し合いをしても優雅なんだろうな。
「すー兄おつかれー」
蛍も正装して来てくれた。蛍はやっぱり緑が似合うなあ。いくつになっても爽やかで、でも強さもあって深緑って感じがする。夕霧くんも来てくれていたので俺は嬉しくなった。皆と同じ青白橡の袍を着て座ってくれているけれど。夕霧くんには五節で着ていた濃藍色が一番似合う気がした。
今日は詩に優れた学生を十名ほど呼び、式部省の試験を真似てお題から詩を作ってもらった。冷泉さんの仰っていた夕霧くんの見せ場ってこれかな。夕霧くんは光に似てとても上手に詩を作る。「大したことありませんけど」って顔してるのがクールで格好よかった。冷泉さんも嬉しそうで。光は良い兄弟を育ててるな。
庭の池に舟を浮かべて、楽人たちを乗せて演奏させるのも優雅で趣深かった。舟の上で演奏できるって器用だよな。普段は静かで眺めているだけの池だけれど、たまには活用できて嬉しい。
南向きの庭で春鶯囀が舞われると、むかし父上が催された花宴を思い出してむしょうに懐かしくなった。光は二十歳くらいだったかな。俺もまだ春宮で、葵さんも生きておられて。懐かしかった。あの時小さかった冷泉さんとまだ生まれていなかった夕霧くんがこんなに大きくなるなんて。俺も年を取るはずだと思った。
「懐かしいね」
光も同じ気持ちだったのか、俺に盃を差してくれた。
「うん。今日は来てくれてありがとう」
俺はしみじみと礼を言って盃を干すと、光にも注いだ。蛍は兵部卿になっていたが、その御礼にか冷泉さんに盃を差した。
「我が帝王の御世永遠なれー」
「桐壺院にはとても及ばないと思います」
冷泉さんは盃を受けながらフフフと笑っておられる。
「楽所が遠くなってしまったので、ここで弾きましょうか」
いよいよだなと思って俺は緊張した。
「やったー琵琶だ」
蛍は今日は琵琶をもらって嬉しそうだった。やっぱり琵琶が一番好きなようだ。内大臣さんは和琴で俺はこっそり練習していた箏、光は琴をもらった。この顔ぶれに混ざって弾くのは勇気がいるな……。俺はただ軽やかに、皆の響きに調和することだけを意識して弾いた。息の合った演奏をすると楽器たちが喜ぶかのように歌うのが面白い。そのうち暗くなり月も出てきたので池の中島に篝火をたかせた。松明の炎が水面に反射して幻想的に揺らめいた。
宴の後、夜も更けてもう皆帰るような時間だったが、冷泉さんは朱雀院の東北の対に住む俺の母にもわざわざ会いに来て下さった。
「ご丁寧に。痛み入ります」
母は年を取りながらも息災で、帝を前に姿勢を正し慇懃に頭を下げる。
「大后さん、ご無沙汰してます」
付き添いに光も来ていたので挨拶すると、母はチラと目を上げただけで何も言わなかった。
「元気ないですか?」
「敗軍の将は兵を語らずよ」
母は微かに笑って、光との対面を少し楽しんでいるようだ。
「煮るなり焼くなり、好きにするが良い」
光は母の潔さに好感を持ったのか、微笑んで答えた。
「俺今度春宮様に娘を差し上げるので。俺たちの血筋、残していきましょうね」
母は少し驚いたような目をしていたが、
「貴様、帝の外戚になるか……」
苦虫を噛み潰したような顔で言うとぷいとそっぽを向いた。俺は光と冷泉さんに平謝りして帰ってもらって。母が昔の邪心を取り戻さないかと内心ヒヤヒヤしていた。
055 京極わたりの大邸宅
行幸の日の課題が上手くできたこともあり、夕霧くんは進士になった。進士は式部省のとても難しい試験に受かった人しかなれない資格で、今回受かったのはたったの三人だそうだ。秋の司召では侍従に昇進した。五位になったのかな。冷泉さん、本当はもっと早いペースで加階させたいんだろうな。でも夕霧くんほど家柄や頭の良い人が下の方にいるのもどこか格好良かった。
俺にとっては大仕事だった行幸も無事終わり、季節は巡ってまた年が明けた。光三十五歳、冷泉さん十七歳、夕霧くんは十四歳になる。皆どんどん大きくなるな。夕霧くんは御所の行事に出たりしてしばらく忙しそうにしていたが、春のある日不意にうちに来た。
「三宮さんて人、見せてもらえますか」
少しきつめの真っ直ぐな瞳で俺を見る。
「ごめん、裳着もまだで。今年で九つなんだ」
俺がすまなそうに答えると
「そういう意味じゃないす」
彼は少し慌てた様子で首を振った。
「どんな人か知りたくて」
「ああ、なるほど」
俺はしばらく考えていたが
「琴が上手いかな。あと俺を叱るくらいにはしっかりしてるかも」
俺が知りうる限りの三宮情報を伝えた。
「顔も見たほうがいい?」
女性の顔を見せるのはあまり良くないんだけれど。夕霧くんなら信頼できるだろうと思って俺はきいてみた。
「いえ、いいです」
夕霧くんは俺の伝えた少ない情報だけで何かを察したのか、腕を組んで考えこんでいる。
「結婚しそうな相手とかいますか」
「いや、全然」
俺は苦笑して首を振ったが、女の子のことについてはすぐ自信がなくなってしまった。
「でも俺が知らないだけかもしれないね。うちに貴族の車が出入りしてる形跡はないけど。文のやり取りも多分ないと思う。きつめに監視したほうがいいのかな?」
「いえ」
夕霧くんは前を向いたまま頬をかくと、ため息混じりに言った。
「予言と現実って、結構違うもんですね」
「そうなの?」
「はい」
夕霧くん、困っているのかな。俺は何とかして助けてあげたいけれど、どうすればいいかわからずしばし沈黙した。
「特に朱雀さん周りが違ってます」
「そうなんだ?!」
そう言われると心配になった。俺台本通りに生きれてないのかな。そもそも台本読んでないからなあ。
「あの人はムカつくくらい予言通りです」
「光?」
夕霧くんがうなずくので、光はまた夕霧くんを怒らせようとしているのかと俺は苦笑した。どっちが子どもかわからないなあ。それでも夕霧くんは真っ直ぐ育っているのだから光の育児法が正しいのかもしれない。
「六條|京極に四町占めてデカい邸建ててます」
「四町?!」
俺はびっくりしてつい大きな声を出してしまった。普通の貴族の四倍はある大邸宅だ。まあ光だからそのくらいの財力はあるんだろうけど……。
「紫さんの父上の五十の賀があるとかで」
「ああ。そのお祝いのために大きい家を作ってるんだ」
「それだけじゃないと思いますけど」
夕霧くんはすごく嫌なのか、きれいな眉をひそめて横を向いた。女性たちのための邸なんだろうな……。夕霧くんのくつろげる場所は見つかるだろうか。
「忙しいのにうちに寄ってくれてありがとう」
「いえ」
夕霧くんはこの後も時折うちに来ては俺と話をしてくれた。俺に会うフリで三宮の偵察なのかもしれないけれど。俺はそれでもよかった。夕霧くんには生まれ育った三條のお邸と、光の二條邸にある東の院がとりあえずの居場所らしい。
光は八月には新築した六條院へ移ったらしく、御所でも皆が光の大邸宅の噂をしていた。家がますます広く遠くなって父子が顔を合わせる機会は減るかもしれないが、夕霧くんにとってはそのほうが気が楽なのかもしれないな。難しい年頃だし、俺は彼には父親とケンカしてほしいようなほしくないような、複雑な心境だった。
056 頭おかしい
年の瀬も押し迫った頃、春宮に会いに御所に来た俺は帝に緊急招集された。御前には蛍と夕霧くん、そして冷泉さんがやっぱりニコニコ笑って座しておられる。
「玉鬘って人に挨拶してきました」
「玉ちゃん来たかー」
蛍は軽くため息をついて夕霧くんを見た。
「あいつ本当筋書き通りに動いてくるな」
どうも光が六條院にまた新たな女性を迎え入れたようだ。
「このまま行けば髭黒大将に取られるんだよな」
「ええ」
蛍は珍しく腕組みして真剣な顔で考えこんでいる。
「光、本当に手出さねーのかな」
「どうだか」
「玉ちゃん可哀想なんだよなー。救ってやりたいけど、髭黒との間に子ができるだろ? 生まれてくるはずの子が生まれないってことにならねーかな」
蛍はそれが心配のようでだいぶ考え込んでいた。
「髭黒大将って承香殿さんの兄だよな?」
「はい」
「すー兄、髭黒ってどんな奴?」
「俺もよく知らないけど……。春宮の伯父なら出世しそうだよね」
俺が思ったことを言うと、蛍はまた腕組みした。髭黒さんは今右大将かな。将来春宮が帝になれば、間違いなくもっと出世できるだろう。
「そーなんだよな。結婚相手として悪くないんだよ。ただ見た目がな」
それが一番の問題らしく、蛍と夕霧くんはしばし黙っていた。
「玉ちゃんが髭黒を好きになる展開も無くはないか?」
「どうでしょう」
夕霧くんは懐疑的に答えると、チラと冷泉さんを見上げた。
「邪魔なら消そうか」
冷泉さんは脇息に頬杖をつきながら微笑んで仰る。スッと御笏を振られると、もう命が執行されそうに思えた。
「怖い怖い」
その笑顔の冷たさに蛍は肩をすくめて苦笑した。俺も少し恐ろしく思って。たしかに冷泉さんは夕霧くんにかなり甘いので、大事な弟のためなら人の一人や二人はあっさり消すかもしれない。
「蛍さん、再婚しないんすか」
「いいよ、今さら」
夕霧くんがおもむろにきくと、蛍は少し照れて笑った。蛍には亡き奥様との間に息子さんたちがいて男手一つで育てていた。もちろん女房たちが手伝ってはくれるだろうけれど。蛍みたいに運動神経抜群な若い父親に遊んでもらえたら、息子さんたちは喜ぶだろうな。
「玉鬘って人、蛍さんのこと好きですよ」
「そうなるかはわからねーさ」
夕霧くんの重要な指摘にも蛍は遠くを見ながら穏やかに答えた。どうやら玉鬘さんという人が蛍に恋をする展開のようだ。でも蛍はそうなってほしくないと思っているように見えた。亡き奥様のこと今でも愛しているのかな。未来が見えるのも大変だ。
「内裏に呼びましょうか」
「冷泉さん、ほしいですか」
「どちらでも」
冷泉さんはただ微笑んで、優しく仰った。
「その方の望むままに」
冷泉さんが女性を召されないというのは有名な話だった。冷泉さんは梅壺中宮を最も大切にしておられるので、他の女性たちは「頼まなければ」夜御殿には行けない。もちろん女御たちが直訴するわけじゃないんだけれど。女房たちを通じて内々に手配しないと会えないのだ。
昼間はとてもお優しく、いろんな局を周り、誰にでも別け隔てなく接して下さる。でも夜の難度は高い。冷泉さんレベルになると彼に会うために女性のほうが頭を下げるのかと俺は妙に納得していた。ただ帝が好みの人を指名するのが普通なので、少し女性たちの都合に合わせすぎている気もするけれど……。
「まー光次第ではあるわな。俺たちがどうこう言っても」
蛍が諦めたようにつぶやくと、夕霧くんが突然俺の方を向いた。
「朱雀さん、今度呼んでいいですか」
「えっ?」
「朱雀さんがいると未来が変わる気がします」
夕霧くんは強い瞳で俺を見る。
「朱雀さんの周りは予言が当たりにくいです」
「マジか」
「そうかな??」
蛍までもが俺を見るので俺は慌てた。
「すー兄、玉ちゃん欲しそう?」
「いや、遠慮しときたいけど……」
知りもしない人を断るというのも失礼だが、女性には事足りているので俺は控えめに返事した。
「まいいや。そのうち光が六條院に俺らを呼ぶだろうから、一緒にきてよ」
「お願いします」
「うん……」
俺はどう考えても自分に未来を変える力はなさそうに思ったが、蛍だけでなく夕霧くんまで頼むのでしぶしぶうなずいた。自信ないなあ。
「その人は光の恋人ではないの?」
「恋人だった女の娘なんだよ。父親は内大臣だけど」
「内大臣さんの娘さんなのに光の邸にいるの??」
「だからそれがおかしいんだよ。あいつ頭おかしいよ」
蛍がそう言うので思わず苦笑してしまった。たしかにかなりおかしいけれど。光はその人の親になろうとしているのかな。昔死なせてしまった人がいると嘆いていたけれど、その人の娘さんなんだろうか。
「柏木も可哀想だしさ。本当罪作りな奴だよ」
「柏木には俺からバラします、姉弟だってこと」
夕霧くんはきつい瞳で言い切った。
「人の気持ちを弄ぶようなこと、絶対させない」
光を批判する時の夕霧くんは格好よくて。夕霧くんを英雄にするために光はわざと悪役を引き受けているのかもしれないと俺は思った。
057 あっぱれな女装
いよいよ年が明けて、光三十六歳、冷泉さんは十八歳になられた。夕霧くんは十五歳。皆大人になったなあ。今年はいろいろ忙しくなりそうだなと思いながら俺は祭壇の前で手を合わせた。葵さんが亡くなられてもう十五年も経ってしまった……。いつでも祈れるよう、俺は院の中に持仏堂を設けていた。
桐壺更衣から始まって、父上、葵さん、入道宮さま、いろんな方のことを祈った。光の亡くした恋人のことも。この人の娘さんが玉鬘という人なのかな。光がショックで泣いていたのは十代の頃だから、もう二十歳は超えているだろうか。どうなったら彼女は幸せなんだろう。幸せというのは本人の中にあるものだから、推し量るのは難しい。
今年は男踏歌があって夕霧くんも舞人に選ばれた。始めは帝の御前で舞い、次に朱雀院にも来てくれる。夕霧くんや柏木くん、その弟たちが足を踏み鳴らしながら上手に舞った。すこし雪が散らつく中、竹河を歌いながら庭を練り歩く彼らの姿は美しかった。夕霧くんたちは母の所にも来てくれて、次は光の六條院に行くらしい。
「お疲れさま」
俺は彼らに飲み物や軽食を提供して、寒い中舞ってくれた労をねぎらった。夕霧くんは白い息を吐きながら頬を少し火照らせていたが、寒がってはいなかった。
「おそらく三月です」
夕霧くんは俺を見つめると手短に言った。
「六條院へ同行願います」
「はい」
俺はうなずきながら、つい視線を柏木くんに移した。柏木くんは夕霧くんより五歳ほど年上の従兄で内大臣さんの長男だ。優しく礼儀正しい青年で、内大臣さんの和琴の腕前を最も受け継いでいると評判だった。俺がついじっと見つめてしまったせいか、柏木くんは俺の視線に気づくと微笑んで頭を下げた。
この子を俺が殺すのか……? この子と三宮の間に何があるんだろう。俺は時間を止めてしまいたく思った。今日の柏木くんは元気で、夕霧くんと並ぶと互いに輝きを増すような相乗効果がある。若い頃の光と内大臣さんのようだった。
◇◇◇
三月二十日頃光の住む六條院で春の宴があるらしく、夕霧くんがわざわざ俺を迎えにきてくれた。
「これでいいかな」
俺はまだ不安だったが、夕霧くんが無言でうなずくので彼の車に同乗させてもらって六條院へ向かう。緊張するな……。
六條院はあまりにも大きく、来客が多いせいで門の前で車が混み合っていた。俺は夕霧くんについて車を降りると、下を向いて顔を隠しながら長い廊下を歩いた。
「すげえ」
俺を見た光は開口一番そう言うと近づいてきて、上から下までじろじろ眺めた。夕霧くんは光に俺を引き合わすと用があるのか先に行ってしまう。
「誰かと思った。誰の発案?」
「冷泉さんがわざわざ誂えて下さって」
俺は薄化粧をして尼の格好をしていた。地味な法衣に袈裟を着けて数珠を持ち、髪を隠すための頭巾をすっぽり被っている。袈裟って良いものだな。俺も早く出家したいなと思った。
「どっからどう見ても尼だわ」
光はそれに感動したようで、何度もうなずきながらしみじみとつぶやいた。そうかなあ。背は女性よりかは高いつもりだけれど。
「ごめんね。招かれもせずに来ちゃって」
「それは全然いいけど、なんで女装してんの?」
「俺もよくわからないけど」
さすがに院が来ると目立つということなのかなと俺は思っていた。俺の顔はこの前の行幸で皆にバレているので、ちょっとやそっとの変装ではダメなのかな。有名人のオーラは全くない自信があるんだけれど。
「兄貴も玉ちゃんを見に来たの?」
「いや、俺がいると未来が変わるかもって夕霧くんが言うんだ」
「へえ」
光は興味深そうにうなずくとニヤリと笑った。
「夕霧に使われてるんだ」
「まあ、そんな所です」
「院にここまでさせるのはあっぱれだわ」
光は夕霧くんを褒めているのか、心地よさそうに笑った。
「俺ここにずっといていいかな」
俺は六條院にいさえすれば役目は果たせるのかなと思って控えめにきいてみた。
「せっかく来たんだからうちの庭でも見ていきなよ。場所作ってあげるから」
光はそう言うと、女房たちに何か頼んで俺に白い扇をくれた。
「それで顔隠しながら見ればバレないよ」
「なるほど」
俺は扇を開いて顔の下半分を隠す練習をした。
「御簾垂らして外から見えないようにしてあげるね」
「ありがとう。お世話になります」
俺は頭を下げたが、光は始終機嫌が良さそうに見えた。急に来たのに至れり尽くせりで、光って女性に見えるだけでだいぶ優しくしてくれるんだなと俺はなんだか可笑しく思った。
058 このままじゃ死ぬ
光の作った六條院は、春夏秋冬を表現した四つの町でできているそうだ。春の町は光と奥様、秋の町は梅壺中宮。玉鬘さんは夏の町の西の対にいるって言ってたかな。とにかく広い。一つの町が普通の邸一つぶんだ。春の町と秋の町が南側にあって、庭の大きな池が繋がっていた。
光の邸に仕えている女房たちは優しい人が多いようで、院の俺が尼姿で突然訪れても嫌な顔ひとつせず丁寧に応対してくれた。姿は尼だが声は出さないほうがいいだろうということで、光は俺の代わりに返事やお願いをする人をつけてくれる。
俺は春の町の片隅に居場所を作ってもらったが、梅や桜など春らしい草木がたくさん植わっていて、花の香りと薫物が合わさり極楽浄土を思わせた。女房や侍女たちの衣装も美麗でとても華やかだ。殿上人や親王も大勢来ていたのでこの人たちにはバレないようにしないとと俺は思った。光の奥様の指示で唐土風に飾った舟を池に浮かべて秋の町の方へ渡らせたり、遊ぶ様は絵のように優雅だった。
「すー兄おつかれー」
御簾をわずかに開けて俺を見た蛍が一瞬固まって
「すげー……」
目をパチクリしているのがなんだか可笑しかった。身内を騙せているということは少しは自信を持っていいのかな。俺は少女に扮したヤマトタケルを思い出したが、あんな武勇はとても無理で大人しく座っているのがせいぜいだった。蛍の気配が去ってしばらくぼんやりしていると、今度は夕霧くんがやってきて御簾の下から紙をスッと差し入れた。
「この宴は朝まで続いた後、いったん解散し午後から秋の町に移ります。」
夕霧くんの動作は静かで素早くいつも無駄がなかった。この紙も返事は要らないのか、差し入れたと思ったらもう俺から離れている。すごく有能な工作員という感じがした。柏木くんは元気かな。俺は皆の未来が心配でこの絢爛豪華な宴を楽しむ余裕は全くなかった。柏木くんの命が助かるなら、年寄りの俺が代わりに死んでも一向に構わないんだけれど。
◇◇◇
日が暮れて夜になると庭に篝火がたかれた。楽器が出され、弾くもの吹くもの、我こそはと思う貴族たちが自慢げに奏でている。若い公達は皆玉鬘さんに夢中のようだった。光の婿になれるかもしれないというのも魅力なんだろうな。催馬楽の青柳を蛍が情緒豊かに歌うので、俺はしばらく耳に留めて聴いていた。そのうち疲れが出たのか、うつらうつら舟を漕いでしまっていて。
「俺の曹司へ」
不意に御簾の外から袖を引かれて俺はハッと目を覚ました。夕霧くんの声だ。夕霧くんは俺を伴うと人を避けつつ器用に歩いた。もう夜だからこの町も戸締りするんだろうな。夕霧くんは夏の町に自分の曹司を持っているらしく、女房たちに何事か囁くと俺を中へ入れてくれた。
「寝てて下さい」
「ありがとう」
夕霧くんこそ寝たらいいのにと思ったが、忙しいのかすぐ去ってしまった。台本にない俺がいるのだから余計な手間が増えているのだろう。申し訳ないな。俺はお言葉に甘えて頭巾を脱ぐと部屋の隅で横になり、体を丸めた。すぐ気を失ったように眠って。
次起きた時にはすでに日が昇り、俺の体には女物の衣が一枚かけられていた。誰かが気遣ってくれたのかな。部屋の真ん中では夕霧くんと柏木くんがスヤスヤ寝息を立てている。こんな若い子を夜通し使うような宴はよくないよな。貴族は夜ふかしするから体に悪い。
二人とも冠を脱ぎ襟を緩めただけで倒れ込むように寝ていた。本当に仲がいいんだな。しっかりしているけれど寝顔はあどけないなと思って俺は二人を見ていた。
「御用はございますか」
しばらくすると事情を知った女房なのか、密やかに俺に声をかけてくれる人がいた。俺は有り難いなと思いながら彼女について歩き、手洗いを借りて顔を洗うとスッキリした。今日は何があるのかな。気を引き締めていかないと。俺が夕霧くんの曹司に戻ると、ちょうど柏木くんが仮眠から目を覚ました所だった。
「おはようございます」
「ごめん、起こしたかな」
「いえ」
柏木くんは少し茶色がかった綺麗な髪をしていた。寝ている間に乱れた髪を右肩で一つにまとめている。
「妙な格好ですみません」
「いえ、お疲れ様です」
俺は頭巾を脱ぎ化粧も落としながら衣装だけ女物というちぐはぐな出で立ちだったが、柏木くんは苦笑して労ってくれた。まだスヤスヤ寝ている夕霧くんを起こさないよう、ヒソヒソ声で話す。
「ごめんね、俺の娘が迷惑をかけてしまうらしくて」
「とんでもないです。こちらこそ」
柏木くんは遠慮がちに首を振ると、夕霧くんの寝顔を見守りながら微笑した。
「夕霧が、俺はこのままじゃ死ぬって言うんです。なんか不思議な気がして。そんな冗談を言う奴じゃないから、何か理由があるとは思うんですが」
俺は胸が苦しくなって、しばらく何も言えなかった。
「今はどこも悪くない?」
「ええ、全然」
柏木くんが笑うので俺はひとまずほっとした。二十歳くらいの若者が簡単に死ぬわけないよな。
「何かあればすぐに言ってね。俺にできることは何でもするから」
「ありがとうございます」
柏木くんは穏やかに笑って、本当に良い青年だった。この子が死んでいいわけがない。なんとしても守らなくては。俺は固く決意したものの、具体策は何も思い浮かばない自分が歯がゆかった。
059 政治家としての光
「玉鬘さんの話はきいた?」
「ええ、俺の姉らしいですね」
柏木くんはその人が居るであろう西の対を眺めながら言った。
「悪いね、光が変なことに巻き込んで」
「お嬢さんが少ないので、婿がほしかったんだろうと思いました」
柏木くんは優しい人なのか、怒ってはいなかった。
「父が言うには、息子が立派に育つことと良い婿を得る喜びは全く別物らしいです」
内大臣さんの婿ということは雲居雁さんの相手だよな。俺はつい夕霧くんを見てしまったが、彼は寝返りをうったのか背中しか見えず、その表情はわからなかった。
「姉のことを父に言おうか迷っているんですが、知ったとしても太政大臣の許しを得ずに取り返すことは難しいと思います」
「そんなに強いんだ、光って」
柏木くんが無言でうなずくので、内大臣と太政大臣の力の差を俺は思い知った。俺は官位を争う相手として光と対峙したことはないからなあ。昔から光の仕事ぶりは迅速正確で隙がないし、何より光には皆を圧倒するカリスマ性がある。政治家としての光は思った以上に容赦ないのかもしれない。
「ここにいたのかお前ら」
そのとき御簾を上げてスッと入ってきたのは蛍だった。
「俺も寝かせてー」
彼は夕霧くんの隣にドカッと座るともう大の字に寝転んでいる。この宴ハードだよな。光の企みを阻止するために集まったつもりだが、すでに負けそうな気がする。
「蛍さん、筋書き通りにやったんすか」
「もう面倒臭いから省いた」
起きてしまった夕霧くんが尋ねると、蛍は投げやり気味に言った。
「光の顔見てるとムカつくんだよなー。ぎゃふんと言わせてやりてえけど、どーしたらいいもんか……」
そう言いながら、蛍は気を失うようにもう眠り込んでいる。
「夕霧くんおはよう」
「おざす」
夕霧くんは起きた瞬間から機嫌が悪そうで、眉根を寄せて俺を見た。このキツい目、好きだなあ。
「あいつの悪事を京じゅうにバラしてやる」
燃えるような瞳でそう言うのだけれど
「そんなことしたら姉さんのほうが恥かくよ」
柏木くんが冷静に止めてくれた。
「あの方のなさることを止められる人間は、この京にはいない」
「クソッ」
柏木くんの言葉に夕霧くんは歯噛みをして悔しがった。
「彼女は光と結婚したいとは思ってないのかな」
「もう婿を募ってしまってるので。この状況で親・と結ばれたら、周りが姉さんのこと何て噂するか」
「そっか……」
思った以上に難しい問題らしいと俺は悟った。よくこんな複雑怪奇なことをするなあ。亡き恋人の娘だから手は出せない、ということだろうか。それにしては皆、光が真面目に後見することを疑っているようだし。
「つらいだろうね、玉鬘さんは」
俺はため息をついて彼女に同情した。どうしたらいいんだ……? 白馬に乗った王子が現れて、囚われの姫を颯爽とさらっていったらいいのか。さらうと言ったって取り次いでもらえないと会えないのだから内通者がいなければ難しい。ここは光の邸だから女房たちだって光の味方で、光の許可しない男とは取り次がないだろう。手の打ちようがなかった。
「柏木、着替えてきたら」
「ああ」
夕霧くんがそう声をかけると柏木くんはうなずいて立ち上がった。今日は昼から何かあるって言ってたな。柏木くんは俺に頭を下げていったん自分の邸へ帰っていく。夕霧くんは下を向き後頭部の高い位置で髪をギュッと結い直すと俺を見た。
「昼から中宮様の御読経があります。秋の町へ」
「行って大丈夫かな? 俺中宮さまや女房たちとは面識あるから」
「そうか……」
夕霧くんはしばらく考えていたが
「すみませんが、終わるまで待っててもらえますか。送るので」
「はい」
俺がうなずくと準備に立った。中宮さまって前斎宮さんだもんな。伊勢への出立を見送ったときかなり間近で会ってしまっているので、さすがに彼女を騙すのは難しいだろう。中宮になられたお祝いを伝えたい気もするけれど、こんな姿じゃ驚かせるだろうし。彼女は冷泉さんに入内なさって本当に良かったと思う。
蛍はかなり直前までスヤスヤ寝ていたが、使いが衣装を持ってくると驚くほど素早く起きてサッと着替えた。
「じゃあねー」
そして俺に手をふると行ってしまう。俺は正座の足を崩すと玉鬘さんのことをじっと考えていた。柏木くんは姉だからダメ、夕霧くんは彼女の妹である雲居雁さんと結婚するかもしれないからダメ、蛍もおそらくその気がない、俺たちじゃ救えないか? どうしても髭黒さんを好きになれないなら冷泉さんしかないだろうな。誰かの妻になった後宮仕えするパターンも無くはなかった。それで帝の寵愛を受ける場合も。無くはないけど……。
この日の御読経は日暮れまでには終わって、正装した夕霧くんたちはとても凛々しい姿で帰ってきた。皆中宮さまから禄を賜ったようで、夕霧くんは女性の装束をもらっていた。
「俺は弟として近づくことができるので、様子を探ってみます」
帰りの車の中で夕霧くんは冷めた口調で言った。
「俺は柏木が救えればいいので。彼女の運命は変わらないかもしれません」
「そうだね」
俺も力なくうなずいて。髭黒さんのことが好みじゃないなら、気の毒だけれど結ばれるって運命は知らないほうが良いんだろうと思った。
060 恋の思い出
「お前らちゃんと玉ちゃんに文送ってこいよ」
「オメーに見られんのわかってて誰が送るんだよ」
あの華やかでハードな宴も終え、季節は五月になった。俺たちは今度は光からの招集があってまた六條院に集っていた。俺も必要なのか? とは思うんだけれど。
「娘に来た文チェックするんだ……?」
俺が少し驚いて言うと、光はすかさず言い返してきた。
「するでしょ普通。変なやつと縁づいたら困るでしょ」
「しねーよんなもん。オメーがおかしいんだよ」
「娘育てたこともない奴に言われたくねえんだけど?」
「すいませんね娘がいなくて」
光と蛍が言い争っているので俺は柏木くんと目を見合わせて苦笑してしまった。仲良いなあ。奥の柱を背に座る夕霧くんだけは腕を組んでずっと黙っている。
「お前ら冷たすぎるよ。玉ちゃんが『私こんなにモテないの?』って悲しんだらどうすんだよ。文くれたの柏木だけだよ?」
「柏木送ったのかよ」
蛍が驚いたようにきくと、柏木くんは
「はい、一応」
と自信なさげにうなずいた。
「優しい文だったよ。『なんとか貴女を助けたくて父に言おうと思うんですが、太政大臣の強さを思うと引き取れるかはわかりません』って」
「玉ちゃん何だって?」
「絶望してた」
「柏木ー! 逆効果じゃねーかよ!」
「すいませんっ」
柏木くんまで巻き添えを食って蛍に怒られていた。
「真実を言えばいいってもんじゃねえのよ、恋ってのはさ」
光は経験値の高そうなセリフを言いながら何度もうなずいている。
「もうさっさと髭黒にやっちまえよ」
「そんな酷いことできるかよ。好きでもねえ男に嫁ぐのに綺麗な恋の思い出一つ土産に持たせず行かせられると思うか? 今後の長い人生何を支えに生きてくんだよ」
「そのために引き取ったの?」
俺が驚いてきくと、光はため息をついた。
「好きでもねえ男からわんさか文がきてうるさく言い寄られたことも、後から見ればいい思い出になるんだよ。彼女にとっては今が花・なんだよ。そんなこともわかんねえのかよ」
光が熱く語るので俺たちは黙ってしまったが
「親ぶった男に言い寄られるクソみてーな毎日のどこが花なんだよ」
夕霧くんだけがキツい目をして厳しい批判をした。
「人馬鹿にすんのもいい加減にしろよ」
「じゃあどうすりゃいいんだよ。お前が娶んのか」
光が反論すると夕霧くんもさすがに黙った。
「手を出さずに、真面目に親として世話してあげれば……?」
俺は控えめに提案してみたが
「それができてりゃ苦労しないんだよ」
光はそれが最も難しいようで苦しそうに煩悶した。
「俺にも兄貴みたいな仏心がほしいよ。今日いい服着てんね」
「法衣が欲しくて。作ってもらったんだ」
俺は法衣に袈裟をつけて僧のような格好をしていた。髪はまだ剃れないんだけれど。この前女物を身につけて自分のが欲しくなったので作ってもらった。
「出家すんの?」
「したいんだけどね。うちにも娘がいるから……」
俗世を捨てるのに未婚の娘を残してというのは、どうしても煩悩が残って良くないかなと思った。
「兄貴こそ娘多いんだから冷泉さんにあげればよかったじゃん。入道宮さまだって先帝の娘だったんだよ?」
「ああ、考えたことなかった」
「これだよ。この無欲」
俺がぽかんとしていると光は心底羨ましそうに言った。
「生まれつき無欲な人間がいるように、生まれつき貪欲な人間もいんのよ」
「自分が貪欲なのは認めんのな」
蛍は思わず苦笑して、少し考え込んだ。
「お前知らねーだろうけど、玉・ち・ゃ・ん・か・ら・俺宛に文来たんだよ」
「玉ちゃんから?」
光もすこし驚いて蛍を見る。
「お前よほどのことしてんじゃねーだろうな?」
蛍は考え込みながら光を睨んだ。
「今すぐ力ずくで内大臣ちに連れ帰ってもいいんだぞ」
「お前に文ってことは、お・前・ん・ち・に・連れ帰ってほしいんだろ」
光にそう言われると今度は蛍が黙った。
「玉ちゃんの何がそんなに気に入らねえんだよ」
「別に気に入らねえわけじゃねーよ」
蛍はそう言いながら深くため息をついた。蛍はただ忘れたくないだけではないかと俺は思った。奥様が亡くなられてまだ三年くらいだろうか。奥様が使っていた日用品、調度、着ていた衣だって残っているに決まっている。お子さんたちの中には思い出だって。簡単には消せないだろう。
「通うとしても、家には入れらんねえ」
亡き人の匂いが残るところに別の女性を住まわせるのは抵抗があるのだろうと俺は察した。
「冷てえ奴だな」
「オメーが無神経すぎんだよ」
光も悪態をつきながらも、それ以上責めることは無かった。
「じゃあなんで今日来たんだよ」
「それを伝えに来たんだよ」
「玉ちゃんを更に絶望させんのかよ……」
光のほうが絶望するような声で言った。
「俺だって嫌だよ、髭黒なんざ。玉ちゃん迎えるために妻子捨てんだぞ? あんなサイテーな奴ぶん殴ってやりてえわ。でもそうしたら玉ちゃんが産む子どもらはどうなる? 生まれる前に殺すのか」
それが重要な問題で俺たちは押し黙った。蛍は優しいし子ども好きだから、生まれてくるはずの子を見殺しにするなんて絶対できないだろう。
「……子ができるんですか」
柏木くんが信じられないと言った様子でつぶやいた。
「どうしてそんなことがわかって……?」
「おそらく当たる。見てりゃわかるよ」
蛍は柏木くんの疑問に短く答えた。これが当たってしまったら。柏木くんは自分の運命を信じ始めてしまうだろうか。俺は玉鬘さんに子は生まれてほしいのに、柏木くんには死んでほしくなかった。あの予言書には当たらないでほしかった。
「子を産んで、出仕もしたら」
ずっと黙っていた夕霧くんが遠くを見ながら言った。
「思い出なら、冷泉さんが作ってくれる」
俺たちはまた黙って。夜が更けていく。
061 蛍火
「もう行くわ。あんま待たせるのも何だし」
蛍はそう言うとおもむろに立ち上がった。
「お前、あんまキツいこと言うなよ」
光の方が不安になって頼むように声をかける。蛍が席を立つと夕霧くんと柏木くんも無言で立ち上がってこの場を去ろうとした。と思ったら
「朱雀さん」
俺の袖が夕霧くんに引かれて。俺もつられて立ち上がる。
「来て下さい」
俺は蛍の後を追うように、彼らについて歩いた。
「あの、どこへ……?」
「蛍さんがどうするか見ます」
「覗き見するの?!」
俺は人の恋路を盗み見るのは大いに抵抗があったが、夕霧くんは有無を言わせぬ態度だった。
「蛍さんには言ってあります」
「そうなんだ……」
人に見られながら女性と話せる蛍もすごい。どうなってしまうんだろう。
俺は玉鬘さんが居るという夏の町の西の対へ連れてこられると、薄暗い部屋の柱の陰に身を潜めた。ここからは蛍の様子はよく見えるが、彼女の姿は几帳に隔てられていて見えない。俺たちの前に到着していた蛍は入口の女房に取次を頼むと、席を作ってもらい御簾の前に座っていた。
「文をありがとう」
御簾の内にいる人に話しかける蛍はとても落ち着いていた。長い付き合いだけど、恋人と話す蛍を見るのも初めてだな。いや恋人ではないのか……。彼の声の調子はいつもと同じで。ただとても優しくて温かかった。
「あいつ変なことしてないすか」
相手の女性は少し笑うと、微かな声で答えた。
「抱き寄せて髪を撫でては下さいますけど、それ以上は……」
よくそれ以上行かないなと思いながら俺はヒヤヒヤして聞いた。俺にどんな未来を変えられるっていうんだろう。覗き見なんてして大丈夫だろうか……?
