文芸人のスペレオロジー
大真面目な先輩による、独白
この二年間で、身長はきっかり五センチ伸びた。
食事とか運動とか睡眠とか、よく言われるあれこれは少しずつ試してきたけれど、どれが効いたのかは結局わからない。
そしてさすがに、そろそろ成長は止まってしまうと思う。いつの間にか十八歳だなんて。
前まではちょっと心配されるくらい低かったから、友達にも数字はごまかして話していた。
――直ちゃんは、気付いてたのかな?
学校祭も今年で最後。あたしたちの文芸部では、いつも通り部誌を作った。『逍遥』の第六号。先輩方が決めたこのタイトルは、最初漢字も読めなかったし、『しょうよう』と聞いても何のことかわからなかった。
でも、あたしだってちゃんと勉強している。『逍遥』は、気ままに散歩すること。それだけの意味でわざわざ難しく言うのは、昔の哲学者の人たちにあやかるためだと知った。あたしたちも気ままに自由に、それでも真剣に文芸と向き合って、この部誌を作っている。
最初に参加したのは第二号だ。お客さん向けに展示してあるバックナンバーをちょっと覗いてみると、やっぱり恥ずかしい。あたしが出したのは『来世は大きく!』という小説で、大会にも出したけれど、当然何の賞ももらえなかった。
でも、普通の作文もさっぱりだったあたしが、よく小説を書けるようになったと思う。それからは部誌のたびに小説を書いて、少しずつ上達してきた。去年は地区大会の佳作だけれど、賞状ももらった。
今年はもっと上の大会でも賞が欲しい。全道……いや、目標は大きく。全国だ。
でも、そのための勝負作がまだできていない。
「一花はすごく大きくなったし、これからもまだまだ大きくなるよ」
さっきまで来ていた先輩はそう言ってくれた。信じますからね。
先輩はあたしが今回の部誌に出した作品も目を通してくれて、上手くなったと褒めてくれた。でも、全道以上の大会で勝負できるかはわからないと言った。
それではダメだ。やっぱり純粋に賞が欲しいのもあるし、賞を獲れば後輩にも明るいものを残して引退できると思う。校内にも文芸部の名前が広まって、部員も増えてくれたら最高だ。そうでもないと、あたしと直ちゃんが引退した後の部員は二人しかいない。このまま文芸部が小さくなっていくのは絶対に嫌だ。
机に並んだバックナンバーを見ると、だんだんと薄くなっているのがわかる。ページ数よりも中身が大事だし、一冊一冊が全力だから、もちろん悔いはない。でも、そういう気持ちだけではもみ消せないものが、こうして並べているとはっきり見えてしまう。
正直、進路も朧げにしか決まっていないし、成績にも余裕は全然ない。周りの友達は次々と部活を引退して、受験に専念し始める。ここからの一か月、まだまだ文芸を優先するというのは、わがままだと思われるかもしれない。
でも、このままでは何もかもが中途半端だ。文芸部員として頑張るチャンスはこれが最後。全てを叶えてこそ、自信を持って先に進めるというものだ。
だから。
「直ちゃん! 今度の三連休、付き合って!」
高校最後の夏は、もう終わりが見えていた。
不真面目な受験生と幼馴染の、出発
市街地をそろそろ完全に抜け出して、高さのある座席からは、あたしでもずっと遠くまで見通せる。
一足早く黄金色に染まって、まさに刈り取り中の畑もある小麦。同じくつややかな黄金色で、テニスボールよりも大きくなる玉ねぎ。それから、水面を覆うように青々と茂った稲。
太陽は反対側の窓からなら見える。でも、却って見えない側で良かったと思うくらいには眩しい。真っ白な平たい雲がいくつか浮かんでいるけれど、天気の心配は明後日まで全くない。
こんな時期だからこそ、絶対! という思いがあった。
「何度でも言うけど……来てくれて本当にありがとう。お父さん、お母さんにも頭下げて、お願いしてくれたんだよね?」
「そんなには。うちの親そんなに厳しくないの、知ってるでしょ」
「うん。でもなんとなく、もう少しもめるかなって思ってた」
直ちゃんとは小学校一年生からの付き合いで、親同士も知り合いだ。一度、一緒にキャンプに行ったことがある。
うちの親もなかなか放任だし、ただ「直ちゃんと旅行に行きたい」と言った段階でもうほとんどOKが出ていた。それが文芸に打ち込むための合宿みたいなものなのか、受験勉強からの逃避行なのか、ちょっと早い卒業旅行なのかは、あたしが良ければそれでいいという感じだ。
直ちゃんには、その全部だと言ってある。一番がどれかなんて、この際関係ない。「やれやれ」と言いたげにしながらも、絶対付き合ってくれると信じているから。
「旭川行くのは、一昨年の全道大会以来だね。直ちゃん、この景色憶えてる?」
「寝てたよ、そのとき」
「そうだったっけ?」
前のときは、一つ上の先輩と三人だった。何かの小説の世界を知るとかで、火山の麓を探検したような気がする。
「ああ、思い出した。想像力の話、したよね?」
「そうだったね」
「己の欲せざるところ、人に施すことなかれってね」
「ほう。ちゃんと憶えてるとは」
それは二つの否定形が出てくる、漢文では基礎的な一文で……っと、この話はまずい。
「……受験のことも思い出しちゃったよ」
「いいじゃん。というか、一花は第一志望、いいかげん決めたの?」
「それは、またの機会に考えるから。今はダメ」
窓の外へ、視線を逸らす。相変わらず畑や水田ばかりが見える。
こんなことでいいの?
