EtudeⅣ拝啓、未来の僕と女神様
「知らない天井だ」
一度は言ってみたかった言葉を呟く。白い天井、白い壁、窓には夕焼け空が広がっていた。ここは……病院?直前の、寝る前の記憶が思い出せない。
ふっと湧いてでた一抹の不安を払拭するべく自分が置かれている状況を確認するため体を起こそうとするが、激痛が走って体が言うことを聞かない。交通事故にでもあったのだろうか。体の、特に上半身が痛む。
軋む体に鞭を打ち、手も使って再度体を起こそうと試みる。あれ、おかしいな。身体の左右でバランスが崩れて上手くいかない。何故か上手く腕が動かせないのだ。そして気づく。動かせないというか……ない。ない。ないのか……。
酷い頭痛がした。思い出せない。どうして右腕がないんだ……。心の奥底で黒い何かが燻る。
肘の先の腕には失われたはずの感覚がまだ残っていて、現実味がない。記憶は少ししたら思い出すのだろうか……。
三度目の正直。僕はやっとの事で体を起こした。ふと視界に女性が映る。同じ人間のものだとは思えないほどサラサラで綺麗な黒髪が西陽を受けて陰影を織り成し、その造形美に思わずドキッとした。
ずっと看病してくれていたのだろう。彼女は僕の寝る病床に突っ伏していてその顔をしっかりと見ることは出来ない。だが頭を支えている腕の隙間からのぞかせる横顔はとても整っていて、きっと相当な美人に違いないと、不安の渦中にいるはずなのに期待が膨らむ。
その女性のすぐ後ろ、窓辺の花瓶には綺麗な花が活けられていて、その芳香がくすぐったくも心地よい。今どき生花が飾られている病院なんて珍しいだろうに。窓の外には辰砂をまぶしたかのような憂鬱な程に朱色の夕焼け空が広がっていた。日がゆっくりと沈んでいく。一体どのくらい寝ていたのだろうか。
視線を女性に戻す。はて、この女性は一体誰だろうか。僕にこんな献身的な恋人がいただろうか。記憶を辿ろうとして、あることに気づく。
あれ、僕は誰だ?
思い出せない。この女性のことも、なぜ僕がここにいるのかも思い出せない。もしかしたら記憶喪失というやつかもしれない。家族のことや学校のことは思い出せる。友達だって覚えてる。自分とこの女性に関する情報だけがどこをどう探したって見当たらない。明らかに欠落していた。
僕はどうして病院にいるのか。身体中が痛くて、右腕がないのか。どうして記憶を失ったのか。思い出せない……。
記憶喪失ということは脳の病気か?それともストレスやトラウマが原因か?この体の痛みや失った右腕と何か関係があるのか?思い起こそうとしても、思考に靄がかかったかのようになって一向に思い出せない。
どうして?
空虚な僕の空っぽになった心に容赦なく絶望と混乱が流れ込んでくる。血の気が引き、貧血の時のように視界はブラックアウトする。音が遠のいていき、まるで今いる場所から、この世界から引き離されていくかのようだった。
「良かった。本当に良かった」
透き通るように心地よく、包み込むように優しげな声が僕を現実に連れ戻す。いつの間にか美しい髪の女性が起きていたのだ。
視線をその女性に移すと目が合った。彼女はニコリとして優しい視線を返してくれる。
その容貌はやはりとても美しく、思わず見とれてしまう。おかげで少しだけ落ち着くことが出来た。
彼女は今まで会った女性の中で恐らく一番美しかった。整った輪郭、切れ長で綺麗な目、筋の通った高い鼻。いや、でも何か引っかかる。彼女の顔に少しだけ見覚えがあったのだ。そしてつい最近同じようなことを考えたことがある気がした。どうしてこんなに美しい女性のことを忘れてしまうことがあろうか。
「あの、ごめんなさい。あなたは誰ですか?」
ずっと看病してくれていたのだ、きっと僕にとって大事な人に違いない。忘れてしまったことが不甲斐ない。
「覚えていませんか……あっ、そうですよね。ちゃんと会ったのはこれが初めてですもんね。私は一之瀬心花って言います。あの時は助けてくれて本当にありがとうございました」
「助けた?僕が一之瀬さんを?」
「はい。その……襲われていた私を」
そうだった。この女性は襲われていたのだ。そして僕は、ぼくは……。
鳴り響く不快なサイレンの音。暗い路地裏。背中のコンクリートの冷たく無機質な感触。数秒ごとに繰り返される鋭い痛み。
忘れていた記憶が、葬り去ろうとしていた記憶がフラッシュバックする。暗い、痛い、寒い、怖い、苦しい。だが次の瞬間、そんな死への閉塞感は消えていた。
「大丈夫、大丈夫だから」
優しい温もり、優しい香り、優しい感触が僕を包む。一之瀬さんが僕の全身を抱き寄せたのだった。体に痛みが走ったが、その痛みも今僕がここに生きているという事実を教えてくれる。生命の弱さと強さを感じた。