二人はしばらく黙っていて。闇に目を凝らして見ると、俺をここに連れてきた夕霧くんや柏木くんはいなくなっていた。二人に気を利かせて立ち去ったのかもしれない。
「貴女を好きですって言いたいんすけど。俺、長年連れ添った妻亡くして、子供らもいて。難しいです」
蛍は正直だった。玉鬘さんを絶望させるなと光は言っていたけれど、結局正直に話すのが一番傷は浅いのかもしれない。
「誠実な方ですね」
中の女性は残念そうに、でも少し微笑みながら言った。
「どんな未来を夢見て京に来たんすか」
「何も……ただ、強引に言い寄ってくる男から逃げたくて来ました」
「そうですか」
蛍は残念そうにうなずくと
「すいません、あいつが迷惑かけて」
光の言動について謝罪した。蛍って光の弟なんだけれど、しっかりしているから兄みたいに見える。
「私を愛してくれる方は、この京にはおられないのでしょうか……?」
彼女が悲しげに尋ねるので、俺は胸が苦しくなった。
「旦那様も私を弄ばれるだけで。夫にはなって下さらないと思います」
彼女は鋭くて。光の最・愛・の・妻・にはなれないことを見抜いているようだった。
「現れますよ、必ず」
蛍も苦しそうだった。でもできる限り優しく答えている。
「こども、好きですか」
蛍がおもむろに尋ねると
「はい」
彼女は嬉しそうに答えた。
「でも、私にできるのかしら……恋人すらできそうもないのに」
俺は彼女が寂しそうにつぶやくのを聞いていられなかった。こんなに苦労しているこの人をどうして天は救わないのだろう。筋書きにない人が現れて、彼女を救い出してはくれないのだろうか。予言書に書いていない奇跡は起こらないのか……。
蛍も俺と同じ気持ちなのか、だいぶ長い間黙っていた。そこにふわりと黄緑色のひかりが現れて。彼女の周りを明滅して飛び違った。ホタルか……? 女房か誰かが帷子に包んだホタルを放したようで、その淡いひかりに照らされ、彼女の影が浮かんでは消えた。
「……」
蛍はホタルたちのひかりを見ると、悲しそうにため息をついた。
「下がって」
彼女を部屋の奥へ下がらせると、目の前の御簾を少しだけ持ち上げる。ホタルたちは外の空気につられたのか、次々と蛍の方へ舞い集ってきた。呼吸するような明滅に合わせて、蛍の姿が幻想的に浮かび上がる。
顔や肩の周りを飛ぶのを追い払うでもなく、蛍は小さな虫たちを外へ逃がそうと立ち上がった。暗い廊下に黄緑色のひかりが揺らめきながら反射する。点いては消える蛍火は一晩だけ黄泉帰った死者の魂のようだった。ホタルたちは蛍の優しげな横顔を照らして。
「綺麗だなー」
蛍も小さくつぶやいて微笑む。まとわりつくホタルたちは蛍の周りをなかなか去ろうとはせず、久しぶりに会えた人と懐かしく話しているようにも見えた。蛍は沓を借りてホタルたちと共に外へ降りると、一匹ずつ空へ帰しながら
「……さよなら」
彼女にそっと別れを告げた。
062 競射にて
「本当にごめん」
盗み見てしまったことについて申し訳ない気持ちでいっぱいで。俺は蛍に謝罪した。
「構わないよ」
蛍は優しく微笑んでいる。
「どうして逃がしたの」
俺が尋ねると、蛍は歩きながら答えた。
「ホタルって寿命短いんだよ。あいつらなりに必死に生きてんだと思ったらさ。逃がしてやらなきゃ可哀想じゃん」
当然のように笑って。やっぱり蛍は優しかった。
「ねみーから帰ろうか」
歩く蛍と俺に物陰から現れた夕霧くん、柏木くんも合流して。俺たちはそれぞれの車に乗って帰路についた。もう真夜中で。
「あの本、変えらんねーのかな」
蛍が前を見ながらつぶやく言葉が忘れられなかった。
「俺たち結局、決められた筋をなぞるだけの人生か」
今夜の蛍の言動も予言通りだったのだろうか。あの予言書の前に俺たちは無力なのか。俺は何も貢献できない自分が腹立たしく、悲しかった。俺はあんな本なんかに頼りたくないし、負けたくもない。俺は俺にできることを探そうと思う。
◇◇◇
この日の朝、夕霧くんが文をくれた。
「六條院の馬場の殿で競射をするので、見に来て下さい」
馬場の殿というのは、馬に乗りながら弓を射る騎射を見物する場所だった。御所にはあるけれど六條院にもあるのか。さすが広大な邸宅だな。夕霧くんは御所で行われる競技の後六條院にも寄ってくれるらしい。昨夜も遅かったのに大変だな……。貴族って体力勝負だなと思う。
五月五日で、六條院には邪気を払う薬玉が飾られていた。光って即位したことはないけれど既に帝だった感があって、俺が法衣で六條院に伺っても女房たちがいい意味で気を使わないでいてくれるから楽だった。毎回女装じゃ大変だからなあ。話は通してあるんだろうけれど、彼女たちは光と俺をかなり同等に扱ってくれる。こんな巨大な邸に住んでいる貴族は京じゅうでも光だけなので、仕える女房たちも誇りに思っているのだろう。
夕霧くんは今年から近衛中将になっていて、柏木くんは衛門府の中将になっていた。近衛府は御所を護る官職で、衛門府はその外側、役所の建物が立ち並ぶ区域を護る官職だった。両方武官なので装いも勇壮だ。廊下には見物の女童や女房たちが綺麗な衣で集い興味津々の眼差しで見つめるので、若い公達はやる気に燃えている。
親王たちも来ていたが、蛍は見物ではなく競技者として馬上にいた。何本もの矢を身につけ、袖を押さえた騎射用の衣装を着ている姿は矢を射る前から格好良い。午後になると光も現れ競技が始まった。
「わあ、すごい……」
蛍の競射はとても上手かった。疾走する馬上で矢をつがえ放つまでに迷いがない。夕霧くんや柏木くんと競っても引けを取らないのですごいと思った。年齢は十以上違うと思うのだけれど。若いなあ。日頃から鍛えているんだろう。
今は戦のない時代で良かったけれど、戦乱の世なら間違いなく立派な武将になるんだろうなと思った。矢が的に当たるたび応援する人たちは楽器を吹いてわあわあ騒ぐ。蛍は人馬一体となり何度的を射ても得意がることなく、どこか遠くを見ていた。
「楽しかったー」
「お疲れさま」
俺が声をかけると、蛍はニコッと笑った。
「やっぱいいなー馬は」
蛍は馬とも仲良しなのか、蛍が首を撫でてあげると馬はとても嬉しそうにしている。
「御所にも行ったの?」
「あー、夕霧たちがね」
蛍は何かを思い出したようにフフフと笑うと
「冷泉さんめっちゃ喜んでた」
愉快そうに目を細めた。
「そんなに喜ぶ冷泉さんも珍しいよね」
「夕霧大好きだからねあの人」
蛍は甥っ子たちの成長を愛おしむように微笑んでまた遠くを眺める。
「馬に乗っけて散歩に連れてってた頃が懐かしいわー」
「本当だよね。すっかりご立派になられて」
俺もつい年寄り臭いことを言いながら、過ぎていく年月を思った。ここまで育って下さったことに感謝だな。葵さんを亡くし光も須磨に行ってしまって、冷泉さんの成長だけが救いだった時代もあったなと俺は切なく思い出していた。
「今でも乗馬の時はいい顔されてるよ」
蛍にそう教えてもらえると俺はいくらか安心できた。馬といると癒されるよな。堅苦しい公務の中で少しでも気の休まる時間をお持ち下さるといいのだけれど。
冷泉さんは十一で即位されて今十八歳だから、そろそろ俺の在位期間を超えることになる。途中お母上を亡くされてつらいこともあっただろうに、よく耐えて下さってるな……。
俺がそんなことをぼんやり考えていると、馬に水を飲ませてやっていた蛍に女童が近づいた。何か渡しているようだ。蛍は受け取って中身を見ると、少し困ったように首筋に手をやった。
「どうかした?」
「いや」
蛍はどう答えたらいいか迷うような顔で俺を見ると、それ以上何も言わなかった。夜になると競射は終わり、光は皆に禄を渡して今日来てくれた労をねぎらった。
063 夏の釣殿
夏の暑い日、俺は御所にお邪魔した。
「皆狩衣ですね」
「はい。暑いので許可しました」
冷泉さん御自身も白い狩衣で涼しそうに座しておられる。
「今日は髪型自由の日なので、烏帽子も要りませんよ」
冷泉さんが微笑んで仰るので、むかし蛍が要望していた髪型の自由もついに実現したんだと俺は感慨深い気がした。すっかり光の天下だもんな。冷泉さんも肩ほどの長さの艷やかな御髪を左耳にかけただけで優雅に垂らしておられた。
「素敵ですね」
俺は画期的だなと思った。いつもと違う服装を許可することで、暑さ軽減もそうだが皆やる気が出ているようで面白い。参内時の正装ではない狩衣が着られることで少し特別なお祭り気分も出るし、こうして皆のために新しいことを考えて下さる帝って素晴らしいなと思った。
「春宮が朱雀院に涼みに来たいと申すのですが、いかがでしょうか」
「夏休みですね。もちろんです」
冷泉さんはニコニコ笑顔で許可して下さって。俺のお願いを拒否なさることがなかった。
「すみませんいつも。ありがとうございます」
俺は日頃の感謝もこめて、長く丁寧に頭を下げた。春宮をこんなわがままに育ててしまって、俺はダメ親だろうか。冷泉さんは昼御座から俺をご覧になると
「朱雀さんて、可愛いですね」
優しく微笑んで仰った。
「あっ……? りがとうございます……」
俺はよくわからないけれど一応お礼申し上げた。俺もう四十前なんだけれど……小柄だし法衣も着ているので爺さんぽく見えるのかもしれない。
それから程なくして春宮と母の承香殿さんが朱雀院に来てくれたので、釣殿で涼むことにした。釣殿は庭の池に向かって伸びている屋根つきの廊で、池を吹き渡る風で涼むことができる。
春宮も十歳になって少年ながらもしっかりしてきたので俺は嬉しかった。母親似なのか俺より学問も芸事もできて、俺はありがたいなと思っていた。
「父上、姉上はお元気ですか」
「ああ、三宮だね。元気そうだよ」
春宮がきょうだいを気にしてくれたのも嬉しかった。二人はほとんど同い年だけれど、三宮のほうが少しだけ早く生まれている。
「一緒に涼むよう誘ってみようか」
「私も伺いましょう」
承香殿さんも俺を見つめて言ってくれた。
「お母様とは親しくさせて頂いておりました。お亡くなりになられて残念ですね」
「ええ。育てると言っても俺は全く自信がなくて。見て下さると嬉しいです」
承香殿さんは微笑んで、春宮と共に三宮の対に行ってくれた。俺は女房たちに頼んで三宮の席も準備してもらい、連れ立って歩いてきた子どもたちを迎える。久しぶりに姉弟再会して二人は話がはずんでいるようだった。俺はのんびり涼みながら幸せを感じた。帝にも夏季休暇があればいいのに。冷泉さんもお誘いしたかったな。
◇◇◇
夕方になってきたので俺達が席を片付けて室内に戻っていると、東の門から車が入ってくるのが見えた。あの車は夕霧くんかな? 俺は気になったので歩いて門まで出迎えに行った。
「夕霧くん、こんにちは」
「こんにちは」
夕霧くんは車から降りると俺に頭を下げたが少し元気がなさそうに見えた。今日は六條院で何かあるときいたけれどその帰りかな。予言に従いたくなくて、あえてうちにきたのだろうか。
「ここに居させてもらってもいいですか」
「どうぞ。何か飲む?」
「いえ」
夕霧くんは誰かと話したい気分ではなさそうだったので、俺は一人にしておこうと思った。そこへ
「すー兄たのもー」
狩衣で馬に乗った蛍がやってきた。
「蛍、どうしたの?」
「ここで涼ませてくんない?」
「いいよ」
俺がうなずくと蛍はひらりと馬を下りて馬屋につなぎ、釣殿に上がった。
「夕霧どしたー?」
「うす」
夕霧くんはチラと蛍に目をやり軽く頭を下げると、勾欄という手すりに腕と顎を乗せて広い池を見つめた。池を渡って涼しい風が吹いてくる。蛍は夕霧くんと少し距離を取ると、勾欄に背を預けて座った。二人ともそっとしておいたほうが良いのかな。俺は端の方に座ると、水鳥を眺めていた。
「夕霧さ、女から文くる現象ない?」
蛍は池を見ながらおもむろにきいた。
「あります」
夕霧くんも静かに答える。
「俺玉ちゃんに付き合えないって伝えたんだけどさ、文は続けたいって来たんだよね」
蛍は珍しく困っているようで、池に立つさざ波を凝視していた。
「むずいわ……」
蛍はため息をついて、困った時の癖なのか首の後ろに手をやった。
「俺も雁から文きます」
「お前はいーじゃん、彼女なんだから」
「違います」
「え?」
蛍が聞き返すので、夕霧くんは雲居雁さんの願いで関係を持ったことにし内大臣さんに殴られた顛末を話した。
「男気すげー。でもなんで?」
「雁の可能性を潰したくなくて」
蛍の質問に答えると、夕霧くんは遠くを眺めた。
「雁ちゃんから文きてんの?」
「……毎日」
「そりゃ多いわ」
蛍は苦笑して夕霧くんを見た。
「雁ちゃんてお前の子何人も産むだろ? 女の勘でわかんじゃね、こいつ逃しちゃダメだって」
夕霧くんの目は動かないが、蛍に言われたことを考えているようだった。
「雁ちゃん嫌なの?」
「いえ」
「予言に従うのが嫌?」
「……」
蛍は優しい叔父の顔になって言った。
「一緒になってやれよ。生まれてくる子に罪はねえよ」
「……はい」
夕霧くんもそれはわかっているようで素直にうなずいた。
「柏木だろ? 心配なのは」
「はい」
「どうなるかなー」
日がさらに傾くと、俺達の影は長く伸びた。
「俺さ、あの本読んだ時もう嫁さん悪かったんだよ、病でさ。やっぱ死ぬのかってショックだったけど、死期が予測できたからなるべく子供らといさせてさ。多少は役に立ったんだ」
夕陽に照らされて、蛍の瞳は暖かい色に染まった。
「柏木に読ませるのも手かもな。お前だって死期がわかるなら知りたいだろ? やっときたいこともあるだろうし」
夕霧くんは黙っていて。俺も何も言えなくて、二人の話を聴いているしかなかった。
064 親の顔
秋になり風も涼しくなってきて、御所に仕える皆も人心地ついたようだった。柏木くんは頭中将になって順調に出世している。この官職名は彼のお父さんを思い出させて懐かしいな。その内大臣さんの娘さんが新たに発見されて、弘徽殿女御に仕えるらしいという噂を皆がしていた。光が玉鬘さんを引き取ったことに対抗したのかな。本当は彼女も彼の娘さんなんだけれど……。内大臣さんの競争心も天性のものだろうか。
ある夜、俺は光が呼んでくれたので久しぶりに六條院へ行った。光も少し元気がなくて。皆未来について悩んでいるようだ。
「あの予言書にさ、『琴を枕に二人で添い臥す』ってあんのよ」
「……すごいね」
「すごいのよ」
かなり攻めた予言書だなと俺は思った。
「その通りにしたの?」
「……したね」
「したんだ」
だろうなとは思ったけれど。そのわりに光の表情は冴えない。
「したけど甘い気持ちとかには全然ならなくて。俺これからどうしたらいいんだろうって、悩んでさ」
光はごろんと寝転がると両腕を枕に天井を見た。その時の気持ちを思い出しているのだろうか。考え事のお供に鳴らす雅な扇も今夜は手に持ったままだった。
「玉ちゃんの人生って何のためにあるんだろうって。好きでもない髭黒の子でも、生まれる運命なら産まなきゃいけないのかな。彼女の人生って子を産むためにあるんだろうか。純粋に自分の幸せ追求したらいけないのかなって」
「本当にそうだよね……」
俺たちは子がほしくても自分では産めないから運を天に任せると言うか、ある意味無責任でいられるけれど。女性の幸せって何だろう。子を産めば絶対幸せなのかな。そりゃ赤ちゃんは可愛いだろうけど……。
「玉ちゃんさ、予言書以上に俺になびいてきてて」
光は嬉しいというより困惑した表情をしていた。
「一番じゃなくてもいいって言ってくるんだよ。ここに置いてもらえればいいって」
「そうしてあげるの?」
「わからない」
光はため息をついて目を閉じた。
「紫より上の扱いをしてやることはできないんだ。それは確定してて。それをわかってて二十二の女を囲っていい気がしない。玉ちゃんは間違いなく誰かの一番になれる人だと思う」
「そうだね」
光は彼女に誰かの一番になってほしいと思ってるんだな。でも誰ならできる? 誰なら彼女を笑顔にできるんだろう。
「夕霧も元気ないよね」
「うん」
光もそのことに気づいてくれていたんだと思って俺は内心嬉しかった。
「この前蛍がうちにきて、夕霧くんと話して。あの本を柏木くんに読ませたらって言うんだ。死期がわかるなら知りたいだろうからって」
「……キツいな」
光は呻くように言うと完全に黙ってしまった。月の暗い夜で、光の居所の前には篝火がたかれている。
「あの本を燃やしてしまえば。皆自由になったりしないかな」
「兄貴にしては暴力的だな」
俺の意を決した言葉に光は少し笑うと、横を向いて篝火の炎を見つめた。
「皆を助けたくて。呪われてもいい。俺がやるよ」
俺はあの本は呪術の類ではないかと思った。予言の呪縛から皆を解放したい。選択肢と可能性にあふれた人生を送ってほしい。
「皆の未来を取り戻そう?」
「まあ落ち着いてよ」
光は寝転がった姿勢から起き上がると、前のめりになる俺をなだめてくれた。
「物理的にあれを葬ったからって未来が変わるとは限らないよ。利用するほうに考えないと。蛍の言うことも一理あるし」
柏木くんに見せる、か……。
「柏木くんが亡くなるまで、あと何年くらいある?」
「十二年ってとこかな」
「そんなに……」
死期を知らせるには早過ぎるのではないかと俺は思った。
「若い奴にはあっという間さ」
十二年後に死ぬって言われたら、俺ならどうするだろう。京を出て旅でもするだろうか。柏木くんは何がしたいだろう。
「兄貴が何かして春宮様や子々孫々に影響があっても困るから。下手なことしないでね」
「うん。ごめんなさい」
光にそう言われて俺は反省しながらうなずいた。昔俺が出家すると言ったときも光はこうして止めてくれたっけ。俺っていつも自分のことばかり考えて先走るから。すぐ周りが見えなくなってしまう。
「夕霧来てるから、見に行こうか」
俺は光について歩くと、夏の町の東の対へ行った。夕霧くんはほのかな灯りの中、凛々しい横顔で笛を吹いている。柏木くんの笙と吹き合わせて。二人の合奏は闇夜を照らす星明りのように良く溶け合っていた。
光は二人を邪魔しないようになのか、廊下の途中で立ち止まり遠くから夕霧くんを見ていた。心配そうな親の顔で。光はこんなにも父親なのに夕霧くんには意地でも見せないんだろうなと思うと、親子というのも辛いものだと俺は思った。
065 夕霧出禁
野分という風が幾日も吹いて、邸の植え込みや建具を破損した。すごい暴風雨だった。御所は大丈夫かなと俺はまず冷泉さんや春宮のことを心配した。光の邸も大きいしいろいろ植わっていたから、枝が折れたり花が吹き散らされたりして大変だっただろうか。
俺は朱雀院内の建物を一つひとつ見て回り、壊れた箇所を修理するよう頼んだ。三宮の対も荒れていたが三宮は思ったほど怯えてはおらず、
「綺麗な空ですね」
暴風が全てを運び去り一段と涼しくなった秋晴れの空を楽しんでいる。度胸あるなあ。朧月夜さんの方が怯えて俺に抱きついていたくらいだったが
「すこし、離れてもらえますか」
「嫌です♡」
彼女は理由をつけては俺にくっついてくるので困った。法衣に袈裟姿で祈る俺にまですがりつくので困る。俺が出家したらこの方はどうなさるつもりなのかな。幸せに暮らして下さるといいのだけれど……。三宮より気になるので難儀だった。彼女は歌や楽器が上手く華やかで美的感覚も鋭い、まさに貴族生活に向いている女性だった。だからこそ俺とここにいるのがもったいないような気がして、彼女はこのままでいいんだろうかと心配になる。
◇◇◇
野分の去った数日後、お見舞いも兼ねてまず冷泉さんにご挨拶しようと御所へ伺った。
「朱雀さん、丁度いいところに」
冷泉さんはニコニコと微笑まれながら、俺に軽く手招きをなさる。御前には蛍と夕霧くんがいた。なんだか少し緊迫した様子で、俺は二人の後ろにさり気なく座った。
「お前六條院を出禁になったってマジかよ?」
「出禁……」
蛍が興奮気味に尋ねるので俺は耳を疑った。出禁って……。親の家を出入り禁止になることなんてあるんだろうか。夕霧くんの衣はよく見ると乱れていて。襟元が誰かに強く掴まれたのか折れてしまっている。
「野分のとき紫さんを見たかって訊かれて、見たって言って」
夕霧くんは始終落ち着いていた。
「狙うかって訊かれて。『女には興味ないけど、あんたが苦しむ姿を見れるならやる価値あるかもな』って答えました」
「そりゃひでーわ……」
蛍もさすがに呆れたのか、しばし絶句した。
「光にそれは禁句だったぞ」
青春してんなーと言ってため息をつく。
「もちろん本気じゃねーんだろ?」
「興味ないす。継母なんて」
夕霧くんが目も動かさず即答するので
「冷てえなー」
蛍は夕霧くんにはかなわないと言った様子で苦笑した。
「あの光を落ち着かせた絶世の美女だぜ? 間違いなく京一なんだからもう少し気を使えよ」
蛍は夕霧くんをたしなめていたが、冷泉さんはいつも以上にニコニコしておられた。夕霧くんが光と衝突するほど冷泉さんが嬉しそうに見えるのがどこか不思議だ。父親と正面からぶつかりあっても決して引けを取らない夕霧くんが眩しいのかもしれない。
「まーあの光にそこまでキツい口叩けんのもお前だけだろうな」
蛍は諦めたようにうなずくと夕霧くんの肩をぽんと叩いた。
「さすがだよ。だが光の気持ちも少しは考えてやれよ。お前を脅威に感じてんだから」
夕霧くんが少しわからないような目をするので、蛍は続けた。
「お前のこと男として認めて、警・戒・してんだよ」
夕霧くんは嫌そうな顔をして眉を寄せたが、しばらく黙って考えこんでいた。親への反抗は甘えでもあるからなあ。夕霧くんもそろそろ卒業する時期なのかもしれない。
「あの人酷くて。祖母ちゃんのことも・う・長・く・な・い・だ・ろ・う・から見舞いに行けって言ってました」
「そりゃひでーわ」
光の敬語ながらも失礼なことをハッキリ言う癖に蛍は苦笑していた。
「中宮は元気そうだった?」
冷泉さんがさりげなく里帰り中の梅壺中宮を心配なさると、夕霧くんは帝を真っ直ぐに見つめて答えた。
「はい。せっかく咲いた秋の花が荒らされてお気の毒でしたが、様々な籠に吹き散らされた枝を入れさせたりして、風流でした」
「流石だなー」
蛍はこんな時にも雅さを忘れない中宮さまに感心している。
「妹さんはお元気?」
「ええ。今八つです」
俺の質問に夕霧くんが答えてくれたので俺は春宮のことを思い出した。春宮の二歳下か。春宮が元服を迎え光の娘さんが裳着をされたら、いよいよ入内ということになるのかな。帝や春宮は結婚が早いからもう少しのんびりさせてあげたい気もした。夕霧くんが春宮の義兄になれたほうが当然出世は早いだろうけれど。
「お前、出禁食らったわりにはウロウロしてんな」
「怒らせる前すから。元々紫さん近辺には出禁でしたし」
夕霧くんは蛍に答えながら、さっき言われたことをまだ考えているようだった。
「侮辱、しすぎましたね」
じっと反省している様子に成長を感じる。
「一目惚れしました! って言ったほうがまだ良かったかもしれねーな」
蛍が言うので俺も苦笑してしまった。
「そうだね。光は『奥様なんて眼中にない』って部分に怒ったのかも」
光って怒るポイント変わってるからなあ。奥様は光の八歳下だったかな。夕霧くんから見れば十三歳も上だし父親の恋人だから、恋愛対象外と感じるのはおかしいことじゃないと思うけれど。そう言われて怒るってことはよほどの美人なんだろうか。
光が夕霧くんに激怒したという噂はそれこそ野分のように京じゅうへ伝わって、いつの間にか朱雀院に仕える女房たちの口の端にものぼった。親子とはいえ光は太政大臣だから夕霧くんの政治生命を危ぶむ声まで聞かれたけれど。冷泉さんはいつも通りに夕霧くんを重用して見せたので、皆の憶測もいつしか和らいでいった。
066 帝の鷹狩
この年の十二月、大原野への行幸があった。大原野ということは鷹狩だ。冷泉さんの鷹狩がついに見られるのかと思うと俺は感慨深い気がした。昔光が住吉詣に行った時「帝はなかなか外出できませんよね」というお話をさせて頂いたけれど。ご立派に成長なさり、鷹狩にも行けるようになられて本当に良かったと思う。
行幸の日は物見車が桂川まで隙間なく立ち並んだ。俺の車もその中にいたのだけれど。左大臣右大臣内大臣、納言より下、親王たち、京の貴族は全員ついてきていた。皆この日のために馬や鞍を整え、華麗な装束に身を包んでいる。鷹を使わない人は青白橡の袍を着ていたが、鷹を使う人たちは狩衣を着ていた。
「すー兄行ってきまーす!」
蛍ももちろん狩衣で、俺を見つけると馬上から手を振ってくれた。柏木くんや夕霧くん達は摺衣という花鳥の模様を摺り込んだ衣を着ていて、とても風雅だった。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
俺も手を振りながら皆を見送る。冷泉さんはもうすぐかな。俺はドキドキしながら冷泉さんを待った。長いお供たちのただ中に、冷泉さんはリラックスして輿に座しておられる。
「わあ……」
冷泉さんは俺を見つけるとそっと微笑んで下さった。その微笑みがキラキラと眩しくて、今日の鷹狩を楽しみにされていたことが伝わってくる。皆着飾って豪華な行列だったが、冷泉さんの美しさは際立って並ぶ者がなかった。雪がすこし舞い散る空の様子も艶で、冷泉さんの横顔と長いまつ毛を引き立てる。
紫の御衣をめされ、静かに前を見つめるご様子は神々しくさえあられた。誤ってこの世に生まれ落ちた天の御使いのようで、地上に留まるならば帝以外ありえないようなお姿だった。
