【監修】ヒトとして生れて・第9巻

万田 竜人(まんだ りゅうじん)

第9巻・ラケットとジェット


【プロローグ】

 本稿においては、かつての記事の繰り返しになるが・・・

 武蔵野の大地を溢れんばかりの陽光が照らして、いっせいに薔薇の花
を咲かせ始めた頃に、私は地元のテニス同好会の発足会に招かれて参加
させていただいた。

 あの頃は、東京都東大和市から狭山湖を越えて埼玉県入間市に引っ越
してきたばかりで、大好きなテニスの練習場も見つからず、引っ越した
ばかりのマンションの公園に出掛けて会社から帰宅後はテニスの素振り
練習を日課にしていた。

 あの日も公園でのラケットの素振り練習の帰り路に声をかけられた。
「テニスをなさる方ですか?」
「はい、まだテニスの練習場がみつからないので、こうしてラケットを
ぶら下げては、ここの公園に来て素振り練習をしています」
「よろしかったら、テニス同好会に、参加していただけないかしら?」

 後に、この女性とはテニス同好会で練習を重ねて、入間市のミックス
ダブルス戦に出場して決勝戦まで進出「準優勝」を果たすことになる。

 彼女からの説明によれば、その年に、入間市主催のテニス教室が開催
されて修了生を主体にした 「テニス同好会」結成の話がもちあがって
きたものの、皆、初心者ゆえに進め方などが分かっていないので・・・

「テニス焼け?」して、テニスラケットを手にした私なら少しは当てに
なるかな? と、思って声をかけてみたのだと云う。

 当時、私は、満年齢で32歳、今年、入間が丘の地元で数え年の喜寿
(77歳)となり敬老会に招かれ、お祝いをしていただいたので、44
年前のこととなる。
(この稿は実は3年前の記事である)

 そして、今年の夏、入間市の運動公園のテニスコートで酷暑を迎えて、
気温40度の中で首筋などを小さな氷片で冷やしながらテニスを続けて
いて考えた。

「これからは、屋外のテニスは週1回に限定して、他に、週1回の室内
ゲームを探すことにするか?」

 そんな矢先、入間市の市報に「バドミントン初心者教室」の募集記事
が載っていた。

 早速、電話をして申し込みをした。定員は30名で申し込みが多けれ
ば抽選になるという説明があって、後日、テニスコートの窓口における
利用手続きのついでに申し込み状況を確認したところ既に35名の申し
込みがあったという。

「だいたいにおいて、こういうケースでは、マーフィーの法則によれば、
抽選外れの5名に該当することが多いんだよな」と思いながら抽選結果
を待っていたら・・・

「申し込みのあった35名全員を受け入れます」と、コーチサイドから
朗報が届いたと云うことで入間市役所の運動公園事務所から電話連絡が
入り、ラケットとシャトル(羽根)および室内運動靴を用意した。

 実際にバドミントン教室が始まると、以前、入間市久保稲荷四丁目に
住んでいた頃、近郊の久保稲荷公民館において、卓球の同好会でお世話
になった先輩がバドミントン教室に生徒として参加されていた。

 卓球の練習は入間が丘に引っ越して来る前のことなのでもう十年以上
前のことになるがテニスと並行させて五年間くらい練習会に参加させて
いただいたことがある。

 私は、テニスを中心に、ラケット競技が大好きで・・・

 テニス・卓球・バドミントン及び練習機会は少なかったがスカッシュ
やミニテニス・パンポンなどラケットを使った競技が大好きで、どれも
比較的スムーズに取り組むことが出来た。

 そこで、数え歳で喜寿を迎えた、今、百寿まで生かされて健康長寿に
恵まれることがあれば九十五歳くらいまでは「ラケットプレーヤー」と
して、現役を迎えたいものであると考えている。

 私の理想としては百寿まで現役で動き回りたいと考えており・・・

「現役のビジネスマン」として百歳で働いていらっしゃる方の新聞記事
を宝物として保存しているが、それも働き口の相手があって、成り立つ
ことなので 「いつでも現役復帰出来ます」と云うアッピールのために
「ラケットを握り続けています」と、云うのが私の言い分でもある。

したがって政府の期待に沿って老年でも「働く意欲」は十分にあるので、

◇テニスの基礎練習も兼ねて、二階への階段を駆け上って洗濯物を干す
小仕事などは手数料なしでも自らかって出てやっている。この肩よりも
上方に両手を挙げての作業はテニスのサービス練習を支える基礎練習に
つながると考えている

◇脚立に登っての植木職人の真似事や二階のバルコニーにての蒲団干し
および日々の蒲団の上げ下ろしなどは、これもテニスの基礎体力向上に
つながると考えている

◇年末の換気扇掃除などのやや高所作業も、冬場の基礎トレーニングと
してラケット競技に取り組む者としては、最適の鍛錬につながる作業と
考えている

 したがって車を運転してスポーツジムに通わなくてもラケット競技者
にとっての基礎練習の場は身近に豊富にあるので、要は、寝たきり老人
になって周りの人たちのご足労をわずらわせないためにもラケット競技
に願いをこめて 「傍を楽にする」ことで・・・

 これをもって 「はたらく(働く)」ことにしたいと考えている。

 その際に、酷暑を考えると屋外のテニス練習のみでは、身体が酷暑に
対応しきれない可能性を感じ取ったので、屋内で取り組むことの出来る
バドミントン練習を並行させ、これからもラケット競技によって生かさ
れることで、継続的に努力を続けて行こうと考えている。

 そんなことを考え身体が動く限りラケット競技を続けて・・・

「生涯青春ラケット物語」などを書き綴って行ければそれが私にとって
の「徒然草」につながって行くのではないかと考え生涯青春日記の様な
つもりで「ラケット物語」として書き綴って行くことにする。

 これはプロローグとしての「後日談」になるが本稿を書き綴っている
うちに、私自身、新入社員として企業に仲間入りして以来、定年に到る
までジェットエンジンに携わり、航空マンとして生涯の大半を過ごして
きたことから、話がラケット競技からジェットエンジンに、飛ぶケース
が多く「生涯青春ラケットとジェットの物語」(略称表現:ラケットと
ジェット)にあらためて執筆を続けることにした。

 そして時には、第8巻との続きで政治談議にも華を咲かすことが出来
れば幸いと考えている。



第1章

001 テニスとバドミントンの素振りがつなぐ縁

 バドミントンの素振りを兼ねて家の南側の庭先でシャトルを思い切り
遠くに飛ばす。シャトルには、飛翔体のコルクにガチョウの羽根を取り
付けたものとトレーニング専用として先端のコルクにビニールの羽根を
取り付けたものがある。
(その他に、レジャー用として、プラスティック製の羽根もある)

 このガチョウの羽根製のシャトルが東側のフェンス沿いに12月初め
に咲き出した薔薇の棘に引っかかった。ここから30センチメートル先
に飛ぶと隣家の庭に飛び込むことになるので、打点の足元を2メートル
ほど西側に移動させた。

 この時期の薔薇は、楓などの紅葉を過ぎて、銀杏などの黄葉の時期に
咲くので彩り的には貴重な存在感を示す。我が家の庭先の薔薇は、東側
フェンス沿いには濃い色系のピンク、西側の薔薇のアーチには、珍しい
アンチークな黄色の彩りと淡いピンク系の薔薇が咲いて満天星の燃える
ような紅葉と共に初冬の彩りを競う。
(満天星と書いてどうだんと読む)

 先日は、運動公園における月曜日の定例のテニス練習がコートの抽選
取りの関係で早朝きり取れず「それも良し」として、当日、都合の付く
メンバーだけで入間市街に新規開店したトンカツ屋「和幸」で、早目の
昼食忘年会をすることになった。

 和幸の店内は明るく広々としており、かつ落ち着いた雰囲気でもあり、
皆さんお気に入りの分類に入ったようなので、案内役を買って出た私と
しては一安心した。私が良いなと思っているのは、揚げたてのトンカツ
の美味さは当たり前としても、炊き立ての釜焚きのご飯の旨さがお代わ
り自由な千切りのキャベツとも相性が良い点にある。

 皆さん食事をしながら気分も良いので、当然、広範囲に話題がおよび
話もあっちこっちに飛ぶ・・
(さて私宛に振り込まれたラケット競技に関する話題だけを抜粋する)

Yさん「佐久間さんは、春先までは、川越の『リトルプリンス・テニス
クラブ』に、週一で、通っていたのに何故やめちゃったの?」

わたし「右膝の裏側の腱を痛めてしまって、少しテニスの練習量を減ら
して治療に専念したほうが良い、と、ドクターに云われたこともあって、
テニス練習は、運動公園における月曜日の練習だけに絞り込みました」

Aさん「右膝の腱を痛めたのは、テニスの練習中ですか?」

わたし「いや練習中というよりも、あの日、テニス・スクールのコート
に向かう時に大雨が降ってきて、しかもスクールの練習時間の組み合わ
せも悪く通常の出入口とは反対側からの入場となって、雨の中をかなり
大回りして悪路の中を移動、テニスコートに着くまでに靴も靴下も濡れ
てしまって、足元が硬直した状態でした」

Kさん「それは、たいへんでしたね」

わたし「替えの靴下でも、用意しておけば良かったのですが、テニス・
レッスン開始の時刻も迫っていましたので、そのままレッスンに入って
しまいました」

Aさん「そのような足元の状態でレッスンを続けて違和感はありません
でしたか?」

わたし「足元が少し滑るなという印象はありましたがそのまま90分間
のレッスンを修了して帰途に着きました」

Kさん「膝裏の腱の痛みは、その後のことですか?」

わたし「レッスンから二日後のことです。かかりつけの接骨院に行って
ドクターの診断を受けて、右膝の裏側の腱の炎症との診断を受けて治療
を開始しました」

Yさん「それで、テニスクラブをやめることになったと?」

わたし「テニス・スクールを止める考えは、ありませんでした。かつて
狭山市のブレント・ウッド・テニスクラブで、お世話になったコーチが
ブレント・ウッド閉鎖後に当クラブのコーチに着任されたことを知って
入会しましたので継続の考えが強かったです」

Yさん「それでも、やめることになった?」

わたし「いずれにしても、ドクターからは右膝の裏側の腱の治療に専念
して下さいとは云われていましたので、治療を続けるかたわら、私なり
に研究してみました」

Kさん「相変わらず、研究熱心ですね」

わたし「スクール該当日のテニスコートへの出入り口を分析してみたの
ですが、該当日に限って云えば正規の出入り口からの入退場者は少人数
に限られており、大多数が反対側の出入り口まで大回りして悪路を行き
来している」

Yさん「テニスコートの経営者はそのことに気付いているのかしら?」

わたし「私も、そう思って経営者に改善の申し入れをしました。結果的
に担当マネージャに対応していただき、私なりに、ORの考え方を活用
して、大多数のスクール生が正規の出入り口から出入り出来る案を提示
しました」
(ORは、オペレーションズ・リサーチの略称で、科学的な手法)

Kさん「その案は採用されたのですか?」

わたし「一部のスクール生を30分間シフトするだけで、その案は実現
出来るのですが、マネージャとしては、乗り気ではありませんでした」

Yさん「そこで諦めた?」

わたし「膝裏の腱の治療をしながら、一か月くらい考えましたが近づい
ていた梅雨時に、悪路を歩くことは避けられそうもなく膝裏の腱の治療
に専念することにして、テニスクラブは辞めることにしました」

Yさん「テニスクラブの帰りには、サイボクの温泉に寄れるとか云って、
あれほど楽しみにしていた、お気に入りのテニスクラブだったのに残念
でしたね。退会手続きのときに何か云われませんでしたか?」

わたし「退会手続きのときに所定の書面があって、はじから該当の項目
にチェックマークを入れて行くのですが、最後にその他の項目があって
時間割のことを書いたら『やっぱり・そうでしたか』と云われました」

Yさん「テニスクラブ側も辞める理由が分かっていたということね?」

わたし「フロントの方がとても親切で理解力もあり、お互いに、残念な
気持ちは通じ合っていたのだと思います」

Yさん「それで、今、テニスの練習は月曜日だけ?」

わたし「皆さんと一緒に運動公園で練習している月曜日のみです」

Yさん「それじゃテニスが、だんだん下手になって行くんじゃない!」

私なんか・・・

◇月曜日は、運動公園でみんなと一緒に基礎練習して、

◇水曜日は、新所沢のテニススクールで中上級クラスの練習を重ね、

◇金曜日は、これも地元で、ダブルスの実戦練習をやっているわよ!

わたし「よく疲れないですね。私はそれでも最近は今夏の酷暑に懲りた
こともあって、月曜日は屋外でテニス練習をして金曜日は体育館で室内
のバドミントンに取り組み、テニス練習の穴埋めをしています」

Yさん「テニスとバドミントンじゃ種目が違い過ぎて、それぞれが週一
というリズムじゃないかしら? たしかKさんは月曜日と金曜日の週2
テニスだったわよね」

Kさん「私は、かつて佐久間さんと同じ金曜日に、リトル・プリンス・
テニスクラブの同じクラスでスクールを受けて、現在も、そのまま継続
させていますから、皆さんとご一緒の月曜日の運動公園でのテニス練習
と合わせて週2練習です」

Aさん「私は、月曜日か火曜日かのどちらかと木曜日の狭山でのテニス
練習と合わせれば、週2のテニス練習と云うことになるわね」

Yさん「やはり、テニス練習において、テニス技術を維持あるいは限り
なく少しでも上達しようと思ったら、週2以上の練習は必要よね」

と、Yさんからの 「週2以上:宣言」が、出たところで昼食忘年会は
お開きとなった。
(なお、昼食忘年会における話題はテニス論に限らず百花繚乱の賑わい
で内容は省略するが、昼食会が始まったのは、11時半でお開きは午後
2時前であった)

 帰宅後に、私は三日前の地元バドミントン同好会の昼食忘年会のこと
を思い出した。

 昼食会は11時半に始まり昼食が終わるといっせいに解散となり酒好
きな会員のみが残っての二次会となったが、私は付き合いを超えた酒は
呑めないので退散することにした。

 帰宅してから、ゆっくりとしていたが食事処で皆さんと一緒に食した
日替わり定食のフライの油に当たったのか、嘔吐に襲われて夕食は摂ら
なかった。
(こんなことは初めての体験であった)

 やはり、テニス仲間は四十年を越える付き合いであり、バドミントン
仲間は三か月弱の付き合いで、気心がしれていないこともあり、昼食会
での話題も互いの氏素性を知る所からの付き合いであるためか、こんな
ことがあった・・・

 私が参加した入間市のバドミントン初心者スクールには、今回、入会
させていただいたバドミントン同好会の方々も7名が参加されていた。

 バドミントン同好会の方々との出会いはバドミントン初心者スクール
が始まるにあたり、実際の練習場を見せていただこうと考えて練習場を
覗いたところ、実際に練習が行なわれていて 「見学ですか?」と声を
かけていただいたのが始まりであった。

 私が「今度、バドミントンの初心者教室を受講するので、会場の見学
に来ました」と、話したところ・・・

「私たちの同好会からも多数参加します。よかったら練習風景でも見て
行って下さい」というご案内があり、見学の過程でバドミントン初心者
教室が始まる前にお試しで練習に参加させていただけることになった。

 バドミントン初心者教室が始まる、と、レッスンが進む過程で三つの
動きを感じ取った。

◇ 私が、体育館の練習場見学の際に、お試し練習に参加させていただ
いたバドミントン同好会の方々は昨年も初心者教室を受けており、その
受講者仲間が主体になって同好会を結成したものであり、今回の主宰者
側にも、二年目受講の熱心さが伝わっている

◇ その同好会の昨年までの会長が、今回の初心者教室の受講者に声を
かけて、新しい同好会を結成しようとしている動きがある
(私も、会場入り口で、声をかけていただいた)

◇ 私が、お試し練習会に参加させていただいたバドミントン同好会の
若手幹事さんが奥さんのために月2回の練習会を計画、そのための同好
会を結成しようとする動きがある

 私はバドミントン初心者教室の開始と共に、お試し練習会に参加させ
ていただいた同好会の仲間と行動を共にしていたので、自然な成り行き
として同好会の仲間に迎えていただいていたので、前会長からのお誘い
には乗らなかった

 どうやら、昨年、発足した 「バドミントン同好会」は一年を待たず
に前会長からの一方的な 「解散宣言」で消滅と聞いており、後に残さ
れた会員たちが集って、今年の八月に、同好会の名前も変えて、新たに
再出発したというのが実情のようである。

 したがって、私に入会の余地が与えられたのも、そのような経緯から
若干の人数枠の余裕が出来て、入会の機会に恵まれたと云うのが、実情
のようである。

 そのような好機に恵まれたこともあって私のラケット競技への思いは
通じ「月曜日は屋外でのテニス練習」 金曜日は、酷暑への備えとして
体育館におけるバドミントンの練習場所が確保され、室内でのラケット
競技が実現した。

 しかし、バドミントンの先達からは・・・

「体育館は、冷房設備は稼働させていないので、酷暑の時期は蒸し風呂
の状態であり、屋外と同様に暑くて、休み・休み・練習していますよ」
とのアドバイスがあった。

 それに対して、私からは・・・

「屋外におけるテニスの場合は、酷暑のそれも今夏のような気温40度
に達する場合には後頭部の日射に危機感をいだきながら練習しています
ので、室内はそれがないだけ救いがあると思います」と、答えた。

 そして、ここで忘年昼食会の時のYさんの言葉を思い出して「欲」を
出した・・・

「バドミントン初心者教室の時に、同好会の仲間と意気投合して、その
過程で幹事役のご夫婦とも練習試合でダブルスを組んだりして、親しみ
のもてる時間を過ごしたこともあって、月に2回の水曜日の練習会にも
参加させていただこうかな?」と、考えた。

 これによって、Yさんの「週3テニス」には及ばないものの「週3弱」
でラケットを振り回す機会には恵まれると・・・

 そこで同好会の幹事さん宛てに「水曜日の月2の練習会には参加可能
ですか?」と、気軽な気持ちで電子メールを送信した。
(この気軽さが大間違いであった)

 すぐに返事がなかったので「ダメなんだろうな?」と、思っていたら
「ガ~~~ン」と、一発の衝撃的なメールが返ってきた・・・

「申し訳ありません。水曜日の練習会は一定期間以上交際させて頂いて
いる方のみ、お誘いしております。ビジターも受け入れていませんので
ご了承ください」

 たしかに、私は、水曜日の練習会の「案内パンフレット」をいただい
ていないことに気付いた。

・・・・・・・・・・・・・・

 そこで 「発想の転換」を、することにした・・・

「独り練習」倶楽部を創設しよう。練習場所として、最初は彩の森入間
公園などは、どうか?」と、考えた。彩の森入間公園ではバドミントン
用具の貸し出しなども行っているくらいなので、園内でバドミントンの
練習をすることに「問題ない」ようだ。

 しかし、思いのほか風が強いこともあり、家族団らんなら・良いかも
しれないが 「本格的なラケット競技向けの練習には不向きでは?」と
考えた。そこで思い付いたのが我が家の南側の庭先での練習であった。

 初冬のこの時期にはポカポカと陽が当たり風も吹いてこない。駐車場
の車を移動させれば「バドミントンのコートサイズ」にはちょうど良い
かもしれないと考えた。

 早速、寸法を測ってみたら、ちょうど良いサイズであった・・・

◇ ここで、前述したような、バドミントン・ラケットを使っての試打
をしてみたところ「格好の練習場になる」ことが確認出来た。

◇ 次いで、テニスラケットを使って素振りをしてみた。バドミントン
選手が筋肉を鍛えるために、スカッシュのラケットで素振りをしている
話をインターネットからの記事で知ったので使い慣れたテニスラケット
なら、なおさら良いと考えた。

◇ その次には木刀の素振りをしてみた。これはテニスにおける身体の
軸をぶれさせないための訓練になるので好都合であると考えた。

 かくして「独り練習」倶楽部が出来上がり、水曜日の定期練習に組み
込んだ。このことから月曜日のテニス練習と金曜日のバドミントン練習
の中間に、水曜日の独り練習倶楽部を立ち上げることで、素振りがつな
ぐテニスとバドミントンの連携プレーが誕生することになった。

そして、これは憶測だが、同好会の幹事さんからの「お断りメール」は
丁度、同じ時期に入会して間もない私から 「三つの提案」をしていた
こともあり・・・

「面倒なメンバーを水曜日のプライベート倶楽部には入れたくない」と
いう考え方も働いたと思われるので、やがて三つの提案が、自分たちに
も役立つことが浸透して行けば、一定期間以上の交際を経て、気持ちも
通じて行くものと考えている。
(「三つの提案」については、次回以降に、紹介することにする)


002  鳥たちが騒いでいる

 二階のバルコニーで洗濯物を干していると、鳥たちが、まるでお互い
の連絡を取り合うように盛んに騒いでいるので、西の空をみると重厚な
雲が満遍なく横たわっている。

「取り敢えず洗濯物は外に干すことにして、飼い犬『もも』の朝の散歩
が終わったら早目に室内に取り込むことにしよう」と、考えて、先ずは
洗濯ものを干す朝の小仕事にきりをつけることにした。

 今朝の段取りとしては、午前十時過ぎに家内をスポーツジム付近まで
送り、帰り道に飼い犬を彩の森入間公園まで連れて行って、森の一番奥
まで背負って行きお気に入りの散歩コースを歩かせることにしよう。

 家内が一緒の時の飼い犬の森の散歩は、躊躇なく、彩の森入間公園の
外周を一周する。これは、彼女(飼い犬:もも)にしてみれば決まった
ポイント(いつの間にか定点となった)で、好物のジャーキーを定点に
来ると口に出来るので、顔の表情が変わるほどに喜びの散歩となる。

 私と一緒の時はどうか?

「彩の森入間公園に着いて、車から降ろして散歩グッズを身に付けると
理由は分からないが、駐車場巡りを始める」
(いろいろなワンちゃんが残していった臭いが嗅げるからだろうか?)

「これだと、小生は、まるで車上荒らしのような行動になるのでとても
許容することは出来ない」行動ということになる。

「家内の真似をして、好物のジャーキーで牽引しようと試みるも、私が
相手だと留まって食したまま、お代わりを要求して動かない」ことに。

 その他、いろいろと手立てを変えて試みたが落ち着いたのが今の方法、
「先ずは肩掛けの専用バッグに彼女(もも)を入れて森の奧まで連れて
行き、そこで、散歩支度をしてから歩かせる」
(行き交う人は微笑んで「可愛いわね」ご病気ですかと聞いてくる)

「そして、いつも決まった東屋で、散歩グッズを装着するため、いつの
間にか顔馴染みの方が出来て、毎朝、待っていて下さる」

「歩き出すと目標の駐車場に向かって颯爽と快足便で駆け出して行く」
「頭にリボンを付けているためか、時には『お嬢様:可愛い』なんて
声をかけられるが、ワンと一喝して観客を撃退する」

「ゴールは車の後部座席のカゴの中でご褒美のジャーキーに齧りつく」
(これが私と彼女の散歩の時のお決まりコース)

「最近は、オプションとして、散歩の駆け出し時点で糞をしてご褒美に
ありつけることに気付いて、歩き出すや糞出しに精出している」
「オシッコは、お嬢様としての自覚があるのか外では絶対に放尿しない。
これも困ったもので家に帰ってから自宅内の決まった場所で用を済ます」

「先代のシェルティー犬(シェリー)は散歩上手で、ももの様な難しい
散歩のルーティンはなく、屋外でも・屋内の決まった場所でも、糞尿は
規則正しくといった感じで済ませていたので、ドライブや旅行にも安心
して連れて行けたが、彼女(もも)とのドライブや旅行は難しい」

「彼女(もも)を一度は、軽井沢のドライブに連れて行ったが、車中は
もっぱら我慢・ドライブインでも我慢なので、家族とのドライブや旅行
は安易には計画出来ないというのが現状である」

 かくして、本日も、ルーティン通りの散歩をしての帰宅となる。
(彼女としては、今日も、大満足なのである)

・・・・・・・・・

 早朝に、鳥たちが騒いでいた意味合いが、突然、知らされた。それは
彩の森入間公園における飼い犬との散歩を終わり、帰宅して間もなくの
ことであった。

 背中に翼を背負った女神とアトキンス博士が来訪されたのであった。

女 神「今朝、鳥たちが騒いでいたでしょう」

博 士「ボクも、鳥たちの騒ぎ方が異常なので、何か異変が起きている
のかなと考えて朝から気にはしていました」

小 生「こちらでも鳥たちが騒いでお互いの確認やら意思疎通を図って
いる印象でしたので間もなく雨が降って来るのかな」と思っていました。

女 神「実は、たいへんなことが起きていたのね」

女 神「まったく、想像すらしなかったことに、あの暴力被害を受けた
貴ノ岩が付き人に暴力をふるうと云う事件が起きていたのね」

博 士「貴ノ岩関が横綱日馬富士から暴力を受けて傷害を負ったときに
貴乃花親方は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)への懸念も含めて
ケアしてましたが、今回の暴力事件も貴ノ岩自身のPTSDによる影響
も無視出来ませんね」

小 生「PTSDによる被害者化の過程として第3次被害化の過程では
精神的変調により易怒性をきたして攻撃的となり、些細なことで身近に
暴力を振るったりする傾向に陥る場合もあり、貴ノ岩の場合もPTSD
による悪影響は否定出来ない」と、感じました。

女 神「私が強調したいのも、そこなのよ、暴力行為の連鎖反応ね」

女 神「貴乃花部屋において貴乃花親方のPTSDへの深い理解も含め
て硬軟両面からケアが行なわれ土俵上でもそれなりの成果を収めていた」

博 士「そのような矢先に貴乃花部屋が閉鎖となった。一方でPTSD
によるストレス障害から徐々に立ち直る兆しを見せていた貴ノ岩、しか
しながら心的外傷ゆえにその回復は一進一退であり、願わくば、さらに
一年間は猶予期間が欲しかった」

小 生「しかも、貴乃花親方からの硬軟両面からのケアに加えて、景子
女将からの笑顔の応援はPTSDを癒すには万能薬的な効能があった」

女 神「それを考える、と、貴乃花親方を引退にまで追い込んだ、あの
タイミングにおける一門統合の方針は性急であり、第三者委員会からの
報告書の内容を事前に察知して、貴乃花親方を一挙に追い詰めたと考え
るのが妥当かもしれないわね?」

博 士「結果、貴ノ岩は、PTSDへのケアを気遣っていた貴乃花親方
から引き離されて、PTSDゆえの自分自身の易怒性にも、自覚がない
ままに、付き人に暴力をふるってしまった」

小 生「いかなる理由があるにせよ暴力行為は許せないが、そのような
バウンダリー(住環境)を間接的に作り込んだ日本相撲協会に責任はな
いのだろうか?」

博 士「後世の心理学者が 『平成の角界残酷史』として、次のような
分析をする可能性は否定できないでしょうね」

【日本相撲協会の暴挙により角界を去ることになった貴ノ岩関の軌跡】

◇ 公益財団法人である日本相撲協会は、2007年に起きた新弟子の
暴力行為による死亡事件に際して暴力再発防止委員会から出されていた
意見書にある・・・

「外国人力士に、多いとされる暴力事件への特別対策」について特段の
手立てを講じて来なかった。

◇ 結果、外国人力士の中でも、多数を占めるモンゴル勢に同郷の力士
同士、お互いに助け合う結束が生まれ「インフォーマルな組織」として
その存在感を継続的に持ち続けるようになっていった

◇ そのような勢いの中で、モンゴル勢に対して一定の距離を置く立場
にあった貴乃花部屋の貴ノ岩が、昨年の正月場所において、横綱白鵬に
勝ち「金星」を挙げた

◇ そしてその年の十月下旬にモンゴル勢との接触を避けて来た貴ノ岩
がモンゴル勢の花形である・横綱三人衆の白鵬・日馬富士・鶴竜と遭遇
することになった。
(貴ノ岩にとって恩師への挨拶を欠かせない鳥取県での遭遇)

◇ 酒処における流れの中で、モンゴルの横綱三人と貴ノ岩が同席する
場が設定されて、横綱白鵬から貴ノ岩への生活指導的な説教が行なわれ
その過程で、貴ノ岩の説教を聞く態度が悪いと云って、貴ノ岩に、横綱
日馬富士から暴力が振るわれた

◇ 貴ノ岩は、横綱日馬富士からの暴力行為の過程においては誰も日馬
富士の暴力行為を止める気配はなく、暴力が続く中で、恐怖心にこころ
が震えたという

◇ その後の経緯は、貴乃花親方によって、経緯が明らかにされており、
衆目の知るところであるので記述を省略するが、ここで、特筆しておき
たいことは、貴ノ岩へのケアに当たって、貴乃花親方が留意したことは

「貴ノ岩は、横綱日馬富士の暴力によって受けた外傷よりも、PTSD
(心的外傷後ストレス障害)によるダメージの影響が極めて大きく硬軟
両面から貴乃花親方によるケアやサポートを必要としていた」

◇ 結果、土俵に戻った貴ノ岩は、順調な回復を見せることになったが
回復の過程では、景子女将の笑顔と優しさは、貴ノ岩にとって不可欠な
存在であった

◇ しかし、日本相撲協会からのガバナンスの重要性を前面に出したと
ころの一門統合の対策案によって、貴乃花親方は、貴乃花部屋の維持が
難しくなり、弟子たちを小集団のまとまりとして守るため、自身は引退
を決意してかつての先輩に弟子たちを託した

◇ 事態が大きく動いたために貴ノ岩のPTSDの影響への配慮は霧散
してしまい、貴ノ岩本人でさえも、そのことの意識から遠ざかっていた
というのが実情であると推測する

◇ しかしながら、九州場所における貴景勝の優勝などを機会に、同じ
部屋の先輩力士としてマスコミなどの取材場面で一緒にフラッシュなど
を浴びる場面も増えてきて・・・

「あの時、日馬富士から暴力を受けることなく、幕下に陥落するような
事態も起きていなければ自分も三役に」と、いう思いは、当然、脳裏を
走ることになる。

◇ PTSDによる 「第3次被害者化」の怖いところは、このように
被害者が一見では、落ち着いた生活を送っているようにみえる中におい
ても、精神状態は容易に完治するものではなくて、貴ノ岩が九州場所で
貴乃花親方の硬軟両面からのケアを失い、負け越したことなども内面の
葛藤として・・・

「貴ノ岩の心の中にPTSDによる易怒性が引き起こされて怒りやすく
なり、常備している薬が途切れると云う不安感も助長されて付け人への
暴力と云う行為に到ってしまい、そこで、最早、後の後悔先にたたずと
いう事態に到ってしまった」

・・・・・・・・・・・

 さらに、次の場面で背中に翼を背負った女神が相撲の神様からの伝言
を携えて再登場・・・

女 神「これは、相撲の神様が、近未来の臨床心理士の見解を先取り的
に入手したもので、日本相撲協会には、八角理事長を筆頭に目を通して
欲しいそうよ」

小 生「貴ノ岩のPTSDからの回復プログラムですか?」

女 神「八角理事長が聞く耳を持つか?」「持たないか?」は、本人に
お任せのようよ」

小 生「ということは、そこには、八角理事長が、大岡奉行に匹敵する
名将になるヒントとしての名裁きへの示唆が込められているので必ずや
聞く耳を持ってくれる自信があるということですか?」

女 神「先ず、日本相撲協会は、貴ノ岩のPTSDによる症状について
臨床心理士など専門機関の見解を聴き取る必要がある」

小 生「たしかに、貴ノ岩にPTSDの症状がみられる場合は日本相撲
協会側としても、完全治癒までケアをする必要があると?」

女 神「そして、治癒の状況をウォッチするための良策としては、日本
相撲協会の観察下に置いて、状況を見極めて行く。その際の現場復帰は、
先日までの相撲部屋とすることで部屋の親方にも日常観察をお願いする」

小 生「貴ノ岩のPTSDについて硬軟両面からケアを続けていたのは
元貴乃花親方でしたよね」

女 神「そこでこれは八角理事長による超法規的な措置として元貴乃花
親方を特別トレーナーとして、相撲部屋に配置する」

小 生「その場合に、現在、元貴乃花部屋に残されている土俵を貴ノ岩
のPTSD治療のために併用すると云うことにつながるのですか?」

女 神「それについては日本相撲協会の八角理事長のご高配次第という
ことでしょうね」

女 神「いずれにしても、日本相撲協会としても、次世代の横綱や大関
を筆頭格に、これからの三役を育てている時期でもあり、貴ノ岩をここ
まで育てて来た日本相撲協会としても、これによって貴ノ岩という人財
を生かせるとなれば名案でしょうね?」

小 生「当然、貴ノ岩が、土俵上での活躍の機会を与えられてPTSD
治療に向けて復帰出来るとなれば、元景子女将もケアの一環として駆け
つけてくれるでしょうね」

女 神「そのような過程で、特別トレーナー、と、して元貴乃花親方と
元景子女将との復縁などの兆しが出て来れば、めでたし目出度しといえ
ますね」

小 生「貴ノ岩の断髪式が、来年の二月などと云われていますが・・・
『ちょっと待った』と云う声が相撲ファンの間でも高まって行くといい
ですね」

 しかし、現実の世界では、貴ノ岩があっさりと退場して、モンゴルに
帰郷、前述の思いも水泡と帰した。

 その後、直近で2022年7月初旬に起きた参議院選挙直前の惨事も
事件の経緯を辿ることで「PTSDによる易怒性が引き起こした事件」
という側面が、クローズアップされて来る可能性はあると考える。

 日本社会において、今後「暴力の連鎖」と云う面から、救い様のない
精神的密閉空間に追い込まれた人間の狂気と云う面からの犯罪心理学的
かつ科学的な探求が、脳科学との連携において研究されて行く必要がある
と考える。

・・・・・・・・・・・・・・・

 南側の庭先で素振りを開始

 背中に翼を背負った女神とアトキンス博士が横浜港にお帰りになった
後で、少し休憩時間を挟んで、私はテニスラケット、と、バドミントン
ラケット、バドミントン用のシャトルおよび木刀を持参して、それぞれ
を素振りできる南側の庭先に出た。

◇先ずは、バドミントン用のシャトル三種類を打ち比べてみた

 ここで三種類のシャトルとはガチョウの羽根を使ったものとビニール
製のもの、および、プラスティック製のものである。

「いずれも、同じ打ち方で打てば、どうやら三種類共に飛距離は同じで
同じ地点に落ちるように設計されているようだ」

 これならば実践ゲームの組立てにおいてテニスよりも正確に・そして、
容易に素振りの効果が反映出来そうだ。


003  ラケット競技にも段取りと片付けは基本

 入間市運動公園の体育館内は午前9時10分前には、まだLED電灯
は燈されていない。私は、バドミントンにしてもテニスにしても、定刻
の10分前には到着して準備を開始、定刻には練習開始することを旨と
している。

 体育館内で自分の荷物を壁際に並べ、12月ともなると気温が低いの
で手袋をはめていると後方から「おはようございます」と云う聞き慣れ
ない声が聞こえた。振り返るとバドミントン教室で一緒に練習したこと
のあるお顔であった。

「今度、入会させていただきました〇〇です」と云うご挨拶があった。

「私も、まだ入会して三か月半の新人です。9時前には世話人の方々が
来ると思います」というと数秒後には、世話人のS氏が体育館の入り口
の戸口から姿を見せた。

 とりあえず、世話人との入会の挨拶は、後回しにして、新人も一緒に
バドミントンの支柱や、ネット類など器具一式を、倉庫内に取りに行き
コート二つ分をすぐに練習開始出来るように準備する。今回、加入した
彼女が16番目のメンバーとなり、これにて満席と相成る。

 同好会の約束ごととして満席を16名としたのは1コートをダブルス
で練習すると4名、コート二つ分で定員8名、皆さんお楽しみの後半の
実戦練習を「一回待ち」が限度とすると、二倍して16名で満席という
勘定になる。

 実際には、膝が痛い・背骨が痛いなどで、練習を休むメンバーも出て
来るが、基本的な計画については「全員が絶好調」で計画されている。

 本日は15名が参加されて練習に入る前に、新人が紹介された。私も
これで三か月半の先輩となった。三か月半の先輩は、現在「三つの提案」
を行い、同好会全員で取り組んでいただいている。
(自分でも、ちょっと生意気な新人かなという、自覚はある)


【私からの三つの提案】

(1) 実戦ゲームの予備練習には「2分以上」が必要と訴えた

 現在は、攻めの陣形を旨とした縦並び「トップ&バック」と、守りの
陣形を旨とした横並び 「サイド・バイ・サイド」の攻守を変えながら
30秒間隔で交替練習をしているが、時間不足で頭と身体がついて行け
ないのでギブアップ宣言をさせていただいた。
(その後の卓球クラブではこの経験を生かして8分以上としている)

(2) スマッシュ練習にプラスティック製シャトルの活用を提案した

 毎回のように、幹事役と世話人が、基礎練習でシャトルのガチョウの
羽根が折れるといって大騒ぎしているので、シャトルの羽根を叩き折る
ケースは、スマッシュ練習の時が多いのでスマッシュ練習時のみプラス
ティック製の活用を勧めた。

(3) 基礎練習にハイクリアーの練習を加えるように求めた

 ハイクリアーを力強く打つことでシャトルのガットの弛みを確認でき
ベースラインにおける落下地点を測ることも容易になるので、ご高配を
お願いさせていただいた。

 本日の基礎練習においては、シャトルの試打を行い、今後、使用して
行くシャトル選択の参考として・・・

 世話人から、ガチョウの羽根を使ったシャトルと樹脂系のシャトルの
性能比較などが紹介されて、メンバー全員で実際に使ってみて比較する
ことになった。

 練習を始める前に、ある会員から・・・

「前の会長だったら、提案なんて、とんでもない話だったよね」
「こうして、皆で相談しながら決めて行くのは、ホント、良いことだね」
などと云う声が耳に入ってきた。


004   味わい深い人物

 地元のバドミントン同好会の昨年までの会長には 「人間学」を探求
する者にとっては、おおいに興味を魅かれるところがある存在と云える。
他にもラケット競技の会長という意味では、次の二人の人物についても
人間学的にその 「行く末」に興味がある。

 先ず「一人目の人物」について語ることにしよう・・・

◇ 1969年(昭和44年)といえば、アポロ計画で人類が月面着陸
を果たした年であるが、この年に我々はジェットエンジンを設計・製造
する会社の管理工学を担当するエンジニアとして引っ越しプロジェクト
を担当することになり、横田基地に隣接する瑞穂事業所に、工場丸ごと
移転の第一陣の引っ越しを先行させた。

