シルバーブレイズ(coderati訳)

シルバーブレイズ(coderati訳)

アーサー・コナン・ドイル 作

原題:Silver Braze
著者:Conan Doyle
訳者:coderati[coderati@msn.com]

<版権表示>
Copyright(C)2007 coderati
本翻訳はこの版権表示を残す限り、訳者および著者にたいして許可をとったり使用料を支払ったりすることなく商業利用を含むあらゆる形で自由に利用・複製が認められます。


複製元
https://web.archive.org/web/20100212103242/http://homepage3.nifty.com/coderachi/holms/mmrs/mmrs1.html
表紙はProject Gutenbergからの複製(Public domain)
https://www.gutenberg.org/ebooks/834

 「どうやらワトソン、行かねばなるまい。」ある日朝食の席でホームズが言った。
 「行くって!どこへ。」
 「ダートムアさ。キングズ・パイランドだ。」
 私は驚かなかった。実のところ私は、イングランド中で話題になっているこの異常な事件にまだ彼が関 わっていないことが不思議でならなかった。前日、彼はまる一日頭を垂れ、眉を寄せて部屋を歩き回って いた。いちばん強い黒煙草をパイプに何度も詰め替え、私がどんな質問をし、話を向けても、まったく耳 に入らないようだった。配達される全紙の最新版も、チラと目を通して隅に放り出すだけだった。しかし、彼が 黙っていても、何を考え込んでいるのか私にはよくわかっていた。世間を騒がし、彼の分析力を必要としてい る問題はただひとつ、ウェセックスカップの本命が姿を消した不思議、そしてその調教師が殺された悲劇 である。従って、彼がドラマの舞台へ出発するつもりであると告げたことは、私の予期し、期待していたことに ほかならなかった。
 「邪魔でなければ、ぜひ一緒に行きたいんだが」と私は言った。
 「ワトソン君、君が来てくれるのは非常にありがたい。それに時間の無駄にはならないと思うよ、これ にはまったく独特の事件になりそうな点があるからね。ちょうどパディントンで汽車に間に合いそうだし、 道中さらに詳しく問題を調べようと思う。ひとつ君の優れものの双眼鏡も持っていってくれないか。」
 そして約一時間後、私はエクセターへと飛ぶように走る一等車の隅を占め、一方シャーロック・ホーム ズは旅行用のハンティングをかぶり、鋭い、むさぼるような顔つきで、パディントンで求めた最新紙の束 にすばやく目を通していた。レディングをはるか後にした頃、彼は最後の一紙を座席の下に押し込み、葉 巻入れを私に差し出した。
 「快調に進んでるね」と彼は、窓の外を見て時計に目をやりながら言った。「現在、時速53.5マイルだ。」
 「四分の一マイル標には気がつかなかったが」と私は言った。
 「僕もさ。だがこの路線上の電信柱は60ヤード間隔で、計算は簡単だ。君もこのジョン・ストレイ カー殺しとシルバーブレイズ失踪事件については検討してみたと思うが?」
 「テレグラフとクロニクルに書いてあることは目を通したよ。」
 「これは推理家の技術を、新たな証拠の発見よりも細かい事実の選別に用いるべき事件に属する。悲劇 があまりに異常であり決定的で、しかも多くの人にとって個人的にも重大なことなので、推理、憶測、仮 説の類が氾濫しているのが悩みの種だ。報道や仮説を立てる連中が潤色した事柄から事実-明白な絶対 的事実-の骨格を切り離すのは困難なことだ。その上で、その確実な根拠を基にして、どんな結論が下せる か、全体の謎の中心をなす特殊な点がどのあたりにあるか、それを確かめるのが僕たちの務めだ。火曜の 晩に馬主のロス大佐、事件の担当のグレゴリー警部の双方から協力を求める電報を受け取ったのだ。」
 「火曜の晩!」私は叫んだ。「もう木曜の朝じゃないか。なぜ昨日行かなかったんだ?」
 「へまをやってしまったよ、ワトソン君。それがありふれたやつで、君の回想録だけで僕を知る人はそ んなことがあるとは思わないかもしれないがね。実を言うとね、イングランド一の名馬が、それも北ダー トムアのような人のまばらな場所でずっと隠れていられるはずがないと思ったんだ。昨日は一日中、馬が 見つかり、連れ出した者がジョン・ストレイカーを殺した犯人だったという知らせがあるんじゃないかと 待っていたんだ。ところが今朝になってもフィツロイ・シンプソン青年が逮捕されたほかには何もないと 言うじゃないか。行動に移るべき時だと思ったんだ。とはいえ、ある意味昨日もむだではなかったと思う よ。」
 「では考えがまとまったんだね?」
 「少なくとも僕は事件の本質にある事実をいくつかつかんだよ。ひとつ君の前で数え上げて見せよう。 事件を整理するにはひとに話すのがいちばんだし、出発点を提示しなければ君の協力は望むべくもないか らね。」
 私は背もたれのクッションに寄りかかって葉巻を吹かし、一方、ホームズは身を乗り出し、細長い人差 し指で左の手のひらを突いて要点を示しながら、私たちに旅を促した出来事の概略を語った。
 「シルバーブレイズは、」彼は言った、「アイソノミー系でその競争成績も、名高い祖先同様にすばらしい。 今五歳馬で、次々に優勝賞金を幸運な馬主、ロス大佐にもたらしている。惨事が起きるまで、ウェセック スカップの本命だったし、オッズは1.3倍だった。ところが、常に一番人気でまだ一度もファンを裏切っ たことがないので、そんな配当でも莫大な金額がこの馬に賭けられていた。従って、来週の火曜日にシル バーブレイズがスタートラインに立つのを阻止することに大勢の利害が絡んでいるのは明らかだ。
 もちろんそのことは大佐の厩舎のあるキングズパイランドでも認識されていた。できる限りの警戒をし て人気馬を守っていた。調教師のジョン・ストレイカーは体重オーバーで引退するまではロス大佐の 勝負服を着けて騎手をしていた。彼は大佐の騎手として五年、調教師として七年仕え、常に熱心に、正直 に務めてきた。構えは小さく、入厩馬は全部で四頭だけだったから、使っている若い者は三人だった。毎晩その うち一人が厩舎で寝ずの番を務め、あとの二人は二階で寝ていた。三人とも申し分のない性格だ。ジ ョン・ストレイカーは結婚して厩舎から二百ヤードほどの小さな家に住んでいた。子供はなく、メイドを 一人置き、快適に暮らしていた。このあたりは非常に寂しい地域だが、半マイルほど北にはいくらか住宅 がかたまってあって、これはタヴィストックの業者が病人やダートムアのきれいな空気を楽しみたいとい う人たちのために建てたものだ。そのタヴィストックは二マイル西にあり、また荒地を越えてやはり二マ イルほど離れて、ケイプルトンという少し大きな調教施設があり、これはバックウォーター卿の所有で、サイ ラス・ブラウンが管理している。そのほかはどちらへ行っても完全な荒地で、わずかに放浪のジプシーが 住むばかりだ。惨事の起こった月曜の晩の時点での概況はそんなところだ。
