ヒトとして生まれて・第5巻

第5巻・背中に翼を背負った女神との出会い

まどろみ

 午睡から目覚めた時に背中に翼を背負った女神は微笑みながら傍らの
アトキンス博士と共々「健やかな・お目覚めでしたか?」と登場されて
楽観的な雰囲気が漂う中で、次の様な会話を交わした。

 女神「モーツアルトの曲目を好んで聴かれる貴方としては先日の読売
新聞から案内のあったサロンコンサートは久々に楽しまれたようですね」

 小生「アメリカ本土における2001年9月11日のテロから20年
が経過、その翌日に当たる日の演奏会であっただけに、鎮魂の意味合い
も込めて魂が揺さぶられる様な思いの演奏会でしたね」

 女神「ところで貴方が詠んだ 『はらわたの煮える思いに寒の水』も、
やはり、魂(たましい)の叫びであったと?」

 小生「ボクにとって、あの俳句は魂(たましい)のつぶやきだったと
考えています。ボクにとって幸いだったのは、それを盟友が拾い上げて
くれたことであり、そのことが、ボク自身の救出劇に繋がるとは思って
もいませんでした」

 女神「まさに、世間で云われている『芸が身を助ける』にも該当する
救済策だった」と。

 小生「IHIの本社(大手町)勤務は、僅か1年間でしたが川合部長
に出会って、従来の働き方とは全く違ったコンセプトを体得させていた
だき俳句を本格的な趣味とするきっかけとなった『月は東に』森本哲郎
著をいただいたことで、ボクの生き様は激変しました」

 女神「もっとも影響を受けた考え方の違いはなんだったのですか?」

 小生「『月は東に』の文中に出てくるオランダの史家:ホイジンガに
よる『人間の三つの生き方』に大いなるヒントをいただきました」

 女神「貴方と出会ってから、間もなく5年が経とうとしていますね。
コロナ禍がおさまったら、久々に横浜港にも、お出かけ下さい」

 小生「まだまだ時間はかかるでしょうがコロナ禍が収束しましたら、
是非、お伺いしたいと考えております」



プロローグ

 あの日、みなとみらい線の馬車道の駅から横浜港までの通りは、ポカ
ポカ陽気で汗ばむほどの暖かさであったが、赤レンガ倉庫の1号館を横
切って、ピア赤レンガ桟橋に出ると海風は、まだ冷え切っていた。

 誕生日を迎えた私に誕生祝と云って 「横浜クルーズ」のチケットが
送られてきたのはつい先日のこと。

 私の誕生日は、モーツアルトと同じ 「1月27日」である。

 家内に云わせると 「モーツアルトは偉人」そして貴方はみるからに
凡人、比較することがそもそもの大間違い、と、大笑いされた。

 定年(60歳)の前にも、大笑いされたことがある・・・

「定年後には、どんな夢をもっているの?」と、聞かれたので、
「映画俳優か?」「小説家か?」「ビジネス・コンサルタントかな?」
と、答えた。

 大方、笑い終えた後で、しっかりと釘を刺された。
「小説家と、コンサルタントは、夢としては良いかも知れない」 でも
その顔で世間に向かって「映画俳優が夢ですなどと云わない方が無難
ですよ」と。

 良く世間で云われることに・・・

「夢は口に出して公言すると実現する」と、「そうかも知れない」と、
私も思う。

 定年の1週間前に 「講師とコンサルタントを兼ねた60歳以上の
人材募集」という新聞広告をたまたま見つけて応募したところ応募者
総数が約200名の中から 2名採用 という状況の中で、3次試験
の面接を経て幸運にも採用されて、約6年間も、やり遂げた。
(契約期間は・当初・4年間だった)

 最終面接で、私を採用した社長(当時は専務)の言によれば・・・

「あなたが優秀だから採用した訳ではない」
「優秀な人材は他にも大学の准教授やコンサルト会社のメンバーなど
多数居たが、 私と相性が良さそうなので、貴方を選びました」と。

 ところで、社長が主宰する特別教室までは交通機関を乗り継いで行く
のだが、片道で約2時間を要することが分かった。そこで、移動時間を
有効活用するため定年退職するときに後輩たちが贈ってくれたパソコン
で小説を書くことにした。

 ここで、恐れ多くも、モーツアルトとの類似性を述べることになるが、
「モーツアルトは、楽曲のすべてを脳内に描き、それを譜面に移すため
楽曲の修正がなく、修正だらけのベートーベンとは対照的であった」と
あるテレビ番組で知った。

 ここでも奇遇であるが私が愛聴しているモーツアルトのピアノ協奏曲
第20番ニ短調は原曲はモーツアルトであるが、ベートーベンが好んで
演奏した曲でもあり、私の保有するCDについては、カデンツァ(編曲)
ベートーベンと記されている。