 それまで瑞穂地域は、ジェットエンジンの試運転を専門的に行う研究
施設的な性格を兼ねた事業所であったが、航空機用ジェットエンジンの
実用化に伴いエンジンの組立てから試運転まで一貫して行える事業所に
大変身することになったのである。

 その後も、瑞穂事業所への第二陣・第三陣の引っ越しは、1970年
(昭和45年)に行なわれ、その年に瑞穂事業所はフル操業に入った。

 瑞穂事業所は立地条件的に、横田基地に隣接することから、風通しが
良くテニス競技という面では硬式のテニスボールは風に吹き飛ばされる
ことはないが、軟式テニスには難があり、軟式用のテニスボールは風に
飛ばされるという事態が予見された。

 したがって引っ越し前の住宅地域に囲まれていた田無事業所では硬式
および軟式テニス同好会共に、テニスコートを並べて棲み分けしていた
ものの、瑞穂事業所においては硬式テニスに一本化する必要があった。

 しかも、引っ越してから間もない時期にあっては、テニスコートなど
無い状態なので「それまでは昼休みになるとテニスに興じていたもの」
のゼロベースで、テニスコート造りから始める必要があった。

 その様な状況のなかで、最初にテニスコート造りを始めたのが、私と
職場の上司であるO氏であった。

 幸いにも、上司は瑞穂事業所の建設から操業開始までの総括責任者で
あり、私も管理工学のエンジニアとして、事業所敷地内およびジェット
エンジン工場内のレイアウト等を計画する立場にあったので・・・

「どこに仮のテニスコートを設ければ、事業所の操業の邪魔にならない
か総合的に判断出来る立場にあったので『案』創りは早かった。事業所
内の了解は上司から審議に図っていただき速やかに了解を得たが予算は
いっさい付いていない」

 そこで、先ずは、テニスコートの予定地の草取りを私と上司の二人で
昼休みになると該当地に出向いては、根深い草を根元から抜いていった。
引っ越し前には運転試験場を取り囲む敷地は空き地になっていて蝮など
の生息も確認され危険地帯であったが、整地に伴って蝮などは駆除され
ていたものの、草の根深さは半端ではなかった。

 そして、テニスコートを平にならすためのローラーやテニスコートの
器具など一式は引っ越し前の田無事業所で古くなって使っていなかった
ものを譲り受けて活用した。

 ようやくテニスコートもどきのものが形になってきた頃には、この噂
を聞きつけたテニス愛好家たちが応援に駆け付けてくれてテニスコート
として、なんとか使えるようになった頃には 「テニス同好会」が結成
され打ったボールがイレギュラーばかりするコートではあったが、とり
あえずのテニス練習が開始された。

 そして、その年の会社の夏休みに、テニス同好会の有志の声として、
「まともな・テニスコートで、テニスボールを打ち合いたいものだ」と
いうことになり軽井沢でのテニス合宿が決まった。

 テニス合宿の宿泊先は、軽井沢で牧場経営などをしているオーナーが
大のテニス好きで自分の趣味のために、テニスコートを造り、ついでに
テニスコートを多目に造成、ナイター設備まで設けてテニス民宿を開業、
宿泊客には搾りたての牛乳まで提供しているので評判が良かった。

 問題は、ナイター練習時に 「虫が多く飛んで来る」のには閉口した。
この飛んで来る虫の問題はテニス合宿の宿泊先ばかりではなく、合宿所
には会社終業時にテニス仲間が集合、最寄り駅の八高線 「箱根ヶ崎駅」
からの乗車と云うことで、高崎方面に向かう車中は夜間でもあり電車が
駅で止まる度に社内に虫が飛び込んできた。

 しかし、ナイターでのテニス練習は楽しかった。昼間のテニス練習の
汗を風呂で洗い流して、夕食時の軽い一杯のビール、その後のほろ酔い
状態でのナイターは当時のナイター照明の設備の限界もあって、空中に
浮いたテニスボールが点々と連続写真風に飛んで来て・幻想的な飛来物
として虫も一緒に飛んで来るので、まともな練習にはほど遠かった。

 ナイター練習に飽きれば、芝生で搾りたての牛乳をいただきながらの
オセロゲームなどに興じて一休み、最近になって、この時に私と上司が
オセロに興じている写真が出てきて、驚いたことに私の後ろ側に美女が
写っていた。

「私の彼女ではない。テニス同好会の仲間が連れて来た友人だろうか?」
「ハンサムな上司に興味をいだいた女性だろうか?」

 今となっては分からない「軽井沢の夜のファンタジー」だ。


005   何から・何を・物語るか

 軽井沢におけるファンタジーなテニス合宿の写真は、私の書斎の書棚
の最下段に置かれた「なんでも袋」に入っていたものである。現役の頃
には、いずれ時間が出来たら整理しようと考えてなんでも袋を用意した
のだが、今や、二袋がまんぱん状態で放置されたまま、保管されている
という状況にある。

 形にならないものは、脳内の「あいまい袋」に納めてあるが、これは
常に意識下にあるために日常の隙間の時間帯で整理出来るためにあまり
溜まっていない。溜まり易いのは日常意識から外れ易い「なんでも袋」
のような存在と云える。

 ゴールデンエイジの環境に置かれて、いつでも・いくらでも・整理が
出来そうなものだが、最近は、ラケット競技に夢中で現役並みに忙しい
というのは言い訳で物臭な性格がそうさせているのだと思う。

 なんでも袋に入っていたA4版の封書からは、たくさんの写真が出て
きた。大判の写真だけでも、二つ三つ、列挙してみると・・・

◇ 一つ目は、イギリスのロンドンから・ダービーに向かう急行列車の
中で撮った上司の写真である。ダービーではロールスロイス社の航空機
用ジェットエンジン部門を訪問する日程が組まれており、ダービーの街
の中心部のクラシカルなホテルに泊まった、翌朝は、ロールスロイス社
から、自社製のロールスロイス車で我々を迎えに来てジェットエンジン
の事業所に向かった。

◇ 二つ目は、アメリカのワシントンのホテルで、上司のところに集合
した同僚との集合写真である。この時には私がホテルのフロントで円を
ドルに換金した際に、フロント譲から 「あなたはパイロットか?」と
聞かれて、その会話のやりとりを聞いていた同僚も話に加わり大賑わい
となって結末は、全員がフロント前で金髪譲と共に写真に納まった。

 この時に写真に納まった四名の内、三名が瑞穂事業所のテニス同好会
の仲間であり、上司が当時のテニス同好会の会長、もう一人の先輩が後
にテニス会長を引き継いだ。

◇ 三つ目は、入間市の地元のテニス同好会の優勝と三位入賞の記念の
集合写真である。当時、地元のテニス同好会の幹事役として任を引き受
けた、私は、やがて一橋大学で現役のテニス選手として活躍した仲間と
共にコーチ役を頼まれ、目標として 「女子チームの地域での優勝」を
目指すことにした。

 結果、女子チームは入間市の団体戦で優勝を果たし私も地元の同好会
の仲間と男子ダブルス戦に挑み三位に入賞した。
(男女混合ダブルスでは、私は、既に準優勝を果たしていた)

 その時の表彰式の後で、撮ったのが、これらの写真である。

 前述した文章では・・・

 地元のバドミントン同好会の昨年までの会長には 「人間学」を探求
する者にとっては、おおいに興味を魅かれるところがある存在と云える
と記したが、他にもラケット競技の会長という意味では、地元の元会長
を含めて「二人の人物」について、人間学的に「行く末」に興味がある
と、記したが・・・

 その「一人目」の人物こそが、一つ目の写真と二つ目の写真に写って
いる上司であり、瑞穂事業所のテニス同好会の会長である。
(後に、会社の副社長にまで登りつめた人物)

 そして、私が、執筆した「ゴールデンエイジの物語」にも頁をさいて
紹介したことではあるが、定年後の 「ある出来事」に、連なってその
「行く末」に大いなる興味を持つに到ったという次第である。
(後に、本稿は、ヒトとして生れて・第5巻に再編集)

 いずれにしても大判の三枚の写真をあらためて観て感じたことは、

 私の人生において現役時代の主軸を成していた企業における日常業務
と、地域におけるテニス活動・そして・話は飛躍するが全国区での俳句
の交流は、三本が合わさって「より糸」のような構造を成し心身ともに
そこから活動エネルギーや知的活力源を得ていたのかもしれない。

 そして「より糸」的な構造体は強靭である必要があり柔軟性をも併せ
持つ必要性があったのかもしれない。

 ゴールデン・エイジ(黄金の後期高齢期)に到った、今は、主軸には
日常生活が据えられ、そこに、ラケット競技や小説を執筆することなど
が加わり、当然、より糸には、フレキシビリティさも求められて来る。

 この「より糸」的な構造を未来に向かって、伸展させて行ったときに
私が「吊り橋理論」として標榜している小宇宙の世界をも発展的に伸長
させて行くことが出来るのかもしれない。

 視点を再度、大判の写真に、戻すことにする・・・

 そして、これらの写真の背後に、浮かび上がってくる人物像がある。
「ニューヨークで生まれ・ニューヨークで育った 『今井兼一郎』氏、
その人である。私の人生は、入社時に設計部長であったドクター今井
によって、順風満帆な人生航路に旅立てたのかもしれない」のだ。
(これについては、後日、詳しく述べることにする)


006 容赦なき腰折れの事態

 私が新入社員として配属になった設計部門の部長で生涯の大恩人との
出会いから書き出そうとしていた矢先、大晦日の紅白歌合戦を観ながら
年越し蕎麦をいただいているあたりから、腰のあたりに、異変を感じて
まさに腰折れのような状況となり、まともに立って歩けなくなった。

 家内が指摘するように・・・

「一階の和室で座椅子に座りこんで、飼い犬『もも』が側に寄りそう形
で小説を読みふけっていて、それもかつて接骨院のドクターから問題の
ある座り方として注意を受けたことのある『海老状座り』を続けていて
腰に負担がかからない訳がない」

「しかも小説を読むと云うよりも読み返していた『1Q84』村上春樹
著の三巻目(Book3)のラストシーンに、向けて、緊迫の続く場面
もう何度も読み返しているので、既に、自分なりに脳内において映像は
出来上がっている」

 私に、読み返し癖がある書物は、他に「徒然草」兼好著と「枕草子」
清少納言著だが、

◇ 徒然草が読み返しの旅に誘ってくれる趣向は、それぞれの章段毎に
「思考の窓」が用意されていて、読み返す度に、窓からの風景が変わる
楽しみがある。これは、同じ窓からの眺めであっても、こちらが人生の
旅路を重ねることで風景が変わってくることによるものと考えている

◇ 枕草子の読み返しの圧巻は、千年前の出来事が現代における有様と
「変わっていないな~」と云う印象が伝わって来るからであり、それに
比べると、百年前の出来事など昨日のことのように思えるからだと感じ
ている

◇ ところで「1Q84」を何度も読み返すのは、ストーリーの進展と
共に、読み手に解釈が任されてくる部分が多く、読み返す度にこちらの
解釈が深まって行く点にある

 最近のテレビ・ドラマ「モンテ・クリスト伯」の復讐劇でも、ラスト
シーンの解釈が視聴者に任されていて 「復讐を果たして自らを危機に
追い込む」主人公の下に向けて救出のために疾走するライダーの真剣な
眼差しが、時々、目に浮かんでくる。

 村上春樹著 「1Q84」の場合は、ラスト・シーンと、云うよりも
ストーリーの途中でも、それぞれの登場人物について、その後の生き方
に読み手が思いを馳せさせる必要を感じて 「未完成交響曲」のような
印象に包まれる。

 唯一、主人公の三人だけは 「異次元の世界に向かって」急ピッチで
収束して行くので、三巻目(Book3)は私の「腰痛の恐れなど論外」
で仰け反って読込んでしまうのだと客観的に推測している。

 かくして、海老状態に固まってしまった私は大晦日の夜には蒲団の中
で丸まって睡眠をとることになり元旦の朝は椅子に海老のように座って
お屠蘇とお雑煮をいただき、お節を突っつきながら、家内からは・・・

「百歳越えの老人のようね」と、云われながら年賀状を拝見することに
なった・・・

 私は、昨年「これにて、ラスト年賀状です」と云う旨の挨拶をさせて
いただいたのだが、それでも年賀状は届いているので、それは、それで
「ありがたいこと」だが、恐縮の思いの方が強い。

 恩人からの年賀状には・・・

「貴方から、昨年、年賀状辞退のお知らせを、いただいておりましたが
書き終えてから気付きました。来年は出しません」とあり、

 私からは・・・

「大恩人への感謝の気持ちは永遠のものと考えております」と年賀状を
書き1通のみ、元日に年賀状を投函した。

「他の方への年賀状は、エンドレス状態に陥る可能性があるので書かな
かったが、今までは、年賀状は当たり前のことであったので、その判断
にはなかなか難しいものがある」と感じた。

 その様な時にインターネットの俳句投稿交流においてお世話になって
いる句友から、ご紹介いただいた「老いの独りごと憲章」を思い出した。


       【老いの独りごと憲章】

        老いて良いことは

   天気が良ければ、気ままに、庭や畑で過ごし
  海や山や公園やお寺などにも自由に出かけられる
   多少の義理の程度の会などは断ってしまえる 
   断る口実としても老人という言い訳は万能
    病気をプラスすればさらに万能となる
      今日は体調が悪いのでというと
       だいたいは理解してくれる

        若い時みたいに

    風邪で高熱のため動けないなどと
       嘘を言わなくてもよい

       なにか失敗しても

     歳のせいですねなどというと
         多くの場合
       みんなが納得してくれる
    この言い訳は自分に対しても使える
       やりたくない仕事があると
      無理すると免疫力が下がるからと
       自分を甘やかすこともできる

    若い時よりも人との交流も持ちやすい

       年齢が同じくらいだと
        すぐに打ち解けて
       同窓生の気分になれる
    恥ずかしさとか気どりがなくなるから
     自分の気持ちを素直に伝えられる

      女子行員や男子店員などにも
    髪型がとてもよく似合っているなどと
         普通に云える
    本当にそう思っていれば云えるものだ

       差し障りのあるような
      政治的な意見も普通に云える
     昔は主婦や学生だけが縛りがなく
   政治的に自由だといわれたことがあるが
         老人も自由だ

       多分なのだが忘れるから
      本やドラマも何度も楽しめる
       欲しいものがなくなり
        小欲になるから
       大方は満足できる

      欲しいものがあっても
     どっちみち死ぬのだと思うと
        諦めやすくなる
   
       自然や体験なども
      深く味わうことができる
      これで見納めだと思うと
      なんでも意味深くなる
   
       そして回想を
    楽しむことができるようになる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私の年賀状は今まで「現役時代にほんとうにお世話になった」ところ
の恩人に向けて出していたものであるが、当然、宛先には、年長の方が
多く、必ず「こちらにも年賀状が届く」のでラスト年賀状にすることも、
恩人への配慮かと考えて踏み切ったものである。

 かつて、私のテニスの仲間が年賀状を終わりにしたのは 「年賀状は
紙製品であり森林の樹木を伐採することには、これ以上、賛成出来ない」
として活動の輪を広げたものであり、学校の教職員の間で、この考え方
が広く行き渡ったと聞いている。

 したがって、私の場合は、それほど明確なポリシーに沿ったものでは
ないので、家内と共通の親戚や知人に宛てての年賀状は、私よりも五歳
若い家内からの間柄に向けた発信として、以降は、任せることにした。

 そして、正月2日は近郊のサイボクの温泉場が開場となったので腰痛
の治療のため、早速、車で乗り着けて「炭酸泉」に時間をかけて浸かり
腰から背筋にかけての海老状態から、直立した類人猿の姿に戻ることが
出来た。

 ようやくにして新年の開院で接骨院のドクターに診ていただいたのが
正月4日で・・・

「急性の腰痛と診断され、海老状態で読書しても、一週間程度なら問題
ありませんが、三週間ともなるとそれは腰痛にもなるでしょう」と云う
ことであった。

「背中から腰の部分にかけて、硬直した症状が、ドクターによって確認
され温熱および低周波による治療が行われてシップを貼布していただき
引き続き来院することになった」

 かくて、年末から年始にかけては海老状態となり、急遽「ピットイン」
することになったが、これは小説の執筆に当たっても、パソコンの前では
姿勢を正すことの必要性を学ぶ良き機会になったことは言うまでもない。


007  ラケット競技の初打ち

 私の背中から腰にかけての全体的な硬直した張りもなくなり、類人猿
の直立姿勢から、現代の人間らしい背筋の伸びた体勢に戻って来たので、
初春のラケット競技の初打ちを視野に入れて「リハビリ計画」を具現化
することを考えた。

 ラケット競技の初打ちは、バドミントンが先行、1月11日(金曜日)
に運動公園の体育館にてエンジン始動、テニスは、1月21日(月曜日)
がエンジン全開の段取りとなっている。

 その間に、1月18日(金曜日)バドミントン練習を挟むので腰への
負担を考えると、スムーズなリハビリ計画が組めそうである。

 ここでリハビリを兼ねた初打ちの見通しもついたところで、腰痛への
対策も松の内には目途をつけておきたいと考えて、1月7日(月曜日)
は、再度、サイボクの温泉に出掛けて炭酸泉に時間をかけて浸かろうと
考え望み通り20分間浸かり間をおいて10分間浸かって帰ってきた。

 結果、翌朝には腰の両脇に軽い痛みが残ったものの急性の腰痛発症時
になんとなく想定した患部の特定できた思いがした。要は、腰の痛みは
両脇のちょうつがい的な位置であり、機械なら、油をさしていっちょう
あがりと云うとことろだが、機械ではないので出来るだけ軽く動かすよ
うにして、血液の循環を良くすることが肝心と考えた。

 さてバドミントンの初打ちに向けて昨年の「三つの課題」は解決して
いると云える。

◇ 実戦ゲームの前の予備練習において 「攻守の交替時間」の30秒
では短すぎるので二分間必要と提案したが、最近は、出席率が高く選手
交替までの待ち時間を考慮して一分間の練習時間を確保することにより
練習がスムーズに行われるようになった

◇ 基礎練習にハイクリアーの練習を取り入れて高く遠くまでシャトル
を飛ばすことについては、基礎練習の最終段階に取り入れることで納得
の行く練習が実現した

 結果、ラケット購入から三か月間を経過してガットに弛みを感じ取り
スポーツ・デポに出掛けてガットを22ポンドにて張り替え依頼をした。
テニスラケットの場合は、スポーツ・デポのUさんにガットの張り替え
を指名で行ってもらっているので、バドミントンのガット張り替えにつ
いても安心して任せた。

 ガットを張り替えたバドミントンラケットを受け取る日に、Uさんは
不在であったが、当日は、バドミントン専用のシューズを購入する予定
であったので、三種類を選択してフィット感を試したが、実際に歩いて
みて気に入ったシューズがなく対応してくれたアドバイザー・スタッフ
の方に・・・

「今、テニスシューズで、フィット感の良いものを持っているのですが、
ダッシュ性が優れているものの右の太ももを痛めたと云う経験があって
履いていないのですが、シューズの選択は難しいですね」と、独り言に
近い感想を漏らしたところ、

「そのシューズをお店に持って来ることはできますか?」

「私が、今、使っている 『インソール(靴底)』がとても具合が良い
ので他のお客様にも、お勧めしているのですが、これは理学博士が開発
したもので、お試しに使ってみることをお勧めします」

「試用期間も60日間あり、フィットしなければ、返品も可能ですので
安心かと?」と思います。

 ひょっとして、この話は「天使のサイクル」的なもので善循環に乗れ
るかもしれない、と、考えて自宅に戻り下駄箱に大事にしまっておいた
シューズを持参して、スタッフの方に該当のインソールをカッティング
していただいた。

 早速、次のバドミントン練習日に着用してみたところ、フィット感の
優れたシューズであったという経緯もあり、今や、すっかりお気に入り
のシューズになっている。

 まさに「ハイ・クリアー」な問題解決という結果であった。

◇ 三つ目に残った課題としてのシャトルの選択については、独り練習
倶楽部の庭先の練習道場においては、ガチョウの羽根製でもビニールや
プラスティックの樹脂製の羽根でも打つ時の感触には、いずれも違和感
はなく、羽根類の傷み具合にも差異は見当たらないので、独り練習道場
においては「三種類を並行して」使い続けることにしたが・・・

 バドミントン同好会における「お試し練習」の結論は幹事役の64歳
の男性の意見として・・・

「生い先(老い先)短い人生において、出来ることならガチョウの羽根
でバド練習を続けたい」と云う結論ありきの妙な感想が説得力を帯びて
「シャトルはガチョウ製」に決まった。

 かくして、私からの三つの提案は「なんでも皆で相談して決めて行く」
という副産物を得て、実質「前会長」の独断専行モデルから完全脱却した
と云える。

・・・・・・・・・・・・・・・・

 七草粥の夜、そろそろ・眠りに入ろうとしている午後11時の時間に
合わせるようにして、背中に翼を背負った女神がアトキンス博士と連れ
立って正月のご挨拶にみえた。

女 神「大晦日の晩に、急性腰痛だったとか、たいへんでしたね」

博 士「やはりテニスなどで汗を流している方が似合っていますね」

小 生「今年の師走は、テニスもバドミントンも、早目にコート納めを
して家の大掃除でも手伝おうなどと殊勝なことを考えて、時間を作った
のですが、一方で、鎌倉の孫は中学受験の追い込み、名古屋の孫たちは
夏休みに鹿児島に行き気を良くして正月も嫁の帰省に連れだって鹿児島
行きとなり、家内も気合抜けして、手伝いの出番が激減しました」

女 神「それは・それは・奥様も気落ちしてしまいますね」

小 生「私も家内と一緒に息子が結婚したいというので鹿児島まで結納
の儀に出掛けて嫁さんを迎えたのですが、結局のところは、嫁の実家の
方が引っ張りが強いですね。これも時代の趨勢でしょうか?」

女 神「実家の引っ張りが強ければ、お孫さんも、お嫁さんのご両親に
なつくわね。しかし考え方を変えれば人生百年時代に在っては、これも
当たり前の現象であって、お孫さんたちには幸せなことよね」
(現実はコロナ禍にあって思い通りには行かない事態となっている)

博  士「したがって、これからも好々爺と好々婆に徹して行くのか? 
それとも、かつての都知事の青島流の意地悪爺さんとひねくれ婆さんに
変身して行くのか? いずれの選択も可能になってくる訳で、この選択
も生きて行く上で楽しみの一つとなって行くと云うことでしょうね」

女 神「いじわるといえば、一昨年から昨年末まで、暴力を振るわれた
貴ノ岩が角界の話題の中心に座って居ましたがあまりにも、突然、自ら
の付き人への暴力行為で、自ら引退を決意、相撲の神様の応援もあって
引き続き土俵上で活躍できるお膳立てなどもしましたが、貴ノ岩本人が
燃え尽き症候群の状態では、周りからは救いようがなかったわね」

博 士「こうなったら奇策かもしれませんが暴力を振るった日馬富士が
貴ノ岩とは一度は友好の握手をしたという経緯もあるので元横綱の日馬
富士がモンゴルに設立したという学校関係で働かせてもらうというのも
有りかもしれませんね?」

小 生「ところで、正月から始まった大河ドラマを観ていて感じたこと
の一つですが、元貴乃花親方の未来が見えた気がしました」

◇ 一つ目には、学校に、土俵を作りたいという思いが強いようなので
思いを夢で終わらせないためには、小学校から中学・高校・そして大学
まで一貫させて、相撲文化を系統的に体系化して行く、構想があっても
良いのではないか?

 私が、子供の頃は、座敷での父子相撲は、日常的なものでした。柔道
や剣道に比べても、格別な道具だても必要なく、かつて相撲は力士だけ
のものではなかった記憶があります。夏目漱石の時代にも、父子相撲の
描写はあり、相撲は日本的な風景としてどこにでも存在していた。

 それを考えると、日本の学校教育の体育教科に柔道と剣道の選択肢は
あっても、相撲という選択肢がないのは不思議な気がして、この辺りに
も元貴乃花親方の出番がありそうです。

◇ 二つ目としては、それを具現化するためには、今年の参議院選には
出馬して、そのための地歩を固めて行く必要があるのではないか?
(当時は実現しなかったが、昨今の暴力事件の連鎖を抑制して行くため
の行く末を考えた時に、その期待感は膨らむばかりだ) 

 文科省の立場から俯瞰しても、学校教育の場に相撲を取りいれて行く
必要性や、その努力と工夫は、価値あるものと考える。

◇ 三つ目は、世界相撲協会や世界相撲学会を創設して、世界規模での
活動を仕掛けて行く、そのためには東大や早稲田などのスポーツ科学系
の大学院の協力を得ることで、世界に向けて相撲文化を発進して行く。

 要は、日本相撲協会の枠から飛び出して、世界に羽ばたくことも必要
ではないかと?

女 神「いいわね、精一杯、応援して行きたいわね」

博 士「そうなると、相撲を科学する眼も、重要になってきますね」

小 生「それから、昨年は、小池都知事にとっても・大いなる力仕事
だった・豊洲市場も幸先の良いスタートをすることが出来ましたね」

女 神「豊洲市場の初マグロを題材にした3億3千万円の豪華モデルは
豊洲市場から築地に向けて流通経路をつなげ、さらに、日本全国に流通
経路を広げて世界中に情報発信した救世主は、やはりあの福々しい御仁
でしたね」

博 士「豊洲市場の大々的な賑わい演出のためにその宣伝費を惜しげも
なく払ってくれた、すしざんまいの代表には都庁からも『賑わい大賞』
の感謝状をお贈りするなど、価値ある気前の良さに感謝・多謝するため
のプレゼンは、今から、過去を振り返っても必須でしょうね」

 かくて、背中に翼を背負った女神と、アトキンス博士との新春談話は
尽きることなく夜がふけるまで続くこととなった。


008 武蔵野の大地が青春の広場

 バドミントンの初打ちが予定通り、1月11日(金曜日)に行われて
昨年から会長に就任したO氏からは・・・

「昨年は、お互いに和気あいあいと良き雰囲気で、バドミントンの練習
を進めることが出来ました。本年も、相変わりませず、和気あいあいの
チームワークで楽しく練習を続けて行きたいと思いますので、よろしく、
お願いします」と、いうことで、ほぼ全員が参加した練習コートで拍手
が湧いた。

 その落ち着いた雰囲気の中には、安堵感のようなものも感じられたも
のの、まだ、一昨年の会長の独断専行の影が尾を引いている印象も感じ
られた。

 バドミントン同好会の名前は 「ブルースカイ」晴れ渡った空を連想
させるネーミングであり、バドミントンのシャトルが空に高く飛ぶ姿が
イメージされた善き名前である。

 私は、このブルースカイという響きから一生涯学生作家として、常に
新たなことを学び続けて、その時々の思いを書き綴って行こうと考えて
いる学び舎である放送大学のエンブレムのデザインを思い出した。

 放送大学における学びにおいては「心理学」を専攻して卒業、その後
は「人間学」に、専攻をあらためて、再入学、現在、徒然草や枕草子を
はじめとして多くの文学作品に親しむ機会を得て、自らも「一生涯学生
作家」としての道を歩んでいる。

 企業人としての現役時代は、工学系からの学びが主体であったことと
管理工学に携わるエンジニアとしての天職に目覚めるまでは、航空機用
のジェットエンジンを設計したり造ったりというハードウェアとの付き
合いが主体であったが、工場運営などに、関与するようになってからは
管理工学のエンジニアとして、こころの働きなどにも理解を深める必要
が感じられてきて、放送大学に入学、この大学における多面的な学びは
企業活動の中でも大いに役立ち現役時代から退職後のゴールデンエイジ
に繋がる過程においても、スムーズな移行を助けてくれて、人生設計を
豊かなものにしてくれた。

 放送大学のエンブレムのデザインは、遥かな大空に向かって飛翔する
仲間が遥かな永遠の一点にベクトルを収斂させて行くという印象があり、
私にとってそのデザインはお気に入りの一つである。

 そして、ブルースカイという言葉から来るイマジネーションは、私の
人生そのものでもある。前述の記事と重なることになるが私が入社して
配属になった部門は航空機用ジェットエンジンの設計部門であり、設計
部門には五名の仲間が配属となった。

 そして、当時の設計部長が、今井兼一郎氏であった。五名のそれぞれ
の配属については、私の場合は、純国産ジェットエンジンの設計部門で
ある設計一課に配属、設計二課には三名が配属となり設計三課には一名
が配属となった。

 部門内での新人紹介の際に五名が設計部長のディスク前に集合、設計
部長からの第一声については、今でも記憶に鮮明に残っている・・・

「君たち五名の学業成績を拝見したが、全員が優秀な成績を残している
ことになっている。今の学校は企業に提出する成績表に下駄をはかせる
のかね?」と、真顔で尋ねてきた。

 私だけではなく五名全員が、学校から「どのような成績表」が届いて
いるのかは把握していないので、恐らくは、全員が唖然とした顔をして
いたのだと思う。

 瞬間、設計部長からは、満面の笑みが浮かび・・・

「それでは、設計部員全員に皆さんを紹介しましょう」と、云うことで、
大部屋に、大型版の設計図を描くための設計図板が配置された広すぎる
ほどの部屋に、大勢の設計部員が設計部長の前に集められて、新人五名
が紹介された。

 そして、これは後になって気付いたことであるが、この時の設計部長
の笑顔の奥にあった思いは・・・

「新入社員の皆さんの実力や適正は、私が時間をかけて見極めて行きま
すよ」と、いう意味合いの笑顔であったのだと、今になって、伝わって
来るものがある。

 当時、全社的には総勢600名の新人が入社した。そして全員が総合
体育館に集合、企業としての再創業という勢いの中にあって、土光社長
からの冒頭挨拶の後に全員が一人ひとり、土光社長とのアイコンタクト
を持つことになった。

 私は、自分の名前が呼ばれたときに「ハイ」と返事をして土光社長と
アイコンタクトしたときに、土光社長の眼光から飛んできたレーザー光
のような衝撃波を眼で受取り、脳内に刻み込んだ思いがした。

 この衝撃波の一瞬の意味を後日になって推測した・・・

「それは父親が名付けた私の名前『佐久間 勉』の『さくまつとむ』の
音の響きにあったのだ」と。

 広辞苑で「佐久間 勉」を引くと・・・

【佐久間 勉】
 さくまつとむ:海軍大尉で、福井県生れ、潜水艇長として山口県新港
(岩国港)沖において潜航訓練中、水没事故により殉職する。廷内では
死ぬまで部下を指揮して報告書を書き続けた。

・・・・・・・

(更に、インターネット上で、情報を検索すると)

 後に、沈没した潜水艇が引き上げられて、佐久間艇長が死ぬまで書き
続けたという報告書が発見されて、国内外で、大きな反響を呼ぶことに
なった。

 第六潜水艇は、訓練中に事故が発生、その時の乗組員は14名、ほぼ
全員が自身の持ち場を離れずに殉職、全員が潜水艇の修繕に向けて最後
まで全力を尽くしていた・・・

 佐久間艇長自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中、明治天皇に
向けて潜水艇を失うことと部下の死について謝罪する一方で、この事故
が潜水艇発展の妨げにならないことを願って「事故原因の分析」を記し
て残すと云う、誰にでも出来ることではない遺書を書き残して、乗組員
の遺族にも気遣いをしたためている。

 この遺書は、39頁にも及ぶ膨大なものであり、最後には、上級幹部
や知人の名前を記して気遣いを見せ、12時30分に自身の状態を記し
今「12時40分ナリ」と記して絶命した。

 当時は、欧州などの国外でも、同様の潜水艦事故が発生しており脱出
しようとした乗組員が出入口に殺到して、乗組員同士で、お互いに殺し
合うと云う様な、悲惨な事故なども発生しており、騒然とした事態など
も把握されていた時期でもあっただけに・・・

 佐久間艇長が率いる潜水艇は乗組員たちが最後まで自分たちの持ち場
を守り、なんとかして修繕しようと努力した姿が、各国の関係者に多く
の感銘を与えて、各国から多数の弔電が届いた。
(私も、この話は子供ながらに、父親から何度となく聞いた)。

 この出来事は、国内では長らく修身の教科書に「沈勇」と題して掲載
され、夏目漱石は事故の同年に発表した「文芸とヒロイック」において、
次のように言及している。
(一部を抜粋)

「昨日は、佐久間艇長の遺書を評して名文と云った・・(略)・・呼吸
が苦しくなる。 (艇内の) 部屋が暗くなる。鼓膜が破れそうになる。
一行を書くすら容易ではない。あれ丈の文章を連ねるのは超凡の努力を
要する訳である。

 従って、書かなくては済まない、遺さなくては悪いと思う事以外には
一画と雖も漫に手を動かす余地がない。平安な時、あらゆる人に絶えず
附け纏はる自己広告の衒気は殆ど意識に上る権威を失ってゐる。

 従って艇長の声は尤も苦しき声である。又尤も拙な声である。いくら
苦しくても拙でも云わねば済まぬ声だから、尤も娑婆気を離れた邪気の
ない事である。殆んど自然と一致した私の少ない声である。

 そこに吾人は艇長の動機に、人間としての極度の誠実心を吹き込んで、
其一言一句を真の影の如く読みながら今の世にわが欺かれざるを有難く
思ふのである。さうして、其文の拙なれば拙なる丈真の反射として意を
安んずるのである。

 其上、艇長の書いた事には嘘を吐く必要のない事実が多い。艇が何度
の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チェインが切れた、電燈が
消えた。此等の現象に自己広告は平時と雖も無益である。

 従って彼は艇長としての報告を作らんがために、凡ての苦悶を忍んだ
ので、他によく思われるがため、徒らな言句を連ねたのではないと云う
結論に帰着する。又其報告が実際当局者の参考になった効果から見ても、
彼は自分のために書き残したのではなくて他の為に苦痛に堪えたと云う
証拠さえ立つ」

・・・・・・・・・・・・

 今日でも、佐久間艇長の命日には・・・

 出身地の福井県で、遺徳顕彰祭が行われおり海上自衛隊音楽隊による
演奏やイギリス大使館付武官によるスピーチなどが行われている。

・・・・・・・・・・・・

 我が家の父親が、私の誕生に際して「何故、福井県出身の佐久間艇長
を気にかけて、名前をいただいたのか?」

 それは、我が家のご先祖様が、福井県の松平家の家臣であったことに
よるものと母親から聞いたことがある。廃藩置県と云う日本中の大改革
の変動期にあって、佐久間家の一群は、福井県から群馬県前橋市に移住、
前橋市で祖父は製糸業に着目して私財を投資し、やがて、製糸業と生糸
の輸出商を兼業させて行くことになる。

 今は前橋市の地図にはないが、当時、前橋市萱町一丁目一番地に製糸
業の工場と居を構え、近隣のお稲荷さんの境内には 「佐久間忠介」の
名前が、寄進の記録として石に刻まれている。

 父親は次男であったが後継者として育てられた。したがって工場経営
についての知識や経験は極めて実践的であり、後に、私の現役時代には
「すぐに役立つ知識」として伝授されたことがある。

 身近な話として面白かったのは、工場の弁当食において食べ終わった
時に、三番目の人がキチンと揃えておくと、最後までキチンと弁当箱が
積み上げられると云う話題から始まり歴史的にも「三代目が重要」なの
だという・・・

◇ 徳川幕府も、三代目の家光がシッカリしていたので、徳川家は栄え
たのだと、

◇ 曹洞宗(我が家の宗派)においても、道元禅師は、別格的に優れた
人物であったが、曹洞宗が永続的に栄えたのは、三代目が、盤石の礎を
築いたのだと、

 我が家の場合は祖父が経営していた製糸業と生糸の輸出商の兼業経営
は太平洋戦争の戦禍により、父親に、その経営が引き継がれることはな
かったが、順当なら、三代目に当たる私にはどのような役回りが来ても、
最後まで任務を全うしてもらいたいという思いが強かったのだと思う。

 その様な強い思いを辿ったときに、責任感抜群で最後まで任務を全う
した偉人である佐久間艇長に思いを重ねたのかもしれない。

 父親としては、そのような思いの中で、佐久間艇長の名前をいただく
のは名前負けするかな? という懸念も頭をよぎって「進(すすむ)」
という名前についても、母親に相談していたのだと云う。
(親の思いというのは、ありがたいことである)。

・・・・・・・・・・・

 父親の思いは、結果として、新入社員の入社式が行われた総合体育館
において「さくま・つとむ」の名前が呼ばれた時に、これは推測の域を
出ないが 「一瞬」と、いえども海の神様の響きが土光社長の耳に届き、
鋭い眼光から「土光ビーム」を眼で受け取り、脳内に刻むことが出来た
ことを考えれば 「それだけでも、父親の思いが幸運を呼び込んだ」と
云える。

 後は、いかに天職を見出して、ゴールまで責任をもって任務を全うす
るか、それこそが名前負けすることなく海の神様への感謝を身をもって
呈することに繋がると考えた。

 土光社長は、その後、企業体としての「再創業」と云う大事業を自ら
の牽引力によって造船業としての偉業である企業体としての造船世界一
を歴史に刻んでいる。

 土光社長の当時の経営指針の一つには「適材適所」という命題があり
社員の人間力としての実力を見極め適材適所に配置して、最大限の能力
を発揮させる手腕には、経営者として天才的なヒラメキも感じられた。

 したがって、当時、新入社員の配属先には「学歴不問・適材適所」の
メッセージが各部門に通達され、当然、今井兼一郎氏の耳にも届いてい
たのだと考えられる。

 事実、私が配属になった設計一課で設計図を描いている時にも、課長
が出張で不在時の際などは、必ずといって良いほどに、笑顔で側に来て
いろいろな話をしていただいた記憶がある。
(今でも印象的なことを後述する)

 当時、私たちが新入社員として配属になる直前に今井兼一郎氏は部長
として着任したとも聞いており今井設計部長は「ニューヨーク生まれで
ニューヨーク育ちらしいよ」という話も事前に耳にした記憶がある。

 当時、土光社長は、将来展望として「航空宇宙分野」を有力成長部門
として位置付けしており、適材適所の考えで、今井兼一郎氏を航空宇宙
分野の中枢である設計部門に将来を背負う有力人物として配置されたの
かもしれない。

 私が、今井兼一郎氏に経営者としての斬新さを最初に感じ取ったのは、

○ これからは、設計部門の女性社員に、お茶を入れさせる行為は廃止
 して下さい

○ 女性社員も、重要な設計要員であり、重要な戦力です。お茶を飲み
たい人は、だれかれを問わず、自分でお茶を入れて下さい

と、お話しをされて、ご自身も・ご自分でお茶汲みをされていた。

 今になって「分かる」というケースは多くの場合に経験を積み重ねる
ことで気付くことであるが、その後、1990年代に全社的な企業革新
の旗振りをしている時にアメリカのGE社においてジャック・ウェルチ
会長が企業革新を進めた時の考え方に共通するものがあり・・・

 それを1960年代に実践していたと云う面において今井兼一郎氏は、
既に、経営者としての先進性を早々と実践していたと云える。

 そのことに関連して、私が思い出したことは・・・

 東京都内における全社的な新入社員教育も、終盤に差し掛かった頃に
人事部長から・・・

「これから皆さんは、職場に配属となりますが、職場には〇〇長という
ことで、肩書に 『長』が付く人が必ず居ます。この人たちをけっして
偉い人と思わないで下さい」

「この長と付く人は該当の部署をまとめて行く役割を持った人ですので
なんでも遠慮なく相談していって下さい」

 しかし、このメッセージも、今になって考えれば、土光イズムの一環
として全社的に意思疎通されていたものであり1990年代のアメリカ
におけるウェルチ会長の考え方は土光社長によって、日本では1960
年代に実践されていたと云えるのではないか?