大原野へ着かれてから狩衣に着替えられるのかな。背筋をスッと伸ばされた冷泉さんが馬を駆られ鷹狩なさるお姿をぜひ見たかったけれど、そこまで追いかけることもできないので俺は行列見物だけで我慢した。後から夕霧くんにどんな様子だったか聞くのが楽しみだ。夕霧くんと光の仲は大丈夫なのかな。俺は心配だったが今回ばかりは本気のケンカのようなので、慎重に見守ろうと思った。
◇◇◇
行幸の熱も冷めやらぬまま年が明け、光三十七歳、冷泉さんは十九歳になられた。夕霧くんは十六歳か。皆どんどん大きくなるのが嬉しい。冷泉さんに続いて、ついに夕霧くんも俺の身長を追い越してくれた。皆大きいから、並んで立つと俺は見下ろされてしまうのだった。
「二月に玉ちゃんの裳着します。当日は来てね。」
光から文がきて、いよいよ裳着なのかと俺は気を引き締めた。彼女はもちろん十代のときに当時住んでいた場所で裳着を済ませているとは思うが、光は親代わりとして彼女の存在を京の人々にアピールしたいのだろう。裳着が終われば一人前の女性ということなので、結婚の申込みや恋の手引きは激しくなる。
「内大臣さんに腰結を頼んだけど大宮さんの不調を理由に断られて。夕霧も祖母さんにかかりきりだと思うよ。」
光は夕霧くんとケンカしているのに俺には情報を教えてくれるので優しいなと思った。大宮さまは体調が優れないのか……。葵さんのお母上だからご高齢ではあられるけれど。
六條院への出入り禁止を言い渡された夕霧くんは二條院も避けているらしく、御所へ宿直したり柏木くんの邸へ泊めてもらったりしていると聞いてはいた。年始にも会わなかったので気になってはいたけれど、そんな事情があったのかと俺は察した。大宮さまへのお見舞いを、三條の実家へ連日泊まっているであろう夕霧くんへ言付ける。
「大宮さまが良くなられるといいですね。夕霧くんもゆっくり休んで下さい。」
夕霧くんは雁さんのこと、柏木くんのこと、光とのことと悩みが多いのに人には相談しないタイプだと思うので、少しでもよく眠ってくれるといいがと思った。
二月十六日、玉鬘さんの裳着が行われた。俺はかなり早めにこっそり六條院へ行った。今日は親王や貴族たちもたくさんくるから、俺は目立たないよう奥の部屋にこっそり居させてもらう。
「俺が大宮さんの見舞いに行って、内大臣さんと会えるよう取り持ってもらったんだ」
光は大宮さまの仲立ちで内大臣さんに玉鬘さんのことを知らせ、和解できたらしかった。
「大宮さんも今は体調が安定してるらしくてね」
「良かったね」
俺はしみじみ言って、大宮さまがおられて良かったと思った。光と内大臣さんは互いにもう大人で、昔のように言いたいことをはっきりとは言えない間柄だろうから。特に若い頃からずっと光と競っていたけれどついに光を超えられなかった内大臣さんが、悔しさを隠しつつ光に遠慮しているようだった。
「内大臣さんは雁ちゃんの話かと思ってたみたいだけどね」
光が笑うので、俺はつい気になって尋ねてしまった。
「そのことについては話さなかったの」
「うん。知らないよあんな奴」
光は当然のようにうなずいて取り付く島もなかった。十六歳の息子をここまで突き放せるのも凄いな。夕霧くんは今日の裳着にも来ていなくて、俺は光の本気を感じた。心配だな……。家から追い出しても大丈夫なくらい息子を信頼しているってことなんだろうけれど。
「おつー」
夜になると蛍もやってきて、俺たちの横に座った。
「玉ちゃんいよいよ裳着かー。どーすんだよ婿は」
あぐらをかいて光に尋ねる。
「予定通り冷泉さんに差し上げるよ」
光は目を伏せると淡く微笑した。
「玉ちゃんも行幸で冷泉さんに一目惚れしたみたいだし」
「冷泉さんに惚れねえ女なんていねーだろ」
蛍も苦笑して、でも光の決定を止めはしなかった。
「出仕は十月か」
「大宮さんの死期が予言通りならな」
俺たちはしばらく黙って。柏木くんの死期を思った。亥の刻が近づくと光と蛍は席を立って、玉鬘さんの裳着へ立ち会った。
067 底知れず冥く
御所へ伺った俺は久しぶりに冷泉さんにお会いしたので、去年のことだがついお尋ねしてしまった。
「鷹狩はいかがでしたか」
「楽しかったです」
冷泉さんは優しく微笑んで下さる。
「もっと何度も気軽に行けると良いですよね。豪勢で綺麗でしたが」
俺はあの仰々しい行列を思い出し、つい苦笑してしまった。
「そうですね」
冷泉さんも苦笑なさって。帝として背負うものが重いのに少しも文句を仰らないのを尊敬しつつ、心配にもなった。
「春宮さんも十一歳ですね」
冷泉さんは春宮の年も覚えて下さっていて、俺は恐縮した。
「元服も近いですね」
「ありがとうございます。まだまだ頼りないのですが」
春宮が早くしっかりしてくれたほうがいいのだろうが、冷泉さんの御世が長く続いてほしい気持ちもあって、俺はあいまいに苦笑した。
「玉鬘さんの裳着も滞りなく終わってよかったです。光は内大臣さんとも仲直りできたみたいで」
「そうですか」
冷泉さんは光から連絡がきてはいるのだろうけれど、俺の話も優しく聞いて下さった。そこへ小さくて動きの早いリスのような侍女が一人、御簾を上げてチラとこちらを覗いた。
「やめて下さい」
御簾の外で柏木くんが必死に止める声が聞こえる。
「みかどですか?」
帝にみかどですかと訊く人を初めて見たので、俺は驚いてしまった。
「はい」
冷泉さんは脇息にもたれて、優雅に微笑まれる。
「私を尚侍に」
彼女は早口で言いかけたが、冷泉さんの眼光に捕えられて釘付けになったのか、しばらく言葉を止めた。
「下働きに、使って下さい」
彼女はそれだけ言うと御簾を戻して、また小動物のように去ってしまう。
「申し訳ございません。とんだご無礼を」
柏木くんが可哀想なくらいに頭を下げるので、冷泉さんはフフフと笑われた。
「近江さんですね。構いませんよ」
冷泉さんは麗しく微笑まれて、毛ほども気にされていないご様子だった。近江さんというのは内大臣さんが引き取ったという娘さんかな。柏木くんが責任者なのか、苦労しているようだ。
「玉鬘さんの出仕の話がでていますか」
「ええ。父上は十月にとお考えのようです」
冷泉さんの表情は変わらず、悲しくも嬉しくもないご様子だった。
「玉鬘さんはどうなるのでしょうか……」
俺は女性の幸せについていくら考え続けてもわからず、降参状態だった。
「玉鬘さんが笑顔になってくれたらと思うのですが。光も蛍も俺も、お手上げで」
結局子世代である冷泉さんに押し付けようとしている。
「生まれる時期は選べなくても、誰の子を産むかは選べるかもしれませんね」
冷泉さんが何気なく仰るので、俺は時が止まったかと思った。
「それは、つまり……」
「誰の子を宿すか決めるのは女性でしょうから」
冷泉さんはやっぱり優しく微笑まれて、有無を言わせない。
「……そう、ですね」
俺は噛みしめるようにうなずいて、これが冷泉さんの救い方なんだと悟った。父・親・は・選べるかもしれない……。子は男女の縁でできると俺は思い込んでいたので、その発想に衝撃を受けた。しかし発言主である冷泉さんご自身は、光のように道ならぬ恋と知りながらやむにやまれず、という感じではなかった。さりとて快楽や背徳に耽るふうでもなく冷静で、どこか奉仕的にすら見える。
「女性が望めばの話ですが」
冷泉さんはそれだけ仰ると、微笑んで遠くを望まれた。玉鬘さんは帝に何を望むだろう。
俺の知る限り、冷泉さんが女性に何か命令したり強要なさることは一切無かった。
「どうしてほしいですか?」
と、微笑んでただ優しく訊いて下さるだけ。それでも冷泉さんと一緒ならどんな深い闇に堕ちてもいいと思う女性は必ずいるんだろうな。つよかった。まばゆいくらいに輝いているのに底知れず冥くてあたたかかい、深淵のような感じがした。このお方は我々がどんなに汚く愚かで誤った選択をしたとしても、それを止めようとはなさらないだろう。ただありのままを受け入れ、抱きしめてかばいながら深い深い場所までともに落ちて下さるだろう。どれほど御身が傷ついたとしても。
どうしてそこまでして下さるのだろう。帝位におられるのもご本意ではないが下りることもままならず、強いて無感情におなりなのではないか。夕霧くんへの加階だけを心の支えになさって……。
無礼を承知で俺はそんな心配をした。入道宮さまが生きておられた頃の冷泉さんはこういう感じではなかった。光と父子の再会をしたときだって、ショックは受けておられたが今の氷ような雰囲気ではなかったのに……。あの本によほど悪いことが書いてあったのだろうか。あの予言書を読まれてから、冷泉さんは変わってしまわれた気がする。
十九歳の冷泉さんには人を惹きつける魔力のようなものがおありで、絶対的な権力をお持ちなのにどこか儚げで、完璧なのに放っておけないところがあられた。満開の藤の下に佇み微笑まれながら、そのまま晩春の陽光に溶けて消えてしまいそうな、そんな危うさが感じられる。どうしてだろう。藤は生命力が強く子孫繁栄を象徴する縁起の良い花なのに……。
冷泉さんは何か考えておられるご様子だったので、俺は静かに御前を辞した。お任せする以上何も言うことはできない。ただ俺の心はとても冷たく、沁みるように痛くて。冷泉さんのお心遣いを有り難く、ここまでおさせすることを申し訳なく思った。
068 立派な男子
昨年の野分後に夕霧くんが光から六條院出禁を言い渡されて以来、一年近くが経とうとしていた。夕霧くんは順調に加階して宰相中将になっている。ただ祖母である大宮さまが三月二十日に亡くなられ、今は喪に服していた。玉鬘さんの裳着は二月だったが、間に合ってよかった。大宮さまは玉鬘さんにとっても祖母のため、彼女も喪に服しているようだ。
「ご無沙汰してます」
夕霧くんはとても久しぶりにうちに来てくれると、俺に一礼した。しばらく会わなかったせいかまた背が高くなったように見える。もう光と同じくらいかな? 光がいつまでも子ども扱いしないのも当然と思える雄姿だった。目つきが鋭く落ち着いているので、夕霧くんのほうが怖いくらいに感じる。
「お久しぶりです。お元気でしたか」
俺は大人に対するのと同じ礼をして夕霧くんを迎えた。仏間で祈っていたので、そこに夕霧くんの席を設える。夕霧くんは鈍色の衣を着ていたが、それも凛々しく清らかに見えた。
「大宮さまのこと、お悔やみ申し上げます」
「痛み入ります」
俺たちは他人同士のような挨拶を交わしながら、不思議と寂しさは感じなかった。これだけの立派な若者になられたということが俺には純粋に嬉しく、亡き葵さんのことを思っていた。
「父に謝ろうと思うのですが、お付き合い頂けませんか」
夕霧くんの口から父という言葉をきけて俺の胸は高鳴った。嬉しかった。でも殊更に反応するのはふさわしくないと思い、ごく自然に聞き流す。
「俺でよければ喜んで。何かきっかけがあったのですか」
夕霧くんはしばらく黙っていたが
「雁のためです」
短く答えた。結婚に向けての下準備なのかなと俺は思った。人のために頭を下げられるようになったんだ。夕霧くんは大人になったと思った。
◇◇◇
約束の日は俺が一足先に六條院へ行き、光と他愛ない話をして待っていた。夕霧くんは来るかな。途中で来られなくなっても俺は良かった。夕霧くんの光に対する複雑な気持ちを思えば、すんなり謝れなくても仕方がないと思う。
「中将殿がお見えです」
取次の女房が声をかけると、光は少し緊張したように前方を睨んだ。夕霧くんが静かに入ってくる。俺に礼をすると光の前に座り、真っ直ぐ頭を下げた。
「すいませんでした」
「何に対する謝罪だ」
「紫さんを侮辱しました」
夕霧くんの眼光はいつも以上に鋭く、台詞が聞こえなければ謝罪とはわからないほどだった。
「手は出さないんだな?」
「興味がないのは本心です」
夕霧くんがあまりにもキッパリ言うので、光は複雑そうな顔をする。
「失礼だな……まあいいよ。お前がそういう奴じゃないことは知ってる」
夕霧くんは顔を上げるとやはりきつい目をして光を見た。父子の間に微妙な緊張感が漂う。それが必ずしも悪いとは言えないのが面白い所だった。これがこの二人の距離感なんだろうな。互いに弱みを見せない間柄で、自然と背筋が伸びるような、兜の緒を締めるべき強敵のような感じがする。
「冷泉さんの御気色、玉ちゃんに伝えてきて」
光は夕霧くんに重大な任務を与えた。夕霧くんは無言で立っていく。
「何あいつ。なんか前より怖いんだけど」
光は夕霧くんの後ろ姿を見送りながら俺につぶやいた。
「前より凄み増してない? 口悪かったときのほうが可愛かったわ」
「大きくなられたよね」
光が我が子の成長を惜しむ親のような発言をするので、俺は苦笑してしまった。
「立派な男子になられたね」
夕霧くんは凛々しく堂々として頼もしかった。どこに出しても恥ずかしくない自慢の甥だ。誰でもああなるわけじゃないと思う。夕霧くんの苦労の多い人生が、あのしっかりした人格を形成したのだろうと俺は思った。
「たまには頼ってみたら?」
「あいつに?」
光は嫌そうな顔をしたが、しぶしぶながら考えているようだった。そのうち自然と頼らざるを得ない時がくるんだろうな。将来太政大臣になられる方だから。
俺たちがそんな話をしていると、夕霧くんがすこしぼんやりした顔をして戻ってきた。元通り光の前に座ったがどこか落ち着かない様子だ。左手に藤袴を持っていた。
「夕霧くん、その花は……?」
俺が何気なく尋ねると
「玉鬘さんがくれて」
夕霧くんは困惑した表情で俺を見た。
「尚侍の話、玉ちゃんには伝えた?」
「伝えたけど」
いつも凛々しく迷いがないせいか、夕霧くんの困った様子というのはとても愛しく映った。
「逆にもらっちゃったか」
光は苦笑すると夕霧くんから藤袴を受け取って、嬉しそうにしばらく眺めていた。
069 出産は十一月
玉鬘さんの出仕は十月の予定と冷泉さんは仰ったが、彼女は間一髪のところで髭黒大将さんと結ばれたようだった。髭黒さんはずっと内大臣さんに彼女との結婚を懇願していて、それが実を結んだようだ。このタイミングなのかと俺は思った。内大臣さんの娘としては先に弘徽殿女御が入内されているので、玉鬘さんを尚侍にするのは姉妹で帝の寵愛を競い合うことになり、親として抵抗があったのだろう。
「内大臣さんが辛抱強く玉ちゃんを説得して、しぶしぶだけど了承したようだよ。」
光が文でそう教えてくれたが複雑な気分だった。春宮の伯父だから結婚相手として有望なのは確かだが、髭黒大将さんには既に奥様がおられる。奥様とお子さんたちはどうするつもりだろう。
「彼女の出産は来年十一月です」
夕霧くんは予言の一部を俺に教えてくれた。そのことについて未来を知っている光、蛍、夕霧くん、冷泉さんで極秘会議が開かれるらしい。最近めったに御所に来ない光まで集うのは相当のことだろう。玉鬘さんは光だけでなく蛍や夕霧くんにも助けを求めていたよな。冷泉さんのお姿も目にしただろうし……。
「朱雀さんも来ますか」
わざわざこの話を俺に伝えに来てくれた夕霧くんは、真っ直ぐな瞳で尋ねた。
「ごめん、俺……怖くて」
俺は情けないけれど手が震えて。怖かった。来年十一月に出産ということは、今からしばらくの間彼女は確・実・に・妊・娠・し・な・い・。処女でなくなった玉鬘さんが誰と関係したかわからないだろうし、隠すすべはいくらでもあるだろう。玉鬘さんは髭黒さんと結ばれはしたが、まだ光の邸にいるようだった。尚侍として出仕はさせるのかもしれない。
俺は胸をギュッと掴まれたように苦しく、息ができなかった。一人の女性のもとへ複数の男が通うことは珍しくないのだろう。一夜の思い出を作ることもあるのかもしれない。既婚者と通じることも、あるのかな……。何が彼女の救いになるのか。俺は叶わぬ恋に涙したことも恋敵と争ったこともなくて。貴族なんかじゃない、ただの世間知らずだった。
「夕霧くん、あの」
俺は帰っていく夕霧くんを呼び止めた。夕霧くんは振り向いて、じっと俺を見つめてくれる。
「冷泉さんに」
俺は苦しい胸を押さえながら、絞り出すように言った。
「冷泉さんのこと頼むね。俺、冷泉さんにはあまり無理してほしくないんだ。なるべく自由に生きて、幸せになってほしい」
俺なんかが頼むのもおかしなことだが、言いたくて仕方なかった。冷泉さんはきっと自分が傷つく行為も人のためなら平気で行い、どんな痛みも感じないフリをする。いつも笑顔で何でもできて余裕綽々で。心配だった。いつ、誰に心の痛みを見せているのだろう。
「伝えます」
夕霧くんはつよい瞳でうなずくと礼をして去っていった。俺は仏間にこもると祈ることしかできなかった。また身体が奥底から冷えていくように感じる。玉鬘さんの願いが一つでも叶うと良いと思うけれど……それは彼女の夫を傷つけることになるのだろうか。俺はこれ以上誰も傷つかないでほしかった。
◇◇◇
冷たい知らせは雪とともに冬の京へ降り積もった。玉鬘さんを得て舞い上がった髭黒大将さんは古い奥様を完全に捨ててしまったらしい。元奥様についての悲しい噂は朱雀院にこもる俺の耳にも届いた。
「元の性格はお優しい方なのに、物の怪が悪さをして」
「香炉の灰を背中からかけたそうよ」
「三人もお子さんがいるのに、若い女に夢中になって」
髭黒さんの態度を見かねた父宮が元奥様を引き取ることになり、髭黒さんの邸で仕えていた女房たちが元奥様を不憫がって、噂はたちまち広がった。たしかに可哀想だった。別の女の所へ通う支度のために、夫の衣へ香を焚きしめる奥様の気持ちを思うと胸がつぶれそうだ。なんでそんな酷いことをさせるんだろう。新妻である玉鬘さんも悪く言われるし、誰も幸せにならない結婚だった。
「六條院の奥様が仕掛けたらしいわ」
光の奥様を悪く言う人までいて俺は驚いた。髭黒さんの元奥様と光の奥様は腹違いの姉妹で、元奥様の母親は光の奥様を嫌っているのでこんなことを言い出したらしい。光や内大臣さんを直接悪く言うことはできないのでこんな噂が流れたのかもしれないと俺は思った。そのくらい京の人々の元奥様に対する同情心は厚く強かった。
「玉鬘さんは大丈夫かな……」
気の毒だなと俺は思った。大恋愛の末ならまだしも、しぶしぶ引き受けた婚礼でここまで言われてはたまらないだろう。髭黒さんももっと気遣い、どちらの女性も大事にすることはできなかったのかな。光なんてあんなに女性いるのに上手く扱って。光って本当にすごいんだな……。
悲しい噂のまま年が明けて、光三十八歳、冷泉さんは二十歳になられた。もう二十歳と言うべきか、まだ二十歳と言うべきか……。夕霧くんは十七歳だ。
今年は男踏歌があって、御所のあと朱雀院にも来てくれた。可愛い少年たちが足を踏み鳴らして踊って。髭黒大将さんの息子さんも混じっていた。
この男踏歌に合わせて玉鬘さんの尚侍出仕があったそうで俺はため息をついた。結婚後の今行くのか……。玉鬘さん出仕の儀式は光、内大臣さんに髭黒大将さんの勢いも加わって盛大だったそうだ。
「出産は十一月」
夕霧くんの言葉が呪いのように耳にこびりついて離れなかった。今は一月か。父親は選べるかもしれない……。冷泉さんのお言葉を思い出すのも怖い。
玉鬘さんははじめ髭黒大将のことが好きではなかったが、可愛い子どもたちに恵まれ夫にも愛されて徐々に幸せを感じるようになった。という昔話のような結末しか俺の頭では思いつけなかった。髭黒さんは別居しても子どもたちの面倒は見るだろうが、元奥様のことはもう……。
玉鬘さんは少し宮仕えをしたようだが、髭黒さんが奪うように自邸に連れ帰ってしまいそれきり出仕することはなかった。そして夕霧くんの言う通り、十一月には可愛い男の子が生まれた。
070 読みますか
俺はこの年、結局玉鬘さんの出産まで御所に伺うことができなかった。冷泉さんにお会いするのが怖くて。こんなに朱雀院にこもっていたのは初めてで、春宮が文をくれたり夕霧くんや蛍が心配して時折訪ねてくれたりした。
冷泉さんは頻繁に御所に来ていた俺が急に来なくなってもお咎めになることはなくて。今回かなり久しぶりに伺っても
「お久しぶりです」
いつもの微笑みで、何事もなかったかのように接して下さった。
「すみません、ご無沙汰をしまして」
「いえ」
俺は緊張して冷泉さんのお顔を見ることができなかった。
「ありがとうございました」
冷泉さんから不意にお礼を言われて、俺は顔を上げた。
「私を心配して下さって」
「いえ……。出過ぎた真似をして申し訳ございません」
俺は恐縮して頭を下げた。出自で悩まれた冷泉さんに同じことをおさせするのはどうしても抵抗があって。俺に何か言う権利があるわけもないのに。
「嬉しかったです」
冷泉さんは目を細めてそう仰って下さって。お世辞かもしれないけれど、俺のほうが嬉しかった。
「今日は柏木くんと会う約束をしているのです。呼んでも構いませんか」
「はい。俺が居てもよろしいですか」
「ええ」
冷泉さんは微笑んでうなずかれると、柏木くんを御前に召された。すでに人払いされているようで辺りは静かだ。俺は冷泉さんの正面の席を空けて、部屋の端に座り直す。
柏木くんはだいぶ待ちわびていたのか、急いで入ってくると冷泉さんの正面に座り一礼した。柏木くんの後ろから夕霧くんも入ってきて、冷泉さんと目を見合わせると俺の横に座った。
「お時間を頂きまして申し訳ございません。どうしても伺いたいことがございまして」
「はい、どうぞ」
冷泉さんは誰の質問にもやさしく頷いて答えて下さった。
「あの子は帝の子ではないんですよね。とても可愛い男の子でしたが」
柏木くんは姉である玉鬘さんの出産を喜びつつも、残念そうに言った。
「そうですね」
冷泉さんも微笑みながら、残念そうに仰る。
「帝の子ならよかったのに」
柏木くんは姉が髭黒大将に取られたのが今でも悔しいらしく、つらそうに眉を寄せた。そうして
「なぜ姉の出産がわかったのですか」
急に俺の方を向いて尋ねた。俺は返答に困ってしまって。つい夕霧くんと視線を交わす。
「未来を書いた本があるのです」
冷泉さんは俺の代わりに答えて下さって。優しい口調だった。
「その本は当たるのですか」
「生死は誤らないようです」
冷泉さんのお言葉に、柏木くんが真剣に考え込む。
「夕霧が言っていた、俺・が・死・ぬ・未・来・も書かれていますか」
「はい」
冷泉さんは何を訊かれても迷うことなく、笑顔でお答えになられた。
「読みますか」
冷泉さんにそう問われて、柏木くんは完全に黙りこんだ。俺は何も言うことができなくて。夕霧くんも同じだが覚悟はできているようで、鋭い瞳でただ柏木くんの返答を待っていた。
「読ませて頂けますか」
だいぶ経ってから、柏木くんは静かに答えた。
「秘密にできますか」
「はい」
「では、貴方に関わる部分だけお貸しします」
冷泉さんはそう仰ると、スッと席を立たれた。
「持ってきますね」
夕霧くんもすぐ立ち上がって冷泉さんを助けに行く。俺は柏木くんと待っている間、胸が苦しくて仕方なかった。
「院も読まれたんですか」
「ううん。俺は怖くて……読んでないんだ」
俺は柏木くんに訊かれて正直に答えた。柏木くんはまた黙ってしまって。信じてもらえたのかどうか、わからない。
予言書が届くまで無限に長い時間に思えた。柏木くんに関わる本は二冊しかなくて。その人生の短さを予感させる。冷泉さんはそれを綺麗な布に包むと、柏木くんに持たせてくれた。
「誰もいない所で読んで下さいね」
「はい」
柏木くんは緊張した面持ちで受け取ると、一礼して去っていった。俺はじっと目を閉じて。不安で仕方なかった。柏木くんが亡くなるまであと十年しかなかった。
071 あと八年
柏木くんに貸し出された予言書は数日で写して返却されたそうだった。柏木くん大丈夫かな……。俺は不安だけれど何もきけずにそのまま新年を迎えた。光三十九歳、冷泉さんは二十一歳になられる。夕霧くんは十八歳。皆俺よりしっかりした大人になられた。
「兄貴久しぶり」
「あけましておめでとうございます」
新年の忙しい行事も終わった一月後半、光が招いてくれたので俺は六條院にお邪魔した。
「兄貴さ、俺たちが玉ちゃんに何かいかがわしいことしたと思ってるでしょ」
「えっ……思っ、てないよ」
俺は思わず目を泳がせながら答えた。
「わかりやすいなーもう。俺たちはや・さ・し・く・してあげただけだよ。まあ内容は言えないけどね」
「そっか」
俺は顔が赤くなるような気がしたが、なんとか聞き流した。玉鬘さんが幸せになられるといいが。
「お子さんが生まれたのは、よかったんだよね」
「もちろん。玉ちゃん今頃可愛がってるよ」
「良かった……」
俺は思わず涙がこぼれるので、恥ずかしくなって拭った。
「なに泣いてんの。年取るとこれだからなあ」
光は呆れたように苦笑している。
「今年はうちの子の裳着だからね。春宮様の元服と一緒にやるから」
「そうなんだ。おめでとうございます」
俺は早いなと思った。もうそんなに大きくなられたのか。
「裳着が終われば入内させるからよろしく」
「うん。こちらこそよろしくね」
春宮にお嫁さんがくるのかと思うと感慨深い気がした。俺より優秀な子だとは思うけれど。女性に優しくしてくれるといいなと思う。
「春宮様とうちの子は仲良しで孫もたくさん生まれるからね」
光はそれが楽しみのようでニコニコしながら話した。
「へえ、おめでとうございます」
「いや兄貴の孫でもあるからね」
「あっそうか」
孫がたくさん……。何か想像できない気がした。
「たくさん生まれても、お嬢さんは平気なんだね」
「うん。平気平気」
「よかった」
体の丈夫な方なのかな。俺は葵さんと夕霧くんのことを思っていた。お母さんのいない子が珍しい存在になってほしい。今の夕霧くんがダメなわけじゃないけれど。葵さんが生きておられたら、今とは違う夕霧くんが見られたのだろうか。
「最初に生まれる孫が男の子で次の春宮になるんだよ。うちの子は后になるんだ」
「そう。おめでとうございます」
