あなたの全てを救う部屋/ 中野弘樹 作
永山透は息を切らして夜の街を一心不乱に駆け抜けていた。いや、「駆け抜けていた」は少々言い過ぎだ。何せまともに走ったのは少なくとも4年以上前・・・いや5年か?ともかく学生時代以来の激しい運動に永山の体は悲鳴を上げていた。口の中はカラカラで、血のような味がする。フォームがめちゃくちゃなせいでたいして速くもないが、それもお構いなしに永山は走り続けていた。目立たないよう大きな通りは避け、民家の間の細い路地を選んで進んでゆく。しばらくそうやって走り続けていたが、路地を抜けて住宅街を通る車道に出たところで、慌てて元来た路地に引き返し、身を隠した。
車道の先にある十字路に、全体的にサイズ感の大きく、やけにカラフルな服装の若者が突っ立っている。仲間との集合場所を間違えた哀れなチンピラA に見えなくもないが、永山はこのけだるそうなチンピラ風の若者の正体をよく知っていた。暇そうに塀にもたれかかってスマホをいじっているが、時折目を上げて十字路の先を覗っている。
若者はしばらくそうしていたが、ふいにズボンのポケットにスマホをしまうと駅の方に小走りに向かっていった。詰めていた息を吐き出し、気づかれなかったことに安堵しながらも、永山は顔をしかめ舌打ちをした。
「これで電車も駄目……か」呟いてその場にズルズルと座り込む。これでこの市の周辺から脱出する術は断たれたも同然だった。タクシーは金がかかり過ぎるし、車も当然持っていない。自転車を盗んで逃げることも考えたが、そもそも大して遠くまで行けない上、永山自身の体力に問題があることがついさっき判明した。
両手で頭を抱え、大きくため息をついた。大いなる何かが永山を逃がすまいと両腕を広げて高笑いしているイメージが彼の脳裏に去来する。目をらんらんと輝かせながら、最後には巨大な手でむんずと彼を捕らえるのだ。逃がさないよ、と。
再び永山はため息をつく。12月の寒空がその呼気を白く染めていった。住宅街の裏路地に情けなく尻をつけながら、なぜ自分がこの恐ろしくろくでもない状態に巻き込まれているのだ、と永山は嘆きだした。
永山は、ごく普通の人間だった。無愛想で引っ込み思案という欠点もあるにはあったが、それらを含めてもどこにでもいそうな暗い雰囲気の男だった。裕福という訳ではないが、貧乏とまでは行かない、これまたごく一般的な家庭に生まれた永山は、学業の方があまり振るわなかったため、工業高校を卒業後、地元の中小工場で働き出した。どことなく暗い性格のせいで、友人らしい友人を作らずに学生生活を終えると、この勤め先でもその性格を遺憾なく発揮し、多くの時間を一人で過ごしていた。が、別に永山には「陽気な仲間と仕事終わりに酒を飲み交わし、夜の街に繰り出したい」という願望や逆恨みじみた嫉妬もなかった。永山は彼なりに自分の性格と、そこから引き起こされる結果について理解していたし、そこそこに一人の時間を気に入っていた。そんなわけで、永山は当然自分の他人との乏しい交友関係はこの状態を当分維持していくのだろうな、と思っていたし、実際勤務2年目の5月までその予想は当たっていた。が、6月の雨続きでジメジメとしたある日の昼休憩、永山は2歳年上の先輩から話しかけられたのだ。お前何食ってんの? と。永山は驚いた。と言うのもその先輩は、容姿においては常に女性事務員から熱い視線を受け、性格においては気さくでユーモアがありながら温かい一面もあり、仕事ぶりでは正に部署の要で、ゆくゆくは重役、いやいやヘッドハントされ某大企業に転職するのだ、などと囁かれていた。まあ一言でまとめれば「完璧」で、永山からすればまさしく「月とすっぽん」の関係と言えた。当然そんな完璧氏と永山には接点など有るはずもなく、意表を突かれた永山は咳き込みながら、駅前のコンビニで買ってきた弁当であることを若干早口で伝えた。その後も完璧氏と永山は他愛もないことを話し合った――最も完璧氏が一方的に質問し永山が答えているだけだったが――それでも永山にとっては楽しいひとときだった。昼休憩が終わり「じゃあな」と立ち去る時、永山はずっと気になっていたことを質問した。
