約束 The Assignation

約束 The Assignation

エドガー・アラン・ポー 作

プロジェクト杉田玄白(https://genpaku.org/)正式参加テキスト

訳:李 三宝 <ICG01127@nifty.com>

© 2002 李 三宝
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複製元
https://www.genpaku.org/poe/assignation.html
表紙はProject Gutenbergからの複製(Public domain)
https://www.gutenberg.org/ebooks/2148

追悼


  この地にて我を待たなむ!
  空ろなるこの狭間にて、我、必ずや君とあい見む
     (妻の埋葬に立ち会って。 詠人 チチェスターの司教 ヘンリーキング)

 何という謎を秘めた不仕合わせな人よ! 己が魂の輝きに戸惑い、燃え立つ青春の炎で己が身を焼き崩してしまうとは! いま一度、空想の世界で君の姿を捉えよう! 再び私の前に君が立ち現れるのだ! 否、冷たく陰鬱な谷底に眠る今の姿ではない。君のベニス、幻の如きその街で、 壮美な世界に浸り続け、意味もなく日々を過ごしていた日の真実の君の姿だ。ベニスは天に愛でられし海の桃源郷、だが、運河に面して建つパラディオン様式の館の広い窓は、静かな流れに隠された秘め事を、耐え難く計り知れない思いで見下ろしている。そうだ!もう一度言おう。君の真実の姿と。確かに、この世界とは違う別の世界がある。 多くの凡人達の思想とは相容れない思想があり、詭弁家の理論とは異なる理論があるのだ。そうならば、一体誰が君のふるまいに異論を差し挟むことができようか? 空想の世界に参じている君を誰が責め、それに明け暮れる生き方など人生の浪費だ、尽きることを知らない精力が全て溢れ出ているだけなのだ、と誰が君を非難できよう?

