Kyrie/霧 作

 その男の道行きは険しく、長く曲がりくねったものであった。

 歩みは荒野を横切り、道なき道をゆく。灼熱(しやくねつ)の大気が空を覆い、(むしば)瘴気(しょうき)の風が吹き荒れる。そのただなかで、彼は彷徨(さまよ)い続けた。

 肩には巨大な重荷がのしかかる。背負うにはあまりに重く、忍びがたい十字架が。血と汗とが体躯(たいく)から滲み出してはこぼれ落ち、乾いた地面に吸い込まれていく。

 よろめきながら進む彼の姿を見て、並み居る群衆は嘲りを浴びせかけた。つばを吐きかけ、つぶてを投げつけた。

あの哀れな男を見よ(Ecce homo)。あの者の末路は、なんと惨めなことよ」

 それでもなお、男の歩みが止まることはない。
 人々の歪んだ笑い声を静かに受け止め、湧き上がる怒りを押しとどめた。あふれ出る涙をせき止め、顔を石のようにする。
 彼を憐れむ人は誰もいない。














***

 男は地べたに座り込み、小さな丸穴をじっと(のぞ)いていた。古びた壁に開いた丸穴の向こう側。そこに広がっていたのはまさしく別世界であった。
 こちらに漏れ出てくるほどのまばゆい明かり。あふれんばかりのご馳走(ちそう)の山。杯がぶつかり合う軽快な音。響き渡る人々の笑い声……。
 彼は、しばしその情景に見入っていた。

 それも束の間、すぐに現実に引き戻される。頭に走る鈍い痛みとともに振り返ると、そこに立っていたのは彼の母だった。その虚ろな表情には、暗い影が落ちている。
「……またそんなことして。こっち来てさっさと食べなさい」
 首根っこを掴まれ、兄姉が待つ食卓へと引き立てられていく。彼女は、息子を突き飛ばすようにして空いた席に押し込め、席についた。そして、おもむろに箸をとると、無言で食事をとり始める。母が食べるのを見届けると、子どもたちも黙々と食べ物に手をつけ出した。
 小盛りの麦飯と痩せたいわし、そして得体の知れない青草。それらが無造作に小さな卓袱台(ちゃぶだい)に横たわっていた。
 ()いたり消えたりを繰り返す白熱電球の揺らぎのもと、箸と茶碗がぶつかる鈍い音と不愉快な咀嚼(そしやく)音のみが支配する。
 腹も心も満たされることのない沈黙の食卓。麦飯を口に運んでは噛み、飲み込んでいく作業を繰り返していると、先ほどの丸穴から覗いた光景がいやおうなくよみがえってくる。
 なぜ自分は向こう側(・・・・)にいないのだろうか。なぜこちら側(・・・・)に甘んじているのだろうか。向こう側(・・・・)こちら側(・・・・)が隔てられているのはなぜなのか。
 浮かんでは消え、浮かんでは消えていく無数の「なぜ」。しかし、その問いに対する返答はどこからも聞こえてこない。頭のなかに次々と浮かび上がってくる疑問。しかし、その答えが浮かんでくることはなかった。
 気が付くと、食卓には誰もいなくなっていた。母や兄姉は皆、とうに食事を終えた。言葉をかける者はおらず、ただ彼ひとりが座り込んでいる。
 先ほどまで卓袱台に乗っていたいわしは、頭を残して消えていた。彼はそれを箸でつまみ、噛みつぶした。脳や眼球がはじけ、口いっぱいに広がる苦みと生臭さ。それらを消すかのように麦飯と青草をかきこみ、一息に飲み下した。
 食事を終えると、自分と家族の茶碗と皿を抱え、台所へ運んだ。とうに家族は寝静まり、聞こえてくるのは壁の向こうからわずかに伝わる喧騒(けんそう)のみ。彼は割れかけの食器を洗いながら、そして皿洗いを終えてもなお、その賑やかで明るい声と音に耳を澄ませていた。
 そうして夜遅く、隣からの物音がしなくなると、ようやく寝床へ向かう。いつか別世界に加わることができる日がやって来ることを夢見ながら。

 丸穴の向こうの光景。いわしの頭の苦み。
 これが、男が過ごした幼き日の記憶のすべてである。それ以外はあっても、無に等しい。
 寒風吹き荒れる北の無番地。かつては大きな炭鉱があり、それなりに賑わっていたという。しかし、それは時代の激流に押し流され、あえなく人々に見放された。世の繁栄に取り残され、今となってはその近くに小さな港があるばかりである。
 寂れた町の質素な長屋の片隅に押し込められ、男の一家はひっそりと暮らしていた。
 この一家の隣には、一軒の安居酒屋が営まれていた。
 この居酒屋は連日仕事帰りの漁師やら失業した炭鉱夫やらで溢れかえっていた。これらの連中を相手に居酒屋は大いに繁盛しており、この長屋(ながや)も居酒屋の主が心付けとして多めに支払う家賃で持っているようなものだった。家賃を払えないことも珍しくなかったこの一家が見逃されていたのは、ひとえに居酒屋のおかげだったといえよう。
 それゆえ、一家の母は、この隣人の歓心を得ようと腐心した。本来ならば贈り物などをするのがいいのだろうが、一家には贈るモノもなければそれを買う金もない。彼らにできることは、「迷惑をかけぬようにすること」、ただそれだけであった。営業の邪魔にならぬよう、店の関係者とは一切関わりを持たず。客足が遠のかぬよう、自らのみすぼらしい姿が客の目に入らぬよう努め。客の興が冷めぬよう、生活の音や会話の声は極力抑え……。
 一家は文字通り、息を潜めて暮らしていた。
 彼らの暮らしは、まさに牢獄に幽閉された囚人のものだった。そのなかで、男にとってたった一つの楽しみ。それは、壁にわずかに空いた丸穴から、「向こう側」の様子を覗き込むことであった。
 丸穴を覗いていたことがばれると、すぐにそこから引き剥がされた。その穴は、次の日には必ずぼろ紙で目張りされる。それでも、彼は指でぼろ紙を突き破り、来る日も来る日も「向こう側」にあるはずの別世界を覗き込んだ。
 もっとも、彼はそこが居酒屋であるということを知らない。居酒屋との関わりを禁じられているのだから当然である。水混じりの安酒を浴び、油ぎった揚げものを食らう、漁師や日雇い労働者が繰り広げる乱痴気(らんちき)騒ぎ。それを別世界で織りなされる、(ぜい)を極めた禁断の宴であると信じ込み、羨望のまなざしで眺めていた。同時に、自らの生活に対し、漠然とした不満を抱えるのであった。
 「向こう側」への憧憬と、「こちら側」への不平。その思いを言葉にすることはなかったが、この表裏一体の感情は心のなかで日増しに膨れ上がっていった。











 ***

 男の記憶のなかに、父の姿はない。どれだけ過去を探っても、家族の面々に父と呼ぶべき人物はいなかった。一家の窮乏(きゅうぼう)に拍車をかけていたのは、まさにこの事実であった。
 もっとも、当然ながら父が存在しないわけではない。そのひととなりは耳にしていた。居酒屋が休む週末の晩、日々の労苦をため込んだ母は、このときとばかりに酒をあおった。顔に浮かぶ(かげ)りに怒りが宿る。
「……あの男のおかげで、私もあんたたちも貧乏で不幸せなのよ!」
 彼女は、(せき)を切ったように話し出した。

 彼女の夫――つまり男の父――は生来の博打(ばくち)好きだった。結婚する前は定職についていたようだが、行商人の妻と結婚した途端、仕事を辞めてしまった。それどころか、妻の稼いだ収入を持ち出して賭け金にする始末である。
 しかも負けず嫌いなのか、負け続けても賭けを止めない性分だった。そのため、世の博徒どもにとって恰好の餌になってしまい、たびたびいかさまをかけられては大負けするのである。そして賭け金が底を尽きると、今度は家の米や砂糖を勝手に売り払って賭けに当てるというに有様であった。結婚当初は新しく建てた家に住んでいたのだが、それも博打でこさえた借金のかたに売ってしまった。一家がこのような古ぼけた長屋に住まなければならないのも、博打打ちの夫のせいというわけである。
 そして、長屋で子どもたちが生まれてくると、妻や子を残して家を出て行ってしまった。本当の地獄はそれからだった。
 夫が家を去った後、残ったのは莫大な借金のみ。その返済のために働かなければならないのに、三人の子どもの世話もひとりでしなければならない。馬車馬のごとく働いて家に帰った途端、子どもたちが腹を空かせて泣くというのが常である。これほど必死に生きているというのに、生活は貧しくなる一方であった。
 夫の実家とも縁が切れ、こちらへの援助が途切れた。自分と子ども三人を食わせていくため、文字通り孤独な戦いの日々がはじまったのである。
 ここに追い打ちをかけたのが、借金取りである。女と子どもが相手だからなのか、取り立てがさらに苛烈になった。連日のようにやって来る借金取りの怒号に怯えるばかりか、それがもとで隣近所の機嫌を損ねて長屋を追い出されはしまいかと気が気でない。
 こんな毎日なのに、夫は姿すら見せない。あの男のことだから、博打を辞められるはずがない。きっと、隣町かどこかでのうのうと暮らしているのだろう。
 いかに自分が苦しんできたか、ということを気が済むまで子どもたちにまくし立てると、決まって最後はこう言い放った。
「あの男が死んだら、赤飯炊いてやるんだわ」
 それから、子どもたちを置いてそそくさと寝床に向かうと、大きな寝息を立てながら眠るのであった。



 一家の貧しさの原因は、父の不在にある。それは、母の言う通りだった。
 そして、その負担は子どもたちにも降りかかった。母が働きに出かけている間、姉は家事をやり、兄は新聞配達や鉄くず集めを、末子である男は魚拾いをしていた。それぞれが一日中分担をして、ようやく家が回っていくというのだから、当然学校などまともに通っていない。
 同い年の子どもたちが初めて制服を着て登校する春の日。その日も、男は魚拾いに出かけていた。町の向こうの漁港に行き、漁船の網からこぼれた雑魚や、捨てられた小魚を拾い集めること。これが彼に課せられた「仕事」であって、これの出来次第でその日の晩飯の具合が決まってくる。
 おろしたての制服を身にまとい、弾むような足取りの同級生たち。彼らの目に入らぬよう、その姿を遠巻きに眺めながら、かごを抱えて歩いていく。
 町を抜け、山のふもとを行くと、やがて青と緑が交じる海岸沿いの道へと出た。地平には船が小さく浮かび、遠くから汽笛が聞こえてくる。
 港に着くと、すでに数隻の漁船が荷下ろしをしていた。ここまで来れば、荷下ろしが済んで人がいなくなるのを待つだけだ。彼は、人に見つからないよう、船の陰に潜んでいた。
 野良猫のように小さく丸まり、縮こまっている男。そのとき、何か冷たい、べちゃりとしたものが顔にぶつかってきた。頬にこびりついた、血生臭(ちなまぐさ)いぬめり。足下には、いわしが臓物をさらけ出して転がっていた。
 面を上げると、ふたりの若い漁師が船首に立っていた。その顔には、(いや)しい笑みが浮かぶ。
「また来たのかよ、魚乞食(こじき)!」
「欲しいならくれてやってもいいんだぜ、地面に頭こすりつけな!」
 つぶてのように投げつけられる笑いと罵り。男は彼らから目を逸らし、口を一文字に固く結んだ。かごを取り出し、いわしを拾い上げる。
「見ろよ、ほんとに拾いやがったぞ!」
「感謝しとけよ、四つ足野郎!」
 さも嬉しそうに、漁師たちは大声で(はや)し立てた。これがたまらない快楽だとでもいうように、つばを吐きかけ、容赦なく侮辱を浴びせかける。
 そうして一通り面罵すると満足したのであろう。彼らは船を降りて港の向こうに消えていった。
 男はひとり立ち尽くす。どこまでも続く、灰色のコンクリ。うち捨てられ、悪臭を放つ魚。波の音ひとつしない無人の港。ただ、男だけが置き去りにされるばかりであった。
 静寂のただなか、それを壊さぬよう、彼はゆっくりと膝を折った。深くかがみ込み、ひとつひとつ落ちた魚を素手で集めていく。鼻を刺す、錆と腐臭混じりの生暖かい潮風。何もかも慣れたことだ、と言い聞かせながら魚を拾っていると、不意に何かと目があった。
 その先に、生き腐れのいわしが横たわっていた。こちらを見つめる、黄色く濁った目。その目のなかに、寂びた港で這いつくばる自らの姿が映っていた。
「……お前たちは幸せだよな。拾ってくれる奴がいて」
 彼は地べたのいわしを掴んでかごに投げ入れると、誰に言うとでもなく(つぶや)いた。