「大丈夫、もう大丈夫。あの二人は捕まった。あなたはもう大丈夫よ……。一緒に乗り越えよう」
彼女は僕の知るどんな神様よりもリアルな救いだった。西陽が差し込む病室で彼女と僕は抱擁し合う。
優しい温もりの中、僕は一人の少年の人生を想っていた。
僕が死んだのは8日前の事だった。
「勝った……」
僕はそう心の中で呟いた。電車に揺られ運ばれるいつもの朝。椅子取りゲームに勝利した余韻をまどろみとともに味わっていた。
秋と冬の間。電車は暖房が効きすぎていて、ついウトウトしてしまう。危うく眠りの世界へ行きそうになった時、ガタン……と電車が大きく揺れ、僕の双眸はパッチリと開かれた。
車内にはたいへん寝坊をかました太陽の織り成す曙光で満ちていて、その眩しさに眠たげな僕は少しばかりかまびすしいといった印象を受ける。
ふと目の前に立っていた女性の様子がおかしいことに気づいた。どうしたんだろう?余り凝視していると思われたらいけないので、寝ているフリをしながら薄目で見る。
彼女の顔色は悪く、立っているのが辛そうだった。きっと貧血の類に違いない。善は急げだ。
「あの、良かったら座ってください」
「え、あ……ありがとうございます」
その女性は不意に声をかけられたことで驚いていたが、その意図を汲むと苦しそうながらも笑みで感謝の言葉を返してくれた。無理して笑わなくてもいいのに……。
「誰かが見ている」という言葉を僕は信じていない。例えば僕が席を譲った女性も、その一部始終を見ていた周りの人達も、その「誰か」と呼ぶには赤の他人すぎる。今後彼ら彼女らと電車で同じ車両に乗り合わせることもあるだろうが、僕の人生に取って何ら関係はない。一生会うことも無い人のためになぜ善意を施すのか?お互いの名前すら知らない人のためになぜ自分を同調させようと取り繕うのか?なぜかはわかっている。それは道徳だ。
「困っている人がいるなら助けるべきだ」
「公共の場では周りに迷惑のないようにするべきだ」
「人に優しくするべきだ」
僕らはそう教わって育ってきた。道徳が僕らを縛り付けることによって、ある種の信頼が生まれる。その信頼こそが社会を安定化させるのだ。道徳が悪いとは微塵にも思っていない。実際それで社会は上手く回っているし、思いやりは大切だ。誰かのために行動出来る人間の方がいいに決まっている。
だが、まれにその道徳が不良品を生み出してしまう。そう、僕みたいな嘘つきを……。
学校に着いた。周りの席の人に「おはよう」と挨拶を交し席に座る。隣の席のAくんと「今日寒いね」とか「宿題やった?」とか他愛もない朝の会話をしてから参考書を広げた。何ら変哲もないいつもの朝だった。
そんな朝、僕は時々考えてしまう。もし僕がいないこの教室はどんな感じになるだろうか……と。もしかしたら何も変わらないのではないか?誰も何も想ってくれないのではないか?と怖くなる。そんなことはないと保証するべく今日も頑張って話題をみつけ、クラスメイトと傍から目は青春の1ページに見えるような時間を演出する。
僕は生まれつき洞察力に長けていた。普通の人が気づかないことにも気づいてしまう。それは勉強での疑問から始まり、道端に動く蟲の存在まで。とにかくいい面でも悪い面でもある種の注意深さがあった。そのおかげか勉強は人よりもできた。人並み以上の正義感や優しさも相まって、幼い頃から周りの大人には気の利くいい子ね、と褒められて育ってきた。
だがその正義感や優しさは全て嘘だ。僕がそこまでできた人間ではないことを一番自分がよく知っている。人の不幸を見て自分じゃなくて良かったと思ってしまう。人の幸運を見てなんで僕じゃないんだと嫉妬してしまう自分がいる。そう……例えば今日の化学のテスト返しの時。
隣の席の友達Aくんが自慢げに話しかけてきた。
「おい、榎本。これみて!」
「どうしたの?」
「俺、今回の化学のテスト90行ったんだ!」
Aくんは誇らしげにそう言った。僕は微笑みで返す。
「え、すごいね!僕なんか70点台だよ……」
「ふ、ふーん。いいだろ」
「羨ましい、ちょっと分けてよ」
「たとえ出来たとしてもあげないよーだ」
上辺で繕って作り笑いでこたえる。相手を慮って冗談を虚構する。周りから見れば至って普通の会話なのだろうが、これは僕の本心じゃない。優しくない僕はAくんの高得点を心から喜べない。
そんな僕は誰かに褒められたい、誰かに認めて欲しい。だから自分の本心を偽って優等生を演じる。さも優しい心を持っているかのように振る舞う。僕は偽善者だ。そして自分自身の本心を偽る嘘つきだ。いつから僕は僕を演じる道化師になってしまったのだろうか。