今はダメだ。抑えなきゃ。
隣で眠る幼馴染の、観察
ちょっと話が途切れた隙に、直ちゃんは眠ってしまった。
首が安定しなくて、寝心地は良くなさそう。
今は前髪のない、ポニーテールの直ちゃん。と言っても、高校に入ってからずっとだけど。
あたしは先週の休みに、バッサリと髪を切ってきた。あんまり短くすると中学生、ひどいときには小学生に間違われるけど、今回はなんとなく、それでもいいかなと思った。
直ちゃんはバスに乗ると、ほとんどの場合眠ってしまう。中学の修学旅行の移動中なんかもそうだった。バスガイドさんが面白い話をしてたり、バスレクなんかがあっても、居眠りしていることがある。そういう体質なのだとあっという間に知れ渡った。
高校では、クラスが離れていたから知らないけれど……多分、相変わらずだ。
もう、外もあまり見るものはない。
新作のあらすじを考えようとしても進まない。
なんとなくいいなと思うシーンはいくつも浮かぶ。でも、作品としては全然まとまらない。ホットケーキを作ろうとして、粉をダマにしてしまったような感じ。失敗したな、と思いながら、どうにか潰して溶かそうとする。
いや、違う。今はもっと、何を作りたいかも決まっていない状態だから、この比喩は違う。
直ちゃんは、部誌に出した作品で大会に出ることが決まっているから、もうほとんど書く必要がない。少し口が開いている。安心しきったように。これは、そのうちよだれを垂らすよ。
寝顔はわりと見慣れている。起きているときとあんまり変わらないから、特別な感じはしない。程よく引き締まっていて、心理的にも物理的にも、ちょっと冷たそうな顔。ほっぺをつついても面白くない。
旭川までは一時間くらい。一人で起きているには長すぎる。
あたしも、寝てしまうか……。
あの夏の雨に流れた、探検
去年のお花見のときにも、田舎に泊って書くとかいう話をした気がする。でも、今回の目的はもっと前からやり残していたことだ。
「それで? 旅行って、どこに行きたいの」
「旭川。直ちゃんは、あのキャンプのときのこと憶えてる?」
「ああ……家族で行ったときね」
動物園を見て、キャンプ場でバーベキューをして、そこまでは楽しかった。
「二日目にさ、雨が降っちゃって。片付け大変だったし、遊べなくなっちゃったし……」
「確かあの後、一花が珍しく風邪引いたんだよね」
「本当だよ。学校休んだの、後にも先にもそのときだけなんだから」
皆勤賞を逃したことにも悔いが残ったけれど、あたしはそれ以上に大きな楽しみを失くしていた。
「じゃあ、キャンプにでも行きたいってこと?」
「キャンプはいいの。その二日目、洞窟探検するって話だったでしょ」
「そうだったっけ」
「鍾乳洞があったんだって。キャンプ場の近くの、当麻町ってところに」
残念がるあたしたちに、大人は口を揃えて、『また来れるよ』なんて言って笑った。でも、今ならわかる。そんな機会は待っているだけじゃ一生来ない。
「だから、その近くの宿に泊まって、洞窟探検をしながら執筆追い込み!」
「なるほど……付き合うけど、執筆サボってたら怒るからね」
「もちろん。お尻叩いちゃってよ」
直ちゃんはどちらかと言えば洞窟と聞いて怖がっていたはずだから、誘わなければ思い返しもしなかったと思う。
かく言うあたしも、それほどまでに絶対行きたかったわけではない。実を言えば、最近化学の授業で鍾乳洞の話になって思い出したくらいだ。
きっかけなんて、そんなものでいい。結果的に作品が何も書けなくて、直ちゃんに怒られても……いや、さすがにそれは困る。
田園を往く特別快速の、車窓
結局、バスがもう停まろうとする頃、直ちゃんに起こされた。終点だから寝過ごしはしないけれど、ちゃんと起きられるのは、居眠りに慣れているからか。
近くのファッションビルに入って、喫茶店でナポリタンなんかを食べたり、適当に見て回ったりして電車に乗り換える時間を待った。喋っていたらあっという間だ。
一番の話題は、やっぱり文芸部のこと。先輩や後輩、そして二人のこと。
退屈しなくて、本当に良かったと思う。
当麻までは、時刻表を見たときから「特別快速」なんて凄そうな名前の付いた電車に乗ると決めていた。実際に見るとわずか一両のワンマン列車だったけれど、北見にまで行ってしまうらしい。
「直ちゃん。当麻までは二十分もないから、居眠りしてたら乗り越しちゃうよ?」
「一花だって」
最初の五分くらいで市街を抜けると、一軒家ばかりになって、そのうち建物もまばらになって、また田んぼや畑が見渡せるようになった。その間、あたしたちはなんとなく喋らない雰囲気になって、景色の移り変わりを見ていた。
『車窓』といえば、二つ上の先輩の作品だ。『逍遥』の第一号に載っていたけれど、当時一年生だったあたしはあんまり理解できないで、途中で読むのをやめてしまった。
直ちゃんは面白い作品だと言っていたけれど、仕掛けに自分で気づくのが一番面白いとかで、詳しくは教えてくれなかった。
そのときはつまらなく思ったけれど、今はちゃんとその意味がわかる。帰ったら読み返してみたい。
でも、新作のことは、「帰ったら」なんて悠長なことを言っていられない。
まっさらな気持ちで旅行がしたくて、作品のデータの入ったパソコンや、参考になりそうな部誌や、普段使っている創作用のノートまで、全部家に置いて来てしまった。あるのは今日のために買った、新品のメモ帳だけ。まだ何も書いていない。
目的地が近づく。まだこれからだ。
停車駅のアナウンス。とにかく、頑張るしかない。
田舎の民宿で始まる、苦悶
素泊まりなので、駅近くのスーパーで明日の朝ごはんと、昼のお弁当を買い込んでからチェックインした。木造で階段は軋むし、足音はよく響く。本当に古そうな旅館だ。あたしたちの部屋は二階の隅。六畳より少し広いくらいで、入るとちゃぶ台と扇風機、隅に二人分の布団があった。
「おお、これはすごいね。『城の崎にて』ってこんな感じだったのかな」
「窓際にちゃぶ台を置いて、外を眺めながら書くとかね」
窓を開けても外からの風はない。直ちゃんは早速扇風機を回し始めて、風に当たりながら襟元をぱたぱたやっていた。
本当の田舎。外は車もほとんど通らない。鳥なんかもいないし、とても静かだ。
鍾乳洞は明日、ここから歩いてアタックする。だから今日はもう、二人で缶詰めになるしかない。
「トイレ行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