 その晩、いつものように馬たちの運動が終わって水を与えると、厩舎は九時に閉められた。若い者二人は 調教師の家まで歩いていき、キッチンで夕食を取っていたが、三人目のネッド・ハンターは残って番をし ていた。九時ちょっと過ぎ、メイドのエディス・バクスターは彼の分の夕食、マトンのカレー煮を厩舎へ 運んだ。厩舎には水の出る蛇口はあるし、当番の若い者は水以外に飲んではいけない規則なので、飲み物は 運ばなかった。非常に暗く、道は広々とした荒地を横切っていたので、メイドはランプを持っていた。
 厩舎まで三十ヤードもないという時、暗闇から男が一人現れてエディス・バクスターを呼び止めた。 ランプの放つ黄色い光の輪の中に立った男を見ると、紳士的な物腰の人で、グレーのツイードのスーツを 着て、ハンチングをかぶっていた。ゲートルを着け、握りのついた太いステッキを持っていた。しかし、 いちばん彼女の印象に残ったのは極端に青白いその顔と、そわそわした態度だった。年は三十より上だろ うと彼女は思った。
 『ここがどこか教えてもらえませんか?』と男は尋ねた。『野宿しようという気になりかけたら、その ランプの明かりが見えたんですよ。』
 『キングズ・パイランド調教厩舎の近くですわ』と彼女が言った。
 『え、ほんとに!それは運がよかった!』と彼は叫んだ。『そこには毎晩厩務員が一人で泊まるんですね。 たぶんそれが夕飯でその人に持って行くところでしょ。どう、新しいドレスの代金を稼げるんだけど、いやだなんて 固いことは言いませんよね?』男はチョッキのポケットから折りたたんだ白い紙を取り出した。『今夜こ れをその若い人に渡してくれれば、すてきなワンピースが買えますよ。』
 彼女は男の真剣な態度にぎょっとして、男を置いて厩舎の窓辺へ走った。いつもそこから食事を手渡し ていたのだ。それは既に開いていて、ハンターは中の小さなテーブルに着いていた。彼女が何があったか 話していると、再びその見知らぬ男がやってきた。
 『今晩は』と男は窓をのぞきながら言った。『少し話がしたいんですがね。』話している男の握った手 から例の紙の端がはみ出ているのに気づいた、と娘は断言している。
 『ここに何の用だ?』と若者は尋ねた。
 『君もいくらか儲かる話なんだ』と相手は言った。『君のところはウェセックスカップに二頭出るね、 シルバーブレイズとベアードだ。確かなところを教えてくれないかな、君にも損はさせないよ。斤量面か らベアードは五ハロンで百ヤード相手を離せる、だから厩舎ではそっちに金を賭けるというのは本当かな?』
 『じゃあ、おめえは予想屋のくそ野郎だな!』と若者は叫んだ。『キングズ・パイランドではそういう やつらをどうするか教えてやるぜ。』若者ははじかれたように駆け出して厩舎の犬を放しに行った。娘は 家へ逃げ帰ったが、走りながら振り返った時、見知らぬ男が窓に体を乗り入れているのが見えた。しかし、 一分後、ハンターが猟犬を連れて走り出た時には男は立ち去っていて、建物の周囲を走りまわって探した が、男は跡形もなかった。」
 「ちょっといいかな」と私が訊いた。「厩務員は犬を連れて出た時鍵をあけっぱなしにしたのかな?」
 「すばらしいよ、ワトソン、すばらしい!」と友はつぶやいた。「その点の重要性は僕も強く感じたか ら、はっきりさせるために昨日ダートムアへ電報を打ったんだ。若者は離れる前に鍵を閉めていた。 それに、窓も人が通り抜けられるほど大きくはなかった。
 ハンターは仲間の厩務員が戻るのを待ち、調教師にことづけをして、何が起こったかを伝えた。スト レイカーはその話を聞いて興奮したが、彼がそれを本当に重大なことと認識しているようには見えなかっ た。しかし、そのために彼はどこか不安そうになり、ストレイカー夫人が朝の一時に目を覚ますと、彼は 服を着けていた。彼女の質問に答えて、彼は、馬たちの事が心配で眠れないから、何も問題がないか厩舎 に確かめに行ってこようと思うと言った。彼女は窓をパラパラ打つ雨の音が聞こえるので家にいるように 彼に頼んだが、彼女が何を言おうと彼は大きなレインコートを着て家を後にした。
 ストレイカー夫人が朝七時に目覚めた時、夫はまだ戻っていなかった。彼女は急いで着替え、メイドを 呼び、厩舎へ出かけた。ドアはあいていて、中では、椅子の上にちぢこまったハンターが完全に昏睡状態 に陥り、人気馬の馬房は空で、調教師は影も形もなかった。
 馬具部屋の上の干草を置いた二階で寝ていた二人の若者が急いで起こされた。二人とも熟睡するほうな ので、夜間何も聞いていなかった。ハンターは明らかに何か強い薬のせいでもうろうとしていて、正気の 話は期待できないので、薬が抜けるように寝かしておき、若い者二人と婦人二人は消えた人馬を捜しに駆け出 した。彼らはまだ、調教師が何らかの理由で馬を早朝運動に連れ出したという希望を抱いていたが、あた りの荒地全体を見渡せる家の近くの丘に登ってみたものの、行方不明の人気馬の気配がまったく見えない だけでなく、彼らは眼前の悲劇を警告するものに気づいた。
 厩舎から四分の一マイルあたり、ハリエニシダの茂みにジョン・ストレイカーのオーバーがはためいて いた。そのすぐ向こうは鉢形にくぼんだ荒地で、その底の部分に不幸な調教師の死体が発見された。彼の 頭は重い凶器による殴打で粉砕され、また太ももにも傷があり、長い、スパッとした切り口で、明らかに 非常に鋭利な器具により負わされたものだった。しかし、ストレイカーも間違いなく、襲撃に激しく抵抗し ていた。右手には小さなナイフを握り、それは柄の方まで血が凝固していた。また左手には赤と黒の絹の ネクタイを握り締めていて、前夜厩舎を訪れた見知らぬ男が着けていたものであるとメイドが認めた。 麻痺から回復したハンターもネクタイの持ち主については断言した。同様に彼の確信するところ、 その見知らぬ男が窓の所に立っている間にマトンのカレー煮に薬を盛り、それで厩舎から見張りが 失われたのだ。行方不明の馬については、格闘があった時はそこにいたという証拠が、悲劇のくぼ地の 底のぬかるみにたくさんあった。しかし、その朝から馬は姿を消し、多額の賞金が提供され、ダートムア 中のジプシーが注意しているのに、まったく消息はなかった。最後に、厩舎にいた若い者が残し た夕食の残りを分析したところ、かなりの量のアヘンが含まれていたが、同夜調教師の家で同じ料理を食 べた人たちには何の害もなかった。
 こんなところが推測をすべて排除し、できるだけ簡潔にした事件の主要な事実だ。今度は警察がこの件 でやったことを要約してみよう。
