朝(あした)を待つ


     □

 坂下蘇芳はスマホを持っていない。クラスでも彼女くらいだった。早熟な生徒なら、小学生の頃から携帯を所持し、中学に上がるころにはスマホに切り替わっていた。高校一年の彼女はこれまでに自分用のスマホも携帯も所持したことがなかった。
 黒板を使って教師が二次方程式の解説を行っている。新規事項が書き込まれるたび、筆記具を走らせる音が周囲におこる。前の席でも隣の席でも他の生徒は無心にペンを動かしている。
 窓際の席で、ひとり蘇芳だけが左手の窓から校庭を見下ろしていた。教師の言葉が耳に入っているかもわからない。二十分が過ぎ、三十分が過ぎる。長すぎもせず短すぎもせず、決められたタイミングでチャイムが鳴って退屈な授業に終止符が打たれる。

「帰りどうする?」桃里の声だ。
 蘇芳の後ろ――女子三人のあいだで会話が持ちあがる。
「優茉、きょう部活ない日でしょ?」
 桃里・優茉ときたら、もう一人は奏か……。話す機会の少ない蘇芳にだってそれくらいはわかる。彼女たちはいつも一緒にいる。休み時間がそうだし、お昼休みもそうだし、放課後だってそうだ。彼女たちの放課後の過ごし方までは蘇芳の知るところではなかったけれども。
「ミスドでいい?」桃里が提案する。
 彼女が提案して後の二人が了承する。優茉だって奏だって、自分が表に立って意見を言うタイプではない。誰かの後に付いて安心していたい人たちだ。
 主張する側にも主張を受け入れる側にも自分はなれないな。
 前の席で聞いている蘇芳は心のうちでそっとつぶやく。
「いいよ」二人がほぼ同時に受け入れるのが分かった。
「新しいキャンペーン、来てたっけ」奏がつづける。
「始まってたかな。大丈夫、わたしの少し分けたげるから。どうせ期間内に全部試してみたいんでしょう。いつもそうやんか」
 慣れない関西弁のイントネーションで優茉がいった。
 優茉と奏のやり取りは仲のいい姉妹のようだった。
 三人は、いつも他愛のないことを話している。何のために? 羨ましくないわけじゃない……蘇芳は休み時間も椅子に腰かけ、前だけ見ている自分の在り方に一抹の寂しさをおぼえるのだった。
 教科書を開くわけでもない。誰かを近寄せるわけでもない。つっぷして世界から人を遠ざけるわけでもなかった。目は開かれている。耳も開かれている。鼻も、口も、感覚も、開いていないものは何もなかった。けれど、器官をつかって誰かに何かを頼ることをしない。それでいいとも思っていないし、それではいけないとも思っていない。前の時計を見ると休み時間は後半に差し掛かっていた。次の授業はなんだっけ、と蘇芳は考えを巡らす。
 くぐもった声が背後から聞こえる。「××さん、聴いてる? ××さん」
 蘇芳は肩を叩かれた。
 彼女は後ろを振り向く。肩を叩いたのは優茉だった。
 蘇芳の反応の粗さに、呼びかけた方の三人が一様に驚くようだった。
「何かあった」
 平静を装うものの、クラスメイトとの会話は久しぶりだったから、蘇芳は自身の動揺が表情や言動に出ていないか心配になった。
 蘇芳は、桃里、優茉、奏、三人の表情に、順に視線を向けた。
 三人には責める様子もないし、怨みとか怒りとかの感情があるわけでもないし、蔑みや侮りから行動したわけでもなさそうだった。何かに期待するような明るい表情をしている。
「うちら、蘇芳さんと仲良くなれてないやんか。クラス始まって二か月なのにね。よかったら、放課後一緒に帰らない」
 こんな場合でも、表に立つのは桃里だった。
 彼女は話しなれない相手であっても物怖じせず、スムーズに誘ってくる。
 桃里の言葉を聞いてもなかなか返事をしない蘇芳を見かねて、他の二人が両サイドで盛り上げる。
「授業中よく外を見てるよね。何を見て、何を考えてるのか教えてほしいな」優茉は持ち前の柔和さをもって渋る蘇芳の心を解きほぐそうとする。
「ふだん何してるとか。ほら、蘇芳さんってずっと謎の人だから、興味があるっていうか」
 奏も自分の言葉で誘ってくる。
 蘇芳の答えは決まっていた。
「ごめんなさい」
 謝罪の言葉に伴う冷たい響きに友好的なムードを醸していた三人の表情が固まる。
「わたし、あなたたちと分かり合える気がしないし、分かり合おうとすること自体、無駄だって思ってるから。それじゃ」
 蘇芳は元のように前に向き直った。
 三人が言葉を失っていたのはわずかな時間だった。すぐに自分たちの間の会話を再開し、蘇芳に声をかけたことはまるでなかったかのように扱われた。
 わたしのことをわかってくれる人なんていないよ。
 次の授業が開始されても、蘇芳はしばらく、内心に生まれたもやもやに気を取られていた。ノートをとらず校庭を眺めていただけだから、他の生徒からは、前の時間とそう変化があったようには見えなかっただろうけれども。



