ドリー/ 雪六華 作
警察当局は本日、フロリダ州にてドロシー・ウォーノス(二十八)を殺人の容疑で逮捕した。
ウォーノス容疑者は同州に住むピーター・ウィリアムズ(九)を殺害した疑いが持たれている。
彼女は調べに対し、黙秘を続けている。
警察は彼女が他にも同州やジョージア州で起こった七件の児童殺害に関与していると見て、捜査を進める予定。
(N新聞・一九七〇年五月八日付の記事より引用)
夜が来るのが怖い。
理由はいろいろある。ママが仕事から帰ってくるとか、そのせいでパパとケンカを始めるとか。
ただ、一番の理由は違う。ママが泣いてパパに縋り付き、その顔が殴られる鈍い音が一通り響いた後の話になる。
その時は大抵夜も遅くなっているから、私はほぼ必ずベッドの上でタオルケットに|
包まっている。大抵は昼間の家事やお使いに疲れ、うとうとと襲う眠気に逆らわず瞼を閉じている。しかし、その少しの安らぎの時間を毎晩必ずと言っていい程に邪魔をする音が、背後に響くのだ。
それは自室の古びたドアをノックする音。
ドンドンと大きく鈍い音は女性の発するそれではない。我が家で唯一の男性の、つまりはパパのものだ。
それを無視してぎゅっと瞼に力を入れていると、キィと鳴る軋みがパパの入室を告げる。ノック音と同じくやや乱暴な足音はすぐにベッドサイドまで近づき、明かりのない部屋に溶けた人影が私に覆い被さるのが、閉じた瞳越しにも分かる。
「ドリー」
耳元へ、私にしか聞こえない声が落ちる。しばらく何も返ってこないと、肩まで掛かっているタオルケットがそっと剥がされる。
私は何も言わない。身じろぎもしない。このことに限らず、何がパパの機嫌を損ねるか分からなくて、極力コミュニケーションを避けているからだ。
そんな決意など素知らぬ素振りで、私のそれより何倍も大きい手が蛇のように忍び寄ってくる。
アルコールの臭う吐息と共に、首元を指先が撫でる。
くすぐったくなるくらいの力加減なのに、感じるのはこそばゆさより寒気の方が強い。私が少しも動かないのを良いことに、大きな手はどんどん身体へ忍び込んでくる。長い間使ってボロボロのパジャマは、パパの体温から私を守る盾にはなってくれない。首を、肩を、脇腹を、手のひらで撫でられる。そうされると、自分から見ても痩せている身体は、骨を直接触られているみたいに気持ち悪い。それに、背中には一昨日パパに殴られた時の痣があるし、胸は先週パパに突き飛ばされてから、触るとなんだか痛い。そこかしこの痛みを気持ち悪さと一緒に耐える。
「イイコだ、ドリー……」
夜のパパは何だか、昼間に比べて息の音がうるさい。それに、いつも怒鳴っている時とは違って、まるで聞かれちゃいけないみたいに、小さな声で話す。
もちろん私の身体にはいろんなパーツがあるけど、一番触られるのは胸。たまに外に行くと、上半身が裸の人なんていないし、テレビを見ても女の人はどれだけセクシーな格好をしていても、胸だけは隠している。だから、あまり人に見せちゃ行けない場所だっていうのは何となく分かっている。前に聞いたことはあるけど、パパはパパだから良いんだよって答えて、触ったり舐めたりをやめてくれなかった。
時々先っぽを噛まれたりもするから、痛くて、気持ち悪くて、思わず声が出る。自分の身を守るつもりの眠ったふりは、とっくに破られた。
触られるのは上だけじゃなくて、下も。
下、と言っても脚の方はあんまり触られない。お腹の下、太ももの間、ここはなんて言ったらいいんだろう。パパの手は大きくてゴツゴツしているから、ここは触られると胸の時より痛い。でも、嫌って言うとパパが怒るから、ちゃんと静かにしている。また叩かれるよりは怖くない、って自分に言い聞かせて、あまり動かないように。
「ドリー、気持ちいい?」
この時、私に許されてる答えはイエスだけだ。機械のように返すけれど、この『気持ちいい』がどういう意味かはよく分かってない。だって私の肌を擦るこの手は、どう頑張っても気持ち悪いばかりだ。
自由に動き回る指を許していると、いつしかそれは入ってくる。どこに、というのはこれまた分からない。でもお尻の穴とはちょっと違うらしい。どこかよく分からない場所に指を入れられるのは、身体がそこから引き裂かれるみたいで、何度同じことをされても怖い。思わずその恐怖を口に出しても、
「うるさい、黙れ」
さっきの優しい声とは打って変わって、その響きだけで頭を殴られたように痛い、低い声で私の口を塞ぐ。やっぱり私には、お人形さんになるしか許された道がないことを、改めて知らされる。
痛い。痛い。どっちかと言えば脚に近い方を触られているはずなのに、強く押されているように感じるのはおへその辺り。一体、私の身体ってどうなってるんだろう。
しばらく待っていると、太ももの辺りに熱く、硬い感触が触れる。それはいつの間にか脱げているパパのズボンとパンツの下から出てくるもので、私とママにはなくて、パパにはあるもの。たまに口に咥えさせられることもあるけど、今日はしなくても良さそうだ。あれは顎が痛くなるし、喉まで入ってきて吐きそうになるから、できることならしたくない。
指は抜かれ、断りもなく硬いそれは入ってくる。こっちは、爪を立てられるよりは全然痛くないし、ただ終わるのを待つだけだ。でも、圧迫感は逆に強まっている。お腹の中の造りはよく分からないけど、こんなことをして大丈夫なのか、いつも不安になる。終わった後、よくパンツに血がついているし、本当はとても身体に悪いことをされているんじゃないかって。それすらも、パパに言ったら不機嫌になるだろうから、私だけの秘密になってしまっている。
パパにはもちろん、ママにも。パパには『絶対にママには言うんじゃない』と言われてるし、そうじゃなくても仕事とパパの暴力で疲れているママには、何も伝える気にはなれなかった。それに、私が殴られていても、かばってくれたことはなかったし。
私は黙って天井を見つめている。パパは私のお腹にそれを打ち付けて、ますます息を荒げてる。
「ドリー、こっち」
少し傾いていた顔をパパの方向に向かされると、パパと私の唇が強く触れる。いつだって同じ、ウイスキーの匂いだ。
唇同士が離れると、見えるのは天井じゃなくてパパの顔。
薄暗い部屋の中で、ヘーゼル色の瞳が音もなく浮かんでいた。
パパは私を愛しているから、こんなことをすると言うの。
でも、どうしてこんなにも……。泥を飲み込んだような、恐ろしいくらいの気持ち悪さが喉の奥から出て行かないのはどうして?