 事件の担当のグレゴリー警部は非常に有能な男だ。想像力さえあればこの仕事で頂点まで昇りつめるか もしれない。到着すると即座に彼は当然疑いのかかるべき男を見つけ、逮捕した。男の発見はあまり難し くなかった。さっき言った住宅の集まりの一つにいたからだ。フィツロイ・シンプソンという 名らしい。この男は家柄もよく教育もあるんだが、競馬で財産を浪費してしまって、今ではロンドンのス ポーツクラブで上品なブックメーカーを地味にやって暮らしている。彼の馬券台帳を調べたところ、本命 馬の敗北に賭けられた金が総額五千ポンドになると記載されていた。逮捕された彼は自分から、ダートム アへ来たのはキングズ・パイランドの二頭の馬について、それからケイプルトン厩舎でサイラス・ブラウ ンが管理する二番人気馬、デズボローについても情報が欲しかったからだと陳述した。彼は言われるよう な行動を前夜取ったことは否認しようとしなかったが、悪事の計画はなく、ただ直接情報を得たいと思っ ただけだと断言した。ネクタイを突きつけられると彼は真っ青になり、それが殺された男の手にあっ た理由をまったく説明できなかった。彼の濡れた服は前夜の暴風雨の中を外にいたことを証明していたし、 彼の鉛を仕込んだペナン・ステッキは、繰り返し強打することで、まさしく調教師を死に至らしめたひど い傷を負わせうる武器だった。他方、彼自身はまったく怪我をしていなかったが、ストレイカーのナイフ の状態からすると、襲撃した者たちのうち少なくとも一人は傷を負っているはずだった。簡潔だがこれで 全部だよ、ワトソン、君が何か光明を投じてくれたら大いにありがたいんだがね。」
 私は興味津々で、ホームズ独特の明快な語り口で繰り広げられる話に聞き入っていた。 事実の大部分は私もよく知っていたが、それらの相対的重要性、相互の関係については充分に認識してい なかった。
 「どうだろう、」私は言ってみた、「ストレイカーの切り傷は、脳に傷害を負って痙攣するようにもが くうちに自分のナイフでつけてしまったということはありえないかな?」
 「ありうるどころか有力だ」とホームズは言った。「そうなると被疑者に有利な点のうち主なものがひ とつ消えてしまう。」
 「それでも、」私は言った、「私にはまだわからないな、警察の考えがどうなるものか。」
 「残念だが、いずれにしても僕たちは彼らに異を唱えることになりそうだ」と友は答えた。 「警察はこんなふうに思っているようだ。このフィツロイ・シンプソンが若い者に一服盛り、どうにかして合鍵を手 に入れ、厩舎のドアを開け、馬を連れ出した。どうやら誘拐してしまうつもりだったらしい。馬具がなくなっている のはシンプソンがつけたにちがいない。それから、ドアを開け放しにして馬を荒地へ導いたが、調教師に 会ったか、追いつかれたかした。当然争いになった。シンプソンは調教師の頭を重いステッキで打ったが ストレイカーが防御に用いた小さなナイフで傷を負わされることはなかった。それから、彼が馬をどこ か秘密の隠し場所に連れて行ったか、さもなければ馬が格闘中に逃げ出して今は荒れ野をさまよっている のかもしれない。警察は事件をそんなふうに考えている。ありそうもないことではあるが、ほかの説明はなおさ らありそうもないことばかりだ。しかし、現場に着き次第、直ちに問題を調べるとして、それまでは現状 から大きく進展を図る方法はまったくわからないということだ。」
 私たちが巨大なダートムアの真ん中にある盾の突起のような小さな町、タヴィストックに着いた時には 夕方になっていた。二人の紳士が駅で私たちを待っていた。一人は長身で金髪、ライオンのような髪とあ ごひげで、物問いたげで鋭敏な水色の目をしていた。もう一人は小柄で機敏な男で、こざっぱりとしたフ ロックコートとゲートルをきちんと着け、小さな頬ひげを刈り込み、片眼鏡をかけていた。後者が有名な スポーツマン、ロス大佐、他方がグレゴリー警部で、イギリス警察内で急速に名を上げている男だ った。
 「来てくださって嬉しいです、ホームズさん」と大佐が言った。「警部は思いつく限りのことをやって くれてますがね、私はあらゆる手を尽くして哀れなストレイカーの仇を討ち、馬を取り戻したいんです。」
 「何か新たな展開はありましたか?」とホームズが訊いた。
 「残念ながらほとんど進展させられませんでした。」と警部が言った。「外に馬車が待たせてあります し、きっとあなたも暗くなる前に現場を見たいでしょうから、走らせながら話をしましょう。」
 一分後、私たちは快適なランドー馬車に乗り、古風なデヴォン州の町を走らせていた。事件のことで頭 がいっぱいのグレゴリー警部は滔々と意見をまくし立て、ホームズが時折質問や言葉をさしはさんだ。ロ ス大佐は腕組みをして後ろにもたれ、帽子を目深にかぶっていたが、私は二人の探偵の対話に興味深く耳 を傾けていた。グレゴリーがまとめた見解はほとんど汽車の中でホームズが予測した通りであった。
 「フィツロイ・シンプソンのまわりに引かれた網は相当緊密ですから、」彼は言った、「あれこそ求め る男と思っています。同時に、まったくの状況証拠だし、何か新たな展開があればくつがえるかもしれな いことは認めます。」
 「ストレイカーのナイフはどう思う?」
 「我々は、彼が倒れた時に自分で傷つけたという結論に至りました。」
 「友人のワトソン博士も来る途中、それを示唆したよ。そうすると、そのシンプソンという男には不利 になるね。」
 「明白ですね。彼にはナイフも傷を受けた様子もありません。彼に不利な証拠は間違いなく非常に強力 です。本命馬の失踪に重大な利害関係がありました。厩舎の若い者に毒を盛った疑いがあります。嵐の中 を外にいたのも確かです。重いステッキで武装し、ネクタイは死んだ男の手で見つかりました。もう充分 陪審の前に出られると思いますが。」
 ホームズは首を横に降った。「利口な弁護士なら全部ズタズタにしてしまうさ」と彼は言った。「なぜ 彼は馬を厩舎から連れ出さなければならなかったのか?傷つけるつもりなら、なぜその場でできなかった のか?合鍵は彼の所有物の中に発見されたか?粉末アヘンを彼に売った薬剤師は誰か?土地に不慣れな男 が馬を、それもそのような馬をどこへ隠したのか?厩舎の若い者に渡して欲しいとメイドに言った紙につ いて彼自身は何と説明していますか?」
 「十ポンド紙幣だと言ってます。一枚財布の中にありました。しかしあなたのおっしゃるほかの難点は 思ったほど手ごわいもんじゃありませんよ。あれは土地に不慣れな男じゃありません。夏に二度、タヴィ ストックで宿をとったことがあるんです。アヘンはおそらくロンドンから持ってきたんです。鍵は、 役目が済むと投げ捨てたのでしょう。馬は荒地の穴か古い抗のひとつの底にいるかもしれません。」
 「ネクタイのことは何て言ってますか?」
