ドアの向こう側/ 高西和佐 作
レポートを書く時には、コーヒーが必須。
別に凝ったものでなくて良いし、私には味や香りの違いも判らないからインスタントで十分だけど、机の片隅にあの香り高い液体の入ったマグカップがあるのとないのでは、集中の度合いが大きく変わってくる。湯気が立ち上る黒いコーヒーに、少し多めのミルクを注ぐと、ちょっぴり苦さを含んだ香ばしい匂いが周囲に漂い始める。この独特な香りが、面倒な作業に向かわなければならない憂鬱さを紛らわせてくれる。
と言いつつも、実は普段そんなにコーヒーは飲まない方だったりする。せいぜい思いついたときに適当に淹れる程度だ。最後に飲んだのはいつだったか、自分でもはっきりとは思い出せない。ああ確か先週、一つ前の実験レポートに取り掛かろうとした時だったか。その時にインスタントの粉がちょうど切れて、あとで買い足そうと思っていたのを忘れていた。なるほど、だから瓶が空のままだったのか。
瓶が悲しくすっからかんな理由はわかったけれど、分かったところで何も変わらなかった。ふと、現状白紙のレポートが意識にのぼる。ついさっき、レポートはまだ、タイトルと協同実験者の名前しか書けていない。なけなしのやる気は、たった二行で潰えてしまった。モチベーションは取り掛からないと出てこないと聞いたことがあるけれど、絶対じゃないとよく分かる。やる気は、枯れるときは枯れるのだ。まさしく、コーヒーの粉が無くなるように。
やっぱり、コーヒーが飲みたい。一度思い立ってしまうと、もうどうしようもなかった。大丈夫、少しは時間かかるかもしれないけれど、急がば回れとも言うじゃない。最初に手間を惜しまないことが、最終的な効率に繋がるはずだ。
嫌なことから取り敢えず目を背けているだけだということは、実は薄々気がついている。でも、どれだけ厄介な課題でも、締め切りまでは必ず取り掛からないといけないわけで。それなら少しぐらい先延ばししたって、別に罰は当たらない気がする。だって今日、土曜日の午後だよ? 自分で言うのもなんだけど、花の大学生が折角の土曜日の午後にすることが、たった一人でレポートの執筆なんて、ふざけている。高校時代、文学部に進んだ先輩から聞いた大学生の生活は、もっとずっと、きらきらしていた気がする。つくづく、ほかの人よりちょっと化学ができるからって得意になっていた高校生の私に、忠告してやりたいと思う。いや、今でも別に化学式は嫌いじゃないけれど、休みの日に、一人で部屋に籠ってにらめっこしていたいものじゃない。人生に本当に必要なものは、レポートでも化学式でもなく、それこそ誰かとコーヒーを楽しむことのような、もっと純粋な楽しさと幸せなはずだ。私がしようとしているのは、その幸せの欠片を得ようとしているだけ。それくらい、許されたっていい気がする。
いつも大学に行くときよりも一段階ラフなTシャツとジーンズを身にまとう。秋口になって気温が下がり始めているので、念のため長袖を選ぶ。外に出るから、と迷ったけれど、化粧はしないでマスクと帽子でごまかすことにする。普段通っているスーパーまでは自転車で三分、買うものは瓶詰めのインスタントコーヒー、そして片手間でつまむのに丁度よいお菓子だけ。多少お菓子選びに悩んだとしても、都合十五分弱で1Kのこの部屋に戻って来られるはずだ。その間、誰にも知り合いに出会わないことを祈ることにする。今まで買い物の途中に顔見知りに会ったことはないから、分の悪い賭けではないと思う。
一応髪だけは軽く整えて、買い物用の手提げカバンを持って玄関へと向かう。キッチンを通り過ぎる途中で財布を忘れていることに気づき、一度リビングに戻って財布をカバンに投げ込んだ。財布の隣にあった携帯端末が目に入り、ジーンズのポケットに差し込む。レポートに取り掛かりたくないと、どうしてもSNSを巡回する頻度が上がる。もし本気ですぐにレポートを終わらせたいなら、携帯端末は手の届かないところに置いておくべきなんだと、理解してはいる。でも、それが実現したことはない。
半畳もない玄関の三分の一は引っ越しの際に持ってきた小さな下駄箱があって、その上に部屋や自転車のカギを入れておくかごを置いている。下駄箱の縁の部分には、水色を基調に黒のチェックが入った傘が、閉じたまま掛かっていた。
使い古したスニーカーを履き、かごに手を伸ばして二つのカギを掴む。ふと、かごの横に無造作に置かれたチラシに気づいた。昨日帰ってきたときに、郵便受けから持ってきたまま、見るのを忘れて置きっぱなしにしていたものだ。二枚しかなかったので、さっと目を通す。一枚は警察からで、不審者が近辺に出没しているという注意喚起のためのものだった。『自宅のドアの前、気が抜ける瞬間が一番危険です。怖いと感じたら、迷わず通報を』という言葉が、どぎついフォントで見出しに踊っている。もう一枚は、ピザ屋のデリバリーのクーポン付チラシ。私は普段ピザを食べないので、こちらは読むまでもなかった。帰ってきてから捨てることにして、置いてあった場所に戻す。
いつも用心のために掛けているチェーンを外し、鍵を開ける。うちはマンションの三階にある角部屋だ。オートロックにはなっているけれどそれはマンションの入り口だけで、部屋ごとの鍵はドアハンドルと錠前が分かれてついている、シンプルなものだ。帽子を深くかぶり、ドアハンドルに右手をかけて、ドアを開けようとした。
その時、まったく力を加えていないのに、ドアハンドルを持つ手がひとりでに下がるのを感じた。変に思い、不意に手を止める。ドアハンドルは構わず下がり続け、一瞬、右手が宙に浮いた。妙だった。思わず、右手を後ろに引いて、ドアハンドルから手を離す。普通なら、力が掛かっていないのだから、ドアハンドルは重力に反して跳ね上がるはずだ。しかし、目の前のそれは、そのまま下に下がり続けている。何が起こっているのか把握できないでいると、ついには最後まで回り切り、ドアが開く寸前のガチャっという音がした。ゆっくりと、ドアが外側に開きかける。外から開けられているのだ、と気づいたときには、ドアと壁の間に少し隙間ができ、風が中に入ってきていた。やばい、と思って、咄嗟にハンドルを内側に引っ張る。ドアは一瞬閉じたが、すぐにまた開き始める。
頭から血の気が引くのを感じた。心臓が早鐘を打ち、ずっしりと重い。とにかく必死で、ドアハンドルを引く手に力を込めた。さっき一回強く引いたとき、明らかに手に抵抗を感じた。間違いなく、何者かが反対側からドアを引っ張っている。それも、ものすごい力だ。全身を後ろ側に傾け、体重を使って何とかドアの開きに抗おうとしたけれど、徐々にじりじりと身体が引きずられていく。
真っ白な頭に、ふとさっき見たチラシが浮かぶ。不審者? まさか。でも、こんなことをしてくるような相手、不審者以外に考え付かない。もしかして、待ち伏せされていたのだろうか。若い女性の一人暮らしだと知られて? ちょうど部屋から出ようとしたところを狙って?