「あ、あの」
「ん? 何?」
「なんで俺に話しかけたんですか?」
「あー、去年からずっと話してみたいと思ってたんだ。永山って、ほら、なんかミステリアスだろ? だから面白いだろうなーって」そう言って完璧氏はニッと笑った。気持ちのいい笑い方だった。永山は、そうか俺はミステリアスなのかなるほどな、と感慨に浸っていた。
その日を境に永山と完璧氏は暇を見つけてはよく談笑するようになった。話題はと言えば、好きな女性のタイプ、完璧氏が新しく染めた髪色、永山がうたた寝してやってしまった深爪、帰宅途中に見た野良猫のケンカ、昨日のバラエティー番組で噛みまくっていた司会、休日の過ごし方、などの相変わらず他愛のないものばかりだったが、長らく「他人と楽しく話をする」ことが無かった永山はこの時間を心地よく感じていた。
そんなある日の会話の途中、おもむろに完璧氏が「永山って趣味何?」と質問した。永山は反射的に顔をしかめる。
「俺実は趣味らしい趣味がないんですよね」歯切れ悪く話す永山を見て完璧氏は意外そうに眉を上げた。
「そうなの? 音楽とか映画とかは?」
「別に好きなアーティストがいるわけじゃ無いですし……、映画もたまーに見に行くぐらいで趣味って訳では無いですね」
「たまにスマホゲームやってるけど、あれは?」
「あれもただの暇つぶしなんで、別にこだわりとかは無いですね……」
ふーん、と完璧氏は言って黙ってしまった。永山は申し訳ない気持ちになってちょっと下を向いた。せっかく先輩が話題を振ってくれたのに、こんなに気のない返事しか出来ないなんて。せめて趣味の一つや二つ作っておくべきだった。
「なあ」
「は、はい」永山は顔を上げた。
「俺最近競馬始めたんだけどさ、永山も趣味作りをかねて、一緒にやらないか?」
「競馬ですか……」競馬=ギャンブル、の図式が永山の頭にぽんっと浮かんだ。別に石橋を積極的に叩くタイプでは無いが、ギャンブルにはこれまで触れたことが無く若干の躊躇があった。
「まあ、そんな顔すんなよ。別に『ネズミ講やろうぜ』って訳じゃないんだ」完璧氏は永山の顔に一瞬浮かんだ不安の色に気づいて苦笑した。
「すみません。別に怪しんでるわけじゃ……」永山は慌てて弁明を試みる。
「謝んなくていいよ、確かにギャンブルだしな。でもな、俺も数ヶ月前から始めて気付いたんだけどさ、ギャンブルで食っていこうとするから駄目になるんだ。趣味として楽しむ分には問題ないと思うよ」
「……そうですかね」
その週の日曜日にさっそく完璧氏と永山は一番近い競馬場に訪れた。人でごった返しているというほどでもなかったが、思い詰めた表情で馬券を握りしめる人々が何人か座席に座ったり、うろうろと歩き回っていた。
「もうすぐだな」完璧氏が呟いた。永山の買った馬券のレースが始まるのだ。
「当たりますかね」ついさっき買ったばかりの馬券をひらひらさせながら永山は言った。
「あのなあ、永山、当たるかどうかはどっちでもいいんだよ」
「そうなんですか?」
「じゃあ、お前映画見た後に金返せって言うのか? 言わないだろ。映画を見て感動したりするのが目的なんだから。競馬も同じだよ。目的は金じゃ無くて、ドキドキワクワクだ。払戻金は……まぁ、おまけみたいなもんだよ。」
ドキドキワクワクか、と永山は思った。自分の人生の中で無かったものの筆頭とも言える出来事が、やっと訪れるのか、とも思った。