 「自分のだと認めてなくしたんだと言い張ってます。しかし事件に新しい要素が加わりましてね、それ が厩舎から馬を連れ出したことの説明になるかもしれませんよ。」
 ホームズが耳をそばだてた。
 「ジプシーの一団が月曜日の夜に殺人現場から一マイル以内にキャンプしたことを示す跡を見つけたのです。 それが火曜日には立ち去っています。そこで、シンプソンとそのジプシーたちが何か示し合わせていたと仮 定すると、彼らの所へ馬を連れて行ったところで追いつかれた、従って馬は今彼らが連れているというこ とはありえませんか?」
 「確かにありうるね。」
 「そのジプシーたちを荒地で捜索しています。それからタヴィストック及び半径十マイルの範囲で厩舎 と納屋をすべて調べました。」
 「ごく近くにもうひとつ調教厩舎があるようだね?」
 「ええ、それも決して無視するわけにはいきません。彼らの馬、デズボローは二番人気ですから、本命馬の失 踪には利害関係があります。話によると調教師のサイラス・ブラウンはこのレースに大金を賭けており、 死んだストレイカーとは仲がよくありませんでした。しかし、厩舎を調べましたが、事件と彼を結 びつけるものはありません。」
 「それでそのシンプソンという男とケイプルトン厩舎の利益を結びつけるものもないんだね?」
 「まったくありません。」
 ホームズは馬車の背にもたれ、会話は途絶えた。数分後、道路の脇に立つ、軒の張り出した、赤レンガ のこぎれいな小住宅の所で御者が止めた。少し離れて、放牧場の向こうに、グレーのタイル張りの長々と した離れがあった。それ以外の方向はすべて、低い、湾曲した荒地が、しおれたシダでブロンズ色になっ て地平線まで続き、わずかにタヴィストックのいくつかの尖塔と、遠く西にケイプルトン厩舎を示すひと かたまりの家が見えるだけだった。私たちは皆飛び降りたが、ホームズだけは相変わらず後ろにもたれ、 前方の空に目を据え、すっかり物思いに沈んでいた。私が腕に触れるとようやく彼は我に返ってひどくび っくりし、馬車を降りた。
 「失礼」と、彼は少し驚いて彼を見ているロス大佐の方を向いて言った。「白日夢を見ていました。」 彼の目はきらめき、その様子には押し殺した興奮が見えたので、彼の癖に慣れている私は、彼が手がかり をつかんだことを確信したけれども、どこにそれを発見したのかは想像もつかなかった。
 「すぐに犯行現場に行きたいでしょうね、ホームズさん?」とグレゴリーが言った。
 「できればしばらくここでひとつふたつ細かい点を調べてみたいと思います。ストレイカーはこち らに戻したんでしょうね?」
 「ええ、二階に安置してあります。検死は明日です。」
 「何年かあなたのところに勤めていたんですね、ロス大佐?」
 「いつも良くやってくれていました。」
 「彼が死んだ時にポケットに入っていた物の目録は作ったろうね、警部?」
 「あなたがごらんになりたければそのものが居間にありますよ。」
 「実にありがたいことだね。」私たちがぞろぞろと居間へ通り、真ん中のテーブルの周りに座ったと ころで、警部が四角いブリキの箱の鍵をあけて目の前に品物を小さく積み上げた。蝋マッチの箱、二イ ンチの獣脂ローソク、ADPのブライアー・パイプ、アザラシの革の小袋に半オンスのロングカットのキャ ベンディッシュ、金の鎖のついた銀時計、ソブリン金貨五枚、アルミの筆箱、紙が数枚、そして象牙の柄 のナイフの刃は非常に鋭くて堅く、ロンドンのウェイス商会の刻印があった。
 「非常に変わったナイフだ」とホームズはそれを持ち上げて綿密に調べながら言った。「血のしみがつ いているところを見ると死んだ男の手で発見されたものだね。ワトソン、このナイフは間違いなく君の専 門だろう?」
 「私たちが白内障ナイフと呼んでいるものだ」と私は言った。
 「そうだと思った。非常に精巧な刃はきわめて精密な仕事をするためだ。荒仕事に出かけるのに持って いくには奇妙なしろものだし、ましてやポケットにしまっておけないからねえ。」
 「先端を保護する円形のコルクが死体の傍らにありました」と警部が言った。「奥さんの話では、化粧 テーブルの上にあったそのナイフを部屋を出る時に持っていったそうです。貧弱な武器ですが、その瞬間 に手に入るものの中ではたぶん最善だったのでしょう。」
 「おそらくはね。紙がいくつかありましたね?」
 「三枚は領収済みの干草業者の勘定書き、一枚はロス大佐の指示書です。あとの一枚は婦人帽子・服の店の 三十七ポンド十五シリングの請求書で、ウィリアム・ダービーシャー宛て、ボンド街のマダム・ルシュリエ からのものです。ストレイカー夫人の話ではダービーシャーは夫の友人で、時々手紙がここに宛てられて来 るそうです。」
 「ダービーシャー夫人の趣味はちょっと高くつくね」とホームズは請求書を見やりながら言った。「一点 で二十二ギニーとはかなりなものだ。しかしもう知るべきこともなさそうだし、犯罪現場に行くとしよう か。」
 居間を出ると廊下で待っていた女性が歩み出て警部の袖口に手を触れた。熱心さの表れたその顔はやつ れ、やせ、最近の恐怖の痕が刻み付けられていた。
 「連中は捕まりましたの?見つかりましたの?」彼女はあえぎながら言った。
 「いいえ、ストレイカーさん。しかしロンドンからホームズさんが助けに来てくれましたし、われわれ はできる限りのことをします。」
 「確か少し前にプリマスでの園遊会でお会いしましたね、ストレイカーさん?」とホームズが言った。
 「いいえ、人違いですわ。」
 「おや!いや、絶対と思ったんですが。あなたはダチョウの羽飾りのついた赤っぽいグレーのシルクの 衣装でいらした。」
 「そのような服は持ってませんわ」と夫人は答えた。
 「ああ、それでは間違いありませんね」とホームズは言った。そしてわびを言い、警部に続いて外へ出た。荒 地を少し歩くと死体が発見されたくぼ地に着いた。その縁にハリエニシダの茂みがあり、そこにコートが かけてあった。
 「その晩は風がなかったんですね」とホームズが言った。
 「ええ、でもひどい雨でした。」
 「そうするとオーバーは茂みまで飛ばされたのではなく、そこに置かれたわけだ。」
 「ええ、茂みの上に置いてあったのです。」
 「実におもしろいね。地面はだいぶ踏み荒らされているようだね。おそらく月曜の晩以来大勢が歩い たろうね。」
 「この脇にマットを一枚置いてみんなその上に立ちました。」
 「すばらしい。」
 「このバッグにストレイカーのはいていたブーツの片方、シンプソンの靴の片方、シルバーブレイズの 蹄鉄を持ってきました。」
 「警部さん、上出来!」ホームズはバッグを受け取り、くぼ地に降り、マットをさらに中央にずらした。 それから彼はうつぶせに寝そべり、あごを手にのせて、目の前の踏み荒らされた泥を入念に調べた。「お や!」と突然彼が言った。「なんだこれは?」それは半分焦げた蝋マッチで、泥まみれだったので初めは 小さな木屑に見えた。