高二の今は生徒会をやっている。立候補者が足りず、たまたま担任が選挙管理委員の先生だったから立候補したといういつもの偽善だった。
「本当に助かる。お前が俺のクラスにいてくれてほんと良かったよ。ありがとな」
「どういたしまして。もともとやってみようかなって思ってたんですよ」
僕の人生はずっとこんな感じだ。周りからは優しいとか優等生とか言われてきたが、実際それほど嬉しくはなかった。自分の本当にしたいことが出来ないで、やりたくないことばかり引き受ける毎日……。
最近はこういう自分を性分だと諦めている。もしかしたら諦めることが大人になるってことなのかもしれない。
ただ、「ありがとう」と言われると嬉しかったし、自分の存在が認められている気がした。だから一番好きな言葉を尋ねられれば「ありがとう」と答える。それだけが唯一の本心だった。
「今日の活動はここまでにしよう!みんなお疲れ様!」
「おつかれ」
「おつー!」
「お疲れ様」
生徒会長が音頭を取って、僕を含む平の役員が後に続く。その日の放課後は生徒会の仕事で遅くまで学校に残っていた。
まだやらなくてはならないタスクが山積していたが、下校時間が迫っていたので仕方なく切り上げることにした。
秋冬は下校時間が早いせいでまともに仕事が出来やしない。僕らは駄べりながら帰る支度をする。
「それにしても、本当よかったよ。榎本が入ってくれて」
「ねー」
「私たちじゃパソコン使えなかったもんね」
「そんなことないよ……。みんなもやれば出来るって」
「いや、できない出来ない。さすが、優等生はなんでも出来るね」
「う、うん……」
生徒会の面々が僕のことを称えてくれる。嬉しいけど要は都合がいいってことだ。彼らにとって僕の存在はただの道具なのかもしれない……。ネガティブだなぁ、僕は。
生徒会室に鍵を閉め、生徒会のみんなと一緒に帰る。僕が通う高校にはふたつの最寄り駅があり、途中で道が別れてしまう。生憎、いや、幸運にも生徒会のみんなは僕と違う方の最寄り駅を使っていた。
「じゃあね」
「バイバイ」
「またあしたー」
「またあしたね」
手を振りながらみんなに別れを告げる。ふぅ、やっと一人になれた。僕は一人でいるのが好きだった。唯一自分らしくいられるからだ。気負わなくて済む。
最寄り駅までは繁華街を通ると少しだけ近道になる。先生には危険だから通ってはダメだと言われているが、近いんだから通らない手は無い。一人だったらバレることも無い。
その日もいつも通りネオンが彩るその街の喧騒をかき分けて帰りを急いでいた。一人で歩いていることに疎外感を感じ、自分の場違いさに恥ながらも、もう何回も通った道だ。さすがに慣れた。
人混みの中だと進むのが遅いので、脇道に入った。そのまま人気のない道を進んでいた時、ふと違和感を感じた。なんだろう?
視覚情報を分析する。路地裏で何かが動いた気がした。その闇へ注視すると、そこには人影があった。なぜわざわざ狭くて暗い路地裏にいるのか。不快に高鳴る心臓をたずさえて、僕は一歩を踏み出した。踏み出してしまった。そして見てしまった。
強姦だった。
助けなきゃ、助けなきゃ、助けなきゃ。
心拍が加速する。
僕は自分を偽るため、こういう時ある言葉に則って行動しようといつからかなんとなく決めている。「やらないで後悔するよりやって後悔しろ」という言葉だ。この言葉が何度僕の本当の心を騙してきたことか……。
この言葉のおかげで多くのことに挑戦することが出来たと言ったら聞こえがいいが、確かに進学校である今の高校に通うことが出来ているのはこの言葉のおかげだった。だが、その時の僕には明確に不都合なものだった。
関わりたくないと懇願する本心と、助けなければという道徳的な偽りの良心。二律背反の二つの感情の間で板挟みになって揺れ動く。
きっとこのまま見なかったことにしてここを去れば僕はまたいつもの日常に戻れるだろう。わざわざ僕が危険を侵さなくてもいいんだから。
だが、もしこの女性が殺されてニュースにでもなったらきっと、虚飾で出来た優しい方の自分は自責の念で苦しむだろう。呵責のあまり壊れてしまうかもしれない。どうしてあの時……という黒い光が僕の未来を、僕の前に横たわる全生涯に暗い影を落とすだろう。
やはり助けよう。後悔だけはしたくない。それに日常に戻れなくなったとしても、その時はそのときでいいと思った。代わり映えのない退屈な高校生活にそれほどの価値は見いだせなかったからだ。この事件が僕を変えてくれるかもしれないと自分に言い聞かせて決心する。
不快な緊張感に耐えながら警察に通報を入れ、勇気を振り絞ってその影に近づいた。