俺は光が未来の春宮の祖父になることを祝ったが、ずっと気になっていたことをつい尋ねてしまった。
「冷泉さんにお子さんはできないのかな」
「在位中はね」
「在位中はって……」
俺は驚いて光を凝視した。
「院になると娘ができるんだ。息子は遅くて。五十代」
「五十代……」
冷泉さんを深く傷つけた予言の正体はこれではないか。怖い本だと思った。十一から即位している若く健康な帝に一人の子もできないなんてことがありえるだろうか。あれほど仕える女性たちがいながら皇女すらお生まれにならないなんて……。
俺は今まで大きな勘違いをしていたのではないかと悲しくなった。女性を選り好みされないのは、彼女らが最も欲しがる子を授けられない運命をご存じだったからではないか。誰か一人でもお気に入りを作ってしまえば、その人が責められることにもなりかねない。すべてを女性たちに合わせ別け隔てなく付き合うことで、子ができないのは彼女たちのせいではないと伝えたかったのではないか。「誰の子かは選べるかもしれない」というお言葉も。ご自身のつらい運命に抗いたかったのかもしれない。
「後嗣が生まれてほしいんだけどね」
光もかなり残念そうにつぶやく。
「俺が悪かったのかな……」
光はかすれた声で言うと悲しげに目を伏せた。冷泉さんは帝の孫だが、子ではない。血筋としては直系なのに。続いてはいけないのだろうか。
「俺が帝になるのは良くないって昔相人に言われたことがあってさ。気が進まなかったんだ。でも俺が帝になってたら……変えられたのかな」
光が即位したとして冷泉さんの運命を変えられたのかどうか。俺にはわからなかった。ただもし藤壺さんが入内されず、光と普通の恋人同士になれていたら。冷泉さんは即位なさるよりずっと幸せだったのかもしれない。
「俺が何とかするから、つらかったら譲位しようと前から伝えてるんだけど。冷泉さん『最後まで予言通りにしたい』ってきかないんだ。『私のことは気にされなくていいですから』って」
そのお言葉に俺は胸が塞がる思いがした。譲位しても権力を失うだけで何も残りはしない。それならせめてご自身の役割は全うしたいお気持ちなのかもしれない。
「冷泉さん、つらいだろうね」
俺は冷泉さんの御胸中を推し量ろうとしたが、到底無理だと思った。苦しかった。彼の子は譲位後にしか生まれない。「帝としては」残せぬ血だと告げる予言に思えた。その運命をご存じの上で、十四歳から生きてこられたのか。
「冷泉さんの御世も終りが近いの?」
「あと八年だね」
「八年……」
もっと長くいて頂きたいけれど。俺たちは冷泉さんのご厚意に甘えすぎたのかもしれない。子を残すことが全てではないと俺は思っているけれど、これではあまりにも彼の存在を否定して、繋ぎとして利用し使い捨てている感じがした。彼に守られて平穏無事に暮らしている俺たちには孫まで生まれるのに……。
尽くすだけの未来を知りながらこれほどの治世を下さるなんて、俺ならとてもできないだろう。なぜ彼一人がそこまで背負わなければならないのか。そんな運命を見せられたらバカバカしくて、俺なら間違いなく即出家する。誰の指図も受けないし後のことなんて知るもんかと思う。
「もっと楽になってもらえるように、何か考えるわ」
光は前を見据えながらつぶやいた。あと八年、どんな恩返しができるだろう。俺も何かお力になりたい。冷泉さんがお喜びになられることって何だろう。俺は夕霧くんの幸せしか思いつかずに。改めて冷泉さんの偉大さを思った。
072 仲良し巻
光から「二月十日に来て」と呼ばれたので俺はまた六條院へ伺った。春雨が上がった後だったので、草木に柔らかな水滴が乗っている。紅梅も盛りに咲いていい香りを放っていた。
「こんにちは。春だね」
「いらっしゃい」
俺が光とのんびり話していると
「兵部卿宮様が来られました」
取次の女房が教えてくれて、それとほぼ同時に蛍は入ってきた。
「いとけぶたしやー」
「早えんだわ。まだしてねえから」
「だって煙たいことわかりきってんのに」
「???」
蛍は未来を知っているせいか、変わった台詞を言いながら俺の隣に座った。
「さて、俺とお前の仲良し巻なわけだが」
光が蛍を見ながら言うと
「めっちゃ嫌」
「俺も嫌」
蛍と光はほぼ同時に声をそろえて顔をしかめた。
「仲良いね」
俺は昔から相変わらずな二人に思わず苦笑する。この二人は本当年取らないな。
「でも薫物合わせはしような。うちの娘のために」
「娘さんのためならしょうがねえなー」
蛍の優しさも相変わらずで、俺はこの二人といると安心するなと思った。
「沈の箱見してー」
蛍がそう言うと光は早速雅な手箱を取り出して俺たちに見せてくれた。瑠璃の杯が二つ据えてあって、大きく丸めた香が乗っている。箱を覆う布も綺麗だ。
「綺麗だね」
俺が思わず感嘆すると蛍に注意された。
「すー兄それ俺の台詞ね」
「ごめんごめん」
台本を読んでいないから難しいけれど、今日ここに本当は俺はいないはずなのでなるべく黙っておかないと。廊下の方では夕霧くんが誰かからの文の使いに酒を勧めている。
「そうそう、朝顔さんに返事しないと」
「お前まだ付き合いあんの?」
「文通相手さ」
光は俺をチラと見て微笑むとサラサラと文を書いた。
「この年になるとさ、清い男女交際もいいもんだよね」
「相手にされなくなっただけだろ」
「まあね」
蛍の悪口も聞き流しつつ、今日の光は機嫌が良かった。
「裳着の腰結は中宮様で決まりか」
「うん。あの子は将来后になるからね」
「さすがだなーおい」
自信満々の光を尻目に、蛍は軽く肩をすくめる。臣下の娘さんの腰結に中宮さまなんて普通はありえないことだけれど。光は普通の貴族ではないし、中宮さまの親代わりだから実現したのかな。
◇◇◇
「夕暮れに薫物合わせするね」
光が女房を介して六條院に住む女性たちにそう知らせると、かねてから準備してあったのかいろんな薫物がぞくぞくと集まってきた。複数の香を上手く調合して作られたものらしい。
「俺香なんて気にしたことねーんだけどな。俺判定でいーの?」
蛍はそう謙遜しているが、蛍の衣からもいつもいい香りがするので嗜みとして自然と身についているのだろうと思った。彼は絵合のときと同じく、今日の薫物合わせの判者を任されているようだ。集まった薫物は火を付ける前からほのかに良い匂いがしていて、温めて香りを嗅ぐのが楽しみだった。
「夕霧、あれとってきて」
光が頼むと夕霧くんが即座に指示を出し、惟光さんの息子さんが渡り廊下の下辺りから何か掘り出してきたので俺は驚いた。
「土に埋めて隠してたの??」
「匂いがバレるからね」
光が得意げに言うので俺はすごいなと思った。そこまでして秘匿してたのか。その掘り出された物を夕霧くんが受け取り光に差し出した。相変わらず鋭い目つきで無駄のない動きだった。
「夕霧くん、光の側近みたいだね」
俺は感心してつぶやいた。あの光に反抗していた夕霧くんが……。どこか隔世の感がある。
「背後から刺してきそうな側近だけどね」
光は苦笑しているがやっぱりどこか嬉しそうだった。あの鋭い目で自分を見張っててくれるの、嬉しいだろうな。俺も見張られたいなと思うくらいだった。
「やりにくいなー。どうやって決めんだよ」
薫物が温まり室内に香りが広がると、蛍は涙目になりながら言った。
「全部いいに決まってんのに……。この黒坊はいいな。あと侍従」
決められないと言いつつも、クンクン匂ってすぐ判断している。
「梅花はまさに春って感じだな。荷葉はあっさりしてて夏向きだし」
蛍は最後に残された一つに少し目を見張った。
「なんか凄そうなのきたな」
百歩という名の通り、しつこくはないがだいぶ遠くまで届くような香りで、俺も面白いなと思った。
「こんなのつけたらすぐバレるな」
「忍び歩きには向かなそうだね」
俺も苦笑して、でも素敵な香りだと思った。
「みんな違ってみんな良い! これで満足か」
「雑だなあ」
光は蛍のざっくりした判定に苦笑しつつ、どの女性の作も褒められて嬉しそうだった。
「さ、さけさけー」
月が昇ると酒が出されて皆で飲んだ。夕霧くんのそばには柏木くんも来ている。
「柏木くん」
俺は思わず声をかけたが、柏木くんはいつものように優しく笑って頭を下げた。予言を読んだはずだがそれほどショックは受けてないのかな。何か打開策が見つかったのだろうか。俺は期待と不安の入り混じった複雑な気持ちだったが、今日の宴に相応しくないと思いできるだけ隠した。
春の夜空に月が霞んで涼しい風が花の香を運んで来る。光のいつもしている甘い香も相まって酒席はいい匂いがした。
「合奏やろー」
光より先に蛍が言い出して得意の琵琶を取った。光は箏、柏木くんは和琴、夕霧くんは横笛だ。俺はこの場に居ないはずの人で良かったと思いながら皆の演奏を聴いた。柏木くんの和琴は父内大臣さんを超えるような腕前で俺は聴き惚れた。夕霧くんの横笛もキリリとした横顔によく似合っていて、ずっと聴いていられる。柏木くんの弟さんが上手に歌うので蛍と光はしきりに褒めてあげていた。
「こういう平和がさ、ずっと続くと良いよねー」
光が蛍に盃を差すと、蛍は美味そうに飲んだ。そうして隣の光に盃を戻すと、すぐ酒を注ぎ返す。
「つかの間の休息ってやつよな」
光は盃を干すと次は柏木くんに差した。
「いつまでも片付かない奴もいますしね」
柏木くんも美味そうに酒を飲むと、今度は夕霧くんに盃を差す。
「……俺?」
夕霧くんはキョトンとすると、ぐいと酒を飲んだ。飲む姿も一人前だなあ。俺が微笑んで皆を眺めていると
「どうぞ」
夕霧くんが飲み終わった盃を俺に渡して酒を注いでくれた。嬉しかった。夕霧くんと酒が飲めるようになったなんて……。俺は飲み干すのがもったいないような気もちで、しみじみと味わって飲んだ。
073 裳着と元服
明け方近くになって蛍と俺が帰ろうとすると、光は俺たちにお土産をくれた。
「お前の服もらってもよー」
「文句言うならやらねえぞ」
蛍は悪態をつきながらも上等な直衣一式をもらっていた。息子さんへのお土産かな。新しい薫物も二壺添えてあって。
「俺はいいよ」
「裳着の前祝いさ」
光は予言にない俺にまでお土産をくれる。
「息子たちによろしくな!」
光は帰る蛍に手を振った。
「気張れよ政治家ー」
蛍もじゃあねと手を振って夜道を別れた。この酒宴からほどなくして光のお嬢さんの裳着は行われた。やはり腰結は中宮さまがして下さったそうだ。
「将来お后様になられる方ですから」
と冷泉さんも仰っていたので、中宮さまも信じたのかもしれない。冷泉さんも実の妹であるこのお嬢さんについて優遇してあげたかったんだろうな。
春宮の元服も二月二十日頃に行われた。彼は今十三歳だが昔の俺よりよほど大人びて頼もしく見える。ひとえに母である承香殿さんの養育の賜物だと俺は思った。彼女にはいくら感謝してもしきれない。添臥には左大臣の娘さんが来てくれて、麗景殿女御となられた。
光はお嬢さんの局を桐壺と決めて内装を綺麗に新しくしていた。春宮は光のお嬢さんに早く会いたいようで気にかけていたが、入内は四月に決まったらしい。
光は普段亡きお母上のことを口に出さないけれど、やはり思い入れのある桐壺から后を出したいんだなと俺は光の執念を感じた。今思い出しても申し訳ないことだけれど。桐壺から后が出てくれたら、祖母である桐壺更衣も喜んで下さるだろうか。
◇◇◇
光は入内する姫君のために字の手本を集めているようで、綺麗な表紙で中身が白紙の冊子を皆に配ってくれた。
「自由に書いてね」
そう言われても、将来后になられる方のお手本になる字なんて俺にはとても書けそうにない。
「私が書きましょうか?」
「お願いできますか」
俺が困っていると朧月夜さんが助け舟を出してくれたので、お言葉に甘えることにした。
「お上手ですね……」
朧月夜さんはサラサラと、流れるような字体で歌を書く。
「何でもおできになるんですね」
俺は今更ながら感心して
「俺にはもったいない方でしたね」
離れて下さいと言ってばかりだったことを反省した。朧月夜さんはフフフと笑うと
「朱雀さまはとっても魅力的です♡」
筆を持ったまま抱きつこうとするので、俺は彼女の墨を避けるのに必死だった。
「すー兄あそぼー」
そこへちょうど蛍が誘いに来てくれたので、俺はそそくさと準備すると蛍と共に六條院へ向かった。
「荷物多いね」
「あいつにあげる本ね」
蛍は嵯峨帝時代の万葉集や延喜帝時代の古今和歌集など、装丁も見事で貴重な本を持ってきていた。
「すごいね」
「俺のご先祖が集めたみたいだね」
蛍は事も無げに言うと、
「たのもー」
六條院に着くなり光のいる寝殿まで歩いて
「ほいよ」
光にその貴重な本を惜しげもなくあげてしまう。
「本当にいいの?」
相当貴重な本なのか、光も遠慮がちにきいた。
「うちには手本が必要な娘もいないからねー」
蛍は気軽に言ったが、これも予言通りなのだろうか。
「お后様が持ってたほうが長持ちするでしょ」
蛍はこの本を長く保存してもらうために譲渡するようだった。
「ありがとう」
光は本をしっかり受け取ると嬉しそうに笑った。
「で、お前が書いた字は?」
「忘れたー」
「ウソつけ」
光が言うので蛍は薄い冊子をポンと床に置いた。光の部屋にはいろんな人の書いた冊子が所狭しと広げられていて、足の踏み場に困るほどだった。
「おおー」
光は蛍の字をじっくり見ていたが
「やっぱ上手えな」
感心して褒めた。
「こんな字書けるなら早く言えっつーの」
「男のお前に書く字じゃねーんだよ」
そのやりとりを聞いて俺は驚いてしまった。蛍は書く相手によって筆跡を変えているのか……。俺も光の横からのぞかせてもらったが、「どうだ上手いだろ」と主張する感じがなくて、あっさりと美しく余韻のある良い字だった。女性からもらったら嬉しく、もっと読んでみたいと思える字体だ。
「こんなことしなくても后になれんだからいいんじゃねーの」
「俺の娘として字が下手なのは嫌なんだよ」
光は父親らしいことを言って
「もらっとくね」
上機嫌に蛍の冊子を手に入れた。
「兄貴は持ってきた?」
「朧月夜さんに書いてもらったけど」
「だと思った」
光はそれも想定済みだったようで俺から冊子を受け取ると、パラパラとめくって見た。
「懐かしいなあ」
しんみりした表情でそう言うから、彼女が俺の邸にいるのが申し訳ない気持ちになる。俺出家するつもりだし、彼女を六條院に住まわせてもらえたりしないかな。俺がそんなことを考えていると
「これ誰の字よ?」
蛍は一冊の冊子を手に持って熱心に見ていた。
「夕霧だよ」
光が答えると
「すげー」
蛍はだいぶ気に入ったようで何度も褒めた。
「勢いがすげー。太政大臣感あるわ」
夕霧くんのは絵と一緒に歌も書いてあって、清らかでのびのびした字体だった。夕霧くんの真っ直ぐな性格がよく現れているなと俺は思った。
「妹向けっつってんのにこの字だからなあいつ」
光は苦笑しつつ、夕霧くんの字の良さを認めているようだ。
「お前息子さん来ないの?」
「あー遊びに行っちゃった」
「可愛いな」
光は用意していた唐の本を沈の箱に入れると、雅な高麗笛を添えて蛍に渡した。
「土産な」
「あんがとー」
「息子もいいもんだよな」
光がしみじみ言うので俺は嬉しく思った。娘さんがもうすぐ入内してしまうので少し寂しいのかもしれない。冷泉さんがおられるけれど、光が手元で育てられるのは夕霧くんと娘さんだけだから。その夕霧くんも十八歳になって、光を凌ぐほどの背格好になった。心はもう親離れしているのかもしれないな。黙って光に仕える夕霧くんは光より大人のようにも見えた。
074 藤原の血
光はお嬢さんへ渡す冊子をやっとのことで選り分けると一息ついた。俺も光と一緒に部屋の片付けを手伝う。
「この後さ、俺が夕霧にかなり長めの説教する場面があんのよ」
「天下に浮き名垂れ流しのオメーがどのツラ下げて説教すんだよ。あそこは笑う所だろ」
蛍はそう言って苦笑している。
「いや失敗したからこそ言える教訓があんじゃん?」
「今更親ぶろうとすんのやめろよな。まーた嫌われんぞ」
「逆よ逆。今が親ぶれる最後の機会だからさ」
「面白い予言書なんだね」
俺は怖くて読みたくはないものの、面白い箇所もあるようだと思って微笑んだ。
「まあね。夕霧は特に予言と全然性格違うから」
光は苦笑して教えてくれる。
「真面目なところくらいかな、同じなのは」
光はそう言いつつも、今の夕霧くんにとても満足している様子だった。
「夕霧の結婚どーすんの?」
「それな」
「予言ではもうすぐなの?」
「すぐすぐ。藤の花が咲いたらよ」
「あそこ藤原氏だからなー」
「すぐだね!」
俺は嬉しくなって思わずニコニコしてしまった。夕霧くんが結婚かあ。葵さんが生きておられたらすごく喜んだだろうな。
「言い忘れてたけど、あいつ子ども十二人できるからね」
「十二人?!」
「雁ちゃんだけで八人産むから」
「すごいね……」
俺は思わず絶句してしまった。八人って、お腹で育てて産むだけで十年以上かかる。
「すごいのよあいつの繁殖力は」
「繁殖力」
「いくら藤原でも草木扱いはやめような」
蛍は苦笑して光の発言をたしなめた。
「でもすげーよな。男も女もたくさんいるから、あいつの子供らで官位も宮中も埋まんだろうな。政治家として強すぎるわ」
「そこは葵と雁ちゃんの血よ」
「ありがてえなー」
そういえば内大臣さんもお子さんが多かったな。葵さんは彼の妹だし、彼女も長生きしたら子沢山だったのかもしれないな、なんて俺は思った。藤原氏の血は強いようだ。
「あいつ雁ちゃんに手出してないってマジなの?」
「らしいよ」
「すげーな。雁ちゃんもう二十歳超えてんだろ? ずっと清純交際かよ」
「待たせすぎだと思うけどね」
光は眉根を寄せて迷惑そうな顔をした。
「他の貴族から婿取りの縁談はわんさかくるしさ」
「それも予言通りかよ」
「予言以上に来てんだわ。あんないい男が十八までフラフラしてたらさ。あらぬ疑いもかけられるっつーのに」
「実の息子褒めすぎだろー」
「顔が良いのは事実だからな」
光が夕霧くんを褒めてくれるので俺はすごく嬉しかった。葵さんに聞かせてあげたいな。
「兄貴めちゃくちゃニコニコしてんな」
「うん。もっと褒めて」
「能天気だなホントに。俺の幸せも今年限りだっつーのに」
「……?」
その言葉の意味を俺が尋ねるより早く、光はもう話を続けていた。
「とにかく、内大臣が言ってこなけりゃこっちから話つけて結婚はさせるわ」
「そっか。楽しみにしてます」
俺はもう夕霧くんが結婚できた気がしてほっと胸をなでおろした。
「夕霧が内大臣さんちで婚礼した後うちに帰ってくる日があるけど、兄貴も会う?」
「いや、いいよ。親子水入らずで過ごして」
光が気を利かせてそう言ってくれたけれど、俺は丁寧にお断りをした。
「じゃまたあいつに俺のありがたい説教でも聞かせてやるかな」
「懲りねえなー」
蛍は苦笑して。でも夕霧くんを婿に出す光の寂寥には理解を示しているようだった。
「娘も息子も一気にいなくなっちまうな」
光はそれが嬉しくもつらいようで、さり気なく言うと少し遠くを眺めた。俺も光の春の庭を眺めて。春は別れと始まりの季節だなと思った。
075 夕霧結婚
三月二十日は夕霧くんの祖母である大宮さまの命日で、極楽寺で法要が営まれた。大宮さまは父上の妹で俺の叔母にあたる方だが、俺まで行くと大げさになってしまうので葵さん在世時お世話になった女房へそっとお悔やみの品を贈る。俺たちはたいてい一生京から出ずに生活するので、長生きするほど親類は増えていく。おじおばや甥姪、いとこまで数えだしたら京じゅう親類だらけだ。
葵さんが亡くなられてから、祖父の大臣とこの大宮さまが夕霧くんを育てて下さったんだよな。俺は帝だったこともあり遠くから見守ることしかできなかったけれど、夕霧くんが無事に育ってくれて本当に良かったと思った。葵さんのお力添えもきっとあったと思う。俺は皆様に感謝しながら西の空へ手を合わせた。
そして玉鬘さんに続いてまた祖母の大宮さまがご縁を結んでくれたらしく、この法要で内大臣さんは夕霧くんに接触し、和解の気持ちを伝えたらしかった。
「夕霧くんは殴られたこと怒ってるの?」
「いえ、全く」
いつか尋ねたら、夕霧くんは澄んだ瞳ではっきり否定してくれた。
「むしろ殴るのが正しいと思います。俺が同じことされても殴ります」
夕霧くんは内大臣さんのように派手好き、競争好きではないが内面は通じるところもあるようだ。内大臣さんは葵さんの兄で夕霧くんの伯父だから、意外と似ている部分もあるのかな。夕霧くんには何の遺恨もないが内大臣さんのほうで立派になった夕霧くんに遠慮して、出方を見ていたのかもしれない。
四月になり藤が美しく咲く頃になった。俺は朝晩仏間にこもって亡き方々へ祈った。夕霧くんのお祖父さんお祖母さん、葵さん。夕霧くんが無事結婚できますように。お力をお貸し下さい。そんなふうに祈っていたある日、
「宰相中将殿がお見えです」
取次ぎの女房に言われて俺は視線を上げた。振り向くと凛々しく、いつもより輝いて見える夕霧くんが立っていた。
「お久しぶりです」
「こんにちは」
俺は頭を下げると夕霧くんの席をもうけ、一緒に座った。
「この前雁と結婚しました」
「おめでとうございます」
ついにこの日が来たかと俺は感慨深い気持ちで胸がいっぱいだった。
「三條殿を修理して、雁と住むつもりです」
「お祖母さまの住んでおられたお邸だね」
「はい。俺も雁もそこで育ったので」
俺は何も言えずにしばらく言葉を止めた。顔を両手で押さえて。言葉が見つからない。
「良かったね……」
何か言えば涙がこぼれてしまうのに、お祝いを述べたくて仕方なかった。
「お祖父さまもお祖母さまも、葵さんも……喜んでおられるね」
ぼろぼろ、ぼろぼろあふれる涙を手で拭って、俺は今まで生きてきた中で一番の喜びを感じていた。童殿上姿の夕霧くんに初めて会ったときのこと、彼が光に内緒で俺の家に来てくれたこと、彼の成長を今まで見守ってこられた幸せを痛いほど感じる。
「本当に、ここまで苦労したね……よく耐えて」
生まれてすぐ母と死に別れ、六位から始めさせられ、大学寮で勉強して。夕霧くんには他の貴族にはない苦労が山のようにあった。父である光との確執も。俺がしたことのない苦労ばかりを重ねてきたこの若者を、俺は心の底から尊敬していた。
「夕霧くんは俺の自慢の甥です。俺は誇りに思います」
俺は涙を拭くとはっきりした口調で言った。
「ありがとうございます」
夕霧くんは落ち着いた声で礼を述べて。俺の涙が乾くまで、しばらく待っていてくれた。
「冷泉さんにはお会いした?」
「これから行くところです」
「先に来てもらってすみませんでした。冷泉さんにもよろしくお伝え下さい」
俺は頭を下げながら、誰より早く伝えに来てもらったことに驚き感謝した。
「柏木くんは元気かな?」
「ええ。最近釣りをしています」
「釣り?」
俺は少し驚いてしまったが、夕霧くんは鋭い目の奥に笑みをたたえて言った。
「狩衣で馬に乗って。川で釣り糸を垂らしているようです」
「すごいね」
京の外でそんなことができるのかと俺は驚いた。川で釣りかあ。魚を釣り上げる手応えはどんなものなんだろう。俺は体験してみたい気がしたが、泳げないのでやはり怖い気もした。柏木くんは冒険心があるな。許可なさる冷泉さんもお優しいなと思った。
「妹の入内は四月二十日頃です」
夕霧くんはそれだけ教えてくれると去っていった。入内か……。春宮は光のお嬢さんに優しくしてくれるだろうか。こういうことは親子でも話すものではないので俺は再び祈るしかなかった。
二人はとても仲良しで孫が生まれると光は言っていたっけ。春宮が元服してお嫁さんをもらってから、俺はあまり会うのも迷惑かと思って御所へは通わないようにしていた。あの子も夕霧くんと同じで確実に親離れしてきていると思うし、俺がいては邪魔なこともあるだろう。これからは若い人たちに任せて、彼らの活躍を楽しみにしながら年寄りは静かに生きようと思う。
076 ダブル行幸
光のお嬢さんの入内は近年誰も見たことのないような素晴らしいものだったらしく、朱雀院の女房たちまでがその噂をしていた。光の奥様ではなく、姫君の御母上が御所に付き添われたようだ。位の低い人だと噂する女房もいたが、それ以上に春宮が姫君を気に入り通っているようだった。やっぱり予言は当たるんだな。俺はほっとしながら、若い二人の幸せを祈った。
「朱雀さん、六條院へ参りましょう。」
夏も過ぎて秋に入ろうかという頃、俺のもとに冷泉さんから文が届いた。
「父上が来年四十歳なのでそのお祝いを致します。何より夕霧くんの結婚お祝いを盛大に致します。朱雀さんもぜひいらして下さい。」
いつもクールな冷泉さんにしては力の入った文だと思った。夕霧くんのことになると冷泉さんの本気度が違う。ただ帝と院が同時に六條院へ行って大丈夫だろうか? いらして下さいって書かれているけれど光の邸だし……。俺は受け入れる側の光の苦労を思った。帝の命なので伺うことは確定しているのだが、一応光にも文できいてみる。
「冷泉さんの仰せだから槍が降っても伺うんだけど。行幸に俺も行って大丈夫かな?」
「全然大丈夫だよ。来てくれると嬉しいです。俺の歳なんて祝わなくていいからね。夕霧祝おう。」
光はさすがにかなり前から準備しているらしく、快く承諾してくれた。ドキドキするなあ。光の六條院はたしかに広いけれど、それでも帝と院が同時に来るなんて異例じゃないかな。
秋になると冷泉さんは光を太政天皇の位になぞらえ御封を加えられた。年官年爵も添えられて。光の扱いは元々重いがさらなる大盤振る舞いだ。これも予言通りだろうか? 光はどうやら成功者として安泰な余生を送るらしい。内大臣さんは太政大臣になり、夕霧くんは宰相中将から中納言になった。彼の地位もだいぶ昇ってきたな。冷泉さんの本気を感じる。