 「どうして見逃すようなことをしたんだろう」と警部は悔しさをあらわにして言った。
 「泥に埋まって見えなかったんですよ。僕は捜していたからこそ見えたんです。」
 「なんと!見つかるものと思っていたんですか?」
 「たぶんそうじゃないかとね。」
 彼はバッグから靴を取り出し、それぞれの型を地面に残った跡と比較した。それから彼はくぼ地のへり まではい登り、シダや茂みの中をはいまわった。
 「そこらにはもう跡はないと思いますよ」と警部が言った。「四方百ヤードは念には念を入れて地面を調 べましたから。」
 「そうですか!」とホームズは言って立ち上がった。「そうおっしゃるならまた繰り返すのは失礼になりま すね。しかし、暗くなる前に少し荒地を歩いて明日のために土地勘を養いたいですね。それと幸運を願っ てこの蹄鉄をポケットに入れておこうかな。」
 友の静かで組織的な仕事のやり方にやや苛立ちを見せていたロス大佐は時計に目をやった。「警部には 私と一緒に戻っていただきたい」と彼は言った。「いくつかの点で助言をいただきたいんですよ、特に、 レース登録から私たちの馬の名を除外するという発表が必要かどうかについてね。」
 「とんでもない」と、決然としてホームズが叫んだ。「僕ならそのままにさせます。」
 大佐はお辞儀した。「そう伺って非常に嬉しい」と彼は言った。「散歩が終わるのをストレイカーの家 で待ってますので、それから一緒にタヴィストックへ馬車で行きましょう。」
 彼は警部と引き返し、一方、ホームズと私は荒地をゆっくりと歩いた。太陽はケイプルトン厩舎の向こ うに沈もうとしており、目の前をどこまでも続く傾斜した平原は金色を帯び、ところどころしおれたシダ やイバラが夕陽をとらえて濃い赤茶色に染まっていた。しかし、そのすばらしい景色も、深く物思いに沈 んだ友にはまったく無益だった。
 「こういうことなんだ、ワトソン」と、ようやく彼が言った。「僕たちは、ジョン・ストレイカーを殺 したのが誰かという問題をひとまず置いて、馬がどうなったのか見つけ出すことに絞って差し支えない。 そこで、悲劇の最中、あるいはその後に馬が逃げ出したとして、どこに行ったろうか?馬は非常に群れを 好む動物だ。一頭になれば、本能によってキングズ・パイランドに戻るかケイプルトンへ行くかするはず だ。荒地を走り回ったりするものか。それなら間違いなくもう見つかっているはずだ。それにどうしてジ プシーが誘拐したりするものか。この人たちは面倒事と聞けば必ず立ち去るんだ。警察にうるさくされる のは嫌だからね。そんな馬を売ろうなんて期待はできない。馬を連れていっても、彼らには危険が大きい ばかりで得るものはない。まったく明らかなことだ。」
 「ではどこにいるだろう?」
 「既に言ったように、キングズ・パイランドかケイプルトンに行ったはずだ。キングズ・パイランドに はいない。従ってケイプルトンにいる。これを作業仮説として、それでどうなるか見てみよう。荒地のこ の部分は警部も言ったように非常に固く、乾いている。しかし、ケイプルトンに向かって傾斜していて、 ここからでも見えるだろう、向こうに長いくぼ地があるじゃないか。あそこは月曜の晩には相当湿ってい たにちがいない。僕たちの推測が正しければ、馬はあそこを横切ったにちがいないから、あれこそ僕たち が蹄跡を捜すべき場所だ。」
 この会話の間も私たちは足早に歩き続け、数分後には問題のくぼ地についた。ホームズの求めで、私は 土手を右へ、彼は左へ歩いたが、五十歩も行かないうちに彼の叫び声を聞き、彼が手を振って合図するの が見えた。彼の前の柔らかい土に輪郭のはっきりした馬の蹄跡があり、彼がポケットから取り出した蹄鉄 はその跡とぴったり一致した。
 「想像力に感謝しないとね」とホームズが言った。「グレゴリーには欠けている性質のひとつだ。 僕たちは何が起こったか想像し、その仮定に基づいて行動し、それが正しかったわけだ。続けよ うか。」
 私たちは湿地の底を横切り、四分の一マイルほどの乾いた、硬い芝地を越えた。再び地面は傾斜し、再 び私たちは足跡に出くわした。その後半マイル見失ったが、ケイプルトンのすぐ近くでもう一度それを発 見した。最初に見つけたのはホームズで、いかにも勝ち誇った顔で立ち、指差していた。男の足跡が馬の それの横に見えていた。
 「さっきは馬だけだった」と私は叫んだ。
 「その通り。さっきは馬だけだった。おや、これはなんだ?」
 二列の足跡は急転回し、キングズ・パイランドへ向かっていた。ホームズは口笛を吹き、私たち二人は それをたどっていった。彼の目は足跡を追っていたが、私がたまたまちょっと脇に目をやると、驚いたことに 同じ足跡がまた反対方向に戻ってきているのが見えた。
 「一本取られたね、ワトソン」と、ホームズは私の指摘に言った。「おかげでよけいに歩かずに済んだ。 来た道を戻ってくることになるからね。戻っている足跡をたどろう。」
 遠くまで行く必要はなかった。それはケイプルトン厩舎の門へ続くアスファルトの舗装の所で終わって いた。私たちが近づくと、厩務員が門から走り出た。
 「ここらをうろうろしてもらいたくないね」と彼は言った。
 「ちょっと訊きたいだけなんだ」とホームズは親指と人差し指をチョッキのポケットに入れて言った。 「先生のサイラス・ブラウンさんに会いたいんだけど、明日の朝五時に来たんでは早すぎるかな?」
 「すまないね、だんな、起きてるとすりゃテキだね。いつもテキがいちばんに起き出すから。でもそこ に来たから自分で返事するでしょうよ。いや、いや、だんなの金に手を出してるとこなんか見られたら首 になっちまう。よかったら後で。」
 シャーロック・ホームズがポケットからつまみ出した半クラウンを戻した時、険しい顔の初老の男が手 にした狩猟鞭を振りながら門から大またに出てきた。
 「どうした、ドーソン!」と男は叫んだ。「むだ口をたたくな!ちゃんと仕事をしろ!それからあんた たち、いったいここに何の用だ?」
 「十分ばかりお話がしたいんですがね」とホームズは非常に優しい声で言った。
 「ぶらぶら遊んでるようなのと話してる時間はないんだ。よそものには来てほしくないね。出て行け、 さもないと犬をけしかけるぞ。」
 ホームズは身を乗り出し、調教師の耳に何事かささやいた。男はひどくびっくりしてこめかみまで赤く なった。
 「嘘だ!」彼は叫んだ。「とんでもない嘘だ!」
 「結構。じゃあ人前でお話ししますか、それともお宅の居間で相談しましょうか?」
 「ああ、お望みなら中へどうぞ。」
 ホームズは微笑んだ。「何分も待たせやしないよ、ワトソン」と彼は言った。「さあ、ブラウンさん、 おっしゃるとおりにしましょうか。」