女性に覆い被さるように二人の男が息を荒立ててまるで理性を失った獣のように蠢いていた。しまったと思った。こりゃ勝てないな……。もともと闘って勝とうなんて思ってはいなかったが、僕は大丈夫だろうか。死なないだろうか。
そんな不安を払拭し、何とか言葉を紡ぐ。せめて時間稼ぎだけでも……。
「あの、それって了承でやってます?」
自分の声は思っていたほど震えてはいなかった。案外本番に強いタイプなのかもしれないと場違いなことを考えながら、また、そんなことを考えられるだけの冷静さが自分にあることに少しだけ自信をもった。
「あぁ?何見てんだよ」
暗くてはっきりとは分からなかったが、ガタイがいい方の男が心底不快な表情で僕を睨みながらそう言った。その怒りを帯びた視線に、ゾッとした。生まれて初めて敵意を向けられた瞬間だった。同時にもう後戻りはできないことを悟る。
「それって強姦ですよね」
「は?今やってんだから邪魔すんじゃねえ」
「だから、それは――」
「なに、君学生?もしかして君も混ざりたいの?こんな美人なかなか抱けないもんね」
目が暗闇に少し慣れてきた。華奢な方の男が持っていたカメラをこちらに向けながら、悪魔のような笑みを浮かべてそう言った。動画を撮るなんて本当に最低だ。
女性は男の言うように確かにとても魅力的だった。今まで会ったことのあるどの女性よりも美しかった。そんな女性の裸を見て性的興奮を抱いてしまった自分が心底嫌になる。
「んっー!」
彼女は何かで口を閉じられていたので、その声は言葉として意味をなさなかったが「助けて」確かにそう言っているのがわかった。
「いつまでそこで見てんの、正義のヒーロー気取り君?」
「警察を呼びました。もうすぐ来ます。逃げた方がいいんじゃないですか?」
最初で最後の切り札だった。お願いだ、このまま逃げてくれ。どの道後で彼らは捕まる。今求めるべきは数分先の命だ。いるのかどうか分からないどこかの神様にひたすら祈る。嫌な心臓の鼓動が僕にじわじわと苦しみを与える。
「くっそ、コイツ!おい、どうする?」
「えー、さすがに警察はやばいでしょ」
「ッチ。あともう少しでってとこだったのによっ!最悪」
二人は服を着直し始めた。華奢な男は一瞬動揺を見せたが、直ぐに冷静さを取り戻した。反対にガタイのいい方は明らかに正気じゃなかった。
「なぁ、俺捕まってもいいからコイツぶっ殺すわ」
「はぁ?本気かよ。俺は知らねぇからな」
失敗した。華奢な男は一目散に逃げていったが、ガタイのいい男が殺意を湛えて鬼の形相で走ってやってくる。人って怒るとこんな顔を作ることが出来るんだ。知らなかった。咄嗟に逃げようとしたが、恐怖のあまり足が思うように動かない。情けないなぁ僕。
男は勢いに任せて全力で僕の顔面目掛けて拳を振る。思わず腕で守るが、衝撃に耐えかねた僕の体は体制を崩しそのまま後ろに倒れた。痛みが遅れてやってくる。背を打ったせいで苦しくて、息が出来なかった。
そのまま男は僕の上に馬乗りになって、僕の動きを封じる。必死になって抵抗しようとしたが、男はびくとも動かない。これが慣性質量なのだとまた状況にそぐわないことを考えてみた。突きつけられた現実を受け入れたくなかったからかもしれない。
男は数回僕の体を殴ったあと、どこからかナイフを取りだした。
あぁ、ここで死ぬのか。凶器なんてずるいよ。柔道部とか入ってたら変わったのかな。
こんな状況でも僕はまだ冷静だった。そして人生を諦めていた。こうなったらもう痛みに耐えるしかない。早く終わってくれ。
僕は目を瞑り両腕で顔や首を覆い隠した。それは、葬式の時両親にボロボロの顔だけは見せれないと思ったからか、単純に怖かったからか分からない。無意識でそうした。
遠くからサイレンの音が聞こえた。普通の人にとってこういう場合パトカーが出すサイレンの音は救いの音のはずだが、その時の僕にはただただ不快なだけだった。どうせならもっと早く来てよ、だってもう――
男は僕の体を、刻む。きざむ。キザム。
警察が駆けつけた。男は最後まで僕を殺そうと必死だったが、残念だったな。まだ意識はあるぞ。男は警察に取り押さえられ、連行される。
「殺す。ぜってぇ殺してやるからな」
男の怒声が裏路地に響いた。耳障りだ。死ぬ時くらい静かにしていて欲しい。
薄汚れたビルの壁に挟まれた、細長く暗い夜空をただ呆然と眺めていた。星空だったら良かったのに。あぁ、痛たい。苦しくて寒い。無意識に迫り来る暴力から顔や首を庇った両腕の感覚はもうなく、胸の損傷のせいで上手く息ができない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