 夕暮れの町のなか、男は家路についていた。拾った魚がこれ以上悪くならないうちに帰りたいところだが、魚が入ったかごを運びながらだと、この時間に帰るのが精一杯だ。
 つぎはぎだらけの服を身に付け、異臭を放つかごを抱えて通りをうろつく子ども。傍目(はため)からみても異様そのものである。密かに交わされる会話や、低く抑えた笑い声が道行く人々から聞こえてくる。こちらを指さして、軽蔑の表情を浮かべる生徒たちもいた。
 彼はうつむいて耳を塞ぎ、足早に立ち去った。これも慣れたことだ。すでにかごからの匂いがきつくなってきている。下らない(はずかし)めに構っている暇はない。家族の夕飯のため、嘲りを背に長屋への道をひたすら歩いて行った。
 家にたどり着いたときには、とうに陽は沈んでいた。長屋から漏れ出るいくつもの明かり。そのなかでも、とりわけ薄くぼやけているのが一家の部屋である。男は、その戸を開こうと手をかけた。
 ふと、ひとつ奥の部屋の戸が少し開いているのに気が付いた。半開きになった間隙(かんげき)から漏れる、まばゆい光と賑やかで楽しげな声。何やら美味しそうな匂いも漂ってくる。
 ここがいつも夢見た別世界に違いない。丸穴から見るしかなかった世界を、今なら直に見ることができる。引き寄せられるように、男はそっと「向こう側」の世界を覗き込んだ。

 確かに、そこには丸穴越しに見た光景が広がっていた。かぐわしい香りを放つご馳走の山。美しい杯に注がれた飲みもの。明かりに照らされ、笑いが絶えぬ人だかり。だが、もはやそんなことはどうでもよかった。
 そこに集まるいくつもの人々の顔。そのなかに、あの漁師の顔があった。港で魚を拾い集める少年を嘲笑(あざわら)ったあの漁師の顔が、満面の笑みをたたえていた。
 男は絶句した。あれは、昼間の漁師ではないか! なぜ、あんな奴らが「向こう側」にいる! 自分は「こちら側」で今にも潰れそうになっているのに……。なぜ、あんな奴らが楽しそうに笑っているのだ……!
 目の前の光景が、彼を錯乱の断崖に追いやっていく。これまで抑え込み、ため込んできたものが、どす黒く噴き出してくる。その奔流が喉を逆さに伝い、外に流れ出さんとした。しかし、それは言葉にならず、激しい嘔吐(えず)きとなって口から漏れ出た。
 我が家の前に駆け寄ると、戸を一気に引き開けた。家中にこだまする、つんざくような(きし)み。呆然とする母の前に魚の入ったかごを置き、夕食はいらないとだけ告げて布団にくるまった。
 やがて、いわしが焼け焦げる匂いが漂ってきた。朝も昼もろくに食事をとらなかったためか、ひどい空腹が襲ってくる。だが、そんなものは気にも留めなかった。自分が拾った魚など見たくもない。
 これまで信じてきた別世界などありはしなかったのだ。憎き「向こう側」と惨めな「こちら側」があるだけだ。
 今までは、何をされようとも、これほどの怒りを覚えることはなかった。どんな苦しいことがあろうとも、耐えることができた。
 だが、思い描いていた理想の世界が崩れ去った今、心をなだめていた何かがどこかへ消えてしまった。
 抑えられないほどのおぞましい感情が満ちていく。恐怖で歯の根が合わない。これまで胸の内に抱いてきた憧憬。それが、彼を内側から引き裂きながら怨嗟(えんさ)へと変容していく。
 そのまま、彼は気を失うように眠りに落ちた。

 次の日から、男が丸穴を覗くことはなくなった。その日から、彼がこの家を離れるまで。
 丸穴の目張りが破られることは決してなかった。
 「向こう側」と「こちら側」のつながり。それは完全に隔てられ、絶たれた。






























***

 形だけの卒業を終えた次の日、男は駅のホームの群衆のなかにいた。
 間近に聞こえる列車の揺れる音が、行く者と残る者との別れが近いことを告げる。辺り一面から湧き上がる、励ましの声や別れを惜しむ声。悲喜こもごもの渦のなか、彼は静かに列車の到着を待っていた。
 海を渡る船の港にも、首都の街への列車の駅にも、男の家族は来ることはなかった。地元から旅立つことを告げたときすら、激励や惜別(せきべつ)の言葉をかけてはくれなかった。むしろ、食い扶持(ぶち)を減らすことができた、程度のことしか考えていなかったのだろう。
 決して自らに向けられることのない声援を背に、彼は列車のなかへと乗り込んだ。

 汽笛とともに流れていく景色。それを車窓からぼんやり見ていると、ふと隣席から話しかける声が聞こえてきた。
「あんた、どっから来たんです?」
 そこには、男と同じような年の少年がいた。長旅に飽きてしまったのか、興味しんしんに聞いてくる。
「ああ、北のほうからこっちに……」
「へえ、ここより北から! ってことは、海峡越えて来たんですねえ、ご家族もさぞ心配なさってることでしょうねえ。うちときたら、都会行ってでっかくなってこいとか言って残念がる様子もなくてさあ」
 旅の退屈を紛らわすためだろうか。ずいぶんと饒舌(じようぜつ)なしゃべりが垂れ流されてくる。その無遠慮さに内心苦々しく思いながらも、はあ、そうか、と適当に相づちを入れる。
 しかし、次に投げかけられた言葉に思わず固まった。
「ところで、なんで都会に出ようと思ったんです?」
 彼は答えに窮した。
「え? まあ、ちょっと……」
 とっさにひねり出した、どもりのような返ししか出てこない。隣の少年はいぶかしげな顔をした。
「まあ、ちょっとって、ヘンな人だね、あんた。いい暮らしがしたいとか、都会で生きたいとか、そういうのがあるからわざわざ地元出て働きに行くんでしょうに」
 それはもっともなことだった。この列車に乗り込んだ若者たちは「金の卵」であって、都会で働いて金を稼いでくることが期待されていた。家族の暮らしを豊かにするため、あるいはまだ見ぬ街への憧れのため。彼らもまた、思い思いの夢を胸に、進んで地元を旅立っていった。
 男もまた、そのひとりであった。ただ、家族への献身や都会への憧れなど持っていない。ただ、理想も何もない、侮蔑と嘲笑に耐えるだけの生活から抜け出したいという一心だった。他人に語るような夢など持ち合わせていなかったのである。
 要領を得ない会話にしらけてしまったのか、隣席の若者は、代わりに前後の席の乗客と雑談をはじめた。
 男は再び窓の外の景色に目を戻す。駅の近くに広がっていた田畑はずいぶんと狭くなり、代わりに新築らしい家や見たこともない大きなビルが増えていた。そして、遠くには真っ赤に染められた鉄塔が誇らしげにそびえ立つ。移ろいゆく光景を眺めていると、ふと地元の街のことが思い返された。
 窮乏極まるその日暮らしの生活、他人同然の冷え切った家族、見知らぬ人々から向けられる悪意……。あの町には、憎しみと惨めさ以外に何があっただろう。町から出て行けば、あの忌まわしい記憶から解放されるはず。過去から決別すればきっと未来は開けるはず――。
 夢というにはあまりにも後ろ向きなものだったが、しかし彼にとっては十分すぎる動機でもあった。
 自らの決意を新たにしていると、やがて終着の地を知らせる車掌の声が聞こえてきた。



 人やモノが雑多に行き交う都会の下町。彼が勤めることになったのは、そこにある町工場であった。
 あまたの機械が唸る小さな工場。男はそこで溶接工として働くことになった。蒸し暑い現場で、汗とススにまみれる毎日。経験も何もなく、失敗することも珍しくない。自動車会社の下()けの下請け、孫請けにあたる町工場の給料はお世辞にも高くはない。むしろ、安いといえるものだった。生活していくには朝早くから日が暮れるまで働かなければならない。働くということは、決して楽ではなかった。
 それでも、その生活は悪いものではなかった。それどころか、都会の街へ足を踏み入れたその日から、男の生活は一変したのである。
 働いたぶんだけ金がもらえ、思う通りに使うことができる。苦労したぶんだけ惨めさを感じる以前の暮らしとは大違いである。
 また、街で車が走っているのを目にするたび、自分の仕事に誇りを持つようになった。たとえつくっているのがごく小さな部品であったとしても、それがなければ車は走れない。人々が楽しそうに車に乗っているのを見ると、車で出かけることができるのは自分のおかげなのだぞ、と胸が(おど)った。生まれて初めて、彼は自分の存在に代えがたい価値を見付けたのである。
 そして何より、以前の自分を知る者がいないということが最上の喜びであった。仕事を求めて来た真面目な少年を演じれば、それに疑問を持つ者はいなかった。不器用ながらも仕事熱心な若者として受け止められ、過去を詮索されることなどなかった。彼はすぐに職場に溶け込み、同じ工員寮の同僚とも打ち解けた。
 一日働き通した後は、稼いだ金を握りしめ、寮の仲間とともに夜の(ちまた)へと繰り出した。闇にネオンが怪しく輝く都会の通りは、昼間と表情を変え、男を待ち受ける。
 そこにあったのは、何もかもが知らなかったものだった。
 温かな料理に舌鼓を打ち、初めての酒にほろりと酔い、奥からやって来る美しい娘に目を輝かせた。どれもこれも、あの北の街ではあり得ないものばかり。それはまさに、幼い頃に垣間見た「別世界」そのものにほかならなかった。
 ここには、「向こう側」と「こちら側」を隔てるものなどない。かつて地べたに落ちたものを拾って食いつないでいた男ですら、夢に見た生活を手に入れることができたのだ。
 まだ見ぬ快楽と刺激とを求めて、少年たちは夜闇に浮かぶ繁華街を徘徊した。そうして飲めや歌えの夜がふけると、一夜の記憶を糧に、次なる悦びの発見のため、仕事場に戻っていく。時には羽目を外して遊び疲れ、公園で朝を迎えることもあった。そんなときですら、町工場の職長は「若いうちだから」といって仕事の遅れを笑って見逃してくれるのであった。
 新しい街での、新しい生活。働くことで生活を立て、時には享楽にふけりつつ過ごしていく日々。間違いなく彼はどこにでもある大都会の一部に過ぎない。しかし、そんなささやかすぎる毎日が、男にとってはこの上ない幸福だった。冬を越えさなぎから羽化した蝶のごとく、彼は街の喧騒を渡り歩いた。やっと手に入れた幸せが、いつまでも続くことを信じながら。



 陽が次第に輝きを失い、木枯らしが落葉をさらっていく晩秋の金曜。都会へやって来てから、三年あまりの歳月が経とうとしていた。
 男は色()せた街路樹の下を歩き、思索にふけっていた。
 昨晩は飲み過ぎてしまったのか、少し頭がぼんやりとする。しかし、仕事でいい加減なことはできない。今日から、彼は部下を持つことになったのだ。可愛い後輩のためにも、昇進を祝ってくれた仲間たちのためにも、一層仕事に打ち込まなければならない。そして、仕事終わりには、後輩たちに街の夜の過ごし方を教えてやろう。
 あれこれ考えているうちに職場に着いた。決意を新たにして、溶接面をかぶろうとする。
「おい君、ちょっと大変だ」
 職長が慌てた様子で向かってきた。一体何事か、仕事で大変な失敗をしてしまったのではないか。昇進初日からなんてことだ、と身体に緊張が走る。それに気付いてか、職長は深刻な表情で告げた。
「君の親父さんが亡くなったみたいだ、仕事はいいからすぐに行ってやってくれ」
 その言葉を聞いた途端、肩から緊張が解けていくのを感じた。
 なんだ、そんなことか。思わず口にしそうになる。職場の皆は知らないだろうが、自分に父などいない。顔すら見たことがない。はっきり言って、赤の他人なのだ。
 ただ、過去を悟られてはいけない。新たな人生を切り開いていくため、隠し通さねばならぬ秘密なのだ。分かりました、と男はさも悲しそうな顔をつくり、工場を後にした。

 北上する列車のなかで、男は移りゆく光景を眺めていた。交差点を行く人だかりや、所せましと建つ住宅街。それらが段々と荒れた田畑や朽ちた民家に変わっていくのを見ると、どういうわけか心が騒いだ。前にやって来たあの道を、今は逆に進んでいるのだ。
 彼は途中下車して缶酒をまとめて買い、胸のざわめきを払いのけた。その翌朝、海の向こうの故郷への連絡船に乗るときには、缶の中身はすっかり空になっていた。

