bye bye,peter 4

「モトラドの展示会?」
 ハイリからのメッセージを受信したのは、夏休みも三分の一が終わったあたりだった。中間登校日に町の祭りが行われる。そこに行かないか、という話だったけれど、あまり聞き覚えのない単語にけげんな声を出してしまった。
「そっ! っつーか、展示即売会だな。工場の駐車場とか、敷地を解放してやるらしい」
「もしかしなくても、誘う相手間違ってない?」
「ないない。まだ社員しか知らない、外部に出てない情報らしくてさ。でもお前に言うんならお互い大丈夫かなーって」
 ということは、ハイリの父親が情報源か。父さんも母さんも何も言っていなかったから情報漏えいなんじゃないのか。そう返すと、音割れしたハイリの笑い声が返ってくる。
「てのは建前で、エギナルなら確実に暇してるだろうなと思ってさ。スポーツやってるやつは軒並み練習か合宿かだろ、夏休みは」
「だね。展示ってことは、新作のエアロビークルなんかもあるのか」
「そっ! 俺が見たいのってそれ。先行展示らしくってさあ」
 機械が好きというか、乗り物好きだもんな。初等部の社会科見学で行ったモトラド工場で、誰よりも長く組立作業を見ていたのはハイリだった。
「もし他にも誘いたいやつがいれば誘っていいからさ。中間登校日とかぶってっから、学校行って、一回帰って現地集合で良いよな。じゃ、当日!」
 一方的に話をまとめて、ハイリはメッセージを切ってしまった。オフになった画面を見て、ちょっとためらう。誘いたいやつ。いるけれど、話を持ち掛けて良いものかどうか考えてしまった。
 きみの連絡先は、森林公園に行ったときに聞いている。けれどあれから会っていないし、「行こう」という三文字がとてつもなく重く感じられて、メッセージの送信ボタンが押せない。
 ためらって、悩んで、そのまま端末をテーブルに置いた。
「……っていうか、どの道登校日に顔合わせるじゃん……」
 一言目に何を言おうか、考えるだけで日が暮れそうだった。


 *****


 毎年、祭りは公民館とその隣の公園で行われる。今年はハイリの言っていたモトラドの新作発表と時期が被ってしまった、というわけで、「それなら一緒にしちゃおう、そうしよう」という話し合いが偉い人たちの間であったらしい。……というのもハイリから聞いた話だから、どこまでが本当でどこまでが噂なのか、ちょっと怪しい。
 公民館とモトラド工場は十分も歩けば着く距離にある。工場の敷地で祭りができるのはメリットが大きいみたいだ。初めて会場案内図なんて立派なものをもらったし、毎年屋台を出している店のほかにも、遠くから来たらしい店が多い。光るサイダーや、棒に小麦粉でできた何かや肉を巻いたおやつを出している店なんて初めて見る。
 ぼくとハイリは、家から持ち出してきたバケツと雑貨屋で買った大袋の手持ち花火を持ったまま、出入口近くの簡易テントの下でぼおっと立っていた。
「……すごいな、おい」
「この町、こんなに人がいたんだね」
「それは禁句だろ? 陽が落ちたらもっと増えるんだろうなあ」
 祭りの終わりには何発か花火も打ち上がるらしい。工場のだだっ広い空き地―走行実験なんかで使う場所だろうか―から至近距離で見られるというので、妹や母さんも来るつもりだと言っていた。
「それで、ぼくらの花火はどこでやる?」
「早めにここ出て、公民館の空き地とか……っつーか二人で花火はちょっと切ないよな。集まらなかったなー」
 午前中、クラスの皆にもハイリは声をかけていた。だけど先約が入っている子がほとんどで、こうして二人ぼっちで花火をすることになってしまった。
「あの子も来ないってのがちょっと意外だったけどな。だってほら、家、ここなんだし」
「家はここじゃないと思うよ、所長がお父さんでも。……体調とか、色々あるんじゃないの」
 何日かぶりに会うきみは開口一番に「おはよう」を元気に言ってくるくらい、いつも通りだったけど。どこもかしこもいつも通り、普通通りすぎて、ぼくは反対に訊けなかった。
 あれから何をして過ごしていたのか。身体の具合はどうなのか。飛ぶことは、できたのか。
「うん、体調なら仕方ないよなー」
「ぼくも会ってなかったから、今日顔を見られてほっとしたよ」
 伸びをしたハイリがこちらを見る。なぜか、きょとんとした顔で。
「休み中も頻繁に会ってるもんだと思った」
「なんでだよ」
「だって付き合ってんじゃねーの、エギナルとあの子」
「…………ええ?」
 人間って、驚きすぎると声も出ないのか。
 言葉の意味を理解するのに時間がかかって、理解できても、理解できなかった。
「待った。何をどうやったらそうなるんだ」
「何……ってか、休み時間も色々話してるっぽいし、放課後もよく一緒にいるって聞くし、流れで」
「それだけでそういう結論になるんなら誰だってそうだろ」
 誰でも、は言いすぎかもしれないけれど。
「……誤魔化しじゃなくてさ。本当に、そういう風じゃないんだよ。ほら、ぼくとハイリが遊んだりしてても、仲が良いんだなって思われるだろ」
「俺とお前、友達だもんな」
「だろ。ありがと。で、あいつもそうだよ。ハイリと一緒にいるときと何にも変わらない」
「……そっか。そっか! なーんか、それ聞いて安心したわ」
ほう、と大きいものを口から取り出すみたいにハイリは笑う。
「疑ってた?」
「いーや、どっちなんだろ、ってさ。どっちでも似合うなーって。全部噂で聞いてだけだし。けど今の聞いたら、友達ってより相棒とか、そんな感じで呼ぶのが良さげだな」
「……良いね、それ」
 相棒。
 なかなかぴったりくる表現だ。
「だろ? そんじゃま、とりあえず、腹ごしらえでもしますか!」
 荷物をバケツの中に放り込んで、ぼくたちは屋台が多く集まっているブースに移動した。テントの外へ一歩出ただけで汗がにじむ。
 ぼくは食べ物を買えないので基本的には付き添いだけだ。片手でも食べられる串状の食べ物が、ハイリの手に現れては消えていく。肉、魚、炭水化物、炭水化物、肉、ラムネ、肉、飴、炭水化物。
 見ているこっちが胸やけしそうだ。
 屋台を一巡りしてから、モトラド工場により近いブースへ向かう。子供や親子連れが減って、だんだんおじさんおばさん、お兄さんお姉さんが多くなってきた。白と黒のチェッカーフラッグ柄ののぼりがモトラド展示会場の目印だ。明らかに免許解除の年齢になっていないぼくらを見て受付の人は一瞬けげんそうにしたけれど、すぐに通してくれた。見るだけなら誰にでもできるし、将来のお客さんとしてハイリはすごく有望だろう―
「ほらエギナル! あれだあれ、最新型!」
