フリーズ 43創造の箱
箱『記憶』
いつの頃からだろうか。
記憶が記憶として色彩や音を伴い始めた頃にはもう、心のどこかで君のことを探していたのかもしれない。
友達と公園の遊具で遊んでいる時も、退屈な授業を右から左へと受け流す間にも、ずっとここではない感覚があった。君のいない現実は朧気だ。だからなのだろう。君の不在を憂うる度に、自分を消してしまいたいという衝動に駆り立てられた。
僕は弱い。脆くて君がいないと生きていけない。どうすれば時流が断絶したものを、再び結び合わせることができるのだろうか。その方法をずっと探していた。ずっとずっとずっと。だから僕は……。
祈った、叫んだ、涙を流した。
怒った、震えた、殴打した。
死んだ、生まれた、吐いた。
そして、僕は、私を創った。
「広い世界の中で、見つけてくれてありがとう」
私が僕に言った。鏡の中で私が笑うのを見て、僕もはにかんで笑って見せた。僕は私の瞳を見つめて
「君が世界のどこにいたとしても見つけたさ。例え君がこの世界にいなかったとしてもね」
と言うと、ありがとう、と私は口ずさみ、そして僕とキスをした。
あ、そういえば、季節が移ろうのも忘れて、笑っていたね、あの日の私たちは。そうだったっけ。そうだよ、覚えてないの?ごめん、僕は忘れん坊なんだ。
また僕は君のことを忘れてしまうのだろう。幾度も忘れて、その度に探し求めて。木漏れ日の下で育てた僕の弱い夢。此岸と彼岸を繋ぐ夢。それか妄想と現実の錯綜か。トーラスの深い森の奥底で、三千世界の深い夜の川底で、光る景色を確かに見たんだ。闇をそれでも引き裂くような轟音は、君の笑顔をかき消して、記憶を白いキャンバスに戻す。原色のコントラストもままならず、僕は泣く泣くこの輪から立ち去った。
せめて、最後に君の顔を見たかった。君の醜くも美しい存在証明を噛みしめたかった。万華鏡に映し出された幾千もの面影たちは、あの日の聖夜と君の柔らかな唇のために収束し、ああ、晴れやかな全能の朝へと繋がったのだ!本当に晴れていたんだ。全世界が君と僕のためだけに晴れたんだよ。冬の日の涼やかな風のもと、愛用の白のタートルネックと黒のスキニーを纏って。君よ、笑って。僕も笑うから。君よ、泣いて。僕も泣くから。悲しくて泣くのではない。嬉しいから泣くんだ!
すべての存在たちがあの時僕たちを見ていた。これ以上の人生を僕は知らないしこれからも知ることはないのだろう。水浸しのバルコニーから部屋へと水が流れ込み、時流が揺蕩うのに合わせて、私は、いや、彼女は踊った。最果ての望楼から見張る時流の終わりは、夕陽のように万象を朱く染め、この町で生まれた午後を祝福した。
踏まれたのはこの町か。それとも僕の方だったか。
記憶はただそこにあるだけだ。時流などないのに私たちはいつも縛られて息をする。だから、僕も私も息をするのを躊躇って、過去の記憶にすがるのだ。その度に記憶が薄れていくことがわかっていても、もう後悔はしないと決めたんだ。なのに、どうして。どうしてなんだ。せめて、僕に教えてくれないか。僕を救ってくれないか。
「お別れをさせてください」
涙を流しながら言うのは、ずるいよ……。白昼夢の中で、ただただ君は美しかった。
「愛しています。だから、お別れです。お別れなんです……」
嫌だ。未だ、君の顔すら知らないのに。
「あなたはたまたまそちら側にいて、何も知らないだけなの」
水辺の門が開く。君は遠く、遠く、小さくなっていく。まだ行かないで。置いてかないで。
「エデンの園まで来て。先に行かずに、ちゃんとそこで待っているから」
だから、それまでは私のことは忘れて、と。
目覚めたのはリビングのソファーの上だった。時計の針は15時過ぎを示す。物凄く永い眠りから覚めた気がした。よくある昼下がりの午睡のつもりだったのに、二時間以上も寝てしまった。だけどそんなことはどうでもいい。なぜ僕は今、泣いているのだろう。