     ■

 ――誰が、――いつから世話を始めたんだろう。
 水鳥の棲む池のほとりに小さなシャトーが建っている。あそこに入ったことはない。
 ここに来るたびに季節が変わる。咲いている花も下草のなかをうごめく小動物も毎回ちがっていた。以前にここで見かけていたかもわからないけれど、かつての記憶は曖昧に形を失っている。
 わたし以外の人の影を見ない。誰のための庭なんだろう。木に登ってみる? 手近の木の幹に身体を寄せて両手を上に向けるが、一番低い枝でも自分の指の先のさらに半メートルも上にあった。
 期待したわけじゃない。登れればいいなと思っただけだ。わたししかいない世界では、なんだってできそうだった。できないことがあることを忘れてしまう。
 場面が暗転して、再び明るくなったとき、頬に心地よいそよ風を感じる。太い木の枝に腰を下ろして、宙に向かって二つの細い足をぶらぶらさせていた。どうやってここまで登ったの?
 日向では花から花へ蜜蜂が飛びまわっていた。奔放な動きに魅せられた。よく見ると、蜜蜂の他にも紋白蝶や揚羽蝶・足長蜂・小虻をはじめ翅をもつ小さな存在が日向の世界をさかんに踊り狂っていた。ひとつとして、じっとしていない。物言わぬ草木だって風に揺れ、その存在を世界に向かって主張するかのようだった。
 この世界には急き立てる人はいない。あるべき時間がゆっくりと過ぎる。本来時間はここまでゆったりと感じられるものなのか。わずかな時間も惜しんで、するべきことに打ち込むように厳命されるあの忙しい流れは、なにか間違った時間に自分が位置するように思われる。あちらとこちら。どちらが本当の時間なんだろう。平穏が過ぎると、異常めいた感覚が感じられてくる。いまこのときの穏やかさが、過てる時間の過ごし方に思えてくる自分のあやふやさに、なにが正しい過ごし方でなにが間違った過ごし方なのか、その区別もわからなくなってくる。
 頬に当たる陽光の温かさが血の通う自分の肉体の価値をあらためて捉え直させてくれる。皮膚の上にじんわりと温かみが広がってくる。熱を出したときみたいにぽーっとしてくる。吸気は体の中で温められて、呼気として吐き出される。息を吐くとわずかに湿り気が感じられる。ふだん、自分は生きていることを意識しない。どうしてこんなに生きてるっていう実感を覚えるんだろう。なんで? あたし、死ぬの?
 向こうの灌木の下生えから、二羽の鶫が飛び立った。つがいなのか、道連れなのか。目の届く範囲に、どれくらいの数の小動物が息を潜めていることだろう。箱庭めいたこの世界に自分と直接関係のない生き物が、自分とは無関係に生き抜いている。ここに自分以外の人がいたとしても、きっとその人とは無関係だろう。いないならいないほうが、よほどせいせいする。
 あたしに話しかけてきたのは、優茉だった? 桃里だった? 奏じゃなかったよね。でも、誰でも関係ない。あたしは誰も必要としないし、誰もあたしを必要としないもの。誰も近くにいない方がわたしは楽。そうだよね、きっと。



     □

 休日を挟んで月曜日の朝。代わり映えのしない食事をとって、朝の準備をして、決まった道順で学校に向かう。小中時代に同じだった子たちと顔を合わせるのが嫌で、遠くの高校を選んだ。おかげで、中学から持ち越しの同級生はいなかった。そのことにわたしはせいせいしている。でも高校生活でもわたしに関りを持とうとする人はやっぱり居て、できればわたしは放っておいてもらいたい。いてもいなくてもどうでもいいと思われるくらいのほうが楽だ。仲のいい子とどんなときでも一緒に過ごすって、ぜんぜん羨ましくない。
 最寄り駅まで歩く。顔なじみの面々。挨拶はないけど、いつも同じ秋田犬を散歩させてる人がいる。駅の方向から顔を曇らせて歩いてくる会社員。すれ違ういくつかの乗用車だって、見慣れた車種がいくつもある。行きたくもない場所に行くことを運命づけられたわたしみたいな人が、毎朝この土地には何人でも存在するのだ。
 集団登校の小学生の群れに遭遇することもある。ゲームの話をしている子もいれば、流行りのアニメのキャラクターの話をしている子もいる。ちゃんと前を見ているのか心配になるようなおっちょこちょいな子も散見される。
 いつもどおりの朝の風景に行き会いながら、ようやく駅にたどり着く。ホームに立って五分後には電車が来て、それに二十分揺られれば学校のある駅だ。学校についてしまえば、やることは決まってる。半日をそこで過ごして、放課後、可及的速やかに家路につく。三年間、決められたとおりに学校に通えば、卒業証書が手に入る。どうせ高校は通過点に過ぎない。通過点の高校に特別な意味を見出すほど、わたしは夢見がちな存在ではない。
 唐突に入るアナウンス。「○○駅で人身事故のため、しばらく運転を見合わせております。」
 これが初めてというわけじゃない。これまでだって、踏切事故とか、飛び込み事故とか、そのほか不慮の事故で電車が遅延することはあった。慣れていた。でも今朝はちがった。心がざわめく。自分が乗る予定の車両が、人の命を奪ったんだ。その人とまったく面識がないにも関わらず、胸の奥を掴まれたように苦しくなる。さっきまでぴんぴんしてた人が、もうこの世界から退場してしまったかもしれない。あっという間に去ってしまったのか。ホントは痛かったり、苦しかったりするのかな。死んだことに気づかなくて、ずっと痛みと苦しみに打ち据えられる地獄がここから始まってたりするのかな。考えが迫ってくると、自分が痛みを受けているように感じられる。息苦しい。どこの誰かも知らない人がひとり傷ついたか、或いは亡くなっただけなのに。私だっていてもいなくてもどうでもいいような存在なのに。自分のことのように胸を痛めている。これは同情なのか?
 ホームで待っている人たちは落ち着いたもので、遅れる予定を先方に送ってあとは様子見という人が多かった。普段ならもう駅を去って車中の人になっているわたしも、つかの間の延長時間を、ホームの向かいに見える東の空の青さのほうに視線を向けていた。刷毛で刷いたような白い雲が青空にかかっている。雀や、それに類する小鳥が鳴きかわしながら、青空を翔け抜ける。太陽はじりじりと高度をあげて、東天から西方へ眩しい光を放っている。
 ひとりが居なくなっても、世界に変わりはない。わたしにとってその人はどんな存在だったのか。いま目の前でスマホをいじっている女の子にしたって、全身に不満をたたえているサラリーマンにしたって、亡くなった人とは直接に関係がない。迷惑を掛けたこともなければ、世話になったこともない、自分とは無関係な人たち。これから先、生き続けていたとしても、おそらく自分と接点を持つことのないであろう人たち。それなのに、周りの人たちの不幸やそれに付随する悪意を自分のことのように引き受けてショックを受けている自分がいる。
 三十分が過ぎ、電車は何事もなかったようにやってきて、わたしたちを車中の人にした。日常が動き始め、いつもと変わらない一日へと滑り込んでゆく。わたしたちの存在ってなんだろう。なんのために毎日決められた学校に行って、決められた授業を受けて、決められた一日を終えて眠るんだろう。なんのために。なんのために。



