bye bye,Peter 3

 集合場所に着いたのはぼくが先だった。
 天気はというと曇り空。快晴ではぼく、もといぼくらの体力がもたないだろうし、雨では足元が悪くなって危ない。
 いずれにせよ、念を入れてレインコートを持ってきておいて良かった。森林公園なんてのどかな名前だけど、実際は申し訳程度に広場や東屋が整備されているだけの、森と変わらない場所だ。入口のゲートもあってないようなもので、吹き溜まった砂や泥で見た目もおどろおどろしく、石柱の開園記念という文字はコケや雑草で文字が見えなくなっている。開発が進んでいない自然が残る場所、と言えば聞こえは良いけれど、整備もおろそかに持て余している証拠だ。
 待っている時間は気持ちがそわそわしてしまって、無意味にリュックの荷物を何度も確認してしまう。レインコート、傘、飲み物、タオル、そして妹のユリクトが作ってくれたサンドイッチのお弁当。
 お弁当は自分で用意すると言ったのに、ユリクトがぼく以上に張り切って早起きをして持たせてくれた。あまりにも頑張るので、熱でもあるのかと心配になってしまった。
「だってお兄ちゃん、ちょっとだけ食べる量が増えたでしょ。なんか嬉しくって、食べてほしいな、って! ありがとうのかわりに!」
「食べて……あいつに?」
「あの転校生の人が来てからだもん。食べるようになったの」
 学校の規模が規模だから、転校生の話は一気に全校へ広まってしまう。父親がエアロビークル工場の所長ということもあって、きみに対する注目の度合いは普段とは違っていた。
「―それとこれと、関係あるのかな」
「っふふ、お兄ちゃんったら変なの。仲良しな友達と食べるご飯が、おいしくないわけないじゃない!」
 仲良しの友達、か。
 口にするとくすぐったい。
「ごめんエギナル! 寝坊しちゃった!」
 きみがやって来たのは、待ち合わせの時刻から十分過ぎたころだった。焦っている声色に反比例して、その足は歩くペースのままだ。なのに、まるで長距離走の後のように息が荒い。肩が上下していて、ぼくは早くも危機感を覚え始めていた。成功するんだろうか、これ。
「急がなくてもよかったのに。少し休んでから行こうか」
「へへ、ごめんね。走ってきたんだけど、途中で力尽きちゃった」
「お互いに運動、得意じゃないんだし。ゆっくり行こう」
「うん。ありがと」
 水筒の水を飲んで一息つくと、きみは「よおし!」と両手を空に突き上げた。
「……何事?」
「気合い入れたんだよ、気合い。昆虫、見つかるといいね」
「そうだな。どうせなら、でかいやつ」
 ゲートをくぐるとき、石柱の近くで何かが光ったのが見えた。
 近寄ってみればそれは、茶色と黄色の中間の色の、親指の爪くらいの大きさのレプリカだった。名前は知らないけれど、家の近くでもよく見かける虫だ。図鑑でしか見たことのない「カブトムシ」のメスに似ているといえば似ているかも。大きさは……多分、全然違う。カブトムシはこんなに小さくはないんだっけ。
 前を行くきみは気づかずに通り過ぎて、止まったぼくを振り返る。
「ごめん。レプリカだよ」
 だけど、こんなにすぐレプリカが見つかるなら、本物もあっという間に見つかるのかもしれない。


*****


 散策ルートの中間に達したあたりでちょうど昼になったので、小さな東屋で昼食をとることにした。最初の心配は杞憂だったみたいだ。高いテンションと軽やかな歩調のまま登ってこられた―相変わらず、レプリカ以外の昆虫は見つけられないでいるけど。それに、テンションが高いのはきみだけだ。きみのはしゃぎようを見て、ぼくは冷静になってしまったところがある。
 ぼくがサンドイッチ、きみがおにぎり。半分ずつ交換しようときみは言って、ぼくの顔を窺ってから付け加えた。
「今食べなくたって平気だよ、梅干しが入ってるから長持ちするんだ。梅干しには殺菌作用があるんだよ、知ってた?」
「そのくらいはね。……足りる? ぼくのも良いよ、はい」
 つき返すと、きみは口いっぱいにおにぎりを頬張ったまま首を横にぶんぶん振った。頭がもげそうだ。
 しっかり飲み込んでから、語気を強めて、
「だめだよ、まだまだ探さないといけないんだから、食べないと途中でお腹すいて倒れちゃう」
「水分はとってるし、このくらいでちょうどだ。……ええと、ぼく、一つ下の妹がいるんだけどさ。実はこれをきみにも、って作ってくれて。食べてほしいって」
「妹ちゃん? ぼくに?」
「そう。そのー、日頃の感謝を込めて、みたいな……」
 何と説明したものか、歯切れが悪い言い方になってしまった。きみはぼくの顔とサンドイッチとを何度も見比べて、くすりと小さく笑う。
「そっか。じゃあ、おいしく食べるね」
 まずはたまごサラダが挟んである、耳つきの一切れに手を伸ばす。いただきますを呟いて、最初の一口で半分にぱっくりとかみついた。
 大きくふくらんだ頬はまるで小さいげっ歯類だ。両頬が元の大きさに戻る頃には、きみの目はきらきら、今まで見たことがない色になっていた。
「おいしい! すっごくおいしいよ、こんなにおいしいサンドイッチ初めて!」
「そ、そう?」
「うん! ふわふわでほんのり甘くてやさしくって、だけどピリっとする……辛子かな、あとシャキシャキしてて、すっごくおいしい!」
「それは良かった。一切れで足りる? はい」
「ほ、ほんとにもっと食べていいの? ほんとに?」
「ぼくはお腹空いてないから……きみにって作ってくれたんだし、食べなよ」
「食べる! いただきます! ふふっ、妹ちゃんにお礼、直接言いたいな。言わないとね、すっごくおいしかったよって。そんでまた作ってほしいなぁ」
「伝えとくよ。あいつも喜ぶ」
 ぼくは未だひと切れ目の半分を片手に持ったまま、ぼんやり麦茶のボトルに口をつける。
 おいしいものを食べたときって、こんな顔になるんだっけ。
 ものが食べられなくなってから一年とちょっとしか経っていないのにすっかり覚えていないことにかえって驚いてしまった。
 去年の今頃は水を飲むだけで気持ちが悪くなって、一週間くらい入院する羽目になった。食べられなくなったきっかけはよく分からない。でも、感覚ははっきりと覚えている。
 自分の体が自分のものじゃないみたいだった。手足を動かしたり、話したりと同じようにできていたはずの「食べる」が急にできなくなった。できなくはないんだろう。後々やってくる、吐き出したい衝動を無視すれば。特に食欲があるときは最悪だ。最初はどうすれば良いか分からなくて、入れたものをすぐに出していた。当たり前のことがままならない。それが悔しくて、情けなかった。
「あのねぇ、聞いたことがあるんだよ」
 きみはしっかりおにぎりも完食したらしく、指についた大きな米粒を味わってからぼくの方を向いた。
「あれを食べたい、これを食べたいって人間の欲望にまつわる話は、古今東西山ほどあるでしょ。毒があるけどおいしいものを食べるために、まず毒の勉強をしたりね。食べ物だけじゃないけど、人はさ、好奇心とか探究心とかで生きてるんだって。けっこうなお年寄りでも元気に暮らしている人は、好奇心で生きてけるんだって。面白いよね」
