六河凛太の独白
【あのゾンビがあたしを見ている】・後
の後の話。独立はしてないけど成り立ちは可。
いつぞやぶりに4区切りになったので、起承転結でそれぞれ分けました。
起
兄の名前を知ったとき、だからつまり、僕の苗字を知ったときのことでもある。憐れむような優しい口調で、真也さんは言った。
「ドクガじゃん」
薄い水色の空に浮かぶ綿あめのような雲と、秋の涼しい風が心地良い日曜日だった。年端様々なたくさんの子供たちが遊具の聳える芝生を走り回っている最中、真也さんだけは、ひとりでベンチに座っていた。
真也さんの言っている意味は、僕にはわからなかった。けれど兄にはわかったようだった。古めかしいBGMと一緒に、兄の大きな笑い声が聞こえた。僕は驚いて兄を見た。真也さんも驚いたようで、やっとゲーム機から視線を外した。
「上等じゃねえか。毒蛾で上等。むしろこれで大義を得たぜ」
「……兄さん、何を言ってるの」
僕を無視して、兄は突如として真也さんが持っていたゲーム機を奪い取った。
「毒蛾の俺はウザくて当然だろ? これお前のじゃないよな。古すぎるもんな。人のか? センセーのか? 返して欲しいよなあ」
10歳の兄の暴挙は当然のように、同じく10歳の真也さんの神経を撫でた。僕が止める間もなく、真也さんはベンチを蹴った。兄は軽く身を翻した。最初から立っていた兄と、立ち上がる動作が必要な真也さんとでは、どちらが優位かは明らかだった。
「友達になるなら返してやるよ」
六河理一。悔しげに下唇を噛む真也さんに、兄は改めてそう名乗った。僕たちと真也さんは初対面ではなかった。その養護施設には、僕たち兄弟は、ボランティア好きの父に連れられてよく訪れていた。
あのときの真也さんが兄を毒蛾と言ったのは、せっかくひとりで気楽にいるところを邪魔されて鬱陶しかったところに、名前と揶揄するイメージが上手く結びついたからだと思う。子供だったし、ただでさえ真也さんは、嫌われているわけでも嫌っているわけでもなさそうではあったけれど、輪に加わらずにひとりでいることが多かった。
涼やかな秋晴れの日曜日。砂を引っ掻く真也さんと、嫌味ったらしく角の丸いゲーム機をひらつかせる兄と、ふたりをおどおどと見比べる弟の僕と。こうして僕たちは、それまでに何度か顔を合わせていたにも関わらず、その日ようやく歪な友情関係を結んだのだった。
承
兄の毒蛾呼ばわりは、案外間違っていなかったのでは。僕がそう思ったのは、兄が中学1年生、僕が小学5年生になったばかりの4月だった。父は相変わらず、間ができては僕たちを連れて養護施設の門をくぐった。
鍵っ子――と言っても今の世の中では珍しくもなんともないが、とにかく僕はその日、鍵を持って出るのを忘れていた。兄が帰ってくるのを玄関先で待っているのも退屈だったので、兄が通う中学校に行くことにした。
校門で突っ立っている僕を、兄はすぐに見つけてくれた。
「暇だろ?」
小学校も高学年となれば、ランドセルを使う子はほぼいなくなる。僕も例に漏れずそうだったので、通学用にしている鞄は庭先に置いてきていた。目立つ色でもないし大きくもない。別に貴重品は入っていないし、少しくらい外に置いていても大丈夫だろうと思った。
その身軽さを、兄は変な方向に捉えたようだった。
「ついて来いよ。面白いものが見られるかもしれないぜ」
制服のままの兄について歩くと、また中学校が見えてきた。真也さんが通うほうだ。父とよく行く養護施設はこの校区で、住所がほんの少しずれていれば、僕も兄もここに通うことになっていたらしい。実際に来たのは初めてだった。
何か約束でもしているのかと思って訊いてみると、兄は答えてくれた。
「火曜日は図書室に行ってんだよ。だからちょっと遅いんだ」