「え? あ、あー……あぁ、あれね」
 どれだろう。
 展示されている二輪型のモトラドの見分けがぱっとつくほど詳しくはない。
「今季の新型は初めて街乗り用に開発された九三型に寄せたデザインなんだ。ただ、ボディの軽量化と強化のためにフレームが……特にフロントのデザインが大幅に改良されてるから、そこが全体の印象にも反映されてる感じだな。もちろん燃費向上のために見えないディテールの変更はあるらしいぜ。そりゃそうだよな、古きから学び新しきを知る! 授業でも言ってたもんな。あ、何がカッコいいってあの右サイドの―」
「うん……」
 友達には申し訳ないけれど、微塵も分からない。
 せめてパンフレットとか説明書きとかがほしい。それか工場の販売部員の人に来てほしい。ぼくだけでこの情熱を受け止めるのは、少し、いいやかなり、荷が重かった。
 助けを求めるつもりで周りを見渡す。
 すると―見知った顔が、すぐに逸らされた気がした。
「…………ええと、午前中ぶり」
「こっち側に来るなんて聞いてないよ!」
 ぼくらとは反対側から同じ二輪型を見ていたのは、両手に食べ物入りのビニール袋を提げたきみだった。着ているのは、モトラド工場がスポンサーになっているレーシングチームのロゴ入りシャツだ。大昔とは違って、モータースポーツは速さではなくて環境対策を競う競技になっている。速度は言わずもがな、環境負荷の少なさが順位に大きく影響する……らしい。これもハイリの受け売りだ。
「ぼくだって知らなかったって。……何? 食べてるの」
「とうもろこし。バターしょうゆ味」
 他にはおにぎり、一口カステラ、フルーツサイダー、味付きこんにゃく、野菜入りのおやき。ハイリに負けないラインナップを列挙されそうだったので、途中でストップをかける。
 ぼくが話を聞いていないことに気付いたのか、ハイリもこっちにやって来た。きみを見下ろし目を丸くして、ぼくを見、またきみに目を戻す。この食べっぷりが想像できなかったのかもしれない。
「や、来てたんだ。にしても食べますなぁ」
「おなか空いちゃってて、う……ハイリくん、ごめん。ぼく、二人はてっきり屋台のほうだけだと思って断っちゃった」
「あー、俺も説明不足だったな。実はモトラドが本命。最新型が見られるって聞いたから」
「……モトラドが、本命?」
 きみはぷるぷると震えながら、かっと目を見開いて繰り返す。
「そっ。乗れる年になるまで、予習ってワケよ」
「あの……さ、もし、ハイリくんがいやじゃなかったら……さ」
「ん? うん」
 きみは決心したようにうなずいて、大きく息を吸った。教室でも、ハイリからきみに声をかけることはあっても、その逆はないもんな。
 だけどこの感じは、たぶん。きみもモトラドが大好きなんだろう―所長の影響かどうかは分からないけれど。
「ぼくで良かったら、解説……っていうか、説明っていうか、その、お喋りしながら見ない? あっちに仕様書が見られるコーナーもあるんだけど……」
「えっ、良いの? お願いする、全然お願いする! エギナルはどうする? 一緒に見て回るか?」
「ええと―」
 二人ぶんの熱がこめられた視線が熱い。じりじり、後ずさりしてしまったぼくの肩を、誰かがぽんと叩いた。
「私が一緒にお話してるよ。行っといで、あんたたち」
「あっ、おねーさん! 飲み物は? ちゃんと買えた?」
 おねーさん? 誰? きみの?
 おそるおそる振り向くと、片方の手に大きな紙コップを持った長髪の女性が立っていた。背が高い。きみと同じシャツを着ていて、目元がそっくりだ。
「もっちろん、泡たっぷりでね。やあ少年、暇ならちょっと付き合ってくれる?」
「え、え、あの?」
 目を白黒させているうちに、意気投合したきみとハイリは奥のブースへ移動し始めていた。きみにいたってはぼくに「おねーさんをよろしくね!」なんて言葉を投げてくる始末だ。
 ぼくはとりあえず、肩に乗っていた手を避ける。
「まずは自己紹ー介! 私のことはお姉さんと呼んでくれればいいよ。あの子の従妹なんだ。よろしくぅ」
「よろしくお願い……します。ぼくは」
「エギナル君でしょ? 聞いてるよ。いつも良くしてくれてあんがとね」
「聞いてるって、何か変なことじゃないですよね……?」
 お姉さんは視線を止めて、すぐに大口を開けて笑った。
「あっははは、違うって! あの子の話をまともに聞くのはきみだけだって、そんなのをさ、さっき教えてくれたから」
 あちこちの展示を冷やかしながら、お姉さんは紙コップを傾ける。麦っぽい香りがする。この大きさのコップでビールをぐいぐい飲む人がいるものかと、妙に感動してしまった。
「やー、おじさんはほんとすごいよね。会社立ち上げて、こんな乗り物をポンポン作って。あの子、おじさんのことは好きじゃなくても、乗り物は好きだもんなぁ……君は? このへんに住んでる子ってたいてい親がここに勤めてるっしょ。よく話も聞いたりすんじゃない? どう、モトラド、好き?」
「なんとも……」
 必要があったら乗るんじゃないですか、将来、と返すと、お姉さんは「なるほどね」とまた笑った。
 お姉さんは、きみが小さい頃に一緒に暮らしていたという。そういえば、きみはおじいさんおばあさんのところに預けられていたって言っていたっけ。だから仲良しなんだ、とお姉さんは言うけれど、どうやら乗り物の趣味は合わないようだった。
「私は四輪が好きなの。クルマはガソリン入れて走ってなんぼでしょ? 空を走れば渋滞が解消されるとかエコとか燃費とかさ? 私はそういうのを求めちゃいないんだよ。乗るんなら、よりロマンがある方に乗りたいと思うもんよ」
 環境への配慮も燃費も大事だし、ロマンは人それぞれだ。
 と思ったけど、口に出さなかった。
 お姉さんは普段使いの四輪型モトラドとプライベート用の旧型二輪車両の二台持ちを考えているらしく、気になった車体の展示をじっくり見ている。ハイリたちが帰って来るまですることもなかったので、預けられたバケツをぶら下げながら、なんとなくお姉さんの後ろをついて回った。
「興味なくっても、将来的に乗ることになるんだから少しは見た方が良いよ。社会勉強の一環だ。きみたちが免許証を持つ頃には、エアロビークルだって本格的に実用化されてるかもだし」
「それにしたって買えないと思いますけど」
「はぁー、夢がないなぁ。きみの十数年後の所得がどうであれ、大量販売されるようになったら価格も下がるもんだってば」
「お姉さんの答えこそ夢がないです……」
「だってさぁ、便利さは置いといて、空、飛んでみたくない? 古今東西、人類の夢じゃん」
「ぼくは陸だけでけっこう精一杯です。……あいつと違って」