「へえ。言われてみれば納得できるかもな」
「ふふ」
 きみは首を傾けてぼくの目を覗き込んでくる。髪の毛と同じ、色素の薄いまつげが不自然にまたたきを繰り返す。手が届かないならそう言えよ。ぼくはテーブルにあった水筒を渡した。
「ありがと。……つまり子どもや若者が好奇心を失えば、それはそれでおしまいってことなのかな? 知りたいとか気になるって思ってなきゃ、生きてないのとおんなじ。言葉の裏を返せば、そういうことだよね」
 だったら、本当に生きている人はこの世に一体どれくらいいるだろう。
 疑問に思ったことは、様々な端末に組み込まれた検索システムが瞬時に調べてくれる。朝起きるタイミングや朝食のメニューは、枕や目覚まし時計に内蔵されたバランサーの計算結果だ。夕食だって、昨日のうちに頼んでおけば、配達されてきたレシピと材料で、お腹がふくれて経済的で衛生的で栄養バランスのとれた食事ができる。好みだとか、冷蔵庫に眠るしなびかけた野菜だとかは考えなくていい。
 それが毎日。ぼくが生まれたときよりもずっと前から、医療特区ではこうしたシステムが生活を作っている。
 始まりがいつだったかなんて、大人は覚えていないだろう。どんな非日常も日常になってなじんでしまえば、違和感も消え去ってしまう。便利なものはなおさら。
「父さまがぼくらくらいのときには、自由研究っていうのがあったんだって。夏休みの課題で。自分で科学的なテーマを選んで、観察とか実験の結果を提出するんだ。植物の生長日誌、雲の流れの観測、色素の分離研究に自作のラジオ、昆虫採集」
「そうなのか。……良いね、やってみたかった」
「うん。ぼくも」
 今はそんなこと、求められていない。
 植物は温室で一週間かそこらたてば勝手に育つ。ここは田舎だから青空も見えるけど、大抵の地域は排気ガスやスモッグや、高層住宅で遮られてめったに見られない。ラジオはオールドファッションな趣味でたまに聴くものだし、ディレクタは生態系を保護し、甚大な被害が出る災害の発生も食い止めている。おかげで生態系は「適度な緊張状態を保ったまま」大きな変化を起こしていないし、ぼくらは昆虫とレプリカの区別がつけられない。
 ぼくらはまだ死んでいないのだろうか。
 いつまで、生きていられるのだろうか。
「あはは、変なこと言っちゃった。気にしないでね」
「……前と同じだ」
「前?」
 水筒のフタをしめながらきみは聞き返す。ぼくは残ったサンドイッチの一かけらを流し込んで、口を手の甲で拭いた。しょっぱくて、泥の匂いがした。
「図書館で、雨の日。きみはなんだか変だった」
 きみは途端に表情を硬くする。
「そんなことない。気のせいだよ」
 ぼくが口を開く前に、きみは立ち上がって大きく伸びをした。はぐらかされた、と気づいても遅い。
 話を聞いているつもりになっていて実際は肝心なことなんて何一つ聞いていなくて、きみが言いたいことを言えていないのだったらすぐに謝るのに。でも、触れてほしくない話だとしたら、と無理強いするのは気が引けて、ぼくは大人しく黙ってしまう。
 さあ行こっか、日が暮れちゃうね。
そう言うきみは普段と変わらない。
 ぼくの見間違いでありませんように。
 そんな思いはすぐに、裏切られてしまうのだけれど。


 *****


 夕暮れが近づいても、見つかるのはレプリカばかりだった。
 ばかり、とは言ってもそれだってほとんど見つからなくて、本当に生き物はいないんだ、と野生生物をろくに知らないぼくでさえ思ってしまう。
「エギナルは昆虫の他に、どんな生き物を見たことがあるの? クジャク?」
「孔雀……は、小さいときに動物園でなら。隣の隣の街の」
 どうしてそんな特殊な動物が出てくるんだろう。野鳥でいいんじゃないか。スズメとか。……キジも、ぎりぎり見たことがある。もしかしてキジって言いたかったのだろうか。
「じゃなくて、野生でってことか。だったらネズミとかなら、学校の周りにもたまにいるし。あ、もっと前にここに来たときは大きい鳥を見たな……季節も関係あるのかな。節足動物っぽいのもいたし」
「節足動物?」
「足が何本もあるやつ」
「おぁ……あれかぁ」
 両腕をさする。昆虫は良くても、あれは苦手なのか。
「やっぱりどこもレプリカばっかりなのかな……せっかく来たのになぁ」
「インドア二人にしてはよく来られたよ。途中で帰ろうかと思った」
 不服ながら、きみのテンションに助けられた部分もある。
「えっそうだったの? ぼく、エギナルが意外と歩くの早くて大変だったよ」
「意外って、トロそうな見た目で悪かったな」
 そう返すときみは、しゃがんで見つめていた木の根元から顔を上げる。口が閉じきっていない間抜けな顔。どこで引っかけたのか、左頬には切り傷があった。
 それを教えようとしたとき、がさりと大きな葉擦れの音がした。
「えっ、なに? 今の」
 きみは立ち上がって音のしたほう、道から少し逸れた茂みを見つめた。ぼくの腰くらいまで伸びたさまざまな植物が生いしげっていて、いかにも何かが隠れていそうな場所だ。
「なんか……いる、のかな?」
「音はしたな」
「―ぼく、見てくる!」
 駆け出したきみはぼくの静止を振り切って茂みにもぐりこむ。エギナルは待ってて、と声がするけど、あたりは薄くオレンジ色に染まってきている。何かがいたとしても、こんな薄闇の中で探せるだろうか。
 追いかけようと足を踏み出した瞬間、思っていた通りというべきか、きみの小さな悲鳴が聞こえた。
 慌てて茂みに踏み込むと、地面のあちこちに木の根が出ているところできみは横向きに倒れていた。倒れている、というよりは寝転んでいる。
 右足は靴が脱げて靴下には血がにじんでいて、全身に泥がついてめちゃくちゃというほかなかった。特に下敷きになっている右側は、服の元の色が全く分からなくなっている。
「うっわ……すごいことになってる」
「そうみたい。あー、そこの根っこに」
 と、ひときわ大きな盛り上がりを作っている根を指差して、
「足が挟まっちゃって。抜こうとしたらバランス崩しちゃった」
 見てるなら手を貸してよ、と無言の視線で訴えかけられて、ぼくは勢いをつけてきみを起こす。
「捻ってない? 足首、枝か葉っぱに引っかけたか」
 血の出ている箇所を教えてやると、そうだねえ、と他人事のようにきみは言った。この見た目で痛くないんだろうか。
「そうだねえ、じゃなくて。他に痛いところは?」
「ううん。頭打ってないし、足捻ってもいないみたい」
「そうか。……暗い中じゃよく見えないから、とりあえず出よう。昆虫探しはまたできるよ」
「……だね。あーあ、ぼく、エギナルに迷惑かけてばっかりだ」
「迷惑なんて―」
 茂みをかき分けて元の道に戻ろうとしたとき、きみがずっと左手をポケットに突っ込んだままだと気付いた。まさか、そのせいで転んだんじゃないだろう。もしそうだとしたら、言い方は悪いけれどあんまり自業自得すぎる。
 いたずらが見つかったみたいな顔でもったいぶって、
「見る?」
 きみはぼくに向かってその手のひらを開いてみせた。
 緑色の、薄暗がりでも分かるくらい輝くその背中。
 昆虫?