兄とは違う真也さんの制服は、綺麗ではあるけど、ぱっと見で新品ではないことがわかった。場所や事情にも寄るけど、施設には寄付品が多いと聞く。僕だったらちょっと嫌だな。そんなことを考えた自分に驚き、振り払った。
「くしゃみとかすんなよ」
そう言って真也さんの後を追い始めた兄は、数分後にくしゅんとやって、「まあ生理現象だもんな」と鼻を擦った。
少し先を歩く真也さんがT字路を右に折れたとき、兄は小さくガッツポーズを取った。
「今日は当たりだ。電車に乗るぞ。小人料金押すの忘れんなよ、駅員が話しかけてきたら振り向かれるかもしれねーぞ」
「そっちこそ間違って小人料金押さないでよ。ついこの前までそうだったんだから」
「お前言うようになったじゃねーか。おにーちゃんは嬉しいぞ」
ふたりで切符を買い、真也さんと同じ電車の、真也さんの隣の車両に乗り込んだ。日が暮れかかったとは言えやはりまだ早いのか、乗客はまばらだった。社会人風の人はほとんどおらず、きゃぴきゃぴした大学生とか主婦っぽい女の人とか、そんな人たちばかりに見えた。
真也さんは、流れていく景色を見ていた。酔わないのだろうか。遠くて表情はわからなかったけど、ずっと視線を投げているということは平気なのだろう。
目がこっちに動いた気がして、慌てて顔を逸らした。ばれなかっただろうか。妙にどきどきしていた。兄はスマホをいじりながらにやにやしていた。ゲームでもしているらしい。
罪悪感を抱いていることに、僕は気付いた。僕たちは友達なのに、その友達の秘密を、こっそり覗こうとしているような。一緒にいてもいいならこっちから声をかけるはずだし、気付かれないようにしている意味がわからなかった。僕にだって言いたくない秘密くらいはある。誰だってそうだと思う。その秘密を、僕たちが面白がって暴こうとしているような。
外に置いてきた荷物を思い出した。あれを口実に帰れないだろうか。心配したふうに言うのがいいのか思い出したふうに言うのがいいのか、悩んでいるうちに電車が止まった。兄が立ち上がったので、僕も立った。結局目的地に着いてしまったらしい。
引くに引けないまま、真也さんの、というよりも兄の背中を追いかけた。やがて辿り着いたのは墓地だった。
墓地と言っても町からそう離れておらず、あくまで市街地からは外れているというだけの、よくあるタイプのお墓だった。春の夕暮れはまだひやりとする。四角い綺麗な石造り、添えられた花やお菓子がいくつも並んでいるのを見つめていると、人の家をじろじろと観察しているような気分になった。意味もなく見られていたら、ここに眠る人たちだって不愉快だろう。僕はたくさんのお墓から目を逸らし、心の中で謝った。
でも、驚いた。施設で暮らしているのはそれなりの事情があるからだから、真也さんだってそうだとは思っていた。まさか家族がもうこの世にいないとは思わなかった。父曰く、施設にいるからと言って、愛されていない子とは限らないそうだ。言われてみればプレゼントをもらったと喜んでいた子を見たことがあったし、直接子供にということはなくても、寄付や援助で施設の運営を支えている親も存在するらしい。
何度施設を訪れても、真也さんが遊んでいるのは、職員さんから借りたという古いゲーム機だった。談話室でアニメを観たりお裾分けのお菓子を食べたりしていることもあったが、真新しい何かを持っている気配はなかった。
死んでいたのだ。何かの理由で、頼れる親が。だけど僕は安堵していた。真也さんは捨てられたのではなかった。心の中にはちゃんと寄り添える人が存在していた。それがわかって、ちょっと満たされた気分になった。
「ここにあいつの親はいねーぞ」
広がりかけてきた温かいものへ、兄のその一声が氷となった。すうっと胸が冷える思いをよそに、兄は顎で真也さんをしゃくった。
「見ろよ。お墓には来たけど、全然近付かない」