「―飛べるって、聞いたんだ?」
 それまでのどこか軽薄な空気を引っこめて、お姉さんはにやりとした。鎌をかけられていたのかと思い当たったけれどどうすることもできない。大人しく首を縦に振った。
「私のじーさんとばーさん……あの人らも飛べたんだよ。若いときにはね。でも私と私のかーさんは飛べないの。おばさん、あの子のかーさんは飛べたんだってね。適性かねぇ」
「飛べるの、全員じゃないんですか」
「そっ。それも、じーさんの話だとだんだん減ってきてるらしいね。私は飛べようが飛べまいがどうだっていいんだけどね。私には、私をどこにでも連れてってくれる乗り物があるから。だけどあの子は違う。飛べないのは死活問題って思ってる。どうしてだろうね。分かる?」
「いいえ……」
「だよねぇ」
 お姉さんは、顔じゅうをくしゃっとさせて笑った。
「例えばさ、飛びたいって願うから辛いことが起きるってさ、そんな相関関係があるんなら、私は何をしてでもあの子を説得させるよ。だけど分かんないじゃん。関係性も、あの子が飛びたいって思う理由も。今のあの子から空を奪うのは、いっとうしんどいことだって、それだけは分かるし」
「あいつは飛ばないほうがいいって、お姉さんは思ってますか」
「そりゃね。だって人間は空を飛ばないよ」
 お姉さんは力強く断言する。
 ぼくにはそれが、きみの否定とは聞こえなかった。きみを小さい頃から間近で見てきたからこその心配のように思えた。
「骨格の構造も内蔵の重さも、ヒトは有翼生物とはぜんぜん違うんだ。何より、飛ぶには頭が重すぎんだよ。脳みそが重いんだ。速く走ったり泳いだり他の生きものを噛み千切ったり出来ない代わりに、考えて考えて考え抜くことができるようになってるんだよ、私らのアタマは」
「……脳の重さが知能と比例するって説に裏付けはないそうですよ。あいつが言ってた」
「じゃあ―あの子の頭やからだには、何が詰まってんだろうねぇ」
 お姉さんはもう一口、豪快にビールをあおった。
 それから社会勉強だと言って、お姉さんは初心者向けのモトラドをいくつか紹介してくれた。運転補助機能の違いとか、小回りの効きやすさとか、二輪は四輪に慣れてからにした方が良い、とか。純粋にためになる話ばかりだったけれど、お姉さんも教えるのがちょっと楽しそうだった。
 もう一杯のビールをお姉さんが飲み干す頃、二人は戻って来た。手にはさっきまでの屋台の袋の他に、工場や関連企業―タイヤとか小さな部品とか―のロゴや写真が印刷された袋を提げている。
「どうだった、展示」
「大満足! すげえよ、こんなにモトラドに詳しいなんて、流石じゃん。将来買うときにまた相談させてほしいわ」
「えっへへへ、うん」
 エンジンの回転数? タイヤの交換時期? 制御装置のバージョン? さっきよりも専門的になった会話にやや引いていると、きみが一歩近付いてきた。
「ありがと、すごく―すごく、楽しかったよ」
「何もしてないって。むしろ、ハイリに付き合ってくれてありがとう。ぼくは知識がないからさ」
「ううん! ハイリくんがエギナルの友達じゃなかったら話もできなかったもん。おねーさんは、知識はあっても趣味が合わないし」
「ええー? だって、乗るならやっぱり旧型よ。グッとくるものがないんだもの、最近のモデル。おじさんにもそう伝えてちょうだいよ」
「それはおねーさんの趣味が古臭いんだよ」
 お姉さんと言い合っているきみの姿は、学校で見るよりずっと生き生きとして見えた。森林公園に行ったときもこんな感じだった。それから―飛ぶ話をするときも。
 だけどぼくは対照的に、全然気持ちが晴れなかった。お姉さんの言葉の引っかかる感じが取れなくて、もやもやしたまんまだ。
 きみが飛びたいと思うから痛みがひどくなる、これが本当だったら。
 翼を望みさえしなければ、きみは痛みから解放されるのだろうか。 
「よーし、そろそろ移動するか、エギナル」
 気が付けば、もう太陽は西側に半分以上隠れてしまっていた。ハイリは雑に自分の手荷物を一つにまとめ、ぼくのバケツから花火の特大パックをつまみ出す。
 首を傾げているきみに見えるように、
「手持ち花火。一緒にやんね?」
「花火?」
「そうだね、もっと大勢来ればにぎやかだったんだけど、少人数でやるのも贅沢だ。どう、もし良かったら」
「……いいの?」
「帰る時間、親御さんにも連絡して。公民館の隣でするつもり」
 森林公園のときのことがあるので、敢えて言葉にする。きみはすぐに、さっきまでとは違うコップ―ぶどうジュースじゃなくてワインだと思う、いつの間に買ったんだろう―を傾けていたお姉さんに駆け寄って、話をして、ぼくらのところに戻って来た。
「行く。……友達と花火するの、初めて」
 お姉さんはまだまだ飲み足りないらしく、手でオッケーのサインをして祭り会場に戻っていった。
 公民館まではそう遠くないし、荷物も重くない。自転車を置いて二人と歩いていくことにする。
 公民館には屋台の搬出車両が数台置かれているだけで、ぼくらのようにわざわざ手持ち花火をしに来た人もいないみたいだった。
 ろうそくにマッチで火を灯すなんて、理科の実験以外でしたことはない。草が生えていないアスファルトの上で、まず吹き出し花火を手に取った。火を移して数秒、しゅるしゅるという音とともに色が飛びだす。
「エギナル、そっち何色? これ赤っぽいな」
「これも……あっ違う、緑だ」
「ぼくはオレンジ! あははははっ、すごい! きれーい!」
 花火を見ているきみの目は、火花に負けないくらいきらきらしている。吹き出し花火が終わるかどうかという瞬間を狙って、ハイリが次のものを渡す。
 オレンジ、赤、青、緑に黄色。まるでバケツリレーみたいに、きみの手には途切れることなくたくさんの光が散った。
「あっ、途中で色が変わるんだね! つまり火薬の種類を途中で切り替えてるってことかぁ。こんな環境に良くなさそうな娯楽がどうしていまだに残ってるのかな、って思ってたけど、そうだよね」
 きみは最初の一本を持ってから初めて、顔をこちらに向けた。
「こんなにきれいなんだもん。いっぱい見たくなるねえ!」
「大昔から改良が重ねられてて、今は環境に配慮した原料が使われているらしいよ、一応。はい、次」
「そうやってぼくたちの生活は甘やかされてここまで来ちゃってるんだろうけどね」
「おーう。難しい話好きだよなー、二人共」
 ぼくのとなりにしゃがんだハイリが持っているのは、ばちばちと大きな火花を出すタイプのものだ。しかも二本束ねて持っている。ちょっとずるい。
「ま、楽しんでくれて何より。線香花火は?