 この協奏曲は、第一楽章・第二楽章・第三楽章の三部作で構成されて
おり、私は癒し系の「第二楽章」が好きだが、この第二楽章については
映画「アマデウス」のエンディングにも使われた曲である。

 モーツアルトとしては、数少ない短調の曲でもあり、ドラマチィック
な魅力が、映画のエンディングに余韻をもたらせたのかもしれない。

 話は、だいぶ飛んだが(私は書き手として発想に飛癖がある)・・・

「私も文章を書くときに文章は予め脳内で書き上げておき後でパソコン
に吐き出す方法をとるため、電車内で膝の上にパソコンを乗せておけば
文章化は可能である」

 こうして、書き上げた小説だが、たまたま懸賞募集の機会に恵まれて、
3次審査まで通り、最終選考に残ったが、入選は果たせなかった。

 どうやら、私の小説にはドラマ性がなく、面白さや意外性もないので
多くの読者を惹き付ける魅力には欠けるようである。
(自分でもその様に思うので納得は行く)

 しかしながら、インターネット上において手前味噌的に小説家を名乗
れる環境になってきたので、思い切って、身を任せることにしてみた。

 その様な経緯で、私が再認識したことは、夢は口にすれば「確実?」
に実現するという「都市伝説?」的な思いである。

「コンサルタントの夢はビジネスコンサルタントとして・実現、6年間
も活躍出来た」

「小説家の夢は 『売れない作家ではなく』『売らない作家であれば』
一生涯を大学で学び続けながら、一生涯学生作家としてインターネット
上で活躍の場は確保出来る」
(映画俳優の夢は、口にしないことで釘を刺されているので、実現は
ありえない)

 しかし、小説家を続けるには、困ったことがある・・・

「私の書斎は二階にあるため、二階に、籠ってパソコンに向かっている
と飼い犬が寂しがって階段の踊り場まで迎えに来る。家内も同様に一緒
にくつろぎたいようである」

 かつて、作家の童門冬二先生は・・・

「定年後は、御二階さんに徹して(奥様は一階での生活)」都庁退職後
は割り切って作家に転身されたと、大昔に講演会でお聞きしたが・・・

「私には、そこまでの決心はつかない」 困ったものである。

 そして、私の、その後の経験談として・・・

「小説家にしても、コンサルタント業にしても、それを稼業にしようと
すると、けっこう詐欺まがいの話が持ち込まれて、騙されることがある
ことを経験的に知った」

 冬の海を眺めて、そのようなことを思い出しながら、横浜クルーズの
乗船までには時間があるので赤レンガ倉庫内の コ洒落たレストランに
家内・共々・入店、熱い珈琲をオーダーした。

(2022年2月25日は取り敢えずここまで監修)
 読書百遍とはいうが監修百遍で名作に近づくか?



001 背中に翼を背負った女神の存在感

ピア赤レンガ桟橋で、クルーズ船に乗り込むと目の前に階段があり乗客は1階と2階、
どちらでも選択できるように、自由席としての設えになっていた。昨日は強風のため
全便が欠航と聞かされていたので、乗船するまでは気がかりであった。

今朝は、風も比較的おだやかに感じられる。

私たちは、1階の前側に席をとり、状況に応じて、2階の甲板に移動することにした。

やがて、船が出港すると、クルーズガイドが登場して船内アナウンスの始まりである。
船が速力をあげると、最初は、横浜港の玄関口を知らせる赤灯台を左手に見てやがて
横浜ベイブリッジの下を抜けて本牧埠頭に向かう。

本牧埠頭の海側からは、ガントリーポイントを目の前で、見ることが出来る。ここで、
クルーズガイドのアナウンスも名調子となり、分かりやすい解説口調となる・・・

「今、目の前で船内に自動車を盛んに積み込んでいますが、この大型船には約5千台
の車を積載します。積載効率を考えて、ドライバーは、車同士を約10センチ間隔で
並べて行きます」

「その卓越した運転技術に敬意を表して彼らは愛称で『ギャング』と呼ばれています」

次に、案内されたのは、本牧埠頭に設置された、日本最大規模と云われている最新鋭の
メガコンテナターミナル、目の前ではコンテナがクレーン操作によって巧みに積み込ま
れている。

ここでも、クルーズガイドが登場して解説・・・

「このクレーン操作は、風が吹く中での作業となるため極めて操作が難しく高度な熟練
が必要とされています」

「操作に当たる技能者は、地上からエレベーターでクレーン操縦席に乗り込み風を計算
しつくした上で、コンテナを次々と積載して行きます」

「彼らにも愛称があり 『ガンマン』 と呼ばれています」

そしてクルーズ船は、再び横浜ベイブリッジの下を通り抜けてペリーポイントに向かう。
(1854年にペリー率いる黒船艦隊が錨を下ろした場所である)