ドロシー?
ああ、ドリーのことね。もちろん知ってるわ。五年くらい前にうちの家政婦をしていたの。
新聞に出していた求人を見たって言って、急に電話がかかってきてね。何でも前にいた家をクビになって、生活に困っているから雇って欲しいって。うちもその時、働いてもらっていた家政婦が家の都合で辞めてしまったところだから、二つ返事で来てもらったわ。
何か問題のある人だったらどうしようって後から主人と不安になっていたんだけど、結果としては大正解だったわ。料理は上手だし、洗濯も掃除も手際が良いし。貴方は本当に家事が上手ねって褒めたら、母がしっかり躾けてくれたんですって嬉しそうに言ってたの。
娘とも仲良くしてくださってね。確か五歳くらいの頃だったのだけど、うちの子はとにかく人見知りで。前の家政婦も優しい方だったけど、話したがらなくて。ドリーが初めて働きに来る日まで、娘とうまくやってくれるかってことも心配だったの。
それで、最初は案の定上手に話せなかったの。それどころか、初日は娘が自分の部屋から出てこない始末で。私の方がいたたまれなくなっちゃって、ドリーに謝ったのよ。そうしたらね……。
「大丈夫ですよ。私も幼い頃人見知りだったので、お嬢様の気持ちはよく分かります」
って言ってくれたの。娘も家政婦に子守を頼む程の年ではないけど、やっぱり家の仕事をしてもらう以上、子どもに優しくしていただけそうな方なら安心してお任せできるじゃない?
その後も、ドリーは娘に優しく接してくれたわ。娘の方も根気強く話しかけてくれる彼女に少しずつ心を開いたみたいで、ドリーの仕事が一段落した合間に一緒に遊んでいたこともあったの。
二年くらい働いてくれていたんだけど、最後は彼女の方から、家の都合で地元に帰らなきゃいけなくなったとかでお別れしたわ。確か、親御さんが身体を壊されたとかだったかしら。
ただ、それが結構唐突でね。電話がかかってきて、早急に帰らなきゃいけないから、もう明日から来られないって話だったの。彼女自身もすごく謝ってくれたからそれ自体は構わなかったんだけど、次の家政婦を探す時間がなかったから困ったのよ。あと、娘もその頃にはドリーに懐いていたから、「もうドリーは来ないの?」なんて泣くのをなだめるのも大変だったわ。
ええ、そうね。本当によく働いてくれた気立ての良い娘だったから、ご縁があればまたうちで働いて欲しいわ。
でも、本当に突然辞めてしまったから。その帰ったって言う地元がどこかも分からないの。今頃、どこでどうしているのかしら……。
今日も疲れた。
仕事で家事をこなしている分、家に帰ってからは何もする気が起きない。洗濯物は山積み、食事は閉店間際で安く売られていたパン。部屋の隅に置かれたタンスには、薄くない埃が積もっている。
やはり生活のためとはいえ、一日中家政婦の仕事をするのは辛い。でも、前に二軒のお屋敷を掛け持ちしていた時よりはマシだ。
それに……。実家にいた時に比べたら、今の生活は天国だった。酒に溺れた父と、もたらされる暴力に呑まれていた母。ある程度大きくなってから、私の育った家庭環境は、子どもを育てるなんてできないくらい破綻しきっていることを悟った。自分にも平等に降り注がれた暴力の数々は、今思い出しても凍えるような恐怖に身が震える。家計の殆どがウイスキーに消えたせいで痩せた幼子が、よく成人男性の殴る蹴るに耐えたものだ。
それ以上に私を苦しめるのは、かつて父から受けた別の暴力である。
下着の中を這い回る汚らしい手はもういないはずなのに、あの寒気がするくらいの気持ち悪さは、ツタのように未だ絡みついては離れない。暴力の痛みよりも、空腹よりも、何も助けてくれない母の諦めた瞳よりも。何よりもあの手が一番怖かった。
そんな狂った家から逃げようと決めたのは、たった数年前のことだった。父がアルコールに微睡み、母が父の酒代を稼ぐために働きに出ていた隙を狙って、僅かな服と金だけ持って家を飛び出した。
勢いで実行したはいいものの、学もつてもない小娘が独り身で食っていこうなど、土台無理な話だった。かといって、母のように男相手へ身を売るのも絶対に避けたかった。あの家庭環境から逃げ出したいのに、母と一緒の職業に身を落とすなんて、同じ穴のムジナに他ならないからだ。
結局、最初は住み込みの家政婦に落ち着いた。元々独学ながら母の代わりに家事をやっていたことや、一緒に働く先輩の家政婦が何人かいたおかげで、横目で手際を盗み見てどうにか働きぶりを誤魔化すことができた。
その後も転職を繰り返し、一人暮らしできるだけの賃金は稼げるようになった。どの勤め先も家政婦を雇うような家だから、皆お金持ちで精神的に余裕があるような人ばかりだ。
今働いている家もそうだ。ご夫婦二人に息子さんが一人。旦那様も奥様も家事は私に一任して、二人で商売をされているらしい。息子さんは学校の他に家庭教師もつけられている程の手のかけられっぷりだ。
旦那様と奥様とは殆ど顔を合わせることはないが、息子のオリーとは結構な時間を過ごしている。まだ六歳なのに、教育の賜物なのか礼儀の正しい子で、とても可愛らしい。特に私の料理を好いてくれていて、キッチンで食材を目の前にして思案している時に、今日もあのマッケンチーズが食べたいだとか、サラダにトマトは入れないでくれだとか、横でたどたどしく強請
られるのが恒例となっている。この年頃の子にはよくあることだが、如何せん好き嫌いが多いのだ。大人の立場として厳しくしなければと思いつつも、私もつい、夕飯前にこっそりおかずをあげてしまったりする。
私が甘いせいか、オリーの方も心なしか懐いてくれている気がする。この前、数日の休みを貰った時のことだ。その理由というのが、奥様の親戚の方に用事があるとかで、しばらく家を空けるからというものだった。その期間が経ってからまたいつも通り出勤してみると、リビングの立派なソファの陰に隠れて私を見るつぶらな瞳があった。もちろん、オリーだ。
いつもならニコニコと話しかけてきてくれるし、逆に遊びか何かに夢中になって気づいてくれないということもある。しかし、この時のようにどっち付かずな態度を取られることはなかった。
不思議に思って奥様に聞いてみると、細い眉を僅かに困らせてこう教えてくれた。
「あの子、貴方に会えなかったから臍を曲げてるみたいなの。ママの用事でドリーに休んでもらってるの、って伝えたんだけど、なかなか納得してくれなくてね……」
人の良い彼女は、自分の子どもが家政婦の手を煩わせやしないかと心配している様子だった。しかし、私の胸に湧き上がったのは、手の中の小鳥を掻き撫でるような淡い慈しみだった。あくまでも私に任されているのは家事で、オリーの面倒を見るのは家庭教師や仕事の合間に来る奥様など、彼の相手をする人がいない時くらいだ。それでも、オリーは懐いてくれているという、シンプルで純然たる事実は私を喜ばせるには十分であった。
その後、ご機嫌斜めの彼の子守は少しばかり骨を折ったけれど。
一日中他人のすべき家事をこなして、自宅の片付けすらままならない。独り身の女の給料では一人暮らしが精一杯で、贅沢や恋愛なんて夢のまた夢。
でも、いいの。誰にも殴られず、安心してベッドに身を預けることができて、一日のささやかな楽しみさえあって。
降り注ぐ暴力になす術なく、泣いていたあの頃の私が見たら、きっと幼い女の子がプリンセスのドレスを目の前にした時のように、目を輝かせていただろう。
『恐怖の〈坊や殺しの家政婦〉、手口はいかに?』
巷を騒がせている『ドロシー・ウォーノス』。現在殺人の容疑で警察に身柄を拘束されている。
彼女にかけられている容疑は複数ある。ただし、その内容は殆ど同じだ。ウォーノスは家政婦をしており、その勤め先の子どもを殺したというものである。現時点で分かっている事件だけであるが、その子どもたちは十歳にも満たない幼子ばかりで、しかも全員男の子であったと言うのだ。
何故、彼女はこんな奇妙な殺人事件を起こしたのか?