「―……いたんだ」
「ね、これ、レプリカじゃないでしょ? 本物だよね? ね?」
 とりあえず舗装された道に出てから、小型端末のライトで照らしてボディを確認する。レプリカであれば、どこかに小さな個体番号の記載を見つけられるはずだ。触角、背中、頭、眼、両前脚に後脚、と確認してそうっとひっくり返す。これで腹に個体番号がなかったら、正真正銘の昆虫ってことだ。
 きみが息を止めているのを感じて、自然と同じ行動をとってしまう。
 腹部にライトを当ててくまなく見ると、
「……残念、だった……ね」
 左側のふちに、ゴシック体の個体番号が、昆虫の緑にはそぐわない赤色で印記されていた。
 レプリカだ。
「そっか。レプリカかぁ」
 漏れ聞こえてきたつぶやきは想像していたよりもあっさりしていて、ぼくは思わずきみを見る。
 案の定、きみの表情は声音とはかけ離れていた。
「ま、まぁ、こんなこともあるって」
「こんなことしかない、の間違いじゃないの?」
「……っそ、そんな泣きそうな顔するなよ。今のはぼくの言い方が悪かった。う、上手くいかないんだって多分。レプリカのほうがずっと多いんだしさ。そりゃ、大変な目に遭って見つけたのにレプリカだった、なんて嫌だろうけど」
「別に……大変だったとか、思ってない」
「じゃあ泣くなってば」
「泣いてない」
 強情にしているのが何となく妹に似ている。つまり、言い合っても平行線ってことだ。
「分かった。きみは泣いてない。ぼくもがっかりしてない。これでいいだろ? ……な、早く行こう。夜になったら本当に出られなくなるよ」
 まだ震えている目で頷いたきみをみて、ぼくは勇気づけようと肩を軽く叩いた。よく昔の映画なんかで見る仕草だ。ほら元気出していこうぜ、とかいう。芝居がかってて好きじゃないけど、無理にでも明るい気持ちになりたいときは効果があるのかもな、と思いながら軽く。
 だから驚いた。 
きみが、びくりとその身を引いたからだ。
 まるでぼくが、思い切り力を込めて叩いたかのように。
「―あ、えと」
 一歩下がったきみはあの笑い顔でごまかそうとする。でもぼくの目にはそれが、口元と目尻が引きつっているようにしか見えなかった。
「さっき痛めたんじゃないのか。肩? ちょっと見せて」
「いやだ」
 ぼくの言葉をさえぎって、きっぱりと言う。アザならまだしも、ひどい打撲や打ち身になっていたらどうするんだ。あの動きじゃちょっと動かすだけでものすごく痛いはずだ。この期に及んで、迷惑をかけるのがどうのこうのって話じゃない。
「あのさ。きみがケガを隠して、ぼくがあとで責められるかもしれないだろ。そうなったら、きみだって困るじゃないか」
 我ながら苦しいこじつけだったけど、かたくなに見せろと言うよりは効果があったらしい。
 きみは目を伏せて、
「……少し痛いだけだから。それに転んだせいじゃないよ。ずっと調子悪かったんだ。でもそんなこと言ったら、今日の予定もやめにすると思って」
「それは……」
 当たり前だと言うと、そうだよね、ときみは苦笑した。
 さっきの歪んだ笑いよりはずっと笑顔らしい。
明かりのあるところへ移動しよう、と、ぼくたちはゆっくり散策ルートを下って、ゲートを抜けてすぐのところにある休憩スペースに移動した。ちゃちな外灯よりも、自販機の照明とその上に取り付けられた誘蛾灯のほうが明るくてまぶしいくらいだ。
 二人分の荷物を―痛がっているのに持たせるわけにはいかない―ベンチに下ろして、隣のきみをまっずぐに見据える。こうでもしないと、きみは視線も話も逸らしてしまいそうだった。
 見つけたレプリカの昆虫は、あの茂みに戻した。
 レプリカなんていらないよ。とは、ぼくもきみも言わなかった。
 きみは体をよじってぼくの視線から逃げようとするけど、引くわけにはいかない。あんな辛そうな顔をぼくは知らない。ぼくがものを食べられないことを、きみは知っている。だけどぼくはきみの何を知っているだろう。秘密にしているらしい何かを無理やり暴くつもりはないけれど、いつか、話してほしかった。
 きみが言ってくれたから。たくさん話そうと。話を聞いてほしいと。
助けになるのなら、ぼくはいつまでも待っていられる。
「ごめんね。ありがと。……あのね。今日遅刻したの、メディカルボックスをいじってたからなんだ。いつもより多く痛み止めを出してくれるように父さまに頼んだんだけど、いいよって言ってくれなかったから。自分でいじるの、初めてだったんだよね」
「痛み止め?」
「うん。定期的に飲んでる」
「……知らなかった」
「でしょ。隠してたもん」
「ボックスをいじるっていうのはちなみに、どういう」
「んん? あれね、処方箋がなくても調節できるんだよ。多分違法なんだけど、やってみたらできちゃった」
 メディカルボックスは、サーチマシンに登録された身体情報や、病院の通院記録をもとにして薬を作る家庭用の機械だ。軽く「いじる」なんて言うけど、そう簡単にできることじゃない。あらかじめ登録している常用の薬剤や身体の不調を解決するヒントを受け取るのが主な機能だ。基準値以上の量や強い薬を出せるようにいじるなんて、どうやったらできるんだろう。
「ずっと痛いってこと? 長いこと飲んでるのか」
 目配せのような上目遣いできみはぼくを見る。
 いつもと違う雰囲気に、思わず唾を飲み込む。吸い込まれそうな目を見つめ返す。透き通っていて何でも飲み込んでしまいそうな、底の見えないひとみ。
「初等部のころからずっと、かな。でも四六時中痛いんじゃなくて。年に何回か、すっごい痛むときがあるから」
「それが、今日も?」
「……だったら良かったんだけど。こっちに引っ越してきてからはほとんど毎日、痛くてさ。今まではこんなことなかったのに」
「どうして。どこが。肩? 首? 背中?」
 身を乗り出したぼくの口元に、きみは立てた人差し指をかざす。
 もう片方の、色素の薄い爪と指とが、ぼくが膝の上の握りこぶしを包む。ひんやりしたきみの手は、ぼくの頭も冷やしてくれるようだった。
「エギナル、なにを見ても驚かないって約束してくれる?」
 まるで一生に一度のお願いみたいな響き。ムービーフォルダを探せばいくらでも見つかる、感動物語に出てくるセリフみたいだ。
「いいよ。約束する」
 ぼくの答えに、きみはにっこりと笑う。おとなの乾いた笑みでも、困った笑顔でも、子どもみたいな笑い方でもない、ただの笑顔。いつも隣の席に座っているのに、初めて見る表情だった。
 きみは即座にパーカーのジップを勢いよく下ろして引きちぎるように脱いで、濃い青色のシャツのボタンを次々に外していく。あっけにとられるぼくを無視して後ろを向くと、シャツをはだけて一番下に着ていたタンクトップをさらけだした。