やったことある?」
「線香……ううん、映像でしか、見たことない」
 ハイリは自分の分が消えたのを確認して、花火が入っていた袋を引き寄せる。小さい紙縒り状になっている線香花火を、やぶかないようにそうっと引き出した。
「線香花火には昔っから、火種を最後までつけてられんのは誰かを競う賭け事があって―」
「ハイリ、適当言うな。ジュースを賭けるのはぼくらのあいだでの決まりってだけだから」
「えっそうなのか? 線香花火のしきたりじゃないのかよ」
「ユリクトが決めたんだ。あいつ、自分が上手いからおごらせようとして」
 あいつはあいつで祭りを楽しめていれば良いと思いながら、線香花火の準備を進める。
「こっち側を持つんだけど、風で揺れたり手が揺れたりすると火種が落っこちちゃうんだ。だから手で風よけを作って―」
「おいおい、親切すぎて不公平だろって。まーまずはやってみてから、な」
 ハイリが火をつけた分をきみに手渡す。ふわふわ、その動きだけでも頼りなく揺れる紙縒りを慎重に持って、きみは火花が散るのをじいっと待っている。ややあって、ぱち、ぱちと控えめに音が鳴りだすと、眉間に寄せていたシワがほどけていく。
「……最初にしては、なかなか」
「うん。少なくともハイリより上手い」
 ぼくとハイリも、自分の分に火をつける。今日は、奢りはなしだ。
 風はあまり吹いてこない。聞こえるのは、火花が散る音と自分たちの身じろぎの音だけだ。
 それぞれ二本ずつ試した結果、一番長く保たせられたのは、きみの二本目の線香花火だった。

「ハイリくんがモトラドに興味あるなんて思わなかったなぁ」
「俺だって。物知りで頭いいなのは分かってたけど、こんなに詳しいなんてさ」
 ぼくはうなずく。運転免許証が取れたら二人でツーリングに行こうと話しているのは、ちょっと不思議な感じがする。きみは、共通点があれば誰とでも話せるんだろうな。その共通点を見つけ出すのが難しいだけで。
「ぼくは知識だけだからさ、乗れるかなぁって不安だよ。自転車も怪しいし……運動神経なくって」
「やってみないと分からんって。それに俺もないよ、運動神経」
「え? どこが?」
「いーや、逆上がりできないの。ホントに」
「……っふふふ、人は見かけによらないんだねえ」
 ゴミをまとめて、水を少し残したバケツに放り込む。二人とも良いコンビだね、と声をかけると、ハイリは「相棒ほどじゃねえだろ」と笑う。
「相棒?」
「そっ。エギナルと二人、良い相棒だよなってさっき話してた」
 面白いね、と白い歯を見せてきみは言う。
「相棒って単語が面白いよ。……夏休みが終わったらさ、誰と誰とが付き合ったとか、一緒にどこに行ってたとか、そういう話が増えると思うんだよ。だとしたら相棒って強いよね。特別な感じがするのがいいねえ」
「強い? そうかな」
「うーん、レア度が強い」
 きみはちょっとだけ、胸を張るしぐさをした。
「友人、とか恋人、って関係性の中にいるひとたちはあちこちにいるけど、相棒ってきっとそんなに多くないじゃない」
「ああ、そういうこと。じゃあ俺もレア度高めたいな」
「ハイリくんは、友達! に、なってくれる?」
「んなの今更じゃん。ってか、言うわりに月並みだし」
「だってね、ぼくの中ではどっちもおんなじ重さなんだ。友達も相棒も、どっちもおんなじ大切で、順序はないの」
「……ホントに?」
「ほんとだよ!」
 いたずらをした小さい子のようにきみは笑って、ハイリから顔を隠そうとする。どん、どん、と妙にからだに響く音が聞こえて来て、祭り会場でも花火の打ち上げが始まったのだと分かったけれど、二人に教えるのをためらってしまった。
 大勢が見ている花火よりも、この三人で見た花火のほうがきれいだと思うから―なんてことを考えていたわけでは、ないけれど。
 ハイリは真っ直ぐ家に帰ると言うので、会場にはぼくときみとで戻る。次に会うのはきっと始業日だ。……お互い、宿題がピンチにならない限りは。家も近いから、終わっていない分を助け合って完成させるのが、ほぼ毎年の恒例行事になっている。
 それぞれの端末のライトを点けて、来た道を引き返す。秋の虫の音があちこちから聞こえてくるけど、この一帯は全部レプリカのものだと思っていいだろう。この音を響かせているのも、環境のためというより情趣のためのような気がする。レプリカは、本物の虫のなわばりとかぶらないように配置されているだろうし。
 きみも同じようなことを考えていたのか、「レプリカってすごいねえ」とこぼす。
「本物の音みたい。って、本物は知らないけどね」
「はは、ぼくもだ。……あの、さ。元気そうで……良かったよ」
「うん。連絡しなくて、ごめんね」
「こっちこそ。ちょっと……勇気が出なかった。何を喋って良いのか、分からなくって」
「あはは、おんなじだ。だから今日はハイリくんも一緒だったのがなんか、良かったな。すっごい楽しかったし」
「あいつ、昔っから乗り物が好きだからさ。……あー。うん。誰か、もっといると良いな。モトラドじゃなくても」
「え?」
「昆虫好きな、ハイリみたいに話ができるやつ。ぼくみたいなじゃなくて、もっと昆虫探しが得意な人なら見つけられるかもだろ。森林公園の再挑戦するなら」
「でもぼくはエギナルと行きたいよ?」
 隣を歩いていたきみが足を止める。ぼくも合わせて止まると、首からぶら下げた端末の光がひゅるりと揺れた。
「またレプリカしか見つからなくっても、エギナルと行きたい」
「でも、」
「本物は見たいけどレプリカも嫌いじゃないし。っふふふ、ていうか、エギナルが再挑戦してもいいって思ってくれてただけで、すっごい嬉しい」
「あんな結果になっちゃったんだから挽回はしたいって。……レプリカでも良いのか? レプリカも機械だから見てて楽しいとか、そういうこと?」
 きみは首を横に振る。ぼくが持っていたバケツの取っ手のはじを持って、取っ手越しに手をつなぐみたいにして歩き出す。
「いつかちゃんと知りたいの。レプリカのこと、本物とおんなじくらい、もっとずっと深く。違いが分かるようになって安心したいの。レプリカは本物の代わりにはなれないでしょ。本物の真似をするから生き物で、だけど機械だから機械じゃなくて。ふわふわしててるのって、不安になる」