 連絡船を降り、桟橋に足を踏み入れると、そこには以前と寸分変わらぬ港の光景が広がっていた。
 眼前に鬱蒼(うつそう)と立ちはだかる枯れかけの山。無造作に置き捨てられた漁船。異臭を放つ生臭い潮風。どれもこれも、あの頃から変わっていない。思い返すことすらはばかられる記憶がよみがえりそうになる。だが、それもわずかに残る酔いの向こうに消えていった。
 日差しも入らない、木々に覆われた廃炭鉱のふもと。暗く長い一本道を通り抜けると、幼き日に過ごした田舎町へ出た。休日の往来に人の姿は絶え果て、薄汚れたトタン屋根が立ち並ぶばかり。一度都会へ出てしまったせいか、そのわびしさはひどく耐えがたい。ここも変わらず、錆まみれの衰えきった町であった。
 ひび割れたアスファルトをしばらく行くと、見えてきた。寂しくぽつりと建つ、古ぼけて傾いた長屋。
 その一角の戸を叩く。出てきたのは母であった。死を悼む人も線香をあげる人もなく、それどころか兄や姉の姿すらない。家にいたのは母だけであったようだ。相変わらずの暗い顔に、深い影が落ちている。息子を見るなり、彼女はその表情をさらに険しくした。
「……似てきたわね」
 開口一番、母は口にした。しかし、男はその意味を掴みとれない。困惑する彼をよそに、淡々と彼女は続けた。
「知ってると思うけど、死んだから。あそこにあるけど」
 母が指さした先には、小さな壺が置いてあった。あそこに遺灰が入っているのだろうか。仏壇も用意されず、お香すら焚かれず。骨壺はささくれた畳の床に置きっぱなしになっていた。
「これが、親父か?」
「そういうことになるかしらね。まあ、数日後には土の下よ」
 男は、この仕打ちを見ても何を思ったか。人と思えぬぞんざいな扱いに腹を立てたのか、肉親の寂しい最期を悲しんだのか。
 否、「こうはなりたくない」という漠然とした思いが芽生えるだけであった。
 賭け事に(おぼ)れ、散々家族を苦しめ、しまいにはどこかへ逃げ出していった父。きっと死ぬまで博打好きだったのだろう。彼は物言わぬ骨壺を、冷たく一瞥(いちべつ)した。
 そのとき、あることに気が付いた。よく見ると、壺の下に、何か薄い紙切れのようなものが挟まっている。
「この下にあるのは?」
 気のせいか、母の表情が引きつったように見えた。それを取り繕うように、彼女はゆっくりと、言葉を選ぶように言った。
「……ああ、そう大したことないものだけど。……見たければ見なさい」
 妙に慎重な様子だ。できるなら隠しておきたかったが、見つかってしまった。だからあえて「大したことない」と言っているのではないか。
 母の態度が気にかかりつつも、かえってそれが興味を引く。ならば、と壺の下のものを引き抜き、それが何なのか確かめようとした。
 男は我が目を疑った。
 それは、一枚の写真であった。そこには、男とよく似た顔の中年が映っていた。
 深く薄暗い森のけもの道。木にもたれかかり、両手両足を放り出して、座り込んでいた。まとった衣服は穴が空き、すり切れきたぼろになっている。無精ひげだらけの口からは舌が飛び出し、よだれを垂らす。見開いた白目が、むなしく虚ろを見つめていた。
 しばしの間、男は手に取った紙切れに釘付けになっていた。何とか意識を写真から引き剥がすと、喉奥から声を絞り出した。
「これ、は――」
「何って、見ての通りあんたの親父の死体でしょう。どっかの県の山で野垂れ死にしたのを、警察がご丁寧に写真までよこしてくれて。気味が悪いからお寺で焼いてもらおうかと思って、そこに置いておいたのよ」
 彼は唖然とした。確かに、父はろくでもない奴だったとは聞いていたから、まともな死に方はしないと思っていた。
 その冷淡な感情と裏腹に、この写真に戦慄を隠せない。直視に堪えない凄惨な死。自らの血がつながった者が、想像を絶する不幸のどん底で死んでいった。揺るぎない事実が突きつけられ、深々と突き刺さっていく。
 茫然自失とした彼の様子に構わず、ため息交じりに母は続けた。
「警察の話によると、家を出た後は海越えた向こうに渡ったみたいね。私なんて、この町の近くでほっつき歩いてると思ってたんだけど。あっちじゃあ、最初のほうこそちゃんと仕事してたってことだけど、結局長続きしなくて金が尽きて。……まあ、あの男らしいわ」
 母の言葉が耳に入ってくるにつれ、脳裏に不穏な渦がうねりをあげていく。
 どういうことだ。父は、博打で身を滅ぼしたのではないのか。地元でくすぶりながら、死ぬまで賭け事に興じていたのではなかったのか。そうではなくて、故郷を捨て、新たな人生を送ろうとして――それもかなわず力尽きたと……。
 それではまるで――。
 不意に、冷たい汗が全身から噴き出てくる。息が荒れ、顔から血が引いていくのが分かる。細かく震える指先から、写真がすり抜け、床に落ちた。
「あ、ああ……」
 男は悲痛なうめきをあげた。死んだ父が、写真のなかからこちらを窺っていた。その死に顔は、もはや他人のものではなかった。
 彼は床の写真から目を背け、ぎこちなく(きびす)を返した。
「あら、もう帰るの」
 背後から聞こえてくる問いかけにも応えず、生家から、そして故郷から逃げるように立ち去った。
 帰途の船のなかでも、列車のなかでも、あの写真のことが悪夢のように幾度も襲いかかってきた。何度振り払おうとも、決して覚めることはない。父の最期が、ネガのごとく暗く脳裏に焼き付いて離れなかった。

 街へ着くと、男は真っ先に酒屋に向かった。大丈夫だ、飲んで寝ればすべて忘れるはず。そうすれば、何もかも元通りだ。早く明るい現実に戻らなければ……。そう言い聞かせながら、行きのときとは比べものにならないほどの酒をかき集めた。
「お客さん、顔色悪そうだけどそんなに飲んで大丈夫かい?」
 店主の心配そうな声が聞こえる。しかし、聞き入れる余地はない。よろめきながら足早に先を急いだ。通行人にぶつかっても、小石に(つまづ)いても構ってはいられない。肌寒い夕暮れの街を、一目散に駆けていく。
 やっとのことで寮へたどり着くと、部屋の真ん中に座り込み、酒の小瓶を開けた。疲れ果てた身体に強い酒はこたえる。一口目から目の前がぐらぐらと揺らぐ。次第にぼやけていく、記憶のなかの有象無象。
 それでも、あの写真のことが消えることはなかった。知ってはならぬ真実を酔いに(ほうむ)り去ろうと、無理矢理口に流し込む。また一つ、また一つと酒がなくなっていく。
 さすがに飲み過ぎたのだろうか、気分が悪くなってきた。おぼつかない足で立ち上がり、近くの洗面所で水を飲もうとした。
 そのとき、男は鏡に映った自己を見た。どういうわけか、その顔から目を離せない。
 酔いのせいか、ぼんやりと視界に映る男の顔。徐々にその表情が歪んでいく。水飴のように細長く引き延ばされ、うずまき、とぐろをなす目、鼻、口。めまぐるしく変化していく映像に混乱し、まぶたを閉ざした。
 訪れる静寂。彼は落ち着きを取り戻し、ゆっくりと目を開ける。
 その刹那、男の呼吸が止まった。白目を剥き、舌を垂らした末期。瞳に映っていたのは、父だった。闇に浮かび上がった亡父の死に顔。それが、鏡に映った自身の顔にくっきりと重なっていた。
 男は、言葉にならぬ叫喚(きょうかん)をあげた。
 そして、絶望の谷底へと墜落していった。













***

 男は雑踏に揉まれながら、寒空の街を流れ歩いていた。冷たいビル風にあおられ、身体が力なくよろめいた。歩みが乱れ、次々と通行人にぶつかる。足を踏まれ、怒号を上げる人。肩がぶつかり、冷めた目で見る人。しかし、彼らのことなど、もはや聞こえもしなければ見えもしない。道行く人々に弾き飛ばされながら、男は行く当てもなく通りを漂流していた。
 あれから、ずっと寮にこもり、部屋のなかでうずくまっていた。
 あの写真の光景がまぶたの裏にこびりつき、片時も離れない。少しでも気を抜けば、あの恐ろしい死に際が眼前に迫ってくるのではないか。おぞましい末路を知ることになるのではないか……。
 いつ襲いかかってくるか分からない恐怖に(おのの)き、正気を保つことすらままならない。仕事など行けるはずもなく、ただひとりで震えていた。
 そうしているうちに、仕事も家も失っていた。はじめのうちこそ職長や同僚が心配して訪ねて来てくれた。だが、その次に来たのは一枚の紙切れだった。そこに書いてあったのは、「解雇通告」の四文字。当然、すぐに寮からも追い出された。
 あれだけ仲が良かった寮の仲間たちは、誰も助けてはくれなかった。
 都会で生きていくには金がいる。だが、もう男には職がない。食べ物を買ったり、宿に泊まったりしているうちに、手持ちの財産はすべてなくなった。今となっては、橋の下で寒さをしのぎ、ゴミ箱を漁って食いつなぐ日々である。
 これまで夢に見、そしてやっと手に入れた「別世界」の日々。しかし、金が尽きた途端、故郷で過ごしたような惨めな生活に逆戻りしてしまった。
 あの町と違って、ここは万人に開かれた楽園だと思っていた。しかし、それは金があるときまでのことだった。「向こう側」と「こちら側」を隔てる壁。乗り越えようのない絶壁が、都会の街にも厳しくそびえて立っていた。

 いつの間にか、海が見える港に流れ着いていた。我知らず目指していたのか、それともたまたま行き着いたのか。それは彼自身にも分からない。身も心も疲れ切り、波止場(はとば)のベンチに深々ともたれ込んだ。
 燦々(さんさん)とした太陽が顔を出し、水面がまぶしく輝く。風はいまだ肌寒いが、()が心地よく差している。
 明るい陽気に誘われて、港にはたくさんの人々が集まっていた。街から出てきた、学生らしきうら若い恋人たち。肩を寄せ合い、手をつないで海原を眺めている。きっと、これからの未来について語り合っているのだろう。見慣れない風貌の異国人の家族もいる。この港の近くには、異国の軍隊の基地があると聞いたことがある。きっとそこで働く人々なのだろう。幼子の優しい笑顔に包まれ、至福のひとときを過ごしていた。
 港に集う人々を見ていると、空っぽの頭に熱い血潮(ちしお)が上って来た。唇が震え、握りしめた手に力が入る。男は泣いていた。
 海にあふれんばかりのほほ笑みの数々。自分もああなれると信じていた。器量のいい嫁をもらって、可愛らしい子どもをたくさんつくって、仕事で成功して家族を支えて……。すべて手に入れた人々と、何もかも手に入らなかった自分。ただただ、自分の不幸が悔しかった。他人の幸福が憎かった。
 ひとりうなだれ、大粒の涙をこぼす男。幸せで満ち満ちた港のなか、明らかに奇怪な光景である。この悲しみに暮れる浮浪者を見て、人々はせせら笑った。気持ち悪い、薄汚い、と周りから静かな罵りが聞こえてくる。こちらを見る子どもは、面白半分にからかいの声をあげた。
 男はある決意をした。
 彼は前触れもなく、すくっと立ち上がった。一瞬、肩をこわばらせる周囲の人々。それに構わず、男は街のほうへ消えていった。

 その日の晩。港から少し離れた基地の前に、黒い人影が(うごめ)いていた。時刻は零時を過ぎ、人通りはほとんどない。電灯を避け、警備に注意しながら、裏手へ回り込む。辺りを見回し、監視の兵がいないことを確認すると、おもむろにフェンスに足をかけ、よじ登る。頭上の鉄条網を工具で断ち切り、基地の内部へ飛び降りた。
 闇に紛れ、侵入者は抜き足差し足、歩みを進める。その手に握られているのは、一振りの出刃包丁。昼間、街の雑貨屋で工具と一緒に盗んできた。白い刃が月光を映し、鈍く光る。
 草木も寝静まる深夜なのに、わずかに光が漏れている建物がある。兵士や関係者が住む居住区だろうか。ともかく、そこにはきっと人がいることだろう。
 息を潜め、その灯りへと少しづつ忍び寄る。手に汗がにじみ、包丁を握る力が強くなる。腰をかがめ、蛇のごとく、地を這うようして忍び寄る。そうして、あと少し、ほんの少しでドアに手が届く――すんでのところだった。
 後頭部に走る、重い衝撃。次の瞬間、天地が揺らぐ。目の前に集中するあまり、背後に気が回らなかった。振り向く間もなく意識を失い、前にのめって地面に昏倒した。