朦朧とする視界の端、被害者の女性が仰向けになって力なく横たわっている僕に寄り添っていて、泣きながら謝っている。せっかくの美貌が台無しだ。彼女の美しさは路地裏には似合わない。どうせならもっと綺麗な場所で、神聖な場所で出逢いたかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
謝るくらいなら「ありがとう」と言って欲しかった。そうしたら少しは偽善者も報われる。
来世があるとしたら嘘つきな僕はもうやめよう。自分の生きたいように生きよう。自分を大切にしよう。
こんなに綺麗な女性のために死ねるなら男の本望なのかもしれないな、なんて他愛もないことをぼーっと考えながら僕は意識を手放した。
長い夢を見ていた。
一人の少年の人生の夢。
彼は生きるのが苦手だった。必要以上に周囲の目を気にしては自分の本心に嘘をついてきた。やりたくないことも偽りの正義感から率先して引き受ける。苦しいときでも誰かに頼ることはない。一人で出来ると証明したかったのだろう。それが彼なりの処世術だった。
彼は苦手なりにも上手くやっていた。彼にとっては偽善だったが、周りの人には確かな優しさだった。だから彼の存在は認められていた。だけど、彼はそれで満足しなかった。
本当は嘘つきだって誰かに暴いてもらいたかった。偽善者だって罵られたかった。虚飾を壊して欲しかった。今までの自分を全て否定してもらいたかった。
そしたらやっと自分らしくなれる。生まれて初めて本当の自分になれる。
嘘で紡がれた自分の繭を、偽善でできた自分の仮面を誰かに壊して欲しかった。だが彼を救う破壊者はとうとう現れなかった。
人の夢と書いて儚いと書くように、今その少年の人生の夢は儚く消えて行く。「自由に正直に生きよう」ただ一つ、その意思だけを残して……。
どのくらい抱き合っていただろうか。
「放すタイミングわからなくなっちゃった……」
あどけない調子で一之瀬さんは呟く。できることならこの時間が永遠に続けばいいのにと思った。
「生きててくれてありがとう」
そう言いながらぎゅっと力を込めて抱きしめたあと、一之瀬さんはそっと離れた。
「あ、今先生呼んでくるね」
そう言って病室を出て行ってしまった。まだ一之瀬さんの温かい感触が、優しげな香りが、身体に残っていた。そうか、生きてるのか。改めて実感する。
「生きててくれてありがとう」……か。生まれて初めて言われた気がする。こんなにも言われて嬉しかった言葉はなかった。こんなにも救われたことはなかった。過去から現在に至るまでの全ての時間軸の僕を、そして目前に横たわる全生涯をその言葉が白い光で包んで行く。
一之瀬さんは医師を連れて戻ってきた。担当の医師に容態の確認をしてもらったところ順調に快復しているらしく、リハビリをすれば日常生活に戻れるということだった。「今では良い義手がある。前よりは不便になるだろうが、諦めずに頑張って欲しい」と励まされた。
どうやら僕は8日間も寝ていたらしい。胸部の傷は幸い臓器まで届いていなかった。首や顔には切り傷がいく筋かあったが、両腕で庇ったおかげかそこにも大きな損傷はない。一方両腕の損傷は激しく、特に右腕は原型を留めていなかったそうで、前腕を切断する他に手はなかったと医師に謝られたが、生命あっての物種だ。感謝してもしきれない。
医師が病室を去ったあと僕達はお互いの自己紹介や事件の顛末について話した。
一之瀬さんは横浜にある大学に通っている大学2年生で、僕が強姦魔から救った女性だった。言うなれば僕は一之瀬さんの命の恩人だった。僕ら二人は互いに助け合って今生きているのだと思った。
嘘つきだった僕のことは嫌いだったが、最後に一人を救えたと思えば彼も報われるだろう。
事件が起きたのが8日前で、僕を襲った男は現行犯逮捕。もう一人のカメラ男は次の日捕まったらしい。その時は、ニュースやら新聞やらは事件のことで持ち切りだったそうで、もしかしたらこの後取材が来るかもしれないという話だった。
今になって冷静に考えると、警察が来るまで静かに待っていればよかったのだ。そしたら僕はこんなことにはなっていなかったかもしれない。だが、警察が来る間に一之瀬さんが殺されていた可能性だってあった。あのナイフはきっと口封じのためのものだ。全ては結果論だ。過ぎたことはもう考えなくていい。
一之瀬さんに両親のことを尋ねると、1時間ほど前まではお母さんが看病してくれていたそうだ。お母さんは事件後の数日間は心配で朝から晩まで看病してくれていたが、流石にその疲労が溜まってしまったらしい。