いや、あれは夢ではない。僕は決して夢のままでは終わらせない。泣いているのはやはり嬉しいからだ。君のことを思い出せたこと。そのメモリアが真理の片鱗を垣間見せたこと。けれど、悲しいから泣いている僕も確かにいた。これから続くだろう長い人生の間、君に会えないことを独り悲しんでいた。なら、いっそのこと死のうか。死んでしまえば、もしかしたら君に会えるかもしれない。けれど、それでは駄目なんだ。もし自殺してしまえば、僕は何のために生まれて、何のために私を創ったのか分からなくなってしまうではないか。何か、何か方法はないか。
「どうして泣いているの?」
物思いにふけっていた僕に声をかけたのは、僕でも君でも私でもなくあの日の母だった。夕陽が差し込む病室で、母が病気で亡くなる一週間くらい前、僕は母に言われたんだ。
「立派になろうとしなくていい。平凡でいいから幸せになってほしい」
なぜか、今になって想起された。今思えばこの言葉が母の遺言だったのかもしれない。そうか。そうだよ。平凡でいいんだ。運命とか、奇跡とか。そんなもんは捨てちまえ。よし、決めたぞ。これからも生きていこう。特別でなくていいから、僕は僕として生きていこう。そんな人生を思って日々を行こう。
創造の箱
私は箱を閉じた。白い箱。手のひらサイズの箱。その箱の蓋には『記憶』の文字が書かれてあった。
「どうだった?私がオススメした箱は」
隣の席に座っている紗雪は私の感想に興味津々といった様子だ。正直に言うと私にはこの作品をどのように捉えていいのか分からなかった。今までかなりの数の箱を開けてきた私だったが、このような箱は初めてだった。
「私、今までエンタメ系の箱しか開けてこなかったから、月並みな感想しか言えないけど、あんな感情初めて体験したよ。面白かった」
私の感想を聞いた紗雪は満足してうんうんと頷くと、『記憶』の魅力を熱弁し始めた。紗雪の熱が冷めた頃には、もうすっかりと日が暮れていて、私は紗雪を最寄り駅まで送ってから自分の家まで戻る。その帰り道で私はこんなことを考えてみた。私ももしかしたら誰かが開けた箱の中の登場人物なのではないか。そして、その箱を開けた人もまた、別の箱の中の登場人物で。そうしたら永遠にそれが続いて、いつか一周してまた元に戻るのかな。
ということは、もしそうなのだとしたら、『記憶』の僕も私と同じ人間ということになるよな。そう思うと、鳥肌が立った。
次の日、私は学校帰りに『記憶』を箱屋で買って、家に帰るとすぐに開けた。夢の中でしか会えない君と僕のささやかな愛の物語が何故か忘れられない。忘れたくない。箱を閉じて、私は徐に部屋の鏡の前に立った。そこに映るのは冴えない一人の女の子に見えた。これは本当に私なのか。私ではない私か僕か何かなのではなかろうか。分からないけれど、分からないから、私は鏡に映る私と唇を重ねた。
別に何も起こらなかった。そう、奇跡なんて起きないのだから。だけど、これでいい。平凡でいい。平凡がいい。また僕が私のことも君のことも忘れてしまっても、いつの日にか、ちゃんと世界はエデンの配置を迎えるから。その日が来るまでは、僕は僕で、私は私で、君は君で。
「あれ……どうして?」
どうして私は泣いているの。君に会うために生まれてきたから泣いているのかな。生れる時に全てを忘れてきてしまったから泣いているのかな。ううん。嬉しいから泣いているのだ。やっと思い出したから。やっと思い出せたから。なら、私は何をしたらいいか。答えは一つだ。僕が小説を書くのなら、私はこの世界で箱を創ろう。
私は創作の中に確かな光を見ようとしていた。けれど、その光は幾億光年彼方からやって来る類の光ではなかった。むしろ輪廻の中で生命たちが生み出すような光だった。もし生まれ変わったら。それはこの箱から離れて、別の箱に行くということ。箱は箱。変わるのは中身だけだ。私はこの箱から、いや、この望まぬ牢から去りたかった。それこそたった一つの冴えたやり方なのだ。時間さえあれば、永遠に生きられたら、せめてその糸口だけでもつかむことができるのに。