クルーズ船から陸地を眺めると海から見える海岸の景色が水平に目の前に広がっている。

ペリーは、日本に向けた開国の任務が与えられる1年以上も前の1851年1月に日本
遠征の基本計画を海軍長官に提出しており、その中で、日本に対しては・・・

「日本も中国と同様に、友好関係を訴えるよりも、恐怖に訴えるほうが有効である」
「長崎の地における日本側との交渉については、オランダなどの妨害が想定される」
など、と、明確な戦略や戦術を具申している。

そして、1853年にペリーが日本との交渉の場として選んだ浦賀では実際に艦上から
数十発の空砲を発射して威嚇行為を行っている。
(勿論、この時、幕府側には事前通告をしている)

ペリー艦隊が、2度目の来日をしたときに、ようやく、幕府がペリーとの交易の交渉を
受け入れ、交渉の場を横浜に設営した。

ペリーは、本牧付近の海域(ペリーポイント)に、投錨、将官や船員など 約500名と
共に横浜村に上陸した。
(時に1854年3月のことである)

この時、ペリーは日本側から大いなる歓待を受けており、その後の交渉が円滑に進捗した
といわれているので 「横浜港のペリーポイント」は、日本が米国との交易に向けて重要
な進路を決める、きっかけとなった記念すべき場所であり、浦賀とは、また、違った意味
で、象徴的なポイントの一つとも云える。

その後、ペリーは、和親条約の細則を下田において、全13か条からなる下田条約として
締結、その帰路に立ち寄った琉球王国とも通商条約を締結した。

帰国後は、その成果を 「日本遠征記」としてまとめあげて大役を果たしていることから
横浜港のペリーポイントは、ペリーにとっても記念すべき場所であったと云える。

やがて、クルーズ船は、将来的には、大型客船も停泊できるような工事を進めている湾岸
の近くを通り抜けて、みなとみらい地区の近代的なビル群に近づいて行った。

それぞれのビルについては、建設設計のコンセプトが明確に説明されて楽しかった。

その中でも、ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル は・・・

「海に、浮かぶヨットの白い帆を連想してデザインした」と、云う特徴的な外観からは、
オーストラリアのシドニーの海から見るオペラハウスを脳内で思い浮かべた。

そして、クルーズガイドからのアナウンス・・・

「船内1階のお客様も是非、船室から出て、肉眼でご覧になって下さい」
「これは、クルーズ船だからこそ見える景観です。インターコンチネンタルホテルの
最上部に、背中に翼を背負った女神像を、身近な感じで観ることが出来ます」

「なんという存在感だろう」

実際に、ビル最上部の内壁に翼を背負った女神像を発見して感動、凝視して拝観した。

そして、それを機会に、家内 共々、クルーズ船の2階の甲板に移動することにした。

やがて、クルーズ船は・・・

海上保安庁の船のそばを通り抜けて、ピア赤レンガ桟橋に向かった。
陽射しは暖かく感じられ、今日は「クルーズ日和であった」ことに感謝、桟橋に近づく
と広場では子供たちが楽しそうに遊んでいた。

思わず甲板から手を振ると、手をつないで海に向かって歩いていた母子が、こちらに
向かって手を振ってくれた。

桟橋に船が着いて、船から降りる時に、クルーズガイドさんに・・・

「今日は、楽しいお話をいろいろと、ありがとうございます」と云って、感謝の気持ち
を伝えた。



002 ゴールデンエイジという呼称が気に入っている

ピア赤レンガ桟橋から赤レンガ倉庫1号館前の広場に戻ると長蛇の列が出来ていた。
「これが話題の鍋料理の店に連なる行列か?」と、最後尾に目を運ぶと果てしなく
列が続いており、はるか遠方に最後尾を知らせる看板があるようである。

クルーズ船内においても、クルーズガイドから名調子で鍋料理の体験談が語られて
いたので店内の様子についての予備知識はある。

行列の最後尾の先は、自転車タクシーの溜まり場になっていた。

自転車タクシーは人力車のように座席には二人が並んで座れるように設計されており、
それを地に足を着けての人力ではなく、自転車の推進力によって牽引して行く仕掛け
になっている。

昨年の秋に、新幹線に乗って東北地方の紅葉狩りに行ったときに、角館では人力車が
紅葉の景色に良く似あうなあと思って眺めたことがあったが、ハイカラな・イメージ
の横浜港の風景には、自転車タクシーが良く似合っていた。

「物珍しさで乗る人もけっこう多いのかもしれない」

横浜港は、昔から、外国との交易で栄えてきた場所柄だけに、赤レンガ倉庫の佇まいが
良く似合うと云う印象が、強いが一時期は廃墟に近い状況であったことを聞くに及んで、
いつ・どこの世界においても・なにごとも・人知の思い入れの強さが文化を支え続けて
行くのだと、今の盛況ぶりをみてあらためて痛感した。