 真っ白なきみの肌は、暗がりの中でぼんやり光っているみたいだ。肩の部分をずり下げて、ほらね、と呟く。テストの点数を見せ合うときと同じ声音で。
「変形してきてるんだ、ぼくの肩甲骨」
「……」
「エギナル?」
 やっぱり気持ち悪いよね、ときみが的外れに不安そうにするから、ぼくは首と両手を振って否定する。
「いやそんなの思ってないよ。思うもんかよ。……少しも驚かなかったって言ったら嘘になるけど。これ、普通に動かせるのか」
「普段はね。でもたまに動けないくらい痛くなる」
 だからそういうときは大人しくしてるしかないんだ、ときみは言う。
 背中の真ん中より上、肩甲骨のあたり。そこは一筋の曲線ではなく、ゆがんだ左右非対称の軌跡を描いている。きゃしゃなことを考慮しても、一般的な肩甲骨よりも全体的に外側にせり出している感じがした。首筋やうなじの、点々とした赤いあとは注射のあとだろうか。場所によっては赤黒い痣になっている。色白なきみの肌だから、余計それがはなやかな赤色に見えた。歓迎すべき色ではないのに、一瞬見とれてしまう。
 きみが朝走ってきたときのことを思い返す。走って―歩いていた。今思うと、かなり不自然な格好だったかもしれない。
 もし、走るだけでズキズキ痛むのに、無理をおしてここまで来たのだとしたら。ぼくの鈍感さにも程がある。気づけそのくらい、何やってんだ、気付く以外に何ができるんだ。医者でもないし、ぼくでは痛いのを和らげてやれないのに。
「ひどいときは歩くのも立ってるのも辛いんだ。前にさ、風邪って休んだでしょ? あれ、ほんとはこれのせいだったり」
 そうやってまた、きみは笑う。ぼくは今度こそ少しいらついてしまうけど、それでも笑うなとは言えなかった。このいびつな笑顔は自分を守る防御線だって、もう知ってしまった。
 地面の上ですら自由じゃないのに、きみの心はずっと、空にとらわれたままなのだ。
 肩甲骨が疼くなんてまるで飛びたてない鳥じゃないか、とは、言えなかった。

 何度も断るきみを押し切って、きみをおぶって公園を出た。ひどくふらついているのを見ていられなかったのだ。
 きみは想像よりずっと軽かった。張っていた気が緩んだのか熱も出始めたようで顔が赤い。ぼくは夜になりかけの道を歩きながら何度も声をかけた。本当に軽かったから、ちゃんといるのか不安になった。
 ぼくの家への曲がり角を通り過ぎて、エアロビークルの工場に向かう道を進んでいく。家の場所をきこうとしたら、こっちが良いときみが教えてくれた。
押しボタン式信号がある十字路にライトを持ったおとなたちが二、三人立っているのが見えた。すぐ後ろでは、旧式の電光掲示板が今日の天気予報を光らせている。
 おとなたちは何かを探しているように辺りを見渡している。着ているジャケットの、少ない光でもわかる胸元のマークは工場のもので、近所のおじさんもいるようだった。
 おじさんはぼくを目にとめ、目を一瞬見開いて駆け寄ってくる。
「来た! お前、帰りが遅いってユリクトの奴が心配してたんだぞ、あのな―」
「ごめんなさい。あの、早くこいつ、休ませないと」
 ぼくの背中にいるきみを見、周りに集まっていたみんなはどよめいた。所長を呼んでこいと叫ぶ声がして、きみは荷物と一緒にすぐさま運ばれていく。何が起きたのか分からずにぽかんとしているぼくの肩に手を置いて、おじさんは言う。
「あの子が所長に何も言わないで出てったっつってよ、工場の連中が交代で捜索に出たんだ。午前中からほぼ一日中。……見つかって良かった。後でみっちり説教だな」
「総出ってこと? 仕事は」
「それどころじゃねえに決まってるだろ。ま、最低限の納品数は確保できてるから人を回せたんだろうが。おれも詳しくは知らねえ」
「ごめんなさい。ぼくら、迷惑かけて」
「なあに、そう何度も同じことをされちゃあ堪らねえが、今日に限っちゃお前達が無事だったって、それで良いんじゃねえの」
「でも」
「誰だって、家族に心配事があったら、そっちを優先させるに決まってる」
「―うん。あいつに、連絡入れたか確認しておけば良かった」
 きみの体のことだって。前から知っていれば今日、こんなことにはならなかったのかもしれない。
「過ぎたことを考えたってしょうがねえさ。……あ、所長。この子です」
 はっと顔を上げると、目の前には知らない男の人が立っていた。
 ブルーグレーのスーツ、つやのある黒地のネクタイ。くせのありそうな髪の毛はきれいに後ろになでつけられていて、きみによく似た色素の薄い目がぼくを見つめ返す。射止める、と表現するほうが正しい、厳しい視線だった。固く一文字に結ばれた唇にも人を圧倒する感じがあって、ぼくは思わず奥歯に力を入れる。
「君が、エギナルくんかな」
 ぼくは頷く。思っていたより柔らかい、優しそうな声だ。
「今日はあの子が迷惑をかけたね。申し訳なかった」
「いえ、あの」
 おとなから頭を下げられたことなんてないから焦ってしまった。というか、こんな子どもに所長が頭を下げていいのか、イゲンがなくなっちゃうんじゃないか。それともこんな子供にイゲンも何もないか。
 黙ってしまったぼくに、顔を上げた所長はほほえむ。口元も少しきみと似ている。
「君には普段から仲良くしてもらっていると、あの子も話していた」
 ぽす、と所長はぼくの頭に手をおく。満足気によし、と小さく言うのが聞こえて、頭をなでられたと気づくのに時間がかかった。
 おっかなびっくりというか。慣れてなさそうな仕草だった。 
「君のお母さんはもう帰宅されたよ。妹さんが一人きりでは心配だからと。お父さんは工場に残っている。来るまでここで休むといい」
「え、でも」
「うん、遠慮はいらない」
 目を細めると、所長はぼくのリュックをつかんで工場へ勝手に歩き始める。ちょっと強引なところは、親子で似ているのかもしれなかった。


 *****


 所長がぼくを連れてきたのは、工場の「工場」部分じゃなくて「会社」の部分だ。当てはまる単語が見つからないけど、たとえば取引先の社長さんなんかと話をするときに使いそうな方だ。入口には、おしゃれな花瓶と額に入れられた不思議な絵とよく分からない布製の置物が飾られている。靴の泥を落としてからそうっと入った。
 所長は三つ並んだエレベーターの前を通り過ぎ、「休憩室」と書かれた部屋に入る。数台の自動販売機の他に、色落ちしているソファや、パイプ椅子と折りたたみ式の机が置かれていた。
「適当に座って。コーヒーは飲めるかい? ジュースにする?」
「いいです、いらないです」
「そう言わずに、はい」
