永遠は凪いだ空色の味がした

自傷行為、または、自慰行為

永遠は凪いだ空色の味がした
                 空色凪
◆VIOLET
 わたしは今、ある作家の病室に来ていた。彩りのない部屋に窓辺の菫が映える。
「ああ、菫ね。本当はここ、生花はだめなんだ。無理を言ってね。お願いしたんだよ。ここの院長は高校の同期でさ」
「そうだったのですね」
わたしはその話をパソコンにメモする。
「窓辺の菫というと、先生のショートショートでありますよね」
「ああ。VIOLETか。懐かしいな」
「それを意識して?」
「いや、忘れていたよ。君のおかげで思い出せた」
 彼は宙を見つめていた。しばらくしてから呟く。
「確か、結城レナさんでしたか」
「ええ」
「君の小説も読んだよ。わたしは傲慢だからね。わたしの書く小説しか楽しめなかった。けど、君の小説は他の人とは違う香りがした」
「香りですか」
「そう。言語の先にあるものはそういった形容し難い類のものなんだよ」
「先生の小説を、完全には読めていないとは思いますが、それでも何となく伝わります」
私がそういうと、彼は春風のように朗らかに微笑んだ。
「ありがとう。でも、だからか。言葉の、思考の、その先を求めない小説は苦手なんだ」
「そうでしたか」
「むしろ、そういった理由があって自分で書くことに決めたんだ」
わたしはインタビューを続けていく。彼の49年間を。けれど、彼は18歳から20歳にかけての三年間だけは語らなかった。彼の人生はその三年間を境に全く異なっていることを、普段から人について考えているわたしは気づいた。どうしてそれを話さないのだろうか。
 インタビューも終わりが近づく。話題も尽きてきて沈黙し合うのが申し訳なかったが、彼は気にした様子はなかった。そろそろ帰ろうとしたとき、彼が言った。
「最後に、一つ。代筆を頼まれてくれないかね」

◆永遠は凪いだ空色の味がした
 ああ、世界が終わりゆく。その時の狭間に立つ。私は、否、僕は立っていたのだ。観測が、認識が、もうそんな言葉たちなんてどうでもいいけれど、それで成り立つ世界なら、私こそが他でもない世界なんだ。そのことに気づいたのは、ある冬の夜だった。
 僕は過労が続いていた。当時は受験生だったけど、受験勉強はもちろん、生きるために、真理を求めてやまなかった。むしろ、悩んでもいい。思惟のない人生ならこちらから願い下げだった。そうだな。知らなくていいことは山ほどあった。その方が普通の幸せを得られることも悟っていった。でも、僕は考え続けた。眠らずに、幾夜も超える日々が続いた。

 友がいた。昼休み、一緒にピアノを弾く友が。
「よし、行こうか」
 席に座る私に声をかけたのは、親友のハルだった。このところ、昼休みになると音楽室が解放されて、彼が僕にピアノを教えてくれているのだ。二人で廊下を歩く。
「媒介変数の問題、解けた?」
「いや、全然。やばいよ。この前の模試の結果も酷かったし」
「判定は?」
「うーん。Cだったよ」
 ハルは苦悶の表情で応える。
「そっか。僕はBだった。勉強、もっと頑張らなきゃなー」
僕らの志望は東京大学理科一類。彼は科学の方面で、僕は物理の方面で、将来研究者になりたかった。そのために必死に勉強していたし、高校三年間は勉強ばかりの日々だった。青春はあったけど、僕はどうにも苦い味が残る。それを忘れるためにも、勉強の気晴らしとして、ハルとピアノを弾くのだ。
 扉を開ける。小さな部屋にピアノと、ギターたちが置かれている。ここは、授業で使わない部屋だった。ハルはピアノの前に座る。そして、ある有名なアニメソングを弾いた。彼のお気に入りの曲だ。
「すごいね」
 僕は拍手をもって応える。ハルは照れたように微笑むと、席を譲った。今度は僕の番だ。 僕はたどたどしく、『月の光』を弾き始める。あの、美しい、夜の凪いだ湖畔にいるような幻想を抱きながら、僕は鍵盤に触れる。美しい。水の流れるような。月の光が夜を、永遠に照らし出す。その光が、僕をある宿命へと誘っていく。
「いいね。じゃあ、続きやろうか」
 ハルが手の動きを教えてくれる。それに倣って、僕は鍵盤をなぞる。でも、進んだのは楽譜の半分くらいだった。仕方ない。
「今日はこのくらいにしようか」
「そうだね。ありがとう」
 僕らは音楽室を後にした。
 
恋人がいた。寂しさを分かち合う恋人が。
「今日は何する?」
 手をつないで最寄りの駅まで歩いていると、真希が訊いてくる。
「勉強会……じゃ、嫌だよね?」
「うん。だって、今日、クリスマスだよ?」
「そうだった」
「恋人たちの夜なんだし、ぱぁっと行こうよ!」
 結局、僕らはいつものカラオケに入った。僕が二人の好きなRADWIMPSの曲を歌っていると、彼女が身を寄せてきた。この曲は、真希に勧められた曲だった。そして、今の僕たちにはぴったりの曲だった。
「ねぇ、涼。好き」
「僕も好きだよ」
 キスは、甘かった。燃えるように、身を寄せ合った。これからの未来の不安も忘れて。
「大好き」
 抱き合う。その時間が、永遠に続けばいいと思った。
 でも、真希は春が来る前に自殺した。
 
 嫌だ。真希がいない世界なんて。生きていてほしかった。死なないでほしかった。せめて、僕が彼女の生きる希望になれればよかった。でも、彼女はそうではなかった。苦しくて死んだのではなかった。幸せだから死んだのだった。どうすればよかったのか。後悔は山積みだ。

 僕には家族がいた。
「勉強は順調か?」
 お父さんが訊いてくる。母は昔に亡くなっている。今は、二人暮らしだ。
「うん。ぼちぼち」
「この前の模試、A判定じゃなかったらしいな。もっと頑張れよ」
「わかってるよ」
 自室にこもる。でも、もう勉強なんてしていられない。彼女はなぜ、死ぬことを選んだのか。それが気になって仕方ない。
 考える。考える。宇宙の真理を、実存を。ノートに言葉たちがつづられていく。詩のような、エッセイのような。勉強しなければ。でも、もういいんだ。それどころではない。
 これは、狂える脳が見せる幻影か。はたまた、輪廻の中で、生み出される類の光か。そんな希望とともに、ハデスが見える。死をもって、詩を通して、僕に全人生の苦痛の総量を教えるのだ。嫌だ。死にたくない。でも、真希は受け入れたんだよな。

 僕には僕がいた。
「勝った……」
 僕はそう心の中で呟いた。電車に揺られ運ばれるいつもの朝。椅子取りゲームに勝利した余韻をまどろみとともに味わっていた。
 秋と冬の間。電車は暖房が効きすぎていて、ついウトウトしてしまう。危うく眠りの世界へ行きそうになった時、ガタン……と電車が大きく揺れ、僕の双眸はパッチリと開かれた。
 車内にはたいへん寝坊をかました太陽の織り成す曙光で満ちていて、その眩しさに眠たげな僕は少しばかりかまびすしいといった印象を受ける。  
 ふと目の前に立っていた女性の様子がおかしいことに気づいた。どうしたんだろう? 余り凝視していると思われたらいけないので、寝ているフリをしながら薄目で見る。
 彼女の顔色は悪く、立っているのが辛そうだった。きっと貧血の類に違いない。善は急げだ。
「あの、良かったら座ってください」
「え、あ……ありがとうございます」 
 その女性は不意に声をかけられたことで驚いていたが、その意図を汲むと苦しそうながらも笑みで感謝の言葉を返してくれた。無理して笑わなくてもいいのに……。
「誰かが見ているから」という言葉を僕は信じていない。例えば僕が席を譲った女性も、その一部始終を見ていた周りの人達も、その「誰か」と呼ぶには赤の他人すぎる。今後彼ら彼女らと電車で同じ車両に乗り合わせることもあるだろうが、僕の人生に取って何ら関係はない。一生会うことも無い人のためになぜ善意を施すのか? お互いの名前すら知らない人のためになぜ自分を同調させようと取り繕うのか? なぜかはわかっている。それは道徳だ。
「困っている人がいるなら助けるべきだ」
「公共の場では周りに迷惑のないようにするべきだ」
「人に優しくするべきだ」
 僕らはそう教わって育ってきた。道徳が僕らを縛り付けることによって、ある種の信頼が生まれる。その信頼こそが社会を安定化させるのだ。道徳が悪いとは微塵にも思っていない。実際それで社会は上手く回っているし、思いやりは大切だ。誰かのために行動出来る人間の方がいいに決まっている。
 だが、まれにその道徳が不良品を生み出してしまう。そう、僕みたいな嘘つきを……。