 私がいま話している人物に3度目か4度目に会ったのは溜息橋と呼ばれている屋根付きの橋の下でした。その時のことを思い出そうとしているのですが、別の記憶と入り交ざって混乱してしまうのです。でも、覚えているのは、ああ!そうですとも、どうして忘れられるでしょう? 暗黒の夜、美しき女人、「溜息橋」、狭い運河を上がったり下がったりゆっくり忍び寄る「恋の守り神たち」のことを。
 その日は、いつになく暗い宵でした。サンマルコ広場の大時計はイタリアの日没を知らせる第5時の鐘をとっくにならし終えていました。 鐘楼のある広場には人の姿は全く見えず、静寂に包まれていました。デュカーレ宮殿では燈火が次々と消されていきます。私は大運河を通らずに、広場の横を流れる水路を通って家路を辿っていました。私の乗ったゴンドラがサンマルコ運河の入り口とは反対の方に来たとき、その先の方から不意に女性の悲鳴が夜の闇を切り裂いたのです。狂気じみた長々と続く金切り声。私はびっくりして思わず立ち上がり、ゴンドラの船乗りは一本しかない櫂を手から滑り落としてしまい、行方がわからなくなり、取り戻そうにも黒一色の闇の中では為す術がありませんでした。こうして私達は、広い運河から狭い運河に流れ込んでいく水の流れに身を任せることになったのです。それはさながら、黒い羽をした大きなコンドルのように、ゆっくりと溜息橋の方に漂っていきました。と、おびただしい数の松明の明かりがデュカーレ宮殿の窓という窓、階段のあちこちで瞬き、にわかに暗黒の夜が土気色を帯びた異様な明るさに変わったのです。 幼児が母親の腕をすり抜けて、最上階の窓から深く薄暗い運河に転落したのです。穏やかな水面は、哀れな犠牲者を呑み込むと静かにその口を閉じてしまいました。あたりに見えるものといえば私の乗ったゴンドラだけで、すでに水の中には勇猛果敢な男達が運河の流れに身をたゆたいながら、水面をいたずらに探し回っていました。でも、最愛の愛し子の姿は、ああ、神よ! 水の底以外には見つかるはずもないのです。デュカーレ宮殿の玄関に敷き詰めてある幅広の黒大理石の上、水際から数段上がったところにたたずんでいる人の影がありました。今宵、その姿を見た者は生涯忘れることはできないでしょう。その人こそ、ベニスの市民が熱愛してやまないアフロディテ公爵夫人なのです。豪華絢爛な中にあってもなお一層艶やかであり、ベニスに居並ぶ美しい令嬢、貴婦人達の中であろうと、ことさら人目を引く美しさを備えた人、でも今は、年老いた策士メントーニ公爵の若婦人であり、運河の淵に沈んだ初めてのひとり子、愛くるしい幼子の母親なのです。幼子は今、苦しい息の下、母親のやさしい愛撫を思い、もがき苦しみながらも母の名を呼び、その短い一生を終えようとしているのです。 銀白色を帯びた婦人の小さな素足が、足下の黒大理石に映って鈍い光を放っていました。寝支度のため、夜会用に結い上げた髪は半分ほどいただけで、無数のダイヤをちりばめた束ね髪はヒアシンスのつぼみのように緩やかにねじれて、婦人の古風な顔を取り巻いています。 華奢な体に羽織っているものといえば、雪のように白い紗の掛け布だけのようです。夏も盛りの深夜の大気は熱っぽく、むっとして静まりかえり、婦人自らも彫像になったように身動き一つせず、霞がかかったような紗の掛け布でさえ、ナイオビの纏うずっしりと重い大理石の衣のように、ひらりとも揺れません。 しかし、これはまた何と不可解な! 婦人の大きな輝く眼は、かけがえのない我が子が眠っている水底の墓場ではなく、全く違う場所に注がれているではありませんか! 思うに、ベネティア共和国時代に建てられた牢獄の威風堂々としたたたずまいはベニスでも他に類がないとはいえ、たった一人のわが子が自分の足下で死にかかっている時に、どうして牢獄などを一心不乱にみつめることができるのでしょう? 彼方に見える暗く陰気な壁がんは、婦人の寝室の窓の真っ向で大きな口を開けています。その暗がりの中に、その建物の中に、蔦のはいまわったいかめしい軒蛇腹の中に――メントーニ公爵夫人が今まで何度となく目にして、いぶかしいと思う所など何処にもありはしないのに、一体全体そこに何が見えたというのでしょう? いや、何と馬鹿げた妄想でありましょう!こういうとき、人の眼というものは、割れた鏡のように我が心の悩みを幾重にも映しだし、数え切れないほど遙か先にある場所に我が身の不幸を見いだすということぐらい誰でも覚えがあるはずではありませんか。
 公爵夫人の立っている場所から数段あがった水門のアーチの下に、森の神サティロスさながらのメントーニ公爵が正装姿で立っていました。公爵は、我が子の救出に時折、指示をだしたりするかと思えば、不意にギターをつまびきだしたり、見るからに退屈極まりないといった様子でした。
