ある夜の話

また、夜が来る。向かいの家に見える部屋に、彼女の姿はもう見えない。

私はアパートに一人暮らししている会社員だ。
家族もいない、色恋沙汰もない、生活を日々淡々と過ごしている。

私の向かいに住んでいるのは、大学生くらいの女の子と、その家族。
いつも、私が出勤するときに、会ったときは笑って挨拶してくれる家族で、度々聞こえてくる家族のやり取りは微笑ましいものだ。
至って普通の家族、普通の女子大生で、特に変わった様子もなかった。

けれどある夜、私は仕事から帰宅したが、失敗ばかりで忘れるためにやけ酒をあおっていた。しかし、さすがに飲みすぎたのか、気持ち悪くなって、少し風に当たろうとベランダに出た。ちょうど目線の先に、いつも挨拶してれる彼女の部屋が見えて、なんだかいけないものを見てしまったように思えて慌てて空を見る。いくら酒に酔っていようと、そんな性癖はない。

はぁ…、とため息をついて、今日しでかしたことを振り返っていた…。

しかし、しばらくして、酔いも醒めてきたので、冷えてきたので部屋に戻ろうと、

視線を戻した。意図もせずに、彼女の部屋が見えた。窓が開いていて、風が吹いたのか、カーテンがふわりと、人影が。
一瞬の出来事だった。月明かりが差し込んで、人影を照らす。その正体は彼女だった。
彼女が、悲しそうに笑っていた。

一瞬目が合ったかもしれない。私は、とっさの出来事に理解が追い付かなかった。
…いや、酒に酔っていたのかもしれない。醒めたといっても、完全じゃないのだから。
あれはきっと見間違いだ。疲れていたんだ。
それでも、彼女のあの顔が頭から離れない。

なぜ?あんな顔で…。
いつも、笑顔で挨拶してくれるあの子に、何があったというのか。
そう思っても、赤の他人である私がわかる由もない。

あの夜から、彼女の部屋は見えない。好んで見ようともしてないが。
毎朝の挨拶も、あれからなくなり、不思議なことに全く会わなくなった。
彼女はどうしてあんな顔をしていたのかは、一向にわからない。
けれど、赤の他人である私が助けることはできないだろう。

彼女は今日もまた、泣いてしまっているのだろうか。
それでも、私にできることは、せめて今日彼女が幸せで、笑って過ごせているようにと、願うことだけだ。

ある夜の話

「彼女」の話→https://slib.net/112221

ある夜の話

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-05-08

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