 手の平に缶コーヒーをねじこまれた。最上級の深煎り豆が何のかんの。飲める気がしなかったから、手の平で抱えて持つことにした。あったかい。汗が冷えたのと夜になったのとで、体が冷えていたみたいだ。
 所長は自分でも同じ商品を買って、机をはさんだ向かい側に腰かけた。ぱしゅ、とプルタブを起こす音が響く。
「寒くないかい。暖房も入れようか」
「いいえ、ちょうどなので……所長は、暑くないですか?」
「クーラーで冷え切っていたのでね、ありがとう。ところで……こんな尋問みたいな真似は止したいところだけど、あの子から私は、何も聞いていないものだから。そんなに泥だらけで、今日の行先はどこだったのかな」
「森……、です」
「森? 森林公園か。近くに駅もあったね」
 うなずくと、所長はあからさまなため息をついた。
「まったく。誰とどこに行くかくらい言ってくれていたら、私だって考えたのに」
 所長は大きく息を吐く。きみは文字通り、何も言わずに来たのだろう。いきなり「痛み止めを増やしてほしい」なんて言われたら、そりゃ誰だってびっくりする。具合が悪いのかと心配にもなるはずだ。
「ハイキングにぴったりな場所らしいね。私も少年時代は、あちこちを駆け回ってはいたものだが。今の子もそうなのかな」
「虫を、見てみたいって」
「……あちらの街にはいなかったものな。そうか」
 所長はこの工場へ配属されてからずっと一人暮らしをしていたそうだ。単身赴任というやつだ。その間きみは、おじいさんとおばあさんのいる港街で暮らしていたと、聞いていないのに教えてくれた。
「あの子と友達になってくれてありがとう。また独りぼっちになっていたらと。中々……周囲に馴染めないでいたから」
「転校、初めてじゃないんですか」
 何度かね、と所長は低く言う。
「初等部に上がったすぐあとだったかな。学校では言うなと何度言い聞かせてもきかないんだ。空を飛べると言い張って」
 嘘は言っていないのだけど、と所長は苦笑する。
 ウソじゃない?
 ぼくが目を白黒させているのに気づいたのか、所長は、
「飛ぶと言っても、鳥のように翼で飛び回るのではないよ」
 茶目っ気を入れて両手をぱたぱたと動かしてみせる。面白くはなかったけど、所長だってぼくを喜ばせようとしたわけじゃないだろう。
 それにびっくりしたのはそこじゃない。
 まさか、所長も空を飛べるのだろうか?
「本当は飛んでいないのかもしれない。超古代のトランスめいた勝手な妄想かもしれないね。でもあの子たちは―あの子の母親の生まれた地域には、自分は飛べると証言する人が複数人いる。私は、それを信じている」
「信じられるのは、モトラドを作ってるからですか?」
 少し意外だ。所長は飛べないみたいだし、エアロビークルのような科学技術ありきの機械を扱う会社の偉い人なら、空を飛べるなんて非科学的だと思いそうなのに。それとも、空飛ぶ機械が身近にあるからこそ信じられるのだろうか。自分の力で空を飛ぶことに憧れがあるとか。大人だから子どもみたいなことを考えちゃいけないって決まりはないし。
「それもあるけれど、愛した人の言ったことだからね」
 所長はちょっとだけはにかんだ。
「あの子の母親、妻だがね、私を連れて飛んでくれたことがあるんだ。あれはすごかった。彼女もとても嬉しそうで―とても、綺麗だった」
「そ、そう、なん、ですか」
 のろけだった。
「彼女はね、空を飛ぶ感覚は他者とも共有できると言っていた」
「じゃあ、あいつもまた空が飛べるようになったら、所長も一緒に飛べるかもしれないんですね。あいつのからだ、ちゃんと治れば」
「身体?」
「……肩甲骨を見ました」
 所長は目を見開く。驚きの色はすぐに引っこんで、眉根にシワがよった。
「それは……驚かなかったかい」
「ううん、全然」
 所長はただ察したように、深くうなずいた。
「妻がなくなった頃からなんだ。だから、もう随分長くなる」
 いつか、きみが母親のことを話したときの違和感の正体。
 やっぱり、きみのお母さんはもう、いないのか。
 一緒に過ごしていないのではなくて、もう会えないって意味で。
「急に、空を飛びたいと言い出してね。しきりに言うんだ、練習がしたいから高いところに連れていけと。それから少しして―背中が痛い、と」
 背中。正確に言えば、肩甲骨。
 所長は大きく息を吸って言葉を続けた。
「痛みは徐々に収まったんだが、併発した諸症状も多くてね。およそ健康体とはいえない体にさせてしまった」
「……原因は分かってないんですか」
「あいにく。決定打となるような治療法もまだ確立できていないらしい」
「ここは医療特区なのに?」
「この町の医療は、既にある程度有効な治療法が分かっている症状に対するものなのだろう。未知の症状に効く術を探すのは、少し違っているらしい」
 病院の先生方の話だよ、と所長は息を吐く。何度もきみに説明しているのかもしれない。言われるたびにきみは、いくら医療特区で暮らしていても、標準から外れたからだは治らないと、思い知らされてきたのかもしれない。
「妻の親戚にもあたって―飛べるという人も何人かいるからね―みたが、肩甲骨が変形するなんて話は一度も出てこなかった。医師には、あの子の心が体の状態に影響しているのではと言われたよ。飛びたいと思うあまり、体が誤解してしまったんだそうだ。自分が空を飛べないのは翼がないからだ、だったら翼を備えてしまえ、というふうに」
「でも人は鳥みたいに飛べない! だからエアロビークルがあ―」
「エギナル! ここにいたんだ」
 がたりと立ち上がったぼくはそのまま、変に腰を浮かせた姿勢で止まった。休憩室のドアがない入口に目を向ければ、無地のシャツを着たきみが壁に寄りかかるようにして立っていた。
「って、なにやってるんだっ」
 顔はさっきより赤いし、体も左右に揺れている。起きてていい状態じゃない。
「へへ。お礼だけ言いたくって、抜けだしてきちゃった」
「そんなのいつでも」
 ぼくより先に、所長の黒っぽい影がぼくときみの間に滑りこむ。「戻りなさい」とやんわり、でもはっきり言うのが聞こえた。
「―父さまに話をしに来たんじゃない」
「いいから早く部屋に戻るんだ。熱があるんだろう」
「ぼくの体のことくらい、ぼくで分かってます」
「それなら、ほら」
 所長はきみの左肩に、右手を乗せた。
「さわんないで!」
 きみはぱしりと所長の手を払いのけた。ぎっとまなじりを上げて、一回り以上も大きな自分の父親をにらみつける。
「通して」
「エギナル君にも迷惑だろう。また夏休み中に会えるのだから」
「また会える? ……こんな体なのに?」
 きみの声がいきなり大きくなって、ぼくはびくりと震えてしまう。