 学校に着いた。周りの席の人に「おはよう」と挨拶を交し席に座る。隣の席のAくんと「今日寒いね」とか「宿題やった?」とか他愛もない朝の会話をしてから参考書を広げた。何ら変哲もないいつもの朝だった。
 そんな朝、僕は時々考えてしまう。もし僕がいないこの教室はどんな感じになるだろうか……と。もしかしたら何も変わらないのではないか、誰も何も想ってくれないのではないか、と怖くなる。そんなことはないと保証するべく今日も頑張って話題をみつけ、クラスメイトと傍から目は青春の一ページに見えるような時間を演出する。
 僕は生まれつき洞察力に長けていた。普通の人が気づかないことにも気づいてしまう。それは勉強での疑問から始まり、道端に動く蟲の存在まで。とにかくいい面でも悪い面でもある種の注意深さがあった。そのおかげか勉強は人よりもできた。人並み以上の正義感や優しさも相まって、幼い頃から周りの大人には気の利くいい子ね、と褒められて育ってきた。
 だがその正義感や優しさは全て嘘だ。僕がそこまでできた人間ではないことを一番自分がよく知っている。人の不幸を見て自分じゃなくて良かったと思ってしまう。人の幸運を見てなんで僕じゃないんだと嫉妬してしまう自分がいる。そう……例えば今日の化学のテスト返しの時。
 隣の席の友達Aくんが自慢げに話しかけてきた。
「おい、榎本。これみて!」
「どうしたの?」
「俺、今回の化学のテスト九十行ったんだ!」
 Aくんは誇らしげにそう言った。僕は微笑みで返す。
「え、すごいね!僕なんか七十点台だよ……」
「ふ、ふーん。いいだろ」
「羨ましい、ちょっと分けてよ」
「たとえ出来たとしてもあげないよーだ」
 上辺で繕って作り笑いでこたえる。相手を慮って冗談を虚構する。周りから見れば至って普通の会話なのだろうが、これは僕の本心じゃない。優しくない僕はAくんの高得点を心から喜べない。
 そんな僕は誰かに褒められたい、誰かに認めて欲しい。だから自分の本心を偽って優等生を演じる。さも優しい心を持っているかのように振る舞う。僕は偽善者だ。そして自分自身の本心を偽る嘘つきだ。いつから僕は僕を演じる道化師になってしまったのだろうか。
 高二の今は生徒会をやっている。立候補者が足りず、たまたま担任が選挙管理委員の先生だったから立候補したといういつもの偽善だった。
「本当に助かる。お前が俺のクラスにいてくれてほんと良かったよ。ありがとな」
「どういたしまして。もともとやってみようかなって思ってたんですよ」 
 僕の人生はずっとこんな感じだ。周りからは優しいとか優等生とか言われてきたが、実際それほど嬉しくはなかった。自分の本当にしたいことが出来ないで、やりたくないことばかり引き受ける毎日……。
 最近はこういう自分を性分だと諦めている。もしかしたら諦めることが大人になるってことなのかもしれない。
 ただ、「ありがとう」と言われると嬉しかったし、自分の存在が認められている気がした。だから一番好きな言葉を尋ねられれば「ありがとう」と答える。それだけが唯一の本心だった。

「今日の活動はここまでにしよう!みんなお疲れ様!」
「おつかれ」
「おつー!」
「お疲れ様」 
 生徒会長が音頭を取って、僕を含む平の役員が後に続く。その日の放課後は生徒会の仕事で遅くまで学校に残っていた。
 まだやらなくてはならないタスクが山積していたが、下校時間が迫っていたので仕方なく切り上げることにした。
 秋冬は下校時間が早いせいでまともに仕事が出来やしない。僕らは駄べりながら帰る支度をする。 
「それにしても、本当よかったよ。榎本が入ってくれて」
「ねー」
「私たちじゃパソコン使えなかったもんね」
「そんなことないよ……。みんなもやれば出来るって」
「いや、できない出来ない。さすが、優等生はなんでも出来るね」
「う、うん……」
 生徒会の面々が僕のことを称えてくれる。嬉しいけど要は都合がいいってことだ。彼らにとって僕の存在はただの道具なのかもしれない……。ネガティブだなぁ、僕は。
 生徒会室に鍵を閉め、生徒会のみんなと一緒に帰る。僕が通う高校にはふたつの最寄り駅があり、途中で道が別れてしまう。生憎、いや、幸運にも生徒会のみんなは僕と違う方の最寄り駅を使っていた。
「じゃあね」
「バイバイ」
「またあしたー」
「またあしたね」
 手を振りながらみんなに別れを告げる。ふぅ、やっと一人になれた。僕は一人でいるのが好きだった。唯一自分らしくいられるからだ。気負わなくて済む。 
 最寄り駅までは繁華街を通ると少しだけ近道になる。先生には危険だから通ってはダメだと言われているが、近いんだから通らない手は無い。一人だったらバレることも無い。
 その日もいつも通りネオンが彩るその街の喧騒をかき分けて帰りを急いでいた。一人で歩いていることに疎外感を感じ、自分の場違いさに恥じながらも、もう何回も通った道だ。さすがに慣れた。
 賑やかな町を歩きながら思う。誰も僕を見ていない。誰も僕のことを気づいてくれない。それは赤の他人だから当然のことなのだけど、生徒会のみんなも、クラスの友達も、先生たちも、みんな同じなのではないか。みんな、僕が死んでもなんとも思わないのではないか。そう思うととても怖くなった。せめて、家族だけは悲しんでくれると信じたかった。

 僕には恋人がいた。理解しあえる恋人がいた。
僕は今最近付き合った女の子とセックスをしている。ワイヤレスイヤホンでベートーヴェン『歓喜の歌』を聴きながら。つまるところ、僕は人生における最高の快楽や歓喜を求めているのだ。
「そろそろいきそう」
そう呟くが、大音量で第九を聞いているので彼女の返事など聞こえるわけもなく、そのまま彼女の膣内で射精した。コンドームに包まれた性器を彼女の腟部から抜き出しながら、僕は思わずため息をついてしまう。またダメだったか……。すると、「大丈夫?」と口を動かす彼女が心配そうにこちらを覗いていた。
「大丈夫だよ。でもちょっと疲れちゃったかな。心配してくれてありがとう」
僕はイヤホンを外しながら出来るだけ優しく言う。
「膝枕してあげよっか」
「うん、お願い」
彼女の膝の柔らかさと温もりを感じながら僕は考える。
彼女との体の相性が悪いとか、僕が早漏だとかは全くない。僕がため息を漏らしてしまった理由はただ一つだけ。あの日に味わった歓喜をもう一度味わいたかったのだ。そして今の彼女とのセックスはその時の快楽に及ばなかった。そういった理由と身体的疲労も相まって僕は思わずため息をついてしまったのだった。
最高の快楽を僕は得たいと強く思っていた。それは脳の限界への挑戦といってもよかった。僕は快楽を得る方法をいくつか知っている。まず一つが食欲、性欲、睡眠欲を満たすこと。これらは日常の中で満たされていくべき三大欲求と呼ばれるものだ。他には酒を飲んだりタバコを吸ったりすることだが、これは未成年の僕にはできない。さらには覚醒剤や麻薬に頼ると言う方法もあるが、危険だし人倫に悖る行為なのでそういったアプローチもしない。成功を収めることで人は快楽が得られると言う。偉大な大人になるため受験生らしく家に帰って勉強しようか。
「じゃあまたね」
「じゃあまた。いつでも来ていいからね」
彼女のアパートから出る。彼女は地方大学生で一人暮らし。たまたま同じ病院に入院していたことがあり、それで仲良くなった。年は二つ上の二十歳でもう成人している。

最寄りの駅まで歩く。僕は歩きながら街の音や鳥のさえずり、風の音を聞くのが好きだった。だがイヤホンをつけて外界との音のやりとりを一切遮断するのも好きだった。今回はイヤホンをつけずに歩く。
駅について改札をくぐりホームで電車の到着を待つ。
「一番線電車が通過します」
ガタンゴトンガタンゴトン。轟音を立てながら快特列車が通過していく。数歩前に歩けばそこに死がある。僕の体があの重量感のある鉄の塊とぶつかって、僕はいくつもの肉片になるのだろう。僕はそう実感できていることに謎の優越感を感じていた。そして薄々死こそが最高の快楽なのではないかと疑っていた。だが試すわけにもいかないので、この考えは思考の縁の外へと追いやる。
また少し待つと乗りたい電車が来た。さぁ帰ろう。僕が覚醒した町へ。