◇◇◇
十月二十日頃、六條院へ行幸があった。冷泉さんは朝から行かれていた。光も大変だな……帝がお越し下さることは栄誉ではあるんだけれど。
俺は時間差をつけるために午後になってから伺った。六條院は反橋や渡り廊下に錦が敷かれそこら中に雅な幕が張り巡らされて、まさにお祭り状態だった。池の東側には鵜飼がいたし。夕霧くんの結婚の祝われ方がすごい。
俺と冷泉さんは秋の町のよく紅葉が見える場所に御座をもらった。光が一段下に座っているのを冷泉さんが宣旨を出されて、俺たちの間に座ってもらう。今日の冷泉さんは容赦ないな。
「本当に、即位されなくて良かったですか」
冷泉さんが優しく耳打ちなさると、光は苦笑して首を振った。光は為政者として傑出した才能を持っているので、即位しないのは勿体ないように俺も思うけれど。光自身は今の暮らしに満足なんだろうな。二人で何か話したのか、冷泉さんも前より少しお元気そうになられた気がした。
池の魚と鷹狩で仕留めた鳥が、帝の仰せを受けた太政大臣さんの命で調理して出された。夕霧くんと雲居雁さんが結婚したことで、光と太政大臣さんの仲も戻ったようだ。政略結婚でもないのにすごいな。親王や上達部たちも来ていて蛍ももちろんいた。そのうち酒がまわり皆が酔いだす。
「昔もこういう宴があったね」
「紅葉賀ね」
俺と光は二十年以上前のことを思い出していた。懐かしいな。本当にあっという間に感じる。日が暮れかかると楽所の人も来て心地良い音楽を奏でてくれた。殿上している童たちが舞ってくれる。太政大臣さんの十歳くらいの息子さんが上手に舞って、冷泉さんは御衣を脱いで下賜された。太政大臣さんはお礼の舞を披露する。
「青海波を一緒に舞ったこともありましたね」
上の席から光が話しかけると太政大臣さんははにかんで俯いた。若い頃は並んでいたように見えても、ついに届かないんだな……。彼だって元左大臣の長男で母親は帝の妹だ。従弟で皇子の光が臣下にされていなければ彼の出世はもっと早かっただろう。彼らの差はほんの僅かに過ぎない。
限られた官位を肉親で奪い合うこの仕組みは、いつか必ず限界がくる。熱意や能力があるにもかかわらず報われなかった人々の恨みが必ずたまる。皆それはわかっているのに今遅れを取るわけにもいかないので、やめられない。俺はこの京もいつか終りがくるのだろうと思った。きらびやかな見た目でごまかしているだけで、ここも一つの地獄なのかもしれない。
夕風が吹いて紅葉を散らすと、広い庭は錦を敷きつめたようになった。俺たちの前には楽器が出されて。やっぱりこの流れだよな……俺がドキドキしていると
「はいはい、そろそろいいかなー」
蛍が盃を持って冷泉さんと光の間にずいっと入ってきた。
「ずいぶん台本通りにやりましたねー冷泉さん」
「もっと派手でも良かったんですけどね」
冷泉さんはだいぶ機嫌良くニコニコと笑っておられた。軽く目配せなさると、下に控えていた夕霧くんが冷泉さんの隣にさり気なく座る。
「皆酔いましたか」
「太政大臣は寝てますね」
夕霧くんが答えると冷泉さんは嬉しそうに微笑まれた。
「夕霧くん、ご結婚おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
冷泉さんは始終嬉しそうで、本当に夕霧くんが大好きでいつも応援しているんだなと思った。夕霧くんは少し酔っているのか耳が赤かったが、目つきはいつもより悪い。それが格好良く見えるのも面白かった。
「幸せだね」
俺はしみじみつぶやいて。この幸せがずっと続けばいいのにと思った。
「予言書ここで終わってたら良かったのになあ。俺今が一番幸せだもん」
光も俺と同じことをつぶやく。光は少し悲しそうに酒を飲んでいた。
「この後何か起きるの?」
俺は不吉な予感がして、つい光に尋ねてしまった。
「娘を入内させて息子が結婚して、肩の荷を下ろした人生の円熟期に爆弾落としてくんのが兄貴なのよ」
「俺?!」
俺はびっくりしてつい大きい声を出してしまった。
「そうだよ。俺の悲劇の裏には常に兄貴ありなのよ」
光がいかにも悲壮感漂う様子でそう言うので、俺までつらくなってしまう。
「そうなんだ。ごめんね……」
「仕方ないよ。俺たちそう定められた運命なんだろうね」
光はぐいと盃を干すとしばらく前を見つめた。予言書の作者は俺が嫌いなのだろうか。
「俺消えようか」
俺は六條院の広い池を思い出して。俺なら沈めるのではないかと思った。
「だめだめ。これ以上不確定要素増やさないの」
光は酔いながらも不機嫌そうに俺に注意してくれる。どうすればいいだろう。俺は怖くて読まなかった予言書の内容をついに訊かなければならない時が来たのだろうと悟った。
077 孤独な宴
俺はしばらく黙ると、意を決して尋ねた。
「俺はこれから何をする予定なの?」
「三宮さんの将来を心配して俺に降嫁させんの」
「光に??」
俺が驚いた顔をすると、光は投げやり気味に苦笑した。
「おかしいだろ? 若い娘の将来を心配しながら、なんで三つ下の俺にくれんだよ」
すごく迷惑そうに言うので俺は申し訳なく思ってしまう。
「奥様にご迷惑だったでしょう」
「そうなのよ。大迷惑なのよ。わかってくれる?」
光はだいぶ酔いが回ってきたのか、俺に絡むように話した。
「せっかく俺が苦労して作り上げた女たちの序列がさ。三宮さんが来ることで崩れるわけよ。俺は紫を常に一番にしてやりたいのにさ、できないの。それが一番苦痛なんだよ。そのせいで紫は体調崩すしさ。紫は俺より先に死ぬんだよ。俺はそれが一番嫌なの。先に死んでほしくないの。わかる?」
「すごくわかる……」
俺は深くうなずいた。残されるのはつらいんだよな。残すのはいいのかって話になってしまうけれど。先に死なれるのはどうしてもつらい。
「三宮を光にあげなければいいのかな」
「そう思うんだけどねえ」
光は眠そうになってきたが、俺の話をきいてくれた。
「柏木くんが亡くなるっていうのは、どういう」
「柏木が、俺に降嫁した三宮さんを寝取っちゃうんだよ」
「そうなの……」
「それに気づいた俺が柏木を睨むわけ。そうすると柏木がビビって体調崩す」
「すごい筋だね」
「だよねえ」
光はそこまで言うとコクリコクリと舟を漕ぎはじめ、スヤスヤ眠ってしまった。隣の蛍も寝ているようだ。
「朱雀さん、お強いんですね」
冷泉さんと目があって、俺は少し苦笑した。
「酒に酔えない性質で」
「私もです」
俺は静かに座を立つと夕霧くんの隣に座った。夕霧くんも酒には弱いのか、下を向いて眠ってしまっている。俺は夕霧くんを挟む形になるが、冷泉さんとヒソヒソ声でお話した。
「三宮を連れてどこかへ隠れましょうか」
「三宮さんと柏木くんの間には男子が生まれ、父上亡き後もその子を中心に予言は続いていきます」
「そんなに重要な人が」
俺はしばらく考えていたが、最も単純な事を言った。
「三宮を柏木くんに差し上げましょうか」
「柏木くんには二宮さんが降嫁する予定です」
「二宮……」
俺の二番目の娘だった。母である一条御息所さんと住んでいるはずだが。
「柏木くんは三宮が好きなのでしょうか」
「三宮さんを得られず、代わりに二宮さんを娶る筋です」
「……」
二宮と結婚しておきながら三宮を寝取って子をもうけるというのはさすがに酷すぎると思って俺は黙った。まだ起きていないことに文句を言うのもおかしいが。
「先に三宮を嫁がせます」
「そうですね」
冷泉さんは参加者のほとんどが眠ってしまった酒宴を見渡しながら微笑まれた。
「お二人さえよければ」
俺も酒宴を見渡したが、昼間はいた柏木くんの姿が見えないようだった。先に帰ってしまったのかな。酒を飲んで夜ふかしする宴は体に悪そうなので出なくていいとは思うが。
「朱雀さん、お酒が入った方が冷静ですね」
冷泉さんにそう指摘されて俺は恐縮した。
「どこにも逃げ場がない気がして。妙に腹をくくってしまうんです」
酒を飲んで陽気になったり悲観したりということは俺にはなかった。ただ孤・独・になった感覚だけがあって。目が冴えるような気すらする。
「三宮にもきいてみます」
三宮は柏木くんを好きになるのかな。死さえ回避できるなら多少無理を言っても嫁がせるべきだろうか。三宮を先に嫁がせると二宮はどうなるのだろう。予言の俺も悩んだのだろうが、現実の俺も考え込む。
「今まで予言の死を免れた者はいません」
冷泉さんは寝ながら肩にもたれてくる夕霧くんに微笑みつつ、俺に仰った。
「何をしても、柏木くんの死は避けられないかもしれませんね」
何をしても結局は死ぬか。人間皆死ぬ。遅いか早いかだ。死期を知った柏木くんに何ができるのか。柏木くんは何を望むのか。酒の甘い匂いが漂う中、俺は静かに考えを巡らせていた。
078 降嫁の約束
豪華な行幸も終わってほどなく、俺は柏木くんの訪問を受けた。
「こんにちは」
「お時間を頂きまして、ありがとうございます」
柏木くんは夕霧くんと一緒に来ていた。彼はいつもの優しい笑顔で俺に挨拶してくれる。俺は柏木くんと夕霧くんの座を設けて二人にすすめた。
「釣りは楽しんでますか」
「はい。なかなか釣れませんが」
柏木くんは日に焼けて元気そうな顔をしていた。良かった。今を楽しんでくれているならそれが一番だ。
「今日は、例の予言の件でご相談があって」
「俺も。お話したいと思ってました」
俺と柏木くんは互いに見つめ合ってしばらく黙った。夕霧くんが真っ直ぐな瞳で俺たちを見守っている。俺は柏木くんが話し出してくれるまで待っていた。柏木くんは考えながら、慎重に言葉を選んで話してくれる。
「三宮さんと文を交わすことをお許し頂けますでしょうか」
「もちろん、文を下されば嬉しいです」
俺はゆっくりうなずくと息を整えてきいた。
「三宮をもらって下さいますか」
柏木くんはハッとした表情で俺を見つめると、しばらく考え込んだ。
「三宮さんは俺のことを気に入って下さるでしょうか」
「不安ですか」
柏木くんはだいぶ長い間黙っていた。
「あの予言では、俺はかなり強引に三宮さんと関係を持つんです。怯える彼女を無理やり……。俺にはとてもそんなことはできません」
「三宮のことを思いやって下さって、ありがとう」
俺は胸が締め付けられる気がした。だいぶ厳しい予言だ。
「三宮さんと文を交わして、俺の気持ちを伝えてみます。お気に召さないようなら……諦めます」
柏木くんはためらいがちに、でも意を決した様子で言った。
「こちらこそ、裳着もまだの娘ですが……。柏木くんのお気に召さなければ、無理なさらないで下さい」
俺は話しながら、つい夕霧くんを見つめた。
「俺の周りは予言と違うようで。三宮も柏木くんの好みに合うかどうか……。少し覗いて見ますか」
「いえ、それは」
柏木くんは戸惑うと、遠慮がちに首を振った。
「申し訳なくてできません。裳着を済まされてもまだ文のやり取りが続いているようでしたら、そのうち機会もあるでしょうから……」
「気を使って下さって、ありがとう」
俺はお礼を言って頭を下げた。彼は真面目な人なんだと思う。柏木くんはふと顔を上げると俺を見つめて、強い調子で語った。
「ただ、俺のほうで気に入らないということは無いと思います。俺はずっと宮様と結婚したいと思っていたので……。その願いのために、もう二十三ですが一人で住んでいます」
「そうですか」
「あの予言を読んで一番驚いたのもそこでした。どうしても宮様と結婚したいと思っている点が今の俺と同じで……。もし三宮様との結婚をお許し頂けるならば、最愛の方としてお迎えします。三宮様に断られたとしても二宮様を所望するような不敬は致しません」
「……ありがとう」
俺は感謝で胸がいっぱいになった。二宮のことまで心配してくれて、誠実な人だと思う。予言の柏木くんもいい人だったのかもしれないな。ただ三宮のことがどうしても諦めきれず、苦しんだのだろう。柏木くんは俺をじっと見つめていたが、やがて悲しげに目を伏せると低い声で尋ねた。
「むしろ、死ぬのがわかっている俺が三宮様を頂いてもよろしいのでしょうか」
俺もしばらく考えた後、落ち着いた声で答えた。
「あの子には辛いことかもしれませんが……柏木くんがあの子を愛して下さるなら、俺の責任で差し上げます。後であの子が泣いても、俺が責任を取ります」
本人がよほど嫌っているのでなければ、親の責任で嫁にやることも必要なのかもしれないと俺は思っていた。自分一人で男を見定め、全てを決めるというのは大変だ。誰のせいにもできない。
「人間皆死にます。死ぬのがわかっているから愛さないということができるでしょうか」
俺は葵さんのことを思い出していた。もし葵さんが死ぬことを知っていたとしても、俺は彼女を好きになっただろう。死ぬことを知っていたなら、なおさら激しく好きになったかもしれない。
「ありがとうございます……」
柏木くんは必死に涙をこらえながら頭を下げた。俺も泣きそうで。でもここで泣いたら柏木くんの死を認めてしまうような気がして、意地でも泣きたくなかった。
「よろしくお願い致します」
「こちらこそ。ふつつかな娘ですが、どうかご指導下さい」
俺たちは互いに頭を下げて。これでいいのかわからないけれど、俺の中では一区切りついた気持ちでほっとしていた。
079 革命起こそう
十二月になると俺は三宮の裳着の準備を始めた。それほど派手にしなくてもいいかなと思っているけれど。本人の好みも訊いてみようか。
「唐土風の飾りをして下さると嬉しいです」
三宮がそう言うので俺はその希望は叶えようと思った。以前六條院の春の宴に伺ったときも庭の池に唐土風の舟を浮かべていたっけ。最近の流行なのかもしれない。
柏木くんとのやり取りは続いているようで、文の使いが毎日のように来ていた。交際は順調……なのかな。こういうとき母親がいてくれると助かるんだけれど。俺からはどうしてもきけないので、そっと見守るだけにしていた。
「朱雀様、院の大臣がいらっしゃいました」
「光が?」
院の大臣というのは太上天皇になぞらえられた光のことだった。帝になっていないのに院と呼ばれるのも何か不思議な気がするけれど。冷泉さんは父である光を院の待遇にはしたかったようだ。
「こんちは」
「光、珍しいね」
朱雀院に光が来てくれるのはめったに無いことなので、俺は驚いて席を設けた。
「外出も大変なんじゃない?」
「そうなんだよ、お付きが多くて」
俺は帝時代から人気がなかったし院になってからも身軽がよくて物々しい護衛は断っていたけれど。光は娘さんは春宮に入内させるし夕霧くんも将来有望だしで、どうしても追従する人が多い。こうして人払いするとき彼らには他の部屋で待ってもらっていた。
「すー兄たのもー」
そこへ蛍もやってくるので俺は驚くより先に嬉しくなって蛍の席も設けた。
「蛍まで。来てくれてありがとう。どうしたの二人して」
俺はつい浮かれて尋ねたが、光と蛍は俺をじっと見つめてしばらく何も言わなかった。
「……どうかした?」
「すー兄最近体調悪かったりしない?」
「いや、特に変わりないけど」
「急に出家したくなったりは?」
「ああ、出家はそろそろしたいね」
「待って!!」
俺が出家の話題を出すと光は両手を広げて全力で制止したので俺は目を丸くした。
「兄貴、柏木と三宮さんってどんな感じなの?」
「よくわからないけど、文は続いてるみたいだね」
「よし、行ける!」
光はぐっと拳を握ると、強い調子で言った。
「もうすぐ三宮さんの裳着だよね?」
「うん」
「予言ではその三日後に兄貴は出家するんだけど、まだしないで。俺・が・良・い・っ・て・言・う・ま・で・出家はしないで」
「う……うん」
光があまり強く言うので俺はその勢いに押されてうなずいた。
「裳着は盛大にしてあげるから」
「いやいいよ、別に」
「春宮様や冷泉さんからもお祝いがくるから」
「そこまでしなくても」
俺は苦笑したが、光と蛍には考えがあるようで二人で視線を交わした。
「三宮さんは柏木にあげるんだよね?」
「まあ……あの子が嫌がらなければね」
「一緒になるなら柏木の邸に降嫁させるね?」
「そう、だね」
「きちゃったなーこれ。歴史が動くぞ」
蛍は隣に座る光を肘で突いてワクワクしたように言った。
「兄貴、どうせならあの予言を引っ掻き回してやろう」
「うん……でも大丈夫? 誰か困ったりしないかな」
「へーきへーき。むしろあの予言通り進むほうが困んのよ」
「そうなの?」
「特に俺らの死後がね」
蛍がそう言うので、俺は怖いけれどどうしても聞きたいような気がして少し身を乗り出した。
「あのままいくと三十五年後には自殺未遂がおきんの。柏木の子も絡んだね」
「自殺未遂……」
あまりにも不穏な単語が出てきて俺は言葉を失った。
「恋愛の話だと思ってたんだけど」
「いや恋愛なのよ。ただ二人の男が一人の女を取り合って自殺未遂まで追い込むわけ」
「怖い……俺たちそんな怖い世界に生きてたの」
俺はショックでしばらく何も言えなかった。
「そーなのよ。俺たちの人生なんてその前・置・き・みたいなもんよ」
「自殺未遂への前置き……」
俺はなんという人生を送ってしまったのかと真剣に考え込んだ。
「その女を争う二人の男ってのが、柏木の子の薫と俺たちの孫の匂宮なんだ。薫は表向きは俺の子として育つんだけど、自分の出自に疑問をもってるちょっと暗い奴でさ。この薫をはっきり柏木の子として育てれば、もう少し明るい性格になるんじゃないかって」
「なるほど……その子が変われば未来も変わるかもしれないんだね」
「こいつら負の相乗効果を発揮すんだよなー。女の話題を共有すなっつーのに」
蛍は眉をひそめてまだ生まれてもいない子たちを批判した。
「ただ悩みのない薫ってのも面白そうだよなー。どんな子に育つんだろ」
「予言の内容をかなり変えちゃうわけだね」
「そうそう。どうせなら大幅に変更しよう。革命起こそうぜ」
光もいつになく興奮して嬉しそうにしている。
「それで光の奥様も救えるかな?」
「三宮さんがうちに来ないだけで正直かなり救われんのよ。死期は変わらないかもしれないけど、それまで幸せに過ごしてくれたら俺は満足だから」
光がそう言ってくれるので、俺は涙が出そうになった。
「本当にごめんね。大切な奥様を」
「いいって。後はとにかく柏木と三宮さんが上手くいくことを祈るのみだな」
「柏木良い奴だし行けんじゃねーか?」
「そうだね」
俺は微笑んで、そうなってくれると良いなと思った。
「ちなみに、未来の夕霧くんや冷泉さんは大丈夫?」
「あーあの二人なら死なないよ」
「そうなの?!」
「予言の中ではね」
蛍が教えてくれるので俺は嬉しく思った。長生きしてくれるみたいでよかった。二人がずっと仲良くしてくれると嬉しい。
「裳着の準備進んでる? 俺も手伝おうか」
「ありがとう。初めてだからよくわからなくて」
「任せな。俺この前やったから」
光がいろんな人に指示したり手配したりして手伝ってくれたので、三宮の裳着も無事に終わりそうな気がして俺は安堵しながら光に感謝した。
「未来、変わると良いね」
「変わるよ絶対」
「めっちゃ楽しみー」
俺たちは未来を良い方向に変える約束をしあって。俺は明るい気持ちで帰る二人に手を振った。
080 幸せな新年
その年の暮れ、朱雀院で三宮の裳着を行った。生前母が住んでいた東北の対の西面に場所を設える。光が準備を手伝ってくれたおかげでかなり立派な式になった。腰結は太政大臣さんに頼んだが、柏木くんが三宮と交際していることを知ってくれているのか快く引き受けてくれた。
左右の大臣、納言たちまでが忙しい年末の予定をやりくりして来てくれたのはありがたかった。春宮や冷泉さんからもたくさん御祝いが届く。六條院からも使者が何度も訪問し、禄や引き出物をくれた。
「わあ、懐かしい……」
中宮さまは昔斎宮として伊勢へ下られる際俺が贈った御櫛の箱を、原形を留めつつより雅に作り改めて三宮へ贈って下さった。俺が帝だった時代だから十五年以上前の物だけれど、全然古く見えない。物持ちいいなあ。今まで大切に持っていて下さったことも俺には嬉しかった。
「本日はお集まり頂きありがとうございました」
俺は皆へ丁寧に礼をして。こんな大きな行事をするのもこれが最後かなと思っていた。三宮は緊張していたが、どこか晴れやかでほっとした顔にも見えて。今十三歳かな。女の子はしっかりしているなと思った。
◇◇◇
裳着の片付けと同時に新年を迎える準備をして、年が明けた。光四十歳、冷泉さんは二十二歳になられる。光がいよいよ四十ということは、今年はいろんな宴が目白押しなんだろうな。夕霧くんは十九歳か。雲居雁さんと結婚して、鋭い視線は変わらないけれど物腰がとても落ち着いたように見えた。
「朱雀さん! あけましておめでとうございます」
新年早々挨拶に来てくれたのは柏木くんだった。
「雁に子どもがうまれました!」
ニコニコの笑顔で教えてくれる。
「おめでとう! 良かったね」
俺も嬉しくてついニコニコした。夕霧くんもついにお父さんかあ。葵さんが祖母になったなんて信じられない。
「雁さんは元気?」
「はい。ピンピンしてます」
「よかった。産養お贈りするね」
お母さんがお元気なのが何よりだなと思った。夕霧くんも大変だろうな。今頃赤ちゃんを抱っこして一生懸命あやしているだろうか。
「今日は六條院から文を預かってきました」
柏木くんはそう言って、光から預かった文を俺に渡してくれた。
「ありがとう。ごめんね、柏木くんを使いにして」
「いえ」
光からの文はやっぱりいい匂いのする紙に優美な字で書いてあった。昔からだけれど、光は事務的な連絡に関しても徹底しておしゃれだから感心する。
「一月二十三日に、玉ちゃんが極秘で俺のために若菜の宴を開いてくれます。兄貴も暇なら来てもいいよ。」
極秘の宴の開催を知っているのも面白いなと思って俺は苦笑した。
「若菜の宴かあ。風流だけど、光の邸なら大臣たちもいっぱいくるよね」
「そうですね」
「でも夕霧くんに会えるなら行こうかな……」
光の邸は広いので、奥の方にこっそりいればバレないかなと思いつつ俺はつぶやいた。光が院と同等に扱われているので俺も気が楽だし。
「朱雀さん、あの」
柏木くんは俺の前に座って少し言いづらそうにしていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「三宮様から降嫁のお許しを頂けた、と思います」
「そっか……ありがとう」
俺は柏木くんを見つめると感謝して頭を下げた。
「ごめんね、時間をかけさせて」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
柏木くんは照れたように笑うと、少し恥ずかしそうに顔を伏せる。
「降嫁の日取りはいつにしようか」
「俺ならいつでも……。院にもご相談頂けますか」
「うん、わかった」
降嫁の日にも予言があるのかな。今年は良いことが続くなと思いながら俺はうなずいた。
「お酒でも飲んでいく?」
「いえ、あの……」
柏木くんが言いよどんでいるので、今日は三宮と会うために来たんだなと鈍い俺はやっと気づいた。
「ごめん、邪魔したね。文をありがとう」
「はい」
俺が感謝すると、柏木くんは少し急いで去っていった。三宮の対へ行くのかな。
「素敵なお誘いをありがとう。目立たない所があれば置いて下さい。夕霧くんにお子さんが生まれたそうでおめでとうございます。あと三宮が柏木くんと結婚できそうなので、日取りの相談をしてもいいかな。」
俺は光への返信を書いて使いの人に持っていってもらった。夕霧くんにお子さんということは、光も祖父になったんだな。なんだか信じられない。でもとても嬉しかった。
081 追い御祝い
一月二十三日、うららかに晴れた日の午後俺は六條院へ伺った。玉鬘さんというのはとても才能あふれる方のようで、南の御殿は今どきの流行を取り入れた雅やかで美しい装飾がなされていた。屏風や壁代も新しく設えられて、敷物、茵、脇息などの調度も華やかで瀟洒だ。俺は遠くから覗いただけですぐ奥に引っ込むと、今日の主役で忙しそうな光を静かに待っていた。
「夕霧くん。お子さんのご誕生おめでとうございます」
俺は夕霧くんの居所である夏の町に隠してもらっていたので、夕霧くんに会うと喜んでお祝いを述べた。
「ありがとうございます」
夕霧くんはいつものクールな瞳で返事をしてくれたが、やはりどことなく嬉しそうに見えた。彼は父親になって、より頼もしさと落ち着きが増したように感じられる。
「光は忙しそうだね」
「今玉鬘さんの子ども達に会ってます」
「お子さん増えられたんだね」
「はい」
またお子さんが生まれたようで俺は嬉しく思った。お子さんが次々生まれる宿命というのもあるのかな。ご縁と呼べば良いことのようだけれど……この縁のせいで泣いた人たちもいる。前世の因縁なんて本当にあるんだろうか。
「玉鬘さんは貫禄ある母の顔をされてます」
「そっか」
母強しなのかな。彼女は不本意な結婚だったにもかかわらず、自身の宿命と向き合っている。子のために強くなられたんだなと、俺は冷泉さんの母である入道宮さまのことを思い出していた。
「これから酒宴になるので参加されませんか」
「ありがとう。でもいいよ。俺いったん帰ろうか」
「どちらでも。夜通しになると思うので、よかったら寝ていて下さい」
夕霧くんは慣れた様子でそう言うと去ってしまった。まだ夕方なのに今から一晩中酒宴をするなんて、貴族って本当に夜型だよな。早寝早起きの僧侶たちに比べてどうしても体調を崩しやすい。夕霧くんも光の子だから若い時から宴慣れしているんだろうけれど、それでも大変だろうなと思った。今夜は柏木くんも来ているのかな。