 かくて、我々・新入社員は、今井兼一郎氏の下で、思い切り気持ち良く
大型版の設計図板を前にして設計図を描き始めることになるのである。

 昼休みになれば武蔵野の大地の陽射しを浴び、武蔵野の空気を思い切り
吸い込んで、まだ「全社における売り上げ高は5%にも満たない事業本部
であった」が、将来に向けた夢は、やがて、全社を牽引して行く屋台骨に
なって行くことであった。



009 火だまりの仕掛け

 当時の新入社員の立場で、設計部長の今井兼一郎氏に将来に向けての
心境などをインタビューすることなど叶わないが後に社内で発刊された
「航空宇宙の30年の歩み」を、手にした時に、その願いが叶った思い
がした。

 手にした「航空宇宙の30年の歩み」には、巻頭部分で歴代の本部長
の所感や思いなどが述べられていて三代目の事業本部長 今井兼一郎氏
からは 「航空宇宙本部30年に際して」と、題して次のような文面が
掲載されていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昭和37年(1962年) 田無工場の新総合事務所の開所式の当日
わが国の航空工業会をリードした企業の社長を勤め生え抜きの航空マン
の方が「我々も、何度かジェットエンジンを手がけることを考えたが」
どうしても充分なことができなかった。

 土光社長に 「よくここまでおやりになった、と、伝えてほしい」と
心からの言葉を残して去っていかれた。

 昭和30年頃、現在の豊洲の技術研究所があるところに、新エンジン
工場の配置図が完成し、発足を待つばかりのとき、当時、私は田無工場
の片隅、富士重工業の朽ちた倉庫の二階にあった日本ジェットエンジン
会社に出向して、J3の前身のエンジンの開発に取り組んでいた。亡く
なった同僚の荒木四朗さんに 「新プロジェクトのために、この工場を
買ったらどうだろう」と、電話をした。

 即座に上層部から反応が返ってきて、その後は、関係者の努力で今日
の骨格が組みあがり多くの先輩の献身的な使命感によって、今日の航空
宇宙本部は育まれてきたのである。

 昭和57年(1982年)に、XF3エンジンが防衛庁の開発プログ
ラムの採用に内定したときに、このプロジェクトを担当、昭和46年に
志なかばにして急死した故関根正信君の御母堂をお訪ねした。

 正信君は死の直前に「エンジンの成功に目途がついた」と喜んでいた
という。「あれから、10年たちました。エンジンの開発はたいへんな
仕事なのですね」と、御母堂に、そう言われ、私は改めて正信君の生前
の努力に深謝した。

 旧約聖書には「where there is no vision ,the people perish.」と
あり、ビジョンがなければ、その民は滅ぶという私の好きな言葉がある。
云い得て厳である。と、思っている。

 Visionは幻ではなく見える人には見えているのであろう。それが世の
流れとともに相(すがた)を現して歴史となりそれぞれの人のVisionに
よって、それぞれの歴史を観ているのであろう。30年は長くも・短くも
あり、自分の姿が見えにくい、年ごろに、さしかかる時期でもあろう。

 ある調査によれば、日本企業の平均寿命は三十余年であるという。

 創業にかかわった人は老い、恵まれた環境に育った若者は、世の移り
変わりに気づきにくくなっているのかも知れない。

 いまでは想像もできない幾多の幸運に恵まれて、今日の航空宇宙事業
本部は存在している。旧約聖書の 訓(おしえ)の厳しさにたち返って
心を謙虚に進まれることを願っている。

 この30年史が未来のためのものであるならば、
「意志のあるところに、道あり」と、いう言葉をつけ加えさせていただ
きたい。

・・・・・・・・

 我々・設計部に配属された新人・五名が、いかに恵まれた設計環境に
おいて迎えられ、活躍の場を与えられたか、そこには、土光社長と今井
兼一郎氏の意思疎通のなかで、実力の見極めが適格に行われ、適材適所
に向けた配慮がなされたことについて疑う余地はないと云える。

 そして、今井兼一郎氏は、新人の配属先の職場で、ある時には・・・

 新人が設計図を広げた大型版の設計図板の下に落ちていた「クリップ
を拾い上げて」アメリカの大手企業においては、この一個のクリップを
大切にしようと云う考え方が、やがて、大きな企業革新運動に発展して
いって大躍進した「サクセス・ストーリー」などをわかりやすい語り口
で紹介された。

 そして、これは決まりごとの様に、当該課長が出張されているときに、
巡回訪問して下さって・・・

 ある時、ジェットエンジンの燃焼器の図面を描いている時に当該部分
は高熱に晒される機器であるため、私が、諸外国の研究レポートなどを
先輩との小グループ編成で輪講という形の研究会を持ち、切り欠き部の
応力が集中しやすい箇所の形状などを工夫しているときに、設計部長の
今井兼一郎氏が設計図板の脇に見えて、燃焼器の吹き消え防止のための
仕掛けに、アイデアを結集させた経過などを説明して下さった。

 ジェットエンジンの燃焼器には、前方の翼列を高速回転させた圧縮機
から圧縮空気が送り込まれて、そこに燃料を送り込んで混合させ、高温
高圧の燃焼ガスを高速で排出することにより、ジェット流として推進力
を発生させるのであるが、時に、気象条件の急激な変化に遭遇したとき
など、燃焼ガスが吹き消える可能性は否定できない。

 その時に備えて、燃焼器の空気流入部に、圧縮空気の流入を抑制する
仕掛けを設けておくのである。しかも仕掛けは耐久性や耐熱性を考える
とシンプルな構造であることが求められ、そこには、天才的なヒラメキ
が凝縮されることになるのである。

 その仕掛けの効果として、遥か上空で、急激な気象変動に遭遇しても
「火だまり」を温存できるので、主流を成している火炎が吹き消えても、
すぐに「再着火」が可能であるという仕掛けである。

 私にとって、この考え方は、後に、ジェットエンジン設計の上手さと
しての秘訣だけでなく、その後の企業内活動や人生設計を考えて行く上
でも、貴重な示唆となった。

 一例を挙げれば・・・

◇ 後年、私は企業内活動として「生産性向上運動」の旗振り役を担う
ことになるのであるがこの種の運動や活動には波があり、隆盛期の後の
盛り上がりに欠けた時に失速の危機が襲って来る、この時「火だまり」
となって耐えられる力が、やがて「継続は力なり」となって再び隆盛期
を迎えるということを何度も経験した。

◇ テニス競技についても、同じような経験をしたことがある。地元の
テニス同好会が、薔薇の花が咲き出す、気持ちの良い五月頃に、順調な
スタートを果たして夏を迎えた頃であった、皆の出足が止まってコート
には二人のみという時期を迎えた頃があって、ここで休会にしたら流れ
解散かな? という感覚が働いて、二人で「火だまり」役を買って出て
水道の水を頭からかぶりながら継続させたことがある。

◇ 私が定年後に引き受けた、ある地域全域の幹部役員教育についても
ジンクスであるかの如く、何度も1年間の壁を超えられずに頓挫を繰り
返していた企業があったが、発想を変えて地域全域の従業員500名を
巻き込んで、販売・サービス会社としてのビジネス・コンサルティング
としてのアクションを加えて、要所要所に、火だまり役を設けることで
契約期間の4年間に加えて、この運動をさらに継続的なものにして行く
ために、トータルで6年間のコンサル活動を実施、その後、この企業は
自力での活動を継続させている。

 新入社員時代、当時の設計部長であった、今井兼一郎氏からの学びが
定年後も役立っていることについては感謝を越えた次元の思いがある。

 そして、今でも・耳に残り・脳内に響き続けている言葉は・・・

「なにごとも、設計に始まり、設計に終わる」ことを、頭にも・胸にも
腹にも、刻んでおくようにという教えを、常々、云われ続けてきたが、

 要は・・・

「言い訳をしなければならないような設計は初めから、しなさんなよ」

 もし、予想も、できなかった問題や課題が発生しても、

「言い訳の前に、事実は事実として受け止めて、原因を探し出し、究明
出来た原因に向けて手を打ちなさいよ」
「そこに、言い訳を、考えている猶予はないよ」と。

 この言葉の背後のあるものは・・・

 当時、私たちに与えられた 「設計任務」 の意味付けとして、

◇ ジェットエンジンの設計における天才たちの集まりが、飛行試験を
成功させた試作エンジンをベースに置いて、

「量産設計に向けていかに製造しやすいエンジンに再設計して行くか」

「実用的な飛行運用を支えて行くためには、いかに性能的にも構造的に
も安定したエンジンに、再設計して行くか」

「量産設計によって製造された部品は、エンジンとして組み上げられて
150時間にも及ぶ連続的な耐久運転試験が課せられているので、その
成果は、科学的・実証的に証明される」

◇ そして「なにごとも、設計に始まり、設計に終わる」の、意味する
ところは、実際にエンジンの製造が始まってから、そして150時間の
耐久運転試験が開始されてから益々その言葉の重みを増すことになる。

 即ち・・・

「図面に基づいて実際に部品を製作していて、量産のために、より良い
製作方法に気付いて、図面の変更が必要になった時には俊敏に図面改定
をする。これも設計に始まり設計に終わることの意味合いにつながる」

「図面に基づいて、実際にエンジンの組み立てをしていて、構成部品の
結合部をより簡便に、より確実に行なえる設計に気付いた時に構成部品
の図面改定を迅速に行うことは設計に始まり設計に終わることの好事例
と云える」

「そして150時間の耐久試験を無事に乗り切ってエンジンを分解した
時に、ここの接合部を変えたら、より耐久性が増すことに気付いた時に
俊敏に設計変更を重ねて行くことは、設計に始まり、設計に終わること
を実証している」と云える。

 ただし、製造に携わる技能者には、従前からの「一品工事」と云って
一度製作した物は余程のことがないかぎり、そのまま現場で若干の手直
しをして使用したりして、図面はあくまでも目安であって、現地や現場
で造り込むと云う育ち方をしてきた仲間もいる。

 そのような技能者にとっては、例えば 「建屋とエンジンをそれぞれ
違う部署や業者間で別々に設計して」いて、ある時「エンジンが収まる
建屋の横幅をギリギリまで狭めた構造に変更」 これを「エンジン設計
部門に連絡することが漏れた」場合・・・

「一方でエンジン設計部門でエンジン外周部に、計画外の排気ダクトを
従前の建屋図面のギリギリまで張り出して設計」した場合・・・

 結果「エンジン納入時に、エンジンが建屋に納まらない」という事態
が発生することになる。

 一品工事であれば、これを現地での手直しで収めてしまうのだが事態
が事態だけに現地では収まらずに、エンジン設計を変更して・・・

 例えば 「排気ダクトをエンジン上方の位置に設計変更させて」取り
敢えず工事を完結させる。

 これこそが、一品工事の技能者が体験して来た設計変更であり「設計
変更は設計者にとっては、不名誉なものであり極めてネガティブなもの
という認識があった」と云える。

 これに対して、航空エンジンの場合は、空中で、飛行する物体であり
人命の生き死にを背負っている製品なので、設計内容に危機的な状況が
ある時には勿論、飛行状態がより良い状況になるなら、俊敏に設計変更
を適用して行く。

 この重要な「パラダイム・シフト」を腹に落として全員の「意識改革」
を果たして行くには、相当の時間がかかる。しかし幸いなことに我が社
においては、意識の転換に向けて大いなる転機が訪れることになる。

 純国産ジェットエンジンと並行して量産体制を構築することになった
ライセンス生産において意識改革せざるを得ない事態に、企業体として
も経営者としても技術者としても技能者としても、緊急事態に遭遇した
のである。

 具体的な話をすれば日本政府とアメリカの企業で契約を結び、我が社
でライセンス生産をすることになったエンジンについて、当初から受領
していた図面と、実際にライセンス生産を始める直前に受領した図面と
に大幅な相違がありそれは設計変更によるものであることが判明した。

 この背景には、当初 「日本政府としては、既に、開発も済み、航空
エンジンとしては完成度も高く技術的な変更はないもの」と考えていた
のであるが・・・

「これは、日本的な考え方であった」

 ところが、実際には・・・

「航空エンジンの場合は、常に技術的な改善を図ってその性能や機能を
向上させて行くものであるという、欧米を主体とした世界の常識」が、
航空業界においては、常識(当たり前の考え方)であることが伝わって
いなかった。

 日本政府においても、このパラダイム・シフトを経ることで日本国内
の航空業界において 「設計から製造につながる設計変更の考え方」は
激変して行った。


010  百寿でのラケット競技

 新年のテニスの初打ちはバドミントンの二回の練習を経てから行った
ためか? 

 寒さの中で 「身体も良く動き」 「頭も良く働いた」
そして、テニスの練習をしながら 「徒然草の第九十二段」 の記述を
思い出した。

【徒然草 第九十二段】 島内裕子教授の訳から抜粋

 ある人が弓を射ることを習う時に二本の矢を手に持って的に向かった。
すると師匠が言うには「初心者は二本の矢を持ってはならない、後の矢
をあてにして最初の矢を射る時に、いい加減な気持ちが出てしまうから
である。

「毎回、絶対に失敗のないよう最初の矢で必ず的を射なければならない
と思いなさい」と言った。師匠の前で、たった二本の矢のうちの一本を
おろそかにしようと思う人はいないだろう。

 けれども、弛む心を本人は気づかずとも師匠は気付いているのである。

 この教えは、すべてに、通じると言ってよい。

 道を修行しようとする人は、夕方には翌朝があることを思い、翌朝に
なると、今度は夕方があることを思って、後でよく修行して身に付けれ
ばよいと、ついつい先延ばしにしがちである。

 ましてや 「一瞬の間にも弛み怠る心が、自分にあるということ」が
わかろうか。

 本当に 「ただ今の一念」 つまり、この一瞬のうちに、しなければ
ならないことを、すぐさま実行することが何と困難なことであろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は世間一般に云われている「後期高齢期」という堅い言葉に違和感
を覚えて自分流にゴールデンエイジという表現を発想して「ゴールデン
エイジの物語」という小説をファンタジー作品として書き綴って来た。

 また、この記述の中でも前述の徒然草の第九十二段をテニスにおいて
サーブを打つ時の基本姿勢として「精神論における取り組み方」として
考えてきた。

 しかし、最近になって、バドミントン練習に本格的に取り組むように
なってきて・・・

「バドミントンでは、サービスを打つ時に、手に持ったシャトルを打つ
ことが出来るのは一回のみであって、セカンドサービスは存在しない」

 そこで考えてみた・・・

「我々のテニス同好会も、テニス技術面から観たときに中上級のレベル
から上級のレベルに入って来たのではないか?」

 そうであれば・・・

「今までは、練習ボールを原則 『二球』手にしていたが、これからは
『一球』のみで良いのではないか?」

「サーブの場合も唯一ファーストサービスのみとしてセカンドサービス
は廃止としても良いのではないか?」と考えた。

 たしかに・・・

「仮にバドミントンの場合においてセカンドサービスがある安心感から
ファーストサービスを思い切り相手コートに叩き込んだ場合に、相手と
の距離が近いので、試合はサービスのみで決まってしまうことになる」

「テニスの場合には、レシーバーとしての受け手までに距離があるので
強烈なサーブであっても、受け手によってはリターンエースとして打ち
返す醍醐味は残されてはいるが我々同好会のローカルテニスにおいては
ほとんどの場合ダブルスゲームが主体であり、サービスエースによって
勝負が決することは少ない」と云える。

 それらを総合的に判断して・・・

「今年は、新年の初打ちから、サーブは『ファーストサービス』のみと
してセカンドサービスを廃止して、テニスゲームを行ってみた」

 結果、喜寿(七十七歳)にして、新たな発見の喜びがあった・・・

「テニスのゲーム展開が、およそ30%も、スピードアップした」

 冬季練習においてゲーム時間の短縮はありがたい。我々のテニス練習
は屋外で行なっており、プレー中は熱くなって戦っているがゲーム終了
を待つことになるメンバーにとって冬は寒い。したがって、交替時間が
早まれば 「全員がハッピー」 である。

 実際に、トライしてみて分かったことは・・・

「テニスにおいては、ゲーム中にファーストサービスで冒険をして強打
この場合に失敗するケースが多くセカンドサービスで慎重に決めて行く
ことになる」

「したがって、この場合に、ファーストサービスで打ち損じたボールを
誰かが拾いに行くと云うことになりムダな時間が発生する。結果、当然
のこととして、ゲーム時間は長引くことになる」

 そこで、今回の試打による 「結論」 としては・・・

「他所のテニス同好会に出掛けての練習では、従来通り、ファーストも
セカンドサービスも打っていただくとして、我々同好会のテニス練習会
においては、当面、サーブは一球のみで継続してみる」ことで暫定的に
決めてみた。

 帰宅後は、テニス同好会としての会計報告を電子メールで送信した。

◇ 平成30年末も、発足以来、年会費三千円にて、六年間「黒字」を
続けている。そして31年末も試算の結果「黒字」になる見通しを発信
した。

 実際に、テニススクールに通うとなると、月額にて約一万円は必要と
なるので・・・

 我々同好会の会費を月額換算すれば「300円以下」であり、お互い
にボランティアコーチと云う認識さえ持つことが出来れば、低料金での
継続は当然と云う結論になるのである。

 我々のテニス同好会は、略称「L&L」で入間市運動公園の窓口には
登録してある。

 フルネームは 「Low stress & Long life Tennis club」  であり、
そのこころは・・・

◇ ゆっくりと打ち合い、お互いにストレスをかけない打ち方で、相手
の打ちやすい処にボールを送って、テニスをこころから楽しみ、生かさ
れて長寿なテニス人生を楽しんで行こうというモットーに沿って、毎週
月曜日に練習を繰り返しているテニス同好会である。

◇ この同好会を、最初に発足させた狙いは、毎週「木曜日」に狭山の
ブレント・ウッド・テニスクラブのテニススクールで定期的に、当時の
海老名コーチから独特のゆっくりと打ち合うテニスを教えていただいて、
せっかく習ったことを忘れないようにという主旨で、月曜日に、受講生
の有志が集まり「おさらい練習」として繰り返し練習的にトレーニング
を行っていたものである。

◇ しかしながら、3年前にブレント・ウッドの経営者が老齢化のため
テニスクラブを廃業することになって、海老名コーチの考え方と意思を
汲んだ「L&L」の同好会だけが残ることになったのである。

 海老名コーチの独特の理論は、テニスにしても・野球にしても、球技
のスポーツでは・・・

「ゆっくりとボールを見極めて・ゆっくりと打って行く練習法が上達に
つながる」という理論(メソッド)であり我々も実践練習を通じて共鳴
したと云う経緯がある。

 海老名コーチとは、次のような会話を交わしたことがある・・・

コーチ「テニスの大会などにおいてもゆっくりとしたペースで戦い抜い
て行くことで、決勝まで気力と体力を温存したまま勝ち上がって行くこ
とが、決勝で善戦できる秘訣でもあり、怪我も少ない」と云えます。

わたし「たしかに、航空機の世界においても、ファイター(戦闘機)は
ジェットエンジンを500時間くらいでオーバーホールすることになり
ますが、旅客機の場合は100%のパワーで飛行することはなく、定格
の70%~80%くらいの出力で飛行しますから、オーバホールまでに
目安として5000時間くらいは飛行可能となります」

コーチ「我々プロコーチも、都市レベルの大会であれば100%の全力
を出し切って戦うことは少なく、稀に全力を出し切って戦う人も居るに
はいますが、だいたい、途中の三回戦あたりで脱落しています」

わたし「願わくば、自分が持っている力の75%くらいの出力で、決勝
まで進める力を日頃から蓄えておく練習が必要ということですね」

コーチ「全力で、ボールをぶつけてくるテニスプレーヤーへの対処法は
簡単です。これについても、今度、練習メニューに組み込んでおくこと
にしましょう。私は、ゆっくりと打ち合うテニスで、百歳までテニスを
続けて行く考えです」

 そのような練習経験を経ているので・・・

 我々は、ブレント・ウッド・テニス・クラブが閉鎖となった、今でも
毎週「月曜日」になると、海老名コーチを見習って 「百寿テニス」を
目指して練習を続けているという次第である。

 私は、この頃、時々 「百寿テニス」をイメージしてみるのであるが
百歳まで生きることが許されるなら・・・

◇生かされて 「百歳の誕生日」に、入間市運動公園のテニスコートを
インターネットで申し込み、テニスシューズを履き、テニスラケットと
テニスボールを手にして、自分でボール出しをして、家族に囲まれ写真
に納まることは出来そうな気もしている。

 そしてなによりも、私が入社した時の大恩人「今井兼一郎氏」の最近
の略歴を拝見させていただいて 「百寿テニス」にますますの期待感を
抱くに到っている。


【今井兼一郎氏の略歴】

「技術開発と品質工学の変遷」と、題したロングインタビュー記事から
抜粋・・・

 1917年生まれ、1941年東京大学工学部機械工学科卒業後は
中島飛行機に入社、同年9月から1943年9月まで、海軍造兵中尉
として横須賀海軍砲術学校を経て長崎県大村の第21海軍技術航空廠
に所属する。

 終戦間際には、日本初のジェットエンジン「ネー20」の試作にも
関わる。戦後は石川島重工業(現IHI)に入社して、ガスタービン
や各種発動機関係の開発を手掛ける。

 退職後は、日本大学教授、日本機械学会会長、品質管理学会会長、
日本学術会議会員などの要職を努め2016年4月において99歳
を迎える。

 略歴の中に、ガスタービンとあるのは、私が新入社員の時にご指導
いただいた航空機用ジェットエンジンのことであり略歴からも明らか
なように、技術開発と品質工学にあっては神様のような存在感の方と
若年において貴重なお話しをお聞き出来る機会が持てたと云うことは
今、考えても望外のことであったと云える。

 そのような存在感抜群の今井兼一郎氏が、2018年4月の時点で
101歳の百寿越えを達成されているということは、人生の可能性と
して、航空用ジェットエンジンから、人間としての生き方についての
ヒントを得た私としては 「百寿テニス」 の可能性として・・・

 その素晴らしい生き方のご縁に、あやかりたいものであると考えて
いる昨今である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 テニスの初打ちの後の、週末のバドミントン練習会において、私は
百寿バドミントンの可能性を秘めた人々の存在に気付くことになる。

 バドミントン練習の間の休憩時間になって話題がスキーの技術論に
及んだ。私と同年代の「喜寿」世代の会話である・・・

 彼ら・彼女らは現役のスキーヤーである。したがって彼ら彼女らの
話題は現在のスキーヤーとしての活躍話、こちらで合わせて行く話は
20歳代で、ジェットエンジンの図面を描いていた頃のクラシカルな
スキーの話題が精一杯ということになる。

◇ 私たちのスキーは、その長さは、手を上まで伸ばし切ったところ
に先端があった。

◇ 現在のスキーは、はるかに短く、方向転換も容易だと云う。

 私と同年齢の女性は、今でもジュニアチームを引き連れてスキー場に
出掛けて、スキーを教えているのだと云う。しかも最近のスキーは方向
転換が容易なので、ジュニアと向き合うようにして、逆ボーゲンの形で
対面しながら誘導するのだというから驚嘆に値する。

 私と同年代の男性も、家族と連れ立ってスキーに出掛け、同様に若者
と遜色なくスキーを楽しんでいると云うのだから、これもまた凄いこと
である。

 このことから、彼ら・彼女たちは「百寿バドミントン」も、可能だと
推測することが出来る。

 私のスキーに関する話題は、青春の思い出を手繰るよりないが、百寿
バドミントンについては、彼ら・彼女たちと共にチャレンジしてみたい
ものだと、最近になって新たな目標に加えている。

 私も、彼ら・彼女たちと「蔵王や志賀高原で滑ったことのあるスキー
の思い出」などを話しながら、当時の青春の思い出に記憶を走らせて話
を合わせながら当時の設計の職場での先輩達のことを思い出していた。

 当時の設計の職場には、かつて大回転の選手であった女性などを中心
にプロ並みのスキーヤーが勢揃いしていて冬季のシーズンになると観光
バスを借り切って出掛けていたが、我々新人には遥かに遠いお山の上の
話題であった。

 我々の新入社員の時代は労働運動が盛んで、労使関係も緊迫していた
時期でもありベースアップのためのストライキ(業務放棄)なども頻繁
に行われていて職場にはまだ組合員でない新入社員と管理職だけが出勤、
そのような背景もあって、管理職からの的確にして、直接的な業務指導
などにも恵まれたのかもしれない。

 そのような社会情勢の中で、新入社員が左翼系の労働運動に引き込ま
れないようにという配慮から社内ではリクリエーションを健全な方向に
導いて行くために、リクリエーションリーダー(略称:レクリーダー)
などのメンバーも選出されて、業務外の面でも適時・適切なガイダンス
があった。

 その後、週休二日制が導入された時には、この時の経験が役立って気
の合う仲間が集まって、週休二日を「半分は勉強・半分はレジャー」を
目安にして時間配分することで、遊びの計画なども決まりやすかった。

 しかしながら、設計部門に配属になったばかりの新入社員にとっては、
目の前の期限の迫った設計図を描くことで頭の中は満杯でありジェット
エンジンは航空機に搭載して飛行することではじめて完成形となること
から、機体などに関する技術的な知識や知見なども修得しておく必要が
あり週休二日制といえども、丸っきり遊んでばかりもいられないために
「半分は勉強・半分はレジャー」という配分感覚は今になって考えても
的確な判断であったと云える。

 設計に配属された・新人・5名の内の2名は東京都内からの自宅通勤
であったが、他の3名は、会社の寮からの通勤であった。

 航空宇宙分野における新人は全体的には50名が配属となり、杉並区
の永福町の寮には関東地域から東北・北海道の出身者が入寮、阿佐ヶ谷
の寮には九州地区から西日本にかけての新人が入寮した。

 私は群馬県の出身なの永福町の寮に入り、新入社員として、入社した
ばかりの時期には、永福町から豊洲地区までの道すがら、都内では満員
バスに押し込まれて通った。バス内の混みようは凄まじくバスを降りた
時にネクタイピンが無かったこともあった。

 新入社員教育が修了して、航空宇宙分野に配属になってからは永福町
から井の頭線に乗って吉祥寺駅まで行き、吉祥寺駅から、事業所までは
専用バスで通った。
(専用バスは朝の一本のみなので朝寝坊は出来ない)

 あれは、いつだったか? 

 井の頭線の電車が遅れて専用バスの発車までに時間ギリギリとなって
「遅れてなるものか」と吉祥寺駅の階段の最上段から、約20メートル
はあると思われる階段を手摺を唯一の頼りにして、一気に、飛び降りた
ことがある。

 バスの発車には間に合ったが、通勤靴の踵が外れ落ちてしまって一足
ダメにしたことがある。

 今になって考えてみても「よく怪我をしなかったものだ」と思い出す
ことがある。

 会社からの帰途は、路線バスを利用できるので、吉祥寺駅だけでなく
武蔵境駅に出ることもでき交通に不便は感じなかった。通勤の沿線沿い
としての吉祥寺駅周辺は魅力的な街であった。

 休日などは、永福町から吉祥寺駅まで出れば、井の頭公園で散策など
も出来、園内では友人とバドミントンなどに興じることも出来た。

 しかし、まだテニス競技への萌芽はなく、硬式テニスに到るまでには
スケート競技からスキー競技への興味を経て、スキー競技に向けて足腰
を鍛えるための基礎競技としての、軟式テニスへの昼休みの時間を活用
しての取り組み、さらには、瑞穂事業所の横田基地の滑走路からの強風
ゆえの硬式テニスへの転換までには幾多の期間を経てからの到達となる
のである。

 そして純国産ジェットエンジンの量産設計の全出図が完了するまでは、
脳内に常に図面情報が溢れていて、レジャーなどに気持ちをもって行く
余裕は全くなかった。


011    コミュニケーションの問題は多種多様

 地元のバドミントン同好会も、活況を呈してきて、定員の16名満杯
となった。直近の入会者は昨年の同好会の解散騒ぎに嫌気がさして辞め
た女性で同好会の順調な回復を見届けての再入会だと云う。

 同好会は出席率も高く、バドミントンコートには、メンバーが溢れる
ようになってきた。ダブルス戦における基礎練習となるとコートが二面
あっても八名きり入れないので、七・八名はコートの外で待機すること
になる。

 私も練習に参加していて感じたことは・・・

 控えの練習メンバーがコートに入る時のローテーションが円滑ではな
くて、進行役からの指示待ちの様な状態となり、皆さん「なんだか訳が
分からない」状況で、コートに入ったり、コートから出たりしている。

 私自身はテニス・スクールに十年近く通い、自分でも、地元のテニス
同好会の進行役を担当しているので、このようなケースでは、コートの
二面を四分割して、参加メンバーも四分割それぞれがそれぞれのコート
内で、2~4回のメンバー交替を行い練習をパッケージ化して完結させ
「満足感を得た」上で、その後に全体的なローテーションをすれば上手
く行くのだが、現地で、そのことを云い出したら混乱すると考えた。

 そこで、帰宅してから、簡単な解説文を書いて進行役に提案する形で
メールを送信したところ昨年のバドミントン同好会の解散劇は、前会長
からの一通のメールの発信が原因で混乱が生じ、以来、メールでの情報
交換には恐怖感がある旨の回答が届いた。

 そのような事情を知らなかった、私は、お詫びメールを送信して問題
が拡散することを防いだが・・・

◇ 我々のテニス同好会の場合は、ほとんどのことは、メールの交換に
よる相談で物事を決めてきており顔を合わせての相談事は年間を通して
も数件もない。

◇ 家内が参加しているフラダンスチームの場合は、スマートフォンの
LINEにグループ登録して、メンバー間で共通話題をいっせいに連絡
しあってチーム運営している。

 一方で、練習をする現地で相談して決めて行くと云う考え方もあるが
練習方法をはじめとしてローテーションの方法論は無数にあり、世話人
や進行役が中心になって決定するという方法をとらないと、議論百出で
練習時間を減らすだけのことになる恐れもある。

 現代は通信事情もコミュニケーションの方法も多種多様であり・・・

◇ その集団の置かれている状況が「多数派的にはどのような通信事情
にあるのか?」

◇ それは「どのような通信機器をそれぞれに所有しているのか?」で
はなくて、それぞれが「どの程度、操作に習熟しているか」ということ
になってくる。

◇ そして「多くを占める存在感はどこにあるのか」ガラ携・スマホ?
それとも、パソコン・自宅電話・ファクシミリ、その見極めは難しい。

◇ そして、その場合に、少数派をどのようにして救って行くのか?

◇ これは、年代層で決まるものでもなく、本人を取り囲む家族構成に
どれかに詳しい存在があれば、その影響も大きいと云える。

地元のバドミントンの同好会が、たった一通のメールの発信に起因して
解散劇に発展したという話を聞くに及んでただただ驚くばかりである。

 問題は、当時の真相として、根底で 「心が通っていなかった」のだ
ろうか?

・・・・・・・・・・・・・・・

 これまでの50年間を越える社会人としての生活を振り返って考えて
みた時に、今や、大昔の言葉となった感のある 「以心伝心」 などは
まだ生きた言葉だろうか?

【以心伝心】 国語辞典から抜粋

 言葉によらずに互いの心から心に伝えること。言葉では説明できない
深遠・微妙な・事柄を相手の心に伝えて、分からせること。

【以心伝心】 広辞苑から抜粋

① 禅家で、言語では表されない真理を師から弟子の心に伝えること
② 思うことが言葉によらず、互いの心から心に伝わること

 ここで 「以心伝心」について、私が生涯学習を通じて、いまだに
人生における生き様としてたいせつにしている出来事を紹介すること
にする。

 私が、管理工学のエンジニアとして、社外の方々と技術交流をして
いた頃の話である。

 当時 「第12回:IE海外研究視察団」が、編成されて海外出張
日本インダストリアル・エンジニアリング協会主催で1977年1月
に報告会が開催された。

 その時に、TA(Transactional Analysis)交流分析と題した報告
がなされた。

 内容は、日本人 (広くは、禅を軸とした東洋人)の心の中にある
「以心伝心」という心の働きを、欧米の学者が「ハート研究」として
分析、精神療法や企業活動に、応用することを考えたもので、当時は
画期的な研究として伝えられた。

 私にとっては、以来、今日に到っても生涯学習的に役立っている。

 それでは、TA(交流分析)について体系的に説明する。

【まえがき】

 企業などにおいて業績の向上を図って行くためには、企業や集団内の
人材のベクトル・言い換えれば方向性を如何に合わせて行くか、そして
それぞれの能力を如何に効果的に引き出して行くか、その鍵を握ってい
るのは管理者でありマネジャーである。

 そのための、手法(技法)の一つとして、近年、TA(交流分析)が
注目され、管理面や販売面・接客面において精神療法的な面からの効用
も注目され、その効果の大きさからも組織的に採用する企業が広がって
きている。

【企業が組織的にTA(交流分析)を採用する背景】

◇ ハート教育の重視

 欧米における企業内教育は従来は技能や知識を中心として行いハート
問題は個人または家庭内の問題として片付けていた。

 しかし、人間のミスの要因も、統計的な一例として・・・
 
 〇 技量不足によるもの   4件
 〇 知識不足によるもの   6件
 〇 心に起因するもの   12件

 などの報告もあり「心に起因するもの」が、圧倒的に多いという事例
も示されている。

 このことからの反省として、技術偏重の教育が見直されて・・・

 企業としての、ハート教育の重要性が、大いに認識されることとなり
「TA(交流分析)」が、一つの手法(技法)として注目されることに
なった。

◇ 自主的に仕事が出来る人間性の必要性

 近代的な産業では機械化や自動化の進展に伴い、ルール通り・機械的
に仕事をこなす人間よりも、広範囲な業務や多様な変化にも上手く対応
して、手際よく処理出来たり、上手く仕事をこなして行ける人間が求め
られるようになってきた。

 このような状況の中では、自分がもっている知識と力量で、自主的に
仕事が出来るばかりでなく・・・

 〇 物事に対して自分の意識を積極的にぶつけて行ける。
 〇 素直に・自発的に、仕事に向かって行ける。
 〇 相手方と応接するときに親しみをもって誠心誠意の対応が出来る。

 などが求められるようになり、人間育成法として「TA(交流分析)」
が注目されることになった。

【TA(交流分析)における人間性に着目】

 この手法(技法)では、自分のもっている人間性を、次の三つに分類
することにより 「自分の姿を丸裸」にする。

◇ P : Parent (両親的な要素)
 自分が幼児期に、両親を通じて得ることの出来た社会的な体験であり、
時に批判的 であったり偏見的であったり保護的であったりするもの。

◇ A : Adult  (成人的な要素)
 現実のデータを直視して、データを収集、現実的な眼で分析して意思
決定して行く理性的な態度。

◇ C : Children (子供的な要素)
 子供の頃の名残で、当時の体験が瞬間的によみがえり感情を支配する
素直と云えば「素直」「無邪気」「我がままな」態度。

【実際の交流分析における自分発見】

 自分の人間性を発見するには、あるがままの姿で 「人間 対 人間」
の関係を持って、かつ日常的な実際場面において、実際の会話を交わして、
二人の関係を類型化して、自分の会話を三つの要素である「P・A・C」
に分析してみる。

 これは、お互いの関係の「良し・悪し」を分析するというよりも、自分
発見の糸口を探すキッカケにする方が、自分自身には役立つと考える。

 当時のガイダンスでは、お互いに「A(成人的) 対 A(成人的)」
な会話となるような訓練を勧めているが、現時点で考えてみるに必ずしも
「A 対 A」の関係が理想的とも断言できないので自らの会話を「A」
成人的なものにしたら、相手先が、どのような変化を兆すかを考えてみた
ほうが有効的かもしれない。

【人生の脚本分析(Script Analysis)】

後年、私にとって最も役立っているのは、この「人生の脚本分析」であり、

『自分の人生の・主人公は・自分である』と、云う、確固たる信念こそが、
「自分の人生を楽しくしてくれるのだ」と考え、その経緯を経て確立され
た信念こそが「自分の人生を大いに後押ししてくれるのだ」と言い切って
良いのかもしれない。

 交流分析では、主人公である自分と相手先に次のような「四通りの関係」
があり、それを決めるのは、自分からの働きかけにポイントがあるとして
いる。

◇ I am OK , You are OK.・・・・・・・私も貴方もOKの関係

◇ I am OK , You are Not OK.・・・・・私はOKだが貴方がダメ

◇ I am Not OK , You are OK.・・・・・私はダメだが貴方はOK

◇ I am Not OK , You are Not OK.・・・私も貴方もダメダメの関係

 この関係性において、最も望ましいのは「I am OK , You are OK.」の
間柄であり、この状態はお互いに「信頼関係」が成り立っていると云える。

 最も、最悪な関係性は「I am Not OK , You are Not OK.」の間柄であり
この状態に陥るとお互いの信頼関係の修復や回復は困難と考えられている。

 しかし、この最悪な状態には、一気に突き進む訳ではなく・・・

◇ 初めの兆しとして、何らかの事情で、相手先が自分に対して不信感
を抱いた時に「I am OK , You are Not OK.」の状態に到り、こちらが
その状況に気付くことによって打開策を講じていれば状況が深刻な事態
に陥る前に手が打てる。

◇ そして、両者の間の交流を会話などに代表される「ストローク」と
いう言葉で表現をすれば、相手先が 「You are Not OK.」の場合に
「ノー・ストローク」の状態が続くと、最も危機的な状況に陥って行く
と云われている。即ち、この状態のまま放置した時には、やがて時間を
経て最悪の「I am Not OK , You are Not OK.」の状況に進みかねない。

◇ 救いようがあるのは「I am OK , You are Not OK.」の状態において
相手先が反抗的な態度や反発を示してきた時に、自分に、 それなりの
「寛容のキャパシティー」があれば・・・

 この状態を 「I am OK , You are OK.」に戻すことは可能であると
云われている。

◇ したがって相手先が反抗的な態度や反発を示しているときは、まだ
「黄色の信号」であり救いようがあると云える。

◇ 相手先が自分の殻に閉じこもってしまう性格のときには、日頃から
相手先の性格を見抜き次のような徹底した「I am OK , You are OK.」
の関係を継続させる工夫が必要であり、この方法はあらゆる場面で共有
が可能な方法でもある。


【 I am OK , You are OK. の関係を持続させるマネジメント】

 人間と人間の交流や、人間とペット(犬や猫)との交流には三種類の
ストローク(Stroke)がある
(ここで筆者の経験からペットを取り挙げたのには重要な意味がある)

◇ Positive Stroke・・・・・・・ほめる
◇ Negative Stroke・・・・・・・しかる
◇ No Stroke・・・・・・・何もしない

 人間は、他人から(例えば:上司から)言葉や身体的な動作を伴った
態度などによって 「自分や自分の行為」が認められたと感じたときに
それを 「Positive Stroke」として受け止める。

これは、後日談であるが、ペット(犬や猫)の場合も同様に「Positive
Stroke」については、同様の受け止め方をする。

 一方で、人間の場合は、上司などから 「何も、かまってもらえない」
No Strokeな状況に置かれたときに、たとえ、叱られるであろうリスク
を冒してでも、そのほうがまだましとして問題行動を起こして Negative
Stroke 起こすことがある。

 そして、これを放っておけば・・・

 やがて、最悪の 「I am Not OK , You are Not OK.」に進行して行く
可能性を帯びて来ることになる。

 私が、管理工学のエンジニアとして、異業種による実践交流会に参加
させていただいているときに、次のような「好事例」をお聞きしたこと
がある・・・

「その方はガラス機器のメーカーの部長さんで約50名の構成メンバー
に向けて職種を問わず 『必ず・一日に・一回は会話を交わすこと』を
目標にして月間計画を建てているのだ」と云う。

 実際には出張などで願いが叶わないこともあるとは思うが・・・

「I am OK , You are OK.」の状態が継続しやすい状況にあることは確
かである。

 私が、新入社員として、設計職場に配属になった時も・・・

 直属の上司が出張などで不在の時に、必ず新人の設計机の脇に訪れた
設計部長の姿勢も、日頃は直接的な接触がなくても・・・

「I am OK , You are OK.」 の状態が保たれる要因になったことには
疑いの余地はない。

 しかしガラス機器メーカーの部長さんのように余程の覚悟がなければ
日々に必ず一回の会話を持つことは難しい。

 しからば、どうするか?

