風はもう聴こえない

風はもう聴こえない

◆プロローグ
「私、思い出したの。これでよかったんだよ」
滅びゆく終末の世界で、泣き崩れる少年の背中を少女は優しく撫でながら言った。
「俺たちが終わらせたんだぞ!」
少女は少年の瞳から流れる涙を指先で拭うと、世界を見回した。空は朱に染まり、審判者達が断罪せんと地を行き空を行き、抵抗むなしく人々は斬られ、血の花が咲いていく。
二人がいるのは真っ赤に染まった下界とは隔絶された世界。狭間の世界。ここには時流さえなかった。
「あなたは何も悪くない。すべてアスラの民に伝わる伝承通りよ。だから」

いつかまた、巡り会えますように。

最後に聞いたあの子の声は、終末の世界で唯一の希望に思えた。


◆1いつもの朝
少年は夢と現実の間で微睡んでいた。だが、惰眠は許さないと料理長のバルザックが少年をたたき起こしに来る。
「おーい、ライラ。寝すぎだぞ!」
「あぁ。わかってる!」
少年ライラは重い体をゆるりと起こしてから、だらだらと洗面所へ顔を洗いに向かう。鏡を通して見たライラの顔はとてもやつれていた。ライラはひどい夢でも見たのかと考える。
朝食はいつもと変わらず蒸した芋とジャーキーだった。風に揺れる食堂でライラは退屈そうに食べながら、一人の少女の横顔を眺めることに専念した。
「好きだよな。メルちゃん」
「そんなんじゃねぇよ」
朝から酒を飲む飲んだくれの班長がライラのことをからかう。ライラは居づらくなって、芋とジャーキーを手にデッキに出た。
「風が気持ちいいな」
ライラは独りごちる。もうすぐ旅の終着点だ。風の民アスラは幾度も百年を経て、風の吹くほうへ向かい続けてきた。それももうすぐで終わりなのだ。
「どうしたライラよ。独り黄昏て」
後ろから声がかかる。その声はライラが尊敬してやまない船長のものだった。
「船長。ほら。言い伝えによると、俺たちの旅ももうすぐ終わるんですよね」
「ああ、そうだな」 
船長はそう答えながらライラの隣に立つ。
「だが、終わりのねぇ旅なんざつまらねぇよ」
それに、と船長は続けて
「人生も同じだろ。終わりがあってこその旅だし人生なんだよ。わかるか?」
「は、はい!」
「なら、とっとと食え。腹が減ってはなんとやらだ」
ライラは空腹を満たすために、残りの朝食を平らげた。
「伝承がなんだ。俺は俺がしたいように風の声を聴いてやる。今までも、これからもだ」
ライラは後方に流れゆく雲たちに告げるようにそう言い放ってから部屋に戻るべく振り返った。すると、そこにはライラの予想外の顔があった。

