bye bye,peter 5

 森の中に立っている。虫を探しに行った、森林公園だ。
 頂上にほど近い地点の、ふたまたに分かれた遊歩道を左に行く。つるつるした石でできた幅広の階段を上っていくと、背の高い木が少なくなって見晴らしがよくなった。階段が途切れたところから始まる両端の花壇には、小さくて濃い色の花がたくさん植えられている。だけど手入れされていないのか、ぼうぼうに伸びた細長い草にほとんど覆い隠されていた。その草にすねをくすぐられながら、ぼくはまっすぐ進む。ぽっかりと空いた穴のような芝生の広場。その真ん中に、きみは見慣れない服装で一人、ぼくに背を向けて立っていた。
 上半身は黒いタンクトップ、下も黒のぴったりとしたパンツ。肌の色とのコントラストが強くて、緑一色の中では浮いて見える。
 ぼくが声をかける前に、きみは振り向いた。
「おそかったね」
「遅かった? 何のことだよ。約束してたっけ、ぼく」
「ううん、でも、みんな行っちゃったよ? 委員長もハイリくんも、他のみんなも。残ってるのはぼくたちだけになっちゃった。来てよ。こっち」
 手を差し伸べられる。逆光でその顔は伺えない。
 ぼくは少しずつ、じりじりときみの方へ近づいていった。
「早くぼくたちも、ここに行かないと」
 ぐんぐん歩いていくきみに手を引かれて、つんのめりながら広場の端っこに移動する。こっちは赤や黒の実をつけた低木ばかりだ。町を見渡せるようにだろうか、高い木でもぼくの胸までしかない。隣り合っている高木も、まるで風景を見るための窓を作るかのように、低木の上を空けて枝葉を伸ばしていた。昆虫だけでなくて、ここの植物もレプリカなんだろうか。人間に都合よく生きさせられるのは、レプリカ生体の昆虫だけじゃない。
 きみが指さす向こうへ、導かれるように視界をやる。
 見えたのは知らない町のパノラマだった。高層ビルが立ち並んでいて向こう側の山々は見えない。少し見下ろすと、完璧な舗装がされている道路には隙間なく、ぎゅうぎゅうにモトラドが走っている。目線と同じ高さの空では、灰色の雲をバックに色とりどりのエアロビークルが走行していた。目を凝らせば、空中に走る無数のドライブ・ラインが、わずかな太陽の光をきらきらと反射しているのが分かる。
 町の様子を眺めていて、ぼくはあることに気付いた。
 陸でも空でも、乗り物から排気ガスがまったく出ていないのだ。つまり空が灰色なのは他の理由なんだろうか。それにこんなに多くのモトラドが走っているというのに、騒音も気にならない。違和感のようで違和感になりきらないそれらを考えていると、医療特区で暮らすぼくらにはなじみ深い機械音声のアナウンスが流れてきた。
『……バイオディレクターの定期動作確認テストを行います。ドライバーの皆さんはスピードを落としましょう。また、メディカルボックスの更新作業が本日十二時より行われます。繰り返します。バイオディレクターの……』
「これって」
「おとなの世界だよ」
 きみはぼくの手首を強くつかみ直して呟く。
「未来の世界、でもあるのかな。今ぼくたちがいるとことは全然違うとこなんだ。すごいよね」
「あっちに行ったことはあるのか」
「ううん。ないよ。ぼくは条件を満たしてないから、まだ行っちゃだめなんだってさ」
 ところで、エギナル? と、きみは口調を改めた。
「こっちの世界にいる人がさ、あんなすごいとこに行ってみたいって憧れるのは分かるよね。一小戸行ったら出て来ようとしないのも。でも、その反対もあるって知ってた?」
「反対? 憧れない?」
「ちがうちがう」
 ぱ、とぼくの手を離してきみはゆっくりと一回転する。空気を含んだ髪の毛がふわりと広がった。
「おとなの世界の人たちは誰でも、心のどっかでこっちの世界に戻りたいって思ってるんだって。面白いよね、だっておとなの世界の方がずっと楽しそうでステキなのに、不便なこっちに来たいだなんて」