「……似せようとするから不安なのかもな」
 どういうこと、と、きみは目で尋ねる。
「なんか……僕は、そこまで似せようとしなくても良いと思うんだ。本物の真似ごとをするのがレプリカ、じゃなくて、本物のレプリカとしてのレプリカって思えばさ、別に。上手く言えないけど」
 レプリカは、人間が勝手につくりだした環境維持装置だとしても。そこにある以上、生きている―動いている意味や理由は明確にある。そう思い込みたいだけなのかもしれないけど、完全な間違いでもないんじゃないだろうか。
「ちゃんと似てるか気にしないといけないのってしんどい気がするんだよ。だからそのまま捉えれば、不安も減るかなって」
「そのまま?」
「そう。比べるとかどうとか関係なく。そのまま」
「……そのままで、ね。……エギナルはすごいや」
 きみは握った手をより深くする。心なしか、小さく震えている気がした。
「じゃあぼくも、ぼくのままでよかったのかなぁ」
「今だって、きみはきみだろ」
「ううん。失敗しちゃってるんだよ」
 何が、と訊き返すより早く、きみは口を開く。ぼくのことばを挟むまいとするかのように、訥々と、でもはっきりと、どこか他人事のように、ぼくが知らないきみを語る。
「ぼくの母さまがもういないのは知ってるでしょ。小さかったし、ぼくもたくさん泣いたけど……父さまは、もっと大変だった。別人みたいに元気がなくなってね、笑わなくなって。……だからぼく、元に戻ってほしくってさ。母さまには秘密にしなさいって言われてたけど、教えたんだ、父さまに。ぼくも空を飛べるって」
「……うん」
 飛べると言い出してから具合が悪くなり始めたことは、あの日に所長から聞いていた。
「母さまとの楽しかったこと、ええと、思い出? を思い出せたら、父さまも元気出るかなって。でも逆効果だった。そんなの止めろって言われた。あんなに必死な顔の父さま、見たことなくってびっくりしたよ。……空を飛ぶなんて言い出さなきゃよかったのかな、って今でもたまに思うよ。……母さまの代わりに飛ぼうなんて」
「そんなこと、言うなよ」
 所長は、怖かったんじゃないだろうか。
 きみのしたことが不快だったとか悲しかったとかではなくて。自分が知りえる範囲を越えて、きみがお母さんのように遠くへ行ってしまうことを恐れたんじゃないだろうか。取り返しのつかないことになる前に、きみを、空から遠ざけたかったんじゃないか。
 ぼくはきみの話に、背中にある翼の名残に惹かれたけど、誰だってそうとは限らない。きみがぼくの癖を知ってもなお、何でもないように接してくれるのと同じかもしれない。知った途端、腫物扱いをする人も少なからずいる。
 知らないもの、分からないものは怖い。
 きみがレプリカに不安を覚えるように。
「ぼくは母さまになれなかったし、かといって鳥にもなれないよ。逆に要らないものばっかり増えてくんだ、この身体」
 肩甲骨の痛みもゆがみも、きみのものだけれど。
 自分だけの―オリジナルだけど、欲しいものではないのだ。
「こういうこと考え始めると頭ん中ぐちゃぐちゃになるんだ。他と違うものに憧れるのって普通だろうけど……ぼくにとっては、その普通が普通じゃなくて、一番欲しいもの。……あは。普通のひとは飛ばないんでしょ? 飛ぶのって多分変なことなんだろうね。だけどこれが、ぼくの唯一だよ」
「飛ぶだけじゃないだろ。見た目も声も、きみがしてくれる話も全部きみだけだ」
 きみのほうを向いても顔は見えない。そのことが少し、ありがたい。
「頭が良いところだけじゃなくて、考え方、好きなものも嫌いなものも……それに想像力だって、きみにしかない。トレースしようとしたってできない。きみのレプリカは作れない。きみの気持ちもきみのものだろ。誰かの代わりとか真似とかじゃなくて、きみが思ってる。だったらきみは、そのままのきみだ」
「……そうかな」
「少なくとも、ぼくにとってはそうだ」
 力を込めてそう返す。きみはかみしめるようにうなずき、小さく「ありがとう」をこぼした。
「夏休みに入ってから、痛くなる日が多くってさ。おさまるまでは飛ぶ練習もしないようにしてるんだ。だから―空が遠くなっちゃってて」
 寂しかったのかな、ときみは照れくさそうにする。
「エギナルからそんな風に言ってもらえたら今すぐ飛べちゃいそう。きみの言葉はぼくの翼だ」
「な、なんか、恥ずかしいぞそれ」
「あはは! 恥ずかしがってるエギナルも、優しいエギナルもぼく、大好き!」
「―だ、」
 ことばが詰まる。ぼくの意志とは関係なく。
 ぼくは―ぼくも、とは、返せない。
 返せたら良いと思いながら、その一言を紡げない。
「……相棒として、嬉しい限りだね」
 精一杯の軽口を、ぼくは何とか絞り出す。
 祭りの会場が見えてきた。花火も終わってしまったし、屋台の撤収が始まっているようだ。
 空き地と工場のあいだの道を突っ切って駐輪場に向かう。駐車場脇の駐輪場も、そろそろ解放時間が終わってしまう。
「荷物持っててくれる? 自転車取ってくるから」
 あまり遅いと、片付けをしている人の邪魔になる。それにパッと見た感じだと、意外と駐輪場はぎっしりだ。端末のライトはあるといっても、手元がよく見えない中で自転車を探して、引っ張りだすのは大変そうだ―
「―あ、れ?」
 車止めを跨ぎ越そうとして、何かが足に引っかかった。ロープだろうか。目の前には、規定の場所からあふれ出ている自転車の群れ。
 あ、まずい、
 手を伸ばしたって、これじゃあ―
「エギナル!」
 きみの声が響くとともに、身体がふっと浮くのを感じた。
 同時に、足元が発光している、ような。
 時間を巻き戻したみたいに車止めのこちら側に両足をついて、案の定バリケード代わりのロープが爪先に絡まっていたのをほどく。いきなりのことにどくどく鳴っていた心臓は、ほどき終わるころには元に戻っていた。
「だ、大丈夫、エギナル……?」
 あちこち見渡そうとして、すぐ右隣にきみを見つけた。
「うん。不注意だったよ、つまずくなんて。きみに助けてもらわなかったら、今頃……」
 きみに―助けてもらった?
 手を引いて? 胴を掴んで?
