私のナオミ

 読者諸君は『痴人の愛』という小説を、ご存じだろうか。
 作家・谷崎潤一郎が著した名作中の名作である。簡単にあらすじを書き留めてみよう。

 ――舞台は大正末期。カフェーで給仕していた西洋風の美しい少女・ナオミに一目惚れしてしまったサラリーマンの譲治は、金を工面し、彼女の学業の便宜を図ってやることにした。もちろんそれには下心があり、彼女を理想の女へと育て上げ、いずれ妻へと迎えるつもりであった。しかし譲治からの甘い資金に味を占めたナオミは、常軌を逸した奔放ぶりを発揮し始める。いわば事実婚といった間柄となっても彼女は放蕩の限りを尽くし、譲治はほとんど下僕に成り下がった。どんなひどい目にあっても、譲治の熱はさめやらぬ。最早、彼女の妖艶な美しさの前にはひれ伏すしかない――。

 当人からすれば金も人生もめちゃくちゃにされ、文字通りの死活問題である。だが、ページをめくる我々からすれば、慌てふためく彼の姿がどうにも滑稽で面白い。私は小説『痴人の愛』を初めて読んだとき、灰色一色だった世界がアッという間に色付くのを感じた。面白いから、というのももちろんの理由だが、驚いたことに、私の心の奥底に眠っていた願望が、かの大谷崎の美文によって一字一句あらわされていたのだった。そのとき私は数えで十歳。まだランドセルを背負っていた歳であったから、その刺激的な内容に十も二十も歳をとった気持ちだった。あとから思えば、忍び込んだ父の書斎にこの一冊があったのだから、私の『マゾヒズム願望』は遺伝子に織り込まれたお墨付きの欲望だったのかも知れない。

「櫻井! なにボサッとしてんだ! お前が流さねえと後の奴らがなにも出来ねえだろうが!」

 ハッとして、周囲を見回した。私に向かって怒声を飛ばしたのは、雇い主の井出という男だ。私は「すんません」と形ばかりの謝罪をこぼし、慌てて脇に重ねた段ボールから部品を取り出す。延々と続く、耳障りな機械音。私は右から左に流れるレーンに部品を置いた。一定の間隔を空け、もう一つ。そうして等間隔に部品を流すと、私の後ろに並んでいる異国の男がそれを受け取って、また違う部品を付け足す。担当するパーツを各々が組み立てていき、レーンの進行が終わると同時に製品が完成する、という仕組みの仕事である。

「可哀想になあ! 櫻井がトロくせえから、こいつらの休憩時間が潰れちまった。労基に訴えられたら全部お前のせいだからな!」

 ありのままの罵声を私の顔にぶつけ、雇い主の井出は事務室に帰っていく。工場内の上部に設置されたアナログ時計に視線をやれば、時刻は正午の十二時を少し回ったところだった。本来なら十二時に取れるはずの昼の食事休憩が、この調子では十二時半を回ってしまう。私がレーンの後続にその旨を謝罪すると、案の定、お決まりの無視である。異国の男たちは私を省いた仲間内で知らない言語を交わし始めた。おそらく私の悪口を言っているのだ。言葉はわからずとも、そのわかりやすく歪んだ表情が私の気分を暗くさせた。終業時間は午後六時。しかし時間通りに終わった試しなど、入社してから今の今まで一度もなかった。
 事務室の井出に「お疲れ様です」と頭を下げたのが午後十時を回った頃だ。全身に泥を塗りたくられたかのような疲労感。工場を出た私の身体は、自然とひとつの場所に向かっていた。
 駅近くの本屋である。
 私は誘蛾灯に導かれる蛾さながら、煌々と明かりのついた店内に吸い込まれていく。
 十一時に閉店するため、この時刻に来店すると決まって店主は嫌そうな顔をしているが、来る日も来る日も罵倒されながら仕事をこなしている私にはなんということはない。週刊誌の棚を通り過ぎ、平置きの漫画本にチラと一瞥をくれ、店内奥へと進んだ。私が幼少期から愛好する小説本がそこに並んでいるのだ。組み込まれたプログラム。突き当たりの角を曲がれば目的地に辿り着くことを、この肥え太った身体は知っている――。
 私は、ほとんど叫びだしそうだった。
 慌てて身体を翻し、今来たばかりの書棚の角に隠れた。
 胸に手を当て、息を整える。遂に自分は発狂したのだ、と私は思った。それ相応の環境に身を置いていることは自覚しており、いつかきっと頭をどうにかするぞ、と心の片隅で思っていたのだ。不揃いの呼吸がなんとか形通りにまとまった頃、私は私自身の幻覚を確認するためにそうっと小説棚に目をやった。