「……昔を美化してるだけじゃないのか」
 便利な乗り物や機械がたくさんある進んだ場所なのに、どうして不便なほうに戻りたがるのか、ぼくにはさっぱりだ。
 いつかの思い出を、いわゆる遠い目をして見つめること。それは今いる場所から逃げるために、モノクロの記憶にけんめいに色をつけているようにしか思えない。だけどぼくらの毎日だって、おとなたちが子どもだった頃と比べても大差ないはずだ。
 変化を起こさないよう、非日常が起きないように努力したのはおとなたちだ。自分たちのしてきた苦労を、自分の子どもにはさせないように。優れた人になるための学びの機会が、不条理な予想外に奪われないように。おとなたちが環境整備にありとあらゆる手を尽くしてくれたおかげで、ぼくらは苦しむことはなくなった。あまりにも労わられることに慣れすぎて、誰かの労わりかたなんて知らないくらい。
 ぼくらには、苦情を申し立てる権利はあるのだろうか。せっかく差し出してもらったものをはねつけられるほど、ぼくらの自己主張は激しくないのに。
「過去の美化かぁ。そうかもね。ぼくたちにはそんな過去ないけど。ふふ。たかが十数年分の過去なんてヘリウムガスみたいなものだよ。……さ。ぼくたちも早く行こうか」
「おとなの世界に?」
「うん。そうしないと」
 きみは背後を無邪気に指差す。
「この子たちに飲み込まれちゃうよ」
 ぼくは振り向いて、振り向いたことを後悔した。
 巨大化した昆虫や植物たちがぬらぬらとした黒い山のようになって、ぼくたちに触角や触手やよく分からないものを伸ばして来る。そいつらは生きていないようだった。昆虫はレプリカで、個体番号が赤くぎらぎら光っている。メンテナンスされていないのか、音を立てて関節をきしませるものも何匹かいた。動くたびにぼろぼろ剥がれているのは古くなった塗装と、削げた接合部の部品だ。植物はといえば、不自然に鮮やかな花や葉はいかにもアーティフィシャルといった風で、そうでないものは枯れた葉や花をぶら下げているだけの茶色い死骸だった。
「なん、っだこれ……! なあ、どうやったらあっちに行けるんだ? 知ってるんだよな」
 ぎしぎし、と黒い山が動くたびに不快な摩擦音がする。学校中の黒板を一斉に爪でひっかいたらこんな感じだろうか。想像しただけで鳥肌が立つ。耳を塞ぎたくなる衝動を抑えて、ぼくは声を張り上げた。
「うん。エギナルはぼくに掴まっててね」
 そう言って、きみは再びぼくの手を、今度は両手首をぎゅっと掴む。それを自分の肩に導いてぼくを見上げて、「ぜったいに離しちゃだめだよ」と念を押した。
 ぼくは頷いて、すぐに絶句した。
 深呼吸したきみの背中から、真っ白な翼が生えてきたのだ。美術の教科書に載っている天使の壁画で見たことがある、体を隠せそうな大きさの。タンクトップの背中は破けて、布の切れはしが羽のあちこちにくっついている。
 ぼくは無意識に開いていた口を一旦閉じた。
「……どういうこと」
「どういうことって、どういうこと? いつも言ってるでしょ、ぼく、空を飛べるんだよ」
 当たり前のように答えて、きみはぼくの手に触れる。
「もっとちゃんと掴んで。途中で落としちゃう」
 柵のぎりぎり近くから一歩離れたところに移動して、きみはぼくの腕を自分の首に絡ませた。一気に全身の距離が縮まる。
「待って。……飛べる、って」
「うん」
「飛ぶのか? 空を?」
「だからそうだってば。どうしちゃったの?」
「いや、―えっと、うん、何でも、ない」
 要するに、この動植物から逃げておとなの世界とやらに行くには飛んでいくしかないということだ。
 まるで荒唐無稽な話だけれど、徐々に縮まる動植物群との距離がぼくのためらいを消した。
「分かったよ。きみが飛ぶから、離れないようにしてればいいんだな」
「うん? そうだよ。いつもはお遊びでしかエギナルとは飛んでないけど、ま、何とかなるよね」
 いつも飛んでいる? いつもって、いつも?