「だってさ、どうせまた入院しなくちゃいけないんでしょ! なに気休めみたいなこと言ってんの? せっかくの夏休みなのにエギナルと会えなくなるの、ぼくだって分かってる!」
「……お前が嫌なら入院はさせない。ただ、検査は」
「検査検査って、どれだけ悪化したかを調べるだけなのに。そもそもあのひとたちが医者なのかどうかも怪しいや」
「先生達は―」
「医者じゃないでしょ、頭のおかしい研究者でしょ? 異常が出ました検査しましょうって、ぼくは機械かなんかとおんなじってこと? 患者だなんて白々しいよ、研究対象の間違いだ。あいつらが見てるぼくはほんとに人間? ねぇ、あの扱いで、機械とどこが違うっていうの!」
「いい加減にしなさい!」
「……、っ」
「先生は最善の手を施してくれている。悪く言うのは止しなさい。それと、その、自分をぼくと呼ぶのはやめるように言っているだろう」
「うっ……る、さいなぁ!」
 だん、ときみの小ぶりな拳が壁を叩いた。
「それは今関係ない! ぼく、の、ことなんかどうだっていいくせに! いつもそうだ、父さまはいっつも。……もう構わないで。父さまなんてきらいだ、みんなきらいだ!」
 きみの剣幕に、所長は少し後ろに下がった。それを見てきみは部屋に入ってこようとするけれど、追いかけてきたらしい事務員みたいな人が背後からそっときみのからだをつかまえた。
「ばかばかばかばかぁ離せぇ!」
「あなた、安静にしていないと! 所長、すみません」
「離せってば、ねえ、おねがい―」
 引きずられながら、きみは目だけでぼくにすがる。ぎらついていて、ひりひりと熱くて、焼けこげてしまいそうだった。
 ぼくは、その場から一歩も動けなかった。
「……あの」
 茫然としている所長に近寄る。所長はまたたきを何回かして、「あぁ」とガラガラになった声で返事をした。
「普段は―ああではないんだ」
「知ってます」
 感情をむき出しにする姿を、ぼくも初めて見た。
「……妻に、どれだけ任せきりにしていたか」
 家族なら、難しいことは考えず心配なんだと言えばいいと思うけど。それだけでは済まない何かが、きみと所長にはあるのかもしれなかった。
「ちゃんと仲直り、したほうがいいと思います」
「そうだな。―申し訳ないね」
「全然。ぼく、あいつの友達なんで」
 はっきり言うと、所長は目を丸くしてすぐに細めた。いまさら目元の皺の深さやクマに気がついたけど、あんまり気にならなかった。
 きみとそっくりの笑い顔。困ってるみたいな、曖昧な笑いかた。
「頼もしいね」
「……どうも」
 ぼくにできることなんて本当にちっぽけで、しょうもないことばかりだ。きみと所長の間に割って入って、さあ仲良くして下さいなんて言えないし、カウンセラーみたいに的確なアドバイスだってあげられない。
それでも、まだ子供なんだからできることをこれから増やしていけばいい、なんて言葉に甘えて、溺れてしまうのはいやだった。
 甘やかされてまだ自分は子どもだと思ってても、いつかいきなりもう大人だと言われる日が来る。そう思うと気が滅入る。泣いたり叫んだりすれば誰かが何とかしてくれると思いたくなってしまう。まさか、そこまで子どもじゃないけれど。喜怒哀楽がないふりをできるほど、おとなにもなりきれない。
「君は、少なくとも私よりあの子を分かってくれているんじゃないのかな」
「えぇ、いや」
「……空を飛ぶ話を、家の外でもしているとは思わなかった」
「え?」
 あんなに得意げに自己紹介をしていたのに?
「言うらしいんだよ、最初はね。でも理解されないから、理解しようという風にも思われないから、否定されればすぐに押し殺す。……これまでは、そうだった」
「……ぼくのクラスでも、ほとんど誰も取り合わなかったです」
「だろう? きみは、あの子の一番の理解者だよ」
 ぼくが、一番の? 
きみを分かっている? いちばんに?
 すごく嬉しいけど、でも、ぼくが一番なんて名乗っていいものなんだろうか。何度か転校しているきみにはあちこちに知り合いがいて、ぼくはその大勢のうちの一人に過ぎないんじゃないか。所長だって、ぼくが喜ぶような言葉を選んで、その気にさせてくれてるだけかもしれない。それに。
「だから―ぼくが理解者だから、色々話したんですか?」
 きみのお父さんから一番だなんて言われて、嬉しくないと言えばうそになる。だけどこんなに私的なことを伝えるのは、何か他の意図があってのことなんじゃないかと構えてしまう。
それに―所長が、他人に子供を丸投げするような人間だったら。
 ぞわりと、どろどろする感じが腹の底に溜まっていく感じがした。身体の重さ、だるさが、ぼくにささやく。辛いなら、吐き出してしまえばいいと。何もかもを外に出して、軽くなればいいと。
 だけどぐっと力を込めて、気持ち悪さを留めた。
今、ぼくが楽になってどうする。
「ぼくはぼくで、あいつのことを信じてます。体も良くなる、空も飛べるって。だけどぼくはあなたになれません」
「……」
「あなたが心配するのも否定するのも認めるのも、全部あなたのものでしょ」
「―あぁ、そうだね」
 言ってから顔が熱くなるのを感じる。ぼくはまた、余計なことを言ってしまったかもしれない。だけど言わなくちゃいけなかった。
 所長が悪いとは思わないし、ぼくはぼくのやり方でしか、きみの友達になれない。他人の辛さや後悔を切り分けて、自分の気持ちに混ぜて軽くする手伝いなんて、そう簡単にできることじゃない。
「……私もね、信じているよ。妻のことを抜きにしてもね。人間だって空を飛べるんだ。モトラドを飛ばせたんだ、真に不可能なことなんてそうそうあるもんか―そう思ったほうが、視界が広くて心地よいだろう?」
「―はい、きっと」
 所長は人間が空を飛べることを信じているにしても。
 それはきみが、空を飛べると言うからなのだろうか。
「―エギナル! 待たせた―」
 どたどたと大きな足音をたてて、父さんが息せきってやってきた。そして固まってしまった所長とぼくを交互に見て、「……お世話様です」とだけ、言った。
「うちのが世話になりました。すみません、本当に今日は、」
「いえいえ、こちらこそご迷惑をおかけしまして」
 所長は姿勢を戻して、ぺこぺこする父さんに向かって同じようにお辞儀をする。その後も何回かすみません、とかこのお礼は、とかいうやりとりを繰り返して、父さんはぼくに「帰るぞ」と声を投げた。
 ぼくはうなずいて、所長に頭を下げる。
「ありがとうございました。コーヒーも、ごちそうさまです」
「ああ、気を付けて帰るんだよ」
「その―帰る前に、なんですけど」
 ぼくは目を上げて、父さんよりも高いところにある所長の顔を見つめた。