◆2 それぞれの想い
ライラは密かに思いを寄せていた少女とデッキにて向かい合う。
「メル。どうしたの?」
恐る恐るライラはメルに訊くも、メルは真っ白なその髪を揺らして、首を横に振った。そしてメルは続ける。
「夢。見なかった?」
メルはアスラの一族の中でも特別な家系で、代々伝承を引き継いでいる巫女の血を引く。もし、風の終着点にあるとされる楽園にたどり着くのがもっと先なら、メルが次の伝承の守り人となる予定だった。ライラはそんなメルに質問されたが、要領を得ず、答えあぐねる。
「夢? なんのこと」
ライラは断片となった夢を拾い集めることはしたくなかった。メルはそう、とつぶやく。
「楽園へ近づくにつれ、人はみな夢を観だすはずなの」
「終末の姿を。私たちが終わらせる、世界の最期をね」
ライラの頭の中を、集めたくなかった世界の死が駆け巡る。世界の淵、不知という闇に遮られて、ただメルの声だけが脳に残響する瞬間が、ありありと思い出される。
ウミネコが鳴きわめく音は、風の心地とともに過ぎ去っていく。メルの髪は風に撫でられる。ライラは、ありふれた視界をやけに鮮やかに感じる。変わり映えしないふだんの朝が、終わりを控えて、急に輝き出しているようにさえ思えてならない。
「どんな夢なんだろう」
ライラは尋ねる。
「え?」
「その……世界の最期? 果てしない無限の世界が、終わる瞬間ってのが」
メルはうーん、と一呼吸おく。目線を落として何かを思案し、やがて面を上げた。
「そうね。私も思い出せる限りだけど、ぼんやりと、世界が絶望に灼かれていったわ。ううん、なんとも、言葉にしづらい光景なんだけれど」
ライラは、自分の見た夢にメルの夢を投影する。焦燥とか恐怖とか、いろんなものに巻かれて張り詰めたライラの顔とは裏腹に、メルの顔つきは晴れ晴れとしていたことを思い出す。
「ただ、なんだか。夢の終わりには何かを思い出せたの。こう、忘れ物に気がついたときのような感じの」
「そう……なんだ」
ライラはそばにあった欄干にもたれかかる。
しばらく追い風が続いていることが、ライラにとってほんの少しのモラトリアムになった。残りわずかの旅路にも重なり合う猶予とも思えた。
「終わってほしく……ないな」
「何が?」
ライラの独り言にメルがレスポンスする。風に持っていかれた髪をかき上げるメルを、ライラは無意識に眺めとる。
「何も、かも」
「面舵だって、メルだって、船長だって、この船だって、この人生だって。手放したくなんかない」
「はあ……? 今更、何を言っているの」
「そうじゃないか! 失いたくないものばかりを抱えて、でもそれを俺たちの意志とは無関係に手放さなくちゃならない。そんな納得行かないことを、伝え受けたことだからって」
「でもそれらは、いつか失うものなのよ。たとえ世界が終わらなくとも、不条理に手放さなくちゃならないの」
真っ向から言い返すメルに、ライラは底知れぬ思いが湧き上がってくるように思えた。
ただ遺された理に突き動かされる集団に、ライラの考えは通用しない。日和っているだけだと一蹴されるだけに違いない。だけどライラは本気だった。
「メルさーん! 船長が呼んでるぞ」
見計らったかのように、船員のひとりがこちらに呼びかけてきた。メルは振り向いてそれに応えると、ライラのほうを向きなおした。
「迷っている暇なんて、ないのよ」
メルはそう言い残すと、ライラのもとを歩き去っていった。
ライラは立ち尽くす。あとに残るかぎ慣れた潮風の香りの中には、メルのほのかな匂いがあった。

◆3 夜明け前
ライラにとって、紺碧の青空など、もう見慣れた光景だった。幾星霜の航海において、星空は無口な番人でしかない。
ライラは甲板にいた。非番にもかかわらず外で時を待つ。
眠りたくなかったからだ。夢を見たくなかったからだ。メルの晴れ晴れとした顔が煙に巻かれて消え去っていくところを見たくなかったからだ。世界を終わらせたくなかったからだ。
眠気はしばらくのうちに吹き飛んだ。するべきこともなくただ佇んでいたライラは、星の運行を見て今が夜明け前なのだと悟る。
「……」
あの言い合いからすぐに、風の様子がおかしくなった。勢いを増し、向きを頻繁に変え、嵐がやってきたかのように、船は揺り動かされた。
伝承に聞くところの「呼び風」だった。ゴールに近付いてくると、風の向きが乱れ、嵐に遭ったかのように船が大きく揺れる。それは、世界の終焉を知らない無垢な旅人たちを、そこに寄せ付けないためのものだという。
今まで進んできた道を、見失わずに進め――メルは、ライラにそう告げた。その助言通りに進むうち、やがて風は息の根を止められたかのように止み、今も凪いでいる。
ライラは思案する。どうやったらこんな不条理を脱せるのか、と。
世界の終わりは、止められないのか。この船は押し流されることもひっくり返されることもなく、航海を終えてしまうのか。
朝のメルの顔を思い出す。彼女は、本気だ。アスラの民として、次なる伝承の守り人として、その伝承を十字架のように抱え込んで歩む。たとえ命脈途絶えようと、その歩みに迷いは生まれないだろう。
やめさせるという選択肢は、ライラにない。残りわずかのモラトリアムに、明日はない。
しかし、ライラは本気だった。この世界を、あとひとときでも長く続けるために。