「じゃあ行くよ」
 脳内に疑問符を残したままのぼくには構わず、きみはその場でジャンプする、と同時に、力強く翼を動かす。
 柵を飛び越えて、ぼくたちは確かに空中にいた。
 空を飛んでいた。
「うわ………っ」
 最初のうちは少しふらついていた体勢も、何度か羽ばたきを繰り返すと安定してくる。ぼくの胴に回っていたきみの手がちょうどいい位置を探すように動いて、ぴったりとぼくの腰の上あたりに貼りついた。
「あ……逃げられた、の、かな……?」
 高度を上げると、あの不気味な黒山はとっくにちっぽけなかたまりになって見えなくなっていた。きみの羽ばたきを聞きながら、
「ひとまず、ね。うーん、どうしようか、これから」
「羽根動かすの、疲れないか?」
 この動きを続けるのは相当体力を消耗しそうだ。ぼくもがっしりしているとは言えないけど、それなりに重いだろう。
「それもあるけど、さっき言ったよね。ぼくは条件を満たしてないからあっちには行けないんだって」
「条件って、どうすれば」
「簡単だよ。簡単だけど、難しい。おとなの世界にはおとなしか入れない。ぼくはね、翼を無くさないとおとなになれないんだ」
「―どうしろって言うんだよ」
 ここで翼を失ったら、ぼくらは硬い地面に叩きつけられる。
「だからね」
 きみは首を回して、自分の背中を見るような仕草をした。釣られて視線を動かす。だから顔を戻したきみがどんな表情をしているか、よく見えなかった。
「『おとなの世界に到着するまでに』、この翼がなくなっちゃえばいい」
 ことばと同時に、きみの翼からぼろぼろと雪が舞うように―工事現場のガレキが崩れるみたいに、羽が抜け落ち始めた。高度がだんだん下がっていく。まだ下には森が見えていて、ここで落っこちてしまったらおとなの世界にはたどり着きそうもない。あんなに立派だった翼は悲惨なくらい痩せ細っていって、動くたびにふわふわと羽が踊る。
「なあ、」
 ぼくは思わず語気を強めた。
「こんな、痛くは」
「ううん! 不安がらせちゃったね。でもエギナルはちゃんとあっちまで連れて行くからさ、心配ないよ」
「ぼくじゃなくて、きみは」
 きみは答えずに、目を細めて遠くを眺めるようにした。
「ね。簡単だけど難しい、でしょ? なくなっちゃえ! って思えばこんなにあっさり消えていくんだ。固執してた。なかなか踏み切れなかったんだ」
「こ―」
 固執じゃないだろ。きみにとって、翼はなくなったっていいものじゃなくて、大事にしなくちゃいけないものじゃないのか。
 そう言えたらよかったのに、きみの体に回した腕に力を込めることしかできない。きみもぼくの服を掴む力を強めてくる。羽根に負けないくらい真っ白い顔には笑みさえ浮かんでいる。
 きみは―本当に、こんなことがしたいのか?
「エギナルを助けなきゃって思ったら、こんな翼にこだわってるのもどうでもよくなっちゃった。きみと一緒におとなの世界に行けるなら、翼なんて惜しくはないんだよ」
「んなことしたら飛べなくなるじゃないか! あんなに飛びたがってたのはきみだ、ぼくなんか」
「だから。いいんだよ」
 きみは告げる。いつものきみから想像できない、優しくもあやしくもある調子に、背中がぞわりとする。
 その間にも、地面は近付いてきていた。
 声のトーンとは裏腹に、白い羽根によく似合う笑顔がぼくに降りかかる。こんな晴れやかな笑顔を見るんならいっそ、いつものゆがんだ笑い顔が見たかった。
「諦めちゃえば痛くなくなるもの」
 諦めるだなんて、それだけは、その言葉だけはきみの口から絶対に聞くものか。耳をふさいでしまいたいのに、ぼくの腕はきみの体から離れない。きつく力を込めた指先が冷えていく。
 知らない。空を手放しても良いと、芝居くささが抜けない役者の演技みたいに話すきみなんて、ぼくは知らない。
 ぐうっと体を近付けて、きみは続ける。
「疼いて苦しいのは空を飛ぶことを夢見た罰だよ。まっとうな真実だって認めてもらえなきゃただの嘘。だから、そろそろぼくもこれを捨てておとなになるよ。ならなくちゃ」
 ねえ。そうでしょ?