俺の前には飲み物や軽食が運ばれてきたので、俺は悪いなと思いながら頂戴した。光の人気は年を取っても衰えず、それどころかますます増しているようでなかなか会えない。どこからか上手な和琴の音色が聴こえた気がして。俺は酒宴の遠いさざめきを聞きながら、いつの間にか部屋の隅で眠ってしまった。
「あーにーきー」
スヤスヤ眠っていた俺がようやく目を覚ますと、もう日は高く昇って朝になっていた。
「あ、光……おはよう」
「おはようじゃないよ。よくこんなに長く寝られるね。これだから帝は」
光は酒宴の後の仮眠もすませたのか、すっきりした顔で座っていた。確かに俺は他の貴族のように女性のもとに通って明け方までに帰るってこと、したことないな。皆偉いんだなと思う。俺はまだぼんやりしながら、うーんと伸びをして光の前に座り直した。
「降嫁の日取り、いつにする?」
「いつにしよう……? 予言はあるのかな」
「あるよ。予言では二月の十何日だね」
「じゃあその辺にしようか」
俺は口に手をあててあくびしながら言った。
「他人事だなあ。歴史的な日だからね! 記念日にしてもいいくらいだから」
「そうなの?」
「柏木の親の太政大臣さんがいろいろやるだろうけど、俺からも追い御祝いしていい?」
「おいおいわい……? うん、ありがとう」
俺は寝起きのぼんやりした頭でうなずいた。
「じゃあ二月ね! 三宮さんにも伝えてね」
光は嬉しそうながらもしっかりした口調で教えてくれるともう席を立っていた。忙しそうだな。俺は夕霧くんの部屋に寝に来たようなものだなと思いながら、ゆったり帰路についた。
◇◇◇
二月十何日の三宮降嫁の日はすごい人出だった。柏木くんは今衛門督だけれど、お父さんが太政大臣だから勢いがすごい。彼の弟たちも引き連れての御祝いだから賑やかで楽しそうだ。柏木くんの従弟で義弟でもある夕霧くんももちろん来ていて、皆で柏木くんを取り囲んで嬉しそうにしていた。
俺は三宮の嫁入り道具として調度をいくつか準備して持たせた。光からもいろんな贈り物が届いているようだ。大臣や納言たちもほとんど来てくれて、新婦である三宮が来るのを静かに待っていた。いよいよ三宮を乗せた車が車寄せに到着すると、少し緊張した様子の柏木くんが出てきて、三宮を車から抱き下ろしてくれた。
「まるで絵みたいだな……」
普通の嫁入りならこういうことはないのだけれど、降嫁の時はこうやって新郎が新婦を迎えに来てくれるんだなと俺は感慨深い思いで見ていた。三宮の顔は当然見えない位置からの見物だけれど。
静かに柏木くんの邸に入っていく三宮の背を見送って。俺は厳かな感動を覚えた。俺が育てたと言えるほどのことは何もできていないけれど。若い人同士、病める時も健やかなる時も支え合って生きてくれたらと思った。
082 妊娠した
三宮を無事に送り出してほっとした俺は、まだ出家しないでと言われはしたが準備だけはしておこうと思った。西山に土地があるのでそこに寺を作って、出家したら住もうと思う。今までは手を洗う水すら汲んできてもらう生活だったが、自分のことはなるべく自分でする生活をしてみたい。
俺がそんなことを考えながら仏間で祈っていると、朧月夜さんが遠慮がちに祈る俺の袖を引いた。
「朱雀様」
「はい」
俺は何気なく振り向いたが、彼女にしては珍しく少し言いにくそうにしている。
「どうか、されましたか」
「私、姉のいた二條の邸に里帰りしようかと思いまして」
姉というのは俺の母のことだった。母は数年前に寿命で安らかに亡くなっている。
「少しのんびりしてこようかと思っております」
「そうですか。それは素敵ですね」
俺は何心なくうなずいた。
「俺も今すぐではないのですが、そのうち出家したいなと思っていまして。朧月夜さんはどうするのだろうと心配だったので。暮らしの困りごとはないですか。俺からも幾らかお遺ししますね」
俺は彼女への財産分与の手続きを進めておこうと思った。長い間とてもお世話になったなと思う。朧月夜さんは俺の話をききながら急にウルウルと瞳に涙をためた。
「朱雀様大好きです。本当は離れたくありません……」
「は、はい」
「でも朱雀様の信心深いご様子を見ると、愛しい方を神仏に取られた気持ちになってしまいます。そんな自分がふがいなくて……」
「……そうでしたか。こちらこそ気を配れず、すみませんでした」
そんなことを考えておられたのかと俺は意外な気がした。俺が日夜祈ることが彼女には負担だったのだろうか。俺は位を下りてから気楽な気持ちになってしまって、女性の相手をするのもサボりがちだった。寂しい思いをさせてしまって、申し訳ないことをしたかな。
「今までありがとうございました。お世話になりました」
俺が丁寧に感謝の気持ちを伝えると、朧月夜さんは俺の胸に飛び込むようにして抱きついてきた。
「大好きです」
「ありがとう。俺もです」
俺たちはひしと抱きしめ合うと、あたたかい気持ちで別れた。いつもそばにいてくれて、ちょっと近すぎる気もしたけれど。いつも支えてくれて、俺にはもったいないくらい有り難い人だと思った。
◇◇◇
「うちの子が妊娠した。」
秋の初め、光からの文は短かったがかなりの緊急事態を予感させた。光のお嬢さんはたしか去年の四月に入内なさったよな? まだ少女のような方だと思っていたが……。俺は驚いてしまって急いで御所へ参内した。
「冷泉さん、ご無沙汰してます」
「いらっしゃいませ」
「裳着の御祝いをありがとうございました」
冷泉さんはいつものように微笑んでおられたが、俺はご挨拶もほどほどに春宮に会いにいく。
「春宮、元気……?」
俺は何から話したらいいかわからず当惑した。なんということをしてしまったのか……。二人は結婚しているのだから叱るのはおかしいが、褒めるのも適切でないような気がして発言に困る。俺に初めて子ができたのはこんなに若くなかったので、我が子ながら先輩のような妙な感じがしてなかなか切り出せない。
「父上」
春宮は無聊を慰めるという感じで頬杖をつくと、物足りなさそうな顔をしていた。
「明石女御が里帰りしてしまって、つまらないです」
「そう、だよね」
俺は言葉をつまらせながら、何と言おうか考えていた。
「彼女には優しくしてる?」
「してますよ、もちろん」
「だよね」
ええと、なんて言ったら良いんだろう。
「彼女気分悪そうだったんじゃない?」
「でも帰ってしまうことはないのに」
「お産は大変なんだよ。命に関わるんだから」
俺が心配そうに言うと、春宮は驚いた顔をして俺を見た。
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。特に最初のほうが気持ち悪くなるんだ。体調も崩しやすいし。彼女を大事にしないといけないよ」
そう言われるととても心配になったようで春宮も動揺していた。
「祈祷をさせたほうがいいですか」
「目立たない形でね。何か欲しいものがないかきいて、あれば贈ってあげて」
光の所でいろいろしてくれてはいるんだろうけれど。気遣う姿勢を見せることが大事ではないかと俺は思った。
「無事に帰ってきますよね?」
「そう思うけど。祈ろう。俺も祈るから」
光は孫がたくさん生まれると言っていたから、お亡くなりになることはないと思うけれど。だいぶ若いお嬢さんの出産なので心配だ。春宮は出産の大変さを知らなかっただけで冷淡ではないようだった。女房たちにあれこれ尋ねては、指示を出している。
俺は春宮が少しはわかってくれたようでほっとしながら退出しようとしたが、冷泉さんに呼び止められて御前に出た。
「朱雀さん、今年は父上の四十の賀がいくつもあるのですが、私が行こうとすると止められてしまいます」
冷泉さんは微笑みながらもどこか不満げだった。行幸になると迎える側が大変だからなあ。
「夕霧くんは参加できるのに。私も行きたいです」
冷泉さんが珍しくわがままを仰っていると思って俺は少し嬉しくなった。
「光と入れ替わってみられますか」
俺が何気なく言うと、冷泉さんのお顔がみるみる輝かれる。
「なるほど……面白そうですね」
冷泉さんは横を見ながら微笑まれ、何か考えておられるご様子だった。実現できるのかな? 光と冷泉さんはお顔や体格もかなりそっくりで、光は見た目も若いので遠目ならいけるかもしれない。
俺は悪いことを言ったかなと思ったが、取り消すこともできないのでそのまま退出した。どうなるのかな。でも実現したら面白そうだなとは思っていた。
083 四十の賀
光の四十の賀は、まず十月に奥様が嵯峨の御堂で薬師仏供養をなされた。光が気を使って「密かに」行われたそうだけれど、大臣や納言たちは付き従ったようだ。紅葉の綺麗な頃で、仏事とはいえ雅な話だなと俺は思った。
「その精進落としが今日なんだけど」
俺は十月二十三日に呼ばれてかなり久しぶりに二條院へ行ったが、光の顔は冴えなかった。光の隣には光とそっくり同じ衣装を召された冷泉さんがにっこり笑って座しておられる。
「本当にそっくりですね」
俺は感心しながら二人を眺めた。
「そっくりですねじゃないよ」
光はさすがに不安なのか困った顔をしつつ、帝の命なので断れないという感じで眉を寄せた。
「冷泉さん、本当にやるんですか?」
「はい」
冷泉さんは自信たっぷりに笑っておられた。衣から香る匂いまで同じでよく変装できている。
「これも予言を引っ掻き回すことになるかもしれないよ」
俺は苦笑しながら言った。
「冷泉さん、しゃべらないでくださいね。手はず通りに交代しましょうね」
「はい」
冷泉さんはいつもの微笑みながらすごく楽しそうでワクワクしておられた。
「こういう悪戯、はじめてです」
「最初で最後ですからね」
光はわがままを言う冷泉さんに慣れないのか困った顔をしていたが、嫌そうではなかった。微笑ましい親子だな。こういう入れ替わりができるほど似ているのも素敵なことだと思う。
二條院は光が須磨に行くとき奥様へ譲渡されたそうで、今では彼女の私邸であるらしい。自邸を奥様名義にするなんて、本当に彼女想いだし二度と京へ戻ってこられないかもしれないと覚悟していたんだな……。
今日ここには大臣はじめ殿上人の席がたくさん設けてあり、主人たる光の席は螺鈿の倚子だった。これは格好いい。西の間には夏冬の装いが美しく飾られ、挿頭の台や屏風、置物の御厨子、調度などきらびやかで目もくらむような品ばかりだった。俺なら圧倒されてしまいそうな空間も一向に気になさること無く、冷泉さんは光として席につかれる。
午後から楽人が召されて祝賀の舞が始まり、この日のために準備していた貴族たちが次々と舞を披露した。日暮れには高麗楽の追吹きのあと龍を模した面を付けた人が納蘇利を一人で舞う落蹲があって、最後に夕霧くんと柏木くんが入綾を舞って紅葉の蔭に入った。冷泉さん、これが見たかったんだな……。
冷泉さんはあくまでも光を装って平然となさっておられたが、とても嬉しげなご様子は隠しようもなかった。冷泉さんの夕霧くんを見つめる眼差しには、憧れの人を追う感じがあるようだ。
「お父様たちの間柄によく似て」
「官位はこちらのほうが進んでおられるわ」
古い女房たちがそう噂しあうのも懐かしい気がした。柏木くんにも父である太政大臣さんくらい長生きしてほしい。俺は夕霧くんもだが、婿になってくれた柏木くんのことも気になって、目立たない場所に隠れながらつい目で追っていた。
夜になり別の楽人たちが来るところで冷泉さんはつと席を立たれ、光と交代なさった。
「いかがでしたか」
「とても楽しかったです」
光姿の冷泉さんは興奮さめやらぬご様子で、とても喜んでニコニコしておられた。
◇◇◇
光の四十の賀の締めは十二月下旬に行われた。冷泉さんはもちろん参加されたかったようだが、今回は中宮さまが主催なさるので流石にバレてしまうということでお控え頂く。中宮さまは奈良や京の寺に御誦経と布や絹をご寄進下さり、御自身の居所である秋の町に設えをして光を迎えられた。光の裝束も絢爛豪華で、古くから伝わる名品は皆集まるような御賀になっていた。
「夕霧くんを右大将にします」
冷泉さんは参加できなかった腹いせなのか、夕霧くんを病で欠員が出ていた右大将にして下さった。引き上げてくるなあ。その夕霧くんは自分の居所である夏の町で、やはり立派な設えをして光を待っていた。俺は以前玉鬘さんが居たという西の対に隠してもらって、覗ける範囲で楽しんだ。
大臣、納言たちはもちろん今日は太政大臣さんも来ているようだった。光の御座や調度は帝の指示で設えられたそうで、背後の屏風四帖も冷泉さんの御手で書かれた逸品らしい。夕霧くんと冷泉さんの共同作業は見応えあるな。ちょうど加階した夕霧くんの勢いもあり、庭にはびっしり馬たちが並ぶなど雄々しく立派な御賀だ。
「四十歳おめでとー」
蛍は得意の琵琶をもらって嬉しそうに弾いていた。光の前には琴、太政大臣さんの前には和琴。この合奏も安定感がある。太政大臣さんは夕霧くんを婿にできたのが嬉しいようで、光と懐かしそうに話をしていた。酒も進んでいて、二人の距離感が少し戻ったようで良かった。
夕霧くんにまたお子さんが生まれるらしいという話を聞いて、俺にはそれも嬉しかった。実子の夕霧くんはもちろん、少女の頃から育てた奥様や親代わりとなって入内させた中宮さまにもこんなに祝ってもらって。冷泉さんもご立派だし、光の人脈と養育力って凄いんだなと思った。
084 蹴鞠の猫
光の四十の賀の余韻も冷めやらぬまま年も暮れ、新しい年が明けた。光四十一歳、冷泉さんは二十三歳になられる。夕霧くんはもう二十歳だ。
今年はいよいよ明石女御の出産だと思うと俺は緊張した。妊娠経過は順調なようにきいているけれど。正月朔日に六條院で安産の修法が行われたので、光にお願いして俺のぶんも祈ってもらう。
「大丈夫かな……」
光はあの予言書を信じつつも葵さんが亡くなったのがトラウマになっているらしく、お産を見守るのは苦手なようだった。明石女御はまだ十三歳だから心配するのも当然だ。俺が責任を感じるのもおかしなことだが、男親って気を使うなと思った。出産に関して何の危険も負っていないことがどうしても申し訳なく感じる。
「お父様お元気ですか。私は旦那様とお話したり、琴を合わせたりして幸せに過ごしています。」
去年嫁いだ三宮から久しぶりに文が届いて、俺は嬉しい気持ちで読んだ。二人とも仲良くやっているようで良かった。京は狭いから、ちょっとした噂、特に悪い噂はすぐ広まってしまう。予言の柏木くんは焼け付くような心で三宮を想ってくれていたようだけれど。春の陽のような暖かな恋心もいいものではないかと俺は思っていて、慣れたり飽きたりしたらそれはそれで仕方がないと思っていた。
「産まれた! 男の子だよ。」
三月十何日かに無事出産の知らせが入った。光も忙しいだろうに俺にまで連絡をくれたことが嬉しかった。春宮も安心したかな。この子が次の春宮になるという若宮か……。予言が次々成就されていくことが嬉しくもあり、怖くもあった。冷泉さんが譲位なさるまであと何年あるだろう。柏木くんが亡くなるまであと何年あるのか……。
「若宮可愛いから見に来て。」
光から短い文をもらって、俺はいいのかなと思いつつこっそり六條院へ伺った。取次の女房までが嬉しそうで。新しい命の誕生に、邸全体が幸せに包まれている。
「兄貴遅いよ。ほら見て」
光は嬉しそうな顔で若宮を抱っこしていた。
「夕霧は全然孫を見せに来てくれないんだよね。息子ってあんなもんかな」
光は少し寂しそうに言いながら、若宮の顔を見つめて嬉しそうに笑った。お祖父ちゃんになっちゃったな。まあ俺もなんだけれど。
「ほら」
光から優しく手渡されて、俺は慎重に若宮を抱っこした。小さくて温かくて、重かった。
「可愛いね」
俺はしみじみ言って。夕霧くんを抱っこした葵さんもこんな気持ちだったのだろうかと思った。
「ありがとう、呼んでくれて」
俺は光の腕に慎重に赤ちゃんを返すと、お礼を言った。
「春宮より先に見ちゃったね」
怒られるかもしれないから、内緒にしておかなきゃと思う。
「俺たちあっての孫だからね」
光が言うので、そんなものかなと俺は思った。
「三宮さんは元気?」
光がきいてくれるので、
「うん。幸せそうな文が来たよ」
俺はこたえて。幸せすぎるのが怖いくらいに感じた。
◇◇◇
「この蹴鞠は超重要行事だから絶対来てね。」
三月のうららかに晴れた日、俺はまた招かれて六條院へ行った。明石女御は生まれたばかりの若宮を春宮へ見せるために早速御所へ行ってくれたらしい。お産の疲れもあるだろうに申し訳ないなと俺は思った。今日は光の居所の春の町へ蛍と柏木くんが先に来て話している。
「柏木くん、こんにちは」
俺はしばらく会っていなかったので、嬉しい気持ちで彼に話しかけた。
「お世話になってます」
柏木くんは頭を下げながら微笑んで、どことなく幸せそうだ。
「柏木幸せ?」
「……はい」
「こいつー」
蛍は幸せそうな柏木くんを肘でつつきながら自分も嬉しそうに笑った。
「案外簡単に手に入っちゃって残念だとか無い?」
「無いです」
光が難しいことをきくので俺はヒヤリとした。柏木くんが笑顔で即答してくれたので良かったけれど。結ばれるまでの過程で愛情が変わることもあるのだろうか。恋って複雑だな。
「そろそろ夕霧呼ぼっかー」
蛍が立ち上がると同時に、夕霧くんが若い公達を引き連れて夏の町の方からやってきた。夕霧くんももちろんまだ若いのだけれど地位が高いので、同年代の若者と並ぶとやはり貫禄がある。
「夕霧蹴鞠するー?」
「はい」
夕霧くんは満開の桜の下で、いつも以上に凛々しく華やかに見えた。
「じゃー幸せそうな柏木から行くねー」
蛍はそう言いながら自分も蹴鞠の輪に入っていった。彼は若い頃から抜群に上手かったが、今でもトントンとリズムよく鞠を蹴って、若い人達に交じっても全く引けを取らない。
「元気だなあ」
光は蛍の若々しさに呆れながら笑って見ていた。俺も光の隣に座ってのんびり蹴鞠を眺める。桜の花びらが散って皆に降りかかるのが絵のように綺麗だった。良い日だな。誰かが蹴りそこねて転がった鞠を柏木くんが拾いに行く。
「柏木ー後で探すからいいよー」
蛍が呼びかけたが、柏木くんは奥へ行ったまましばらく戻ってこなかった。俺は心配になって捜しに行こうとしたが、夕霧くんが俺を制すと代わりに行ってくれた。俺は何故か胸騒ぎがして。
「こいつ、やっぱいるんだな」
光は戻ってきた柏木くんと夕霧くんを見て優しく苦笑した。柏木くんの懐には小さくて可愛い唐猫が一匹、ミャアミャアと心細げに鳴いていた。
085 温泉行幸
光の住む六條院は馬場や的、蹴鞠ができる広い庭もあって若い公達の社交場になっていた。光は公務を引退しているので御所に伺う用事もなくのんびり暮らしていて、俺も何かとお邪魔することが多い。
三月末には左大将である髭黒さんと右大将の夕霧くんがそろって訪ねてきたので、殿上人たちは何事かと噂を聞きつけ続々と集った。こういう遊びの場でも出世の機をうかがい努力を惜しまないのだから凄い。御所の賭弓が延期になって皆物足りなかったのか、射場のある六條院が文字通り標的となったようだ。
「小弓でいいよ」
と光は言っていたが、歩弓の上手い人がいて次々に的を射抜いていた。他の貴族たちも左右に分かれて競い合い盛り上がっている。蛍は強すぎるので今回は除外されたようだ。
「柏木ー、あの猫飼ってんの?」
「はい」
蛍が尋ねると柏木くんはニコニコ笑って答えた。蹴鞠の時抱っこしていた唐猫かな。御所で飼われている猫たちの一匹が逃げ出して行方知れずになっていたのを、あの日たまたま柏木くんが見つけて保護してくれたようだ。春宮は柏木くんへの感謝と猫本人がとても懐いていたため、あの子をそのまま柏木くんに譲ってくれたらしい。
「連れて帰ったら、彼女も可愛がってくれて」
「三人で寝てんだ」
「二人と一匹ですけど」
そう話す柏木くんは本当に幸せそうだった。三宮って柏木くんの好みに合っていたのかなと俺は心配だったが、仲の良さは変わらないようなのでほっとした。たくさんいる女性の中でも「この人!」という出会いは、やっぱりあるものなのかな。
「あの予言書さ、空白期間あるよね」
光はそれが気になるようで、晩春のうららかな風を受けつつ少しぼんやりしたように言った。
「蹴鞠終わってから四、五年かな。何も書いてない」
「その後は?」
俺が何気なく尋ねると
「冷泉さんがひっそり譲位なさる」
光は名残惜しそうに答えた。
「そう……」
それを聞くと俺は悲しくなって落ち込んでしまった。冷泉さんにまだ下りてほしくないな。ずっと帝でいて頂くのも大変だろうけれど。
「空白ってことは何してもいいってことだろー」
蛍はなんでそんなことで悩むのかといった明るい口調で言い放つ。
「温泉行幸でも提案してみようか」
俺がさり気なく言うと
「何それ?」
光は俺を見つめて首を傾げた。
「有馬にいい湯があるんだって。この前山寺へ行ったら僧都が教えてくれたんだ」
俺は出家準備のため山での暮らしを学んでいて。僧たちは親切にいろんなことを教えてくれた。
「修行僧の間では、傷に効くって有名らしいよ」
「へー」
蛍は無関心な様子だったが
「温泉か……」
光は口に手を当てて何事か考えている。
「病を防ぐのにいいかもな」
光はどうやら奥様を連れていきたいようだった。
「山だし、大勢で行っても入れないかもしれないね」
俺はそれだけが心配になって付け足した。冷泉さんの行幸はどうしても従者の数が多くなりがちだから。
「じゃ少数精鋭で行こうよ。柏木も連れてさ」
光が口に出したときにはもう計画が始まるようで、光は夕霧くんを呼ぶと何事か相談していた。どうなるのかな。冷泉さんに少しでも日頃の疲れを癒やして頂けるといいんだけれど。
◇◇◇
この温泉行幸は「朱雀院の発案で」「帝を気遣って」「ごく少数で」行われることになった。
「俺の名前出す必要あったのかな?」
俺はかなり疑問に思ったが、光と夕霧くんのすることだから間違いないのだろう。
「ありがとうございます」
後日俺が御所に伺うと、冷泉さんはニコニコ笑顔で御礼を仰った。
「朱雀さんの発案にはいつも助けられてばかりです」
「いえ、恐縮です。ご迷惑でなかったですか」
「はい。遠出は楽しみです」
冷泉さんは微笑んだままうなずかれる。帝を山歩きにお連れするなんて、我ながら相当冒険的な提案をしてしまったものだ。俺は今さら不安になったが、冷泉さんは無邪気で恐れを知らぬご様子だった。
「細い道は馬か徒歩になるかもしれませんが」
「はい。楽しみです」
冷泉さんは道中に立ちはだかる困難も丸ごと楽しまれるおつもりのようで、これは止められないだろうなと俺は思った。男性陣はいいとしても女性たちは大丈夫かな? 彼女たちは服さえ簡素にすれば重くないので、輿で運んでもらうこともできるだろうか。
この行幸は秋の良い日を選んで、冷泉さんと中宮さま、光、夕霧くん、それに太政大臣さんの代理として柏木くんもそれぞれ奥様連れでお供して行くことになった。あくまでもお忍びで、途中寺社にお参りして紅葉も楽しみながら、身内の従者と護衛だけを連れてのんびり行くようだ。
「朱雀さんはよろしいですか」
冷泉さんはそう誘って下さったが、春宮が「ずるい」という目で見るのもあり、温泉にそれほど執着もないので俺は遠慮させて頂いた。光親子と柏木くんで楽しんでもらえるといいな。皆が疲れを癒やして、少しでも長く元気でいてくれるといい。
「私も行きたかったです」
御所で留守番する春宮が何度も恨み言を言うので、俺はなだめるのに苦労した。
「女御のご出産が済んだらね」
光の娘さんである明石女御は丈夫な方のようで、一人目の孫を産んで下さった後また妊娠しておられるようだった。何人かの女性が順番に産んでくれることはあっても、一人の女性に次々子ができたことは俺にはないのでどうしても彼女の体の負担が気になった。
御所を空にするのはよくないし、妊娠させておきながら妊婦さんを置いて温泉というのも申し訳なくてできない。かといって山道を連れ歩くのも危険だし、春宮には明石女御の体調が落ち着いているとき二人で行くよう説得する。
「私の世になったら行ってもいいですか」
「いいと思うよ」
春宮がむくれながら訊くので俺は頷いてこたえた。こうやって冷泉さんのなさった行事が一つでも多く引き継がれていくといいなとも思っていた。
086 定めなき世
光が四十一歳になった夏頃から、蛍は髭黒さんが捨ててしまった元奥様の娘である真木柱さんと付き合い出したらしかった。
「俺にはあなたと結婚したい理由があります。だいぶ年上で申し訳ないけど。付き合って下さい」
蛍はシンプルにそう言って、彼女に交際を申し込んだそうだ。
「いや、それ半分合ってるけど半分は誤解でさ」
蛍は俺にまで噂が広まっていることに苦笑しながらこっそり教えてくれた。
「柏木のすぐ下に弟がいるじゃん?」
「ああ、あの歌が上手い」
「そうそう。どうもあいつが俺より先に真木ちゃんに言い寄ってたらしいんだよね。そしてあいつは、俺の死後真木ちゃんと再婚する男なんだ」
「そうなんだ……」
俺は驚いてしばらく黙った。
「予言が前にずれて来たのかな」
「どうもそーらしいよ」
蛍もそれが楽しみのようでワクワクしている。
「俺このまま二人の成り行きを見守ろうと思ってさ。なんか面白そーじゃん? 俺と真木ちゃんの間には娘が生まれる予定なんだけど、もしかしたら変わるかもね」
誰・の・子・か・は・選・べ・る・かもしれないという冷泉さんのお言葉はついに現実化するのだろうか。俺は驚きのあまり目を見開いた。俺たちはあの予言を覆し、未来を変えることができるのか……?