 気が付いたときには、男は白いベッドの上に横たわっていた。深夜、基地内で刃物を持ちながらうろつく浮浪児をたまたま巡回していた歩哨(ほしょう)が見付け、持っていたライフルの銃床で殴りつけて事なきを得たのだという。そこに気絶して転がっていたのがこの男だったということであった。
 数日経った後、彼は留置場へと移送された。犯罪者や不良少年ばかりが押し込められた冷たいコンクリの箱。鉄格子付きの部屋に放り込まれ、牢屋の端で縮こまっていた。
 留置場では、外の人間と面会することがある程度できる。食べ物や衣服の差し入れもある。もっとも、男はそういうものとはまったく縁がなかった。いつになっても面会に来る者はおらず、何の差し入れもない。確かに家族は遠く離れた田舎町に住んでいるので、こちらに来ることは難しいかもしれない。しかし、もし近くに住んでいたとしても来ることはなかっただろう。現に、手紙の一つもよこさないのがいい証拠だ。
 一方、それはこの男に限った話であって、囚われている者のほとんどは家族なり友人なりと面会をし、差し入れを持ってくる。男と相部屋になった、少し年上の学生らしき若者も、そうであった。
 今日も、娑婆(しゃば)の友人たちに会い、菓子やら本やらを抱えて帰ってきた。そして、菓子をつまみながら、何やら熱心に読書にふけっている。
 その様子を、彼は忌々しげに見やっていた。毎日のように訪ねてくれる人がいて、それも留置場で退屈しないようにと差し入れもしてくれる。菓子や本がうらやましいというのは言うに及ばない。だが、それよりもむしろ、苦しい状況にあっても手を差し伸べてくれる人がいる、ということが無性に妬ましかった。それこそが、相部屋の若者にあって、男にないものだからである。その事実を噛みしめ、暗く卑しい気持ちが膨れ上がった。
「……何かご用かな?」
 異様な視線に気が付いたのか、学生が口を開いた。
 男は焦りに駆られた。自分では気付かれぬよう見ていたつもりだったが、気づかれていたということか。彼は目を泳がせ、見ていないふりを決め込んだ。そんな彼の様子を見て、学生は笑みを浮かべた。
「こっちに来なよ。一緒に食べよう」
 冗談じゃない、と男は(いきどお)った。見ていたことが発覚しただけでも恥ずかしいのに、こんなところまで来て物乞いのまねごとができるか。それこそもっと卑屈な気分になってしまうではないか。
 しかし、その思いとは裏腹に、気づいたときには菓子を頬張っていた。何日ぶりか、いや何ヶ月ぶりかに口にする味。甘みが、身体に染み渡っていく。次々と消えていく菓子を見て、学生は苦笑した。
「いいよ、またチョコレート持ってこさせるから。それにしてもずいぶん腹を空かせてたんだねえ」
 ここの飯はまずくてかなわんからね、と学生が言い終わらないうちに、菓子はすべてなくなった。男が食べ終わると、それを見計らったように尋ねてきた。
「ところで、なんで君はこんなところに?」
 興味ありげな学生のまなざし。その視線から顔を背け、男は目を落とす。そして、か細く答えた。
「基地に入って……捕まりました」
 「基地」という言葉を聞いた瞬間、学生の目の色が変わった。いかにも落ち着いたこれまでの態度が、途端に興奮した様子に豹変する。
「基地って、ここの近くの基地かい? あの、外人がよく出入りする基地? 最近あそこに押し入った奴がいたとは聞いたけど、まさか君だったとはね!」
 その目つきは、年下を気遣うものから、偉大な師を讃えるかのようなものに変わっていた。男の言葉に食らいつくかのように、まくし立てる。
「君、僕より年下だろう? まったく素晴らしいね、その心意気! ところで、なんでまた、あんな危険なところに? やっぱり、君もあいつらが憎いのかい?」
 男は押し黙った。刹那、鉄格子のなかに満ちる静けさ。鼻息荒かった学生も神妙な顔をしている。男は、低くくぐもった声で、かすかにうめいた。
「……ただ、死にきれなかった、死ねなかった。それだけのことです」
 その答えが予想していたものとかけ離れていたのか、学生は目を丸くしている。言葉を詰まらせ、一瞬間を置いて問うた。
「……それは、一体どういうことかな?」
 男はうつむきながら、ぽつりぽつりと語り始めた。生きるのもやっとな貧窮の幼少期。貧しい「こちら側」の惨めな暮らしと、恵まれた「向こう側」からの迫害。帰郷して知った、父の恐ろしい末路。そして、この間、仕事をクビになって一文無しになったこと……。
 都会へ来てから、ずっと心に閉じ込めていた秘密。親身に話を聞いてくれた、取り調べの刑事にも言えなかった過去。それが、驚くほど簡単に口のなかからこぼれてきた。誰にも言うまいと思っていたのに、気が付けば切々と他人に打ち明けていた。
「……結局、俺と親父は同じなんです。そういう運命、そういう宿命を背負っているんです。だけど、野垂れ死にだけは嫌だった。これまで、散々馬鹿にしてきた、『向こう側』の連中をアッと言わせてから死にたかった」
 口を開くたびに、言葉が震えていくのが分かった。その声には、時折慟哭が交じる。
「だから、基地に入ったんです。基地で暴れて、騒ぎを起こせば、兵隊が駆けつけてくるでしょう。彼らはうちの警察と違って発砲をためらわない。俺が死ぬときは、サーチライトで照らされて、頭を撃たれて、脳がパアッと飛び散って。そんで、海にプカプカ浮かびながら、次の日の新聞に、でかでかと載るんです。何かの主人公のように。……それも、できなかった」
 そして、牢の天井を仰ぎ、痛々しく嘆いた。
「生きていてなんになる。結婚してなんになる。子どもつくってなんになる。貧乏しててなんになる。幸せってなんだ……」
 すべて話し終えると、男は大きく息をつき、力を使い果たしたかのように口を閉ざした。
 相部屋の若者は相づちを打ちながら男の身の上に耳を傾けていた。それから、話が終わると、言葉を探るように聞き返した。
「……つまり、貧乏してきたから馬鹿にされるし、幸せになれない、と?」
 男は小さく無言で頷いた。すると、学生は納得した顔をして、同情したように彼の肩を叩いた。
「なるほど、君の生い立ちはよく分かった。小さい頃から、さんざっぱら苦労してきたんだな。こんな若い子がひどい目に遭わなきゃならんなんて、まったく世の中狂ってるぜ!」
 そして、(こうべ)を垂れたままの男にこう問いかけた。
「この世から貧乏をなくして、幸せになりたいかい?」
 男は顔を上げた。そんなの、当然だ。できることなら、今すぐにでもそうしたい。それこそが、彼が求め続けたものだった。
「もちろん、当たり前じゃないですか。貧乏はもう嫌だ、幸せになりたい……」
 その弱々しい呟きを聞いて、学生は口を綻ばせた。そして顔を男に近づけると、秘められた真実を打ち明けるようにささやいた。
「そりゃあ君、革命が必要だよ」
 男は首を傾げた。
「革、命?」
「そう、革命だ。すべて新しくするんだ。世の中をひっくり返すのさ」
 学生は、自信満々に首肯した。男の目を真っ直ぐ見つめ、幼子に言い聞かせたるように語り始める。
「いいかい、君が苦労してきたのも、親父さんが野垂(のた)れ死んだのも、君らのせいじゃない。この世の中、この社会が悪いんだ。この社会じゃ、君らのような弱者は貧乏なままさ。どんだけ頑張っても、どんだけ必死こいても無駄だってことは君がよく知っているだろう?」
 確かに、これまでどれほど苦労しても報われることはなかった。動かぬ事実を突きつけられ、男は言葉を詰まらせた。
「そうだ……俺ばかりなんでこんな目に……」
 すかさず、学生の言葉が飛んでくる。
「それは、この社会の仕組みがそうなっているからさ。この世の〈資本家(ブルジョワ)〉たちは、会社を経営していたり、工場を動かしていたり、機械を所有していたり、とにかく金を生み出す『生産手段』を持っている。だけど、君らのような弱者、つまり〈労働者(プロレタリアート)〉は、そういうものを一切持っていない。だから、労働者は仕事をして食っていくわけだけど、資本家たちは正当に金を払わない。君らが汗水垂らして生み出した利益を横取りして、自分のものにしているんだ。だから、資本家は生産手段を持っているだけでいい思いができるし、君ら労働者はいつまで経っても貧乏なまま。こういう世の中なのさ」
 まともに教育を受けていない男にとって、聞き慣れない用語と横文字だらけの話は、意味不明な呪文のようだ。しかし、何か直感的に理解できるところもある。あと少しでパズルが埋まりそうで、埋まらない。
 考えあぐねている彼の背を押すように、学生は告げた。
「君も薄々分かっていただろう? 奪う者と奪われる者。さっきから君が言っていた『向こう側』と『こちら側』という奴だよ」
 頭のなかで、欠けていたピースが埋まった。これまで知らなかった、真の世の姿。それが、今分かった。心のなかに暗い炎が燃え盛っていく。
「……そういうことだったのか。『向こう側』の奴らのせいで、こんなにも苦しい思いを……」
 これまで苦労してきたのは、すべて「向こう側」の人間どものせいだったのか。小さい頃から貧乏してきたのも、人々から迫害されてきたのもすべて……。
 ため込んできた鬱屈(うっくつ)が、胸の奥底で煮えたぎっていく。
「じゃあ、どうすればいいんですか! この腐り切った社会をひっくり返すには!」
 男は声を荒げ、詰め寄った。もはや先ほどまでの弱々しさはどこにもない。
 よくぞ聞いてくれた、とばかりに学生は威勢よく答えた。
「簡単さ。奴らからすべて奪い取ってやるんだ。奪われてきたものを、奪い返す。これは反乱だ!」
 その目には、有無を言わせぬ頑なな意志が宿っていた。蛮勇に満ちた視線を男に向け、学生は語調を強めた。
「分かっただろう。幸せは、願うものじゃない。奪い取るものなのだ! 持てる者と持たざる者との闘いなんだ!」
 男の目からうろこが落ちた。これまで、幸せを願い続けて苦しみに耐えてきたが、そうじゃない。むしろ、幸せは、闘争の末に手に入れるものだったのか! 男のなかで、今までになかった大変革が起こり始めていた。
「そのためには、力あるのみだ。けれど、ひとりひとりに力はない。だから、全国の、いや、世界の〈労働者〉の団結が必要なんだ。現に、僕自身も大学の仲間と手を組んで、抵抗を続けてる。ときには、〈資本家〉やそれに追従する警察権力、果ては外国の帝国主義者どもに妨害されることもある。だけど、絶対に屈するつもりはない」
 雄々しく振るわれる弁舌に耳を傾けているうちに、この学生が世にふたりといない正義の士であるように思えてきた。自らの理想のために、仲間を集めて腐敗した世界と対峙している。それも、私利私欲のためではなく、自分のような貧しい弱者のために。その姿は、どうしようもなく崇高だった。まさにこの世に現れた救世主のようだった。
 熱心に学生の演説に聴き入る男。そんな彼に、学生はそっと手を差し伸べた。
「もし、貧乏がない幸せな世界をつくりたいなら。君も、仲間になってくれないかい。我が同志よ」

 それから留置場を出るまでの間、男と学生はまたとない友人になっていた。少なくとも、男にとっては。
 彼らは、互いを名前ではなく「同志」と呼ぶようになった。志を同じくする者。その志というのが具体的に何であるのかはよく分からなかったが、世界をひっくり返して幸せを奪い返すこと、と男は理解した。
 相変わらず面会も手紙もなかったが、男は満足だった。多めに持ってきてもらった差し入れ分けてもらえたので、不足しているものは何もなかった。
 何より、心が通じ合った「同志」との生活。孤独などどこにもなかった。味わったことのない奇妙な一体感に、胸が熱くなった。
 留置場での生活はすることがなく、退屈だといわれている。しかし、男はそうは思わなかった。朝も昼も、男と学生のいる牢からは、大きな歌声が聞こえてきた。