ここ最近は朝から昼過ぎまではお母さんが、そこから夜は一之瀬さんが看病してくれているそうだ。お父さんは時々顔を見せるそう。流石に仕事が忙しいのだろう。来てくれているだけでもありがたい。
一之瀬さんは「幸斗くんは命の恩人だから看病します。させてください」と懇願して両親を説得したそうだ。一之瀬さんもお母さんと同様最初の数日間は一日中看病してくれていたらしい。
改めて実感した。自分がどんなに恵まれていたかを。気づかせてくれたのは他でもない、目の前にいる女神様だった。
「そうだ、一之瀬さ――」
「ねぇ。『一之瀬さん』って少し他人行儀すぎない?」
一之瀬さんとの会話に花が咲いていた時、ふとそんなことを言われた。
「そうでしょうか?歳上なので――」
「あと、その敬語もダメ……タメでいいから」
子供のようにふてくされた顔で「ダメ」と言われた。一之瀬さんは表情が豊かだ。「名にし負はば」というように、彼女の心情が花のように咲いて、表情を彩る。
「思ったんだけど、ユッキーって人と距離置きがちなの?」
「ユッキー?」
唐突の聞き慣れない言葉に思わず聞き返す。
「幸斗だからユッキー」
「あぁ。あだ名ですか。あだ名で呼ばれたの初めてだったので分からなかったです」
「えっ!その名前で逆に今まであだ名なかったの?」
「はい。ユッキー……ですか」
「ユッキー、いいと思うけどなー。や?」
上目遣いで「や?」と言われたら断りようがない。こちら側が照れてしまう。
「や、じゃないです。むしろ嬉しいっていうか……」
「ならユッキーで決まりだね!やったぁ」
「もう好きに呼んでくれて構いませんよ」
「あと、やっぱりその敬語もやめなさい」
「敬語はもう少しだけ時間をください。神様にタメは……」
会話が弾んだせいか、思わず失言をしてしまった。どうやって誤魔化そうか。
「カミサマ?」
「あ、なんでもないです。忘れてください」
「逆に気になるんだけど」
じぃーと僕のことを疑いの目で見てくる。近いちかい。きっと一之瀬さんのパーソナルスペースの範囲は僕の半分くらいなのだろうなと思う。
「えっと……。一之瀬さんが神様のように美しいってことかな?」
「なんで疑問形なのよ……まぁいいけどさ。素直に嬉しいです。わはは」
許された。何とか誤魔化せたらしい。病室に静けさがやってくる。
「変なこと急に言うから変な空気になっちゃったじゃない!責任取ってよ」
「責任って、何すればいいんですか?」
「そうだなぁ……」
いきなり無茶振りをしてくる一之瀬さん。頬を吊り上げ、イタズラなことを考えているのが、その美しすぎる笑みから伝わってくる。
「じゃあ、私と結婚して」
「えっ……」
時が止まったと錯覚するくらいの衝撃を受けた。口を開けたまま固まってしまった僕はきっと間抜けな顔をしているのだと思う。
「うっそだよ!からかっただけ。反応可愛いね、ユッキー」
「やめてくださいよ、もう!」
こういう冗談は本当に良くない。この人と話していて、僕の心臓は持つのだろうかと心配になってくる。
「仕方ないなぁ。じゃあ、今のドッキリの時の驚いた顔で勘弁してあげる!えへへ」
一之瀬さんはこの世に墜された女神に違いない。一之瀬さんが笑うと周囲に花が咲いたかのような空間が生み出され、僕の傷ついた心を、疲れた心を癒してくれた。
一之瀬さんは僕の救世主でもある。一之瀬さんはイエスよりもリアルな光だった。絶望の渦中にいた僕を救ってくれた。恐らく僕が心花教の信者ナンバーワンだろう。
会話が止んで、病室に静けさが訪れる。
「はぁ……」
そのせいか一之瀬さんの口から漏れ出た微かな嘆息を僕の耳は逃さなかった。
「どうしたんですか?」
「え、ううん。なんでもないよ!」
一之瀬さんは慌てているように見えた。同時にどこか無理しているようにも見えた。僕を励ますために明るく取り繕っているのではないか。そんな一之瀬さんは僕が一番よく知るあの少年に心なしか似ている気がした。
一之瀬さんになら話してもいいと思った。いや、むしろ聞いて欲しかった。真剣になって一之瀬さんに向き合う。これは女神様への懺悔だ。
「一之瀬さんに話があります」
「う、うん。どうしたの?」
「ある少年の人生の物語を聞いて欲しいんです……」
✳
終始相槌を打ちながら、一之瀬さんは直向きに僕の語りに耳を傾けてくれた。「そこでその少年の生命いのちの灯火が静かに消えたんです……」その言葉で最後を締めくくると、一之瀬さんは神妙な顔で尋ねる。
「それってもしかしてユッキー?」
「あ、バレましたね」
そうだ。あの少年こそが昔の僕だった。だけどもう昨日を探していた僕はいない。そうさせてくれたのは他でもない、目の前に君臨する見目麗しい女神様だった。