「俺、真木ちゃんには幸せになってほしくてさ。二人が上手くいきそうなら身を引くつもりだよ」
蛍が嬉しげに言うので心優しい人だなと思った。彼らの交際が続くならそれでいいし、もし真木柱さんが蛍を選ぶなら妻として迎える覚悟もあるのだろう。髭黒さんの元奥様は本当に気の毒だったけれど。娘さんには幸せになってほしい。
「心配なのは夕霧だよ。あいつ二宮さんのことどーすんのかな」
「二宮……」
三宮が柏木くんと結婚したことで、彼に降嫁するはずだった二宮はまだ独身のままだった。
「予言では柏木の死後夕霧が二宮さんを好きになって、雁ちゃんは嫉妬して実家に帰っちゃうんだよ」
「そうなの?!」
俺は驚いて動揺してしまった。雁さんとの間にはたくさんお子さんもいるのに。二宮のせいで夕霧くんの家庭は崩壊してしまうのだろうか。
「夕霧は雁ちゃんに通いつつ二宮さんも妻に迎えて、結構仲良くやるんだよ。藤典侍の産んだ子を世話したりしてさ」
藤典侍というのは五節で夕霧くんに文をくれて彼を当惑させた女性のことで、あの後宮仕えして典侍になっていた。彼女との間にも子ができるのか。夕霧くんほどの地位で妻が二人だけというのはかなり誠実なほうではある。宮仕えしている女性とは自由に会ったり一緒に住んだりできるわけではないので、普通の妻とも違うし。
ただ夕霧くんと同居し彼の子を大勢産み育てている雁さんは、当然自分こそが夕霧くんの正妻だという強い矜持を持っているだろう。二宮がそれを脅かす存在になるなんて、俺にはかなりつらい予言だった。
◇◇◇
三宮と柏木くんの穏やかな幸せを漏れ聞くたびに、俺は二宮のことが気になった。あの子をもらってくれる人はいないのだろうか。夕霧くんに頼むとは、どうしても言えない。
皇女というのは扱いが難しくて、光が敬遠したのもそのせいだった。最も愛する女性より位・が・高・い・皇女を娶ってしまえば、どうしても扱いを上にせざるを得ない。今まで一位だった女性は当然嘆き悲しむことになる。
「私に下さってもいいですよ」
冷泉さんは微笑んでそう仰って下さるけれど。片付かない子を押し付けるようで申し訳ないし、入内するには後見が弱すぎて女性たちの争いの中で埋もれるだろう。二宮の母である一条御息所さんも承知しないだろうと思った。
「悩んでるねえ」
出家について相談するため久しぶりに六條院を訪れた俺を見て、光は開口一番そう言った。
「奥様の体調は大丈夫?」
「お陰様で、息災だよ」
光がそう言ってくれるので俺はほっとした。
「柏木は?」
「元気みたいだね」
「良かった」
光はそう言うと、少し遠くを眺める。
「夕霧呼ぶわ」
光は女房に使いを頼むとしばらく黙った。
「二宮さんさ、どうしたい?」
「俺には、何も……何を言う権利もないよ」
「冷てえなあ」
光は苦笑しながら、やはり物思わしげに何か考えている。少し時間がたってから、いつものようにきつい目をした夕霧くんが入ってきた。俺に軽く礼をしてくれると、光の正面に座る。
「お前さ、二宮さんどうするつもり」
光は単刀直入にきいた。夕霧くんが二宮と交際するのは何年も後の話のようだけれど。夕霧くんは真っ直ぐな瞳で光を見つめたまま、黙っている。
「雁は泣かせない」
夕霧くんははっきりした口調で、それだけ言った。
「じゃ二宮さんを泣かすんだな」
夕霧くんは光の言葉に顔をしかめたが、口答えせずじっと黙っていた。
「百あるうちの十や二十でも、情を分けることはできねえのか」
光が尋ねると、夕霧くんは怒ったように言い返した。
「十や二十で愛すほうがよほど失礼だろ。百愛す人間を探すのが先だ」
「現れなかったら?」
夕霧くんはぐっと押し黙ったが
「俺が引き取る」
覚悟したように答えた。
「皇女を娶るなら正・妻・格・だぞ」
光が凄みのある声で言うので
「もういいよ」
俺は耐え難くなって二人の会話に口を挟んだ。
「あの子が邪魔なら出家させて山にでも連れて行くよ」
俺の言ったことがあまりに意外だったのか、光と夕霧くんは同時に俺を見た。その驚く顔がよく似ていて。俺はやっぱり親子だなと思った。
「兄貴それは……実の娘に冷たすぎない?」
「もちろん無理にはさせないけど。二宮には俺の財産をなるべく遺して暮らしに困らないようにしておくよ。一人で生きていけるかはわからないけど……」
俺はしばらく黙った後、泣きそうな気持ちで言った。
「せっかく夕霧くんが雁さんと一緒になれて幸せそうなのに。その家庭を壊すような真似、させられないよ」
俺は髭黒さんの元奥様を思い出していた。夕霧くんに妻子を捨てて別の女に走るような、髭黒さんのようなことをしてほしくなかった。夕霧くんにはいつまでも優しく誠実な夫、父でいてほしかった。単なる俺のエゴだった。
「どうするかなあ……」
光は考えあぐねた様子でため息をついた。
「もっと予言を引っ掻き回したら、二宮の未来も変わるかもしれないよ」
俺はあの予言に負けたくないという強い気持ちで言った。
「俺の親としての気持ちは、三宮は柏木くんが貰ってくれて良かったと思ってるし、二宮もなんとかなると思ってる。この世には予言に出てこない人も生きてるんだし」
いつか王子様が……なんておとぎ話の世界だろうけれど。皇女ならそれを信じる資格もあるのかもしれないと俺は思った。二宮に難があるとも思わないし。この世に生まれてきた人はみな、自分が主役の物語を生きている。台本などない、定めなき世を。あの本に書かれていることが全てじゃないはずだ。
「なるほど」
光は理解した様子でうなずくと
「お前よりいい男が現れるかもしれねえから自惚れるなってよ」
夕霧くんに向けて明るく言った。
「えっ?! いやそういう意味じゃ……」
俺が驚いて手をふると、夕霧くんは焦る俺を見て微笑した。その微笑みは少し目を細めただけなのに弾けるように眩しくて、俺に強い印象を残した。
087 ただ一人の兄
予言に縛られない空白の間、冷泉さんはいろんなことをして下さった。蛍が希望していたのに俺の代で実現できなかった蹴鞠大会をはじめ、競射会、相撲天覧、歌会、楽の催しも開かれた。過去に例のない提案でも冷泉さんは進んで聞き入れ、許可して下さる。長期休暇が取りやすくなったことで貴族たちの間で有馬温泉へ行くのが流行したし、柏木くんの好きな釣りも真似する貴族が増えて、京にはだんだん皆の多彩な個性が現れ始めた。
娘を立派に育てあげ入内させるか良い婿を取ること、良い女を妻にすること。京の貴族はいつも女性のことで頭を悩ませていたが、空白期間にいろんな経験をしたことで息抜きになったと言うか、「人生色恋だけじゃないな」という雰囲気になり、皆どこか陽気になった。冷泉さんの御世は革新的、合理的でありながら平和で、幸せだった。
俺は西山の寺も完成していたのでいつ出家しても良かった。
「紫も柏木も調子良いみたいだし、いつでもいいよ」
光もそう言ってくれていたが、冷泉さんの御世を最後まで見届けたいという欲が捨てきれず、俺は朱雀院で祈る日々を過ごしていた。
ところが春宮が帝位に就くより前に、母である承香殿さんが亡くなられてしまった。あまりの衝撃にしばらく立ち上がることができない。長く患っているわけでもなかったが、彼女は安らかに逝ってしまった。俺は彼女の寝顔と春宮の泣きはらした目を見てその場で出家を決めた。
「父上まで世を離れてしまわれるのですね」
春宮は名残惜しそうにしてくれたが、俺は強いて微笑んだ。
「春宮のぶんまで祈るよ。春宮は帝をよく見ていたから大丈夫。春宮の御世が来ても自信を持って下さい。本当に、惜しい方を亡くしたね」
俺は長い髪を下ろして出家した。春宮を産んで下さったのに中宮にすることもできなかった承香殿さんを、せめて帝の母にして差し上げたかった。誰より尽くして下さったのに……。目を閉じて彼女を想うと、俺たちを包みこむような優しい笑顔しか思い出せない。本当に、ありがとうございました。俺はもっと早く出家して彼女のぶんまで祈るべきだったのかもしれない。
◇◇◇
そうして、冷泉さんが十一歳から帝位につかれて十八年目になった。まだ二十八歳で、若々しく盛りのお姿に見える。
「本当に、降りてしまわれるのですか」
俺は西山の寺にこもり祈っているはずがこの日だけはどうしてもこらえきれず、法衣姿に帽子を被って御所に伺った。
「五十代で皇子がお生まれになるまで、おられては」
「それはちょっと長いですね」
俺の強引な願いにも、冷泉さんはいつものように微笑んで下さる。
「春宮さんと明石女御に申し訳ないですから。若宮も六歳ですし、立派な春宮になられるでしょう」
そう仰って俺の子を帝に、光と俺の孫を春宮にして下さった。
「本当に……ありがとうございました」
俺は深く頭を下げて感謝申し上げた。一代限りの幻という思いが胸を衝いて、涙がにじんだ。無念だった。結局冷泉さんの御子を見ることは叶わずこの日を迎えてしまった。もっとこの御方をお支えしたかったのに。
俺の斜め後ろには夕霧くんが座していた。夕暮れの最後の光が伸びて御所の庭に長い影を落とす。清涼殿は朝日を望む東向きの座所だ。夕日の美しさを見ることは叶わない。帝と臣下を隔てる御簾も今日は全て巻き上げられて室内は閑散としていた。御前は人払いをして俺たち以外誰もいなかった。
「こちらこそ。助けて頂きありがとうございました」
冷泉さんの丁寧な挨拶にも、夕霧くんの鋭い瞳は動かない。夕霧くんがあまりに何も言わないので俺はこの場を辞そうと思った。俺がいたら話せないことがあるような気がして。
俺は今いる席を夕霧くんに譲るため、部屋の端に退いた。そのまま去るタイミングをうかがっていると、冷泉さんの前に座り直した夕霧くんがおもむろに口を開いた。
「帝は、楽しかったですか」
「うん。おかげさまでね」
俺はこの二人の会話を聞くのは初めての気がした。
「楽しかったなら、もっと居て下さい」
「気持ちは嬉しいけど」
冷泉さんは微笑んだまま少し言いよどまれた後、
「父上を春宮の祖父にして差し上げたいからね」
重要なことほどあっさりした口調で仰る。
「あなたの人生は、あの人のためにあるわけじゃない」
「優しいね」
夕霧くんの目はいつもよりきつくて、怒っているように見えた。
「何も残さず、去っていくのですか」
「偽・物・の私でも、系図には載れたからね」
冷泉さんは少しおどけた調子で仰ると、静かに微笑まれた。偽物……。
どんなに素晴らしい治世を行われても、比類無き美をお持ちでも、自分は偽・の・帝・だ。そう思ってこれまで生きてこられたのだろうか。どんなに美しく完璧でも本物じゃない。何をしても、本物にはなれない……。
俺はあまりの申し訳なさに身を切られる思いだった。でも一番おつらかったのは冷泉さんだろう。どれほど苦しくても、真実を明かすことは絶対できないのだから。
「私にないものを夕霧くんは持っている。私にできないことも、夕霧くんは叶えてくれるから……救われたよ」
冷泉さんは微笑んだまま昼御座から立ち上がられると帝の御笏を置かれ、俺たちと同じ床に下りられた。十八年間過ごした玉座を去られるには、あまりにもあっさりした所作に見えた。
「兄上」
夕霧くんがはっきりした口調でそう呼ぶと、冷泉さんは一瞬驚いてこちらを向かれた。
「どうしたの? 急に……」
そう呼ばれたのは初めてなのか、少し戸惑ったように微笑まれる。
「親父が死んで予言が絶えても、俺達の人生は続いていきます。この後のほうがもっと楽しいかもしれない」
夕霧くんの瞳は真っ直ぐで、冷泉さんを射抜くように見つめていた。
「あなたは俺の兄です。誰も知らなくても、歴史にそう残らなくても、俺はあなたの弟です。そのことをずっと誇りに思ってきた。これからも、死んでからもずっとそう思ってます。あなたを、かけがえのない、ただ一人の兄だと」
時が止まったかのように誰も動かず、何の音もしなかった。冷泉さんもまばたき一つしないのに、その白い頬に流星のように一すじ、涙が落ちて。冷泉さんは少し眉を寄せると、苦しそうなお顔をなさった。片手で顔を押さえて。涙をこらえている顔だった。
「……ありがとう」
それでも夕霧くんに微笑んで仰って。俺は部屋の端でうつむき存在を殺していた。こんなに余裕のない、仮面を剥がされた冷泉さんを見るのは初めてで。見てはいけない気がした。
088 今上帝即位
俺の子である春宮は即位して今上帝となられた。今を保たれる帝という意味でこう呼ばれる。冷泉さんより八つ下なので今二十歳だった。例の予言書では最後まで今上帝の御世が続くらしく、長く帝位につかれるようだ。
「謹んで御即位のお慶びを申し上げます」
俺は息子を帝と呼ぶことに慣れないながらも嬉しい気がして、彼を応援した。冷泉帝は御所を去られ院に移られた。帝の重圧から解放されて、ゆっくりお過ごし頂ければと思う。
俺は冷泉さんの譲位を惜しみ、息子の即位を祝ったその足で西山へ帰ろうと思ったが、冷泉さんからの使者に呼び止められて短い文を受け取った。
「夕霧くんと六條院に伺っています。朱雀さんもぜひどうぞ。」
俺にはつい先日冷泉さんと夕霧くん兄弟の真剣な対話を見てしまった罪悪感があったが、直々の仰せなので伺うことにした。
◇◇◇
「こんばんは」
冷泉さんは夕霧くんの居所である夏の町でのんびり座っておられた。白い直衣に紫苑色の指貫をお召しになられて。結われていた御髪も解かれ、とてもリラックスした表情でくつろいでおられる。
「やっと譲位できました」
そう仰るので、俺はこれまでのご苦労を思って胸がいっぱいになった。
「降りてこそわかる重圧ですよね」
「ですね」
二人してまた帝あるあるに頷いてしまう。
「今日は父上が譲位をお祝いして下さることになりまして」
「譲位って祝うことなんですか」
俺は思わず苦笑してしまったが、冷泉さんの責任感の強さを思えば解放を祝すのも当然のような気がした。
「祝いではなく慰労です」
しっかり者の夕霧くんが正確を期すために訂正してくれる。
「院になると身軽になりますね!」
冷泉さんはそれがもっとも嬉しいことのようで、微笑んで仰った。
「六條院にも来ていいとお許しを頂きまして。とても嬉しいです」
ずっと御所に縛られていた冷泉さんが光や夕霧くんと、家族と自由に会えるようになったんだと思うと感慨深い。
「俺は居ない時もありますから。連絡は下さい」
冷泉さんの隣に座る夕霧くんはいつものように鋭い目をしていたが、その青瞳の奥に泉のように尽きせぬ優しさを湛えているのがわかった。
「はい」
冷泉さんは素直にうなずくと微笑まれて。夕霧くんに会いやすくなったことが何より嬉しいんだろうなと俺は思った。
「おりゐのみかどー。あ山のみかどもいるー」
蛍は俺たちの部屋をひょいと覗くと声をかけてくれた。
「大納言大将、手伝ってー」
そう呼ばれて夕霧くんが立っていく。ここは人払いしているので今夜は蛍自ら宴の準備をしてくれているようだ。二十五歳で大納言と呼ばれるのはなんだか大げさな気がするが、いつも堂々として落ち着きのある夕霧くんに似合っている気もした。
新帝が即位されて髭黒さんは右大臣に、夕霧くんは大納言になった。玉鬘さんは夫の加階を喜んでおられるかな。夕霧くんもそのうち大臣になるんだろうか。太政大臣だった柏木くんのお父さんは冷泉帝の譲位に合わせて辞表を出し、致仕大臣と呼ばれた。
「院が増えたなあ」
光も夏の町に来て、揃って座る俺たちを見て苦笑したが嫌そうではなかった。
「父上こんばんは!」
「こんばんは」
二人はやっぱりそっくりだけれど光のほうが父の顔をしていて。冷泉さんを見守る眼差しが優しい。光はしばらくじっと冷泉さんを見つめていたが、急に彼に近づくとひざまずきばっと音が立つほどの勢いで正面から抱きしめた。
「……!」
不意に強く抱きしめられ、冷泉さんは珍しく驚かれていた。
「おかえり」
ため息交じりにつぶやいて、光は目を閉じた。
「ごめんな、つらい思いをさせて」
両袖で包み込むように冷泉さんを抱きしめながら、声を震わせている。
「本当に……すまない」
必死に涙をこらえる光の姿に俺も胸が詰まった。全て背負わせてしまったという思いは俺も同じだった。子に罪はないのに。結局冷泉さんお一人が除け者になられ、他の皆は救われて。皇統が続いていく。
冷泉さんはゆるく御首を振られると
「……ただいま、戻りました」
ホッとなさったように御目を閉じられ、微笑んで仰った。俺は二人が父子に戻れた十四年前を思い出していた。「一人ではあまりにも重い」と仰っていたのに。俺たちだってできることは何でもしたかったのに。どうしてあの予言書は冷泉さんにばかり厳しかったのだろう。どうして俺たちに何一つ背負わせてくれないのか。光だって見ていることしかできないのは相当つらかったはずだ。信頼して任せてはいても、やはり心配で仕方なかったんだと思う。
蛍を手伝い酒を持ってきた夕霧くんが戻ってきてもまだ光は冷泉さんを離してくれなくて。夕霧くんは、抱きしめられて身動きが取れないながらも嬉しそうな冷泉さんを優しく見守っていた。
「休めてる?」
「はい」
光は冷泉さんのお体を気遣うとようやく腕を離し、冷泉さんの隣に座った。夕霧くんも冷泉さんの隣に座って。光と夕霧くんで冷泉さんを囲む。
「支えて頂き、ありがとうございました」
「それはこっちの台詞だよ」
冷泉さんがおもむろにお礼を仰ると、光は強く答えた。光の栄華はすべて冷泉さんの御蔭だった。夕霧くんも見違えるほど加階して。御子が春宮に立たれたことで、妹である明石女御も中宮になられるだろう。弟妹にすべてお与えになって。何も残さずいってしまわれた……。
「ありがとう。俺たちと共に生きてくれて」
光が差した盃を、冷泉さんは感慨深げに受けられた。
「こちらこそ。皆さんがいて下さったから、頑張れました」
すっと一息に飲まれると、夕霧くんに盃を渡して酒を注いで下さる。
「大臣へ。頼りにしています」
「はい」
夕霧くんは冷泉さんからの盃を慎重に受けると、謹んで口をつけた。
「源氏の栄華ここにありー」
蛍は自邸から琵琶を持ってきたのか、月明かりにベベベンと弾き遊んでいる。
「絵になるなあ」
俺は出家していたのもあって酒は辞退して、皆を見ていた。良い親子だな。冷泉さんがまだ幼かった頃のことを思うと、しみじみとした感動があった。このまま皆が無事に暮らしてくれたらいいのに。こうしている間にも柏木くんの死がひたひたと迫ってくるようで、俺の心は常に祈りを唱えていた。
089 生まれながらの悪役
「さて、こっからだな」
光は盃を置くと真剣な顔をした。
「来年から心して行かねえと」
「来年何があるの……?」
俺は嫌な予感がして尋ねた。
「俺の最愛の妻が重病になんのよ。兄貴の五十の賀のせいでさ」
「また俺」
薄々予想はしていたがやっぱり俺なのかと、俺はただでさえ小柄な肩身が更に狭くなる気がした。
「兄貴の五十の賀に三宮さんの七絃琴を聞かせなきゃって、俺が手取り足取り教えるわけ。それで試楽した夜から紫が寝込んで、一時は仮死状態になるんだよ」
「そんなに重く……」
予言ではまさに親代わりになって三宮を育ててくれたんだなと俺はありがたく思った。光のその丹念な世話が奥様を苦しめてしまったのだろうか。いや、三宮が来た時から彼女の心身には負担がかかり続けていたに違いない。
「紫を二條院に移して俺もつきっきりで看病して、六條院が手薄になったすきを柏木にやられる」
「ひどい……」
いつもながら厳しい筋書きだと思った。それで子ができたら光の子と偽ることも難しいだろう。
「つまり兄貴の五十の賀がなければ、紫は病にならないわけ」
「そーかあ?」
蛍は強引なこじつけだと思ったのか、光の論に疑問を呈した。
「五十の賀なんてしなくていいよ」
俺は本心からそう言った。もうすぐ五十だってこと自分でも忘れてたくらいなのに。そのお祝いに奥様の命まで懸けてもらってはあまりに申し訳ない。
「兄貴が絡むと俺が苦しむわけよ。俺を苦しめるために兄貴は存在してるわけ」
「まあ仕方ねーよ。天下無敵のお前に意見できる存在なんて父上かすー兄しかいねーんだから。父上はお前のこと溺愛してんだし、すー兄しか悪役いねーじゃん」
蛍の意見は優しくて俺は救われる気がした。俺は悪役として生を享けてたのか……。
「生まれながらの悪役なんだよなあ」
「格好良いですね!」
冷泉さんは微笑んで褒めて下さる。
「いや俺も褒めてんだよ? 悪役の魅力が物語の魅力なんだからさ」
「嬉しくないなあ……」
俺は苦笑しつつ、光の指摘はもっともだと思った。母が桐壺更衣を死なせてしまったという一事からして俺は悪役側だし、俺たちの深い因縁を示しているのだから。
「そんな悪役の俺をよく仲間に入れてくれたね」
俺はそれが一番すごいことのような気がして光を敬愛の眼差しで見つめた。
「監・視・して懐・柔・するために決まってんじゃん」
光は至極当然といった顔で言う。
「ただ想像を絶するくらい善い人だから躊躇したよね。兄貴と並ぶと俺が悪人みたいに見えるもん」
「オメー善人のつもりだったのかよ鏡見ろ」
「お前それ冷泉さんに失礼だからな」
「私は善人じゃないですよ」
冷泉さんはニコニコされてこの会話が楽しそうだ。
「話が進まない」
夕霧くんが鋭い瞳で注意するのでいったん仕切り直しになった。
「柏木の病も防ぐ」
夕霧くんは決意したように言うが、光は腕を組んで考え込んでいる。
「もちろん俺はいじめねえけど、それだけで防げんのか? 柏木の様子は?」
「いたって元気そーだぜ。この前も一緒に蹴鞠したし」
「あの若い柏木がなんで死ぬんだろ」
俺も理由がわからなくて首をかしげた。
「来年に入ってすぐなの?」
「いや。紫の病が先で、柏木が忍び込むのが四月、俺が文を発見するのが六月、柏木は俺にバレたことを知ってずっと具合悪そうにしてるけど、十二月俺に睨まれてトドメだね」
「怒涛の一年だね……」
そんな恐ろしいことが次々起こるのか……。俺は三宮を光にあげなくてよかったと改めて思ってしまった。柏木くんの人生はすでにあの予言から外れているのでどうなるかわからないが、皆の無事を祈るばかりだ。
「奥様は今どこかお悪いの?」
「いや、全然平気そう。そもそも三宮さんは俺の嫁じゃないから、五十の賀をやるとしても柏木んちなんだよ」
光は思案しながら言った。
「柏木からもその相談が来ててさ。紫が悪くならなければ二月の予定だから、そのままやってもらおうと思って」
「やっぱりやるんだね」
「しょうがないよ。俺の反対で中止したら帝や三宮さんに悪いし」
「祝い事はガツンとやった方が良さげだなー」
蛍も光の予定に賛成していた。
「もう後はさ、柏木の体調に変化ないか皆で見張るしかなくね?」
「そうだなー」
「私も注意しておきますね」
「兄貴は三宮さんや帝と頻繁に文しといてよ。俺も一応見とくから。夕霧も見張れよ」
「うん」
俺が緊張してうなずくと夕霧くんも鋭い目で光を見た。心配だな……。あんなに元気な柏木くんが本当に亡くなってしまうのだろうか。俺は京を離れて西山へ帰るのは不安な気がしたが、柏木くんのためにも身を入れて祈ろうと決めて六條院を後にした。
090 予言と違う日
いよいよ年が明けて光四十七歳、冷泉さんは二十九歳になられた。夕霧くんは二十六歳。柏木くんはまだ三十一歳だ。それでも三宮と結婚してくれてから八年目になっていた。そろそろ飽きたり喧嘩したりしても良さそうなものだがそういう噂も聞こえてはこず、二人は仲良く過ごしているようだった。
「あけましておめでとうございます。元気にしておられますか。帝は柏木くんと仲が良かったよね。柏木くんのことについて何でも良いので教えて下さい。」
俺は新年早々我が子である帝に文を書いた。
「父上ご無沙汰しております。今年はいよいよ父上の御賀ですね! 姉上や柏木とも相談して準備を進めておりますので、楽しみになさって下さい。柏木ももちろん元気そうですよ。新年から良い竿の材料を探しに山へ出かけました。私も釣りがしてみたいので御所に池を造らせようかと思っております。」
「早速のお返事をありがとう。五十の賀はお気持ちだけで有難いけれど、祝ってくれるのは嬉しいです。御所に池を造るのは怒られるかもしれないので、朱雀院の池を使っていいよ。魚を放って釣りを楽しんで下さい。」
帝は春宮時代から柏木くんと仲が良いので、釣り好きの柏木くんにだいぶ影響されたようだった。竿の素材にまでこだわるとは凄い凝りようだが、元気そうでなによりだ。俺は三宮にも文を書いた。
「あけましておめでとうございます。三宮お元気ですか。柏木くんも変わりないかな。何か欲しいものがあったら送るので教えて下さい。」
「お父様ご無沙汰致しております。旦那様は御賀の準備にお忙しいようですが、月の良い夜などにどこか懐かしそうなご様子で和琴を弾いて下さいます。とても素敵な音色ですよ。私たちは元気ですが、なかなか子ができないのが少し寂しいです。旦那様はまたお湯に行こうかと誘って下さってます。」
お湯というのは有馬の湯のことかな。山がちだけれど柏木くん気に入ってくれたんだろうか。有馬に行くなら春か秋かなと思いながら俺は文を読んだ。三宮に和琴を弾いて聴かせてくれている……。いつものことなのだろうが、迫り来る死を思うとこれも貴重な思い出づくりのように感じられ、胸が痛んだ。柏木くんは落ち着いているように見えるが、すでに覚悟を決めているのだろうか。予言書を読まなかった俺は彼の死を未だに信じられず、いつまでも信じたくなかった。
◇◇◇
「紫も異常無しだよ。五十の賀は二月で決まりだね。」
一月末、光は文でそう知らせてくれた。良かった、奥様もお元気なようだ。俺の五十の賀は当初の予定通り二月十何日に、三宮が降嫁した柏木くんの邸で行われた。光をはじめ、帝や冷泉さんも御祝いの使者や贈り物をくれて俺は皆の心遣いに感謝した。
「蛍のお子さん……! 大きくなったね」
「可愛いでしょー」
蛍の下の息子さんが二人、綺麗な衣装で舞ってくれたので俺は感嘆の声を上げた。まだ五、六歳くらいかな。夕霧くんの三男くんと変わらない年頃なのが凄い。光や俺は孫がいるというのに、蛍って本当モテるんだな……。蛍のお子さんたちを見守る眼差しも優しくて。ただ彼は自宅で一緒に住む人は未だにいないようなので、亡き奥様はよほど特別な存在なのだろう。
玉鬘さんや夕霧くんのお子さんたちも可愛く舞ってくれて俺は微笑ましく思った。こんなに小さな子たちがここまでしっかり舞えるなんて、たくさん練習したんだろうな。
「朱雀さん、おめでとうございます」
柏木くんもニコニコ笑顔で俺を迎えてくれて、顔色もいいし元気そうだった。柏木くんはこの小さな舞人たちの衣装を担当してくれたそうで、色彩感覚や服飾のセンスが抜群のようだ。この祝賀の労に報いたのか、帝は柏木くんを中納言に加階させてくれた。
出家の俺に相応しく五十の寺で御誦経がなされたほか大日如来を供養する経も読誦され、華やかな中にも厳かな雰囲気が漂って俺は心洗われる気がした。柏木くんの邸には父である致仕大臣さんをはじめ柏木くんの弟さんたち、大臣や納言たち、夕霧くんも来てくれて俺は幸せだった。
「皆忙しいのにありがとう」
俺は自分の五十歳が嬉しいというより少しでも予言を違えられたことが嬉しくて、皆に感謝を伝えた。俺の祝賀をきっかけに皆が集まって笑顔になってくれるのは嬉しい。柏木くんは致仕大臣さんにとって自慢の息子で、弟さんたちにとっても自慢の兄なんだろうな。
「俺たちの演奏も聴いて下さいますか」
柏木くんはそう言うと、奥の部屋で三宮の琴を支えるように和琴を奏でてくれて。二人の合奏が聴けて俺は万感胸に迫る思いだった。柏木くんと結婚してから、三宮は愛されて幸せそうな雰囲気になったな。二人が出会えて、一緒になってくれて良かった。母である源氏宮が生きておられたら、今の娘の幸福を喜んで下さっただろうか。
三宮を柏木くんに嫁がせたことについて俺に後悔はなかったが、予想される彼の寿命の短さだけが悲しく懸念された。予言書なんて見つからなければよかったのに。いや、見つかってよかったのだろうか。できるだけ予言を引っ掻き回すよう努めたつもりではあるけれど。
俺たちの住むこの世界は誰かの創造物で、俺たちは駒の一つにすぎず、運命は変えられない、のかもしれない。それでも今日の日は予言と違っていた。今日が変われば明日が変わり、明後日もその先もきっと変わっていく。目的地は同じでも、見える景色や思い出が良いものに塗り替わっていく。あの予言書は俺たちの未来ではなく過去だったのかもしれないと俺はふと思った。俺たちはもう一度人生をやり直すためにここにいるのかもしれない。
091 生前贈与
春が過ぎ、夏になった。重く病むはずの光の奥様は相変わらずお元気なようで、俺はそれだけで救われる気がする。
「皆で祭見たよー。」
蛍は文で皆の近況を教えてくれた。物見車の混雑も例年どおりで賀茂祭も無事終わったようだ。俺の住む西山の寺は朝晩涼しいが、京は暑くなってきただろうな。六月頃だろうか、
「三宮さんが懐妊されました。」
この重要な報せを短い文で真っ先に俺に伝えてくれたのは夕霧くんだった。いよいよか……。三宮の子は光亡き後の主人公だと冷泉さんは仰った。そして彼を柏木くんの子として明るく育てることが俺たちの狙いであり、あの本に対する挑戦でもある。
「柏木はだいぶ喜んで皆に知らせてます。」
夕霧くんのこの一文だけでも、妻の妊娠に浮き立つ柏木くんの様子が想像されて俺は微笑んだ。三宮の体調は問題ないかな。二人は初めての赤ちゃんに必要なものを揃えたり名前を考えたり、幸せな時間を過ごしていることだろう。
「帝と冷泉さんが安産祈祷してくれてるよ。俺もしておくね。」
光からもやさしい文が届いて、俺は皆の思いやりに感謝しながら沈思黙考した。生死が予言通りなら、三宮の子は無事に生まれるだろう。そして柏木くんは亡くなってしまう。だが俺は予言を違え、三宮を柏木くんに降嫁させた。その上での出産だ。赤ちゃんは最初から柏木くんの子として生まれてくる。それがどんな意味を持ち、どのくらい未来を動かすのか。
「お父様お元気ですか。私はこの春から懐妊致しました。もう無理かもしれないと思っていたので、夢のように嬉しいです。旦那様やご家族の皆さまもとても喜んで下さって、この子に会えるのが今から楽しみです。」
三宮からの文にも、母になる喜びが溢れているようだった。
「お母様が生きておられたらどれほど喜ばれたことでしょう。体を冷やさないようにね。三人で幸せになって下さい。」
俺はそう書きながら、三宮が妊娠を喜んでくれて本当に良かったと思った。新しい命の誕生に怯え後悔することほど悲しいことはない。柏木くんも三宮の妊娠について悩み隠す必要がなくて良かった。それだけでも二人が結婚した意味はあったと俺は思う。
ただ、俺は三宮に予言を読ませていない。彼女はこれから起こるかもしれない不幸を何も知らない。それは不公平だ。未来を知る権利は皆にあるはずだが、あの本には重大な秘密が書いてある。そこを除いた部分だけでも多くの人に読んでもらうべきだっただろうか。いや、一部を読めば全部読みたいと願う人が必ず出てきてしまうだろう。それはどうしてもできない……。
赤ちゃんが生まれて一番幸せな時期に愛する夫を亡くすとしたら、三宮はどれほど嘆き悲しむことだろう。柏木くんと出会わなければ良かったと思ってしまうだろうか。彼女は夫亡き後も気を強く持ち、息子を育てながら生きていけるのか。年老いた俺はどれだけ娘を支えられるだろう。
俺はこれで正しかったのか何度も自問した。柏木くんの死期はもっと後にずれるかもしれないし、息子の誕生が彼を救うかもしれない。そうであってほしいが……。幸せな結婚生活と可愛い我が子の存在が、今まで三宮を支えていたものがそのまま重荷に変わる可能性もある。それでも俺には他の選択肢は無かった気がして。何度やり直せと言われても二人を結婚させただろうと思った。