ドアと壁の隙間がさらに大きくなる。相手の姿はまだ見えない。いつからか、断続的に、隙間の部分を蹴りつけるような音が響き始めた。そこまで強くない、何かを押し付けるような振動を両腕に感じる。それが隙間に足を引っかけようとしての行動だと気づいたとき、全身に冷たいものが流れる感覚がした。もし無理やり足を入れられたら、二度とこのドアを閉じることができなくなる。
「やめて!」
思わず叫んでいた。相手が一瞬怯んだのが、ドアハンドル越しに分かった。夢中で両手を後方に引く。ドアと壁の間に隙間が無くなったのを確認して、間髪入れずに鍵のノブをひねった。鍵がかかった音。ドアに向こう側から力いっぱい殴りつけられたような衝撃が走る。衝撃に呼応して、全身に嫌な痺れを感じた。固唾を飲んで、ドアを見つめる。ドアハンドルを握る手に、向こう側から下向きに引く力かかっている。ドアから普通してはいけない、金属が削られるようなぎりぎりという音が小さく聞こえる。鍵がねじ切れ、ドアが開かれる情景が浮かんだ。何とか抵抗しようと、ドアハンドルに縋りつき、持ち上げようとするが、万力で固定されてしまったみたいに、まったく動かない。
手が疲れ、気が遠くなりかけたその時、ドアの向こうの力が弱まった。金属が擦れる嫌な音が止む。しかし、ドアハンドルは斜め下を向いたまま変わらない。まるで、ハンドルに手を掛けたまま休んでいるようだった。
ドアハンドルを両手で握り続けた状態で、私は様子を窺った。ドアハンドルの動きが止まって以来、しばらくの間何者が行動を起こす様子はない。さっき起こったことが何度もフラッシュバックする。唐突に、ドアを金属が微かに軋む音がした。それと同時に、ドアハンドルに掛かっていた力が弱まっていくのを感じた。跳ね上がる力に反発しないように手を添えていると、ゆっくりと、ドアハンドルが元の状態へと戻っていくのが分かる。わざと時間をかけて戻しているのかと思えるくらい緩慢な動きが止まると、何事もなかったかのようにドアはしんと静まり返った。
しばらくの間、私は息すらできないでいた。ドアの向こうの何者かにこちらの気配を悟られるのが怖かった。鍵はさっきかけた。でも、さっきドアをこじ開けようとしたときの様子が頭から離れない。万が一ドアを破られた時のために何か武器を持っておいた方が良い気がして、目についた傘に手を伸ばす。可能な限り音を立てないように引き抜いて、一瞬ためらったのちに傘の先端部分を両手で握りしめた。もし何かあれば、柄の部分で攻撃できる。
即席とはいえ武器を手にしたことで、少し気持ちに余裕が生まれた。耳をそばだてて向こう側の様子を確認する。しかし、ドアの向こうの相手に動きはなく、何一つ音はしない。ずっと注意しながら、何者かについて考えを巡らせた。
といっても、考えを巡らせるまでもなかった。扉の向こうにいるのは、確実に危ない人物だ。強盗か、変質者か。もしさっきドアを開けられてしまっていたらと考えると、背筋が凍るようだった。さっき見たチラシに書かれていた不審者の記事が再度思い出される。さっきの記事の詳細はどんな感じだっただろう。まさか自分が当事者になるとは思わず、見出し以外はほとんど覚えていなかった。
そこではたと思いついた。警察に通報しよう。あまりのことに頭から抜け落ちていた。向こうが何もしてこない今、助けを呼ぶチャンスだ。
暗闇の中で光を見つけるって、こんな感じなんだろう。傘を持っていた片手を離し、ジーンズのポケットに入れた携帯端末を取り出す、電源ボタンを押すと、薄暗い画面が立ち上がった。見えにくいのが気になって、明るさを上げる。指が震えて、ロック解除がスムーズにできない。普段より時間がかかりつつ、何とか解除した。
通報するなんて初めてだ。まさかそんな状況に置かれるなんて思わなかった。電話を起動させ、一、一、〇と入力する。電話のマークを押そうとしたとき、一段と画面が暗くなり、端末がフリーズした。
『バッテリー残量が少なくなりました。端末をシャットダウンします』
慌ててステータスバーを確認した。表示されたバッテリー残量が、一%から、ちょうど〇%に変化する。えっ、と思っていると画面全体が暗転し、端末はそのまま操作ができなくなってしまった。
すぐには起こったことの理解が及ばず、少し間をおいてから絶望感が押し寄せてきた。午前中、眠気とレポートに取り掛かりたくない気持ちにかまけ、ベッドの中でずっと端末に触れていた時間の記憶がよみがえる。SNSの巡回なんて、どれだけやっても無意味に決まっているのに、何となく費やしてしまうあの時間。まさかそのツケを、こんな形で払うことになるなんて思いもしなかった。
通報する手段は絶たれた。バッテリー切れの端末なんて、レポートすらデジタルで仕上げる現代では、文鎮としても役立たない。音を立てないように、フローリングの上に置いた。
自分から助けを求めることはもうできない。一縷の望みにかけるとすれば、同じ階の住人が外出するか、帰ってきたときに不審者に気づいてくれることくらいしかない。あるいは、どこかの部屋に来客があるか。でも、いつのことになるかわからない。それまでに不審者に襲われなければいいのだけれど、大丈夫だと言い切る自信はない。
そこまで考えて気づく。このマンションはオートロックがつけられている。つまり、不審者が容易にこの建物内に入ることはできないはずだ。だとすると、ドアの向こうの不審者は、このマンションの住人なのではないか。