動機については、依然分かっていない。警察の発表によると、彼女は事件の一切について黙秘権を行使しているとのこと。従って彼女が起こした事件の時期や総数も不明だ。
しかし、警察の捜査によって事件の手口については徐々に判明してきた。彼女は家政婦として雇われていたので、当然その家庭の料理も担当していた。そこで被害者となった子どもの料理にだけ殺鼠剤を混入させ、死に至らしめていたと推察されている。
しかし、この殺人の手口にも不可解な点がある。
彼女はすぐに被害者を殺すことはなかったということだ。ウォーノスがその家庭に雇われると、被害者の子どもはまず腹痛を起こしたり、嘔吐したりと消化器系の症状を呈したと言う。これはヒ素中毒の急性期症状であり、彼女が致死量にはならない程度のヒ素系殺鼠剤を混ぜ込んでいたことを意味する。
しばらく嘔吐と腹痛に苦しんだ子どもは、数日から数週間の期間を経た後亡くなったと言う。中には三ヶ月間症状に苦しんで亡くなった例もあるそうだ。つまり、ウォーノスはある程度の期間毒を盛った後に殺しているということだ。彼女が最初から子殺しを計画していたのであれば、最初の一回で多量の殺鼠剤を盛り込めば良いだけの話である。何故彼女はそうしなかったのだろうか?
また、犠牲となった子どもたちはウォーノスに懐いており、彼女自身も幼い子の世話が好きだと雇い主である親に話していたそうだ。また、子どもが女の子だけの家庭や、ある程度育った子どもばかりの家庭では、家事だけではなく子どもの面倒もよく見てくれる気の良い家政婦だと評判が良かったそうだ。
子守の得意な優しい家政婦が、一体どうして残虐な事件に手を染めたのだろうか? 警察はこの連続殺人事件について、引き続き捜査を行っていく予定だと発表している。
(A新聞・一九七〇年五月十九日付の記事より引用)
なんてことだ。恐ろしい。
私が目を離さなければあんなことは起こらなかったのだろうか? いや、いずれは知ることになったのかもしれない。どちらにせよ、知りたくもない事実を知ってしまったことは確かだ。
今日の夕方、旦那様と奥様が帰ってくる少し前のこと(この時間は大抵、取り込んだ山積みの洗濯物を片付けるのに四苦八苦している)、北に位置する一室からガチャン、というただ事ではない重い音が響いた。
慌てて音のする方へ駆け込んでいったところ、私を襲ったのは強いアルコールの匂いだった。何故か開け放たれた戸棚の側には、高価そうなウイスキーの瓶が割れていた。そこは旦那様が取引先から貰ったとか言う、素人目にも分かるような高級な酒瓶がいくつか並べられていた。
そして、まき散らされたウイスキーの中央には、オリーがへたり込んでいたのだった。顔を真っ赤にして息を荒くしており、どう見ても中身を飲んでしまっていたのは明らかだった。慌ててオリーを抱き上げ、近くの部屋のベッドに寝かせておいたものの、彼は顔を赤らめてうとうとと眠ろうとするので、どうにもできず焦るばかりだった。
運良く奥様たちがすぐに帰ってきてくれたので、医者を呼んでもらった。恐らく飲んでしまったのは数口程度で、身体が小さいから酔いの回りが早かったのだろうと。一晩様子を見ても治らないようなら来てくださいとだけ言い残され、医者は屋敷を去った。
オリーは煌びやかに並ぶ瓶に、前から興味を持つ素振りを見せていたようなのだ。父親が棚に触らないよう厳しく言いつけていたことも、逆に好奇心をそそってしまったらしい。それで、屋敷に人が少ない時を狙って忍び込んだようだ。いざ近づいてみて、ウイスキーの甘苦い香りが、子どもには誘惑に近しいものがあったのだろう。つい、一口二口と飲んでしまううちに酔ってしまったのではないか……という見立てだ。
旦那様も奥様もオリーのいたずらをみすみす許してしまった私を、優しく慰めさえしてくれた。子どもが触っていけないものに鍵をかけなかった私たちが悪い、どうか気に病まないでくれ、と。一歩間違えれば大きな事故に繋がったかもしれないいたずらに、私の方も必死で謝った。ただ、ここでクビにされたら明日からの収入がなくなる、という下心が少しあったことは秘密だ。
ただ、私が恐ろしく思ったのはこの事件自体ではない。
部屋の扉を開けた時に目に入った、オリーだ。
割れた瓶の欠片を手に、赤らんだ幼顔。きついアルコール臭が漂う部屋は高級そうな家具が並んでいたにもかかわらず、荒れた家を思い出させた。私の心の奥で影を|
蠢かせる地獄を。
あの瞬間、綺麗な屋敷はゴミに溢れた実家に、可愛らしいオリーは憎い父親に様変わりしてしまった。なんとか蓋をしていた、父親がダイニングのテーブルで酒瓶を並べ、くだを巻いては怒る姿が脳裏に大写しになっては離れない。よくオリーを抱き上げることができたものだ。痛みや悪寒がフラッシュバックして、背中を抱く指先さえ震えていたのに。
怖い。あの子が怖い。何が怖いって、あんなあどけない子どもでさえ酒には酔ってしまうという事実だ。
頭の中で一つの妄想が駆け巡る。それはオリーの将来だ。大きく育ったオリーは、大きな酒瓶片手にテーブルから離れない。身なりは構わなくなり、働きにも出ない。ガラス瓶に直接口をつけては浴びるように酒を飲み、旦那様や奥様、挙げ句の果てには私にも拳を振り上げるのだ。
もちろん、人がウイスキーを飲んだら皆暴力を振るう訳でないことはきちんと理解している。理性は分かっているのに、私に染みつくトラウマの数々が、ありもしない脅威に対して警鐘を鳴らすのを止めてくれない。
あの子もいつか、父のように……。いや、そんなことはあり得ない。だってあんなにお金と愛情をかけて育てられているのに。でも、アルコールに溺れると断言できないけど、溺れないとも断言できない。
あれほど裕福で優しい家庭でも、私と同じ境遇に墜ちることがあるのだろうか? 万が一そうなったとしても、私はとっとと辞めてしまえばいい話だ。私にはまったく関係がない。心配する必要もない。分かっている、分かっているのに!