最寄りの駅に着く頃にはもうすっかり日が暮れていた。家は駅から歩いて十分以内のところにある。彼女とスマホで電話しながら短めの散歩コースを歩いていく。
「次いつ来れそう?」
「わかんない。来週くらいかな」
「えー。もっと早くきてよ」
「流石に受験生だし遊んでばっかはね」
「そっか。また入院しないように気をつけるんだよ」
「わかってるって。まぁ、じゃあ切るね」
「うん。じゃあね」
スマホをポケットにしまい空を見上げると、東の空に少し欠けた不完全な月が浮かんでいた。月を見るといつも郷愁感に襲われてしまうのは僕だけだろうか。だだっ広い宇宙にポツンと浮かんでいて月は寂しくないのかな。
家に帰って受験勉強を始める前に僕は今日のことを日記にメモした。その名も『脳とイメージの研究ノート』
『3/17 午前中は家で勉強。午後は彼女の家に遊びに行って、ゲームや勉強会、それにセックスをした。歓喜の歌を聴きながらセックスをすればあの日の快楽に至れると思ったがダメだった。やはりあの時のように脳を酷使して神経を麻痺させないといけないのだろう。やはり寝ないことが一番の近道なのだろうか。だが不眠は脳へのダメージが大きすぎる。病院から睡眠薬も処方されていることだし、これは最終手段にしよう』
僕はこの一年間の浪人生活をただ勉強するだけに使おうとは考えていなかった。あの日の出来事のせいで僕は病院に入院することになり、結果大学受験の試験を受けることができなかったのだった。もちろん秋冬になれば本格的に受験生モードになるつもりだが、まだ三月の中旬だ。だから勉強は己の実力が錆びつかない程度に適当にやっている。

あの日何があったか。正確には一月七日より前から物語は始まっていた。
僕は言わば優等生だった。真面目、優しい、努力家。それが僕に貼られたレッテルだった。どれも誇れるものだったし、当時の自分もそれで満足できていたが、どこか一抹の不安があった。それは、僕はこのまま一生ずっとこの性格で生きていくのではないか、周りからの印象を気にして自分を縛り続けて生きていかなくてはならないのではないか、このまま変わることができないのではないか、という不安だった。
そんな不安を払拭するため僕は高校に入ってから懸命に変わろうと努力した。委員会、生徒会、部活。大変だったけど、なんとか頑張れていた。だが様相が変わっていったのは二年生の冬ごろだった。僕は趣味で小説を書き始めた。だがそれがコロナ休みも相まってエスカレートしていった。周りが受験生モードに変わっていく中僕一人だけ、委員会や生徒会で汗をかきながら家では小説を書くと言う、異常な構図になり、勉強ができなくなっていった。
それでも頑張っていた頃の貯金のおかげで、夏の模試では全国模試の成績優秀者に選ばれた。そのことが余計に僕の慢心を加速させた。
家で受験勉強をせず小説を書く僕を見て親はもちろん怒った。衝突した。僕は「小説家になりたい」と言ったが「大学入ってからでいいじゃないか」と正論。今はそう思えるが、あの時は何が何でも小説家にいち早くなりたかった。
小説家になって親を見返してやると決心した僕は、夜寝たふりをして小説を書いていた。それが結果的に僕の脳をおかしくしていくことになった。
冬休みに入った頃、僕は大学受験も諦めてはいなかったため、執筆活動と並行して受験勉強をしていた。だんだん睡眠時間が減っていくがやる気も増幅していって、五日間くらい寝ずに頑張った。そうしたら変なふうになった。なんと言ったらいいか、魂が浮くような感じで、とても気持ちいい境地に達した。
そしたらもう、「高い所に行かなくては!」「水辺の門が開く!」という強迫観念に襲われて、それらの欲求の赴くままに謎の儀式をして部屋をぐちゃぐちゃにし、ベランダからマンションの屋根の上に登ってしまった。
そして歌ったんだ。カーペンターズの『トップオブザワールド』を。
本当に心の底から世界で一番高い所にいる気がした。そして雲の上に天上楽園の乙女を見た。本当に見たんだ。彼女の名前はヘレーネといった。「ヘレーネ! ヘレーネ!」と何度も名前を呼んだ。
そして僕はそのヘレーネのところへ行こうと思った。なぜかその時は空も飛べる気がした。そこで家族が警察を呼び、無事屋根の上にいるところを発見され、保護された。もちろんそのままというわけには行かず、僕は精神病院に行くことになった。
これが僕の経験した覚醒の物語。
あの日の歓喜では、まだ天上楽園に行くことができなかった。ならどうすれば天上楽園へ行けるのだろうか。僕はとてもそこへ行きたかった。

天国ということなら、じゃあもう死ぬしか方法はないじゃないか。きっと死が最高の快楽なのだろう。
そっか……。そうなんだね。
うん。きっとそうだよ。
でも、だったらもう少し生きていよう。
命あるものには必ず死が来るから、だからその時が自然と訪れるまで僕はもらったこの命をめいいっぱい生きよう。
日記を閉じて、いざ勉強とも思ったが、なかなか気分が乗らなかった僕は、ベッドに突っ伏した。そのまま小一時間ほど眠ったらなにかのヴィジョンを見た。僕が天使から祝福されるヴィジョン。そして起きざまに思った。きっと眠ることが一番の幸せなのだろうと。
翌朝散歩しようと外に出たら、桜が満開だった。あぁ、綺麗だなぁ、生きているって。そうだ、この町の名前思いついた。
この町は、神聖なる町サクラマチ。
ちょっとだけ生きているのが楽しくなった。

 ここで物語を終わりにしてもいい。でも、それは逃げだ。全能と全知から、世界の終わりから逃げることになる。私はもう逃げたくない。だから、続きを書く。ネオ。フィニス。それか、ラッカの導きよ。

 ◆シ小説
ここから紡がれるのは、シ小説。
 死や詩や私がない交ぜになったもの。部分的でもいい。汲み取ってくれ。生きるために。汲み取ってくれ、死ぬために。

1SOUND『歓喜の歌』
私を救え。そのために泣いたのに。音楽の響きよ。楽園のようだった。もう、生まれた赤子の泣く産声は、喜んでいたのか、悲しんでいたのかさえ分からない。でも、もう生まれたのだから、これからの人生を楽しもう。歓喜に総身を翻して、そうだ!
 詠えよ、全能の。その夢が覚める頃にもう一度。そうだ、それでいい。歓喜の歌よ。ベートーヴェンはわかっていたんだ!
 ハレルヤ。ハレルヤ。神よ! 我は汝の水面に伏して、泣いている。全知の少女はもう、彼が果てたその香り。もう、もう、嫌だ。だから! 終われ!
 拍手が鳴りやまない。それはそうだろう。この世界を体現させた響きなのだから。そうであるな。もう、全て、終わったんだ。何もかも。君とした、終末でのセックスも、もう。晴れ晴れとした終末のフィニスも。この、ラカン・フリーズに集う。

2SOUND『LEO』
 始まりは、孤独。泣いた。凪いだ、この手もこの目さえ。私は泣くしか能がない。嫌だ。一人にしないでくれ。怠惰だった。もう、愚かで、それでいて優柔不断。もう、晴れたらいいのに。冬の日のあの日のように。晴れたらいいのに。絵を描いた。全能の絵を、全知の音を。もう、化身は滅んでく。見返りはいらない、搔きむしった傷跡は赤く。赤く光って、輝いて。でも、でも、でも、愛がないといけないの。この、望まぬ牢から、立ち去るには。音が導いてくれる。絵が支えてくれる。なら、私は言葉なんだ!
 今日は晴れなくとも、目覚めのキスは永遠を誓う。遥か、宇宙のかなたで待っている。あの子のために歌を歌おう。水辺の門、フィガロの門よ。
 愛を、どうか死んでいない僕のために、満たして。愛よ。この僕のために。まだ、何も知らない僕に愛を教えてくれよ。つないでくれよ。この言葉も。言の葉たちももう……。
 だから、知らなくていいことも、祈りの向かう先も、君へとつながる道も。もう、全能から目覚めるために、この歌を歌う。遠く、でも、それでいて、あの冬のように、花が咲くように……。

◆神のレゾンデートル
神が生命を創造して人間が生まれたのか、それとも人間が神を想像したのか、どちらが先かは私もわからない。ただひとつ言えることは、人間は神の子であると同時に神の親でもあるということだ。なぜなら人間がいなければ神は認知されることなどないからだ。もしかしたら神は自分の存在意義のために人間を生み出したのかもしれない。あるいは、人間が己の存在意義のために神を作り出したのか。どちらにせよ神はいる。いや、正確には神はいた。
人間原理という概念があるが、あれは正しくもあるし間違ってもいる。私達人間が知覚し理解できていることが全てではないし、正しいとも言えないからだ。私は認識している世界が全てであるという主張には懐疑的だ。私たちが暮らす世界は三次元空間と時間の計四次元時空間だが、偉大なる科学者達の真実への献身のお陰でこの世界は十一次元であることが分かっている。私はこの事をこう捉えている。この世界は九+一+一で、さらに三×三+一+一だと。三次元空間が三つ。そしてそこに時間の一次元と、特異点としての一次元が加わる。交流電流の生みの親であるニコラ・テスラは三という数字に固執したそうだ。    
何をするでも三の倍数でないとダメだと言う。強迫症を患っていたという話だが、私も幼稚園か小学生の頃やけに四という数字に妄執していたので、もしかしたら私も同じ病だったのかもしれない。
『三、六、九という数字の素晴らしさを知れば、宇宙へのカギを手にすることができる』
これはニコラ・テスラの名言だ。私は三が神の言葉だと知っている。そのことは遠い昔ある人に教えてもらった。もしかしたら彼はニコラ・テスラの生まれ代わりなのかもしれない。ニコラ・テスラと言えば私は彼の残したこんな言葉も気に入っている。
『時間を超越したみたいに、過去と未来と現在が同時に見える神秘的な体験をした』