――私たちの望むものは 社会のための 私ではなく
  私たちの望むものは 私たちのための 社会なのだ

  私たちの望むものは 与えられることではなく
  私たちの望むものは 奪いとることなのだ

  いまある不幸せに とどまってはならない
  まだ見ぬ幸せに いま跳び立つのだ――

 無機質な監獄に響き渡る、高らかな賛歌。あまりの大声に留置場の役人が制止するときもあったが、構わなかった。我らの歌は、きっとここに囚われた人々に届いているはずだ。彼らを勇気づけているはずだ。そう思うと、これまでになく誇らしい気持ちになった。世界を変える闘士になりきり、学生と肩を組んで歌い続けた。
 やがて歌い疲れると、差し入れてもらった菓子をつまみつつ、学生との話に花を咲かせた。
 学生は異国のことにも詳しかった。どうやら、海外には革命を成功させた国があるらしい。産業や技術が発達し、国民は皆平等で、豊かな暮らしをしているという。この社会では到底まねできない理想の極致(きょくち)。まさしく「地上の楽園」だな、と学生はため息交じりに口にした。
 こんな絵に描いたような天国が海外ではすでに実現しているのか、と男は驚嘆した。この世の厳しさをしばし忘れ、異国の理想郷に思いを()せる。驚くべきことに、その国は海を隔てたすぐ近くにあるそうだ。もし革命が成功したらこの国も楽園になるのだろうか、そしたらどんな幸せの数々が待っているのだろうか、などととりとめもなく夢想した。
 だが、その実現を妨げる輩がいる。搾取で肥え太った〈資本家〉や、邪悪な反革命分子どもだ。革命のためには、奴らの徹底的な粛正が必要になる。そのための計画を、学生は密やかに打ち明けた。その内容は、驚くべきものだった。
 今後は、革命同志とともに革命が成功した国へ密航する予定。そこの政府と手を結び、軍事訓練を行って技術を身に付けるとともに、その国の軍の協力も得て、革命軍を結成する。そして、帰国したあとは革命軍とともに一斉蜂起して体制を転覆させ、革命を成し遂げる。そして、〈資本家〉どもから財産を没収し、貧民に分け与える――。学生は、壮大な夢を大真面目に語った。
 なんて情熱的で、かつ用意周到な計画なのだろう。男はいたく感動した。
「俺も連れて行ってください。革命をやりたいんです」
 男の懇願を、学生はやんわりとたしなめた。
「君はまだ若いから難しいな。君は、君なりの革命を志すんだ」
 そして、少し残念そうな様子の男を、優しげな声で慰めた。
「僕たちの計画が成功するのは、まだ何年か先だろう。それまでに、この国での革命の準備を進めてくれないか。革命が成功した暁には、新しい政府の一員に迎え入れることを約束しよう、同志」
 その言葉を聞いて、男は舞い上がるほどに喜ぶのだった。この偉大な闘士から、革命の布石を任せられた。これで地上の楽園の実現に一歩近づいたのだ、と。





 ***

 夕闇迫る都会の大通り。陽の光が(さえぎ)られた裏通りの影に、男は息を殺して潜んでいた。
 留置場を釈放され、相部屋の学生に別れを告げてからはや一週間。男は相変わらず定職に就かず、巷の界隈(かいわい)をうろついていた。
 しかし、以前と決定的に違うところがある。留置場で過ごした数週間で、彼の心境は様変わりした。これまで、何をやっても貧乏なのは、そういう運命なのだと思っていた。何をしても幸せになれない宿命なのだと。しかし、学生がまたとない英知を授けてくれた。うまくいかないのは、「向こう側」の奴らのせいだった。幸せになるのは簡単だ。連中から幸福を奪い取ればいい。
 「革命」。男は、心のなかでこの二文字を何度も反芻(はんすう)した。この社会をひっくり返し、理想を実現するための手段。学生が本を読み解きつつ説いていたその理論は、あまりに難解なものだった。だが、詰まるところ、〈資本家〉、つまり「向こう側」の金持ちどもから富を取り上げればよいのだ。そうに違いない。
 あの学生曰く、革命には「力」が必要だということだった。それが一体何なのかは明かされなかったが、男には心当たりがあった。今、(ふところ)に眠っているのがまさにそれだ。
 釈放された翌日の晩、彼は再び異国の基地へ侵入した。前のように、死を求めてではない。革命をもたらす「力」を求めてである。
 前回の経験から、基地内部の様子は掴めていた。警備が厳しくなっているかもしれないと思ったが、杞憂(きゆう)だった。事件から何週間も経っていたからか、それとも大事には至らなかったからか、警戒態勢は厳重なものではなかった。念には念を入れ、細心の注意を払いながら探索していると、小さな倉庫が目に入った。偶然だろうか、鍵は掛かっていない。ゆっくりと足を踏み入れると、それはあった。
 黒く鈍い光沢を放つ、消音器が付いた一丁のピストル。掌にすっぽりと収まる小さな銃は、思いのほか重い。その重みは、取りも直さず、頼もしさ、そして強大さを物語っていた。銃把(じゅうは)を握ってみると、よく手になじみ、何とも言えず心地よい。
 軍事基地だというからどこかに武器があるとは思っていたが、これほど簡単に見つかるとは。これも、腐った世の中を破壊し、革命を起こすべきという天啓に違いない。
 男は、隠し持ったピストルに手を当て、服越しに硬く冷たい感触を確かめる。そして、ビル間の闇から、表を行き交う人々を見定めた。
 憎むべき敵対者。貧乏人から金を巻き上げ、私腹を肥やす反革命分子。「向こう側」の人間は、この街に溢れかえっている。例えば、大きな会社から出てくる、整った身なりのサラリーマン。足取り軽く通りを歩く、宝石で着飾った若い女。流行の服を着た、はつらつとした笑顔の学生。至る所に敵は跋扈(ばっこ)している。
 しかし、恐れることは何もない。革命を遂行する「力」はこちらにある。陽の当たる大通りから暗がりの裏道へ獲物が迷い込んでくるのを、男は蜘蛛のように待ち構えた。

 夕陽が沈み、人通りも少なくなり始めた頃。ある人物がひとり、こちらに向かってきた。男は素早く物陰に身を隠し、様子を窺った。すらりとした体躯に、しわ一つないスーツをまとっている。顔つきはまだ若い。丸眼鏡をかけ、知性を醸し出す。小脇にはあるのは黒い鞄。それを大事そうに抱え、足早に歩みを進めている。
 いかにもエリート風の会社員、といった容貌である。「向こう側」の人間だ、と男は即座に判断した。会社員が物陰を通り過ぎるのを見届けると、見失わないよう適当な距離をとって後を付け始めた。
 暗く寂れ、入り組んだ裏通り。その合間を縫うかのように、この会社員は歩いて行く。何か用でもあるのか、それとも単に物騒だからか、急ぎ足で奥へと進んでいった。
 男はほくそ笑んだ。そのほうが都合がいい。奥へ行けば行くほど、表通りから離れていく。前からこの裏通りのことは調べておいた。土地勘なら、自分のほうがある。
 男は、獲物との距離を保ちつつ、忍び足で近づいた。そして、ピストルを取り出すと、ゆっくりと標的に狙いを定める。引き金に指をあてがい、迷いなく力を込めた。
 眼前を一閃する光。その大きさに反して、強い反動が腕に伝わる。銃口から立ち上る黒煙が晴れた先に、会社員が突っ伏していた。その頭ははじけ飛び、おびただしい血だまりをつくっている。
 男は犠牲者に駆け寄り、力なき腕から鞄をもぎ取った。死骸の隣で鞄を開き、その中身を物色する。彼は目を輝かせた。
 そこには、これまで手にしたことのないような大金が入っていたのだ。これだけあれば、しばらくは食うに困らない。財布ごと奪い取り、懐に収めるとえも言われぬ興奮が押し寄せた。
「これが、『革命』か……」
 生命の絶えた静寂のなか、満足げにうそぶいた。



 男は心底満ち足りていた。これまで必死に、(わら)をも掴むような苦労をしてすら手に入らなかった金が、いまや指一本動かすだけで自分のものになる。いともたやすいことだった。幸せとは、こうして手に入れるものだったのか!
 死んだ会社員のことなど、可哀想だとはまったく思わなかった。罪の意識など到底ない。むしろ、死んで当然である。あの小ぎれいな身なり、鞄に隠された大金。間違いなく「向こう側」のひとりだ。そして、「向こう側」の人間が「こちら側」を搾取してなりたっているこの世界――これが真実であれば、この会社員も自分たちから富を横取りしていたに違いあるまい。だから、奪われたものを取り返しただけ。これは正義だ。

 男は街路をふらつきながら、自分なりの「革命」を振り返っていた。
 昨晩は久しぶりに繁華街へ行き、酒を浴びるように飲んだ。それこそ何ヶ月ぶりかの酒は、心地よく頭を痺れさせる。いいこと(・・・・)をした後なので、なおさら酒がうまい。結局、朝までひとり飲み明かしてしまった。革命を起こせば、こんな贅沢も自由自在だ。
 あの学生が言ったことは本当だった。「力」さえあれば、革命を起こすなど朝飯前だった。そして、懐のなかには「力」がある。引き金一つで敵を倒すことができるピストルが。不正と不公平の蔓延(はびこ)るこの世の中を、根底からひっくり返してやる。もはや怖いものなどどこにもない。
 男は、生まれて初めて味わう万能感に酔いしれていた。
 普通なら、幼少の頃に親に褒められたり、甘やかされたりして、幼心に万能感を体験するのが常だ。自分は他人より勝っている、世界は自分を中心にして回っている、という感覚である。しかし、小さい頃から狭い長屋に押し込められ、周囲の冷淡に晒されてきた男には、そういった経験がなかった。
 そして今、男の手にはピストルがある。この小さな銃が「向こう側」の人間を倒したのを目撃して、彼は確信した。これがあれば、どんな者にも打ち勝つことができるのだ、もはやおのれに敵なしだ、と。自分の行為は正義の執行である、という思い込みも加わり、彼は有頂天を極めていた。
 幼児的快感に満たされ、往来を闊歩(かっぽ)する男。千鳥足でにやつく姿に、奇異の目が集まる。しかし、まったくお構いなしだった。自分は正義の戦士。他は取るに足らない人間、そして成敗すべき悪である。そうした、確固たる信念があった。そして日が暮れるのを見計らい、路地裏に消えていった。

 次なる革命を起こすべく、男は雑踏を眺めていた。今度は誰にしようか。この間はエリートらしい男だった。だが、これは小物だ。もっと社会を牛耳っていそうな、大層な金持ちがいい。そのほうが、もっと世直しに近づく。前よりたくさん金も入るだろう。
 物陰にしゃがみ込み、道行く人々を品定めしていたとき。突然、すぐ後ろから野太い声が響いた。
「警察だが。ここで何をやっているんだね」
 思わず肩が跳ね、口から心臓が飛び出しそうになった。そこには、制服を身に付けた、屈強な警官が立ちはだかっていた。なぜ気が付かなかったのだろう、通りの様子に気を取られすぎていたのか。混乱する頭を何とか整理しつつ、男は答えた。
「いや、ちょっと人間観察をしてましてね……」
「ほう、人間観察。なぜ?」
 警官は真っ直ぐ、睨みつけるようにこちらを見つめている。その視線には強い疑いの念が宿っていた。当たり前である。人通りの少ない、薄暗い小道でうずくまる姿を見て、怪しいと思わない者がいるだろうか。取り繕った男の笑顔が強ばっていく。
「いえ、私は学生でして、人々の行き交う往来の研究をしておりまして」
「どこの大学? 学生証見せてもらおうか」
 弁明を遮るように、詰問が飛んでくる。その表情は見るからに厳しいものになっていた。
「最近、この近くで男性が射殺された事件が起きてね。疑っているわけじゃないが、念のため署に来てもらおうか」
 「疑っているわけじゃない」と言っているが、完全に疑われている。男は焦りに駆られた。先ほどまでの自信はどこへいってしまったのか。残っていた酔いも、身体から抜けていった。警官の威圧に気圧(けお)されて、すっかり萎縮してしまった情けない姿だけが残っている。
 彼は警官に気が付かれぬよう後ずさりすると、素早く身を翻した。その瞬間、骨張った大きな手が肩を掴む。
「どこへ行く。早く学生証を見せなさい」
 逃すまいと、掴む力が段々と強くなっていく。そのまま引きずられていきそうなほどだ。もし警察署に連行されたら、一巻の終わりである。ピストルは取り上げられ、気の遠くなるような豚箱生活が待っている。そうなれば、革命は失敗だ。幸せは二度と手に入らなくなる。
 男は、背後に向かって低く(うな)った。
「見せますよ……学生証」
 懐に手を入れ、警官に向き直った。黒光りする、小さな凶器。それが、男の掌から覗いていた。あっけにとられた警官に、太く無骨な銃身が押し当てられる。
 火を噴く銃口。大きな風穴が、土手っ腹をうがつ。ほとばしる鮮血の噴水。無我夢中で何度も引き金を引いた。
 男を掴む力が、徐々に失われていく。すがりついた手を払いのけると、警官は血反吐を吐いて崩れ落ちた。
「……やってしまった」
 地面には血の海ができ、建物の外壁には赤黒いしぶきが飛び散る。見るも無惨な殺戮(さつりく)の現場には、深紅に染まった男が立ち尽くしていた。
 会社員を殺したことを、警察は知っていた。こんなに早く情報が回るとは思っていなかった。もしや、もう犯人が自分であることも分かっているのではないか。
 そしてたった今、それを調べている警官にも手を出してしまった。警察はメンツにかけて、厳しく捜査をするだろう。地の果てまで追ってくるに違いない。
 逃げなければ。警官殺しがばれる前に、出来るだけ遠くまで。
 男は、夜暗の裏道を狂ったように走って行った。道すがら、ない頭を振り絞って考える。至近距離で撃ってしまった。服は返り血で真っ赤だ。こんな恰好では表に出られない。遠回りをして橋の下に向かい、流れ者のバラックに押し入って衣服を強奪した。着ていた血みどろの服は、川に投げ捨てた。
 土手を上がり、表の大通りへ出て、駅へ向かった。列車は安いが、すぐに足がついてしまうと聞いたことがある。一刻も早く逃げたいが、捕まってしまっては意味がない。駅前を見渡すと、何台ものタクシーが停まっている。男は、平静を装いつつ、そのうちの一台に乗り込んだ。タクシーはけたたましく唸り、郊外の闇へと消えていった。




