何度でも夢を見る

ZOEAZ

 小説の真似事だと言って私は眠りについた。

 最後に見た彼の姿はひどく不安そうで「百年も待てない」と顔に書いてあるようだった。私は「百合の花でなくとも、きっとあなたの前に現れます」と心の中で呟く。
 暁の星が瞬き、そうして彼と私は一つから二つに分かれた。今度はきっと、戦争のない平和な場所で。私は滅び行く肉体を手放し、来世へと未来を托した。


 × × ×


「水を取り替えますから、あなたは横になっていてください」

 消毒液の匂いで充満する病室。数日ぶりに開け放した窓から心地よい風が入り込み、押し出すようにして空気が入れ替わる。妻は、寝たきりの夫にそう言い聞かせてから、花が数本飾られた花瓶を入り口付近の小さな手洗い場に持って行く。
 蛇口をひねる、キュ、という音が静かな室内に響いた。水が流れる音が続く。
 切り花を飾ってからもう五日が経った。鮮やかな花はすでに花弁の色をくすませていたが、五日も彼の命が続いたことに安堵し、代わり映えのない日々に妻は感謝する。

「そろそろ新しい花を持ってきますね。この季節だとガーベラなんかが良いかも知れません」

 夫はふと「確かに、もうすぐ秋だもんな」と囁いた。ガーベラは春と秋に二回咲くのだと妻が言っていたのを思い出したのだ。

「ええ、ずいぶんと肌寒くなってきました」

 妻の顔が少しだけ翳りを帯びたが、夫はそれを見なかったことにした。妻は隠し通そうとしているが、その様子を見れば自分の命が明日潰えてもおかしくないのだと察せられる。

「この部屋から見える木は、寒くなると全て散ってしまって、紅葉しないから楽しくないんだ」

 わざと声の調子を高くして夫が言う。妻はフフと微笑んで見せる。

「それでしたら、私が紅葉の枝を持ってきますよ。娘の家の庭に小さな木がありましたでしょ。確か、イチョウの木もありました」
「いや、そこまでしなくて良い。折るのは可哀想だ」
「そうですか。でしたら外出できるか、お医者様に一度聞いてみますね」

 コトンと水を入れ替えた花瓶をサイドボードに置き、妻は丸椅子に腰を下ろす。
 結婚して五十年。若くして結婚したわりには喧嘩もなく過ごすことができた。一人娘は縁にも子宝にも恵まれ、孫の顔を見せてくれた。大きくなった孫は元気に学校に通っている。
 夫も妻も自覚していた。きっと充分に生きたのだろう、と。それなのに、死が近付くと怖くなってしまう。これはきっと人間に備わった本能だ。
 夫は、妻の痩せ細った手を握った。
 妻がハッとして顔を上げ、長年連れ添った夫がなにか大事なことを言おうとしているのを知った。しかし、薄く開いた唇が言葉を紡ぐことはなかった。
 ふっと息を吐いただけで、窓から入り込む晩夏の風に命がさらわれた。
 覚悟を決めていたはずの妻が、狼狽して涙を流し始める。もう握り返してこない手を何度も何度も手で擦り、温めるようにして頬に押し付ける。

 「私」はそれをサイドボードに置かれた花瓶の中から見ていた。
 ハサミで足を切られたときにはどうなるかと思ったが、定期的に供給される水分によって死なずに済んだ。彼の死に立ち会えたことは幸福だったように思う。
 彼は今から身体を清められ、葬儀屋へと引き渡される。私はきっと、不要になってゴミ箱へと捨てられるだろう。私にとって、枯れるその瞬間まで彼と一緒にいられないことが唯一の不幸だった。
 最後に彼はなんと言おうとしたのだろう。
 私は強く願った。次こそは棺桶の中に供えられる花に生まれ変わろう、と。


 × × ×


「おれのことを覚えているか」

 花に向かって話しかける人を見たのは初めてだった。それがいつも寡黙な教授だったからなおさらだ。今年から研究室に入ることになった俺は、言付けられた資料を届けるために教授の姿を探していた。研究室に昼夜は関係ない。きっと教授も帰らずに研究に没頭していることだろうとあたりをつけてノックせずに扉を開けた。薄暗い室内。奥の小部屋から漏れ出る光が足元を朧気に照らす。

「おれのことを覚えているなら、その垂れた首をもたげておくれ」

 俺は部屋の異様な空気に気付き、息をひそめて奥へと進んだ。教授の声が聞こえ、それがようやく言葉として聞き取れたとき、花に向かって話しかける彼の姿が見えた。
 世界各国から見つかった新種の花を調べることが研究室のテーマだった。教授はその筋の論文で名を上げ、年寄りばかりが居座る界隈で地位を勝ち取った。だから彼の実力を疑う者は誰一人としていない。しかし、このときばかりは俺は教授の正気をうたがった。薄暗い小部屋の中で、まるで恋人に睦言を呟くように花に話しかける男。
 教授はしばらくそれを繰り返していた。その目は虚ろで、先週届いたばかりの新種に全て語りかけると、長い溜め息をついて椅子に深く腰掛ける。