遠目に定位置につく馬たちが見える。おそらく審判であろう男が旗を振り、一瞬の静寂の後、馬たちが一気に飛び出した。芝生の上を飛ぶように駆ける馬たちを目で追ううちに、なんとも言えない高揚感が永山を覆い始めた。
永山の心拍数と比例するようにレースも白熱していき、最終コーナーを過ぎ直線に入ると、永山の馬券に乗っている馬が徐々に前に抜け出し始めた。永山の心臓が波打ち、足に力が入る。いけ、とも走れ、ともつかない言葉が永山の口から放たれた。永山の馬は他の馬たちと競り合いつつ、矢のように進んでいき、ゴールした。声にならない声を永山は上げる。一着だ。高揚感が徐々に退いてゆき、充足感が取って代わる。興奮冷めやらぬ永山の顔を見て、完璧氏はニヤッと笑った。
何が駄目だったのかと言えば、おそらくこの日の出来事がそうだったのだろう。この競馬場での休日を境に、永山は徐々に競馬にのめり込んでいった。断っておくと、永山は金目当てに競馬を続けたわけでは無い。あの日完璧氏が言った「ドキドキワクワク」を追い求めてのことだった。しかし永山は完璧氏があえて言わなかったもう一つのことに気付いていなかった。曰く、「ドキドキワクワクには金がかかる」。
積もり積もった外れ馬券が、心許ない月給と貯金を大幅に侵食し始めると永山はようやく焦り始めた。沈痛な面持ちのままいつもの昼休憩の時間に完璧氏にそのことを相談すると、彼はニッと笑って「俺の高校の時の先輩が金融の仕事してんだけど、そこタダ同然の利子で金貸してくれるんだよ。返済期間も長めに見てくれるし。紹介してやろうか?」と言った。
多少賢いものならばここで「あ、なんか怪しいな」と感づき、「金融の仕事とは金の取り立てのことなのだな」と憶測を巡らし、遠回しに断るのだろうが、悲しいかな、先に述べたとおり永山はごく普通の人間であったため、地獄に仏とばかりに喜んだ。そしてものの見事に喰い物にされた。
永山が自分はかなり回りくどいやり方でサラ金のカモにされたのだ、と気付いた頃には、既に貯金は全て借金に変わり、永山自身もすっかりギャンブル漬けの生活で、会社も辞めてしまっていた。日雇いの仕事だけでボロアパートの家賃を払いつつ、サラ金の取り立てをしのぐことは物理的に不可能であったため、永山は借金を別のサラ金から借り入れた金で返済し続けたが、当然のことながらいつまでもそんな誤魔化しが通用するはずも無く、遂に怖い顔をした若者達が大挙して取り立てに迫ってきたのだ。永山も別に無知では無いため、返済能力が無いと見なされた場合、「消耗品」としてどんな汚れ仕事を引き受けさせられるか、大方の予想はついていた。
そういった理由で永山は真冬の深夜に路地裏で座り込んでいた。あわよくば大事になる前に鉄道を使ってこの市内から逃げ出したかったのだが、さっきの若者が駅の方面に向かったのを見ると、それは無理そうだった。が、永山も無計画でボロアパートから飛び出してきたわけでは無い。数日前、なじみの競馬場でこんな会話を耳にしたのだ。
「……でな、結局あのマンション、解体することになったんだよ」
「解体って簡単に言うけどよ、確かあれって結構でかくなかったか」
「それなんだよ、7階建てだぞ。足場組むだけって言っても、かなり時間かかるだろうし、市役所の近くだから、機材を搬入するのにも道路が混んで手間がかかるしなぁ。来週から大変だよ」
ここまで話を聞いて、馬券を握りしめて次のレースを待っていた永山は、声の方へ視線をやった。別に話の内容に興味を持ったわけではない。この競馬場は、駅から徒歩二十五分の立地のせいか、はたまたここ最近の不景気のせいか、常に閑古鳥が鳴き交わしており、数少ない利用客は皆顔なじみ同士で、声を聞けば誰なのか分かる、という状態だったのだ。が、なぜかこの会話はどれだけ聞いても声の主の顔が浮かばず、新顔かな、と永山は思ったのである。