子供を庇って交通事故にあって死んでしまったとカモフラージュしたが、やはり隠しきれなかった。病室で語り合うというこのシチュエーションでは仕方なかったのかもしれない。
「前の僕はほんとに優しくて、頑張り屋で、The・優等生って感じだったんです。でも生きるのが苦手でした。自分を抑え込んでしまって……」
「そうなんだね……いつ変わったの?」
心配そうな目をして一之瀬さんは疑問を口にした。
「あの事件でです。やっぱり人って一度死にかけると考え方変わるものなんですね」
「そっか」
恥ずかしいから口ではそう誤魔化すが、一之瀬さんがいてくれたからというのが一番大きいように思う。もし起きた時、病室で僕独りだったとしたら、包み込むような一之瀬さんの優しさがなかったら、「生きててくれてありがとう」という救いの言葉がなかったら、僕は一体どうなってしまっただろうか。想像したくもない。僕は僕をやめていたかもしれない。
僕は一之瀬さんという女神様に救われた。でももし、神様が困っている時はその神様は一体誰に救いを求めればいいのだろうか?宗教に聡くないのでその答えは見つからなかったが、僕が今何をすべきかはわかる。今度は僕が救う番なんだ。一之瀬さんの虚飾を壊す破壊者に僕がなってやる。
「一之瀬さん。辛いですよね?」
「え……私は大丈夫だよ!」
やはりこの人は心底優しい。優しいからこそ僕が壊さなきゃ。深呼吸をひとつ取る。一之瀬さんに貰った全ての恩をこの言葉に詰め込んで返す。
「嘘つき」
人に否定の言葉を紡いだのは小学生以来のことかもしれない。気づけばいつも人のことを伺っていた。生まれつき長けていた洞察力のおかげで相手にどう接すればいいかわかった。だから僕はいつからか本心を偽って、相手に合わせて取り繕うようになっていた。
きっと怖かったんだ。人を否定したらその人に嫌われてしまうかもしれない。嫌われてしまうことが怖くて怖くて仕方なかった。今やっとそんな積年の憂いに一矢報いることが出来た。晴れ晴れとした気分になった。
「嘘つき」と言われた一之瀬さんは、瞬間目を見張った。数回ぱちくりと瞬きをすると目を細めてこう言った。
「ありがとう」
「私もね、ユッキーに聞いて欲しい話があるの。私のこと知って欲しいの。いいかな?」
「もちろんですよ」
「ありがとう。私ね、実はかなり頭良いんだ。それにこの容姿でしょ、俗に言う高嶺の花ってやつね」
「それ、自分で言います?」
「ふふふ。いいのいいの」
一之瀬さんは笑ったが、どこか自嘲しているようだった。
「あのね。昔からずっと周りから一目置かれてたの。たくさんの人に告白された。何度か付き合ってみたこともあったけど、誰一人私を見てくれていた人はいなかったの。私のどこが好きか訊くとね、みんな口を揃えて可愛いところとか、頭がいいところって言ってきた。みんながみんな私の表層しか見てくれなくて……」
一之瀬さんの声は次第にか細くなって行った。その表情からは笑顔が消え、辛そうだった。
「だから友達と一緒にクラブに行ってみたの。そこで会う人なら初対面だから素の私を見てくれるんじゃないかって。でも違った。やっぱり私の容姿しか見てくれなかった。怖かったから入って一時間もしないうちに出ようとしたけど、友達はまだ居たいって言うから仕方なく一人で抜け出したの。その時運悪くあの二人に目をつけられて……」
そこで一之瀬さんの話は止まってしまった。しばらくの間気まずい沈黙が落ちる。
「ごめんなさい。こういう時なんて言えば言いかわからないです」
「いいよ、言葉とか繕わなくて。ユッキーはユッキーらしく、思ったこと言ってくれれば私は嬉しいな。ユッキーが優しいの知ってるから……」
「なら一つだけ」
ふぅ。深呼吸をひとつして精神を統一させ、一之瀬さんの瞳を見て言う。
「生きててくれてありがとう」
何故か一之瀬さんはそっぽを向いてしまった。傷つけてしまっただろうか……。
「どうしたんですか?」
「待って……見ないで」
一之瀬さんは泣いていた。女性を泣かせるなんて男失格だ。辛かったはずなのに、僕のためにこの人は笑顔を絶やさなかった。どうしてこんなに優しいのだろう。僕も一之瀬さんのように優しくなりたい。
「悲しいの?」
「ううん、違うの。私、嬉しくて……」
そう言ってから一之瀬さんはこちらを向いて微笑んだ。その瞳から真っ白な頬へと涙がつぅーと流れた。一之瀬さんの泣く姿があまりにも綺麗で、微笑む仕草があまりにも愛おしくて、僕も嬉しくて泣いてしまった。
二人でわんさか泣いた。流した涙の分だけ僕らのわだかまりが溶けだしていく。
「ハグしてもいい?」