夜明けが、来る。

◆4 繰り返される歴史
時刻で言えばまだ夜も明けていないというのに、そよ風の吹く「そこ」にはまばゆく輝く花々が咲き誇っていた。この楽園は、伝承によれば無際限に広がる地なのだとされていたが、白く光る草原のその先にはこれまた白い森が広がっていて、地平線は見えそうも無かった。楽園を見るライラの眼は対照的に黒く淀んでいた。
 どうぞ泊めて下さい! と言わんばかりに都合よく用意された船着き場からぞろぞろと船員が降りていく。皆、言葉は無かった。船着き場から5分くらいだろうか、歩いて行ったところは小高い丘で、輝く「楽園」の中でも、その輝きの中心となっているような玉石が鎮座していた。この玉石こそ、人間が「楽園」にゴールした事を証明するのに必要な記録装置だった。そして起動できるのは、代々巫女を務める家系だけであると、伝承には記されていた。巫女が航海の安全を祈るのはおまけに過ぎない。真の目的はこの玉石を起動させる事だった。小高い丘に集まる数十人の船員の中から、一人の巫女―メルが玉石へと歩み寄る。船員の表情は一様だった。終わりを、世界の終わりを予感して、最早清々しくさえ思えるような顔だった。
 玉石まであと5歩。皆に動きはない。
 玉石まであと4歩。手を合わせて祈りをささげる船員も現れ始めた。
 玉石まであと3歩。メルの面持ちにも、緊張の色が滲んでいる。
 玉石まであと――、しかしメルが4歩目を踏み出す事は無かった。足を踏み出すはずだった場所には、彼女の血が数滴、零れていた。
「終わらせやしない……こんな終わりなんておかしいッ!!」
 ライラは憎しみの上に涙を流していた。葛藤の涙であり、怒りの涙であり、哀しみの涙であった。顔を下げていた船員たちも、予期していた現象が起こらない事で顔を上げ、眼前の悲劇に動揺していた。誰も、武器は持っていなかった。そのまま死ぬものだと思っていたから。
「ライ、ラ……? ダメ、それは……っ」
「メルッ……何も、何も言うなぁ……!」
 ライラはこれ以上動揺させられるのが嫌で、メルの腹を一突きしたナイフを引き抜き、首を瞑って首を掻ききった。鮮血が、白き楽園に飛び、そこだけが人の世界を表しているようだった。
 メルは血が溢れる首を抑えながら、最後の最期まで悲しそうな目でライラを見つめていた。ライラは決して目を合わせようとはしなかった。
「おい、ライラ! お前は自分が何をしたのか分かっているのか!」
「……世界を今のままにしておくには……これしか」
 怒声を上げた船員がライラへと歩み寄り、その胸倉を掴もうとした。その寸前で、彼の体は真っ黒に変色し、崩壊した。辺りに散らばった破片は炭のようだった。
 ライラに怒っていた他の船員も、ライラの体に触れる前に次々と黒くなり、そして崩れていった。逃げ惑う人も同じだった。
 「なんだ……なんだよこれ……」
 ライラがメルの方を振り返ると、曇りなく輝く白い玉石が、本当に僅かに、恐らく量で言えば針が指に刺さった時の出血よりも満たない量の血に染められていた。ライラの目がそこに焦点を合わせた瞬間、玉石は真っ黒になり、そして丘が、船着き場が、野原が、遠くの森林が、真っ黒になった。晴れ渡る青空は黒々とした雲に覆われた。
 「メル……?」
 ライラは咄嗟にメルの顔へと視点を変えた。メルは、悲しそうな目をライラに向け、口だけを動かして、ライラにこう語りかけた。
も、う、と、め、ら、れ、な、い
と。

風はもう聴こえない

二人の友人と一緒に書いたものです。ここでその二人に感謝を述べておきます。

風はもう聴こえない

アスラの民は風の民。楽園を目指して旅をする。だが、その旅の末に……。 あらすじ ライラはアスラの民の少年。空飛ぶ船に乗って、風と共に生きる彼らの旅はもうじき終わりを迎えようとしていた。しかし、旅の終わりが近づくに連れてライラは変な夢を見るようになった。そしてそれは彼の意中の相手メルも同じだった。 巫女の血を引くメル。メルは使命を果たそうとしていた。しかし、それが世界の終わりに繋がると知ったライラはメルを止めようとして……。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-05

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