「あいつの顔、一瞬だけ、見てっちゃいけないですか」
「……どうしても?」
「お願いします」
「……」
「だめですか」
「…………エレベーターの奥に救護室がある。そこで寝ているよ」
「あ、ありがとうございます!」
 父さんが「いいんですか」と驚いたように尋ねると、所長は肩を大げさにすくめた。
「このくらいはね。……この年頃は、何かと難しいですね」
 おどけた声がしたけれど、父さんは「なるほど。そうですね、私の娘も……」なんて真面目に返事をしていた。


 *****


 廊下は歩くとセンサー式のライトがつく仕組みになっていた。それもオレンジっぽい白だけじゃなくて、薄いピンクや水色、カラフルな色をしている。
 エレベーターの脇には、「救護室」と看板がかけられた部屋があった。そっと取っ手を横にスライドさせると、さっきの人が出て来て「どうしたの」とささやいてくる。
「あいつの顔見たいんです。所長にも許可をもらいました」
「所長……あの人も何だかんだで甘いのよねぇ」
 アンニュイな口調に断られるかと思ったけどそんなことはなくて、女の人はドアを押さえて中に入れてくれた。
 薬のビンが入った戸棚と小さいテーブル、椅子があるところを抜けて、奥に並んだ二つのベッドの手前側へ。仕切りのカーテンを開けっ放しにしたまま、きみはそこで眠っている。
 背中が痛むからかうつぶせになっていて、横向きにした顔には髪の毛が数束落ちている。冷却シートを貼った顔は、さっきよりもずっと具合の良さそうな色をしていた。よかった。
「おやすみ。こっちからも連絡するから。遊べるようになったら教えて。……じゃあ、また」
 聞こえていなくても一応言っておこう。父さんをあんまり待たせるわけにもいかないし、戻らないと。
「……ん……エギナル……?」
 ぎょっとして、ドアのほうを向きかけた顔を戻す。かろうじて見える左目がうっすら開いていた。
「ごめん、起こした? いいよ、寝てなよ」
「うん。あの、ね」
 きみは身じろぎをして、かけられた毛布の中から手のひらを出す。それを小刻みに振って、「またね」とささやいた。
「こんなのなんでもないから。今日は迷惑かけちゃったけど、今度はエギナルがぼくに迷惑、かけていいからね。だからあの、―きらわ、ないで」
「嫌うもんか」
 ほとんど空気になっているきみの声が震えているのが、この声の大きさでも分かった。
 何てことを言うんだろう、こんなときに。何を心配しているんだろう。どうしてきみを嫌わなくちゃいけないんだ?
 ぼくはきみと一緒にいたいから、一緒にいるだけだ。
「嫌いになんかならない。これからずっと。一生」
「一生? ふふ、そう」
「間違えた。きみが、嫌ってほしいと思わない限り」
「っふふふ。じゃあ、一生だね。……ありがと」
 きみは腕をまた毛布の中に戻して、ことりと眠ってしまった。
 電池が切れたように止まった声と動きに拍子抜けしながら、またおやすみを言って救護室を出る。
 休憩室に戻って、またさっきのお礼の言い合いをして、父さんと工場を出た。
 ここからうちまでは歩いて三〇分くらい。父さんは通勤用の自転車を引いて、ぼくに合わせてゆっくり歩いてくれた。室内では感じなかったけれど、湿度のせいでじわっと暑い。
 父さんは上着を脱いで、雑にかごの中に投げ入れた。
「シワになったら母さんに怒られるよ」
「どうせクリーニングに出そうと思ってたところだ。……お前、怪我はないのか」
「ぼく? ない」
「そうか。良かった。―良かった」
「ごめんなさい」
 ぼくだって、父さんと母さんに心配をかけていたんだ。森に行くことは言っていたけど、あんな騒ぎになってたんだから当然だ。
「無事ならいい。母さんが何て言うかは保証しないけどな」
「だね……」
 母さんに口で勝ったためしはない。どんなことを言われても大人しく聞いているしかないだろう。
 工場の周りの舗装されていない道から、気がつくと車通りの多い交差点まで来ていた。自転車のスポークの音と自動点灯のライトの光が止まる。あんまり意味のないスクランブル式の信号は、さっき切り替わったばかりみたいだ。
 この辺りはほとんどが田んぼだ。日中あたためられた稲から、鼻の奥に残る香りが立ちのぼっている。
「夕飯はどうする。お前がそれまでには帰ると言っていたから、ユリクトも父さんに電話してきたんだぞ」
 サーチマシンの時計機能を確認すると、もう九時になっていた。遅くても六時には帰るって言っておいたんだった。
「心配をかけたんだから、食べられるなら食べなさい」
「うん」
 信号が変わった。洋服が体に張り付いたまま乾いてしまった部分をつまんで風を入れる。不快なのももう少しの辛抱だ。
 ぼくはなんとなく右手を上げて、しょぼい街灯にかざした。工場で洗ったから、泥や草の汁は全部キレイになっている。よれよれになってしまった絆創膏をはがしたせいであらわになった、手の甲に残る傷を見つめた。
 きみの背中にあった注射のあと。あれよりずっとよどんだ色だ。かさぶたの黒っぽい色と、新しく盛り上がってきている薄桃色が混ざって、そこだけ他の生き物みたいになっている。
 このまま食べることをやめたら、体がどんどん軽くなって、そしていつか宙に浮けるだろうか。浮いたまんま、きみと飛んでいけるだろうか。
 なんて妄想もいいところだ。ぼくが食べ物を断ち切ったって、飛べる可能性はゼロだろう。
所長はああ言ってたけど、物事には限界ってやつがある。たとえば、魚は努力しても地面の上ではそうそう生きられない。気が遠くなるくらい時間をかけて、肺を持つようになった魚もいるらしいけれど、それはけっこう例外的だ。哺乳類だって、魚から陸の生物に変わったから呼吸ができるようになったんだ。
 空を飛べるきみも、飛べないぼくとは、本質的に違うのだろうか。
「エギナル」
 持ち上げていた手を、父さんの大きな手がつかんで下ろす。
「……信号、変わったぞ。少し休むか」
「あ―うん。ごめん。大丈夫」
 それ以上父さんは何も言わず、無言のまま家までの道を歩く。
 今度きみと会ったときは、どんな言葉をかけてやればいいのだろうと、不確かなことを考えている自分が嫌になる。今度っていつだ。
 足元に光る緑色のガラス片を、ぼくは思い切りけっとばした。

 トマトやナス、ピーマン。うちの庭で育てている有機栽培の夏野菜を煮込んだスープは、母さん直伝のユリクトの得意料理だ。少しずつそれをすするぼくを母さんは「珍しいもんだわぁ」と言いながら頬杖をついて眺めている。
「自分から食べるって言い出すなんて。無理しないでね」
「……うん」
「父さんに言われたんでしょう」