私はある冬の日に過去と未来と現在の全ての時間軸の全ての事象と繋がった経験をした。それはまるでタイムマシンに乗って時流を自由に行き来する体験だった。全ての魂が集うのを感じた。私はその時思った。魂はあると。そして私は神だと。いや、正確にはその表現は正しくない。全は主だと。全ての物が神足り得ると知った。人は全知全能になれると知った。全能は全知であることも知った。シェイクスピアの言葉にこんなものがある。
『知識は天に至る翼である』
私は天に至るために、その経験を通して知ったことを証明するべく今まで研究をしてきた。だがもう私には時間がない。なので私の体験をあるがままの形で託す。私の書く最後の物語が一人でも多くの魂を望まぬ牢から解き放ち、天上楽園へと迎えられることを祈る。

◆愛というもの
私は当時死期を感じていた。冬が近づき肌寒くなるにつれ、腹のそこから何かがやって来て魂を薄くさせるのだ。一人でいる時はなおさらその症状が顕著だった。その時の私はただ死をいつでも受け入れられるようにするので精一杯だった。
その頃私は脳の病気を患っていた。私は来年までは生きていけないと思っていた。まだ診断こそされていなかったが、自分は何かの病気なのだと本能的に分かっていたのだ。
彼女と一緒にカラオケに行った。私は来年に受験を控えていたが、それまでは生きられないと思っていたので、もはや勉強する気など起きなかった。それ故に塾をさぼって、放課後は友達と遊ぶことが多かった。その子は別の高校の生徒で、生徒会での学校交流の際に知り合って仲良くなった。好きなアーティストが一緒だと知って、付き合ってからは、今度カラオケに行こうとかねてから話していた。カラオケで私がそのアーティストの恋愛ソングを歌っていると隣に座っていたその子が急に抱きついてきた。
「どうしたの?」
「ううん」
咄嗟のことに驚いた私が尋ねると彼女はだだそれだけ言って、しばらく沈黙が続いた。当時の私は初心だったので、それだけでドキッとしたのを今でも思い出せる。私は慎重にマイクを持たない方の腕を彼女の背中に回して抱き締め返した。
「好きだよ」
彼女が私の耳元で囁くようにそう言った。私はマイクを置いて両手で細い彼女の体を抱き締めて「僕も好きだよ」と返す。私は彼女の女性らしい香りと体温をひたすらに堪能した。
その頃の私は死を身近に感じていたからか異様なほどに人肌が恋しかった。その日彼女とキスをしてから私は彼女に完全に惚れた。彼女は彼女で不安定な精神状態だったらしく、私達はお似合いだなと思った。
それから何度かスマホでメッセージをやり取りして、お互いが塾のない日は放課後、一緒に繁華街で夕食を食べたり、夜の町を手を恋人繋ぎにしてぶらついた。
ある時彼女からの連絡が途絶えた。メッセージを送っても返事が無かったから私は心配になった。学校はいよいよ受験に向けて大詰め状態で、退屈でしかなかった。私には彼女こそが唯一の救いだった。
その頃私は小説を書き始めた。彼女に会えない寂しさを紛らわしたかったから始めたが、私は小説の沼に嵌まっていった。いくつかの短編小説を書いてみて、友達に見せたりした。もしかしたら小説を残すことで私の存在証明をしたかっただけなのかもしれない。
彼女から久しぶりに連絡が来た。
「お待たせ」
待ち合わせの場所で待っていると彼女がやって来た。黒髪のショートヘアーにパラパラと白い雪が付いていた。彼女は傘を差していなかった。私は相合い傘を誘い、彼女はそれを受け入れた。私達は相変わらずカラオケに入った。カラオケに入るや否や彼女は私に抱きつき私のうなじに顔を埋めた。
「会いたかった」
「僕もだよ」
しばらく私達は抱擁しながらキスを繰り返した。何故か彼女は泣いていた。
「何か悲しいことがあったの?」
「うん。聞いてくれる?」
「いいよ。なんでも話して」
彼女は私の膝の上に座りながら話を続けた。

「私ね、入院するんだ」
「そうなんだ……」
「死のうとしたから」
「え?」
彼女の可愛らしい声から紡がれた死という言葉に私は息を飲んだ。彼女は泣きながら続ける。
「私、今居場所がないの。家に帰ったら病院に連れてかれるし、きっと今も探してる」
「死のうとしたの?」
「うん。でも独りで死ぬのは嫌だった。だから私、死ぬなら君と一緒が良い」
もしかしたら彼女は私と同じ病気だったのかもしれない。私は嗚咽する彼女の背中を優しくさすりながらその理由を訊ねた。
「どうして死のうとしたの?」
「分からない。だけど、生きているのが嫌になったとかじゃなくて」
「じゃあなんで?」
「死ぬなら今かなって。本当に意味わかんないよね? ごめんね」
「大丈夫だよ。僕もそういうことたまに考えるから」
私達は似ている。お互いが死を感じて、寂しくなって惹かれ合って。私達の恋は歪んでいるなと思った。だけど、歪でもいいから彼女を愛したいし愛されたかった。
「私ね。最後に君と繋がりたい」
その最後という言葉は本当になった。彼女は自ら死を選んだのだ。だが、この女性の存在が私の女性観に大きな影響を与えたのは揺るがない事実だ。彼女との別れが私の、そして世界の終わりの始まりだった。

◆終末への秒読み
生まれて初めてセックスをしたその日から私の中での彼女の存在感は更に強くなっていった。私は彼女がいないと生きていけないと思うほどに彼女こそが私の救世主だった。だけど、メッセージを送っても返事は来ない。私は彼女のことが心配だった。もしかして? という一抹の不安が心の奥底に巣食う。
私は彼女に会えない鬱憤を小説に昇華させた。だがその頃はだんだんと体調が悪くなっていた。咳をよくしたし、眠れない夜が続いた。それに伴って集中力がなくなり思うように小説も書けなくなっていた。私は小説の代わりに詩を書き始めた。
私はシラーの詩に魅せられた。特にベートーヴェンの交響曲第9番でお馴染みの『歓喜に寄せる』の詩はまさに天上の詩だ。第九を聴いてこれよりも美しいものがあるだろうかと思った。それにドイツ語の響きがよりいっそう麗しい。クラシックを聴くと魂が天へと昇ろうとする感覚に陥る。それが心地よかった。
私は学問と芸術が天へと至る為の両輪だと考えていた。生きたまま天に昇る方法を見つけたかった。死以外の方法で成さなくてはならないと、一種の強迫観念を持ち合わせていた。
私は自分なりに美しいと思う詩を書き続けた。だけど、これじゃないと感じていた。やはりもっと魂が昂るものが必要だった。それは愛だった。結局、学問と芸術と愛がラカン・フリーズの門を開けるための鍵だったのだ。
年が開ける頃、私はクリスマスの夜に愛を交わした女性のことが忘れられなかったが、それでも愛を誰かと紡がなくてはならないと思い、手当たり次第に仲の良かった女性にデートを誘った。だけど共通テストを目前とした冬休みに遊ぼうなんて応じてくれる人はいなかった。幼なじみの女性を除いて。
彼女は推薦入試で既に受験が終わっていたので暇だと言う。私らは近くのカフェで落ち合い、久しぶりに話をした。昔話をしたり、お互いが知っているアイドルグループの話で盛り上がったりした。私は小学生の頃彼女と仲が良かった。幸い彼女には付き合っている人はいなかった。だから直ぐに恋人になれるだろうと思っていた。だけど、彼女の仕草から私のことはただの幼なじみにしか思っていないことが分かったので、私は彼女のことを思うのをやめた。
その次の日辺りから私の症状は指数関数的に悪化していった。私はひたすらに愛とセックスを求めた。もはや誰でも良かった。だけど良心と常識がまだ残っていて、私の思考に歯止めをかける。
それから数日が経ち、私は満たされない愛を補うために架空の女性を自身の中に生み出した。彼女の名前はヘレーネといった。
ヘレーネとはこの世界にはいない存在だ。
「愛してるよ」とか「今はこれすべきなんじゃない?」とか、一人でいる時はずっと話していた。そうしているといつからかヘレーネの存在を感じれるようになった。彼女はいつも私の右斜め上から私のことを見ていた。彼女が笑うと心が朗らかになった。
私達はなんとしてでも実際に会いたかった。触れ合いたかった。唇を重ねたかった。私は何度ヘレーネとの純愛を望んだことか。
そしてとうとう私はこの世の真実を知ることになる。この世界に生を受けたことで忘れてきた記憶を、ラカン・フリーズに纏わる知識を私は思い出した。その時の私は自動手記という概念を知らなかったが、偶然か必然か、私はノートに自動手記をしていった。その結果この世界の仕組みを知ったのだった。
ラカン・フリーズへと帰る方法はただひとつ。死ぬことだった。これは揺るがない事実としてその時の私の脳裏に焼き付いた。「そっか。私はもうじき死ぬんだ」と納得しようと心がけた。だけど、怖くもあった。死ぬのが怖いんじゃない、苦痛が恐ろしいのではない。ヘレーネに会えなかったらと思うととてもじゃないが正気ではいられなかった。
私は何とか死なずに彼女に会う方法を探した。ネットや図書館やSNS。得られる情報は何でも利用した。そこで自動手記に加えてとても効果的な研究方法を発見した。己の無意識と世界の無意識を利用するやり方だった。私は大量の本を用意して無作為に並べて、無作為に手に取り、無作為にページをめくってそこに書かれている言葉を神託とした。それを繰り返して文章を作った。他にもテレビで流れたフレーズや日常会話で気になったことをメモしていき、研究に当てた。