同じ階に住んでいる人たちの容姿を思い浮かべる。女子の一人暮らしだったからあいさつ回りはしなかったけれど、毎日使う共用部分で思いがけなく顔を合わせたりして、一通りどんな人が住んでいるのかは分かっているつもりだった。このマンションはオートロックがあることもあってか、女性の入居者が比較的多い。数少ない男性も見た感じ誠実そうな、大人しそうな印象の人たちばかりだった。大学の生活が忙しいので誰とも別に親しいわけではなかったけれど、別におかしな人はいなかったような気がする。このマンションに住み始めてからおよそ二年間、トラブルのようなものもなかった。だから、まさか彼らが得体のしれない何者かと重なることはないように思う。
それに、と思いなおす。オートロックだといっても、完全に外の人の侵入を遮断できるわけじゃない。以前友達が、オートロックって意外と脆いんだよ、と言っていたのを思い出す。マンションの住人が建物内に戻るとき、自然についていけば、簡単に入り込むことができると言っていた。ある程度長く住んでいればどんな人がいるのか大体わかるけれど、住みはじめだと住人と不審者の見分けがつかないので、同じマンションに住んでいるふりをすれば簡単に忍び込めてしまうらしい。来客を装えばもっとわからないから、注意が必要、とか。その時は気を付けるね、と答えたけれど、まさか本当にそんなことをする人がいるなんて考えもしなかった。……もちろん、そうだと決まったわけではない。でも、十分考えうることではある。
ドアの向こうに変化はない。ドアハンドルはいったん床と水平に戻った後は微動だにしなかったし、ノックのような別のアクションもなかった。辺りには、極限まで音を出さないようにした私の吐息が漏れる微妙な音がわずかに聞こえるのみ。何者かに至っては、息をつく音すら聞こえなかった。
かといって、油断はできない。もし何者かが諦めて立ち去ったのだとすれば、ドアの前から遠ざかっていく足音が聞こえるだろう。何の音もしていないということは、不審者はいまだドアの前にいるはずだ。
緊張の糸を張ったまま、私はずっと、相手が根負けするのを待ち続けた。このままこちらが出てこないとわかれば、どんな危ない人であろうといつかは諦めていなくなるだろう。私が警戒すべきは、万が一、向こう側の何者かがこのドアを無理やり破ってきたときだ。その時は、襲われずに逃げきらなければならない。相手の姿が見えた瞬間に、傘の柄で一撃食らわせて、ひるんだすきに廊下へと走り抜ける。うまくいくかはわからないけれど、高校生の頃に少しだけ陸上をやっていたおかげで、素早さには少し自信がある。
そう、扉が破られたならだ。破られなければ、怖いことなんて何もない。でも、不意にこの家に引っ越してきたときのことが脳裏に浮かぶ。
内見したときはそこまで考えが及ばなかったけれど、新生活が始まって初めて気づいたことがある。このマンション、実はそこまで壁が厚くないのだ。それこそ、思い切り叩けば隣室に音が簡単に響くくらいには。幸い行儀のよい住人が多いため騒音に悩まされた経験はないけれど、角部屋にも関わらず隣の部屋の生活音が日常的に聞こえる程度には、このマンションの構造はしっかりしていない。そして、それは玄関のドアについても同様に言えることだった。荷物を運びこむときに母が呟いた、「オートロックにお金を回した分、ドアは薄いのかもね。他に理由がないのなら」という言葉が脳裏をかすめる。
といっても、このドアはそう簡単に敗れるほど安っぽいものではないことも、毎日使っているから分かっている。少なくとも、私には絶対に破ることはできない。ただ、大の男が本気で力を入れて蹴ったら? マンションの壁や扉は、建物によっては火事の際に避難が簡単なよう、いざとなれば壊せるような作りになっている場合もあると聞く。もしこのマンションもそうだとすれば、扉が破られることも、現実的な危機として考える必要があるかもしれない。
状況を悲観的に、より最悪な条件がそろった場合のことを考えていくと、不安になってしまって良くない気もするけれど、止められない。緊張に疲れてつい目線を下に落とし、無意識に力を入れすぎていたのか、傘の先を握りしめる手の肌が白く浮いていることに気づく。考えてみれば、この傘だって武器としては恐ろしく頼りないものだ。柄の素材は柔らかいプラスチック。中央の棒は一応金属ではあるけれど、改めて見ると小指よりも細く、簡単に折れてしまいそうだった。こんなおもちゃみたいなものを武器にして、姿かたちすらわからない敵と格闘しようとしていたなんて。突如生まれた動揺に、ただでさえ早かった鼓動がさらに早くなりかける。
でも、傘の先を手放すことはしなかった。思いっきり相手の顔を突けば、どんな大男でも一瞬動きが止まるはず。キッチンまで行って包丁を持ち出すことも考えたけれど、 刃物は気が動転すると最悪自分のことを傷つけるだけになりそうだったからやめた。