なんて恐ろしいのだろう。私はどうすれば良い? この恐ろしい未来予知からのがれるためには? あの地獄を、悲劇を繰り返さないためには? あの幸せな家庭がアルコールに呑まれないようにするためには?
私がこの恐ろしい迷妄から解放されるために、何ができる?
〈アレックス・ギーズ〉
九歳 男 ジョージア州在住
死因:胃腸炎による脱水
死亡前の主訴:発熱、腹痛、下痢
症状は二ヶ月程続いた。医者が往診を行い、頓服として下痢止めや解熱剤を処方していた。
〈ダスティン・ヘインズ〉
八歳 男 ジョージア州在住
死因: 胃腸炎(重症)
死亡前の主訴:発熱・悪心・嘔吐
医師の往診・治療を行っていたが、悪心の出現がひどく、水分や食事の摂取が進まなかった。そのまま改善には至らず死亡した。
〈ハロルド・スミス〉
七歳 男 ジョージア州在住
死因:胃腸炎による脱水・栄養失調
死亡前の主訴:嘔吐・下痢・それらに伴う痩せ
消化器症状とそれに付随した食欲不振の症状が顕著に出現していた。死亡する数日前からは、殆ど水のように薄く作られたチキンスープですら、摂取を拒否していた様子。
〈ヒュー・アドキンズ〉
十歳 男 フロリダ州在住
死因:感染症による多臓器不全
死亡前の主訴:発熱・嘔吐・下痢・不整脈
最初の発熱から一週間ほどで亡くなった。症状は急激に進み、呼吸不全など臓器不全から来たと思われる諸症状も出現していた。
〈ジャック・パターソン〉
七歳 男 ジョージア州在住
死因:循環器不全
死亡前の主訴:嘔吐・腹痛
ショック症状と思われる血圧低下や呼吸困難が出現し、死亡に繋がった。嘔吐による脱水が原因ではないかと推測される。
〈オリバー・シリル〉
六歳 男 ジョージア州
死因:重度の急性胃腸炎
死亡前の主訴:嘔吐・痙攣・意識障害
幼年だったためか症状の進みが早く、治療の効果を待たずして悪化、死亡した事例。
〈ピーター・ウィリアムズ〉
七歳 男 フロリダ州
死因:循環血液量減少性ショック
死亡前の主訴:嘔吐・下痢・頻脈・虚脱
当初は胃腸炎と診断されていたものの、諸々のショック症状の出現が強く、親族による再診の訴えがあった。しかし、症状の進みが早かったことも相まって、医師の診察の前に亡くなった。
〈ロナルド・カニング〉
九歳 男 フロリダ州在住
死因:ウイルス性胃腸炎
死亡前の主訴:発熱・嘔吐・下痢
患児の周辺で嘔吐等の症状を伴うウイルス性の風邪が流行しており、感染のち重症化に至ったと考えられる。
使い込まれた銅鍋の中には、色の濃いビーフシチューが温かく匂っている。バターにトマト、赤ワイン、ローリエ。甘酸っぱく、それでいてバゲットを欲しくさせる濃厚な匂い。
実は、ビーフシチューというものを食べたことがない。この料理を知ったのは、家政婦という仕事を始めてからだった。
考えてみれば当然だが、家事を人に頼めるような家庭は経済的に余裕がある。牛のスネ肉を買うのだって苦労するような家は多いだろう。なのに彼らは、人へ余分にお金を渡して買いに行かせることすらできるのだ。だからだろうか。私が雇われた家の食卓に、ビーフシチューが上がることは多かった。レシピも、最初勤めた家で教えてもらったものだ。
長い長い煮込み時間を終え、コンロのつまみを回して火を止める。甘いトマトの匂いが満ちたキッチンの中で、家族三人分の器を棚から出す。料理の内容は違えど、殆ど毎日行っている仕事で、慣れたものだ。ただ、今日は一つだけ違う『作業』がある。
器の中で、一個だけ小さいものがある。もちろん身体の小さなオリー専用のものだ。電球の明かりに鈍く照らされた陶器の底へ、|それ《・・》をそっと入れる。
ワンピースのポケットに忍ばせていたそれ──。昼間買い物へ出かけた時に、人参や玉葱と共に購入したものだ。
いつもはあまり用はないのだが、今日は帰りに薬局へ立ち寄った。薬局と言っても、最近は便利になったもので、化粧品や生活用品も取り扱っているような大きな店だ。その多様なラインナップの中に、殺鼠剤がある。
小汚いネズミに苦しめられる家庭は多い。だから『頭を悩ませる雇い主に頼まれ、殺鼠剤を買いに来た家政婦』なんて山ほどいる。町の薬局の片隅で、ありふれたホームへルパーに成りすますなど至極簡単だ。
パウダータイプの殺鼠剤は、見るからに毒々しいショッキングピンクを目に刺してくる。しかし、二時間煮詰めたルーを被せて少し混ぜれば、ピンク色の存在感もあっという間に飲み込まれてしまう。少し足りないかな、と思い直して更に一振り。またルーを少し。
冷静に考えているようで、正直な手は制止するかのように震えている。
私はとんでもないことをしようとしているのではないか。いや、ないかなどという不安では済まされない。これはとんでもない犯罪で、非難されるべき外道の行いだ。微かに残った、冷静な脳の領域がよく分かっている。
あの日、オリーが間違えてウイスキーを飲んでしまったあの日。あれから私を襲ったくだらない妄想は、私を離してはくれなかった。
もちろん、旦那様と奥様はオリーをひどく叱ったし、見ているこちらが可哀想に思うくらい泣いて『ごめんなさい』をたどたどしく繰り返していた。当然、オリーはウイスキーに手をつけるどころか、例の部屋に近づくことすらしなくなった。
それでも、だ。柔らかく毛足の長い絨毯に座り込む、赤ら顔の幼子は、私をひどく動揺させる悪魔にも等しかった。妻を殴っては平気で男に身を売らせ、実の娘の身体を構わず蹂躙したあの鬼畜を思わせる、悪魔に。
そしてそのくだらない妄想は、悪魔を祓えと囁き続けた。私は数日間悩まされた挙げ句、その囁きに乗ろうとしている。何故だろうか。オリーを父に見立てて、復讐を図ろうとでも言うのか。それとも、お金にも愛情にも恵まれたこの家庭を、私と同じようにアルコールで壊されて欲しくないという自分勝手な正義感なのだろうか。
何も分からない。何故、私はこの妄言に従ってしまったのか。どうすれば私は、今のうちに引き返せるのだろうか。
ただ一つ分かることは、私がこのまま優しい家政婦の顔をしてこのビーフシチューを出せば、この胸を裂くような恐れは去ってくれるだろうということだ。
見るからに柔らかく煮溶けた人参、ジャガイモ、玉葱、牛肉。零さないよう慎重に盛り付けた後、あらかじめ用意しておいたパセリを少し振りかけた。
この天国への片道切符が、少しでも美味しく見えるように。
ああ、君もか?