 そんな感触は一切なかった。
 重力から逃れて、一瞬だけ、身体の重さを感じなくなったんだ。
「……今頃、自転車に突っこんでたところだったけど……もしかして、あれが……」
 きみは無言で小さく頷いた。
 ちょっとだけ、とべたね。
 囁きにさえならない声量で言って唇をかむ。
「……エギナルが怪我するの嫌だって思ったら、飛べちゃった」
「と、飛べちゃいました……ね?」
「……ね、あのさ。あの、あのね。……その、もう一回、」
 いつになく歯切れ悪く言うので、思わず顔をのぞきこむ。頬がうっすら赤くなっていて、日焼けした直後みたいだ。
「もう一回。エギナルとなら飛べる気がするの。いい?」
「良いって、飛ぶのが?」
「そう。一緒に。いい?」
「良いかって……良いに決まってるよ」
「う―うん!」
 きみはこちらの手を掴むと駐輪場も通り過ぎ、人気のない裏側の駐車場へ向かう。こっちはふだん来客や特殊車両を停める場所だ。きみの走る速度が想像よりも速くてびっくりした。止まるのも急で、思わずつんのめる。
「手。両方、貸して」
 きみはぼくに向き直ると、両手首を取って自分の両肩に乗せる。りんと顔を上げて、ぼくの目を覗き込むようにまっすぐ見つめた。
「……目を閉じて。息は止めないでね。普通に、いつも通り」
 言われるがまままぶたを落とす。胴のあたりが温かくなる。それが回された腕だと気付いたけれど、目を開けられない。まぶたがぴったりくっついてしまったように、重たくて開けられないのだ。
 きみの呼吸が腕ごしに感じられる。自分の呼吸と重なっていく。
 目を閉じているのに、目の前に何かが浮かんでくる感じがした。白くてちかちかするものが動いている。所々、黄色か金色に光っている。二対の白い、ぼくのからだほどもあるそれは、上下に動いている。
 頬や脛を風が撫でた。一瞬だけ、身体から重さがなくなる。
 白い―きみの羽根は、よりいっそう、大きく羽ばたこうとする。
 だけどぼくは、飛ぼうとするきみに逆らうように、自分の身体がどんどん重たくなっていくのを感じていた。どろどろのねばついたものが内臓からせりあがってきて、心臓と肺をおしつぶしていくようだ。のけぞっても身体を縮めても苦しさに逃げ場はない。
 いつも通りの呼吸ってどうやるんだっけ。どうしてこんなに苦しいんだ。食べ物も何も、この体には入っていないのに。
 無意識に、肩に乗せた手に力をこめてしまった。きみが小さく息を詰める声がきこえて、目を開けてしまう。
 そのとたん、翼は消えた。一つの羽も残さずに。
 きみが呼びかける声が遠くから聞こえるけれど、同時にやって来ためまいに思わずうずくまってしまう。身体から力が抜けていく。頭から、顔から血の気が引いて、まずい、まずいと全身が警鐘を鳴らす。吐き気が、爪先から頭のてっぺんまでをしびれさせていく。
「ゆっくり息して。ね、エギナル、深呼吸だよ」
 きみの手が肩に乗る。とん、とん、と、心臓の早さで指が動く。それでも気持ち悪さが腹の奥に溜まっていく。吐き出すものがないのに、身体が吐き出してしまいたいと叫んでいる。身体の芯がぎゅうぎゅうと内側から圧迫されて、深呼吸をしたくてもできない。
 視界にきみの脚が映った。どこにでもいる―にんげんの、脚だ。
「ごめん。ごめんぼく、わがままいったから」
「我儘じゃない」
 むりやり顔を上げた。笑えたかどうかは分からなかった。しゃがんだきみの顔は、すぐ近くにあるのに滲んで見える。
「良いって言ったのはぼくだ」
「ううん。……嬉しいときとか楽しいときはずっと上手く飛べるの、だから。……あ、相棒って言ってくれたの、すごい嬉しくって、今なら、って」
「なら、ぼくのせいじゃないか」
「そんなことない! エギナルとなら」
 きみは、しおれるように語尾を縮ませた。
 羽ばたく感覚はきっとぼくには分かり得ないものなのだろう。今も―きっといつまでも。
 いくら分かりたいと願っても、体は思考とは別に動く。アレルギーみたいに体が拒んでいる。
 空へ向かえないきみと、土の上ですらままならないぼくとは、似ているようで全く違う。
 ぼくは、きみと空を共有できない。
「悪いことした」
「…………」
「ごめん。飛べなくて」
「謝んないで」
 でもぼくには、きみが他の誰かと飛んでいるところも想像できなかった。きみの視界を―世界を一番初めに知るのは、きみだけであってほしい。そんな風に思う理由は、頭の中を探しても見つけられなかったけれど。
「出来ることがあれば手伝うから。何だって」
「……なんでもは、難しいよ」
「難しくないさ。できる」
「ぼくは、嫌わないでくれたらそれだけでいいんだ、エギナル」
「そんなの不公平だ」
「え、公平だよ、気にしないで―」
「ぼくは気にするんだよ」
 他愛もない話を日が暮れるまですることもきみを嫌わないと約束することも、ぼくにとっては何でもないことだ。でもきみが一番に願っていただろうことは―一緒に飛ぶことは、きっと一生かかっても実現できない。
 それなのに。
 それだけ、なんて言うなよ。
「……なんでもは無理かもしれない。だったらきみの相棒として、できることは何だってする。できなくても、何かこう……頑張る」
 ぼくの無茶苦茶なことばに、きみはあきれたみたいに息をついた。格好つかない自覚はあるけど、もう今更だ。
「頑張っても無理なら、エギナルはどうするの」
「えっ? あー……謝る。きみに。そんで妥協点を見つける。で、もう一回何とかやってみる」
「なにそれ。っふふふ、大人みたい」
 妥協点、ときみは繰り返す。ことばの響きが面白かったみたいだ。
 ぼくが立ち上がれるようになるまで、きみの指が肩の上でリズムをとっていた。

「モトラドは昔、こんなに効率が悪かったんだね」
「うわ」
「なにさ。そんなに驚かないでほしいなぁ」
「よく言うよ……」
 肩越しに本をのぞき見されて驚くなっていうのがムチャだ。
 読んでいたのは、世界初のモトラドから今のエアロビークルまでの歴史を、環境問題に絡めて解説している本だった。
 今日はハイリの宿題を手伝う予定だったけど―夏休みも数日を残した今現在、ぼくの宿題は奇跡的に読書感想文以外終わっている―当の本人が兄弟たちの用事で来られなくなってしまった。
 だからきみからメッセージをもらったのは偶然だったのだ。昨日の夕方、音声メッセージの受信を示すサーチマシンのアイコンを見て、少し迷った。久し振りに図書館に行かないかという誘いは、純粋に嬉しかったけど。
 祭りの日以降、急に吐き気がすることもないし、かと言って単に疲れていただけとも思えなかった。きみとの会話で持ち出すのもなんだか違う気がして、だからぼくらのやり取りに大きな変化もない。
「……学校から図書館まで行くのは問題ない?」
「問題? 何のこと……あー、うん。行けるよ、ぼく」
 マイク越しの沈黙から何かを察したのか、きみはほがらかに言った。
「体調、気にしてくれてありがと。今は痛くないよ」
「所長さんは? 何て?」
「もちろん、父さまもいいよって言ってくれた。それに」
 きみの声のトーンが一段下がった。
「父さま、今日からお休みなんだ。二人きりには耐えられないよ。ぼくも、父さまも」
