フリーズ5『ある星の神話』
第一部 神約星書『創星記』第一章『宇宙開闢』
一 太初において、そこには無も有も無かった。空間も時流も無かった。天界も地獄も無かった。何者かの庇護を受けて、発動した。始まりは波であった。その前は久遠の凪であった。標識なき波は次第に虚空に反射し合わさり、意識の種子となった。これが生命の開始である。
二 そのとき、死も無かった。不死も無かった。昼と夜の標識も無かった……
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七 神々はこの創造より後に生まれた。だとしたら、何者が何処からこの創造を起こしたのか。または、起こさなかったのか。最高天に君臨し、この世界を監視する者のみがこれを知る。あるいは、彼の者すら知らない。
第二部 神約星書『創星記』第三章『原罪』
少年は楽園にいつも一人でいました。楽園には美味しい果実が実る樹があり、綺麗で美味しい水が流れる川もあります。服も何不自由することはなく、家も住み慣れたものが湖の畔に建ってありました。衣食住は満たされていたため、少年は今の暮らしに何も疑問を持ちませんでした。生まれてこの方ずっと一人。だから名前もないし、必要ありませんでした。
ある時、少年が森の中を散策していると、今までに見たことのない美しい花を発見しました。少年はその花を近くで見つめて観察しました。見れば見るほど少年はその花の美しさに惹かれていき、とうとう少年はその花から離れることができなくなってしまいました。
お腹が空いても、喉が乾いても、少年はその花を見つめました。雨の日も晴れの日も、少年はその花を見守りました。しかし、あまりにもお腹が空いてしまったので、少年はむしゃむしゃゴクンとその花を食べてしまいました。
少年は後悔して、悲しみの涙を流しました。けれど、いくら泣いてもその花はもう戻ってくることはありません。少年はその時、初めて他者の存在に気づきました。そして、自身が一人きりであることを嘆きました。
少年は何日も泣き続けました。流れた涙はやがて池となりました。池には水草が生え、そこから一輪の花が咲きました。その花は少年が食べてしまった花と同じ花でした。
少年は喜び、より近くで見るために池の中へと入って行きました。少年がその花に近づき触れると、その花は池の水を勢いよく吸い始め、どんどん大きくなっていきました。
美しい花は一度咲き誇りましたが、次第に萎れ始め、やがて枯れて、少年くらいの大きさの黄金の果実になりました。
お腹が空いていた少年はその果実を食べ始めました。その果実は甘酸っぱくも美味しく、少年は夢中で食べていきました。少年が食べ進めていくと、果実の中からなんと一人の少女が現れました。少女は少年が食べてしまった花でできた冠を頭に付けていました。
初めて二人目の人に出会った少年は気持ちが昂ぶるのを感じていました。少年は眠っている少女の身体に触れ、その美しい顔を近くで見つめ、自身の唇と少女の唇を重ね合わせました。
その時、少女が目を覚ましました。少女は少年に、あなたは誰、と訊きました。ですが名前のない少年は困り果ててしまいます。暫く考えた後、少年は同じ質問を少女にしました。少女は、分からない、と答えてから少年を見つめ返します。少年は、これから私たちが何者なのか知っていこう、と語り、それを聞いた少女は頷きました。少年は少女を家へと案内し……
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□講解
一 最初の人間であるアデルとヘレーネがセックスをし、快楽を知ったことで、愛という概念が生まれた。
それは罪でもあった。女には出産の苦痛が与えられ、男には女を養うための労働の義務が与えられた。原罪とはこのことを言う。
果たして、原罪は犯されなかった方が良かったのだろうか。私たちは今日、この青い星エルデで生きている。人類がここまで栄えたのは、性愛という名の罪が連綿と紡がれてきたからだろう。
恐らくこれからも人類はこの罪を犯し続ける。セックスだけではない。あらゆる罪を人は犯すだろう。だが、終末の日に、過去と未来の全ての罪を背負う者が現れるのだ。人は彼の者を神と呼ぶのだろう。
二 人類の存在意義を考えたことがあるだろうか。私たちは名前というものを当たり前のように使っているが、ヘレーネのした「あなたは誰」という質問の答えとして自身の名前を答えることは果たして正解と言えるのだろうか。
もしかしたら人間は、神が己のレゾンデートルを探すために創造したものなのかもしれない。
また、アデル一人だけではなく、ヘレーネという二人目の人間が現れ、性別が生まれたのも、神が唯一物であるからなのかもしれない。
第三部 誰も知らない神話
聖女アナスタシアは恋人であるルイスの訪れを察知して、読んでいた神約星書を座っていた長椅子に置いた。アナスタシアはルイスを夜の礼拝堂に招き入れ、入り口の鍵を閉める。
アナスタシアは神に仕える者としてセックスはもちろんのこと、恋愛までも禁じられていた。彼女は敬虔な信者であったため、この掟を今まで守り続けてきた。だが、彼女も聖女である前に一人の乙女であり、恋にも落ちれば欲も抱く。
アナスタシアとルイスは相思相愛であり、今、この場において二人の純愛を邪魔する存在は誰一人として存在しなかった。