それは 「Negative Stroke」にこそ、精魂を込めて取り組む必要が
あると云える。

 かつて、経団連会長として日本再生のために、あらゆる階層に向けて
「叱った」ことのある土光敏夫氏は 「叱る(しかる)」ことと「怒る
(おこる)」ことは、根本的に異なることであるとして明言された。

◇ 「叱る(しかる)」と、云う行為には、相手先が行動や行為などを
正すためのヒントや、示唆が込められた言葉などが必ず添えられており、
相手先への冷静な観察や判断力などに基づいた言葉であり時には相手先
が呑み込める大きさに噛み砕かれている。

◇ 「怒る(おこる)」と云う行為は、自分の抑えきれない感情などを
噛み砕くこともなくぶつけて行くので相手先は怒りの丸ごとを呑み込む
ことも出来ず、ただただ怯えるのみで、身を処する術を考え付くことも
出来ない場合が多い。

 そして、これには、後日談も加わることになるが・・・

◇ ペット(犬や猫)を叱るときには 「現行犯逮捕的」に、その場で
叱らないと効果は薄く、後で叱っても 「なんで叱られているのか?」
真意は伝わりにくい。これについては「ほめる」時も同様で、その時に
「ほめる」と良い躾につながる。

◇ これに対して、人間の場合には、現地では 「事実の共有」のみに
留めておき、後日「叱る(しかる)」という段取りの取り方が有効策の
ようである。
(このあたりが人間とペットとの違い)

 これは、余談にもなるが・・・

 ある日、奥さんが、酔っぱらって帰宅した旦那に「どうも、いつもと
は様子が違う」と感じたものの 「お帰りなさい」と気持ちよく迎えて
風呂場に送り込み、翌日になってくつろいでいる時間帯に「昨夜はどう
したの。同僚の方から電話があったわよ」と切り出して、すべてを白日
の下に晒し「大反省」の旨を告白させる。

 この場合は奥さんのほうが二枚も三枚も上手な事情もあるが、下手な
言い訳を準備して、帰宅した旦那と不毛の会話を重ねるよりも・・・

 翌日のほうが、冷静な会話も可能となり、その後のハンディー付きの
「I am OK ,  You are OK.」の関係につながる。

 ここで、本論に戻れば、問題が起こった現場よりも、後日、お互いが
冷静な状態において「Negative Stroke」としての「叱る(しかる)」
行為を持ったほうが「I am OK , You are OK.」の状態に戻しやすいと
考える。

 そして、これは、前述のような・・・

 上司などから「何もかまってもらえない」No Strokeな状況に置かれ
たときに、たとえ、叱られるであろうリスクを冒してでも、そのほうが
まだましとして問題行動を起こして、結果「Negative Stroke」となる
場合についても、時間を置いた対応は有効と考える。

 俳聖「小林一茶」の俳句に次のような作句があることが「禅の人間学」
松原泰道著に紹介されていた。

「叱らるる人うらやましとしの暮れ」 一茶

 一茶は三十九歳で父親と死別しているが、一茶の父は、臨終の病床で
「ナシが食べたい」と言った。この時、一茶は約30キロを梨を求めて
走ったものの、四月末のことゆえに、今とは違って時季外れの梨を入手
することは出来なかった。

 一茶が、父の最期の望みを叶えてやれなかったことを 「どんなにか、
悔いていたかが」この俳句からも伺い知ることが出来ると云える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 しかしながら 「東洋の心を汲んだ」TA(Transactional Analysis)
交流分析も人間同士のお互いの「ありのままの姿」を尊重した導入時は
心に沁み込んでくる様な手応えが手伝って好評であったが、

 やがて、TA(Transactional Analysis):交流分析の多角的な導入
によって・・・

「人間のもって生まれた尊厳ともいえる人格を変えることが出来るので
はないか?」と、いう考え方をもったコンサルタント集団が出現するに
あたって、企業内に大混乱を生じさせた企業が出現して来るにあたって
その風当たりが本来のTA(交流分析)のもてる魅力を吹き消してしま
という事態が出現する。
(人間の驕りともいえる行き過ぎた行為であった)

 しかし、私は、今でも「TA(Transactional Analysis):交流分析」
のもつ本来的な魅力を「火だまり」として保持しており時々取り出して
は活用している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 一方で、仏教の世界において「四苦八苦」という言葉がある。辞書を
引くと難しい漢字が並んでいて、理解が難しいが、この言葉を人間世界
におけるコミュニケーションに当て嵌めて、ある高名な禅師がわかりや
すい言葉で解説されたことがある・・・

「人間世界においては小さな集団に参加させていただいて活動すること
があります」

「この時に『四苦八苦』と云う言葉を当て嵌めて、コミュニケーション
の問題を考えると、気持ちが軽くなることがありります」

「すなわち小さな集団に人間が四人集まれば、一人くらいは気の合わな
い仲間が居るものです。これが八人ともなれば二人くらいはこの人たち
『嫌いだな~』と思うメンバーが居るものです」

「だからといって、他のグループや集団に移っても、そこにも、一人や
二人は気の合わない仲間は居るものです」

 仏教の世界には 「諦観」といって 「あきらめてながめること」を
勧める教えがあり禅僧などにとっては、それが「さとりの境地」に到達
する場合も、あるようですが・・・

 我々の境地においても、案外 「あきらめて、やり過ごすこと」も、
グループ内にあって、ギリギリ「I am OK , You are OK.」の多数派を
維持して行くための「生活の知恵」につながる可能性には期待がもてる
のかも? しれませんね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 また、直近の話題を併記すれば・・・

 放送大学の授業において  「コミュニケーション論序説」大橋理恵・
根橋玲子著を端緒に数回にわたり授業を受けて国際的なレベルにおける
「コミュニケーション論」を学ぶ機会を得た。

 この内容は、いずれ機会をみて紹介するが面白かったのは、この授業
の最終場面において「自分自身のコミュニケーションにおける自己診断」
が行なわれた。

 結果、私の場合は・・・

「伝えたいことや言いたいことがある時にはハッキリとした言葉で伝え
る必要がある。あなたには、その努力が不足している傾向がみられる」
と出た。

 定年を機に「論点」を絞り込んで意見を交わすような機会もなくなり、
特に、際立った主張を述べる必要もなくなると、余程のことがない限り
しゃしゃり出てもの申すこともない日常生活を繰り返していると、前述
のような自己診断結果が出るのかも知れないと考えて、以降は、少しは
「考えていることを言葉にして伝える」努力を始めてはいる。

 そこで、前述のようなメールの発信に到った・・・

 バドミントン練習において、帰宅してから「気付いたこと」を、簡単
な解説文を書いて進行役に提案する形でメールを送信したところ昨年の
バドミントン同好会の解散劇は前会長からの一通のメールの発信が原因
で論争が勃発、以来、メールでの情報交換には恐怖感がある旨の回答が
届いた。

 そのような事情を知らない、私は、お詫びのメールを送信して問題が
拡散することを防いだのだが・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今年になって「四回目のバドミントン練習会」は、このような経過の
あった直後のことであったので、若干、気にはかけながら顔を出すと、

「佐久間さん、あのメールで提案されていた『ローテーション』の方法
を後でダブルス練習するときに、みんなに紹介して下さい」ということ
になり、基礎練習の後で、その機会が訪れて詳しく説明した。

 みなさんからの反応は・・・

「先ずは、提案のあったチーム編成をして実際に練習を行い、その過程
で提案されたローテーションにも取り組んでみましょう」と云うことに
なって・・・

◇ 結果は「楽しかったわ!」という声も聞かれ、
◇ 話のオチは「善い人に入会していただいたわ!」と、出来過ぎの
ハッピーエンドまで行き着いた。

 どうやら・・・

「伝えたいことや、言いたいことがある時にはハッキリとした言葉で
伝える必要がある。あなたには、その努力が不足している傾向がみら
れる」

 この自己診断を参考にした行動には、さっそく効能が発揮された様
である。

 そして、思い出した・・・

 定年で退職する前の約三年間は、設計・技術部門と製造部門を繋ぐ
データセンターの任務に就き三つの事業所を兼務する勤務形態となり
「データーセンターの近代化」と日々業務を並走させる形で定年の日
まで休暇も取らずに駆け回っていたが・・・

 あの時も各事業所の主任やメンバーに、電子メールなどを活用して
課長の立場からの「提案内容」を事前に案内しておき、お互いの顔を
見て、言葉だけでなくボディーランゲージにも気を配って、現地にて
「即断即決!」していたことを。

 あの時の経験は、定年後の地域活動においても、生かせるものだと
思わず「独り頷いた」次第である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 新入社員の時代に純国産ジェットエンジンの量産用図面を描いている
時にも・・・

 チームで活動していたが、最後の図面が出図された時には全員が立ち
上がって拍手をしたが、あの場面でも以降は設計部門と製造部門および
生産技術部門の間で量産体制に向けた本格的な「コミュニケーション」
の幕が開いたのであった。

 それは、大型の設計図版に向かって、ひたすら図面を描いている様相
とは、大違いの仕事が待ち受けていたのであった。

 まさにそれは「全ては・設計に始まり・設計に終わる(帰結する)」
と云われた設計部長の今井兼一郎氏の言葉通りの臨戦体制のスタートで
あった。


012   設計図面は生き物・そして・オータムショック

 純国産ジェットエンジンの設計図が出揃うと、エンジン完成に向けて
全部品が生き物のように動き出す。

 そもそも、ジェットエンジンは、構造的にエンジンそのものが生き物
のような存在であり実際に試運転などが始まると生き物のように唸り声
をあげて、エンジン後方部から火炎を噴出、その威圧的な存在感を示す
ことになる。

 後はエンジンを機体に装着すれば大きな飛鳥のように大空に向かって
飛びたつ。

 我が国初の「純国産ジェットエンジン」は、構造が極めてシンプルで
あり、かつ頑丈に出来ており、顧客サイドにおける整備や維持・管理の
優秀性もあって・・・

「退役まで総生産台数247基において事故を起こしていない」

 構造的には、空気を吸い込んで圧縮する「圧縮機」の部分は、軸流式
のストレートな構造で、流入した圧縮空気に燃料を噴射させて燃焼ガス
を噴出させる「燃焼器」についても直流構造である。この噴出エネルギ
を回転力に変えて、前方の圧縮機に回転力を与える「高熱タービン」も
直列の配列であり燃焼ガスの排出も後方にストレートに排出する構造に
なっている。

 純国産ジェットエンジンをまとめあげた天才的な技術集団は、極めて
明快にエンジンの構造をシンプル化させたと云える。

 したがってジェットエンジンの理論書に述べられているように、一度
エンジンが始動すれば、燃料を供給し続ける限り機体は飛び続けること
が出来る。

 ここでの課題は、高温に晒されることになる燃焼器や高熱タービンが
長時間にわたって、どれだけ・高熱・高圧に耐えられるか・・・

「そこが運用開始後の永久的な課題になってくる」

 さて、前述で純国産ジェットエンジンが設計段階から製造段階に移行
した話をしたがジェットエンジン部品を実際に製造する段階では、製造
工程における 「公差」 という問題が避けては通れない重要な課題に
なってくる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【公差】 辞書から抜粋

 工業製品などにおいて標準の重さ・大きさなどから、この程度は外れ
いても大丈夫ということで、公式に許容されている限界。

【公差】 広辞苑から一部を抜粋

 機械加工で工作物の許しうる最大寸法と最小寸法の差。許し代(しろ)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここで天才技術者たちがまとめあげた純国産ジェットエンジンは極限
までバランスが図られた傑作エンジンといっていいだろう。

 このバランスを崩さないためには量産段階においても、製作時のバラ
ツキを小さく抑えて行く必要がある。

 従って設計者にとっては、ジェットエンジンの個々の構成部品の作り
やすい形状の在り方と並んで、許容出来るギリギリの公差を決めること
が重要になってくる。

 一方で製作者にとっては加工技術を担う技能者として、厳しい公差内
に部品形状を納めて行く必要がある。この時のジェットエンジンにおけ
る製作上の公差は・・・

 ミクロン単位である。1ミクロンは、1000分の1ミリであるから
その精度は精密さを極めてくる。ジェットエンジンの組立工場の入り口
には水が張られておりここで靴を洗ってから入場するのも、製品がミク
ロン単位で仕上げられていることによる。
(ジェットエンジンの部品は埃を嫌うのである)

 したがって、製造部門には当時の土光社長の「適材適所」の意を汲ん
で、タービン部門の優秀な機械加工の技能者が航空宇宙部門に送り込ま
れて製造部門の中軸を成した。

 一方で我々設計チームの三人が担当した燃焼器およびタービン部分は
高温・高圧に晒されることから、特殊鋼としてのステンレス材が使われ
ほとんどが溶接構造であったため常に溶接による歪の問題がついて回り
この面では優秀な溶接分野における専門技術者と腕の立つ溶接技能者が
配属された。

 これらの優秀な生産技術者と技能者の存在がなければ、天才技術者た
ちが設計したところの極限まで、バランスの取れたジェットエンジンに
対して誤差の少ない、言い換えれば、公差基準の厳しい製作は実現出来
なかったが、幸いにも土光社長が手塩にかけて育てて来たタービン部門
には、そのような人材が顔を揃えていた。

 何故、純国産ジェットエンジンが、これほどまでにバランスの取れた
エンジンとして熟成したのか、その秘密は、二十年超先の異次元体験を
経て知ることになる。

 私の執筆する物語の多くに異次元体験の経緯が登場するが、ここでも
読み手にとって「一読にお付き合いいただけるのか?・否か?」・・・

 私自身には確証がもてないことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


【クライストチャーチでの体験】

 あの日に成田空港に集まったツアー客の仲間は多彩であった。

 新婚組の若手が二組と六十歳代後半の夫婦が三組・そして・親子連れ
の混成が二組および七十歳代の友人ペアのお二人、シングルで参加され
たお二人・そして・年齢的に見比べると、丁度、アベレージ(平均)に
位置するところの私と家内であった。

 まだ初対面なので気心も分からずツアーの女性コンダクターが掲げる
旗に連なって、ぞろぞろと出国ゲートに向かって歩いた。全員の出国手
続きが済むと出発時刻までは、それぞれ自由時間である。

成田の出発ゲートで手荷物だけを持って、私と家内は、一緒にベンチ
に腰をかける。

「この待機の時間は、なんとも、夢があっていいわね」と家内が云う。

「すぐにも海外に向けて飛び立つ時間が、刻一刻と近づいてくる感覚が
好きなのかな」と思う。それとも、あの松尾芭蕉翁の 『奥の細道』の
序章にある風情・・・

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり・・・」という
心境なのかと、家内の発した言葉から、次々と、勝手に連想する。

やがて、NZ090便に乗り込む。

 機内に乗り込むと、JL090便と共同運航便になっている。機内で
通路を挟んで隣り合せたツアー仲間のご夫婦と挨拶を交わす。ご主人が
名刺を差し出して挨拶される。

 私も、つられて財布のポケットに名刺が入れてあったことを思い出し
少し遅れて名刺を差し出す。

 いただいた名刺から、新橋で、弁護士事務所を開設されていることが
分かる。他のツアー客にも機内を歩き回って盛んに名刺を配っている。

「ご自分の仕事に常に全力投球して、他の人に役だとうとする商売熱心
な方」なのかなと想像する。
  
 私も、家内を挟んだ隣席の親子連れの母親と思われる六十歳代後半の
女性に名刺を渡す。こういう場面での名刺交換の経験はあまりない。

 しかしそれも自然な成り行きであった。弁護士さんの気さくな態度に、
学んだのと、同時に、新幹線における五分間の理論を思い出していた。

「新幹線に乗ったときに東京駅などで隣席の方がシートに座ったときに
目安として、五分間以内になんでもいいから一言でも声をかけておくと
後の時間を気持ち良く過ごせる」という経験則で・・・

「この五分間に沈黙を保てば以降は沈黙を保てるというもの」である。

 そんなことを思い出していると、家内を挟んで、名刺を渡した女性が
唐突なことを云い出す。

「佐久間さんは、出世をあきらめての海外旅行ですか?」

「なんという展開」と思ったが、ここは、しばし沈黙を守ることにした。
これには、さすがの私も面食らった。

しばらく間をおいて「会社の永年勤続の表彰旅行です」と、間をおいて
答えると、間をおかずに・・・

「おみかけするところまだ働き盛りのご様子で、こんな時期に海外旅行
とは出世をあきらめた方かと?」なんとも、ハッキリとした、ものいい
に恐れ入った。

「そうでしたか。永年勤続のご旅行でしたか。銀行関係では勤続十五年
くらいで海外旅行させる様ですよ。そして、本人が旅行中に身辺調査を
して不正が起こっていないかを審査するそうですよ」と女性が続ける。

 そして、その後、ツアーに単身参加の銀行員が勤続十五年で参加して
いることを知り、この女性の話題には真実味が帯びてくることになる。

 新々人類を思わせる情報通のその女性には、旅の途中で、何度か貴重
なアドバイスをいただきお世話になることになる。このやり取りを聞い
ていたかどうかは定かではないが、前列の娘さんが、席を立ちあがって
振り向き・・・

「お母さんチョコレート食べる」といって、すらっとした手を差し出す。
「長女です」と紹介され聞けばシステム・エンジニアであるという。

 私たちも・・・

「よろしくお願いします」と挨拶する。

 彼女も・・・

「こちらこそ、よろしくお願いします」といって、前の席に座り直した。

・・・・・・・・・・・・・・・

 ぼんやりとした感覚のなかで光のようなものを感じ取る。だんだんと
その光のようなものが閃光となって目に強く感じられ、低い大音響に目
が覚める。飛行機の前方からその光りが届いてきている。とっさに南極
からの「冬の雷」を想像する。

 これは、幸先の良い幸福を運ぶ天使からのメッセージと感謝しながら
身体を起こす。私が起き上がると待っていたかのように、家内が笑顔で
手を差し伸べてくる。

 昨夜は、機内で希望者には、キャビンアテンダントからブランケット
が配られて周りの灯りが暗くなったがすぐには眠れなくて手元の照明灯
を付けて雑誌を読んでいた。

 エアラインの刊行物と思われるが 「ボーダレス」という文字が目に
付いた。境目をなくすという言葉だがニュージーランド行きの航空便に
ついてもJAL便とニュージーランド航空便とで、成田からの搭乗口は
別々になっていたが、内部では合流して同じ飛行機に乗り合わせたこと
を思い出していた。

「これも、ひとつのボーダレスか?」と家内と話していると、キャビン
アテンダントが小声でハッキリとしたものいいの女性に向けて・・・

「後部座席にゆとりがございますので、ご希望どおり、奥様とお嬢様の
お二人で隣り合ったお座席をご利用できますが、いかがなさいますか」
と云って迎えに来て下さり母娘で移動していった。

 私と家内は三人がけのシートに奥様と三人で座っていたのでいくぶん
窮屈だったが、シートには二人だけで座ることになったので、お互いの
足を投げ出して対面した。

 足を伸ばしきることはムリであったが、お互いの自由さが増したので
身体を折り曲げるようにして横になり、床に落ちない様にお互いの手を
握り合っていたが、いつの間にか寝入ってしまったようである。

「今、どの辺を飛んでいるのだろうか?」日本から南下する飛行コース
の下には、想像するところ、小笠原諸島にはじまって、マリアナ諸島や
トラック諸島、ソロモン諸島、フィジーなど、南国の楽園が点在するが
詳しい飛行コースまでは知らない。

 それに飛行機の窓の外は暗くて、よく見えないので、その手がかりは
まったくつかめなかった。

 やがてかいがいしくキャビンアテンダントたちが機内を廻って、朝食
の準備を始める。まだ、夕食をすませたばかりなのに、もう朝が来てし
まったという印象は、時差による、感覚の違和感から来ているものだが
それでも日本とニュージーランドとの間において時差の影響は小さい。

 日本での日常生活においても、平日と休日とでは、三時間程度の生活
の時差は、日常茶飯事である。

「あまり食欲がわいてこない」ので、やわらかそうなものから口にする。
家内も同じように軽いものから手に取っている。なんの気なしに顔を見
合わせて笑う。

 この感覚的な幸福感・・・

「朝起きて、好きな人が側にいる」この些細ではあるが・・・

「実は、一番幸せなこと」

 このなんでもない瞬間をアメリカの雑誌などでは「女性特有のもの」
として紹介しているが、私には共感出来るものがある。

 昔の話になるが、お互いの共通の友人同士の紹介で二人が出会った時
の第一印象は、

「彼女の素直で清楚な感じ」に、私は魅かれ、彼女は・・・

「私の男性的で快活な印象」に、好感を持ったのだと云う?

 お互いに好ましい印象をもった二人は武蔵野国分寺にある日本庭園で
初デートをした。

「お腹が空いたね」と、いう私の発言で、二人は、中華料理店に入った。
「私、家に電話を入れてくるわ」と、いって父親に連絡を取る姿を見て
この時に・・・

「家族を大切にしている人なのだ」という印象をもった。

 この中華料理店での支払いの時に、店の方から・・・

「これは記念品です」と云われて、小箱を渡された。
「何が、入っているのですか」とおたずねすると、
「鳩の置物です」と、いうことで、二人は、それぞれに、
「記念品として鳩の置物」をいただいた。

 やがて、この鳩の置物が一緒にサイドボードに飾られるまでに一年間
の歳月を要したが交際が進むに連れて、お互いに、第一印象とは違った
面で魅かれていった。

 私からの見方では・・・

「彼女の態度から伝わって来る凛とした決断力」からは、どちらかとい
うと男性的な、さっぱりとした面に魅力を感じたのである。一方、彼女
からの見方では・・・

「私の優しさと慈しみ。また、意外にも併せ持っている『めめしさ』と
云う一面」に対して安堵感を覚えたのだという。

 私は、ある時に「めめしい」という表現に疑問を感じて広辞苑を引き
その意味を再確認してみたことがある。漢字では 「女々しい」と書き
その説明書きには・・・

「女々しいとは、ふるまいが女のようである」
「柔弱である。いくじがない。未練がましい」
と書かれていた。

 しかし、今や・・・

「聡明な女性の活躍が職場では目立ち、女性が業務をリードする場面も
増えてきている」
「物事をてきぱきと処理する女性の姿を目の当たりにしていると、女性
に対して女々しいという表現は当たらない」と考える。

 最近は、市役所などに行くと・・・

「頭に婦人と付く看板は消えて、女性という表現に変わってきている」

 これは、女性だけが必ずしも、箒を持つ訳ではないという理由からの
変更だとと聞いている。

 病院では「看護婦さんから看護師さんに変わった」

 同様のことは、アメリカにおいても・・・

「ファイアーマンから、ファイアーファイターに変わった」

 最近の英和辞書には・・・

「気を付けて知っておく必要のある性に関わる差別用語の注釈が掲載さ
れている」

 これらのことから「女々しさ」というよりも、「未練がましさ」など
といった方が、適切な表現かもしれない。

 しかし、彼女が云うには・・・

「めめしい」という言葉が、全体を、云い尽くしているのだという。

 私は、そんなことを思い出しているうちに、今度は深層心理学に出て
くるところの「心の中の異性の存在としてのアニムとアニムスのこと」
を思い出していた。

☆ アニムは、男性の心の中に、存在する異性のイメージとしての存在
 である。
☆ アニムスは、女性の心の中に、イメージとして存在する異性の存在
 である。

 私は自分の気持ちをそこまで厳密に分析した訳ではないのでその論理
とは、ズレがあることを承知した上で誤解を恐れずに、繰り返し考えた
ことを整理してみた。

 私が彼女に対して、結婚の意志を固めたのは、最初の段階では彼女の
清楚な女性的な面に魅かれたが交際を重ねるにつれて、より魅かれたの
は内面の男性的な凛とした姿勢や決断力の素晴らしさではなかったかと
考えている。

 彼女も、また、最初は、私の男性的な快活さに好感をもってくれたの
だが、交際の過程で内面にある女性的な優しさや慈しみに対して安堵感
を覚えたのではないか。

「このことは私と彼女の心の内面にある、反転した立場の私の心の中の
イメージとしての異性と彼女の心の中のイメージとしての異性がお互い
に恋したことが結婚という一大決心をした」ということではないか。

 このことは、表面上の 「性的な関係」よりも、より深い結びつきを
もつのではないかと確信に近い思いを抱くに到った。

・・・・・・・・・・・・・・・

 やがて入国手続きの書類が女性コンダクターから手渡されて、それぞ
れに記入を終わり身の回りの整理や整頓が始まる。クライストチャーチ
における入国手続きは意外とあっさりとしていた。

 昔の古ぼけた旅行ガイドブックの記述には・・・

「頭から薬剤をふりかけられて農産物に害が及ばないようにする」など
と書かれていたがだいぶ観光化が進み手続きが簡略化されたようである。

 空港には見るからに頑丈そうなベンツ製のバスが待機していて私たち
は、そのまま市内観光に向う。

 バスのシートは広くて大型バスを借り切っているため・・・

「快適な観光ツアーの始まり」という印象を受けた。やがてバスは花壇
がよく整備された建物の前に到着する。花壇を抜けて行くとエイボン川
のほとりに出た。

「あら鴨がゆうゆうと泳いでいるわ」という声をきっかけにツアー仲間
がいっせいに、鴨を背景にして、お互いの連れや家族にカメラを向けて
写真を撮り始める。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これは、後日談となるが・・・

 私は、喜寿(七十七歳)を越えた、今、彩の森入間公園を家内と共に
飼い犬を連れて散策をするが、この公園の上池にも下池にも鴨が悠々と
遊泳していたり、池の畔でくつろいでいたりして、日常的に、鴨を眼に
しているが、当時は、鴨との遭遇など珍しい出来事だったことを、思い
返すと、そのことに不思議な思いがする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 鴨が泳いでいるエイボン川のほとりで、一時みんなでゆっくりとして
奥に行くと、なんと、グランド一面がバラ園になっている。 ほとんど
同時に、全員が歓声をあげる。ほど良く、手入れされたガーデニングの
眺めを楽しんでバスに乗り込むとさすがに全員が声を揃えるようにして
いっせいに「疲れた・疲れた」と、口に出しはじめた。

 思えば、成田の出発ゲートを抜けて飛行機に搭乗。出発予定の十七時
二十五分よりも三十分間遅れて飛び立ち、それ以来の安堵感であった。
クライストチャーチには、現地時間で、朝の七時三十五分の空港着で
あった。

 日本とニュージーランドでは、時差が三時間あるので、日本での現地
時間に換算をすれば、明け方の四時半に、叩き起こされての入国手続き
ということになる。

 まだ気持ちの上では、半分、寝っている状態の、いわば寝ぼけまなこ
のままの観光であった。

 バスの中では「あのハッキリとしたものいいの女性」が飛行機の出発
が、遅れた事情をみんなに聞かせている。

「あの日は外資系のファッション・メーカーのセールス・レディ五百名
がね大挙して、チャーター便に、乗り込んだのよ。それでもって機内食
の積載に手間取ってしまい他の便にも影響が出たのよ」という、もっと
もらしい解説であった。

 それにしてもさすがに情報の入手が早い。こういう人と一緒の旅だと
思うと、ある面、安心である。私は家内との間では、この女性に敬意を
称して 「ミセスCIA」 と、呼ぶことにした。

 やがてバスは市内の大聖堂に到着する。英国ゴシック様式の大建築物
は尖塔が空よりも濃い青色で、大窓のエンジ色とのコンビネーションが
とてもお洒落な印象で見栄えが良い。

 建物の縁取りは白色で統一されており、英国を訪れたことのある私は、
英国の影響を強く感じ取った。私と家内は、ツアー仲間にお願いをして
ツーショットの写真を自分たちのカメラに納めることにした。

「尖塔まで写真に納まりますかね?」と、ツアー仲間が、心配するほど
の高さである。広場では、芸人たちのパフォーマンスが繰り広げられて
いて行き交う観光客を飽きさせない。

 聖堂の中に入っていくと・・・

「これは素晴らしいステンドグラス」と私は思わず声を出してしまった。

 最近は、日本からの結婚式の申し込みが多くなってきて結婚式の申し
込みを制限しているのだという。

 次いで、カンタベリー博物館を訪問する。ここで、ニュージーランド
の歴史を学ぶ。ニュージーランドは地形的に日本列島から北海道を取り
外した大きさであり、北島と南島からなる。クライストチャーチは南極
寄りの南島の東岸に位置している。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【オータムショック】

 クライストチャーチの丘陵地帯からの眺めは素晴らしく、市内を一望
できる。旅程における天候が快晴ということも手伝って、旅先での秋を
大いに満喫できる幸運に恵まれた。丘陵からの視界には背の高い建造物
はなく秋が一面に横たわっていた。

 私は、この旅行の出発前に、東京に暮らしていて、これが、はじめて
ともいえるほど見事な桜を会社の桜祭りで満喫した。そして地元の稲荷
山公園で家内と一緒に桜を堪能して成田を旅立った。

「海を越え、一瞬にして、秋の眺望に変わるなんて、なんとも不思議な
体験だね」と、家内に呼びかけると・・・

「素晴らしいわ。これが、ほんとうのオータム・ショックね」と、家内
も目を丸くして喜んでいる。

 私も、思わず、この感動を俳句にして・・・

「桜愛で一路海越えニュージーの秋」と、詠んだのである。

 この俳句には、春と秋が、十七文字のなかに同居しており、芭蕉翁も
絶句するであろう珍句である。

「ニュージーランドでは眺めの良い丘陵地帯に家を建てることがひとつ
のあこがれになっています」と、ツアーの女性コンダクターから説明が
あり、丘陵から広がった視界の良さを見て「なるほどね」と、私と家内
と一緒に納得する。

「そういえば高級住宅が丘陵地帯に密集しているわね」と、いう家内の
感想に続けるようにして、ミセスCIAから・・・

「この丘陵地帯には自然保護運動を展開した政治家ハリーエルが建てた
英国風の建築物があるのよ」と、いうことで、みんなで見に行くことに
する。

 その建築物は、さすがに、どっしりとした風格であった。現在はレス
トランに改造されていて一般公開されている。ロビーに設えたテーブル
に座ると、なんとなく気持ちが落ち着くから不思議である。外の景色も
居ながらにして手に取るように見える。

 市内観光も終わって、今晩の宿泊ホテルに着くと、それぞれに、部屋
の鍵が渡されて、ディナーでの再会が女性コンダクターからアナウンス
される。部屋に入り、旅行カバンを片付けてから二人でロビーに行くと
ツアー仲間の若いカップルから声がかかる。

 若い女性から 「ちょっと、すいません、教えて下さい」と云われて
私が「なんでしょうか?」と応答と・・・

「先程、ディナーの案内がありましたが、どの様な服装で出れば良いの
でしょうか?」と、ここは、家内の出番である。

「くつろげる感じの気軽な服装で大丈夫じゃないかしら」

 やがて暖炉の火が、チロチロと燃えているレストランに、ツアー客が
集まって来る。席は自由のようである。先ほどの若いカップルが会釈を
して近づいてくる。

 その後から、すっかり有名人になってしまった、ミセスCIA親娘と
六十才代後半のご夫婦が談笑しながら歩いてくる。

 私と家内もレストランの係りの女性に案内されて席に着く。私と家内
の前には、若い新婚夫婦が座る。隣の席にはミセスCIAチームの四人
が席に着く。

 大きな八人掛けのテーブルがたちまちいっぱいになる。隣のテーブル
には弁護士さんたちが友人と一緒に案内されて席に着く。

 こちらのテーブルでは、最近になって出かけたばかりの旅行の思い出
話から顔を寄せ合っての話しが始まっている。 ミセスCIAとは親友
と思われる女性がスイス旅行の話しをご主人と掛け合いよろしくとても
楽しく紹介して下さる。

「スイス旅行では、登山電車での山登りが一番楽しかったわ」という。
「あっそうそう。あなたたち、ビデオが撮ってあるから、今度、我が家
に遊びにいらっしゃい」と、いう話しに発展する。ご自宅には海外旅行
のビデオをたくさん保存しているという。ミセスCIAの友人が、

「どちらに、お住まいですか」と聞くので・・・

「埼玉県入間市です」と答える。

「私たちは、新所沢ですよ」と、いう驚きの返事が返って来る。
 
 ニュージーランドからの距離感では、ほとんどピンポイント的に同じ
地域といって良い。世間は狭いものである。新婚夫婦の新居は相模原だ
という。

「今度、この旅行から帰ったら我が家に遊びにいらっしゃい」と両家で
誘って下さる。「ありがとうございます」と、いいながら、ご近所のし
かも隣組という親近感が湧いてくる。

 やがてディナーが運ばれて来る。

「どちらかというと薄味だね」と、お互いの感想を述べあって運ばれて
きた料理を口に運ぶ。新婚のご夫婦は「海外旅行は初めて」だといって
とても楽しそうに、皆さん方の話しを聞いていた。

 すると今度はミセスCIAが、唐突に新婚夫婦に向って・・・

「あなたたち新婚組だけのツアーでなくて、良かったわよ」と話を切り
出す。なんでも、最近、新婚さんだけのツアーで地中海に出かけた。

 ツアーは、十二日間の豪華旅行。添乗員さんが途中で異変に気付いた。

 旅先でもあり必死の思いで、その場をとりなして全員一緒に帰国した
ものの、そのなかの三組が、帰国後に別れることになったのだという。

 しかも、その赤い糸の混線模様の中からなんと一年後に、違った組み
合わせにおいて、二組のペアが再生したという。

 なんとも、ビックリするニュースの紹介であった。そこに居合わせた
一同は、ただ唖然として聞くばかりで、お互いに顔を見合わせた。

 食事の途中、女性コンダクターから、今回の旅程の概略が、あらため
て紹介された。

「昨日は、機内泊のため、みなさん、そろそろ、眠くなってきたと思い
ますので」と、いう心遣いで要点だけが説明される。

 明日は、マウントクックから、クイーンズタウンには、バスで行って
四日目にはオプションで「ミルフォードサウンドの観光」が計画されて
いるという。そして、後半には、北島のオークランド泊が旅程の仕上り
として用意されている。

 今回の旅程には、随所で、自由時間が工夫されており、その時の過ご
し方について、大いに話が盛りあがる。旅慣れたミセスCIAチームや
お友達のご夫婦からの旅に関する情報提供は、私や家内にとって大いに
参考になるトピックス続出で、同席した新婚組も、目を丸くしたり目を
細めたりだった。

 話題満載のディナーは、あっという間に時間が過ぎた。的確な会話は
食事の調味料というが、今回について云えば・・・

 話題そのものが「メインディッシュ」という盛りあがりようであった。
それに、皆さんパワーに満ち溢れていてパワーを分けていただいた気が
する。

「ご一緒しているだけで自然に気持ちが明るくなってくるね」と、その
日のことを振り返りながら、その晩は早目にベッドに入ることにした。
充分に睡眠をとったこともあり、翌朝は、早起きして外に出るとテカポ
湖の水面が目に入ってきた。

「あら、もう霜がおりているわよ」と、家内が、枯れた芝生の上を先に
歩いて行く。「記念写真を撮っておこうよ」と、芝生の奥で追いついた
家内に振り返ってもらってスナップ写真を撮った。

 やがて、朝食が済むと・・・

「希望される方には、今から、バスの出発前に、テカポ湖周辺のご案内
を致します」と、いう案内があってガイドさんに付いて行くことにする。

「ここは、善き羊飼いの教会です」と説明があり、内部に入って行くと
外からの見た目には小さな教会だが、内部からの景色は大きく広がって
おり厳粛な空気が伝わってくる。