私はあまりに驚いて茫然自失となり、最初に聞いた悲鳴で棒立ちになったまま、その姿勢を崩すことにまで気がまわらなかったのです。子供の救出に躍起になっている人たちから見れば私の姿は奇怪な死に神に映ったことでしょう。顔面蒼白で四肢を強ばらせ、葬式用のゴンドラに乗って漂いながら彼らの中に入っていったのですから。
 子供を救い出そうという努力は全て無駄におわりました。子供の姿を必死に探し求めていた多くの人たちは捜索の手をゆるめたのですが、表情には深い悲しみの色が現れていました。子供が助かる望みはまず、ありません。(落胆した母親のなんと哀れなこと!) が、このとき、すでに申した通り、共和国時代の牢獄の一部であり、公爵夫人の寝室の格子窓と向かい合っているあの暗い軒蛇腹の背後から、外套を纏った人影が松明の明かりで照らされているところまで歩み出ると、目の眩むような断崖絶壁の淵で一瞬立ち止まったかと思いきや、あっという間に運河めがけて飛び込んだのです。ものの数分もしないうちに、まだ息のある子供を腕に抱きかかえ、公爵夫人のかたわらの大理石の敷石の上に立ったのです。水にぬれてずっしり重くなった外套は、結び目の紐がほどけて足下に折り重なって落ちてしまい、仰天している見物人達にこの若者のしなやかな身体を知らしめることとなりました。この青年の名は、当時、ヨーロッパの隅々にまでとどろいていました。 子供を救って現れた青年は一言も言葉を発しません。それよりも、公爵夫人のほうです!今、我が子を受け取り、胸にしっかりとかき抱いて、そして小さな体を二度と離さないようにしっかり掴んで、息苦しくなるほどの愛撫を与えるはずです。ところが、何ということでしょう! 別の人間の腕が不意に現れた青年から子供を取り上げ、人目につかないように、遙か彼方の館のなかに連れ去ってしまったのです。そして公爵夫人は!その唇、美しい唇が震えています。眼には涙があふれているのです。その両目はプリニウスが形容したハアザミのように「柔らかくうるんで」いるのです。そうです!両目に涙があふれ、そして、ご覧なさい! 身も心も打ち震えているではありませんか。彫像に血が通い始めたのです。大理石のように蒼白な顔色に、大理石のような胸のふくらみに、大理石のような白い足に、せき止めることのできない深紅の潮の流れがそれらを一瞬にして朱に染めていくのをまのあたりにしたのです。そうして、ナポリのそよ風が草原に咲く鮮やかな銀白色の百合を揺らすように、婦人の華奢な身体も微かに揺れているのです。
 何故、婦人の頬が紅くなったのか? と、問うてみても答えなどわかるはずもありません。ただ、恐怖におののき、一刻も早く駆けつけたいという母親の気持ちと、人目をはばかる私室を出たとき、はきもののことなど眼中になく、優雅なひだのよった柔らかなベネシャンの肩掛けを羽織るという女性の嗜みも全く頭から離れてしまっていただけなのかもしれません。それ以外に婦人が顔を赤らめたどんな理由がありましょう? 狂おしい程に情のこもったあのまなざしは? 常とは違う胸の高まりは? メントーニ公爵が館に戻っていったとき、偶然、婦人の手が青年の手に重なり、その途端、あの震える手で思わず握りしめたのは一体全体どういうわけがあるのでしょう? 別れ際に低い声ですかさず青年に言った不思議な言葉、「あなたが征服したのです」 彼女はこう言った、いや、それとも、水のさざめきでそう聞こえただけかもしれません。「あなたが征服したのです。日の出の一時間後にお会いしましょう。きっとですよ」
 やがて騒ぎもすっかり収まり、館の灯も消えてしまうと、この正体不明の青年は、といっても私には誰なのかわかっていますが、敷石の上に一人ぽつんと佇ずんでいました。思いもかけぬ言葉に興奮して震えていたのです。そして時折、ゴンドラを探して、運河の水面に眼を走らせていました。私は自分のゴンドラに同乗させる他ないと思い、声をかけてみたところ、青年は非常に恐縮して私の申し出を受け入れてくれました。水門でなくした櫂を見つけ拾い上げ、私達のゴンドラは青年の館の方へ向かってこぎだしました。すぐに、普段の青年らしくなり、お互いに知らぬ仲ではないことを二人とも親友のような口振りで話し合っっていきました。