他のお客さんはいないらしく、薄暗い廊下は少し不気味ですらあった。トイレは階段の脇にある。ちょっと昔の「お便所」という言い方がぴったりの、水洗の和式。でも、廊下よりはちゃんと明るいし、古さの割に汚くはない。ほんのりミントみたいな香りがする。
あたしは全然平気だけど、直ちゃんは昔からの洋式派なので、ちょっと面白いことになりそうな気がする。
「ただいま。和式だったよ」
「そう。まあ、こういうところだし」
意外とあっさりな反応だ。
「直ちゃん、和式克服したのいつだっけ?」
「小学校の、三年生になる頃には」
「えっ、思ってたより全然早いじゃん!」
「なんで怒るの」
「……なんてね。知ってたけどね」
今でこそこんな感じだけど、出会った頃の直ちゃんは本当に和式の個室になんて入れないで、一つしかない洋式の個室に誰かが入っていたら、漏れそうになってもじっとその前で我慢しているような可憐な女の子だった。そうじゃなかったら、あたしとここまで関わることもなかった。
「仲良くなったときのこと、思い出しちゃって」
「あのときのことは、感謝してるけど」
本当の始まり。それは誰にも話さない、二人だけの秘密だ。
あたしと直ちゃんは、やっぱり住む世界が全然違うように見えるのか、「どうして仲良くなったの」なんて聞かれることがよくある。そういうときは、なんとなくあたしが興味を持って近づいて行ったことにしてきた。
「小説でもなんか、結構あるよね。仲のいい二人組の話」
「バディものとかね」
「そんな呼び方あるの?」
「ある。厳密には、男性の二人組をバディという」
直ちゃんがすぐさまスマホで調べて教えてくれる。
「じゃあ、女性の二人組は?」
「そういうジャンルがないから、呼び方もない」
「それはつまり……ビジネスチャンス?」
「頑張って」
でも、仮にそういう話を書こうとしたとしても、結局なんだかあたしと直ちゃんみたいな感じの小説になってしまいそうな気がする。最初に書いた『来世は大きく!』と同じだ。前世で何かをやらかして身長が伸びなくなってしまった主人公の女の子が、友達の占いで解決策を探ろうとする話。先輩方には気軽に読めて、笑えて、それはそれでいいみたいな感想をもらったけれど、大会では軽すぎて風の前の塵に同じだった。
大会に出てくるのは、それこそ本当の友情がどうとか、いじめがどうとかいう話ばかりで、みんなそういうことで悩んでいるのがまるわかりだ。でも、幸か不幸かあたしはあまりそういうことで悩まずに済んでいた。というか、悩むのが苦手だったから、全然深く考えたりもせずに生きてきた。
多分、悩みは物語になる。でも、それを物語にするにはまず、笑い話にできるくらいじっくり寝かせないとダメだ。書こうとするのが早すぎると、結局行きつく先もわからなくて、迷走した作品になってしまう。
この間の『逍遥』第六号に出した作品も、そんな紆余曲折があって、直ちゃんや後輩たちのアドバイスでどうにかまとめたものだ。テーマは、やめておけばいいのに、「距離の離れた友達との関係」だった。
友達が引っ越しをして、最初はメールなんかでやり取りもして、「また会いたいね」なんて言うけれど、簡単に会えるなんてことはなくて、話もだんだん合わなくなって、メールが途絶えて……とそんな時間が経つ中で、「いつまで友達でいるの?」とか、「もし次に会ったらどうするの?」とかいう悩みを書いた。
本当はこんな作品、お世辞にも満足しているなんて言えない。褒められたけど、絶対に大会には出せない。
前に、うけ狙いで作品を書いて、結局上手く行かなかった先輩がいた。あたしもそのときは散々に言ったものだけど、今年になってみると、あたしも同じようなことをしている。書いているときにそのことに気付いて、書き上げるまでが一番つらかった。
「直ちゃん……何か適当に、思いついた言葉言ってみて」
どうにか気分転換を図る。
「えっ、じゃあ……スイカ」
「あっ、食べたい。この町有名だよね」
「一玉五千円とかするよ」
「でもさあ、大きさで言ったらビーチボールくらいあるじゃん。中身はぎっしり詰まってるし、溢れ出すジュースを啜りながら、がぶがぶ行ったらもうそれだけの価値はあると思うよ」
「うん。それで、作品のネタにするんじゃなくて?」
「いや……」
あわよくばと思っていたけれど、こんな軽いノリで書き始めた作品では、大会に出すのがためらわれる。
やっぱり、直ちゃんとのドラマティックエピソードを掘り返すか……?
ともに育った二人の、依存
あたしと直ちゃんは家が近い。歩いて二分くらいの距離だ。だから、小学校に上がったときに二人で一緒に登校するように言われた。
でも、直ちゃんは最初全然喋らなかったし、あたしもただ「家が近所の子」くらいにしか思っていなかったから、学校に着くまでの関係だった。一応同じクラスだったけれど、一緒に帰ることもなかった。
それがあるとき、トイレで困っていた直ちゃんをあたしが助けたのがきっかけで、直ちゃんは少しずつ心を開いてくれるようになった。
あたしも直ちゃんに助けられた。三年生の頃、あたしは公園でジャングルジムから落ちて、右腕を捻挫してしまったことがある。そのとき、直ちゃんは誰よりも熱心に面倒を見てくれた。
五年生になるとき、クラス替えでクラスが離れてしまった。あたしはそれが、宿泊研修や修学旅行で同じ班になれなくなることだと早くから知っていた。そのとき、多分これまでの人生で一番泣いた。でも、相変わらず一緒に登校していたし、放課後もほとんど毎日一緒だったし、なんなら一緒に学級委員になって活動することもあったから、思っていたよりは寂しくなかった。
次に直ちゃんと同じクラスになったのは中学二年生になるときだった。当時、あたしはバレーボールに熱中しすぎて、かなり成績が下がっていた。一方の直ちゃんは、はっきりとした順位は出ないけれど、定期テストで毎回学年一位を争っていた。
一時は本当に厚い壁で隔てられたような気がして、こうなったら高校は別々になるしかないと諦めかけた。そのうえ、あたしはもう一つ高い壁に直面していた。
身長だ。
もう長らく、背の順では不動の一番前。「前ならえ」では、一人だけ違うポーズ。からかわれるのはどうでもいいとしても、バレーボールでは間違いなく不利だった。
ジャンプ力やパワー、バランスを鍛えることで普通の中学生が相手なら活躍できたけれど、ちょっとでも将来を意識しだすと、誰もが「その身長では厳しい」と言った。高校生や大学生の選手に会うと、普通に全員三十センチ以上の身長差があって、そのたびに絶望感が積もっていった。