◇◇◇
「朧月夜が出家したよ。」
秋頃来た光からの短い文は俺をとても驚かせた。神仏に俺を取られた気がすると言っていたあの朧月夜さんが出家とは……。
「兄貴がいないのが寂しすぎるんだって。」
光は俺に気を遣ってそう書いてくれたのかもしれない。俺は彼女が同じ道に進んでくれたことを意外ながらも嬉しく思って微笑んだ。恋人というより姉のような人で、いつも俺の世話を焼いてくれたな。気配り上手で優しい人だった。有能で多才な方なので六條院に迎えられてほしい気もしたが、二番手三番手扱いというのは彼女のプライドが許さなかったのかもしれない。
俺は僧として日夜祈りを捧げた。すべての命が精一杯輝くように。御仏の加護があるように。三宮の妊娠は順調な経過をたどり、十二月になっていた。
「匂宮が生まれたよ。今のところ可愛いです。」
光はお嬢さんの出産も文で教えてくれた。匂宮くんは明石女御が産んでくれた四人目の孫になる。
「お父様、旦那様から横笛を頂きました。子が生まれたらあげてほしいと。」
ある日三宮から届いた文に俺はドキリとして、だいぶ長い間見ていた。
「お邸や荘園の権利証なども譲って頂きまして。結婚してこれほど長くなれば妻に渡すのが習慣だと仰るのですが、そんなものでしょうか。」
俺はなんと返事を書くべきか悩んだ。
「柏木くんの仰ることをよく聞いて、その通りにしたらいいよ。体はつらくないですか。温かいものを食べてよく眠ってね。柏木くんとゆっくり過ごして下さい。」
西山の寺には雪が積もっていた。俺は文の使いに酒食を提供して足止めした。暗い雪道は危ないため、文は明日持って行ってもらうことにしよう。柏木くんはいつもニコニコ笑って機嫌が良さそうに見えたが、やはり死を覚悟しているようだ。どれほど信じているかはわからないが、もしものための行動を取っているのだろう。
柏木くんは京を離れて旅に出たり、邸にこもったりすることはなかった。他の貴族と同じように御所に通い何食わぬ顔で自分の務めを果たしている。俺は帝に柏木くんの休暇を乞おうかと思ったが、病でもない彼に突然そんなことを言い出すのも不自然で、何もできなかった。
「夕霧くん、柏木くんの様子に変化ないかな。三宮に財産を遺してくれているようだけど。」
「冷泉さんに薫のことを頼んだそうです。祖父母がいるので必要ないかもと言っていたそうですが。」
俺は夕霧くんからの文を読んで胸が締め付けられるように感じた。柏木くんはこのまま、昨日と同じ今日を過ごしながら亡くなるつもりだろうか。本当にそれでいいのか? 彼は冷泉さんとの約束を守り、三宮にも予言のことは告げていないだろう。妻の前で明るいフリをし続けるのはどれほど苦しいことか。
俺はいつも三宮のそばに居てくれる柏木くんに心から感謝しながら、運命が変わることを願った。柏木くんには三宮と共に我が子の成長を見届けてほしい。夕霧くんと並び立ち帝を支えてほしい。これから先もずっと……。俺は僧としてふさわしくないほど彼の存命を願った。
092 薫誕生
年が明けて、光四十八歳、冷泉さんは三十歳になられた。夕霧くんは二十七歳。柏木くんは三十二歳だ。
もうすぐ薫くんが生まれるだろうと聞いて、俺は新年早々山を下り朱雀院へ向かった。院には最低限の管理をする院司しか置いていなかったが、山寺での自立生活にも慣れたのでそれほど困ることは無いだろうと俺は思った。
「朱雀さん!」
数人の供だけ連れて、馬に乗ってのんびり歩いていた俺を後ろから呼び止めたのは柏木くんだった。
「柏木くん。おめでとう」
「あけましておめでとうございます」
柏木くんも馬で来ていたが、一人にしては何本もの釣り竿を馬に乗せている。
「たくさん竿を使うんだね」
「釣りをしていると子どもたちが寄ってくるので、あげているのです。今は釣りの時期じゃないので手入れのために預かってきました」
柏木くんの微笑みはいつもどおりで優しかった。
「三宮さんの出産を見に来て下さったのですか」
「うん。もうすぐみたいだから」
「うちに泊まっていかれませんか?」
「お邪魔じゃないかな」
「三宮さんも喜びますから」
「ありがとう。じゃあ少しだけ」
柏木くんがそう言ってくれるので、俺はついお言葉に甘えた。
「柏木くん、三宮にいろいろ譲ってくれたみたいでありがとう」
俺は柏木くんと駒を並べて歩きながら、何気ないふうを装ってお礼を言った。
「いえ」
柏木くんは微笑んだまま少し視線を落とす。
「……怖くない?」
無神経かもしれないが、俺はそう尋ねた。
「そうですね……怖いです。怖いですけど」
柏木くんは前を向くと澄んだ瞳で続けた。
「死期がわからないよりずっと良かったです。覚悟もできるし、限りある時間を精一杯楽しむこともできました。悔いが無いといえば嘘になりますけど……俺はあの予言書を読めて良かったです」
柏木くんははっきりとした口調で答えてくれる。
「強いね」
俺は畏敬の念を抱いた。自らの死と正面から向き合う柏木くんを尊敬していた。
「三宮と結婚してくれてありがとう」
「こちらこそ。彼女と夫婦になれてこんなに長く過ごせたなんて……夢のようです」
柏木くんのあたたかい言葉に、俺のほうが救われていた。
◇◇◇
柏木くんの覚悟は僧の俺よりよほど澄み切って潔かった。己の死期を知れば残りの時間を充実させることができる。確かにその通りだと思う。ただ未来を知るのは辛いこともあっただろう。俺は柏木くんの邸の奥の部屋に座らせてもらうと、静かに手を合わせて祈った。
俺たちはなぜ生まれてくるのだろう。肉体がなければ感じられない慾を満たすためだろうか。大切な人に会いやり残したことをやるためだろうか。この世はつらいと知っていながらなぜ赤子の誕生を祝ってしまうのだろう。あの世には永遠があるのだろうか。俺は左手に巻く数珠をじっと見つめた。もし彼がそちらに行くなら……どうか彼を頼みます。
一月半ば、薫くんは生まれた。三宮は小柄なので心配したが、薫くんは夜明け頃元気な産声を上げて生まれてくれた。帝と冷泉さん、それに光も産養を贈って下さった。祖父である致仕大臣さんは大喜びで柏木くんの息子を抱っこしに来た。彼は生まれたばかりの薫くんに頬ずりして「寿命が伸びる気がする」と泣いて喜んでいた。
「良かった」
柏木くんは父親の喜ぶ顔を見てとても満足そうに微笑んだ。
「これが見たかったんです。俺の子が生まれたってことを父に知ってほしくて。これで思い残すことはありません」
俺は嬉しいのに悲しい気がして。つい涙ぐんだ。致仕大臣さんが気遣ってくれて、三宮にはしっかりした良い乳母がついてくれる。三宮は皆に手伝ってもらいながら楽しそうに子育てしていた。抱っこしてあやしたり授乳したり、本当に幸せそうだ。柏木くんも暇さえあれば抱っこして、薫くんの顔をじっと見つめていた。
「俺に似てるかな?」
微笑んで三宮に尋ねたりして、とても仲の良い夫婦だった。
093 思い出を胸に
結局若い柏木くんはちっとも病にはならず、元気なままだった。将来有望で人柄も優しい柏木くんに子が生まれたので、京じゅうがその誕生を祝福してくれる。帝は特に三宮の弟でもあるし、柏木くんのことは元からお気に入りなので機嫌が良かった。
「匂宮といい従兄弟になるね」
ひと月前に生まれた匂宮くんと比べたりして、二人の将来が楽しみなようだ。俺は三宮と柏木くんの幸せそうな姿が見られて安心したので山に戻ろうとしていたが
「柏木の死はもうすぐです」
夕霧くんがそう教えてくれたのでまた涙が出そうになった。
「もうなの……?」
厳しいな……可愛い息子が生まれて、人生これからって時なのに。
「でも、一度山には戻るね」
柏木くんの死を待つために京に留まるのは耐えられない気がして。俺は夕霧くんにそっとそう伝えた。
「教えてくれてありがとう」
夕霧くんは鋭い視線のまま無言で一礼した。
「俺が柏木のそばにいて、見張ります」
夕霧くんは最後の最後まで希望を捨てず、親友である柏木くんを救うつもりのようだった。
◇◇◇
柏木くんが川で溺れて亡くなったという急報を聞いたのは二月終わりのことだった。俺は急いで山を下りた。柏木くんの邸には致仕大臣さんや柏木くんの弟さんたちが大勢つめかけて泣いている。俺が伺うと夕霧くんが出てきて、経緯を説明してくれた。
「柏木が川で釣りをしていたら、周りにいた子どもの一人が溺れて。柏木が助けに入ったんです」
夕霧くんの目は鋭いままだが、泣き腫らし赤くなっていた。
「子どもは助けましたが柏木はだいぶ流されて。俺と柏木の弟たちでなんとか引き上げました。その時は多少水を吐いただけで、元気そうだったんですが」
柏木くんは「夕霧のおかげで命拾いした」と礼を言いながら帰路についたそうだ。
「その夜から酷い咳をしだして。僧たちも呼んだのですが、助かりませんでした」
夕霧くんは膝の上でぐっと拳を握りながら、悔しそうに言った。
「俺の責任です」
「そんなこと、ないよ……」
俺は悲しいがどこか納得した気がして。良い死因だと思った。好きな釣りの最中に溺れた子を助けて……。こんなに柏木くんらしい、優しい死因があるだろうか。
「三宮はいるかな」
「柏木の枕元に」
俺は大勢の人が嘆き悲しむ中を静かに歩いて、三宮のもとへ行った。
「お父様……」
三宮もぽろぽろ涙を流していて。その腕には薫くんが、何も知らずにスヤスヤ眠っている。
「柏木くん……」
柏木くんの顔はすこし微笑んで、ただ眠っているだけのように見えた。咳で苦しかっただろうに。溺れた子を救えたことに満足したのだろうか。柏木くんの足元には蹴鞠の時拾った唐猫が、主人を守るように香箱を組んでいた。
「……ありがとう」
俺は彼に出会えて、婿になってくれたことに感謝して。その手を握り、深く頭を垂れた。あなたの笑顔は太陽のように三宮を照らしてくれました。三宮にたくさんの幸せな思い出をくれてありがとう。予言を変えられなくて……すまない。
俺が柏木くんの枕上を去ろうとすると、薫くんを抱っこした三宮がそっと後をついてきた。心配そうな顔をした乳母に薫くんを預けると、俺の袖を引いて奥まった部屋へ誘導する。
「お父様、これを」
三宮は見えない場所から一通の文を持ってくると俺に差し出した。
「旦那様からです」
俺は白い綺麗な紙をそっと開いた。遺書だった。
「降嫁の夜はじめて彼女を間近で見た時、やはり俺は一目惚れをしました。緊張なさって伏し目がちな瞳、抱きしめると俺に包まれてしまうようなあえかなお姿、すべてが想像以上に愛しく、可憐で、この方を妻にお迎えしたということが奇跡のように嬉しく、溺れるほど深く愛しました。彼女は優しく誠実で疑うことを知らず、いつも笑顔で俺を待っていてくれました。彼女の笑顔は俺の生きる希望でした。彼女と話して笑いあえたこと、琴の音を合わせられたこと、心から愛し合えたことは、俺の短い人生の中でも最上の喜びです。本当にありがとうございました。また彼女に会えることを信じています。」
優しく美しい墨付きで、柏木くんの人柄が偲ばれるような字だった。柏木くんはどんな思いでこれを記し、三宮へ託したのだろう。俺はしばらく動けず、何も言えなかった。
「お父様、私を出家させて下さいませんか」
三宮はそんな俺を意を決した眼差しで見つめると、はっきり言った。その瞳は涙に濡れていたが、弱くはなかった。
「私も旦那様のもとへ参ります」
「……自死はいけないよ」
俺は文を閉じながら冷静に答えたが、三宮は柏木くんの跡を追うつもりではないようだった。
「旦那様の菩提を弔い、同じ蓮へ参ります」
三宮の口調は静かだが迷いがなかった。柏木くんの最期について、三宮にも覚悟があったのかもしれない。
「出家すれば再婚はできないよ」
「はい。それを望んでおります」
三宮はまだ二十二だった。髪も艶々と長く美しい。
「もうどなたとも付き合うつもりはございません。旦那様の思い出を胸に、生きて参ります」
そのための出家かと俺は悟った。皇女でも望まぬ縁が付いてしまうこともある。母親が守っていないこの子ならなおさらだろう。柏木くんは三宮に一生分の愛をくれた。俺はそう解した。
「……わかった」
俺はうなずくと、柏木くんの回復を祈り、今は冥福を祈ってくれている僧たちの中で適した人を呼んでもらった。そして嘆く人々もいったん帰り邸内が少し落ち着いた夜明け、三宮の髪を尼削ぎに切って出家させた。
094 幼い二人
皆から愛され将来を嘱望されていた柏木くんの訃報は京に衝撃を与えて、その死を惜しまぬ人はいなかった。帝もたいそう悲しんで、柏木くんを権大納言に加階なさった。葬儀には内裏からも冷泉院からも多くの人が参列して、厳かでしめやかに営まれた。鈍色衣の乳母に幼い薫くんが抱かれて。
「この子を形見として、親族一同、息子の分まで愛情を込めて育てます」
致仕大臣さんは涙にくれながらも、強い決意を込めた口調で話す。
「二十二の娘を出家させちゃったの」
俺の隣に座り柏木くんを見送った光は残念そうにそう言ってくれた。俺を責めているのではなく、若い三宮を気の毒だと思ってくれたのだろう。
「予言を違えたかな」
「いや、同じ」
知ってはいてもやはり柏木くんの死は悲しく、光も目を赤くしていた。
「予言では三宮さんの出家が先なんだ。病床の柏木はそれに絶望して、泡が消えるように亡くなる」
「それは、つらいね……」
彼らの運命は最後まで悲しみに彩られていたのかと俺はやるせなく思った。俺たちはそんなつらいはずの未来を、少しは変えられたのだろうか。
「薫がいてよかったね。薫が柏木の子としていて」
光は前を見つめると優しく笑った。
「致仕大臣も凄くショックは受けてたけど、薫がいるから生きる希望は失ってないようだし。夕霧や弟たちもたくさんいるから、皆で薫を支えてくれるよ」
「そうだね」
俺もそれが一番有り難いことだと思った。夕霧くんや柏木くんの弟さんたち、本当の家族に囲まれて賑やかに育つ薫くんはきっと幸せだろう。
「ついに系図を変えちゃったね」
「だね」
だいぶ予言を違えたかなと思ったが、俺に後悔はなかった。
「どんな未来が待ってるんだろう」
「さあね」
光も苦笑しながら、やはり後悔はないようだ。
「奥様は元気?」
「うん。逆に心配だけど、仕方ないね」
柏木くんの死が避けられなかったことで光も覚悟を決めたようだった。
「紫が死ぬ前には一緒に出家しようと思う。そろそろって話はしてたからね」
「そっか」
俺もうなずいて。光の夫婦も仲が良いんだなと思った。
◇◇◇
俺は西山の寺に帰ると、毎日行いに励んだ。桐壺更衣に始まり、葵さん、父上、入道宮さま、六条御息所さん、母、承香殿さん、柏木くん。他にも沢山の人と別れてきたな。俺もそろそろかなという気持ちが不安ではなく安らぎですらあった。皆と同じところへ行けるだろうか。出家している三宮にもたびたび文を書いた。
「目指す道は遠いけれど、共に励みましょう。」
あの子のほうがこれから先が長くて大変だろうに。俺は彼女の決意を尊敬した。三宮は出家後の方が安心して柏木くんのご家族と交流できるようで、夫婦で過ごした思い出の邸にそのまま住み、仏道に励みながら薫くんを育てている。
薫くんは致仕大臣さんや柏木くんの弟さんたち、夕霧くんの邸などに連れて行かれては皆から可愛がられているようだった。父親代わりになってくれる祖父や叔父たちに囲まれて、薫くんの生い立ちは少し夕霧くんに似ているかもしれないな。
柏木くんが亡くなって一年が経つと、俺は柏木くんの追善供養を行った。帝、冷泉さん、光、それに夕霧くんもそれぞれ追善供養を営んでくれているようだ。西山の寺近くの山林に筍が生えていたので、俺は掘りたてを光と三宮へ贈った。
「旬の恵みをありがとう。孫たちに食べさせるね。」
光は嬉しそうな返事をくれた。光の孫は俺の孫でもあって。春宮、二宮、匂宮くんに女の子もいた。皆すくすく育っているかな。
「お父様、美味しい筍をありがとうございました。薫はハイハイから立ち上がり、少し歩くようになってきました。歯が生え始めたようで、茹でた筍を熱心にかじっております。」
三宮の文からは薫くんの成長が目に見えるようで俺は微笑ましく思った。皆元気そうでよかった。たまには会いに行こうかと思いつつ、世を背いた身なので遠慮もあって俺は祈る日々を続けた。生きている人も亡き人も。皆幸せでありますように。
「兄貴。孫たちに会いに来て。」
秋頃だっただろうか、光が緊急性の高そうな文をくれたので俺は何事だろうと山を下りた。少し急いで六條院へ向かう。六條院には夕霧くんも来ていて、薫くんを抱っこしてあげていた。
「わあ、大きくなったね」
俺は可愛いなと思って、つい薫くんの小さな手を握った。
「ここにいたか問題児ー」
六條院には蛍も来ていて、薫くんと同じくらいの男の子を見つけるとひょいと抱き上げる。
「こいつが匂宮だよー」
蛍が抱っこする男の子は負けん気が強そうで、抱っこする蛍の耳をぐいぐい引っ張っていた。光はそんな匂宮くんを見て苦笑している。
「兄ちゃんとも競って勝とうとするたくましい子なのよ」
「光にそっくりだなー」
「いやお前だろ」
蛍は抱っこした匂宮くんがじたばたするので床に下ろすと
「卑怯な手使うなよーこの色男! 女を争うなら決闘でもしろ」
匂宮くんの目をじっと見つめながら注意した。匂宮くんはプイと顔を背けると夕霧くんの裾にまとわりつく。
「たいしょー、だっこ」
夕霧くんに抱っこをせがんでいるようだ。夕霧くんは右腕で薫くんを抱っこしたまましゃがんで左腕で匂宮くんを抱き上げたので、幼い二人はしばらく見つめ合った。
「力持ちだね」
俺は感心して、夕霧くんはすっかり頼もしい父の顔になったなと嬉しく思った。
「頼むぞホントに。未来の平和はお前らにかかってんだからなー」
蛍が二人同時に頭を撫でてあげると、薫くんはニコニコしたが匂宮くんは頬を膨らませて嫌そうにしていた。この二人の生い先もどうなるのかな。楽しみなような怖いような、でもやっぱり子どもが育つのは楽しみな気がして。俺は二人が他の子たちと遊ぶのを微笑んで見ていた。
095 月の宴
また年が返って光五十歳、冷泉さんは三十二歳になられた。夕霧くんは二十九歳。もう三十代目前だな。光と奥様はお変わりないだろうか。年齢が年齢なので、そろそろ体の不調が出ても仕方ない頃だろうと俺は思った。
俺は早寝早起きして毎日祈り、平和に過ごしていた。俺は僧に向いていたかもしれないな。もともと母の罪を償うためにと願った出家だが、そういう理由がなくても早晩僧になっていただろう。競争の果てに何があるのだろうと俺はすぐ思ってしまう。誰かを泣かせてまで手に入れる幸せに何の意味があるのか。己の願いが叶うことが良いことなのかすら、俺にはわからない。
薫くんは三歳、匂宮くんは四歳になった。匂宮くんは十二月、薫くんは一月生まれなので、一歳差と言っても二人は実質ひと月しか違わない。仲良く育っているだろうか。ただでさえ歳が近いのだから、匂宮くんの競争心を煽らないためにも周りはあまり二人を比べないほうがいいのかもしれない。
匂宮くんは女性ばかりの六條院で光の奥様に特別愛されながら養育されているようだった。薫くんはしょっちゅう祖父の致仕大臣さんに会いに行くそうで、叔父や従兄弟たちに囲まれて賑やかに雄々しく育っていることだろう。
◇◇◇
「朱雀さん、十五夜に冷泉院へお越し下さい。」
秋のはじめ冷泉さんから文を頂いて、俺は緊張しながら山を下りた。冷泉院にお邪魔するのは初めてだな。御所に参るより緊張する気がするから不思議だ。
冷泉さんは譲位されてからも人気がおありなので、院について来る女性たちも多かった。中宮さまを尊重なさることも在位中と変わらずで。少しはゆっくり羽を休めておられるだろうか。
「すー兄きたきたー」
俺が忍びやかに到着したときには、光や蛍は既に来ていたようだった。蛍が遠くから手招きして俺を呼んでくれる。
「兄貴痩せた? なんか小さくなってない?」
光は俺を見ると開口一番心配してくれた。
「背は元から低いけど……さらに縮んだかな?」
俺は皆からじっと見おろされて苦笑した。一応帽子も被ってるんだけどな。毎日精進料理で酒も飲まないし、たしかに少し小さくなったかもしれない。
冷泉さんを中心にして左手に光と蛍、右手に夕霧くんが座っていた。俺は夕霧くんの隣に座らせてもらい、ちょうど良い高さにのぼった月を眺める。
「兄貴元気だしてね」
光はいつもより悲しそうな顔をしてそう言ってくれた。そうか、そろそろ俺も死ぬのかな。これは冷泉さんが俺に用意してくれた最後の宴なのかもしれない。
「今までありがとう。皆に会えて楽しかったです」
俺は丁寧に頭を下げた。
「やめてよそういうの」
光が悲痛な顔をして止めるので苦笑してしまった。悪役相手にも別れは惜しんでくれるのだろうか。
「俺まで死にそうに感じるじゃん」
「光は長生きしそうだけどね」
「どういう意味?!」
「憎まれまくって世に憚ってるからなー」
蛍は苦笑して光を眺めている。
「そういえば二宮さんさ、どーなったか知ってる?」
「ううん」
俺は二宮については母親と本人に任せるつもりで、何も関与していなかった。
「二宮さんに通ってる貴族がいるんだよ。もちろん夕霧以外のね」
「へえ……」
ついに予言に書かれていない人が現れたと思って、俺は嬉しいような不思議な気持ちがした。
「結構位の高い人だよ」
「真木柱さんはどう?」
「いい感じなんだなーこれが」
蛍は片目をつぶって教えてくれた。真木柱さんと柏木くんの弟さんの仲も上手くいっているようだ。
「良かったね」
俺は二宮の近況も聞けたのでいよいよ心置きなく逝ける気がした。
「お前あの巻実現しなくていいの? 雁ちゃんとの微笑ましい夫婦喧嘩が」
光は夕霧くんにニヤリと笑ったが
「微笑ましくない」
夕霧くんは不機嫌そうに眉を寄せた。
「雁ちゃんのこと鬼・呼ばわりして実家に帰られちゃうんだよなー。お・い・ら・か・に・死・ね・とか言われて」
「どういう状況?!」
とても微笑ましいとは思えなかったが、光と蛍は苦笑しながら夕霧くんを見ている。予言の中の夕霧くんはなかなか大変なようだ。
「このままだと他の男に取られちゃうよ? 二宮さん風流な美人だろうに」
「いい」
「雁ちゃんに散々子ども産ませといて『うるさい家は嫌』とか言う奴だからなー。今の夕霧のほうがよっぽど良いよ」
光がもったいないと言った様子で尋ねたが、夕霧くんはにべもなかった。蛍はそんな夕霧くんを褒め称えて。夕霧くんの言葉に嘘や無理は無いようだ。
「未来って、変わるんだね」
あんなに強くそれを望んでいたのに。いざ叶ってみると不思議な気がして、俺はしみじみした気持ちで言った。
「楽しみだね」
これから先が楽しみだ。その気持ちを持てたことが嬉しい。
「変わらぬ未来もありまして」
冷泉さんは優しく微笑まれると、俺にこっそり教えて下さった。
「私にも娘が生まれました。少し前ですが」
「そうでしたか……おめでとうございます」
俺は感極まって、涙をこらえながら御祝いを申し上げた。
「本当に、ご苦労をおかけしました」
お詫びすら不適切な気がして、ただただ頭を下げる。
「冷泉さんと夕霧くんの未来が無事だといいのですが」
俺はそれだけが心配でつい口にした。
「あまり予言を違え過ぎて、天変地異でも起きないか心配で」
「そのときはそのときです」
冷泉さんはニコニコ笑って仰って、相変わらず肝が据わっておられる。
「今宵の月を楽しみましょう」
皆が酒を飲む間、俺はお茶をもらって十五夜の月を眺めた。予言が記された昔にもこの月はこうして照っていたのかな。この月だけがすべてを知っている気がして。俺は今まで生きてきた年月を思った。一人じゃなかったから生きてこられたな。みんながいたから。楽しかった。
「どんなことでも夕霧に相談して、一人で抱え込まないんだよ。いい子だから」
光は酔いながら冷泉さんに説教していた。冷泉さんをじっと見つめて、頭や頬を撫でてあげている。三十歳を超え娘さんまでおられる冷泉さんの頭を撫でるということに俺は驚愕したが、冷泉さんは微笑みながら抵抗なさらず、どこか楽しげだった。どっちが子供かわからないなあ。いくつになっても子供は子供で、心配になってしまう親心はよく理解できた。
夕霧くんを見て葵さんを思い出すように、光は冷泉さんを見ると入道宮さまを思い出すんだろうな。困難ばかりの恋だっただろうけれど。冷泉さんがこうして笑っていて下さるだけで救われる気がする。何をして下さったとかそういうことではなくて。夕霧くんや冷泉さんの存在自体に、俺たちは救われたと思う。
「本日はありがとうございました」
俺は今日呼んで下さったことに感謝して、冷泉さんに御礼申し上げた。
「お元気で」
冷泉さんは優しく微笑んで見送って下さる。光と蛍は眠ってしまって、門に向かう俺に最後まで付き添ってくれたのは夕霧くんだった。今日はあまり酒を飲まなかったのかな。それほど酔ってはいないようだ。
「ありがとうございました」
夕霧くんがお礼を言ってくれるので、
「俺の方こそありがとう。夕霧くんに出会えてよかったです」
俺は丁寧に頭を下げた。夕霧くんはそのつよい瞳でしばらく俺を見ていたが
「母によろしく、お伝え下さい」
少し微笑んで言ってくれた。瞳の奥で煌めくような、俺の大好きな微笑みで。
「伝えます」
俺で会えるかなと思いながらも、俺はうなずいて約束した。
096 星の海
秋の終わり、二宮の母である一条御息所さんが亡くなられたという知らせが届き俺はお悔やみの文を書いた。二宮の返事は思ったより落ち着いていて。彼女に通う貴族がいると聞いてはいたが、御息所さんは娘についてその人に後見を頼んでいたのだろう。
俺が死んだのは雪の夜のようだった。それ以降の記憶がない。静かに降り積もる雪が匂いも音も消して、この世に俺しかいないように感じた。それが不思議と苦痛ではなくて。夜明け前、暗闇の先に微かに見えるひかりと差し向かいになり、目を閉じて。俺はやっと迎えがきたのだと悟った。
◇◇◇
とても長い間眠っていたような気がした。まぶたというものがあるのならば、うっすらそれを開く。澄んで清浄な世界のようだった。俺はしばらく仰向けで寝転んだままぼんやりしていて。だいぶ経ってから、俺のことを横からじっと覗き込んでいる人がいることに気づいた。
「大丈夫ですか?」
髪が長くて女性のようだった。起き上がろうとする俺に手を貸してくれる。俺は半身を起こすとまだぼんやりしていた。白い靄のようなものが足元に漂い、俺たちを優しく包んでいる。美しい人が俺をじっと見つめているので
「はじめまして。朱雀です」
俺はそっと頭を下げた。彼女は瞳の奥で微笑むと
「はじめまして。葵です」
丁寧に答えてくれた。彼女の微笑みは夕霧くんにそっくりだった。
「お疲れだったのですね。ずっと眠っておられましたよ」
葵さんは俺を見つめて心配そうに教えてくれた。
「迎えに来て下さったんですか」
「はい」
「すみませんでした。お待たせして」
葵さんが微笑んで首を振られるので俺は恐縮した。見た目、変じゃないかな。年もとったし……。葵さんは亡くなられた時と同じ、若く綺麗なお姿のままだ。
「夕霧くんからよろしくお伝えするよう言付かりました。夕霧くん、とても立派になられて」
俺はそう話しながら胸がいっぱいになって、しばらく言葉が継げなかった。
「お子さんが十二人おられて。皆とても可愛く、しっかり育っておられます。光も元気で、孫が春宮になって。国の祖父になりました。葵さんのご実家も安泰で、とても栄えておられます。ご親族も次々出世なさって。夕霧くんも太政大臣になられるそうです」
たくさん話したいことがあったはずなのに。いざ葵さんを前にすると何も思い出せなかった。こんなこと全部ご存じだろうに。自分の口から説明したくて仕方ない。
「他の方のことばかりですね」
葵さんは強い瞳で俺をじっと見つめて下さる。
「あなた様のことは」
そう問われて、俺は苦笑した。
「俺は……年を取りました。皆に助けられてばかりで。出家したので髪も無いでしょう」
そう言って思わず頭に手をやったが、黒髪の感触があるので俺は驚いて引っ張った。確かに若い頃のような黒髪が、サラサラと胸まで伸びている。
「若返ったのかな……?」
俺はしばらく首をかしげて考えていたが、よくわからなかった。葵さんは俺の隣にそっと座って下さる。ここは天国なのかな。夜空の雲の上のようなぼんやりした空間だった。時間もあるようでないような場所で。俺はただ葵さんと一緒にいられて、満たされていた。
「父上」
そんな俺の目の前をスーッと通っていく人がいて。父上だった。帝時代の、だいぶ若い父上のような気がする。そしてその後ろを静かについていく若い女性がいて。
「……母上?」
物静かで芯の強そうな女性だった。この人が昔の母なのかな。父上の進むほうへ一心についていく。その後ろに少し間隔を空けて二人の女性が歩いていた。よく似た二人で。
「桐壺さん、藤壺さん」
俺は会ったこともない人の名がはっきりわかるので不思議に思った。二人は仲良く談笑しながら歩いていて、俺に会釈してそっと通り過ぎていく。そして
「朱雀さん!」
忘れ得ぬ懐かしい声で呼ばれて。俺はやっと目が覚めたような気がした。
「柏木くん……!」
柏木くんは釣り竿を肩に担ぎながら、俺に笑って手を振っている。
「ここは天国なのかな?」
俺が尋ねると
「まだ道の途中ですよ」
柏木くんは笑って教えてくれた。
「兄貴遅すぎ。まだ寝てたの?」
そのとき背後から聞き慣れた声がしたので俺が驚いて振り向くと、今度は光がスーッと近づいてくるのが見えた。
「光! 死んじゃったの?」
「死んじゃったよ。何年たったと思ってんの」
光は笑って俺のそばを通り過ぎる。隣には奥様かな、藤壺さんによく似た女性が微笑んで付き添っていた。
「また後でね」
光が先に行ってしまったので俺は少し焦った。その後ろを
「すー兄おさきー」
蛍も明るく手を振って過ぎていく。隣にいるのは亡き奥様かな。蛍と腕を組んで見つめ合い、とても仲が良さそうだった。
「みんな行っちゃった……」
みな同じ方へ向かって進んでいくようだった。それぞれのスピードで、話したり笑ったりしながら、幸せそうに歩いていく。
「皆死んじゃったんでしょうか。世界が終わって……」
俺が心配になって尋ねると
「時が経っただけですよ。世界はまだ続いています」
葵さんは冷静に教えてくれた。こういうところ夕霧くんにそっくりだなあ。俺は心から安心できる気がして。
「行きましょうか」
葵さんが手を差し伸べて下さるので、俺は彼女を見つめると、その手をそっと握った。不意に涙がこぼれて。
「はい」
俺で、いいのかな。でも握ったこの手を離したくなくて。
「よろしくお願いします」
俺が頭を下げると葵さんは微笑んでくれて、俺たちは一緒に立ち上がった。目の前の視界は白く霞んでいて。足元も雲に包まれているがよく見ると
「星の海だ……」
漆黒の空に無数の星々が瞬いて、天の川に立っているような感じがした。
「にーおーくん、あーそーぼー」
「薫、お前いつまでそんなガキみたいなこと言ってんだよ」
ずっと下から少年たちの声がして、俺は耳をすませた。
「におくん大人になったの?」
「なっ……てないけど心構えだよっ!」
「じゃ賭弓やろー」
「賭弓って……お前もうそんなことしてんのかよ」
「皆してるよー」
「俺は賭け事は死んだかあちゃんに止められてんだよっ!」
「におくん育ちよすぎー」
「一応帝の子どもだぞっ!」
仲の良さそうな声に俺は思わず微笑んだ。葵さんと握った手はあたたかく、足元から頭上まで、辺り一面星でいっぱいで。風もないのに葵さんの長い髪は緩やかになびいて、海の中にいるようだった。俺は葵さんを見つめると幸せを感じて。少し照れて微笑むと、一歩ずつゆっくり歩き出した。
朱雀と弟