EtudeⅢ春と毒薬

EtudeⅢ春と毒薬

 私は今日自殺する。つけているペンダントの先には空色の小瓶が繋がれている。大きさは人差し指の先から第一関節までの長さよりも一回り小さいくらい。その小瓶の中には毒が入っている。ハルは言っていた。「量は少ないけど、確実に楽に死ねる」と。
 三月はライオンのようにと言うように、高校最後の春休みは陰鬱な雨で始まった。ザーザーと雨粒は窓に激しく吹き付けられ、搔き暗す鈍色の雨雲たちは世界をモノトーンにしていた。私は電気もつけずに独り自分の部屋のベッドに腰掛け、この白黒な世界で唯一鮮やかな色彩を放つ小瓶を見つめながら、ただその時を待っている。ハルとの二年間の追憶が終わり、私が死ぬその時を……。

「ねぇ、ハル!あのバニラアイスクリーム美味しそうじゃない?」
「ん?どれ」
「あれだよ、あれ。ねぇ奢ってよ」
 この記憶は一年生の時のものだ。文化祭の代休で、初めてハルと一緒に遊びに行ったんだっけ。
「えーやだよ。自分で買いな」
「ハルのけち!」
 私が駄々をこねるとハルは困った顔で応える。
「冷静に考えてみろ。俺らが使ってるお小遣いは元をたどれば親の金なんだぞ。奢るのはバイトとか始めて、自分でお金稼げるようになってからって決めてんの」
「まぁ確かに……じゃあ二人で一緒に食べようよ」
「それならいっか。アキ、お前ほんとバニラアイス好きだよな」
「うん、大好きだよ。食べるとね、バニラの優しい香りに包まれて、冷たいはずなのにどこかあたたかくなって幸せな気分になるの。だから好き」
 私の大好物はバニラアイスクリームだ。最後に食べたのはいつだったか……。思えばハルが死んでからはバニラアイスクリームを一度も食べていないような気がする。もう二度と食べることは無いだろうな……。
「はい、あーん」
「やめろよ、恥ずかしい……」
 顔を赤らめるハルは可愛い。もっとからかいたくなる。
「アキってさ、なんか学校とキャラ違くね?」
「変かな?」
「まぁ、違和感はあるかな。学校だと今みたいに子供っぽいとこまったくないし、むしろお淑やかってかんじじゃん」
「嫌?」
「そんなことないけど。ってかむしろ親近感出て好きかも」
「えっ、何それ。告白?」
「待って、今の取消で……」
 ハルはやっぱりいじりがいがある。加えてとても愛らしい。今まで会った人の中でこんなにも話していて楽しかった人はいなかった。
「はい、あーん」
「だからやめろって!」
「いいじゃんいいじゃん。減るもんじゃないし」
「アイスは減るだろ。それにこういうのってさ、なんて言うか……その、こ、恋人とかとするものなんじゃないのかよ」
「なら、恋人になる?」
「えっ……いいけど」
 たまたま席が隣で、季節の名前という共通点もあり、ハルとは入学して直ぐに意気投合した。
 授業が終わる度に和気あいあいとおしゃべりしていたから、クラスのみんなからはデキてると散々にからかわれたことを今でも覚えている。結局は付き合うことになったんだけど……。
 それから私たちの距離はだんだんと近くなっていった。夢の国に行ったり、映画館に行ったり。服を買いに行ったり、勉強デートしたり。手を繋いだり、ハグをしたり。キスをしたり。

 彼との二年間の思い出が走馬灯のように流れていく。時計を見るともう正午を過ぎていた。そんなに長い間も回想に耽ていたなんて。
 心無しか雨の音が小さくなった気がして、体を翻し視線を窓の外へと向ける。遠くの雲の隙間から一縷の光が暗く濁った地上に差し込んでいた。雲の端々に垣間見得る銀の裏地は希望の象徴のようでもあった。その光景はあの日を想起させた。そうだ、あの場所に行こう。最期を迎えるならあそこしかない。

 私は家を、この世を去る準備を始めた。

「青少年の家で勉強してくる」
「アキ、昼は?」
「うーん。あんまりお腹空いてないからいらないかな……夕方までには帰るから」
「気をつけてね」
「うん。行ってきます」
 平然を装って家を出る。もうこの家に帰ることも親と話すこともないのだなと思うと胸に来るものがあった。「生んでくれてありがとう。どうか親不孝を許してください」心の中でそう呟きながら、家に向かって深くお辞儀をした。視界がにじんだ。目に雨が入ったのかな。