このままでは、卒業したときに何も残らない。
せめて、直ちゃんと一緒の高校に行きたい。
二年生の冬休みから、直ちゃんと一緒に塾に通って勉強を始めた。二人での勉強会は夜遅くになることもあって、大抵、直ちゃんがあたしのわからないところに付き合っていたのだけれど、直ちゃんは絶対に投げ出さないで、あたしを励ましたり、ときには叱ったりもしてくれた。
こうして、念願の合格。あたしはきっぱりとバレーボールをやめて、手に入った直ちゃんとの三年間を思う存分楽しもうと決めていた。
だから。
「一花は、どこへ行っても大丈夫だと思うけど」
「直ちゃんはやっぱり、短歌に興味があるから?」
「うん。小説は、あんまり書けなさそうだけど、それでも」
「じゃあ……決めた。あたしも文芸部に行ってみる。直ちゃんに付き合うよ」
あたしたちは互いに互いがいないとダメで、でも、二人でいれば多分何でもできる。
今回も、あたしはどうにかできると思っている。
享楽的に目を引く演出の、是非
一時間くらい、様々な手を尽くして構想を立てようとしたけれど、これぞというものはできないままだった。そのまま、お風呂を予約していた時間になった。
家族風呂みたいな感じで、湯船は四人くらい入れそうだった。洗い場は三つある。水とお湯の蛇口が別になっていて、シャワーは鏡の上に固定されている。
「すごい、銭湯だ」
「貸切だし、ゆっくりできそう」
とりあえず黄色の桶にお湯を一杯にして、頭からかぶってみた。汗ばんでじめじめしていたものが、さっぱりと流れていく。
「はあっ、気持ちいいね」
「うん」
二人きりでお風呂に入るのは初めてだ。だから、直ちゃんは恥ずかしがるかと思ってたけれど、意外とそんなことはなかった。多分、あたしが触ったりしなければ平気なのだ。
「直ちゃん、背中流すよ?」
「いい。自分でやるから」
やっぱり。ちなみに直ちゃんは、くすぐりには満遍なくどこでも弱い。足の裏が特に弱いけれど、蹴られる。
髪の短いあたしが先に洗い終わって、湯船に浸かった。直ちゃんも少し後に来た。
「明日は歩くから、しっかり整えておこうね」
「ちなみに、どのくらい歩くの?」
「二時間くらいかな」
「えっ、聞いてない」
「大丈夫、多分遊園地とかでアトラクション二時間待ちするよりは楽だよ」
「まあ、そっちもあんまりだけど……」
お湯の中で、脚を伸ばしたり、揉んだりしてみる。直ちゃんも控えめに真似をしていた。
その距離、手を伸ばしても届かないくらい。あたしの目は、直ちゃんの胸元に向いた。
「直ちゃんって、カップどのくらい?」
「あんまり見ないで」
腕で隠されてしまう。それでも実際、あたしはちょっと垂れ下がるくらいはあるから、直ちゃんにアルファベットでなら勝てそうな気がした。
「あたしのほうが大きいよね?」
「それでいいんじゃない、新菜も言ってるし」
出てきたのは、今年入った新人の名前だ。元気で楽しい子だけど、あたしに対してはあんまり敬意がないというか、簡単にラインを超えてくる。入って二、三回目の頃は特に激しかった。
「新菜ちゃん、あたしのこと『ロリ巨乳と呼ぶには足りない』って言うんだよ。いろいろ失礼しちゃうよね」
「ふふ、まだ根に持ってる」
新菜ちゃんは作風もなんだか独特で、直ちゃん曰く「ライトノベルの影響を強く受けている」らしい。最初の合評では、テーマも描写も考え方も全然あたしたちの思っていたものとは違っていて、話が噛み合わなかった。「お互いに勉強しよう」という話になったけれど、結局最終稿では、新菜ちゃんの持ち味を消さないように、ちょっと過激な描写を抑えたくらいで終わった。
「でも気になるんだけど、あたしも最初はコメディみたいな、楽しく笑えるような話を書いてたでしょ。そういう意味では新菜ちゃんのと同じだと思うんだけど、読み比べると全然違うんだよね。何が違うんだろう?」
「一花のは、ライトノベルじゃないし」
「ライトノベルって、どういうこと?」
「厳密に言うのは難しいけど……キャラクター造形、テーマ、演出、その他いろんな面で享楽的、つまり読んだ瞬間にわかりやすい楽しさを感じられることを第一とするジャンルかな」
「わかりやすい楽しさが第一ってことで、第二第三には何が来るの?」
「ストーリーラインの奥深さとか、背景の作り込みとか、考えさせる要素とかかな。どちらかと言えば、先輩方が小説で追求していたもの」
「なるほど。だから『このシーンの物語的な意味は?』って聞いて、『ないけど、これでいいんです』って答えが返ってくるんだね」
でも、ちょっと油断をすればあたしも、あまり意味のない描写を無理やり入れてしまうことがある。例えば、部屋に置いてあるようなものに、ついつい小ネタを仕込んでしまったり。「注意力散漫だ」と言われる。それをなくすのが正しいなんて価値観は、どこから来たのだろう。
「新菜ちゃんの作品って、実際に大会に出したらどうなるのかな。今回はあれを出すんだよね?」
「少なくとも、賞を獲らせてはもらえないと思う。もちろん、作品がダメってわけじゃないよ」
直ちゃんは慎重に答えた。
「作品の何を重視するかは、書く人によって違うけど、読む人によっても違う。それが噛み合わなかったら、評価のしようがない。そして私たちは、作品のジャンルによって何を重視して読むかを決める。ジャンルって先入観でしかないけれど、無意識に少なからず持っちゃうから。思ってたジャンルと実際の内容が違ったら、簡単には修正できない」
「新菜ちゃんの、最初の合評みたいなことになっちゃうんだね」
「そう。あの大会はジャンルの指定こそないけど、大半の人が従ってる暗黙の了解があるし、新菜の作品はそれを外れている。まあ……どっちに転ぶかは、本当はわからないけどね。暗黙の了解があるっていうのも、妄想かもしれない」
「妄想……」
「あるでしょ。特に禁止されているわけじゃないのに、勝手にダメだと思い込むことって」
無意識の圧力。文芸について知れば知るほど、そういうものが増えていくのを感じていた。
「あたしも例えば、新菜ちゃんみたいに『お色気サービスシーン』とか入れたら、新しい道が開けるかな?」
「ちゃんとやれば開けるかもしれないけど……大会に間に合うほど簡単なことじゃないし、今はやめたほうがいいよ」
「そっかあ……そろそろ上がる?」
「いいよ」