 ――幻覚などではない。あれはナオミだ。

 手にした文庫本をパラパラとめくりながら左右に視線を振る少女。その頭部の、日本人離れした小ささにまず私は目を奪われた。
 ツンと先の尖った鼻先からは悪戯っぽさがうかがえ、めくれた上唇からは可憐さが感じられる。それら個々のパーツを支える顎も華奢であったから、全てが小作りな印象だった。
 ただひとつ例外なのは瞳だ。長く艶やかな睫毛に縁取られた眼球はビー玉のように透き通っていて、巨大であった。その瞳の大きさは、少女の微細な目の動きを二倍にも三倍にも過剰にさせており、私は俊敏な猫を容易に連想した。
 聡明な読者諸君には、もうすでに私の心の動きをあますことなく予知されたことだろう。
 その通りである。私は、今をもって残りの人生の全てを眼前の少女に捧げることを誓った。それは『痴人の愛』の譲治が、精根尽き果ててもナオミへの情念を振り切れなかったかのように。一種のしがらみとも言える恋を、私は予感した。
 私は、少女に声をかけるべきか思案した。しかし自身が汚れた作業服を着込んでいることに気付いた途端、それは躊躇われた。しどろもどろしているうちに少女は去り、あとには私ひとりが残された。私は小説棚へ駆け寄り、先ほどまで少女――この際である、ナオミと呼ぼう――ナオミが手にしていた小説を引き抜いた。

「……」

 ここで私は読者諸君に宣言するが、これまで私が書き留めたことも、これから私が書き留めることも、その全てに嘘偽りがないことを忠告したい。もちろん脚色もなく、あるのは事実のみである。
 私の手の中には、まだ小口が綺麗なままの『痴人の愛』があった。これを運命と言わず、なんといえば良いのか。私の脳裏には少女の姿がくっきりと焼き付いていた。それから、次に会ったときに言うべき言葉も。私の頭の中のナオミは、セーラー服を風に揺らしながら「こんな大金、受け取れないわ」と謙遜して見せた。
 さて、現時点でひとつ、大きな問題がある。
 『痴人の愛』の譲治は公務員で高給取りのためナオミに資金援助することができたが、私は工場作業員だ。語らずとも、薄給であることが想定できよう。となれば、私のナオミ――そう、私のナオミだ――に話しかけるきっかけがないのである。私の年齢は今や半世紀に近い。少女からすれば老人にも等しい年齢の私が、セーラー服を着た女性に話しかけるというのは世間的にもまずかろう。私は本屋で買った新品の『痴人の愛』を自室でめくりながら思案に耽った。

 ――それなら、服をプレゼントするのはどうだろう。いいや、その前にデートに誘うのが順序というものではなかろうか。

 そんなことにうんうんと頭を悩ませ、答えの出ぬまま、朝を迎えた。


「櫻井! お前、仕事ってもんを舐めてんだろう! 自己管理してこその社会人だろうが!」

 私は半分眠っていた。レーンに部品を流しながら、雇い主である井出の唾を顔面に受けつつ、飽きずになおも私は悩み続けていた。
 もちろん昼食も喉を通らなかった。
 私は、私のナオミが俯いたときに見せた、その横顔を流れる黒くて美しい髪の一本一本に想いを馳せた。どうすれば、その狂おしいほどに愛しい気持ちを私のナオミに伝えられるだろうか。

 終業時間の鐘が鳴るや否や、私の足は当たり前のように件の本屋へと向かっていた。私が私のナオミと運命の糸で繋がっているのならば、きっと今日も会うことができるはずだ。一歩、また一歩と踏み出すたびに、話すきっかけなんてなんでも良いのではないかとすら思えてきた。まとまった資金を提供してやることは難しいが、遊ぶ金くらいなら私にだって作り出せる。
 果たして、煌々と明かりの灯る本屋に、なに不自由なく私のナオミが佇んでいた。
 昨日ナオミが読んでいた『痴人の愛』は私が購入したから、今日は一体なにを読んでいるのやら。そうだ、それを問いかけてみれば良いじゃないか。私は突如飛来した名案に飛びつき、前屈みで私のナオミに話しかけた。どんな本を読んでいるんだい。ただそれだけを問いかけた。

「は? なに言ってんのオバサン」

 私のナオミ。薄い紅色に色付いた、形の良い唇。上下に開かれた隙間からは「オバサン、昨日もアタシのこと見てたでしょ。キモいよ」と言葉がこぼれ、私は最後の一滴すら残さずすくおうと目を見開いたのである。



私のナオミ

私のナオミ

読者諸君は『痴人の愛』という小説を、ご存じだろうか。/2019年製作。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-22

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