幼なじみの亜希穂は勉強が大嫌いだった


 幼なじみの亜希穂は勉強が大嫌いだった。

 小学生の頃は一秒たりともじっとしていられず、休憩のチャイムが鳴ったと同時にグラウンドに走り出す彼女の後ろ姿を裕太はよく覚えている。中学に上がって陸上部に入った彼女は、せっかちな性格がプラスとなって市の大会で何度も一位を取った。高校はもちろんスポーツ推薦で、入学してもなお衰えることのない足の速さに、教師たちの期待を一身に背負っていた。
 高校受験を意識し始めた一年生の冬の出来事だ。
 その日は十年に一度の寒波で、路面は凍り、風は雪となって辺りに吹き荒れていた。クラス担任が狼狽えながら教室に入ってきて亜希穂を呼び出した。入院中の母が、息をひきとったとの知らせだった。
 亜希穂の母は元々身体が弱く、寒波による急な冷え込みが病を悪化させたらしかった。
 幼なじみの縁で通夜に参列した裕太は、そのとき初めて、身体を動かさない亜希穂の姿を見た。
 記憶の中にある亜希穂は、いつでも活発に走り回っている。だから目の前で、じっと俯いたまま地面を見つめる彼女は、見た目だけがそっくりな別人のようだった。

 亜希穂はそれから一ヶ月、高校を休んだ。事情が事情であるため、教師たちがそれを咎めることはなかったが、彼女を心配する声だけは絶えず聞こえていた。

 一ヶ月後。久しぶりに顔を合わせた亜希穂は、教室で裕太に会うなりこう言った。

「私、看護師になる」

 裕太は面食らった。なにせ一般入試で合格した裕太とは違い、亜希穂は陸上のスポーツ推薦での入学である。当然、大学に進学するとしてもスポーツ関係の学校が期待されるだろうし、それを疑う者すらいない。さらにいえば亜希穂は小学生のときから変わらず勉強が大嫌いで、足は速くとも学業のほうはてんで駄目であった。看護師を志望するとなれば、様々な方向転換が必要になるだろう。

「裕太は、私のこと応援してくれるよね?」

 亜希穂はそう言って、腫れて赤くなった目で裕太を見た。その視線の力強さ。彼女は母を失ってからの一ヶ月を、ただ泣き暮らして過ごしたわけではなさそうだった。
 裕太はすぐさま大きく頷いた。そうしてはっきりと「応援するよ」と声に出して言う。いつでも後ろを振り向かずに先を行く彼女が、わざわざ幼なじみに意見を聞いてくるのは、どれだけこの決断が不安でいっぱいなのかをあらわしている。
 亜希穂は裕太の言葉を聞くと、ほっと胸を撫で下ろして緊張を解いた。そこからは怒濤の勢いであった。勉強すると決めた亜希穂は、時間を問わず机に向かい始めた。わからないところがあれば裕太にアドバイスを請い、ようやく高校の教科書の内容が理解できるようになった頃、進路希望を書き込むプリントが配布された。
 亜希穂は第一志望を看護学校にした。教師たちは驚いていたが、なにがきっかけであれ母を失った彼女が夢を持って前へ進むのを大いに歓迎した。

 受験は見事に合格だった。看護学校に入学した亜希穂は、毎日のようにレポートの提出に追われていた。近い大学に進学した裕太は、帰宅のタイミングが被ると彼女を誘ってご飯に行った。学校が別れても、幼なじみであることは変わらない。裕太にとって彼女は大事な友人で、ずっと隣で眺め続けていたい存在であった。


 × × ×


「ねえ、裕太。看護師の国家試験、一人で合否見るの怖いからさ。一緒に見て欲しいんだけど」

 賑やかな店内で、亜希穂の声はやけに通って聞こえた。
 大学からの帰り道にある中華料理店。店主はぶっきらぼうだが味は確かで、二人はよく食事を取りに来ていた。
 亜希穂はラーメンから目をそらさずに何気ない様子で言っただけだった。だが、裕太の心臓はドクンと大きく跳ね、店内のテレビから流れるバラエティ番組の音声に小さな悲鳴が掻き消される。
 実は、裕太は勝手に決心していたのだ。亜希穂が国家試験に合格したら、祝いの言葉を皮切りに玉砕覚悟でこの恋心を打ち明けるのだと。
 もしかして決心に勘付いてカマをかけてきてのだろうか。裕太が驚いたのはそれが理由だった。しかし、亜希穂は何食わぬ顔でラーメンを啜っている。

「……い、良いけど。そういうのって、学校の友達同士で見たりしないの?」
「だめだよ。もし、みんな合格で私だけ落ちちゃったら、めちゃくちゃ気まずいじゃん」

 インターネットで発表されるらしく、合否はスマートフォンひとつあれば判明するようだ。そう言って亜希穂は、鞄から取り出したそれを机の上に置き、開いたブラウザに検索ワードを放り込む。裕太はようやく、亜希穂が有言実行しようとしていることを知った。

「え? もしかして今見ようとしてる?」
「うん。してる。もう発表されてるはずなんだよね。怖くて後回しにし続けても、結局は見なくちゃいけないからさ、腹をくくろうと思う」

 パッとスマートフォンに表示された番号を見て、裕太は亜希穂の番号を探した。アッと声が出る。

 ――合格。

 裕太は亜希穂の肩を叩き、顔を輝かせながら口を開いた。

「やったよ、合格だ! 亜希穂、めちゃくちゃ勉強頑張ってたもんね! 僕、絶対に受かると思ってたんだ! おっ……お、……」

 それまで流ちょうに話せていたのに、突然、喉になにかがつっかえたような違和感が襲った。裕太は自分の胸をドンドンと叩き、小首を傾げてからもう一度言おうとした。しかし口から出てくるのは「おっ、おっ」という情けない声だけだ。