案の定、視線の先には白茶けてかなり年季の入った作業着を着た、見知らぬ初老の男が二人、書き込みのされた新聞を小脇に挟んで立ち話をしていた。永山が盗み見ているのに気付く様子もなく、顔をしかめながらマンションの解体について話し合っている。そのときはすぐに興味を失い、次のレースのことを考え始めたのだが、なぜか今夜自分の部屋を抜け出そうとしたタイミングで、作業着の男達の会話が脳裏をよぎったのだ。
男達は「来週から大変になる」と話していた。ということは今週いっぱいまでマンションは無人になるということで、潜伏先としては最適だ。潜伏した後のことを考えているわけでは無いが、重要なのは目先の安全である。
痛む足を無理矢理動かして永山は立ち上がった。マンションに向かうため、足音を忍ばせながら小走りで路地裏を抜け出ていく。冷え切った空に白い月がぽっかりと浮かんでいた。妙にうつろな月だった。
「メイツ宮島」は夜の闇の中にひっそりとたたずむ巨人のようだった。競馬場の男達が言っていたことは本当だったらしく、7階まであるマンションのどの部屋にも明かりは無く、人の気配はみじんも感じられなかった。敷地内にすんなりと入れたにもかかわらず、永山は4階の通路を歩きながらため息をついていた。住人達が立ち退いてかなり経っているのか、壁面にちらほら落書きが見受けられる。どうやら無断で敷地内に入り込んだものが以前にもいたようで、そのせいか見て回った部屋という部屋に鍵がかかっていたのだ。真冬の空気に冷やされたドアノブを何度も回しているせいで、右手の感覚が徐々になくなってきた。永山は自分の見通しの甘さを悔やみながら、しらみつぶしに入れる部屋がないかドアノブを回して確認して回っていた。
夜が過ぎて行くにつれ、空気も冷たさを増してきた。このまま野宿するのだけは避けたい。そんなことを思いながら4階の突き当たりの部屋のドアノブを回した永山の口から「おっ……」と声が漏れた。いままでとは明らかに違う感触に驚いたのだ。恐る恐るドアノブをつかみ引っ張ると、思いのほかなめらかにドアは開いた。喜びの笑みを浮かべながら永山はゆっくりと部屋に中に入っていった。
部屋の中はやはり外気に比べると暖かく、永山は安堵した。静まりかえった部屋の中に、永山の体重でかすかにきしむ床の音が響く。カーテンのない窓からは月光が差し込み、家具の無いがらんとした部屋をかすかに照らしていた。暗闇に目をこらしながら念のため室内を見て回ったが、思った通り人は誰もいなかった。ついでに暖をとれるような布がないか探し回ったが、残念ながらそっちも無かった。まあ、野宿せずに済んだだけで良しとするか、と永山は思い直してリビングの真ん中で横になって丸まった。
丸まって、飛び起きた。はっきりと他人の声が聞こえたからだ。「あなたは救済を必要としますか?」という声が。
永山は飛び起きた勢いをそのままに玄関目がけて走った。ドアノブに手をかけてドアを開けようとするが、開かない。それどころかドアノブそのものが動かないのだ。震える手で無理矢理ドアノブを握りしめ、思いっきり体重をかけても動く気配が無かった。何度も繰り返す内に、手が滑り玄関の真ん中で仰向けになって転び、永山はようやく動くのを止めた。焦りすぎて気付いていなかったが、ドアと格闘している間にも謎の声は語りかけ続けていたらしく、今も5秒に一回ぐらいの間隔で「あなたは救済を必要としますか?」と呼びかけ続けている。永山は若干パニックになりながら、転んだ拍子にしたたかに打ち付けた腰をかばいながら立ち上がった。震えながら何処からともなく響く声の正体を突き止めようと、永山は部屋の中を歩き回った。が、もとより1LDKに毛が生えた程度の大きさしかない部屋なので、捜索は一瞬で終わってしまった。