「きれいにしてるわね」と、家内が感動の声をあげる。たしかに、内部
の掃除が良く行き届いている。近くには犬の銅像が建っていた。

 ニュージーランドの犬たちは、羊たちの面倒を良くみる。

 犬たちの活躍が羊毛産業を支えているといってもよいだろう。その中
にあって銅像になっている忠犬は、ある時、牧場主の危機を救ったのだ
という。詳しいことは分からなかったが銅像になるくらいなので・・・

 そのご主人たちの思いは、さしずめニュージーランド版の忠犬ハチ公
といったところなのであろうと推測した。


013   マウントクックの眺望と睡魔

 雪をかぶったマウントクックの姿は美しくずっと観ていても飽きが来
ない。ミセスCIA親娘はバスの前列に陣取り、娘さんが盛んにビデオ
で前方の風景を撮影している。南島の屋根ともいわれているあのサザン
アルプスの最高峰マウントクックは、探検家キャプテン・クックの名前
を記念して命名されたものである。

 しかしながら、ニュージーランドを三回も訪れながら、英国の探検家
キャプテン・クックは、この秀麗な山を一度も見ていないのだという。

 ベンツ製の頑丈なバスは、全員にシートベルトを着用させて制限速度
なしの高速運行で突っ走って行く。バスの進行方向の左手には秋の野原
が一面に広がっている。

「春には、この野原一帯が花でいっぱいになります」というガイドさん
の説明がある。この野原で採れる蜂の巣はそのままスライスされて天然
産の蜂蜜として、お土産屋さんで売られている。

 右手には、湖面が続いている。空が写っているような青さが印象的で
ある。このバスに、地元の案内役として同乗した、日本人ガイドさんは
ニュージーランドが気に入って、そのまま住みついてしまったというだ
けあって土地の事情に詳しい。

「皆さまの右手に見えております湖には、2メートル級のうなぎが棲ん
でおります。そして時には水を飲みにくる子羊を呑みこんでしまう」と
聞いておりますという説明に、私は内心 「本当かいな」と思いながら
情景を想像しているうちに背筋が寒くなってきた。

 湖面に沿った道路脇の風景が、突然、牧草地帯に変わる。

 羊の群れが牧草をもくもくと食べている。バスを止めて一緒に写真を
撮ろうとすると羊たちがいっせいに逃げ出す。羊たちは全てが雌である
という。雄は、子羊の段階で食肉になる。

 そして種羊の雄だけが残されるのだという。この種羊も、時折、生殖
能力の検査が行われて、役にたたなければ食肉になるというから厳しい。

「どのようにして生殖能力の検査をするのですか?」と、ガイドさんに
質問をぶつけると・・・

「簡単な方法ですよ。種羊の股間にチョークを塗り込んでおいて、その
チョークの粉が雌の羊たちに付着していなければ、即、役立たずと判断
されるのです」と、いう説明に思わず厳しいなと驚く。

 牧場で飼育されているのは羊だけではなく鹿も放し飼いにされている。
「鹿用のフェンスは高くしてあるので鹿を飼っている牧場は、すぐに分
かりますよ」と、ガイドさんから説明が加えられる。

 やがて、トンネルに入る手前で、休憩となる。

 道路脇には小川が流れている。その水の清らかさに誘われて思わず手
で水をすくう。「心が、洗われるような、清清しさね」と、家内が目を
細めて喜びを表現する。

 目の前にあるトンネルは、最近の雪崩のときに大雪で埋まってしまい
ブルドーザーで掘り出したのだという。ミセスCIA親娘が・・・

「あっ、虹よ」と、いってビデオを回している。地平線上に完全な形で
跨ぐ虹を見たのは、私も、初めてのことであった。地元のガイドさんが、
「ニュージーランドでは、虹は、あちこちで、頻繁に見られますよ」と
説明している。

 バスから降りて、手足を伸ばしたついでに辺りを散策することになり、
もう一度、虹の頂上部を見た時に、天空の光が私の目に糸のようにつな
がった。状況が飲み込めずに、立ちつくしていると・・・

「さっきの滝は迫力があったわね」と、家内が、ついさっき滝を上から
見おろした時のことを思い出して話しだす。私の感覚からいっても通常、
滝は下から見上げるが、上から見おろす滝の迫力は凄かった。

 バスの運転手さんが地元のことを知り尽くしておりガイドさんと相談
しては観光化していない穴場に案内してくれるので、ツアー仲間は大喜
びである。


 やがて、それぞれに休憩を終わりバスに乗り込む。バスがトンネルに
入ってから間もなくのこと、突然、バスのライトが消えて車内が真っ暗
になる。

「キャー、どうしたのかしら」と、女性たちが騒ぎだす。

 すぐにライトが点灯される。愛嬌たっぷりの運転手さんのいたずらで
あった 「このトンネルを抜けると、すぐにマウントクック村です」と
ガイドさんの案内がある。

 話題は変るが、ニュージーランドに来てから随所で環境保護への配慮
を感じ取った。例えばゴミ捨て用の袋には燃えやすく工夫された特別製
のものを使っている。

 公衆トイレにおいては、施設全体が、ステンレス製で建設されており、
天井から一気に水が流れる設計になっている。トイレ内の洗浄について
も小まめに実施されている様子で、トイレ特有の異臭感はまったくない
といって良い。

 ハイキングコースなども、有名な景勝地を訪れる登山者は、登録制に
なっていて、登山者に対しては、登山をする上でのエチケットが徹底さ
れていて厳格に守られているという。

 マウントクック村に着いて、最初に目から入ってきた印象はゴミひと
つない清潔感であった。村からの眺めはマウントクックが目前に迫って
きて圧巻であった。標高が、三七六四メートルもある最高峰は、最近の
大きな雪崩で標高が変ってしまったという。

 このマウントクックに、さらに近づきたいという人のために軽飛行機
で頂上付近の氷河に着陸する航空サービスが用意されている。

「風の強いときに飛行機に乗ると、機体が、かなり大揺れしますよ」と
ガイドさんから説明があったが・・・

「私たち飛んで来るわ」と、ミセスCIA親娘と友人夫妻は、一番乗り
の名乗りをあげる。さすがに好奇心旺盛で反応も俊敏である。
(新婚夫妻も同行するという)

 私が家内に向かって 「どうする?」と、聞くと・・・

「私は、まだ子供たちを育てきっていないから、やめておくわ」という
返事が返ってきた。

 私は、家内と一緒に、ミセスCIA親娘と新婚夫妻の乗った軽飛行機
が飛び立つのを見送ってからレストランで昼食を取ることにした。二人
でレストランに入ると店内は大賑わいの盛況ぶりであった。

「あの人たち本当に元気ね」と、ミセスCIA親娘やお友達夫妻のパワ
フルさに驚きながらチーズ味の食事を心ゆくまで楽しんだ。

 昼食を終わって、隣の部屋に移ると真正面に大きなマウントクックが
眺望できる様にくつろぎの間が用意されていた。中央の大きなソファー
に座ると、目の前に広がった深い森林に吸い込まれ、そして優しく包み
込まれるような感覚に陥って思わず睡魔に襲われた。

 私は自分専用のカメラを一眼レフにしてからというもの、旅に出掛け
たときの写真の編集が楽しみになったいた。 美麗なマウントクックを
背景にして、家内を左側の焦点に合わせて一枚二枚と少しずつアングル
を変えながら撮影する。

 今度は雰囲気を変えて私と家内とのツーショット主体にとハンディ
カメラに取り換えて、リモコンの二秒タイマーを使って撮っていると、

 光を背中にした蝶ネクタイの紳士が、こちらに向かって真っ直ぐに
歩きながら私に会釈をして来る。

「さくまつとむ様ですか」と、訪ねてくるので、
「はい、さくまつとむです」と、答えると、

「閣下が、つとむさまに、是非、お会いしたいと申しまして、お迎えに
あがりました」
「家内が、一緒ですが」と、いって振り返ると、
「お時間は取らせません」と、いって家内に視線を合わせた。

「バスツアーの出発時刻までには、必ず間に合わせますので」と、なに
もかも、お見通しのようである。

「あなた、バスの出発までには、時間が十分ありますから。気兼ねなく
いってらっしゃい。私はこの辺りで時間を過ごして待っていますから」
と家内にうながされて、ようやく心が動いた。

 蝶ネクタイの紳士に案内されて、外に出ると、目の前には、黒塗りの
ロールスロイスが止まっている。
「どうぞ」と、ドアが開かれて、ゆったりとした後部座席に案内される。

 私はだいぶ前のことであるが、当時、イギリスで航空機用のエンジン
を製造していたロールスロイス社を訪問した際に、イギリスのダービー
のホテルまで、同じタイプの車が迎えに来て上司と一緒に乗ったことが
あるので室内の様子は大方分かっている。

 蝶ネクタイの紳士は、後部ドアを閉めると前室に乗り込んだ。

 そして前室で運転手さんになにやら盛んに指示を与えている。運転席
までは離れていて良くは聞き取れないが 「時間経過の設定を百万倍速
にしておくように」と、いう様な雰囲気が伝わってきた。

「それとバスの発車に遅れないようにセフティーロック付きのタイマー
をかけておくように」と、いうようなことを云っているようだ。

 意味が良く分からないので、そのまま、聞き流すことにした。

 やがて、後部座席のドアを開けて蝶ネクタイの紳士が乗り込んできた。
「佐久間さま、バスの出発までには、三時間の余裕があるとお聞きしま
したが念のために、タイマーの磁気を手首に塗布させていただいてよろ
しいですか」と、聞いてきた。

「ああ、このことを話していたのか」と自問して・・・

「はい、よろしくお願いします」と答える。

 車内は、後部席が、そこだけでも、ちょっとした応接室のように設計
されている。後部座席の前方には補助座席が後向きに設けてある。その
座席に蝶ネクタイの紳士は天井を気にしながら窮屈そうに腰掛けてなに
やら機器をセットしている。

「佐久間さま恐れ入りますが、この筒の中に手首を差し入れていただけ
ますか」と、声をかけてくる。

「はい完了しました」というので手首を見ると、東京ディズニーランド
に行った時に、一時的に外に出て、お土産を買おうとして手首に付けて
もらった蛍光マークのようなものが塗布されていた。

「それでは、出発させていただきます」といって、蝶ネクタイの紳士は
運転席の方に移り車は静かに走り出した。しばらくはそのままの状態で
走行が続くと、停車した場所には、軽量ヘリコプターが用意されていて、
蝶ネクタイの紳士は、自らパイロット席に座り、ヘリコプターの操縦桿
を握った。

「佐久間さまはニュージーランドは、初めてでございますか」と聞いて
くるので 「はい、初めてです」と答える。

「閣下は大聖堂でお父上の竹次郎さまに、そっくりな勉さまをお見かけ
して、ずいぶんと驚かれた」とのことでした。

 警戒心の強い印象の私に対して、レストランにおいて、蝶ネクタイの
紳士が説明した話では 「父親の竹次郎と知り合いの方」だというので
安心して同行してきた。家内もまた父親の竹次郎の知り合いということ
で安心して送り出したのであった。

「それにしても、父親のことを良く知っている閣下とは、どのような方
なのだろうか?」
「父親とは、どのような関係の知り合いなのだろうか?」と自問自答を
繰り返すばかりで見当が付かない。

 やがて軽量ヘリは大きく旋回して海面上に浮かんだ簡易エアーポート
に着陸する。そこから、またジェットボートに乗り込み洞窟の中をくぐ
り抜けて行くと・・・

 そのまま瞬時に大きなエレベーター内に飛び込む。そこからは猛烈な
スピードで地下三十階と標示されたフロアーまで高速移動した。

 ジェットボートは、後ろ向きに外に出るとターンテーブル上で向きを
変え、また一気に突っ走る。
「いったい、ここは、どこなのだろう?」と、少し不安になる。

 ジェットボートから降りて、蝶ネクタイの紳士に案内され正面の部屋
に入って行くと「ここで、時空交換をします」と云う説明があり、ここ
でも座り心地の良いソファーに案内される。

 ゆったりと、腰掛けているとブーンと云う唸り音とともに、目の前が
真っ白になった。
「これで、時間軸が百万倍速モードになりました」と、云うのだが意味
がまだ良く呑み込めていない。

「これも、百万倍速モードで収録されていますので、ご覧になっていて
下さい」と、カセットが差し出される。
「これは、なんのカセットですか?」と、おたずねすると・・・

「閣下が云われますには日本の政府機関である機械振興協会の連載記事
で、著者の藤波修氏が、各種文献を基にして編集されたものを、さらに
デジタル加工して百万倍速で聞き取れるようにしたものだそうです」

「日本の航空機産業の歴史が、よく整理されていて、分かりやすく解説
されている」と、申しておりました。
「佐久間さまの感想も、お聞きしたいと申しておりました」と、いって
ヘッドホンのようなものを差し出す。

「ヘッド・シミュレーターを、ご用意させていただきました」

「これは、なんの機器ですか?」

「はい、佐久間さまが感じ取られたことをテキスト・データにして書き
出す機器です」
「そんなことが、できるのですか?」
「はい、最近の脳科学の進歩で可能になったのだと、閣下からは聞いて
おります」

 私にとっては、半信半疑であったが、ここまでくれば、乗りかかった
船ということでトコトン信頼して行こうと、腹を括った。

 アイマスクのような装置を目に当てて「ヘッド・シミュレーター」を
ヘルメットのようにして、頭からかぶると、やがて、目の前をタイトル
文字が走っては消えた。

「日本の航空機産業の起源を辿る」と、声を出して読んでみる。

 今度は解説文がゆっくりとしたペースで目の前を流れて行く。これを
テロップというのだと過去の記憶から思い出していたが、別に読もうと
努力しなくても、頭に入ってくる感覚は新鮮であった。同時に、耳から
も音声が聞こえてくる。



【日本の航空産業の起源】

 日本における航空機産業を論じるときに、造船産業・自動車産業とを
合わせて見ていく必要がある。国家の体制として軍の影響を大きく受け
てきた造船業は戦前から、既に、技術的に世界水準に達していた。

 その造船技術と設備が戦前の航空機産業の隆盛につながった。

 しかし、その航空技術も世界を圧倒するレベルではなかった。そのた
めに、その中途半端な技術力がかえって戦争を長引かせて、犠牲を大き
くしたとも云われている。

 一方で、造船業よりも遅くスタートした自動車産業は、戦前は世界の
技術水準に遠く及ばず家電製品と同じく粗悪品の代表といわれていた。

 しかし、戦後の連合軍による航空機産業の禁止令の空白期に、多くの
航空機技術者が、自動車産業に流れて行き、その結果が現在の世界的な
自動車産業の成立につながっていった。

 この造船産業・自動車産業・航空機産業という三つの産業の歴史を辿
るとき、将来の我が国の航空機産業における未来像も、見えてくるかも
知れない。そこには、我が国の航空機産業の限りない発展性が見え隠れ
している。
 
・・・・・・・・・・・・

 気のせいか遠くのほうから足音が近づいて来る・・・

「紅茶をお持ちしました」と、いう声が後方から聞こえる。
私は、ヘッド・シミュレーターなどの機器一式を頭と目と耳から外す。

「ロイヤルミルクティーにしてみました」
「いかがですか、テロップは、ちゃんと流れておりますか?」
「閣下は、日本政府の刊行物をデジタル処理して、正確に音声化した
といっておりましたが」と先程の蝶ネクタイの紳士が小脇にアルバム
を抱えながら話しかけてくる。

「お父上の竹次郎さまはミルクティがとてもお好きだったようです」
「たしかに父親は紅茶好きである。夜などは、チーズと共に紅茶を楽し
んでいた」

「閣下のお話では、若いときの竹次郎さまのお写真が勉さまにそっくり
であると申しまして」と、云いながらアルバムを開いて見せる。

 アルバムには若いときの父親が写っている。後方には飛行機が写って
いる。首には、絹の光沢感の優れた白いマフラーを巻いている。

 私は、かつて父親の若いときの写真を見ており、たしかにパイロット
の格好をした姿は父親に間違いない。

「お父様は、閣下の秘蔵子といわれた、優秀なテストパイロットでした。
終戦までの間に百機近くを乗りこなされたようですよ」と、いう説明に
私は耳を疑った。

 当惑した表情の私の顔を見て・・・

「閣下は、ただいま、フューチャー・エリアで、飛行準備を進めており
ます。勉さまに是非とも搭乗していただきたいと、云って楽しみにして
おります。それまでの間は、私に、イエスタディ・エリアをご案内する
ように」と、申しまして。

「今、ご覧いただいておりますカセットは、百万倍速ですので短時間で
目を通すことが可能です」
「ここでカセットをご覧いただきますと、後でイエスタディ・エリアに
おいて実際に搭乗体験されるときに役立つかと考えます」と、云って、
私が飲み干した紅茶を片付けるようにアシスタントの女性に指示すると
そこを立ち去っていった。

 私にとってテロップは目の前をゆったりと流れており、これで百万倍
速なのだろうかと疑問に思いながらも信じてかかることにした。アシス
タントの女性が自分の名前は白木であり用事があれば、このリモコンス
イッチを押すようにといって、引き揚げていった。

 私はヘッド・シミュレーターを頭に装着して、続きを見ることにした。
テロップによって、小見出しが最初に示されるので頭の中で簡単に整理
ができ、洗練された装置と云う印象をもった。


014   暖かさの続く小寒の中で跳ぶ

 ヘッドシミュレータを頭からかぶったものの・・・

 唐突に脳内に、Fly DELTA(飛べデルタ)の看板文字が眼前に浮かん
できた。あれは欧米に約一か月間をかけて出掛け、欧米における管理
工学のエンジニアの実情調査を行っていた旅程の途中で、米国のエア
ラインにおいてデルタ社が画期的な工場運営をしていると聞き及んで、
訪問した際に、屋上に大きく ”Fly DELTA”と描かれた看板を観て
「飛べ デルタ」とは、従業員向けの啓発か、はたまた顧客への挑戦状
か、と、衝撃を受けた時の記憶である。

 おそらく、父親が 「中島飛行機でテストパイロットをしていた」と
いう信じがたい話を聞かされて、衝撃が "Fly DELTA"(飛べデルタ)
の看板の思い出に連想的に跳んだのかも知れない。

 そういえば、あまり・お酒に強くない父親のところに、正月、ワイン
感覚で大吟醸をぶらさげて遊びに行った時に、父親の若かりし頃からの
「乗物好き」に、話が及んで正月の宴が盛り上がったことを思い出して
「ヘッドシミュレータ」を頭から外した。

「あれだけの動力好きなら」
「飛行機を前にして」
「飛ぶことも自然な成り行きか?」


【新春の家族】

 あの年は、小寒を過ぎてからもいつまでも暖かさが続いていた。その
暖かな陽気は元日から続いているもので、会社からの帰宅時など暖房の
効いた電車に乗り込んでいると、コートの下で背中に汗を感じるほどの
暖かさであった。

 私は久々に実家に帰って、奥の部屋で着替えをしながら、ふと裏庭を
見て小寒を詠んだ俳句を思い出した。

  「小寒となりしは名のみあたたかや」   星野立子

 着替えを終わってリビングに顔を出すと、大急ぎで外から帰ってきた
母親が思いがけないことを云いだす。

「勉が今年初夏に乗る船にカズさんの妹さんのご主人のお兄さんも一緒
に乗船するそうだよ。ほらあの三菱重工に勤めているお兄さん」

「なぜ、そんなことを母親が知っているのだろうか?」
「だれに聞いたの?」というと、母親は間を置かずに、
「カズさんの妹さんからの年賀状に書いてあったのさ」

「悦子さんから?」
「他に誰が居るのさ」と・・・

「悦子さんも神戸のお兄さんから、今度、船に乗って研修に出掛けると
いう話を聞いてから、そういえば、佐久間さんも同じ時期に講師として
『生産性の船』に乗るという話を聞いていて、ピンと来て、お兄さんに
確認して分かったのだと」いう。

「あまりの偶然に驚いて年賀状に一筆添えたのだ」と云う。
「その後『生産性の船』で、お兄さんとは、感激の初対面を果たすこと
になる」

 私の母も、昔から「私のこと」となると妙に勘のいいところがあった。
これは母子で戦友のような強烈な戦時体験を経ているためと、私は受け
止めている。

「私は1942年(昭和17年)生まれのため、生まれたときには第二
次世界大戦に突入していた。終戦のときには、満三歳であり終戦前には
真っ暗な防空壕の中から、B29の標識灯を見た記憶がある」

「勉は、母さんと一緒に防空壕の中で、かろうじて生き残ったのさ」と
いう話を聞いたことがある。

 戦時中、父親は、中島飛行機に行ったままである。空襲警報が鳴ると、
母親は、私を抱えて社宅の近くの防空壕に避難していた。これは当事者
の母親さえも、後になって知らされたという話であるが・・・

「母さんと勉が隠れていた防空壕の上を三機の戦闘機が隈なく機銃掃射
して行ったのだよ」と、いうのである。

 母親と私は、たまたま機銃掃射の間隙に位置していたために母子とも
に助かったのだという。

・・・・・・・・・・・・・・・

 やがて、玄関口から、父親の声が聞こえてくる。

「勉、帰ってきたか、和江さんも一緒か」という父親の後ろから弟の明
がやってくる。「兄さんお帰りなさい」と上背のある明が人なつっこい
顔をして頭を下げる。

「あれ、幸子さんは」と、いう問いかけに、弟が振り向いて、

「今、鮮魚センターで買い込んできた魚貝類を車から降ろしているから、
もうすぐ、こっちに来るよ、美智子姉さんも一緒だよ」

 すると父親が私と弟の明との会話が終わるのを待っていたかのように
「おい勉、久しぶりに蟹のしゃぶしゃぶを用意しておいたよ」と、いう
ので、私は思わず、

「そう思って、酒をあまり呑めない親父に合わせてワイン風の大吟醸に
したよ」と、笑顔で応えた。

「いいね勉は、相変わらず気がきくね、母さんはどこ?」
と、奥に向かって声をかける。

 母親の節子が、急ぎ足で、奥から出てくる。
「お父さん、早かったわね」

「そりゃ、勉が久々に嫁さんを連れて帰って来るっていうから、買い物
も大急ぎで済ませたよ」

 すると、母親から、
「勉、食事の支度が出来たから、二階の皆に声をかけておくれ」

 二階に行くと、皆が、外出着から着替えていて、なにやら手に持って
ワイワイガヤガヤと一階に集まって来た。

 さてさて、テーブルの上には湯気が立ち始めて、恒例の新年会の始ま
りである・・・

 父親の竹次郎を真ん中に囲んで乾杯が済むと、大吟醸やらワインやら
を側において蟹のしゃぶしゃぶに箸が進む。これはもはや・とまらない
とめられない大好物で、それぞれに箸がいそがしい。

 蟹のしゃぶしゃぶに箸が続く静寂を破って、父親の竹次郎から・・・

「勉、今年の初夏に、神戸の兄さん(義兄)と、一緒に研修船に乗るん
だってね」と、今度、乗船することになる豪華客船の大きさの説明から
はじまって、潜水艦の技術面の難しさ、そして話はさらに飛んで父親の
得意とするハーレーダビットソンや、インディアンといった種類の大型
オートバイによる山道でのレース展開に話題が移り、皆、お腹も気持ち
も一杯になって幸せな気分を味わった。

 父親の竹次郎の乗り物好きは今に始まったことではない。父親が青年
時代を過ごした群馬県前橋市は養蚕が盛んな土地で、祖父は生糸を製造
する工場を経営しながら、絹を外国に輸出するという製販一体の事業を
経営していた。

 竹次郎は次男として生まれたのだが、長男が、武術家を目指し家業に
全く興味を示さなかったために、竹次郎が青年時代から、後継者として
育てられた。

 地域では、負けず嫌いな性格から、地元の野球チームのエースとして
期待され、祖父も、そんな性格を見込んで、事業運営の初歩から熱心に
仕込んだ。

 そんな竹次郎が仲間と熱中したのが、大型オートバイのインディアン
やハーレーダビットソンと云った、馬力の大きさをベースに置いた競い
乗りであった。群馬県の山奥のダムなどの建設現場に、ダイナマイトを
運ぶプロフェッショナルなサイドカーの名手たちと、上州の山道で競争
したということから想像して、相当に、あぶない遊び仲間だったようで
ある。

 しかし、さらに乗り物への興味を深めたのは当時の小型自動車ベビー
フォードへのあこがれであったと云う。これが、今日にまで到る熱狂的
な乗り物好きに、決定的な影響を及ぼしたようである。

 祖父の性格を熟知していた竹次郎は群馬の田舎道で親友から車を借り
て練習を重ね、先ずは、自動車運転の免許証を取得した。

 その上で、祖父に・・・

「車を買って欲しい」と、陳情した。当時の感覚としてはとんでもない
陳情であった。それでも祖父の顔を見る度に「ベビーフォードを買って
下さい」と、陳情を重ねた。

「車を運転するには、免許証が必要だというじゃないか?」
「免許証を取れたら考えても良い」と・・・

 当時「車の運転は難しくて、免許証を手に入れるのはたいへんなこと」
と、知り合いから聞いていた祖父は、免許証を盾にして諦めさせようと
していたという。

 竹次郎は、黙って免許証を差し出した「武士に、二言はない」が口癖
だった祖父は、こうして竹次郎に一本取られた。

 父親から聞いた「ベビーフォードの失敗談」には、私も目を丸くして
聞くことになった。

「愛車のベビーフォードを悪友たちと走らせ当時の鉄道の線路に嵌めて
レール運転を楽しんでいたところ、当時は鉄道の運行数が少なくて汽車
は来ないと決めてかかっていたところ、汽笛が聞こえた。慌てて土手の
下にハンドルを切って脱出した」と、いうのである。

「危機は脱したものの線路から転げ落ちた車内は上も下もない大混乱で
あの時は、さすがに驚き、そして、まいったよ」と、いう父親の竹次郎
からの仰天話であった。

「今時、そんなことをしたら、直行であの世行き」というのが私の率直
な感想である。

 また、インディアンやハーレーダビットソンといった大型オートバイ
に跨っての競争において、工事現場に向かう、プロフェッショナルとの
オートバイの競り合いでは当時の踏み切りの遮断機が最も危険な存在で、
当時は遮断機に鉄製の鎖を使っていたため競争に夢中になりすぎた同僚
が無理な踏み切り横断をして、鎖が身体に巻きつき大怪我をしたことも
あったという。

「今の若い者は・どころか・昔の若い者は」といったところだが、どこ
からが危ないのかを、若いときから 「肌身で感じ取っていた」ために
昔の人は戦時下を生きのびてきたのだと私は肌感覚で感じ取っている。

 戦時下では予想もしない出来事が発生する・・・

 現に家内の父親は、マレーシアに陸軍士官として従軍中に炊事当番が、
突然、姿を消したため、周辺一帯を捜索したところ、水を汲みに行った
帰り道に虎に襲われたことが分かり、部隊が総動員で虎退治に当たった
という体験談を聞いた。

 戦時下における予想外の出来事に例外はなく、それは、女性たちにも
襲いかかった。父親の妹である春子は、銀行員として同僚と共に満州に
渡った。そして終戦を満州の現地で迎えた。

 日本に帰るためには「夫婦の形態などをとっての帰還でなければ極め
て危険な状況」に、あったために、同僚の助けを得て仮の夫婦を装って、
命からがらの思いで、日本に帰りつき、春子は、その脚で、私の父親を
頼りにして身を寄せてきた。

 当然のことだが、戦争が終わっても、そこに居合わせた人たちは引き
続き戦争の余波を受け続ける。先ず、無事に帰還してもすぐには仕事が
ない。春子叔母さんは、私の父親の竹次郎のところで居候となった。

 私には記憶がないのだが、食事の時に・・・

「春子叔母ちゃんが、ご飯をみんな食べちゃう」といって、家族を困惑
させたというのであるが、私には、まったくといってよいほどに記憶に
残っていない。

 心理学教室において・・・

「幼い頃の記憶を何歳まで辿れるか?」と、いう設問があったが、私に
は防空壕から外に出て、おしっこをしようとして、 空を見上げた時に
「B29の標識灯を見た」という記憶はある。これは三歳の時の恐怖感
を伴った記憶であるが、春子叔母さんとの食事時の、問題発言の記憶は、
これが、まったくないのである。

 ただ、子供心にも・・・

「綺麗な女の人だなあ」という印象は、記憶に強く残っている。その後、
春子叔母さんは父親の竹次郎の知り合いの紹介で「東京の遊覧飛行機の
案内嬢」として職が決まり、居候生活にピリオドを打った。

 当時、私はまだ幼くて父親の竹次郎がどのような経過で航空関係者と
知り合いをもつに到ったかは知らない。

 何年かして、子供ながらに・・・

「これが人間の運命なのか」と、思わせる出来事が起こった。
「あの春子叔母さんをお嫁さんとして迎えたい」と、いう人物が登場し
たのである。

 しかも、遠路はるばる茨城県から、本人が父親と一緒に、親代わりの
竹次郎のところにたずねて来るという。

 当日は、前日の晩から泊まり込んでいた春子叔母さんと父親の竹次郎
との前にテーブルを挟んで、来客のお二人が座って話しが始まった。

 プロポーズのご本人は、春子叔母さんが満州から日本に帰還する時に
仮の夫婦を装って、エスコートしてくれた元同僚であった。

 帰還後、日ごとに春子叔母さんへの思いを募らせていったのだという。
春子叔母さんは、東京の遊覧飛行の案内嬢が脚光を浴びはじめ、エアー
ガールと呼ばれて憧れの職業になりつつあり、その仕事に自分でも相性
の良さを感じていたので結婚話には躊躇があった。

 春子叔母さんにプロポーズしてくれた本人に好意を感じていたが先方
の家が茨城県の大農家ということもあって、春子叔母さんは・・・

「大農家の嫁として、やりこなして行く自信がない」と、いっていた。

 やがて、見るからに豪農の旦那様という風格の父親と、優しそうな
元同僚は・・・

「急ぎませんので、好いお返事をお待ちしております」と、云い残して
お帰りになった。

 私は、このやり取りを子供ながらに縁側で学校の宿題の写生を仕上げ
ながら一部始終聞いていた。やがて、お客さまが帰った後で・・・

「勉くんは、飛行機は好き?」と、春子叔母さんから聞かれて、
「はい、大好きです」と、答えると春子叔母さんは見るからに重そうな
ボストンバックから一枚の写真を取り出して見せてくれた。

「わ~~~格好いい」と、思わず、私は叫んでしまったことを、今でも
覚えている。遊覧飛行機の前で、春子叔母さんがスカーフをなびかせて
写っていた。そして、私は、春子叔母さんから飛行機の写真を一枚いた
だいた。

 それから、一年後に春子叔母さんは茨城県の元同僚のところに嫁入り
をする決心がついたことを、手紙で父親の竹次郎に知らせてきた。

 嫁入り後、春子叔母さんは、農家の仕事や年間行事などを覚えながら
男の子を二人産んでりっぱに育て上げて、今は、孫たちに囲まれた生活
をしている。

 戦時下・そして・戦後の影響は従兄弟たちにも影を落とした。私は今
でも覚えているが前橋市から従兄弟の晃さんが父親の竹次郎のところに
ひょっこりと現れて・・・

「これから、東京に行って働くことになったので、ご挨拶に伺いました」
と、云って一晩泊まり、早朝に勤め先に向かった。

 晃さんの父親は、佐久間家の長男で武術家としては地元に弟子も多く、
全国的にも、良く知られた武術家で、 身体の頑健さが自慢であったが
フイリッピンで戦死した。

 父親の竹次郎は、次男であったが、そのような事情から、家業を継ぐ
修行をしていた経過もあり、晃さんの親代わりとなって自立するまでの
間は面倒をみていた。

 その後、突然の知らせで・・・

「今度、予科練に入りました」と、知らされ、間もなく、終戦を迎えた。
そのような状況の中での東京行き。そして「仕事が見つかりました」と
いう挨拶だったので、すっかり、安心していたのだが、その後、便りも
途絶えて心配になり、就職先をたずねたところ、親しい友人であったと
いう方から「浅草の闇に消えたまま、いまだに、なんの連絡もない」と
いう状況が分かり春子叔母さんも、一緒に、東京の知人の助けをかりて
探してくれたが、消息はまったくつかめなかった。

 これには、さすがに、冷静沈着な父親もすっかり意気消沈した様子で
「兄の松太郎に申し訳ない」と、いって仏壇に手を合わせていた。

 父親は、終戦後の勤め先でもなにかと人に頼りにされるところがあり
職場の人が時々悩みごとの相談に見えていた。父親の竹次郎が、いつも
輝いて見えたのは、自己実現を越えて他己実現のために走り廻っていた
ためと気付いたのは、私が自分自身で子供を育てる実体験を重ねてから
であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 何故「新春の家族」のことを、突然、思い出したのだろうと不思議な
感覚に陥った自分に驚きながら、もう一度ヘッドシミュレータを頭から
被った。


【造船業からの近代化の始まり】

 日本の造船業は幕末に始まっている。動力のない木造船は太古の昔か
ら作られていたが動力付きの鋼鉄製の造船は幕末からであった。それま
での和船は龍骨のない、底の平らな帆船で、外洋航海には不向きなもの
ばかりであった。

 一八五三年に浦賀沖において、ペリー提督が率いる黒船が突如として
現われ、この蒸気船が日本の造船業を近代化に導いた。それから百五十
年を経過した現在においても、なにかにつけてアメリカから変化を促さ
れて、日本の社会構造を変えようとしている姿は、今も昔も変わってい
ないところが興味深い。

 幕末には、日本でも造船ラッシュを迎えることになるがコスト面など
から外国からの輸入にかなわないことがすぐに判り、ほとんどの造船所
は閉鎖されていった。

 しかし水戸藩が江戸の石川島に開設した造船所は生き残り一八六七年
に平野富二が払い下げを受けた。これが発端となり、日本最初の民営の
造船所となった。この石川島造船所では船体の建造が盛んに行われた。

 一方で、幕府の長崎造船所は明治政府に引き継がれ、後に三菱に売却
された。

 その後、第一次大戦後は、国産艦船だけで、艦隊を構成できるまでに
建造力を向上させていった。

 民間需要も第一次大戦を経てから著しく伸びて一九一九年(大正八年)
には、国内需要のほとんどをまかなえるまでに造船業として成長した。

 時期を同じくして、工作機械メーカーや製鉄業も、世界的産業に発展
していった。このようにして日本の工業生産力は造船技術の総力を高め
て行き、第二次世界大戦前の一九三九年(昭和十四年)には日本の造船
技術は「イギリス」「アメリカ」に続き、世界で「第三位の造船国」に
なっていた。

・・・・・・・・・・・・・・・

【航空機産業の始まり】

 日本において初めて空を飛ぶ快挙は松山藩の二宮忠八が、一八九一年
(明治二十四年)に、ゴム動力によって、鳥を真似た模型飛行機を製作。
空中を三十メートル飛ばした。その後、実用機を設計して、陸軍に提案
したが採用されなかった。

 その後、二宮忠八はライト兄弟による人類初の動力による飛行を新聞
で読んで知るところとなり、涙を流して悔しがったと云われている。

 ライト兄弟は一九〇三年(明治三十六年)十二月にアメリカのノース
カロライナー州において、人類初の動力飛行に成功した。

 日本における動力飛行は、一九一〇年(明治四十三年)十二月に、

◇ フランス製のアンリ・ファルマン機によって、徳川大尉が飛行に
成功した。
◇ 一方、ドイツ製のハンス・グラーデ機は、日野大尉によって飛行
に成功した。

 この二機の記念すべき初飛行は、代々木練兵場で行われた。

 日本における航空機製造の取り組みは、一九〇九年(明治四十二年)
の研究会の発足からである。

◇ 陸軍は、一九一一年(明治四十四年)、所沢に日本初の飛行場を
建設した。
◇ 一方で、海軍は横浜の金沢海岸に飛行艇の基地を開設して航空機
製造のインフラを整えた。

 そして、海軍は、海軍士官七名をヨーロッパとアメリカに派遣して、
フランスからは、ファルマン機を二機、アメリカからカーチス機二機
を持ち帰った。

 その後、海軍はファルマン機の輸入を促進。さらに海軍は保有する
船の一隻を空母のように改装した。

 一方で、陸軍は、一九一一年(明治四十四年)にフランス製ルノー
のエンジンを基にして、エンジンの生産に成功している。一九一五年
(大正四年)には、陸軍に航空隊が設立され、翌年、海軍にも同様の
組織が設立された。

 このような状況のなかで、航空機開発の必要性が盛り上がって行き、
やがて航空技術者の養成が急務となって行った。

 東京大学工学部には航空研究所と航空学科が設置され、航空技術者
の養成が急ぎ進められた。

 一九一七年(大正六年)頃になってからは、民間の航空機メーカー
が続々と設立された。

◇ 中島飛行機、および、三菱航空機、川西航空機、川崎航空機、
愛知航空機、九州航空機、立川航空機などは、いずれも大正時代
に設立された。

◇ この中で、三菱航空機、川崎航空機、立川航空機は、造船業
に源を発している。

◇ 三菱航空機の発祥は、大正九年に、三菱内燃機製造が名古屋
大江町に設立されたことに始まる。昭和三年に三菱航空機と改名
され、さらに造船部門と合併して、昭和九年、三菱重工に改めら
れた。

◇ 三菱は、日本初の独自の設計による、海軍九六式艦上戦闘機
の開発をはじめとして、世界をあっと驚かせた零戦を開発。終戦
直前にはロケット航空機秋水を完成させた。

◇ 川崎航空機は、大正八年の川崎造船飛行機科の設置が航空機
メーカーとしての始まりである。昭和十二年に、岐阜県各務原に
おいて工場を新設して独立し川崎航空機とした。高速戦闘機飛燕
の開発が有名である。

◇ 立川飛行機は、最初は、石川島飛行機と称して石川島造船の
子会社として大正十三年、東京月島に創設された。その後、立川
に移転し、昭和十一年に立川飛行機と改名されて、川崎、中島の
機体を数多く転換製作した。昭和十五年に、日本紀元二六〇〇年
記念行事として、朝日新聞が、主体となって製作されたA26は
東大航研の設計チームの下、立川飛行機で製作されことは有名で
ある。

◇ 中島飛行機の成立は、海軍機関大尉であった、中島知久平が、
一九一七年(大正六年)に退役後、郷里の群馬県太田市で航空機
研究所を創立したのが始まりである。これは、日本において民間
航空機工場の第一号といわれている。