確かに真也さんは、墓地の低い柵の手前に立っているだけだった。特定のどれかを見ているふうでもなく、考えてみれば、お墓参りに来るのに手ぶらというのも変な話だった。
「いないんだよ、あいつに家族なんて」
畳みかけるように兄は言った。口角が微かに上がったのを、僕は見逃さなかった。僕のその表情の変化を、兄もまた見逃さなかった。
「名前を全部見たんだ。麻橋なんてなかった」
「見た? ひとつずつ調べたってこと?」
「あいつ、他人の墓を眺めてんだぜ。変わった趣味してるよな」
僕は唖然と兄を見つめるしかなかった。どこから突っ込んでいいのかわからなかった。遠目で見るのさえ、僕は申しわけなく感じたのに。誰かが大切に想う誰かの眠る場所を、興味本位で踏み荒らしたなんて。普通の人は超えない一線を、兄は簡単に飛び越えたのではないか。
「帰るか」
程なくして、兄は踵を返した。真也さんは立ち尽くしたままだった。結局どのお墓にも近付かなかった。僕も兄も、真也さんも。
帰りの電車を降りる頃には、日が薄暗く翳っていた。僕の頭の中では、ぐるぐると単語が廻っていた。
火曜日の図書室、今日は当たりだ、名前を全部見た。ぼんやり思い返しているうちに、ふと記憶がさざめいた。毒蛾。真也さんは兄を毒蛾と言ったんだっけ。
醜悪で有害で汚らしい毒蛾。文字通り毒々しい色と模様の翅を磨り合わせ、不快な音と鱗粉を撒き散らしながら、灯りに執拗に群がる羽虫。
兄を異常だと感じた。僕はその日、兄が怖くなった。
転
僕は意図して兄を自分の近くに置くようになった。異常な兄を怖いとは思ったが、だからこそ見張っていなければと思った。兄が真也さんに執着していることは、最早明白だった。
過去にも妙な発言や奇人めいた発想に戸惑うことはあった。その性格の奇抜さは、非凡さ故だと思っていた。算数が数学に変貌し、理科が科学と化学に分かれた後でも、さして勉強している様子のない兄の成績は不動のトップだった。
見張るという目的はあったにしろ、普通にしていれば、兄は普通の少年だった。映画やゲームに付き合ってくれる、頼めば宿題を見てくれる2歳上の兄。施設には行っていたが、それだって僕と一緒だった。ちょっと変わってはいるのかもしれないけど、兄は普通の男の子になった。兄を注意深く観察しながら、僕はほっとしていた。
そんな折のある日のこと。僕は中学2年生、兄は高校1年生だった。父はまだ帰宅しておらず、僕は例に倣って兄に勉強を教えてもらっていた。
夏だと言うのに長袖のシャツを着ていて、ちょっと長めの前髪は汗で額に貼りついていた。真也さんは先頭の兄にコンビニの袋を渡しながら言った。兄は夏じゃなくてもアイスが大好きだった。
「お願いがあるんだけど」
ひょんなきっかけで出演したメディアでバズり、真也さんは有名人になっていた。だからなのかどうかは知らないが、真也さんは施設を出ていた。どうせ高校を出たら独り立ちしないといけないので、数で言えば2年早まっただけの一人暮らしだ。でも僕は、16の歳から一人で生活する自分なんて想像できなかった。
真也さんは鞄からスマホを2台取り出した。どちらも同じ色、同じ大きさ、新品の同じカバーに入っていて、片方だけは似合わないクマのストラップがぶら下がっていた。
その両方を、真也さんは、アイスに目を輝かせていた兄に差し出した。
「こっちの番号で、こっちのも使えるようにして欲しい。電話とLINE」
「は?」
目を丸くしたのは、僕ではなく兄のほうだった。珍しく何度も瞬きをして、こいつは何を言っているのかとばかりに真也さんを見ていた。真也さんは顔色ひとつ変えず、兄を見つめ返していた。
ぷっ、と噴き出したのは兄だった。
「ちやほやされすぎておかしくなったか? 機械に強いなんて言ったことねーし、実際そんな強くねーよ。俺にそんな魔改造できるわけないだろうが」