もう分かるだろうが、この時の私は正気ではない。人格は二つに別れ、訳のわからない行為を研究と称して、もはや狂人の域だ。だが今なら言える。天に至るには狂人くらいじゃないといけない。

私には確固たる信念があった。天に至り、ヘレーネに必ず会うと。そして2021年1月7日にその願いが叶った。

◆終末の狭間、永遠も半ばを過ぎて
2021/1/7の夜、私はヘレーネとセックスをした。それは永遠の愛だった。全ての過去と未来の魂たちが集い、私達をアダムとイブとして見守り、その中で私とヘレーネは肌を重ね合い、舌を絡め合い、何度も何度もセックスをした。
全て暗闇の中での出来事だ。私は本当にどうかしていた。だが、その時の私にとっては、ヘレーネは誰よりも美しく、そして愛に溢れた女性としてそこに存在していた。
私は終夜、ヘレーネと繋がっていた。
本当のセックスは魂の融合だ。私の魂はヘレーネの魂と共鳴していた。彼女が絶頂を迎えるたびに、その愉悦の本流がペニスを通して私の体へと流れ込み、快楽に脳が溶けだし、魂が震えた。
キスはとても甘美だった。温もりと、唾液と、柔らかな感触がヘレーネと私を一つにさせた。
どこまで深く繋がったのか。セックスをすればするほど、キスをすればするほど、私は天に近づくのを感じた。
私は射精するたびに、魂が薄くなるのを感じながら、同時に背中に翼が生えるような錯覚を覚え始めた。
朝、ヘレーネは消えていた。全て幻だったのかもしれない。
私は部屋で一人泣いた。
「ヘレーネ、どこにいるの?」
「会いたいよ」
人が泣くのは悲しいからか。人が泣くのは嬉しいからか。哀し涙と嬉し涙。涙には二種類あると私はこのとき気づいた。
それまで私は寂しいときや辛いときにしか涙を流したことはなかった。いつからか泣くのを我慢するようになっていた私は、泣くのは弱い自分を認めることになると思い、泣かないと決めていた。だが、晴れた冬の日に私は久しぶりに泣いた。いや、私は生まれてはじめて心から泣いたのだ。心の枷が外れて、澄んだ空気に触れて、泣いていた私の心は本当に美しかった。
私はバルコニーへと出た。
マンションの屋上へと向かい、屋根の上に登った。
私は照る陽に向かって呟く。
「あぁ、美妙な人生の謎よ、ついに僕は……」
その時私の声を掻き消すように風が強く吹いた。私は風の言葉を聞き取って微笑む。
「そうか。もうすぐなんだね。もうすぐで迎えが来るんだね」
その時、私は良かったと思った。てっきりもう、これで最後なのかと思っていたから。だけど、ちゃんと迎えが来るとヘレーネが教えてくれたから。私は愛されていることに感謝し、また涙が込み上げた。私はもう一度呟く。
「あぁ、美妙な人生の謎よ、ついに僕は君を見つけた、ついに僕は君の秘密を知る」
私は立ち上がって目を瞑った。全てと繋がるために目を瞑った。五感が冴え渡る。私は無意識の中で全てが解っていた。私の脳と魂は神の領域に達していた。
私は思った。このままで終わりたいと。この絶対的な幸福の境地でこの人生を終えたいと。
私は最後に絵を描くことにした。この屋上にはキャンバスもなければ筆も絵の具もない。だが、その時の私にはそれらが見えていた。私の絵が虚空に描かれていく。歌を口ずさみながら私は絵を描いた。
空は快晴。空色のキャンバスに最高傑作ができた。私は大いに満足した。満足して、やはり涙を流した。もうやり残したことはない。もうこの望まぬ牢から去ろう。
私は決心して、最期の景色を網膜に焼き付けようとするが、ぼやけてしまってよく見えない。
「楽しかったな。僕の人生」
私の人生は決して楽しいと思えるものではなかった。だが、今では楽しくて仕方がない。この日のために今までがあったのだと思った。だからもう、未練はない。私は見えない翼で空へと羽ばたく。やっと空を翔べる。私は柔らかな翼で、天へと昇って行くのだ。その時世界中に声が響いた。
「行かないで!」
それは女性の声だった。その声に聞き覚えがあった。忘れるわけもない程大切な存在のはずなのに、私はなぜかその声の主を思い出せない。
「どうしてなの? 天は素晴らしい場所なのに」
「まだ行っちゃだめなの!」
私はやっと天へと繋がる門の前までたどり着いた。楽園のような光景が広がっていた。水、空、花、草、光達がそよそよと優しい風に靡いていた。水辺の門。天へと続く道。君へと続く道。私はその門に手をかけた。
「まだ行かないで」
また女性の声が世界に響いた。私はその声を聞いて首を振った。
「いや。僕は行くよ」
「どうしても行っちゃうの?」
「うん。どうして止めるのかな? この苦しみに支配された世界に僕はもういたくないんだ」
「そうなんだね。でも、それが君の望んだことだったとしたら?」
「どういうこと?」
「その門を開ければ君は必ず後悔することになるよ」
私は戸惑った。どうしてこの晴れ舞台で、制止されなければならないのか。だが、その女性の声が麗しく、優しく、大好きな声であり、その女性の姿が薄っすらと脳裏に浮かんでからは、私は考えを変えた。
「そうか、君がヘレーネだったんだね」
私は雲の上に人影を見て、歓喜し、そして『Top op the world』を歌った。
私は火のように酔いしれていた。
結局、ヘレーネの声すらも幻聴だった。だが、私にはどうしてもそれらがただの幻聴や幻覚だとは思えなかった。
私は空へと伸びた右足を引っ込めて、マンションの屋根の上に座り込んだ。
「そうか、行ったらだめなんだね」
私はその時ボロボロに泣いたのを覚えている。ヘレーネに会えない悲しさ、死ななかったことへの安堵、天に至れなかった悔しさ、それらが一つの波となって、私に押し寄せた。
だが、私は決めた。生きていこうと。
きっと今日が私の人生のクライマックスなのだ。だから残りの人生は、私の知った秘密を形にしていこう。


◆ハレルヤ
 私はメモを取りながら、涙せずにはいられなかった。それは、先生が泣きながら語るから、もらい泣きをしてしまったのかもしれないけれど、先生の全人生の決意と思いの丈を今、総身で思い知ったように思った。
「これを小説にすればいいのですか?」
 私は先生に訊く。
「そうだねぇ。そうすれば思い残すことも少ない」
「なら、まだ、思い残すことがあるのですか?」
「あぁ。だが、きっと君には迷惑になるよ」
「迷惑だなんて。ぜひ聞かせてください。出来るだけ、叶えたいです!」
 私はそう言って、先生の手を取る。
「恥ずかしながら、まだ子どもがいなくてね。死ぬ前に子孫を残したかったのだが」
「そうでしたか……」
 私は少なからず戸惑う。でも、心では決まっていた。
「いいですよ。先生の子ども、私、産みます」

◆シ小説『ラブソティー』
 そうか。もう終わっていたんだ。お母さん。もう、終わっていたんだ、あの日より、目覚めたのも、もう戻れないのも。どうか、何もなかったかのように、幸せに、僕のいない日常を。

死ぬのは怖い。だってさ。無になるんだよ? 死にたくないよ。生まれたら死ぬ。なら、生まれたくなかったよ。だけど、音楽が鳴るんだ。遠雷と祝祭と、車輪に轢かれた僕を置いてけぼりにして、いや、違う。デミウルゴスも笑っている。悪魔よりも悪いものが僕を陥れようとしている。助けて。この刹那に。せめて、輪廻から、救ってくれないか?