◇ 中島知久平は、さらに繊維会社を経営していたところの川西
清兵衛との共同事業として一九一八年(大正七年)には合資会社
日本飛行機製作所を設立したが。翌年に、中島式四型のエンジン
に係わるトラブルが原因で川西との提携を解消した。

◇ その後は社名を中島飛行機製作所に変更して数多くの名機を
送り出した。陸軍機では、鍾馗、呑竜、疾風など、 海軍機では
月光、天山、銀河、富嶽などがある。

◇ そして、終戦間際に、我が国初のジェット戦闘機「橘花」を
誕生させた。

・・・・・・・・・・・・

 私は、目が疲れたこともあり、ヘッド・シミュレーターを取り外した。
日本の航空機産業に関するテロップを、垣間見ただけであったが、自分
たちを取り巻く因縁の深さに驚いたのであった。

◇ 私の父親の竹次郎が、生まれた年は、一九〇九年(明治四十二年)
で日本において、航空機製造の取り組みが始まった年である。今回の
旅でご一緒のミセスCIAや私が住んでいるところから近い、所沢は
まさに日本の初期における飛行現場である。

◇ そして、私が生まれた群馬県太田市は、飛行機の神様と云われて
いる中島知久平氏の郷里である。しかも、終戦間際に飛行試験に成功
した橘花に搭載のジェットエンジンは、私の勤務先の武蔵野事業所に
実物が展示してある。

 そういえば、私が入社して、その配属先が「航空機関係」の部門と
知ったときの父親の喜びようは並大抵のものではなかったことを思い
出した。

 現在、私が勤務する航空エンジンの事業所は、武蔵野に在る。私の
航空機分野への就職を自分のことのように喜んでくれた父親竹次郎の
気持ちのなかには、航空機に関する並々ならぬ意味深いものがあった
のではないかという印象が脳裏によみがえってきた。

「しかし、父親の竹次郎が、航空機の飛行試験に携わっていたことを、
私には、一言も語ったことがないのはなぜだろうか?」

 ここで私は、記憶の彼方から子供の頃に父親と一緒に飛行場で見た
「あの燃やされていた飛行機」のことを、フラッシュバックのように
思い出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は、群馬県太田市で生まれて、新入社員として、上京するまでは、
父母妹弟と一緒に群馬県太田市に住んでいた。父親は、群馬県前橋市
の出身であるが第二次世界大戦の時に、中島飛行機に、勤めるように
なって群馬県太田市に住むようになり太田市に住み着いた。

 あの第二次世界大戦が終わってからのことである、飛行場で日本の
飛行機が燃やされる姿を見て、私は、子供ながらに背筋が寒くなった
ことを今でも覚えている。父親は、そんな光景の中で燃やされて行く
飛行機を黙って見ていた。

「勉、行くか」という掛け声は、父親が休みになると決まって飛行場
に行く時の合図であった。父親は、乗物を自分で動かしたりエンジン
を分解して調整したりすることが部類に好きであった。


015    ハワイにはフルムーンの旅

 私は家内と一緒に、ニュージーランドの旅に出かけて、現地で実際に
マウントクック村の自然環境に触れて、随所で積極的に環境保護に取り
組んでいる姿を見て大いに考えさせられた。

 同時に、このニュージーランドの旅があらゆる面で私にとって、一大
転機であったことを時間の経過とともに、本人である私をしてジワジワ
と感じ取ることになる。

 結果的に、この旅行は神様からの「おぼしめしの旅」であった可能性
もある。今回のニュージーランドへの旅行案内は、新聞広告で見付けた。
私にとって、家内と一緒の海外旅行は、平成元年におけるハワイ空路の
フルムーンが初めてであった。

 それまでは二人しての旅は国内が主体であり時代が平成と云う新しい
局面に入って、それでは「フルムーン」と洒落込んで、海外にでも出て
みようかということになって豪華版のハワイ旅行を堪能した。

 そのハワイ旅行がとても楽しかったことから、永年勤続の表彰旅行も
海外旅行と決め込んだ。しかし永年勤続の表彰旅行ということになると
若干の旅行代金の上乗せは可能としても社内規則の様なものもあるため
豪華旅行という訳にはいかないので、一定の予算内で贅沢な印象を与え
ないような配慮も必要である。

 その点において、新聞広告のニュージーランド旅行は妥当な旅行代金
であった。

 たしかに、豪華版のハワイ旅行では、カウワイ島のホテルに滞在した
時などはホテルのプライベート・ビーチには赤々とかがり火が燈されて
ムード溢れるレストランでのディナーのときに、ツアー・コンダクター
の女性から・・・

「この中にフルムーンでご旅行の方は、いらっしゃいますか」と、云う
問いかけがあり 「ハイ、います」 と、ほぼ反射的に手を挙げた私に
超豪華賞品がホテル側から贈呈されたりと至れり尽くせりのもてなしで
シダの洞窟に向かう船内ではプロの歌手による生演奏が提供されるなど
サービス満載の豪華旅行であった。

 あの時に、ハワイの豪華旅行を選択した心境としては・・・

 私が三十年代前半での欧米へのビジネス出張において、約一か月間は
寝る間も惜しんでの 「航空業界における管理工学の在り方についての
実態調査に基づくレポート書き主体」で 「観光のかの字もなかった」
思い出が思わず脳裏を走った。

 しからば家内と一緒の海外の旅では「観光盛りだくさんの旅にしよう」
と決め込んで、ハワイ豪華旅行をセーリングポイントにしている商品を
選んだ記憶がある。

 その「満足感」ゆえに、今度も海外の旅と決めて、今回は妥当な金額の
ニュージーランド旅行を選んだ。

 結果として・・・

 適切な選択であったことは旅路を経て・豪華さよりも・有意義性という
面において、満足感を重ねて行くことになるのである。

・・・・・・・・・・・・・

 話を元に戻すが・・・

「父親の竹次郎が戦時中にテストパイロットをしていた」という衝撃的
な話を聞いたことから、私は直近の記憶として正月の父親との会話など
を思い出しているうちに、あれだけの動力好きなら、

「やはりあり得るか?」と、いう気持が再び脳内に蘇って来た。

 そこで、気を取り直して・・・

 再び、ヘッド・シミュレーターを装着して、カセットの残りの情報を
一気に脳内に記憶した。

 それは「世界大戦の始まり」「自動車産業の始まり」「戦後の航空機
産業の始まり」へと連なる内容で構成されていた。

 ここでは 「戦後の航空機産業の始まり」 のみを抜粋する。


【戦後の航空機産業の始まり】

 第二次世界大戦後は航空機関連産業の全ての活動が禁止された。設備
は没収され破壊されて、航空機メーカーは解体され、あるいは小規模の
会社組織に分割された。

 一九五二年(昭和二十七年)に禁止令が解かれるまでの七年間これら
の企業はバスの車体・スクーター・自動車部品・農機具など民生用生産
へと大きく転換させられていた。

 戦時中には、七十万人の雇用を有していた航空機産業は、こうして崩
れていった。また、この七年間の間に技術者の転用が激しい勢いで進ん
でいった。

 一九五二年(昭和二十七年)に、民間航空と航空機製造事業が再開さ
れて、この年に航空法と航空機製造法が制定された。通産省には航空機
課が設置され、この法律は航空機に関する高い技術水準を維持する狙い
で制定されたものである。

 一九五四年(昭和二十九年)には 「航空機製造事業法」として改め
優秀な技術と健全な経営が可能な企業だけが航空機の生産を承認される
として規定された。

 一九五四年(昭和二十九年)には、防衛庁が設置され、日本は冷戦の
緊張が高まるなかで、アメリカとのライセンス協定の下、防衛庁向けの
軍用機生産が始められた。

 最初のプロジェクトは「ノースアメリカン製のF86戦闘機」および
「ロッキード製のT33A練習機のライセンス生産」であった。

 F86は新三菱重工(現三菱重工)、T33は川崎重工が、それぞれ
担当した。

 その後、ロッキード製のP2V7、ロッキード製のF104J、マク
ダネルダグラス製のF4、F15が、ライセンス生産された。

 これらのライセンス生産は、航空機製造における生産技術や生産管理
などの技術力の向上に大きく貢献した。

 一九五五年(昭和三十年)には防衛庁からの強い要求で国産ジェット
練習機T1の開発が決定した。戦後初の国産機の契約は富士重工が受注
した。

 一九五八年(昭和三十三年)には、国産ジェット練習機 T1 の一号
機が納入された。エンジンは、最初は、輸入エンジンを装備していたが
二年後からは国産エンジンのJ3が搭載されて完全な国産機となった。

 J3エンジンは石川島・富士・三菱・富士精密(後のプリンス自動車)
からなる日本ジェットエンジン製作が開発、その後は石川島にエンジン
トラブルの解決が宿題として課されて移管され完成に到った。


【国産民間機の始まり】

 一九五七年(昭和三十二年)に国産のジェット練習機T1が飛行試験
に成功した頃、もう一つの国産機のプロジェクトが立ち上げられていた。
輸送機設計研究協会である。協会は二年後には日本航空機製造株式会社
(日航製)に発展し、YS11が開発されることになった。

 この会社は航空機製造振興法の下で設立され、政府が六十パーセント
出資して資本金五億円でスタートした。

 民間出資会社は三菱・川崎・富士・新明和・日飛の機体メーカー五社
が中心であった。YS11は、一九六二年(昭和三十七年)に、初飛行
に成功した。

 しかし操縦性能の問題で計画に遅れが生じ一九六四年(昭和三十九年)
に計画から一年以上遅れて、運輸省航空局の型式承認を取得した。

 翌年、一九六五年(昭和四〇年)には、米国FAAの型式承認も取得
し輸出の準備を整えた。しかし、この一年間の遅れの影響は大きく計画
の三〇〇機を大幅に下回って一八二機(内輸出は八二機)の生産で打ち
切られた。

 結果として多額の赤字(三六億円)を抱えて一九七一年(昭和四六年)
に生産を終了した。日航製は一九六六年(昭和四一年)からは、防衛庁
向けの戦術輸送機C1の基本設計を開始した。

 C1は川崎重工を主契約として機体メーカー五社のもとに生産された。
一九五〇年(昭和四五年)に初飛行に成功したC1は、全部で三〇機が
生産された。

 この機体は、後に、航空技術研究所の研究機「飛鳥」に改造された。

 日航製は、一九八三年(昭和五八年)に最終的に清算されて三菱重工
に移管された。その後は超音速練習機 T2 が三菱重工を主契約として
開発されて、一九七一年(昭和四六年)に初飛行した。

 この超音速機は・・・

 アメリカ、ソ連、イギリス、フランスおよびスエーデンに続いて六番
目の飛行成功である。

 航空機用のエンジンについては純国産ジェットエンジンJ3を石川島
が量産化し、その後も、防衛庁向けエンジンのライセンス生産が石川島
播磨重工業を主体にして着実に続けられた。

 このライセンス先はジェネラル・エレクトリック(GE)・ロールス
ロイス(RR)およびプラットアンドホイットニー(P&W)である。

 国内的には、石川島播磨重工業を主軸にして、川崎重工業(KHI)
三菱重工業(MHI)もエンジン生産に加わった。通産省は、J3の
次の国産エンジンプロジェクトを真剣に考えていた。

 一九六〇年代から、純国産のFJR710エンジンの開発が始まり、
その試作第一号機が 一九七三年(昭和四八年)に完成した。

 その後、数台が製作されて、一九八五年(昭和六〇年)に、C1を
改造した飛鳥に搭載され試験飛行に成功した。

 この開発成功に注目したのが、英国RR社であった。彼らは新しい
中型エンジンの開発パートナーとして日本を指名した。

 一九七九年(昭和五四年)FJRの開発が一段落した時点で、この
プロジェクトは 「日英共同開発」に発展した。 新しいエンジンは
RJ500。通産省のプロジェクト名はXJBと命名された。

 その後、このエンジンは、五カ国共同開発に発展した。

 今日では、V2500エンジンとして世界中の空を飛んでいる。この
エンジンは国内では、石川島播磨重工業が中心になって、三菱重工業や
川崎重工業との協業で、日本をはじめとしてイギリス、アメリカおよび
ドイツ、イタリアの五カ国で共同生産している。

 日本におけるこの運営共同体は、日本航空機エンジン協会(JAEC)
であり通産省が、一九八三年(昭和五八年)に発足させたものである。

 こうして通産省の真剣な取り組みは、民間航空の分野でも実現した。

 石川島播磨重工業は、これ以前においても一九七〇年(昭和四五年)
から、イギリスのRR社およびフランスのターボメカ社との三社による
共同開発エンジンであるアドアを成功させている。

 アドアエンジンは、国産超音速機T2およびその派生型のF1に搭載
され活躍している。

 また、石川島播磨重工が中心になって開発した国産のF3エンジンは
T4の機体に搭載されて活躍しており、同じ規模の民間向け仕様である
CF34エンジンはGE社との共同開発で飛行試験に成功して、実用化
の道を歩んでいる。

 大型エンジンの開発分野においても、国際的な、エンジン共同開発や
飛行試験に成功しており機体に比べてエンジン開発のスタートは遅れた
ものの、現状では確実に技術力を積み上げて、世界の市場に乗り出して
いるといえる。


016   父親との思い出の機体

 私としては、全部の監修データを見終わっての感想として、日本政府
の刊行物を基にして監修したものだというが良くまとまっていることに
驚いた。もの凄い情報量をあっと間に脳内で整理できる。

「こんなマシンを自宅でも活用できたらいいな」というのが、私の率直
な気持であった。

 まるで、タイミングを測ったように、蝶ネクタイの神崎さんが顔を出
された・・・

「お名前を確認しておいてよかった」と、私は内心で思った。
神崎さんのお名前をアシスタント役の白木さんに教えていただいていた
のであった。

 先程、白木さんがみえたときに・・・

「失礼ですがマウントクック村にお迎えに来ていただいたときにお名前
をお聞きしたのですが、漢字ではどのようにお書きするのか確認するの
を忘れまして」という言葉に、白木さんがとっさに反応されて、

「かんざきのことですね。神様の神に、山崎などに使う崎です」
「あの俳優の山崎努の崎ですね」
「その通りです」
「ありがとうございました」
こんなやりとりで、神崎さんのお名前を確認しておいた。

 私は、早速・・・

「神崎さん、この装置は、ほんとうに良く工夫されていますね」
「短い時間で頭の整理が出来るのでたいへん便利です」
「家に持って帰りたいくらいですよ」
「勉さま、このヘッド・シミュレーターは、日本にお持ち帰りになって
も残念ながら、ご利用いただけません」と答えながら、神崎さんは少し
間をおくようにして、

「閣下から、飛行準備は、順調に進んでいるとの伝言がありました」
「勉さまには、是非とも新鋭機に搭乗していただきたい」と、申して
おりました。

「その前に、テロップで紹介させていただきました、戦時中の飛行機を
ほぼ原形に近い形で復元して、イエスタディー館内に展示してあります
ので、ご興味がおありでしたら、是非、ご覧になって下さい」

「ほとんど、全機、いつでも、飛行できるように整備してありますので、
おっしゃっていただければ、私から操縦案内させていただきます」
「実際に、飛行できるということですか?」
「はい、飛行できます」
「複座の飛行機であれば、私の操縦で、飛行体験していただけます」

「ツディ館もございますが、改装中でして、残念ながら、ご覧いただけ
ません」
「私が、子供の頃に、飛行場で父親と一緒に見た、あの燃やされていた
飛行機も同じ型式のものが置いてあるのだろうか?」と、いう好奇心が
湧いてきて思わず・・・

「イエスタディー館を是非とも拝見させて下さい」と、お願いをすると、
「はい承知しました。それでは参りましょうか」と神崎さんに促されて
後からついて行くと、エレベーターで地下五十階に到着する。

 高速エレベーターの扉が開くと目の前には通路が広がっていて一直線
に奥まで見通せる。通路の両脇には飛行機がびっしりと並んでいて圧巻
である。

 幼い頃に、父親と一緒に見たあの燃やされていた飛行機は、どの機体
だろうかと興味がそこに集中する。

 機体が燃やされる間、ヒューヒューという、虎落笛(もがりぶえ)の
ような叫び声をあげていた飛行機は、どの機体なのだろうか?

イエスタディー館のフロアーは天井が高く真中を走る通路は奥行きが
五百メートルを越えるという。それだけに、それぞれの機体はゆったり
とした間隔で置かれている。飛行機の前に掲示してある看板から飛行機
の名前とエンジン性能など興味深く読み取って行く。

「紫電改。海軍戦闘機。沖縄戦でアメリカ艦船に向けて、特攻で活躍」

「三菱九六式艦上戦闘機。海軍戦闘機、日本初の独自設計機」

「雷電。海軍局地戦闘機」とある。
この飛行機の名前は父親から何度も聞いたことがある。

「飛燕。陸軍戦闘機、日本の本土防衛に活躍」
この名前も父親から良く聞いた。

「月光。陸上偵察機。夜間戦闘機として活躍した」
と案内板に書かれてある。

「三菱キ51九九式。陸軍偵察機、神風特攻隊で数多く使われた」

「彗星。海軍艦上爆撃機、ミッドウェーで最初に使用された」

「零戦。海軍艦上戦闘機、約一万五百機が製造され、神風特攻隊として
優秀機の生涯を終わった」

「三菱九六式陸上中型攻撃機。海軍、陸上基地攻撃隊の主力機であった」

「愛知零式水上偵察機。海軍、カタパルトを付けた水上偵察機である」

「隼。陸上戦闘機、マレー、ジャワ、スマトラ、レイテで活躍した」

「三菱四式重爆撃機。陸軍、硫黄島、マリアナ、沖縄で活躍した」

「呑龍。陸軍重爆撃機、初めて尾部銃座をもった機体である」

「銀河。海軍陸上爆撃機、夜間用に初めてレーダー装備した機体である」

「疾風。陸軍戦闘機、急降下爆撃機、夜間戦闘機、迎撃機など、幅広い
用途で使用され、約三千五百機が製造されて、最後の首都防衛の任務を
果たした」

 ここで、私は、幼い頃に目の前で燃やされていた飛行機は、この機体
ではないかと直感した。
(機体のシルエットがよく似ている)

「あの飛行場で、父親と一緒に見た燃やされていた飛行機は、この疾風
にちがいない」「あの時は、子供ながらに背筋に寒さを感じた」

 ヒューヒューと飛行機が泣いているような虎落笛に似た音がかすかに
聞こえていた。私は両側に整然と並んだ傑作機の一群をみて、神崎さん
に話しかけた・・・

「これだけの日本の航空技術力を目の当たりに観たら、アメリカは当然
のこととして、アメリカ本土の防衛の観点からも、戦後の日本における
飛行機製造への取り組みを禁止しますよね」と、私が、感想を述べると、
神崎さんが・・・

「しかし、この航空機にかかわっていた技術者が、今度は、自動車産業
に移って行き、その技術力が結集して、今度は、日本からの自動車輸出
という形に発展して、アメリカ本土に上陸するというところまでは想像
していなかったでしょうね」と、感想を付け加えられた。

「たしかに産業の発展史として、最近の中国の急速な発展をみても産業
が海から岸辺に向かって起こり、陸へ、さらには内陸部へと発展してい
ますよね」と、私も答える。

「日本も、海を活躍の舞台とした造船が、やがて世界一となって、空の
飛行機への発展につながり、さらに自動車に波及効果を広げていった」
というのが、日本の産業の発展史ですと神崎さんが話をつなげる。

 私は、ここで自問した。

「日本が、通常の産業発展モデルといわれている『海から陸へ』そして
『陸から空へ』と、いう進化の過程ではなくて、第二次世界大戦という
特殊な環境下にあって、 一気に、海から空に向かったというところが
『技術力』において一大飛躍を成し遂げた要因かも知れないですね」と
声に出す。

「昭和初期の航空機の生産台数は、年間で400機程度だった。それが、
昭和十九年(一九四四年)には、年間二万四千機というピークを迎えた
ということ自体が、想像を絶することですね」と、投げかける。

「また、製造機数だけではなく、 昭和十七年(一九四二年)には、東大
航空研究所が長距離飛行機を完成させて、当時、飛行距離の世界記録を
達成している」と、驚いた様子を示す。

「また、新技術という面では、終戦直前に『ネ20のジェットエンジン』
を完成させて橘花に搭載、初飛行にも成功している」と今回の監修データ
から再認識したばかりなので、自然に声にすることができる。

 そして、私は、さらに自問を続けることになる・・・

「日本の産業が造船で世界一となり、その技術力を生かして、第二次世界
大戦では飛行機の製造数を飛躍的に高め、戦後はその技術力が自動車産業
に移植されて、自動車産業発展の基盤を形成することになった」

「そこには、海から空へ、空から陸へと駆け抜けた『頭脳の存在』が鍵を
にぎっていた」と、ここでさらに声を大にする。

「これらの史実を現代に生かす術はなんだろうか」と、声にする・・・

「本来的に技術者魂は、それが戦時下であっても純粋な性格を成している
ことが多く、国家間の平和的な関係維持や平和的な環境維持の中にあって
こそ、技術者たちのずば抜けた頭脳は生かしきれる」と・・・

 一人で熱弁をふるう私に、口をはさむこともなく、神崎さんは、一緒に
歩みを進める。

「今や日本の置かれた状況は、バブルがはじけて以来の後遺症的な閉塞感
から完全には、メンタル面で脱しきれておらず、日中間の関係悪化の兆し
などは、見方によっては、第二次世界大戦突入前の手探り状態に似てきて
いるのではないか」

「現状において、日本の対外的な平和の均衡は、戦後の反省の重要項目と
して、一貫して推進してきた『良好な日米関係の堅持』が、唯一の救いに
なっている」と、私の考えを声にする。

「この戦前の閉塞感に似たところのある状況の中にあって、戦争への道で
はなく平和を希求する道を選び、どのようにして、バブル後における日本
経済を安定させて、それぞれの企業復興をより確実なものにして行くか」

「現状の局面をより平和的に、難しい関係にある諸外国を含めて信頼関係
を取り戻し、より連携を深めて、かつてのような窮余の中でのいちかばち
かの決断ではなく、戦争によらない解決策としての第二、第三の道探し」

 そして、技術立国日本として、最大の国家的財産ともいえる技術者たち
の頭脳を・・・

「マーケティングの知恵者たちとの協働で国家的に産業再創業を成し遂げ、
継続的な思考として第二次世界大戦の二の舞は避けたい」と、いう感想が
イエスタディー館を拝見させていただいた、私の素直な感想であることを
神崎さんに声にして伝えた。

 神崎さんは、私の感想に対して・・・

「閣下も勉さまの感想を聞きたがっておりましたので、早速、お伝えする
ことにしましょう。勉さまのそのような、熱い思いを込めた感想を聞かれ
たら、きっと喜ばれることでしょう」

「それでは、戦後日本における現実の世界ではどのような躍進があったの
だろうか?」と、私は自問を繰り返す。

「既に、戦後の産業の苦境の中にあって、その苦境をばねにして飛躍への
道に転換させていった異色の偉人として身近に知るところの人物としては」
と、考えて、さらに自問を繰り返す。

「戦後、海と空を経営力と、技術力を駆使して、再構築した土光敏夫翁の
存在は大きい」

「また、土光氏は、経営力において重電・家電・情報技術の面にも新風を
吹き込んで行き、その経営力の総仕上げは、国家事業の立て直しであった。
国鉄の民営化に続けて電信・電話の分野にまで民営化の新風を吹き込んで
いった経営手腕は快挙といって良い」

「その好ましい影響は、今日において郵政の民営化にも影響を及ぼした」

「陸の世界において、大いなる夢を切り拓いた本田宗一郎翁にも熱血漢で
ありながらも、清廉にして・潔白な人間像から、日本を代表する類まれな
経営力と技術力を感じる」

 ここでの私自身の自問は・・・

「本田宗一郎翁の天才的な技術者魂と、ブラジルの希望の星アイルトン・
セナとの出会いは、まさに、運命的なものであったといえる。天才的な
ドライバーとしての技術力が、本田宗一郎の天才的な頭脳に、点火して
F1レースにおける世界一の座を獲得した」

「私は講演会の場で面前にて本田宗一郎翁のお姿を拝見したことがある
が講演会において伝わってきた、お人柄からも、多くの偉業は必然的な
ものと考える」

 ここで、私はテロップでみた記事のことを思い出していた・・・

「中島飛行機でエンジン設計に従事していた中村良夫氏は、くろがねに
入社。くろがねが倒産した後は、本田技研に入社して、F1エンジンの
開発に成功した」

「ここにも空から陸への技術移転が見られるが、本田翁の人間的な魅力
を考えたときに中村氏の本田技研への入社も必然的であったような気が
してくる。同時にテロップを見ながら考えたことを回想しながら、私は、
さらに自問を繰り返した」

「心理学において、ルビンが研究した有名な心理学実験に、ルビンの図
と地の研究があるが、描かれた絵の外側を地として見ると、中央に盃が
図として浮かび上がり、絵の内側を地として見ると、左右に二つの横顔
が図として浮かんでくる」

「これは、ものを観るときに 『どこを地』 にして視点を当てるかで
目方がまるっきり違ってくるということである」

 私は、長い期間を航空分野で航空マンとして働いてきた。そして多く
の航空人識者から、航空機産業の空白期間の虚しさとして、航空機事業
に携わることが出来なかった辛さと焦燥感を聞かされてきたが、ルビン
の図と地の関係を参考にすれば・・・

「航空分野の空白の期間を地としてみるとき、そこには、自動車分野が
図として浮かび上がってくる。このことは、戦前・戦中・戦後の産業史
において、それぞれの独立的な産業分野の中だけでの歴史を語るのでは
なく、海と空と陸とを関連付けた立体的な歴史観として、解析していく
必要がある」と、強く感じた。

 それにしても、イエスタディー館で目の当たりに見た飛行機群は圧巻
であった。そして、私の思いは、航空分野の世界にあって異色の天才を
挙げるならば、中島知久平翁と確信するにいたった。

 恐らく、これは幼い頃、父親から、中島知久平翁の偉業を聞かされて
いたからかも知れない。自問の沈黙を破って神崎さんに、その話をする
と驚くべき答えが返ってきた。

 私は、思わず耳を疑ったが・・・

「今から、お会いする閣下が 『中島知久平』翁、 その人である」と
いうのである。


017 終戦直前における「ネ20」ジェットエンジンの開発


 私と神崎さんの乗ったエレベーターが最上階に止まる。

 目の前に広がった空間は、落ち着いた雰囲気で奥には大きな扉がある。
神崎さんが手の平を扉に向けると大きな扉は自動的に開いた。

「中島総裁、勉さまをご案内しました」と声をかける。

「閣下が中島知久平翁、その人であり、今度は、中島総裁という呼び方
で神崎さんが声をかけているが、ここには、公社のような組織でも存在
するのであろうか?」と、私は自問する。

 中島総裁と呼ばれる風格のりっぱな人物は、大きなテーブルに図面を
広げて何か書き込んでいたがこちらに向かって立ち上がると、私と握手
をしてから大きな図面が広げてあるソファーに、腰掛けるよう、親切な
手振りで、ソファーにご案内いただいた。

「あっ、これは超軽量ヘリコプター?」

「私たちも、経団連ビルで、航空関連業者の若手が集まる会合があって、
何度か会合を重ねているうちに、お互いにヘリコプターが趣味の仲間が
多いことに気付いて非公式な趣味のグループが誕生、現在は休日になる
と集まっては、百機編成による飛行試験をパソコンでシミュレーション
することを計画している」

「自分たちが、趣味の分野で計画している、超軽量ヘリのシルエットに
よく似ている」

 中島総裁は落ち着いた口調で・・・

「これは今からご案内するエアーポートに準備した超軽量ヘリの実験機
の図面です」

「ところでイエスタディー館で飛んでみたい飛行機はありましたか?」

「父君の竹次郎さんは、あの疾風が、一番のお気に入りでしたよ」

 私にとって、父親の竹次郎が、中島翁の腹心の部下であり、腕利きの
テストパイロットであったという説明はいまだに信じ難いことであった。
父親からは、そのような話は、今までに一度も聞いたことがなかった。

 確かに動力ものが好きで大型オートバイや自動車が部類に好きだった
ことは幼い頃から何度も聞かされてきた。事実、自動車などのエンジン
好きはたいへんなものであった。自動車のボンネットを開けて、夜遅く
までいじりまわしている姿は、中学生の頃の記憶として強烈に頭の中に
刻み込まれている。

 それを考えると、父親が飛行機のエンジンに興味を持つことは必然的
な成り行きとは考えるが、そこまでの経緯が、よく分かっていないので
合点が行かなかった。

 しかし、ここで、私が自問したのは・・・

「確かに、今にして思えば、戦後、自転車の後ろに私を乗せては、遠く
の飛行場まで出掛けて行って、目の前で燃やされる飛行機を寂しそうに
凝視していた姿は、子供ながらにいとおしさをこらえている様子として
敏感に伝わってくるものがあった」ことは事実である。

 それは、一緒にいた当時の幼い私にも何か感じるものがあって、父親
から伝わってくるものがあったが、まさに「あの飛行機は父親が大好き
だった疾風だった」のだとふと我に返った私は・・・

「イエスタディー館の飛行機で飛ぶなんて、とんでもないことです」と
答えると中島翁の目が笑っていた。

 中島翁は目の前に広げている超軽量ヘリの図面に話題を戻すと・・・

「このヘリコプターは、操縦が簡単だから貴方も飛んで見ませんか」と
云うのである。

「勉さんにとっては、父君が私たちと一緒に飛行機を飛ばしていたなど
ということは、なかなか信じられないことでしょう」と好々爺風の優し
そうな目で笑う。

 中島知久平の名前は子供の頃から航空界における神様のような存在と
して、父親から聞かされてきた。しかし、今までに一度として、父親が
飛行試験にたずさわっていたなどという話は聞いたことがなかった。

 私が、中島知久平という名前をこれほどまでに鮮明に記憶していると
いうのも父親がたまに飛行機の話をするときに、必ずといってよいほど
中島翁の名前を出していたからであるがそれほどにつながりが強かった
という話は聞いたことがなかった。

 私が図面に目を落とすと、超軽量ヘリの外形部分に矢印が飛んでいて
バイオチップスという文字が目に入ってきた。

「バイオチップスですか」と、私が声に出すと、
「バイオチップスです」と、中島翁が即応された。
「このバイオチップスの働きによって、太陽の光を化学的に電気に変え
るのです」と云われる。

 私たちが趣味の世界で計画している超軽量ヘリでは、太陽の光を宇宙
基地で物理的に大規模施設によって集めて電気に変える。そのため機体
の開発から実験機完成までは早いのだが宇宙ステーションを含めた総合
システム構築までは夢の領域となるために完結の目途は建てていない。

 私は咄嗟の判断で・・・

「この仕様で進めると、大規模な発電用システムを必要としないので、
実用化までの期間は短くて済むのではないか?」と、推測して、

「この超軽量ヘリの実用化はどれくらいの期間で可能になりますか?」
と、おたずねすると、

「現在の計画では三年先です」という答えが返ってくる。

「バイオチップスなどの新技術を導入しての条件下にあって、随分と
短期間での実用化ですね」と、私が率直な感想を述べる。

「いや、それでも終戦直前に実機として開発。飛行試験まで一気に駆け
抜けた日本初のジェットエンジンネ20に比べたら実用化までに三年間
は、まだまだ長いほうですよ」といって、中島翁はテーブルの上に一冊
の著書を置いた。

「海軍特殊攻撃機橘花『日本初のジェットエンジン・ネ20』技術検証」
石澤和彦著であった。

 私も、既に、この著書には目を通している。この著書の記述によれば

◇ ネ20ジェットエンジンは 「一年未満の短期間」で初飛行に成功
している。

◇ その時間軸に沿った経過を追って行くと 「その俊敏さ」 が伺い
知れる。

◎ 一九四四年七月に、BMW003A縮小断面図を入手してから同年
十月には 「ネ20計画図」 を作成

◎ 同年同月に、艦政本部の技術者を投入して二ヶ月間で設計陣を強化

◎ 同年十二月末に 「ネ20の設計作業」 を開始

◎ 翌年一月中旬には 「一部の部品の製作」 を開始

◎ 三月中旬には 「全部品」 を完成

◎ 三月末には 「組立を完了」 してエンジン試験開始

◎ 四月には 「試験本格化」を神奈川県秦野にて果たす

◎ 同月には 「橘花への搭載」を決定

◎ 六月には 「耐久試験」を完了

◎ 七月には 「1式陸上攻撃機に懸架」して三沢で空中試験

◎ 同じく同月には 「橘花を分解梱包」して木更津に発送

◎ そして、同月に木更津にて 「運転開始」

◎ 七月末には 「橘花に搭載」して地上滑走

◎ 八月には 「十二分間の初飛行」に成功

◎ そして 「終戦」八月十五日

 このように、日本初のジェットエンジンネ20は、ものすごい勢いで
開発が進められて、橘花に搭載され初飛行は、八月七日に、高度にして
六百メートルを十二分間飛んだ。

 ネ20の開発を耐久試験の終了をもって完了とすれば、設計図作成の
段階から開発の完了までは「僅か、八~九ヶ月間」であり米国が英国の
エンジン図面と現物およびその指導者を手中に入れながらエンジン完成
までに約一年間を要していることからも、いかに短期間で開発したかが
分かる。

 しかも、次のような記事を読むとなおのこと当時の状況の凄さが良く
理解できる・・・

「本来なら、BMW003Aエンジンの設計図は、詳細なものがもたら
されるはずだった」

「しかし、その図面を積み込んでいた潜水艦が撃沈された」

「幸いにも入手できたのは、途中で下船した巌谷中佐が僅かに持参して
いたBMW003Aの縮小された断面図と見聞録だけであった」
と、ここで、私と中島翁の考え方と見方が、完全に一致したのは、

「既に、同じような設計構想が日本においても出来上がっていたのでは
ないか」

「それが、仮に図面になっていなくても、技術者の頭脳の中で描かれて
いた」と、いう見方と考え方である。

 これをまさに裏付ける記事を私は再認識して声に出して読み上げた
「巌谷中佐が持ち帰った、たった、一枚の縮小図面で十分であった」
「これを見たとき、瞬時に、全部が理解できた」
「その原理は日本の技術者が研究を進めていたものと同じであった」

「ただ違う点は、遠心圧縮機の代わりに、軸流圧縮機を用いている」
「しかも、回転は低く、タービンの設計を楽にしてある」
「燃焼器は、直流型で、伸び伸びとした設計になっている」

「日本の技術者は、この縮小図面を見ただけで、設計的に、うまいと
思った」
まさに、この記事が、当時の状況を良く物語っており、既に、日本に
おいても同様の構想が良く練られていたことが分かる。

 さらに、これを裏付ける記事としては・・・

「ネ20の設計作業では、技術者が二名、技術者補助が五名、図工が
五名ほど居た」
「これに加えて若い女性トレーサーが二十~三十名ほどプロジェクト
に任命された」
「彼ら・彼女らは、蔽内に住み込み昼夜を徹して設計に従事した」と
いうことからも、その技術リーダーの卓抜な方向付けは、容易に想像
できる。

 同じ、著書には、終戦後の米軍からの報告記事として・・・

「終戦後、日本において何人かの航空技術者にインタビューをしたが、
全体を通じてみても 『永野中佐』はジェットエンジン計画の分野で
傑出した権威である。彼は、大変聡明で精力的で自信に満ちている」

「また、彼は、要求された情報を提供することを嫌がる気配もなく、
また、提供された情報は、どれも信頼に足りるものである」と記述
されている。

 日本におけるジェットエンジンの創世記において種子島時休大佐
と永野治技術中佐のお二人のリーダーシップがあってこそ「短期間
での開発成功」があったといっても、けっして過言ではないだろう。 

 偶然にも、中島翁と私は著書に掲載されている写真を見てお互い
の声が重なった。

 写真は一九六二年頃のもので、当時の石川島播磨重工の土光社長
と永野治取締役が写っている。

 この写真が物語っていることは・・・

「ネ20の基本にあるジェットエンジンの設計思想は、戦後の純国産
ジェットエンジンJ3に確実につながり、さらには、T4中等練習機
に搭載された『F3エンジン』にも影響を与え、さらには、小型民間
機用ジェットエンジンにも良き影響を及ぼして行った」

 その道筋は明確に実像としてイメージ出来る・・・

「その波及効果を可能にしたのが天才技術者である永野治翁の頭脳で
あったと考える」

「このことは、戦後、航空機に関する事業が、全て禁止となっていた
期間も、天才技術者である永野治翁の脳内においてジェットエンジン
は進化を続けていたということではないか」

 石川島播磨重工業に在職中の永野取締役に、直接、お会いしたこと
のある私は、その時に伝わって来た雰囲気から・・・

「大局においては、哲学的に全体を把握され、実際の場面での物事の
処置に当たっては理にかなった極めて俊敏な行動をされる方」という
印象を受けた。

 天才技術者の永野治翁であれば、例え現物のジェットエンジンが目
の前に存在しなくても、脳内でジェットエンジンの性能解析が出来て
しまう様な超能力に近いものをお持ちであるという思いがした。

 ここで中島翁から面白い話が飛び出してきた・・・

「ネ20のジェットエンジンを開発した当時は材料などにも恵まれず、
設計仕様は極力低めに抑えたものであった。例えば、タービンの入口
温度などは低く設定せざるをえなかった」

「そこに着目して、中島翁たちの設計チームは、材料などに恵まれた
現在の環境で、当時の制約条件を解除して、現状で活用できる特殊鋼
などを設計に取り入れて、設計をやり直してみたというのである」

「その設計には、二年間を要したという」

「機体も、零戦をベースにして、民間仕様向けに設計をやり直したの
だという」

「しかも、この飛行機は飛行試験にも成功して、戦後の沖縄における
慰霊の願いを込めて沖縄の上空を旋回した後、空からの献花を行った
後に、沖縄では観光の名所になっている玉泉洞の奥にある地元でもあ
まり知られていない秘密の洞窟奥に奉納して永遠の鎮魂を祈念した」
というのである。

「玉泉洞といえば、沖縄の天然記念物として沖縄県の博物館担当施設
になっている、あの洞窟ですか?」と、驚いた私はおたずねした。

「そうです。洞窟の中に岩窟王という名所があるがさらに奥には地元
でも知られていない洞窟があり、そこに機体とエンジンを一緒に安置
しました」

「どうして飛行機の安置までに、そんなにも手間と時間のかかること
を計画されたのですか」と、お尋ねすると、

「沖縄といえば、第二次世界大戦において、最も激戦地であったこと。
それは、広島や長崎における被爆とは、また違った意味で、戦前から
航空機に携わってきたものとして、軍需に割いてきた時間に匹敵する
だけの手間と時間をかけることは無理としても、それに見合うだけの
追悼をしなければ、沖縄で戦渦に巻き込まれて他界した人たちに申し
訳がたたない」という思いからだという。