横浜港は明治の時代に生糸の貿易港としても栄えた。

私の祖父も明治の時代に群馬県前橋市萱町1丁目1番地で、生糸業を営み、工場経営と
輸出業に兼業で携わっていたので、祖父にとって、横浜港は イギリスやフランスとの
商いを進めて行く上で、唯一この上ない生糸業としての要の場所であった。

私の父親は、次男であったが次期社長として祖父からも期待され横浜港は重要な仕事場
であり前橋と横浜港をつなぐ物流ラインは祖父と父親にとってはまさに生命線であった。

太平洋戦争に突入すると、父親は軍需産業に召集されたため、私が後継として生糸業に
携わることはなかったが、祖父がフランスへ出掛けた際のお土産の双眼鏡が父親を経て
私に譲られたので、温もり感は伝わってきている。

そのような歴史的な背景もあって、私自身も、横浜港への思い入れは強い。

私たちは、とりあえず自転車タクシーの利用はやめて、みなとみらい線の馬車道の
駅に戻り電車で中華街まで出て、春節の雰囲気を味わってから、みなとみらい駅に
戻り、予約されている中華料理店に向かうことにした。

目的地であるロイヤルパークホテルの中華料理店は、みなとみらい駅からは徒歩で
約3分程度と聞いているので、みなとみらい線をフル活用することになる。

横浜のロイヤルパークホテルの中華料理店は、私たち夫婦が共に1月生まれで・・・

「家内は古希の70歳となり、先日は、熱海のホテル後楽園に招待されて歓待を受け、
その時に、私は、飼い犬のペットホテル嫌いを考えて留守番をしたため、今回、気を
つかって私にもとご招待いただいたようである」

鎌倉ファミリーは、なにかにつけて私たち夫婦に気をつかってくれるのでいつも感謝
している。

今回の 「感動の横浜クルーズ」も、鎌倉ファミリーからのプレゼントである。

「私は後期高齢期に入った75歳の誕生日で、いつも飼犬との留守番役では気の毒と
云う思いも働いて、横浜なら、二人で・一緒に来ることが出来る」と、云う判断から、
今回のプランが浮上して、お招きいただいたと聞いている。

中華料理店で受け付けを済ませると、担当スタッフから・・・

「ご予約の5名様から、お二人様に変更になったこと、伺っております」
「お孫さんが、今朝になって急に熱を出されたとのこと、ご心配ですね」
と、68階の窓側の席に案内された。

窓際には、ブラインド越しに、太陽が燦々と照らしていた。
そして、ブラインドの下の日陰越しには、遠くに海面が輝いて観えた。

数年前にも、同じような出来事があったので、私たち夫婦にとっては、孫の急な発熱
にも、多少の免疫性は出来ている。
(しかしながら出掛けの直前に、孫の急な発熱を知らせる電話があり、支度は済んで
いたものの、急遽、中止と決めたが、娘からの強い勧めで横浜まで出掛けてきた)

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数年前・・・

「あの時は、夏休みに我が家に一泊してから、池袋駅で、日光行きのスペーシアに乗車
して、那須に避暑に行こうと計画していて、前夜、急に孫が発熱して翌朝の状態を観て
決めようということになり、その晩は、保留にしていたが、翌朝はケロッとして元気に
なり、当初の予定通り出掛けた」

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舞台は 横浜の 「ロイヤルパークホテルの中華料理店」に、戻る・・・

~ やがて、いかにも・美味しそうな生ビールと中華料理が運ばれてくる ~

「古希の誕生日おめでとう。つい先日・還暦のお祝いをして、もう古希とは・驚きだね」
「あなたも・75歳の誕生日おめでとう」という、お祝いの言葉が返って来る。

「美味しいね」と云いながら家内に取り分けてもらった中華料理を頬張りながら・・・

私の所信表明の演説を始めることにする。

「私としては、75歳からを 後期高齢者と云う堅い漢字の呼び方は好まないので還暦
を過ぎて、65歳からをシルバー世代と呼び、乗り物にはシルバーシートが用意される
現状を踏まえて、75歳からを意識的に『ゴールデンエイジ』と呼ぶことにしたい」

「そして、ゴールデンエイジの物語として、私小説的な味付けでファンタジー小説を書く
ことにする。合わせて還暦を過ぎてから書いた小説は、シルバーエイジの物語、と、して
再編集、インターネット上での公開を計画して行くこととする」