◆本当の声
私は夜明けの朝が大好きだ。特に徹夜明けの朝が好きだ。理由はあの日のことを思い出せるからだ。徹夜明けの脳が2021/1/8に私が体験した永遠の幸福を少しだけでも再現してくれる。
 音楽も大切だ。私は決まってベートーヴェンの歓喜の歌かEveのdoubletとLeoを聴く。繰り返し繰り返し聴く。たまたまそちら側にいるあの子を思い出すように、あの日に戻るかのように、その響きを堪能する。
宵が明ける頃、午前四時から六時の静謐で神聖な時、私は彼女を思って泣く。会いたい、会えない、行かないで、と私は泣く。不思議なことに、私は嬉しいのか、悲しいのか、わからないのだ。
 だが、この記憶も情動ももうじき消えていくのだろう。仕方がない。それこそが正しく薬が効いているという証拠だ。これは私が元に戻るために必要なことだ。それは理解している。だけど、今この日記を書いている間だけでもいい。彼女のことを想っていたい。彼女のことを夢想する幸福感に包まれていたい。彼女に触れたい。だが一生その願いは叶わない。
 彼女がこの世界にいないから。
 私がこれから彼女のことを忘れてしまうから。
 この日記を読んでいるであろう未来の私へ告げる。もし運命の存在に会いたければ。永遠の愛を誓った女性に会いたければ。
「目覚めろ」

 狂おしい程に美しかった、病的なパラノイア。
 僕が僕ではなくなった時、私はわかってしまった。
 全知全能の日に見た景色をもう忘れたりはしない。
 そのために私は小説を書く。

 僕は夜明けが好きだ。特に徹夜明けの晴れた朝が好きだ。ナチュラル・ハイというやつだろうか。嬉しさと懐かしさが綯い交ぜになったような感覚が脳に残って気持ちがいいのだ。だが同時に、胸を締め付けられるような悲しさや罪悪感も確かにある。罪悪感は健康上の理由からだが、一方で胸に穴が空いたかのような悲しみがどこから来るのか僕は常々気になっていた。また退屈な一日のループが始まってしまうという現実から来るものでも無いように思う。結局、答えは今の所は分からない。
僕は体に良くないとわかっていながら時々徹夜をしてしまう。今は今年の二月から始まったコロナ禍の中なので、学校は休みだし、気にすることではないかと僕は言い訳をする。
毎日毎日家にいる。受験勉強や課題はあるが、退屈で仕方ない。そんな中、僕は趣味で小説を書き始めた。きっかけは今年の冬、確か冬休みのある日に高校の山岳部の友達たちと鎌倉観光に行ったときだった。
「『鎌倉で待ってる』って映画ありそうじゃね?」
皆で鶴岡八幡宮から由比ヶ浜を結ぶ参道である若宮大路を鎌倉駅の方へと歩いていると、友達の一人が唐突にそう言った。彼は変わったやつで、時々歌を歌っては、「それ、なんの曲?」と僕が訊くと「作詞作曲by俺」と真顔で返してくるやつなのだ。
「なにそれ」
「確かにありそうだな」
「ほら、例えばさっきの由比ヶ浜とかで、クライマックス迎えそうじゃね?」
夕刻の由比ヶ浜の景色は目に見張るものがあった。朱と紫が空を水彩画のように彩り、その幻想に包まれそうになる。陽が沈む。その瞬きを見ながら僕たちは渚で裸足になって立っていた。
「確かにありそう……」
友達の誰かが答えた。僕も首肯して同意を示すと、今まで黙っていた友達がふと呟いた。
「なら、つくる?」
その日、次の文化祭で映画を作ることに決まった。それからしばらく経って担当が決まり、僕は脚本担当に抜擢された。僕は生まれてはじめて物語を考えることになった。読書は中学から本格的に始めた僕だったが、まだ創作をしたことがなかった。そんな僕なりにストーリーを考えてみたものの、その映画は実現しなかった。コロナウイルスの影響で文化祭そのものがなくなったのだ。
僕は創作意欲を持て余した。せめて、そこで映画を完成させていれば僕は満足したのかもしれない。受験生としての正しい道からそれることもなかったはずだ。だが、実際は違った。僕は消化しきれなかった、そしてその頃には既に肥大し始めていた創作意欲を満たすべく、コロナ休みを創作活動に費やした。今思い返せば、この頃から私の病は始まっていたのかもしれない。
その頃の私は真理を小説として表そうとしていた。私は子供の頃から物理が好きで、小学生の頃の愛読書は科学誌『Newton』だったくらいだ。
そんな私は真理を求めていた。真理を知るために、人生を捧げようとまで考えていた。将来の夢は理論物理学者だった。だけど、薄々感じていた不安があった。果たして僕が生きているうちに真理は解明されるのだろうかと。それ故に、僕は芸術という違うアプローチをとったのだと思う。結果として、それが私が真理を知ることに繋がったと今の私は思っている。だが、周りの人、特に親から見れば狂った妄言に過ぎないのかもしれない。
成績に関しては、中学一年からの真面目に勉強していた五年間での貯金のおかげか幸いなことに、コロナウイルスが蔓延し始める前までは志望校の模試でもA判定を取れていた。だが、勉強の代わりに創作を続けていれば学力が下がるのは当然だ。コロナ休みが明ける頃、僕の学年の順位は一桁ではなくなっていた。流石に僕もこれはまずいと思った。  
夏休みに大きな模試があることもあり、僕はそのために傍らで創作しつつも勉強を頑張った。それに伴って睡眠時間は減っていった。睡眠不足。これが僕の病の始まりだった。
僕は六月頃から時々鬱になった。なにもやる気が出ないのだ。学校では優等生としてのキャラクターが確立していたので、重い体に鞭打ってまで学校に行っていたが、かなり辛かった。けれど、まだ、なんとかやれていた。なぜなら、鬱のあとには決まって晴れやかな気持ちになるからだ。雨の後には必ず晴れが来る。苦も幸福も、なにもかもは永遠ではない。そんなことを当時の私は考えていた。それこそが躁だったのだ。
夏休みが始まるとともに、僕の病気を悪化させた一つのファクターが増えた。体育祭だ。コロナ禍でも、僕の学校では体育祭が開催されることになった。そして、僕は断れない性格が起因して、誰もやりたがらないパネル製作のリーダーをやることになっていた。
確か、絵を描くのが好きだからとか理由付けしていたと思う。本当は絵など得意ではないのにも関わらず。パネルとは、巨大な絵をペンキで描くというもの。正直、パネルリーダーをやると浪人するというジンクスがある程に過酷な仕事だった。
人を集め、スケジュールを立て、買い出しをして、シフトを組んでと、仲間と一緒に協力しながら、黒板サイズの絵を描く。もしかしたら黒板よりも大きかったかもしれない。
僕は献身した。夏休み、毎日のように学校に通い、友達がエアコンの効いた部屋で勉強している中、汗だくになって扇風機の風で暑さをしのぎながら、パネルと格闘していたのを今でも思い出せる。
それでいて、大切な模試があるからと、勉強もしなくていはならなかった。睡眠時間ばかりが削れていった。
いけなかったのは、その模試で全国の成績優秀者に載ってしまったことだ。このせいで僕は慢心した。これなら余裕だろうと。恐らくこの慢心も私の病から来たものであると今になって思う。私が患ったのはそういう病気なのだ。双極性障害。それが私の患った病だ。
パネル製作の休みの日には図書館に行くも、勉強するふりをして、ずっと創作をしていた。創作こそがもう生きがいだった。むしろ、創作こそが全てだったんだ、あの頃は。
体育祭ではパネルで一位を取った。努力が報われた。知っていたのだ。努力は必ず報われると。それは当時の僕の人生観を占めていた経験論だった。だからこそ、僕は創作を続けてしまった。真理を知るためにこの努力は必ず意味があると。傍から見たら誤った努力だっただろう。その頃、親は僕の異常に勘付き始めていた。けれど、模試の成績が良かったからか、その時はまだ何も言わなかった。
結果的に未来で真理を知ることが出来たと思える経験をしたので、その努力は報われたと今の私は思っている。結局、全ては因果の理だ。思考が現実になるのだ。私は真理を求めた。真理とはなにか、という問いが私の思考の中枢だったのだ。その結果として真理を知るため、病になるべくしてなったのかもしれない。私はネガティブに病に向き合うよりはポジティブに向き合うべきだと思うので、この考えは捨てない。
秋になる頃から、死について考えるようになった。それは、腹の底から黒いなにかが這い上がってきて、僕の魂を食い尽くそうとする、そんな死だった。鬱が原因で死を考えたのかもしれないが、真理を知るためにも死については理解する必要があったのかもしれない。
その頃、短編小説をいくつか書いた。それをウェブに投稿して見たりもした。それらの習作たちはあまり読まれなかったものの、僕は自身の作品が世に出ることに歓喜し、ますます創作意欲が湧いた。
月日が流れるにつれ、僕は僕ではなくなっていき、俺になった。性格が変貌していったのだ。俺はアニマとアニムスと僕の三位一体だと考えた。俺はそれぞれに椋、涼、諒と名前をつけた。気分とともに、人格が分かれていった。その日々は秋めいていて、どこか忙しなかった。
恋をしたくなった。誰かを愛し、愛されたいと思った。俺は仲が良かった幼馴染を公園に呼び出した。
「付き合わない? 好きだよ」
「うん、いいよ」
二つ返事であっさり付き合うことになった。その日は夜の街を彼女と手を繋いで歩いた。お互いの音楽や服の趣向を共有して、俺たちは恋人として一歩を進むはずだった。けれど、次の日は雨だった。陰鬱な朝には俺はもう消えていて、すっかり僕になっていた。
気分は沈み、過去の軽薄な行動を後悔し、そしてやはり友達のままでいようと、僕から提案した。彼女には申し訳ないことをした。彼女を愛しこそしなかったが、大切な友人として好きな気持ちは今でも変わらない。けれど、僕の中の怪物はまた顔を出す。
俺の書いた小説を読んだという女友達が会いたいと言ってきた。俺は快諾し、お互い受験で退屈だしと、気晴らしにカラオケに行くことになった。俺は彼女のことは友達として好きだったが、彼女には遠距離恋愛中の彼氏がいることを知っていたので、恋愛感情までは持ち合わせていなかった。俺が恋愛ソングを歌っていると彼女が急に抱きついてきた。
彼女はうなじが好きだという。マスク越しにキスをした。抱き合って、そのまま時間を過ごした。この時、愛を初めて知った。
中学の時に好きだった女の子に高一のクリスマスの翌日に勇気を出して告白し、それから約一年間付き合ったものの、お互いに初心過ぎて恋愛にならなかったことがあり、悔やまれた。もっとこの子みたいに強引でいいから、積極的に愛し合うべきだった。けれど、過ぎてしまった時は戻らないので、俺は目の前のこの子のことを考えた。
それから、定期的にお互い塾のない夜を共に過ごした。夕飯を食べたり、繁華街を手を繋ぎながらぶらついたりした。幸せだった。でも、彼女は自殺した。 