「今できないってだけでしょ?」
兄の呆れた笑いが、その一言で引っ込んだ。真也さんは真顔で、冗談を言っている素振りは一切なかった。
差し出していたスマホ2台を、もう一度差し出し直した。真也さんの指の下で、クマが揺れていた。
兄は驚いていたし、僕も唐突な展開に何も言えなかった。そもそも兄も真也さんも、お互い連絡先を知らないはずだった。今でもなんだかんだで月に一度は会っていたし、話したいことはそのとき話せた。家を知っているのは、かつてのイベントで夜を散歩したときに通りがかったから。冷静に考えてみれば、そこまで気心が知れているとは言いがたい。僕は今更そんなことに思い至った。
「お前」
兄が言った。素朴に疑問を解消したいかのような切り出しだった。
「お前まさか、知ってたのか」
真也さんは黙っていた。兄は真也さんの目というより、瞳自体を凝視しているようだった。
なんだろうと思っているのは、僕だけのようだった。
「その上で俺を信頼して、お願いしに来たってわけか? このくそ暑いのに、俺の好きなアイス買って、わざわざ」
「よく見て。割引だよ、それ」
反射的に半透明のコンビニ袋を見た。2割引のシールが透けていた。兄もそれを見つけると、今度は噴き出したところではなかった。腹が捩れるほど笑っていた。
「いいねえ。上等じゃねえか。何考えてんだか知らねーけどやってやる。ただし法に触れてもてめえのせいだぜ」
「わかってる」
「でも、さすがにすぐには無理だな。いつまで待てるんだ」
「調子悪いから修理に出すって、影響ありそうな人には言ってきた」
「じゃあとりあえず3日後。保証できねーから次も割引でいいぜ」
「ありがと」
知ってたってなに? 真也さんが帰った後、僕は兄に訊ねた。兄は答えず、2台のスマホを愛しそうに撫でていた。
さすがに苛立って、つい語調が荒くなった。
「なんで引き受けたの? スマホの改造なんてできるわけないじゃん。ただの普通科の高校生のくせに。そういうの頼める人くらいいそうなのに、わざわざうちに持ってくるなんて真也さんもどうかしてるよ」
「……ひははっ」
それは兄の独特の笑い方だった。真也さんを追って墓地に行ったとき、あいつに家族なんていない、と言い捨てたときと同じものだった。今より幼いかつての記憶が、あのとき頬に感じた風の感触を呼び起こした。記憶よりももっと冷たいような気がした。
「言うようになったじゃねーか。おにーちゃんは嬉しいぞ」
茶化すようなその言い方も、昔と同じだった。いや、これ自体はときどき兄が口にする。控えめで常に人目を気にして、大人の顔色で態度を使い分けていた僕が良い変化を見せる度に。
「手伝えよ、凛太」
兄は変わっていなかった。
「面白いものが見られるぜ」
違う。変わってはいる。兄は真也さんへの執着をより強めていた。それを隠すことが上手になっていた。
そしてもうひとつ、僕は気付いた。真也さんは兄の異常性を知っていた。それでいて兄との交友を止めなかった。止めるどころか、もっと信頼してスマホを預けた。個人情報がいっぱい詰まっているであろう、なければ今どき日常生活にも支障を来すであろうそれを。スマホを2台所持していること自体、少なくとも今の段階では、おそらく僕たち以外は知らない。
コンビニ袋を覗きながら、兄は鼻歌交じりに呟いた。
「どれにしよっかなあ」
それから僕にも中身を見せた。上から見れば割引シールはわからなかった。
「お前はどれがいい?」
でも、結果として、それらの異常性が功を奏した。そんなことは、このときの僕は夢にも思っていなかった。
結