「……これもだめか。もしかすると、今生は会えないのかも知れないな」

 教授が自殺したと聞かされたのはその翌週の出来事だった。周囲は彼の死を信じ切れないようだったが、俺だけはその理由が思い当たる気がした。
 死因が死因だから遠慮してくれと言われたが、お世話になったのでと言い通してお葬式まで出席させてもらうことにした。同じ研究室だった顔も見かけ、やはり人望は厚かったのだと実感させられる。遺影に映った教授の顔は、自ら命を絶ったとは思えないほど生き生きとしていた。俺は見知らぬ親族にお悔やみの言葉を述べ、焼香へと向かう。

「お顔を見るのはこれが最後ですから、みなさん悔いのないよう、故人へお言葉をおかけください」

 棺桶に横たわる教授の顔を見つめながら、俺は葬儀屋から手渡された別れ花をその身体に添えた。なにを言おうか迷って考えを巡らせたが、口から出てきたのは「ありがとうございました」の一言だけであった。
 瑞々しく澄んだ黄色い花はどこかこの世のものとは思えないくらいに鮮やかで、死に化粧を施した彼には眩しすぎるように思えた。


 × × ×


 ダダダダ、と銃声の音が連続した。壁に背をぴったりつけ、周囲の気配をうかがう。後方で悲鳴が聞こえた。ここからは距離がある。私は息を止め、発射するが如くスピードで駆け出す。背後から敵の声が聞こえ、放たれた弾が私のすぐそばをかすめていった。
 荒い息を繰り返し、敵の気配が消えるまで走り続ける。
 上空では戦闘機が轟音を響かせながら飛び交っていた。夜のうちに逃げ込んだ街であったが、この調子ではすぐに敵軍に鎮圧されてしまうだろう。
 うお、と声を出して私は足をつんのめり、地面に手をついた。
 なにかにつまづいたらしい。足元を見ると、昨晩一緒に行動した自軍の兵士が亡骸となって転がっていた。まだ傷口から真新しい血が流れている。この周辺に敵がいるのだろう。哀れむよりも早く、私はまた駆け出す。

 死ぬ前に彼に会いたい、と思って、すぐに頭上にクエスチョンマークが浮かんだ。
 こんなことを思うのは初めてで、私はついに自分自身が狂ったのだと思った。この世に生を受けてから十九年、今日までずっと銃声の音を聞いてきた。友人は死に耐え、両親はどこにいるのかわからない。愛すら知らないこの私が、他人に対して感情を抱くことすら珍しい。

 彼、とは誰のことだろう。戦場を駆けながら想いを巡らせる。

 その男と対峙したとき、私は唖然とした。
 直感だった。頭の中に浮かんだ「彼」は目の前にたたずむ軍人のことだろう。見たことも聞いたこともない初対面の男なのに、私と対峙した相手は、私と同じように口を半開きにして惚けている。
 そうしてしばらく、顔を見合わせていた。どちらかが言い出さなければ、永遠にその時間が続いていたことだろう。

「打ってくれ」

 私は銃を構え直し、相手の選択の余地を奪った。それでも男は銃を構えようとしない。

「どうした? なぜ銃を構えない。私たちは敵同士だろう」

 軍服を見れば嫌でも敵対する相手同士だとわかる。殺してはならない相手だと直感は伝えているが、それがどこからもたらされたものかはわからない。砂煙が舞う戦場の中で、男二人が見つめ合う。

「嫌だ。おれはもう、待ちくたびれた。死ぬときも、生まれ変わるときも、ずっとずっと一緒にいたいんだ。何度でもお前の側に現れてやる」

 ヒュッと空を切る音がしたのはそのときだ。視界に飛び込んだのは、ピンが抜かれた手榴弾。男は咄嗟に駆け出し、たくましい腕の中に私の頭を抱き込め、ぎゅっと目をつむった。彼からは人間の匂いがした。


 × × ×


 まどろみから目覚めると、柔らかい笑みでこちらを見る顔がある。
 初春の暖かい日差しが頭上から降り注いでいた。僕は芝生の上で小さく唸り、相手の手を握る。同じ大きさの小さな手。隣に寝転ぶ少女は、嬉しそうに目を細めた。モンシロチョウがふわふわとその間を漂い、追いかけるようにして同じ色の蝶が羽を動かす。
 少女は小首を傾げながら「思い出した?」と問いかけた。僕はその顔をじっと見つめる。どこまでが夢だろう、と思って確かめるように少女の頬を撫でる。

「私は思い出したよ。あなたは、百年も待てないって顔してた」

 今みたいに、と言って少女は僕の顔を覗き込む。
 二人を取り囲むように咲き誇った無数のガーベラが風に揺れた。それは地球という巨大な棺桶に供えられた別れ花にも見え、同時に、彼ら双子の誕生を祝福しているようでもあった。
 僕は目の前にいる少女の身体に腕を回した。そうして安堵に包まれながら、ゆっくりと目を閉じる。夢なら覚めないで、と強く想いを馳せながら。



何度でも夢を見る

何度でも夢を見る

小説の真似事だと言って私は眠りについた。最後に見た彼の姿はひどく不安そうで「百年も待てない」と顔に書いてあるようだった。私は「百合の花でなくとも、きっとあなたの前に現れます」と心の中で呟く。/2019年製作。投稿サイトの企画に参加するために書いた作品です。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-22

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