フリーズ52 Last First Cry
全能から眠る日
遠い記憶。かつて、世界に数十億の鼓動が聞こえ、人類は蒙昧にも栄えていた。人々は過去の大戦をも忘れ、偽りの平和を享受した。だけど、その虚構ももう終わりなんだ。だって、私の時が止まるのだから。
それは、私の願いだったけど、彼の願いでもあった。永遠を終わらせるためには犠牲は不可欠だった。
「先に行ってて」
頬をなでながら彼は私に言うが、装置の中で凍ってしまった私はその声を聞くだけだった。頬に触れる彼の手の感触ももう分からない。彼は悲しそうに私を見つめるだけだ。
その時、研究室に武装した男たちが入ってきて、銃を彼に向けた。驚くことなく、むしろ微笑んで、彼は運命を甘んじて受け入れた。でも、その手は震えていた。この装置から出て、大丈夫だよって、その手を握ってあげたいけど、出来ないのがもどかしかった。
「君たちの目的は僕の研究の成果だろうが、もう遅い。全ては今、終わったんだ」
彼は銃を向けられてなお、毅然を振る舞った。銃声が鳴る。彼の頬を銃弾が掠めた。
「死ぬ前に言い残すことはあるか?」
男の中のリーダー格が重い声で尋ねる。彼は両手をズボンのポケットに突っ込んで答える。
「僕は死んでも死なないさ」
その瞬間、彼はズボンのポケットからスイッチを取り出した。そのスイッチが押されるのと彼の右手が吹っ飛ぶのは同時だった。途端に研究室のドアが閉鎖される。
「くっ……。毒ガスか」
男たちはその場でうずくまって嗚咽を始める。
「このガスは人間には毒なんだ。君たちには新世界への手向けとなってもらうよ」
悶苦しむ男たちを背に彼は振り返る。彼もとても苦しそうだった。右手から血が滴るのは見るに耐えない。彼の瞳はもうここも今も見ていなかった。ただ、遠くを見つめて、私を守るように装置に覆いかぶさった。そして、彼は呆気なく死んだ。命なんてこんなものだ。研究室に沈黙が訪れ、装置が起動した。
『終末プログラム起動』
私を閉じ込める装置にはその文字が表示されていた。
伝承
ある星は草や花で包まれていた。そこに一組の男女がいた。男は傷を負っていて長くはない。女は男を抱えるようにして、体を支えている。
男は言った。いつか必ず迎えに来ると。
女は応えた。ここで待っていると。
男は力尽きた。
男の体からは血が流れ、その肉は腐敗していき、そこから幼虫が生まれる。幼虫たちは男だった肉を食べ、血を啜り、そして七匹の蛾が生まれた。
七匹の蛾は七色の灯火となって、空へと飛んでいく。七色の虹は世界を彩り始めた。草花に包まれて、色づく世界を目に焼き付けて、女は眠りにつくことにした。いつかまた、最愛の彼との再会の日が来るのを祈りながら。
全知から目覚める日
門が遠くに見える。光が覗く。白い光だ。僕は歩く。これは人生の道だ。戻ることなどないのに、前にしか歩けないのに、いつも僕たちは過去を見つめる。母胎を求める。菩提樹の樹の下で。
そんな空想を瞼の裏の記憶にした。天空に架けられた橋の欄干に背中をかけて、僕は瞑っていた目を見開き、天を見上げる。白と青。雲がちらほらあるが、その隙間から空色が垣間見えた。雲は少し朱色を帯びている。夕暮れ時が近いのだろう。
――この橋を渡ると彼岸だ。
案内人が言っていた。欄干に身を投げ出して下を見ると、確かに川が流れていたけど、赤い色ではなく、透明な透き通る水色だった。綺麗だった。
歩みを止めることなどない。僕は彼女に会いに行くんだ。そのためなら命だって惜しくはなかった。だから、僕は禁足地へと歩みを進めたのに。どうせ死ぬなら未知を知りたいと。そうして死を受け入れたのに。結果はこの有様。禁足地に入ると死ぬという政府のお告げは見事破られた。
政府は何を隠したかったんだろうか。都市伝説にはブラックホールの人工生成だとか、タイムマシンの開発成功だとか言われているが、どうにもそのような様子はない。考えても仕方ないと結論に至った僕は、さっさと橋を渡り切ることにした。
橋の向こうには草花が群生する、物語にあるような楽園に近い光景が広がっていた。だが、ところどころ旧文明の建物の残骸が朽ちているのが見えた。
禁足地である旧横浜市街。ちらほらと蝶が舞っていて、小鳥のさえずりもどこかから聞こえる。無性にクラシックを聞きたくなった。
目的地を確認するために電子端末を確認するが、やはり圏外だった。このような禁足地のど真ん中に基地局があるわけもない。僕は諦めて、一枚の写真を胸ポケットから取り出す。背景の建物を背に写る男女の写真だった。周囲の建物の残骸と照らし合わせながら、しどろもどろに歩き回ると、案外すぐに見つかった。
ドーム状の特徴的な建物の構造が辛うじてまだ残っていた。入り口の表札には『横浜未来科学研究所』と旧文明の文字で記されていた。入口の柵を乗り越えて、僕は中に入っていく。施設の中はまだ朽ちていなかった。まるで施設の中だけ時間が止まっていたかのようだった。ここが旧文明の施設なのだと僕は感慨深く見て回る。
廊下の先にはエレベーターがあったが、電気は来ていないようだった。なので仕方なく階段で地下に降りることにした。階段は延々と続くようだったが、地下100階を超えると、コンクリートの壁がなくなり、景色が開けた。
「ここがエデンか……」