どういう意味かって? 分かってるだろう。あの女が捕まってから、モラルのない記者がひっきりなしに来るんだよ。あいつら、取材とか言って、患者のふりして来たり、風邪で弱った子どもを突き飛ばしたり散々だ。口では正義がナントカって言いながら、やっていることは犯罪者と一緒じゃないか。さあ、さっさと帰った。あんたらのせいで、こっちは商売あがったりなんだよ。
しつこいな。聞きたいことはどこも一緒だろ?
どうして貴方は、ヒ素中毒の患者を胃腸炎と診断して放置していたんですか? ……ほらね。そんなの、その辺の新聞を二、三紙読めば載ってるよ。まったく、他社の後追いなんかして恥ずかしくないのか?
もう勘弁してくれよ。まさか、家政婦が子どもに毒を盛るようなイカレ女だとは思わないだろう? 独身だって聞いたし、どうせ幸せそうな親子が羨ましかったとか、そんな理由なんだろうな。本当にいい迷惑だ。
で? 他に聞きたいことは? ……それも答えたよ。遺族の方には誠心誠意謝罪させていただいたし、これからも償っていくつもりだ。裁判でも証言する予定だし。
もう、早く帰ってくれよ。まだ診療時間内なんだ。
最悪だよ。ただでさえ、あの事件が分かってからうちの診療所の評判はガタ落ちだって言うのに。
うちの近所で、どうしてそんなことをしてくれたんだよ。あの患者、確かまだ九歳だろ? まだ可愛い盛りなのに殺そうなんて、あいつの方を病院にブチ込んで、頭を調べてもらうべきだな。
それもこれも、あの母親が『やっぱりうちの子が病死とは思えない』なんて言い出したせいだ。
あの時見抜ければ一番なのは分かっているけど、どうして事件性があるって分かったのが、よりにもよって俺の診た患者だったんだよ……。
今の勤め先の近所には、似たような薬局がいくつか点在している。どうもこの辺りに多くいる主婦や家政婦の客を取り合って、安売り合戦を繰り広げているようだ。
私にとって、小売店の激戦区であるこの町は大変好都合だった。
今日もメモを片手に買い物へ出かける。内容はもちろん、奥様から頼まれたものばかりだ。その中にはスーパーでは買えないものもある。今日の場合だと、解熱剤と下痢止めがそうだ。
雇い主からの任務を遂行する従順な家政婦を演じるべく、勤め先からは歩いて十分程の薬局へ向かう。今日は隣町の大きな同業店がセールをやっているので、向かった先の店は普段と比べてやや閑散としていた。店員は気だるげに品出しをする小太りの女性と、レジであくびをする無精ひげの男性だけだ。店側も今日は勝機なしと踏んでいるのか、何となくやる気のなさが感じられる。
そんな雰囲気も私にとっては都合が良かった。思わず口角が上がりそうになるのを俯いて誤魔化す。早足でまず向かったのは、もちろん薬が並ぶコーナー。指定の品を手に取った後は、私のお目当てを迎えに行く。
最近ネズミが原因の感染病が流行りだしたようで、殺鼠剤の種類はいつになく充実している。ネズミが食いつきそうな餌タイプに、どこにでも配置しやすそうなパウダータイプ。最近は見かけたらすぐに殺せるスプレーという形のものも売られ始めている。
私がそれらの中から選ぶ基準はもちろん、ネズミではなく人間に食べさせやすそうか否かだ。
私に取り憑くくだらない妄想は、オリーが胃腸炎をこじらせて亡くなった後も、私の心の中に図々しく居座っていた。と言っても、人を殺せなどと一日中妄言を吐き続けるようなことはない。
小さい子どもを亡くして泣き暮らす夫婦の元で平然と働く度胸のなかった私は、適当な理由をつけてすぐに彼らの元を去った。ただ、独り身の女に遠くへ引っ越すような手持ちはなく、行くには車が必要か、という程度の距離しか離れられなかった。それでも、人の行動範囲とか交友関係というものは案外狭く、引っ越した先で私や可哀想なオリーのことを知る人は誰もいなくなった。
住所を変えても仕事は変えられず、結局また家政婦を始めた。新しい勤め先の家族構成は夫婦二人と、八歳の男の子が一人。
それが私にとって幸運だったのか、はたまた不幸だったのかは分からない。しかしこの偶然が、生活のためという至極単純な働く目的を大きく変えてしまったのは事実だ。
オリーを葬ったことで眠りについたと思った迷妄は、いとも簡単に目を覚ました。前と同じように酒を誤飲するようなことはなかったのだが、背丈の小さな男の子と言うだけで、一度産まれた獣は見て見ぬふりができないようであった。そして、私に再び殺鼠剤を手にさせるまで時間はかからなかった。
一つ誤算だったのは、シチューに仕込んだ殺鼠剤の量が、八歳の身体には少なかったことだ。男の子はやはり成長が早い。もちろん個人差もあるだろうが、オリーの時と同じ量では効き目が弱かったらしい。
その子はダスティーと呼ばれていた。効き目は弱いと言っても、彼はひどい熱と嘔吐に苦しめられることとなった。
奥様が呼んだ医師はろくに彼の身体を触ることもなく、胃腸炎でしょうと断言した(とんだヤブ医者だ)。出された薬は当然ダスティーの症状を治すには至らず、奥様と仕事帰りの旦那様、そして私の三人で代わる代わる看病を行った。
ダスティーは元気という言葉をそのまま子どもにしたような子で、今まで風邪一つ引いたことはなかったそうだ。その分、突然襲った原因不明の胃腸炎は、彼や家族を大いに不安がらせた。
医者が帰った日の夜、私は彼のために温かいチキンスープを作ってやった。ただ、初めて犯した失敗に怯え、キャベツを切る手はひどく汗をかいていたけれど。
子ども部屋まで持って行くと、氷枕を使っているにも関わらず、ダスティーは息を荒げて寝汗に塗れていた。その眠りすらも熱に邪魔をされて浅くなっていたようで、人影一つで簡単に目を覚ましてしまったが。
チキンスープを食べさせようとするも、いつもは食欲旺盛なダスティーはまったく口をつけようとしなかった。その代わりに乾いた唇を開き、上目遣いで私にこう問うたのだ。
「ねえ、ドリー。すごく気持ち悪くて、熱いんだ。僕、死んじゃうの?」
彼は決して毒を盛られていたことに気づいた訳ではなかった。少なくともその時は、自分を初めて襲った未曾有の症状に、極度に怯えていただけのように見えた。
そのか細い声に私は、一言で言えばひどく興奮してしまったのだ。