 二十分たち、赤い色はすっかりあせて灰色になり、ホームズと調教師が再び現れた。その短時間にサイラ ス・ブラウンにもたらされたほどの変わりようを私は見たことがない。顔はすっかり青ざめ、汗の玉が額 に光り、手はぶるぶる震えて狩猟鞭が風の中の枝のように揺れていた。威張り腐った横柄な態度もすっか り消え、主人に寄りそう犬のように我が友にこびていた。
 「お指図どおりにします。全部その通りに」と彼は言った。
 「間違いは許されないからな」と、ホームズは振り返ってブラウンを見て言った。相手は彼の目に威嚇 を見て縮みあがった。
 「ああ、はい、間違いはいたしません。必ずそこへ。先に変えておいたほうがいいでしょうか?」
 ホームズは少し考えていたが急に笑い出した。「いや、まだだ、」彼は言った、「そのことは後で指示 する。もうだまそうとするな、さもないと--」
 「おお、信じてください、ご期待にこたえます!」
 「ああ、そうだろうな。じゃ、明日連絡するから。」彼は相手が差し出した震える手を無視してきびす を返し、私たちはキングズ・パイランドへと向かった。
 「サイラス・ブラウン師ほど徹底的な威張り屋の臆病者の卑怯者には会ったことがない。」一緒 にてくてく歩きながらホームズが言った。
 「では馬はあそこなんだね?」
 「大声を出してごまかそうとしたが、あの朝やつが取った行動を正確に描写してやったら、僕が見てい たものと信じこんでね。もちろん君は、足跡の異様に角張ったつま先や、あの男自身の靴がぴったりそれ に一致することに気づいたろう。それにもちろん、下の者がそんな思い切ったことをするはずがない。僕 はね、いつものようにあの男がいちばんに下りてきて、荒地をうろついているよその馬に気づいた、その 様子を話してやったんだ。すなわち、彼は荒地へ出かけて、本命馬の名前の由来となった白い額を見て、あの男が金 を賭けている馬を負かすことができる唯一の馬を偶然にも自由にできることを知って驚いた。それ から、最初は思わずキングズ・パイランドへ連れて戻ろうとしたが、レースが終わるまで馬を隠しておく 方法を悪魔がささやき、馬を連れて引き返しケイプルトンに隠したんだ。細かい所まで全部話してやると、 やつはあきらめて自分が助かることだけを考えた。」
 「しかしあの厩舎も捜索されたろう?」
 「ああ、ああいう年季の入ったいかさま調教師ならいくらでもごまかせるさ。」
 「しかし、今やつの手に馬を残してきて心配はないのか、どうしたって傷つけるほうがやつには得だろ う?」
 「ねえ君、あの男は馬を虎の子同様に守るだろうよ。容赦してもらうには無事にレースに出すほかはな いと知っているからね。」
 「いずれにせよロス大佐はあまり容赦しそうもない人物という印象を受けたが。」
 「ロス大佐は問題じゃない。僕は自分のやり方に従うし、自分の言いたいだけしか話さない。それが私 立探偵の強みだ。君は気づいたかどうか知らないが、ワトソン、大佐の僕に対する態度はほんのちょっと ばかり傲慢だったじゃないか。そこで大佐をいけにえにして少し楽しませてもらおうと思うんだ。大佐に は馬のことは言わないでくれたまえよ。」
 「君の許可がなければ絶対言わないよ。」
 「それにもちろんこれは誰がジョン・ストレイカーを殺したのかという問題と比べると、全然大したこ とではない。」
 「では君はそっちに専念するんだね?」
 「ところがどうして、僕たち二人は夜汽車でロンドンに戻るんだ。」
 私は友の言葉に仰天した。私たちはデヴォン州に数時間いただけであり、かくも鮮やかにスタートした 捜査を放り出していくことが私にはまったく理解できなかった。調教師の家へ戻るまで彼からそれ以上の 言葉を引き出すことはできなかった。大佐と警部は客間で私たちを待っていた。
 「友人と僕は夜の急行でロンドンに帰ります」とホームズは言った。「ダートムアのきれいな空気を吸 うのもいいものですね。」
 警部は目を丸くし、大佐の唇は冷笑にゆがんだ。
 「ではストレイカー殺しの犯人を捕まえるのはあきらめたんですね」と彼は言った。
 ホームズは肩をすくめた。「確かに非常に難しい問題が立ちふさがっています」と彼は言った。「しか し、あなたの馬が火曜日に出走する望みは充分ですから、騎手の手配をお願いします。ジョン・ストレ イカー氏の写真をいただけませんか?」
 警部は封筒から一枚取り出して彼に手渡した。
 「グレゴリー君、君は僕に入用なものをすべて見越してますね。ここでちょっと待っていただければ、 メイドに質問したいことがあるんですがね。」
 「ロンドンの探偵さんにはちょっと失望したと言わざるをえませんね。」友が部屋を離れるとロス大佐 は遠慮なく言った。「あの男が来てから何も進んでないようだ。」
 「少なくともあなたの馬が走ると保証しましたよ」と私は言った。
 「ええ、保証はもらいましたがね」と彼は肩をすくめて言った。「馬を返してもらったほうがいい。」
 私が友を弁護して何か答えようとした時、彼が部屋へ戻ってきた。
 「さて皆さん、」彼は言った、「いつでもタヴィストックへ参りますよ。」
 馬車に乗り込む私たちに、厩務員の一人がドアを押さえていてくれた。突然何か思いついたのか、ホー ムズは身を乗り出し、若い者の袖に触れた。
 「放牧場に羊が二、三頭いたね」と彼は言った。「世話してるのは誰だね?」
 「私です。」
 「最近どこか具合が悪くないかな?」
 「そうですね、大したことはないですが、三頭足が悪くなりました。」
 ホームズが恐ろしく喜んでいるのがわかった。くすくす笑い、両手をこすり合わせていたのである。
 「大穴だよ、ワトソン、大穴的中だ」と、彼は私の腕をつねりながら言った。「グレゴリー、この 羊たちに流行している奇妙なことにぜひ注意してくれたまえ。さあ、やってくれ!」
 ロス大佐の表情には、既に作り上げてしまった友の能力に対する貧弱な見解がいまだに表れていたが、 警部の顔は注意が鋭く喚起されたことを示していた。
 「それが重要だとお考えなんですね?」と彼は尋ねた。
 「きわめてね。」
 「何か注意すべき点がありますか?」
 「あの夜の犬に関する奇妙なことに。」
 「あの夜犬は何もしませんでしたよ。」
 「それが奇妙なことだ」とシャーロック・ホームズは言った。

 四日後私たちは再び車中にあり、ウェセックス・カップのレースを見にウィンチェスターへ向かった。 ロス大佐と約束して駅の外で会い、私たちは彼の馬車で、町を出たところにあるコースへ行った。彼の顔は 厳粛で、態度は極端に冷淡だった。
 「とうとう私の馬を見られなかった」と彼は言った。
 「見ればご自分の馬とわかるでしょうね」とホームズは尋ねた。
 大佐は恐ろしく腹を立てた。「二十年競馬に関わっているが今まで一度もそんな質問をされたことはあ りません」と彼は言った。「白い額とまだらの前脚を見れば子どもでもシルバーブレイズとわかります。」