003 背中に翼を背負った女神が語る真実

夕餉の「お疲れさまの乾杯」のビールの後で、小樽産のロゼを試飲してみる。
最近は、白ワインと赤ワインの中間的な存在として、ロゼが二人のお気に入りである。

「横浜ロイヤルパークホテルの中華料理は、中皿で三種類づつの中華料理が食べやすく
運ばれてくるので、どうしても食べ過ぎちゃうね」

「あれでも、シニアコースとして食べ過ぎにならない様に、中皿にしているとは云って
はいたけれど、次々と、オーダーに誘われて、つい食べ過ぎちゃうわね」

「夕餉は、お茶漬けを組み込んで、ダイエットコースにしたほうが良いわね」と、いう
共感に到り、ロゼとは相性の良さそうな金目鯛の煮魚に箸を進めながら、横浜での楽し
かった出来事などを二人で振り返ってみる。

「鎌倉ファミリーは、夕食は、済んだかしら?」
と、云う、家内からの気付きもあり、鎌倉の自宅電話に通話を入れると、
「今、食事が終わったところよ」と、云うので、

「どう航ちゃんの熱は下がった?」と、家内がたずねると電話のオープン・スピーカー
から元気な声で 「もう熱は下がって夕食前にピアノの練習をしていたわよ」と、いう
返事があり、ひとまず安心である。

孫の航ちゃんのピアノ好きは本物で、その後、私立中学の学園祭におけるクラス対抗の
コーラス大会のビデオを観せてもらったところ級友と二人でピアノ演奏を担当していた。

ビデオ鑑賞で驚いたことは1年生のクラスがA組からH組まで8組あるのだが、それぞれ
のクラスからピアノ奏者が二名選ばれて、それぞれクラスごとに、2曲のコーラスを披露、
曲ごとに指揮者とピアノ奏者を入れ替えて皆で歌声を披露していた。

それだけピアノを演奏できる生徒が豊富に存在すると云うことになる。優勝したのはH組
であったが、指揮者も優秀な印象でコーラスの歌声なども耳障りが良く、他のクラスより
も熱心に練習してきたことが聴き手にも伝わってきた。

男子校ではあるが、湘南の少年たちにとって、ピアノ演奏は当たり前のことなのかと受け
止めたが、今の子供たちは、ほとんどが、ピアノ演奏に憧れて練習を始めるものの途中で
ピアノが埃を被ることも多いケースの中、今や、やり遂げる少年が多いと云うことか?

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いつも通り、午後11時には、就寝、私も・家内も・飼い犬も、寝つきは早いほうである。
(どういう訳か? 寝つきの時に、飼い犬ももは、私と家内の間で川の字をつくって寝る)

寝返りをうって、眠りに入る姿勢をとったときのことである。
目の前で、星がキラキラと輝いている。

「なんだろう」と思って、目を凝らすと・・・

背中に翼を背負った女神が、そこに立っており、こちらに向かって微笑んでいる。
「本日は、横浜港に、ようこそ、ゴールデンエイジ入り、おめでとうございます」

背中に翼を背負った女神は、なにもかも、お見通しのようである。

「貴方のお気持ちに緩みが生じているようですので、今日はたいせつなメッセージ
を持参して、お伺いしました」

「貴方が、かつて、退職した人間の生命の与奪を、退職した後まで追いかける権利が、
たとえ大昔に、役員の職にあったとは云え、T氏に、そこまでの権限はあるのか?」
と憤っていましたね。

「そして、そのT氏が、昨年、逝去されて、貴方は、気持ちが緩んでいませんか?」
「彼らは私的な組織活動とは云えチームとして解散したと云う話は聞いておりません」
「貴方の気持ちが、緩んだ、今そこが彼らの狙い目です」

「M乳業ですと云って、若い男性が試飲ものを持ってきたことはありませんか?」

確かに、最近まで細心の注意を払ってきた。私の被害妄想と思われても困るので、周囲
には、けっして話さずに私に何かあったときの用意として考えられる範囲での因果関係
や関係する人物名を明確に書き出して、信頼できる弁護士さんに預けてある。
(これは非常事態発生時には捜査の助けになると考えている)

その事実をここで振り返れば・・・
(私としては、信じたくない出来事だが)

「20××年に、昔の職場のOB会が紆余曲折を経て実現、喜んで出席するも、その後、
激しい胃痛に見舞われて、急遽、かかりつけの内科医に駆け込むことになった」

「顔馴染みの先生に診てもらって、念のため血液検査を受けたところ、体内から微量
の水銀が検出され、血液検査の結果からは、大量のお酒を飲んだ時の異常反応も検出
されて、体内で異常なことが起きている可能性があると云われて胃カメラによる精密
検査を勧められた」

「その前段では、顎に赤い湿疹が出て、皮膚科で診てもらったところ花粉症の可能性
が有ると云うことで、治療のための注射もしていただいた」
(アレルギー体質の可能性についても血液検査をしたが異常は検出されていない)