 さて、ここで些細なことではありますが、私の楽しみとして語っておきたいことがあるのですが。この見知らぬ青年、と呼ぶことにしましょう。読者諸君はまだこの青年のことを何もご存じないのですから。私が話したいのは、この青年の外見のことなのです。背丈は平均よりは若干低めというところでしょう。とはいえ、時として、激情にかられる瞬間があり、そういうときは本当に青年の背格好が大きく膨らんだようになって、堂々とした鐘のような体格になるのです。体重は軽いというよりも痩せすぎといった方が当たっているのですが、均整のとれた青年の体つきからは、緊急事態に及んで難なく怪力を発揮したというヘラクレスの腕力は到底想像できません。青年に似合うのは、あの溜息橋で見せた俊敏な身のこなしです。それから、威厳のある顎とくちもと、大きく潤んだ瞳は野生の獣を思わせ、ある時は薄茶色、またある時は漆黒の輝きへと変化するのです。並はずれて広い額は明るい象牙色に輝いて、時折、豊かにカールした黒髪の間から見え隠れしています。これほどまでに均整のとれた古典的な顔立ちはコモーダス皇帝の大理石の彫像以外に見たことがありません。とはいえ、誰もが一生に一度見るだけで、それ以後二度と再び眼にすることはない顔なのです。これは何も不思議な話ではなく、青年の顔立ちには人の心に焼きつけるような表情がないのです。見た途端に忘れ去られてしまう。でも、忘れてしまうといっても、何となくもう一度思い出してみたいという思いがいつまでもつきまとって離れない顔なのです。一瞬わき起こった感情を宿した魂が、その独特な像を顔の鏡に映しそびれたというわけでもないでしょうが、この鏡は、どの鏡もそうであるように、感情が過ぎ去ってしまえば、その名残を留めてはおかないのです。
 この騒動のあった晩、別れ際に、青年が明朝一番に自分の館を訪ねてほしいとそれはもう、半ば強制的とも思えるような調子で私に頼むのです。結局、私は陽が昇るとすぐこの友人の館を訪ねていました。リアルト橋付近のグランドカナルの水面よりもはるかに高くそびえ立っている立派な建物で、陰鬱な雰囲気の中にも幻想的な美しさが漂っています。彼の後についてモザイク模様でできた幅広の廻り階段を登り、ある部屋に案内されたのですが、その部屋の類い希なる豪華さが、開け放された扉の向こうからその贅沢な輝きで眼がくらんでつぶれてしまいそうなくらいの本物の光を伴って外にはじき出ているではありませんか。
 私の友人には莫大な財産があることは知っていました。かって私は、こんなことは馬鹿げた誇張だと思い切って言ったことがあるのですが、世間でも同じ噂が囁かれていたようです。それにしても周りを見渡してみますと、この部屋は辺り一面が燃えるように明るく輝き、眼を刺すような光を放って極上の絢爛さを生み出しているのです。ヨーロッパで価値があるとされる金銀財宝なら何であってもこうなるものだとは私にはどうしても思えませんでした。
 私が申し上げました通り、陽はすでに昇っていましたが、部屋の中にはまだ灯が赤々と灯っていました。この部屋の様子や疲れ切ったような彼の表情から判断して、どうやら昨日の晩、彼は自分の寝室に戻って休まなかったようです。この建造物と装飾品の数々は確かに驚きと幻惑を起こさせます。 専門家の目から見て調和と呼ばれるような飾り付けも、お国柄にふさわしいかどうかもそういったことには関心が払われていません。私の目は物から物へと移っていき、グロテスクなギリシャの絵画にも、イタリアの最盛期の彫刻にも、古代エジプトの巨大な彫り物にも、どこにも目を留めることはしませんでした。部屋のいたるところに掛かっている豪華な厚手の壁掛けが 何処から聞こえてくるともしれぬ重苦しい曲の低音の響きで揺らめいているのです。奇妙な渦巻き型をした香炉からは違和感を覚えるさまざまな香りが立ち上り、それがゆらゆらと燃え輝いているエメラルドと青紫のおびただしい炎の舌と合わさり混ざり合って私の感覚を重く押さえつけてくるのです。つい先ほど昇ったばかりの太陽の光が深紅色の一枚ガラスを左右にはめこんだ窓から部屋中に注ぎ込んでいます。天井から螺旋を描いて垂れ下がっているカーテンは、まるで溶けた銀の大滝のようで、それが何千という光を反射してあちこちに跳ね返し、太陽の自然の光と人口の光がじわじわと混ざり合い、黄金色の布地でできたまるで流れ動いているように見える豪華な絨毯の上で和らいだ光の束になってうねっているのです。
 「わっはっは! あっはっは!」 この館の主は笑いながら、部屋の中に入った私に座るように手招いて自分は背もたれのない長いすに長々と寝そべりました。 「そうだろうね」 私がこの奇をてらったかなり風変わりな歓迎をうけて、すぐには慣れることができないでいるのを察したのか、彼はこう言いました。「君は僕の部屋に、ここの彫刻や絵画、建物や室内装飾の独創的な僕の趣向にびっくりしたようだね。この壮麗さにすっかり陶酔しているのではないかい? それはそうと、君に謝らなければいけない。(このとき彼の声が低くなってとても丁寧な口調になりました) 意地悪に笑ったりして申し訳なかった。君は随分驚いているようじゃないか。だけど物事には、あんまり馬鹿らしくて笑うか死ぬかしか他にしようがないってこともあるじゃないか。笑いながら死ぬというのは最高の死に方だよ。トマス・モア卿は、彼は実にすばらしい人だった。君も知ってると思うけど、笑いながら息を引き取ったんだ。