「どうしたの、裕太。なんか、変だよ」
「違うんだよ! 僕は、亜希穂に言いたいんだ! おっ……おっ……! クソっ! なんで言えない!」

 たった五文字なのに。
 裕太は、ハアハアと浅く呼吸を繰り返し、胸元を拳で叩いて亜希穂にかける祝いの言葉を吐き出そうとした。店内で飲み食いしていた客の視線が、一斉に裕太の元に集まっている。

「僕っ……ずっと亜希穂に言いたかったことがあるんだ。亜希穂が国家試験に合格したら言おうと思ってた。決心してたんだ。でも、断られるのが怖くてっ……! そうしたら、言葉がっ……言葉が出なくなってっ……!」

 ヒュッと息を吸い込む。亜希穂は心配そうに裕太の顔を覗き込んでいる。
 そのとき、店内のテレビから流れていたバラエティ番組が中断し、神妙な顔のアナウンサーが現れた。客たちの視線が裕太からそちらに移る。

「――ただ今、臨時ニュースが入りました。南米で突如現れた感染型の失語症が、昨晩のうちに世界中で爆発的に広がりました。日本では本州――あっ、さらに新しい情報が入りました。日本全土に感染が確認されたそうです! 失語症は、ある特定の言葉が言えなくなるという限定的なもので、原因は不明。依然、調査中とのことです!」

 裕太はハッとした。

「限定的な失語症って……しかも感染症? そんなこと、あるわけないじゃん」

 亜希穂は看護師の観点から見て、あり得ないといった顔をした。
 だが、裕太だけは確信していた。頭の中にぼんやりと浮かぶ伝えたいはずの言葉が、声に出そうとした途端に砕け散っていく。失われたのは、祝いの言葉だ。できるだけ近いニュアンスを模索し「めでたい」「お祝い」「お慶び申し上げます」などを言おうとしても、どもるだけで発声にまでは至らない。
 裕太と亜希穂は、煮え切らない表情で中華料理店を出た。どちらも無言であった。


 × × ×


 ひとまず打開策として、相手を祝いたいという気持ちを伝えたいときには拍手を送ることにした。世界がどのように対応しているかは知らないが、少なくとも日本ではこの方法が普及するようになった。

「ふふっ……裕太ったら、私に会うたびに拍手してくれるね」

 帰り道。再び中華料理店に二人で連れ立っていくと、亜希穂は変わらずラーメンを頼んだ。近状報告を聞き、裕太は相手に向けて拍手を送った。亜希穂はただただ労ってくれているのだと思い込んでいるが、裕太にとっては刈り取られた言葉を言わない限り、亜希穂に告白できないのだから死活問題である。
 裕太自身が勝手に決めた約束であったが、今となっては、見えないなにかによって告白を邪魔されたのだと思っていた。
 亜希穂は箸を片手に、スマートフォンの画面を華奢な指で何度かタップしていた。静かに目を細めて微笑んでいる。
 裕太は「嬉しいことでもあった?」と問いかけた。亜希穂は否定もせずにフフと息を漏らす。

「昨日、お母さんの命日だったの」
「知ってるよ。いつも亜希穂、お母さんが好きだった花を持ってお墓参りに行くじゃん」
「そう。実は今年、看護師仲間の佐伯君と一緒に行ったの」

 へえ、と声を出すのがやっとだった。
 佐伯君って誰、亜希穂とどういう関係なの。聞きたいことは山ほどあった。だが、幼なじみの裕太ですら誘われない墓参りに、亜希穂が自ら誘って連れて行ったということは、答えは自ずと見えてくる。ブーンという換気扇の低い音が耳に付く。

「母の墓参りに一緒に来て、って誘ったとき、いくらなんでも重いかなって思ったの。でも佐伯君はしっかり私の目を見て、一緒に行かせて欲しいって言ってくれた。私、それがすごく嬉しくって」

 裕太はおもむろに、両手をパチパチと打ち鳴らした。本当は拍手がしたいんじゃない、祝いの言葉を言って、それを皮切りに気持ちを打ち明けてしまいたいのだ。
 亜希穂は裕太の拍手を見て「ありがとう」と無邪気に笑みをこぼす。

「私、裕太と知り合えて本当に良かったよ。看護師の国試のときもすっごく応援してくれたし。こうして恋も応援してもらえるなんてね」

 もう構っていられない。勇気を出して告白してしまおう、と思った。どうせ玉砕するなら早いほうが良い。むしろ遅いくらいだ。裕太は拍手しながら、苦し紛れに「亜希穂」と名を呼んだ。

 頭上のテレビから、冷たい声が降り注いできた。
 裕太は耳を塞ぎたかった。だが、両手は壊れたおもちゃのように拍手を止めない。亜希穂の顔が、次第に引き攣っていくのが見える。
 裕太の耳朶を「臨時ニュースです」という言葉が打った。

 開いた口が、金魚のようにパクパクと動く。


幼なじみの亜希穂は勉強が大嫌いだった

幼なじみの亜希穂は勉強が大嫌いだった

幼なじみの亜希穂は勉強が大嫌いだった。小学生の頃は一秒たりともじっとしていられず、休憩のチャイムが鳴ったと同時にグラウンドに走り出す彼女の後ろ姿を裕太はよく覚えている。/2019年製作。投稿サイトの企画に参加するために書いた作品です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-22

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