「……」
「あはは。二人でいるの、慣れてないんだ」
 そうしてきみは、想像よりもずっと健康そうな見た目で図書館にやって来たのだった。 
「エギナル、インドア派なのに焼けたねえ」と軽口を叩くきみは日焼け知らずなのか、春と同じくらい薄い色をしている。
「これは何? オイル……って、食用だけじゃないの? 機械油って言葉は聞いたことがあるけれど、化石燃料って、本当に乗り物に使われてたんだねえ」
「今だってこれと似たのが大型車両の燃料になってるぞ。耐久性があるから、特にトラックとかは車両自体の買い換えが進まないんだってさ」
「うーん。少なくとも食用油なら仲間に入れてあげる気にはなるよ。でもこれは……石油、だっけ、これは違うでしょ、本質的に。大昔の動植物の死骸を使うなんて、気味が悪いや」
「気味が悪い、まで言う?」
 再生エネルギーの普及前は、エネルギーと言ったら動物や植物の死骸のことだったと社会と理科の授業で習った。教科は違うのに内容がかぶっていたから、よく覚えている。
「大型は、リサイクル観念が薄かった頃と比べても、基本構造は変わらないらしい」
「こんな子供だましの簡略図なんか見たってなんも分かんないって。工場の資料室から図面持って来て寄贈したいくらいだよ」
「そう言うなよ……けど、自分の死体が燃料になるのを想像すると、まあまあ不気味だな」
植物に、死んだあとの自分の体をどうするかなんて決定権が与えられているわけじゃないし、ぼくらに彼らの意思が読み取れるわけでもない。虫や小動物もだ。自分の死体のことを気にするのなんて、人間くらいじゃないだろうか。
「ううん」
 きみはぼくが指差したところを、眉根を寄せて見つめている。
「気色悪い、悪趣味だって思うのはそこじゃないよ。今まで生きてきた動植物の数は今生きているぼくたちと同じように有限だって分かってるのに、太陽を覆い隠すくらいブ厚い微粒子雲を作り続けてきた、その感覚だよ。人間の」
 きみはぼくの正面の椅子に腰かけた。心なしか、色素の薄い肌がより一層白くなっているような気がする。
 涼しさが寒さに達してしまったせいで調子が悪いのか、それとも空調があまり効いておらず空気が悪いと言いたいのか。手にしていた貸出用の個人カードぱたぱた動かしてきみは「たとえばさ」と気だるげに切り出す。管理タグ式に変えればいいのに、ここは昔ながらのカード記入式だ。きみのカードはもう裏面までびっちりと埋まっていて、もう少しでそれも最後の行だ。枚数の欄には三と書いてある。
「ぼくたちは皆、お金で生活してるでしょ。そのお金は父さまや母さま、おじいさんおばあさん、とにかくぼくたちよりも前から生きてる人たちが働いて、稼いで手に入れたもの。お金は生きていくのに大切だから、一気には使わない。貯金をして、増やして、少しずつ使っていく。ソリッドなお金は大切なときにしか使わなくって、ぼくたちはもっぱらマネーカードだけど、どっちにしたってそうだよね」
「限りがあるから大切にするってところが?」
「たいていはね。なーんにも考えないでお金を使う……たとえば賭け事で負けがこんでるのにやめられない人なんかはその感覚からずれてるのかな、って。明日がどんな明日になるかさっぱり分からないのに、一瞬で一文無しになったって構いやしない」
「……燃料だったりエネルギーだったりも、お金と同じか」
 きみはカード越しにひとみをくるりと回し、小さく頷いた。
「ぼくたちは昔からずうっとエネルギーを食べて生きてる。食べ物だって結局カロリー換算されたエネルギーだもん。でもさ、エネルギーを使うときって食べてるって感じがしないでしょ。だから感覚が歪んじゃってることに気付かないのかなあ」
「んっと……? ごめん。もう一回」
「ううん、どう言えばいいのかなー」
 体を傾けた拍子に、机に立てていた肘がごりっと音を立てて、いて、ときみは口にする。いて、で済む音ではなかったような気がするけど。
 肘をさすりながら、
「極端なこと言うとね、仮にぼくの腕が突然消えちゃったとするじゃない。そしたらどれだけ大切なものだったか気づくよね。じゃあ腕そのものじゃなくてそこに通ってたエネルギーは? なくなっちゃった、って考える? もしあったら、どれくらいの熱や力が生み出せたんだろうって想像はする? しないよね。たぶんそんな感じ。はっきりしてない考えだって、自分でもわかってるんだけどね。あーあ。エギナルのせいだ。そんな小難しー本なんか読んでるから」
「ぼくのせいか……?」
「そうだよ。……エギナルのせーいだっ」
 きみはカードをぱたつかせるのをやめ、あついと呟き机に突っ伏した。ぎょっとして本を避けて見れば、どうやらひんやりする天板を楽しんでいるみたいだ。
「お金は目に見えて、エネルギーは見えないから。お金には触れるけど、エネルギーには……ううん、厳密に言うとどっちにも触れられるのか。でもぼくらが感じ取れるエネルギーなんて、すごくちっぽけだもんね。なのに使いこなせてる気分になっちゃってる。ぼくたちの知ってるエネルギーなんて、おひさまの光くらいなのにね。訳の分からない数字やグラフやシミュレーションで、多くを知っているふうに勘違いしちゃうんだ」
 火を使ったら空気が温まって、宙に浮かべた。海底を掘りおこしたらすてきなものが出てきて、モトラドを作ることができた。
 遠くに行けるようになった。夏に冷たいものを食べ冬に温かいものを食べられるようになった。「通信」を知った。「電波」は目に見えないものだった。空中をつなぐ無数の不可視なケーブルが、ぼくたちのいる世界のあちこちに生え、未だ増殖している。
 放射線は見えなかった。汚染物質は見えなかった。核破壊も見えなかった。ぼく一人が浴びている太陽の光にはどれくらいの力があるのか。ぼくら人間が何億人といるこの地球で、全員に光を投げかける太陽の、その光の強さはどれほどなのか。
 ぼくは―ぼくらは、何一つ知らない。
「……ねぇ」
 きみは目だけを上げて言う。
「ぼくが飛べたらそれはきっとエネルギーを使い果たす瞬間だよ」
 どうしても、森でのきみの苦しそうな様子を思い出してしまう。
 あの痛みを克服できたら、きみは本当に飛べるのか。
 舌先にまで乗りかかった言葉は飲み込んだ。きみも気づいているだろうことを、ぼくが改めて指摘することはない。
「空、飛びたくて飛ぶものじゃないの? それとも条件付き?」
「条件があるのかな。ぼくのウチも皆が飛べたんじゃないしね。遺伝じゃないのかも。きっかけがさ、おんなじような体験をしたことがある、とか。そういう共通点が遺伝に見えるだけで」
「きみの街では、ってことは、ある程度は遺伝なんじゃないのか。自分の親じゃなくて、なんだっけ、飛び飛びになるやつ」
「隔世遺伝?」
「そうそれとか」
「んー。遺伝の仕組みは難しいよねぇ。こっちとこっちで、って、だんだんわけわかんなくなってきちゃう」
「パズルみたいで面白いけどなあ」
「余裕だねー? みてろよー、テスト。エギナルより良い点数、ぜったい取ってやる」
「はは……」