「食べるのが痛いなら、それは何の痛み?」
 耳元に食いつくようにささやかれる。
 背中を駆け上がる落下の感覚に我慢がならず、とうとう目を開けた。

「……びっくりした」
 お腹のあたりに本当に落下していったような感覚が残っていた。夢でよかった。
 内容を完全に思い出せなくても、背中を這う不気味さだけは十分すぎるくらいに残っていた。全身が汗でびっしょりだ。壁にかかるアナログ時計を見ればまだ一時間くらいしか経っていないけど、もう寝ないでよさそうだ。このまま寝ていたら、続きを見てしまいそうだし。
 起き上がろうとして、太もものあたりの重みに気付く。寝息をたてて、突っ伏すようにしてきみがそこで眠っていた。ずっとここでぼくを見ていてくれたのだろうか。顔は向こうを向いているから表情は分からない。
 カーテンのすき間から吹き込む風にきみの髪がそよぐ。いつも隠れて見えない首筋に新しそうな赤いあとがあって思わず息を止めた。体の中心が冷える。自分が痛いわけじゃないのに、痛みを理解した気になってしまう。きみは同情されるのを良しとしないと知っていても、かわいそうだと思ってしまう。それじゃ、ぼくが勝手にいい気持ちになりたいだけなのに。きみはぼくがものを食べられないと知っても、何も気に止めなかったのに。
 またカーテンが風にあおられた。午後は雨になると予報で言っていたっけ。クリーム色のカーテンをめくって外を見れば、案の定どんよりとした雲が空の半分以上を覆っていた。折り畳み傘は持って来ていただろうか。
 より強い風が吹き込んで、ベッド脇の観葉植物の葉が揺れる。窓際の小さな鉢植えの白い花びらが落ちて、きみの方に転がってゆく。白いひとかけら。まるで鳥の羽のような。さっきの夢の余韻が残っていて、きみの背に翼がある錯覚をしそうになる。
 どうやったって飛べなさそうな、おちていくことが目的であるかのような、羽の抜け落ちていく頼りない翼。きみに似つかわしくないそのイメージを何とかして頭の中から追い出そうとするけれど、意識してしまうと余計に鮮明に、頭にこびりつく。
「……んあ」
「あ。おはよう」
 意味不明な声を発して、きみはもそりと動く。
「……うわぁ! ぼくまで寝てた!」
「ぼくも今起きたところ」
 きみは椅子にきちんと身を起こす。大げさなまばたきと気持ちのよさそうな伸びをしてから、
「どう? つらくない?」
 眉根を寄せて尋ねてくる。まだ頭はぼんやりしていたけれど、ずいぶんと楽になっていた。そう言うときみは何か言いたそうに口を開けたあと、唇を噛むように閉じて言った。
「無理しなくっていいのに」
「してないさ」
「―……うん。エギナルがそう言うんなら、そうなのかな」
 きみは、ぼくの左手を両手で取って包み込む。体が火照っているぼくには、きみの手がとても冷たく感じられた。それとも、もともと体温は低いのだろうか。
 なんて冷たさのことを考えていたら、ぼくの手よりも一回り小さいきみの手は、ぼくの手を自分のほおのあたりに移動させた。
 いきなりのことで、ぼくはきみの手を振り払えない。 
「―少しだけ、こうさせて」
 すうっとする声音に、驚きではねた心臓が落ち着いていく。
 ぼくも目を閉じて、きみのほおを感じる。冷たいのはきみの肌が白いからもあるのだろうか。陶器みたいで、少し力をかければ簡単にひび割れてしまいそうだ。それでいて、しなやかで、強い。
「……急にごめんね」
「今に始まったことじゃない……にしても、何なんだよ一体」
 いきなりでびっくりした、と付け加えると、きみはそっとぼくの手を放し、伏せていた目をあげた。
 その色が見たことのないあでやかな色で、ちょっとたじろぐ。
 ぼんやりしていたら引き込まれて、戻ってこられなくなりそうだ。きらきらと潤んで、木漏れ日や朝露がのった木の実や、気泡を閉じこめた琥珀を連想させる色をしていた。