ラヴィシアス・テクストルの笑い話の中に同じような見事な死に方をした人の話がたくさん書いてある。だけど、君は知ってるだろうか?」  彼は考え込んでは話を続けます。「スパルタには(現在のPalaeochori)、そう、そのスパルタの街の砦から西の方へいくと一見して廃墟とわかる雑然とした場所があって、そこに何かの柱の台座だけ残っているんだ。 ΛΑΞΜ という字が読みとれるんだけど、これはΓΕΛΑΞΜΛ (ギリシャ語で笑の意味)という字の一部に間違いないね。そういえばスパルタにはさまざまな神を何体も飾ってある寺院や聖堂がたくさんあったと思ったけど。その中でよりにもよって「笑」の字のついた台座だけ残ってるというのも不思議な話だね。でも今の場合は」
 彼の声と態度が今までとはうってかわって「僕には君をからかって喜ぶ権利はない。君が驚くのも当然のことだ。僕のこの小部屋ぐらいすばらしい部屋はヨーロッパのどこを探してもありはしないんだから。他の部屋はこんな風にはなっていない。何の面白みもない今のはやりの最先端というところだね。この部屋はそれよりはましだと思っているんだけどね。そうは思わないかい? この部屋を見せたら大流行になるよ。ま、親から譲り受けた財産を全部つぎこんでこういう部屋を作りたいという人ならということだけど。でも、この神聖な部屋は人目にさらさないように用心してきたんだ。今君が見ているこういう室内装飾にしてからは、この神聖で神秘的な帝国に足をふみいれたのは、僕と僕の従者と君以外にもう一人いるけど、あとは君だけなんだよ!」 と言われて、私は感謝のつもりで会釈をしました。というのも、この部屋の豪華さや部屋に充満している芳香に圧倒されてしまい、それに彼の話や態度が全く思いがけないものだったのでお世辞ともとれる彼の言葉に対して感謝の気持ちを言葉で言うことができなくなってしまったのです。「ここにはね、」彼は起きあがって私の腕にもたれかかるようにして部屋の中を歩き回りながら次の言葉を続けました。 「ここに飾ってある絵はギリシャの時代からチマブエ、チマブエから現代までの作品でね。みんな僕が選んだんだ。ほら、見てわかるだろう。美術品愛好家の趣味とはかなり違ってるってことが。でも、こういう部屋の壁を飾るには実によくあってるじゃないか。それからここにあるのは世に知られていない埋もれた天才の作品だ。これは当時、随分ともてはやされたんだが、美術院のお気に召さなかったようでそのうちに忘れられてしまい、この作家の名を知ってるのは今では僕ぐらいのもんじゃないかな。ところで、」 急に私の方を振り向いて、「どうだろう、この嘆きの聖母像は?」 「本物のギドーでしょ」 と、すぐに夢中になる私の癖が口調に出てしまいました。私は先ほどから美の極みともいうべきこの絵にすっかりはまりこんでしまっていたのです。「本物のギドーの絵ですよね。一体どうやって手にいれたんです?この聖母像は彫刻の世界で言ったら、ビーナス像に匹敵すると私は断固うけあいますね」
 「え!」 彼は何やら考え深げに「ビーナス像? 美しきビーナス、メディチのビーナス像? 頭が小さくて髪の毛が金色の、あの像のこと? 左腕の一部と(彼の声が聞き取れないほど低くなって) 右腕は全部修復されているんだよ。それにあの右腕の艶っぽさときたら、いかにもわざとらしい感じがして、僕ならカノヴァ像の方にするね。アポロ像だってそうさ。これも模造品だ。絶対そうさ。 アポロ像からご自慢の霊感が見えないのだから僕は目の不自由な馬鹿者ということかな。情けないとは思うが、しょうがない。僕はアンティノスの像の方を選ぶほかないんだ。彫刻家は大理石の固まりの中に自身の姿を見ると言ったのはソクラテスじゃなかったかな?だったら、『最高の芸術家であり、独創的な理想を持っていたとしても、それは大理石自らが描き出したのだ』とかいたミケランジェロの対句も独創的というわけにはいかなくなる」
 本物の紳士と通俗なやからとではその立ち居振る舞いに違いがあると昔から言われており、至極もっともなことですし、私達もそのようなことに気が付いてはいますが、何処にその違いがあるかと問われると即、解答できないのです。この言葉は私の友人の立ちい振る舞いを表しているといってもよさそうなのですが、あの事件が持ち上がった朝、この言葉は私の友人に備わっている道徳観や性格に見事に合致しているように感じたのです。それに他の人間と根本的に違うと思われるあの一種独特な精神を、激しい継続する思考癖と呼ぶよりももっと上手く言い表していると思うのです。この精神は彼の些細な動作にまで浸透し、 女性と戯れている最中にも入り込み、不意に浮かれて騒ぎ出す時も紛れ込み、まるで、ペルセポリスの神殿を取り巻く軒蛇腹でにやにや笑っているお面の目から身もだえしながらはいずり出てきた毒蛇のようです。