外で雀がさえずる声が聞こえる。音だけ聞けば、穏やかな週末の午後だった。私が買い物に出ようとしてから、何分くらいたったのだろう。ドアの向こうの敵は一向に動く気配がない。いや、もしかすると敵もこちらの動きを窺っていて、機会を待っているのかもしれない。でも、あまりに変化がなく、時間だけが過ぎていくのを感じていると、こんなのどかな時間に襲撃のプレッシャーに押しつぶされそうになっているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。だんだん、先ほどの出来事が白昼夢だったんじゃないかとも思えてくる。でも、この手に感じたドアを向こう側から引く力、そして足を隙間に差し込もうとドアを蹴りつける振動は、絶対に幻なんかではなかった。ドアを閉じてから変わらず鳴り続ける拍動が、さっきの出来事の現実味を何よりも保証している。
それにしても、さっきからドアの向こうに何も動きがない。もしかして、本当にいなくなった? 気を張って考え続けるうちに、一つ、ものすごく平和的な仮説が頭に浮かんだ。実験レポートで、特に書くことのない考察の文字数を稼ぎたいとき、しばしば登場する仮説という言葉。基本的に、正解をさも自分で考えましたみたいな筆致で書いておいて、いかにも自ら検証しました、って感じで肯定しておけば、なんか考えた感を出しつつ三行くらい仕事が進んでいる魔法の言葉。そんな仮説を、こんなに希望的に、しかも自信なく使うことなんて初めてかもしれない。
私の部屋のドアハンドルを、私が出かけるのとぴったりかち合うベストタイミングで引いた何者かの正体は、部屋を間違えた同じマンションの住人だ。うっかり者の住人は、突然ドアが開いたことで部屋に私がいることに気づき、泥棒かと思って慌てた。私がドアを必死に閉じようとしたから、相手は気が動転して、ドアを閉じさせないように思いっきり引っ張った。私がドアを閉じ切った後、我に返り、それと同時にここが自分の部屋でないことに気づき、私と顔を合わせる前に慌てて退散した。ドアハンドルがなかなか戻らなかったのは、ドアハンドルを引いたまま鍵をかけたことで起きる物理障害的なバグで、ドアの向こうで誰かがずっとドアハンドルを抑えていたからじゃない。ドアハンドルが、人の手では難しく思えるほどゆっくりと戻っていったのがその証拠になる。事実、人の手で行われたことではなかったのだ。
この仮説が正しければ、今、ドアの向こうに気配すらないことの説明も付く。気配がないはずだ、誰もいないんだから。私は結局、いもしない敵と一緒に独り相撲を取っていただけ。馬鹿馬鹿しい、でもこれが現実だ。怯えていたのが間抜けに思えてくるけれど、一番嬉しい結末ではある。研究者は得てして、自身の立てた仮説が正解だとする根拠に飛びつきたがる、というのは、どの講義で聞いた言葉だっただろう。今なら、講師に愚かと笑われた、そこまで優秀でない研究者たちの気持ちがよく分かる気がした。
取り敢えず、音以外から向こう側の状況を探りたい。何か手段はないかと考えたとき、ドアスコープが目に入った。確かに、来客の様子を知ろうと思ったとき、ドアスコープを思いつかなかったのは盲点だった。しかし、思い立ったもののなかなか気持ちが定まらない。
ドアスコープの存在に気づいた後、新たに生まれた懸念があった。もしさっきの仮説がはずれだった時、つまり向こうに不審者がいた場合、ドアスコープからこちらの様子が見られているかもしれない。ドアスコープは魚眼レンズだから、外から内の様子を見るのはなかなか難しいことではあるけれど、できないわけじゃない。もし相手が手練れだとすると、ずっとレンズを通してこちらの様子が何者かに筒抜けだったということになる。だとすると、私が隙を見せた瞬間に、ドアが蹴破られることも考えられる。逡巡した末、ドアに体重をかけて身体を押し付け、ドアを蹴破られないように注意しながら覗くことにした。
できる限り音を立てないように素早くドアに密着し、ドアスコープの前まで顔を近づけていく。右手には傘を持ったままだ。外側からドアに何かが当たる感覚はなかった。首を伸ばし、ドアに顔を引っ付けて、ドアスコープを覗き込んだ。
何もいなかった。レンズのせいで歪んではいるけれど、いつも見ている共用の廊下が映っているだけで、不審者はおろか人らしき姿は何も見当たらなかった。
ほっとして胸を撫でおろし、そのまま脱力してドアにもたれかかりそうになる。まだ、気が抜けないことはわかっている。ドアスコープで誰の姿も確認できなくても、仮説が完全に証明できたわけじゃない。不審者は狡猾で、ドアスコープの死角に隠れ、こちらの隙を窺っているのかもしれない。でも、まさかそんなことまでするだろうか、とも思った。少なくとも、これで不審者がまだドアの向こうにいる可能性が大きく下がったのは明らかだった。
その時だった。
「んーっ」
不意に、不機嫌そうな野太い唸り声が、辺りに響き渡った。身体を動かせないでいると、ドアスコープの向こう側に黒い影が現れた。影はレンズの下側から現れたその影は、すぐに大きくなってレンズ全体を覆い隠してしまった。一瞬見えた影の赤っぽい輪郭は、人の中指と人差し指を連想させた。レンズが覆われてしまった後、一瞬遅れてドア全体が大きく揺さぶられた。まるで、誰かがしびれを切らし、力任せにドアに手を押しつけたようだった。
「ひっ」
思わず声を上げてしまい、慌てて口を押える。膝が急にがくがくし始めて、どうしようもなくて床にへたり込んでしまった。落ち着きかけていた鼓動が一気に早くなる。指に力が入らなくなり、右手に構えていた傘を取り落としてしまう。床に柄が当たりやかましい音が響いた。やばいと思って再度傘を持とうとするが、腰が抜けてしまって身体が思うように動かない。何とか傘を手にした後には、玄関向きに頭を向け、膝をついた前かがみの無防備な体勢になってしまっていた。