「今や、それができるのは私たちのような天界に住んでいる人間のみ
です。そこで私たちは天界に天空社という法人を設立しました」

「天界から、法人登録することはできないので、神崎君に、ほとんど
の手続きをやってもらっています」

「そして、天空社の総裁に、私が就任したということです」
「天空社にとっても、この沖縄での飛行機の奉納を機会に事態が好転
しました。この玉泉洞の奥に、飛行機を奉納してから、新しい出会い
があったのです」

「たまたま、沖縄の現地で神崎君が、貴重な情報を入手してきました」
「沖縄のベンチャー企業がサトウキビをスライス状にカットしてバイオ
加工して、IC回路と結合することで太陽光を電気に転換する化学反応
を発見したのです」

「まさにバイオとICそれにプラスチックの加工技術によるメタ(結合)
理論の成果です」
「沖縄には、サトウキビ畑が、無数に存在します」
「私たちは、これを航空技術と結合させることを考えました」

「その答えが、この超軽量ヘリコプターとしての具現化だったのです」

「それは、どんなきっかけで、そこに行き着いたのですか」

「いや、それがネ20のジェットエンジンにまつわる話で、昔、ネ20
を飛ばすのに、燃料がなくて、松脂から燃料を精製したという話を聞き
この面からも、私たちは、当時の苦労を研究する必要があるということ
になって、沖縄でも、それが可能か否かの調査をはじめていたのです」

「そのときに、沖縄のベンチャー企業の名前が挙がりました」
「早速、たずねたところ、バイオチップスの存在を知ったのです」

「そこで、私たちは、沖縄での鎮魂だけにとどまらず、もっと積極的に
沖縄の人たちの未来に貢献できることをしよう」と、天空社の人たちは
考えたのだという。

「これは、実際に、現世において戦後の日本復興に大いに貢献されて、
後継者に道を譲り天界の人となった、土光敏夫さんや本田宗一郎さん
そして永野治さんのお話を伺ってから、私たち天界の人間も、大いに
触発された結果なのです」

「最初のきっかけは天界での講演会でした。天界の学術院が計画した
ものです。第一回目はマズロー博士をお招きしての基調講演会でした」

「その時、実業界で活躍の著しかった方々の経営実践における、よもや
ま話も、順次、輪番制でお聞きしたいということになりまして第一弾に
選ばれたのが土光敏夫・本田宗一郎の両先生のご講演だったのです」

「最初の基調講演のマズロー博士のお話はマズロー博士が、かねてから
唱えていたところの有名な欲求の五段階説に、晩年になってからさらに
一段階を加えた」と、いう講演でした。

「これを欲求の六段階説という」

「具体的には従来は五段階目が自己実現で、これを最高次としていまし
たが、さらに加えて最高次には『他己実現』を六段階目として位置づけ
たということです」

「これはマズロー博士も、晩年になってから気付いたもので、自愛的な
考え方の上に、愛他的なものがくると考えたのです」

「そして、自己実現と他己実現を含めて、高次の存在価値とした」
「そして、これらの欲求は持続され、より高められて行く性質があると
したのです」そして、これらのことは最近の大学生のテキストには反映
されています。

「問題は、多くの企業研修のテキストです」

「今でも、自己実現を最高次に位置づけているテキストが多いのです」
「そして、この話がたいへん盛り上がったのは、午後の講演で土光さん
と本田さんの講話を聞いた天界人が、お二人ともに、他己実現をまさに
実践してきた経営者として絶賛された」と、いうことであった。

 さらに、話題が盛り上がったのは、その後の懇談会において・・・

「現世においては他己実現に熱心な企業が著しく業績を伸ばしている」
「自己実現にばかり目が向いている企業は軒並み業績が悪化している」
「他己実現に向けて注力が著しい企業としては、その筆頭にトヨタ社
が挙げられた」

「あのすっかり有名になったトヨタ生産システムをワールドワイドに
公開して数多くの企業の業績向上に寄与して、自らも継続的に大発展
している」

「一方で、自己実現にのみ、走りすぎ、倫理観を失った企業や団体は
惨憺たる状況に陥っている」

「いわれてみれば、その通りである」と私は、その考え方に納得した。

 天界人の世界でも、大いに盛り上がった懇談の場での結論としては
「日本政府の刊行資料からのヒントもあり、天界人から現世への他己
実現的な贈物として戦前・戦中・戦後の技術立国日本の産業史として、
海から空へ、空から陸への技術移転と、その発展史をそれぞれの実機
を集めてモニュメント風に展示する」

「そして、これからの技術を担う人たちの参考にしていただこう」
「これによって、天界人も、他己実現における一翼を担って行こう」
「この具現化は、海と空と陸のそれぞれに公社を設けて本格的に推進
しよう」と、いうことになったのだという。

「その空の公社が天空社で、総裁が中島知久平翁ということですか」
と私が、おたずねすると・・・

「その通りです。早速、取り掛かったのが、 先程、見ていただいた
イエスタディー館です。これは過去の史実を忠実に再現しようという
趣旨で進めています」

「ツモロー館は現代史ですが、飛行機は大物だけに現物の入手をどう
するかで苦戦しています」

「フューチャー・エリアでは、実際に役立つ実機を未来に向けて創造
して行きます」
「沖縄の玉泉洞の奥に、奉納した小型民間ビジネス機は、その手始め
の作品です」
「現在、進めている超軽量ヘリこそが、天空社の主力商品です」

「天界人同士の申し合わせとして空の分野について展開中の天空社は
ニュージーランドおよびオーストラリア周辺において、着々と準備を
進めています」

「船の分野はブラジル地域で準備を進めており、陸の分野は日本近郊
で準備を進めています」

「先日の定例連絡会議では大規模モニュメント全体の設置場所として、
やはり沖縄が最有力候補地として挙げられています」

「やはりという意味は、沖縄県全体の現況を見たときに既に地形的に、
戦前・戦中および戦後のイメージが、南から北に向かっているように
見て取れるからです」

「この大規模モニュメントから、日本の皆さんに感じ取っていただき
たいと考えているものは、完成品からのハードとしての素晴らしさや
イメージだけではありません」

「日本の産業の歴史において、日本人の頭脳こそが、その史実を支え
隆盛なものに発展させてきたという事実を再認識していただきたいの
です」

「日本における唯一の財産は、昔から云われているように頭脳です」
「これからの技術立国日本を支えて行くのは、あらゆる分野から成る
頭脳であり、その人的財産の育成が大切です」

「今の日本においては、まだまだバブル後の後遺症から抜け出せない
でいる企業が中小企業を含めて、相当に規模の大きな企業にあっても
なかなか黒字化が果たせず、倒産の危機にさらされています」

「このジレンマが続くと、あの第二次世界大戦前夜の状態に酷似した
環境になってくる恐れがあります」

「私たち天界人も、海と空と陸をつなぐ大規模モニュメントの製作や
未来産業に向けた具現化の必要性を痛感して、具体的に、超軽量ヘリ
などの創作による協力が不可欠と考えました」

 日本が、再び、あの第二次世界大戦前夜と、同じ決断の過ちを繰り
返さないために 「天界人にも出来ることがあるのではないか?」と
いう議論が出てきて、みんなで真剣に話し合いました。

「一方で今の日本にとって、先行き、最も危険なことは少子化です」
「過去に、戦争の大過によって日本の人口が減少するという悲劇が
ありました」

「しかし、あの戦時においてすら、多くの戦没者たちは、国を守り、
子孫繁栄を願うがゆえに、尊い命を犠牲にしたのです」

「しかし現代の深刻さは日本人が自らの意思の必然性として生じさ
せている少子化でありそれは日本の国の自然消滅への道なのです」

「今日の家族構成において、核家族化という現象が進む中で、夫婦
二人に子供が一人という家庭を数多く見てきました」

「これを一世代前まで視野を広げて見て行きますと、今や、二組の
祖父母に孫が一人という時代になってきているのです」

「これは現代においては、学歴が江戸時代の士農工商に代わる身分
制度として、頑なに定着しつつあるという見方が、ひとつの視点と
して浮かび上がってきます」

「今や、企業などでも盛んに学歴重視の撤廃を呼びかけていますが
世の中のお母さん方は、その呼びかけには耳を貸そうとしません」
「ご自分の、ご亭主の二の舞はさせない」という悲痛な思いが一部
では少子化を加速させています」

「教育社会学のテキストでも日本の世代間のケース研究として大学
や大学院といった高等教育の機会に恵まれなかった親が、子供たち
に夢を託すリレー競争として再加熱化」という現象で捉えている。

「少なく生んで少数精鋭に育てて行く。この傾向を心して打ち破れ
ない限り少子化は続きます」

 この少子化と再過熱化現象は、既に、次世代にまで及んでいると
私は受け止めた・・・

「お母さんの嘆きを毎日のように聞いて育ってきた娘たちが今度は
自分の父親の二の舞はさせない」と、考えるからである。

 ここで、私は、和歌山周辺のツアーに参加したときのことを思い
出した・・・

 和歌山周辺に出掛けたときのツアーでは、一日目は高野山の宿坊
に宿泊した。二日目はホテル浦島に泊まり、海が見える洞窟内での
温泉を楽しむという異色の組み合わせの宿泊プランであった。

 この一泊目の高野山の宿坊で、高野豆腐をいただきながら、若い
僧侶から面白い講話をお聞きした・・・

「ここに集っておいでの皆さん方は、ご夫婦での参加が多いと聞い
ております。さて皆さんはご先祖さまの供養ということでお墓参り
に行かれると思いますが、皆さんはご先祖さまの人数を数えたこと
がありますか?」

「恐らく皆さん方の想像を越えた凄い数になります」

「今回ご夫婦で参加の皆さんのご先祖を十代、昔にさかのぼります
と、その人数は1024人になります」

「したがって、ご先祖さまの供養を熱心にするということは約千人
規模の応援団によって、皆さんへの後押しをしていただけるという
ことです」

 ここで私は数字のもつ意味を少子化に当てはめて考えてみた・・・

「今のような一人っ子の傾向がこれから先までそれぞれのご家庭で
十代にわたって続くと、人口はやがて千分の一になってしまう」と
いうことになる。

「もちろん、全部のご家庭で一人っ子という訳ではない」

 現に、最近、知り合った友人は・・・

「妻のお腹には五人目の生命が宿っているのでしっかり働かなくては」
と気を引き締めていた。

 しかし現状において日本国内の高学歴化は、ますます進む傾向にあり
これも少子化による影響として大学への無競争での全入時代が予測され
ており、その結果としての晩婚化による、少子化への影響に、歯止めが
かからない状況が予想される。

 現に、私の友人宅では次男が調理師になりたいという希望を親に伝え
て専門学校に入学したいという意思表示をしたところ兎に角、大学だけ
は卒業しておきなさいという、親の願望にいいまかされて大学卒業後に
どうしても調理師になりたいという夢を叶えるために、あらためて専門
学校に通っている。

 このケースにおいても、親のエゴで子供にとっては晩婚化に追い込ま
れることは十分に考えられ、短期間に余程の努力がなければ、生まれて
来るお子さんが一人っ子になる可能性は高いと考える。

 少子化が引き起こす問題は年金問題よりも先に、今まで日本が誇って
きたあらゆる分野における優秀な人的財産としての頭脳が、確実に減少
して行くことであり、それは誰の目にも明らかなことである。

 かつてのローマ帝国の例を引くまでもなく日本国家という存在が内部
から崩壊して行く現象は極端なまでの高学歴志向による晩婚化。それに
伴う少子化現象という連鎖の呪縛から解き放たれない限り、時間の流れ
に沿って、確実に優秀な頭脳が激減して行くことを意味している。

 一方ここで、もう少し視野を広げた友人から、この少子化傾向は高学
歴志向だけが要因ではないという反論を得て、私は、生涯発達心理学の
テキストをめくった。

 女性の生活意識の志向性にスポットを当てた記事である・・・

「現代の女性のライフコースには多様なタイプがある」その中から昔な
らば結婚して 「子育て期に相当する年齢層の女性」を対象にした意識
調査である。その結果からは・・・

◇ 自立社会派層
◇ 主婦エンジョイ層
◇ 良い嫁志向層
◇ 生活不満層
◇ 高級生活志向層

などの多様な生き方がみられ、この傾向をみても少子化につながる傾向
は見てとれる。

 ここで、私は、中島翁の視線に、はっと気が付いて、中島翁に視線を
向けると中島翁が静かな口調で話しはじめた・・・

「我々天界人にも出来ることとして、最初に考えた具現化は戦火の激し
かった沖縄への慰霊にのみとどまらず、少子化対策も含めて、本格的な
産業起こしを沖縄発で企画して、優秀な頭脳の需要創りから実践して行
こうと」

「そのための産業モデルとしての選択を、超軽量ヘリの工業拠点造りに
絞り込む」

「先ずは南の島、沖縄から少子化に歯止めをかけ、新しい形態の技術立
国日本を再生して行こう」と、いう構想が天界から湧き上がったのだと
いう。

「昨今を通じて、繰り返し話題になっている遷都よりも、地方から人口
増加を推進して日本の復興を実現させるモデル地区を創って行こう」と
いう結論に達したのだという。

 そのような経過を汲んで、と、前置きをして、中島翁は・・・

「勉さんには、是非とも、モデル機である超軽量ヘリに試乗していただ
いて感想をお聞きしたい」

「その感想も超軽量ヘリの操縦性のみではなく『企業人としての経験』
なども生かして量産化して行く上での参考意見なども合わせて、お聞か
せいただければ」たいへんありがたいと考えています。

「クライストチャーチの大聖堂において父君の竹次郎さんに、そっくり
な勉さんをお見かけしなければこんな出会いもなかった訳ですがこれも
一期一会のご縁かと考えますので、是非とも、ご搭乗を」と懇願されて
しまった。

「超軽量ヘリの操縦は誰にでも簡単に操作できるように極めてシンプル
な仕様に仕上げてあります」という言葉に誘われて、実機が置いてある
場所に行くことになった。


018 超軽量ヘリによる快適な飛行体験

 フューチャー・エリアに出ると周囲は海に囲まれていた。

 超軽量ヘリコプターの格納庫は、スケルトン調のモダンな設計で内部
状況が外からも透けて見えるため、私は、すぐに気付いた。

「あの奥にある機体が超軽量ヘリですね」
「はい、そうです」

「隣に置いてある黒い物体はなんですか?」
「卵を平べったくつぶしたような形状をしていますね」

「さすがに勉さんは目が早いですね。あれは試作中の超軽量ヘリです」
といいましても・・・

「従来のヘリコプターの設計概念からは飛び外れたコンセプトになって
います。ただいま呼び名を募集しているところです」
「飛び方がカブトムシに似ているところから 『ビートルズ』と、呼ぶ
天界人が多いようです」

「いずれの超軽量ヘリも操縦する際には専用のヘッド・シミュレーター
を装着して操縦していただきます」

「これは先程のヘッド・シミュレーターと、同じ原理のものですか?」
「はい物理的には近いものですが使い勝手の機能が大分違っています」
「どこが、違うのですか?」
「この超軽量ヘリで使う場合は、これを頭からかぶって操縦桿を握って
いただきます。そうしますと、例えば、右に旋回という思考をしますと
操縦桿を少し右に倒すだけで後はシステム機器が適正な操縦をします」

「また目的地が明確な場合は行く先を脳内で意思決定していただければ
自動操縦で現地に向かうシステム設計になっています」

「ここで例えば、行く先は沖縄と意思決定しますと、脳内の意思決定が
ナビゲーターと連動して自動操縦に切り替え現地に向けて自動的に離陸
発進します」

「さらに細部において住所が明確なら、それを脳内にイメージすること
でナビが働き、現地まで自動操縦で到着出来ます」

「したがって、超軽量ヘリのヘッド・シミュレーターの場合は、勉さん
が操縦桿を握れば、勉さんのための自動操縦に向けて必要な思考だけを
ピックアップしてくれるというのが、このシステムの特徴です」

 それに対して先程のテロップ表示で活躍したヘッド・シミュレーター
の場合は・・・

「テロップ表示に連動した勉さんの思考だけを、より深い思考レベルで
デジタル化するという特徴をもっています」

「例えば勉さんがテロップ表示による解説の中で、イギリスのエンジン
の話題に触れたときに、連想したことなどは、全て、脳内の働きとして
デジタル化します」

「実際に、勉さんは、先程の反応として、イギリスという言葉に対して
連想的にロンドンからダービーへの移動の際に急行列車から見た広大な
芝生の景色のなかにあったクロッカスの花を『綺麗だな~』と感動した
記憶の描写に思考が飛んだときには、そのことも合わせて、デジタル化
しております」

「これは脳内の働きを全て記録する、いわば大福帳のようなものです」

「しかし、そのままでは、ヘッド・シミュレーターをかぶった人の脳内
の働きの全てを覗かれてしまうという疑心暗鬼的な精神的負担をかけて
しまいますので、現在では、さらに研究が進んでいまして、デジタル化
されたデータのなかで、その人のアイデンティティ(その人らしさ)に
特有なものと推論される深層心理データなどは取り除いています」

「言い換えれば論理的な思考部分のみを抜き出すように改造されてきて
います。これによってデータを解析するシステムサイドでも余分な混乱
や・解析的な負担を減らせるという効果が期待出来ます」

 中島翁の説明によれば、これは、カオス学と脳の科学的な研究および
心理学のメタ(結合)理論による成果なのだという。

 21世紀に入ってからは日本においてもカオス学と脳の科学の結合的
な研究が盛んになってきていて、それを情報工学に応用する動きが出て
きているが心理学との結びつきまでは、まだ表面化していないという。

 それを天界では、既に、具体的な研究テーマを設定して活動が動いて
いるという。

「今回の自動操縦システムも、そのような・メタ(結合)研究の中から
脳の働きをシンプル化して情況把握した上で制御システムに連結させる
という面において、これが天界人には適用可能であっても同時に勉さん
たちにも不適合なく適用できることを実証したいのです」

「ちなみに神崎君には適用可能であることが確認されています」といい
ながら、中島翁は打ち出されたデータを見ながら余談ですがと前置きを
されて・・・

「勉さんも心理学教室で学ばれたこととは思いますが、一つの例を挙げ
ますと、フロイト博士は、心の構造を自我・イド・超自我に分けて説明
しています。またユング博士は、自我と自己という構造の他に、原型的
なものとして、もう一人の自分よりなる心的構造を想定しています」

「これらのことを考えただけでも天界人は、まだまだ、引き続き研究が
必要と考えて、その発展分野を模索している段階にあります」

「したがって、ヘッド・シミュレーターの一般市場への普及は、もっと
ずっと先になると考えております」

「ところで勉さんの場合は心理学でいうところの影の存在が表面に出て
いませんね」
「影が、本来の居場所である無意識な領域に落ち着いているということ
でしょうね」
「えっ、そんなことまで、分かってしまうのですか?」

「はい専門の心理学者がデータ分析しますとより深層心理の部分も分析
できます」
「ちょっと怖いものがありますね」と、私からは、率直な感想を伝える。

「超軽量ヘリのヘッド・シミュレーターは、このようなプロセスを経て
脳内の操縦に関する思考だけを、機能的に、簡素化して把握しますので
勉さんは操縦桿を握るだけで機能的な信号に転換して、自動的にピック
アップします」

 私は、幾分、難しい話に頭が疲れたこともあり、ここで話題を変える
ことにした「実際に沖縄に旅をすると戦後は終わっていないという印象
をもちますよね」

「そうです、私たち天界人も沖縄に新たな産業を立ち上げて21世紀の
新都市構想として、産業に基盤においた活況が創れないかと考えたのも、
同じような思いからです」

「安心して子供が産める、そして安心して育てていける、そのためには
日本型モデルとしての産業基盤の整備が必要です。沖縄は、南部は戦中
の傷跡、中部の復興への道、北部は未来への発展に向けての地区と大き
くは三つの区域に分かれており、それぞれに、歴史的なものを背負って
いる印象があります」

「21世紀における沖縄を考えた時に新都市構想として全体のバランス
を考えた産業の基盤造りが、今や、必須と考えています。その面からも
超軽量ヘリの製造工場を造る構想は素晴らしいことですね」

「ところで超軽量ヘリの量産となりますと、実機による飛行試験などで
居住地区における騒音問題などが起こりませんか?」と、質問をすると

「全く問題ありません。騒音についてはシミュレーション技術によって
問題を起こさないことが確認されています」
「デジタル・シミュレーション・ルームを、ご覧になりますか?」

 予想外の展開として超軽量ヘリの飛行前に天空社のシミュレーション
ルームを拝見できることになった。

「飛行の状態をあらゆる面から検証するために、シミュレーション用に
大型の電算機をセンターに置いて、端末には、パソコンを連結させ使い
勝手をよくしている」のだという。

「こちらが、基本設計と構造解析を専門的に行うシミュレーターです」
「こちらは、コンポーネントの設計室で、パソコン端末で概略の設計を
済ませております」

「こちらは環境アセスメントの面から解析を行うシミュレーターです」

「このシミュレーターでは、超軽量ヘリ1機での単独飛行から複数での
飛行解析まで満遍なく実施できます。理論的には五百機までの同時飛行
によるシミュレーション解析が可能です」

「えっ、五百機のシミュレーションですか」と、私は思わず耳を疑って
聞き返した。

「五百機のシミュレーションの他に、実機での飛行試験は、どうされて
いるのですか?」という問いに対して、
「現在では実機での飛行試験は、ほとんどといってよいほど行う必要が
ありません」

「ただ、操縦室の計器類と人間の五感との相性などは、感性を伴う分野
なので可能な限り実機での検証を行っています。この自動操縦システム
も、生身の人間感覚による検証が必要な部分です」

「五百機のシミュレーションとは、いずれにしても、すごいことですね」
と私は感動の声をあげるばかりであった。

 このシミュレーション技術が確かなもので、既に、実用化されている
ものなら将来において、私たちが計画することになるであろう砂漠また
は海上での飛行試験はまったく不要になってくる。

 それは、自然環境保護の面からも、経済性の面からも好ましいことで
あるので技術的な面を含めて、更にご指導をお願いすることにした。

 この超軽量ヘリ、五百機によるシミュレーションを可能にした理論は
カオス学の分岐構造をモデルにして考え出したものだという。

 私は、今までに、カオス学について詳細な分野について学んだことが
ないので、ここで、少しお時間をいただいて、カオス学の入門知識から、
ご指導をあおぐことにした。

・・・・・・・・・・・・

◇ カオス学におけるカオスという言葉は日本語読みであって欧米など
においては 「ケーオス」と発音する。

◇ 辞書などでは、カオスを説明する言葉として、混沌や無秩序などの
意味付けもあるが電子辞書などにおいては、初期状態のわずかな違いに
より、その後に、生成されるものが大きく異なるような現象、と、して
「本質的に掘り下げた説明をしている」ものもある。

◇ 本来、カオス学においてはこの混沌のなかに無限の秩序構造を見出
そうとする学問であり、これを「決定論的カオス」と、呼んでいる。

◇ 時間的・空間的スケールの中に、このような秩序を明快に見出せる
ようになったのは、ここ四半世紀のことで、コンピュータの高性能化に
よる成果が寄与している。

◇ このカオス学の中でも「分岐構造」という考え方が天界でも脚光を
浴びて研究が重ねられ、超軽量ヘリ・五百機もの、シミュレーションを
可能にしたのだという。

・・・・・・・・・・・・・・・

 シミュレーション・エリアで、この実演を見せていただき、その俊敏
な解析手順に、私は、思わず仰け反り・目を見張り・うなってしまった。

「このシミュレーション技術を習得できれば、将来的に、必要になって
くると考えていた、砂漠や海上での飛行試験は不要になってくる」

 ここで、私は、より詳しいシミュレーション技術のご指導を中島翁に
お願いして外に出ると超軽量ヘリが並んでいるエリアに出た。

「ここでは、実際に、人間が操縦する際の五感との対応および脳機能と
システムの連携に対象を絞り込んでテストを進めています」と、中島翁
から説明がある。

 私は、思わず、その隣の機体に目が飛んで・・・

「あの卵を押しつぶしたような機体がまったく新しいコンセプトによる
超軽量ヘリですか?」と、問いかけ、続けざまに
「たしかに、カブトムシに良く似ていますね」と、私は、少し興奮気味
の自分の声に気付くと、それに、呼応するかのように、

「形状だけではなく、飛び方も、カブトムシのように、飛び廻ります」
と中島翁の解説にも熱がこもる。

「したがって従来のヘリコプターの特徴でもある回転翼がありません」
「やはり、ヘリコプターという従来からある分類よりも、ビートルズの
呼称で、新しい分野を設けたほうが良いのかも知れませんね」と私の顔
を覗き込んでくる。

「カブトムシ式の飛び方ですと従来のヘリコプターよりも騒音レベルを
低く出来ます」

「こちらの今から、ご搭乗いただく超軽量ヘリにおいても騒音レベルは
低く抑えることに成功しています」

「現在、沖縄での現地生産が可能か・否かのフィージビリティスタディ
(可能性調査)を始めています」

「沖縄の現地における機密の生産準備室は、玉泉洞の奥の洞窟内に建設
済みです」

 ここで、一瞬、中島翁の目が輝いた・・・

「さて、勉さん、実際に、超軽量ヘリコプターを操縦してみて下さい」
「私も同乗します」

 私は、お言葉に甘えて、早速、超軽量ヘリコプターに乗り込むこと
にする。

「離陸がとてもスムーズですね。それに、音も静かですし、この超軽量
ヘリを飛ばして日本の富士山の上空を旋回できたら、さぞかし気持ちが
良いでしょうね」

「それはもう、マウントクックを遊覧飛行で眺めるのと、同じで絶景と
思いますよ」

「そういえば、日本においては、富士山は、世界遺産に匹敵する山岳美
を誇りながらゴミ問題などの障害があっていまだに、登録が、難航して
いますね」
(その後、関係者の多大な尽力によって、富士山も世界遺産として認定
されている)

「ニュージーランドにおいては、真っ先に環境保護を考える国民性から
いって、そのような事態はまったくといってよいほど、想像のつかない
ことです」

「最近の日本の国民性には、ごく一部のことでしょうが自己実現や自己
満足に走り過ぎてしまって、他己実現の世界まで視野が広がらない傾向
が出てきているのではないでしょうか」

「例えば、最近の加熱した受験戦争もかつて親たちが果たし得なかった
自分たちの夢の再加熱ということで、自分の子供たちに夢を託し過ぎて
いる傾向がある」

「これは見方によっては他己実現のようにも見えますが、子供たちへの
他己実現を考えてのことであれば超一流大学への入学だけが選択の対象
ではなく子供たちにとって自分の意思で・自らが選べる・複数の選択肢
が用意されていても良い」と、天界人たちは考えています。

「そのためには選択を間違ったと気付いた子供たちには敗者復活の道も
用意しておくような、ここにおいても、線形の連続的な考え方のみでは
なく、非線形なカオス学的な考え方があっても良いのです」と、中島翁
は熱弁をふるう。

・・・・・・・・・・・・・・・

 私が操縦している超軽量ヘリの前方に急に視界が広がる・・・

「あっ、マウントクックですね。地上からの眺めとは、また違って素晴
らしいですね」

「素晴らしい眺めでしょう」

「感動的な光景ですね。山頂が白銀に輝いて、まるでお伽の世界にいる
ようです」

「それでは、この辺で、旋回することにしましょうか」と、中島翁から、
私に声がかかる。

「勉さんの頭の中で行く先をスケルトン・エアー・ポートと、イメージ
してみて下さい」と中島翁が云われ、言葉には出さずに、頭の中だけで
イメージする。

「はい、これで、自動操縦に切り換わりました」

 中島翁も同乗されてのフライトは快適そのものであった。超軽量ヘリ
をスケルトン調の格納庫に納めて中島翁のオフィスに戻ると、神崎さん
が待機していた。

「総裁、そろそろ、勉さまが、奥様のところに戻られる時間かと」

「それでは勉さんには残された時間が僅かなようですので」と、いって
中島翁が握手をしてくるので、私は恐縮して、深々と頭を下げ、お礼の
言葉を述べておいとますることにした。

 神崎さんに案内されるままに、モード転換室という看板が掛けられた
部屋に入る。

「お帰りの時は、こちらでモード転換しませんとお帰りになれません」
と、ここでも神崎さんに案内されるままに、リラックスルームのような
ゆったりとした雰囲気の部屋の中央に据えられたシートに、足を伸ばし
ゆったりと背もたれに身体を預けるようにする。

 神崎さんが、少し離れたところで、大きなボタンを押す。


019  マウントクックにおける氷河の滑走

 ソファーにゆったりと座ったままで「モード転換を完了しました」の
表示が目の前の電子版に標示されると、上方部のハッチが開きシャトル
が降りて来て、ソファーが丸ごと機内に取り込まれ肩口から安全ベルト
が装着される。

 やがてシャトルは静かに前方のトンネル入り口に向けて進み始めた。

 一瞬、私には 「真っ暗なトンネル」の中に、飛び込んで行く感覚が
伝わってきてその後は物凄い速さで走り抜ける感覚が続き東京ディーズ
ニーランドの高い塔から急降下する舟形の乗物のことを連想した。

 やがて、走馬燈のように、いろいろなことが脳裏を駆け巡る・・・

「中島総裁と呼ばれる風格のりっぱな人物が、大きなテーブルに図面を
広げて何か書き込んでいたがこちらに向かって立ち上がると、私と握手
をしてから、大きな図面が広げてあるソファーに腰掛けるよう、親切な
手振りでソファーに、ご案内いただいた」こと。

「あっ、これは超軽量ヘリコプター?」と、私が驚いたこと。

「私たちも、経団連ビルで、航空関連業者の若手が集まる会合があって
何度か会合を重ねているうちに、お互いにヘリコプターが趣味の仲間が
多いことに気付いて非公式な趣味のグループが誕生、現在では、休日に
なると集まっては百機による飛行試験を、パソコンでシミュレーション
することを計画している」こと。

「私たちは経団連ビルで定期的に集まって、一応はプロジェクトの形態
をとり役割分担の概略を決めて、今までにない画期的な新交通システム
開発を主軸に超軽量ヘリコプター計画を中心に据えてそれを具現化する
ために、三つの基本コンセプトを決めた」

◇ 一つ目は 「エネルギー源は太陽光を利用」ヘリの動力源としての
 エンジンは従来の十分の一の重量に軽量化する

◇ 二つ目は 「機体が墜落しても人命が守れるように」超軽量剛性の
 特殊ボデーにする。また機体が墜落しても地上に接触する瞬間に機体
 の外壁が無数の風船状に膨張して搭乗者を保護する特殊な構造にする

◇ 三つ目は 「機体をデジタル制御するためのパワー源」は、ヘリの
 動力源と同様、マイクロ波によって人工衛星から受信する

 この画期的な発電システムは、宇宙基地において太陽エネルギーから
電力に転換して、それをマイクロ波で地上基地に送り込み使用電力への
整調を行い、再度、宇宙基地の電力設備に戻して、地球の周囲八箇所に
配備した宇宙ステーションに配電することで地球の周囲を回る人工衛星
を経由して超軽量ヘリコプターに電力供給する。

 この新交通システムが完成すると、ヘリコプター群は地球上の全域で
人工衛星から、パワー源を受信出来るようになる。しかも、都市部では
航空路として新幹線や私鉄電車の線路の上空および主要幹線道路の上空
を活用する。

 超軽量ヘリコプターの航路は、何層かに分けて、複数のヘリコプター
が高度を分けて飛び交うという構想である。

 課題は、最近のヒートアイランド現象にみられる上空の水蒸気処理を
どうするかにある。

 この特殊なマイクロ波による電力送受の実験を実施する地上基地とし
ては、石川さゆりの演歌にも出てくる「竜飛岬周辺」を、計画している。
その際には、施設の強風対策が必須になってくる。合わせて距離的には
離れているものの、三内丸山遺跡の文化遺産保護にも配慮が必要である
と考えている。

「将来的な課題」として、当初は・・・

 砂漠などにおける百機編隊の飛行テストと並行させて計画していたのが、
日本海溝に沿った上空における飛行実験で、この場合は、福島県相馬市を
発進基地とする計画で進めていた。この地方は、雪が少ないために年間を
通してテスト飛行が実施できることから砂漠におけるテストよりも有力視
していた。

 両者の飛行テストでは、共に、搭乗者の人命尊重の設計思想から計画を
綿密に練り上げ、納得行くまで妥協のない「実機検証」を、繰り返し計画
していた。

 同時に実機が実用化されたときの飛行地域への環境アセスメント面から
複合騒音による影響調査を計画している。具体的には百機のヘリコプター
を二群に分けて相互に飛び交うテストを主要な飛行計画として練った。

 単体ヘリによる飛行データは、バーチャル・シミュレーションによって
データ上で確認できることを把握しており、技術力も、そのレベルまでは
キャッチアップされている。

 複合での飛行実態の把握には、実機による飛行テストが繰り返し必要で
あると、当初は考えていた。

 将来に向けての超軽量ヘリコプターの複合での飛行テストの仕様設定は、
私の担当であったこともあり川越で陶器の製造販売をしている蔵屋丈太郎
氏に、砂漠での飛行実験についても相談したことがある。

 蔵屋丈太郎氏は、義父の戦友でもあり、根っからのヘリコプター好きで
リモコン機としては、かなり大型のヘリコプターを、複数機所有しており
仲間と一緒に河川敷で曲技飛行などを楽しんでいる。

 しかも、陶芸に関する調査で、シルクロードをはじめ砂漠地帯には何度
も出掛けている。

 そのような稀有な人材であることから現地のお話しをお聞きしてみたい
と考えて、川越のお宅にも、お訪ねしたことがある。

 蔵屋丈太郎氏の説明によれば・・・

「砂漠といえば誰しもが最初に頭に思い浮かべるのがサハラ砂漠でしょう」

「地中海を挟んで欧州諸国とアフリカ大陸はつながっており多くの冒険家
たちが、北欧からアフリカ最南端までの縦走を夢に描いて旅に出ました」

「モロッコからアルジェリア、リビア、エジプト、スエズを経て、イラク、
イラン、アフガニスタンの横断などを考える勇者が出てきても不思議では
ない地形をしている」

「映画で一躍有名になったアラビアのロレンスが活躍したのもこの砂漠地
帯である」

「その地形の中心ともいえる位置にサハラ砂漠が存在する。最も砂漠地帯
の多い地域だが、常に紛争の火種が尽きない複雑さがつきまとっている」
と前置きをして、蔵屋丈太郎氏は・・・

「この地域では、エジプトのギザで、陶器について多くのことを学んだ」
という。

「このギザは、エジプト北部のカイロの砂漠上に密集する古代遺跡であり
有名な三大ピラミッドがある。そして特徴的な人面獣身の大スフィンクス
があることでも有名な場所である」

「そこから出土した遺品の中には珍しい陶器類が美術品として多数保管
されており、陶器から当時の生活がよく分かり、陶器から当時の生活を
知り得るという視点を学んだ」のだという。

 さらに、蔵屋丈太郎氏の言葉に、熱が入ってくる・・・

「ちょっと待って」と、云って、書斎から地球儀をもって来る。
「次に行ったのが、モンゴルのゴビ砂漠だがモンゴル高原北方にノイン
ウラがある」
「ここには、山中に墳墓が約200基もあって武器・容器・衣類・装身具・
鏡など、中国からの移入品が多い」

「当時は、シルクロードを通じた交易も盛んで、バクトリア・パルティア・
小アジア産の毛織物なども保管されている」
「これらの品物からも、当時の東洋の生活様式がよく分かる」

「また東洋における生活文化において、陶器の文化的価値の位置付けの
高さもよく理解できた」という。

 この調子で、地球儀をぐるぐると回しながら、ご自分の体験を通して
行ったことのない私にも分かりやすい解説をしていただき、親切な説明
に頭が下がる思いであった。

 次に、これも、地球儀の上に指差されたのが、南アメリカのブラジル
高原であった。
「この地域ではマラジョー島を訪ねました」
「マラジョー島は、ブラジルのアマゾン河口にある島です」

「最初の文化は、初期農耕・採集・狩猟文化で、大量の土器を出土して
います。この地域では次いで定住農耕を確立し最後の文化では社会階層
があったといわれています」

「この時代の生活の変遷に合わせて、土器も変わってきており、時間の
流れや生活の変化を、土器から感じとれた」という。

「いずれの地域においても、ご自分で体験した感想からは、とても飛行
テストなど考えられない地域である」と云われる。

「そして、最後に、飛行テストが出来る可能性があるかも知れない、と、
いって示してくれたのが、オーストラリアのグレート・ビクトリア砂漠
であった」

「この地域では、エアーズ・ロックに興味を持っているが、まだ訪ねた
ことがないので詳しいことは分からない」と云う。

「聞くところによると、オーストラリア中央部にある小山のような岩の
巨石で、多数の洞穴があり、白人の渡来以前から、原住民が住んでいて、
食料・住居・水に恵まれ、宗教儀式も盛んであった」という。

「その生活のなかでどのような土器や陶器が使われていたのか見たいが、
まだ夢がかなっていない」と云う。

「ただ、砂漠地帯は、一日を通して、温度の寒暖が激しく、そういった
面での難点を心配されていた」

 それぞれに、どれをとっても貴重なアドバイスであり、私は、綿密に
メモにして残した。これらのメモをめくりながら、私はかたわらの新聞
記事に目を通した・・・

「日本からフィリピンに違法輸出され、現地で激しい非難を浴びている
大量のごみ問題。医療廃棄物も含まれているという。しかも廃棄物処理
業者は捜索するも依然として行方不明である」というのだ。

 ここで、私は、考え込んでしまった・・・

「自分たちが砂漠地帯において飛行テストを行うという考え方も根っこ
のところで自分たちの都合だけを優先させていないか?」
「相手先の国のことや、そこに住んでいる人たちのことを考えていない
ことになるのではないか?」

 私は二階の書庫の「住まいの環境学」のテキストのことを思い出した。
「住まいの環境学の頁をめくりながら砂漠の緑化に努力している人たち
の存在をあらためて認識した。テキストには、荒涼とした、それでいて
起伏のある砂漠風景の写真が載っている」

「その下にはイスラエルのベングリオン大学砂漠研究所の写真が載って
いる。今や砂漠の緑化について、国家事業としての研究が活発に進めら
れており、各国が協力体制をとっている」

 蔵屋丈太郎氏から教えていただいた陶器類の話も考えてみればそれが
例え荒涼とした砂漠地帯であっても、そこには、地球上の仲間が住んで
いるということである。

 また、その砂漠地帯を各国が協力して本気で住みやすい環境に変えて
行こうと緑化などの研究が本格化している。事実、日本企業も積極的に
緑化に協力している。その活躍する姿は、テキストに添付されたビデオ
の中でも実像として紹介されている。

 同時に 「ヘリコプター好き」の蔵屋丈太郎氏からは・・・

 日本政府がドクターヘリ活躍の実績を踏まえて、ドクターヘリをより
積極的に全国展開する考えもあることなどが、参考情報として紹介され、
超軽量ヘリコプターの計画も趣味の世界に留めておかないで「積極的に
事業化したらどうか?」と、ご自分の感想を述べられていた。

 私は、蔵屋丈太郎氏の熱弁をお聞きしていて、自分たちが進めている
計画が地域レベルにとどまらず、地球規模的にも展開可能であることを
再認識した。

 しかし、蔵屋丈太郎氏からの締め括りの言葉としては・・・

「勉さん、砂漠での超軽量ヘリコプターの飛行実験というけれど、今の
世界情勢からいって実現性は難しいと思うよ」

 私は、この言葉を受けて「砂漠や海上における超軽量ヘリコプターの
実機による実証テストよりも、情報機器を駆使したシミュレーションの
ほうが適切かもしれない」と考え始めて・・・

 手始めに、パソコンでの簡易プログラムに着手していたが、天空社の
中島翁は、既に、カオス学の 「分岐構造」と、いう考え方を応用して
スーパーコンピューターを駆動させて、超軽量ヘリコプター五百機もの
シミュレーションを可能にしたのだという。

 この大規模なスーパーコンピューターを駆使して、実機を駆動させた
実証実験を超えた性能解析となると、国家事業レベルに相当するだけの
プロジェクトを立ち上げる必要がある。

 一方で、天空社が進めているところの「沖縄を超軽量ヘリコプターの
生産基地にして行く」と云う構想については、これこそ国家事業として
推進した時に「地域振興モデル」としても世界に発信して行ける好循環
としての創成ではないだろうか?