「ルイス、愛している」
「僕も愛しているよ、アナスタシア」
二人は静謐な礼拝堂の中で抱擁を交わし、愛の言葉を紡ぎ合った。
アナスタシアはいずれ神の子を生む聖母となると言われて育てられてきた。父は最高位神官、母は元聖女。生まれたばかりの頃は彼女こそが神の子だと噂になったが、彼女には特別な力も特徴もなかったため、その噂は彼女が神の子を生む存在だと言う話に移り変わっていった。
「ねぇ、アナスタシア。一つだけ教えて」
ルナの光を受けて光り輝くアナスタシアの海のような紺碧の瞳を見つめながら、ルイスは透き通る声で尋ねた。
「何?」
アナスタシアが話の先を促すと、ルイスは礼拝堂の中を神妙に見渡してから、彼女の頬に自身の右手を添えて一つの質問をした。
「どうしてここを選んだの?」
ここは神聖な礼拝堂。これから二人はセックスという穢れた行為をするのだ。ルイスもアナスタシアと同様に敬虔な信者であり、また彼女もそうであると知っていたからこそ、ルイスは彼女がこの場所を選んだことに疑問を抱いたのだった。アナスタシアは含み笑いをして見せると、ルイスの滑らかな白髪を優しく撫でながら答えた。
「ここなら神様も見てくれると思ったの」
アナスタシアの言葉を受けて、ルイスは「そっか」と呟いてから照れたようにはにかんだ。
「……それは、少し恥ずかしいな」
「大丈夫だよ。私も恥ずかしいから」
アナスタシアは先程座っていた長椅子に戻り、神約星書を手に取って、あるページを開いてからルイスに見せた。
「私、この編者の解説がしっくりくるんだ」
ルイスはルナの光に照らされた神約星書の文面を静かに読み上げた。【神約星書『創星記』第三章『原罪』】の解説をルイスが読み終わると、アナスタシアは徐に呟く。
「セックスは本当に悪いことなのかな」
アナスタシアが提示した疑問にルイスは困ったように笑うと、礼拝堂のステンドグラスに映るルナの彩光をぼんやりと眺める。その色は虹ともつかず、宝石ともつかない現象の花を咲かせている。ルイスはそこに美妙な人生の謎を見出そうとしていた。
「神は男だけでも女だけでもなくて、その両方を創造した。それは、キスやセックスという行為を通して愛を体現せしめるためで」
一つ一つの言葉を愛しむように、ルイスはアナスタシアに語り掛けた。
「そして、いつか『わたしはだれ』という問いの答えを見つけるためで」
そこでルイスの口は閉じた。沈黙のまま二人は手を取り合い、見つめ合った。ルナの光が二人を闇夜の中に照らし出す。
「アナスタシア……」
「ルイス……」
今導き出された一つの真理を胸に、二人は以前にも増して惹かれ合った。
「今、神の前で、永遠の愛を誓いませんか?」
ルイスの誘いにアナスタシアは「はい」とだけ答えてルイスと接吻を交わす。それは燃えるようなキスだった。永遠のようなキスだった。二人は火のように酔いしれる。
この聖所にて、また始まりの罪が犯される。乙女の処女は可憐な紅い花のように散り、少年はその麗しい花の香りと甘い蜜を堪能する。
二人はお互いの名を何度も呼び合って愛し合う。全ての過去と未来の魂達がここに集うのを感じながら、レゾンデートルを求めるように二人はお互いの身体を求め合った。
「神よ、許し給え」
「彼らの罪を許し給え」
柔らかな翼を持つ者達が二人の愛を見届けた。
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
二人の答えは「いいえ」だった。
「私たちは」
「僕たちは」
「この命尽きようとも」
「何度生まれ変わっても」
「死の断絶を乗り越えて」
「またお互いを探し」
「また出逢い」
「また恋に落ちて」
永遠に愛し合うことをここに誓います。
一年後、アナスタシアは双子を生んだ。一人が男の子で、一人が女の子だった。アダムとイブ。それが双子の名前だった。
最終部 繰り返される歴史
アダムとイブは禁断の恋に落ちてしまった。世界はその罪を赦さなかった。二人は罰として永遠の眠りに就くことになった。
それから何度百年が巡っただろうか。ある時アダムは目覚めた。自らを眠らせ続けた装置から抜け出すと、そこは彼の知らない星だった。
空気は澄んでいて、見渡す限り緑に覆われている。足元には色とりどりの花が咲き乱れていた。
アダムはイブを探した。幸い、隣の装置の中でイブも眠っていた。恐らく装置を稼働させる電力が底をつきたのだろう。イブもじきに目を覚ますだろうと考えてアダムは待ったが、イブが一向に起きないのでアダムはイブに目覚めのキスをした。
「あなたは誰?」
目覚めたイブがアダムに訊いた。アダムは暫く考えると首を横に振った。
「分からない」
「そうなの」
残念そうな顔のイブを見てアダムは言った。
「でも、君の名前なら薄っすらと覚えている。ヘレーネ、イブ、アナスタシアの何れかだったはず」
アダムの話を聞くとイブは言った。
「私もあなたの名前なら少しだけ覚えているわ。アデル、アダム、それかルイスよ」
結局二人はお互いの名前を思い出すことは出来なかった。私達は何者なのか。考えに考えた結果、二人はある結論に至った。
「君はたぶん、二人目なんだよ」
「きっとあなたも二人目よ」
ううん。この世界そのものが二人目だったんだね。
フリーズ5『ある星の神話』