恐怖で凍り付いた足を何とか動かして、私は再びドアに対して正面から向かい合った。手も肩も震え、膝は笑っている。無理に構えた傘も、先端の柄の部分が小刻みに揺れてしまって定まらなかった。
仮説は崩れた。逆に、ドアの向こうに何者かがいるのは確定的になった。やっぱり、相手は死角でこちらの様子を窺っていたみたいだった。息を殺し、敵が既に去ったと勘違いして私がドアを開けるのを、ずっと待っていたのだ。ドアが開いたその隙に乗じて、何かしらの目的を果たそうとしているのだろう。何かしらの目的……考えたくもない。
終わりの見えない我慢比べが再び始まった。状況は相変わらず。でも、安心したところを驚かされて、怯えさせられて、さっきよりも明らかに心身を消耗していた。はっきり言って、もうへとへとだった。こんな状態で相手が襲撃してきたとき、素早く対応できるか。そう自問すると、すぐには首を縦に振れない。
でも、ふわふわする頭で何とか冷静に考えようとしてみて、一つ判明した事実に気づく。私がひどく取り乱したとき、ドアの向こうはずっと静かなままだったのだ。ドアスコープはブラックアウトしたけれど、ドアが叩かれたり、蹴られたりはしなかった。何者かは、信じられないほど沈黙を守っている。私が瞬時に反応できない、襲撃には絶好のチャンスだったのにかかわらず、だ。
つまり、何者かは、自分がドアを破れないと思っているのだ。もしくは、破ろうと思っていないか。あくまでこちらからドアを開けて外に出たとき、その瞬間を狙っているんだろう。だとすると、こちらが何をしようが、こちらがドアを開けない限り、向こうは手出しをしてこないつもりかもしれない。
考えるにつれて、身体の震えも落ち着いてくる。ドアが絶対的な防御になるなら、ドアの向こうで動きがない以上、ずっと神経を尖らせておく必要はない。もちろん相手がドアを越えてこないということは推測に過ぎないのだけれど、ドアが破れるのならば、向こう側の何者かはすでにいくつもチャンスを無駄にしてしまっていることになる。油断ができないのは変わらないけれど、変に消耗するのは良くない。
ついに、私は傘を握る力を緩めた。鼓動の激しさが収まるにつれ、自分が冷静さを取り戻していくのが分かる。そして、単純なことが頭から抜け落ちていたのに気づいた。
一度は諦めた、外部に助けを求める方法。何のことはない。端末が電池切れなら、充電すれば良い。ここは私の部屋だ。充電器は当然あるし、どこにあるかももちろん把握している。
気づいてしまえばなんてことはない。でも、緊張の連続の中では手元の端末がシャットダウンした時点で頭の方もフリーズしてしまっていたみたいだった。さっきまではドアの前から動けなかったけれど、相手がドアを蹴破ってこないと推測できる今なら、充電する時間くらい稼げるだろう。
床に置いた端末を手に取る。ドアを正面に据えたまま、私はじりじりと後ろに下がることにした。充電器はベッドの脇のコンセントに差し込んである。小走りでいけば三十秒とかからない距離だけれど、ドアに背を向けるのがまだ怖かった。推測は推測に過ぎない。間違っていたら命取りになるかもしれない。
玄関からキッチンに上がるとき、靴を脱ぐべきかどうか少し迷った。結局、土足で戻ることにする。うちのマンションは、キッチン、居室ともにフローリングだ。大家さんは汚れるからって嫌がるだろう。でも、土足で上がっても後で汚れを拭けば、きっと分からない。普段の靴がスニーカーだったのも幸いだった。かかとが高い靴と違って、床を傷つけてしまう心配が全くない。それより、靴を脱いでしまうと、もし傘すら使えない状態になった時、相手を蹴れないうえに、脚が弱点になってしまう。そんな追い詰められた状況にはなりたくないけれど、念には念を入れたかった。
ドアを見つめたまま、キッチンと居室の境目を越える。一応二つの部屋を区切れるようにガラス戸が設けられているけれど、今は開いていた。もし閉めてしまっていたら、開けるときに音を立てないようにまた気を使う必要があっただろう。生来の杜撰さも、たまには役に立つらしい。
身体は玄関の方に向けながら、手だけでベッドの上をまさぐる。充電器のプラグを探り当て、携帯端末を差し込む。画面に電池のマックが現れ、〇%と中央に表示された。電池が溜まっていくモーションの後、画面はもう一度真っ暗になった。
多少は充電されないと、端末の電源はつかない。でも、それもあと数分の辛抱だった。電源がつけられるようになれば、すぐに通報ができる。そうすれば、もう不審者を怖がる必要もなくなる。
こちらの動きに気づいていないのか、やっぱりドアの向こうは静かなままだった。あと少し、それで終わる。
周囲を見回す余裕ができたせいか、ふと、インターホンが目に入った。居室の入り口の壁に、照明のスイッチに並んで取り付けられている。これを見たとき、心が揺れた。
インターホンを使えば、相手の姿をドアスコープよりばっちり見ることができるはず。さっきはドアの前から動けなかったから選択肢になかったけれど、何者かをはっきりさせたいならあんな小さなレンズよりもこちらを先に使うべきだった。何より、インターホンならドアスコープで見られなかった死角もすべて見られるはずだ。姿を私に見せたくないと思っても、これなら相手には隠れる術がない。