と加速感が続いている中で、突然、身体に重圧感がかかって私は前のめ
りとなり、反動でまた後ろに反り返った。状況がよく呑み込めない中で
のシステム故障のようである。

 このような状況の中にあっての行動は自分で即断するよりない。

 私は、かつて、雑誌で読んだ記憶を脳内で手繰り寄せた・・・

「初期のロケット打ち上げの時代は、ロケットの打ち上げまでの間は
本体の垂直を保っておくため、先端をフックで固定していた」という。
「ところがエンジン点火後、この自動装置が働らかなくなってフック
が外れないという状態が勃発、研究員がとっさの機転を働かせて物干
し竿を取りに行き、その物干し竿でフックを外して無事に発射に成功
したという話」を思い出した。

「今回も、加速時に、シャトルから放出されたカプセル外周部が周囲
の岩盤部を齧り、止まってしまったということも考えられる」

 しかも、神崎さんとは連絡のとりようがない・・・

「私は腹を括って、自分が乗っていると思われるカプセルを前後左右
に全身を使ってゆさぶりながら、進行方向とは逆の方向に、カプセル
に反動をつけて戻してみた」

「一度だけではなんの手応えもないため、これを何度となく必死で繰
り返した」

 突然、全身に加速感が加わり、私は意識を失った・・・

 やがて混沌の中から目覚めたような気分で意識が戻ると、私は懸命に、
頭の中を整理した。

「中島翁から学んだばかりのカオス学や、シミュレーション・デザイン
が実用化のレベルにあること。また不思議なことに、意識が戻る過程で
次のような二つの記憶がフラッシュバックのように脳内に蘇った」

◯ 一つ目は、広島の原爆記念館で見た悲惨な光景と、道路に焼き付い
 た人影の痕跡

◯ そして二つ目は、沖縄において、ひめゆりの塔の地下壕で見た若い
 従軍看護婦さんたちの治療日記であった

 そして、かつて、父親が語っていた言葉が思い出された・・・

「世界の航空界の歴史において、欧米における航空エンジン用スーパー
チャージャーの登場が、もはや日本には手の届かない戦争であることを
強く認識させるに到り終戦に行き着く決定的な要因となった」

「日本には、特殊合金の知識が欠如していて、スーパーチャージャーは
作れなかった」

「これは幼い頃に何度となく父親から聞かされた話であったが、幼い私
には、まだ航空技術のことは良く理解できなかったことであった」

 今回、天空社の中島翁からも・・・

「欧米の航空界におけるスーパーチャージャーの登場が、戦況を大きく
変えることになった」

「航空機による戦闘の世界において日本の戦闘機の活動領域より遥かに
上空での飛行を可能にした欧米の戦闘機が制空権を握り、最早、日本の
戦闘機には、手も足も届かない高高度で飛行する爆撃機には、日本側と
して打つ手がなかったこと」などが詳しく説明されて、私の理解力不足
を助けていただいた。

そして、朦朧とする意識の中で・・・

「いつまでも・戦後という時代を・終わらせてはならない」
「それは、平和の持続への強い願いであり・次の開戦の引き金を二度と
引かない決心であり、今日の日本国内に蔓延した感のある閉塞感の状況
にあっては、同じ過ちを二度と繰り返さないためにも・戦後という時代
を終わらせてはならない」と、自分自身に言い聞かせた。

 そして、夢心地のような意識の中で・・・

「佐久間さん・勉さん・聞こえますか?」と、云う声が聞こえてきた。
「佐久間です・勉です」と、答えると、
「神崎です、こちらに、帰還カプセルのトラブルの通報が入りました。
大丈夫ですか?」と、聞いてくる。

「大丈夫ではありません。カプセルが突然 『停止』して動きません」
と伝えると、
「どうやら異次元の世界に飛び込んでしまったようです」
「佐久間さんの認証コードは、勉さんが、マウントクック村に入る時の
トンネルの上空から、アイコンタクトして登録を済ませてありますので
安心して下さい」

「そういえば、トンネルの入り口で虹の頂上部を見た時に光の筋が目に
入った記憶がありますが?」と、問いかけると
「そうです、その時に、佐久間さんの認証登録を済ませてあります」

「それでは、こちらで信号操作を行いますので、前方に向かって視線を
送り、カプセル内の電灯を点滅させて、脳内で『マウントクック村』と
イメージして下さい」

 やがて、朦朧とした脱力感のなかで遠くから声が聞こえた。
「あなた外に出て散歩に出掛けますか?」
「よく寝ていたわね」
「でも、さっきは身体を大きく揺さぶって、隣にいた私のほうが驚いた
わよ。夢でもみていたのかしら?」と、いう家内の声が鮮明に耳に飛び
込んできた。

 私は、我に返って、はっとした瞬間に手の平から紙片が落ちた。
「タイムアウト」と書かれている。
「まだ、頭の中が、だいぶ混乱している」

「人間は、時として誰でもが不思議な時空間に飛び込むことがある」と
いうが家内の態度や対応を見る限りにおいて、そこには、なんの不自然
さも感じられない。

「私が、異次元の世界から戻って来た」などという気配は、周りからは
まったく感じ取れないのである。目の前の大きなガラス窓にはマウント
クックの美しい風景が広がっている。

 私と家内が一緒に外に出ると、弁護士さんのご夫婦とお友達のご夫婦
たちが、森の中を楽しそうに散策していた。

「森の中が、どこに、行っても綺麗ですね」
「空気が澄んでいて、とても、気持ちが良いです」と、いう会話が自然
に交わされる中で、私は、異次元体験のことは自分の胸の中にしまって
おくことにした」

「こんなにも、ゆっくりとした時間を過ごせたのも、久しぶりのことで
すわ」と、皆さんの目が輝いている。

 バスが置いてある広場に戻ると皆さんが集まり始めていた。

 ミセスCIA親娘が、盛んにマウントクック山頂付近の氷河への着陸
体験の感想を、飛行機に搭乗できなかった人たちのために説明していた。
「飛行機は、揺れも少なくて、氷河にはスムーズに着陸できたわ」
「思わず、みんなで、拍手したわよ」

「氷河に、自分の足で降り立ったときの感動は素晴らしくて忘れること
の出来ない体験だったわ」と、盛んに、話をされているミセスCIAの
目は輝いていた。

「そういえば、飛行機には車輪の内側にソリを二つ付けていましたね」
と私が口をはさむと、
「そうなのよ、そのソリを使って、上手に、飛行機を滑らすのよね」
「名人クラスのパイロットだったわよ」

 ミセスCIA親娘の搭乗体験の報告も終わり、まだバスの発車までに
は時間があるので考えていると・・・

「マウントクック村にある、国立公園事務所を、のぞきましょうよ」と、
ミセスCIAが誘うので、丁度、そこに居合わせたツアー客がぞろぞろ
とミセスCIA親娘に連なって公園事務所に向かった。

「サザンアルプスの全容は、三千メートルを越す高峰が二十七もある」
「氷河はというと、大小合わせて三百六十という規模」
と、私が声を出して読むと、今度は家内が・・・

「この一帯は、一億五千年前は、海底であった」と、声にアクセントを
付けて読み上げる。

 二人して、その地形の変わり様に驚くばかりである。その後の激しい
造山活動が加わり、今日の姿になったというが、およそ想像もつかない
ことである。

 国立公園内には、ホテルが建っているが、過去に数回も雪崩によって
建物が破壊され、その都度再建を繰り返しているため、ホテル代は通常
よりも割高でありという。

 公園内から正面に見えるマウントクックはサザンアルプスの最高峰で
あり、南島の屋根といわれている。 その山岳美については、スイスの
マッターホルンと、よく比較されるようである。

 マウントクックの景色をすっかり堪能した私たちは、やがて集合時間
となりバスに乗り込んで、まもなく今晩の宿泊地になっているクイーン
ズタウンに向かった。

 途中で、立ち寄った果物屋さんの前で、家内が、感動の声をあげた。
「あなた見てよ、店先がカラフルだわ」
「ニュージーランドの果物を、ここに全部集めていますという光景よ」
といって振り返った。

「あなた、道路の向こう側を見て、ポプラ並木が、あんなにも続いて、
それに光に映えて綺麗だわ」というので振り返ると、皆さんも気付い
たらしく感嘆の声が飛び交っていた。

「こんなにも、きれいなポプラ並木は、はじめてだね。まさに黄金色
の輝きとは、このことだね」という感想を口にすると周りでも皆さん
同じ様に感動の声をあげていた。

 皆さんそれぞれに旅の友に果物を買い込んでバスに乗り込むとバス
は一挙にスピードを上げた。運転席のスピードメーターをのぞき込む
と、針は、時速百三十キロ程度の位置にあった。

 飛行機のボーイング747の時速五百十キロには遠く及ばないもの
の対地速度感覚では、いかにも高速好きの運転手さんが、思いっきり
かっ飛ばして走っているという健在感であった。

 走るバスの中で、運転手さんから、話題が飛び出して・・・

「橋の上からダイビングを見せるアトラクションがあるというので皆ん
なで見物に行くことになった。その場所でバスの運転手さんは、なんと
四回もダイビングにチャレンジしており、感想としてはすこぶる気持ち
が良かった」と云う。

 ここでのダイビングは足を強力なゴムでしばり橋の上から飛び降りる
という方法をとっている。新婚組のご主人が、チャレンジしてみたいと
いうので、皆んなで応援に行ったが・・・

「予約していないと、駄目ということで、ミセスCIAをはじめとして
好奇心いっぱいの仲間の期待は外れた」

 その様な経過を冷静に見ていた隣席のツアー仲間が・・・

「でも若旦那さんは予約していないと駄目といわれて、ちょっとほっと
しているみたいね」と冷やかしていたが、ことの真相はどうやら言葉の
弾みで、若奥さんに強がりを見せたものの内心は、ヒヤヒヤものだった
と、旅程で親しくなった勢いを借りて、若旦那が自ら暴露話を披露して
いた。

 ニュージーランドの秋は「紅葉も黄葉」も共に見事で、橋の下の景色
は絶景そのものであった。ここで、ミセスCIAから、紅葉についての
豆知識が披露された・・・

「紅葉は、アントシアンが細胞の中に増すためです」
「一方、黄葉は、カロチノイドが葉の中に残るための作用です」
「いずれも 『こうよう』 と発音します」

「なんでも、良くご存知ね」と、ツアー仲間から声がかかる。

 やがてバスがホテルに到着するとホテルの庭にも紅葉と黄葉が
競うように景観を成していた。夕食までに時間があるので二人で
散策に出かけると、目の前が開けた景色に変わる。

「澄んだ空気、それに、美しい山々が連なっているわ」
「ワカティプ湖は青い水色なのね。まるでお伽の世界のようね」
と家内が感動の言葉を連発している。

 この澄み切った風景は、四季を通して美しく変わって行くため
一年中、観光客の途絶えることがないのだという。

 私と家内の二人で、ワカティプ湖の周囲を巡っていると、世界中を
一人で歩き回っているという、日本のおじさん風の方に出会った。
(日本語で喋ってくれるので気軽な会話となる)

「ここでの印象は、どこよりも空気が美味しくて、水もおいしい」と
いうことであった。

 ホテルに戻ると、丁度、夕食の時間であった。

 夕食時に 「翌日のミルフォードサウンドへの観光案内」がツアーの
女性コンダクターから行われ、それぞれのテーブルで会話が弾んだ。

 やがて「明日も、楽しみだわね」と、いう言葉を交わして、それぞれ
の部屋に戻った。


020 ミルフォードサウンドの大滝とロブスター

 翌日のミルフォードサウンドへのツアーは往復で六百キロ。なんと
信号機が一つもないというドライブであった。まさにノンストップで
かっとびの高速運転なのである。ニュージーランドでも日本と同じく
車は左側通行。日本と違うのは右折車が優先すること。

 市街地に限ってのみ制限速度がある。

 ミルフォードサウンドの港に着くとそれぞれにチケットが渡されて
乗船した。狭い渓谷を案内する船は一階が日本人、二階がイギリス人
で満杯になった。

 船が進んで行くと、両側は岸壁になっていて、たくさんの滝が目に
入ってくる。千メートルを越す絶壁は人を寄せ付けないような厳しい
表情を見せている。

 船内からは、岩山がライオンに見えたり象に見えたりと、しばらく
の間、不思議な光景が続いた。天候は局地的に変化が激しく晴れたか
と思うと、雨や曇りに変わった。そしてあっという間に晴れ間になる。
湾内は寒帯らしく、アザラシが岩の上で昼寝をしていた。

「滝また滝の圧巻だね」と、ひとしきり感動した私は大きな滝の下で
合羽を着て船首に立ち、家内が、私に向けたカメラで、記念写真に収
まった。その合羽姿に弁護士さんのご夫婦が気付いてカメラを向けて
くる。

 ミルフォードサウンドからの帰途は、バスの運転手さんの気遣いで
時間的な余裕を稼ぎ出してくれた。そして皆さんが寄りたいと願って
いたロブスターを養殖している漁場にバスを廻してくれた。

 ツアーのバスは制限速度なしで走行するので腕に自信のある運転手
さんの場合、旅程に、相当の時間的余裕が出て来る。

 ここは、海水と川の水が交じりあう場所のため、ロブスターを飼育
しやすいのだという。ここで弁護士さんご夫婦がロブスターを大量に
買い込んだ。

 その夜は、弁護士さんの友人のご夫婦が持ってきた外国でも使える
という電気コンロをホテルの部屋のコンセントにつなぎ漁場で買って
きたロブスターを茹であげて、皆んなで、ご馳走になった。

 この集まりは深夜まで続き、一同、満腹のお腹をかかえての談笑と
なり、私も家内も・よく笑い・よく食した。

 翌朝は昨夜の疲れもみせずにクイーンズタウンの朝市に繰り出した。
朝市の会場は、予想以上に寒くて、芝生の上に、店を広げた女店主は
寒そうに店番をしながら、せっせと編み物をしていた。朝市の写真を
撮ろうということになって私が、家内にカメラを向けると、いかにも
寒そうであった。

 まさに、底冷えという朝の寒さであったが朝食が済む頃には気温も
上がってきて、ミセスCIA親娘のお薦めで、ジェットボートに乗り
に行くことになった。

 ジェットボートは水しぶきをあげて走り、岩や断崖の端が顔をかす
めるようにして川をさかのぼって行く。船に乗っている全員が悲鳴も
出ない迫力であった。

 その晩はジェットボートの迫力にすっかりお腹を空かせて私と家内
は新婚組を誘って日本食を食べに行った。

 私は 「何故だかむしょうに・大根おろしが食べたくなった」こと
を今でも覚えている。

 店の名前は、ニュージーランドの国旗にもなっているサザンクロス
(南十字星)で・・・

 私と家内は、寿司と天ぷらを気絶するほど食べた。食後は、家内の
頬もほんのりと紅潮していたので日本食への満足感は、まさに、同じ
思いであったことを確認しあうように、お互いの顔を見合って、

「よかったね」
「おいしかったわ」
と、お互いの満足感を重ね合わせた。

 店の外に出ると、店先には大漁旗が飾ってあり、ローマ字で・・・
MINAMI JYUJISEI、と、刺繍されていた。

「店に入るときには、まったく気が付かなかったね」
「だって、全員、日本食に向けて、まっしぐらでしたから」
と、新婚組のお二人も加わって大笑いした。

 その晩は四人とも用心して、ニュージーランドで買い込んだばかりの
セーターを着込んで出かけたため寒さ対策は万全であった。

 それでも外に出るとさすがに外気は冷えきっていて、私はコートの襟
を立てた。この寒い夜におけるファッション指導は出掛けのときの家内
によるものであった。これがきっかけで、皆んなが家内のファッション
指南をあてにするようになっていた。

 翌日は、クライストチャーチの空港に出て、そこから、オークランド
空港に向けて飛ぶ旅程になっている。

 その際に、クライストチャーチに向かう途中で、旅程の前半において、
大人気であったセーター類などの毛糸づくしの店に、再度、立ち寄るこ
とが決まって、現地では女性たちが買い物のフィーバーを繰り返した。

 バスは、一気にクライストチャーチの空港に向かった。そして、それ
ぞれに、お土産の整理が始まった。「あっ、パスポートがないわ!」と
弁護士さんの奥様が素っ頓狂な声をあげて車内は騒然となった。

 あのセーター屋さんに寄ってお土産を買った後で洗面所に入りその後
でベンチに座ってバスの発車まで歓談していたというのである。

「さてどこでパスポートをなくしてしまったのか?」記憶をたどる、と
「そうよ、あなた、あのベンチに座ったときにハンドバックをいじって
いたわよ」と、友人夫婦の奥様から指摘されて。

「そうだわ、あの時に黒鳥がそばに寄って来て気が荒そうだから恐いわ」
といって二人で逃げ出したわよね。
「そうよ、あの時に、ハンドバックの口が開いたままだったわよ」
ということになり、ほぼ、紛失した場所は特定できたようである。

 現地のガイドさんが、これを聞いていて・・・

「私どもの知り合いが、この道路の先に住んでおりますから、そこから、
連絡をとることにしましょう」ということになった。

 しばらく、道なりにバスを走らせて、バスは停車・・・

 ガイドさんと運転手さんが道路脇の家の中に入って行った。ここから
引き返した場合、飛行機の出発時刻に間に合わないのだという。

 やがて、運転手さんが、笑顔で戻ってきた。

「パスポートが見つかりました」という報告に、車内から、いっせいに
拍手がわく。今は、そのパスポートをどうやって届けるかをガイドさん
とセーター屋さんが相談しているのだという。

 やがて、ガイドさんも、笑顔で戻ってくる。

「店の知り合いの方の手で、空港まで、届けていただけることになりま
した」というのである。たまたま、運良くクライストチャーチまで行く
用事のあるお客様がお店の知り合いの方で、偶然、お店に立ち寄ってい
たのだという。

 今回のツアーにおいて、あの一人旅の銀行員の方が珍しく発言をする。
「ニュージーランドでは、まだまだ性善説が健在」といって感動の声を
あげていた。

 弁護士さんのご夫妻は、ご一緒に、頭を下げられて・・・

「皆さん、本当にありがとうございました」
といって深々と頭を下げられ、そして、奥様に向かって、
「おまえさん、パスポートには、現金も一緒にしまっておいたのだろう」
「それで、パスポートが出てきたのは、まったくの拾い物だよ」
「パスポートと一緒に出てきた現金で、皆さんに、ご馳走しなきゃ」
ということになった。

 ハプニングはあったものの、バスは、余裕をもって空港に到着した。
飛行機の出発までには時間があるので、トイレに入ると、
「あっ、あれが、キウイ・ハズバンドの光景か」と自問した。

 このトイレの隅には、ほどよい広さの場所があり男性は背負っていた
赤ちゃんを、そこに寝かせると、手際良くオムツを取り外して竹べらで
赤ちゃんのウンチを取り除くや手早くさっとオムツを取り換えた。

 この良く働くニュージーランドの若旦那たちに対して、敬意を称して
「キウイ・ハズバンド」というのだという。

 この呼称について知ったのは、最初に、クライストチャーチに着いて
カンタベリー博物館に入りキウイバードの剥製を見せられて、そのとき
にキウイフルーツは形がキウイバードに似ていることから、この名前が
ついたと聞いて面白いと思った。

 このことをバスツアーに乗り込んできた地元のガイドさんに・・・

「面白い話ですね」
「キウイフルーツの方が、どちらかというと、先かと思っていました」
と、感想を述べたところさらに面白い話を聞かせてくれたのであった。

「ニュージーランドでは若い奥さま方に対して優しい若旦那さまが多く
まめに育児などを手伝う若旦那たちを称して『キウイ・ハズバンド』と
いうのですよ」と、教えてくれたのであった。

 実際に、キウイ・ハズバンドの姿を目の当たりにして、現実に、存在
するのだと妙に納得した。しかし多くの場で、その状況に出くわすこと
は少なく、その存在は、ごく少人数ではないかとも思った。


021   名門オールブラックスのホームグランド 

 オークランド空港に着くと、暖かな陽気で満開の薔薇に迎えられた。

 南半球のニュージーランド北島に位置するオークランドは南半球換算
で考えると、日本の東京と対の位置に在り、昼間は、半袖でも過ごせる
秋の陽射しであった。

 南島のクイーンズタウンではセーターを着ていても朝方の寒さがこた
えたことが、信じられないような温度差である。ただオークランドでも
朝夕は上着が必要であり終日の間での温度差は大きく秋の陽射しの落差
の大きさをあらためて感じた。

 太陽の陽射しがいっぱいの海沿いの景色は特に素晴らしく、ここでは
高級住宅が海岸線に沿って建てられている。

 オークランドでは海沿いの高級住宅をおよそ七千万円から購入できる
という。

 やがて、海沿いからそれて、丘の上に登って行くと大きな公園に出た。
「あれが、ラグビー界の名門オールブラックスのホームグランドですよ」
と、いう案内があった。

 私は、丘の上から食い入るように眼下を見た。広大なグランドである。
「あのラグビーの試合の前のオールブラックス独特の民族の雄たけびの
ような踊りが目に浮かんでくる」

・・・・・・・・・・・・・・・

 オークランドの薔薇園の近くに建てられた、郊外のホテルに泊まった
翌朝は、当日の行動が終日を通して自由行動という説明があり、朝食を
ご一緒したミセスCIA親娘と新婚組と私と家内の六人で勢ぞろいして
「オークランド観光」に出掛けようということになって、早々に具体的
な行動計画がまとまった。

「タクシーによる貸しきりの市内観光をしていただけるところを探しま
しょうよ」と、いうことになり善は急げとばかりにホテルで教えていた
だいたタクシー会社に電話をした後で、その電話のやりとりをしていた
だいた、ミセスCIAの娘さんが、日本語に通訳してくれて、

「人数が六名なので、特別にランドクルーザー型のタクシーで、ホテル
まで迎えに来てくれるそうよ」と、いうことになり、しばらく待機して
いると、なんとその車は日本を代表するトヨタ製の大型車であった。

 全員が乗車してから終日コースで市内観光をしたいと希望を伝えると
「私は、ここの地元出身なのでオークランドのワイン工場の経営者など
とも幼友達です」

「他にも知り合いが多いので、皆さんにとってきっと喜んでいただける
楽しい一日になることでしょう」といって、目のくりくりとした運転手
さんから、皆を喜ばせる言葉が発せられた。

 運転手さんは元セスナ機による観光飛行のパイロットであったという。
とても陽気な方で楽しいドライブが予感された。

 しばらくして、大きな橋を渡りながら・・・

「このオークランド・ハーバーブリッジは、拡幅工事を、日本の石川島
重工業が手がけたました。当時は、オークランドをあげての大掛かりな
拡幅工事で街中が大騒ぎでした」という。

 やがて、ズー・ロジカルガーデンに到着。名前の頭にズーと付くので
動物園である。

「ここでは、キウイバードに、対面できます」という説明が運転手さん
からあり、このキウイバードとの対面は、ある意味で私にとっても家内
にとっても感動的なものであった。

「それは、その後の私の生き方を変えた対面と、いってもよい」
鳥舎の入り口で日本版の説明を聞く・・・

「体長は三十センチくらいです。夜行性のために、特別な鳥舎に入って
おります」
「キウイバードは、ニュージーランドの国鳥に指定されています」
「キウイフルーツは形がこの鳥に似ていることから、キウイフルーツと
名付けられました」と、さらに鳥舎の手前で詳しい説明が続く。

「ニュージーランドには、蛇が、一匹もおりません」
「したがって、キウイバードにとっては天敵のいない幸せな生活が続き
空中を飛ぶことを忘れました」

「天敵がいないため、目もまた活発に動かす必要がなく、視力も衰えて
行きました」

「このように、食べては寝るの生活を繰り返していたために、くちばし
のみが長く伸び、ずんぐりむっくりな体形になって行ったのです」

 私たちは概略の説明を聞いた後で、鳥舎の中の暗がりに目を凝らすと
私は、そこに、自分の姿を見ている思いがしてきたのである。

 約2年前に、東京の大手町に、新しいプロジェクトが発足して、私も
メンバーとして参画。自宅からの通勤は片道で約2時間、その間は電車
で立ちっぱなしのため、それまで50分間程度の通勤に慣れていた私に
は急に負荷がかかった印象であった。

 週末には、必ず続けていたテニスもやめてしまった。

 私は、週末の休日を家で過ごすことが多くなり、それにつれて家内や
娘たちから 「お父さん、これ食べる?」と、ひっきりなしに差し入れ
があり、食いしん坊の私は、これを片っ端から食べていた。

 プロジェクトが1年間で終わってからも、この生活習慣が続いていた。

 会社の同僚たちからは・・・

「幸せ太りですね」といって冷やかされた。結果的には体重が10キロ
も増えた。スーツ類のズボンなどのウェストは寸法直しを二回も行った。
(この時点では、まだ体重は、5ロ増えただけであった)

「ズボンの寸法直しは、これで目一杯ですよ」と洋服屋さんに云われた。
それが、またしても、トータルで10キロ増まで達したのである。
(なんと、ワイシャツのボタンが弾け飛んだ)

 ズボンの尻の縫い目が朝の体操のときに裂けた。スーツ類はほとんど
仕立て直す羽目に陥った。

「体重が10キロ増えると、ウェストが10センチも伸びるんですよ」
「身長が5ミリ伸びたのには驚きました。かかとに肉が付くためなんで
すよ」と、周囲に珍説を披露することになった。

 そして、ついに、会社の定期健康診断で肝機能に障害が発見された。

 お医者さんに相談したところ・・・

「急激な太り過ぎによって、肝臓が脂肪巻き状態になった可能性が高い
ですね」と、警告を受けた。

「ニュージーランドの、キウイバードを見て、我がふり直せだよね」
と自問した私は、これをきっかけにして、日常の生活習慣を大転換する
ことになるのである。

 日本に帰ってからのことであるが、飼い犬を買い求めて、シェリーと
命名。この出会いが私の生活習慣を変えて、日々、欠かさず続けた散歩
が効き体重を一挙に、5キロ軽減させ肝機能も回復、健康診断において
肝臓の「正常」復帰が確認されるにいたった。

 ただ、そのときの速歩きに懲りたせいか、その後は、飼犬シェリーが
しばらくの間は、私の顔を見ると散歩に行きたがらなくなった。

 飼い犬のシェリーにしてみれば、子犬のときには、まだ訳も分からず
に、私と一緒に嬉しそうに歩いていたが、やがて家内との散歩によって
自分のペースで歩ける楽しさを知ることになり、ノンストップの遠乗り
は、御免こうむりたいということになったのであろうと考える。

 ニュージーランドの動物園では他にも多くの鳥たちが飼育されていた。
動物園内には、図体が大きくて怖いような鳥も飼われていた。その鳥に
似たモアは、マオリ族が食い尽くして絶滅してしまったというから凄い
話である。

「あら、キリンの赤ちゃん」と、その声につられて、丘の下を見下すと
「あら、親子のキリンが、ゆったりと歩き回っているわね」
「まさに、マイガーデンという雰囲気だね」
と若夫婦の会話が耳に入ってくる。

 広大な敷地内を歩くキリンの親子は幸せそうである。
その隣の敷地では、ミーアキャットが穴掘りをしていた。

 そのミーアキャットに若旦那が声をかけた。なんと、歓迎のポーズを
してくれているではないか。新婚のお二人は大喜びであった。その後は
また大型タクシーに乗り込み水族館へと向かった。

「大きな水槽の下を、人間が通り抜けられるようになっているのね」
「トンネル構造になっていて、その通路は、自走式になっているよ」
「わっすごい、鮫が頭の上をゆうゆうと泳いでいるわ」
と、それぞれに歓声をあげる。

 展示場所には、鮫が口を開けた時の状態が、標本にして飾ってある。
鮫の歯は三角形になっていて、これで噛まれたら、ひとたまりもない
ことが良く理解できた。
(あらためて鮫の怖さを知ることになる)。

 次の見学コースは、オークランド博物館、元セスナのパイロットらし
く三階には「零戦」が展示してあるという説明を加えて、私の方に顔を
向けてきた。

 私は、その目が、云おうとしている意味に気付き 「本当ですか」
「ニュージーランドに零戦ですか、もちろん大いに興味があります」
と答えた。

 零戦は軍事品関係の展示コーナーに大きなエリアを確保してほぼ完全
な状態で保存されていた。私は、実戦に使われたことのある零戦を見た
のは初めてのことである。

 心の内で云うにいわれぬ「ショック・ウェーブ(衝撃波)」のような
ものを感じて取っていた。同じ展示コーナーには戦闘機用のエンジンも
展示されていた。

 ここに、零戦が展示されているということは、われわれ日本人が戦後
の経過とともに、かつての戦争体験を風化させて戦争があったことさえ
も忘れたとしても、地球の反対側では、この零戦が展示されている限り
日本にとっての戦後は永久に続いているということである。

 階段を下って一階に出ると博物館の一階にはマオリ族の戦闘用カヌー
が展示されていた。私はなんの気なしに遠くの入り口付近に目をやると
「蝶ネクタイの紳士のシルエットを見た思いがした」

 逆光のために、顔がよく判別できなかったが、神崎さんのような気が
した。「こんにちは」と、心のなかでつぶやいて軽く会釈を交わす。
「きっと気のせいだろう」と、自分自身に言い聞かせる。

「世の中には少なくとも似たような人物が三人はいるものだ」
という友人の言葉を思い出していた。

「神崎さんと特定できないまま」
その人物は、伴の人と思われる二人を従えて、遠くを横切って行った。

・・・・・・・・・・・・・・・

 館内の出口付近には、マオリ族の戦闘用カヌーが、展示されていた。
戦闘用カヌーは芸術品ともいえる優れもので、その形状には、無駄を
そぎ落とした、機能美が感じられた。この一階のマオリ族の展示場は
地元の子供たちに、人気があるという。ニュージーランドの小学生は
並んで盛んに写生をしていた。

 ニュージーランドでは小学校への入学は5歳であり日本よりも早い。   
小学校は5年間で中学校の2年間へと続く高校は5年間であり17歳
で修了する。ニュージーランドの人たちの結婚は早いとガイドさんが
紹介していた。

 街中の店で働いている女性たちは活発で、空港で見たキウイ・ハズ
バンドとは対照的な印象であった。しかしジェットボートを操縦して
いた男性やラグビー選手などを見ていると、男の中の男という男性像
が強烈な存在感として感じ取れるので・・・

「ちょこっと観で、ニュージーランドの人たちを、語るのは難しい」
と、いうのが正直な感想である。

 博物館を出ると、皆んなの顔に秋の陽射しが強く差し込んでいた。
オークランドでのタクシーツアーを終わり博物館の前で皆で揃って
の記念撮影は、セスナ機の元パイロットがシャッターを押した。

 博物館の外観は古典的で、この中に零戦が展示されていたことが
いまだに信じられない事実として強く脳内に刻み込まれた。セスナ
機の遊覧飛行やタクシーツアーでの長い経験を生かされての今回の
ガイドぶりには大感謝であった。

 皆さん、それぞれに「今日は、終日、楽しい案内をしていただき
まして、ありがとうございました」と心から、お礼を述べた。

「私も、楽しみましたよ」と、いって、元セスナ機のパイロットは、
「ありがとうございました」といいながら、一人ひとりに、丁寧に、
感慨深く握手された。


022   ニュージランドで鳥の眼と虫の眼を獲得 

 今回のニュージーランド旅行もオークランドにおける夜がツアー最終
日の夜でもあり、新婚組のお祝いも兼ねて大いに盛りあがった。ホテル
側からも催しが用意されていて、次々とゲームが行われた。

 弁護士さんの奥様からは、クライストチャーチでパスポートが無事に
見付かったお礼にといって全員にケーキが配られた。ゲームの中で一番
の盛り上がりは、家内が新婚の方に向けて企画したゲームで・・・

 顎の下に挟さんだオレンジを、顎から・顎に・渡す場面で最終ゴール
の新婚組にオレンジが渡った時に、危うくオレンジが落ちそうになって
若旦那が花嫁を抱きかかえて、オレンジを守りきった瞬間であった。

 その晩は、部屋に戻るとテーブルの上にフルーツバスケットがホテル
からのプレゼントとして届いていた。そして、それぞれに風呂から出て
ベランダでくつろいでいると、ワインとフルーツでベランダからの夜景
を楽しむことで意見が一致した。

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 翌日の日本へのフライトは、天気も良く視界も良好で、機内から窓の
下をのぞくと、海上を、ゆったりと走るタンカーが見えた。
「はるか上空からなのにタンカーが大きく見えるわね」と、実物の船の
大きさには、私も家内も素直に驚いた。

 日本の産業の歴史においてと前置きをして、私は詩吟のように・・・

「母なる船からそこに築かれた技術力が基盤となって飛行機を育てあげ
さらに、自動車産業に技術力が転移して、国際的な競争力を確かなもの
にして行った」

「そして、その後は、船も飛行機も巨大化して進化を遂げ輸送力の拡大
に寄与して行った。自動車の分野においては、市場を世界に拡大させて
行き、第二次世界大戦前には想像すら出来なかったことが、現実の世界
で飛躍的に発展して行った」と、唱えたので家内はあっけにとられた。

 今回のニュージーランドへの旅で、多くの年長の方々から、私と家内
は大いなるパワーをいただくことになり、お互いの共通の将来展望につ
いても明確にビジョンを描くことができたと、同時に、私は年長の方々
の元気路線にも同乗することが出来た。

「ニュージーランドの風景には、ボクらの幼い頃の原風景のようなもの
があったよね」と、私が家内に語りかけた言葉通り、ニュージーランド
への旅において、二人にとっての原風景に似た状態で、共に、幼子体験
を含めてフラッシュバックできた感覚を共有できたことは、今後の二人
の生活や心の働きという面を考えたときに、とても良い体験であったと
考える。

 そして日本に向かう機内で思いがけない会話が交わされることになる。
「あの元気な奥さんたちの好奇心や行動力に触れて感じたことは、自分
たち向けにも、積極的な投資が、時には、必要ということよね」という
感想を聞かされ、帰国後、数日たってから、土曜日の朝に・・・

「あなた、これで思いっきり自分でやりたいと思うことをやってみたら」
「これ家計費からです」と、云って現金で百万円を渡されたことが、私に
とっては、全ての好循環の始まりであったような気がしている。

 私は、熟慮の上で・・・

「これからは自宅にも情報化の波は必ず押し寄せてくると考えてパソコン
を購入した」

 そして「社内における業務革新の旗振り役」の対象が、企業運営や企業
経営の領域に入ってきたことから・・・

「経営大学院と命名された商品名の教材を総量にして大きなダンボール箱
で二箱ほど購入、ビデオテープとカセットテープ教材を伴ったテキストを
活用し、休日になると猛烈な勢いで勉強を始めたのであった」

 そして、私は、この猛勉強を経て 「鳥の眼」と「虫の眼」という見方
(視点)を身に付けた。

◇ 鳥の眼という見方(視点)からは航空事業分野を国内主体の需要から
 海外事業を視野に置いたところの「国際的な事業に転換させる」ための
 企業革新の推進役として、活躍する道を切り拓いて行くことになる。

◇ 虫の眼という見方(視点)からは、新入社員として、純国産ジェット
 エンジンの量産設計に携わったときに、感じた、先人たちの天才的技術
 集団は「何故、ここまでバランスの取れたジェットエンジンを設計する
 ことが出来たのか?」と、いう大いなる設問について、異次元の世界を
 眼前にすることで、そのフォーカスを経て「答え」を得た。

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 それにしても、あのニュージーランドの博物館で対面した、零戦からの
「ショック・ウェーブ(衝撃波)」は脳内に深く刻みこまれたままである。

 私は日本において、けっして戦後という時代を終わらせてはならないと
同時に「不戦」の国であるという日本の理想はどこまでも貫く必要がある
ことをあらためて認識した。

 そして、この「不戦の誓い」は、個人にとっても重要であると考える。

 そして、あらためて地球の反対側のニュージーランドに展示された零戦
が存在する限り「戦後という時代に終わりはないのだ」ということを唱え
続けて行く必要があることを痛感した。

(続 く)

【監修】ヒトとして生れて・第9巻

【監修】ヒトとして生れて・第9巻

ラケットとジェット

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-08

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