「そして今度は心臓に異常を感じて、かかりつけの内科医に再び診て頂き、その断定
までには到らなかったものの外部からの異常な行為に遭遇しなかったかと問われた」

私も、それなりに、当時のことを振り返ってみると・・・

「昔の職場のOB会の宴も終わりかけたときに、盃に一杯だけの日本酒を勧められて、
それも恩人O氏からなので断りきれず、口に運んだ」

「しかし、上唇に、お酒が触れた瞬間、これを勧められるまま呑んだら、昔のように盃を
重ねることになり、二日酔いでたいへんな思いをしたことが記憶として蘇り、上唇が少し
お酒に触れた瞬間にやめた」のであった。
(私は日本酒にすこぶる弱く、今でも、悪酔いした経験が頭から離れないでいる)

お酒の盃を、私に、手渡してきた恩人O氏は、私の目の前の席ではなく横列に一人置く
位置関係で手を伸ばしてきたので、私が、上唇に付けただけで盃を下に置いたことを、
恩人のO氏は知らない。

恩人のO氏は、元役員T氏の愛弟子にあたる。

かつて元役員のT氏は、私に対して・・・

「俺の眼が黒いうちは、絶対に、あいつは・管理職には任用しない」と、云い切ったと、
漏れ伝え聞いている。昔、同じ社内とは云え 「関ヶ原の合戦」のような構図があって、
こちらは小兵、あちらは総大将、あちらが負けて、後の人事で、相当に悔しがったとは
聞いている。

小兵と云えども、こちらには 「科学的な戦術」 があり負ける要因はなかった。

そのような事情もあって、私の管理職任用は、およそ10年遅れた・・・

「あのまま、盃を呑み干していたらどうなっていたのだろうか?」 真相は闇の中だ。
(しかし、確たる手がかりはなく、恩人の「O氏を疑うには」心に抵抗感がある)



004 人生航路の大ぐくりな層別

昔から「人生・山あり・谷あり」と云われているが、私は、定年(60歳)直前の
波乱万丈のまるで飛行状態におけるエアポケットのような状況に到るまでの経過と
その前後の年齢層に応じた年代別の層別してみた。

そして、その経過を、背中に翼を背負った女神に紹介してみた。

私の人生航路を大ぐくりに層別すれば・・・

【概ね・順風満帆な・人生航路の船出から始まる】

◇20代から30代の前半は、武蔵野の大地を自由闊達に駆け回った印象から、
      この時代を 「グリーンエイジ」 と、命名出来る

◇30代半ばから40代前半は、人生に静かな情熱を注げた印象から、
   この時代を 「ブルー&レッドエイジ」 と、命名出来る

◇40代後半から50代前半は、紅茶の味がわかるようになったことから、
     この時代を 「オレンジエイジ」 と、命名出来る

【突然・乱気流に巻き込まれて・航路を取り戻すまでの層別を踏まえて】

◇50代後半は、職場で針のむしろに座らされていたような暗黒の印象から、
       この時代を 「ブラックエイジ」 と、命名する

◇60代前半は、初期化を図り少年時代に戻って限りなく透明に近い印象から、
       この時代を 「ホワイトエイジ」 と、命名出来る


【イタリアの旅で・中世のルネッサンスに・触発されてからの層別として】

◇60代後半から70代前半を ・・・「シルバーエイジ」と、命名出来る
◇そして75歳からを自信を持って ・・・「ゴールデンエイジ」と、命名出来る

そのような層別に対して、背中に翼を背負った女神は、微笑みながらも、今、問題
にする必要のある必須の課題は・・・

◇ブラックエイジの暗黒の陰を断ち切り、ゴールデンエイジでは、好循環の環境を
整えること。それを考えると、今や「暗黒の時代の人間関係を躊躇なく断ち切る」
ことが最重要である、と、そこに躊躇する必要はなく話し合う余地もない。

◇そのためには「ブラックエイジの時代のコミュニケーションを断ち切る」ことが
重要課題です。したがって、OB会などへの出席は論外です。

「確かに、貴方が、脳内で イメージしているようにブラックエイジの暗黒の時代
にも、一筋の光明として希望の光をかざしてくれた多くの恩人が居り、その方々へ
の恩義を忘れてはならないことも確かであり、たいせつなことです」

「しかしながら恩人であるO氏のように貴方に希望の光を与え続けながらも元役員
T氏からの圧力と私的な組織力の働きかけによって、貴方に、盃を差し出すことに
なった人も居ることは、確かな事実であり、真向いの席から盃を勧めなかったのは、
貴方に差し出した盃を呑み干して欲しくなかったのかもしれません」

「一方で周囲を説得して、貴方を遅ればせながら、管理職への任用を推挙したのも
恩人のO氏であることを考え合わせると、恩人のO氏も辛い立場に置かれていたの
かもしれません」