 死ってなんだろう。そんなことを考えながら傘もささずに鎌倉の街を海の方へ歩く。衆目は気にしない。
 死。
 前までは死こそが生の感覚を創り出すものだと考えていた。避けることの出来ない死があるからこそ、今を大事にして生きようと思えるものだと考えていた。永遠の命を与えられたとして、はたしてその人は人生を楽しむことが出来るだろうか。きっと楽しめないだろう。だから生と死は互いに密接で、共依存の関係にあると信じてきた。
 だが実際は違った。死は死だった。死はその内に虚空を内包する。虚しさと空しさ。この世の無常という現実が否応なしに突きつけられる。
 ハルが死んで私は死ぬことを決めた。もとからそういう約束だったんだ。
 明日私がこの世界で生きていないと考えると変な気分になる。嬉しいのか、悲しいのか。怖いのか、楽しみなのか。分からない。
 私の人生に意味はあったのだろうか。私が消えた朝に流れた涙の分だけ私が生きていた意味になるのかな。もしそうだとしたら私が死んだら誰が泣いてくれるんだろう?両親は泣いてくれるかな。学校の友達は泣いてくれるだろうか。ハルを失った時の痛みを知っているから、もし悲しんでくれる人がいるとしたら、同じ思いをさせてしまうことに後ろ髪を引かれてしまう。

 空を仰ぐと先よりも幾分か明るくなっていた。雨も弱くなってきている。私が一歩を踏み出す度に世界が明るくなり、光で満ちていった。まるで世界が私の死を祝福してくれているかのよう。そのまま上を向いて歩いていると――ブーン。
 通り過ぎる車の音にはっとした。知らぬ間に赤信号の横断歩道を渡ってしまっていたことに気づく。危うくハルとの約束を破るところだった。気をつけなくては。

 歩きながらひたすら死についてちっぽけな脳みそで考えてみたが、いくら考えたって分からない。たぶん知りようがないんだ。だって死ぬ時にはもう、想うことすら叶わなくなるのだから……。
 ハルは最期、病室で何を考えていたのだろう。ハルは死とどのように向き合ったのだろう。その答えがこの毒薬だったのかもしれない。
 ねぇハル。どうして?本当のことを話してくれていたら、もっとハルとの時間を大切にしたのに……。どうして人は失って初めて気づくのだろうか。

 結局答えは見つからないまま、私はハルとの約束の場所――由比ヶ浜――に着いてしまった。空はすっかり晴れ渡っていて、揮発性の私は今にも蒸発して消えてしまいそうになる。
 春休みの昼過ぎの由比ヶ浜は人が多い。あの日のように、渚に打ち寄せられた流木に座る。日が暮れるまでハルとの幸せを反芻しよう。あの日この場所で交わした約束を違えぬように。

「前にさ、死ぬのって怖いよなって話になったじゃん」
 日暮れの由比ヶ浜。緋色の地平線を眺めながらハルはふとそんなことを言った。
「う、うん。それがどうしたの?」
「なぁ、アキ。死ぬ時は一緒に死なね?」
「えっと……どゆこと?」
「これ」
 ハルはバッグから袋を取りだし、その中のものを私に渡す。
「なにこれ?ペンダント?」
「そう。ペンダント」
 そのペンダントの先には晴天のように透き通る空色の小瓶が吊るされていた。傾けると屈折面ができて、中に透明の液体が入っていることに気づく。
「この吊るされてるのはなに?」
 そう訊くとハルはイタズラな笑みを浮かべた。
「それはな、毒薬だ」
「毒!?」
「うん、毒。量は少ないけど、確実に楽に死ねる。二人でお揃いね。やだ?」
「え、やじゃないけど……」
 正直まだきちんと状況を呑み込めていない。ハルはそのまま先を続ける。
「どっちかが先に死んだら、残った方がこれを飲む。そうすれば一緒に死ねる。伝わったかな?」
「う、うん。一応は」
 腑に落ちた。過激だが、結構ロマンチックだ。ハルはペンダントを私の首にかけながら言った。
「死がふたりを分かつまで、いや、死が二人を分かつとしても、ずっと一緒だからな。一生愛してる」