話しているうちに、全身しっかり温まった。上がってすぐは気持ちがいいけれど、風の入らない部屋に戻るとだんだん暑苦しくなる。首を振る扇風機の前に二人で仲良く並んで、風を半分ずつ分け合った。
欲求と承認そして、葛藤
夕食はちょっと奮発して、近くの定食屋に入った。あたしは唐揚げ定食、直ちゃんは野菜炒め定食を注文する。
料理を待つ間にも、あたしはアイディアの種を探し続けた。
「直ちゃん、三大欲求ってあるじゃん。あれの三つ目って何だっけ?」
「いや、どの二つを思い浮かべてるの」
「食欲と、アレだよ」
「アレ、ねえ……」
この場にはそぐわないかなと思ってぼかしたけれど、性欲。ここまではわかる。いろんな作品を見ても、この二つはよく取り上げられているような気がする。
「じゃあ、睡眠欲じゃない?」
「へえ……そうなんだ」
知らない三つ目が返ってくる。でも、「三大」と言うからには、もっとすごいものを想像していた。
「何か不満?」
「睡眠欲じゃ、あんまりネタにはならなさそう。常に眠い、寝たいって言われても……」
「確かに睡眠欲をメインに書いた作品は少ないかもね。でも、やっぱり睡眠って人生の三分の一だし、ちゃんと突き詰めればテーマとして面白いんじゃない?」
「なるほど」
とりあえず、睡眠欲の話はキープしておく。もう一つ気になる欲求がある。
「承認欲求とかって違うの? 三大美女みたいに二つは固定で、三つめは好きに決めていいとかじゃないの?」
「そこは観点と解釈によるから、逆に二つだって固定というわけではないよ。元の三大欲求は生理的欲求ってまとめられるけど、社会的な欲求に着目すれば、承認欲求は三大のうちに入ると思う」
「割と適当なんだね」
「三大なんて、だいたい全部が俗説だし。みんながなんとなくそう思ってるだけ。そういえば、去年一花が大会に出した作品って、そういう欲求とか振り払って走り続ける話じゃなかったっけ?」
「うん」
言われて思い出したのは、『走る理由』のこと。家族や仕事を失った男の人が、早朝のランニングだけは続けていて、何も変わらないとわかっていながら走り続けるという話を書いた。大会で佳作を獲った作品だ。
「でも、あれって最初は本当にただ走ってるだけだったじゃん。家族や仕事がなくなったところとか、後から肉付けしてやっとあの形になったけど……今思うとあんまり納得してないんだよね」
「そうなの?」
「なんか、隠喩的で深みがあるとか、全然狙ってなかったの。佳作を獲れたのも、そういうところまで評価されたからだと思うんだけど、あのときは、自分が自分じゃなかった感じがする」
「それは……私たちの言いなりみたいに、作品を直したから?」
言いなり。ちょっと乱暴だけど、これまでのあたしの文芸を表現するのには避けられない言葉だ。
「そのときはそんなこと思わないし、もちろんみんなに感謝もしてるんだけど、やっぱり……提案されたそのままを超えるようなアイディアって、全然出せてなかったなって思う。難しいね」
「難しい。けど、そのことに気付いたのは大事だと思う」
「うん。だから、見えてきたよ。あたしがこの大会でやりたいこと」
具体的な構想は何も出ていないけれど、これだけは言える。
「一番、最後まで自分らしいと思える作品が書きたい」
自分らしさのために向き合う、禁句
部屋に戻ってから、「自分らしい作品」について考えてみることにした。二人とも部屋着に着替えて、長い夜を過ごす準備は万端だ。虫が入るので窓は閉めたけれど、気温も下がったので暑くはない。
「じゃあ、始めようか」
メモ帳ページの真ん中に、大きく「自分らしい作品」と書いて楕円で囲む。
「直ちゃんは、あたしらしさって何だと思う?」
「一番に出てくるのは……物怖じしないところ、かな」
一番と言った割には少し長い間があったけれど、とりあえずメモしていく。
「怖がらないってこと?」
「何でもとにかくやってみようって動けるところ。周りの批判的な目も気にしないで、やり遂げるまで頑張れるところ」
言われた通り書いていくけれど、直ちゃんのあたしへの思いがどんどん明らかになっていくので、変に緊張してくる。
「……照れくさいね」
「一花が、聞きたいって言うから」
「じゃあさ、作品ではどんな感じ?」
「感情的というよりは論理的。まっすぐな表現が多くて、爽やかだけど単調になりがち。短距離を走り抜けるような書き方が向いてると思う」
作品への感想のほうがすらすらと出てきたけれど、聞いたことのある内容ばかり。なんだか、直ちゃんの気遣いを感じる。
「もっとない? なんだか……これまでのあたしを打破するような、強烈なやつ」
「そんなにはないよ」
なんとなく、本当ではないと思った。直ちゃんなら、もう少し何か言ってくれるはず。あたしは少し、催促するような間を作ってみる。
「じゃあ、言うけど……」
やっぱり、隠していたものがあった。
「大きいものへの憧れ。執着に近いこだわり。それは一花自身からも、作品からも感じる」
直ちゃんが隠していただけあって、それはとても重大で、繊細な問題だった。
「最初の作品みたいに茶化した感じならいいけど、他の作品では時々、混じり物のように感じることもあった。それは、狙って織り込まれているというよりは、コントロールできなくて入っちゃってる感じ」
「なるほど……」
あたしはずっと、自分が「小さい」と言われることはもちろん、小ささを連想させるようなものも避けてきた。でも、それがどのくらい本気なのかはよくわかっていなかった。
「一花がそのことに触れられたくないのは知ってたから、今まで言わなかったけど……そういうコンプレックスこそ、その人が一番真剣に捉えてることだと思うし、一花らしさには欠かせないよ」
「あたしが……小さくて、ずっと大きいものに憧れているってことが?」
「うん」
直ちゃんは真剣な顔で頷いた。肩がこわばって、手の変なところに力が入って、持っていたシャーペンを取り落とした。確かに強烈なやつだ。
「気付かなかった。そんなに……ずっと意識してたこと。バレーはきっぱりとやめたつもりだったし、直ちゃんと同じ高校にも行けたし、あとは冗談めかして生きていけるかなって思ってた。直ちゃんは、気付いてたの?」
「ずっと、見てたから。高校に入ってからも、数字はごまかしてたし、トレーニングも続けてるでしょ。それに、『小さい』って言われたとき、どこかで本当に傷ついてるように見えてた」