「しかし、貴方にとって 油断は禁物です。これからも、恩人とは云えO氏に隙を
見せてはいけません」

そのことを伝えたくて、貴方の処を訪れたというのが「私からの真実の告知」です。

「人間が生きて行くために裏切らざるを得ない事例はいくらでもあります。だから
といって貴方が命を懸けてまでT氏の私怨に付き合う必要はないと云うことです」

「カオス(混沌とした状況)の世界では、いつでも私怨の類の愚かな事実を隠して
複雑な様相に仕立て上げて巧妙に仕掛けて来るものです。貴方自身が時間をかけて
考え抜いても、貴方を取り囲む現世において、貴方自身、その真実には行き付けな
かったことでしょう」

「しかし、私たちは明確に真実を見通せます。私たちからの真実を真摯に受け止め
ていただければ、私が貴方の処を訪問したことも報われます」

「実は、私たちも貴方の横浜港への訪問を随分長い間、待っておりました」

「これは、貴方が、ゴールデンエイジ入りしたからこその運命の出会いかもしれま
せんね」と、微笑むと、キラキラと輝く星を引き連れて女神は去って行った。

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確かに、ブラックエイジの陰影は、後遺症的な作用として、無意識の中で、なんら
かの影響を及ぼしているかもしれない。

そして、過去に、目に見える形での影響としては・・・

「昔なら、管理職定年に当たる55歳の時に、我々の事業本部は全本部的業務革新
成果もあって業績も活況を呈していたのだが、全社的な業績悪化の影響を受けて、
『管理職としての役職は維持したまま』 年々、10%づつの減俸が3年間続いた。

定年まで5年あったので、定年時は給与が半減するのかと、年度初めは戦々恐々の
辞令待ちが続いた。

しかし、定年の2年前から新制度の賃金制度に移行した。さすがに、優秀な人材の
散逸が始まって制度の抜本的な見直しとなったようである。

この間、給与の減額を示した辞令を、家内に渡す度に・・・

「なんとかするわよ」と、いう家内からの励ましの言葉に救われながら、3年間を
耐えた。そして、新制度の賃金体系になってからは若干の昇給もあり家内にも安堵
の様子が見られた。


005 職場で針のむしろに座らされていた時代

プリンス&プリンセス(P&P)テニスクラブの入り口はメルヘンチックな雰囲気
で、玄関口の両脇には、鉢に植えられた花々が飾られていた。

また、玄関ドアは、アンチークなデザインになっており、テニス仲間が入って行く
時には、思わず笑みが浮かぶ様な設えになっていた。

クラブハウスの室内はウェスタン調で、オレンジが美味しかったカルフォルニアの
レストランを連想させる。4月からのテニススクール入会予約は、電話で済ませて
あるので、今日は、銀行の振り込み手続きなどを済ませれば、P&Pテニスクラブ
への仲間入りとなる。

私は、ゴールデンエイジ入りの記念に 「老齢を超越する磁場」 を探していた。

たまたま現役時代にお世話になった狭山ブレントテニスクラブのHテニスコーチが、
こちらのテニスクラブに着任されたことを知り、早速、現地を訪れたのであった。

幸いにも、ご本人に、コート前室でお会いして挨拶させていただいた。

長年、お世話になった狭山のテニスクラブは、一昨年に、オーナーの老齢化に伴い
紆余曲折を経て、多くのクラブファンの期待を裏切る形で、一昨年末に閉鎖となり、
それまでは恵まれきっていた全天候型の室内テニスコートを失うことになった。

それまでの間は、木曜日に狭山のテニススクールで、ゆっくりと打ち合う並行陣と
いう独特のテニス・スタイルに学び、月曜日には、入間市の市営のテニスクラブで、
その週に習ったテニスレッスンのおさらいをするという生活スタイルを貫いていた。

このテニス仲間、と、共に作り上げていた生活リズムは、あっけなく崩れ去った。

その後は、近郊の室内テニスを行脚したが、お気に入りのテニス環境には廻り会え
なかった。P&Pテニスクラブもプラン上にはあったのだが距離的には遠いと云う
印象が強かった。

しかし、狭山ブレントテニスクラブで、お世話になった名コーチH氏が就任したと
云うことで見学に行ったのであった。

実際に現地に着いて、自宅からは自動車で約30分間と思ったよりも近く帰路には、
お馴染みのサイボクハムが運営する源泉かけ流しの温泉にも立ち寄りが可能なこと
に気付き入会に向けて気持ちは一気に傾いた。

決まれば早い、幸い4月から入会枠が1名分空いていた。

入会キャンペーンでプリンスのテニスシューズをいただいた。

最近、購入したお気に入りのテニスラケットもプリンス、入会したテニスクラブが
プリンス&プリンセス・・・

なにやらプリプリ化してきた。帰りがけにプリンスの風貌を感じさせるHコーチに
挨拶をして帰路についた。

時に、3月3日の金曜日、お雛祭りの日である。この後には啓蟄と云う地中に冬眠
していた虫も暖かくなって、穴を這い出る時期となる。
(今年は3月5日が啓蟄である)