 彼がさほど重要ではない事柄を意気揚々とまくし立てているときの軽薄さと真剣さの入り交ざった口調から何度となく目にせざるを得なかったものは、何かに怯えているような恐怖感、動作や話の中にわざと精神を高ぶらせているような感じ、私には常に不可解にみえ、何かにつけて私を不安に落とし込めてしまうような人の感情を刺激する落ち着きのない態度なのです。 それに、話すことを忘れてしまったように途中で口をつぐんでしまうことも度々あり、彼の心の中だけにしか存在しない音か誰かを待ち望んでいるような、心の奥深くでじっと聞き耳をたてているような、そんな感じがするのです。
 こうして彼の意識が別の空間に遠のいていったり何かを畏怖しているようなときには、私は長椅子の上の手の届くところに置いてある詩人にして学者であったポリティアンの悲しくも美しい物語『オルフェオ』 の頁をくっていました。その中に鉛筆で下線の引いてある箇所をみつけたのです。それは第三幕の終わり頃、心が揺さぶられるほど感動する場面、不道徳なところがあるとはいえ、男性にはいまだかって経験したことのない新たな感動を、女性は、涙と溜息なしにはおれない場面、その頁には新たな涙のしみが全体に広がっていて、反対側の頁には英語の詩が書かれてありました。その筆跡は、私の友人の特異な性格からはおよそ想像のつかないものだったので、すぐには彼の書いた詩だとはわかりませんでした。