目を潤ませ、熱い息を切れ切れに吐き、一生懸命に不安を吐露した、小さな小さなダスティー。そうやって必死に縋った相手が、まさかその症状を起こした張本人だなんて! 哀れで、滑稽でたまらなかった。まるで、子どもたちに遊びで巣穴を埋められる蟻のようだ。私はそれをれっきとした人間相手にやっている訳だ。向けられる視線に私の背筋は震え、一筋の汗が走っていた。当然、前のように人を殺した時の罪悪感に震えていたり、犯した失敗に焦って冷や汗をかいていたりした訳ではない。繰り返す通り、私は興奮を覚えていた。祝福と共に産まれ、蟻とは比にならないくらい大事に育てられた命を弄ぶ背徳に。
この体験は、私を再び薬局へ向かわせることとなる。目的は同じく殺鼠剤を購入するためだが、用途が違った。可哀想なダスティーのために作ったチキンスープの中に、少しずつそれを混ぜることにしたのだ。もちろん、他の料理に比べてスープの透明度が高いから、多く混ぜ込めないという理由もある。それ以上の大きな目的は、この甘美な状況を少しでも長く楽しみたい、という欲望の表れだった。
しかし、幸せな時間というのは得てして長く続かないものであると思い知った。盛った殺鼠剤の量は少しずつであるにも関わらず、彼の症状はどんどん悪化していった。特に吐き気がひどく、最後の方には具のないコンソメスープですら口にすることができなくなっていた。医者の出す、意味のない薬でさえ吐き出すようになった頃、ダスティーは死んだ。いくら少量の毒とはいえ、二週間も摂取し続けていれば小さな身体が蝕まれきってしまうのは当然のことだった。
そして私は、すぐにその家からお暇を頂いた。オリーの時と同じように遺族の元で働く度胸がなかったという理由もある。しかし、それ以上の大きな理由が一つ。よく面倒を見ていた子どもが亡くなって悲しい。そんな簡単な演技をすることができなかったからだ。
あの絞り出すようなか細い声のせいで目覚めてしまった、私の中の興奮、多幸感、高鳴る鼓動と呼吸。それらはダスティーが息を引き取った後も、余韻として私を包むように残り続けた。残念なことに、ただの一家政婦が彼の死体を拝むことはできなかったけど、代わりに素敵な想像の余地を残してくれた。彼は棺桶の中で、一体どんな風に眠っているのだろうと。元気に走り回っていた二本の脚は、しゃぶりつくしたチキンの骨のように痩せ細っているだろう。よくお喋りをしてくれたコーラル色の唇は、どんな冷たい青紫色を乗せているのだろう。そう空想を巡らせるだけで頬の筋肉は自然と口角を釣り上げるように動いた。
仕事を辞めて怪しまれることよりも、そんな単純な動作を我慢できず、旦那様たちに見られることの方が心配だった。
引っ越してすぐ、見つけた仕事はもちろん家政婦だ。学もつてもない小娘が生きるため。その手段であるはずだった仕事はいつしか、単調な毎日には強すぎる刺激をもたらす気付け薬と化していた。
しかし、この行為によって得られるものはプラスな感情ばかりではない。
だって、私に対して何か悪いことをした訳でもない、何の罪もない子どもたちを殺したのだ。しばらくは甘い背徳感と幸福に陶酔していられるが、だんだんと常識人だった、ただのしがない家政婦であったはずの私が、私を責め立て始めるのだ。
『愚かなドリー、どうしてそんなひどいことができたの? 殺されたあの子は、何も悪いことをしていないわ。貴方のくだらない妄想で殺された、あの子の気持ちは?』
『旦那様と奥様の顔を見た? 頬がこけて、ひどいクマができていたわ。あのお二人もまるで死人のようよ。馬鹿ね、ドリー。貴方が何もしなければ、あの家族はそのまま幸せでいられたのよ』
『貴方なんか、警察に捕まってしまえば良いのよ!』
私の罪に一番憤っているのも、また私であった。しかし、脳内で暴言を吐くだけの小心者でもあった。気が狂いそうな程に大声を上げて泣く夫婦たちに、自分の罪を告白することも、警察に殺鼠剤の空袋を持って自首することもなかったのだから。
仕事を辞め、次の街へ引っ越し、新たな仕事に就く。この僅かな期間だけが、世間一般で言う正気と定義される状態の私でいられた。その間は、とてもまともとは言えなかった時の行動を振り返り、後悔するだけの永く苦しい時間を過ごすしかできなかった。
何故、私はあんなことをしてしまったのだろうか。最初のオリーがウイスキーを口にしてしまった時の、私を襲う大いなる恐怖。食べると死ぬと分かっているスープを、熱で喘ぐ子どもに差し出す、胸を焦がすような興奮。あれらが私を突き動かした源泉と言うならばそうなんだろう。
なのに、分からない。冷静な頭で考えれば、オリーがあの父親と同じように育つ訳がないし、子どもを殺して喜びを覚えるなんて、まったくイカれている。過去の行動を振り返ってみても、自分のどこからあんな末恐ろしい欲求が湧いてきたのか、その根源が少しも分からなかった。分からないから、対処のしようもない。
こんなことを繰り返していたら生活も安定しないし、何よりいつか警察に捕まるのは確実だ。分かっていても、一度殺そうと決めた後の、あの夢うつつの感覚は私から理性をすべて奪ってしまう。
小さな子どもに会うような仕事を、もう辞めてしまおうとも思った。しかし、工場は若い男で事足りているし、店の売り子もやはり経験者を欲しがった。看護師のように技術のいる仕事は当然できないし、そのために学校へ行くお金もない。夜更けに酔っ払った男を捕まえて、媚びた声で代金を強請ることも考えないではなかった。けれど、脳裏に情けなく殴られるだけの母の顔が、私の邪魔をするのだ。
結局、次に選んだ仕事も家政婦だった。母とは違い、真っ当な仕事で独立して生計を立てていることが、私のアイデンティティなのかもしれない。
雇われた家庭に子どもがいないことや、女の子だけのこともあったが、その時は何も考えず従順な家政婦ドリーでいられる。いつしか、私を採用してくれる先に男の子がいないように、穏やかでいられる今の職場で長く勤められるように必死で祈っていた。
しかし、家政婦というのは弱い立場なもので、向こうの都合で辞めさせられたり、給料を減らされたりすることもある。そうして私は新たに掛け持ち先を探さねばならなくなり、避ける必要のある出会いをしてしまうことになるのだ。そうやって一時の渇望に突き動かされ、罪を重ねては後悔し……。同じシナリオを何度なぞって来ただろう?