 「賭けはどうなってます?」
 「ええ、そこが奇妙なところなんです。昨日は16倍で買えたんですが、オッズがどんどん下がって、と うとう今では4倍でも買えなくなりました。」
 「フム!」とホームズは言った。「誰か何か知ってるな、それは明白だ。」
 馬車が場内の観覧席近くに止まった時、私は出走馬を確かめるため番組表に目をやった。

ウェセックス盃、登録料50ソブリン(半額没収)、付加賞金1000ソブリン、四、五歳馬。 二着300ポンド、三着200ポンド。新コース(一マイル五ハロン)。
1 ヒース・ニュートン氏 ザニグロ 赤帽、シナモンジャケット
2 ワードロー大佐 ピュージリスト 桃帽、青と黒のジャケット
3 バックウォーター卿 デズボロー 黄帽、黄袖
4 ロス大佐 シルバーブレイズ 黒帽、赤いジャケット
5 バルモラル公爵 アイリス 黄と黒の縞
6 シングルフォード卿 ラスパー 紫帽、黒袖

「我々はもう一頭の出走を取り消してあなたの言葉にすべての望みを託したのです」と大佐は言った。 「おや、何だって?シルバーブレイズが本命?」
 「シルバーブレイズ、1.8倍!」と馬券屋が叫んでいた。「シルバーブレイズ1.8倍!デズボロー4倍! ほかの全馬で1.8倍!」
 「次々出てくる」と私は叫んだ。「みんなで六頭いる。」
 「六頭全部いるって?では私の馬も走るのか?」と大佐は非常に興奮して叫んだ。「しかしあれは見え ないが。私の勝負服は通らなかった。」
 「まだ五頭通っただけです。今度のがそうにちがいない。」
 私がそう言うと、一頭の力強い鹿毛の馬が検量場からさっと近づきキャンターで私たちの前を通り過ぎ た。その背には有名な、大佐の赤と黒をのせていた。
 「あれは私の馬ではない」と馬主は叫んだ。「あの馬の体には白い毛がない。いったい何をしたんです、 ホームズさん?」
 「まあ、まあ、どんな具合か見てみましょう」と友は落ち着いて言った。彼は数分間私の双眼鏡を覗いて いた。「よし!すばらしいスタートだ!」と彼は不意に叫んだ。「あそこだ、コーナーをまわってくる。」
 私たちの馬車は直線を向いた彼らを見るのに絶好の位置取りだった。六頭はカーペット一枚で隠せるほ どのだんご状態だったが、ケイプルトン厩舎の黄色が直線半ばで先頭に立った。しかし、私たちの前でデ ズボローは脚色いっぱいになり、大佐の馬が仕掛けて抜け出し、ライバルに優に六馬身の差をつけてゴールを 駆け抜け、バルモラル公爵のアイリスが離れた三着で入った。
 「とにかく勝った」と、大佐は両目を手でこすりながらあえぎあえぎ言った。「白状すると何が何だかわか りません。いいかげん謎を明かしてくださってもいいんじゃないですか、ホームズさん。」
 「もちろん、大佐、あなたにもすっかりおわかりになりますよ。みんなで行って一緒に馬を見ようじゃ ありませんか。さあここにいます。」馬主とその友人のみが入場を許される検量場に向かいながら彼は続 けた。「アルコールで顔と足を洗ってやりさえすればいい、そうすれば元のシルバーブレイズに間違いな いとわかるでしょう。」
 「驚きました!」
 「僕はこの馬がペテン師の手にあるのを見つけましたが、失礼ながら運ばれてきた時のままで出走させ たのです。」
 「いやあなた、奇跡ですよ、これは。馬は非常に元気のようです。生涯最高の出来ですね。あなたの能力 を疑ったりして幾重にもお詫びしなければなりません。私の馬を取り戻していただき、なんと言っ てよいやら。この上はジョン・ストレイカーを殺した者を捕らえていただければ本当に助かるのですが。」
 「それは済ましました」とホームズは静かに言った。
 大佐と私は唖然として彼を見つめた。「捕まえたんですって!では、どこにいるんです?」
 「ここにいます。」
 「ここ!どこです?」
 「今この瞬間、この中にいます。」
 大佐は怒って赤くなった。「あなたに恩義があるのはよく承知していますがね、ホームズさん、」彼は 言った、「しかしあなたが今おっしゃったことはまったくたちの悪いジョークか侮辱としか思えません。」
 シャーロック・ホームズは笑った。「大丈夫、あなたが犯罪に関係しているなどと言ってはいません」 と彼は言った。「真犯人はあなたの真後ろに立っています。」彼は大佐の横を通り、その手をサラブレッ ドのつややかな首にかけた。
 「この馬が!」と大佐も私も叫んだ。
 「そう、馬です。それが自衛のためだったということ、そしてジョン・ストレイカーがまったく信頼に 値しない男だったことを言えば、その罪も軽くなるというものでしょう。しかしベルが鳴っている、次のレ ースは少しばかり勝てそうですので、長々しい説明は適当な時期まで延期するとしましょう。」

 私たちはその夜、寝台車の一角を独占し、ロンドンへの帰路を疾走していたが、私同様、大佐にとって もそれは短い旅だったのではないかと思う。というのも私たちは、あの月曜日の夜、ダートムアの調教厩 舎で起こった数々の出来事、そしてそれらを解明した方法についての友の語りに耳を傾けていたからだ。
 「実を言うと、」彼は言った、「僕が新聞報道から立てた仮説はどれも間違いでした。それでも、暗示 的事実もあったのですが、ほかの枝葉の事に覆われて、それらの真の意味は隠されていました。僕はフィ ツロイ・シンプソンを真犯人と確信しつつデヴォン州へ向かいましたが、もちろん、彼に対する証拠が決 して完全でないことはわかっていました。馬車に乗っていてちょうど調教師の家へ着いた時です、僕は羊 のカレー煮が途方もなく重要であることに思い至りました。覚えてますか、あなた方がみんな降りた後、 僕は放心して座ったままだったでしょう。僕はどうしてこんな明白な手がかりを見逃すことができたのか と心中驚いていたんです。」
 「実を言うと、」大佐が言った、「それが何の役に立つのか、今でも私にはわかりません。」
 「それが僕の推理の鎖の最初の環です。アヘン末は決して無味なものではありません。嫌な味ではあり ませんが、気づかれてしまいます。普通の料理に混ぜたら食べた人はすぐに気づいておそらくそれ以上食 べないでしょう。カレーこそこの味をごまかす媒体です。どう考えても、このよそ者のフィツロイ・シンプ ソンにその夜の調教師一家にカレーが出るようにさせることは無理ですし、たまたま味を隠せる料理が出 されるその夜にたまたま彼もアヘン末を持ってきたと仮定するのも、それこそあまりにばかげた偶然の一 致です。これはとても考えられません。従って、シンプソンは事件から除外され、我々の注意は、その夜 の食事に羊のカレー煮を選択できる二人の人間、ストレイカー夫婦に集中するわけです。アヘンは厩舎にいる 若い者の料理を取り分けた後で加えられました。同じ夕食がほかの人には無害だったからです。では、 メイドに見られることなくその料理に近づけたのは夫婦のどちらでしょう?