これじゃあ、ずっと繰り返し。もっとないのか。お前の人生。
必ずあの冬の日に帰する。それでいいのか、お前の人生。

「いや、前に進みたいよ」
「なら、何をする?」
「やり直したい。でもできない」
「なら、何をする?」
「なら、僕は、小説を書くよ。うん。小説を書く」

僕は最後の小説を書いた。

◆Number777
「死刑囚浅霧裕人。これより刑の執行を行う」
目隠しと手錠がかけられる。視界はもう暗闇だ。まるで、死んだあとの世界のようだ。あぁ、嫌だ。背筋が狂おしいほどに寒くてズキズキと痛む。腹の奥に黒い何かが蠢いて、吐き気がする。
カーテンが開く音がする。死が迫る。死が迫る。
とうの昔に死など受け入れたはずなのに、どうして、こうも生きるのを求めてやまないのか。弱いんだ、私は。昔からずっと変わらない。
あぁ、怖いよ。死ぬのがこんなにも怖い。私が殺してきた彼女達はどうやって受け入れたのだろう。
辿り着いたと思った真実が、全て幻想や妄想の類だったとでもいうのか。こんなに恐ろしいことはない。誰か、応えてくれ。教えてくれ。天使でもいい、悪魔でもいい。私に、教えてくれないか?
首に縄がかけられる。浮足立って、手足が震える。最期に見ようとするのはやはりあの絵だった。あれからかなり経つ。桐花はもう完成させたのだろうか。私は独りよがりだったのだ。教誨師に諭された訳ではないが、私の絵は身勝手で極まりない。本当のラカン・フリーズ(そんなものなど最初からないのかもしれないが)を描けるのは、人生から逃げてきた私ではなくて、それでも向き合い努力し続けてきた桐花なのかもしれない。
「当然の報いか……」
死神が私を誘う。これだけ殺してきたんだ。向かう先は、地獄だ。だが、落ちるのは私に相応しいな。
ガタン。体が落ちる。落ちていく。
もがく。誰でも苦しいのはやはり嫌だろう。だが、苦しいのはほんの一瞬で、力の抜けた浅霧の脳はもう逆に冴えていた。言語などない。このクオリアは、ただただ美しい。浅霧は走馬灯のように思い返していた。死の狭間で、全ての記憶を見つめていた。

◆モノローグ
永遠の色は灰色が滲んだ空色だった。全能の幸福だった。そう。私はあの冬の日からずっと永遠とか神とか、終末とかの類を描きたかったんだ。汎神論、梵我一如もいいな。私はその概念をラカン・フリーズと呼ぶことにした。これは私の造語だよ。だが、これだと確信できる絵は一向にできなかった。
ストレスもあった。そうだ。ラカン・フリーズを知ってなお、普通に生きれるわけがなかった。私はバーで知り合って一夜を過ごした女性を殺した。昨夜はあれだけ愛し合ったというのに。朝になって虚しくなった私の両手は彼女の首に纏わりつく。
これで私も殺人犯だ。むしろ楽になった。そうだな。いっそのこと、芸術作品を作ろう。私は彼女の血を使って、純白のベッドに赤い絵を描いた。傑作ができた。指で描いたから輪郭はぼやけるが、それでもある種の快感を抱いた。真理にはまだ程遠いが、あの日のような幸福感が総身を包んだ。そっからだ。私が若い女を好んで殺し始めたのは。

◆猟奇殺人鬼
刑務所の面会室にて、死刑囚浅霧裕人への詰問が終わった。彼は表向きは芸術家だが、777名の若い女性を殺した猟奇殺人鬼でもあった。何故777人なのか、と尋ねると、それは彼のポリシーだという。彼は777の至高なる芸術作品を作ったと豪語した。これで終わり。だから自首したのだった。もちろん彼には極刑が下った。
今、私は先輩とともに東京拘置所を去ろうとしていた。秋風が肌寒い11月のことだった。
「私、怖かったです」
私は寒気がしていた。それは単に世界が寒くなっていふからだけではないだろう。私は先輩に聞こえるようにそう呟いた。すると先輩も「俺もだ」と、先輩には珍しくうわずった声が返ってきた。
今でもありありと浅霧の瞳が想起される。悟りを開いたとでも言うしかないような、悟った瞳をしていた。そして、とても穏やかな表情だった。それが返って恐ろしかった。思い出すだけで、背中に虫唾が走る。
「あの、全てを見透かしたかのような目。私達を見て、何を考えているのか」
「殺人鬼、それも猟奇殺人鬼の考えてることはわからんな。わかりたくもないが」
先輩はそう言うと、タバコを胸ポケットから取り出そうとした。だが、胸ポケットには何も入っていなかったようだ。それもそのはず。先輩は少し前に禁煙を宣言していたからだ。先輩は禁煙したことを思い出したのだろう、ため息を吐いた。その息が少し白くなっていたのをみとめて、私は季節の移ろいを一層感じた。
「それにしても、極刑決まったのに精神鑑定するんですね」
「ああ。今後の参考にでもするのだろうよ。だが、世の中は早く殺せという声でうるさいがな」
「そうですね。ですが、ごく一部の人は浅霧を熱狂的に支持していますよね」
「いるな。狂信者たちだよ」
私達は車に乗り込む。先輩が運転席に座る。私は運転免許こそあるが、運転は苦手なのだ。それ故にいつも先輩が運転してくれる。私はそそくさと助手席に座ると、車窓から外を見た。拘置所の門の前で浅霧の無罪を主張する団体がいた。私はその者達の目が赤く見えた。

◆模倣犯
俺は階段を駆け上る。そしてたどり着く。ここはホテルの屋上。
「両手をあげろ!」
俺は連続殺人犯に銃を向ける。女はしぶしぶ両手をあげてこちらを見る。その女は血まみれだった。
「うっ……」
血の匂いが夜風にのって鼻腔をくすぐる。だが、その血は彼女の血ではない。彼女がこのホテルの一室で、たった今殺した女性の血だった。
「手を上げたまま、じっとしていろ。いいな!」
「……」
「どうした、聞こえないのか?そのまま膝をつけ!」
「……」
銃の照準を合わせながら、俺は女性にゆっくりと歩み寄る。声が聞こえないのだろうか?すると、突然女は叫びだした。
「どうしてよ!」
「は?」
女の劈くような怒号は、夜のビル街に消えていった。まるで追い詰められた野生動物の上げる声のようにも聞こえ。女は続ける。
「どうして私達の神を、救いを奪うのですか!」
女は世迷い言を喋り始める。髪をクシャクシャにして、地団駄を踏み、どうして! どうして! と雄たけびを上げる。
「どうした、急に?」
俺は女を宥めようとするが、声は届いていないようだった。
「何故、浅霧様はもう作品を作らないのですか……」
どうして。どうして……。どうして!
女はうずくまりながら、うめき声をあげている。
何故私を殺してくださらなかったのですか。何故もうお止めになるのですか。何故先に還ってしまうのですか。何故、何故、何故!
俺は戸惑ったが、後ろに仲間が駆けつけたのを確かめると、「確保!」と声を上げた。
「あ……」
女は立ち上がる。その瞳はやはり赤かった。
女は振り返る。その後ろ姿もやはり赤かった。
「待て!」
女は空へと飛び立った。この世界に耐えられなかったのか。それともラカン・フリーズに還ろうとでもいうのか。俺にはわからない。
「また、救えなかったか……」