恋人よ
君こそ我が命
我が魂の道連れなり
恋人よ
君は海に浮かびし緑の小島
たわわに実る果実と花にかこまれし泉と社
花はすべて我のものなり

ああ、かくも短き麗しき夢よ
星の如くにまたたく望みは雲でおおわれぬ
時の彼方より叫ぶ声あり
「すすめ!」
その声きけど、我は恐れおののき青ざめて、声もでず、動きもやらで
薄暗き過去の割れ目によこたわる

ああ、なんと! なんと悲しや
我が命の灯はきえぬ
「もはやこれまで、もはやこれまで、もはやこれまで」
厳かなる海に、その浜辺の砂にさえ染み渡るその言葉
雷にうたれて枯れた木は実をつけず
傷ついた鷲は飛翔せず

今、陽のある時は夢幻なり
夜ごと見る我が夢は
君が黒き瞳の輝くところ
白く輝く君が足もと
イタリアの水辺にて
君が踊るは彼の世の舞か

ああ、あの悲しき時は呪われよ
よせくる波は君を彼方へつれさりき
我がもとから、我らの罪を包む深い霧の中から
年老いて罪深き偽りの枕べへ
涙にむせぶ銀の柳よ!

 この数行の詩は英語で、それも作者が知らないだろうと思っていた言語で書かれていたのですが、私は別段驚きもしませんでした。彼の知識は広範囲に及んでいること、その知識を知られないように隠すことに異常な喜びを感じる性格であることを知っていたからです。ですが、この詩の日付の横に記されてある場所、これには多少なりとも驚かされたと正直に告白しましょう。始めはロンドンと書いてあった字を後で線を引いて丹念に消してあるのです。
 細かいところにも目がきく私には、文字を隠したところであまり効果はありませんが。多少なりとも驚いたと言いましたのは、以前、彼と二人で話したことをはっきり覚えていたからなのです。と言いますのは、彼にロンドンでいつかメントーニ公爵夫人に会ったことがあるのかと聞いたことがあったのです。(婦人は結婚する前に数年間、ロンドンに住んでいました)
 私の思い違いでなければ、その時の彼の返事は、大英帝国の首都を訪れたことは一度もないと受け取れる答えでした。さて、この辺で私が一度ならず耳にしたことを話しておいたほうがよろしいでしょう。(あまたの胡散臭い話は横に置くとして)私が話しているこの青年は出身ばかりでなく、教育の点に関しても生粋の英国人であるということなのです。

 「もう一枚絵があるんだが」 と、彼は私が今オルフェオの悲劇に関心がいっていることなどまるで気づいていない様子でこう言いました。「君がまだ見てない絵がもう一枚あるんだ」 そういって壁の掛け布をまくり上げた下から現れたのはアフロディテ公爵夫人の等身大の肖像画だったのです。
 婦人のこの世のものとは思えないほどの美しさをこれほど見事に表現したものは人の手による芸術作品のなかでも此より他にはありますまい。昨日の晩、デュカーレ宮殿の階段の上で私の前に立っていたのと同じ天女と見まがうほどの美しい姿。その顔は微かな笑みをたたえて神々しいばかりなのですが、完璧な美に付き物の憂鬱のかげりが潜んでいるのです。(何故かはわからない例外とでもいいましょうか) 婦人は右腕を胸の前で曲げ、左腕は妙な形をした壺の方に向けられています。片方だけ見える小さくて優雅な足は地にかろうじて付いているというふうです。婦人の美しさを大切に取り囲んでいる輝くばかりの背景の中に浮かんで見えるのは、想像で描かれた至極薄い一対の翼です。私は視線をこの絵から友人に移しました。と、不意に閃いて私の唇からもれたのは、チャップマンのビュッシーダンボアの男性的な詩の一節です。