短時間の探索を終えると、永山はリビングに腰を下ろした。落ち着いたのではない。腹をくくったのだ。と言っても恐怖は消えておらず、あぐらをかいている足は小刻みに震えていたし、心臓の鳴る音もはっきり聞こえるほどだった。
「お前、誰だ?」案の定、声は情けなくうわずっていた。
「あなたを罪から解放する者です」
その声は永山の耳元で答えた。永山は怯えたネズミのように自分の左右を見回したが、のっぺりとした壁があるばかりだ。確かに声は耳元で発せられているのに、肝心の声の主はどこにもいない。その恐怖をなんとかこらえながら、永山はどうにか次の質問を絞り出した。
「さっきから『罪』って言ってるけどよ、じゃあ俺の罪は何だ?」
「あなたが罪だと捉えているもの全てです」
永山は恐怖に大部分を占拠され、うまく回らない頭で少し考えた。俺が罪だと思っていること?真っ先に借金のことが頭に浮かんだ。この得体の知れない声は「罪から解放する」と言っている。だとしたら、もしかすると、この声は借金をなかったことに出来るのではないか。
永山はこの声を神や化け物の類いだと確信した。少なくとも人間の仕業ではないだろう、と。ここは一週間後には解体作業の始まるマンションの、何十とある部屋の一つで、しかも中にいるのは何の価値もない自分だ。いたずらにしては場所や相手が不自然過ぎる。そしてこの声は人のものではない。人の言葉、息づかいを忠実に真似てはいるが、それでも隠しきれないどこか神秘的な不気味さがそこにはあった。
永山は若干やけくそになって、言い放った。
「わかった。俺をその罪とやらから解放してくれ」
声は言った。「では今一度。あなたは救済を必要としますか?」
「ああ。するよ」
永山が返事をした瞬間、リビングの中心、つまり永山の目の前に唐突に何かが出現した。暗闇の中で何かの出現に面食らいながらも、それをよく見ようと永山は身を乗り出し、両手を前についた。その右手がぬめり気のある液体のようなものに触れた。永山が眉をひそめたその時、雲が割れて月明かりが部屋の中に差し込んだ。青白い月光の中で何かが、その形を露わにする。
死体だった。しかも血まみれの。
あまりの驚愕と恐怖のおかげで悲鳴を上げられなかったのは、正に幸運だった。せっかく取り戻しかけた落ち着きなどどこへやら、腰を抜かしながら玄関へ逃亡しようと必死に足をばたつかせる永山の耳が朗々としたあの声を捉えた。
「その男を苦痛から解放するのです。そうすればあなたの罪からの解放も果たされます。」
その声に促され、永山は恐る恐るもう一度死体を見た。背格好や服装からどうやら男性のようで、うつ伏せになったその背中はわずかに上下している。唐突な出現と血まみれの姿のせいで、死んでいるものと勘違いしたようだ。が、かなり不自然だった。なにせ男の周りの血だまりの大きさが尋常ではない。永山は医学の知識など塵ほども持ち合わせていなかったが、少なくとも一人の人間から流れ出ていい血の量はとうに超えていることはわかった。
「苦痛からの解放って何をすればいいんだ。俺は包帯なんて持ってないぞ」
「違います。その男が道具を持っているでしょう。それを使いなさい」
その時始めて永山は男が右手にナイフを握っているのに気がついた。刃の部分がかなり大きく、男同様血で染まって鈍く光っていた。その鈍い輝きを見て、永山は「苦痛からの解放」の意味を理解した。
「殺せってことか」
「そうとも言えるでしょう」
普段の永山なら、「殺す」という言葉に慄き、怯え、震えながら辞退していただろう。しかし、永山の感覚はこの部屋の出来事に当てられて、おかしくなっていた。どこからともなく響く声に、突然現れる血まみれで瀕死の男。さらにこの借金苦から逃れるチャンスもあるのだ。もはや永山の頭の中の答えは一つしかなかった。