 既に僕は犬が静かにしていた意味をつかんでいましたので、その問題も解決しました。正しい推論は常 にほかの事をも示唆するものです。シンプソンのエピソードから厩舎に犬が飼われていることを僕は知り ました。ところが、誰かが中に入って馬を連れ出したにもかかわらず、犬は二階の若い者二人を起こすほ どには吠えなかったのです。明らかに夜中の訪問者は犬がよく知っている者です。
 僕は既にジョン・ストレイカーが真夜中に厩舎へ行き、シルバーブレイズを連れ出したという確信、あ るいはそれに近いものを得ていました。目的は何か?明らかに不正のためです、さもなければ自分が使 っている者に薬を盛る必要はありません。それにしてもなぜなのか、私にはわかりませんでした。これま でにも調教師が代理人を使って自分の馬の対抗馬に賭け、それから不正手段により自分の馬が勝たないよ うにして大金が手に入るようにした例はありました。ある時は騎手の八百長、ある時はもっと確実で巧妙 な手段でです。この場合は何か?彼のポケットの中身が結論を出すのに役立つのではないかと思いました。
 果たしてその通りでした。覚えておいでですね、死んだ男の手に見つかった奇妙なナイフを。正気の人 間なら絶対武器に選ぶはずのないナイフです。あれはワトソン博士も言ったように、きわめて微妙な外科 手術に使われるメスの一種です。そしてあの夜も微妙な処置に使われるはずだったのです。ロス大佐、あ なたも競馬界での広い経験からご存知でしょうが、馬の腿の腱にわずかな傷をつけること、それもまった く痕を残さないように皮下で行うことは可能です。そうすると馬はわずかに跛行するようになりますが、 過度の運動によるコズミか軽いリューマチとみなされ、決して不正行為とは思われません。」
 「悪党!ならず者!」と大佐は叫んだ。
 「それでジョン・ストレイカーがあの馬を荒地に連れ出した理由が説明できます。闘志満々の生き物が ナイフで刺されるのを感じたらどんなに熟睡している人でも必ず起こしてしまいますから。絶対に屋外で やる必要があったのです。」
 「私は何もわかっていなかった!」と大佐は叫んだ。「むろんそれでろうそくが必要だったし、マッチ をすったんですね。」
 「その通りです。しかし、彼の所持品を調べた結果、幸運にも犯行の方法ばかりかその動機まで知るこ とができました。世の中をよくご存知の大佐から見てどうです、他人の勘定書きをポケットに入れて持っ て歩く人間がいますか。だいたい自分の支払いの分を持ってればたくさんでしょう。僕はすぐにス トレイカーは二重生活を送っていて第二の所帯を維持しているものと断定しました。請求書の性質からす ると、これには女性がからんでいて、それも金のかかる好みをしています。あなたがいくら使用人に対して 気前がよいといっても、夫人に二十ギニーの外出着を買ってやれるとはとても思えません。僕はその服の ことをそれとなくストレイカー夫人に尋ね、それが彼女の手に入っていないと得心し、洋服屋の住所を書 きとめ、ストレイカーの写真を持ってそこを訪ねれば、この架空のダービーシャーのことは簡単に解決で きると思いました。
 そこからはすべて明白です。ストレイカーは明かりを見られないですむくぼ地へ馬を連れ出す。シンプ ソンが逃げる時に落としたネクタイをストレイカーは何か考えがあって拾う、おそらく馬の足を固定す るために使おうと思ったのでしょう。くぼ地に着くと彼は馬の後ろに回って火をつけました。ところが馬 は突然のまぶしい光に驚き、動物の不思議な本能によって何か危害が加えられようとしていると感じ、激 しく蹴り上がり、蹄鉄がストレイカーの額をまともに打ったのです。彼は難しい仕事をやってのけるため に、雨にもかかわらず、既にコートを脱いでいて、それで、倒れた時にナイフで腿を傷つけたのです。お わかりいただけたでしょうか?」
 「すばらしい!」大佐が叫んだ。「すばらしい!その場にいらっしゃったようだ!」
 「実を言うと、最後は大穴狙いの当てずっぽうでした。ストレイカーのような抜け目のない男がろくに 練習もしないで腱を切るような難しいことはするまいという気がしたのです。何を使って練習できたでし ょう?羊に目が留まり、質問をして、僕の推測が正しいとわかった時にはむしろびっくりしましたよ。
 ロンドンに戻って訪ねた洋服屋は、ストレイカーをダービーシャーという名の上得意で、高価なドレス が大好きなすごく派手な奥さんがいる人であると認めました。この女のために彼が借金で首が回らなくな り、それで卑劣な策略に走ったのは間違いありません。」
 「ひとつだけ説明していただいてないですよ」と大佐は叫んだ。「馬はどこにいたんですか?」
 「ああ、逃げ出して近所の人が世話していたんです。そのへんは容赦しなければならないと思いますよ。 どうやらカルパム・ジャンクションのようです、十分もしないうちにビクトリア駅に着きますね。僕たち の部屋で一服いかがですか、大佐、ほかにご興味を引く点がありましたら、喜んで何なりとお答えします よ。」

シルバーブレイズ(coderati訳)

シルバーブレイズ(coderati訳)

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-06-04

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY