紙とペンと、夏を浴びた彼女の横顔と

 最悪だ、と思った。
 開け放した窓からは夏日が差し込み、蝉の声は戦争のように苛烈。それだけでも最悪なのに単位が危ないと担任から忠告され、夏休み返上で補習に出たら不良で有名な沢渡彩華(さわたりさいか)が隣の席だった。
 自習用のプリントを残して担任が去ったのを尻目に、彩華は私――仲川藍那(なかがわあいな)のノートを奪って「なにこれ」と笑う。彩華の脱色した髪が風を孕んで揺れ、ピアスがちらりと覗いた。
 二人の間に沈黙が続く。

「返して」

 やっとのこと絞り出した言葉に、彩華はなんの反応も示さない。補習に呼び出された他の生徒は机に突っ伏して眠っており、意識があるのは藍那たち二人だけだ。
 奪い返すべく藍那が振り回した両手は、空しく宙を掻いた。限界まで短くしたスカートを翻しながら立ち上がった彩華はノートに視線を投げる。
 藍那が小学生のときに使い損ねた漢字学習帳、マス目を無視して書き殴った小説。読まれるのを想定していないため、文字はめちゃくちゃ、間違った箇所は黒く塗りつぶしており、とてもじゃないが見せられない。

 ――それもこんな不良なんかに!

「返せ!」
「アンタって乱暴なこと言えるんだね。大人しくて頭が悪い、なにひとつ長所のない馬鹿だと思ってた」

 彩華は口角を吊り上げて言った。高校一年生から二年連続で同じクラスだが二人は今まで一度も話したことがない。そもそもお互い欠席が多く、出会うことすら珍しい。彩華は楽しそうにページをめくっていく。

「仲川藍那」

 フルネームで呼ばれ、藍那の心臓が跳ねた。少しの間を置いて彩華は「なんだよこれ」と問いかけた。藍那は不安に駆られて「なんのことでしょう」と敬語で答えてしまう。

「聞いてんのはこっちだよっ……!」

 声が震えていた。ノートから顔を上げた彩華の大きな瞳からは涙がこぼれており、藍那は突然の出来事に面食らう。

「な、なに泣いてんの!」
「だ、だってぇっ……! こんなに好き合ってるのに、可哀想でしょっ……!」

 藍那はハッとした。彩華が泣いている理由が小説の中にあったからだ。ジョージとアリサは教師と生徒という関係でありながら恋をしていて、それに気付いた親同士が仲を引き裂く。書き進めていたのは、親たちが彼らの関係を学校に告げ口しようとする場面で、アリサはいっそのこと心中しようとジョージに持ちかける。

「ねえ、これってマジの話? アタシ、こんなに生々しい話読んだの初めてだよ」

 藍那は咄嗟に「両親の実話を書き起こした」と答えた。自分で考えたと思われたくなかったからだ。
 だから手を握られ「早く続き読ませて!」と言われたときは耳を疑った。

「続きって……ただの実話だよ? それも両親の」
「小説とか全然読まないけど、アンタの文章は簡単で読みやすいから。続き、楽しみにしてる」

 彩華はそこまで言うと、鞄を持って教室を出ていった。
 藍那は唖然としたまま、静かにノートを胸に抱く。


 大きな音がして玄関のドアが閉まった。父の帰宅を知り、藍那は自室で身を固くする。すぐに金切り声が聞こえ、廊下に怒声が響き渡った。
 父の帰りが遅いのはいつものことだ。母がそれを咎めるのもいつものこと。
 藍那は開いたノートにペンを走らせる。開け放した窓からは月明かりが差し込み、それが照明代わりだった。
 ジョージとアリサは藍那の両親である仲川丈治と有紗がモデルだ。小説と同じく実際も教師と生徒だったが、丈治は有紗を妊娠させてしまい、責任を取って離職した。その後教職とは全く関係のない仕事に就き、産まれた子――藍那と妻を養っていたが、次第に自分の選んだ道に不満が出てきたらしい。

 ――お前が妊娠なんてしなければ、俺は今でも教師を続けられた。

 父の言葉を聞いて、母は不安定になった。父はそんな母に苛つき、藍那といえばストレスで勉強が手に着かなくなって眠ることすら困難になった。
 小説を書こうと思ったのは、母が妊娠しなければどうなっていたのだろうと考え始めたからだ。
 小説の中のジョージとアリサは、二人の関係を学校にバラすと両親に詰め寄られ、遂には心中を思いつく。
 彩華に見せたのはここまでだが、二人はこの先、本当に心中してしまう。愛は永遠だと、海に身を投げて終わる悲しい物語。それがベストだと藍那は思っていた。
 しかし結末を変える気になった。
 涙を流しながら「続きが読みたい」と言ってくれた彩華。その気持ちを踏みにじって物語を終わらせるのは、勿体ない気がする。
 藍那は少し考えてから、アリサに対するジョージの台詞を書き足した。

 ――俺はまだ、こんな世界でもしがみついていたいんだ。だってお前と出会うことができた。奇跡はもう一度起こるはずだ。

 そこまで書くと、アリサが心中を思い直す台詞がすぐに出てきた。気付けば藍那は、無我夢中で先を書き進めていた。ドア一枚隔てた向こうで、父が母に暴力を振るう音が聞こえた。