「確認させてよ。……エギナルがちゃんと生きてるのか心配で。倒れたの、あんまり突然だったから。……それだけじゃないよ」
 ひとみのつやめきがいっそう強くなる。熱中症のせいだけじゃない、また頭がくらくらしてきたぼくは、ただ、言葉を待つ。
「たまに、きみを見ると変な感じがするんだ。エギナルを見てたいのに、見ようとすると呼吸がつらくなるんだ。のどの奥がぎゅってして、話しかけるのも緊張する。…… 変な感じになっちゃっても、それでも見たいし話したいから。慣れちゃえば平気だけど。ね、心臓もね」
 こんなふうに。
 と、ぼくの手を今度は自分の胸に持っていく。
 心臓がある、胸骨と胸骨のあいだ。きみの肺を守る骨の鎧が手のひらに感じられる。半袖から剥き出しの手足も細いけれど、こんなに直に骨を感じられるのはちょっと驚きだ―痩せすぎだ。
「エギナルはこんなふうになったこと、ある?」
「……ぼく、は」
「ない?」
「……」
「答えなくっていいよ」
ためらいを見透かしたように、きみは人差し指を口元へ当てる。
「言ったでしょ、嫌わないで、って。だから、いいんだよ」

 体調も良くないのに読書なんかしていられない。というきみの説得もあって、少し休憩を続けてから閉館時間より前に図書館を出ることにした。通り雨が降ったのかアスファルトは湿っていて、そこからあの独特のにおいがもわりと立ち上っている。雲があちこちに綿菓子のように散った、さっきとは違う空模様。夏の中にそろりそろりと秋が歩み寄ってくる、橙の空だ。薄い紺色と白い雲の間に挟まった夕日の黄色はむしろ金色のように見えて、つるりとしたガラス片を思い起こさせた。
 休みが明けてまた学校生活に慣れ始めたら、あっという間に季節は冬まで巡っていってしまうんだろう。一日、一週間がひどく長く感じられるときがあっても、季節の移り変わりはいつだってあっという間で、気づくのが遅れる。
「転校生って呼ばれて返事するのも、そろそろ合わなくなってきたんじゃない」
「でも、ぼくが来てからあとに転校してきた人、いないもの」
「そうだけど、いつまでもその言い方って」
 よそ者扱いのままみたいだよね、ときみはぼくの言葉を取りついでやけに明るく笑った。その笑顔が、夢で見た顔と重なる。
 不安になって、いきなりだと自分で感じながらも口を開いた。
「あのさ。飛ぶの、……今のところ、どう?」
「ええ?」
 やっぱり明るい声で、明るく笑ってきみは眉根を寄せる。
「うーん。毎日、飛ぼうとしてるんだけど。イメトレとかね。なかなか、上手くいかないねぇ」
 縁石の上を、まるで綱渡りするかのように歩くきみ。横顔の向こうの稜線の紫は、橙の空の後ろに控えてじっとしている。
「エギナルは笑わないんだもんね。みんな、笑うか無視して取り合わないかだったのに。……ここだけじゃないよ、どこでだってそうだった」
 きみはもう、クラスで空を飛べるとは口にしない。昨日のバラエティ番組の感想、難しかったテスト、これから始まる学校行事の準備のこと。そんな当たり前で当たり触りのないことしか話さない。
「………じつは、さ」
 立ち止まって、きみはささやく。
 ぼくもそれにならって、きみの数歩先で立ち止まった。
「きっとこのままじゃ、元の町に戻っても飛べないんだ。そんな気がするんだ」
 どうしてもあの夢を思い出す。あれはぼくの妄想であってほしい。
「この町では飛べない、でも、だったらぼくはどこの空の下でならまた飛べるんだろう。そう考えてね、あ、って納得したんだ。いつかぼくにも飛べなくなる日がやってくるんだなぁ、って」
「―飛ぶことが得意でも?」
「そうだね。もしかしたら、得意って思ってただけかもしれない」
 次の縁石に飛び移って、きみは続ける。