ゆっくりと立ち上がり、男のそばへ向かう。男の右手をつかみ、軽く振るとナイフは力なく床に落ちた。手に血がつくのもかまわず、血まみれのナイフをしっかりと握り込む。そのまま男の背中を見下ろし、ゆっくりとナイフを近づけていく。男の背中にナイフが当たったのを確認すると、体重を乗せて力強く突き刺した。
一瞬の間を置いて、あの声が決して大きくはないがはっきりとこういった。
「あなたの救済は完遂されました」
突然のその声に永山は驚いた。そして下を見て更に驚いた。なんと男が消えている。その周りの血だまりも消えている。慌てて永山は自分の両手を見た。血まみれのナイフを握ったのだから当然汚れているはずだが、これも何の痕跡もない。まるで夢のように一連の出来事を示すものは全て消え失せていた。
永山は呆然としながらリビングを出た。玄関へ向かい、ドアノブを回すと、まるで何もなかったかのようにドアはすんなりと開き、冷たい外気を室内に呼び込んだ。まだ少しぼんやりしながら永山は部屋を出た。いつの間にか月は西に傾き、空は白んでいた。
二日後の夜、永山は市内のとある一軒家の裏手に回っていた。何のためかといえば空き巣をするためである。家の低い生け垣から2枚の大きなガラス窓が見える。生け垣の外側から、さてどっちから入ろうかと考えつつ、永山はふとあの夜の出来事を思い出していた。
あの後マンションから出て、気を配りつつ帰り道を急ぎ、永山は自分のボロアパートの一室に帰り着いた。てっきりマンションから出たところで柄の悪い若者達にわらわらと取り囲まれ、結束バンドで動きを封じられ、怪しげなバンに担ぎ込まれると想像していただけに、永山はかなり拍子抜けした。帰る道すがら永山はあの部屋で起こった一連の不気味でグロテスクな出来事、特に「罪からの解放」というあの声のこと思い返していたが、果たしてあの声が約束を果たしたのかはっきりとせず、半信半疑なままだった。
翌朝永山はやかましくドアを叩く音で目を覚ました。体の節々の痛みに悪態をつきながら、恐る恐るドアを開けると、そこにはサングラスをかけた借金取り、ではなく大家の老婆がしかめっ面で立っていた。大家は、永山の今月分の家賃が未払いだということ、一週間以内に支払いのめどがつかなければ立ち退きも要求せざるを得ないということ、3日前にも全く同じことを言っているということを述べた後、「あんたもまだ若いんだからさ、しっかり働いて家賃ぐらい払ったらどうだい」と言った。
永山はかなり驚いた。というのもこの大家は永山が絵に描いたようなサラ金の取り立て屋に、玄関先で借金のことに関して怒鳴りつけられているのを目にしており、そのことを永山に問い詰めて、借金の返済も出来ないような者に部屋を貸すわけにはいかない、と最後通告を突きつけた張本人だったからだ。また借金のことについて小言を言うぐらいならまだしも、一度追い出そうとした男から家賃を請求しようとするだろうか。
永山は少し考えて口を開いた。
「あのー、もし俺がサラ金から金借りてるって言ったら、どうします?」
大家はしかめた顔に更にしわを寄せて目をむいた。
「あんた借金なんてしてるのかい! タダじゃおかない、出てって貰うよ!」
永山は大慌てで否定し、聞いてみただけだと弁解した。大家は一応引き下がったものの、永山がドアを閉めるまで疑いの目を向け続けていた。
大家が帰った後、永山は布団に腰を下ろして考え出した。大家のあの反応は本物だった、間違いない、あの夜の出来事とあの声がいっていたことは本当だった。俺がもう一度サラ金連中のところに顔を出したとしても、十中八九俺のことを忘れているだろう。永山はニンマリと笑って布団に寝っ転がった。借金の片がついた!
が、しばらくすると再び真顔になって起き上がった。あの部屋のことを思い出したのだ。あの部屋は俺の罪、もっと言えば悪事をなかったことにしてくれるのだろう。もしかしたら、うまくいけば、簡単に大金を稼げるんじゃないか? 例えば、空き巣とか。下手をうっても絶対に足がつかなくなる。
永山は、なぜかあの部屋で二度目の救済があることを疑っていなかった。永山の人生の中で、最も胡散臭く、怪しげで、頼りがいのない話だというのに。果たしてそれは、輝かしい人生への裏道を、発見した興奮が成せる業なのか、はたまた、夢と知っていながら、冷めないことを望む人間の悲しい性なのか。
それはともかく、善は急げとばかりに永山は立ち上がった。空き巣をする家を探しに行くのだ。久しぶりに「ドキドキワクワク」が味わえる気がする。永山は再びニンマリと笑った。
そんなわけで、永山は見知らぬ一軒家の裏に佇んでいた。この家に決めたのは全くの偶然だった。市内を物色しながら歩いていると、2、3軒向こうの家の駐車場から「僕が前の席に座るんだもん!」という男の子の声が聞こえてきたのだ。どうやら、家族旅行に車で行くらしく、どの席に座るかで兄弟喧嘩をしているようだった。結局最初に前の席に座ろうとした兄の方は母親らしき女性から「長い旅行なんだから最初ぐらい譲ってあげて」と説得されて渋々後部座席に乗り込んでいた。二階建てのなかなか大きな家で、これは当たりを見つけたな、と永山はほくそ笑んだ。
永山は周囲を一通り見渡し、誰もいないことを確認すると、目の前の生け垣を乗り越えた。なけなしの小銭をはたいてコンビニで買ったペンライトをつけ、少し考えた後、向かって右側の窓を照らした。念を入れて静かに窓に近寄り、窓の取っ手をそっと引っ張る。窓がわずかに開いたのを見て、永山は驚いた。てっきり鍵がかかっているとばかり思っていたのだ。こりゃあ運がいい、と喜びながら、永山は慎重に窓を開けて室内に入った。
入ったところはどうやらダイニングのようで、左側にキッチンが見えた。外観から想像したよりも広く、右側がリビングになっており、大きめのソファが置かれている。とりあえず二階に上がる階段を探そうと永山はリビングに足を向けた。歩いた拍子にペンライトの光がさっとソファを照らして、ソファの上の物体を映し出した。それに気がついた永山はもう一度ペンライトをソファに向けた。
永山は目をむいた。人が寝ていたのだ。
永山は思わず飛び上がった。まさか人がいるとは! 慌てながらも音を最小限に抑えて永山は部屋を飛び出した。素早く窓を閉め、庭に転がり出る。無様にも転んだが、お構いなしに生け垣を乗り越え道路にへたり込んだ。
肩で息をしながら、永山は自分の軽率さを悔いた。家族旅行だからといって、家族全員で出かけるとは限らない。そもそも窓の鍵が開いていた時点で疑うべきだったのだ。そうしてしばらくの間自分を詰り続けていた永山だったが、徐々に怒りがこみ上げてきた。なぜ俺が逃げなきゃいけない? なぜ俺が怯えなきゃいけない? 俺は今まで真面目に生きてきた。人を傷つけず全うに生きてきた。借金は確かにしたが、それははめられたからだ。今までそうやって生きてきたのに、本当に幸せで心躍る瞬間なんて一度もなかった。そんな俺が自ら幸せを求めて何が悪い。どうせソファで寝てたあいつは満ち足りた怠惰な生活を送っているのだろう。俺は不平等を正すだけだ。
俺は悪くない。
永山は力強く立ち上がった。高揚感が自分を包むのが分かる。勢いよく生け垣を跳び越え、そのままの勢いで庭を突っ切って窓を開けた。部屋に入り台所に目をやると、包丁がコンロの横に置いてあるのを見つけた。つけっぱなしになっていたペンライトを口にくわえ、包丁を手に取る。ダイニングを通り抜けリビングに向かうと、人の気配に気がついたのかソファで寝ていた人物が身じろぎして、半身を起こした。大学生ぐらいの青年で、状況がつかめていないのか目を瞬かせながら「何だ?」と言っている。それにかまわず永山は青年に突っ込み、勢いもそのままにその腹に包丁を突き立てた。青年が「ぐっ」とうめいてソファに倒れ込むと、永山は馬乗りになってナイフを引き抜き、突き刺した。引き抜いて、刺す。引き抜いて、刺す。何度か繰り返す内に青年は動かなくなった。永山は立ち上がり、血だらけになって腹に包丁が刺さっている青年の死体を見下ろした。高揚感が潮のように引き、代わりに充実感が永山を満たしていく。