一之瀬さんが涙を袖で拭いながらそう訊いた。
「いいですよ」
そう言って僕は左腕で一之瀬さんを抱き寄せる。
「暖かい。ありがとう……ユッキー」
「一緒に乗り越えようって言ったのは一之瀬さん、いや心花だよ?」
「えっ、今名前で……」
「その方が字数少なくて呼びやすいから」
「もう、いじわる!いじわるなんだから……」
静かな、穏やかな時間が流れる。
「私もね。私もユッキーが生きててくれて本当に良かった」
「うん。ありがとう」
「私ね、死のうと思ってたんだ。もしユッキーが目覚めなかったら、私も一緒に死のうって。でもユッキーの容態が安定していって、私も頑張らなきゃって思えたんだ」
「そう……なんだ」
「ユッキーには二度も救われちゃったね」
ずっとこの時間が続けばいいと思った。こんなにも優しくて、暖かくて、愛おしいことなんてきっとない。
「ねぇ、ユッキー。私たち生きてるね」
「そうだね……。何とか、生きてる」
心花の体温が、僕らの心臓の鼓動が、生命の喜びを教えてくれる。傷だらけだけど、僕らは今ここで確かに生きている。
太陽はもう沈んで、窓の外には静謐な夜が広がっていた。冬の夜は一見寒々しく寂しげだったが、目を凝らすとそこにはたくさんの光があった。
家々の生活の明かり、街路を照らす電灯の光、夜空に散らばる星々の煌めき。そういったもので夜は満たされ、キラキラと輝いていた。
生まれた瞬間からその者は死へと続く道を歩み始める。終わりがいつ来るか分からない、長いのか短いのかも分からない道をただ歩き続けることしか出来ない。
不安だろう。一歩先は崖かもしれない。はたまた猛獣が道の横から飛び出して来るかもしれない。病がふっと湧き出て、身体の内から全身を侵すかもしれない。
その不安を、死への無知を紛らわせるため人は神や宗教に救いを求めてきた。地震や雷のメカニズムがまだ解明されていない昔、自然災害を恐れたからこそ、それらを神の怒りや終末とした。
人間は弱い。だから拠り所が必要だった。
それは神様。宗教。友情。愛。
そんな弱い僕らはこの宇宙に散りばめられた無数の塵のひとつでしかないこの地球ほしに生まれた。
未だ宇宙のどこを探したって僕ら地球人以外の宇宙人は見つかってない。まさに地球は確率の星だ。地球に大質量隕石が落ちてくるかもしれない。もしかしたらその前に環境破壊や戦争、伝染病が人類を窮地に陥れるかもしれない。今の人類の科学力では予測できない新たな脅威が数千年後、数万年後の未来で僕らの子達を襲うかもしれない。
そう考えた時、今生きていることが奇跡だと思えた。
自分に嘘ばかりついて、そんな自分が嫌になったって。どんなに頑張っても成果が出なくて、物事が上手くいかない時だって。たとえ右腕を失ったって。過去にどんなに酷い目にあったって。今僕は生きている。その事実だけは決して揺らがない。
上手くいかない時もある。それが人生だ。むしろずっと成功が続くような平坦な人生より波乱万丈な人生の方が、後で振り返った時に面白かったと胸を張って言えるに違いない。
『足るを知る』
生きていること。
ありがとうと言えること。
それで十分。
僕らは生きている。そしてこれから先もきっと、ずっと……。
明日死んでもいいと思えるぐらい充実した今日と今日が繋がって、僕と彼女の未来になればいいな。
僕は目覚めてから半月ほどリハビリをした後、無事に退院することが出来た。学校へ行くと、クラスメイトからは「よ!英雄」とか「お帰り、男の鑑」とか声をかけられたが、「からかうなよ」と一蹴した。友達との会話が楽しかった。心から笑えるようになっていた。
あれから一之瀬さんとは定期的に会っている。一緒に遊びに行ったり、勉強を教えてもらったり、進路の相談に乗ってもらったりしている。僕らの仲には家族や友達、恋人なんかよりもずっと特別な絆があった。言葉にするなら生命いのちの絆かな。
長い冬が終わり、暖かい香りが春の到来を告げる。
春休み、僕はお世話になった医師に筋電義手を勧められた。筋肉に発生する微弱な電位をセンサーで感じとって動く電動義手で、見た目はロボットのよう。
その頃にはもう利き腕だった右手の代わりに左手を巧みに扱えるようになっていたが、やはり片腕がないのは不便だ。
右腕の義手を装着した。動かせることに感動した。これからは新しい右腕を積極的に使っていこうと思う。
「試しに何かやってみては」と言われたので僕は新しい右手でなんとかペンを掴み、A4の紙にぐちゃぐちゃで下手くそな文字でこう書いた。
『拝啓、未来の僕と女神様。僕らの未来が最高の人生でありますように。』
EtudeⅣ拝啓、未来の僕と女神様