時流などない。
そういえば、どこかで聞いたことがある。時間なんて存在しないのだと。まあ、もう私にとってはどうでもいいことだ。何もかも変わらずにはいられない。いつかは枯れるいのち。私が過ごした時間も、もうただの思い出でしかない。その記憶も、あとどれくらいの命なのだろうか。
痛くはない。悲しくはない。寂しくはない。けれど、どこか物足りないのは、君がいないから。私の世界に君はいなかった。私の世界に色はなかった。そうだ、最後に空を越えたあの子へ手紙を書こう。
『初めまして。私もこの輪から去ることにしました。そちら側で逢えたらいいですね。私は自身の人生を箱と呼ばれる芸術に費やしました。その結果何を得たのかをずっと考えてきたのですが、今際に当たって、ようやくわかった気がしました。きっとあなたは宇宙が始まるよりも遥か昔から悟っていたのでしょう。私たちのお母さんもわかっていたのかもしれません。一つだけ、お願いがあります。もし仮に、世界がエデンの配置を迎えたとき、私を水門の前で待っていてくれませんか。私は新世界よりもあなたに会いたいのです。心よりお慕いしています。』
私、今まで気づかなかった。名前も顔も知らないのに、こんなにもあなたに会いたくて、こんなにもあなたに触れたくて、こんなにもあなたを愛していただなんて。
ああ、待って。記憶が世界に溶け出していく。私と彼と、その他の境界線が揺らいでいく。私がゆっくりと消えていき、新しい世界へと融合していく。輪から外れた私だった自我は、いつだって遠い日の思い出を想起していた。
記憶たち
箱を一つ開けた。
「お母さん、弁当は?もうそろそろ行かないと、朝練に間に合わなくなるよ」
少年は登校の準備をあらかた済ませ、残るは母の作る弁当箱をカバンに入れるだけだった。キッチンの入り口にいる少年をちらりと見て、母は優しく答えた。
「ごめんね、もう少しだけ待って。あと、できたら和樺を起こしてきて?」
少年は「はーい」と答えると、母の言うとおりに妹を起こしに行った。キッチンには母が一人残った。彼女は鼻歌交じりに二つの弁当を用意する。
「よし、できた!きっと二人とも開けたら驚くわね」
その弁当箱に入っているものは果たして、ただの昼食なのか。それとも数奇な物語の始まりか。箱が開かれるまでは、誰も真実を知ることはない。
箱を一つ開けた。
黄色い花が咲き乱れる御花畑に、一人の少女が立ち竦んでいた。君は白いワンピースを着ている。揺らいでいる冴えない君もいつかは、誰かの明日を生きる希望になるのかな。
君は何を見ているのだろう。何を聞いているのだろう。君と同じ景色を、それは贅沢過ぎたかな。少女の祈る姿に、僕ははっとした。ああ、君の町まで行きたい。僕に踏まれた町から飛び立って、優しさだけで切なさだけで、君の町まで飛べるかな。
ビルの屋上に立った。
「待っていて。今から行くから」
僕の柔らかな翼は、もう充分この奇跡が生んだ星で休らいだ。今は旅立ちの時。ショパンの別れの曲を口ずさみながら、僕はどうしようもない一歩を踏み出した。
今更思い出したのは、秋の西日に泣いた母の声。あの日の母の声が聞こえた。
全ての箱が開く時、メビウスの輪はヴァルナの索より開かれる。
確率の丘を越える時、エデンの配置は終末と創造を一にする。
己の全能に慄く少年よ、愛を体現せしめよ。
己の全知に竦む少女よ、愛を体現せしめよ。
エデンの園配置(Garden of Eden pattern)とはセル・オートマトンにおいて他のいかなる配置からも到達できない配置を指す。以前の状態が存在しない、つまり最初からそのように配置しない限り出現しないということから、聖書のエデンの園にちなんで命名された。
箱を一つ開けた。
誰も知らない世界で、配置が満たされるのを待っている。永遠の恋人と逢うために、他の誰でもない、自分自身を愛するために。
To be continued
フリーズ 43創造の箱