「元の街ではうんと昔、おじいさんやおばあさんが子どものころはね、ぼくらくらいの年の子は誰でも飛べた。そして大人になるととたんに飛べなくなってしまったんだって。それって、得意なことが実は勘違いだった、って気付いたら、もうおしまいってことじゃないかな。子どもでいられる時間はおしまいだよ、って。良い意味でも悪い意味でも。幻想に遊ぶ時間はそこで終わりなんだ。飛べなくなったら、文字通り地に足つけてやっていかなくちゃなんない」
 今は誰でも飛べるわけじゃない。それは元の街でもそうなのだと、きみは繰り返し言った。
「だから勘違いしてたんだ。飛べなくなったのは、煤けて枯れたスカスカの想像力ばかりの世界のせいだと思ってた。いろんなものの正体が暴かれてしまって、ぼくたちが掴める余地がなくなって、翼を伸ばせなくなっちゃったんだ、って。そうじゃなかったのかな。……ぼくたちが、飛べなくなった理由は」
 きみは縁石に乗ったまま、突然ぼくの手を引っ張る。
 夢の中とは違う、強引で独りよがりなふうとは正反対の。ぼくを導くようなしぐさ。
「そうじゃないと、変わらないと、生きていけなくなっちゃったから。急速に変化する環境への適応だよ。翼を持つより良いかたちに変わるのは合理的でしょ。水生生物が肺呼吸を始めたのだって住みよい環境を求めてだったんだもの。ぼくたちにとって、翼を持つことは最良の生存条件じゃなくなった。それだけのことだったとしたら―いつまでもしがみついてるぼくって、一体なにしてるんだろう」
「じゃあ、もう、飛ばないのか」
「あははっ、まさか!」
 きみの歩幅はぼくのよりも狭くて歩きにくい。
 でも、嫌じゃない。
「ぼく、飛びたいんだよ? このまま止めにするなんてたまらないよ。それにさ、父さまと母さまが飛んだのだっておとなになってからなんだ。個人差があるのかもよ、身長とおんなじで。ぼく、これから十センチは伸びる予定だから」
「さすがにそれはないんじゃない?」
「それにエギナルだって。軽いからだを求めるのは空に憧れてきた人類の願望に繋がってる、ともとれるじゃない」
「……どうだろう。鳥と同じってことだろ」
「うん。鳥って、飛ぶために最低限の重さしかないんだ。骨や脳なんかね、ぼくたちの体じゃあ考えられないくらい空っぽ」
「ぼくが脳みそ空っぽだって言いたいのか」
「んん? 言ってないよ、んなこと」
「そう?」
「そうなんだよ。食べられないのも、いつ飛んでもいいようにって考えたらどう? 悪くないでしょ」
「いや……あんまり」
「ふぅん。ちょっと残念、だ―わっ」
 縁石を下りようとしたきみは案の定というか、小さくバランスを崩す。目の奥がちかちかするくらい眩しい夕焼けの中で、きみの影が一瞬だけ、飛び立つ前の鳥みたいにひしゃげた。
 ぼくは慌ててもう片方の手を出して、転がるみたく道に下りるきみの腕を支えた。よほど驚いたのか、きみはその場から動かない。
「わ、うわー……ありがと、手……うわぁ……」
「何となく予想はついてたよ。大丈夫か?」
「うん、痛くは―」
 ぼくの腕を外し、きみはその場で回ってみせる。
「―ないって言おうとしたけどちょっと左側が痛い」
「捻ったか? ……ていうか」
「言わないでね? 縁石に上がってはしゃぐなんて子どもっぽいし余計なことしなきゃ良かったのにって思ってるんでしょ! ぼくも思ってるから言わないで!」
「言わないよ……」
 歩くのに差し障りはない、とけろっとした顔で言うので、その言葉を信じることにする。もうじき、ぼくときみの家の分かれ道だ。
 きみの歩幅はさっきよりも狭くなる。痛みを我慢しているというより、用心に用心を重ねている風だった。何だか見ているだけでやっぱり不安になって、とうとう片手を出してしまった。
「危なっかしいから、つかまって」
 ぼくの顔と手との間をきみの視線は行き来して、手で止まる。指先をつまむみたいな繋ぎかただと、きみの手はより一層小さく感じた。
「……ぼく、子どもだね」