***

 都会から逃げ出して十日あまり。曇天の下、男は寂れた片田舎を彷徨(さまよ)っていた。ここがどこかも分からない。出来るだけ遠くへ逃げようとしていたら、縁もゆかりもない見知らぬ土地に行き着いていた。
 あれだけたくさんあった金は、ここに来るまでにほとんど使い果たした。逃亡先が分からぬよう、タクシーを何度も乗り継いできたからだ。あとは、ポケットのなかに十円が残るばかり。もうこれ以上は逃げられない。
 しかし、ここは四方を山に囲まれた田舎町。あの街からどれだけ離れているか予想もつかないが、警察とてここまでは手を回せないだろう。
「ここまで来れば大丈夫だろう……」
 彼は、荒々しく息を上げた。しばらくは土方をして金を稼ぎつつ、余力をつけておく。そして、頃合いを見て場所を移そう。面倒なことになったが、そうするしかあるまい。警察に捕まっては、すべてが水の泡だ。幸せを手に入れるためには、今は苦難の道を歩くほかない。これは名誉ある退却だ、と男は強がった。
 町に広がる田園では、稲穂はすっかり刈り取られて黒々とした土がむき出しになっている。そのあぜ道を歩いていると、その先に小さな商店があった。同時に、空腹であることに気が付いた。
 男は思案した。ここでも革命を起こすべきか。この町についてからというもの、何も口にしていない。これからどう動くにせよ、腹が減っていてはだめだ。
 だが、ここは見ての通り、狭苦しい田舎だ。今は追われている身、ましてや少しの間ここで過ごすとなれば、騒ぎを起こしてはまずい。
 しばらく歩きながら考えていたが、結局理性が勝った。彼はピストルを懐の深くにしまい込み、店の戸を開ける。
「……どうも、いらっしゃい」
 店の主人らしき年寄りが、新聞を読みつつ店番をしていた。戸の音で客が来たのが分かったのか、こちらには目もくれない。
 田舎の商店らしく、陳列棚はところどころ空になっている。そこに、食パンがひとつ、無造作に置かれていた。腹を満たすには、これが一番良さそうだ。しかし、今はパンを買う金もない。
 男は店番をしている老人を一瞥した。あの様子なら、盗んでも分からないかもしれない。これまでの経験から、男自身も盗みには自信があった。だが、万が一ばれたら大変だ。警察に捕まったら、何のために逃げてきたということになる。
 彼は後ろ髪を引かれつつ、別の棚から菓子を取った。手にしたのは、箱入りの飴。これを買うのが精一杯だ。革命で幸せになるつもりが、どうしてこんな思いをしなければならないのか。今は耐えるとき、雌伏のときだ、と自分を納得させ、飴を持っていった。
 店主はいまだ新聞に没頭している。その顔は、紙面に隠れて見えない。勘定のため声をかけようとしたとき、一面に踊る大見出しが、思いがけず目に飛び込んだ。

『連続射殺魔、都内から逃走か 警察が注意呼びかける』

 男は凍り付いた。頭からつま先まで、血が引いていくのが分かる。言葉を失い、その場に立ちすくんだ。
「何か用かね。そんなところで突っ立って」
 ぶっきらぼうな声で我に返る。目の前で棒立ちしている男が気に障ったらしい。
「あ、お金を払おうかと」
「はあ、そうかい」
 勘定場の老人は無造作に新聞をたたみ、机に置いた。初めて、視線が重なる。
「あんた……見ない顔だな。どこのモンだ?」
 男の顔を見た途端、老人は威嚇するように問うた。古ぼけた眼鏡から、鋭い眼光が覗いている。
「いえ、学生です。この辺を旅行していて……」
 言いかかったまま、男は口をつぐんだ。今着ているのは、ホームレスから奪ったぼろ同然の服だ。学生に見えるはずがない。動揺が抑えきれなかったのか、とっさに妙なことを口走ってしまった。
 老いた店主は、なおも無言でこちらを凝視している。その目は、猜疑心で満ちていた。その重圧に耐えられず、十円を放り出すと、逃げるようにして店を去った。

 男は狼狽し、町を右往左往した。
 まさか、こんなに早く警察の手が回っているとは思いもよらなかった。警官殺しどころか、逃亡したことまで分かっているとは。もしや、新聞には書かないだけで、どこに逃げたかも目星がついているのではないか。
 それに、あの店主の様子は何だったのか。ただ単によそ者に冷たいだけなのか。それとも新聞に載っていた事件の犯人だと疑っているのか。もしそうだとしたら、この町にはいられない。しかし、つい先ほど、財産のすべてを使ってしまった。もう逃げ場はどこにもない……。
 考えれば考えるほど、気が狂いそうになる。ここまで逃げてきたのだから捕まるはずがない、あの年寄りの態度は田舎者だからだ。男は自分に言い聞かせた。そうでないと、正気でいられそうにない。
 行く場もなくうろつき回っていると、道端に中年の女たちが集まっているのが見えた。暇を持て余した主婦なのだろうか、真昼間からやかましく井戸端会議に熱を上げている。男は、その後ろを何気なく通り過ぎようとした。そのとき、世間を憂う会話が漏れ出てきた。

「……ところで、今日の新聞見た? まったく物騒な話よね」
「サラリーマンと警官殺して逃亡中だって! 嫌な世の中ね、まったくどこへ逃げたのかしら」

 男は冷えた鉄のように固まった。ここでも、自分の起こした事件が広まっている。彼は知らず知らずのうちに、聞き耳を立てていた。そうとは気が付かず、この寄り合いは、ああでもない、こうでもない、と凶悪事件を話の種にしゃべくっている。それも佳境に入ると、あるひとりがわざとらしく声を潜めて言った。

「……ねえ、もしかして逃げた犯人って。ここ最近、この町をうろついてる浮浪者いるじゃない? ちょっと怪しいと思うんだけど!」

 いかにも冗談めかした言い回しだった。しかし、それが下世話な好奇心を刺激したのだろうか。他の者たちも、面白おかしく囃した。

「確かにそうね! ここに突然出てきて、ほっつき歩いているんだもの、怪しいに決まってるわ!」
「そうでなくても、今度見たら通報してやろうかしら! 汚らしくて仕方ないもの!」
「そうね! 警察に引き渡してやりましょ!」

 警察、警察と騒ぎ立てる声。それが耳に入ってきて、頭のなかを荒らし回る。
 そのとき、男の奥底で、焦燥が限界に達した。
 彼は狂乱の叫びとともに、あらぬ方向へ突っ走っていった。閑静な町にとどろく、正気の沙汰ならぬ奇声。一斉に振り向く井戸端会議の面々。話題にしていた流浪の者がすぐ近くにいたことにようやく気が付くと、悲鳴をあげながらちりぢりになっていった。

 抑えきれぬ衝動の果てに、男は町のはずれに佇んでいた。どうしてここに着いたのかは分からない。頭のなかはあの場所から逃げ出すことでいっぱいだった。ただ、「逃げろ」と告げる本能に従っただけだ。
 けれど、もうどこにも逃げられない。何もかも尽き果ててしまった。
 逃げることができなければ、聞こえてきた会話の通り、きっと警察がやって来る。縄にかかって投獄されるだろう。そして、しかるべき裁きの先に待っているのは――。
 地下の処刑台で、犬のように吊された男。脳裏に駆け巡る、無惨な最期。
 男は眩暈(めまい)に襲われ、へたり込んだ。「革命」など虚像だった。世の中を変え、幸福を目指していたつもりが、おのれを破滅させた。
 人殺し。殺人鬼。声なき糾弾が、至る所から聞こえてくる。耳を塞いでも、非難の叫びは止まらない。
「やっぱり、おんなじじゃないか……」
 暗鬱(あんうつ)な空模様を仰ぎ、失意のうちに吐き捨てた。これまでの道は、光の届かぬ袋小路へと続いていた。ここが、その行き止まり。朽ち果て、(ちり)あくたとなって消えるのだ。父親がそうであったように。
 どうやっても、幸せは訪れなかった。ただひたすら幸福に向かおうとしたのに。まるで底なし沼のように、あがけばあがくほど奈落へ引きずり込まれていった。今はただ、翼をもがれた鳥のごとく、土埃のなかでもがくのみである。
 突如、曇り空から、雨が冷たく降ってきた。風が吹き荒れ、雨脚はみるみるうちに強くなっていく。絶望する男を容赦なく打ちのめす、激しい雨風。人ばかりか、自然までもが男を責め立て、追い詰める。
 彼は足下に転がった木の枝にしがみついて起き上がった。そして、雨露をしのげる場所を求めて、身体を引きずって歩き出す。
 身も心も限界に来ていた。もはや、人々からの追及から逃れる気力すらない。ならば、一体何のために雨宿りの場所を探しているのか。
 あえて言うなら、雨天のときに犬猫が軒下に逃げ込んでくるのと似ているかもしれない。ただ、そのとき限りの寒さがしのげればいいのだ。彼らに深い考えなどない。畜生どもの生涯に意味などないのだから。これまでの人生も、似たようなものだった、と男はむなしく自嘲した。
 枯れ枝にすがり、雨に晒されながら這いつくばる。すると、眼前にそびえる山のふもと道の先に、大きな十字の造形があるのが見えた。色褪せ、薄暗い町から隔絶されたように建った、小さな白い建物。その尖った屋根に、それが立っていた。
 男は、それを目指して足を進める。だが、飢えと渇きが襲い、思うように力が入らない。一歩、一歩と踏み出すたびに、疲弊した身体が軋みを上げる。
 それでもなお、何かに導かれるように、白い建物に向かっていく。そして、その門をくぐり、扉へと続く石畳に足を踏み入れたとき。男を支えていた最後の力が身体から抜けていった。彼はがくりと膝をつき、地に倒れ伏した。



「あら、気が付きましたか。気分はどうですか」
 目を覚ますと、こぢんまりとした部屋に横たわっていた。身を起こすと、そこには円いテーブルと本棚が置いてあるだけなのが分かった。それ以外の目立った装飾や家具は置いておらず、ずいぶん殺風景である。そして男の傍らで、年老いた女が古びた椅子に座っていた。虚ろな視線のまま、彼は(つぶや)く。
「俺は一体……」
「覚えていないのですか。ここの扉の前で倒れていたのですよ」
 どうやら、この黒い頭巾と衣をまとった老女に助けられたらしい。行き倒れの浮浪者を家に入れてまで介抱するとは。男は驚いて、彼女に目を向けた。その顔には深々と皺が刻み込まれ、長年の労苦が窺えるが、しかしそこに浮かぶ表情は温厚そのものだ。老いた垂れ目からは、少女のごとく優しげな瞳が覗いている。
 まじまじと見つめる男に向かって、彼女は問いかけた。
「して、どのようなご用だったでしょうか。こんな町はずれの場所にわざわざ足を運んでくださったのですから、何か大事なことに違いないでしょう」
 彼は面を伏した。これといった用などあるはずがない。ただ、人を殺して、逃げてきただけだ。この老人は今でこそいい顔をしているが、犯罪人だと分かった途端、ここから追い出すのではないか。
 黙っていると、老女は温かくほほ笑んだ。
「もしかすると、ここに招かれたのかもしれませんね」
 心なしか、その声色は少し嬉しそうであった。
「外の世界から訪れる人が現れるなんて、何年ぶりでしょう。お若い方にはつまらない所でしょうけど、どうぞごゆっくりしていってください」
 しばらく待っていてください、と告げると、彼女は部屋の外へ出て行った。
 ひとり残った男は、所在なげに周りを見渡した。すると、壁に掛かっているものに目がとまる。
 それは、外で見たものと同じ、十字の飾りであった。小さいだけで、形そのものは外のものと変わらない。
 ただ、決定的に違うのは、そこにある人物が磔になっていることだった。その人は半裸で、頭には茨の冠が載っている。手足は釘で打ち付けられ、顔は苦悶の表情を浮かべていた。
「お待たせしました。外は冷えたでしょう、熱いお茶でもいかがですか」
 男が壁に見入っていると、老女がポットを持って戻ってきた。円卓に置かれたティーカップに紅茶が注がれ、香りが立ちこめる。男は一口飲むと、おもむろに口を開けた。
「あの……そこに掛かっているものは?」
 突然の問いに、一瞬だけ困惑の色が彼女の顔に浮かぶ。だが、指されたほうを見て納得したようだ。
「ああ、これのことですか。この十字に組まれた木は十字架といいます。その十字架にかけられた方が見えるでしょう。私はこの方に、生涯をかけてお仕えしてきました」
 十字の木に釘付けられた彫像。崇め奉るかのようなまなざしが、その木細工に送られていた。
「この方こそ、私が心から尊ぶ方です。また、私を強く支えてきた方でもあります。私もこの方にならい、この方のようにありたいと願って、これまで生きてきました」
 年寄りらしからぬ、希望に満ちた話しぶりである。
 男は、十字架の人について考えた。これほどまでに尊敬されるとは、どんな偉人なのだろう。戦いでその名を響かせた英雄だろうか。それとも、民を思いやった理想の王なのか。いずれにしても、磔になっている理由が思い付かないのだが……。
「その方は、どういう人だったのですか」
 自分の話に興味を持ってくれたと思ったのか、彼女は快く答えた。
「この方は、常に弱く苦しんでいる人に寄り添い、彼らの幸福を望んでいました。激しい迫害に遭うこともありましたが、『右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい』と説いて、争うことを好みませんでした。最期は裏切られて十字架の上で亡くなりましたが、それでもこの世が救われることを願いながら死を迎えたのです」
 憧れを語るかのような熱意ある語り口。だが、それに反して、男が感じたのは戸惑いと呆れだった。
 一体、どこが尊敬できるというのか。自分が幸せならともかく、その身を犠牲にしてまで他人を思いやるとは。そんなもの、ただの間抜けではないか。それに、何も悪事を働いていないのに殺されたのだ。恨みや憎しみを感じないはずがない。そんな人がいるはずないだろう。
「そんな、馬鹿な」
 男は、つい口に出してしまった。悪意はない。偽らざる本音だったのだから。
 はっとしたように老女は目を見開いた。その短い言葉が、彼女の何かに触れたのだろうか。しかし、無礼に対する怒りではなかった。その代わりに、明るかった表情に翳りが差していく。
「……そうですね。馬鹿、なのかもしれませんね」
 なおも十字架上の人に目に向いたまま、わずかに顔を伏せた。過去を懐かしむように、ひとつひとつ思い出しながら語り出す。
「ここは、この土地では珍しい修道院でした。かつては、志を同じくした人々がいたものです。ともに祈り、ともに働く毎日でした。しかし、何年かして皆出て行ってしまって……。『教えは素晴らしいけれど理想に過ぎない、ついていけない』。そう言って、次々と修道院を去っていきました」
 それから少し間を置き、自らを落ち着けるように紅茶をすする。そして、寂しそうに微笑した。
「ただ私だけが残りました。今となっては、私ひとりが最後の修道女です。ただひとり、この方とともに歩んできたのです」
 彼女はカップを机上に置くと、息をついてまぶたを閉じた。うっすらと哀しみを浮かべた横顔に、男は言うべき言葉を見付けることができなかった。ただ、沈黙を貫くだけで精一杯である。
 そんな彼の様子に気が付いてか、老女は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、暗い話になってしまいましたね。でも、これも私が自ら選んだ道。悔いはありません。それに、今日は久方ぶりに人が訪れてくれました。今、心は嬉しさで満ちあふれています」
 それから、男のほうに向き直った。先ほどまでの悲哀は消え、その表情は柔らかなものに戻っている。まるで子どものごとく、興味深そうに尋ねてきた。
「ところで、今度はあなたのことについて聞かせてくださいませんか。ここのところずっと、あなたのようなお若い方と話すことがなかったので気になるのです」
 彼は、口ごもってしまった。若者が語るべき物語など、何も持っていない。貧乏、挫折、敗北。これまでの人生など、この三つで済んでしまう。人殺しまでしてしまった。このことを知ったら、どういう顔をするだろう。きっと不愉快な思いをさせるに違いない。
 それに、留置場のときのように腹を割って話したところで、いいことなど何ひとつなかった。汚点だらけの行き詰まった生涯など、話さないほうが自分にとっても他人にとってもいいのではないか。
 男は考えあぐね、言葉を濁す。そのとき、外からかすかに物音がするのに気が付いた。こちらに近づいてくる、枯れ葉や枝を踏む音。これはまさか――。
 考える間もなく、それは扉を叩く音に変わった。
「あら、どなたかいらっしゃったようですね。少し待っていてください」
 そう言い残すと、老女はいそいそと向かっていった。
「はい、どなたさまでしょうか」
「警察の者です」
 温和な声を押しのけ、荒く短い返事が修道院に響く。複数いるのか、立て続けに別の声も聞こえてきた。
「不審な人物をこの近くで見たという通報が入りまして。何か心当たりはありませんか」
 低く太い話し声は、男の耳にも届いた。やはり、ここに来たか。もはやこれまで、と男は観念した。あんなに人がよさそうな老人なのだ、きっと警官のいいなりだろう。なかに踏み込んできて、探し回るに違いない。見つかるのも時間の問題だ。
 彼は部屋の隅に身を寄せ、懐の得物を取り出した。どうせ捕まったら、死刑が待っているのだ。こうなったら、奴らと刺し違えて果ててやる。ピストルを両手に構え、警官たちが来るのを静かに待ち受けた。
 しかし、決死の覚悟をした男に飛び込んできたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「いいえ、知りません。私は普段、修道院のなかにいますから。外のことは分かりません」
 穏やかだが、はっきりと意志の通った声。男は息を呑み、耳を疑った。それは警官のほうも同じだったようである。思いがけない年寄りの態度に、一瞬の静けさが辺りを包み込む。思わず面食らってしまったことにプライドを傷付けられたのか、凄味をきかせて問い詰め始めた。
「それは本当ですか? この修道院に向かって歩いて行く浮浪者を目撃した住民もいるのですが。それでもあなたは知らぬ存ぜぬと、そうおっしゃるのですな?」
 しかし、老女は臆せず、毅然として答えた。
「はい、おっしゃる通りです。私の主と、愛すべき兄弟姉妹。ここにいるのはそれだけです」
 思いのほか手強い老人に舌を巻いたのか、それとも不審者を見失ったと思ったのか。分かりました、と言ったきり、警官たちは黙り込んでしまった。そして、しばらくすると、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

「ごめんなさい、少し時間がかかってしまいました。お茶も冷めてしまいましたね」
 部屋の戸が静かに開いた。彼女は帰ってくるなり、紅茶を新しく注ごうと準備している。まるで何事もなかったかのように。その背に、男はおずおずと話しかけた。
「あの、聞いてもいいですか」
「はい、何でしょう」
 彼女はこちらに背を向けたまま、かいがいしく茶を淹れている。
「警察の人が言っていた浮浪者のことです。……なぜ、俺をかばったんですか」
 彼女は振り返り、冷めた茶を下げながら平然と答えた。
「私は、当たり前のことをしたまでです。あなたという先客がいるのですから、誰であれ、他の客人を入れるわけにはまいりません。ですから、お引き取り願いました。それが、ここに招かれたあなたに対する当然の礼儀というものです」
 それから新しく淹れた茶を机に置いて、笑顔で勧めた。
「さあ、温かいお茶ができましたよ。どうぞくつろいでください」
 男は感嘆した。金がなくなれば簡単に見捨て、苦しい状況になれば騙しすかしてくる。これまで出会ってきた連中は皆、こちらの立場を胸算用しながら接してくる卑怯者ばかりだった。だが、この老人は違う。相手が誰であっても道理を貫き、ひとりの人間として向かい合う。真に強く、誠実な人だと思い知った。
 男は老女に向き直り、真っ直ぐ彼女を見つめた。
「話します。自分のことを、ここに来たわけを。どうか聞いてください」
 男は意を決し、口を開いた。

――俺は、貧しい生まれの、貧しい子どもでした。愛してくれる人など誰もいなかった。姿を見れば石を投げてくる奴らばかり。そんな環境で、俺は育ちました。
 それに耐えきれず、大きくなってからは必死で貧乏から抜け出そうとしました。でも、それは無駄だった。『向こう側』の人間からの迫害は止まらず、『こちら側』の俺はたびたび屈してしまいました。
 それでも、俺は幸せになりたかった。そのために、どんな手段を使ってでも。自分ばかりか、他人をも犠牲にしてしまいました。
 しかし、それでも幸福が訪れることはありませんでした。そして敗走の果てに、この修道院へ行き着いたのです――。

 ありのままの過去を、男は飾ることなく告白した。振り返ることすら痛苦となる日々。言葉を発するたびに、苦悶と悔悟が浮かび上がる。その様子に動じることなく、老女は慈しみに満ちた表情で耳を傾けた。
「あなたは、これまで大変苦しんできたのですね。あなたの幸せを願う気持ち、痛いほどに伝わってきました」
「そうです。そうやって幸せを求めるたびに、どんどん深みにはまっていったのです」
 彼は虚脱感に満たされ、声を落とした。
「幸せを追い求め続けた末に、罪を犯してしまいました。決して償うことのできない、恐ろしい罪です。俺はただ、幸せになりたかっただけなのに……」
 幸福への執着を語る男。その言葉とは裏腹に、そこには諦めの念も混じる。彼は力なくうめき、頭を垂れた。
 老女はうなだれている男を見つめていたが、やがてひとつの問いをかけた。
「あなたの思う『幸せ』。それはどういうものか教えていただけませんか」
 男は苦悩するように目をつぶり、眉をひそめた。そして、しばしの沈黙の後に答えた。
「……幸せは、願っていればいつか訪れるものだと思っていました。でも、いつまでたっても幸福はやって来ません。そこで、考えを変えたのです。幸せは、人から奪い取れってやればよいのだと。その結果が、この有様です」
 彼は胸の内を吐き出し、悲嘆する。
「もう、分かりません。幸せって、一体何なのでしょうか……」
 何度も求め、そのたびに誤りを繰り返した。この答えがたき問いの答えを探すのは、まったくもって無意味だったのかもしれない。男は手で顔を覆い、徒労のうちに塞ぎ込んだ。
 息の詰まるような静寂。そのなかで、老いた修道女は嫌な顔ひとつしない。ただ柔和な面持ちで、男の失意と絶望を受け止めていた。
「苦しい話をさせてしまって、ごめんなさいね。ところで、ここにいらっしゃるまでに、お疲れになっていたりはしませんか。もう食事の時間は過ぎていますが、よろしければ何か食べるものをご用意しますよ」
 思えば、ここ数日間は何も口にしていない。町の商店で買った飴も、逃げている最中にどこかへ落としてしまった。忘れていたが、空腹は限度に達しそうになっていた。男はうつむいたまま、小さく頷いて食事を乞うた。

 部屋の外では、老女が食事をつくっている。ふつふつと、食べ物をじっくり煮込む音。もの柔らかな音に、男は耳を澄ませた。
 思い返せば、幼い頃、家族が料理をつくっているのを見たことがなかった。確かに、麦飯を炊いたり、いわしを焼いたりはしていたのだろう。それはそれで料理、といえないことはないが、このような音を聞くのは初めてだ。それはあまりに心地よく、眠ってしまいそうなほどだった。
「さあ、できましたよ」
 その音色に疲弊した身体を委ねていると、老女の声がした。匙とともに席に置かれた小ぶりな皿。そこに入っていたのは、白い(かゆ)であった。
「うちも貧乏なものですから、大したものではないですけれど。どうぞ召し上がってください」
 目の前の皿からは湯気が白く立ちのぼり、素朴な香りを漂わせる。男は匙をとり、粥をすくいとった。口に運び、その味を噛みしめる。
「温かい……」

 知らぬ間に、男は声を漏らしていた。
 それはとても温かく、果てしなくいたわりに満ちていた。そして、これまでの生涯で口にしたどの食べ物より、美味しかった。これまで食べてきたもののなかで、これほどに温かいものがあっただろうか。
 その温かさは、心そのものだった。見ず知らずの薄汚れた男を快く迎え入れ、客人として接する心。重い過去を背負い、絶望に暮れる男に手を差し伸べる心。老女の持つ優しさが、粥の温かさを通して伝わったのである。
 五臓六腑に染みていく温もり。身体中を巡り、男の心にまで行き渡る。そして、冷たく凍てついた心をゆるやかに溶かしていく。それは雪解け水のように流れ出して、やがて男の瞳からあふれ出た。
「美味しいですか?」
 我が子を眺めるようなまなざしで、老女は尋ねる。男の口からは嗚咽(おえつ)が漏れ、言葉にならない。うん、うんとひたすら頷くばかりだった。
「それはよかった。私のつくった、取るに足らない料理であなたが喜んでくれている。とても得がたい幸福です」
 彼女はこれまでに増して穏和で、しかし確固たる信念に満ちた声色で男に語りかけた。
「幸せというものは、与えるもの。私はそう思っています。与えることで人が幸せになり、その様子に私も幸せになる。すべてに勝る大きな喜びが、そこにはあるのです」
 そして、しみじみと言葉を加えた。
「今日、あなたと出会えてよかった。あなたに喜んでもらえて、本当によかった。あなたに感謝します」
 粥を食べながら、老女の声に耳を傾ける男。口から紡がれる言葉の数々を耳にするたびに、彼は打ち震えた。これまで、誰も自分を必要としていなかった。職場の同僚や留置場の学生、果ては肉親まで、いともたやすく縁が切れ、離れていった。それなのに、彼女は赤の他人であるはずの自分をかけがえのない存在として扱ってくれる。そのことに、頑なな心が揺さぶられる。彼女の言葉が荒れ果てた心を癒やし、とうに失われたはずの尊厳が再び芽生え始めていた。
 指の震えを抑えながら、男は粥を頬張った。そして食べ終えると、涙を拭って顔を上げた。
「俺は、まったくの無知でした。無知ゆえに過ちを繰り返し、無知ゆえに罪を犯したのです。こんな近くに幸せがあったなんて、思いもよらなかった」
 それから、彼は老女に願い出た。
「どうかお願いします。これからなすべきことを、この無知な罪人に教えてください。もう過ちを犯したくはないのです」
 すでに、彼女のなかに答えはあった。その答えが耐えられるものか、思案していた。それは、男に茨の道を歩ませることになるだろう。この男に、これ以上の苦難を与えていいものなのだろうか。老女はしばし黙考した。
「あなたがなすべきことは、もう決まっています。ですが、それは険しく、苦しいものとなるでしょう。それでも、受け入れられますか」
 男の行く末を案ずるように諭す老女。しかし、彼は心に決めていた。
「受け入れます。その先に何が待ち受けているとしても」
 男の決意は、もはや揺らぐことはない。それを、老女は彼の瞳から感じ取った。自身も覚悟を決めたかのように、はっきりと切り出した。
「では、あなたの犯した罪と向き合いなさい。もう逃げてはいけません。あなた自身で、罪を償うのです。それは、あなたの犠牲になった人々、そして彼らの家族が癒やされるためです」
 そして、少しだけ苦しげに、言葉を続ける。
「そして、あなたを迫害し、苦しめてきた『向こう側』の人々を許しなさい。この世を恨んだままでは、真の贖罪はできません。また、憎しみを抱えたままでは、あなたの心も蝕まれていくでしょう。あなたの頬を打った人を許すのです。それは、あなた自身が癒やされるためです」
 男の返答を待つことなく椅子から立ち上がり、老女は窓辺に歩み寄る。
そのまま、目を合わせず彼女は告げた。
「もう雨はやみました。さあ、行きなさい。今度は、過ちを犯してはなりません」
 男も立ち上がり、部屋を後にした。
 そこに惜別の言葉はない。彼は決して振り向かず、重い扉を開け放った。




 ***

 幾たびか季節が回った真冬の日。男と老いた修道女を乗せた小舟は、彼の故郷に広がる海に浮かんでいた。異国から吹く北風に晒され、身が震える。彼女は、隣の男にそっと語りかけた。
「こんなにも厳しく寒い場所で、あなたは育ったのですね」
 あれから、彼からの便りは一切なかった。しかし、つい数週間前、一通の手紙が来たのである。
 それを修道服から取り出し、確かめる。その手紙はインクがにじみ、しわだらけになっていた。開いては読み、開いては読みを繰り返すうちに、そうなってしまった。彼女はかじかむ手で、ぼろぼろの紙を注意深く開けた。
 その手紙には、修道女に宛てた言葉が、男の過ごした半生とともに記されていた。
 あの後、男は町へ戻り、警察に自首したとのことだった。そして牢に入れられ、しかる後に裁きを受けた。この手紙は、彼が獄中で書いたもの、ということになる。
 そのなかでも幾度となく読み返し、文字がかすれた部分。彼女はもう一度、そこに目を落とした。

――私はその後、牢へつながれました。罪の審判を受けるためです。
 それまでの間、ずっと考えていました。私が罪を償うためには、何ができるのかと。昼も夜も悩み、悩み抜いた結果、私はある考えが思い浮かびました。つまり、二度と私のような者が現れぬよう、私と同じ境遇の子どもたちを支えることが最良の贖罪なのだ、ということです。
 私は、そのことを弁護士の先生方に伝えました。彼らは、その通りだ、と賛同してくれました。それが君にできる最大の社会貢献だ、遺族の方も理解してくれるだろう、と。そのためには、刑を軽くしてもらわなければなりません。ですから、裁判では情状酌量を狙っていこう、ということになりました。
 ですが、私にかけられた裁きは、そんなに甘くはありませんでした。どれだけ不幸な生い立ちを説明しても、法廷の人々は動じません。それどころか、口を開くたびに、こちらに向いた憎悪や軽蔑が増していくのが分かるのです。裁判官からの、白々しい視線。遺族の方々からの、静かな敵意。私はそれらを一身に集めてしまいました。
 私に下された判決は、死刑でした。
 「生きて償いたい」。家族を殺された人々にとって、これほど軽々しく、忌まわしい言葉はなかったのです。私は初めて、犯した罪の重さを思い知りました。
 牢に戻り、罪を償うにはどうしたらいいか、もう一度自分に問いました。弁護士の先生は、今すぐにでも控訴するぞ、と息巻いています。ですが、私が下した判断はまったく別のものでした。私は、この判決を受け入れることにしたのです。
 遺族の方々が願っていたのは、極刑でした。その考えは、決して変わらないでしょう。法廷で、私はそう確信しました。その心を癒やすには、罪人の死しかありません。いたずらに裁判を引き延ばしても、傷付くのは遺族の方々です。ですから、私は控訴せず、刑を受け入れたのです。
 死刑なのに控訴しないなんて馬鹿げている、正気の沙汰じゃない、と連日詰め寄られました。そして、弁護士の先生方は皆、去って行きました。気が違っている、我々の苦労も考えろ、と吐き捨てて。テレビも新聞も、私のことを面白おかしく書き立てました。やれヤケクソになったんじゃないか、やれ頭がおかしくなったんじゃないか、と。
 しかし、これは犯した罪と向き合い、遺族の方々が少しでも癒やされることを考えた結果です。世間からどう思われようと構いません。あなたがどう思うのかも分かりません。ただ、あなただけには真実を知ってもらいたかった。そのために、手紙をしたためた次第です――。

 冷たく(よど)んだの空の下、流氷が漂う大海原。押し寄せる荒波を見つめながら、彼女は独りごちた。
「あなたの考えは、正しいものだと思います。正しいがゆえに、死なねばならなかった。あなたは自分の命をもって、他者を癒やす道をとったのです。あなたの死によって、犠牲になった人々の心はゆっくりと、しかし確実に慰められていくでしょう。それはあなたの優しさ、愛がなければ不可能でした」
 手紙が書かれてから間もなくして、刑は執行されたという。一審で確定したとはいえ、異例の早さであった。修道女が受け取ったのは、男が処刑された後のことであった。
 その後、官吏から連絡があった。家族ではなく、修道女の手で葬ってほしい、というのが執行直前の望みであったのだと。そして今日、彼女は男とともに沖へ出た。彼を故郷の海に還すためである。

 思い返される、男との出会いと別れ。そして、穏やかだった顔を苦痛に歪めながら、彼女はうめいた。
「その正しく、純粋な心に、憎しみはなかったはず。あなたは、あれほどまでに自らを苦しめ、追い詰めた世の中を許したのです。あなたに『許しなさい』といったとき、私はとても辛かった。何の(とが)もなく虐げられてきたのに、それを自ら進んで許すこと。これほど不条理なことがあるでしょうか」
 彼女は再び隣に目を向ける。そこには、小さな壺が鎮座していた。いまや男は灰となり、壺のなかに眠っている。
「あなたの犯した罪は、とても重い。死をもってしか償えない罪だったのかもしれません。ですが、あなたは最期に、愛と許しを自ら与えました。あなたは愛されずして愛を示し、許されずして許しを与えたのです。そのことを、私は知っています。神もまた、知っておられるはずです」
 それから、彼女は手紙の隅を見た。そこには、潰れそうな字でこう書いてあった。

――この世の中には、私のように無知で弱い人々がたくさんいると知りました。これらの人々を勇気づけることは死刑囚の私にはできませんが、どうか彼らのために祈ってください――。

 わずかな余白に詰め込まれた小さな文字。その筆跡は、少しだけ新しく見える。手紙を書き終わった後、急いで書き加えたのだろう。これこそ、死に行く男が一番伝えたかったことではないか。どういうわけか、初めてこの言葉を見たとき、そう思えた。
「……あなたの言う通り、この世界は弱く小さな者たちであふれています。彼らの多くは抑圧され、苦しみの声を上げています。しかし、その叫びを聞く人は誰もいません」
 ふと、かつて修道院にいた人々が、脳裏をよぎった。同じ道を目指し、やがて(たもと)を分かった仲間たち。修道院の門から去って行く後ろ姿が、記憶の底からよみがえる。
「そのような世界で、『右の頬を打つ者には左の頬を差し出しなさい』と説くのは愚かなことかもしれません。相手が弱いことをいいことに、完膚なきまで打ちのめす者がいるからです」
 彼らの面影が問いかける。この残酷な世が変わることなどあり得ないのではないか。祈りを捧げる値打ちなどこの世にはないのではないか……。
 これまで幾度となく直面してきた葛藤。彼女は瞳を閉じ、沈黙した。答えなき問いが、眼前の闇に迫り来る。
 どこまでも続く、冷たい世界。いつか胸に描いた理想とは、似ても似つかない現実。それは、簡単には変わらないのかもしれない。何度も巡る年月のなかで、薄々分かっていた。
 しかし、その諦めに、男が示した姿が交差する。冷酷な世界にあって、人を許し、人のために命を捨てた最期。その姿が、深い失望に一石を投じていく。
 彼女は、ゆっくりと口を開いた。迷いを振り切るがごとく、わずかに語気に力が入る。
「ですが、いつか、いつの日か、世界は変わります。争いあるところには和解が、怒りあるところには許しが、憎しみあるところには愛が訪れる日が、必ずやってきます。そのとき、あなたのような、名もなき小さな者の示した優しさが、人々を導く道標となるはず。私は、そう信じています」
 口元が震える。それは寒さのせいだろうか。それとも、老いた身体を駆け巡る感情のせいだろうか。
 そして、想いを吐露し切った後、静かに呟いた。
「……哀しいけれど、信じるほかないのです」
 眼前に果てしなく広がる、凍てついた絶海。頭上を不気味に覆う、褪せた暗雲。どれだけ声を振り絞ろうともその叫びはそれらに吸い込まれ、消え失せてしまうだろう。彼女は声に出すことなく、ただ心のうちに訴えた。

――主よ、憐れんでください(Kyrie eleison)
彼らを、この世を憐れんでください――

 灰色の空に、修道女は声なき声をもって呼びかける。
 相変わらず雲は厚く横たわる。今、その空を照らす陽はない。
 それでも、世界から光がまったく奪われてしまったわけではない。暗く垂れ込める霧もやの向こう。そこには必ず、まばゆい太陽が輝いているはずである。今は太陽が隠されているために、目には見えないだけなのだ。
 人々は(わら)うだろう。見えないものなど信じられるはずがない、と。
 だが、いつか曇天が切り裂かれ、世界が光に照らされる日が必ずやって来る。
 明けない夜がないように、晴れない空もきっとないのだから。

Kyrie/霧 作

Kyrie/霧 作

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-02

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