       彼は立つ
       ローマの彫像の如く立ち続けるのだ
       死が彼を大理石に変えるまで

 「さあ!」 やがて彼は豪華なエナメルを施した銀製の立派なテーブルの方に向き直りました。その上には、婦人の肖像画に描かれているのと同じ変わった形をした大きなエトルリアの壺が二つと、不思議な色をした酒杯が2~3個置かれていました。壺のくちもとまで入っているのはおそらくヨハネスブルグ酒でしょう。「さあ!」 藪から棒に彼が言いました。「一杯どうです。飲むには時間が早いけど、でも一杯やろうよ。ほんとに早すぎるんだけど」と、彼はとつとつと話続けるのです。そのとき、重い黄金の槌を持った天使ケルビムが日の出後第一番目の時を知らせる鐘をうち鳴らしました。「まったくもって早すぎるけど、まあ、そんなことはどうでもいい、とにかく一杯飲もうよ。この部屋でぎらついているランプや香炉が太陽の光を必死で征服しようとしてるよ。さあ、あの荘厳な太陽に酒を注いでやろうじゃないか」 そうして彼は私の杯に並々と酒をついで乾杯させるや、葡萄酒を5~6杯、たて続けに飲み干したのです。

 「夢見ることは」 彼は見事な壺をひとつ、明るく輝く香炉のほうへ掲げて、とりとめのない話をまた続けていきます。「夢見ることは、僕の生涯の仕事だったんだ。だから、自分の為にこの夢の個室を作ったんだ。ベニスの真ん中にこの部屋以上のものを作れるかい? 部屋を見回せば、確かに建築用の装飾品を羅列してあるだけにしかみえないけどね。イオニア風の素朴さが大昔の図柄で台無しになってるし、エジプトのスフィンクスが黄金の絨毯の上でのうのうと寝そべっているといったところかな。これが不調和に映るのはその人間が臆病だからだ。場所柄にふさわしいかとか特に時代にかなってるかとか、そんなことが気になって荘厳なものがわからなくなってしまうんだ。そういう僕も昔は端正さを好んだものさ。でも、あんな愚劣極まりないものを、さも高尚なものとして扱うなんて僕はもううんざりなんだ。ここにあるものはみんな、僕の思いにぴったりのものばかりさ。この部屋にあるアラビア風のつり香炉みたいに、僕の魂は火の中でのたうちまわっているのさ。精神錯乱をおこしそうなこの部屋の雰囲気が、僕がこれから旅立とうとしている本当の夢の世界、狂気じみた理想の世界にふさわしい人間にしてくれるはずだ」というと、こうべ頭 をたれて、私には聞こえないある音に耳をかたむけているようなのです。やがて姿勢をもどすと、上を見上げて、チチェスターの司教の詩を口ずさみました。

この地にて我を待たなむ!
  空ろなるこの狭間にて、我、必ずや君とあい見む

それからすぐに彼は酒に酔ったようだと言うと、長椅子の上に長々と身を投げ出してしまいました。

 と、階段を駆け上がってくるあわただしい足音。そして次にはこの部屋の扉をたてつずけにがんがん叩くのです。一瞬、今度は何だと思ったとたん、メントーニ邸の使いの者が部屋に飛び込んできました。足もとはふらふらで、息が切れて、気が動転しているのか、言葉もしどろもどろで、「奥様が、奥様が、毒を、毒を飲まれて、ああ、美しいアフロディテ様が!」
 私はうろたえてしまい、この恐ろしい出来事を知らせなくてはと長椅子にかけより眠っている彼を起こそうとしたのです。でも彼の四肢は硬直し唇は鉛色になっているではありませんか。今しがたまで輝いていた眼は死に捕らえられてしまったのです。私はよろけるようにテーブルの方に後ずさりし、そのとき、手が割れて黒ずんだ酒杯にふれたのです。その途端、恐ろしい真実の全貌が私の脳裏に閃いたのです。

約束 The Assignation

約束 The Assignation

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-05-27

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