今の私はまた、心の躍る熱に浮かされている。やがて訪れるダンスタイムの終焉など考えずに、欲望のまま罪の味を貪る。熱く病的に火照った頬、潤む瞳、乾いた唇。部屋に漂う胃酸の匂い。可愛らしいデザインのパジャマを汚す、野菜の欠片が混じった嘔吐物に水様の便。数日前まで元気に庭を駆け回っていた手足は、骨が浮くほど痩せ細る。
自分を苦しめている病魔が私だとは思いもよらず、彼らやその両親は皆私を頼った。薬を買い、料理を作り、汚れた身体を拭いてやれば、育ちの良い彼らは揃いも揃って、私に感謝の意を述べてくれる。
そして私は、この甘く幸せな時間を長く長く味わうために、解熱剤と共にネズミの死体が描かれた袋を、レジに差し出すのだ。
『犯行期間六年 八人殺害の女性被告に死刑判決』
ジョージア州・フロリダ州にて児童八人を殺害したとして、殺人の容疑に問われていたドロシー・ウォーノス被告(三十一)へ、六月十一日に裁判にて死刑判決が言い渡された。
この判決が下るまでに複数回の公判が行われたが、ウォーノス被告は事件について詳しく語ることはなかった。殺した手口については何度か言及が見られたが、動機や被害者に対する反省や後悔の言葉は最後まで登場しなかった。
判決理由にも、この態度の影響が端々に窺える。
『(前略)……犯行後の行動・態度から勘案しても、被告人から犯行を反省する様子は見られない。犯行を行った後、引っ越しをしてまったく同じ手口を繰り返すということを六年間に渡って行っていた。(中略)……また、逮捕後も被害者や遺族に対する言及は一切なかった。(中略)……これらの理由により、被告人に対し死刑をもって臨むことはやむを得ない』
これらの理由が読み上げられている間、泣くことや取り乱すことはなく、落ち着いた態度で臨んでおり、判決や被害者に対する発言は見られないまま、裁判は終了した。
裁判では、被告人の刑事責任能力が争点になっていた。弁護側は被告が複数の精神障害により善悪の判断能力を喪失していたと主張した。これに対し、検察側は殺害する対象を十歳未満の男児と限定していたことと、犯行後にすぐその土地を離れ事件の隠蔽を行っていたことなどから、被告人には犯行は無差別ではなく被告人の計画の上実行されており、違法性を判断する能力も十分にあったと主張。判決において、検察側の主張が全面的に認められる形となった。
幼い子どもばかりが続けて殺害されたという残虐性から、全米を震撼させたこの事件。死刑判決という形で終止符が打たれたように見えるが、実はまだ不明な点も残っている。
前述の通り、ウォーノス被告は事件について殆ど語ることがなかった。手口や殺害された児童の総数などは明らかになっているが、動機等本人しか知り得ない事項については、未だ不明のままである。
また、被告は自分の盛った毒に苦しむ被害児童を熱心に看病するなど、行動に不可解な点も多い。このように不明瞭な点を残した状態で死刑判決を下すことに対し、一部から批判的な意見も上がっている。
逆に被告に対する怒りの声も多い。数々の問いに何も回答せず、ふてぶてしくも見えるその態度も加味してか、死刑判決をもってしてもなお、遺族を中心に燻る悲しみや憤りが癒やされることはないようだ。
ウォーノス被告人の代理人である弁護士によると、本人は控訴しない意向とのことだ。
(D新聞・一九七三年五月八日付の記事より引用)
ドアの鍵を閉めた瞬間、汗が一筋こめかみを伝った。
心臓は早鐘を打つように鼓動を早め、肺が痛くなるほどに酸素と二酸化炭素の交換を繰り返している。それらはここまで全力で走ってきたことだけに起因するものではなかった。
午前八時二十七分、普段ならとっくに家を出て、仕事をこなしている時間帯だ。それなのに、自宅まで駆け込むようにして帰ってきたのにはもちろん理由がある。
今朝もいつも通り、名も分からない鳥が囀る道路を歩いて、仕事をしに行くつもりだった。今働いているのは老夫婦二人の家で、つまりはただのドリーが料理を作り、掃除と洗濯をして賃金を貰うだけ。決して家人が謎の腹痛を訴え、口にしたスープをすべて吐き出すようなことはなかった。
それなのに、だ。曲がり角を右折し、何も知らない私の目に飛び込んできたのは、物々しいネイビーの制服を身に纏い、睨むように辺りを見渡す複数人の男たち。
普通の人なら何も思わないだろうが、何せそれなりの心当たりはある後ろ暗い身だ。警察官の姿を認識した瞬間、背筋に寒いものが走り、ふらつきもせず歩いてきた二本の脚はアスファルトと同化してしまったかのように動かなくなってしまった。
しかし、すぐに思い直した。もしかしたら昨夜のうちに、泥棒でも入ったのかもしれない。それで旦那様と奥様が朝一番で警察を呼んだんだろうと。今まで間抜けな医師や親ばかりに出会っていたせいで心中に蔓延る過信が、恐怖に震える私を安心させようと、必死に事実から目を背けさせた。
現実逃避を許してくれなかったのは、奥様の声だった。
如何せん、老人の二人暮らしだ。自然の摂理というもので、二人とも耳が遠く、傍目にはうるさく感じるほど声が大きかったのだ。普段なら耳が痛い時があっても、指示を聞き漏らさないで済むという点では助かっていたのに。
曲がり角の陰に隠れていた私の耳にも、奥様の大きな嗄れ声だけは届いた。
──ええ、ええ。ドリーはいつも、これくらいの時間に来てくれるんですけども。
その台詞を音として認識した後、言葉として意味を理解する前に、脚が動いていた。もちろん、今来た道の方向へ。
自然と速くなる歩行速度の中で、考えていたのは一つだけ。どこで、何が分かった?