 橙色と紫色が半分ずつになった空の方へ顔を向けたまま呟く。そりゃあんなことをしてるんだから、と、意地の悪いことを言う気にはとてもなれない声音だった。
 だから「たまには良いんじゃない」と返したのだけど、出したかった声の感じとは程遠い音になった。
「あー……頭も良いし色々なことを山ほど知ってて、大人っぽい、ってきみみたいなやつのことを言うんだろうな、って思うよ、ぼくは。だけど……だってぼくら、まだ中等部生だぞ?」
「……」
「大人になれって言われても、子どもらしくしてて良いって言われても、それがどんな風かなんて分からないよ。こう……何て言うんだろう、そのときそのときでしっくりくる方法がかろうじて分かるかどうかっていうか」
 そりゃ、ガキじみてるって言われるより大人びてるって言われた方が嬉しいけど。と付け加えると、きみは小さく笑ったみたいだった。
「……それにおとなって、時と場合で言ってることがばらばらだもんねぇ」
「だろ? だから気にしすぎるのも、しなさすぎるのも良くない」
「正解がない答え合わせをするみたいだから?」
「そう。ある意味不毛だよな。それこそ、正解はない話で」
「……良いね。ずーっと、ずーっと確かめてくの」
「きみが良いって言うんなら、良いんだろうね」
 分かれ道の目印になっているカーブミラーが見えてきた。きみは、ぱっと手を離す。
「ね、エギナル。これだけ聞かせてよ。エギナルは、どこか身体を痛めたのを治したいとき、どうする?」
「ぼく? 薬をつかったり……たくさん寝る」
 きみはぼくの答えに二度うなずいて、「手当てって言葉、あるでしょう」と首を傾げた。
「誰かが患部に手を当ててくれるだけで痛みが和らぐ……ってやつか」
「うん。それでね。ぼくの背中が痛いとき……手当てしてくれるひとも痛いだろうな、って思うんだ」
「触るのが、って、トゲでもないのにか?」
「ええと、比喩的な表現。たとえば……誰か親しいひとにふれるときは、そのひとを怖がらせたり痛くさせたりしたくないでしょ? だから大丈夫なところを探して、優しくする」
 ぼくはうなずきながら父さんを思い出す。へとへとの父さんから、マッサージや肩もみを頼まれることが初等部の頃はよくあったっけ。自分で良いと思った場所と父さんのツボが違っていると、父さんは珍しく大きな声でうめいていた。
「その大丈夫、を見つけるまでは自分も相手も痛いよ。ふれる人も、優しい気持ちをあげたいのにあげられないから」
「最初から上手くいくなんてない」
「それに、どんなひとでも、このひとなら絶対大丈夫って言えないんだよ。言えるのは……お互いに痛かったですね、また、ふれても良いですかって確認だけ」
 確認する。答え合わせを―続ける。
「だからねぇ」と、きみは笑う。初めて空飛ぶ世界を見せると言ったときと同じ顔だ。
「ぼくはそういうの、全然苦じゃないよ」
「知ってるよ、相棒。確認するには……想像力がないとな」
「そう! 当てずっぽうじゃよくないからね」
「一生続く答え合わせってわけだ。きみはそれで良いのかい」
「もちろん。嫌わないでいてくれるなら」
「嫌わないよ。一生」
「ほんとに?」
「こんな嘘ついて何になるんだ」
「……っふふ、優しいじゃん。―また今度、遊ぼうね」
 ぼくはきみの姿が見えなくなるまで手を振った。夕日を反射するカーブミラーの光を手で遮って、いつもよりゆっくり歩く。
 きみの歩調を思い出しながら歩くと、どこまでも一緒に歩いているようだった。
 それは、悪い気はしなかった。

bye bye,peter 5

bye bye,peter 5

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-04

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  2. 2
  3. 3