思えば、直ちゃんはずっとあたしへのNGワードを取り締まってくれていた。それも単に面白おかしくするためじゃない。本気であたしのことを気遣っていたのだ。
「もしかして、新菜ちゃんにも何か言った?」
「……うん。身長のことをいじるのはやめてって」
最初の頃だ。新菜ちゃんは入って二、三回目の部活では、あたしの身長のことも遠慮なくいじってきた。でも、四回目くらいからちょっと方向性が変わった。他の話題とか、単純なスキンシップが増えた。それは単に慣れたからだと思っていたけれど、まさか直ちゃんが手を引いてくれていたなんて。
ただ、あたしはそれで確かに気が楽になった。正直ちょっと、新菜ちゃんとの関係には不安を感じ始めていたから。
いろいろ、見向きもしていなかった不思議なことが、現れると同時にベールを剥がされていく。目まぐるしさにもう追いつけない。あたしはそのまま後ろへ寝ころんだ。
「そうだったんだ……今までありがとう。なんか、足りないかもしれないけど、ありがとう」
指先は震えるし、鼻の奥も熱くなってくる。
直ちゃんがそんなあたしの右手を握ってくれた。
温かい。でも、すごく寂しい温かさだった。
言えぬ思いを抱えて歩く、農道
なんだか、嫌な記憶を全て失くしたかのように清々しい目覚めだった。
そして驚いたことに、目覚めたときにはもう、頭の中で新作の構想が出来上がってきていた。まるで妖精さんか、南半球のサンタさんが……いや、南半球も七月だけど。
身長のことでバレーボールを諦めようとしていた、あの頃の自分を書きたい。
実際のあたしにはいくつかの逃げ道があったから、それに頼っていなかったらどうなっていたのか、ちゃんと考えてみたい。
登場人物と物語はだいたい決まった。あとは、背景。最初の部誌制作のときにやった座談会では、背景までしっかり作り込んで、三位一体の作品になるのが理想だと教わった。鍾乳洞は背景として使えるかもしれないし、使えないかもしれない。それは、実際に見てから考えようと思っていた。
「お弁当持ったね? じゃあ、出発!」
地図と、飲み物にお弁当、その他最低限の荷物を持って宿を出る。今日はほどほど雲があるけれど、日差しはちょっと外にいるだけでこんがり焼けてしまいそうなほどだった。ちゃんと帽子をかぶって、出る前には二人で入念に日焼け止めを塗った。
「疲れたら言ってね。ゆっくり行こう」
「うん」
こうして文芸のほうに余裕ができてくると、他の目的にも気が向いてくる。特に、これは少し早い卒業旅行だということ。先輩から聞いた話では、二月までは試験があるし、三月はどちらに転んでも忙しい。二人きりのこんな機会は多分、もう当分来ないということ。
どっちを向いても水田が広がる。そして、意外と山が近い。こういう場所に住むのも、ちょっと面白そうだと思った。
あたしは思いつく限りのことを喋った。暑さを振り切るように。喉が渇くのも気にせずに。でも、たまには二人で立ち止まって休憩した。
こんな機会は、当分来ない。もしかすると、最後かもしれない。
ふと冷静になったときに、そんな予感が頭をよぎる。
本当は、ほとんど決めている進路がある。理学療法士の資格を取って、スポーツトレーナーになることだ。たとえ裏方でも、やっぱり運動が好きだから。
でも、直ちゃんにはまだ話せていない。直ちゃんの進路もまだ聞いていない。それは、今のあたしを守ってくれている、最後のおまじないだと思っている。
「直ちゃん」
「なに?」
「そこの角を曲がったら、もうすぐだよ」
そのときも、本当はいらない案内だった。特別なことなんて何も話せないまま、無事に鍾乳洞のある公園に着いた。
念願の鍾乳洞で見た、石筍
売店なんかもあったけれど、まずは鍾乳洞を見ることにした。中は涼しいと聞いている。もはやそれが一番の狙いだった。
「ついに来たね……暑いから早く入ろう、写真は出てきてから!」
「了解」
ちょっとでも入ると、すぐに冷たく湿った空気を感じた。外とは明らかに違う。音楽と案内の音声に紛れて、奥のほうからかすかな水音が聞こえてくる。
「頭上注意だって」
「一花こそ、油断してたら頭ぶつけるよ」
手すりに沿って、人工の通路を進む。コースは上下左右のうねりがあったり、岩の合間をくぐるような場所もあったりして、先を見通せない。それも楽しみを大きく掻き立てた。
少し進むと、開けた場所に出た。壁一面を鍾乳石が覆い、鱗のような独特の模様を作っていた。床や天井から伸びる柱も、手作りの器のような水たまりも、全部が自然にできたものだという。
「なんだか、落ち着く」
直ちゃんも気に入ったようだ。たまに目を閉じて、空気や音を感じている。
「鍾乳洞って、もっと狭かったり、水浸しになったりするイメージだったけど、ここは歩きやすいね」
「ちゃんと整備されてるよね。あっ、お金」
あたしが見つけたのは、水たまりの一つに投げ込まれたたくさんの小銭。お賽銭なのかもしれない。
「いろんな人が来てるってことでしょ」
「神様、いるのかなあ」
「神秘、というか……神々しさも感じるし」
「あっ、あそこにお地蔵さんがいる」
「誰かが彫ったんだね」
「あれも自然にできた形だったらすごいよね」
「すごいけど……まあ」
鍾乳石を照らすライトの色も様々だ。白、青、紫、緑。どの色の光も、柔らかく壁面に溶け込んでいる。
そのうち、折り返し地点のようなところまで来た。水たまりの向こうにずっと細い空間が続いていて、サメの歯のように無数の突起が出ている。
「入る前に書いてあったんだけど、あの地面から生えてるものを石筍、石のたけのこっていうんだって」
直ちゃんが教えてくれる。
「たけのこ……」
真っ先に思い浮かぶのは、先輩のペンネーム。たけのこは生長が速い。
「あのたけのこは、どのくらいの速さで伸びるの?」
「さあ……でも、最後には上から伸びてるものとつながって、柱になるでしょ」
「そうだね」
「多分、何十年でようやく一ミリとかじゃないかな」
「うわあ、ゆっくりだ」
気の遠くなるようなペース。つまりあたしたちが生きているうちには、この景色は少しも変わりそうにないということか。
「私たちは、一年一年の単位で変わっていくけれど、石の時間にしたら、一年なんてあるかどうかもわからない一瞬なのかもしれない」
「一瞬、かあ……」
逆に言えばこの洞窟は、もうすでに何千万年、もしかしたら億年単位の時間が経っているということ。そのスケールに圧倒される。
「これを知ってたら、あたしの身長が伸びないことも、もっと前向きに思えたかも」