 次の補習の日に彩華にノートを見せたとき、確かな手応えを感じた。
 ジョージが全校生徒の前でアリサを愛していると宣言したところが良い、と彩華は泣きながら言った。ジョージの覚悟が教師や生徒、果ては彼らの両親の胸を打ち、アリサは学校に留まり、ジョージも教職を続ける。
 都合の良い展開だが、嬉しそうにそれを読む彩華の顔を見れば選択は間違っていなかったように思う。藍那は教室の窓から差し込む夏日が、彩華の流す涙に反射して輝くのを見た。不良と聞いていたし、見た目もそれ相応だが、今、目の前にいる彼女の心はどこまでも澄んでいて美しい。

「ねえ、この続きは?」

 そう訪ねられたとき、藍那は「迷ってる」と正直に答えた。すると彩華が「実話なら、そのまま書けば良いんじゃないの」と言う。

「アリサたちなら、出来ちゃった結婚でも応援するよ。愛し合った二人なら順番とか関係ないから」

 藍那の脳裏には仄暗いものがよぎったが、彼女をがっかりさせたくない、という気持ちのほうが大きかった。

「わかった、書いてみる」

 矢継ぎ早に「どれくらい待てば良い?」と大きな瞳を輝かせて彩華が聞いた。そうして藍那の答えを聞くよりも早く、自習用のプリントを裏返してそこに書き込む。

「これ私の電話番号。待ち遠しいから、良かったらここに連絡して」

 その勢いに思わず藍那は笑ってしまった。彩華も恥ずかしくなったのか顔をほころばせる。二人の間に絆が芽生え始めていた。


 拳で殴られるのがこんなにも痛いものだと初めて知った。
 吹き飛ばされた衝撃で後頭部を打った藍那は、明滅する視界の中で二人を見つめる。一人は狂ったように泣き叫び、もう一人は相手を黙らせるために再び拳を掲げた。
 ゴツンと音がして、母は静かになった。藍那は腫れ上がった唇で抗議する。父は娘が大事にしていたノートを足で踏みにじる。
 ジョージとアリサは教師と生徒という関係でありながら子供を授かり、アリサは休学、ジョージは退職した。気が付けば藍那は現実そのままの小説を書いていた。
 違うのはその先だ。ジョージはアリサの地元で再び教職に就き、アリサは里帰り出産をする。祖父母に囲まれながら育児を行い、一段落した後にアリサは大学に進学。これは藍那の母が、父との関係が破綻し始めた頃に娘にこぼした夢物語だ。
 父はそれを読んで激昂した。人生を狂わされたのは自分一人ではないことを知ったのだ。さらには諸悪の根源である我が子がそれを小説という創作に落とし込んだ。
 ぐしゃぐしゃになったノート。
 完全に藍那の頭には血が上っていた。まるで彩華との時間を踏みにじられたような気分だ。藍那は雄叫びをあげながら父の足元に突進する。バランスを崩した父からノートをひったくり、一心不乱に玄関を目指す。


 藍那が裸足で外に飛び出したとき、真っ先に飛び込んできたのは彩華の呆然とした表情だ。

「……ごめん、どうしても続きが読みたくて、住所調べて、来た」

 彩華はドアの前に立っていた。
 最悪だ、と思った。額から垂れた血が藍那の眼球を刺激する。もうなにもかも取り繕えないのだと悟って笑う。途端、彩華の手を掴み、そのまま引き摺るようにして夜の住宅街を駆け出した。

「こんなオチでがっかりしたでしょ! これが本当の私の家族! 実話を書き起こしてるなんて嘘っぱち!」

 藍那は静寂を切り裂くように声を張り上げた。どんどんと痛みが膨らみ、こらえていたものが溢れ出す。藍那の目から涙が頬を伝う。
「私、彩華が小説を楽しみにしてくれてることが本当に嬉しかった! 私も、親が仲良く暮らす物語を紡ぎたかったし、できれば私っていう一人娘も登場させて、三人で幸せに……そんな話を書きたかった。でも、どこまでいっても夢物語だ! 私なんて産まれてこなければ良かった!」
 ぎゃっと藍那の喉から声が出た。突然、後ろから彩華に抱き締められたのだ。

「ちょ、ちょっと、なにっ」
「良いから聞いて!」

 後ろから怒鳴られ、藍那は慌てて口を閉じる。

「……アタシ、あんなにアリサとジョージのことを応援してたのに、オチを知っても嫌な気がしないんだよ。それってアンタの小説そのものを応援してたってことでしょ。私、アンタの小説が好きだよ。綺麗で、汚いところなんて、ひとつもない」

 振り返って言い返そうとするも、彩華の力は強く、藍那は抱き締められたまま涙をこぼす。

「私の感性は汚いよ、嘘だらけの、綺麗事」
「アタシはそれを愛してるんだよ。ねえ、アタシの言葉、ちゃんと聞いて?」

 ――アンタはアタシのためにもっともっと小説を書くの。アタシはそれで幸せだし、アンタもそれで幸せ。一生、そうしてるの。

 藍那は少しして、彩華の腕の中で身体を回転させた。

「どんな顔でそんな恥ずかしいこと言ってるのかと思ったら、ふふっ」

 街灯の下に照らし出された二人は、まるでたったひとつの世界のようだ。

「顔、真っ赤だね、彩華」
「アンタもだよ、藍那」



紙とペンと、夏を浴びた彼女の横顔と

紙とペンと、夏を浴びた彼女の横顔と

最悪だ、と思った。開け放した窓からは夏日が差し込み、蝉の声は戦争のように苛烈。それだけでも最悪なのに単位が危ないと担任から忠告され、夏休み返上で補習に出たら不良で有名な沢渡彩華が隣の席だった。/2019年製作。投稿サイトの企画に参加するために書いた作品です。

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更新日
登録日
2022-01-22

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