ただ、相手が周到なら、ドアスコープを塞いだのと同時にインターホンのカメラも塞いでしまっているかもしれない。それでも、相手の姿を確認できる可能性があるなら、やる価値はあるように思えた。
意を決して、インターホンのスイッチを押す。電源が立ち上がったことを知らせる高い電子音が唐突になり、一瞬心臓がびくっとした。息を止めてドアの方を一瞥するも、やっぱり相手に動きはない。過敏になりすぎだと思いながら、インターホンのボタンをいじる。うちについているインターホンは、外側から押されない状態で内側から電源を入れると、まず過去の履歴が表示される。現在のカメラに映る映像を表示するボタンを押し、画面が切り替わるのを息をのんで待った。
暗かった画面が明るくなる。見慣れた共用の廊下が、ドアスコープでは見えなかった死角の部分まで含めてはっきりと映し出される。そして、私は瞬きを忘れた。
画面には、人の姿は映っていなかった。誰もいない。私の部屋の前はおろか、共用廊下にすら誰もいない。ドアスコープの死角にも、人の姿はおろか何か物が置かれているということすらない。
私は頭を抱えた。確実に何かがいると思っていた。じゃあ、さっきドアスコープの向こうに見た手のようなものは何だったのだろう。でも、すぐに思い違いに気づく。ドアスコープを除いた後に私が一人で恐慌状態にあった時、私は何者かが何もしてこないと思っていた。でも、実はまさにその瞬間、何者かはドアの前から立ち去ったのだ。ドアスコープの死角にいた何者かは、逃げる機会を窺っていた。ドアの向こうが急に騒がしくなったのを見計らって、退散するチャンスだと思ったのか、それとも怖くなって逃げだしたのかどちらかはわからないけれど、とにかくあの時、何者かはドアの前からいなくなった。
全身の力が一気に抜けて、私はその場に座り込んだ。途中までは確かに危なかったのかもしれない。でも、途中からは完全に私一人の取り越し苦労だった。もう不審者はいない。やっと、本当に落ち着くことができる。
充電器につないだ端末を確認する。バッテリー容量を確認すると、七パーセントと表示された。もう電源がつけられるだろう。通話にどれだけ時間がかかるかわからないが、バッテリーにつないだまま電話すれば大丈夫だ。不審者はいなくなったけれど、不審者がいたという事実は変わらない。電源ボタンを長押しし、画面が明るくなったことを確認する。電話を立ち上げた、その時だった。
ノック音が二回、聞こえた。安心しきった私は反射的に音がしたドアの方向に顔を向けた。再度ノック音。呆然としていると、さらにノック音。そこまで力を入れているわけではない、用があるときに相手に来室を気づいてもらうために叩くような、自然な強さだった。さらにノック音。
あれっ、と思う。でもそのあれっ、の理由が、緊張から解き放たれた直後のぼんやりとした脳ではとっさには思いつかなかった。考える間もなく、ふと視線を移した先に、電源が入ったままのインターホンの画面が飛び込んできた。
見慣れた共用の廊下。余すことなく映し出されたドアの向こうの風景。その中に、ノック音の主らしき人の姿はなかった。
またノック音。今度は、さっきよりも少し強い。遊びに遅刻した友人を起こす時くらい。
やっぱり人の姿はない。
視界が急に白くなるのを感じた。意識が後頭部に向かって絞りとられるように薄くなっていく。やばい、と思って目をつぶる。落ち着け、落ち着け、と言い聞かせる。ずっとつけたままだったマスクが息苦しい。少しずらして鼻を出し、思い切り息を吸い込む。
ノック音。さっきよりもさらに少し強い。
思わず両耳を塞ぐ。ずっと手に持っていた傘の骨が手に絡まり、額に当たる。冷たいものがぶつかる衝撃の後、鼓動とともに波打つ痛みが始まった。もしかして切れたかも、と思えるほど痛くて、意図しないまま、耳を塞いでいた左手をあてがった。
ノック音。今度は三度。
痛さよりも音が聞こえるのが嫌で、再び耳を塞ぎなおす。
まさか、ドアの向こうの何者かが、人間ではないなんて思いもしなかった。いや、そんなことはあり得ない。私は超常現象なんか信じないタイプだ。何かちゃんとした仕組みがあるはず。ただの質の悪い悪戯に決まっているんだ。インターホンに何も映っていないのは、カメラの前に共用廊下の写真がおかれているだけで、実際にノックしているのは生身の人間だ。そうだ、きっとそうなんだ。
ノック音。三回。想像でしかないけれど、借金取りが取り立てに来るときくらいの強さ。蝶番との接合部が小さくメキメキと鳴った。
そうだ、警察に通報。取り敢えず、誰でもいいから来てもらおう。一人じゃだめだ。抜けてしまった腰を引きずって、床を這いながら充電の終わった端末に手を伸ばした。
端末を顔に近づけようとして、充電器のプラグが端末から外れてしまう。もう充電は十分なはずだと思い、そのまま一、一、〇をタップする。何度か空振ったあと、通話ボタンを押す。今度は電源が途中で落ちるようなことはない。呼び出し音は二回なった後、すぐに途切れた。手の震えを抑えつつ、耳まで端末を持っていく。
『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません』
そんなはずがない! 掛けた相手は警察だ。つながらないはずなんてないのに。
ノック音がまた三回、聞こえた。もう、助けは求めようがない。