     ■

 梅雨に入ったというニュースを何日も前に耳にした。それでもこの世界に変化はない。ううん。変化は――あるのか、やっぱりこんなところでも。日向の世界は変わらない。きょうも蜜蜂が飛び交っている。あれ、いつ降った? 寝ていたの? いつのまに? 雨が降ったのも気づかないまま寝入ってた? ううん、それはない。雨はきっとわたしが来る前に通っていったんだろう。日に照らされた草花はわずかに雨滴を含んで、指で揺らして見ると大粒の雫が地面に向かってぱらぱらと降り散った。鼻を動かす。さいぜんは気づかなかった水の匂いが感じられる。
 きょうは足を運んでみよう、普段いかない場所まで。
 ちがう場所に行ってみたかった。ちがう場所に自分を引きずりだしてみたかった。
 どれくらい歩いた? 目の前には見たこともない風景がひらけていた。奥向こうに高地が広がっていて、手前の隆起した山手の間から一筋の滝が姿を現した。水量は控えめだけれど、こちらの気持ちを冷やす程度には清涼感を感じさせる景観だった。高い位置から滝壺に落下する水の勢いは、目に見えないほどの細かな粒を大気中に漂わせるものらしい。滝を前にしていると十分ほどで顔や肘といった肌を露出しているところが水気に覆われてくる。ひんやりと気持ちの良い涼がとれる。涼しすぎるくらいだった。滝の起点、見上げた先に何本かの緑の木々が生い茂っていて、その隙間を衝いて、滝水が一直線に落下してきていた。
 きっとここに来るのははじめてだ。次も来られるかはわからない。地図にない場所。来たいと思って来られるわけではない一期一会の邂逅の場所。たしか梅雨のことを考えてたはずだった。親も祖母も、かつて自分たちが経験した昔の梅雨のことを聞かせてくれた。梅雨はいまよりももっと長い期間降り続いて、全体的にじとっとしていて、今日も、明日も、明後日もまた雨なの、と思えるくらいに続いたらしい。洗濯物はどうしていたんだろう。それなりにうまくやっていたのか。いまの時代は、一時的にまとまった雨が降る。それはときに豪雨といわれがちだけど、いまの凶暴な雨の様相とは当時は違ったらしい。〝夕立〟という言葉に異国情緒に似たものを感じるのはどうしてだろう。夕立という字面が好き。自分には経験することのできない自然現象に思われて、周りの大人の話を聞くにつけ、その当時の夕立を経験したかったという気持ちが大きくなる。
 考えるうちに、太陽は西に傾くようだった。日光に温かいオレンジ色が混じるようになってきた。精錬したての金属の赤色に似てくる。あれ。まだわたしは滝を前にしている。どうやって帰るんだろう。この世界で夜を過ごす? そんな体験をここでしたことはない。わたしはふらっと訪れて、ふらっと去って、また別の日にふらっとこの土地を訪れ直していた。
 自由人。誰にも束縛されないし、制限を受けることを望んでもいない。その希望を知ってか知らずか、この世界でわたしの行動を邪魔しようという存在に出会ったことはない。我が物顔で振舞おうなんて気持ちはない。あくまでわたしはお客様。世界を阻害したりしない限りにおいて通行の自由は担保されている。
 ねえ。もしあなたがわたしを見てるのなら、わたしはなんのためにこの世界に毎回召喚されてくるの。理由くらい教えてよ。
 返答はない。明確な答えを誰も与えてくれない。わたしは勝手に連れられて、勝手に時間を過ごして、旅人のように音もなく消えてしまう。わたしって、なんなの。世界に対して、益するでもなく害するでもなく、ただそこにあるだけのオブジェでしかないなんて。地に足のつかない存在に、世界は大きな役割を与えてくれない。モブ。無力な存在。ここでだって、現実でだって、わたしはただの無力な十代の女の子でしかないんですね。