 太陽は地平線の彼方へと消えていく。反対に紫紺の宵闇が東から伝播してくる。夕刻の由比ヶ浜は夕暮れの憂鬱を湛えて、息を飲むほどの造形美を成していた。
 ペンダントに吊り下げられた小瓶を目元まで持ち上げて、朱に染った黄昏の空に小瓶の空色を重ねる。朱色と空色のコントラストがあまりにも美しく、最後の景色としては十分すぎるものだった。
 やっと苦しみから解き放たれる。ハルに会える。そう思うとくすぐったい気持ちになる。
 本当はずっと死ぬのが怖かった。きっと寸前で私は怖気付いて、自殺できないのだろうと心のどこかで安心していた。
 だから死を忘れたくて忘れたくて。
 忘却の彼方へ死を追いやりたいと思えば思うほど、死が心もとない私の双肩に重くのしかかってきた。
 お腹の奥底で黒い、暗い何かが巣くっていくのが怖くて怖くて仕方なかった。
 でも今は思う。今なら死ねる……と。
 何故だろうか、自分でもよく分からないけど、「死ぬなら今しかない」自然とそう思ったのだ。
 もしかしたらこの由比ヶ浜の景色があまりにも美しすぎるせいかもしれない。私は今、一生分の景色を見張っている。
 視界が滲んだ。涙は要らないのに。最後の景色が台無しになってしまうから。
 手で涙を拭って、覚悟を決めるため呟く。
「ハル、今行くよ」
 私は小瓶の蓋を開けた。昂った緊張感が総身を襲う。
 ハル……お願い。
 私に……勇気を、力をください。
 そしてぐっと一気に飲んだ。
「っ!」
 え?
 一瞬何が起きたのか分からなかった。ハルのことを信じていないわけではなかったが、多少の苦しみは想定していた。それが来なかったのだ。
 私は長らく忘れていた優しさに包まれた。これが死?
 いや、違う。私は生きている。体もなんともない。なんで。どうしてバニラの香りがするんだろう。
 そして理解する。毒薬なんて嘘だったと。これは……バニラエッセンス?胸が焼けるように熱くなる。温かい。
 世界が歪み、私は思わず膝から崩れ落ちる。私は泣いているんだ。生きてる。これって生きろってことなんだ。
 ねぇハル。ハルがいない世界で私は生きてけるのかな。分からないけど、でもきっと大丈夫。きっとどうにかなる。ハルが教えてくれたから。ハル、ありがとう……。

 夕凪の先、涼しげな海風が吹きだす。涙を優しく撫でる涼風に乗って「お前は生きろ」そう言うハルの声が聞こえた気がした。

 ライオンのような荒々しい天気は終わり、子羊のような穏やかな春が訪れた。
 この心臓にハルがいる。全身に向け脈を打ち、空色の毒薬を私の身体中に送る。バニラの香りの優しさが、温かいハルの愛が私に溶けだしていく。

アフターストーリー

私は家に帰ってお母さんに、ありがとうと言った。

仏壇の前に座り、今は亡き父をはじめとした先祖代々に向かってありがとうと気持ちを込めて祈った。

LINEを開いて親友に片っ端から、仲良くしてくれてありがとうこれからもよろしくね、と送った。

明日学校に行ったら先生にも感謝を言おうと決めた。


面映ゆさなんて今の私には関係なかった。


私はハルのくれた液の成分を調べてみることにした。毒薬ではないことはわかっていたが、私の中の尊大で臆病な好奇心が私をつき動かしたのだ。


父は名のある化学の研究者だった。父の親友の人にお願いして、数滴残ったその液体を調べてもらうことにした。


結論から言うとバニラエッセンスではなかった。その液体はコースのデザートなどの所謂高級料理に使うようなものらしかった。だから甘かったんだ。香りの成分まで解析するには資料が少ないらしく、わかったのはそこまでだった。


バニラ……。


私は次の日学校を休むことにした。先生に感謝を言う機会はたぶんあるはず。


私はハルの家に行った。ハルと別れてから今日までずっと来ることが出来ないでいた場所のひとつだった。


玄関先でハルのお母さんが迎えてくれた。突然の訪問に一瞬驚きを見せたがすぐに優しい笑みを浮かべて私を家の中へと誘う。その笑みは大好きだったハルのあの笑顔を彷彿とさせた。


私は『ハルのくれた毒薬』のことだけを秘密にして、今まで来れなかった理由ややっと過去を克服できたこと、今まで抱いてきた数々の蟠りをハルのお母さんにぶつけた。


ハルとどことなく似ているから落ち着いたのだろうか。私の精神はだいぶ落ち着いてきた。


ハルのお母さんは泣きながら言う。


「アキちゃん。ハルのこと、大切に思ってくれて本当にありがとうね。あの子もきっとこんなに可愛くて良い子に愛されて、幸せだったと思う」


面影を感じて、まるでその言葉がハルのものだと錯覚してしまって、私もつられて泣いてしまった。


ハルのお母さんが私の身を抱き寄せた。ハルのお母さんはハルと同じ匂いがした。大好きなバニラの匂いと、あと何か。


それから私たちはたくさん泣いたけど、窓から入ってきた優しい西陽が私たちの心をあたたかくして、涙も乾燥させた。


そろそろ帰らなくちゃ。


「そうだ、アキちゃん。せっかくだから花持って行って」


そう言ってハルのお母さんは庭に私を連れ出してくれた。そこにはたくさんの花々が活けられていた。


「私の夫が亡くなる時、アイビーという花の種をくれたんだ」


アイビーの花言葉はね……


『永遠の愛』

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