持って行かれた1台の所在を、残っていた1台で追う。位置情報を開示していればなんのこともない操作だ。相手はパニックになっているし、悪ぶっているだけの女子高校生が遠くに行けるお金を持っているはずもない。焦って街を走り回って、焦っていることが周囲の印象に残るのではないかと冷静になって、落ち着いたふりで歩いて余計に疲れてどこかで休む。たぶん家には帰らない。腹部を刺された真也さんがそこまで考えたかどうかは知らないが、とにかく彼女は小さな範囲内しか動かなかった。
真也さんは兄に電話をかけ、出たとわかればすぐに切った。兄は真也さんの電話を悪戯だなんて思わない。即座に場所を突き止めて、即座に向かう。兄はもう高校に行っていなかった。テスト期間だけ登校しては満点を叩き出し、出席日数を脅されては穴埋めの補習にだけ顔を出して、その短い時間で教師を黙らせ続けていた。
要するに、真也さんからすれば、兄が見つけてくれるまでの間さえ命を保たせておけばよかったのだ。父の職業は医者である。しがない町医者だが、兄はその血を濃く継いでいた。小さな頃から医学書を読んで、父について難しい勉強会にも出席して――それは片親で頼れる親族も近くにおらず、やむなく許可を得て同席させたのが始まりだったそうだが――医師である父はボランティア先で子供や職員たちの体調面の相談を受けていたが、その横にはいつも兄がいた。その兄と遊んでいた僕と真也さんも、兄と父が難しい話をしている姿をもちろん見てきた。
だから兄なら助けてくれる、自分を助けられると踏んだ。真也さんの傷口とその周辺は焼け爛れていた。どろりと皮膚が溶けて目を覆いたくなるような、とてもグロテスクな体組織が露わになっていた――らしい。僕は見ていない。医学の知識もない。一連の事件は、僕がまだ学校にいたときに起こっていた。
「焼いてたんだよ、あれ」
一段落ついた夜、兄は大好物のアイスを食べていた。父もその日は兄の連絡を受けて急遽クリニックを閉め、真也さんの処置を終えた後、一度は目覚めた真也さんを連れて帰ってきた。真也さんは今は兄のベッドで眠っている。父は医学会に用があると言って出て行った。兄を相当信用している証拠だと僕は思った。
異常な傷や損傷は虐待や事件の可能性がある。医師の通報の義務を、父はあっさり無視していた。
兄はあの特徴的な笑いを浮かべ、満足げにアイスを平らげた。
「刺された場所がコンロの近くだったんだろうな。焼いて傷を塞いでた。声が出ないようにハンカチでも噛んでたのか、口の中に糸クズが残ってたぜ。そこまでしてたかがスマホひとつのために街を歩くなんて、まるでゾンビだな」
「楽しそうに話すことじゃないよ」
「ひははっ」
兄はその笑い方を隠さなくなっていた。がたついた奥歯が禍々しい。毒蛾というより毒牙のような。名前は人を表すとはこのことだ。
僕はコーヒーを飲んでいた。大人を気取ってブラックだ。とても苦い。黒い表面に薄く浮かぶ僕の顔は、どことなく眉を潜めていた。
「なんつー異常な親子だって思ってんのか?」
兄の声が降ってきた。楽しそうだった。兄が優先するのは、喜怒哀楽のうちの楽だけだ。もしそうなら、僕のことはどう思っているのだろう。
「別にどう思ってくれてもいいぜ。親父も言ってるぞ。お前が嫌ならいつでも出て行っていいし、告発してもいい。22までは心配だけどな」
22という数字から察せるのは、四年制大学卒業の年齢だ。父が養護施設の18歳ルールを案じているのは本当らしい。そうでなければ施設を頻繁に訪れたり、既に独り立ちした、或いは独り立ちせざるを得なかった人たちの相談にも積極的に乗っていることと矛盾する。
「でもなあ凛太。親父のことは俺もわかんねーけど、俺が弟が欲しかったのは本当だし、そう言ってからお前がうちに来たのも本当だぜ。いきなり親父がお前を連れて来たときはびっくりしたけどな」