     □

 一学期も終わりに差し掛かろうとしている。クラス内では明確なグループ分けが進み、その中での内輪の活動がさかんになっている。どこにも所属しない蘇芳のような存在はただの異分子でしかない。グループ間を越えての個人的な関係も次第に作られてゆく。クラス内は微妙な力関係において、誰もが誰かと繋がることでその関係性のマップに誰もが組み込まれている。
 蘇芳はこの状況を望んだ。誰とも関係を結ぶことなく、自分だけがクラスにおける例外的存在となることを。
 いまでは誰も話しかけてこない。学校に着くや教科書類を机の中に入れ、あとは先生が来るまで持ってきた文庫本を読んでいる。クラスに一人でいることを好んでいる子がいないわけではない。しかしそういった子たちは自分のスマホを手に持って、そこに映るものにじっと見入っている。何をそんなに見るものがあるんだろうと蘇芳は思うけれど、考えてみれば文庫本だって似たようなものだ。ううん。文庫本を読んでる方がいまの世の中では変わり者の部類に入るんだろう。変わり者で結構。どうせわたしは変わってるんだし、と蘇芳は思わないでもない。
 夢野久作の『空(くう)を飛ぶパラソル』だった。去年出た改版の角川文庫の一冊。表題作「空を飛ぶパラソル」を読んでいるときに、あの梅雨の前に出くわした出来事を思いだした。何気ない月曜日になるはずだったあの日。乗る予定だった電車が遅れた。人身事故は飛び込みだったとあとでわかった。あれからもう二か月が過ぎようというのに、夢野久作の短編で電車による轢死を扱っているものを読んでしまうと、よく聞く飛び込みの後の処理のことが脳裏をよぎる。どうして電車の前に飛び込むと、人の身体は粉々の肉片になって飛び散るんだろう。バケツを手にして鉄道員たちが小さな破片まで残らず手作業で拾っていくという話は本当なのか。幸いにして(なのか?)わたしはその現場を見たことがない、と蘇芳は思う。いつも食卓に上がる牛肉の、調理前のパックに並べられてるような赤黒い色なんだろうか。それとも、新鮮な生肉はそれとはちがった色をしてるんだろうか。もっと鮮やかなの? それとももっとどす黒いの? そもそも牛と人とでは肉もちがうから、わたしの知る物とはまったく違うのかもしれない。男と女でも違うだろうしね。蘇芳は自分の想像がどんどん逞しくなっていくのを止めることができなかった。
 このお話では報道が――小説の中では新聞記事という形式になっていたけれど――事実を示すのか、あるいは歪曲したのか、当事者の戸惑いや困惑を生じさせて、報道の無責任なところを見せつける。売文稼業が卑しまれる原因もここにあるのかもしれない。そんな職業に従事していなければならない、そうとしか生きられない「私」の苛立ちが、終幕のウイスキーに化けたんだろうか、なんて思ってみる。
 人一人が電車に飛び込むのにはそれなりの理由がある。あのときの通勤途中に出くわした事故だって、わたしにはわからない奥深い理由が彼――もしくは彼女にはあったんだろうか。今日という日すら来てほしくないと思うほどに、自分の人生を呪っていた? 自分には生きる価値はないと思うところまで来ていた? なんだろう。いったいなにがあったんだろう。
 ホームルームも始まってない時間に文庫本を前にして考えさせられる。わたしは恵まれているのか。恵まれてる・恵まれてないっていったいなに。死んだら恵まれてなくて、生きてたら恵まれてる? 生きてるだけで何倍もまし、なんて生きてる人間の側の、生きてることの言い訳でしかなかったりしない? わたしは言い訳ばかりを目の前において、きょうも、明日も、明後日ものほほんと息をし続けるんだろう。きっと。
 蘇芳はため息をついて、文庫本のつづきに取り掛かった。


     ■

 誰――? あなたは何者――? 後ろを振り向いても、何もなかった。
 これは夢なの? わたしは暗闇の中にいた。自分の吐く息が白いのか無色なのかもわからなかった。音はしない。匂いもしない。でも確実にわたしのことを見ている一対の目の存在を感じる。
 この感情はなに? 怨み? ううん、ちがう。恐れ? そんなこと思われるはずがない。悩み? 誰があたしに相談するっていうの。この向けられてる感情はなんだろう。正体の判らない塊が、無言の圧となって押しよせてくる。
「あんたなんか嫌い」
 声がした――ように思えた。でも、いま? えっ? あたしの鼓膜は震えなかったはず。なにも聴いてない。聴いてないのに頭の中に意味が認識されている。
 聴きたくない言葉だった。この言葉を聴きたくないから、人と関わることをやめたかった。ずっと好きと思ってる相手にも、ある日、無残にこの言葉を投げつけられる。あたしは嫌いじゃない、嫌うわけがない、って抗弁しても相手には通じないだろう。こんなきつい言葉を口にするまでには、それまでの蓄積があって、言葉が発されたときには取り返しのつかないことになっているのが普通だから。あたしは他の人が怖い。怖いから逃げたい。知りたい気持ちからも目をそむけた。無関心を装う。無関心という皮をかぶりながら、あたしはつねに他の人に関心を持っていた。本当は仲良くしたかった。
 桃里だって優茉だって奏だって、あたしが心を開けば、きっと仲良くしてくれただろう。素直じゃないのはあたしばかりだった。
 毒も薬も構わず飲みこめればよかったのに。
 この暗がりの向こうにいるのが三人のうちの誰かだったら、あたしはすぐにでも謝りたい。あの日のことを謝罪して、あの日の続きを約束してみたい。でもきっと無理だ。取り返せない。物事は不可逆なんだから。
 暗闇の中でも自然と視線が落ちていくのがわかる。背後に誰が居るのか、どうでもよくなってきた。あたしは見えない。向こうは見えている。だからなんだ。
 ――来るなら来なさいよ。怖くないし!
 心の底から勇気を振り絞る。空元気だった。けれど、勇気を振り絞っていないと、へなへなとその場に崩れてしまいそうだった。ちゃんと立っていないと。闇の時間はずっと続くわけじゃない。明けない夜はない。朝はきっとくる。明日の朝にはあたしはきっと笑ってるんだ。今みたいに厳しい顔からは解放されている。
 大丈夫。あたしはまだ生きている。