思わず呟いた。伝承には東の果てにエデンの園があるとされていたが、旧文明はそれを人工的に作ろうとしたのだろうか。階段の柵に手をついて、果てまで続くジオフロントを見渡す。終わりが見えなかった。
階段を降りきると、見たこともないような花々が咲く野原が広がっていた。僕はしゃがんで一つの百合のような純白の花に触れてみる。
「えっ……」
手が触れたところからその花は萎れて、溶け出し、赤い液体になってしまった。血溜まりのような赤が野に広がる。なんだ、これ。気づけば階段から続く僕が歩いてきた道は赤い液体が続いていた。その液体に指を触れてみると、それはしとしとした化粧水のような肌触りだったが、血の臭いは一切しなかった。なんなのだろうと不思議には思ったが、目的のために立ち上がる。遠くには白一色の神殿が見えているので、そこを目指すことにした。
歩く一歩は、だんだんと軽くなっていった。この空間の神聖な静謐さに中てられたのだろうか。恐る恐る神殿に踏み入る。
神殿の奥には、キューブ状の物体が浮かんでいた。近づくと、キューブは回転し始め、宙にホログラムを投影した。
『どうも。私は小泉冬樹。新人類の君たちには私のことがどう伝わっているか分からないけど、きっとルシファーだの悪魔だのと呼ばれているのだろうね』
ホログラムに映るのは30歳ぐらいの白衣を着た男だった。持ってきた写真に写る男にどこか似ていたので、きっと同一人物なのだろう。
『最初に断っておくけど、これは記録されたホログラムだから、返答はできないことを謝っておく。君の心の準備ができてなくても、これから、世界の真実を話すよ』
今度は映像が投射される。乱立する摩天楼。旧文明の築いたものが宙に映し出された。まるで異世界のようだった。
『これは、過去の地球。旧人類の存在した証でもある。君たちがどう教わっているかは知らないが、人類は科学の発展の末に全能になってしまったんだ。世界を創る。それは全能に等しい行いだった。だが、全能の始まりは永遠なる孤独の始まりでもあった。死ぬことのない人生のように、終わりのない世界など虚しいだけだ。やっと人類は気づいたんだ。全てを無に還すのもそれまた虚しいからと、世界は残すことにしたのだが、それでも世界には絶対的な終わりが必要だった』
目の焦点の合っていない男は話を続ける。
『だがね、人類はどうせ終わるなら最高のエンディングにすることにしたんだよ。最高のエンディングには、最高のラブソングが必要だろう。だから私は新人類に種を植えたんだ。それが君さ』
種を植えた……。それが僕?
『やることは自ずと分かるさ。今、君の中の芽を咲かせよう』
男のその言葉を聞くのと同時に、僕は死んでしまった。今まで保ってきた僕という自我が、過去の自我たちの奔流と混ざり合っていき、もう僕ではなくなってしまったのだ。記憶が知識が感情が流れ込んでくる。
『生命を生み出すことのできる母。彼女はいつだって全能だった。そして、父は学問を修めて、いずれ全知に至るのだ。初めから仕組まれていたんだよ。私のいる世界も、君のいる世界も』
男の話が手に取るようにわかってしまった。わかりたくなかったけど、知ってしまったから。時間なんてものは、脳内にあるだけだ。存在しない。宇宙には始まりはあるが、終わりはない。無限だ。だが、生命には有限な死という終わりがある。無限の宇宙に、有限な生命。そうか。そうだったのか。僕は、いや、私は解ってしまったんだ。
『もう、私の言いたいことは解るね? では、そろそろ君たちの邪魔をするのはやめよう。最後に未来の私へ言いたい』
次の言葉は知っている。
『ありがとう。愛しています』
私の声と男の声が重なる。感謝と慈愛。それこそ世界が導き出した解なのだから。
キューブ状の物体は地に落ちて、床のくぼみに嵌まった。すると、世界に美しい音楽が響き渡る。クラシックだ。ピアノの旋律がなんと心地良い!
「別れの曲 エチュード Op.10-3」
そうだな。この曲でいい。この曲がいい。終わりを迎えるのに、全てと別れるのに、これ以上の曲があろうか。私は瞳を閉じ、叶わなかった願いたちを想って、その全ての罪をも受け入れる。幻覚でいい。幻聴でいい。私は歩く。彼女のもとへと。
世界が崩れていく。私が僕として認識してきた世界はもう存在しないのだ。ここは終末の狭間なのだから。
目の前には花に包まれて、瞳を薄っすらと開けて気持ち良さそうに君が眠っている。永遠の温もりの中で、甘い夢幻を味わう君よ。幸せな無知の揺り籠の中、無垢に微笑む君よ。至高なる全能の響きに心躍らせる君よ!
もう、永遠だ。もう、最期だ。もう、お別れだ!
君の唇に別れのキスを。世界を彩っていた花々は、赤く溶け出す。その赤は、あの空より赤い。赤いんだ。私達の中に静かに流れる赤く激しいあの赤よりもずっと。
白いのは君の肌だけだった。その白が赤に包まれていく。終焉へと戻されていく。
やっと、世界が終わるんだ。
全知と全能の狭間で
門が遠くに見えた。白い光が門の先から覗く。僕は門まで歩いていく。これは人生の道だ。戻ることなどないのに、前にしか歩けないのに、いつも僕たちは過去を見つめていた。菩提樹の樹の下で母胎を求めていた。でも今は、隣に君がいる。だから手を繫いで、二人で進もう。
門を通る。そして、僕は産声を上げた。嬉しかったのか、それとも悲しかったのか。今はもう、僕は何も知らない。
フリーズ52 Last First Cry