いつの間にか、床に寝転がっていた。フローリングの床が冷たい。どうすべきなのか考えようとしているのに、嫌でもこの部屋に引っ越してきたときのことを思い浮かべてしまう。
このマンションは、実はこの地域の一人暮らし物件の相場よりも家賃が安かった。広さは普通くらい、しかもオートロック付きなのに、他と比べて一万円くらい安い。良い部屋を見つけたと喜んでいたら、母が「事故物件かもしれない」と言い出した。幽霊なんて信じてはいないけれど、気になるものは確かめておいた方が良いと思って、引っ越す前に不動産屋の担当者に訊いてみた。
「大丈夫。このお部屋で、お客さんに伝えなければいけないような不幸な事件はありません」
伝えなければいけないような、という言葉は気になったけれど、その時の私は大丈夫なんだと判断して、それ以上突っ込みはしなかった。
ノック音。ドアが大きく揺れている。
何年か経てば、そのような事件が起こったとしても伝えなくても良い。そういう規則があると知ったのは、一人暮らしを始めて二年目の夏だった。サークルの飲み会で怪談話をするような雰囲気になって、その時に誰かから聞いた話だった。聞いたとき、少し気になったのは事実。でも、それまで変な現象に遭遇したことはなかったし、オーナーが良心的な、ただの優良物件だとずっと思っていた。
ノック音。ドアが大きく震える。
今更になって、なぜこんな変なことが起こるのか。理解できなかった。心霊現象自体が理解できないといえばそうなんだけど。
ノック音がやんだ。突然の変化に、上半身を起こしてドアの方を向く。
ドアの向こうに何かの気配がする。確かにいる感じはするのに、なぜ急にノックが止まったのかはわからない。わからないことだらけだ。
金具が擦れる音がして、鍵のノブが回り始める。閉めたはずの鍵が、開けられていく。どうして幽霊が私の家の鍵を持っているのか、そんな疑問は恐怖に押しつぶされて消えてしまった。完全に鍵が開いた後、今度はドアハンドルが下げられていく。
入ってくるつもりだ。何かが。入ってくる。
ドアハンドルが下がりきり、金具の音が響く。カチャ、と音がして、ドアの隙間から光が徐々に差し込んでくる。ドアが開けられていく。防護壁は、もう役に立たない。
何が来るのだろうか。どうなるのだろうか。一度遠くなったはずの意識はなぜかまだ残っていて、しかもさっきよりずっと明瞭だった。さっきぶつけた額が脈打つように痛い。手をかざしてみると、こめかみの周辺が腫れていた。幸い切れてはいないようで、触れた手にべとりとした血の感覚はなかった。
頬がぶるぶると震えている。怖い。取り敢えず、立ち上がろうとする。まるで自分のものではないみたいに、脚は固まって動かしにくかった。それでも、何とか地面に靴の裏をつけようとする。しびれたように重い。腰が尋常じゃなく落ち着かない。思考が今の状態から逃げようとしている。このままへたり込んでいては絶対危ないのに、うまく動けない。恐怖に麻痺した意識の一部分だけが、変に冷静に逃げる術を考えていた。
ドアはもう半分ほど開きかけている。なにかの姿はまだ見えない。
何とか立ち上がり、膝を叩いて脚をまっすぐ伸ばす。怖い。ドアの方を見ようとすると、こめかみと背筋に冷たいものが走って、次の瞬間には視線があらぬ方向を向いてしまう。得体のしれない相手に、どうすればいいのか思考が全くまとまらない。ちゃんと立てたと思ったのに、太ももがやっぱりブルブルとして止まらない。
何者かがドアの隙間から見えるまで、もうそんなに時間はないだろう。何者かがいるはずの空間を、直視できない。全身がめちゃくちゃに震えている。挙句の果てに何も考えられなくて、近くに転がっていた傘を、今までと同じように、先の部分を掴んで持つ。肘の揺れが止まらない。まともに構えられているとはとても言えない。
金属音。だけど、今度の音はいくらか軽かった。多分、玄関のドアが部屋の外のドアストッパーに当たった音だ。ドアが完全に開かれた。ついに何かが、部屋に入ってくる。
たまらず、私は玄関ドアの方向へ飛び出した。足がもたつき、土間に降りるときに挫きそうになる。もつれる脚を無理やり前へと動かし、傘を顔の前に持っていき、やってくるはずの標的を探す。
やってきた何かに、一撃与えて怯ませて、その間に逃げる。作戦と呼ぶまでもないほど、単純明快な作戦だ。でも実際には、恐怖で正面から何かの姿を確認することができないから、とにかく傘を振り回して何かに当たるのを期待するしかない。感覚で、ドアと外の境目付近に当たりをつけて、柄の部分を思いっきり叩き落す。傘は大きく空振り、玄関の床と衝突した。無我夢中で振り下ろした勢いに上半身が引っ張られそうになりながら、今度は傘を頭上まで持ち上げ、自分の頭と同じくらいの位置に踏まって振り回した。ドアの枠に傘が当たるやかましい音が響く。その後も、何度も繰り返し玄関のいたるところに傘を打ち振った。
手ごたえは一つもなかった。木枠や床、天井に当たる感覚はあるけれど、何者かに当たった感触はない。
当たらないことで、喉の奥の方に焦りが溜まっていくようだった。すぐに息が切れてくる。当たらなくても良いから、もう早く逃げたい。徐々にそう思い始めて、私は傘の柄を廊下へとつけた。