     □

 蘇芳の夏休みはほとんど家に閉じこもりきりだった。朝起きて、図書館に行ってみようという気持ちになるときがあっても、ごはんを食べて、身支度をするうちに、そんな殊勝な気持ちは消し飛んでしまったものだった。結局、いつもと同じ朝を過ごして、ちょっと転寝して、面倒だけどお昼ごはんをお腹につめて、うだうだしていると日が暮れた。何十回となく繰り返すうちに二学期の登校日が来た。宿題をしない反抗的な生徒ではない。蘇芳はやることはちゃんとやる生徒だった。ふだん授業に身を入れないだけで。
「珍しいね」
 放課後、声をかけられた。たしかに珍しい。蘇芳は体育館裏から館内を覗き込んでいた。ほかにも生徒がいる。多くの子たちは特定のプレイヤーの動きを目で追うのに夢中だ。
「だれ推し?」と訊いてくるのは、これまでに話したこともない生徒だった。見かけたことはあったかもしれない。でも話したことはなかったはずだ。誰だろう。蘇芳は、思い切って尋ねた。
「知ってる人?」
「なに?」女の子は戸惑っている。おさげにして、黒の薄いフレームの眼鏡をかけている。眼鏡の奥の瞳は深淵のように黒々としていた。控えめなタイプに見えるけれど、初対面の彼女に話しかけてくるあたり、積極性がこっそり隠れているのかもしれない。
「ううん。あなた、わたしの知ってる人かなって」
「そっちか。あなたの目当てがわからないのに、知ってる人? って訊かれたと思ったよ」彼女はくすっと笑った。「あたし、佐那。上の名前はいいよね。ふだん見ない顔がいたから気になって。あたしは知らない人だよ。いままではね」
「坂下蘇芳っていいます。部活動がどんななのか気になって」
「いい人がいるわけじゃないのね」佐那は残念そうだった。
 会話しながらも、佐那はときどきバスケットボール部に目を向けていた。彼女の目当ては――。
「あたしはあの人」全体から見れば一際背の高い女性がいた。
 あの人か、と蘇芳は思う。
 目当ての彼女を見つめる佐那の瞳に一瞬光が瞬いた。
「だいたいいつも見に来てる。人気あるんだよね。あたしは見てるだけでいいから」
 蘇芳はその言葉を聞いて気持ちが揺れた。
 でも二学期なのに、はじめて部活動を見に来たって蘇芳って変わってるね、と佐那は指摘した。やっぱり変わってるって初対面でも見破られるのか、と蘇芳は思う。変わってるのは昔からだ。いまさらショックを受けるでもない。
「自分ではやらないの? 入部してあの人の傍にいたいってならない?」
「考えたことない。見たいときに見れるからいいんだよ」
 そういうものか。でもやっぱりよくわからなかった。
 それにしても佐那は「推し」って言葉を最初に使ってた。推しがよくわからない。その人を支持する? 熱烈に? もうすこし控えめな感じかな。推す。推薦する。推挙する。酔狂……じゃないよね、やっぱり。あなたはわたしのおススメなんだからね。そんな宣言なのか。宣言? 誰に向かって? わたしがわたしに対して? なんだ、わたし、結構わかってるのかもしれない。蘇芳はそんなことをつらつらと考える。
「あたしそんなに知り合いがいないんだけど――」と蘇芳が言い始めると、
 佐那はすかさずいった、「うん、そんな気がしてた」
 透けてる。見透かされてる。
 言葉を失って止まってると佐那がつづけた。「それでどうしたの」
「これからもここにきていいかな。あたし誰かと知り合いになりたくて。あなたのこと、もっと知りたい」
 この言葉を口にするのに蘇芳は勇気をふりしぼった。拒まれたらどうしようと恐れながら。



     ■

 何をしてるんだろう。灰色の空間。時間の経過がゆっくりに感じられる。薄まった感じではなくて、濃くわだかまっている印象がある。心なしか息苦しい。呼吸をしてもぜんぜんすっきりしない。いまは朝? それとも夕方? 夜ではなさそうだ。視界全体がほんのりと明るい。室内とも思われないし、屋外とも思われない。それを決定づける対象がここには存在しないから。動いてるのはわたしだけ。狭いか広いかもわからない限られた空間に、物を思うのはわたしだけ。ひとりきり。もとから、ひとり。べつに構わない。ひとりには慣れてる。
 それでも状況を動かしたくなった。あたしはあの子に声をかけた。ううん。かけてきたのは佐那だ。あたしはいい機会と思って、仲良くしてほしいって頼んだ。あれ? あたし、返事ってもらったっけ? 憶えてない。もらった気もするし、もらわなかった気もする。どっち? 大切なことのはずなのに。
 蘇芳ちゃんはえらいね。こんなに小さいのにちゃんとおとなしくできて。
 純粋な褒め言葉と信じられていた時期はいつまでだったろう。もっと子供らしくできないの、楽しいって気持ちを表現できないの、生意気よね、って意思が言葉の裏に隠されてるんだと思ったときもあった。表に現れる言葉、素直に受け取る印象だけが本当を表してるとは限らない。言葉で笑って、心の奥で睨みつけるみたいな両義性を持つことが、大人の条件だったりするみたいな。言葉と行動を一致させたい気持ちは、思春期特有の意地なの? このままじゃいけないのかな。ちょっとした焦りだった。
 あたしは佐那にすがってる。仲良くしてほしい、って頼ってる。悪い事じゃないと思う。でもこっちの気持ちが片付かない。
 誰かと仲良くなるって何? 佐那のこと何も知らないのに。あたしの一部をわたして、それで彼女はちゃんと応えてくれるの? 踏み出すのが怖い。彼女の言葉をちゃんと受け止められるかもわからない。結局いままでみたいに一人でいる方が自分らしいんじゃないの。でもそれじゃ大人にはなれないし。
 考えがぐるぐるする。パパもママも、はじめからちゃんと大人だった。いまの大人は生まれたときから大人だったんじゃないの? 大人が子供だった時期があったなんて信じられない。子供の側だって、遠い未来にちゃんと大人になってる姿も想像しにくい。同級生を見ても、ほんとに成長して立派な大人になることってあるの、ありえなくないって考えてしまう。だらだらずるずるするうちに年齢だけ大人になって、でも精神性はかわらなくて、子供みたいな心に大人の皮をかぶることになるんじゃないの? なんか、コナンくんみたい。ううん、あれは逆か。
 あれ?
 向こうから小鳥が飛んでくるのが見えた。もしかして、こっちに向かってる? 飛翔体はどんどん距離をつめてくる。五〇メートル……二〇メートル……一〇メートル――ぶつかる! 頭を低くして、目をぎゅっとつぶった。ぱさぱさっと乾いた音が耳元にした。そのまま何かが左肩に乗る。
 え!?
 戸惑いしかない。
 目を開いておそるおそる左に顔を向ける。
 薄緑の羽根を持つ小鳥が、宙に向かってなにかを小突くみたいに嘴を前後させている。こちらの視線を認めるように、首をくいっとこちらに向ける。相手の、小さいけれど、くっきりとつぶらな瞳に焦点が合う。レンズに映るのは黒の小宇宙のなかに迸る小さな火花だった。
 素敵、
 と本心から思う。この美しいものを手に入れたいと感じる。
 あなたのそれ、くれない。
 本音が口から洩れそうになる。それって目玉をえぐるってこと? こんな愛らしいのに。ひどいことを考えるくあたしの醜さが悲しい。