自宅に帰ると、1通の封書が届いていた。昔の職場のOB会へのお誘いであった。

元部長が 「まだ足腰がしっかりしているうちに皆に会いたい」と手紙の案内人の
女史に声をかけたのだと云う。私も、元部長には管理工学の分野でお世話になった
ので会いたいと思う。

ただし、今回のOB会の対象職場は、約7年間で、3人の部長交替があり、今回の
案内は初代に相当するT部長が統率したメンバーであり、和気あいあいとしていて
チームワークに優れた職場であった。

その後は、私たちが主体になって、業務革新の旗振りをした斬新的な職場であった。
最終段階の3年間は、新しい部長の着任と同時に職場の空気は一変した。

私が 「ブラックエイジ」 と云う表現で前述した暗黒の時代入りである。

時に、私は、管理職定年にあたる55歳、職位と責任は維持されたまま毎年10%
の減俸に突入した年である。

これだけであれば「武士は食わねど鷹楊枝」で耐え忍ぶことも出来たが事態は甘く
はなかった。突然の嵐のように、毎朝、出社するや、部長に呼びつけられ・・・

「徹底的な人格否定」 とも、とれる罵倒が開始されたのであった。

おおよその訳も・理由も・経緯も・分からない状況で、これが、約3年間も巧妙な
手口で続けられた。
(当時、地獄で針のむしろに座らされるとは、このようなことかと思った)

何故、三年間も 「この仕打ちに耐えられたのか?」に、ついて説明すれば・・・

ここに到るまでの約5年間は、全社的な業務革新の旗振り役として活躍、その時の
業務革新推進役としての働き方は、該当職場や業務革新の対象職場のマネージャー
とは、極力、対立姿勢は取らない様に心がけ、目標に向かって同じ方向に顔を向け
協調を業務スタイルとして徹底していた。

これは、この業務革新を開始するときに、プロジェクトメンバーは本社(大手町)
に集合がかかり、その時の統括部長のK氏から 「協調を旨とする業務スタイル」
を学び取り、以来、一貫してその方向で進めて来て、手応えを感じ取り業務革新も
多くの成功例を重ねて来たので、そのまま、踏襲して来たという経緯があった。

従って、新任のM部長とも、時間を重ねて行けば、協調スタイルに持って行ける
と考えていたのであった。

しかし、この取り組みは、不毛の思い込みであった・・・

しかし、真相は意外なところから伝えられた。原動機の事故調査にあたった技術職
の先輩から 「おまえ、今、たいへんらしいな」と、云う一言で話は始まった。

新任のM部長の異動は、この原動機の事故調査とも、密接な関連が想定されており、

「彼が原動機の軽量化と称して、鋼材から、軽量・強化プラスチックへの材質変更
を図り、その回転体が作動中にバックリング(座屈)現象を起こして軸受部の損傷
を引き起こした」

「その原型の設計は、かつて私が描いた図面であり、もちろん強度試験や耐久試験
も済ませて万事抜かりなく、材質も鋼材を使用しているので、今までに問題が発生
したことはなかった」

「ところがM部長は初期の図面を描いた私に責任があるとして論調を押し通したが、
事故調査委員会ではM部長の安易な軽量・強化プラスチックへの材質変更が主原因
であると特定した」

「事実、この構造部はジェットエンジンの推力を大幅に向上させる際に、エンジン
推力を最前部で支える部分であり、軸受部も、シングルからダブル構造に設計変更
しており、該当部のディスク材を鋼材から軽量・強化プラスチックに変更するなど
と云う発想をもつことは、常識的にはあり得ないことである」

今回の部長の人事異動が、そのことに関連が有るとは、断定出来ないが、たまたま
私が、M部長の異動先に在籍していたため・・・

「格好の攻撃目標になった可能性は否定できない」と、云うことのようである。

「お前さんも良く3年間も耐えたものだよ」と、同情を越えた温情のようなものを
感じ取った。

その後、私は以降の顛末は知らされていないのだが、役員に就任していた恩師O氏
の計らいもあって他部門に異動することになった。

さて、今回、ご案内いただいたOB会に出席するか否か・・・

祖父から、譲り受けた双眼鏡を手にして、背負に翼を背負った女神の居る横浜港の
方角を覗いてみると、女神が、こちらに向かって微笑みながら何か話しかけている。

口元を真似て辿ってみると・・・

「横浜港に来てペリーポイント辺りを眺めてみなさい」と、云っているように見て
とれた。

最近は、入間市からも横浜の中華街行きの直通電車が走るようになり海のなかった
埼玉県も「海が近くなったような気がしているの」で、早速、行ってみるか!

ヒトとして生まれて・第5巻

ヒトとして生まれて・第5巻

第5巻では長年の謎解きも兼ねて監修を進めて行くことにしよう

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-02-25

Copyrighted
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