「一花……」
また、直ちゃんが手を握ってくれた。励ましてくれているのか。そんなに、元気がないように見える? まだダメだ。これは違う。もっと……このままでいたい。
炭酸飲料と共に味わう、余韻
かなりゆっくり巡ったような気がしたけれど、実際の距離はそこまで長くなくて、出口が見えたときには二十分くらいしか経っていなかった。外も暑かったし、せっかくお金も払っているので、もう一周することにした。
そうすると外の気温も上がってきているので、涼しい洞窟の中から抜け出せなくなって、結局三周もしてしまった。
なんだかんだでお昼の時間。売店で地元の限定品だというスイカのサイダーを買って、ベンチで持って来たお弁当を食べることにした。家から持ってきて二個入れてきた保冷材も、すっかりぬるく柔らかくなっている。
「明るささえどうにかなれば、あそこって執筆に最適な環境なんじゃないかな?」
「もっと課題はあるでしょ。さすがにずっと籠ってたら寒そうだし。湿気も多いし」
「なんか、去年のお花見だったかな? こんな話したよね」
「うん、憶えてる。一花が流れるプールで執筆するとか言ったの」
「へへ、そんなこと言ったかなあ」
サイダーは、スイカの真ん中あたりの味がした。それにしても、味というよりは冷たく爽やかなのどごしが病みつきになって、ほとんど一気に飲み干してしまった。
「帰ったら、何か書けそう?」
「それはもう、すごいのが書けちゃうよ!」
作品については、相当な自信がある。鍾乳洞のことも盛り込めそうだと思う。
「早く書きたいから、タクシーで帰ろうか」
「そうしよう。暑いし、歩くのも疲れたし」
タクシーを呼んで、来るまでの間も喋りつづけた。今日はずっと喋っている。そうしたら時間をすぐに使い果たしてしまう。でも、喋らないでいるのは不安だった。
いつの間にか大きく育った入道雲は、雷雨を伴って押し寄せるタイミングを窺っているのかもしれない。いつまでも日和見ではいられない。それでも、いつまでもここで直ちゃんと喋っていたくなる。
まるで、ネバーランドに駆け落ちしたみたいだと思った。でも、明日には帰らなければいけない。そのとき、あたしはどんな顔で、どんな思いでいるつもり?
「あっ、電話。タクシー来たみたい」
「そっか。行こう」
遠ざかる鍾乳洞。必要なのは、覚悟一つだけだ。
持ち帰った構想を集めた、新作
宿に戻ったらお風呂が空いていたので、すぐに汗を流すことができた。上がった頃には二時くらい。執筆の時間はたっぷりとある。まずは一枚の紙に、プロットを起こしていく。直ちゃんには内容を説明して、その都度質問や指摘をくれるようにお願いしている。
「主人公は、中学二年生の女の子。身長は百四十センチないくらい。バレー部。真面目に取り組んでて、チームの中では評価されてるほう。田舎育ちで体力はあるけど、勉強は全然できない」
「だいたい一花だけど……違うところは?」
「勉強は本当にできない。だからある意味、バレーに命懸けてるのね。あたしは壁に当たったとき、勉強ができたからそれでいいやってなったけど、そうなれなかったらどうなるかを書きたい」
「実力は評価されてるって言ったけど、将来のことは否定されるの?」
「周りの大人たちが全然理解してくれないんだよね。担任が一番厳しくて、バレーで将来は絶対無理だと思ってる。顧問はチームが弱いから完全に部活だって割り切ってるし、主人公が真剣に将来考えてるって言っても所詮は中学生みたいな目で見てくる。親も口先で応援はしてくれるけど、主人公の真剣さは全然伝わってないし、勉強を捨てるほどじゃないと思ってる。塾にも行かせようとしてくる」
「なるほど……そこで、主人公がいよいよ壁に当たる」
「最初は身長も伸びる見込みあるし大丈夫、小さくても実力でカバーできるから大丈夫って前向きなんだけど、地区より上の大会とか進めないから同年代で高いレベルの世界を見れないし、それで高校とか大学のバレー部を見学したら、身長差とレベルの高さを実感して怖くなるって感じ」
「そこからは、どんな方向に行くの?」
「そう、そこなんだけど……」
最終的にどうなるのか。諦めるか頑張り続けるかの単純な二択ではないと思う。主人公にとって、どのようにバレーボールと向き合うのが一番納得できるのか。そこをちゃんとごまかさずに書かないと、この作品の意味はなくなってしまう。
「怖くなってさ、大人は理解してくれないし、チームメイトもぬるいし、一度は自分を失いかけるんだよね。そこから何か立ち上がるきっかけがあって、周りの大人とも真剣に話して、将来をどう考えるのか……みたいな感じかなと思ってる。立ち上がるきっかけ、どういうのがいいかな?」
「主人公に味方はいないの? チームメイトの中でも、同じく真面目にやってる子とか」
「ああ……」
あたしの場合、そこまで味方がいなかったわけではないけど、一番の味方だった直ちゃんが引っ張り上げてくれたままに事が運んだ。でも、そういうのを小説では予定調和と言うことくらい、あたしにもわかる。
「なんか、単純に味方の子のアドバイスで上手く行きましたみたいな感じにはしたくないというか……」
「じゃあ、逆にライバルにするとか。主人公の欲しいものを持ってて、劣等感を抱かせる存在」
「ライバルかあ、そっちのほうがいいかな」
「アドバイスにしても、主人公がちゃんと考えて自分なりの方法を編み出すならいいんじゃない?」
「そうだね」
とりあえず、ライバルがいることにしておく。身長が高くてパワーがあるけど、細かい立ち回りは主人公のほうが上手だから、評価は同じくらいのイメージだ。
「こんな感じでどう?」
ライバルの設定を書いた部分を見て、直ちゃんはちょっと首を傾げた。
「ライバルとは言うけど、仲はそこまで悪くないのかなって思った。試合でもお互いの足りないところを埋めあう関係になるし」
それであたしも、もう少しイメージが具体的になる。
「主人公が一方的に羨ましく思ってる感じだよね。ライバルから見れば、全然仲良くしてもいいと思ってる。そうしたらやっぱり、壁に当たったときに相談に乗ったりしてくれるかな」
「いいんじゃない? この子はそこで器の大きさを見せて、注目を集めるキャラだと思う」
「そうだよね。女の子だけど、新菜ちゃんが『イケメン!』って言いそう」
「そうなったら成功だと思う。物語の上でも見せ場になるはずだから」
それから、この二人のどちらかは絶対キャプテンだという話になった。三年生の最後の大会に向けて、チームを盛り上げることもできる。そこでの努力を通して、主人公は自分とバレーボールとのあり方を模索する。
「そうしたら……何があっても自信を持って、できるところまで続けていこうって思うかな?」
「いいと思う。ちゃんと過程も納得できるし、あとは一花の書き方だけど……」
「うん。そこは任せてよ。書き上げられたら、合評よろしくね」
自分でもこれまでにないくらい、大きな勢いを感じていた。メモ帳しかなかったけれど、早速作品として文章を書き始めた。ページが文字で埋まっていく。細かい表現は後で調整するとしても、こんなにすらすらと作品が出来上がっていくのは初めてだ。
あるとき、直ちゃんが「お店閉まっちゃうから……」と声を掛けてきた。外が暗い。メモ帳は四十枚のものが、半分以上文字で埋まっていた。
もう大丈夫だと思うと、途端にお腹が空いてくる。
「ごめん、集中しすぎた。食べに行こう」
ここまで来たら、あとは。
ネバーランドを旅立つ夜の、告白
昨日と同じ定食屋に入った。昨日とは逆で、あたしが野菜炒め、直ちゃんが唐揚げを注文した。互いに美味しそうだと思っていたのだ。
食べ終わったら、後はほとんど寝るだけだ。実際もう眠い。直ちゃんもあたしが執筆に集中していた間はお昼寝していたし、疲れてもいると思う。
でも、こんな夜でさえ、このまま終わってしまうのがあまりにも惜しかった。
まだ帰れない。
「……直ちゃん。ちょっと、駅前まで歩いてもいい?」
宿の前で直ちゃんを呼び止める。そのとき、あたしはどんな顔をしていたのだろう。
直ちゃんは何も言わずに頷いて、手を繋いでくれた。
通りから駅前に出るまで、人を見かけなかった。車も通らなかった。ただ、街灯と自動販売機の光だけが目に入った。
青暗い駅前の広場。大小二頭の龍が、柱を登ろうとしているようなモニュメントがある。その周りを囲むベンチに、二人で並んで座った。
「あの、さ」
「うん」
手は繋いだまま。直ちゃんは待ってくれる。
話すなら、今しかない。
「あたし、保健学科受けようかなって」
大学は地元で、二つ上の先輩と同じ。そこが一番手近で、あたしの成績を考えてもちょうどいい。
「決まったんだ」
「理学療法士になって、スポーツ選手のサポートがしたい」
「一花が、自分でやりたいことを見つけられて良かった」
直ちゃんはあたしの頭を撫でてくれた。
どうして。優しすぎるよ。
また、離れたくないと思ってしまうから。
「直ちゃんは、どこに決めたの」
これも、ちゃんと聞いておかなきゃ帰れない。
「法学部。知的財産権について、今はインターネットで創作活動をする人が多くなって、いろんなところで問題が出てる。法律を勉強して、そういう問題の解決に貢献できる弁護士になりたい」
「弁護士、すごいじゃん」
そのために東京で、レベルの高いところをいくつか候補にしているという。
でも、これではっきりした。卒業して離れたら、全く違う世界で暮らす。年に何回かしか会えなくなる。
直ちゃんはここでも毅然と、表情に寂しさや悲しさなんかを少しも見せなかった。
本当は、どうなの?
「直ちゃん……」
「うん?」
聞きたいけれど、やっぱり聞けない。
「一花は、寂しい?」
そうして言葉を続けられずにいたら、聞かれてしまった。
「どうしてそう思うの」
「わかるよ。進路だって、何も考えてないわけじゃないと思ってた。ただ、私に話せないだけ。長い付き合いだもん」
「だって……」
はっきり肯定できずにいるあたしを見て、直ちゃんは少し俯いて笑った。声が上ずっているような気がする。
「当たってるよね。良かった。私も同じだから、だよ」
「同じ?」
繋いでいた手を放して、直ちゃんは目元を拭った。
「寂しいのも。今まで、進路の話ができなかったのも。一花と同じ」
「直ちゃん……」
「一花ばっかり、ありがとうって言うけどさ。私だって言いたいんだよ。誘ってくれてありがとう。一緒にいてくれてありがとう。いつも励ましてくれてありがとう。友達になってくれて、ありがとう」
直ちゃん。
思い切り抱きつく。受け止められる。
将来のこととか、もっと言葉で確かめようと思っていたこともあった。でも、その長い抱擁のうちに、全部が大丈夫だと思えてきた。
離れても、同じだから。あたしたちの時間は、これからも無くなったりしない。
全てを注いだ作品の、顛末
こうして完成した新作のタイトルは、『Speleology』に決めた。意味は、洞窟について探究する学問のこと。主人公の生まれた町には鍾乳洞があって、お気に入りの場所として主人公の価値観を支えているということにした。
二泊三日の旅行で感じたことを余すとこなく使って書いた渾身の新作。ところが、大きな問題があった。
「一花……言いにくいんだけどこれ、文字数収まらないんじゃない?」
「えっ、文字数って、どのくらいだっけ」
「四百字詰めで、三十枚以内。改行にもよるけど一万文字が目安かな」
「……そんなこと、ある?」
あまりにも捗りすぎて、一週間フルにかけて完成したときには三万文字を超えていた。部誌でもあんまり出ない長さだ。
「ごめん。言えばよかった」
「いや、あたしも全く気にしてなかったから……」
ここから作品を大会に出せる長さまで削るのは至難の業、というか無理。せっかく大事に書いてきた物語がペラペラになってしまう。そんなもので勝負したくはない。
こういうとき、悩まないのがあたしだと思う。
「わかった。大会には、出せなくていいよ」
「本当にいいの? 部誌に出したのでも……」
「ううん、あれこそ出せない。今からありあわせの作品で出たって、勝負してる気にならないもん」
「じゃあ、無理にとは言わない」
大会に出さないとなれば、次の部誌のときにはもう引退しているので、この作品はもうお蔵入りだ。
「みんなには、あたしから説明するよ」
「うん」
それでも、これでいい。今度はバレーボールをやめたときみたいに、実は未練があるなんてこともない。
大会には出せないけれど、作品はみんなに読んでもらった。口を揃えて、「お蔵入りなんてもったいない」と言う。多分、最上級の誉め言葉だ。でも、あたしの気持ちは変わらなかった。
そもそもは、考えもなしに直ちゃんについて行ったところから始まった文芸。この作品がその証として残るなら、充実した二年間だったと胸を張って言えるから。身長の五センチ以上に、自分が大きくなったと言えるから。
文芸人のスペレオロジー