     □

 その朝、座席に座れた蘇芳は、車内の揺れるリズムに眠りそうになった。珍しかった。彼女は一度も乗り越したことがなかったし、電車の中では気を張る方だから無防備な状態になることはありえないはずだった。
 教室に入り、自分の席に着いてからも、蘇芳は鞄の中の教材を机の中に仕舞うことを怠っていた。いまベッドがあれば一瞬で寝られそうなのに、と彼女は考える。
「蘇芳さん、大丈夫? くまできとるよ」
 あいかわらずなれない関西弁のイントネーションで、優茉が声をかける。
 ふだんは話さないけれど、ちゃんと見てくれていたのが蘇芳にもわかった。くまができていたことを彼女は当然知っていた。少しくらいならわからないだろうと高をくくってもいた。それでも朝の一番にこうして指摘されるということは、目立ってるということだろう。蘇芳は恥ずかしくなる。
「あまり寝られてなくて」蘇芳は答えた。
「寝られへんの辛いよね。うちもようあるわ」
「そうね」返答する蘇芳は、すでに頭がぼんやりしていた。
 それからもストレッチで身体を動かしたり、ハーブティーを飲んで体調を管理すると眠りやすいかもといった話を優茉は蘇芳にした。
 やがて、桃里と奏が登校してくると、優茉は蘇芳のほうを切り上げて、いつもの三人で固まって話し始めた。
 目を瞑っていると楽だった。次第に、目の周辺の熱が落ち着いてくる。
 ホームルームの直前に蘇芳はなんとか鞄の中身を机に仕舞いこんだ。
 一時間目が終わって、二時間目が始まる。
 授業終りに差し掛かるころ、蘇芳は手を挙げた。
「坂下さん、どうしましたか?」と英語を担当する四十代の女教師が尋ねた。
「体調がすぐれないので、保健室に行ってもいいですか?」
「わかりました。保健委員は誰?」とクラス全体に向かって教師は声をかけた。
 小さい声で誰かが返事した。クラスの保健委員が誰なのか、蘇芳は把握していなかった。
「大丈夫です。ひとりで行けます」といって蘇芳は立ち上がり、そのまま教室の後ろのドアから廊下に出た。
 深い息が喉の奥から出てきた。とりあえず、第一歩、と蘇芳は思う。
 どうしてこんな状態になっているのか、蘇芳には明らかすぎるくらいに明らかだった。
 佐那とはあれからも放課後仲間としてうまくやっていた。毎日バスケットボール部の背の高い先輩を声もなく応援している佐那の隣で、同じように部活に打ち込んでいるメンバーの姿に見入っていた。佐那ははじめに推しという言葉を使ったけれど、体育館の中のメンバーに蘇芳が推しを見つけることはなかった。推しというのかはわからない。むしろ自分の隣にいる佐那こそ、蘇芳にとっての推しにもっとも近い存在といえそうだった。
 一週間がたち、二週間がたち、一か月がたち、二か月がたつ。部活動が終わるまで佐那は練習風景を見ていくために、それより前に帰途につく蘇芳とは一緒に帰ることはなかった。学校のある日は毎日顔を合わせるのに、隣にいて放課後の数時間を一緒に過ごしていても、彼女とはいうほど仲良くなれている実感がなかった。
 佐那はわたしをどう思ってるんだろう。いてもいなくてもかまわない空気みたいな存在? すこしでもわたしのことを知りたいって思ってくれてる? その割に佐那からはまったくアプローチしてこないし。一旦考え始めると、頭の中がそのことばかりになって、昨日は辛いからいつもより早めに体育館裏の時間を切り上げることにした。
 電車に揺られて帰宅する。勉強して、夕食を食べて、お風呂に入る。お風呂の中では迫ってくる妄念を向こうに追いやった。あがってからもしばらくぼうっとする。なんとかやる気を起こして髪を乾かし、こまごましたことを済ませる。寝支度を整えて、布団に入った。もう寝ようと独り決めするけれど、考えがぐるぐるし始めて、芋づる式に過去に体験した嫌な事悩み事まで引っついてきて、結局、三時頃まで眠れなかった。明日きつくなるよなとは気づいていた。でもどうすることもできない。
 結果、今朝のくまにつながって、今に至る。保健室までの廊下を歩いていく中にも、途中の教室からは教師の声や生徒の声がし、音楽室のピアノと合唱の声も微かに聴こえてきた。いつもは教室の中にしかいないから、外からどう聴こえているか意識したことがなかった。こんな風に聴こえてたんだと改めて知る。みんなが勉強にいそしんでいるときに、自分だけが長い休暇を貰ったような感覚に陥る。それはいいことなのか、わるいことなのか。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。そのうちに保健室のドアの前にたどり着いた。