永山は微笑んで「ドキドキワクワクはここにあったのか」とつぶやいた。
更に二日後、永山はボロアパートの自室でほくそ笑んでいた。コンビニで買ってきた新聞が床に開いて置かれており、一面には「同一犯か? 連続強盗殺人」の文字が躍っている。
永山はあの夜青年を殺した後、例のマンションの空き部屋へ行き、その事実をなかったことにした。あの声の指示通り、承諾し、現れた人間を苦痛から解放し、自分は罪から解放される。つくづくうまく出来ている、と帰路につきながら永山は思った。あと数日しか使えないのが本当に残念だった。
夜明け前に部屋に帰った永山は、布団に寝そべって大きなため息をついた。その手で青年を殺した感触がまだ残っている。同時に惨たらしい青年の死体を見下ろしたときの、あの充実感も思い出し、永山は再びため息をついた。
殺人、と言えば、あの部屋でも「苦痛からの解放」と称して殺したが、あの感動は湧き上がらなかった。やはり多少の抵抗がなくては駄目だ。必死で逃れようとする身体から徐々に力が抜けていく瞬間が最高なのだ。
もはや誰にも自分は止められないと永山は気付いていた。当然のようにその日の夜も家に押し入り、女を殺した。少々乱暴だったせいか、かなり苦しんではいたが、それでも永山はあの高揚感と充実感を再び手にした。今度は抜かりなく金品を手に入れ、その後再び例のマンションへ向かい、苦痛からの解放を施し、罪からの解放を得た。
そして今夜も永山は狩りへ繰り出そうとしていた。狙いはもう決まっている。向かい側のアパートに住む一家だ。といっても両親は出張やら単身赴任やらでいないらしく、姉妹が二人で生活しているようだ。永山はそのことを彼女たちが下校途中で友達に自慢げに話しているのを盗み聞いて把握していた。彼女たちが死ねば、両親は葬式を挙げるだろう。焼香でもあげに行ってやろうかな、などと永山は考えていた。
そろそろ出発するか、と永山は新聞から目を上げ、立ち上がった。中学生二人など造作なく殺せると永山は踏んでいたが、問題は侵入方法だった。部屋はアパートの一階なので窓から入るのが最も現実的だが、鍵がかけられている場合、ガラスを割らなくてはならない。おそらく気がつかれるだろう、さあどうやって殺そうかと永山は小さく笑った。
次の瞬間、視界が暗転した。
永山は四肢の激痛とともに目を開けた。耐えがたい痛みが永山を襲う。あまりの痛みに永山はしばらくの間、自分がうつ伏せの状態になっていること、目を開けても周りが見えないほど暗いこと、そして声を出すことも体を動かすことも出来ないことに気付かなかった。激痛に思考の大部分を乗っ取られながらも、徐々に暗闇に慣れてきた目で辺りを見渡す。首が動かないおかげでかなり苦労しながらも、どうやらここは屋内で、そしてなぜか見覚えがあることが判明した。
突然、永山の目の前で誰かが立ち上がった。おそらく元からそこに座っていたのだろうが、ちょうど永山の死角にいたようで気付かなかったのだ。何やら喋っているようだが、かなり慌てているらしく永山には殆ど聞き取れない。しかし、それに答える声ははっきりと聞こえた。その声はこういった。
「その男を苦痛から解放するのです。そうすればあなたの罪からの解放も果たされます。」
永山は驚愕した。急いで辺りをもう一度見直すと既視感の正体が判明した。あの部屋だ。永山が三度も自らの罪を無かったことにするために訪れたあの部屋だ。愕然とする永山の耳にこんな会話が飛び込んできた。
「……じゃあつまり、この死に損ないを殺れば、俺の悪事が帳消しになるってことでいいんだな?」
「その通りです」
ふざけるな、と永山は叫ぼうとした。が、声が出ない。激痛に狂いそうになりながら、必死に動こうとするがそれがかなうことは無かった。
見知らぬ人影が永山に覆い被さる様な体勢を取った。短く「すまねえ」とだけつぶやき、躊躇いなくその手に握られたコンバットナイフを永山の背に突き立てた。
死にゆく瞬間、永山はあの声が次に何を言うか思い出していた。そして、全てを理解した。
永山の心臓がその動きを止めたと同時に、あの声が決して大きくは無いがはっきりとこう言った。
「あなたの救済は完遂されました」
あなたの全てを救う部屋/ 中野弘樹 作