父が僕を養子に取ると決めたのは、兄の思いつき発言から1年が経過した頃らしい。父が日を決めてお邪魔しているのは、一箇所の養護施設だけではなかった。僕たちの負担や勉強の妨げにならないように、月に一度だけ、一箇所の養護施設に同行させているに過ぎない。
僕がいたところは最悪だった。父が抗議を続け、それは医師仲間や近くの大学を巻き込んだ運動に発展し、僕が引き取られた1年後についに施設は解体された。暮らしていた子供たち十数人は、それぞれ里親に引き取られるか、別の施設に移った。その別の施設の中に、僕たちが行く真也さんがいた場所が含まれていなかったところにも、父の徹底ぶりが見受けられた。
「しないよ、告発なんか」
明らかに事件性のある傷を処置しながら、当たり前のように義務を放棄する父。しかもそれは息子の友達なのに。自分が気にかけている養護施設出身の子供なのにも関わらず、ただ医者として命を救っただけ。真也さんが自分で事件にすることを嫌がったということらしいが、そんなことを聞いていたら社会通念が成り立たなくなる。もちろん命を救うのは医者の大前提ではあるけれど。
ふと考えたことがある。父は確かに医者だが、一介の町医者にしては顔が効きすぎるのではないか。訊いてみると案の定で、都内の大学病院で外科医長をしていた経歴があった。退職して開業医になったのは、ようやく結婚して子供ができて、都心から少し離れたところで落ち着いた子育てをしたかったかららしい。
それは表向きだと思う。僕はそっと視線を巡らせた。ギャンブルをするでも酒を飲むでもない父が、開業してある程度の資金は動いたとしてもまだ相当貯め込んでいたであろう父が、こんな一般中流家庭止まりの一軒家を選んだ理由。母も父と同じで贅沢しない人だったそうだ。だから一見不思議はない。
父は良い人の仮面を被っているだけの気がする。それをより引き立たせるために、養護施設でのイベントの運営などのボランティアを利用しているだけ。開業医なら勤務医よりも時間に融通が利くし、地域とより近くなることで患者の信頼も得やすい。学校の同級生も、風邪を引いて熱を出しては親に連れられてクリニックにやってくる。
「お父さんがお医者さんなんて、すごいわねえ」
何度か言われたことがある。僕が養子であることは口外していなかった。幸いにも、僕と兄は顔立ちが似ていなくもない。目と鼻の形が似ている、と言われて見れば、だいたいの人が納得した。それさえも父の計算づくのように思えた。
息子と似た特徴を持った顔の子を探しだす。時間と手間はかかるだろうが、自分自身に似ている子を探すよりは簡単だ。ましていろんな養護施設を巡り、普段も医者として子供を診察している父なら。
どうでもいいと思う。どうでもいい。コーヒーをもう一口飲んだ。やっぱり苦かった。
「僕がまともな暮らしをしてるのは、全部父さんのおかげなんだから。昔いたところに閉じ込められてたままだったら、今頃どうなってたのか」
真也さんのこともだ。どうだっていいし、なんでもいい。兄が真也さんに執着していて、その兄を父は大事に想っていて、兄もまた父のことを家族として信頼しているのだから。それだけ明らかになっているなら、父がやっていることが偽善だろうとカモフラージュだろうと構わない。僕の役目は決まっている。母がどうしていなくなったのか、その真相さえ大したことはなかった。
「真也さん、朝にはちゃんと起きるといいね」
笑いかけると、興味深げに僕を見ていた兄は頬を緩ませた。兄は意外と表情豊かだ。尖った不揃いの奥歯がよく見える。
「言うようになったじゃねーか」
僕の手元にあったコーヒーカップを、ずっ、と兄は引き寄せた。一気に飲み干して苦しげに舌を出した。当たり前だ。兄は甘党だった。
「おにーちゃんは嬉しいぞ」
なあ、凛太。兄はそう僕の名前を呼ぶと、いつものように笑ってみせた。
六河凛太の独白
どうもありがとうございました。