恐る恐る、何かがいるだろう方向に視線を動かす。途中で居室にあるインターホンの端が目に入る。インターホンの周りは暗く、既に電源は落ちているようだった。そのまま視線を玄関ドアの方向へと持っていく。ドアの蝶番が見える。開け放たれたドアが見える。そして、ドアが邪魔をしていて直接見えなかった、共用廊下の方向へ視線を向けた。
何もいない。誰もいない。
拍子抜けして、辺りを見回す。開かれたドアの裏側に何か隠れているかもしれないと思い、またちゃんと傘を構えて覗くも、数枚の落ち葉が散らかっているのみだった。共用廊下の先まで進み、エレベーターホールも確認したが、誰の姿もなかった。非常階段には、さっきから鳴き声を聞かせていた雀が手すりに留まっていてそれ以外は何もいなかった。
冷水を浴びた気分だった。あれだけ怖がって、あれだけ騒いだのに、何も見つからない。今まで勝手に騒いでいた自分が馬鹿みたいだった。
一気に全身に疲れを感じて、部屋に戻る。手に持っていた傘を見て、柄の部分が削れてへこんでしまっているのに気づいた。気に入っていたから、シンプルに悲しかった。改めて全体を見ると、持ち手にしていた骨組みの部分も、いくつか折れてしまっていた。まるで、私の気持ちみたいだなと思いながら、傘立てに戻す。気持ちは折れたし、へこんでしまった。脚だったり、肘だったりが緊張から解き放たれて、痛みを訴えていた。もうこのまま休んでしまいたかった。
居室に戻り、転がっていた手提げかばんと財布、そして携帯端末を拾い上げる。流石に怖かったので、玄関のドアは開けっ放しにしておいた。端末の時刻を見ると、買い出しに行こうと思い立ってからすでに四十分が経過していた。無駄に一人でそんなにも格闘していたことになる。これからレポート書かないといけないのに……。
結局、何だったのだろう。どこまでが私の想像を域を出ないもので、どこまでが私の推測通りだったのだろう。私の聞いたノックの音は本当? それとも空耳? ドアスコープの向こうに見た手のようなものは、見間違いだったのか? だとするとあの時のドアの揺れや、唸り声は一体何だったのか?
ドアをストッパーに押し付けたまま、ハンドルと鍵の部分を検めてみた。特に異常は見られない、というよりわからない。いつも使っているものと変化がないように思える。
多分だけれど、ドアの前で見えない敵とにらみ合っていた時からずっと、鍵は開いたままだったんだと思う。ハンドルが勝手に動いたのは事実としても、それはちょっと前に没にした仮説の通り、部屋を間違えた人の仕業な気がした。それからの出来事はきっと、私の恐怖心が作り出した妄想と考えた方が、筋が通る。
ドアスコープから見た手のようなものは、風で飛んできた落ち葉がちょうどレンズの前に揺らめいたのを見間違えただけ。唸り声は、風の音がそう聞こえただけ。手のようなものが見えたと同時にドアが揺れたのは、その時の風のせい。インターホンの画面に誰も映らなかったのは、そもそも私が勘違いしただけだから当たり前。ノックの音は、鍵が開いていて半開きになっていたドアが、風で小さく開閉して枠に当たっていたのを聞き間違えたもの。最後に急にドアが開いたのは、強い風が吹いたことで、ドアが煽られたから。
いや、あと一つ残っている。電話の件だ。警察に通報したはずだったのに、つながらなかった。あれは何だったのか。
覚悟を決めて、電話を立ち上げ、発信履歴を見る。記された番号を見て、私はほっと息をついた。
画面に表示されていたのは、一、一、までだった。心底気が動転していたから、〇番が押せていなかったのに気づかなかったらしい。一一番に掛けても、警察になんかつながらないはずだ。
そういうことなのだ。ドアの向こうの何者かなんて、不審者を思い浮かべた私が作り出した幻像だったのだ。見えない何かだって、不確定な情報からこのマンションが事故物件かもしれないと何となく思っていたから思いついた妄想だ。現実にはそんなものいなかった。
無駄に踊らされた自分が不甲斐なくなってくる。もうやけくその気分だった。今起きた怪異の顛末と考察を、レポートにしてまとめたいくらいだ。レポート提出の目的の一つに、きちんと科学的に解釈して文章を書く練習をすることもあると聞いたことがある。ここまできちんと解釈できたら、実験レポートなんて提出しなくたって、レポート提出で得られる能力が身についていると評価してもらえてもいい気がする。
大きなため息をつき、私は買い出しに行くことにした。何を買うんだっけ? ああ、コーヒーと、お菓子と、そして折れてしまった傘の代わり。本来ならいらないはずの買い物が一つ増えてしまった。お気に入りを失った情けなさと、結局何も問題ではなかった安堵の気持ちから、思わず苦笑が漏れた。
ドアを閉め、手提げカバンの底に手を入れる。玄関のカギを取りだして、鍵穴に近づけた。
その時だった。
まだカギを差し込んでいないのに、ひとりでに鍵穴が回転し始めた。鍵穴は本来鍵をかけるときに回す位置まで傾き、ガチャンと音がして元に戻った。
あっけにとられていると、顔の右の方から短い電子音がした。インターホンが起動した音だった。当然私は触っていない。外で押されていないなら、インターホンが起動するのは部屋の中の誰かがボタンを押したときだけ。
インターホンから、息を吸う音が聞こえた。向こう側の何者かが言葉を発する前に、私は階段に向かって駆けだした。
その後、私が引っ越したのは言うまでもないだろう。
ドアの向こう側/ 高西和佐 作