たくさん引っ越しをしたのだから、昔の事件が今更発覚するはずがない。とすると、一番最近手にかけたピートのことが警察に知られたのかもしれない。あそこの母親は随分と神経質で、医者にもあの病気じゃないのか、この薬は本当に効くのかと質問攻めにして困らせていたのが印象的だった。だからいたたまれなくなって、早々に暇を貰ったのが裏目に出たのかもしれない。
逃げる? でもお金もない。それに目をつけられたとなれば、家政婦の仕事は二度とできないだろう。きっと警察は、茶髪の家政婦を血眼になって探すだろうから。
どこに行く当てもなく、結局辿りついたのは築十数年は経っているアパート、つまりは自宅だった、
頭の中は焦っているものの、何も打開策を思いつくことはない。大きく息を吐き、ボロボロの錆びたドアに背をもたれる。
捕まること自体はずっと前から危惧していたはずだ。だからいろんな土地を転々としてきた。なのに今更、あの数々の興奮すら打ち消すような不安と恐怖が襲ってくる。
私はどうすれば良かったのか。あの時、私がオリーのことをちゃんと見張っていて、白く丸い頬が酔わなければ、私の中の獣は眠り続けてくれただろうか? それとも、いずれは目覚めて結局同じことを行っていたのだろうか。どうすれば私は、ただの家政婦のままで慎ましく暮らせていたの?
自然と両手が顔を覆っていた。ちっとも悲しくないのに、目尻に涙が滲んでいる。人は怖いという感情だけで泣けるんだと、微かに残った冷静さが悟っている。
捕まったらどんな運命が待ち受けているのか。何の罪もない相手を殺したんだから、良くて一生を牢屋で過ごすことになるか、或いは……。その想像だけで、なんとか立っている脚が震え、崩れ落ちそうになる。
私はあの父と、隷属する母から逃げたかっただけなのに。私は一人、慎ましく暮らすことすらできない人間だったなんて。可愛らしい子どもたちを生かし、幸せな家庭の数々を崩壊させないためには、母と同じようにあの男の言いなりになっていれば良かったのかもしれない。
平穏に暮らしたいと言うなら、こんなことしなければ良かったのに。警察が嗅ぎつけたくらいで泣く自分の身勝手さは、滑稽にすら感じられる。
……ふと、顔を上げた。その先には、朝の忙しさを言い訳にして、散らかったままにした部屋。机の上はパンくずとメイク道具で散らかっていて、その真ん中には身支度用に使っていた小さな鏡がある。
鏡は残酷なまでに、現状を映し出す。散らかった部屋の中で、涙を流す一人の女。カーテンが閉め切られているせいもあって、影の落ちる表情は悲惨で無様だ。
鏡の女に、視線が捕らわれる。
薄暗い部屋の中で、ヘーゼル色の瞳が音もなく浮かんでいた。
それにはとても見覚えがあった。幼い頃の私を幾度となく蹂躙した、私を呪い続ける瞳……。
次の瞬間、とうとう耐えきれなくなった身体が膝から崩れ落ちた。その間にも、鏡の中の瞳孔は、涙に塗れながら私を睨み続けている。
私は悪魔を祓おうと、罪を犯し続けてきたはずだ。それがすぐに嗜虐心を満たすための自慰に変わり、回数を重ねる度に当初の目的のことなど意識しなくなっていった。
性的な蹂躙と、毒による蝕み。方法こそ違えど、父も私と同じあの快楽と底のない罪悪感を貪っていたのだろうか。もう長年会っていないのだから、知る術もないことなのだけど。
双眸から未だ涙を流しながら、乾いた唇はいつの間にか微笑を携えていた。それは目の前の悪魔に向けた、哀れみの感情の表れであった。
きっと旦那様と奥様は、私の住所を警察に教えるだろう。そうでなくとも、それくらいはもう調べているのかもしれない。そう思いながら私の胸には、今まで感じていた捕まることへの恐怖はもう残っていなかった。
今の私にできるのは、逃げることじゃない。ただ惨めに泣きじゃくるドリーを眺めながら、いずれドアを叩くであろう来訪者を待つことだけだ。
『死刑囚一人の刑執行 十年前のジョージア州・フロリダ州連続殺人事件』
一九六四年から一九七〇年にかけて男児八名が殺害された事件で、殺人の罪に問われ、死刑判決が下っていたドロシー・ウォーノス死刑囚(三十七)に対し、二十七日に刑が執行された。
ウォーノス死刑囚は家政婦として働いていた家庭で、子どもの料理にだけ多量の殺鼠剤を混入させ、脱水症状や臓器不全により死に至らしめた。
被害者はいずれも六歳から九歳の男児であったこと、勤め先を転々としていたことから被害はジョージア州とフロリダ州という州をまたぐ広範囲となったこと、更には医師の誤診から被害児童らが毒殺とは判断されず、長期間に渡って犯行が繰り返されたことなどから、事件の発覚やウォーノス死刑囚の逮捕は当時注目されていた。
被害者の一人であるダスティン・ヘインズくんの母親は今回の死刑執行に対し、こう述べている。
「ダスティーが亡くなってから、『どうしてうちの子が死ななきゃいけないのか』と、ずっと考えていました。彼女が死刑になった今、ダスティーが殺されたことに対する恨みが少しも晴れなかったと言えば嘘になります。しかしそれ以上に、どうして、と言う無念さと二度と愛しい息子が帰ってこない悲しみ。その二つの感情が、私の胸を押しつぶしては放してくれません」
(N新聞・一九七九年五月二十八日付の記事より引用)
ドリー/ 雪六華 作