     ■

 またここだ。いつも見る世界。数えきれないほどたくさんの時間をわたしはここで過ごしてきた。夢だよね、きっと。夢でも構わない。明日終わりを迎えるのならそれは悲しいけれど、名残惜しいことよりも、美しく整ったものが無になることによる虚しさのほうが大きいな。
 洋風の庭、その奥に威厳をたたえてたっている立派なシャトー。外壁の、白とクリーム色と茶色のレンガが幾何学模様を形作っている。目に優しいブラウン系の色合いと、庭の随所に配置された樹木・灌木・草花の緑と茶がコントラストをなしている。誰が手入れするのか。わたしは庭師に会ったことがない。
 気付いた。いつもはいるはずの虻や蜂、蝶々といった小動物の姿が見えない。光は溢れている。風が凪いで、湖面はひっそりと静まり、空の青を映していた。
 佐那のことが思いだされる。仲良くしたいのに乗り出せない。自分は臆病だ。なにもできないまま立ち尽くしている自分。孤独の中に籠ることに慣れてしまった。誰とも共有することのない庭園に閉じこもっているいまの姿はそのままわたし自身のあり様だったりする――のか、な。
 風が強くなる。強風にあおられた木々の梢がもう限界というくらいに揺さぶられる。まだ力を残しているはずの青い葉っぱも次々に引きちぎられる。
 わたしは何を見てるの。平穏だったはずの世界が凄まじい風によって攪乱される。ここは平穏の地じゃなかったの? どういうこと?
 どれくらい経ったろう。途中意識を失っていたようにも思う。次に見た光景は気持ちを挫くに十分だった。
 精緻な庭園の姿は見る影もなかった。芝生には強風に折られた枝が無数に散乱していて、落下の衝撃で下の芝生が傷めつけられ、地肌が露出していた。気の遠くなる数の葉がまき散らされ、灌木の脇に咲いていた可愛らしい花たちも、その花弁を三枚四枚と引きちぎられ、残る花弁も萎れ気味だった。
 ふしぎだった。そんな状況にあってもわたしの心は湿ることなく乾いていた。
 お世話になったこの世界。この箱庭。壊滅的な被害を受けても、わたしは夢見る気持ちから抜け出せない。この世界の人間じゃないから? 周囲がどうなろうとかまわない? 薄情だって思われるかな。わたしを旅人にしたのは、わたしの意志なの? どこにも属さないし、属せない。なにものでもない自分は、どこかに安息を求めるわけもなく、ただ生きてるから生きているだけの存在。消極的な意思を保ち続けるだけがせいぜいじゃないの?
 ――佐那。
 唐突だった。
 佐那に会いたい。気持ちがつのる。放課後、隣で一緒に部の練習を見まもるだけの存在。親しい会話があるわけでもない。近くて、とても遠い人。佐那と話したい。でも向こうはどう思ってるの。彼女の視線は常坂理央(ときさかりお)――その名は、ずいぶん前に佐那から聞いて知っていた――が独占していて、彼女の視線がわたしに向くことはまれだった。彼女にとってわたしの存在は無に等しい。もっとわたしに関心を持ってほしい。わたしになにができる?
 庭の悲惨な状況はいつまでもそのままだった。修復されるでもない。時間が過ぎる感覚もない。再び訪問するとき、この世界は再生しているだろうか。それとも一旦破壊された平穏は二度と戻らないのか。
 ふしぎと怖さはなかった。庭師がなんとかしてくれる。そんな予感があった。



     □

 眩しさに目を細める。カーテン越しに真昼の日光が室内まで洩れ届いていた。天井――見知らぬ天井――ここ、どこだっけ。
 耳をくすぐる音がする。ノートに筆記されるペンの音だ、と気づく。しばらく聞いていると、音が止まった。
「起きた?」と大人の女性の声。気持ちの落ち着く声だ。「担任の先生から聞いてるよ。気分が悪くなったみたいね」
 保健の加藤千穂先生は体温計をもってベッドわきにやってきた。先生は三十代の前半だった。うっすら化粧をしていて、すこしあこがれもする大人の女性だった。
 身体を起こし受け取った体温計を腋に挟む。
「いま不調を感じてる?」と加藤先生。
 さっと意識を巡らせるが特に問題を感じない。「いえ。平気です」
「困ってることとか、悩みごととか、そちらのほうはどう?」
 ああ、訊かれるか、とわたしは思う。「そちらも平気です。人並みに高校生でいれば悩みごとのひとつやふたつあるもんだから」
 先生は顎に手を当てた。「ちょっと気になるけど、仕方ない。何かあったら――」
 先生が言いかけたときに、腋の体温計から音がした。
「三六・四度か。うん平熱ね」渡した体温計の液晶画面を見て先生は納得したようだった。「もうお昼休みだけどどうする? お腹空いたでしょ」
 わたしは空いてないと答える。そして、むしろ、いまは食べたくない、といった。
 先生はそれ以上、お昼のことをいわなかった。
「不安ならこのまま寝ててもいいし、出られそうなら五時間目からになるけど残りの授業に出てもいいよ」
 先生の提案を天秤にかける。どうしようか。
「辛い時は無理しない方がいいし、寝ていればどう」わたしの様子を見て先生が勧めてくれる。
「そうですね。放課後まで休ませてもらっても」
「どうぞ。わたしはデータ入力があるから戻るね」
 横になると再び妄想というか、夢の中のことが思いだされた。壊滅的な被害を受けたあの場所。わたしだけの逃避場。わたしのためだけに整えられた空間。そうだと思っていたのに、大風が大嵐がわたしの大切な何かを奪っていった。夢の中ではひとりだった。誰もあのなかに招き入れることはなかった。夢は一人で観るもの。それでも夢の中では一人でいなければならないなんて法はどこにもないはずだった。自分の世界に他人が入ってくる余地がない。誰も入れないし、入れたくなかったんだ。
 涙がこぼれた。こぼれた涙は頬を伝って耳のなかに入り込んだ。気持ち悪い。でも泣くと気分がすっきりする。
 先生がキーボードで文字を打ち込む音がしていた。ときおりマウスをクリックする音も混じる。
 わたしは先生に泣いているのがばれないように、ぐずぐずする洟をポケットティッシュをつかって、なにもないかのようにすんと噛んで落ち着いた。
 結局五時間目の終りまで眠らせてもらって六時間目は教室に戻ることにした。
 お腹が空いているのを感じる。でも一度時間が過ぎれば、どうでもいいかという気持ちにもなる。


     □

 教室に戻る。
 蘇芳の席には、二時間目の終わりがけの状態のまま、教科書とノートが開きっぱなしになっていた。
 近づく級友はいないし、誰も見なかったことにしているようだった。
 六時間目の数学は退屈だった。
 授業が終わり、割り振られた箇所の掃除を行い、ホームルームが進む。
 放課後、例の三人が蘇芳の近くに寄っていった。
 蘇芳は三人に囲まれて逃げ場がなかった。何を言われるのかと臆病な気持ちにもなる。
 しかし三人の言葉は意外なものだった。
「ムリしないようにね。あんまり寝てないみたいだったし。勉強もほどほどにしないとね。それか、動画でも視てた?」
 桃里が先陣を切った。
 それに続いて、優茉と楓もいたわりの言葉をかけてくれる。
 蘇芳は心が温かくなるのを感じた。
 自然と「ありがとう」という言葉が口をついて出た。
 優茉と楓の顔が輝く。二人は顔を見合わせて、
「蘇芳さんが『ありがとう』っていってくれた!」
「はじめて聞いたかも!」と喜んだ。
 意外な感じがした。
 そうか、ありがとう、もいえてなかったんだ、と蘇芳は気づく。
 声をかけられても、ごめんなさいとか、すみませんとか、そんな言い方しかできてなかった。
 うれしいとか、ありがとうとか、そういう言葉がわたしには足りなかったんだな。
「それじゃ、わたしたち帰るから。またね蘇芳さん、体育館行くんでしょ?」と桃里。
「え」蘇芳は言葉に詰まる。
 蘇芳は教室を後にする三人を見送った。
 考えた末に、その日は体育館には寄らずに帰宅することにした。