「だいいち、あれは例が悪いよ。豆にしても花にしても鳥にしても、見た目にかんする遺伝なんだもの。他になにがあるのか知らないけど。……見た目って優劣の判断材料になりやすいでしょ。なにが正常でなにが異常なのか、そんなの見る人で変わるのに。きれいとか普通とか、なんなんだろうねぇ」
「―モトラドもだよな」
「ん?」
 きみは顔を上げて見つめ返してくる。思わず口をついて出た言葉に、ぼく自身も驚いた。でも、はぐらかせない。きみにはごまかしを使いたくはなかった。
 ぼくは七十年くらい前のモトラドの写真を見ながら続ける。
「気、悪くするかも」
「いいよ。話して」
「……性能がどうこうより、見た目が受け入れられやすいかが売れ行きに関係してくるときもあるって、うちの父さんが言ってたんだ」
 そうだね、ときみは口の形だけで相づちをうつ。
「でも、見た目の良し悪しの基準って時代で違うんだろうな、って思ってさ。昔流行ったものが時代遅れ扱いされたり、その逆もある。斬新なデザインが受けてスタンダードになったりもするだろ。そういうのって、なんかこう、不公平っていうか。……空を飛ぶっていうのも、」
 人を機械になぞらえることに罪悪感が募った。
 でも、言った。言ってしまった。
 きみの目は流れた前髪に隠れて、見えないままだ。
「時代が違ったら馬鹿にされなかったんだろうな、ってさ」
「―もしかすると」
 弾んだ調子で、顔を隠したままきみは言う。
「神さまや天使さまって崇められたかもね?」
 体を起こしながら、いたずらっぽく口角を上げて髪を両手でかきあげて、きみはぼくの持つ本を見る。そこに載っている写真は二輪のモトラドのもの。安全性を保つことができるギリギリまで小型化された甲虫のような車体。おもちゃでしか見たことのない、握ればくしゃりと潰れてしまいそうな鉄のかたまり。
「ぼくもおんなじこと、思ったことあるよ。空を飛べるのがおかしいって言われるのは、飛べる人たちが少数派だからだよね……ぼくがいた街でも、飛べる人は少ないんだ。言ったっけ? 理由は、世界全体での生活スタイルの均一化の流れに乗ったことなんだってさ。ま、父さまが言ってたんだけど。昔から受け継がれてきた、特別な、空飛ぶ力が失われてしまったんじゃないかって。父さまだって均一化の手助けをしてるのにね。利便性に乗っかって画一性を広める機械って考えたら、自動車のたぐいほど悪趣味なものはないよ」
「顔、顔」
 どれだけしかめれば気が済むんだ。
「皆待ってるだろ、新型のモトラドも。所長はすごいんだって」
「みんな、ね。それってどこの「みんな」?」
「揚げ足とるなよ」
「ふふ。いつだって何だって多数決でしょ。そのほうがみんなの意見として理屈が通るから。少数派は無視されて当然さ」
「そこまで言ってない」
「エギナルは優しいからね。でも、ぼくたち空を飛ぶことを主張する人間が、そうでない人たちから気味悪がられるのは事実だよ」
「……そ―」
「あっ、これ! これね、今作ってるエアロビークルのモデルの元なんだって。外装とカラーはもう頼んであってね、今までとはちょっと違って、レトロな感じにするらしくって」
 ある写真を指差して、きみは興奮気味に教えてくれる。
 だけどぼくの耳に入った言葉は、反対側の耳から抜けていった。
 きみがここに越してくる前、どんな生活をしていたのかは分からない。そんなの知らなくたって、今のきみと過ごせる時間はなくなったり、変わったりはしない。
 でも、最初の自己紹介のときのように。きみは海沿いの街でもおかしい、気持ち悪いと言われていたら?
どこに行っても同じだとどれほどがっかりしただろう。違う町に来ても外れもの扱いされるのかと、どれほど悲しかっただろう。ぼくはそんなきみの気持ちを、どれほど分かってあげられているだろう。
 知ったふりじゃなくて本当に分かっていたことなんて、きっと小指の爪よりも小さい。
「ね、見て。これ、この前の虫みたいな色。レプリカの」
 きみの指は、透き通らせた緑に青色をかぶせたような色合いの、つやつやした四人乗りのモトラドを示していた。
「きっとこのモトラドを作ったときはあの虫、いたんだねえ。こんなに似てるんだもん。製造年は……今から三十年前だから、父さまたち、知ってるかな」
「どうだろう。聞いてみれば分かるよ」
「……そうだけど」
「きみが聞いても良いって思えたら、そのときに聞けば良いさ」
「うん……」
 きみの手がのけられたタイミングで本を閉じ、書架に返そうと立ち上がる。
「もうちょっと写真の多い本、探してくる」
 と、椅子を戻して数歩歩いたとたん、目の前が回った。視界がぼやけて、自分の体をまっすぐにしていられない。乗り物に酔ったときとも違う、熱い吐き気がこみ上げてきて、ぼくはその場にうずくまった。小さい文字を追いすぎて酔ったのか。ひたすら気持ち悪い。くらくらする。動けない。
 きみが立ち上がる音がしたけれど、それにも反応できない。声を出そうとすれば、うめき声のようなものしか出てこなかった。
 そのまま目を閉じると、視界は真っ暗になった。


 *****


 あれ。
 目が覚めるとなぜかぼくはベッドに寝かされていた。というか、目が覚めたってことは今まで寝てたのか。体、とくに手足が何となく重たくて、上半身を起こそうとしたら、頭ががんがんと鳴った。
「ああ、起きちゃだめだよ! まだね、寝てていいって」
 聞き覚えのある声が降ってきて、ぼくは左肩のあたりを見る。きみが慌てたように、ぼくの体を再びベッドに押さえつけようとしていた。
「ここ……?」
「図書館の医務室。自由に使ってって」
「それで……なんでぼくは寝てるんだ?」
「あーのねーえ」
 まったく、ときみは腰に手を当てるポーズまで作って、
「貧血だって。それに暑かったし、熱中症になりかけ? だって!」
「なるほど。……つきそい、ありがとう」
「どういたしまして。あ、見てみて。エギナルをここに連れてくるとき、ぼくもちょっと転んじゃったの」
 そう言ってきみは右膝を見せてくれた。ちょっと、というには大げさなガーゼが貼られている。けっこう痛そうだけど、顔じゃなかっただけマシだ。本人は妙に誇らしげにしているし。
 ごめんと呟くと、きみは「いいってば」と手をぱたぱた振る。
「それより、ね? もうちょっと寝てた方がいいよ。ぼくも休憩するから」
 立てかけてあったパイプ椅子を出してきみは座ベッド脇に座る。
「戻りなよ」
「いいって」
「でも」
「じゃあ、エギナルが眠ったら戻る! これでいいでしょ」
「……よろしく、お願いします」
 じっとこちらを見つめてくる視線に耐え切れなくて、ぼくは布団を目の上までかぶせた。色も音もなくなって、やわらかいマットレスと薄暗さが心地いい。
 目をつぶると、すぐに眠りの中に沈んでいった。

bye bye,peter 4

つづき→
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bye bye,peter 4

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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