「まあ」
「何て言われたのよ。教えてくれないの?」
 帰ってきたぼくを見るなり「この不良息子」とか「よそのお子さんを危険な目に」とか「体調管理は生活の基本」とか、とにかくそんなことを聞かされて、風呂をすませてからやっと夕ご飯を食べられた。
 父さんは「着替える」と言って部屋に引っ込んでしまったし(母さんから逃げたんだ、おとなってずるい)、ユリクトは母さんが来て安心したのかもう寝ていた。
「でも驚いたよ、所長のお子さんと仲良くなってるのね。あんたの友逹ハイリくんくらいしかいないでしょ」
「もっといるよ」
「そう。私が会ったことないだけかぁ」
「……うん」
「だったら、向こうの都合もあるとは思うけど、仲良くしなさいよ。……所長さん。転校してきて、友達ができてるかすごく心配していらっしゃったから」
「大丈夫。……できてると、思う」
「そうなの? あんたが言うなら心配はないかしらね」
 母さんはにっこり笑って麦茶を飲みほすと、「お皿、洗ってね」と言い残して立ち上がる。
「食べたら早めに寝なさいよ」
「うん。……ありがとう」
 母さんの姿を見送って、一人になったリビングを見渡す。壁にかかった時計は日付を越えてはいないにせよ、いつもならぼくも寝ている時間だった。
 皿に残ったジャガイモをすくう手を止めてぼんやりしていると、調味料が入った棚にある、ひときわ背の低いビンに目がいった。中身はぼく用の錠剤だ。
 メディカルボックスで作ったものと、医者からもらったものと。透明な袋に小分けにされたまま入っているそれは白とどぎついオレンジの二色があって、毎日飲んでいるのは効き目も副作用も弱い、白いほうだ。
 最後のジャガイモを口にして食器を洗ってから、タバスコや塩をよけてそのビンを引き寄せた。照明を落としているから手元はぼんやりとしか見えない。
 フタの留め具をぱきんと外して、今日の分の二粒を手のひらに出す。二つを合わせた大きさは、きみが本物だと思っていたレプリカくらいだ。
 今回は見つけられなかったけど、本物を見たい。きみと一緒に。
 ちゃちなレプリカじゃなくて、動物園に飼育されている生き物でもなくて、野生の動物や植物を。もっと暖かい地域に行けば見られるだろうか。外国かな。熱帯とか。どこかにちょっぴり残ってる亜熱帯とか? それとも、バイオディレクタの管理に関わる人になってしまおうか。そうすればもう一度本物の生き物を戻そうとみんなに呼びかけて、きみだけじゃない、世界中の人がレプリカ以外の、本物の生物を見られる世界にするのだって、できてしまうかもしれない。
 ぼくたちは将来どんな仕事をして、どんなおとなになっているのだろうか。
 そこに、きみはいるのだろうか。
 きみは、翼を持っているだろうか。
「……、あれ」
 体がかたむいた。とっさに椅子の背もたれをつかんで倒れないようにする。錠剤が手の平から滑り落ちて、どこかへ落っこちる。
 視界がうすぼんやりとしてくる。浅くなっていく呼吸に気づいても直せなくて、片方の手を心臓のあたりに当てた。リズムを意識して、何とか呼吸は元通りになる。
 それでも胃の底に残ったぐるぐるとした不快感が、足から力を抜いていく。その場にへたりこんで体を抱き込むみたいにうずくまった。
 床がひんやりしている。
 台所の小さなアナログ式時計の秒針がこつこつと進む。
 そのままじっとしていると、階段を下りてくる音が聞こえた。母さんと父さん、どちらだろう。二人にはこんな状態、見せられない。もしも遊びに行ったせいだと思われたら。きみのせいと思われたら? 会うのは止めろと言われたら?
 リビングの入口の死角になっている冷蔵庫の脇まで這っていって、念を入れて小さく縮こまった。
 扉が開く音がして、入ってきたのは父さんだった。
「エギナル? ―や、寝たか」
 すぐに電気が消されて真っ暗になった。脱衣所の電気が代わりについて、父さんが歯を磨いている音が聞こえてくる。それもしばらくしたら止んで、階段を上る音が徐々に小さくなっていった。
 気づかれずに済んだけれど、相変わらず気持ち悪い。
 何もかも、吐き出してしまいたい。
 体にいらないものを溜めこんでいるから気持ちが悪いんだ。
 よくない、体が空っぽじゃないのは良くないことだ。何にもないのが良い。
 だって、軽くなれば飛べるかもしれないし。
 出してしまおう。吐き出してしまおう。
 冷蔵庫の隣のストッカーには、ビニール袋がキレイに畳んで入れてある。それを何枚か重ねて、さらにそのまた外側に、テーブルに置きっぱなしになっていた新聞や広告用紙を巻いて、ビニール袋の近くにストックされている紙袋に入れる。
 一瞬、頭の隅が冷静になる。
 こんなことをしても後々自分が苦しいだけだと、サイレンを鳴らす。
 だけど音はすぐに消えていく。得体の知れない気持ち悪さを手放したくて、良くないものを取り払ってしまいたくて、ぼくはいつものように、口へ指を突っ込んだ。
 気持ちよさも、解放感も、何もない。あるとすれば、むなしい安心だけだ。これでまだ生きられる、なんて思ってしまうような。
 唾液と胃液まみれの親指で口のはじをぬぐって、袋へ適当になすりつけた。電気が消えているおかげで「それ」を直視しなくてすむ。
 立ち上がり、紙袋の口を慎重に結ぶ。一回り大きい袋の中に他のゴミも混ぜ入れて、ゴミ箱の奥底に突っ込んだ。
 吐き出すのを気持ちよいと思うのはきっと間違いだ。なのに同じことを繰り返してしまうからげんなりする。まったく学習能力がない。
 冷水で手を洗って、ずるずると冷蔵庫の横に座り込む。何かを踏んづけたと思えばそれは、さっき落としてしまった錠剤だった。もう一個もどこかに転がっているのだろう。ほんの少しでも食べたあとでないと飲んではいけないと言われているので、この分はなかったことにするしかない。シンクの生ゴミ入れの中に放っておいた。
 右手が熱い、と思って、窓からわずかに入りこんでくる月の光にすかしてみる。治りかけていたところを前歯か犬歯かに引っかけたのか、血が一滴たれていた。学校の鉄棒みたいな匂いのそれをそっと舐めてみる。ほんのりしょっぱい。
 どんな食事よりも、自分の体は不味かった。

bye bye,Peter 3

つづき→
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bye bye,Peter 3

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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