   ■

 そう、わたしはまたここにいる。ここが何処を指すのか。これまでと同じ地平にいるはずだけれど、これまでとはがらっと変わってしまった世界にわたしは立っている。あのシャトーは消えてしまった。広い庭は影も形もない。池に泳いでいた水鳥はどこに消えたのか。
 そもそもこの世界に空という概念はあるのか。晴れた日や曇った日、雨の日もあったけれど、空を見た記憶がわたしにはない。あったかもしれないが、いまはもう失われている。わたしが建っているのはだだっぴろい草原だった。草原というよりは、綺麗に刈り込まれた芝のように整った平地だった。緑の草がびっしりと大地を覆っている。
 わたしは場違いな存在なのだろう。手に持っているのは木刀。何年も剣道場で使い込まれたような渋いこげ茶の、密度のしっかりつまった木刀だった。わたしの手にはすこし重すぎるくらいだった。ここでしなければならないことは、誰に言われなくてもわかっている。
 わたしはよろよろした手つきで木刀を上段に構えた。ぎゅっと握り込んで勢いよく振り下ろす。落下速度を抑えきれずに一振り目は木刀の先を地面に突き刺してしまう。要領のわかった二回目からは力を入れて自分の腰の高さで止めることに成功する。五振り、六振り、七振り、八振り。繰り返す。十振りもすれば身体が熱くなってくる。それでもやめなかった。
 わたしはせっせと棒切れを振る。なぜこんなことをするのか。
 シャトーが無くなったからだ、きっと。身を寄せる場所がなくなった。自分の身は自分で守るしかない。
 だから目的はちゃんとある。
 痛みと痺れで肩も腕も指先も感覚がなくなってくる。重い空気に押し包まれるように神経が鈍麻する。
 百振り? 二百振り? 何度振っただろう? 汗はかいていなかった。かいてもおかしくない。でもかかない。これは夢だからだ。本当じゃないからだ。
 本当の世界を見なければいけない、夢だけでは生きられないと思ったとたんに、観ている世界はガラスのように、粉々になってくだけた。
 わたしの存在もこなごなになって砕けていくのが分かった。どこからともなく風が吹いて、かつてわたしだったこなごなの粒は吹きさらわれていった。

 さようなら、せかい。



     □

 唐突に生じた衝動だった。いまならできるはず。わたしは勉強用に買っておいたノートのまっさらのを取り出して、1ページ目に文字を書きつけた。

     「夢を言葉に/言葉から現実へ」

 書かないといけない。書かないと消えてしまう。そう思って、まだ寝ているはずの時間に灯りをつけて、机の上にひろげたノートに文字を書きつけていた。消えてしまう。消えるんだ。早くしないと。書きつけても書きつけてもきりがなかった。素振りをしたことを忘れていた。どれくらい時間がたったのか。指先は文字の書きすぎでじんじんと痺れていた。ノートは二十ページ以上が文字で埋まっていた。それでも一向に書き終わる気配はなかった。あきらめるしかない。どこかでわかっていた。自分の鮮烈な体験は、どれだけの文字量に落とし込んでも書き尽くせるわけではないんだと。そのものをその形のままにとどめておくことはできない。記憶はいつか風化する。風化したあとでそれらをかき集めようとしても、それは虚しい行いでしかない。目指す成果は得られないだろう。
 こなごなになった夢の中の自分が、失われなくてはならないものの存在を思い知らせる。必死の抵抗に書きつけたノートの上の文字はすでに死物になってしまった。これじゃないんだ。悲しみが押しよせる。

 桃里。優茉。楓。佐那。あの子たちのことが浮かぶ。
 いまは信じ切れない。三人組がときおり仲間内で陰口の回し合いをしてるのも知ってる。それでも表向き三人は仲良くやっている。表で良い顔をして裏でこそこそ悪口をいうとか。そういうのもあって、人を信じたくても信じ切れない。わたしも陰口の対象になってると思う。関係の深くない人にいわれるならまだ構わない。でも仲良くなって、一緒に時間を過ごすことが多くなっても、そんな風な二面性を秘めている相手とうまくやっていくなんて、そんな器用なこと、どうすればできるんだろう。
 毒も食らう勇気が必要?
 それとも、ひとりのままでいるほうがいい? でも――。

 開いたノートに綴った文字列のいくつかが目に入る。

     「閉じこめていた籠が壊れ、青い鳥は自由になった。」
     「まだ欠片を集めたいの?」
     「朝の光は、よきものを照らしてくれる。」

 よきものを照らしてくれる。
 そうね。あさのひかりを待つためにも、まずは寝ないと。
 蘇芳は再びベッドに横になった。
 佐那は明日なんていうだろう。
『昨日来なかったけどどうしたの?』それくらいは訊いてくれるか。
 わたしも常坂理央さんのことにもっと関心を持ってみようか。そしたら佐那とも話題ができるかもしれない。理央さんのことを尋ねればきっと喜んで答えてくれるだろう。佐那の喜ぶ顔が見たい。放課後、ただ横に立っているだけでは我慢できなくなってきたし。
 積極的にならないと。もっと積極的に。

朝(あした)を待つ

朝(あした)を待つ

  • 小説
  • 短編
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  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-05-08

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