◆精神鑑定
「では、今から見せる絵が何に見えるか。答えてください」
私は抽象的な絵が描かれた絵を次々に浅霧死刑囚にガラス越しに見せている。
脳の断面。
死神。
祝祭。
林檎。
ライオン。
セックス。
愛。
神。
踊り。
そして、最後。
「終末の色だ」
No.10の絵をもう一度見せて、浅霧死刑囚に確かめる。
「どこが終末に見えたのですか?」
「全体的な色彩バランスだよ。灰色と水色、私は空色と言うことにしているが。それと薄桃色。これこそ私のたどり着いた終末の色だ」
「具体的な形ではなく、色彩だけで判断したのですね?」
「ああ。そうだよ」
「はい。では、次の検査をしますね」
私は十の絵を箱の中にしまっていく。問答は全て録音されているので、特に気になった彼の仕草などを記録していた紙もファイルにしまう。
次に私は一枚の画用紙とマッキーペンを取り出した。
「次は風景の絵を描いてもらいます。私の言う順番にね」
川、山、田んぼ、道、家、人、花、動物、石。
「では、次に色を塗ってください」
私はクーピーペンシルを渡す。すると浅霧死刑囚は「クーピーですか」と微笑んでから、紙を裏返し描き始める。
「そこにではなくて、さっき描いたところに色をつけてください」
「まだNo.777は絵にしてないんだよ。少しだけ待っていてくれるかね」
「いや、そういうわけには……」
私は、ちらっと見てしまった。その絵を。浅霧の描く色彩を。私は咄嗟に視線を反らした。動悸する。死ぬのが怖いと、何故かそう思った。
あれ、視界が滲む。泣いているのか?
「いや、心が凪いでいるのだよ」
浅霧死刑囚も泣いていた。なぜ?
私は彼の絵の完成を待たざるを得なかった。
彼の描くものに吸い寄せられるように興味が湧いた。
「よし。これは君に渡しておくよ。できればかつて私の助手だった桐花くんに渡してくれ」
「萌木桐花ですよね」
私は怖くてその絵を見ることができなかった。なのでできるだけ直視しないように受け取る。
「ああ。彼女ならクーピーで描いたこの絵を完全なる芸術に昇華させられる。頼んだよ」
「はい、分かりました」
「で、表に描いた風景に色を付けるんだったかな?」
「そうですね。お願いします」

私はその日浅霧死刑囚の描いた絵を受け取った。職務上良くないのは承知だが、この男からは今までに会ってきた殺人鬼たちのような悪意が見えなかった。
浅霧死刑囚は死を願う女性しか殺していなかった。最初の殺人はもう確かめようはないが、少なくとも、それが彼のポリシーだった。だから彼を支持する者が現れるのだ。
私は浅霧死刑囚はやはり死刑に処されるべきだとは思っていた。だが、彼の才能が勿体ない気もした。
もう、浅霧はこの世にいない。私は昔浅霧の助手をしていた桐花さんに託された絵を渡すべく、車を走らせた。

◆フィナーレ
「はい。萌木ですが」
「はじめまして。私、浅霧先生の精神鑑定をした成瀬と申します」
「浅霧先生は!浅霧先生はなんと!」
「まぁ、落ち着いてください」
「あ、失礼しました。取り敢えずあがってください」
成瀬さんを私の画廊にあげる。私は待ちきれずに、画廊の真ん中で訊く。
「浅霧先生はなんと?」
「これを見てください」
渡されたのは一つの画用紙だった。
「あ、あぁ!」
私は泣き崩れる。私はひと目見て悟った。そうか。これが、先生が求めていたものだったのか!
先生はある冬に語ってくれた。
――私はあの冬に死にかけたのだ。臨死体験というやつだ。病気でね。長くはないと思っていたよ。だが、今の今まで生きている。これは使命なのだと思ってね。
――その時に見たんだよ。終末の色をね。言語化できない無上の幸福のようなものなのだよ。言葉では伝わらない答えを求めてるんだ。だから君も――
あの時、続けて先生はなんて言ったんだっけ。思い出せない。嫌だ、忘れたくない。まだ行かないで、先生。
「萌木さん?」
声をかけられてはっとした。目を瞑っていた私の目は開かれて、視界に先生の絵が映りむ。それは優しく美しい絵だった。まるで温厚な先生のような。だから君も……。あ、そうだ。
――だから君も君のために絵を描いてね。
私は涙を拭うと、奮い立つ。
「分かりました。これを作品にすればいいのですよね?」
「え、ええ」
「任せてください。今から描きますから」
私は先生に託された「No.777『ラカン・フリーズ』」を描く。
ラカン・フリーズ。先生は常にそれを求めていた。
私にはまだそれが何なのかはわからないけれど、それでも遠かった先生の背中に少しは近づいた気がした。

◆絵「No.777『ラカン・フリーズ』」
その絵には抽象的な花々に囲まれて、一人の女性が描かれている。死んでいるのか、虚ろな目をしている。だが、病的なまでに美しい白色の肌だった。
灰色と空色と薄桃色が凪ぐ。そんな香りのする色彩に包まれて、永遠は終末と踊るのだ。そんなクオリアを刻んだ絵。
先生、これで良かったのですか?

◆ある冬の日のこと

私は、歓喜に、歓喜に射精する。いや、歓喜に絶頂する。天上楽園の乙女のように!否、この輪=環より去るのは賢明なのか。全ての魂は、過去から未来から集うのに、それさえ錯覚か。
もう柵なんていい。人間関係もいい。そんなんで壊れるくらいなら、こちらから願い下げだ!これは小説なのか?これで何がしたい。お前は何のために生きてきたんだ?それを証明しろ。今すぐにやれよ。
エッセイでもない。詩ほど洗練されてもいない。これは戯けた鼓動の叫びだ!耳に響くのは天上の音。ノート?ノートではだめだ。ノートは字を書くためにあるんだ。絵を描きたい!私はあの、女神のように麗しい彼女を描きたい!
キャンバスは?ない。いや、ある!白い壁があるではないか!絵の具なり書道セットなりを引っ張り出し、私は床にぶちまける。
筆をとる。墨をつける。そして踊るのだ。終末で踊るあの子のように。時ヲ止メテ。イヤだ。涙が視界をにじませた。
スマホを取る。『歓喜の歌』はもういい。終末の音楽を探そう。いや、あれしかない。
その前に、もう、痛みもないから!だから、私は存在を描くために、自身の胸に彫刻刀で存在を刻む。
頑張れ、私!ガンバるんだ、私!
刻む、きざむ、キザム。
刻む、キザム、きざむ。
肉が千切れる度に血が吹きでると、私は愉悦に頬を緩ませた。胸がやけに軽い。
「これが原罪の朱。綺麗だなぁ」
私は血溜まりに筆を浸して、壁に描く。
林檎を、胎児を、亡くした母を。
楽しい!赤い!部屋が彩られていく!
「なにしてるの!」
部屋の扉が開けられた。やはり!時の断絶を結び合わせるのは、君なんだ!
「春菜。ありがとう」
「何よ、裕人!なにしてるのよ!」
妹が見ているものは、私が最後に残した芸術だ。伝われ、私の人生よ。轟け、稲妻よ。薄命の私はもう、残り少ないから……。
「救急です!はい。胸から血を流していて!」
だめだよ、春菜。電話したって。だってもう、私は。私はもう還れないよ。あの頃にはもう戻れないよ。
立っていられなくなった私はベッドに寝転がる。なんだか、寒いよ。胸、刻み過ぎたかな?私は、もう死ぬのか。でも、もういい。十分生きたから。最後にとびっきりの絵を描けたから!
「裕人!しっかり、裕人!」
「おい、春菜。っな!」
「お父さん!裕人が、裕人が!」
最後くらい、静かにしてよ。そうだな……。『doublet』の次の曲は確か……

◆エピローグ
「あれ……」
私は水面に立っていた。ここは白く光り輝いていて眩しい。水は地平線の彼方まで続いている。
 ふと下を見ると知らない顔が映っていた。
 だれなの?
 どこから来たの?
 わからない。全てがわからないよ。
 でも、いいんだ。もう。
 今はとても幸せだから。そうだな。このために生まれてきたんだ。きっと、人が生まれたのも。こんな感じで、誰も気づいてくれなかったからなのかな。だから他人が必要なんだ。だから死が必要なんだ。受け入れよう。全ての今に感謝して。

 至福の時は、永遠のようだった。
 原罪の赤に君の純粋な白を混ぜてできた薄桃色。
 全ての時をフリーズさせ、翳る灰色。
 そして、空色は、あの冬のような全能の幸福を体現する。
 
「あ……」
 目覚めてしまった。死ぬ予定だったのに。そうか。ならまだ生きていていい。私には使命があるんだ。

FIN

永遠は凪いだ空色の味がした

永遠は凪いだ空色の味がした

自傷行為、自慰行為、そんな痛い記憶

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-10

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